澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

既に現実化しているスラップの萎縮効果-「DHCスラップ訴訟」を許さない・第19弾

昨日(8月20日)の『DHCスラップ訴訟』法廷後の集会で、ジャーナリストの北健一さんが報告した。主に語られたのは、スラップの威嚇作用と、それによる言論の萎縮効果である。萎縮効果は、当該被告にだけではなく、その周囲から社会一般におよぶことの危惧が強調された。「恫喝に屈してしまえば萎縮効果は際限なく広がる」のだ。

会場発言でも、かつてスラップと闘って勝った経験者が、勝利をしながらも提訴されたことによる不愉快、手間暇、金銭的負担、膨大な時間の浪費、精神的負担を語った。スラップからの早期の被害者解放の手立ての確立や、スラップ提訴者に対する制裁の必要が共通認識となった。

DHCとその会長吉田は、私たち弁護団が確認しているだけで、損害賠償請求等の10件の提訴と、出版物販売等禁止仮処分命令1件の申立をしている。仮処分事件は7月17日東京地裁民事9部の合議体によって申立を却下されているが、他は未解決。

各件の個別の請求内容もさることながら、この提訴の数自体が、あたるを幸いの濫訴というほかはない。この10件の提訴によって、DHCは「自分を批判すると提訴の危険を伴うぞ」と多くの人を威嚇し、警告を発して恫喝しているのだ。

誰だって、11件目の訴訟当事者にはなりたくない。だから、多くの人が筆を抑える。DHCのやり方を不愉快と思いつつ、現実に提訴されたときの煩わしさを避けた方が賢明と判断する。これが、DHCの付け目だ。かくて、言論の萎縮効果は蔓延する。

今日になって、その実例を教えられた。まず、下記の通知を紹介したい。個人のブログへのコメントである。作成名義の真正は定かでないが。

全文はこちらを参照していただきたい。
http://norisu415.blog.fc2.com/blog-entry-2057.html#comment5598

通知は「ブログ記事の削除要請の件について」と標題するもの。2014年8月19日付で株式会社ディーエイチシー総務部法務課杉谷義一名義(会社を代表するものではなく、一課員という立場としか考えようがない)の文書である。

「今般、貴殿は、本ブログ記事において、全体として弊社代表者を侮辱し、また、自ら「証拠もなしに」と何らの調査・取材も行っていないことを認めながら、弊社代表者が、「強烈な保身意識」のもとで渡辺議員を「警告、恫喝、口止め」している、「吉田のコメントは、念には念のヤクザの恫喝ではないのか」などと平然と書き、そのような人物が代表取締役会長をつとめている弊社の社会的評価を低下させ、弊社の名誉を著しく毀損しています。」

「弊社代表者」に対する意見を一方的に侮辱扱いし、独自の調査・取材がなければ意見・論評を行ってはならないとの決め付けは不当というほかない。また、「そのような人物が代表取締役会長をつとめている」ことを自認しながら、このことが公開されると会社の社会的評価が低下するというのは、諒解しがたい。

侮辱とは個人の名誉感情を害することであり、名誉毀損とは事実を摘示して社会的な評価を害することをいう。この通知は、その両者の区別を認識していない。また、代表者の個人の利益を守る趣旨でなされたものなのか、会社の評価を守る趣旨でなされたものなのか文意が明白でない。会社を代表した文書であるのか、代表者個人を代理した文書であるのかの性格が分明でないことからの混乱であろう。あるいは、会社と会社代表者が渾然一体となっていることがDHCの社内の実情なのかも知れない。

「貴殿が記事の削除に任意に応じて頂けない場合には、やむなく法的対応を検討せざるを得ませんので、できましたらそのようなこととならないよう何卒宜しくお願い致します。なお、本ブログ記事同様に、弊社代表者および弊社の名誉を毀損し或いは侮辱する記事を掲載した他のブログにおきましては弊社の指摘により記事の削除をして頂くことで円満解決しておりますことを、念のためお伝えしておきます。」

削除に応じなければ法的措置をとる旨を申し向けて、訴訟の負担の懸念から削除させようとするこの通知は、恫喝そのものといえよう。削除に応じればそれ以上の手段をとらないとの「飴」と、訴訟負担という「鞭」でブロガーを従わせようとしている。
もっとも、他のすべてのブログについて、「指摘」がなされ自主的な削除により「円満解決」したという趣旨であるとすれば、明らかな虚偽である。私のブログには何の「指摘」もなく訴訟が突然提起されているし、他にも無警告で訴訟が行われた例は確認されている。

さて、こんな申入を受けたら、あなたならどうする。
普通ならスパム扱いだろう。当たり前の感覚では、「警告、恫喝、口止め」「吉田のコメントは、念には念のヤクザの恫喝ではないのか」くらいで、訴えられるとは考えない。せっかく書いた記事を、これくらいのことで削除することはあり得ない。

権力や金力への批判こそジャーナリズムの真骨頂と考えている立場からはなおさらのこと。このような「強烈な保身意識」からなされた「警告、恫喝、口止め」に対しては、屈することはできないと考えるのが当たり前だろう。

ところが、ことDHCについては、この「当たり前」が通用しない。現実の問題として、DHCから「警告、恫喝、口止め」がなされると、抵抗することにはなかなかの覚悟が必要なのだ。

この申しれを受けたブロガーは、現実にどう対応したか。下記をお読みいただきたい。(ブログの特定は避けたかたちでの引用にしている)

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「本ブログが(株)DHCから恫喝を受けました。」

「一瞬、ただのスパムコメントかと思ったが、どうやらDHCは同様の手法で会社に不都合なブロガーに圧力をかけて回っている様だ。だとしても、こんな場末のパンピーブログにまで恫喝してくるとは、DHCとはケツの穴の小さい会社である。余程不都合な内容だったのだろうか(笑)。

笑ってばかりもいられない。と言うのも、DHCの恫喝はただの脅しではなく刃が付いている可能性が高いからだ。実際、東京弁護士会の澤藤弁護士が、本ブログと似た様なことをブログに書き、つい最近DHCから2000万円の慰謝料を求めて訴訟を起こされている。」

「さて、本ブログはどう対処しようか。訴訟を起こされて多額の慰謝料を支払う判決が下される様なエントリーとは思えないが、現実問題として本当に裁判を起こされても面倒だ。ついては、一時的に当該エントリーのDHCに関する記述を削除しようと思う。

もちろん、削除前のエントリーは保存しておく。澤藤弁護士の訴訟結果を待ち、澤藤弁護士が勝訴したら再アップしようと思う。」
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同じように、DHCから恫喝を受けたブログは無数にあるものと推察される。このブログの場合には、「本ブログが(株)DHCから恫喝を受けました」と宣言しているから、たまたま目についたもの。ひっそりと記事の削除に応じていれば、誰の目も届かないところで、DHCの「警告、恫喝、口止め」が成功を収めていることになる。これは、由々しき問題ではないか。言論が恫喝に屈しているのだ。

このブロガー氏は、気骨のある人とはお見受けする。DHCからの恫喝に不愉快をに明言しているのだから。そのブロガー氏も、「DHCの恫喝はただの脅しではなく刃が付いている可能性が高い」ことを考慮せざるを得えない。「訴訟を起こされて多額の慰謝料を支払う判決が下される様なエントリーとは思えない」と考えつつも、「現実問題として本当に裁判を起こされては面倒だ。やむなく一時的に当該エントリーのDHCに関する記述を削除しよう」という判断に至る。

