本日(1月17日)は、小平で「吉田博徳さんの出版記念と白寿を祝う会」に出席した。吉田さんは、1921年6月23日のお生まれ。今年(2010年)の誕生日で満99歳となる。少し早めだが、仲間が集まっての白寿を祝う会である。しかも、99歳にして単著の上梓である。重ねての目出度さ。
長寿と健康は、人皆が等しく望むところ。喜寿も米寿も目出度いが、親しい人の白寿のお祝いは、なかなかあるものではない。盛会の末席にあるだけで、慶賀のお裾分けという気分。
吉田さんは、1921年大分県で生まれ、6歳のとき一家で朝鮮(全羅北道金堤邑)に移住している。地元の金提尋常高等小学校を経て京城師範学校を卒業、1941年長安国民学校教師となった。世が世であれば教師だったはずが、翌年招集されて都城に入隊。次いで、ノモンハン事件直後の満州ハイラルに配属となる。そして1945年大分陸軍少年飛行兵学校で終戦を迎えた。
戦後福岡地方裁判所に就職し、労働運動に身を入れる。全司法労働組合中央執行委員として専従活動家となった。全司法労働組合中央本部書記長から,伝説の闘争を担った委員長となる。その後、日朝協会、原水禁、平和委員会で活躍。小平市長選挙にも立候補している。私とは、日民協でのお付き合い。
その多忙な活動の人生で、齢をとることを忘れてしまったのだろう。とても90代の人とは思えない。姿勢も、足取りも、発声もしっかりしたもの。お話しの論理に破綻がない。矍鑠という言葉はこの人にためにつくられたとさえ思わせる。高齢となってもこうでありたい、というお手本のような人。一部では「怪物」ともささやかれている。
今日の吉田さんは、挨拶に立って朝鮮語の歌を唱った。10歳の頃に朝鮮で覚えた、少年と少女の,春の喜びの歌だという。伸びやかで、実に楽しそうな唱いぶりだった。
その人が、昨年、地元小平で2回の連続講座「日本と朝鮮の2000年」を実施し、この連続講座の原稿を出版した。吉田さんは、「われわれは日本史の中で、近現代史をキチンと学んでいない」「日本の学校教育は、日本が朝鮮に何をしてきたかを教えていない」「日朝関係の歴史は、近現代だけでなく、古代からの通史として学び直す必要がある」という。その言を実践したのが、本日(2010年1月17日)発行の「日本と朝鮮の2000年ー日本と朝鮮の歴史を正しく知ろう」である。中学生にも分かるように、との注文で執筆されたという。著者の息遣いが、聞こえてくるような書となっている。
発行は,小平の「学びあい支えあう会」。本文300頁で、頒価は1300円だが、郵送料込みだと1500円となる。
以下、この書物の広告から引用する。
…日本と朝鮮の歴史は学校教育のなかで正しく教えられていません。
…朝鮮は日本に最も近い国ですし、最も長い交流の歴史をもっている外国なのですから、日本と朝鮮の歴史を知ることは、日本人と朝鮮人との真の友好関係を築き、北東アジアの平和と安定のために不可欠なことです。
少年期、青年期を現地で学び教師として働いた経験を持つ白寿の著者が、労働運動、市民住民運動、平和運動を通じて得た、日朝の真の友好とは何かを提示する。中学生にもよくもわかる「講演」の記録。
申込先 「学びあい支えあう会」
奥 泉 二士夫 090-3806-8440
穂 積 健 児 090-3572-8445
川 村 征 治 090-8589-2660
小 嶋 弘 遵 090-3045-3735
吉田さん、次は何歳のお祝いをしましょうか。
(2020年1月17日)
例年、総理大臣・安倍晋三の仕事始めは伊勢神宮参拝からである。今年も例外ではない。ゴルフ休み明けの伊勢神宮。総理大臣が特定の宗教施設に公然と参拝する。東京在住の安倍晋三が町内の神社に初詣するのとはわけが違う。天皇の祖先神を祀るとされている神宮に、わざわざ公費で出かけるのだ。もちろん、違憲。
いささかなりとも憲法感覚の持ち合わせがあれば、やるべきことではない。メディアも世論ももっと敏感に、安倍を批判しなければならない。立憲民主党も、国民民主も真似をせぬ方がよい。政権を担ったら、絶対やってはいけない。
わが国の政教分離とは、権力と神道との危険な癒着を厚い壁で隔てることを言う。ここで言う神道とは、天皇を神にまつりあげた国家神道の基礎となった宗教をいう。国家が再び天皇を神とし、神なる天皇というこの上なく重宝な政治的道具を利用させぬための歯止めである。
そのような意味で、憲法の政教分離規定が最も警戒する宗教施設が二つある。1番が伊勢神宮で、2番が靖国神社である。伊勢は天皇の祖先神を祀るのだから、天皇の政治的利用を嫌う憲法の立場からは、政教分離と言えば、まずは政権と伊勢神宮との関係を問題とする。この両者を隔絶しなければならないのに、何と無神経な安倍晋三。
そして2番目の靖国神社は、皇軍将兵の戦没者を神として祀る軍事的宗教施設である。これも天皇の神社だが、なによりも軍国主義の精神的主柱とされた。だから、皇軍の侵略を受け、あるいは植民地化された近隣諸国の目は厳しい。靖国に首相や天皇の参拝あれば、厳しい外圧を覚悟しなければならない。
伊勢への首相の参拝は、外圧は小さいが、これこそ厳格な政教分離の対象なのだ。私は毎年このことを指摘してきた。最近のものは下記のURLでお読みいただけたら、ありがたい。
総理大臣・安倍晋三の仕事始めは伊勢神宮参拝から
https://article9.jp/wordpress/?p=11847?? (2019年1月5日)
伊勢神宮での内閣総理大臣年頭記者会見
https://article9.jp/wordpress/?p=7939 (2017年1月5日)
新年の伊勢神宮「公式参拝」、そこで首相が祈願したこと
https://article9.jp/wordpress/?p=6176? (2016年1月6日)
今年は天皇交替で元号変更後の新年だが、今年の伊勢での安倍晋三年頭記者会見は精彩がない。批判をするにも面白みに欠ける。そこで、衆議院のホームページに掲載されていたこんな質問主意書と答弁書を取りあげたい。
2018年1月22日提出の質問趣意書。提出者は立民の逢坂誠二議員。表題が「安倍総理の伊勢神宮参拝に関わるLINEでの発信に関する質問主意書」というもの。
「平成三十(2018)年一月四日、首相官邸のLINEの公式アカウントで安倍総理は、「安倍晋三です。伊勢神宮に向かう道中、新幹線から美しい富士山が見えました」(「本発言」という。)と発信している。
