澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

「法と民主主義」大学問題特集と、参院選の結果を論じる広渡清吾氏記念講演

本日は、日本民主法律家協会(日民協)の機関誌「法と民主主義」(法民)の編集会議。
選挙期間中だが、日民協と法民の話題を提供したい。

最新刊の法民2016年6月号【509号】特集は、小沢隆一さんの責任編集で「岐路に立つ日本の大学」。
  http://www.jdla.jp/houmin/index.html

「特集に当たって」のリードの中に、小沢さんの次の一文がある。
「今日の大学と学術にかけられている攻撃に対してどのようなスタンスで立ち向かうか。大学で学び、働く者の共同の取り組みが求められている。依るべきものは、日本国憲法の23条「学問の自由」と26条「教育を受ける権利」という二つの柱である。
そしてその際、次のようなユネスコの学習権宣言(一九八五年)も手掛かりにしてはどうだろうか。
  学習権とは、
  読み書きの権利であり、
  問い続け、深く考える権利であり、
  想像し、創造する権利であり、
  自分自身の世界を読み取り、歴史をつづる権利であり、
  あらゆる教育の手だてを得る権利であり、
  個人的・集団的力量を発達させる権利である。」

6月号の目次は次のとおり。
特集★岐路に立つ日本の大学
◆特集にあたって…………編集委員会・小沢隆一
◆現在の大学政策と学問の自由・大学の自治………中富公一
◆学ぶ権利を侵害する学生の生活・労働実態とその克服──奨学金政策の改革を………岡村 稔
◆大学と学生の学びを支える非常勤講師の諸問題と非常勤講師組合の取り組み………松村比奈子
◆国立大学への日の丸・君が代強制に抗する………成澤孝人
◆「政治的中立性」という名の怪物 ──ある市議会からの「攻撃」を受けた、ある憲法研究者の「告発」………三宅裕一郎
◆法学入門科目「現代社会と法」について──法学部教育のあり方が問われる中で………小森田秋夫
連続企画●憲法9条実現のために〈6〉憲法9条擁護のために──急加速の軍学共同とそれとの闘い………赤井純治
特別企画●東日本大震災・福島原発事故と自主避難者の賠償問題・居住福祉課題〈上〉──近時の京都地裁判決の問題分析を中心に………吉田邦彦
司法をめぐる動き・ハンセン病「特別法廷」最高裁調査報告書について………内田博文
◇司法をめぐる動き・4月・5月の動き…………司法制度委員会
◇判決・ホットレポート●三菱マテリアルとの和解について………森田太三
◇メディアウオッチ2016●2016憲法報道・メディア操作にジャーナリズムの姿勢を 争点隠し選挙と改憲問題………丸山重威
◇あなたとランチを〈№18〉………ランチメイト・横湯園子先生×佐藤むつみ
◇委員会報告●司法制度委員会/憲法委員会………米倉洋子/大江京子
◇インフォメーション●6・9「安倍政権と報道の自由」集会アピール
時評●英米流小選挙区制をとおして中華帝国ミニチュア版が再現?………志田なや子
ひろば●安倍政権が推進する国立大学の国旗と国歌………澤藤統一郎

「ひろば」は、日民協執行部や編集委員が回り持ちで自由に執筆する欄。6月号は私が書いた。本欄の末尾に掲載するので、お読みいただきたい。

7月号【510号】の特集は、新屋達之さんの責任編集で「徹底検証『改正』刑訴法・盗聴法」。改正法の解説と徹底批判、そして反対運動を振り返えり、今後を展望する論稿が並ぶとになる。

そして、8・9月合併号【511号】は、参院選の結果を踏まえての情勢討論特集号。10月号【512号】は、「憲法25条・福祉国家論」について。「法と民主主義」健在である。

なお、日民協は 来週土曜日に第55回定時総会を開催する。
 日時 2016年7月16日(土)午後1時?6時 終了後に懇親会
 会場 プラザエフ8階スイセン
その目玉企画が、広渡清吾さんの総会記念講演
 予定時刻 午後3時15分~5時
 演題「安倍政権へのオルタナティブを一個人の尊厳を擁護する政治の実現を目指す」

