澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

私が出会った弁護士(その5) ― 佐藤邦雄

1977年8月、私は東京弁護士会から岩手弁護士に登録替えした。34才になる直前。弁護士経験は満6年余。自分としては、既に中堅弁護士としての力量を身につけているつもり。盛岡の中心部に位置する城趾と中津川を隔てたマンションの小さな2室を借りた。1室がマイホームとなり、もう1室が法律事務所となった。

盛岡は、私の故郷。母の生地でもあり、父の勤務地でもあった。四季折々に美しく穏やかな街。啄木や賢治が過ごした街でもある。ここで働くに当たって、若い私は張り切っていた。自分の力で、なにごとかをなす意気込みに溢れていた。

そんな私の最初の刑事事件が二戸市議選の選挙弾圧事件であり、民事事件としてはある組合の不当労働事件だった。もう40年も昔のことで正確には憶えていないのだが、少数組合を代理して会社に内容証明郵便を発送した。組合間差別に対する抗議と是正を求める内容だったと思う。誠実に団体交渉に応ぜよ、という内容でもあったと思う。

会社側から、「団体交渉はするけど、その前に会社の代理人弁護士と会っていただきたい」という要請があって、弁護士会で初めてお目にかかったのが、佐藤邦雄弁護士だった。当然のことながら、期前(戦後の司法修習制度開始以前)の長老弁護士。岩手弁護士会の重鎮であった。

私は、相手が重鎮だろうが権威だろうが気にしない。当時はよく回った口で、遠慮なく会社側の対応の不誠実さを難詰した。弁護士の指導も批判したと思う。しばらく私の話を聞いていた、佐藤弁護士はこう言った。

キミ、そんなに老人を苛めるもんじゃない。私は、明日、77才になるんだよ。いろいろ言い分のあることは分かった。急には無理だが、だんだん何とかなるだろうよ。

佐藤弁護士の物言いは、飄々としてトゲトゲしさのないものだった。気の利いた何かを言ったわけではないが、私が感じたのは、独特の風格だった。これが、重鎮といわれる弁護士の風格というものか。この交渉に陪席して、その後の実務を引き取ったのが、偶々東京でシビアな交渉相手となったことのある野村弁護士だった。私より3期先輩。

最初私は、佐藤邦雄さんを地元のブル弁(ブルジョワ弁護士)と規定したが、なかなか一筋縄ではおさまらない。けっこう仲良くなった。戦前の弁護士活動の話をよくしてくれた。それが、固有名詞の滑らかに出てくるみごとな話術なのだ。そして、昔の検事や判事がこんなに横柄でひどかったという話になる。とりわけ、我々の世代の知らない陪審裁判の話が興味深かった。戦前の盛岡地裁には、陪審専用法廷も、陪審員用の宿舎もあったという。そして、陪審員を説得して無罪を勝ち取った手柄話を実に楽しそうにした。

私にとって、佐藤邦雄さんが、いかにも戦前からの、弁護士らしい弁護士像となった。もちろん、保守の人。反体制ではないが、明らかに在野の筋をもっていた。当時、岩手弁護士会も、刑法改悪反対、スパイ防止法反対、拘禁二法反対などの運動に取り組んだ。重鎮たちの反対あればできなかったことだが、弁護士会が在野を貫く運動に、重鎮たちが異を唱えることはなかった。

そのころ、佐藤さんの「本職」は、ヤクルト・スワローズ球団の社長職にあった。広岡達朗監督で飛ぶ鳥を落とす勢いの球団を支えていたわけだ。念のために、ネットで調べると、佐藤社長の在職期間は、1973.2~1985.4、広岡監督の在任は1974 ~ 1979とのことである。嫌みのない球界裏話で、みんなを楽しませていた。

もう少し何かないか。ネットで見つかったのは、岩手高校の文化活動での講演会記録。1950年のこと、講演者は二人。金森徳次郎と佐藤邦雄弁護士である。金森徳次郎は、人も知る制憲議会での政府側答弁の立役者、おそらくはお二人で、若者に「新憲法」のなんたるかを語ったのだろう。

当時、岩手県全体で、弁護士数は30名余に過ぎなかった。佐藤弁護士とも何度かは事件の相手方になったが、自分で書面を書いたり、尋問することはなかった。それでも、佐藤弁護士がいれば、汚いことはしない、上手に落としどころを心得た和解にもっていってくれる。という信頼があった。これが、重鎮といわれる弁護士の風格というものであろう。

古きよき時代の、そんな弁護士らしい風格をもった弁護士、佐藤邦雄さん。最初に出会った頃の彼の年齢に私も近くはなったが、到底ああいう風格は身につけられない。

(2019年8月26日)

憲法と落語(その6) ― 「一眼国」が問いかける人権と差別

久しぶりに落語の話題、「一眼国」を取りあげたい。8代目正蔵(彦六)の持ちネタで、その語り口によく似合った噺。お白州物の範疇に入るのだろうが、考え方の虚を衝いて人権と差別を考えさせられる。

 昔は両国広小路が随一の賑わいで、回向院の周りには見世物小屋が並んでいた。てこへんな小屋も多く、「世にもめずらしい目が三つで、歯が二つの怪物」として客を呼び込み、下駄の片方を見せたり、大きな板に血糊を付けて「六尺の大イタチ(鼬)。あぶないよ」と言って見たり。赤子を食べる鬼娘なんていういかがわしいものまであった。

 両国で見世物小屋を持っている香具師が諸国を巡っている六部を家に上げて、旅の途中で見聞きした珍しい物や話を聞き出そうとする。その話をもとに本物を探し出し、見世物小屋に出して大儲けをしようという魂胆。六部は、いったんは思い当たることはないと言うが、別れ際に、一度だけ恐ろしい目にあったことを思い出したと、こんな話をする。

 巡礼の途中、江戸から北へ140から150里の大きな野原の真ん中の榎の所で一つ目の女の子に出くわして、ゾーッとしたという話。この話を聞いて喜んだ香具師は紙に書きとめ、お世辞たらたらで六部を送り出す。

 香具師は早速支度をして北へ、一つ目を探しに旅立った。夜を日に継いで、大きな原にたどり着く。見ると原の真ん中に一本の大きな榎。足を早め近づくと、話に聞いたとおりの「おじさ~ん おじ~さん」という子どもの声。

