澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

国立大学は、安倍政権の国旗国歌押しつけに屈してはならない

「国立大学の入学式や卒業式に国旗掲揚と国歌斉唱を」という参院予算委での安倍首相答弁(4月9日)に驚いた。下村文科相も「各大学で適切な対応がとられるよう要請したい」と具体的に語っている。「安倍右翼政権の粛々たる壊憲プログラムの進行の一つでしかない。今さら驚くにも当たるまい」という見解もあるのだろうが、あまりにも唐突だ。

朝日と毎日が、素早く本日の社説に取り上げた。いずれも明確な批判の論調。朝日は「政府による大学への不当な介入と言うほかない。文科省は要請の方針を撤回すべきである」とし、毎日は「判断や決定は大学の自主性に委ね、(国旗国歌実施の)『要請』は見送るべきだ」と結論している。両紙の姿勢に敬意を表しつつも、驚きとおぞましさが消えない。

安倍政権のスローガンが戦後レジームからの脱却である以上は、国民主権や民主主義を支えるすべての制度を敵視していることは明らかだ。安保防衛問題だけでなく、学問の自由も大学の自治も、国民の思想良心の自由も、すべてを押し潰して「富国強兵に邁進する日本を取り戻したい」と考えているだろうとは思っていた。

しかし、安倍とて愚かではない。そうは露骨になにもかにもに手を付けることはできなかろう。そのような甘い「常識」を覆しての「国立大学に適切な国旗国歌を」という意向の表明である。やはり驚かざるを得ない。

安倍晋三の頭のなかは、「いつ、いかなる事態においても、時を移さず武力を行使しうる国をつくらねばならない」「いざというときには、躊躇なく戦争のできる日本としなければならない」という考えで凝り固まっているのだ。「強い国家があって初めて国民を守ることができる」。「平和も人権も、実際に戦争ができる国家体制なくては画に描いた餅となる」。単純にそう考えているのだろう。

そのためには法律の制定だけでは足りない。「戦争のできる国作り」のためには、何よりも国民をその気にさせなければならない。国民意識を統合し、挙国一致して国運を隆昌の方向にもっていかなくてはならない。安倍政権にとって、ナショナリズムの鼓舞は大きな課題なのだ。国民こぞって、自主的に国旗を掲揚し、国歌を斉唱する国をつくらねばならない。これにまつろわぬやからは非国民と排斥されてしかるべきだ。そのようにして初めて、戦争を辞さない精強な国民と国家ができあがる。強い国日本を中心としたる新しい国際秩序をつくることができる。祖父岸信介が夢みた五族共和の東洋平和であり、八紘一宇の王道楽土だ。

政権が根拠とする理屈は、結局のところ、「国立大学が国民の税金で賄われている」ということ。「国がカネを出しているのだから、国に口も出させろ」「スポンサーの意向は、ご無理ごもっともと、従うのが当然」という理屈。これは経済社会の常識ではあっても、こと教育には当てはまらない。教育行政は教育の条件整備をする義務を負うが、教育への介入は禁じられている。このことは、戦前天皇制権力が直接教育を支配した苦い経験からの反省でもあり、世界の常識でもある。

問題は、安倍・下村の醜悪コンビがこの非常識な発言を恥ずかしいと思う感性に欠けていることだ。なりふり構わずスポンサーの意向を押しつけ、「要請」に従わない大学には国からのイヤガラセが続くことになるだろう。

「国旗掲揚国歌斉唱の実施要請に法的な根拠はありません。ですから飽くまでお願いをしているだけで、文科省の意見に従えとは口が裂けても申しません。とはいえ、予算を握っているのは私どもだということをお忘れなく。要請に対する、貴大学の協力の姿勢次第で、どれだけの予算をお回しできるか、変わってくることはあり得るところです。『魚心あれば水心』というあれですよ。よくおわかりでしょう」

もう一つ、安倍第1次内閣が改悪した新教育基本法の目的条項が根拠とされている。
第2条 教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
第5号 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。

ここに、「我が国と郷土を愛する」がある。だから、「入学式や卒業式では、日の丸・君が代を」というようだ。国を愛するとは、「国旗に向かって起立し、口を大きく開いて国歌を斉唱する」その姿勢に表れる、という理屈のようだ。

国家の権力から強く独立していなければならないいくつかの分野がある。教育、ジャーナリズム、司法などがその典型だ。弁護士会の自治も重要だが、大学の自治はさらに影響が大きい。国立大学は、けっして安倍政権の不当な介入に屈してはならない。

もう、いかなる国立大学も、政権の方針に従うことができない。この件は大学の自治を擁護する姿勢の有無についての象徴的なテーマとなってしまった。政権への擦り寄りと追従と勘ぐられたくなければ、学校行事の日の丸・君が代は、きっぱり拒絶するよりほかはない。そうでなくては、際限なく日本は危険な方向に引きずられていくことになってしまう。
(2015年4月11日)

「維新の八悪」?維新に投票してはならないこれだけの理由

このようにお考えの方は案外多いのではないだろうか。
「自民は嫌いだ。カネに汚い。大企業と大金持ちの味方だ。アメリカベッタリで、戦争の臭いがする。とりわけ安倍はアブナイ」「公明党は安倍自民の下駄の雪。結局は、アブナイ路線の補完勢力ではないか。だから、到底公明党には投票する気になれない」「自公を避けて、一時は民主に期待したのだ。ところが大きく裏切られてしまった。今さら、民主党でもあるまい」「とすれば、第三極にやらせてみるしか選択肢がないんじゃない?」

「第三極といっても、みんなの党がみっともなくつぶれて、その片割れが維新に合流している。結局維新の党しか投票先はないことになる」「維新を信用しているわけじゃない。しかし、未知の魅力にかけてみるという選択肢はあると思う」「維新の選挙演説を聴いていると、大阪では『身を切る改革』というのをやっているようだ。それを全国で、あるいは国政でやってもらったらいいんじゃないの?」

トンデモナイ。維新こそは、安倍自民の外からの補完勢力。改憲を、前から引っ張り、後から押している。しかも、徹底した新自由主義の弱い者イジメに徹したアブナイ集団。こんなところへ大事な一票を投じてはならない。
大阪維新が、世論の風向きを眺めながら、鉛筆を舐め舐め「維新八策」などを書いたり消したりしていた当時は、政策の上では中身のない空っぽ政党に過ぎなかった。それが今は、安倍路線との結びつきを深め、新自由主義と軍事大国化を目ざす勢力として明確になってきている。しかも、この政党はコンプライアンス意識にきわめて乏しい。社会に喝采を得られると思えば、敵を作って徹底していじめようとする。常套とする手口がきわめて危険な政党なのだ。

維新に投票してはならない理由を8項目にまとめてみた。もっと本質的な維新の反民主主義的性格を掘り下げてみたいところだが、とりあえずは分かり易いところでの指摘である。これを「維新八悪」と言おう。あるいは「八難」でもよい。「色の白いは七難隠す。隠すに隠せぬ維新の八難」である。