残念ではあるが、「恫喝に屈してしまえば萎縮効果は際限なく広がる」の好例となった。「澤藤弁護士の勝訴の暁の再アップ」を期待するのみである。

明らかに、経済的強者の濫訴が言論の萎縮を招いている。昨日の法廷での私の陳述の一節を繰り返しておきたい。

「仮にもし、私のこのブログによる言論について、いささかでも違法の要素ありと判断されるようなことがあれば、およそ政治に対する批判的言論は成り立たなくなります。原告ら(DHCと吉田嘉明)を模倣した、本件のごときスラップ訴訟が乱発され、社会的な強者が自分に対する批判を嫌って、濫訴を繰り返すことが横行しかねません。そのとき、ジャーナリズムは萎縮し、権力者や経済的強者への断固たる批判の言論は後退を余儀なくされるでしょう。それは、権力と経済力がこの社会を恣に支配することを許容することを意味し、言論の自由と、言論の自由に支えられた民主主義政治の危機というほかはありません。」

その危機は遠くにではなく、既にそこにある。
(2014年8月21日)

満席の法廷でDHCスラップの口頭弁論-「DHCスラップ訴訟」を許さない・第18 弾

本日は『DHCスラップ訴訟』の事実上の第1回口頭弁論期日。被告代理人と支援の傍聴者で法廷が埋まった。そこでの被告陳述と被告弁護団長の意見陳述を下記に掲載する。

次いで、弁護士会館での報告集会。弁護団長・光前弁護士からの解説のあと、ジャーナリストの北健一さんと、メディア法の田島泰彦教授(上智大学)が、スラップに関する実践的な報告をされた。
すべてが、この上ない充実ぶりで、法廷と集会が、優れた「劇場」と「教室」になった。教室は人権と民主主義を学ぶ場。劇場は、学んだものの実践の場。両者とも、生き生きと志あるものがつどう空間。

応訴の運動を、「劇場」と「教室」にしよう。
  まずは、楽しい劇場に。
  演じられるのは、
  人権と民主主義をめざす群像が織りなす
  興味深く進行するシナリオのない演劇
  誰もがその観客であり、また誰もがアクターとなる
  刺激的な空間としての劇場。

  そして有益な教室に。
  この現実を素材に
  誰もが教師であり、誰もが生徒として
  ともに民主主義と人権を学ぶ教室。

  今日が、開演であり、始業に当たる日。
  ハッピーエンドでの卒業の日まで
  充実した「劇場」と「教室」にしよう。

     **************************************************************

         『DHCスラップ訴訟』2014年8月20日期日
            被告本人澤藤統一郎意見陳述
私は、被告という立場に置かれていることにとうてい納得できません。どう考えても、私に違法と判断される行為があったとは思えないからです。

私は、憲法で保障されている言論の自由を行使したに過ぎません。しかも、その言論とは、政治とカネにまつわる批判の言論として社会に警告を発信するものなのです。政治資金規正法に体現されている「民主主義の政治過程をカネの力で攪乱してはならない」という大原則に照らして、厳しく批判されるべき原告吉田の行為に対して、必要な批判をしたのです。

政治資金規正法は、その第1条(目的)において、「政治団体及び公職の候補者により行われる政治活動が国民の不断の監視と批判の下に行われるように」としています。まさしく、私は、「不断の監視と批判」の言論をもって法の期待に応え、「民主政治の健全な発達に寄与」しようとしたのです。

私の言論の内容に、根拠のないことは一切含まれていません。原告吉田嘉明が、自ら暴露した、特定政治家に対する売買代金名下の、あるいは金銭貸付金名下の巨額のカネの拠出の事実を前提に、常識的な論理で、原告吉田の行為を「政治を金で買おうとした」と表現し批判の論評をしたのです。

仮にもし、私のこのブログによる言論について、いささかでも違法の要素ありと判断されるようであれば、およそ政治に対する批判的言論は成り立たなくなります。原告らを模倣した、本件のごときスラップ訴訟が乱発され、社会的な強者が自分に対する批判を嫌って、濫訴を繰り返すことが横行しかねません。そのとき、ジャーナリズムは萎縮し、権力者や経済的強者への断固たる批判の言論は後退を余儀なくされるでしょう。それは、権力と経済力がこの社会を恣に支配することを許容することを意味し、言論の自由と、言論の自由に支えられた民主主義政治の危機というほかはありません。

また、仮に私のブログによる表現によって原告らが不快に感じるところがあったとしても、彼らはそれを受忍しなければなりません。原告両名はこの上ない経済的強者です。サプリメントや化粧品など国民の健康に直接関わる事業の経営者でもあります。原告らは社会に多大の影響を与える地位にある者として、社会からの批判に謙虚に耳を傾けるべき立場にあります。

それだけではありません。原告吉田は、明らかに法の理念に反する巨額の政治資金を公党の党首に拠出したのです。しかも、不透明極まる態様においてです。この瞬間に、原告らは、政治家や公務員と同等に、拠出したカネにまつわる問題について国民からの徹底した批判を甘受すべき立場に立ったのです。これだけのことをやっておいて、「批判は許さない」と開き直ることは、それこそ許されないのです。

原告らの提訴自体が違法であることは一見して明白です。貴裁判所には、このような提訴は法の許すところではないと宣告の上却下して、一刻も早く私を不当な責任追及を受ける被告の座から解放されるよう要請いたします。

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        被告弁護団長弁護士光前幸一意見陳述要旨
1 本件は、民主主義の根幹を揺るがす「政治とカネ」に関する論評の差止め請求、損害賠償請求事件である。被告が論評を発表した手段は、いまや市民にとって極めて一般的な方途となったインターネット上のブログである。また、被告が論評で取り上げた題材は、現金だけでも8億円が動いた有力政治家と大実業家の交際状況であり、現金を供与したのは、健康食品業界で飛ぶ鳥を落とす勢いのDHCオーナー原告吉田会長、受け取った政治家は、みんなの党の代表者であった渡辺喜美氏である。社会の耳目が集まるのも当然である。

2 本件裁判は、憲法32条が保障した裁判を受ける権利を濫用した違法な訴え、スラップ訴訟である。その根拠は、本日提出した準備書面1の第2~第4、さらに第6(これは、原告らが先般提出した準備書面1への反論)で詳細に論じているが、その骨子を述べれば、原告吉田と渡辺代議士が週刊誌や記者会見で明らかにした事実は、サプリメントの規制緩和という国家政策をカネの力で左右しようとするもので、政治資金規正法に違反する疑いが強く、このような経済的強者による法の無視、民主主義の冒涜行為に対しては、同法が、市民の厳しい「監視と批判」を期待し求めていること、被告の論評は、この法の要請にしたがい、原告吉田や渡辺代議士が明らかにした事実のみを掲げ、これを基礎として、原告吉田の行為を厳しく批判したにすぎないものであること、ところが、批判された原告らは、何の事前交渉もないまま、被告に対し、高額の損害賠償請求と論評の撤回を求める裁判を提起し、しかも、同様の訴訟を同時・多発的に(被告において判明しているものだけでも、当裁判を含めて10件)提起しており、とうてい、訴訟のまともな利用方法とは言い難いということである。法曹であれば、原告らの訴訟提起の異様さは、誰もが気づくことであり、自らのフィールドがこのように汚されることに、危惧や嫌悪を超えた義憤を感じるであろう。

3 原告らが、本訴状の作成にあたり参考にしたであろう、この種訴状のひな形、例えば、判例タイムズ1360号の4頁以下には、東京地裁プラクティス委員会執筆にかかる名誉棄損訴訟の解説があり、その24頁に、本訴状とよく似たウェブ掲載文書に対する名誉棄損訴状のひな形が出ているが、このひな型では、「第5 本件各記述削除の必要性」の項で、ウェブに掲載された記述の削除を事前に求めたが、これに相手が応じないことから裁判を提起したという事情が記載されている。このひな型に記載されているとおり、真に権利回復を求めるのであれば、提訴前に当該論評の取扱いをめぐって相手方と事前交渉(削除要求)するのが常識的である。ましてや、本件の被告は弁護士である。何の事前接触もなく、文字通り「十把一絡げ」に論評差し止めの裁判を提起するのは、あまり褒められたやり方ではない。