 「いいものあげるから、おいで おいで」と言って、そばへ寄ってきた子どもを抱え込む。びっくりした子どもが「キャ~」と叫ぶと、法螺や早鐘の音とともに、大勢が追って来る。

 子どもも欲しいが命が大事、子どもを放りだし一目散に逃げ出したが馴れない道でつまづき、捕まってしまう。代官の前へ引き出され、周りを見ると、みんな一つ目。

 代官の吟味が始まる。「これこれ、そのほうの生国はいずこだ。なに江戸だ。子どもをかどわかしの罪は重いぞ。面を上げい。面を上げい!」
 「あっ! 御同役、ごろうじろ。こいつ不思議だ。目が二つある」
 「調べはあとまわし。早速、見世物へ出せ」

我々は、二眼の国で暮らしている。一つ目も、三つ目もスタンダードから外れた異界の存在だが、一眼国では二つ目の人間が見世物になるのだ。

目の数の違いは、皮膚の色の違いに置き代えられる。白人の国では黒い人が珍しく、黒人の国では白い人が珍奇なのだ。キリスト教圏では仏教徒は化外の人で、日本の近世ではキリシタンは恐るべき罪人だった。古代ギリシャ人は、異民族をバルバロイと呼んで見下した。これは、「言葉の分からぬ野蛮人」なる意味だという。言葉が分からぬのはお互いさまなのに。

人と人とは、みんな違う。グループとグループも違う。違うことを認め合えば共存できるが、不必要に恐れたり、侮蔑したりすると軋轢が生じる。その状態が差別である。差別は容易に敵視に転化して、暴力行為にも発展する。

一つ目だって、二つ目だって、どちらでも不都合なことはない。他の人と違うことが、不幸の一つ目。そして、他の人と違うことがいたわられるのではなく、見世物の扱いを受けるということが不幸の二つ目。

この噺、最後をこう落としたい。
 「あっ! 御同役、ごろうじろ。こいつは不思議だ。
  貴公 目が二つあるな。いったい二つの目をどう使い分けておる?」
 「へい、一つは目の前のものを見、もう一つは忖度のために上ばかりを見続けております」
 「なに? 忖度とな。そちらが忖度専用の目であるか。これは珍しい。我が国にはなきもの。やはり調べはあとまわし。早速、見世物へ出せ」
(2019年8月25日)

今日は、終日ノモンハンの草原で風に吹かれている。

1975年発刊の五味川純平「ノモンハン(文芸春秋社)の帯に、本文の一節を引用して、次の記載がある。

著者は言う―自分の戦争年間の体験を歴史の時間的順序に配列し直してみて気づいたことは、ノモンハンの時点に、その後数年間の日本の思い上りや、あがきが、集約的に表現されていたことである。ノモンハン事件は、小型「太平洋戦争」であった。ノモンハン事件は太平洋戦争の末路を紛うことなく予告していたのである。ノモンハン事件をあるがままに正当に評価すれば、それから僅か2年3ヵ月後に大戦に突入する愚を日本は冒し得なかったはずであった。
 ノモンハン――みはるかす大平原に轟いた砲声は、日本にとっては、運命が扉を叩く音であった。日本の指導者たちはそれを聞きわける耳を持たなかった―と。

これは、名文である。戦後になってからだが、ノモンハン事件の重大さを、多くの人が漠然と感じていた。その重大さの本質を的確に表現した一文。ノモンハンの時期は、第2次大戦の直前に当たる。日本は、ソ連と、本格的近代戦の予行演習をしたのだ。五味川は、それを「小型太平洋戦争」と表現した。

その予行演習で、日本軍は手痛い敗北を喫した。それでも、その教訓を生かすことのないまま、英米蘭との開戦に踏み切り、310万人の死者を出して、太平洋戦争を終えた。五味川は、あとがきでこう記している。

  ノモンハン戦失敗の図式は三年後のガダルカナル戦失敗の図式に酷似している。特に作戦指導部の考え方において、そうである。作戦指導の中枢神経となった参謀二名が両戦に共通しているからでもあろうが、当時の軍人一般、ひいては当時の日本人一般の思考方法が然らしめたものであろうか。先入主に支配されて、同じ過誤を何度でも繰り返す。認識と対応が現実的でなく、幻想的である。観測と判断が希望的であって、合理的でない。反証が現われてもなかなか容認しない。

五味川のノモンハン作戦指導部に対する評価は厳しい。
「前線将兵は奮戦しても、後方に在る高級司令部の戦闘構想と戦力補給の関係は画餅に近いものがあった。国が貧しいといえば、すべてそこに起因するが、出来ることまで出来ていないのは、戦争そのものを組織する能力が乏しかったとしか考えられない」。「日ソ両軍の間には・・・戦闘を組織的に遂行するための配慮の密度に甚だしい差があり、戦闘の予備段階で既に直接に勝敗を分つほどの懸隔があった」「この考え方の安易さと粗末さは、これが軍事のプロかと呆れるばかりである」。

「参謀たちは性懲りもなく敵の兵力使用を低く見積っていた。戦って失敗すると、敵の兵力が意外に大きかったという」「この思い上がった愚かしさは、ほとんど理解の外である」「日本軍は、一度やって失敗したことを、同じ方法、同じ兵力で、二度三度やろうとした。他に手がないから仕方がないというのでは、近代的な戦闘を組織することはできないのである」。

こうして、死なずに済んだはずの兵士に代わって、五味川は、高級参謀たちの無能と怠惰を切歯扼腕する。そのとおりだと思いつつ、違和感も禁じえない。戦史を読むときに、いつも感じる違和感。では、もっとセオリーに忠実に、もっと巧妙に、もっと戦意を昂揚して戦闘すべきだったのかという違和感。戦闘に負けたことが責められるべきことで、勝っていればよかったのか。

五味川のノモンハン事件に対する総括的な評価として、国家の面目にかけて、不毛の地の寸土を争い、夥しい鮮血が砂漠に吸い込まれた」という一文がある。これには違和感がない。戦争自体が愚行なのだ。責任を負うべきは、戦闘を起こしたことであって、けっして負けたことではない。

ソ連を相手に近代戦争のなんたるかを知った旧軍が、なぜ、もっと大きな規模で同じ過ちを繰り返して、壊滅的な敗北に至ったか。ノモンハンの現地に行っただけでは分かるはずもなかろうが、考えるきっかけくらいにはなるだろう。

