澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

靖國神社とは、次の戦争を展望し「新たな英霊」を作る装置なのだ。

明日8月15日は敗戦の日。戦争国家・大日本帝国が滅亡して、平和国家・日本が新生した日。天皇の日本が死んで、国民の日本が生まれた日。どういうわけか、その日を選んでの靖國神社参拝者が多い。

靖國神社の案内にはこうある。
「明治5年に建てられた本殿には、246万6千余柱の神霊がお鎮まりになります。本殿内に掲げられた明治天皇の御製に触れると、靖国の杜に籠められた先人たちの想いが心の奥底にまで沁み透ってきます。」

おやおや。天皇の御製に触れないと「先人たちの想い」に触れることができない仕組みなのか。それにしても、「靖国の杜に籠められた先人たちの想い」の具体的内容を、神社はどのように考えているのだろうか。

靖國神社は改称前は東京招魂社と言った。戊辰戦争の官軍は、賊軍の死者の埋葬を禁じて、官軍の死者だけを祀った。これが招魂祭。友軍の死者の霊前に復讐を誓う血なまぐさい儀式であった。招魂祭では、西南諸藩の官軍を「皇御軍」(すめらみいくさ)と美称し、敵となった奥羽越列藩同盟軍を「荒振寇等」(あらぶるあたども)」と蔑称した。天皇への忠死者は未来永劫称えられる神であり、天皇への反逆軍の死者は未来永劫貶められる賊軍の死者としての烙印が押される。

招魂祭を行う場が招魂社となり、靖國神社となった。靖國神社とは、その出自において国家の宗教施設ではなく、天皇軍の宗教施設である。そして、怨親平等とは相容れない死者を徹底して差別する思想を今も持っている。

日本の文化的伝統とは無縁に、天皇制軍隊のイデオロギー装置として拵え上げられた創建神社・靖國。実は、戦死者を悼む宗教施設ではない。もちろん、平和を祈る場でもない。招魂祭の時代からの伝統を引き継いで、戦死者を顕彰するとともに、生者が霊前に復讐を誓う宗教的軍事施設なのだ。だから、戦死をもたらした戦争を批判したり反省する視点は皆無である。もちろん、戦争を唱導した天皇への批判や懐疑など考えもおよばない。

ときおり、その本質を確認してくれる人が現れる。かつては大勲位・中曽根康弘、そしてごく最近では、泣く泣く明日の靖國参拝をあきらめた防衛大臣・イナダ朋美である。この人は、極右的発言だけがウリの政治家。自ずと言うことがストレートで分かり易い。

このことを報じているのが、8月13日の「リテラ」。「参拝中止の裏で…稲田朋美防衛相が語っていた靖国神社の恐怖の目的!『9条改正後、国民が命捧げるために必要』」という記事。このところ、リテラ頗る快調である。面白い。読ませる。本日は、宮島みつや記者の長い記事の一部を抜粋させていただく。

  http://lite-ra.com/2016/08/post-2492.html

 稲田氏の“靖国史観”の危険性はそもそも、参拝するかどうか以前の問題だ。恐ろしいのは、稲田氏が靖国にこだわる理由が過去の戦没者の慰霊のためでないことだ。たとえば、彼女はかつて靖国神社の存在意義をこう説明していた。

 「九条改正が実現すれば、自衛戦争で亡くなる方が出てくる可能性があります。そうなったときに、国のために命を捧げた人を、国家として敬意と感謝を持って慰霊しなければ、いったい誰が命をかけてまで国を守るのかということですね」
 「靖国神社というのは不戦の誓いをするところではなくて、『祖国に何かあれば後に続きます』と誓うところでないといけないんです」(赤池誠章衆院議員らとの座談会、「WiLL」06年9月号/ワック)
 「首相が靖国に参拝することの意味は『不戦の誓い』だけで終わってはなりません。『他国の侵略には屈しない』『祖国が危機に直面すれば、国難に殉じた人々の後に続く』という意思の表明であり、日本が本当の意味での『国家』であることの表明でなければならないのです」(渡部昇一、八木秀次との共著『日本を弑する人々』PHP研究所)

 つまり、稲田氏にとって、靖国は先の大戦の慰霊の施設ではなく、国民をこれから戦地へ送り込み、国に命をかけさせるためのイデオロギー装置なのだ。むしろ、稲田氏の真の目的は、新たに靖国に祀られることになる“未来の戦死者”をつくりだすことにあるといっていいだろう。

 これは決してオーバーな表現ではない。実際、稲田氏はこれまで、国民が国のために血を流す、国のために命をささげることの必要性を声高に語ってきた。

 「国民の一人ひとり、みなさん方一人ひとりが、自分の国は自分で守る。そして自分の国を守るためには、血を流す覚悟をしなければならないのです!」(講演会での発言)
 「いざというときに祖国のために命をささげる覚悟があることと言っている。そういう真のエリートを育てる教育をしなければならない」(産経新聞2006年9月4日付)

 さらに前掲書では、“国のために命をかけられる者だけが選挙権をもつ資格がある”とまで言い切っている。

 「税金や保険料を納めているとか、何十年も前から日本に住んでいるとかいった理由で参政権の正当性を主張するのは、国家不在の論理に基づくもので、選挙権とは国家と運命をともにする覚悟のある者が、国家の運営を決定する事業に参画する資格のことをいうのだという“常識”の欠如が、こういう脳天気な考えにつながっているものと思います」
「「その国のために戦えるか」が国籍の本質だと思います」(前傾『日本を弑する人々』))

これまで長く、憲法改正は絵空事で、再びの戦争もリアリティがなかった。だからこれまでは、靖国参拝は過去の戦争の戦死者を悼むこと、と言って済まされてきた。しかし、戦争法が成立し、改憲勢力が議席の3分の2を占める今、「次の戦争」を構想し、「新たな戦死者」を想定する為政者にとって、「新たな英霊の顕彰」を現実の問題と考えざるをえない時代なのだ。過去の戦争の死者を悼むだけでなく、国民に新たな英霊となる決意や覚悟を固める場所としての靖國。イナダという極右の政治家が、靖國神社本来の役割を分かり易く教えてくれている。

そして、よく覚えておこう。「選挙権とは国家と運命をともにする覚悟のある者が、国家の運営を決定する事業に参画する資格のこと」というイナダの発言を。これが、アベ政権の防衛大臣なのだ。
(2016年8月14日)

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