4 わが国においても、経済的格差の拡大が社会問題化しているなか、この種訴訟は、数年前からスラップ訴訟として問題となっている。立憲主義の要をなす司法制度が、経済の格差により、一方では利用が困難となり、他方では本来の機能を逸脱する不当な目的で利用され始めているからである。
前述のとおり、本訴訟は、政治的論評に対する名誉棄損事件として、その正当性が問題とされた事件であるが、被告準備書面1の第5で述べているとおり、被告が、その論評の基礎として掲げたものは、原告吉田が雑誌に寄稿した手記や渡辺代議士が記者会見で述べた事実のみであり、2007年9月9日の最高裁判決以降のわが国の最高裁や下級審の各裁判例に照らせば、論評の公共性、公益目的性から、いかに原告らの社会的評価を低下させたとしても、明らかに正当性が認められる言論である。勿論、この被告論評の当否は、国民、一人、一人がその思想・信条に基づいて判断すべきことで、裁判所が証拠調べの結果により黒白をつけられるべき性質のものではない。

5 裁判所が名誉棄損の要件判断で、原告らの請求を棄却するのは容易であろう。しかし、被告として敢えて求めたいのは、裁判所が、本事件をスラップ訴訟防止の橋頭保とすべく、訴権濫用についての十分な審理を遂げ、本件訴訟の実態を踏まえた適切、果敢な判断を早期に下すことである。
                                         以上
(2014年8月20日)

「日の丸・君が代」は国民統合の理念をもっていない

東京「君が代」裁判(4次訴訟)の準備書面を起案中である。今回は、被告の積極主張への反論。その一部を紹介したい。弁護団会議の議論を経ての起案だが、最終稿ではない。

被告(都教委)は「日の丸・君が代」が国旗国歌として法制化されたことを、「日の丸・君が代」強制の根拠の一つに挙げている。そもそも、国旗国歌法は「日の丸・君が代」にどのような法的効果を付与したのだろうか。その問題意識からの論稿の一部である。
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政治学的あるいは社会学的に、あらゆる集団の象徴(シンボル)には、対外的な識別機能と対内的な統合機能とがある。日本国の象徴である国旗国歌にも、国際場裡において日本を特定するための対外的な識別機能と、国内的な国民統合機能とがある。

国旗国歌法は、識別機能にだけ着目して、統合機能を有することを意識的に避けた立法であるというほかはない。

統合機能は、当該の集団が共有する理念と結びついてのものである。著名な例としては、フランスの三色旗(トリコロール)において、その成立の過程はともかく、各色が自由・平等・博愛(友愛)という理念を象徴するものと理解されて、そのような理念における国民統合の機能を担ってきた。

翻って、「日の丸・君が代」の場合はどうであろうか。天皇の御代の永遠を言祝ぐ歌と、天皇の祖先とされる太陽神を形象した旗である。戦前には、天皇制国家の国旗国歌として、みごとな統合的機能を発揮した。旧時代の旧体制に、あまりにふさわしい国旗国歌であっただけに、1945年国家の原理が根源的に転換した以後、日本国憲法をもつ国家にふさわしくないとする見解には、耳を傾けるべき合理性を否定し得ない。「ふさわしくない」とは、「日の丸・君が代」が分かちがたく結びついている統合機能上の理念についてのことである。

かつての、「日の丸・君が代」が有した国民統合機能の理念が現行憲法に照らしてふさわしくないことには疑問の余地がない。それでもなお、「日の丸・君が代」は、過去の国民総体の記憶と切り離して、新しい何らかの理念と結びついて国民統合の機能をもちうるだろうか。被告の立場はこれを肯定するもののごとくである。

しかし、国民の記憶に、「日の丸・君が代」と天皇制や侵略戦争との結びつきは払拭しがたい。その結果、国旗国歌法が「日の丸・君が代」に対して、現行憲法に適合的な新たな理念を象徴するものとして、何らかの統合的機能を付与したと理解することには無理があるというほかはない。

国旗国歌法の提案と審議の過程では、およそ「日の丸・君が代」の統合的機能の内実や理念について語られることはなかった。むしろ、慎重に避けられたといってよい。そのようにして、「日の丸・君が代」を国旗国歌とする法が成立している。このことは、国旗国歌の対外的識別機能は認められても、対内的な国民統合の機能は認めがたいといわざるを得ない。

したがって、「日の丸・君が代」が国旗国歌として法制化されたことが、国民への「日の丸・君が代」ないしは国旗国歌強制に何らの意味をもつものではないというべきなのである。

以上のとおり、「日の丸・君が代」についての被告の主張も、原告主張への反論も失当という以外にない。
(2014年8月19日)

安倍晋三首相に対する告発状

本日、安倍晋三首相の資金管理団体である晋和会の会計責任者と安倍晋三首相本人の両名を被告発人として、政治資金規正法違反の告発をした。

告発事案は、晋和会の政治資金収支報告書の寄付者の「職業」記載に、16か所の「虚偽記載」があること。「虚偽記載」は、故意だけでなく重過失を含むものと定義されている。会計責任者が刑事責任の対象となった場合、原則として資金管理団体の代表者の監督責任も問われることになる。
監督責任者としての被告発人安倍晋三の刑が確定すれば、公民権停止となる。その場合、公選法99条によって当然に議員としての地位を失う。議員でなくなれば、首相の座も失うことになる。

本日午前11時、醍醐聰さんと私と神原弁護士とで、東京地検に告発状を提出してきた。今後の成り行きを注目したい。
告発状の全文を紹介する。
なお、下記URLを開いてもらえば、同文をクリーンな書式で読むことができる。

http://article9.jp/documents/告発状.pdf

                                2014年8月18日
                   告  発  状
東京地方検察庁 御 中

          告   発   人     醍 醐   聰
          同              湯 山 哲 守
          同              斎 藤 貴 男
          同              田 島 泰 彦
          告発人代理人弁護士  澤 藤 統一郎
          同              阪 口 徳 雄
          同              神 原   元
          同              藤 森 克 美
          同              野 上 恭 道
          同              山 本 政 明
          同              茨 木   茂
          同              中 川 素 充

          被  告  発 人     ○ ○ ○  美
          同              安 倍 晋 三

                  告 発 の 趣 旨
 被告発人○○○美ならびに同安倍晋三に、それぞれ下記政治資金規正法違反の犯罪行為があるので、この事実を申告するとともに厳正なる処罰を求める。

                 被疑事実ならびに罰条
1 被告発人○○○美は、2011(平成23)年当時から現在に至るまで政治資金規正法上の政治団体(資金管理団体)である「晋和会」(代表者 安倍晋三、主たる事務所の所在地 東京都千代田区永田町2-2-1 衆議院第一議員会館1212号室)の会計責任者として、同法第12条第1項に基づき同会の各年の政治資金収支報告書を作成して東京都選挙管理委員会を通じて総務大臣に提出すべき義務を負う者であるところ、2012年5月31日に「同会の2011(平成23)年分収支報告書」について、また2013年5月31日に「同会の2012(平成24)年分収支報告書」について、いずれも「寄附をした者の氏名、住所及び職業」欄の記載に後記「虚偽記載事項一覧」のとおりの各虚偽の記載をして、同虚偽記載のある報告書を東京都選挙管理委員会を通じて総務大臣宛に提出した。
  被告発人○○○美の以上の行為は同法第25条第1項3号に該当し、同条1項によって5年以下の禁錮または100万円以下の罰金を法定刑とする罪に当たる。