今日は一日ノモンハン。ハイラルから、200~250キロの距離だという。
(2019年8月24日)

ソ満国境で兵役に就いていた、私の父のこと。

本日(8月23日)が、ノモンハンへの旅の2日目。早朝、空路北京から内蒙古のハイラルに飛ぶ。ここが、ノモンハン事件を主導した第23師団司令部があったところ。39年5月の第小規模な1次衝突も、6月からの大規模な戦闘も、師団長(小松原道太郎中将)が、東京の陸軍省、参謀本部の紛争不拡大方針の指示を無視して、現地の判断で決行したものだという。

師団司令部遺跡では、当時の遺品を展示しているという。また、師団司令部だけでなく、旧日本軍の要塞址やハイラル神社も残っているそうだ。本日は、一日ハイラルを見学してハイラル泊となる。

ところで、五味川純平の力作「ノモンハン」の冒頭に、戦場となったノモンハンの風景が、次のように描写されている。

戦場となったノモンハン付近は、満州の西北、興安北省(旧称)が外蒙古と境を接するあたりの砂漠と草原の大波状地帯である。大小の砂丘が無数に起伏している。雑草や低い潅木群が点在するほかは空々漠々としている。戦闘は、日を追って、砂丘地帯と草原と若干の湖沼地帯にわたって展開された。
 気の遠くなるような広さである。見渡す限り平原がひろがっている。単調そのものである。徒歩行軍する部隊にとっては、この単調はやりきれない。早朝野営地を出発するときから、その日の夕刻に到着する地点が見えている。これが、歩いても歩いても距離が縮まらない。兵隊の俗語に「顎が出る」という表現がある。重い装具を背負い、太陽に灼かれ、汗の塩を吹き出しながら、いっこうに近づかない目標を怨めしげに見て歩くのは、確かに顎が出る仕事である。
 後方基地であるハイラルから戦場までは約200乃至250キロ、ソ連側は最も近い鉄道沿線のボルジヤまたはヴィルカから約750キロ、外蒙内の補給基地サンベースからは約450キロである。ソ蒙側に較べてこの補給距離の短いことが、関東軍が作戦を有利と誤判する一因であった。距離差など問題にならない補給力のいちじるしい差をやがて見せつけられることになる。

 愛琿(アイグン)に近かったという私の父の駐屯地も、こんなところであっただろうか。何度も聞かされた、父の話がある。岩手で育った父にとってもソ満国境の冬はとてつもなく寒かった。オンドルを焚いた部屋で窓を開けると、冷たい外気が室内の水蒸気を一瞬で凍らせて、部屋の真ん中に数センチの雪が積もるのだという。

また、現地で満月を2度見たそうだ。満州の月は大きい。盆のような月ではない。それこそタライのような満月だった。それが、地平線から出て、地平線に沈むのだと。

その父が、戦地から新婚の妻(私の母)の許に、こまめに絵入りのハガキを書き続けていた。達者な筆で、墨の濃淡を描き分け、現地の風景や人物、兵隊の暮らしぶりを描いていた。

ノモンハン事件のあと、関東軍は南進論に転じて、戦友の多くは南方に送られて多くが戦死したという。父は、運良く召集解除となって帰宅し、その後2度まで招集されたが、いずれも内地勤務で、終戦は弘前で迎えた。

幸いなことに、父には実戦の経験はない。「たった一度、『明日にも、敵がソ満国境を越えて来襲するという情報がある。戦闘態勢につけ』という通知をもらったことがある。緊張この上なかったが、なにごともなくホッとした」。父にとっては、直接には戦闘の悲惨に遭わず、戦争とは軍隊生活のことだった。懐かしい想い出の一齣のようだった。隊内での演芸会やら、素人芝居やらを、楽しげに語ったことがある。戦後、父はときどきは生き残りの戦友会にも出かけた。

これに較べると母は、心から戦争を憎む様子だった。「戦争は身震いするほどイヤだ」「戦争中よいことなど一つもなかった」と繰り返し言っていた。母の妹は、夫を戦争で失っている。戦争を懐かしそうに語る男たちを、身震いするほどにイヤな奴と思っていたのではなかろうか。
(2019年8月23日)

いざ、モンゴルの大平原へ。ノモンハンへ。

本日(8月22日)、私は内蒙古ハイラルへの旅の途上である。帰京は8月28日夕刻の予定。おそらく、ハイラルでお分かりの方は少なかろう。ノモンハンの近くの街である。戦前、このハイラルに第23師団の本部があった。そして、その近くの満州と蒙古との国境紛争がこじれて、日本とソ連との本格的な近代戦となった。これが、ノモンハン事件。あるいは、宣戦布告なき「ノモンハン戦争」である。

事件は、ちょうど80年前の1939年5月に小規模な現地の衝突から始まる。一旦終熄するが、6月再び大規模な空爆・空中戦・戦車戦となり、9月まで続いて日本軍は手痛い敗北を喫した。このわずかの期間に、日本軍は2万を超す戦死者を出している。双方の死者総数は4万余。大会戦だったといえよう。ソ連側の指揮官が高名なジューコフであった。その戦跡を見学する旅なのだ。

話の始まりは、例によって、ある日吉田博徳さんからお電話をいただいたことにある。「澤藤さん、ノモンハンに興味がありませんか?」と言われる。イエスと答えれば、「では、ぜひご一緒しましよう」となることを承知で、私は「イエス」と答えた。その結果として、本日私は北京に飛んでいる。盧溝橋の戦争博物館を見学して一泊。明日からの3泊4日が、ハイラル・ノモンハンの旅となる。その後北京に泊して、帰京は8月28日の予定。

「ノモンハン・イエス」と答えたには、幾つかの理由がある。
私の父は、招集されて関東軍の兵士となった。ソ満国境の兵営で2年近くを暮らしている。除隊時には叩き上げの曹長だった。駐屯地は愛琿(アイグン)の近くの小さな街とのことだったが、それより詳しいことは分からない。ノモンハンは愛琿の近くとは言い難いが、亡父の過ごしたあたりの風景や空気を感じることができるのではないか。

ノモンハンの戦闘にも興味がある。維新後の日本は、戦争では基本的に成功体験を重ねた。日清・日露そして日独の戦争。その成功体験が日中戦争では、思わぬ長期戦となり、ノモンハンではソ連を相手に明らかな失敗体験となった。にもかかわらず、天皇制日本はこの失敗体験を生かすことなく、対英米開戦に突き進んで、壊滅的な敗戦に至る。いったい、なぜ?