ほかならぬ広渡さんの「安倍政権へのオルタナティブ」論である。しかも、参院選直後のこの時期に、参院選の結果を踏まえての講演となる。会員外のご参加も歓迎。無料。できれば、事前に下記まで出席予定のご連絡を。
 電話 03(5367)5430  ファックス 03(5367)5431

また、総会では、第12回「相磯まつえ記念・法民賞」授賞式も行われる(午後5時10分?5時30分)。

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「安倍政権が推進する国立大学の国旗と国歌………弁護士 澤藤統一郎

本年5月1日の毎日新聞によると、同紙が実施したアンケート調査で、国立86大学のうち、76大学が今春の式典で国旗を掲揚し、14大学が国歌斉唱を実施したという。その内、新たに国旗を掲揚したのが4大学。新たに国歌を斉唱したのは6大学。斉唱まではしないが、国歌の演奏や独唱をプログラムに入れたのが5大学。じわじわと、「日の丸・君が代」包囲網が大学を押し包んでいくような不気味な空気がある。

 国立大学での国旗国歌問題の発端は、昨年(2015年)4月参院予算委員会における安倍首相答弁だった。「税金によって賄われているということに鑑みれば、教育基本法にのっとって、正しく実施されるべきではないか」というもの。知性に欠けるということは恐ろしい。反知性の首相であればこそ、臆面もなく恥ずかしさも知らず、堂々とこんな短絡した「論理」をのたまうことができるのだ。憲法も、歴史の教訓もまったく無視して。
 この首相発言を、盟友下村博文文部科学相(当時)が受けとめた。同年6月には、国立大学長を集めた会議で「国旗・国歌法が施行されたことも踏まえ、適切な判断をお願いしたい」との要請となり、後任の馳浩文は本年2月、岐阜大が国歌斉唱をしない方針を示したことに対し、「日本人として、国立大としてちょっと恥ずかしい」という意味不明なコメントを述べている。教育行政を司る部門の責任者の言がこれなのだから、国民の方がまことに恥ずかしい。

 だが、愚かな政権の愚かな「要請」の効果は侮れない結果となった。心ならずも政権の意向を汲んで屈服したものは、包囲網に加わる形となって抵抗者を孤立させていく。幾たびも目にしてきた光景ではないか。
 愚かな政権の愚かな「要請」は、本来その意図とは逆の効果を生じなければならない。これまで式典に国旗国歌を持ち込んでいた大学も、「文科省に擦り寄る姿勢と誤解されてはならない」「大学の自治に介入する文科省に抗議の意を表明する」として、国旗も国歌も式からなくすという見識が欲しい。
 国立大学は結束しなければならない。文科省に擦り寄る大学の存在を許せば、当然に差別的な取り扱いを憂慮しなければならないことになる。大学が真理追究の場ではなくなる虞が生じ、世人の信頼を失うことにもならざるを得ない。

 大学とは、学問の場であり、学問の成果を教授する場である。学問とは真理追究であって、大学人には、何ものにもとらわれずに自由に真理を追究しこれを教授すべきことが期待されている。言うまでなく、この自由の最大の敵対者が権力である。したがって、学問の自由とは権力に不都合な真理を追究する自由であり、教授の自由とは時の権力が嫌う教育を行う自由にほかならない。国立大学とは、国家が国費を投じて真理追究の自由と教育の環境を保障した場である。国家は学問と教育の両面に及ぶ自由を確保すべき義務を遵守するが、学問や教育の内容に立ち入ってはならない。こうして、学問は時の政権からの介入や奉仕の要請から遮断されることで、高次のレベルで国民の期待に応えることになる。

 国民の精神的自由を保障するために、権力が介入してはならないいくつかの分野がある。まずは教育であり、次いでメディアであり、そして宗教であり、さらに司法である。この各分野のすべてが、濃淡の差こそあれ政権からの攻撃の対象とされている。この各分野への攻撃は、それ自身が目的であるとともに、戦後レジームからの脱却と改憲への強力な手段ともなっている。国立大学での国旗国歌は、政権の国家主義強化の策動を象徴するテーマとなっている。けっして、これを成功させてはならないと思う。
(2016年7月6日)

