澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

本日、東京「日の丸・君が代」処分取消第5次訴訟を提訴

(2021年3月31日)
 悪名高い「10・23通達」発出が、2003年10月23日のこと。時代は、これも悪名高い石原慎太郎都政第2期。この極右政治家の暴走によって、「都立の自由」が蹂躙され、都内公立校の学校行事で「日の丸・君が代」強制が導入された。あれから、17年余にもなる。

 この17年余にわたって、都内公立校の卒業式・入学式では、全教職員一人ひとりに、「国旗に向かって起立し、国歌を斉唱すること」という職務命令が発令される。これだけで異様な事態というほかはない。そして、不起立の教員には懲戒処分が課せられる。

 国旗・国歌(日の丸・君が代)強制に違和感をもつ教員は、数多くいる。多数派と言ってもよいだろう。その理由はさまざまだが、何よりも、この旗と歌は、天皇制下の軍国主義や侵略主義、植民地支配、偏狭な思想統制などの負の歴史とあまりに強く結びついたイメージを払拭し得ていない。

 かつての枢軸3国の内、ナチス・ドイツとファシズム・イタリアは、敗戦後旧体制との決別の意味を込めて、国旗も国歌も変えている。当然のことだろう。しかし、日本だけが、大日本帝国憲法時代の象徴を今も使っている。これに抵抗感を持つ人々が存在することは、健全で当然というべきではないか。

 また、国旗も国歌も、国家の象徴として個人に対峙する。起立して斉唱せよという強制を是とすることは、個人の尊厳を凌駕する国家の憲法価値を是認することにほかならない。これは、日本国憲法における主権原理にも人権理念にも悖るものといわなければならない。この強制と懲戒処分の違憲性を認めない司法は、その役割を果たしていないのだ。

 これは、現代の踏み絵である。起立したくはないが良心を詐って立たざるを得ないと考えるか、種々の不利益を甘受して不起立を貫くべきと考えるか、全教員が踏み絵を命じられるキリシタンと同様の葛藤を味わうことになっている。

 この都教委の仕打ちを容認できないとした教員たちが原告になって、いくつもの訴訟を提起してきた。憲法の根幹に関わる重大な憲法訴訟である。最初の提訴が、起立斉唱の差し止めを求める「予防訴訟」、次いで処分取消を求める提訴が、1次~4次まで。それに続いての第5次訴訟が本日の提訴。原告数15名、取消を求める処分の数が26件である。

 本日は、午前10時に訴状を提出した。200ページの訴状は、気迫に充ちたものとなっている。11時から記者会見、午後には77人のリアル参加での報告集会というスケジュールだった。

 以下は、取消5次訴訟原告団・弁護団の声明である。これまでの経緯や本日提起の訴訟の概要をご理解いただけるものと思う。

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東京「日の丸・君が代」処分取消五次訴訟提訴にあたっての声明

1 私たち東京「日の丸・君が代」処分取消訴訟原告団(東京「君が代」裁判原告団)15名は、本日、東京都教育委員会を被告として、原告らに対する懲戒処分26件の取消を求めて、東京地方裁判所に提訴しました。
  原告ら(都立学校の教員・元教員)は、2003年10月23日に出された通達(「10・23通達」)に基づく職務命令に違反したとして処分を受けました。この通達は、学校長に対する職務命令として、校長が、教職員にあてに卒業式等において「国旗に向かって起立し、国歌を斉唱すること」を命じる職務命令を出させることをその内容としています。これまでにも起立斉唱命令違反を理由とする懲戒処分の取消訴訟を提起してきましたが、今回の提訴は、東京「日の丸・君が代」処分取消訴訟としては第5回目の提訴となります(第1次訴訟2007年2月提訴:原告173名、第2次訴訟2007年9月提訴:原告67名、第3次訴訟2010年3月提訴:原告50名、第4次訴訟2014年3月提訴:原告14名)。

2 10・23通達をめぐっては、2011年5月30日以降、最高裁において、起立斉唱に関しては、「国旗及び国歌に対する敬意の表明の要素を含む行為」であるとして個人の思想良心の自由に対する間接的な制約となるとの判断が示されました。起立斉唱命令に違反したことを理由とする懲戒処分についても、第1次訴訟の最高裁2012年1月16日判決で「減給以上の処分を選択することの相当性を基礎づける具体的な事情」が必要であるとされ、過去の不起立を理由とする処分歴が相当性を基礎づける具体的な事情に当たらないとして、都教委が行ってきた「累積加重処分」を断罪し、減給以上の処分がすべて取り消されました。減給以上の処分が取り消される判断は、第2次訴訟の最高裁2013年9月6日判決でも確認され、第3次・第4次提訴でも踏襲されています。なお、戒告については取り消されることはありませんでしたが、第1次訴訟最高裁判決では、都教委に対して強権的に処分を繰り返すのではなく謙抑的な対応によって教育現場の状況の改善を求める補足意見が出されています。

3 原告ら起立斉唱命令違反を理由として懲戒処分を受けた教職員は、自身の思想、信条から起立斉唱できないにもかかわらず、そのことを理由として繰り返し懲戒処分を科され、再発防止研修の受講を義務付けられるなど自身の思想信条に対する不利益を受けながら、また、処分されたことを理由として勤務評定をさげられる等教員としての尊厳を傷つけられながらも、粘り強く裁判を闘ってきました。
  しかし、都教委は、最高裁判決が求める謙抑的な対応による解決ではなく、強権的に処分を繰り返す対応に終始してきました。原告らが求める話し合いには一切応ぜず、処分を取り消された者への謝罪・名誉回復は全く行わない、断罪された「累積加重処分」の根本的な見直しすら行わない、さらにはあろうことか再処分を強行する、再発防止研修を異常なまでに強化する一方、現場では、批判を許さない体制を作り上げ、最後には再任用を打ち切って教育現場からの排除に繋げる等々、反省のかけらも見られません。