モンゴルの大草原をこの目で見たい。風に吹かれてもみたいという望みもある。吉田さんはいう。「モンゴルの草原の広さはとてつもないものですよ。どこまで行っても、いつまで走っても、まったく景色が変わらない」。日本の景色を箱庭という、その感覚の拠って来たるところを実感してみたい。

そして、最後が吉田さんのお誘いである。これは断れない。吉田さんは、ノモンハン事件の直後、ハイラルの23師団に就役して歩兵連隊の小隊長として2年を暮らしたという。元気なうちに、ハイラル・ノモンハンをもう一度、よく見ておきたいという。98才の吉田さんがそうおっしゃるのだ。「お供します」というほかはないではないか。
(2019年8月22日)

この悲劇 繰り返しはせぬ ― 朝鮮人犠牲者追悼式典にご参加を

関東大震災96年 朝鮮人犠牲者追悼式典
日時 2019年9月1日(日) 午前11時~
都立横網町公園(東京都墨田区横網2丁目3番25号)
 交通 JR総武線「両国駅」西口 徒歩7分 
    都営地下鉄・大江戸線「両国駅」A1出口 徒歩2分

 1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災による大混乱・不安の中で「暴動が引き起こされている」「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「朝鮮人が襲ってくる」などといった流言飛語が飛び交い、軍・警察・自警団など人の手によって多くの朝鮮人・中国人そして日本の社会運動家が虐殺されました。
 しかし、政府は今もなおこの事実を明らかにせず、加害責任を自覚さえしていません。アジアの平和と安定に寄与することを願い、震災における犠牲者の追悼とこのような歴史を繰り返さない決意をこめて追悼式典を開きます。

 主催 9・1関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式典実行委員会
     (事務局 日朝協会東京都連合会)

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 9月1日に東京都内で営まれる関東大震災(1923年)の朝鮮人犠牲者の追悼式典をめぐり、実行委員会が8日、小池百合子東京都知事に宛てて、式典に追悼文を送るよう求める要請文を提出した。小池氏は2年続けて送付を見送っており、取材に対して「昨年と同じ」と話し、今年も送付しない考えを示した。(8月9日 朝日)
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今年も9月1日が近づいている。私が名付けた「国辱の日。1923年9月の関東大震災後に、日本人が無辜・無抵抗の朝鮮人・中国人を集団で虐殺した、その虐殺事件を国辱と呼んでいる。今なお、「そのような虐殺事件はなかった」「朝鮮人の暴動が先行した」という歴史修正主義者たちが、国辱の上塗りをしているのが情けない。

その国辱上塗りグループに加担しているのが小池百合子・東京都知事。今年も、9月1日の朝鮮人慰霊式典に知事は追悼文を送らないという。このポピュリスト政治家は、追悼文など送らなくても次の知事選には影響がない、そう高をくくっているのだ。

東京・横浜だけでなく、関東全域に無数に組織された「自警団」という「普通の日本人集団」が、無抵抗の人々を撲殺したり刺殺したのだ。この無理無体は、到底文明人のできることではない。その野蛮極まる集団虐殺行為を「国辱」と言わざるを得ないではないか。

先日、この件について詳しいジャーナリスト・加藤直樹氏の講演を聞いた。語り口が明快で分かり易く説得力に富む内容だった。その彼が、講演の最後に、なぜ当時の日本人が朝鮮人を殺せたかについて、「三つの論理」を述べた。これが印象に深い。

三つの論理とは、差別の論理」「治安の論理」「軍隊の論理」だという。
「差別の論理」とは、当時の日本人が抱いていた朝鮮人に対する差別観である。日本人の根拠のない優越意識、謂われのない蔑視の感情が、容易に朝鮮人の人格の否定にまでつながる社会心理を醸成していた。

次いで、治安の論理」である。このとき、朝鮮現地での3・1独立運動の大きな盛り上がりから4年後のこと。日本人は、蔑視だけでなく、朝鮮人に対する「反抗者」としての恐怖の感情も併せ持っていたであろう。朝鮮人に対する、過剰な警戒心をもっていたであろう。

さらに、軍隊の論理」である。市井の人が殺人を犯すには、あまりに高いハードルを越えなければならない。しかし、軍隊の経験を経ている者は、人を殺すハードルを乗り越えている。自警団の中心にいたのは、実は在郷軍人会など元軍人であった。しかも、彼らは、シベリア出兵(1918~)、3・1独立運動弾圧(1919~)、間島出兵(1920)など、ゲリラ掃討の名目で住民虐殺を経験してきたのだという。

あらためて、次の言葉を噛みしめる。

 一人一人の兵士を見ると、みんな普通の人間であり、家庭では良きパパであり、良き夫であるのです。戦場の狂気が人間を野獣にかえてしまうのです。このような戦争を再び許してはなりません。(村瀬守保)

 いったん戦場の狂気に囚われた多くの人が、戦場から離れて日常生活に戻ったあとに、非常時の「狂気」によって再びの「野獣」に化したということなのだろう。

 「差別の論理」「治安の論理」「軍隊の論理」は、いずれも戦争を準備する「論理」として、平和のために克服しなければならない。とりわけ、日韓関係が軋んでいる今なればこそ。

心ある人びとに、9月1日の朝鮮人犠牲者追悼式典ご参加を呼びかけたい。
(2019年8月21日)

鴻毛より軽い責任感の希薄さ。田島道治「拝謁記」に見る天皇の「肉声」

「朕は汝ら軍人の大元帥なるぞ」「上官の命令を承ること、実は直ちに朕が命令を承ることと心得よ」「義は山嶽より重く死は鴻毛より軽しと心得よ」。これが、「朕」が兵士に下した軍人勅諭の一節である。230万人もの「兵」が、この勅諭にしたがって、鴻毛より軽い死を余儀なくされた。

一方、上から目線で勅諭をたれた「朕」の責任はどうだったか。古来戦のあとには、敗軍の将は死をもって敗戦の罪を贖った。兵を語らず、言い訳をすることなく。敗戦時自決した軍人は少なくない。そんな政治家もあった。自決は忌むべき野蛮な風習だが、自己を一貫するための痛ましい選択であったことは、理解し得ないではない。それほどにも、自らの責任の重さを感じていたということなのだ。最高責任者である「朕」の場合はどうだったのか。ヒトラー・ムッソリーニと並び称されたヒロヒト本人に、いったいどれだけの責任の自覚があったか。