(1) 維新は、安倍改憲路線の親密なパートナーである。
維新と安倍政権とは、改憲策動に関して秋波を送りあう親密な間柄となっている。橋下徹が、「憲法改正について出来ることは何でもする。ぜひ実現してほしい」と語って首相に全面的に擦り寄り、安倍が大阪都構想に協力する姿勢を示す関係となっている。これまでは、「あやしい仲」だったのが、いまや人目をはばからない「公然たる仲」となり、安倍壊憲政権の補完勢力として、公明とならぶ重要な存在なのだ。
今通常国会でも、安倍政権の「応援団」の性格を鮮明にしている。衆院予算委員会で、松浪健太幹事長代行が「憲法改正で、国の形が国民の手で変わっていくんだと示していきたい」「総理は憲法改正を早くやるべきだとは思わないのか」と改憲をけしかけた質問までしている。維新は、改憲発議の尖兵の役割を負うことになるだろう。
また、維新の議員が「大事なことは、この予算委員会、国会に集まっているわれわれが力をあわせてアベノミクスを成功させることだ」とまで言っている。第三極どころか、自民の別働隊、しかも閣外で右寄りの別働隊と知らねばならない。

(2) 維新は、甚だしく遵法精神に欠ける。
選挙の都度、維新の違反は目に余る。特に2012年12月総選挙では、公職選挙法違反の「買収」容疑で逮捕された8人中6人が「日本維新の会」陣営だった。そのなかに、大阪7区の上西小百合陣営の運動員、愛媛4区の桜内文城陣営の運動員、大阪9区に出馬し初当選した足立康史陣営の運動員3人が含まれている。
維新の違法は、思想調査アンケート問題、刺青調査拒否に対する懲戒処分、組合事務所使用不許可事件等々枚挙に暇がない。こんな体質の政党は他にはない。
週刊新潮の最新号(4月16日号)に維新に集う人々のスキャンダル一覧が掲載されている。標題が、「橋下チルドレン不祥事一覧」というもの。衆院議員から市会議員まで16件の議員不祥事と、10件の公募区長・校長・教育長の不祥事。こんな政党を信用できようはずがない。

(3) 維新は言ってることとやってることが大きく異なる。
政党が「身を切る改革」をいうときの第一歩は、政党助成金の廃止でなければならない。維新は、けっしてそのことは口にしない。税金から政治資金を貰っておいての「身を切る改革」は筋が通らない。そればかりか、橋下徹大阪市長は自分の後援会幹部の息子を特別秘書として採用し、大坂市の税金で給与を払っている。この特別秘書は実は仕事らしい仕事をしていない。市長が、自らの後援会幹部の息子を税金で養っているという疑惑を解明すべく、大阪市民が監査請求をし、現在住民訴訟が大阪地裁に係属している。やがて、判決の形でその全貌が明らかになるだろう。

(4) 維新の政策は弱い者イジメの手法に貫かれている。
維新の常套手口は、イジメである。イジメの対象を探し、周囲にイジメに参加するよう煽動する。イジメに参加したものは、カタルシスを味わって維新の支持者となる。
イジメの対象は、権力者や財界ではない。庶民の妬みの相手が選ばれる。これまでのところ、教員であり、公務員であり、労働組合である。そのバッシングの成果として、経費を節約したとしたと誇っている。バッシングに参加した庶民は、カタルシスは得たかも知れないが、結局は自分の権利や賃金の水準をも、低下させているのだ。

(5) 維新の教育政策は強権的な国家主義である。
維新の教育政策は、民間校長の「君が代口元チェック」に象徴される。
驚くべき国家主義、強権主義、管理主義である。ファシズムに通じるハシズムが話題となったが、維新という集団の本質的な恐ろしさが、君が代斉唱の口元チェックに表れている。口元チェックの次は、心の中までの服従を求めることになるだろう。

(6) 維新は労働運動弾圧政党である。
維新の党の足立康史衆院議員は厚生労働委員会で質問に立ち、元私設秘書から未払いの残業代700万円を請求されたことを明かし『払うことはできない。私たち政治家の事務所は、残業代をきっちりと労働基準法に沿って払えるような態勢かと問題提起したい』と述べ、未払いを正当化した。彼は『私は24時間365日仕事をする。そういう中、秘書だけ法に沿って残業代を支払うことはできない』と持論を展開。元秘書からの請求に対しては『ふざけるなと思う』と強弁。
維新は、労働者に対してかくのごとく冷たい。労働者の権利主張に対しての「フザケルナ」という圧殺の姿勢が、維新の本質である。もちろん、労働組合弾圧もこの政党のお家芸である。

(7) 維新はカジノ大好き政党である。
新自由主義のしからしむるところ。維新は、カジノ大好き政党である。大阪で維新を勝たせれば大阪にカジノが生まれる公算が高い。賭博は社会に害毒を流すものとして犯罪である。物を作らず、価値を生まず、ギャンブル依存症の中毒症状と諸々の不幸のみを生じさせる。この選挙で維新を勝たせて、ギャンブル禍の社会にしてはならない。

(8) 維新にはまっとうな人材がいない
「国会サボり事件」で大阪維新の会を除名になった上西小百合衆議院議員、秘書への残業代不払い宣言の足立議員、パワハラ辞職の中原教育長、そして橋下徹市長が、公募で採用した11人の『民間人校長』。そのうち6人が保護者へのセクハラなど問題を起こし、市民から批判をあびることになっている。ラインで仲間はずれにされたとかで女子中学生を恫喝した山本景大阪府会議員。飲酒運転で接触事故を起こしながらそのまま逃走した西井勝元堺市議会議員などなど。著名な人材には事欠かない。やはり、類は友を呼ぶ結果というべきだろう。お粗末極まる人々。本当にこれが政党なのか、疑わざるを得ない。

あなたの大事な一票。ドブに捨てるならまだしも、将来はあなたに襲いかかりかねない危険な野獣を太らせる一票としてはならない。
(2015年4月10日)

平和を望む者は、自・公両党に投票してはならない

統一地方選挙前半戦の投票日(4月12日)が近づいている。各道府県や政令指定都市の個別地域課題が争点となっていることは当然だが、色濃く国政を問う選挙ともなっている。改憲(壊憲)色を強めた安倍政権に対する信任投票という性格を払拭できない。いま、自・公両政党へ投票することは、平和を危うくする方向に国を動かすことだ。あなたが平和を望むのであれば、自・公両党に投票してはならない。

我が国民は、今次の戦争での敗戦を痛苦の悔恨の念をもって省み、「再び戦争の惨禍を繰り返してはならない」「戦争の被害者にも加害者にもけっしてなるまい」と誓いを立てた。その誓いは、自らに対するものでもあり、また侵略戦争や植民地主義の被害者となった近隣諸国の民衆に対するものでもあった。

敗戦の反省の仕方には二通りある。一つは、戦争をしたことではなく負けたことだけを反省の対象とすること。そしてもう一つは、勝敗に関わりなく戦争したこと自体を反省することである。

前者の反省の仕方では、「次の戦争ではけっして負けてはならない」とする軍事大国路線の選択となり、後者の反省は平和主義をもたらす。我が国は、非武装の徹底した平和主義を国是とし、そのような国民の総意を憲法に書き込んだ。こうして戦後の70年間、国民は平和憲法を擁護して戦争をすることなく過ごしてきた。国民自らの不再戦の誓いと、平和憲法の恩恵である。