静粛な環境の下、歴代の総理大臣が年頭にあたり伊勢神宮に参拝することは、社会通念上、国民に受容されていると考えられるものの、その行動を首相官邸のLINEの公式アカウントで告知することは、伊勢神宮の活動に関する助長、促進につながるものと考える。
このような観点から、以下質問する。
一 歴代の総理大臣が年頭にあたり宗教施設である伊勢神宮に参拝することは、社会通念上、国民に受容されていると考えているのか。政府の見解如何。
二 本発言が発信されることで、伊勢神宮への参拝者が増加し、特定の宗教施設の活動を援助、助長、促進するものではないのか。政府の見解如何。
三 本発言をLINEで発信することは、「昭和四六(行ツ)六九 行政処分取消等」(最高裁判所大法廷判決 昭和五十二年七月十三日)でいうところの、「当該行為の目的が宗教的意義をもち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為」に該当し、日本国憲法第二十条に反するのではないか。政府の見解如何。
四 静粛な環境の下、内閣総理大臣が年頭にあたり伊勢神宮に参拝することは、社会通念上、国民に受容されていると考えられるものの、その行動を事前に、首相官邸のLINEの公式アカウントで告知することは、伊勢神宮の活動に関する助長、促進につながり、不適切ではないか。政府の見解如何。
逢坂議員の人柄については、予てから信頼に足りる政治家という好印象が強い。しかし、「静粛な環境の下、内閣総理大臣が年頭にあたり伊勢神宮に参拝することは、社会通念上、国民に受容されていると考えられる」は、私見と大きく食い違う。曖昧な「国民意識の受容」をもって軽々に憲法原則を曲げてはならないと思う。また、質問内容もものたりないとは思う。それでも、果敢にこのような趣意書を発信して答弁を引き出している姿勢は評価したい。
なお、引用されている「昭和四六(行ツ)第六九号・行政処分取消等請求上告事件」は、津地鎮祭訴訟のこと。(行ツ)は、行政訴訟上告審の事件番号に付する符号。民事訴訟ではなく、行政訴訟としての住民訴訟だった。名古屋高裁の住民側勝訴判決を逆転し、厳格分離説を排斥して政教分離の規準として目的効果論を採用した判例として知られているもの。
衆議院議員逢坂誠二君提出安倍総理の伊勢神宮参拝に関わるLINEでの発信に関する質問に対する答弁書
一について
内閣総理大臣が私人としての立場で行う伊勢神宮参拝については、政府として立ち入るべきものではないことから、お尋ねについてお答えすることは差し控えたい。
二から四までについて
お尋ねの「発信」又は「告知」は、それ自体宗教的意義をもつ行為ではなく、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるようなこともないことが明らかであることから、「日本国憲法第二十条に反する」及び「不適切」との御指摘は当たらないと考えている。
ニベもない答弁書である。質問の一部に対しては、「安倍晋三の伊勢神宮参拝は『私人としてのもの』だから政府は関与しない」という。また、LINEでの告知は、目的効果基準からは許されるとしている。しかし、安倍晋三は、肩書を記帳し、随員を同道し、公用車も使い、列車にも公費で乗車している。玉串料だけは私費で支出しているというが、それなら問題ないということにはならない。
下記は、天皇と首相の靖国神社公式参拝を違憲とした岩手靖国訴訟仙台高裁判決(1991年3月1日)の判示の一節である。
「天皇及び内閣総理大臣の靖国神社公式参拝は,その目的が宗教的意義をもち,その行為の態様からみて国又はその機関として特定の宗教への関心を呼び起こす行為というべきであり,しかも,公的資格においてされる公式参拝がもたらす直接的,顕在的な影響及び将来予想される間接的,潜在的な動向を総合考慮すれば,前記公式参拝における国と宗教法人靖国神社との宗教上のかかわり合いは,憲法の政教分離原則に照らし,相当とされる限度を超えるものであり,憲法20条3項が禁止する宗教的活動に該当する違憲な行為である」
目的効果基準を前提としてなお、「直接的・顕在的な影響だけではなく、将来予想される間接的・潜在的な動向、波及的効果までを総合考慮する」ことによって、政教分離違反・違憲と断じている。安倍晋三は、この判決の「靖国神社」を「伊勢神宮」と読み替えて、よく理解してもらわねばならない。
(2020年1月7日)
78年前、1941年の12月8日も、今日と同じく寒気厳しく東京の空は抜けるように高く澄んでいたという。その日、午前7時のNHK臨時ニュースの大本営陸海軍部発表で国民は「帝国陸海軍が本8日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」と初めて知らされた。日中戦争膠着状態の中での新たな戦線の拡大である。これを、多くの国民が熱狂的に支持した。
この日国民はラジオに釘付けになった。正午に天皇(裕仁)の「宣戦の詔書」と東條首相の「大詔を拝し奉りて」という談話が発表され、午後9時のニュースでの真珠湾攻撃の大戦果(戦艦2隻轟沈、戦艦4隻・大型巡洋艦4隻大破)報道に全国が湧きかえった。そして、この日から灯火管制が始まった。
戦争は、すべてに優先しすべてを犠牲にする。78年前には気象も災害も、軍機保護法によって秘密とされた。治安維持法が共産党の活動を非合法とし徹底して弾圧した。情報は大本営発表だけに統制され、宣戦布告を「大詔渙発」として天皇を国民精神動員に最大限利用した。こんな歴史の繰りかえしは、金輪際ごめんだ。
今朝は7時のラジオニュースを聞きながら、布団のなかでぬくぬくと「平和」を満喫した。軍機保護法も治安維持法もない。共産党も公然と政権の「桜を見る会」の疑惑を追及している。これが安倍晋三が脱却を目指すとしている「戦後レジーム」なのだ。
安倍晋三が取り戻そうとしている日本とは、「大本営発表の世界」ではないか。78年前のこの日の宣戦の詔書は、早朝の閣議で確認されたもの。その閣議には、安倍が尊敬するという祖父・岸信介が商工大臣(在任期間1941年10月18日?43年10月8日)として加わっていた。そんな日本の取り戻しなど許してはならない。
戦争は教育から始まる。戦争は秘密から始まる。戦争は言論の統制から始まる。戦争は忖度メディアの煽動から始まる。戦争は排外主義から始まる。戦争は民族差別から始まる。戦争は、軍備増強競争の悪循環から始まる。戦争は過剰なナショナリズムから始まる。ナショナリズムは「テンノウヘイカ・バンザイ」から始まる。戦争は議会制民主主義の堕落から始まる。