「朕」は、230万の英霊だけにではなく、「朕」のために犠牲になった民間人80万人に対しても、アジア太平洋戦争で皇軍によって殺戮された2000万人の人の死にも責任を取らねばならない。その責任の重さ心苦しさには計り知れないものがあるに違いない。そう考えるのが常識というもの。いや、下々の浅知恵というもの。

初代宮内庁長官田島道治の「拝謁記」公開が話題となっている。昭和天皇(裕仁)の「生の声」が甦ったとされる。NHKは、番組のサブタイトルに「語れなかった戦争の悔恨」とつけた。さぞかしの、慚愧・苦悩・悔恨の「肉声」かと思いきや、何のことはない。責任転嫁・見苦しい弁明をしようとして、許可されなかったというだけのこと。

彼がいう「反省」とは、「軍も政府も国民もすべて下剋上とか軍部の専横を見逃すとか皆反省すればわるい事がある」などいう程度のもの。「国民皆に反省すべき悪い点があった」とは、「私だけじゃない」という開き直りの弁明。これを毎日社説は「天皇から国民や他国への謝罪というより、日本人全体が軍の独走を止められなかったことを皆で「反省」しようという趣旨のように読める。」という。そのとおりだ。

それだけではない。朕」は、再軍備と憲法改正の必要性にまで、言及していたのだ。およそ新憲法の精神を理解せず、君主意識をもったまま。主権が国民に移行した意味すら、分かってはいなかったのだ。

「英霊」諸氏よ。武器も食糧もなく戦場をさまよって餓死した英霊の諸氏よ。特攻という名の自殺を強いられた英霊の諸氏よ。あなた方に死を命じた人は、このような、この程度の人物なのだ。

とりわけこう言っていることが驚きではないか。

「責任を色々とりやうがあるが地位を去るといふ責任のとり方は私の場合むしろ好む生活のみがやれるといふ事で安易である」

これは、サンフランシスコ平和条約の調印が翌月に迫った1951年8月のこと。「退位したら、『私の場合むしろ好む生活のみがやれる』『むしろ楽』」と考えていたのだ。これが、多くの人を死に追いやった人の発言だろうか。こんな人物のために多くの人が殺し合い、尊い命を失った。

この「朕」の信じがたいほどの無責任ぶりをいかがお考えだろうか。都合の悪いことは国民に知らせず、ベールに包まれた一握りの権力者による忖度の政治。権力や権威に対する批判の言論が封じられた政治の行き着く先が、このような無責任の横行なのだ。実体のないものを有り難がったり、畏れいったりすることをやめよう。昔のこととして看過せず、今の教訓として、よく噛みしめようではないか。
(2019年8月20日)

デマとヘイトとスラップのDHCに、あらためて不買運動で制裁を。

DHCのヘイト体質が、韓国で話題になっている。
DHCとは、
 デマ
 ヘイト
 カンパニー
これに、スラップが加わって三拍子揃った、稀有な右翼企業。

そのDHCの子会社DHCテレビジョン(会長・吉田嘉明)が、8月14日ホームページに以下の声明(抜粋)を発表した。

韓国メディアによるDHC関連の報道について

 去る8月10日より数日間、韓国の放送局「JTBC」はじめ複数の韓国メディアによって、弊社製作の番組について、「嫌韓的」「歴史を歪曲している」などの批難報道が繰り返されている件、同時に、韓国内でDHC商品への不買運動が展開されている件につきまして、弊社の見解を申し上げます。

 弊社、株式会社DHCテレビジョンは、2015年、親会社である株式会社ディーエイチシーの提供を受け、「真相深入り! 虎ノ門ニュース」などのニュース解説・言論番組の配信を開始しました。
 この放送事業は、平和な民主主義国・日本における、いっそう自由な言論空間を具現すべく、従来のメディア等が「タブー」としてきた事柄含め、多角的にニュースを論じることを旨としております。当然のこととしまして、世界中の政治・経済、宗教など多岐にわたるトピックを扱う際、番組と出演者が、独自の見識、視点から、時折厳しく、内外の事象、人物へ批判を加える場面もあります。
 今般、韓国のメディアから弊社の番組内容に対し、「嫌韓的」「歴史を歪曲している」などの批難が寄せられていますが、弊社としましては、番組内のニュース解説の日韓関係に関する言説は、事実にもとづいたものや正当な批評であり、すべて自由な言論の範囲内と考えております。韓国のメディア各社におかれましては、弊社番組内容のどこがどう「嫌韓的」かどこがどう「歴史を歪曲」しているのかを、印象論ではなく、事実を示し具体的に指摘いただけましたら幸いです。
 一方、番組内容と無関係なDHC商品について、韓国の誠信女子大学の徐敬徳教授を中心に、「#さよならDHC」なる不買運動が展開されていることは大変遺憾に存じます。
 言うまでも有りませんが、韓国DHCが提供する商品やサービス、現地スタッフと、DHCテレビの番組内容とは直接何ら関係はありません。そうした常識を超えて、不買運動が展開されることは、「言論封殺」ではないかという恐れを禁じ得ません。
 しかしながら、DHCグループは今後も、健全なビジネス環境の土壌となる「自由で公正、多様性を尊ぶ」社会の維持・発展に寄与すべく、自由な言論の場づくりを有意義と考え続けます。
 その理念のもと、弊社DHCテレビジョンといたしましては、あらゆる圧力に屈することなく、自由な言論の空間をつくり守って参りたく存じます。

 この声明で、DHCに何が起こっているのか、DHCが何を恐れているのか、よくお分かりだろう。スラップ常習企業として知られるDHCが、自分の言論に対する攻撃には「言論封殺」と言って非難しているのが嗤うべき事態である。

問題は、真相深入り! 虎ノ門ニュース」である。

リテラが、手際よく解説してくれている。これを引用させていただく。

発端は、韓国の放送局・JTBCのニュース番組が今月10日、「韓国で稼ぎ、自国では嫌韓放送…DHC“2つの顔”」と題し、DHC子会社のDHCテレビジョンが嫌韓放送をおこなっていると伝えたことだった。