4 原告らの中には、一度は減給以上の処分を取り消された後、再び同じ卒業式等での不起立を理由として今回取り消しを求める戒告処分を受けた者が含まれています。都教委の違法な懲戒処分が取り消されたにもかかわらず、なぜ原告らは、精神的苦痛も十分に慰謝されぬまま、再度の懲戒処分によってかつての減給処分以上の経済的損失を被らなければならないのでしょうか。とりわけこの間に、都職員の昇給と勤勉手当に関する規則が2度にわたって改訂され、懲戒処分による経済的損失が大幅に増大されています。再処分を受けた者は、都教委が違法な減給処分をしなければ受けなくて済んだはずの経済的損失を被ることを余儀なくされています。
  また、都教委は、現在のコロナ禍においても感染防止のため卒業式等の簡略化を求めつつ、「国歌斉唱」のみは必ず実施するよう指示し、職務命令を出し続けています。「国歌斉唱」の「職務命令」に執着し、実質的な二重処罰となる再処分をも厭わない都教委の姿勢はもはや異常というほかありません。
  本日までに「10・23通達」に基づく起立斉唱命令に違反することを理由とする懲戒処分は485件という膨大な数にのぼっています。この数字も、東京の教育行政の異常さを物語っています。
  そして、2019年、国際機関(ILO/UNESCO)から、式典で明らかな混乱をもたらさない場合にまで国歌の起立斉唱行為のような愛国的な行為を「強制」することは、個人の価値観や意見を侵害するとの勧告がだされたことによって、東京の教育行政の異常さは国際社会にも認識されるに至っています。

5 「10・23通達」発出からすでに17年余がたちました。10・23通達以来の職務命令によって教職員を従わせようとする都教委の、学校の命である自由闊達な教育実践を大きく阻害しています。その最大の被害者は生徒たちです。これ以上、可能性に満ちた生徒たちを都教委による管理統制の下に置くことはできません。
  私たちは、本日、「人権の最後の砦」である裁判所に懲戒処分の取消を求めて第5次訴訟を提訴しました。今こそ裁判所は、都教委の暴走から国民の権利・自由を守るため、問題解決に向けてその役割を果たすべきときです。
  教職員や生徒らの「思想・良心・信仰の自由」が守られる自由で民主的な教育をよみがえらせるため、教職員・生徒・保護者・市民と手を携えて、国旗・国歌(日の丸・君が代)強制に反対し、すべての処分を撤回させるまで闘い抜く決意です。
  皆様のご理解とご支援を心よりお願い申し上げます。

2021年3月31日

東京「君が代」裁判5次訴訟原告団
同            弁護団

踏みにじられた香港の民主主義と、踏みにじった中国の非道を忘れない

(2021年3月30日)
 毎日新聞が、「香港『1国2制度』事実上終わる 全人代、選挙制度の見直し決定」と伝えている。なんということだ。香港に花開いた民主主義は、中国の野蛮な暴力に押し潰されたというのだ。文明の敗北であり、歴史の後退と嘆かざるを得ない。

 「中国の全国人民代表大会(全人代=国会)常務委員会は30日、香港の選挙制度見直しに関する議案を全会一致で可決した。香港政府トップの行政長官と立法会(議会)議員の選挙で民主派を徹底排除する内容で、次回の選挙から導入される見通し。中国の習近平指導部による香港への統制強化は区切りを迎え、香港の高度な自治を認めた『1国2制度』は事実上、終わりを告げた形だ。」

 予てから知られているとおり、中国に三権分立はなく、司法の独立もない。さらには地方自治の観念もない。そもそも人権思想がなく、民主主義の観念もない。だから、権力を縛るものがない。一党専制という権力は、何者にも掣肘されることなく、好き勝手にやり放題なのだ。そして、国外にある文明世界からの批判には、「内政干渉だ」と聞く耳を持たない。

 それゆえに、中国共産党という権力は、平然と香港の選挙制度を骨抜きにできるのだ。この蛮行は、民主主義の根幹をなす選挙制度の大骨も小骨も抜いてしまった。骨を抜かれて残ったグロテスクなものは、もはや「選挙」の骸ですらない。醜悪な権力の手先の任命手続でしかない。この、香港の民主主義に対する死の宣告が、「全会一致で可決した」ことに戦慄せざるを得ない。

「今回の制度見直しで、当局が愛国者と認めた人物しか選挙に出馬できなくなり、政治も完全に統制下に置いたといえる。新制度では、共産党や政府の方針に従う「愛国者」であるのかを基準に、立候補の可否を審査する委員会を設ける。」

 選挙とは本来、主権者人民が権力を形成する営みである。少なくも、主権者の意思を集約して権力に反映する手続でなくてはならない。だから、選挙制度設計の基本思想は、可及的に正確な人民の意思の集約と集約された意思のその議会への正確な反映である。自由な政党が存在し、自由な選挙運動が保障され、自由で平等な選挙権・被選挙権が保障されなければならない。秘密投票の徹底も必要である。

 ところが、今回の選挙制度の見直しは、その正反対なのだ。権力が人民の意思の正確な表出を、徹底的に歪めてしまおうというのだ。もちろん、権力の望む方向にである。予め選別した権力に迎合する人物だけを候補者として認め、不都合な人物には被選挙権を与えない。これは、「似非民主主義」とも、「擬似民主主義」とも言わない。専制支配というほかはない。

 ここで、権力の好悪の基準とされているものが、「愛国」である。「愛国」とは、共産党や政府の方針に従うことである。人民の意思で、党・権力を形成するのではなく、党・権力に追随する者のみを議員として取り込もうという発想。だからこそ、このようなグロテスクな「選挙制度」の議案が、全会一致で可決されるのだ。

 細かい仕組みについての改悪の説明は省く。要するに、行政長官選挙も、立法会議員選挙も、「愛国者」ではない民主派を徹底して押さえ込む制度となったのだ。「愛国者」という言葉の、なんという薄汚なさであろうか。「愛国」とは、権力による民衆操作のキーワードであり、他国民や国内少数派に対する差別用語でもある。