2 被告発人安倍晋三は、資金管理団体「晋和会」の代表者として、同会の会計責任者の適正な選任と監督をなすべき注意義務を負う者であるところ、同会の会計責任者である被告発人○○○美の前項の罪の成立に関して、同被告発人の選任及び監督について相当の注意を怠った。
  被告発人安倍晋三の以上の行為は、政治資金規正法25条第2項に基づき、50万円以下の罰金を法定刑とする罪に当たる。

3 虚偽記載事項一覧
  2011(平成23)年分 (2012年5月31日作成提出)
   ・寄付者小山好晴について職業欄の「会社役員」という表示が虚偽
            →正しくは「NHK職員」あるいは「団体職員」
   ・寄付者小山麻耶について職業欄の「会社役員」という表示が虚偽
            →正しくは「会社員」
   ・寄付者周士甫について職業欄の「会社役員」という表示が虚偽
            →正しくは「会社員」
   (以下略)
  2012(平成24)年分 (2013年5月31日提出)
   ・寄付者小山好晴について職業欄の「会社役員」という表示が虚偽
            →正しくは「NHK職員」あるいは「団体職員」
   ・寄付者小山麻耶について職業欄の「会社役員」という表示が虚偽
            →正しくは「会社員」
   ・寄付者周士甫について職業欄の「会社役員」という表示が虚偽
            →正しくは「会社員」
   (以下略)

4 本件虚偽記載発覚の経緯
  本件の発覚は、NHKの職員(チーフプロデューサー)である小山好晴が有力政治家安倍晋三(現首相)の主宰する政治団体(資金管理団体)に政治献金をしていることを問題としたマスメディアの取材に端を発する。
  「サンデー毎日」本年7月27日号が、「NHKプロデューサーが安倍首相に違法献金疑惑」との見出しを掲げて報道した。同報道における「NHKプロデューサー」とは小山好晴を指し、「NHK職員による安倍首相への献金の当否」を問題とするものであった。また、同報道は小山好晴の親族(金美齢)の被告発人安倍晋三への献金額が政治資金規正法上の量的制限の限度額を超えるため、事実と認定された場合は脱法行為となる「分散献金」を隠ぺいするために小山好晴からの名義借りがあったのではないかという疑惑を提示し、さらに、政治資金収支報告書上の寄付者小山好晴の「職業」欄の「会社役員」という表示について、これを虚偽記載と疑う立場から検証して問題とするものであった。
  小山好晴が「NHK職員」であることは晋和会関係者の知悉するところである。政治資金規正法(12条第1項1号ロ)によって記載を義務付けられている「職業」欄の記載は、当然に「NHK職員」あるいは「団体職員」とすべきところを「会社役員」と記載したことは、被告発人安倍晋三に対するNHK関係者の献金があることをことさらに隠蔽する意図があったものと推察される。
  「サンデー毎日」が上記記事の取材に際して小山好晴らに対して「会社役員」との表示は誤謬ではないかと問い質したことがあって、その直後の7月11日晋和会(届出者は被告発人○○)は小山好晴の「職業」欄の記載を、「会社役員」から「会社員」に訂正した。しかし、小山は「会社員」ではなく、訂正後の記載もなお虚偽記載にあたる。
  晋和会(届出者は被告発人○○)は、7月11日に寄付者小山麻耶(小山好晴の妻・金美齢の子)についても、「会社役員」から「会社員」に訂正している。この両者について、原記載が虚偽であったことを自認したことになる。
  さらに7月18日に至って、晋和会(届出者は被告発人○○)は、自ら、後記「虚偽記載一覧」に記載したその余の虚偽記載についても訂正届出をした。合計16か所に及ぶ虚偽記載があったことになる。
  告発人において虚偽記載を認識できるのは寄付者小山好晴についてのみで、その余の虚偽記載はすべて政治資金収支報告書の訂正によって知り得たものである。当然に、訂正に至らない虚偽記載も、訂正自体が虚偽である可能性も否定し得ないが、告発人らは確認の術を持たない。

5 本件各記載を「虚偽記載」と判断する理由
  政治資金規正法第12条第1項・第25条第1項の虚偽記載罪の構成要件は、刑法総則の原則(刑法第38条第1項)に従って本来は故意犯と考えられるところ、政治資金規正法第27条第2項は「重大な過失により第25条第1項の罪を犯した者も、これを処罰するものとする」と規定して、重過失の場合も含むものとしている。
  その結果、「虚偽記載」とは行為者が「記載内容が真実ではないことを認識した場合の記載」だけでなく、「重大な過失により誤記であることを認識していなかった場合の記載」をも含むものである。
  告発人らは、被告発人○○に、寄付者小山好晴の職業欄記載については、故意があったものと思料するが、構成要件該当性の判断において本件の他の虚偽記載と区別する実益に乏しい。
  刑法上の重過失とは、注意義務違反の程度の著しいことを指し、「わずかな注意を払いさえすれば容易に結果回避が可能であった」ことを意味する。本件の場合には、「わずかな注意を払いさえすれば容易に誤記であることの認識が可能であった」ことである。
  本件の「虚偽記載」16か所は、すべて被告発人○○において訂正を経た原記載である。小山好晴の職業についての虚偽記載を指摘されて直ちに再調査の結果、極めて容易に誤記であることの認識が可能であったことを意味している。すべてが、「わずかな注意を払いさえすれば容易に誤記であることの認識が可能であった」という意味で、注意義務違反の程度が著しいことが明らかである。
  以上のとおり、被告発人○○の行為は、指摘の16か所の記載すべてについて、政治資金規正法上の虚偽記載罪の構成要件に該当するものと思料される。
  なお、被告発人○○の犯罪成立は、虚偽記載と提出で完成し、その後の訂正が犯罪の成否に関わるものでないことは論ずるまでもない。

6 被告発人安倍晋三の罪責
政治資金規正法第25条第2項の政治団体の責任者の罪は、過失犯(重過失を要せず、軽過失で犯罪が成立する)であるところ、会計責任者の虚偽記載罪が成立した場合には、当然に過失の存在が推定されなければならない。資金管理団体を主宰する政治家が自らの政治資金の正確な収支報告書に責任をもつべきは当然だからである。
  被告発人安倍において、特別な措置をとったにもかかわらず会計責任者の虚偽記載を防止できなかったという特殊な事情のない限り、会計責任者の犯罪成立があれば直ちにその選任監督の刑事責任も生じるものと考えるべきである。
  とりわけ、被告発人安倍晋三は、被告発人○○が晋和会の2012(平成24)年分の政治資金収支報告書を提出した約半年前から内閣総理大臣として行政府のトップにあって、行政全般の法令遵守に責任をもつべき立場にある。自らが代表を務める資金管理団体の法令遵守についても厳格な態度を貫くべき責任を負わねばならない。
  なお、被告発人安倍晋三が本告発によって起訴されて有罪となり罰金刑が確定した場合には、政治資金規正法第28条第1項によって、その裁判確定の日から5年間公職選挙法に規定する選挙権及び被選挙権を失う。その結果、被告発人安倍晋三は公職選挙法99条の規定に基づき、衆議院議員としての地位を失う。
  また、憲法第67条1項が「内閣総理大臣は、国会議員の中から国会の議決で、これを指名する」としているところから、衆議院議員としての地位の喪失は、内閣総理大臣の地位を失うことをも意味している。
  そのような結果は、法が当然に想定するところである。いかなる立場の政治家であろうとも、厳正な法の執行を甘受せざるを得ない。本件告発に、特別の政治的な配慮が絡んではならない。臆するところなく、厳正な処罰を求める次第である。

