澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

「差別がまかりとおる国の国旗に敬意は払えない」ーキャパニックの勇気

ハフィントンポスト(日本版)やロイターが、写真とともに生き生きと伝えている。「米ナショナル・フットボール・リーグ(NFL)サンフランシスコ・フォーティナイナーズのクォーターバック、コリン・キャパニック(28)は1日、サン・ディエゴで行われたプレシーズンの試合前の国歌斉唱時に両手を組んでひざまずき、人種差別や警官の暴力行為に対する抗議の意を示した。キャパニック選手は、有色人種を抑圧するような国の国旗に敬意は払えないとして、国歌斉唱時に不起立で抗議を表明すると述べ、賛否両論を招いている。」

9月1日のゲームは、たまたま、「サルート・ミリタリー・ナイト」と重なった。240人の水兵、海兵隊、兵士たちによるアメリカ国旗の進呈、そして退役した米海軍特殊部隊によるプレゲーム・パラシュート・ジャンプなどのイベントが行われた。そのような場での国旗国歌に対する抗議だったのだ。

米国で警官による黒人への武器使用事件が相次ぎ反差別運動が巻きおこっていることは周知のとおり。キャパニックは、これまでも反差別の意味で国歌斉唱に加わっていなかったが、8月26日の試合で広く注目された。9月1日にはチームメイトのエリック・リードも同調し国歌斉唱時にひざまずいた。そしてシーホークスのコーナーバック(CB)ジェレミー・レインも、9月1日に行われた別のナイトゲームで起立を拒否した、と報じられている。

コリン・キャパニックの名は日本人に広く知られていないだろう。2013年にフォーティナイナーズをスーパーボウルに導いたスーパースターだそうだ。そう言われてもよく分からない。年俸が最高クラスの1,900万ドル(約20億円)と聞けば、その格がほぼ想像が付く。

そのキャパニックは、警察の暴力に言及し、「黒人や有色人種への差別がまかり通る国に敬意は払えない」「その国の国旗に対する誇りを示せない」と語っている。
さらに、「同選手は自分の決断が議論を招くことは十分に承知しているとしたうえで、『だれかに分かってもらおうとか、認めてもらおうとかいう意図はない。虐げられている人々のために立ち上がらなければという思いだ』『たとえフットボールを取り上げられても、選手資格を奪われても、正しいことのために立ち上がったと思える』と語った」(CNN日本語版)。

キャパニックの行動が物議を醸し賛否両論があるのは当然として、注目すべきは、けっして彼が孤立していないことだ。

フォーティナイナーズは同選手の決断を尊重するとの声明を発表。「宗教や表現の自由をうたう米国の精神に基づき、個人が国歌演奏に参加するかしないか選択する権利を認める」と表明した。またNFLは声明で、「国歌演奏中に選手たちが起立することを奨励するが強制ではない」と指摘した(CNN)。

誰もが、1968年メキシコ五輪の男子200m走の表彰式で拳を掲げて抗議したトミー・スミス(金メダル)、ジョン・カーロス(銅メダル)を想起する。この二人はアメリカ国内の人種差別に抗議するために、星条旗が掲揚されている間中、ブラックパワー・サリュート(Black Power salute)という拳を高く掲げるポーズで、国旗国歌に抗議したのだ。

国旗国歌は国民を統合する機能をもつシンポルである。多様な国民を国家という組織に組み込む装置のひとつにほかならない。ところが国民を統合した国家が国民の差別をしているとなれば、そんな国家に敬意を払うことはできないと抗議する国民があらわれるのは当然のことだ。差別される少数の側は、国旗国歌を「差別する多数の側のシンボル」ととらえざるを得ない。自分を差別する国家のシンボルに敬意を表することができないとすることを、いったい誰に非難する権利があろうか。

米国では「国旗(The Stars and Stripes)」だけでなく「国歌(The Star-Spangled Banner)」も「星条旗」と訳される。これを「日の丸・君が代」との比較で考えたい。星条旗は英国からの独立闘争のシンボルであり、合衆国憲法の自由の理念のシンボルでもある。一方、「日の丸・君が代」は、野蛮な天皇制の侵略戦争と植民地支配とあまりに深く結びついたシンボルとなってしまった。この忌まわしい記憶は拭いがたい。

「日の丸・君が代」よりは、象徴するする理念においてずっと普遍性の高い「星条旗」も、差別や出兵への抗議で、そっぽを向かれるだけでなく、焼かれたり唾をかけられた受難の歴史を持つ。しかし、米国の司法は、国旗を侮辱する行為をも表現の自由として不可罰としてきた。日本でも、「日の丸・君が代」への敬意表明の強制に抵抗感をもつ多くの人が現実にいる。どこの国であれ、国民が国家をどう評価するかは自由でなくてはならない。国家が、国民に「われを讃える旗と歌」を強制することなどあってはならない。社会が個人に、国旗や国歌への敬意表明を強制してはならない。

「差別がまかりとおる国の国旗に敬意は払えない」という、キャパニックの勇気を讃えたい。同時に、日本の社会も「日の丸君が代」への敬意表明強制に従えないという人を孤立させてはならない。ナショナリズムを超えた思想良心の自由に、寛容な態度を学ばねばならないと思う。
(2016年9月5日)

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