 人民の政治参加の王道は選挙にあり、路上での政治行動がこれに次ぐ。中国共産党は、路上の抗議行動を徹底して弾圧しただけでなく、選挙制度をへし曲げて人民の政治参加を妨害したのだ。

毎日新聞の記事は、「全人代は、香港住民に約束した内容をほごにした格好だ。欧米諸国が制度見直しへの批判を強めるのは必至とみられる。」と結んでいる。

 われわれも、非力ながらもせめては、途切れることなく声を上げ続けよう。香港の民主主義を支持し、中国の横暴を非難する発言を続けよう。現地で声を封じられた人たちを思いつつ。

ミャンマーの憂うべき情勢と、自衛隊トップの国軍非難声明

(2021年3月29日)
 ミャンマーからの報道に胸が痛む。これは、軍による無辜の人民の大量虐殺以外のなにものでもない。報道では、昨日(3月28日)までの弾圧犠牲者数は423人を数えるという。

 首都ネピドーで行われた3月27日の国軍記念日の式典で、ミン・アウン・フライン総司令官なる、この大量虐殺を指示した人物は、国民民主連盟(NLD)が大勝した昨年11月の総選挙で「不正があった」と主張し、クーデターは「避けられなかった」と述べたという。とうてい理解できない。総選挙で「不正があった」ことは所定の司法手続で糺せばよいだけのことで、クーデター正当化の理由になろうはずもない。

 それだけではない。国内で拡大する抗議デモを念頭に「安定と安全を害する暴力的行為は適切ではない」と述べてもいる。式典に先立ち、軍は国営テレビを通じて「若者が暴動に参加しようとしているが、頭や背中を銃弾などが貫通する危険がある」と警告した(NHK)という。要するに、デモ参加者には頭を狙って狙撃するぞ、という殺人予告をしているのだ。

 この27日の「殺人者集団創立記念式典」には8か国から出席があったという。その筆頭がロシア。ミン・アウン・フライン司令官は、演説の中で「ロシアは真の友人だ」と述べたそうだ。なるほど、なるほど、類は友を呼ぶとか。奥が深い。次いで、中国も参加している。こちらも、呼ばれた友であろう。

 軍隊とは、基本的に殺人組織である。これが、勝手に動き出したら、これほど危険なものはない。必要悪としての存在を認めざるを得ない場合にも、厳重なシビリアンコントロールが不可欠であって、けっして独り歩きさせてはならない。ミャンマー軍がその危険、その恐ろしさを遺憾なく曝け出している。

 このような折も折。日本を含む12カ国の軍のトップがミャンマー軍を非難する声明を出した。自衛隊の最高機関である、統合幕僚監部のホームページに以下の「お知らせ」が掲載されている。

令和3年3月28日
統 合 幕 僚 監 部

各国参謀長等による共同声明について

統合幕僚長山崎幸二陸将は、令和3年3月28日(日)(日本時間)、ミャンマーで生起している事態に対する平和的な解決を求めて、以下の共同声明を発出することと致しました。

(声明仮訳)
ミャンマーにおける同国軍による暴力行為を非難する
各国参謀長等による共同声明

 以下は、オーストラリア連邦、カナダ、ドイツ連邦共和国、ギリシャ共和国、イタリア共和国、日本国、デンマーク王国、オランダ王国、ニュージーランド、大韓民国、イギリス及びアメリカ合衆国の参謀長等による共同声明である。

 参謀長等として、我々はミャンマー国軍と関連する治安機関による非武装の民間人に対する軍事力の行使を非難する。およそプロフェッショナルな軍隊は、行動の国際基準に従うべきであり、自らの国民を害するのではなく保護する責任を有する。我々はミャンマー国軍が暴力を止め、その行動によって失ったミャンマーの人々に対する敬意と信頼を回復するために努力することを強く求める。

 ノーテンキに、これを立派なこととか称賛に値することと、持ち上げてはならない。「非武装の民間人に対する軍事力の行使」が非難さるべきは当然であるが、そのような意思表明は官邸か外務省が行うべきであって、自衛隊のなすべきことではない。

 政治や外交に関わることを軍のトップが口出ししてはならない。シビリアンコントロールはどこに行ってしまったのか。考えても見よ。自衛隊幹部が、独自の判断で中国やロシアの軍のありかたを批判する発言をはじめたら収拾のつかないことになる。容認する発言ならなおさらのことである。自衛隊を軍隊と定義するか否かはともかく、危険な実力組織には、独り歩きをせぬように厳重な統制が必要なのだ。

日本国憲法は軍隊の存在を想定していない。にもかかわらず、現実に存在する実力組織には、幾重にも、シビリアンコントロールの厳重な網をかぶせておかなければならない。それが、日本国憲法の平和主義、国民主権原理の求めるところである。

是非、野党は、この問題を看過せず、国会で追及していただきたい。 

「安定的な皇位継承策の議論」は、重大でも喫緊の課題でもない。

(2021年3月28日)
 愛読する毎日新聞、最近はその社説に違和感を覚えることが滅多にない。ときどきは大いに肯いて、肯いた自分を保守化したのだと感じたりもする。

 しかし、3月24日社説「皇位継承の有識者会議 国民的議論が欠かせない」だけは別。どうしても納得できない。民主主義理解と表裏一体の天皇制に関しての毎日新聞の姿勢は明らかにおかしい。もっとも、毎日新聞だけではないのだが。