ところが、それが今危うい。安倍晋三という極右の政治家が首相となって以来、碌なことはない。今や、憲法の平和主義の保持が危ういと心配せざるを得ない。「できれば憲法の条文を変えたい」。「それができなくても、法律を変えてしまえば同じこと」。「法律を変えることができなくとも、行政が憲法の解釈を変えてしまえばこっちのものだ」というのが、安倍晋三一味のやり口なのだ。

憲法9条は、武力の行使を一切禁止している。私たちのこの国は、いかなる場合にも対外紛争を武力による威嚇あるいは武力の行使によって解決することはしない。そのような選択肢を自ら封じているのだ。その智恵と方針の遵守が我が国の平和を70年間保ってきたのだ。その大方針を転換して、「戦争という選択肢をもちたい」と安倍政権は明らかに言っているのだ。

憲法9条の平和主義は傷だらけだと言われる。そのとおりではあろう。しかし、傷は負っていてもけっして致命傷には至ってない。憲法9条はまだ生きている。まだまだ、有効に軍国主義者たちの前に立ちはだかっている。戦争のできるような国にしたい安倍一味にとって、9条はまだまだ手強い不倶戴天の敵であり、打倒の目標なのだ。

戦争という手段を選択肢としてもちうる国にするためには、明文の改憲をおこなって9条を変えることが正攻法である。しかし、これはあまりにハードルが高い。もっと手っ取り早い簡便な方法として、憲法はそのままに、憲法をないがしろにする法律を作ってしまえという乱暴な手法がある。いわゆる「立法改憲」である。

その最たるものが、集団的自衛権の行使を容認する安保法制に関する諸立法である。首相の私的諮問機関という「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(安保法制懇)の報告後の自公摺り合わせを経て、昨年7月1日「集団的自衛権行使容認の閣議決定」に至った。そして、今度はその立法化である。3月20日に与党協議が整い、必要な法案は統一地方選終了後に国会に提出の予定とされる。

キーワードは「切れ目のない安全保障」である。安倍政権は、「国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備」を謳っている。これは、とりもなおさず、いつでも、どこでも、何が起こっても、武力の行使による対処を可能とするということにほかならない。

敗戦の惨禍というあまりに高価な代償をもって購った憲法9条の平和主義を、シームレスに捨て去ろうということなのだ。これまでは、日本は軍隊を持てないというお約束は、タテマエにもせよ大切にされてきた。自衛隊は軍隊ではなく、飽くまで専守防衛に徹した自衛のための実力組織であって、海外で武力行為をすることはまったく想定されてはおらず、専守防衛を超える装備や編成はもたないものとされてきた。これを安倍晋三は、挑戦的に「我が軍」と言ってのけた。驕慢も甚だしい。

集団的自衛権行使容認だけではない。教育の国家管理化、マスコミ統制のための特定秘密保護法の制定。靖国神社参拝、憲法改正草案と憲法改正国民投票法の整備…。

「戦後レジームを打破」して、「日本を取り戻そう」、というのが安倍政権の基本スローガンである。戦後レジームとは、現行の憲法秩序のことにまちがいない。安倍一味は日本国憲法が大嫌いなのだ。もちろん、平和主義も国民主権も人権の尊重も、である。そして、彼が取り戻そうというのは、一君万民・富国強兵の戦前の国内秩序であり、八紘一宇・五族共和・東洋平和の国際秩序としか考えようがない。

安倍自民党への投票は、平和を失う一票となりかねない。あなたが平和を望むのなら、国の内外に大きな不幸をもたらし、自らの首を絞める愚かな投票をしてはならない。

この安倍自民に「どこまでも付いていきます、下駄の雪」となっているのが公明党である。安倍自民の悪業の共犯者となってこれを支えている公明党に投票することも同様なのだ。

権力につるんで甘い汁を吸っている者はいざ知らず、庶民は、自・公両党に投票してはならない。自分の首を絞める愚をおかしてはならない。
(2015年4月9日)

「上から目線に怒り」という翁長知事発言は、沖縄受難の歴史が語らせたものだ

沖縄は、近代以後唯一地上戦の舞台となった日本の国土である。70年前の今ころ、沖縄は「鉄の嵐」が吹きすさぶ戦場であった。

近代日本の一連の対外戦争はすべて侵略戦争であったから、戦場は常に「外地」にあった。日本人にとって、戦地とは遠い「外地」のことであり、男は海を越えて戦地に出征し、女と子どもは内地で銃後を守った。

ところが、太平洋戦争の末期、本土の都市や軍事施設が空襲や艦砲射撃を受けるようになり、ついに沖縄が凄惨な戦地となった。まったく勝ち目のない戦争。時間を稼いで本土への米軍の進攻を遅らせることだけが目的の絶望的な戦場。沖縄は本土の捨て石とされたのだ。

1945年3月26日、米軍は慶良間諸島の座間味島に上陸する。日本軍の指示による住民の集団自決の悲劇があったとされるのはこのときだ。本年3月2日の当ブログで紹介した松村包一さんの詩が次のように呟いている。

  集団自決せよとは
  誰も命令しなかった??という
  が 生きて虜囚の辱めを受けるなと
  手榴弾を配った奴はいる

そして、4月1日早朝、米軍は沖縄本島読谷村の楚辺海岸に上陸する。この日、日本軍沖縄守備隊の反撃はなく、その日の内に米軍は読谷、嘉手納の両飛行場を制圧する。以来、米軍は南北両方向に進攻を開始し沖縄全土が戦場と化した。6月23日に日本軍の組織的抵抗が終息するまで、沖縄の地形が変わるほどの苛烈な戦いが続いて、3か月間での死者数は20万人余におよんだ。知られている、ひめゆり部隊や健児隊の悲劇は、そのほんの一部に過ぎない。

沖縄県平和祈念資料館のホームページに、「平和の礎」に刻銘された戦死者の総数と国(県)別の内訳について次の記載がある。
「平成25年6月23日現在の241,227名(の内訳)は次のようになっています。沖縄県149,291名、県外77,364名、米国 14,009名、英国 82名、台湾 34名、大韓民国 365名、朝鮮民主主義人民共和国82名です。」

生身の人間の命を統計上の数字と化してはならない。戦死者数24万余。これだけの数の痛み・恐れ・悲しみ、そして絶望の末の死という悲劇があったのだ。

翁長・菅会談がおこなわれた4月5日は70年前小磯国昭内閣が政権を投げ出した日に当たる。4月7日に急遽鈴木貫太郎内閣が成立し、この内閣が降伏を決意することになる。小磯は陸軍大将、鈴木は海軍大将、ともに最高級の軍人であった。

鈴木は、後継首班指名の重臣会議では主戦論を力説している。戦後、彼はこれを陸軍を欺くためのカムフラージュだというが真偽のほどは分からない。沖縄で、20万の命が失われているそのとき、最高責任者である天皇とその重臣たちの関心は、沖縄県民の命ではなく、天皇制護持のみにあった。主戦論も和平論も、国体護持にどちらが有益かという観点から述べられたものである。

1944年7月、3万の死者を出したサイパン玉砕を契機に東条英機内閣が辞職した。以来、誰の目にも日本の敗戦は必至であった。しかし、天皇とその部下たちが戦争終結を決断できなかったのは、何よりも国体の護持にこだわったからである。