7 本件は決して軽微な罪ではない
政治資金規正法は、政治資金の流れについての透明性を徹底することにより、政治資金の面からの国民の監視と批判を可能として、民主主義的な政治過程の健全性を保持しようとするものである。
  法の趣旨・目的や理念から見て、政治資金収支報告書の記載は、国民が政治を把握し監視や批判を行う上において、この上なく貴重な基礎資料である。したがって、その作成が正確になさるべきは、民主政治に死活的に重要といわざるを得ない。それ故に、法は刑罰の制裁をもって、虚偽記載を禁止しているのである。
  本件16か所の「虚偽記載」(故意または重過失による不実記載)は、法の理念や趣旨から到底看過し得ない。特に、現首相の政治団体の収支報告は、法に準拠して厳正になされねばならない。
  被告発人らの本件行為については、主権者の立場から「政治資金規正法上の手続を軽んじること甚だしい」と叱責せざるを得ない。
  告発人らは、我が国の民主政治の充実とさらなる発展を望む理性ある主権者の声を代表して本告発に及ぶ。
  捜査機関の適切厳正な対応を期待してやまない。
以上 

添  付  資  料
 疎明資料(すべて写)  各1通
 1 晋和会2011(平成23)年分政治資金収支報告書 訂正以前のもの
 2 同上訂正後のもの
 3 晋和会2012(平成24)年分政治資金収支報告書 訂正以前のもの
 4 同上訂正後のもの
 5 「サンデー毎日」2014年7月27日号
 委任状                    4通

教育勅語は臣民の義務の根拠たりえたのか

先日、ある集会にお招きいただき、改憲問題についてお話しをしたときのこと。
現行憲法の、「国民の三大義務」が話題になって、大要次のような発言をした。

「三大義務」とは、納税と教育と労働とに関するもの。しかし、近代立憲主義が貫徹している日本国憲法では、正確な意味での「国家に対する国民の憲法上の義務」はありえない。納税の義務を定めている憲法30条「国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負う」は、「適正な法律の定めによらなければ課税されない国民の権利」を定めたものと読むべきだろう。憲法27条1項の「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負う」も、義務よりは雇用機会創出を求める国民の権利規定であろう。

教育に至っては、かつては国家のイデオロギー刷り込みを受容すべき臣民の義務であったが、現行憲法26条は国民の教育を受ける権利を明確化して、権利義務の関係を逆転させた。「その保護する子女に普通教育を受けさせる義務」は体系的には違和感のある規定。

現行憲法が第3章を「国民の権利及び義務」としたのは、旧憲法第2章「臣民権利義務」に引きずられたからに過ぎない。いまも「三大義務」などというのは、旧憲法時代の「臣民の三大義務」(納税、兵役、教育)の言い回しを踏襲したからなのだろう。旧憲法時代には、憲法上の「三大義務」でよいだろうが、現行憲法体系においては本来的な憲法上の義務を考える必要はない。教える必要も覚える必要もない。」

これに関連して、会場から質問が出た。

「旧憲法には、納税、兵役の両義務については根拠規定があったが、教育の義務についての定めはなかった。にもかかわらず、『臣民の三大義務』と並べられた根拠はどこにあるとお考えですか。」

私が、常識な回答をする。「憲法と同格の教育勅語による義務と考えてよいのではないでしょうか。」「ほかには根拠を知りません。」「1872(明治5)年の学制発布はどうでしょうか。」

さらに、質問者が発言した。「教育勅語自体が、法源として臣民の義務の根拠になるということが理解しにくいのです。また、学制発布は太政官布告として教育制度を定めるものですが、就学の義務を設定するものではないはずです。」

言葉を交わしてみれば、明らかに質問者の方がよくものを知っている。むしろ、こちらが教えてもらいたい。その場では、「お互い調べて見ましょう。わかったことがあれば、当ブログに出しましょう」で終わった。その後この件については、私にはこれ以上の知見の獲得はない。

本日、その質問者から丁寧なメールをいただいた。次のような内容。
「その後出張やら遠出があったためにご報告が大変遅くなりましたことをお詫び申し上げます。Oと申します。
先日、ご質問させていただいた件についてです。

奥平さんの著書にはこうあります。
大日本帝国憲法下のもと、「『臣民の三大義務』なるものが語られていた。このうち兵役・納税の二つは、憲法典にあげられていたが、もうひとつの『教育の義務』は、憲法典はおろか、どんな法律にも、その根拠規定を有していなかった。それは単なる勅令(明治憲法九条にもとづき天皇が発する命令)によって設定されていたものである。」(奥平康弘『憲法Ⅲ』一九九三年、有斐閣、437頁)

旧憲法下の1886年小学校令第三条では、「児童六年ヨリ十四年ニ至ル八箇年ヲ以テ学齢トシ父母後見人等ハ其学齢児童ヲシテ普通教育ヲ得セシムルノ義務アルモノトス」と定められています。

また、1900年(第三次)小学校令に「学齢児童保護者ハ就学ノ始期ヨリ其ノ終期ニ至ル迄学齢児童ヲ就学セシムルノ義務ヲ負フ」とあります。

義務教育制度がどの段階で成立したというかは、正直のところ難しく、1886年とみる説、1900年とみる説がありますが、花井信『製紙女工の教育史』は後者をとっています。

教育勅語(1890年、もちろん「勅語」であり、明治天皇の個人的見解を述べたものにすぎません)において、「學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ德器ヲ成就シ…」とあるのが、子どもには勉強をする義務がある(道徳的義務?)ととれなくもありませんが、それでいくと子どもの勉強する義務は「夫婦相和す」のと同等の義務であり、「臣民の三大義務」の一つというには根拠薄弱です。

いずれにせよ、どうして「兵役、納税、教育」が臣民の三大義務と語られるようになったのか。私にはよくわかりません。

お返事がおそくなりましたことを重ねてお詫びします。」

Oさん。丁寧なご教示、ありがとうございます。教育勅語を臣民の教育を受ける義務の根拠とすることへの疑問のご指摘、なるほどと思います。

あらためて、私見を申し上げれば、「臣民の三大義務」は、その内容や根拠が厳密である必要は全くなかったものだと思います。権力の思惑として、臣民の道徳観念支配の小道具として通用すればよいだけの話。これを争う国民が想定されているわけではなく、裁判上の義務概念としての厳密性や、論理的な説得力も不要だったのだろうと思います。その意味では、どんな根拠でもよかったのではないでしょうか。もちろん教育勅語でも、です。

もっとも、誰が、いつ頃から、どのような意図で、どのように「臣民の三大義務」を語り始めたのか、とりわけ、「教育を受ける義務」を言い始めたのか。旧天皇制政府の民衆支配の歴史の問題としては、興味の尽きないところです。

また、何かわかれば、教えてください。
(2014年08月17日)

69回目の戦後の夏、時代に向き合う-「前夜」に言寄せて

今ならまだ間に合う。
明日では遅すぎる…かも知れない。
だから、今、声を上げなければならない。
今は、そのような「前夜」ではないか。

「前夜」に続く茶色の朝、
「改憲」が実現する悪夢の日。
歴史の歯車が逆転して、
いつかきた道に迷い込み、
その行きつく先にある、
「取りもどされた日本」。

69年前、
戦争の惨禍というこの上ない代償をもって、
われわれ国民は、主権と人権と、なによりも平和を手に入れた。
それまでの大日本帝国とは断絶した、
新しい原理に拠って立つ新生日本国を誕生させた。

「前夜」とは、
その新生日本国の原理が蹂躙される「恐るべき明日」の前夜。
邪悪な力による逆行した時代到来の前夜。
断絶し封印されたはずの過去が、新たなかたちでよみがえるその日の前夜。

訣別したはずの過去において、
 主権は天皇にあった。
 天皇は神として神聖であり、
 天皇の命令は絶対とされた。
 君と国とが主人であり、
 この地に生きるものは「臣民」であった。
 臣民には、恵深い君から思し召しの権利が与えられ、
 臣民はそのかたじけなさに随喜した。