そして、新しい戦争は過去の戦争の教訓を忘れたところから始まる。「日の丸・君が代」を強制する教育、外交・防衛の秘密保護法制、そしてヘイトスピーチの横行、歴史修正主義の跋扈は、新たな戦争への準備と重なる。集団的自衛権行使容認は、平和憲法に風穴を開ける蛮行なのだ。
平和憲法を破壊しようという危険な政権、しかも、腐敗の極みの安倍政権をいつまでものさばらせてはおけない。12月8日の今日、改めて強くそう思う。
(2019年12月8日)
11月28日付で、下記のブログを掲載した。
ホテルでのDHC製品不使用のお願い― 「DHCスラップ訴訟」を許さない・第165弾
https://article9.jp/wordpress/?p=13858
その内容は、私が宿泊した「KKRホテル博多」の備品にDHCの製品が使われていたことを不快として、同ホテルの支配人宛にDHC製品ボイコットを要請した依頼文である。
これに早速の反応があって驚いた。ホテルの支配人からの返答ではなく、「同様のことを同時期に私もしました」という、なんとも嬉しい下記のご連絡をいただいたのだ。
澤藤 統一郎様
突然のご通知をお許し下さい。これまで、澤藤さんの東京地裁でのDHCスラップ裁判のほとんどを傍聴してきた者です。
さて、私も2019年11月28日付けの「憲法日記」のブログの内容と同じことをしました。
11月25日大阪梅田の大阪東急REIホテルに1泊したのですが、女性客への特典アメニティとしてDHCのモノが配られていました。このホテルのアンケートにDHC吉田がやってきたことを書き、今後DHCのモノは配らないように、使わないようにと書いておきました。
ホテル業界からDHCを葬ってやりたいものと思います。東急ホテルズが、あの『ゴートーケイタ』と呼ばれた五島慶太の悪辣さを今も引きずっているなら、このままかもしれませんが、DHCは使わないようにと声をあげることは大切なことと思います。
少しでも安ければそれだけでよいという業界も業者も数多くあります。私の居住地に展開している「地域生協」でも、これまで『DHC製品2割引』などという販促キャンペーンを繰り返しやっていましたが、その都度、DHCの悪行を強く本部に伝えてきました。そのためか、最近はDHC販促キャンペーンがチラシに載らなくなった気がします。
あらゆるところからDHCを駆逐するように、声を上げたいと思います。多くの日本人は、自分が感じる、『おかしい』、『へんだ』、『それは悪いことだ』という思いを、表に出しません。おそらくは、その場の空気を読むように巧妙に作られてきた教育システムと社会慣習のシステムによるものでしょうね。
感じたこと、言いたいことを素直に口に出せば、『発達障害』とされてしまいかねないこの日本では、声をあげることが一苦労ではあるのですが。
ところで、この度の「アベ桜」の問題。今度こそはアベ政権を蹴散らしたいと思っています。「森友」と「加計」と「桜」、二重にも三重にも、懲らしめなければなりません。とにかく、アベを辞めさせなければなりません。
お騒がせしました。November 30,2019
私は、ブログにアップした文章をプリントアウトして郵送した。この方は、ホテルのアンケートに対する回答に、「DHC吉田がやってきたことを書き、今後DHCのモノは配らないように、使わないようにと書いておきました」というのだ。
このようなDHCを糾弾する顧客の声を、ホテルというサービス業者が無視することはできない。「デマとヘイトとスラップのDHC」を追い詰める手段は裁判だけではない。自分が感じる、『おかしい』『へんだ』『それは悪いことだ』という思いを、日々率直に表現していくことこそが大切なのだと思う。
(2019年12月2日)
今の時代、はたして「表現の自由」というものが保障されているのだろうか。忌憚なく、誰もが必要な表現をしているのだろうか。
いつの時代にも、完全な「表現の自由」の保障は夢想に過ぎず、「表現の自由」とは常に不自由を強いる様々な勢力とのせめぎ合いの渦中にある。そのように理解はしているが、ほかならぬ今が、表現に覚悟が必要な時代となってしまっているのではないか。個人の言論についても、メディアの報道についても。そして、報道の自由を通じての国民の知る権利も危ういのではないか。
今さらいうまでもないが、表現の自由とは、毒にも薬にもならぬことを述べる自由ではない。「天皇と皇后の笑顔がステキでした」とか、「安倍首相のリーダーシップで日本経済は活況を取り戻した」「掲揚台の日の丸に感動しました」「日本チームのメダル獲得を祝します」「うちの社長は、日本一」などのおべんちゃらを述べることの「自由」を、「権利」として保障する必要はない。それは、安全地帯でのおしゃべりに過ぎず、法が関わることではない。
表現の自由が保障されるべきは、「天皇は、無数の無辜の民を死に至らしめたことの責任に無自覚ではないか」、「元徴用工問題についての、安倍政権の請求権協定解釈は根本的にまちがっている」「日の丸・君が代は、皇国日本の軍国主義・侵略主義の象徴としてとうてい受容できない」「うちの社の宣伝は大ウソだ。効かないサプリをさも効くように印象操作している」という、権威や権力あるいは社会的強者に対する批判の言論である。謂わば、毒を含む言論。批判される対象にとっての毒であればこそ、社会にとっての薬にもなり得る。
河村たかし名古屋市長は、「どう考えても日本人の心を踏みにじるもの」と「表現の不自由展・その後」の展示を非難した。しかし、まさしく「日本人の心を踏みにじる表現」こそが、権利としての自由を保障されなければならない。
天皇という権威、内閣という権力、与党という政治権力、企業という社会的権力、圧倒的多数派の同調圧力…。これら強者に対する批判が、貴重であり不可欠であるがゆえに、その自由が保障されなければならない。
とは言うものの、そのような言論には、ビビリがつきまとう。ビビリを断ち切っての、ある種の覚悟がなければ,真に必要な表現ができない。なにしろ、今の世の言論状況は、天皇・皇族に対する歯の浮くような,あるいは舌を噛みそうな過剰敬語が氾濫し、ナショナリズムの昂揚にも歴史修正主義の横溢にも無批判で、「日本素晴らしい」一色。明らかに、権威や権力批判をビビらせる状況が蔓延しているのだ。