醍醐聡さんの「安倍政治批判、野党共闘」ブログに思うこと

下記は、醍醐聰さんの昨日(7月4日)付ブログ。タイトルが、「安倍政治批判、野党共闘、日本共産党の政治姿勢について」というのだから、話はこの上なく大きい。
  http://sdaigo.cocolog-nifty.com/blog/2016/07/post-e4ee.html

冒頭に、「(以下は昨夜、Aさんに送ったEメールである。このブログへの転載に当たっては一部、表現を加除した)」とある。この「メールの送り先のAさん」が私だ。醍醐さんのブログは私信ではなくなったのだから、返信ではなく、ブログへの感想を書きたい。

メールをいただいたのは、「昨夜」(3日夜)ではなく、7月4日未明の4時40分のこと。この時刻のメールには、さすがに驚く。「馬力の違いを痛感」せざるを得ない。

私は、ブログ「憲法日記」を毎日書き続けている。第2次安倍内閣存立の時期と重なるこの3年余。醍醐さんご指摘のとおり、「護憲への熱意と安倍政治への徹底した批判」で貫かれているはず。そして最近は、参院選に焦点を当てている。今が、日本国憲法試練の時と意識してのこと。市民運動が背中を押してできた野党共闘を評価し、明文改憲を阻止して「立憲主義を取り戻す」運動に賛同してエールを送る立場を明確にしている。

その毎日の私のブログを丁寧に読んでいただいての醍醐さんのご意見である。私のブログに対する「異論」の提起であるとともに、護憲・リベラル派の言論への物足りなさや、危惧の表明ともなっている。そして革新運動の体質や姿勢についての問題提起でもある。

私信としてのメールでは小見出しはなかったが、醍醐ブログでは、次の小見出しが付いていて、全体の文意を把握しやすい。
 有権者はなぜ安倍政治を支持し続けるのか?
 「野党共闘」の内実を問う
 日本共産党の中途半端な自衛隊論
 内実が伴わない「立憲主義を取り戻す」の公約
 異論と真摯に向き合う姿勢こそ

この小見出しをつなぐ、ご意見の骨格は次のようなもの。
「有権者はなぜ安倍政治を支持し続けるのか?」についての分析が不十分ではないか。だから、的確な運動論が展開できていない。「野党共闘」に対する手放しの評価はできないし、共闘の中心に位置する日本共産党のポピュリズムにも危惧を覚える。とりわけ、共闘の共通目標とされている「立憲主義を取り戻す」というスローガンは無内容きわまるものではないか。このような事態で、どうしてもっと異論が出てこないのだろうか。湧き起こらねならない多様な論争が起こらないこの状態こそが何よりも問題ではないか。」

おそらく、醍醐さんがもっとも言いたいのは、次のことだ。
「今の野党共闘陣営(日本共産党も含め)には、借り物ではない、自分の言葉で、意見が異なる人々と対話する能力が決定的に欠けていると日々、感じています。」「私が指摘したような疑問、異論が政党内や支持者内から全くといってよいほど聞こえてこないことに大きな疑問、気味悪さを感じています。」「異論、批判に真摯に向き合わない体質が国民と溝を作る要因であることに、なぜ気づかないのでしょうか?」

私のブログの論調に、「意見が異なる人々と真摯に対話し説得しようとする」姿勢と能力の欠如を感じてのご指摘。これが、私だけでなく野党共闘陣営全体の欠点となっているのではないか。そのことが、護憲や革新の運動が大きくならない最大の原因であろうとのご意見なのだ。思い当たり、肯くべきところが多々ある。
以下に、醍醐さんに触発された何点かについて、私見を述べておきたい。

醍醐さんは、「安倍批判の言葉の強さではなく、多くの人の心のうちに届く言葉を選ぶことが大切だ」と示唆する。そして、多くの人の心のうちに届いて説得力を持つ言葉を選ぶためには、「有権者はなぜ安倍政治を支持し続けるのか?」をしっかり把握する必要があるとされる。民主主義がポピュリズムに堕しているから、国民が愚昧だから、という切り捨ては解答にならず、問題解決の道は見えてこない。