不正確にならないように抜粋・引用する。
 「安定的な皇位継承策などを議論する政府の有識者会議が初会合を開いた。オープンで、国民が納得できる議論が求められる。
 2017年に成立した退位特例法の国会付帯決議は、皇位継承の議論を退位後速やかに行うよう政府に求めている。
 天皇陛下より若い皇位継承資格者は皇嗣(こうし)の秋篠宮さま(55)と長男悠仁(ひさひと)さま(14)の2人だけだ。
 しかし、安倍前政権は19年4月30日の上皇さまの退位以降も議論を先延ばしにしてきた。喫緊の課題を避けてきた政治の責任は極めて重い。
 先送りの背景には、安倍前政権の支持基盤である保守派が、皇族の女性が皇位を継承する「女性天皇」や、父方に天皇がいない「女系天皇」に強く反対していることがある。
 各種世論調査では、女性・女系天皇を容認する意見が7割前後に上っている。有識者会議はこうした世論も踏まえつつ、女性・女系天皇について議論を深めるべきだろう。
 皇族の減少も深刻だ。皇族が減れば、それぞれの負担が重くなり、皇室活動の維持も難しくなる。
 菅義偉首相は責任の重大さを認識し、国民的議論を経て広く理解を得られる結論を示すべきだ。」

 「安定的な皇位継承」とは、「万世一系の皇統」というに等しい。社会の木鐸を任じるジャーナリズムが、保守多数の国会に追随し、アプリオリに「安定的な皇位継承」を肯定してはならない。少なくも、根強く天皇制廃止の意見もあることを両論併記して意見を言うべきだろう。

 「喫緊の課題を避けてきた政治の責任は極めて重い」は、毎日新聞の論説陣が本気で言っていることなのだろうか。薄汚い安倍前政権攻撃の材料の一つとして、言って見せているだけなのだろうか。

 コロナ対策が喫緊の課題、被災地復興は喫緊の課題、地球環境保存のための排出ガス規制は喫緊の課題、絶滅危惧種保護のための生態系保存は喫緊の課題等々なら分かる。しかし、皇位継承なんぞ、「喫緊の課題」であろうはずはない。ましてや、コロナ禍さなかでのこと。私は、「課題」ですらないと思う。

 「女性・女系天皇について議論を深める」とは何を意味しているのだろうか。「女性・女系天皇を認めて、天皇制を護持することが大切」と、世論を誘導したいのだろうか。むしろ、「民主主義と天皇制との矛盾について議論を深める」ことが今、最も重要なことではないか。ついでに言えば、「天皇制と表現の自由」「天皇制と報道の自由」「天皇制と教育の自由」「天皇制と大学の自治」「天皇制と古代歴史研究の自由」の葛藤などにも、本当の意味での「議論を深める」努力をしていただきたい。

 「皇族の減少も深刻だ。皇族が減れば、それぞれの負担が重くなり、皇室活動の維持も難しくなる。」には、のけぞるばかり。これが、日本を代表する大新聞のリベラル度の水準なのか。皇族の減少は歓迎すべきことである。国民の主権者としての自立意識に資することになろうだけでなく、「皇族が減ればその分だけ経費負担が減り、社会福祉にまわすことができる」ではないか。

 「菅義偉首相は責任の重大さを認識し、国民的議論を経て広く理解を得られる結論を示すべきだ。」を、どう読むべきだろうか。

 天皇制やその支持勢力への欺瞞的な妥協だろうか、あるいは、販売促進政策上の保守的読者層へのへつらいと見るべきか。毎日新聞もつらいのかも知れないが、矜持を捨てないでいただきたい。

 なお、この有識者会議のメンバーは、下記の6人。
 上智大学の大橋真由美教授、慶應義塾の清家篤前塾長、JR東日本の冨田哲郎会長、俳優で作家の中江有里氏、慶應義塾大学の細谷雄一教授、千葉商科大学の宮崎緑国際教養学部長。

 これは明らかに偏った人選。天皇制に迎合することなく象徴天皇制を全面的に語ってきた実績のある横田耕一や原武史などの一群の人々を意識的に外しているとしか思えない。

 総理大臣官邸で開かれた有識者会議の初会合で菅首相は、こう語っている。

 「高い識見を有する皆様にご議論をお願いする」「議論していただくのは、国家の基本に関わる極めて重要な事柄だ。十分に議論を行い、さまざまな考え方を分かりやすい形で整理していただきたい」

 菅政権にとっては、象徴天皇制の持続は《国家の基本に関わる極めて重要な事柄》なのだ。毎日新聞が、「社の方針も同様」では、戦前と変わるところがない。本当にそう考えているのか。

「社会主義核心価値観」とは、現代中国版「教育勅語」である。

(2021年3月27日)
 金曜日には「週刊金曜日」を読もうとして、なかなか時間がとれない。今日、土曜日に3月26日号に目を通している。今号は、いつにもまして充実の趣。弱者目線にブレがないところがよい。

 対照的な、広島高裁伊方原発異議審決定と水戸地裁東海第二運転差し止め判決の紹介。札幌地裁同性婚違憲判決レポート。ソウル中央地裁「慰安婦」判決の関連記事。石橋学記者の差別断罪論。矢崎泰久の「左京」…。あれもこれも頷けるなかで、「『社会主義核心価値観』を読み解く」(麻生晴一郎)という中国情勢紹介記事に目が留まった。簡潔で分かり易い。が、やや違和感も禁じえない。

 世界情勢の中で俄然、存在感を増す中国。その政治思想を支えるのが、たった24文字の「社会主義核心価値観」だ。その内容とは? というリード。

 中国はスローガンのお国柄。至るところに、党や国家の政治スローガンが氾濫している。早川タダノリさんが紹介する戦前の日本も、空虚なスローガンに溢れた鬱陶しい社会だったようだ。何か、共通するものがあるのだろう。

 今、その多様な政治スローガンの頂点に君臨しているのが、12語(24文字)の「社会主義核心価値観」なのだ。この12語は、次のとおり3分類されるのだという。

 国家が目標とすべき価値:富強、民主、文明、和諧
 社会が重んじるべき価値:自由、平等、公正、法治
 個人の道徳規範の価値 :愛国、敬業、誠信、友善

 漢字2字の熟語だから、なんとなく分かるような気もする。おそらく、「富強」「愛国」などは、われわれのイメージと大きくは変わらないのだろう。「富国強兵」「忠君愛国」を連想させる。