 本サイトでは何度も取り上げてきたが、化粧品やサプリメントを主力商品とするDHCの吉田嘉明会長は、極右・歴史修正主義をがなりたてている企業経営者のひとり。2016年には「DHC会長メッセージ」のなかで在日コリアンにかんするデマを書き立てた上で〈似非日本人はいりません。母国に帰っていただきましょう〉などとヘイトスピーチを堂々と掲載したこともある。

 さらにDHCは、子会社としてDHCテレビジョンを擁し、安倍応援団がこぞって出演する『ニュース女子』や『真相深入り!虎ノ門ニュース』などの番組を制作、ここでも韓国や沖縄などに対するヘイトデマを垂れ流している。

私も、これまでDHCや吉田嘉明の酷さは、繰り返し書いてきた。下記を参照されたい。
http://article9.jp/wordpress/?cat=12

DHCがいう「いっそう自由な言論空間を具現すべく、従来のメディア等が「タブー」としてきた事柄含め、多角的にニュースを論じることを旨としております。」とは、「良識を大胆にかなぐり捨て、メディアの世界の規範を大きく逸脱することを厭わず、通常のメディアではとても口にできないヘイトの言論を重ねることによって、野放図で無規律なネトウヨ言論空間を具現することを旨としている」ということなのだ。

ヘイトをウリにしておいて、攻撃されると「当社番組内容のどこがどう「嫌韓的」か、どこがどう「歴史を歪曲」しているのかを、印象論ではなく、事実を示し具体的に指摘いただけましたら幸いです」と開き直るのは見苦しい。

極端な嫌韓ヘイト体質のDHCが、韓国に支社を置いて業務を行っていることは知らなかった。なるほど、韓国で稼ぎ、自国では嫌韓放送…DHC“2つの顔”」なのだ。韓国での事業に差し支えが生じるのは必然である。二つの顔が両立するものと考える神経が理解し難い。当然に起こるであろう不買運動を止めることはできない。実力での業務妨害をともなわない限り、不買運動が違法になることはない。もちろん犯罪にもならない。

日本国内でも、DHCの不買運動提唱は以前からある。私も呼びかけている。が、その影響の有無や程度はよく分からない。この際に、再度日本の消費者に呼びかけたい。日韓の消費者が連携して、デマとヘイトとスラップのDHCに制裁を加えようではないか。

『表現の不自由展』再開署名の第2次集約のお願い

「あいちトリエンナーレ2019」『表現の不自由展・その後』企画展の再開を求める署名の第2次集約は、8月26日(月)到着分までです。未署名の方は、次のいずれかの方法でよろしくお願いします。

●ネット署名の場合
下記URLの署名欄に記入のうえ、「送信」をクリックください
よかったらメッセージもお願いします
→  http://bit.ly/2YGYeu9

●用紙署名・郵送の場合
署名用紙を http://bit.ly/2Ynhc9H からダウンロードし、下記へ郵送ください
→ 〒285-0858  千葉県佐倉市ユーカリが丘2-1-8  佐倉ユーカリが丘郵便局 局留
表現の自由を守る市民の会 醍醐 聰 宛

なお、第一次署名は6,691筆を、8月15日、大村秀章実行委員長(愛知県知事)と
河村たかし実行委員会会長代行(名古屋市長)に提出しました。

(2019年8月19日)

安倍改憲阻止のために(その2)

8月17日学習会の続きです。事前のご注文が下記のとおり。
第1 改憲の危機・情勢等
第2 立憲主義・個人の尊厳等
第3 天皇代替わり関連のこと

「第1 改憲の危機・情勢等」は、昨日のブログに。以下は、その続きです。

第2 立憲主義・個人の尊厳等
1 近代憲法の根源的価値は、人権(個人の尊厳)です。この公理を揺るがせにしてはなりません。
人権という法概念は、市民社会が生み出した歴史的所産で、様々な人権のカタログと、その再整理の方法が提案されています。
自由権・平等権・参政権…社会権・受益権・平和的生存権など

2 憲法の形(イメージ化) 人権第一主義の立場から
近代憲法は「人権宣言(人権カタログ)」と「統治機構」の両部門から成ります。「人権」という価値本体を、この価値を損なわぬよう権力分立という原理を持つ「統治機構」が支えています。
⇒近代立憲主義に適合の構図
自由主義(国民の自由を国家機構が侵害してはならない)

3 さらには、自由主義を基本としつつ、
⇒現代立憲主義
福祉国家主義(国家機構が、国民の福祉増進の役割を持つ)

4 立憲主義とは、一面権力行使を正当化し、一面権力行使の限界を画するために、憲法を制定するという考え方。欽定憲法とも相性はよく、戦前もてはやされた。
天皇主権下では、民主主義という言葉は使えない。主要政党は政党名に「立憲」を冠しました。(立憲政友会・立憲改進党・立憲革新党・立憲国民党・立憲帝政党)
寺内正毅は、憲法に忠実でないことで、「ビリケン(非立憲)宰相」「ビリケン内閣」と揶揄された。旧憲法にも、不十分ながら、権力を分立して人権を擁護する側面はあったわけです。
日本国憲法下では、久しく立憲主義が大きな話題となることはなかった。護憲運動の側から、立憲主義を掲げ、マスコミもこれに呼応するようになったのは、安倍政権成立以来のこと。権力の主体が改憲に性急な事態を、立憲主義の基本に立ち帰って、「憲法とは、主権者国民が発した、権力者に対する命令である」「その命令に縛られる立場の権力者が、憲法を気に染まぬとして改正しようとは自己矛盾」と批判しました。

5 日本国憲法の基本性格と改憲問題の構図
日本国憲法は不磨の大典ではありません。もちろん、理想の憲法でもない。
飽くまで、歴史的な所産として、
「人類の叡智の結実」の側面を主としてはいるが、
「旧制度の野蛮な残滓」をも併せもっています。
すべての憲法条文は普遍性をもつとともに、特異な歴史性に彩られてもいます。
憲法のすべての条文は、歴史認識を抜きにして語ることができません。
☆戦後の革新勢力は、憲法をあるべき方向に変える「改正」の力量を持たない。
さりとて、「改悪」を許さないだけの力量は身につけてきました。
これが、「護憲」「改憲阻止」という革新側スローガンの由来です。
☆政治的なせめぎ合いは、いずれも革新の側が守勢に立たされています。
「改憲(憲法改悪)阻止」と「壊憲(解釈壊憲)阻止」