醍醐さんはこう言う。
「消極的な安倍支持者の主な支持の理由は、次の2つではないかと思います。
 ?安倍(自民党)政権に代わり得る受け皿が見当たらない。
 ?安倍政治に幻想を持っている。」

確かに、「安保法、憲法改定、消費税増税、原発再稼働、沖縄基地問題など、どれをとっても過半の有権者は安倍政権の中核的政策を支持していない」。にもかかわらず、内閣支持率は落ちない。それは、安倍政権への主な支持の理由が、「?安倍政治に幻想を持っている」よりは、「?安倍(自民党)政権に代わり得る受け皿が見当たらない」にあるからと言わざるを得ない。

2009年の民主党政権誕生は圧倒的な民意に支えられた画期的な展開だったが、その失敗の印象が大きい。「自民党政権はあれよりマシ」、「もう、チェンジのリスクをとりたくない」というのが、「ポスト民主党政権」のトラウマとして国民意識に定着している。だから、現政権への国民の支持は消極的なものだが、それにも拘わらず現政権に代わるべき受け皿としての認知されることへのハードルは高い。果たして、現在の「野党共闘」はそのような内実をもったものになっているか。

醍醐さんは、端的に「冷めた見方」だという。私も、野党の共闘は緒についたばかり、政権を担う受け皿としての成熟度が十分とまでは思わない。しかし、改憲阻止という喫緊の課題における現実的な対応としてはこれ以外にはなく、また大きな役割を期待できるとも思っている。裏切られる可能性もなくはないが、このたびの野党共闘は幅の広い市民運動が土台にあってつくり出された側面が大きい。今後とも、市民運動が政党を後押ししながら「野党+市民」の運動が展開される展望をもつことができる。野党の一部が裏切るか否か、それは国会内外の運動の進展如何にかかっていると思う。

なお、正直言って、立ち止まって考えている余裕はないのではないか。今回選挙に、市民主導で野党共闘が実現したことは、「ようやく間に合ってよかった」と、明文改憲阻止のために積極評価したいと思う。醍醐さんが提唱される「市民が主体的に無党派の候補者を擁立し、それを既存の野党も共同推薦するという形」は、やや違和感を否めない。市民と政党を、あまりに開きすぎた距離ある存在ととらえている印象。また、私は小林節グループの運動には批判的な意見をもっている。

日本共産党の自衛隊論については、醍醐さんのご指摘は、かつては常識的なものだったと思う。「ポピュリズムが透けて見えます」というのは、そのとおり。しかし、選挙は勝たねば意味がないという面を否定し得ない。私は自衛隊違憲論だし、共産党もそのはず。それでも、「安保関連法の違憲性を主張しながら、法を施行する際に武力行使の中核を担う自衛隊の違憲性は棚上げするという議論」は、あり得ると思う。現に、昨年の安保法(戦争法)案反対運動は、「自衛隊違憲論者」と「専守防衛に徹する限り自衛隊合憲」論者の共闘として発展した。

私は、個人崇拝も党崇拝もしないが、「共産党の理性はどこまで劣化するのか、計りかねます」というほどには悲観的でない。党の内外からの批判の言論が大切なのだと思う。その意味では、醍醐さんのご意見は、私にではなくむしろ日本共産党に向けられたものとして貴重なものでないか。

醍醐さんのブログの最後は、次のとおりの、革新派の体質問題である。
「上のような疑問を向けると、必ずと言ってよいほど『利敵行為論』が返ってきます。宇都宮選挙の時も体験しました。しかし、異論、批判に真摯に向き合わない体質が国民と溝を作る要因であることに、なぜ気づかないのでしょうか?「今は○○が大事だから」という物言いで、組織の根深い体質にかかわる問題や自らの政策に宿る未熟な部分を直視しない態度を、いつまでとり続けるのでしょうか?」

これは、一面は私への苦言である。私は、「改憲派に議席の3分の2をとられかねない緊急事態なのだから、明文改憲阻止勢力の共闘が大義」と言っているのだから。しかし、その私も、宇都宮選挙を担った「市民グループ」の質の悪さや未熟さと、これを推した日本共産党の無責任を身をもって経験している。