しかし、今ビビってはならない。ビビって一歩を譲ることは、ビビらねばならない状況をさらに一歩分拡大することになる。生理学に、廃用性機能障害という概念がある。生体の使わない機能も臓器も衰退するのだ。同様に、表現の自由を行使しないことは、表現の自由に、廃用性の機能障害をもたらす。だから、ビビらずに表現を続けねばならない。
昨日(11月5日)の朝日が、「主戦場、上映中止覆した叫び『ビビリは検閲加担と同じ』」という記事を出した。「ビビリは検閲加担と同じ」とは、厳しい言葉。
KAWASAKIしんゆり映画祭は4日夜、ドキュメンタリー「主戦場」が上映され、閉幕した。川崎市の懸念を受け、開幕時点では上映が見送られることになっていたが、映画関係者らから抗議の声が上がったため、一転して上映する運びとなった。上映に先立ちあいさつしたミキ・デザキ監督は「日本の表現の自由の大勝利だと思っている」と語った。
ジャーナリストで映画監督の綿井健陽氏が「(恐怖による)『ビビリズム』が中止の理由にどんどん使われている。それは検閲に加担することと同じだ」と指摘。また、映画監督のジャン・ユーカーマン氏は自粛が繰り返されることによる危険性を指摘、「自己検閲や忖度というかたちで制作側が空気を読むようになってしまう」と訴えた。
ビビリが高じると忖度となる。忖度に慣れて、長いものに巻かれていれば気は楽だ。逆に、意地を通せばまことに窮屈だ。表現の自由を行使するとは、敢えて意地を通して窮屈を求めることでもある。とかくに住みにくい人の世を、これ以上に窮屈で過ごしにくくせぬように、いま、ビビリと忖度を克服して表現しなければならない。そのように実践している人びとも少なくないのだ。
そう考えたら、足下の落ち葉がかさこそと鳴って返事をした。「そうだよ。そうだよ。そのとおりだよ」と。
(2019年11月6日)
第50回司法制度研究集会へのお誘い
司法制度研究集会は、今年第50回を迎えます。
50年前の1969年は、自衛隊の違憲性を問う長沼ナイキ基地訴訟が提起され、担当の福島重雄裁判官に対する裁判干渉の書簡が平賀健太札幌地裁所長から渡される「平賀書簡事件」が起こり、政治権力と最高裁が一体となって、憲法を守ろうとする全国の裁判官を攻撃する「司法の危機」と呼ばれる一連の出来事が始まった年でもありました。
あれから50年。いまの司法はどうなっているでしょうか。「司法の危機」の影響は形を変えながら根強く残ってはいないでしょうか。昨年の司法制度研究集会は、「国策に加担する司法」を告発しましたが、司法・裁判官は独立して職権を行使し、立憲主義・人権の砦の役割、戦争の惨禍を二度と繰り返させない役割を果たしているでしょうか。その役割を果たさせるために、法律家は何をすべきでしょうか。
第50回の節目にあたり、司法の問題を皆で考えていく出発点にすることを願い、これまで日本民主法律家協会が主催してきた集会を、今年は、法律家3団体と全司法労働組合の共催で行うこととし、準備を重ねてきました。
50年前を知る弁護士から若手の弁護士、元裁判官、研究者など、多彩な報告者・発言者から多面的な問題提起をしていただきます。ぜひご参加下さい。共に考えましょう。
日 時■2019年11月23日(祝・土)午後1時?6時
会 場■東京・永田町 全国町村会館ホールA・B
参加費■資料代1000円(修習生・学生500円)
主 催■自由法曹団/青年法律家協会弁学合同部会/全司法労働組合/日本民主法律家協会
連絡先■日本民主法律家協会(TEL:03-5367-5430 FAX:03-5367-5431)
■基調報告:その1
長沼事件から50年・我々はいま、何をなすべきか
新井 章 弁護士
■特別報告
司法の危機の時代── 何があったのか
鷲野忠雄 弁護士
■基調報告:その2
司法の可能性と限界と──司法に役割を果たさせるために
井戸謙一 弁護士
■特別発言
岡口裁判官問題から考える裁判官の独立と市民的自由
島田 広 弁護士
刑事法の視点から最近の最高裁を批判する
白取祐司 神奈川大学教授
問われる最高裁の思考様式──行政法の観点から
???????????????????????????????????????? 晴山一穂 専修大学名誉教授
報告者と報告内容の紹介
※新井章 弁護士 1954年弁護士登録(8期)。砂川・百里・恵庭・長沼など、憲法9条を巡る重要な訴訟を担当し、長沼訴訟を提起した直後に、担当裁判官の福島重雄さんが地裁所長から裁判干渉されるという平賀事件を経験。当時の社会的・歴史的背景を振り返りながら、戦後日本の軍事政策に対する国民の闘いと憲法訴訟の意義、司法の危機をもたらしたもの、そして今後の法律家がいかに行動すべきかを語っていただきます。
※鷲野忠雄 弁護士 1964年弁護士登録(16期)。「司法の危機」の時代、青法協事務局長としてまさに激動の情勢に対応された上、1971年創立された「司法の独立と民主主義を守る国民連絡会議」の事務局長として司法の独立のための国民運動に大きく貢献されました。「何があったのか」を「今」に繋がる史実として、伝えていただきます。
※井戸謙一 弁護士 1979年裁判官任官、2011年退官、弁護士登録(31期)。裁判官時代、原発差止、住基ネット差止、議員定数不均衡違憲判決等を担当し、弁護士登録後は、原発差止・再稼働禁止、刑事再審事件(湖東事件)等で大きな成果をあげておられます。裁判所の内・外で真摯に事件に取り組んできた立場から、「司法の危機」後の裁判官の意識、いまの裁判所・裁判官の状況、裁判官を動かすものは何か、等々について語っていただきます。
※島田 広 弁護士 1998年弁護士登録(50期)。2018年、東京高裁の岡口基―裁判官がツイッターヘの投稿を理由に東京高裁、最高裁から懲戒処分を受けた件で、「裁判官の表現の自由の尊重を求める弁護士共同アピール」のとりまとめをされました。岡目事件に取り組んだ問題意識、裁判官の独立・市民的自由について、ご発言をいただきます。
※白取祐司 神奈川大学教授 最近、1・2審の判断を覆して大崎事件の再審開始決定を破棄自判したり、死刑囚がハムレットの一節を記した便箋台紙の廃棄処分を適法とするなど、異例・異常とも言える最高裁の判断が続いています。刑事法の研究者として、こうした最高裁の判断・姿勢を批判的に分析していただきます。
※晴山一穂 専修大学名誉教授 行政法・公務員法をご専門とする研究者の立場から、最高裁がいかに権力側の立場を尊重する姿勢に立っているかという問題意識、これとの関係で、安倍内閣による最高裁裁判官の選任についても批判的に論じていただきます。