近衛奏上文が下記のごとく述べているとおり、支配層は敗戦よりも戦後の民主化に恐怖を感じていた。近衛の早期和平論は、その方が国体護持に有利だからというものである。
「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候。敗戦は我が国体の瑕瑾たるべきも、…敗戦だけならば国体上はさまで憂うる要なしと存候。国体の護持の建前より最も憂うるべきは敗戦よりも敗戦に伴うて起ることあるべき共産革命に御座候」

国体護持に保証を得る時間を稼ぐために、沖縄は捨て石とされ無辜の住民が殺害された。終戦が半年早ければ、あるいは1945年の年頭から本気で降伏交渉を開始していれば、東京大空襲の無残な被害も、沖縄地上戦の惨劇も、広島と長崎の悲劇も防げたのである。

その責任を負うべきは、まずは天皇であり、その側近である。このことを曖昧にしてはならないが、沖縄を犠牲にして焦土化をまぬがれた本土の国民も応分の責任と負い目を感じなければならない。

太平洋戦争を遡って、沖縄の受難の歴史は島津侵攻から始まる。さらに武力を背景とした明治政府の琉球処分があって、戦前の差別と抑圧がある。沖縄地上戦の悲劇のあとには占領の悲劇が続く。このときも、昭和天皇(裕仁)のGHQ宛て「天皇メッセージ」によって沖縄占領が継続され、米軍の土地取り上げと基地被害が深刻化する。そして、1972年の本土復帰は基地付き核付きのものとなって現在に至っている。

沖縄の本土に対する怒りは察するにあまりある。「上からの目線で『粛々』ということばを使えば使うほど、沖縄県民の心は離れ、怒りは増幅していく」という、昨日(4月5日)の翁長知事の発言は、よほど腹に据えかねてのこと。これは、長い沖縄県民の受難の歴史が、知事の口を借り語らせたものと知るべきだ。心して聞かねばならない。

沖縄の痛みは日本国民の痛み。沖縄の平和は日本の平和だ。新基地建設を拒否する毅然たる沖縄の態度に心からの拍手で、連帯の気持を表したい。
(2015年4月6日)

「辺野古新基地建設は絶対不可能」の翁長発言に同感

本日(4月5日)午前、翁長沖縄県知事と菅官房長官は、辺野古新基地建設問題に関して、およそ1時間にわたって会談した。菅さんは沖縄基地負担軽減担当相として会談に臨んだつもりだったかも知れない。

双方とも、ほぼ予想されたとおりの発言内容。政府側が粛々と新基地建設工事を進める方針を説明する一方、県側は新基地建設に反対の考えを改めて訴え断念を求めた。もっとも、翁長知事の新基地建設反対の断固たる態度は、予想を上回るものという印象だ。これに気圧されたか、官房長官は、辺野古新基地建設反対が沖縄の民意だという翁長発言に反論はしなかった。メディアを通じての国民へのアピール効果という点では、翁長側が圧倒したといってよいだろう。

翁長発言として報道されているところは次のようなもの。
「今日まで沖縄県がみずから基地を提供したことはない」「『粛々』という言葉が、かつての沖縄の自治は神話だと言った(米軍統治下の)キャラウェイ高等弁務官の言葉と重なり、問答無用と感じる」「上からの目線で『粛々』ということばを使えば使うほど、沖縄県民の心は離れ、怒りは増幅していく」「辺野古の新基地は絶対に建設することができないと確信している」「建設は絶対不可能だ。頓挫で起こる事態は全て政府の責任だ」「(自分が当選した昨年11月の知事選の)争点は、辺野古の埋め立てに関する承認への審判だった。圧倒的な(沖縄県民のノーという)考えが示された」

また翁長知事は、「安倍総理との面談の手配をお願いしたい。辺野古の建設を中止し、しっかりと話し合って基地問題を解決していただきたい」と首相との面談も求めたという。辺野古の新基地建設断念だけでなく、普天間を含む沖縄の基地問題の「解決」を求めての要請である。

さらに会談後、翁長知事は記者団に対し、「きょうは平行線だったが、言いたいことは申し上げた。きょうの会談を取っかかりとして大切にしなければならない。これから沖縄の主張はしやすくなったと思う」「基地問題で後退することは全くない。私は『辺野古に基地が絶対できないように、県の行政手続きのなかであらゆる手段を使う』と言っている」と述べている。まさしく、肚をくくった言ではないか。

私は、知事の「辺野古の新基地建設は絶対に不可能」という言を新鮮な思いで聞いた。知事が県民世論を代表して、新基地建設不可能というのだ。そのとおりに違いない。住民の圧倒的な反感の中で孤立する軍事基地がその機能を発揮することができるだろうか。アメリカ政府は、これほどの県民世論を圧殺してまで新基地建設を必要としているのだろうか。

仮に、辺野古新基地を敢えて強行すれば、米軍と自衛隊とは県民世論から大きな指弾を受けるだけのことではないか。実は、昨年(2014年)1月の名護市長選挙、11月の知事選挙と、12月の総選挙とは、沖縄県民にとっては辺野古新基地建設可否の住民投票であった。県民の意思は投票結果として既に明確になっている。

辺野古を抱える名護市民の意思だけではない。沖縄県民の意思も、普天間を抱える宜野湾市の市民の意思も、圧倒的に辺野古新基地建設ノーの投票結果に表れている。

法技術的な問題は実は些細なことに過ぎない。圧倒的な沖縄の民意が示された今、これに従うべきが民主主義国家の政府のあるべき姿勢であろう。タイミングよく、安倍訪米が間近である。安倍首相は、オバマ大統領に向かってこう言わねばならない。

「実は、日本は民意で動くことを国是としています。選挙の結果、沖縄の民意が『辺野古新基地建設ノー』と明瞭に示されました。民主主義国家としてこれを尊重せざるを得ないのです。ですから、辺野古新基地建設は断念いたしました。ご了承ください」

翁長知事に続いて、安倍首相も、そのように肚をくくらなければならない。
(2015年4月5日)

安倍政権は、耳を澄まして沖縄の声を聞け

嗚呼 沖縄よ
うるまの島よ

幾世代ものいくさゆを経し
悲劇の島よ

いまだに新たな傷癒ゆることなき
怒りの島よ

しかして、美ら海に浮かぶ
ニライカナイのこの島

終わりなき闘いのその末に、
美しの世を我が手にすることを疑わぬ
逞しき人々の
嗚呼 沖縄よ

 **************************************************************************
明日(4月5日)の午前中に「翁長・菅会談」がおこなわれる。その席で、翁長知事はこう言いたいと語っている。

「知事選で県内移設反対を公約した翁長氏は、『沖縄県は自ら基地を差し出したことは一度もない。戦争のどさくさに銃剣とブルドーザーで接収されたのが全てだ。基地返還を多くの国民に理解してほしい』と語った。また、知事選や名護市長選、衆院選の沖縄4小選挙区でいずれも県内移設反対派が勝利したことを挙げ、移設反対が沖縄の『民意』だと訴えた」(毎日)