第3 天皇交代における憲法問題
1 いったい何が起きつつあるのか。
4月1日 元号発表
4月末日 天皇(明仁)退位
5月1日 新天皇(徳仁)即位 剣爾等承継の儀(剣爾渡御の儀)
10月22日 安倍晋三が発声する「テンノーヘイカ・バンザイ」の笑止千万
11月13日~14日 宗教行事としての大嘗祭のおぞましさ
国民主権原理違反と、政教分離原則違反と。

2 憲法における天皇の地位
天皇とは、日本国憲法上の公務員の一職種であって、それ以上のものではありません。象徴とは、なんの権限も権能も持たないことを消極的に表現するだけのもので、象徴から、何の法律効果も生じません。
本来、「天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ」だけのもので、国事行為の外に「象徴としての行為」や「天皇の公的行為」を認めてはなりません。
天皇の地位は、「主権の存する日本国民の総意に基づく」ものであって、主権者である国民の意思によって天皇の地位を廃絶しうることは、もとより可能です。  憲法改正の限界に関しては諸説あるものの、天皇・天皇制を廃止しうることは通説です。また、皇位継承法である皇室典範は一法律に過ぎず、国会が改廃しうることに疑問の余地がない。現行憲法においては、「天皇は神聖にして侵すべからざる」存在ではありません。

3 憲法体系の中で、天皇の存在は他の憲法価値と整合しない夾雑物です。
憲法自身がその99条で憲法尊重擁護義務を負う公務員の筆頭に天皇を挙げているところであって、憲法解釈においても、人権・国民主権・平和等の憲法上の諸価値を損なわぬよう、天皇や天皇制をできるだけ消極的な存在とすることに意を尽くさなければなりません。

4 近代天皇制とは、国民統治の道具として明治政府が拵えあげたものです。旧憲法時代の支配者は、神話にもとづく神権的権威に支えられた天皇を、この上なく調法なものとして綿密に使いこなし、大真面目に演出して、国民精神を天皇が唱導する聖戦に動員しました。
そこでの政治の演出に要求された天皇像とは、神の子孫であり現人神でもある、徹底して権威主義的な威厳あふれる天皇像でした。「ご真影」(油絵の肖像を写真に撮ったものでホンモノとは似ていない)や、白馬の大元帥のイメージが臣民に刷り込まれました。
天皇の権威は、教場と軍隊とで、国民に刷り込まれた。
教育勅語と軍人勅諭。「上官の命令は天皇の命令」。

5 敗戦を経て日本国憲法に生き残った象徴天皇制も、国民統治の道具としての政治的機能を担っています。しかし、初代象徴天皇は、国民の戦争被害に責任をとろうとはしなかった。戦争責任を糊塗し、原爆被害も「やむを得ない」とする無責任人物としての天皇像。それが、代替わり後次第にリベラルで護憲的な天皇像にイメージを変遷してきた。
現在、国民を統合する作用に適合した天皇とは、国民に親密で国民に敬愛される天皇でなくてはなりません。一夫一婦制を守り、戦没者を慰霊し、被災者と目線を同じくする、「非権威主義的な権威」をもつ象徴天皇であって、はじめてそれが可能となります。憲法を守る、リベラルな天皇像こそは、実は象徴天皇の政治的機能を最大限に発揮する有用性の高い天皇像なのです。これを「リベラル型象徴天皇像」と名付けておきましょう。
国民が天皇に肯定的な関心をもち、天皇を敬愛するなどの感情移入がされればされるほどに、象徴天皇は国民意識を統合する有用性を増し、それ故の国民主権を形骸化する危険を増大することになります。天皇への敬愛の情を示すことは、そのような危険に加担することにほかならないのです。

6 天皇代替わりにおける政教分離違反問題
☆政教分離とは、象徴天皇を現人神に戻さないための歯止めの装置です。
「国家神道(=天皇教)の国民マインドコントロール機能」の利用を許さないとする、国家に対する命令規定です。
・従って、憲法20条の眼目は、「政」(国家・自治体)と「教」(国家神道)との「厳格分離」を定めたもの
・「天皇・閣僚」の「伊勢・靖國」との一切の関わりを禁止している。
・判例は、政教分離を制度的保障規定とし、人権条項とはみない。
このことから、政教分離違反の違憲訴訟の提起は制約されている。
・住民訴訟、あるいは宗教的人格権侵害国家賠償請求訴訟の形をとる。
☆運動としての岩手靖国訴訟(公式参拝決議の違憲・県費の玉串料支出の違憲)
靖国公式参拝促進決議は 県議会37 市町村1548
これを訴訟で争おうというアイデアは岩手だけだった
県費からの玉串料支出は7県 提訴は3件(岩手・愛媛・栃木)同日提訴
☆訴訟を支えた力と訴訟が作りだした力
戦後民主主義の力量と訴訟支援がつくり出した力量
神を信ずるものも信じない者も 社・共・市民 教育関係者
☆政教分離訴訟の系譜
津地鎮祭違憲訴訟(合憲10対5)
箕面忠魂碑違憲訴訟・自衛隊員合祀拒否訴訟
愛媛玉串料玉串訴訟(違憲13対2)
中曽根靖国公式参拝違憲国家賠償訴訟
滋賀献穀祭訴訟・大嘗祭即位の儀違憲訴訟
小泉靖国公式参拝違憲国家賠償訴訟
安倍首相靖国公式参拝違憲国家賠償訴訟

7 天皇交代劇に見る国民主権と主権者意識の実態。
※日本の民主主義思想と実践は、天皇制と対峙して生まれ天皇制と拮抗して育った。
※日本国憲法における天皇とはロボット(宮沢俊義)です。
※象徴天皇制を支える小道具の数々
元号・祝日・「日の丸・君が代」・叙位叙勲・恩赦・賜杯・天皇賞・恩賜公園…

(2019年8月18日)

安倍改憲阻止のために(その1)

※はじめに
本日(8月17日)の学習会。ご指定のタイトルが、「改憲阻止のために」。
そして、次のテーマに触れるよう、事前のご注文をいただいています。
第1 改憲の危機・情勢等
第2 立憲主義・個人の尊厳等
第3 天皇代替わり関連のこと