 国が目指すは富国強兵。
 強兵こそが富国の手段で、
 富国こそがさらなる強兵を可能とする。
 「自存自衛」、「帝国の生命線防衛」の名の下、
 侵略戦争と植民地の拡大が国策とされた。
 そのための国民皆兵が当然とされた。

 学校と軍隊が、国家主義・軍国主義を臣民に叩き込んだ。
 国定教科書が、統治の対象としての臣民に、服従の道徳を説いた。
 排外主義と近隣諸国民にたいする優越意識が涵養された。
 男女平等はなく、家の制度が国家的秩序のモデルとされた。

このような理不尽な国家を支えた法体系の一端は、
 大日本帝国憲法
 刑法(大逆罪・不敬罪・姦通罪)
 陸軍刑法
 海軍刑法
 徴兵令

 讒謗律1875(明治8)年
 集会条例1880(明治13)年
 新聞紙条例1875(明治8)年
 保安条例1887 (明治20年)
 集会及政社法1890(明治23)年
 出版法1893(明治26)年
 軍機保護法1899(明治32)年
 治安警察法1900(明治33)年
 行政執行法1900(明治33)年
 新聞紙法1909(明治42)年
 治安維持法1925(大正14)年
 暴力行為等処罰法1926(大正15)年
 治安維持法改正1928(昭和3)年
 軍機保護法全面改正1937(昭和12)年
 国家総動員法1938(昭和13)年
 軍用資源秘密保護法1939(昭和14年)
 国家総動員法改正1941(昭和16)年
 国防保安法1941(昭和16)年
 治安維持法改正1941(昭和16)年
 言論、出版、集会、結社等臨時取締法1941(昭和16)年
 戦時刑事特別法1941(昭和16)年

議会制の終焉を告げる大政翼賛会の結成は
 1940年(昭和15年)10月。
 その後1年余で、太平洋戦争が勃発した。

今、歴史の歯車の逆回転を意識せずにはおられない。
日本国憲法が払拭したはずの旧体制の残滓が復活しつつあるのではないか。
自民党は、憲法改正草案を公表した(2012年4月)。
この草案自体が既に悪夢だ。
立憲主義を崩壊させ、日本を天皇をいただく国にし、
堂々の国防軍をつくろうという。
そして、「表現の自由」圧殺を公言するもの。

特定秘密保護法とは、
「国民には国家が許容する情報だけを知らせておけば足りる」
という思想をかたちにしたもの。
国民が最も知らねばならないことを、知ってはならないと阻むもの。
国民の知る権利の蹂躙は、民主々義の根幹を破壊すること。
そして、議会制民主々義を形だけのものとすること。
衆参両院の議員は、この悪法の成立に手を貸したのだ。

さらに、だ。
2014年7月1日集団的自衛権行使容認の閣議決定。
憲法の平和主義は後退を余儀なくされてはいるが、
専守防衛の一線で踏みとどまっている。
今、自衛隊が外国で闘うことはできない。
これを突破しようというのが、集団的自衛権行使容認。

防衛大綱は見直され、海兵隊能力が新設される。敵基地攻撃能力にまで言及されている。「軍国日本を取り戻す」まで、あと一歩ではないか。

法律だけでは、戦争はできない。
他国民への憎悪をかきたてなければならない。
それには、教育とメデイアの統制が不可欠なのだ。
大学の自治も教育の自由も邪魔だ。
権力の煽動に従順な国民が必要で、権威主義の蔓延こそ権力の望むところ。
排外主義を撒き散らすヘイトスピーチ大歓迎なのだ。
「憲法を守ろう」という声には、
「政治的」というレッテルを貼って萎縮させることも。

着々と、再びの悪夢の準備が進行しつつある。
いまこそ、あらゆるところで、声を上げよう。
その「恐ろしい明日」を拒絶するために、
今なら間に合う。声を上げられる。
明日では手遅れ、になりかねないのだから。
(2014年8月16日)

69年目の終戦記念日にー天皇制の残滓と軍国主義の萌芽と

69年前の今日、国民すべての運命を翻弄した戦争が終わった。法的にはポツダム宣言受諾の14日が無条件降伏による戦争終結の日だが、国民の意識においては8月15日正午の天皇のラジオ放送による敗戦の発表の記憶が生々しい。

神風吹かぬままに天皇が唱導した聖戦が終わった日。負けることはないとされた神国日本のマインドコントロールが破綻した日。そして、主権者たる国民の覚醒第1日目でもあった。

69年を経た今日。当時の天皇の長男が現天皇として、政府主催の全国戦没者追悼式で次のように述べている。

「ここに歴史を顧み、戦争の惨禍が再び繰り返されないことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。」

どうしても違和感を禁じ得ない。

「戦争の惨禍が再び繰り返されないことを切に願い」はいただけない。戦争は自然現象ではない。洪水や飢饉であれば「再び繰り返されないことを切に願い」でよいが、戦争は人が起こすもので必ず責任者がいる。憲法前文のとおりに、「ふたたび政府の行為によって戦争の惨禍が繰り返されないことを切に願い」というべきだった。「心から追悼の意を表し」は、まったくの他人事としての言葉。天皇制や天皇家の責任が少しは滲み出る表現でなくては不自然ではないか。

また、なによりも、どのように「ここに歴史を顧み」ているのか、忌憚のないところを聞いてみたいものだ。

たまたま本日、憲法会議から、「憲法運動」通巻432号が届いた。私の論稿が掲載されたもの。《憲法運動・憲法会議50年》シリーズの第4号。時事ものではなく、今の目線でこれまでの憲法運動を振り返るコンセプトの論稿である。昨年暮れの首相靖国参拝(12月26日)の直後に書いた原稿だが、わけありで掲載が遅れた。そのための加筆もでき、はからずも終戦記念日の今日の配送となったのは、結果として良いタイミングに落ちついたと思う。

その拙稿から「歴史を顧みる」に関連する一節を引用したい。

「日本国憲法は、一面普遍的な人類の叡智の体系であるが、他面我が国に固有の歴史認識の所産でもある。日本国憲法に固有の歴史認識とは、「大日本帝国」による侵略戦争と植民地支配の歴史を国家の罪悪とする評価的認識をさす。

アジア・太平洋戦争の惨禍についての痛恨の反省から日本国憲法は誕生した。このことを、憲法自身が前文で「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」と表現している。憲法前文がいう「戦争の惨禍」とは、戦争がもたらした我が国民衆の被災のみを意味するものではない。むしろ、旧体制の罪科についての責任を読み込む視点からは、近隣被侵略諸国や被植民地における大規模で多面的な民衆の被害を主とするものと考えなければならない。

このような歴史認識は、必然的に、加害・被害の戦争責任の構造を検証し、その原因を特定して、再び同様の誤りを繰り返さぬための新たな国家構造の再構築を要求する。日本国憲法は、そのような問題意識からの作業過程をへて結実したものと理解しなければならない。現行日本国憲法が、「戦争の惨禍」の原因として把握したものは、究極において「天皇制」と「軍国主義」の両者であったと考えられる。日本国憲法は、この両者に最大の関心をもち、旧天皇制を解体するとともに、軍国主義の土台としての陸海軍を崩壊せしめた。国民主権原理の宣言(前文・第1条)と、平和主義・戦力不保持(9条1・2項)である。」

ところで、本日の戦没者追悼式には、「天皇制の残滓」のほかにもう一人の主役がいる。「新たな軍国主義」を象徴する安倍晋三首相。7月1日集団的自衛権行使容認の閣議決定後初めての終戦記念日にふさわしく、彼は過去の戦争の加害責任にも将来の不戦にも触れなかった。「自虐史観」には立たないことを公言したに等しい。

その彼の式辞の一節である。
「歴史に謙虚に向き合い、その教訓を深く胸に刻みながら、今を生きる世代、そして、明日を生きる世代のために、国の未来を切り拓いてまいります。世界の恒久平和に、能うる限り貢献し、万人が、心豊かに暮らせる世の中の実現に、全力を尽くしてまいります。」