これを意識して、菅長官は沖縄の選挙を「基地の賛否の結果ではない」と反論している。
「菅義偉官房長官は3日の記者会見で、翁長雄志沖縄県知事が米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設阻止が『民意』だと訴えていることに反論した。菅氏は『(知事選などの)選挙結果は基地賛成、反対の結果ではないと思う。振興策、世代など色々なことが総合されて結果が出る』と語った」(朝日)
事実を曲げること甚だしく、無茶苦茶というほかはない。こんな発言が飛び出すようでは、政権も末期の症状ではないか。

この菅発言は、沖縄の民意をいたく刺激した。琉球新報・沖縄タイムスの両紙とも、本日の社説でこの問題を取り上げた。しかも、このうえない痛烈な批判の論調となっている。やるかたなき憤懣の噴出をようやく理性で抑えたという激しさである。「新基地建設が最大の争点となった名護市長選や知事選、衆院選で建設反対の候補が全て勝利した。これで建設反対の『民意』が示された」というのが、地元沖縄の常識、むしろ真実・真理と言っても過言でない。なんとしてもこれを否定したいのが安倍政権。地元は、「どうして政府は分からないのか、分かろうとしないのか」その無念さのボルテージが極めて高いのだ。私の解説など抜きにして、両紙の社説抜粋をお読みいただきたい。

琉球新報社説はこう言っている。
「耳を疑うとはこのことだ。
菅義偉官房長官が、米軍普天間飛行場の辺野古移設について『反対する人もいれば、逆に一日も早く解決してほしいという多くの民意もある』と述べた。翁長雄志知事が『民意を理解していただく』と述べたことへの反論である。
菅氏から『民意』を尊重するかのような発言を聞くとは思いもよらなかった。選挙で選ばれた人との面会を避け続け、反対の声を無視して新基地建設を強行してきた人物が民意を持ち出すとは、どういう了見か。
よろしい。それではどちらの民意が多いか比べてみよう。
県民は昨年、明瞭に意思を示した。辺野古の地元の名護市長選と市議選、知事選でいずれも辺野古反対派が勝利した。衆院選では名護市を含む3区だけでなく、普天間の地元である宜野湾市を含む2区も反対派が大勝した。当の宜野湾市でも6千票の大差だ。選挙という選挙でことごとく示した結果を民意と言わずして何と言うか。
政府が辺野古の海底掘削を始めた昨年8月の世論調査では『移設を中止すべきだ』が8割を超えた。『そのまま進めるべきだ』は2割にとどまる。そもそも、かつて県民世論調査で辺野古反対が5割を切ったことなど一度もない。
選挙結果も世論調査も無視する内閣がことさらに賛成の民意を言い立てている。自らに反対の声は無視し、賛成の声を過大評価するさまは、『針小棒大』『牽強付会』と呼ぶしかあるまい。
菅氏は知事選後も衆院選後も『粛々と移設作業を進める』と述べた。県が掘削作業停止を指示した際には『この期に及んで』とも述べた。沖縄がどんな民意を示しても、どんな異議申し立てをしても、『問答無用』と言うに等しい。
…およそ非論理的な発言の数々は滑稽ですらある。これ以上、詭弁を続けるのはやめてもらいたい」
これが、沖縄の怒りだ。心して耳を傾けたい。

沖縄タイムス社説の一部も抜粋しておこう。「菅氏きょう来県・作業中止し対話進めよ」というタイトル。
「菅氏の一連の発言にちらつくのは、政権のおごりと、都合のいい解釈である。
辺野古移設に賛成の声が一定数あるのは否定しないが、忘れてはならないのは、昨年の名護市長選、県知事選、衆院選で示された『新基地ノー』の圧倒的民意である。
特に知事選では現職候補に10万票近い大差をつけるなど、これまでにない住民意識の変化を明確にした。その民意のうねりが、衆院選県内4選挙区の全てで移設反対派を勝利させたのである。
移設反対だけではなく『総合的な政策で選ばれる』とする菅氏の主張は、あきれて検討にも値しない。政治的な誠実さや謙虚さも感じられない。
もう一つのフレーズ『辺野古が唯一の選択肢』という言い方も、海兵隊の沖縄駐留の必要性が専門家によって否定される今となっては、本土が嫌がるから沖縄に置くことの言い換えと受け取れる。
安倍晋三首相が好んで使う『この道しかない』という言葉…を政権は恐らく辺野古推進の哲学にしている。なぜ辺野古なのか、県外はどうなったのか。詳しい説明がないまま、県の頭越しに現行案を決め『唯一の選択肢』や『危険性の除去』を脅し文句のように繰り返している。
選択肢のない政策はない。国と県が今後も協議を継続するのであれば、辺野古での海上作業を一時中断し、対話の環境を整えるべきである。」

ここで指摘されているのは、「圧倒的民意」を無視した「政権のおごり」であり、「都合のいい解釈」「あきれて検討にも値しない」「誠実さや謙虚さも感じられない」「脅し文句のように繰り返す」お粗末な政権の姿勢である。「転換すべき選択肢のない政策はありえない」という指摘にも謙虚に耳を傾けなければならない。

今、全沖縄が固唾を飲んで明日の会談に注目している。安倍政権が、辺野古新基地建設を強行するのか、それとも沖縄の民意を汲んで真摯な協議のうえ、政策転換に応じるのか。沖縄問題は、安保法制問題の要をなす。だからこの問題は、全国の統一地方選の勝敗に大きく影響を与える。沖縄だけでなく全国も注目しているのだ。
(2015年4月4日)

国は、いったん工事を中止して、沖縄県と話し合え

辺野古新基地建設工事をめぐって、翁長沖縄県知事と菅官房長官とが会談の予定となった。4月5日午前中になるものと報じられている。仲良く話し合いで問題を解決しましょうなどというものではない。それぞれの思惑を秘めての「会談パフォーマンス」である。会談の席を舞台のアピール合戦でもあろう。

誰が見ても、安倍政権の沖縄イジメのイメージが定着している。しかも、統一地方選挙の真っ最中。政権の側は、現状を打開しなければならないとの思いから、何らかのアクションを起こさざるをえない。だから、会談の申し入れは官房長官側からとなった。これは当然のこと。

「官邸は岩礁破砕許可の取り消しをめぐり県と政府が対立したことで、政府への世論の批判が強まってきたことを警戒する」「翁長氏との面会をめぐり与党内からも政府の対応を疑問視する声が出始め、首相官邸は『6月の慰霊の日まで引っ張れば、国会論戦がもたない』(政府高官)と早期の会談が必要との判断に傾いた」(沖縄タイムス)という状況判断は肯けるところ。にもかかわらず、官房長官側は高姿勢を崩していない。何らかの具体的な妥協案をもって会談に臨むとは到底思えない。

メディアは、「菅官房長官は、普天間基地の危険性の除去などに向けた唯一の解決策だとして理解を求める方針」「普天間基地の危険性を除去するとともに、沖縄の基地負担を軽減するためには、名護市辺野古への移設計画が唯一の解決策だとして、理解を求める方針」と伝えている。この会談を舞台に、「国は沖縄をいじめてなどいない。沖縄の負担を軽減する唯一の策を講じているのだ」というアピールをしようというわけだ。

一方、当然のことだが、翁長知事側も一歩も引く様子はない。「(政府には)沖縄県の民意にしっかりと耳を傾けてもらいたいという気持ちで臨む」「多くの県民の負託を受けた知事として、辺野古に新基地は作らせないという公約の実現に向けて全力で取り組む私の考えを、政府にしっかり説明したい」という高い調子だ。