 しかし、「民主」「自由」「平等」「公正」「法治」などは、われわれのイメージとはまったく違う。「はっきりしているのは、社会主義核心価値観が、中国で『普世価値(人類の普遍的価値)』と呼ばれることもある欧米中心の基準とは一線を画していることである」という。

 ならば、紛らわしい言葉遣いはきっぱりとやめて、正確に別の言葉を使うべきだろう。「民主」とは「専制」のこと。「自由」とは「一党独裁に従うべきこと」。「平等」とは「あらゆる格差を忍ぶべきこと」。「公正」とは党が全てを把握すべきこと。「法治」とは「党が恣に作る法による統治」である。

私の印象では、これは、「中国版・教育勅語」である。偉大なる党中央から、無知蒙昧な人民にたまわりし、ありがたくも、温情溢れたスローガン。こんなものは、自由とも民主主義とも、法の支配ともまったく無縁である。

というだけでなく、驚くべきは、「社会主義核心価値観」と言いながらも、「社会主義」の周辺にも当たるスローガンがない。

むしろ、党のホンネは、「七不講(チーブジャン)」にあるという。習近平体制になってから「党中央が各学校に対して通知した、七つの話してはならないこと」というが、「七つの禁句」と言った方が分かり易いだろう。(もっとも、いま、党は公式には否定しているという。)

禁句とされる「七不講」とは次のとおり。
(1) 人類の普遍的価値
(2) 報道の自由
(3) 市民社会
(4) 公民の権利
(5) 党の歴史的錯誤
(6) 特権資産階級
(7) 司法の独立

これにも、多少のコメントをしておきたい。
(1) 「人類の普遍的価値」と言えば、人権のことである。中国では人権は禁句なのだ。それはそうだろう。
(2) 「核心価値観」の中に「自由」はある。しかし、「報道の自由」という、党に不都合な自由は含まないのだ。
(3) 「市民社会」は、専制を倒した後の自由を基調とする社会。党の専制に抵触するのだろう。
(4) 「公民の権利」の最たるものは普通選挙である。人民の意を反映する選挙権を与えたら、全中国が香港化することになる。
(5) 「党の歴史的錯誤」が禁句なのは、文革も天安門事件もフランクに語る自信がないということなのだ。
(6) 「特権資産階級」が禁句なのは、「深刻な経済格差のなかで、特権的な資産階級が存在している」現実があるからにほかならない。
(7) 「司法の独立」は、選挙とともに法の支配の要である。司法が立法府や行政府、そして党の支配から独立していなければ、自由も民主主義も画餅に帰すことになる。「三権分立」も「司法の独立」もない社会は、市民社会成立以前の、非文明の専制社会と言わざるを得ない。

このような中国と、どのようにしたら共通の言葉で話ができるのか。麻生晴一郎論稿は、最後をこう結んでいる。
 「日本も含めて、さまざまな問題で中国政府に意見を述べ、働きかける際も、社会主義核心価値観など中国スタンダードの文脈の中で語らなくてはならない時代になっていくのではないか。そうしなければ、香港問題同様、中国政府は外からの声に聞く耳を持たない可能性が大きいのである。」

これに違和感がある。これは、対中国敗北の論理ではないか。人類史が積み重ねてきた叡智と知性の敗北でもある。中国とは、大いに対話をすべきであるが、卑屈で姑息な態度をとるべきではない。

聖火リレーの行き着く先は?

(2021年3月26日)
 ここ上野不忍池はかつての東叡山寛永寺境内の一隅。四季の移りの中で二度ばかりは、この地が極楽浄土となる。一度は盂蘭盆会を間近の蓮の華が咲き誇る頃。そして、もう一度が、花が咲きそろい鳥の鳴く頃。まさしく、本日のこの景色が極楽浄土さながらと言うよりほかはない。

 本日の早朝、空は飽くまで青く晴れわたり、風はそよやか。池の畔のソメイヨシノが今を盛りと咲き誇り、ちらほらと散り始め。これにベニユタカやシロタエが彩りを添えている。花は紅、柳は緑。弁天堂近くではウグイスの鳴き声。行き交う人はまばらで、甲高い外つ国の言葉は聞こえない。

 とは言え、この極楽、行き交う人々はまばらだが、皆マスクを着用している。一人の例外もなく。この世の現実から逃れられない極楽なのだ。

 東京オリンピックも、希望や理念を語りはするものの、コロナ蔓延の現実から逃れることができない。

 昨日から、聖火リレーが始まった。コロナ再感染第4波を押してのことである。初日から、火が消えて再点火するというアクシデントが2度。台風並みの風雨でも「絶対に消えない聖火」との触れ込みだったトーチの火が消えたのだ。本日(3月26日)には、火の消えたトーチのまま一区間が走られた。消えてはならない聖火が消えた。将来を暗示するものではないか。いや東京五輪の現実を語っているというべきか。

 聖火リレーは、フクシマから始まった。10年前地獄と化した原発事故の地。アンダーコントロールという、あの男のウソを改めて思い出す。そして、復興五輪というゴマカシも。東京五輪は、東北復興に水を差したではないか。それを糊塗するための見え透いた演出。

 政府は、「コロナに打ち勝った証しとしての東京五輪開催」と、まだ言っている。太平洋戦争も、原発依存の国策も、決定的な破綻に行き着くまで方向転換できなかった。東京五輪も同様なのだ。このままでは玉砕五輪とならざるを得ない。

 聖火リレーの出発式典で、大会組織委員会会長の橋本聖子は、「東京大会の聖火は、神聖で力強く、温かい光となって日本全国に一つひとつ希望を灯していってほしい」「日本と世界の皆さんの希望が詰まった大きな光となり、国立競技場に到着することを祈念する」「東北の人々の不屈の精神に心から敬意を表します」などと述べたという。

 はたしてこの火は、神聖だろうか。力強いだろうか。温かい光となるだろうか。全国に希望を灯せるだろうか。日本と世界の希望が詰まった大きな光だろうか。そもそも、無事に国立競技場に到着することができるだろうか。