例年のとおり、質疑・応答・討論の時間も設けられています。ぜひ、ご参加ください。
(2019年10月15日)
私は、根は親切なタチだ。多少は、お節介でもある。だから、このブログでも、何人かの人には親切心から、「おやめなさい」と言ってきた。
しかし、私が万人に親切であるわけはない。相手によっては、不親切心からの思惑あって「おやめなさい」と言うこともあれば、うまく行かないことを見越して「ぜひおやりなさい」とけしかけることだってある。
ところで、N国の立花孝志さん。あなたは、10月4日の記者会見で、小西洋之参院議員に対する民事訴訟の提訴を宣言された。小西さんの立花批判発言を名誉毀損として損害賠償請求の提訴をすると明言された。記者会見とは国民の代表への語りかけの場。あなたは、国民への約束をされた。政治家に二言はあるまじきこと。このスラップまだ提訴になっていないようだが、どうなさったか。ぜひ、おやりなさい。早くおやりなさい。躊躇していてはなりません。グズグズしているのは、あなたらしくない。
あれから10日も経っている。一度口にしたことは速やかに実行しましょう。そうでないと、政治家失格。いや、社会人失格。「埼玉補選出馬準備で忙しい」なんて言い訳は止めましょう。あなたらしくもない。名誉毀損損害賠償請求の訴状を書くのは簡単なこと。だれにだって書ける。立花さん、あなただって自分で書ける。自分で書くのが面倒なら、どんな弁護士にでも依頼さえすればよい。訴状だけならたやすく書ける。あなたは、埼玉補選に専念しておいてよいのだ。
私は、2014年4月8日、当ブログに「政治資金の動きはガラス張りでなければならない」という、DHC・吉田嘉明批判の記事を書いた。そうしたら、DHC・吉田嘉明は4月16日に私を名誉毀損で提訴した。吉田嘉明かDHCの誰かが、そのブログを最初に読んだのは、どう考えても4月9日以降のこと。とすれば、提訴を決意し弁護士に相談して依頼し、弁護士が受任して訴状を書いて提出するまで、一週間という期間でしかなかった。
しかも、この一週間は、DHCの顧問弁護士(今村憲)が、多くの吉田嘉明批判言論から、「確実に勝訴の見込みがあると判断」される事案をセレクトする作業期間を含んでいる。その一週間に、私のDHC・吉田嘉明批判のブログも「確実に勝訴の見込みがあると判断」されて、提訴対象とされたのだ。
あなたの場合の時系列を確認しておこう。
まずは、あなたのユーチューブ発言があった。
「人間の天敵はいないから、結局人間が人間を殺さざるを得ないのが戦争だと思ってる」「ある意味ものすごい大ざっぱに言うと、そういうあほみたいに子どもを産む民族はとりあえず虐殺しよう、みたいな。やる気はないけど、それを目指したら、結局そういうことになるのかな」「うちで飼っている猫とあまり変わらない人いっぱいいますよ。そういう人はご飯をあげたら繁殖するんですよ、言い方悪いけど、いっぱい子供産むんですよ、やることないから。避妊に対する知識もないし」「人種差別やめようとは思ったことない」「差別やいじめは神様が作った摂理だから、本能に対して逆らうことになるでしょ。だって誰かを差別したり、誰かをいじめることによって自分が安心できるっていう、人間持っている本来の摂理なので、それが本当に正しいのかって言うのはすごく疑問がある」
以上のあなたの発言批判を小西さんが、ツイッターに書き込んだ。これが9月27日のこと。
空前絶後の暴言。
憲法、国連憲章の全否定に等しい。
参議院規則第207条では、「議員は、議院の品位を重んじなければならない。」と明記されている。
この規則への違反は、憲法58条により懲罰処分、すなわち、除名(議席はく奪)も可能だ。
参議院の与野党の責任が問われている。
なるほど、参議院規則には、下記の各条文がある。小西さんのツイッターによるあなたへの批判の意見は、荒唐無稽なものではない。
第207条 議員は、議院の品位を重んじなければならない。
第245条 議院を騒がし又は議院の体面を汚し、その情状が特に重い者に対しては、登院を停止し、又は除名することができる。
この批判を不服とするあなたは、「小西さんに対話を求めたが応じなかった」として、10月3日に「小西氏の国会事務所を動画撮影しながら突撃した」と報じられている。
そして、翌4日の記者会見での提訴発言となった。この日程なら、小西さんを被告とする訴状を準備して、会見場で配布することもできたはず。まさか、やる気もないのに、口だけ発言ではなかったのでしょうね。そして、念のため。今さら、提訴は止めたなんて言わないでしょうね。
あなたは、同じ会見で「(小西さんが)謝罪すれば別だが、徹底的にやる」と豪語した旨報じられています。まさか、小西さんがあなたに謝罪することがあるなど、本心でお考えではないですよね。あなたは、「(議員会館での)撮影禁止は知っていたが、わざと問題のある行為をすることで先方に逃げられないようにしている」と述べたそうですがね。実は、逃げられなくなったのはあなたの方なんですよ。もう、退路はない。徹底的にやらざるを得ないのですよ。
あなたの発言は、憲法の理念に照らして、また国連憲章に照らして、社会の良識に照らして、到底看過し得ない。あなたは国会議員の任に堪えない。
10月2日の毎日社説が、的確にあなたを批判している。
「今度は『虐殺』という暴言 これ以上許してはならぬ」
https://mainichi.jp/articles/20191002/ddm/005/070/122000c
「国会は直ちに厳しく対処すべきである。そうでないと日本はこうした暴言を容認していると国際社会から見なされかねない。」
これが良識というもの。
「議院の品位を重んじなければならないとする参議院規則に違反し、除名も可能だ」という、この小西議員の発言は、真っ当な表現の自由の行使として、違法となる疑念は露ほどもない。
立花さん。この発言を不服として批判するのは、それが小西議員への人格攻撃や事実に基づかない誹謗中傷に至らぬ限りは、あなたの表現の自由に属することだ。しかし、提訴という手段で、小西議員に応訴の負担をかけるのは、スラップとして違法となる。結局あなたは、損害賠償の責めを負わねばならない。
小西議員の発言に違法の要素はなく、あなたの提訴がまったく勝ち目のないことは、明々白々というべきだ。にもかかわらず敢えてするあなたの提訴は、嫌がらせ以外の何ものでもない典型的なスラップ訴訟。民事訴訟制度の趣旨目的を大きく逸脱した提訴となる。