双方とも相手方を説得できるとは思っていない。いや、相手方が納得するはずはないと分かっている。それでも、天下注視の舞台において、メデイアを通じて国民に語りかけようというのだ。知事側は「新基地建設反対がオール沖縄の総意である」と訴え、官房長官側は「普天間基地の返還のためには辺野古への移設しか方法がない」「沖縄全体とすれば基地の負担は減ることになる」と語ることになる。それぞれが、国民の理解と支持を得ようということなのだ。

双方とも、沖縄県民だけでなく日本全土の国民を聴衆と想定して語ることになるが、知事側が県民世論を、政府側が本土の世論を、より強く意識するだろうことは否めない。従って官房長官のセリフには、「日本全体にとって抑止力はどうしても必要だ。地理的条件から、沖縄に基地の負担をお願いせざるをえない」というホンネがにじみ出てくるだろう。本土のために沖縄の犠牲を求めるおなじみのパターン。強者に好都合の「大所高所論」なのだ。

かくして、「軍事によらない平和を希求する」沖縄県民世論と、「軍事的抑止力に支えられて初めて我が国の平和が維持される」という本土政府との「温度差」が露わにならざるを得ない。

実は、ここが分水嶺だ。菅官房長官は「普天間飛行場の危険除去について知事はどう考えているのか、そういうことを含めて議論をしたいと思います」という姿勢。基地の「移転」だけが頭にあって、「撤去」「削減」という選択肢は、まったく考えられていないのだ。菅官房長官は「沖縄基地負担軽減担当大臣」を兼ねているが、「負担軽減担当相が負担を押しつけにくるだけだ」との至言を沖縄タイムスが伝えている。

私は提案したい。政府が世論に配慮して、口先だけでなく真摯に話し合いの席に着こうというのであれば、その旨を行動で表すことが必要だ。そのためには、辺野古沖のボーリング工事を一時中止して、県側の岩礁破砕許可条件遵守の有無についての調査を見守らなくてはならない。右手で工事を進捗させながらの左手で握手をしようなどとは、本来あり得ない不真面目な姿勢というほかはない。粛々と、実は疾っ疾と、あるいは着々と工事を進捗させながらの交渉は、既成事実作りを目論んでの時間稼ぎでしかない。沖縄県側の調査の進展を粛々と見守りつつの会談であって初めて、本気になって妥協点を探る交渉当事者の姿勢というべきであろう。

それ以外に、政権側が「沖縄イジメはやめよ」という世論に応えるすべはない。工事をいったん中止することによって初めて、政権の側がこの問題で世論の支持を獲得できるものと知るべきである。
(2015年4月3日)

「粛々」とではなく「轟轟」とー辺野古沖埋立工事停止要求の声を上げよう

いったいいつころから、権力者は「粛々と」という言葉を使うようになったのだろう。粛の原意は、厳粛、粛然などの熟語に表れている「おごそか」「つつしむ」「ひきしまる」などの意味のようだ。これに加えて静粛の「しずか」も意味している。「鞭声粛々夜河を過る」の粛々も、「静かに」、「ひっそり」ということ。これに「やや緊張して」のニュアンスが感じられる。

権力を持つ者、力の強い者、法的な権利性に自信をもつ者は、騒ぐ必要がない。誰にも遠慮したり配慮したりすることなく、「粛々と」ことを運ぶことができる。その意味で、「粛々と」は権力者の余裕を誇示する用語となっている。「下々がどう騒ごうと、なんの痛痒もない。やりたいようにやらせていただくまでのこと」という語感が込められている。

これに対して、力なき者、弱い立場にある者は、粛々とはしておれない。大いに騒ぎたてなければならない。力弱き者が力を獲得するためには、まずは多くの人に訴えなければならない。こちらは「轟轟と」ことを進めなければならない、あるいは「喧々囂々と」だ。

今回の辺野古沖海面埋め立て工事の停止指示をめぐる議論においても、国は「粛々と」という言葉を使っている。菅官房長官は、「翁長氏の指示は違法性が重大かつ明白で無効だと判断」「法律に基づいて工事を粛々と進めることに全く変わりはない」と言うのだ。たしかに、「違法性が重大かつ明白」ならば、知事の工事停止指示は「無効」となる。無効とは、なんの法的効果ももたらさないということ。ならば、指示を無視して、「粛々と工事を進める」ことができる。国は工事を継続するために何の手続も必要ないのだ。

ところが、国は大いに慌てて農林水産大臣に対する審査請求の申立をした。併せて、執行停止も申し立てた。知事の岩礁破砕許可申請という歴とした行政処分を待ってからではなく、許可条件にもとづく工事停止指示に対する不服申立であり、執行停止である。国の、衝撃の大きさ、慌てふためいている心情がよく表れている。

県の工事停止指示は、あくまで知事による岩礁破砕許可に付された条件を根拠とするものである。これに行政不服審査の要件としての処分性が認められるとする国の主張は自明ではない。また、岩礁破砕許可の条件が遵守されているか否かを調査する必要があるとの県の言い分を、理由ないとして一蹴することは農水相としてもなかなか困難ではないか。

とは言え、農水相は内閣を構成する一員である。審査請求に対して国の望むような裁決を出さざるを得ないということになる公算も大きい。その場合、「工事停止指示に関する執行停止申立」も認容されることもあり得る。なにせ、プレーヤーとアンパイアが一心同体なのだから。

しかし、そうなったところで、県が本気になって岩礁破砕許可を取り消してしまえば、結局は無駄な手続だったことになる。あらためての取消処分に対する行政不服審査の申立が必要になる。そして、引き続いての行政訴訟係属となり、あらためての執行停止申立手続きが進行することにもなる。

このような法的手続における国の強硬姿勢は、沖縄の民意をますます反基地、反米、反政権に追いやり、新辺野古基地建設などは事実上不可能になっていくだろう。時あたかも、統一地方選挙目前である。政権には痛手となるだろう。

さて、行政不服審査手続に及んだ国の態度は、もはや「粛々と」などというものではない。まったく余裕なく、髪振り乱しての手続申立である。粛々と工事を進捗させるなどと言っておれないことを表白している。既に騒がざるを得なくなっているのだ。

一方の沖縄県側。こちらは国にも増して大いに騒ぐ必要がある。沖縄の民意が蹂躙されているのだ。怒らずにはおられない。知事を支えて、国の不当を訴えねばならない。私も本土での応援団の一人として声を上げよう。「粛々と」ではなく、「喧々囂々と」である。
(2015年3月25日)

輝け 沖縄の五分の魂ー知事の「岩礁破砕許可」取消を支持する

旅人の外套を脱がせるには、北風ではなく太陽の暖かさが必要だ。しかし、民衆を支配しようという輩は、この理を常に正しいとは考えない。恣意的にアメとムチとを使い分けようとする。民衆の利益とは無関係に、ただただ支配の効率だけを考えてのことである。