 「東北の人々の不屈の精神に心から敬意を表します」は、意味不明である。私は、東北の出身者として、「打たれても、叩かれても、虐げられても、中央には文句の一つも言わない」と、蔑まれた思いを抱かざるを得ない。

 よく知られてるとおり、聖火リレーはヒトラー政権下の1936年ベルリン五輪から始まった。ファシズムの心理的演出手法として位置づけられたものである。

 極楽の風景もコロナの現実から逃れることはできない。聖火リレーのまがい物の希望も同様である。まずは、コロナ拡大のリスクを冒してまで、聖火リレーなどやる意味があるかを考えよう。聖火リレーも東京五輪も、腐敗した政権や政治家の野心が民衆を統制する演出に過ぎないというべきであろう。確かなのは、東京五輪が大企業の金儲けの手段となっていること。

 火は必ずしも聖なるものとは限らない。人家を焼く火災の火ともなり、おぞましい戦火とも、原発の核の火とも、煉獄の炎ともなる。コロナ禍のさなかに、Jビレッジを出た火は、途切れながらも、人から人へのリレーを重ねて行き着くところで、極楽の聖なる火となるだろうか、あるいは地獄の劫火となるのだろうか。

甲子園に流れた韓国語校歌の感動

(2021年3月25日)
 自分でも現金なものと呆れるが、かつては「春はセンバツから」が身体に染みついていた。母校が甲子園の常連校で常勝校でもあった頃のこと。今は、高校野球になんの興味もない。母校の野球部は廃部になってしまっている。だから、どこの高校が勝とうが負けようがどうでもよいことで、随分と紙幅をとっている毎日新聞のスポーツ欄は目障りなのだ。

 ところが、昨日の一戦だけは別。京都国際高校対柴田高校(宮城)の初出場対決。延長戦の末、5―4で京都国際が勝利した。その試合後に流れた校歌が「韓国語」だったという。同校は、現在はいわゆる「1条学校」だが、その前身は在日韓国人の学校。校歌は、昔のとおりのハングルの歌詞。球場の大型スクリーンには、ハングルの歌詞と日本語訳の両方が映し出されたと報道されている。これは、すてきなニュースではないか。

 私は、ナショナリズム一般の価値を認めない。ナショナリズムとは全体主義的統合機能をもつものとして危険であり、反価値でしかないと思う。しかし、特定の状況において、虐げられている人たちを鼓舞する抵抗のエネルギーの源泉としてであれば、その限りで評価を惜しまない。

 在日の人々が置かれている立場では、そのナショナリズムは尊重に値すると思うし、敬意を禁じえない。その在日のナショナリズムに寛容な日本社会であって欲しい。今、京都国際の野球部員は全員が日本人であるというが、彼らが抵抗なく韓国語の校歌を唱う図には、日本社会の寛容度を見直させるものがある。

 この校歌の歌詞を直訳すれば、「東海を渡りし大和の地は 偉大なわが祖先の昔の夢の場所」で始まるものという。「東海(トンへ)」とは、韓国でいう日本海のこと。韓民族が日本海を渡ってやって来た「ここ大和の地は、偉大なわが祖先の昔の夢の場所」という。「夢の場所」とまで言われた「大和」側の一人としては、気恥ずかしいほどの親日の歌詞。

 この校歌についての報道は概ね好意的である。「校歌が韓国語で何の問題があるのか」という主調。主催者も、メディアも、学校も、そして選手も、大らかに韓国語校歌を容認したのだ。その寛容さに拍手を送りたい。

朝日が、同校野球部のOBを取材してこんな記事を書いている。
「OBの李良剛(イヤンガン)さん(35)=東京都品川区=は手拍子をし、マスクを着けたまま小さく口を動かした。「韓国とか日本とかではなく、グローバルの時代。野球を通じて国境を超えて感動を与えてほしい」

 18年前の夏、京都大会の開会式で日本語と韓国語の両方で選手宣誓した。「魂(オル)・感謝(カムサ)・感動(カムドン)」。拍手が送られた。「高校野球に民族や国籍は関係ないと感じた。高校野球はいいなと思った」と振り返る。

 とは言え、まったく問題がなかったわけではない。非寛容な右派勢力が、「東海(トンへ)」に噛みついたのだ。地名は国際的に「日本海」が正しい。これを「東海(トンへ)」とはなにごとか。学校も怪しからんが、こんな歌を唱わせた主催者もおかしい、というわけだ。

 もっとも、このような事態は予想されたところで、球場の大型スクリーンに映された日本語訳は、「東海」ではなく「東の海」となっていた。「建国記念日」ではなく、「建国記念の日」とした妥協を思い出させる。

 おそらくは、学校は一定の譲歩をしたのだろうが、状況をよく見ての知恵と言ってよいだろう。無理なく、甲子園に、そして中継を通じて全国に、たくさんの祝福の笑顔に包まれて韓国語の校歌が流れたことの意味は大きい。こんなときだけは、日本人もなかなかのものだと思う。

 その折も折、米インド太平洋軍は24日、北朝鮮による弾道ミサイル発射に関する声明の中で、日本海を韓国式名称である「東海」と表記した。米政府はこれまで、日本海の表記を使用してきた。
 インド太平洋軍報道官のマイク・カフカ大佐は声明で「米国は北朝鮮による今朝の東海へのミサイル発射を認識している」と説明した。
 米地名委員会は、日本海を「通常」表記、東海などを「変異」表記と区別している。【時事】

 日・韓・朝、そして米。各国のナショナリズムの交錯が複雑で緊張感も高まっているる。日韓のナショナリズムの対峙は深刻にもなっている。しかし、在日の人々のナショナリズムを象徴する韓国語の校歌を、甲子園は笑顔で包んだ。私の母校とは無縁となった甲子園だが、たまにはよい風景も見せてくれるのだ。