私にはこう聞こえる。
「歴史に謙虚に向き合えば、強い軍事力を持たない国は滅びます。その教訓を深く胸に刻みながら、ひたすら精強な軍隊を育て同盟軍との絆を堅持することによって、今を生きる世代、そして、明日を生きる世代のために、北朝鮮にも中国にも負けない強い国の未来を切り拓いてまいります。そうしてこそ世界の恒久平和に能うる限り貢献することができ、日本の国民が他国から侮られることなく、億兆心一つに豊かに暮らせる日本となるのです。その実現に、全力を尽くしてまいります。」「それこそが、戦後レジームから脱却して本来あるべき日本を取りもどすということなのです。」

来年は終戦70周年。こんな危険な首相を取り替えての終戦記念日としなくてはならない。
(2014年8月15日)

今日の天皇制の役割を考える

戦争の惨禍を思い起こすべき8月も、天候不順のまま半ばに至っている。明日は終戦記念の日。

戦争が総力戦として遂行された以上、戦争を考えることは国家・社会の総体を考えることでもある。政治・軍事・経済・思想・文化・教育・メディア・地域社会・社会意識・宗教・政治運動・労働運動…。社会の総体を「富国・強兵」に動員する強力な装置として天皇制があった。8月は、戦争の惨禍とともに、天皇の責任を考えなければならないときでもある。

本日、「靖国・天皇制問題情報センター」から月刊の「センター通信」(通算496号)が届いた。「ミニコミ」というにふさわしい小規模の通信物だが、一般メディアでは取りあげられない貴重な情報や意見であふれている。

巻頭言として横田耕一さんの「偏見録」が載る。毎号、心してこの辛口の論評を読み続けている。今号で、その42となった。そのほかにも、今日の天皇制の役割を考えさせる記事が多い。

今号のいくつかの論稿に、天皇と皇后の対馬丸祈念館訪問が取りあげられている。初めて知ることが多い。たとえば、次のような。

「戦時遭難船舶遺族会は、『小桜の塔』と同じ公園内にある『海鳴りの像』への(夫妻の)訪問をあらかじめ要請していたが、断られた。海上で攻撃を受けた船舶は、対馬丸以外に25隻あり、犠牲音数は約2千人といわれている。なぜこのような違いが生じるのだろうか。」

『小桜の塔』は対馬丸の「学童慰霊塔」として知られる。しかし、疎開船犠牲は対馬丸(1482名)に限らない。琉球新報は、「25隻の船舶に乗船した1900人余が犠牲となった。遺族会は1987年、那覇市の旭ケ丘公園に海鳴りの像を建てた。対馬丸の学童慰霊塔『小桜の塔』も同公園にある」「太平洋戦争中に船舶が攻撃を受け、家族を失った遺族でつくる『戦時遭難船舶遺族会』は、(6月)26、27両日に天皇と皇后両陛下が対馬丸犠牲者の慰霊のため来県されるのに合わせ、犠牲者が祭られた『海鳴りの像』への訪問を要請する」「対馬丸記念会の高良政勝理事長は『海鳴りの像へも訪問してほしい。犠牲になったのは対馬丸だけじゃない』と話した」と報じている。

しかし、天皇と皇后は、地元の要請にもかかわらず、対馬丸関係だけを訪問して、『海鳴りの像』への訪問はしなかった。その差別はどこから出て来るのか。こう問いかけて、村椿嘉信牧師は次のようにいう。

「対馬丸の学童の疎開は当時の日本政府の決定に基づくものであるとして、沖縄県遺族連合会は、対馬丸の疎開学童に対し授護法(「傷病者戦没者遺族等授護法」)の適用を要請し続けてきたが、実現しなかった。しかし1962年に遺族への見舞金が支給され、1966年に対馬丸学童死没者全員が靖国神社に合祀された。1972年には勲八等勲記勲章が授与された。つまり天皇と皇后は、戦争で亡くなったすべての学童を追悼しようとしたのではなく、天皇制国家のために戦場に送り出され、犠牲となり、靖国神社に祀られている戦没者のためにだけ、慰霊行為を行ったのである。」

また、次のような。
「天皇の来沖を前にして、18日に、浦添市のベッテルハイムホールで、『「天皇制と対馬丸」シンポジウム』が開催されたが、その声明文の中で、「私たちは慰霊よりも沖縄戦を強要した昭和(裕仁)天皇の戦争責任を明仁天皇が謝罪することを要求する。さらに『天皇メッセージ』を米国に伝えて沖縄人民の土地を米軍基地に提供した責任をも代わって謝罪することを要求する。明仁天皇は皇位を継承しており、裕仁天皇の戦争責任を担っている存在にあるからである。そうでなければ、天皇と日本国家は、これらの責任を棚上げして、帳消しにすることになるからである」と表明している。このような声が出てくるのは、当然のことであろう。」

また、村椿は、キリスト者らしい言葉でこう述べている。
「多くの人たちを戦場に送り出し、その人たちの生命を奪った人物が、みずからの責任を明らかにせず、謝罪をせず、処罰を受けることなしに、その人たちの「霊」を「慰める」ことができるのだろうか。そのようなことを許してよいのだろうか」

沖縄の戦争犠牲者遺族の中に、天皇・皇后の訪問を拒絶する人だけでなく、歓迎する人もいる現実に関して、村椿はこう感想を述べている。
「奴隷を抑圧し、過酷な労働を課した主人が奴隷にご褒美を与えることによって、奴隷を満足させようとしている。奴隷がそのご褒美を手に入れて満足するなら、奴隷はいつまでたっても奴隷のままであり、主人はいつまでも奴隷を支配し続けるだろう。」

同感する。天皇制とは、天皇と臣民がつくる関係。これは、奴隷と奴隷主の関係と同じだ。奴隷主は、奴隷をこき使うだけではない。ときには慰撫し、ご褒美も与える。奪ったもののほんの一部を。これをありがたがっているのが、奴隷であり、臣民なのだ。

いま、われわれは主権者だ。奴隷でも、臣民でもない。だが、天皇制はご褒美をくれてやる姿勢を続け、これをありがたがる人も少なくない。慰撫やご褒美をありがたがる臣民根性を払拭しよう。戦後69年目の夏、あらためてそのことを確認する必要がありそうだ。
(2014年8月14日)

DHCスラップ訴訟資料の公開予告-「DHCスラップ訴訟」を許さない・第17弾

私を被告とする『DHCスラップ訴訟』の事実上の第1回口頭弁論は8月20日(水)午前10時半に開かれる。場所は東京地裁705号法廷。誰でも傍聴可能である。予約も身分証明も不要だ。しかし、満席になると入れなくなる。これが現在のところ、やむをえないのだ。

その場合には、11時から東京弁護士会5階508号室で行われる弁護団会議兼報告集会にどうぞ。こちらも席が足りないかも知れないが、そのときは詰め込みでも立ち見でもなんとかなる。

この集会では弁護団長の解説や、スラップ訴訟に詳しい北健一さん(ジャーナリスト・出版労連書記次長)の報告がある。高名な田島泰彦上智大学教授(メディア法専攻)の研究者としての立ち場からの解説も予定されている。

その口頭弁論期日1週間前の今日(8月13日)、弁護団が被告準備書面(1)を裁判所に提出した。併せて乙号証と証拠説明書も。同時に110名の代理人弁護士の委任状も提出した。当日の法廷で私が行う意見陳述の要旨もである。すべて順調に推移している。あらためて、私は「恵まれた被告」であり「幸せな被告」であると思う。