安倍政権は、仲井真県政をアメで抱き込んだ。ところが、アメには欺されないとする沖縄の民意が翁長県政をつくると、徹底したムチの政策に転換し冷たい北風を送り続けている。釣った魚に餌を与える必要はないと言わんばかりの傲慢さ。この仕打ちに知事が怒って当然。いや、オール沖縄に怒りの火がついて当然ではないか。一寸の虫にも五分の魂。ましてや、沖縄の魂である。鄭重に扱われてしかるべきだ。

昨日(3月23日)午後の記者会見で、翁長雄志沖縄県知事は沖縄防衛局に対して「名護市辺野古沖埋め立て工事に向けたボーリング調査など、海底面の現状を変更する行為を1週間以内に全面的に停止するよう文書で指示した」と発表した。同時に、国がこの指示に従わなければ、昨年8月に仲井真弘多・前知事が出した「岩礁破砕許可」を取り消す意向であることも明らかにした。

この記者会見では、同知事の「腹を決めている」との発言もなされている。沖縄県民の圧倒的な民意を背景とした、知事の辺野古新基地建設阻止への断固たる決意を感じさせる。この知事の姿勢を熱く支持したい。

工事停止指示の目的は、これまで防衛局が沈めたコンクリートブロックにより、サンゴ礁が損傷されていないかを調べる海底調査をするため、とした。また、工事停止指示や許可取消の根拠は次のごとくである。

沖縄県は国(防衛局)に対して岩礁破砕許可を与えているが、その許可には9項目の条件が付けられており、その一つが、「公益上の事由により県が指示する場合は従わなければならず、条件に違反した場合には許可を取り消すことがある」というもの。いま、防衛局がおこなっているボーリング調査工事はこの条件に反している恐れがあるから、まず工事停止を指示する。防衛局の工事を停止して、沖縄県の調査の結果条件違反があれば当然に許可を取り消す。仮に、工事停止の指示に従わない場合にも、許可の条件に違反するものとして取り消すことができる。

具体的な問題点は、ボーリング調査に伴う立ち入り禁止区域を示すブイ(浮き具)を固定するアンカー(重り)となるコンクリートブロック投下が、「許可を得ずにした岩礁破砕行為」となるか否かである。県側は、そのた蓋然性が高いから工事を停止させてよく調査する必要がある、という立場だ。

このコンクリートブロックは並みの大きさではない。コンクリート製の重量10トン、15トン、20トン、45トンのもの。鋼製の480キロ、750キロ、870キロのものなど、合計75個。市民団体が撮影した水中写真を見る限りでは、遠慮なく珊瑚を破砕しているものがある。これが、破砕許可の範疇のものなのか、あるいは許可されていない範疇の条件違反にあたるのか、まずは県において調べさせてもらおう、ということなのだ。

許可には、「公益上の事由により県が指示する場合は従わなければなら」ないとの条件が付されているのだから、国は調査のための工事停止指示には従わざるを得ない。これを拒否すれば、指示に従わなかったことが条件違反となり、許可取消の理由となるだろう。この県の指示が、明白かつ重大な瑕疵があって無効と言えない以上はそのような結論になる。国は、県の指示に「明白かつ重大な瑕疵」ありとしたいところだが無理な話。

ところで、「岩礁破砕許可」。耳慣れない。各県の漁業調整規則に目を通す機会の多い私だが、今年この問題が浮上するまで知らなかった。あらためて、いくつかの県の規則を見直したら、どこの県の規則にも同じように記載されている。

沖縄県漁業調整規則第39条は、「漁場内の岩礁破砕等の許可」に関して、次のように定める。

「第1項 漁業権の設定されている漁場内において岩礁を破砕し、又は土砂若しくは岩石を採取しようとする者は、知事の許可を受けなければならない。
第2項 略
第3項 知事は、第1項の規定により許可するに当たり、制限又は条件をつけることがある。」

辺野古の新基地建設のための海面の埋め立てには、公有水面埋立法にもとづく知事の承認がありさえすればできることにはならない。なるほど、基地建設のための諸過程で種々の法的問題が生じてくる。今はボーリング調査の態様が、水産資源保護を目的とする「漁業調整規則」上の岩礁破砕と知事許可との問題が生じている。

漁業調整規則は、漁業法や水産資源保護法に基づく県条例。漁業と漁民の保護のために種々の規制が定められており、岩礁破砕の許可もその一つだ。

仲井真県政は、国にこの許可を与えた。通常、いったん与えた許可は、知事が代わったからといって、あるいは選挙で民意が明らかになったからと言って、軽々に撤回はできない。行政の継続性、一貫性は大切な原則だ。

しかし、許可に「制限又は条件」が付され、許可を受けたものが「制限又は条件」に違反すれば話は別だ。その場合は、許可の取消決定が可能となる。

菅義偉官房長官の発言の余裕のなさが、政権側の動揺を物語っている。官房長官は、「この期に及んで(許可取り消しが)検討されているとすれば、はなはだ遺憾」としているが、東京新聞は、「この期に及んで」を5回繰り返したと報道している。その気持ちよくわかる。

あ?あ、仲井真県政ではOKしたではないか。仲井真県政にはアメをなめさせてやったではないか。それを今ごろ掌を返して…、という悔しさが言葉に表れたのだろう。ここ沖縄だけは、知事選も衆院戦も完敗だった悔しさの表れなのかも知れない。
(2015年3月24日)

愚かなり 自民党女性局長

八紘一宇とは、かつての天皇制日本による全世界に向けた侵略宣言にほかならない。しかも、単なる戦時スローガンではなく、閣議決定文書に出て来る。1940年7月26日第2次近衛内閣の「基本国策要綱」である。その「根本方針」の冒頭に次の一文がある。

「皇国ノ国是ハ八紘ヲ一宇トスル肇国ノ大精神ニ基キ世界平和ノ確立ヲ招来スルコトヲ以テ根本トシ先ツ皇国ヲ核心トシ日満支ノ強固ナル結合ヲ根幹トスル大東亜ノ新秩序ヲ建設スルニ在リ」

紘とは紐あるいは綱のこと。八紘とは大地の八方にはりわたされた綱の意。そこから転じて全世界を表す。全世界を一宇(一つの家)にすることが、皇国の国是(基本方針)というのだ。一宇には家長がいる。当然のこととして、天皇が世界をひとまとめにした家の家長に納まることを想定している。「皇国を中核とする大東亜の新秩序を建設する」というのはとりあえずのこと、究極には世界全体を天皇の支配下に置こうというのだ。

「満蒙は日本の生命線」「暴支膺懲」「不逞鮮人」「鬼畜米英」「興亜奉国」「五族共和」「大東亜共栄圏」「大東亜新秩序」等々と同じく、侵略戦争や植民地支配を正当化しようとした造語として、今は死語であり禁句である。他国の主権を蹂躙し、他国民の人権をないがしろにして省みるところのない、恥ずべきスローガンなのだ。到底公の場で口にできる言葉ではない。

ところが、この言葉が国会の質疑の中で飛び出した。3月16日の参院予算委員会の質問でのこと、国会議員の口からである。恐るべき時代錯誤と言わねばならない。

私は世の中のことをよく知らない。三原じゅん子という参議院議員の存在を知らなかった。この議員が元は女優で不良少女の役柄で売り出した人であったこと、役柄さながらに記者に暴行を加えて逮捕された経歴の持ち主であることなど、今回の「八紘一宇」発言で初めて知ったことだ。