「河井克行は離党させたのだから、もう自民党に責任はない」「アベ・スガ・ニカイに火の粉はごめんだ」

(2021年3月24日)
 河井克行という大規模公職選挙法違反事件の被告人は、元法務大臣である。まったく法務大臣として不適格なこの人物を特に選んで法務大臣に据えたのは、当時の腐敗政権を支えた安倍晋三と菅義偉だった。時の政権の腐敗を象徴する人事として、これ以上の「適材適所」はない。

 そして、この法無大臣に、巨額の河井案里選挙資金をつかませたのが自民党幹事長二階俊博である。河井克行の犯罪には、この黒幕3人組が深く関わっている。

 その河井克行が、昨日(3月23日)の公判廷で、これまでの無罪主張を翻して犯行を認め、議員辞職の意向を明らかにした。注目さるべきは、河井の今後よりは、河井の犯罪に深く関わっている黒幕3人組(ブラック・トライアングル)の責任の取り方である。

 そのブラックトライアングルの一角・二階俊博は、頭を捻って高等戦術に打って出た。23日の党会合で、幹事長として「党としても、他山の石として、しっかり対応していかなければ」と語ったのだ。

 河井事件を「他山の石」と言ってのけた狡猾さ。さすがに智恵者。さりげなく「河井事件は、自分の問題でも、自分たち自民党の問題でもない」と印象をふりまき、その上で、しかし「『他山の石』として教訓にしよう」と神妙なフリをして見せたのだ。

 うっかり聞いていると、「ああ、『他山の石』なのか、二階さんのことでも自民党のことでもない、他人・他党のことなんだ」と思わせる高等戦術。「たくさんの人に引っかかってほしい」という期待を込めた詐欺的言葉遣い。詐言・詐術と言ってもよかろう。

 だが、どうも評判は散々のようだ。これで国民を欺けると思うたは国民を甘く見るにもほどがある、という雰囲気。

 野党側は真面目に怒っている。二階批判は厳しい。「日本語を理解されていないのか、ちょっと意味不明の発言であり、まさに自民党のど真ん中で起きた事件だ」「自民党として、しっかり事件に対応しなかった」(立民・枝野幸男代表)、「他人と自分の区別もつかなくなったのか。他山ではなく、紛れもない『自山』だ」(共産・小池晃書記局長)

 一方、自民党の森山国対委員長は、「決して人ごとというふうには思っておられないんだと思います。今、自民党員ではないという意味でおっしゃりたかったのでは」と述べたという。これはなおさら悪い。

 不祥事を起こした政治家は離党させる。そうすれば全てが他人事になるというのだ。自民党時代の党が絡んだ不祥事も、離党させればもう他人事。自分のこととしての反省材料にはならないというのだ。森山説は、随分とはっきりそう言ったのだ。

 この二階・森山流の責任回避姿勢の姑息さは、二階の、いやトライアングルの傷口を広げる。不祥事あれば、率直に認めて真摯に反省の上、謝罪しなければならない。その上で、しかるべき具体的な措置に及ばなければならない。そ失せずに、姑息な策を弄しようとすれば、それこそ傷口はさらに深く大きくなる。このことを他山の石としなければならない。

権力の発動に異議を唱えた市民の訴えには、まずは共感の姿勢で耳を傾けよう。

(2021年3月23日)
 ややこしい話だが、新型コロナの蔓延に対応している法律の名称は、「新型インフルエンザ等対策特別措置法」である。昨年(2020年)3月、この特措法に新型コロナ対応を盛り込んだ改正を行って以来、この改正法を指して「新型コロナ特措法」などと呼ばれることもある。

 今年(2021年)2月3日に、その「新型コロナ特措法」が再改正されて、同月13日に施行となった。その改正部分に、知事の強制権限が盛り込まれている。知事は非常事態宣言の有無にかかわらず、「(コロナ蔓延の)予防的措置」として、飲食店等に対して時短や休業などを「要請」するだけでなく、「命令」を出せるようになった(同法45条3項)。命令に対する違反には、行政罰として30万円以下の過料という制裁が科されることにもなる(同法79条)。

 小池百合子都知事が、さっそくこれに飛びついた。3月18日、時短「要請」に応じなかった27店舗に午後8時以降の営業停止を「命令」したのだ。全国で初めてのことである。ところが、これを不服とする訴訟が提起された。知事としては、思いもかけないことであったろう。

 営業停止を「命令」された27店舗のうちの26店舗は、飲食チェーン「グローバルダイニング」が経営するもの。同社が東京都を相手に、処分取消の訴訟ではなく、国家賠償請求の訴訟を提起した。請求金額は、象徴的な意味合いの損害としてわずかに104円であるという。

 さて、この提訴。まだ訴状の構成の詳細は分からない段階でのことだが、基本的にどう評価すべきだろうか。いろんな考え方があるに違いない。「この非常時ではないか。時短要請に応じるべきが当然だろう」「要請に応じた店舗がほとんどなのだから、平等原則上原告は身勝手極まる」「行政裁量の壁を乗り越えられないだろう」「こういう訴訟は敗訴した場合のデメリットが大きい。こんな提訴をしてホントに大丈夫だろうか」「この店や弁護士のパフォーマンスが鼻について好感が持てない」…

 私は、この提訴を積極的に評価して、まずは歓迎したい。力の弱い者と強い者との軋轢があれば、取りあえずは弱い方に肩入れすべきが「正しい」態度であると私は思っている。労働者と資本、消費者と事業者、市民と警察、被疑者と検察官、女性と男性、野党と与党、患者と医師、そして国民と公権力、である。

 東京都の公権力発動に対して、権利の制約を受ける立場となる店舗が異議を唱えて司法の場で争おうというのだ。その意気やよし、とまずは歓迎すべきであろう。少なくも、その言い分に耳を傾けてしかるべきである。