だから、立花さん。「もう参議院議員は辞めたのだから、小西さんへの提訴も取り止めた」などと、言い訳をしてはいけない。あなたは、いままた、参議院議員を目指しているではないか。
だから、N国の久保田学・立川市議が、フリーライターちだい氏を名誉毀損で訴えた、あのスラップ訴訟と同様に、立花さん、あなたはスラップ訴訟を提訴して完敗するしかない。そして、その反訴でも潔く負けていただきたい。そうして、スラップの汚さ、スラップの害悪、さらにはスラップ提起が自らに跳ね返ってくるリスクを世に知らしめることが、せめてものあなたの政治家としての社会への貢献になるのではないか。
だから、重ねて申しあげる。立花さん、小西議員に対するスラップを、ぜひおやりなさい。早急におやりなさい。躊躇することはありませんよ。善は急げ、不善も急げ、というではありませんか。
(2019年10月14日)
「戦争の8月」「侵略の9月」が終わって、「天皇制の10月」である。祝日とされた今月22日には、新天皇を高御座に見上げて臣民たちが、「テンノーヘイカ、バンザイ」という愚劣な滑稽劇を演じる。音頭をとるのが、臣・安倍晋三。なるほど、行政を司る地位にある者をいまだに「大臣」というわけだ。この国が、神の国であり、天皇の国であることを可視化して、広く知らしめようという魂胆。
もちろん、安倍晋三が、天皇を崇敬しているわけでも、神道を信仰しているわけでもない。彼は、天皇(統仁・睦仁)を「玉」として、政敵と取り合った長州派の末裔である。天皇という存在の政治的な利用方法をよく心得ている。保守派の為政者にとって、ナショナリズムはこの上なく便利な政治の手段。天皇は日本型ナショナリズム発揚に欠かせない小道具なのだ。
いささかなりとも主権者としての自覚をもつ者、10月22日を天皇制に無批判な姿勢で無為に過ごしてはならない。10月22日には、何とか一矢を報いたい。
ところで、天皇制を支える小道具は、いくつもある。元号・祝日・「日の丸・君が代」・叙位叙勲・恩赦・賜杯・天皇賞・恩賜公園……等々。
国民の日常生活に、最も密接に定着しているのは元号であろう。10月22日、「即位礼正殿の儀」のバカバカしさに異議ある方には、下記の講演会はいかがだろうか。
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下記のURLをクリック願います。
10.22西暦併用を求める会講演会チラシ(表)
講師の一人が、私である。私の報告のタイトルは、「安倍商店大売り出しの『新元号』は欠陥商品である」というもの。
チラシには下記のように記載されている。
「講師の澤藤統一郎さんは元日弁連消費者委員長、元日本民主法律家協会事務局長を歴任、田中宏さんは長らく在日外国人の問題に取り組んできました。
ご一緒に元号の問題を考えましょう!参加費500円です。
西暦併用を求める会講演会
2019年10月22日(火)18:30?21:00
(開場18:00)
文京区民センタ?【2A会議室】文京区本郷4-15-14
お問い合わせ「西暦併用を求める会」:事務局TEL:090-8808-5000(藤田高景)TEL:080-1052-7714(稲正樹)seirekiheiyo@gmail.com
「西暦併用を求める会」主催だが、「すべての公文書は西暦表記に!」という「急進的」スローガンを立てている。
私の言わんとするところは、元号という紀年法の欠陥性である。消費者事件としての製品の欠陥は、単に性能劣悪ということではなく有害であることを意味する。
元号は、消費期限が短く、しかも使用可能地域の限定性故に不便極まりないというだけでなく、民主主義社会に明らかに有害なのだ。安倍政権は、なぜそのような欠陥商品の販売にこだわり躍起になるのだろうか。そんな問題意識をお話ししたい。
以下、チラシからの引用である。
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元号の押しつけは許されない。
元号の不合理性は、日常的にイライラさせられる事柄として現れます。
NHKのニュースが、「平成13年から始まった○○が・・」、と放送する時、それは何年前なのか、瞬時には分からず、思考が途切れます。歴史の中にいる感覚が分断されるのです。
銀行通帳に記帳される日付が5月1日を境に、突然31から1に代わったり、あり得ない平成40年とかいう数字が残っている契約書、これらを作っている方々は、「顧客満足」という言葉をどう考えているのでしょうか。なぜ、お互いにわかりやすく年の表記はしましょう、というあたりまえのことが通用しないのでしょうか。
その事を考え、それを変えていくために、私たちはこの講演会を企画しました。
西暦表記に反対したり、ためらう方々は様々な理由を挙げます。
Q:世界にはいろんな暦がある、国の個性なのだからいいではないか。
A:暦の多様性が問題なのではありません。「世界で唯一」年の数え方を途中でリセットしてしまう制度だということが問題なのです。しかも、天皇という生身の人間の状態を変更のきっかけとしているので、いつリセットされるか不確定。一年の途中からでも変更されてしまう。だから、「元号」で未来の年を表記しようとすることは厳密に言えば原理として不可能! そのような紀年法を公文書に使い続けるというのは異様です。「世界で唯一の・・・」は、誇れることでは全くないのです。
Q:西暦はキリスト教のものだから特定の宗教の紀元など使うべきでない。
A:世の中のものにはそれが出来上がってきた経過があります。一宗教に起源があったとしても現在は紀年法としてほぼ世界標準になっており、2016年にサウジアラビアもイスラーム暦であるヒジュラ暦からグレゴリオ暦(西暦)に変更しました。
Q:世の中、合理性だけで割り切れない、日本の伝統・文化を守るべきだ。
A:「元号」は中国からの輸入品ですが、「わが国の伝統・文化」とされています。
1868年(慶応4年)9月8日の明治改元は、それまで天皇の代替わりだけでなく、ことあるごとに元号を変更していた「日本の伝統文化」を打破して「一世一元」としました。