以上の第1が、「憲法をめぐる政治情勢」。第2が「憲法の構造をどう理解するか」という基本問題。そして、第3が象徴天皇制をめぐるトピックのテーマと理解して、報告を進めます。

なお、かなり長いので、第1を本日(8月17日)、第2・第3を明日(8月18日)の各ブログにアップいたします。

第1 改憲の危機・情勢等
1 憲法をめぐる大状況
実は、改憲の危機はこれまで常にあったし現にある、と言わねばなりません。日本国憲法成立以来、憲法は一貫して危機にあったのです。
自民党が、「自主憲法制定は結党以来の党是」としている如く、戦後の保守政権は、一貫して憲法を敵視し、あわよくば改憲を狙い続けてきましました。
ほぼ一貫して、このような保守政権を支え続けてきたのが国民であり、また、改憲策動を許さず、憲法を守り抜き、定着させてきたのもまた国民です。
改憲反対の側から見れば、保守が邪魔とする憲法であればこそ、護るべき意義があると言えると思います。

2 安倍政権の改憲志向
その保守のホンネを語る貴重な文化財が自民党改憲草案(12年4月27日)です。そのようなホンネを恥ずかしげもなく実現しようとする真正右翼・改憲主義者が政権を把握しました。それが、安倍晋三です。
安倍政権とは、
国家主義・軍事大国主義・歴史修正主義・新自由主義を理念とし、
「親大日本帝国憲法・叛日本国憲法」路線の政権です。

3 「安倍改憲」提案の経過
☆安倍ら改憲派にとっては、明文改憲が必要なのです。戦争法(安保関連法)はようやく成立させたけれど、憲法9条の壁を乗り越えられず、「不十分なもの」にとどまっている。「フルスペックの集団的自衛権行使」はできないままとなってる。今のままでは、同盟国・アメリカの要請に応じての海外派兵はできない。だから、何とかしての「9条改憲」なのです。
☆しかも、改憲ができそうな情勢ではありませんか。改憲派が、各院の3分の2を超える議席をもっている。今のうちなら、改憲の現実性がないとは言えません。
☆2017年5月3日 安倍は、右翼改憲集会へのビデオ・メッセージを送り、同時に読売新聞紙面で、「アベ9条改憲」を提案します。ご存じのとおり、現行の9条1項2項には手を付けず、そのまま残して、「自衛隊を憲法に明記するだけ」の改憲案です。この改憲を実現して、2020年中に施行するというのです。
☆実は、その種本は、日本会議の伊藤哲夫「明日への選択」に掲載された論文です。
彼は、一方では、「力関係の現実」を踏まえての現実的提案としていますが、もう一つの積極的な狙いを明言しています。「護憲派の分断」という戦略的立場です。
つまり、これまでの護憲派の運動は、「自衛隊違憲論派」と「自衛隊合憲(専守防衛)派」の共闘で成立している。この両者の間に楔を打ち込むことが大切だというのです。
☆その1年後の2018年3月25日、自民党大会がありました。予定では、この大会までに党内意見を一本化して、華々しく9条改憲を打ち上げる手筈でした。何とか、改憲原案については党内の「憲法改正推進本部長一任」までは取り付けましたが、全然盛り上がらない。現実には4項目の「たたき台・素案」作成にとどまるものでした。
☆その後速やかに、改憲諸政党(公・維)と摺り合わせ→「改正原案」作成、の予定とされていましたが、現在与党内協議さえ、まったく緒についていない現状です。
☆当初は、2018年秋の臨時国会にも、「改正原案」上程の予定でした。
衆院に『改正原案』発議→本会議→衆院・憲法審査会(過半数で可決)
→本会議(3分の2で可決)→参院送付→同じ手続で可決
『改正案』を国民投票に発議することになる。
☆60~180日の国民投票運動期間を経て、国民投票に。
国民投票運動は原則自由。テレビコマーシャルも自由。
有効投票の過半数で可決。
☆「安倍のいるうち、両院で3分の2の議席あるうち」が、改憲派の千載一遇のチャンスなのです。裏から見れば、安倍を下ろすか、各院どちかでも3分の2以下にすれば良い、と言うことなります。
☆そのような視点からは、2019年7月の参院選→改憲派の3分の2割れは由々しき事態です。しかも、自民は9議席減らして、相対的に公明の発言力が強くなっていますが、その公明が世論の動向を気にして、改憲協議に応じようとはしないのです。
☆しかも、現在、衆参両院の憲法審査会は機能していません。これを無理やり動かそうとした下村博文が、却って与野党の関係者から批判を浴びている現状です。大島衆院議長を批判した萩生田光一も肩身の狭い思いを強いられています。

4 「安倍9条改憲」の内容と法的効果
★「自民党改憲草案・9条の2」は、「我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高指揮官とする国防軍を保持する。」という勇ましいものです。自衛隊ではなく、堂々の国防軍をもちたいのです。これが、安倍晋三のホンネ。
★さすがにそれは無理。「たたき台素案・9条の2」はこうです。「前条(現行憲法9条)の規定は、我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つために必要な自衛の措置をとることを妨げず、そのための実力組織として、法律の定めるところにより、内閣の首長たる内閣総理大臣を最高指揮官とする自衛隊を保持する。」
☆安倍改憲では、堂々の国防軍は持たない。「自衛のための実力組織」としての自衛隊しか持ちません。しかし、よく読めばお分かりのとおり、9条1項2項の規定はそのまま置かれることにはなりますが、新しい定義の自衛隊を持てるというのです。これは、現行の9条を死文化することになります。自衛隊の中身は、時の多数派の意向次第。
「従って、本来ないはずの軍事力」が明文で合憲化されます。軍事の公共性が認められることにもなります。自衛隊員募集協力への強制や、土地収用法・騒音訴訟・戦争被害賠償訴訟にも、沖縄・辺野古基地関連訴訟にも大きく影響します。
☆しかも、戦争法を合憲化し、集団的自衛権行使が可能となり、海外派兵も容易になります。

5 緊急事態条項の危険性
制憲国会での金森徳次郎の次の答弁が示唆的です。
「緊急事態条項は、権力には調法だが、民主主義と人権には危険」

だから、新憲法には、緊急事態条項を盛り込まなかったのです。

権力と民主主義、調法と危険は、相反するのです。

(2019年8月17日)

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