象徴天皇制のあり方について、横田耕一(九州大学名誉教授)の原則論
天皇(明仁)の生前退位希望発言をきっかけに、象徴天皇制のあり方をめぐる議論が活発化している。しかし、その活発化した議論は未整理のまま昏迷しており、幾つかの「ねじれ」さえある。泥縄的に天皇の生前退位を認める法整備が急がれているいま、原理的で原則的な象徴天皇についての議論が求められている。
天皇自身の生前退位希望発言は、象徴天皇の公的行為についての積極的拡大論とセットになっていて、その公的行為拡大論には、世論の一定の支持がある。これまでの天皇(明仁)の発言が憲法に親和的でリベラルなものと認識され、また被災地慰問や戦没者慰霊などの行為が世論から好感を持たれているという事情による。
そのため、いまリベラル派の一部にも「公的行為拡大」論を容認する論調が見られ、むしろ守旧派が「公的行為縮小」論を主張するという「ねじれ」た論争が展開されている。しかし、生前退位の可否と、公的行為容認の可否とは厳格に分けて論じなければならない。
明らかに、天皇自身が「象徴としての公的行為」拡大を意識し、そのような「象徴天皇像」を作ろうと意図してきた。今回の天皇の生前退位の法的措置を求める発言は、天皇が憲法解釈に容喙するものとして看過しえない。本来天皇とは、国民主権原理を標榜する日本国憲法体系の本流になく、その例外としての夾雑物的存在に過ぎない。天皇の存在と行動可能範囲、影響力を極小化する立論こそが出発点であって、「国民統合の象徴」という憲法規定からの法律効果を主張する議論を警戒しなければならない。
そのような視点から、信頼に足る論者の一人が、横田耕一(九州大学名誉教授)であろう。
「法学セミナー」(日本評論社)2017年2月号に、特別企画「座談会 憲法学から天皇の生前退位を考える(上)」が掲載されており、そこで、横田耕一さんが「象徴天皇制」についてのブレのない原則的な憲法論を展開している。
冒頭、横田さんが7ページに及ぶ発言で学説を整理している。これを目次にまとめてみる。
〔1〕大日本帝国憲法の「天皇制度」と、日本国憲法の「象徴天皇制度」とは、根本的に異なる。
両者は、?天皇の「地位」、?その地位の「根拠」、?天皇の「権能」、において根本的に違うもの。
〔2〕両「天皇制度」の関係ー「断絶説」と「連続説」
(1) 断絶説
(2) 連続説
(3) 現実は、「連続説」に立って展開している
〔3〕「主権者国民」の「総意」に基づく天皇制度
〔4〕「象徴」
(1) 象徴の意味
(2) 「日本国・日本国民統合の象徴」の意味
そしてそのことに積極的な意味があるのか
〔5〕天皇の「お務め」
(1) 国事行為
(2) 私的行為は公務ではない
(3) 「公的行為」
?「象徴としての行為」説(清宮四郎など)
?「公人としての行為」説(佐藤幸治など)
?「準国事行為」説(清水睦、岩間昭道など)
?「国事行為」説(宮澤俊義、高橋和之など)
?違憲説(横田説など)
横田さんの見解における結論は、以下のとおり明快である。
「私は、天皇はそのようなこと(公的行為)は一切やるべきではなく、憲法違反であるという立場です。この説に対しては、実際的でない、非常識という批判がありますが、何か実際的でないか、非常識であるかは、私には分かりません。」
そして、最後をこう締めくくっている。
「以上、五つの説を説明してきましたが、まとめると、国事行為以外に公的行為を認めた場合の問題点は、(1)その範囲が不明確になる、(2)責任の所在が不明確になる、(3)内閣による政治利用ができる、(4)天皇の意思が介在することで天皇が政治的機能を果たすことになる危険性があり、その結果として天皇制度の安定的な運用において困った事態が生じる可能性がある、といったところにあると考えられます。
今の天皇は国民意識に沿うことを行っているので評判が良いのですが、もしも変な天皇が出てきて変なことをやり出したらどうなるのかという話になります。これは受け取り側の意識の問題ですが、天皇の発意に内閣は背けないでしょう。今度のお言葉についても放っておくこともできるはずですが、それには背けないということがあるでしょう。
以上のことから言える大切なことは、第一に、仮に公的行為の存在を認める立場からしても、それは義務的行為ではない。だからそれが過多であれば適宜やめればよいだけの話です。そしてまた、政府見解によれば、皇族が公務をやってもよいことになっていますから、他の皇族に任せればよいわけです。
そして、第二に、天皇には積極的に国民を統合することは期待されていない。この二つをしっかり押さえて天皇の生前退位の問題を議論すべきです。これらのことについては、学説でもおそらく異論はあまりないだろうと思います。」
「公的行為」ないし、「象徴的行為」を、違憲として認めないのが横田説。国事行為以外に公的行為を認めることの問題点は既述のとおりで、積極説はその問題点に目をつぶるもの。
憲法に忠実な厳格解釈が、膨れ上がった公的行為という現実規制に有効に機能しうるかは、主権者としての意識をもった多くの国民の支持を得ることができるかに、かかっている。
(2017年2月14日)