被告準備書面の主たる主張は、「本件提訴は訴権の濫用に当たるものとして、提訴自体が違法。だから直ちに却下して澤藤を被告の座から解放せよ」というもの。

「訴権の濫用」とは、おそらく聞き慣れない言葉だと思う。本日提出準備書面の次の一節をお読みいただきたい。

「裁判制度を利用することは憲法上の権利である(憲法32条)。しかし、…民事訴訟制度は、事実関係に法を適用して社会に惹起する法律的紛争を解決するという理性的な制度として運営されるべきものであるから、当該訴訟提起が、制度の理念に大きく逸脱する場合は、権利(訴権)の濫用として、提訴行為自体が排斥される場合があることも当然である。このことを端的に示した東京高裁2001年1月31日判決は、『当該訴えが、もっぱら相手方当事者を被告の立場に置き、審理に対応することを余儀なくさせることにより、訴訟上又は訴訟外において相手方当事者を困惑させることを目的とし、あるいは訴訟が係属、審理されていること自体を社会的に誇示することにより、相手方当事者に対して有形・無形の不利益・負担若しくは打撃を与えることを目的として提起されたものであり、右訴訟を維持することが前記民事訴訟制度の趣旨・目的に照らして著しく相当性を欠き、信義に反すると認められた場合には、当該訴えの提起は、訴権を濫用する不適法なものとして、却下を免れない』と述べている(その原審である東京地判も同様の判断を示している)と解するのが相当である」

しかし、なぜ本件『DHCスラップ訴訟』が、「訴訟を維持することが前記民事訴訟制度の趣旨・目的に照らして著しく相当性を欠き、信義に反する」場合に当たると、考えられるのか。それは、準備書面を直接お読みいただくのが適切である。

弁護団の議を経てということになるが、公開の法廷で陳述済みの訴訟資料は、ホームページで公開したいと思う。DHC側が、いったいどんな主張をしているのか、また被告弁護団がどう応訴しているのか、じっくりと時間をかけてお読みいただきたいと思う。

私は常々考えてきた。法廷を公開するという意味についてである。もちろん、誰でも法廷傍聴は可能で、一応そのような運用はなされている。しかし、傍聴希望者が法廷のキャパを超えれば入場できなくなる。標準的な法廷の傍聴席はあまりに数が少ない。傍聴希望者多数と予想される場合には抽籤などしているが、傍聴希望者にキャパを超える理由で傍聴を断ることに本当に正当性があるのだろうか。

東京の事件を沖縄県民が傍聴しようと思っても、事実上無理な話だ。裁判は、アクセス可能なエリアの人々にだけ公開されているが、その以遠の人には事実上閉ざされている。さらに、である。民事事件の法廷を傍聴された方はお分かりだろうが、傍聴していても目の前で何が進行しているのかさっぱり分からない。法廷は、事前に作成された書面をここで陳述したことにする儀式を行うだけの場なのだ。傍聴人に、どのような書面を提出しているのか説明したり、書面を読ませてくれる親切は期待できない。

もちろん、特定の事件に関心を持った場合には、第3者の記録閲覧は可能(申立書に手数料として150円の印紙貼付が必要)だが、事件番号や当事者などの特定の必要はある。これも、謄写申請となれば利害関係人に限られ、その疎明の手続も面倒だ。

プライバシー侵害の問題は別として、裁判「公開」はインターネットによって可能となるのではないか。『DHCスラップ訴訟』は、インターネット公開するのに、最適のケースというべきであろう。原告両名は、自ら公開の法廷での訴訟を望んだ者である。経済的・社会的な強者であるばかりでなく、公党の党首に巨額の政治資金を拠出したことを自ら暴露する手記を公表した者としても、プライバシーへの配慮は必要ない。

公開の法廷で何が行われたのか、訴状・答弁書・原告準備書面・被告準備書面、そして提出された双方の証拠まで、じっくりとお読みいただきたいと思う。本来は、国民誰もが、公開の法廷でその内容を知ることができたはずの資料である。公開することも、アクセスにも遠慮は要らない。但し、訴訟上の主張や証拠に第3者が出てきた場合のプライバシーへの配慮は必要となる。その配慮はしつつも、公開を実現したい。

そうして、この事件を「劇場」にもしたいし、「教室」にもしたい。この訴訟はシナリオのないドラマでもあり、民主主義を学ぶ格好の素材でもあるのだから。
(2014年8月13日)
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また、訴訟費用や運動費用に充当するための「DHCスラップ訴訟を許さぬ会」の下記銀行口座を開設しています。ご支援のお気持ちをカンパで表していただけたら、有り難いと存じます。
    東京東信用金庫 四谷支店
    普通預金 3546719
    名義   許さぬ会 代表者佐藤むつみ
 (カタカナ表記は、「ユルサヌカイダイヒョウシャサトウムツミ」)

世界中わが憲法と同じなら

毎日新聞「万能川柳」の先月(7月)の投句は、葉書の数で1万2000通を超えているという。葉書1枚に5句の投句が可能だから、句数を計算すれば4~5万になるのだろう。その中で、たった一句の月間大賞受賞作が本日の朝刊に発表されている。それが、17日に秀逸句として掲載された次の句。

   世界中わが憲法と同じなら(水戸拷問)

「短詩故の豊かな余韻が味わいふかい」と言われてしまえば反論のしようもないが、この曖昧な5・7・5のあと、どう続くのか気になってしかたがない。作者に聞いてみたいところ。

A「世界中の国の憲法がわが日本国憲法と同じなら、どこの国の軍隊もなくなる。世界に軍隊がなくなればどこにも戦争は起こらない。平和な世界が実現する」
おそらく作者はそう言いたいにちがいない。そのような立ち場から、「世界に憲法9条を」「憲法9条を輸出しよう」「世界遺産として9条を登録しよう」などというという運動が広まりつつある。

しかし、句の読み方が一つだけとは限らない。安倍首相なら、こう解釈するだろう。

B「世界中の国の憲法がわが日本国憲法と同じなら平和な世界が実現するでしょう。でも現実にはちがうのだからしょうがない。どこの国にも軍隊はある。だから日本だけが軍隊をもたないわけにはいかない」と。

「右翼の軍国主義者」も、「戦争が好き」「平和は嫌い」とは言わない。「平和を守るために敵に備えよ」「平和が大切だから戦争の準備を怠るな」「より望ましい平和のための戦争を恐れるな」というのだ。国境を接する両国がこのような姿勢でいる限り、お互いを刺激し合い、戦争の危険を増大し合うことになる。そして、ある日危険水域を越えて戦争が始まるのだ。

Aは、世界を説得しても軍隊をなくして平和を築こうとする立ち場。
Bは、世界を説得するなど夢物語。軍事力をもたねば不安とする立ち場。

最近、7月1日以後は、もっと別の読み方もできよう。
C「世界中の国の憲法がわが日本国憲法と同じであろうとなかろうと、どこの国の軍隊もなくならない。もちろん戦争もなくならない。だって、憲法に指一本触れずに政府が解釈を変えてしまえば、どんな軍隊も持てるし、世界中どんなところでも戦争ができるのだから」

7月1日閣議決定を受けて7月17日に、選者がこの句をその日の秀逸句とし、さらに月間大賞を与えたとしたら、辛口にCのような解釈をとっているのかも知れない。これはブラックユーモアの世界。

集団的自衛権行使容認の閣議決定は、憲法の存在感を著しく稀薄化した。憲法になんと書いてあろうとも、「最高責任者である私の解釈次第でどうにでもなる」と言われたのだ。「9条にどう書かれていようとも、日本は自衛を超えて戦争ができるようになりました」ということなのだ。

立憲主義を貫徹し平和主義を確立してはじめて、「世界中わが憲法と同じなら」は平和を希求する句(Aの読み方)となる。古典的安倍流(B)でも、ニューバージョン安倍流(C)でも、平和の句とは無縁なのだ。
(2014年8月12日)

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