 報道の限りでのことだが、グローバルダイニングの主張のキーワードは、二重の意味での「狙い撃ち」にあるようだ。一つは、都内で2000店舗以上が時短要請に応じてないにも拘わらず、命令の対象となったのはグローバルダイニングの店舗であつたこと。もう一つは、グローバルダイニングが行政指導に応じない考えなどをネット上で発信したことを理由に同命令を出したこと、だという。これを、「営業の自由(憲法22条)と表現の自由(21条)の保障、それに法の下の平等(14条)に違反している」と構成しているようである。

 グローバルダイニングは、東証2部への上場企業である。22日の終値248円が、23日には9時31分に、328円(+80円、+32%)のストップ高となった。これは興味深い。もしかしたら、このストップ高は、小池都知事への不快感の反映とも読めるのではないか。この先、注目せざるを得ない。

大石又七さんありがとうございました。

(2021年3月22日)
貴重な歴史の証人が失われた。第五福竜丸乗組員として「死の灰」の被曝を体験され、その体験を語り続けてこられた大石又七さんが亡くなった。享年87。

大石さんは第五福竜丸展示館を運営している公益財団法人第五福竜丸平和協会の評議員でもあった。昨日(3月21日)、協会の理事会で初めて訃報に接した。亡くなられたのは3月7日だという。

昨日、第五福竜丸展示館ホームページは、以下の「お知らせ」を掲載した。

第五福竜丸の乗組員として、ビキニ水爆実験に被ばくした大石又七さんが、去る3月7日に亡くなられました。
大石さんは、第五福竜丸の保存が実現し、夢の島公園に展示館が開館した数年後の1980年ごろから時折展示館を訪れていました。1983年に中学生に請われ自らの体験を語ったことを契機に、証言者として歩みはじめました。展示館への来館校が増える中で、クリーニング業を営みながら、断ることなく証言・講和に臨みました。また各地からも声にもこたえ、講演の数は700回を超えます。第五福竜丸を前にしては500回以上お話されてきました。

大石さんは、子どもたちに自らの体験を告げるだけでなく、核がもたらす身体的な被害や精神的苦しみ、差別や社会的な問題、そして核の現状などについて勉強を重ねていきました。1991年には公開された福竜丸被災に関する日米間の外交文書を読みこみ、水面下での政府間のやりとりも著作の中で紹介しています。ここにも「子どもたちに話すからには間違ったことは言えない」との大石さんの真摯な姿勢が感じられます。…

大石さんは、被ばくによる闘病から退院後、東京に出て辛苦を味わいながらも社会の理不尽さや不正を許さない実直な人柄とその行動が、多くの人から慕われました。
第五福竜丸平和協会は、大石さんの意思と行動を心として、核兵器も被ばく被害もない世界にむけて、第五福竜丸の航海を続けます。大石又七さんありがとうございました。

 「大石又七さんありがとうございました。」には、特別の実感がこもっている。23人の被曝乗組員の中で、大石さん以外に積極的な語り部はいない。その大石さんも、被災直後から体験を語りはじめたわけではない。30年ほどは、口をつぐんでいた。実は、被曝の体験を語るのは容易なことではない。大きな社会的圧力を乗り越えなければできないことのだ。

大石さんの著書、『ビキニ事件の真実 : いのちの岐路で』(みすず書房 2003年)の中に、次の一節がある。

 ここでまた運動とは逆行することも起こる。他船の被爆者たちの動きだ。俺たちもそうだったが、自分から被爆の事実を隠しはじめたのだ。
 当時、乗組員たちには最低補償も労働組合もなく、貧しいその日暮らしだった。補償金が出ないとなれば働かなければならない。うっかり話でもしたら足止めされ、出漁もできなくなる。出漁できなければ、明日から生活に困る。そのとき、体が動けば、自分から「被爆しました」などと言うばかはいない。
福竜丸のように騒ぎに巻き込まれれば、白い目で見られたうえに、差別もされるーそれは船元も同じだった。多くの船子を抱え、船をあそばせておくわけにはいかない。事件の波紋が大きくなるにつれ、みんな恐れをなして自分から隠しはじめたのだ。漁船の生活は船元・船頭を中心とした典型的なタテ社会である。特に焼津は、昔から身内で要職を固める一船一家主義の土地柄、上下関係にもきびしい世界だった。その下で働く漁師たちはたとえ意見を持っていても、従う以外に道はない。そして船という小さな枠で仕切られて、広い海にちらばっているのだ。

 やがて、乗組員の中からも事件を忘れさせようとする働きかけが始まる。気がつくと、福竜会という会報が一方的に送られて来るようになった。それは意外なもので、乗組員の発病や苦悩に対して助け合うものならともかく、「俺たちに近づいてくる者はみな共産系の者だ」「気をつけろ」などと口をふさぐものだった。そして、仲間が発病しても死んでも、「被爆とはもう関係ない、一般の病気だ」「第五福竜丸であるとか、元乗組員であるとか、そんなことはみんな忘れろ」「ずい分長生きさせてもらった、放医研の検査には協力しよう」『己のわがままで、どこかに不信の念ありとすれば、人間失格だ』とまで書いて、乗組員から不満が出ないようにした。元乗組員たちは元気な者ほど、今も口をつぐんだままでいる。

 被災体験の証言は、口を封じようとする圧力に抗してなされるのだ。屈することなく、その使命感から証言を続けてこられた大石さんに感謝せずにはおられない。亡くなられた今、大石さんが果たした役割の大きさを感じる。

なお、大石さんの著作は、『ビキニ事件の真実』以外に、下記のものがある。

大石又七著、工藤敏樹編『死の灰を背負って : 私の人生を変えた第五福竜丸』 新潮社 1991年
大石又七お話、川崎昭一郎監修『第五福竜丸とともに : 被爆者から21世紀の君たちへ』新科学出版社 2001年
大石又七『これだけは伝えておきたいビキニ事件の表と裏 第五福竜丸・乗組員が語る』かもがわ出版、2007年
大石又七『矛盾 : ビキニ事件、平和運動の原点』武蔵野書房 2011年

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