この人が「ご紹介したいのが、日本が建国以来、大切にしてきた価値観、八紘一宇であります」と述べている。こんな者が議員となっている。これが自民党の議員のレベルなのだ。しかも党の女性局長だそうだ。安倍政権と、八紘一宇と、愚かで浅はかな女性局長。実はよくお似合いなのかもしれない。

この人には、八紘一宇のなんたるかについての自覚がない。ものを知らないにもほどかある。いま、こんなことを言って、安倍政権や自民党にだけではなく、日本が近隣諸国からどのように見られることになるのか。そのことの認識はまったくなさそうなのだ。

自分の存在を目立たせたいと思っても、哀しいかな本格的な政策論議などなしうる能力がない。ならば、セリフの暗記は役者の心得。世間を驚かせる「危険な言葉」をシナリオのとおりに発することで、天下の耳目を集めたい。そんなところだろう。この発言には誰だって驚く。「八紘一宇」発言は確かに世間を驚かせたが、世間は何よりも発言者の愚かさと不見識に驚ろいたのだ。

発言内容を確認しておきたい。八紘一宇が出てきた発言は、麻生財務相に対する質問と、安倍首相に対する質問とにおいてのものである。質問は、租税回避問題についてであった。歴史認識や教育や教科書採択や、あるいは戦争や植民地支配の問題ではない。八紘一宇が出て来るのが、あまりに唐突なのだ。その(ほぼ)全文を引用しておきたい。

「三原参院議員:私はそもそもこの租税回避問題というのは、その背景にあるグローバル資本主義の光と影の、影の部分に、もう、私たちが目を背け続けるのはできないのではないかと、そこまで来ているのではないかと思えてなりません。そこで、皆様方にご紹介したいのがですね、日本が建国以来大切にしてきた価値観、八紘一宇であります。八紘一宇というのは、初代神武天皇が即位の折に、「八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)になさむ」とおっしゃったことに由来する言葉です。今日皆様方のお手元には資料を配布させていただいておりますが、改めてご紹介させていただきたいと思います。これは昭和13年に書かれた『建国』という書物でございます。

『八紘一宇とは、世界が一家族のように睦(むつ)み合うこと。一宇、即ち一家の秩序は一番強い家長が弱い家族を搾取するのではない。一番強いものが弱いもののために働いてやる制度が家である。これは国際秩序の根本原理をお示しになったものであろうか。現在までの国際秩序は弱肉強食である。強い国が弱い国を搾取する。力によって無理を通す。強い国はびこって弱い民族をしいたげている。世界中で一番強い国が、弱い国、弱い民族のために働いてやる制度が出来た時、初めて世界は平和になる』

ということでございます。これは戦前に書かれたものでありますけれども、この八紘一宇という根本原理の中にですね、現在のグローバル資本主義の中で、日本がどう立ち振る舞うべきかというのが示されているのだと、私は思えてならないんです。麻生大臣、いかが、この考えに対して、いかがお考えになられますでしょうか。」

「三原参院議員:これは現在ではですね、BEPS(税源浸食と利益移転)と呼ばれる行動計画が、何とか税の抜け道を防ごうという検討がなされていることも存じ上げておりますけれども、ここからが問題なんですが、ある国が抜けがけをすることによってですね、今大臣がおっしゃったとおりなんで、せっかくの国際協調を台なしにしてしまう、つまり99の国がですね、せっかく足並みを揃えて同じ税率にしたとしても、たったひとつの国が抜けがけをして税率を低くしてしまえば、またそこが税の抜け道になってしまう、こういった懸念が述べられております。

総理、ここで、私は八紘一宇の理念というものが大事ではないかと思います。税の歪みは国家の歪みどころか、世界の歪みにつながっております。この八紘一宇の理念の下にですね、世界がひとつの家族のように睦み合い、助け合えるように、そんな経済、および税の仕組みを運用していくことを確認する崇高な政治的合意文書のようなものをですね、安部総理こそがイニシアティブをとって提案すべき、世界中に提案していくべきだと思うのですが、いかがでしょうか?」

三原議員は、麻生財務相に対する質問の中で、清水芳太郎『建国』の抜粋をパネルに用意し、これを読み上げた。こんなものを礼賛する感性が恐ろしい。こんな批判精神に乏しい人物を育てたことにおいて、戦後教育は反省を迫られている。この『建国』からの抜粋の部分について、批判をしておきたい。

『八紘一宇とは、世界が一家族のように睦み合うこと。一宇、即ち一家の秩序は一番強い家長が弱い家族を搾取するのではない。一番強いものが弱いもののために働いてやる制度が家である。』

そんな馬鹿な。国際関係を戦前の「家」になぞらえる、あまりのばかばかしさ。世界のどこにも通用し得ない議論。聞くことすら恥ずかしい。「世界が一家族のように睦み合うべき」とするのは、「一番強い家長を核とする秩序」を想定している偏頗なイデオロギーにほかならない。他国を侵略して、天皇の支配を貫徹することによって新しい世界秩序をつくり出そうという無茶苦茶な話でもある。「一番強いものが弱いもののために働いてやる制度」とは、「強い」「弱い」「働いてやる」の3語が、差別意識丸出しというだけでなく、「3・1事件」や関東大震災時の朝鮮人虐殺などの歴史に鑑み、虚妄も極まれりといわざるを得ない。こんな妄言を素晴らしいと思う歪んだ感性は、相手国や国民に対する根拠のない選民思想の上にしかなり立たない。

『これは国際秩序の根本原理をお示しになったものであろうか。現在までの国際秩序は弱肉強食である。強い国が弱い国を搾取する。力によって無理を通す。強い国はびこって弱い民族をしいたげている。』

日本こそが、近隣諸国に対して、弱肉強食策をとり、弱い国を搾取し、力によって無理を通して、弱い民族をしいたげてきた。八紘一宇の思想は、その帝国主義的侵略主義、他国民に際する差別意識の上になり立っているのだ。その差別意識は完膚なきまでにたたきのめされて、我が国は徹底して反省したのだ。今にして、八紘一宇礼賛とは、歴史を知らないにもほどがある。

『世界中で一番強い国が、弱い国、弱い民族のために働いてやる制度が出来た時、初めて世界は平和になる』

あからさまに日本を「世界中で一番強い国」として、自国が世界を支配するときに、世界平和が実現するという「論理」である。中国にも、朝鮮にも、ロシアにも欧米にも、「世界中で一番強い国」となる資格を認めない。日本だけが強い国であり神の国という、嗤うべき選民意識と言わざるを得ない。

いかに愚かな自民党議員といえども、一昔前なら、「八紘一宇」を口にすることはできなかったであろう。露呈された安倍政権を支える議員のレベルを嗤い飛ばす気持ちにはなれない。時代の空気はここまで回帰してしまったのか。民主主義はここまで衰退してしまったのか。自民党安倍政権の危うさの一面を見るようで気持が重い。

もしかしたら、日本の国力が衰退して国際的地位が低下しつつあることへの危機感の歪んだ表れなのかも知れない。それにしても、歴史と現実を踏まえた、もう少しマシな議論をしてもらいたい。
(2015年3月19日)

澤藤統一郎の憲法日記 © 2015. Theme Squared created by Rodrigo Ghedin.