1872年(明治5年)11月9日、それまでの「日本の伝統文化」であった太陰太陽暦(旧暦:天保暦)を現在使われている太陽暦に大変更、明治5年12月3日を明治6年1月1日とする荒技も見せました。11月15日には神話上の初代天皇である「神武天皇」の「即位日」を“紀元”と定めた(西暦に660年を足した数字となる)「神武天皇御即位紀元」が制定されました。1940年(昭和15年)には「紀元二千六百年」という歌も作られました。
自分が物心ついた時、昔からそれがあったから、というのではなく、現にある制度自体の合理性、妥当性を皆で議論して、今後どのようにしていくのかを、皆で決めていかなくてはなりません。
「伝統・文化」という言葉に「思考停止のゆりかご」を求めてしまうような態度は、「国家・社会」のためにはなりません。
過去の人達と同じように、今、私たちも、新しい「伝統・文化」を作る心意気を持って踏み出すべきではないでしょうか。不合理をあきらめたり、黙認するのではなく、私たちのことを、変化しないように現状に縛り付けようとする思想、を充分吟味し、日本社会をより生きやすくするために共に一歩を踏み出しましょう。
(2019年10月2日)
DHCスラップ「反撃訴訟」判決言い渡しが近づくこの時期に、昨日に続いてのスラップ訴訟のご紹介だが、本日は朗報。スラップを違法と断じた判決(一審)のお知らせ。これは、幸先がよい。
まずは、こんなスラップの提訴があった。
裁判所? 千葉地裁松戸支部(江尻禎裁判官)
提訴日 2018年11月
原 告 久保田学(N国所属の立川市議)
被 告 ちだい氏(フリー・ジャーナリスト、本名石渡智大)
請 求 名誉毀損慰謝料200万円
これに、被告が反訴を提起した。スラップの提起を不法行為としたもの。
反訴提起日 2019年6月
反訴原告 ちだい氏
反訴被告 久保田学
請 求 慰謝料とスラップ応訴費用等120万円
判決はこうなった
裁判所? 千葉地裁松戸支部(江尻禎裁判官)
判決日 2019年9月19日
本 訴 原告久保田から被告ちだいに対する請求は棄却
反 訴 反訴原告ちだいから反訴被告久保田に対する請求は一部認容
認容額 78万5600円(久保田がちだいに支払わねばならない金額)
200万円のスラップ提起に対して、スラップ被害者の慰謝料と応訴費用とで、78万円を認容したことの意義は大きい。スラップ提起への警鐘となり得る判決と評価してよい。
その概要を毎日がこう報道している。
「NHKから国民を守る党(N国)」の東京都立川市議がフリーライターの男性を名誉毀損(きそん)で訴えた訴訟。千葉地裁松戸支部(江尻禎裁判官)は19日、N国の立花孝志党首が「裁判をして相手にダメージを与えるためにやったスラップ訴訟」と公言していたことなどを踏まえ、提訴は「著しく相当性を欠く」などとして市議に約78万円の支払いを命じた。」
ちだいさんは昨年6月、立川市議選に立候補し、当選した久保田学氏について、「立川市に居住実態がほとんどない」とする記事を書き、久保田氏から「名誉毀損だ」などとして同11月に200万円の賠償請求訴訟を起こされた。久保田氏は今年5月に訴訟取り下げの意向を示したが、ちだいさんは同6月、「正当な表現活動を萎縮させる目的のもとになされたスラップ訴訟だ」などとして約120万円の賠償を求めて反訴した。
? 千葉地裁松戸支部の判決は、久保田氏が東京都江戸川区平井のマンションで昨年3月に作成した動画で「平井を引き払って落ちたらどうすんの? 住む場所なくなっちゃうじゃん」などと発言していたことや、立花党首が今年5月作成の動画で「この裁判は、そもそも勝ってお金をもらいにいく裁判じゃなくて、いわゆるスラップ訴訟。裁判をして相手に経済的ダメージを与えるための裁判の事をスラップ訴訟というんですよ」などと発言したことを認定した。
そのうえで、「原告は、被告が本件記述を真実と信じたことについて相当な理由があることを知りながら、あえて本訴を提起したもので、訴えの提起が裁判制度の趣旨目的に照らして著しく相当性を欠くものと認めざるをえない。よって、原告による本訴提起は、被告に対する不法行為を構成する」などと指摘。反訴したちだいさんの訴えを一部認め、久保田氏に78万5600円の支払いを命じた。
ちだい氏コメント
「批判できないというのは民主主義において致命的で、このままみんなが黙ってしまうと独裁国家に近づいていく。ファシズムの初めだと思っている。議員2人の政党だけでなく、たとえば与党がやり始めると、本当にみんな何もしゃべれなくなる。今回の判決は、民主主義を守るうえで大事な判決だったのではないか」
これに、専修大の内藤光博教授(憲法)による解説が続く。
スラップ訴訟とは「政府、地方自治体、政党や大企業など、政治的・社会的・経済的に優位にある団体や集団、個人などが、反対意見や異議申し立てを行う市民、市民団体やジャーナリストなど力の弱い立場にある側を相手取り、言論活動を抑制することを目的に、名誉毀損訴訟など高額の賠償を請求する民事損害訴訟」をさす。恫喝訴訟とも言う。反対者や批判者、異議申立者の言論を封じることが目的なので、訴訟の勝敗は問題ではなく、敗訴しても、「訴えたこと」で目的が達成される。
スラップ訴訟は、被告側に敗訴した場合の損害賠償や裁判にかかる高額の費用、時間的拘束などを恐れさせ、反対意見や異議申し立てなどの言論活動を思いとどまらせる「萎縮効果」を与え、訴えられた被告だけでなく、被告以外の市民やジャーナリストなどの言論活動にも大きな萎縮効果を与える。
この判決は、一見特殊な事情があってのもののように見える。「立花党首が今年5月作成の動画で『この裁判は、そもそも勝ってお金をもらいにいく裁判じゃなくて、いわゆるスラップ訴訟』と、言わば提訴権の濫用についての自白があったことからのスラップ断罪ではないののだろうか。
しかし、この立花の「スラップ自白動画」が作成され、被告(反訴原告)がこれを入手できたのは、偶然のなせる業と言わねばならない。おそらく多くのスラップ提訴の陰には、動画には撮られることのない「スラップ謀議」が行われている。普通なら、表に出てくることのないスラップの意図を間接証拠の積み上げで認定しなければならない。
私(澤藤)が被告にされたDHCスラップ訴訟でも、提訴の事前にDHCの社屋の一室で、スラップ謀議があったに違いない。しかし、そのような証明は不可能なのだ。事実経過を積み重ねて、「本件提訴は、著しく相当性を欠く」ものと認定しなければならない。
私に対するDHC・吉田嘉明の提訴が、自らの権利実現のためではなく、自らに対する批判の言論の萎縮を狙ってのものということについては,種々の間接事実の積み重ねで十分な立証ができている。
以下は弁護団長作成の記者レク資料の末尾の一文である。
本件(DHCスラップ訴訟)は、経済的強者が、その資金力にものを言わせ、勝訴の見込みなどはお構いなしに、批判する個人や団体を被告席に座らせ、一般公衆の批判言論に威嚇を加えたもので、スラップ訴訟の典型であり、恰好の題材である。吉田が裁判所の出頭命令に応じないという態度も、吉田らの裁判濫用の意図を端的に示している。
裁判所も、本件では、スラップ性の判断にあたり、これまでとは一線を画した訴訟指揮を採った。公共的言論の「不当な裁判から免れる権利」について、エポックとなる判決を期待したい。
(2019年9月26日)
ILOとユネスコが合同委員会(セアート)での検討を経て、日本政府に対して「日の丸・君が代」強制の是正を求める勧告を出した。このことは、8月29日の当ブログで述べたとおりである。
ILOとユネスコが、「日の丸・君が代」強制問題に是正勧告
https://article9.jp/wordpress/?p=13082
本日(9月3日)参議院会館で、その勧告の取り扱いをめぐって、文科省の担当者と当該労組である「アイム」との交渉があり、私も参加した。
私が、文科省との交渉の席に出たのはこれが2度目。本日の文科省の対応は、到底誠実なものとは言いがたいが、とにもかくにも1時間半の意見交換の場を設定するだけの良識は持ち合わせているのだ。この点、都教委とは大違いである。都教委は、逃げ回っているばかり。教育委員はもとより、教育庁の幹部も交渉の場にはけっして出て来ない。自分のしていることに、およそ自信が持てないからとしか考えられない。
まず確認しておこう。ILOとユネスコの日本政府に対する勧告は、以下の6点である。「日の丸・君が代」強制を是正するよう求めるものとなっている。
(a)愛国的な式典に関する規則に関して教員団体と対話する機会を設ける。その目的はそのような式典に関する教員の義務について合意することであり、規則は国旗掲揚や国歌斉唱に参加したくない教員にも対応できるものとする。
(b)消極的で混乱をもたらさない不服従の行為に対する懲罰を避ける目的で、懲戒のしくみについて教員団体と対話する機会を設ける。
(c)懲戒審査機関に教員の立場にある者をかかわらせることを検討する。
(d)現職教員研修は、教員の専門的発達を目的とし、懲戒や懲罰の道具として利用しないよう、方針や実践を見直し改める。
(e)障がいを持った子どもや教員、および障がいを持った子どもと関わる者のニーズに照らし、愛国的式典に関する要件を見直す。
(f)上記勧告に関する諸努力についてそのつどセアートに通知すること
この度のILO・ユネスコ勧告は、「日の丸・君が代」強制の入学式・卒業式を「愛国的な式典」と呼んでいる。最も注目すべき上記(a)は「国旗掲揚や国歌斉唱に参加したくない教員」の立場を慮るものであり、(b)では「消極的で混乱をもたらさない不服従の行為に対する懲罰を避ける」よう手段を尽くせと言う。つまり、「入学式・卒業式での国歌斉唱時における強制はやめよ。平穏な不起立に対する懲戒処分は避けよ」と言っているのだ。これが、勧告の眼目である。
もう一つ、(d)は「現職教員研修は、教員の専門的発達を目的とし、懲戒や懲罰の道具として利用しないよう、方針や実践を見直し改める。」というのも、影響が大きい。周知のとおり、都教委は被処分者に対して「嫌がらせの研修」を行う。研修センターにカンヅメにして、転向を迫るやり口。これを「懲戒や懲罰の道具として利用しないよう、方針や実践を見直し改める。」と端的な勧告となっている。
これに対する文科省の総括的な対応は、以下のとおりである。
今般ILO事務局より送付されたセアート報告書については、法的拘束力を有するものではなく、また、必ずしも我が国の実情や法制を十分に斟酌しないままに記述されているところがある。文部科学省としては、…「教員の地位に関する勧告」の精神を尊重しつつ、我が国の実情や法制に適合した方法で取り組みを進めてまいりたい。
文科省が指摘する問題は3点ある。
(1) 報告書は飽くまで「勧告」であって、法的拘束力を有するものではない。
(2) 報告書は必ずしも我が国の実情を十分に斟酌したものではない。
(3) 報告書は必ずしも我が国の法制を十分に斟酌したものではない。
(1)は論外であろう。ILO・ユネスコの参加国である日本が、その勧告を「法的拘束力を有するものではない」として無視するとすれば大問題である。当然のことながら、勧告には誠実な対応が求められる。開き直って、無頼国家、破落戸官庁の汚名を着るようなことがあってはならない。
(2) の「十分に斟酌すべき我が国の実情」が何をいうのか、私にはよく分からない。私の理解では、国旗国歌に関する我が国特有の実情とは、旧憲法時代の国旗国歌を今なお使用し続けていることである。「日の丸・君が代」は、神権天皇制時代の国旗国歌であり、富国強兵を国是とする大日本帝国の国旗国歌として侵略戦争と植民地支配の象徴であった。憲法改正によって国家の基本原理が根本的に変更された今なお、同じ旗と歌を国旗国歌とすることにはおおきな無理があるのだ。日本の国旗国歌事情は、あたかも戦後のドイツがハーケンクロイツを国旗として使用し続けているに等しい。この国旗国歌に違和感をもつ国民こそが正常な感覚といわねばならない。
(3)は、本日の文科省担当者の説明によれば、「我が国の法制」とは、教育公務員の懲戒権は各教委にあって政府にはない、というものの如くである。文科省によると、「ILO・ユネスコは、そんなことも知らずに政府に勧告を出してきた」といわんばかりなのだ。しかも、「懲戒権の行使は、国内法(地公法)に則り適切に行われている」という認識なのである。これは、ILO・ユネスコからの勧告に誠実に対応しようという姿勢ではない。「無視するぞ」と言わんばかりではないか。
日本政府は、国旗国歌の強制、しかも懲戒処分までしてする「日の丸・君が代」への敬意表明の強制は、世界標準からみて非常識なものであることを真摯に受け止めなければならない。ILO・ユネスコが言っていることの枝葉末節ではなく、基本理念を理解しなければならない。
教育の場から思想・良心の自由が失われれ、国家の統制のみが横行することとなれば、やがて民主主義は死滅することになろうからである。ちょうど、「日の丸・君が代」とご真影への敬意表明が当然とされた、あの暗黒の時代のごとくに。
(2019年9月3日)