「大所高所」論やら、「大の虫・小の虫」論、「利敵行為」論、さらには「今は○○が大事だから」論のいやらしさは身にしみている。「組織の根深い体質にかかわる問題」や「自らの政策に宿る未熟な部分」を直視してもらいたいという願望は人一倍強い。その私も、場面場面でのご都合主義に流されかねない。

醍醐さんは、類い希なる原則主義者として、その私のご都合主義に警鐘を鳴らしているのだ。こういう人の身近な存在は、得がたい好運というほかはない。

「改憲派に議席の3分の2をとられかねない緊急事態なのだから、明文改憲阻止勢力の共闘が大義」と今の私は考えているが、「今は○○が大事だから」論のご都合主義に毒されているのかも知れない。選挙の結果が出たあとも、秋の臨時国会も、このあとに続く改憲派と護憲派のせめぎあいを、醍醐さんの指摘の視点をもって見続けたい。
(2016年7月5日)

「日本のこころ」とは、國体思想のことなのだ

今回参院選の勢力関係構図は分かり易い。
右翼アベ自民とこれを支持する公明が改憲勢力を形づくり、左翼リベラル4野党連合が反改憲でこれに対峙する。この両陣営対決のはざまに、おおさか維新という夾雑物が存在するという2極(+α)構造なのだ。

アベ自民が保守ではなく、自身が右翼勢力となっているため、与党をより右へとひっぱる極右政党の存在理由がなくなっている。次世代の党から党名を変えた「日本のこころ」は、そのような極右政党として存在意義を失い、今回参院選で政党要件を失うことになる。次回参院選では消滅の運命にあると言ってよい。

この政党は出自から怪しい。日本維新の会の分裂から、立ち上がれ日本、太陽の党、次世代の党を経ての日本のこころ。この変遷を記憶する人もすくなかろうし、記憶を確認するに値もしない。但し、関わった極右政治家の名前くらいは記憶に留めておこう。石原慎太郎・平沼赳夫・西村慎吾・田母神俊雄・中山成彬…といった面々。

次世代の党が「日本のこころを大切にする党」に党名変更したのは昨年(2015年)12月。「日本のこころ」とは、中山恭子によれば、「穏やかさや誠実さ、良心など、日本人が誰でも持っている精神」なのだそうだが、石原慎太郎・平沼赳夫・西村慎吾・田母神俊雄・中山成彬という面々からの印象は、「穏やかさや誠実さ」などというものではない。「傲慢・不遜・上から目線・差別主義・排外主義・好戦性・遵法精神の欠如・開き直り・老害」などというところではないか。「日本の心」の伝統の中に、そのような悪しき部分のあることを認めざるを得ない。その意味では、適切なネーミングなのかも知れない。

党名変更の理由は、中野正志によれば、「国政選挙でも地方選挙でも次世代の党名が受け入れられなかった厳しい現実がある。党名を一新して新しい気持ちで臨むしかない」というのだ。ジリ貧を党名変更で挽回しようといういかにも姑息なのだが、正直でもある。もっとも、党名変更をめぐっては江口克彦参院議員が「独断強行に進められている事態は民主主義の党運営に反する」と反対し、結局離党した。これも、「日本の心」的なものであろうか。

現在、「こころ」の衆院議員はゼロ。都道府県議会議員も0。参院3(いずれも今回非改選)で、今回参院選では選挙区10,比例区5の立候補者を擁しているが、衆目の一致するところ、1議席の当選も無理であろう。「比例区の得票率2%以上」も絶望で、政党要件を失うことが確実。

以下は、ホームページでの代表就任挨拶の抜粋である。
この度、日本のこころを大切にする党代表を務めることとなりました。石原慎太郎先生、平沼赳夫先生の想いをしっかり受け継ぎ、更に発展させて参ります。
…… 
自主憲法の制定、安全保障の確立、教育再生、行財政改革、地方分権の推進、社会保障制度の抜本改革など何れも直ぐに取り組まなければならない大きな課題です。これからも新しい「国のかたち」を築く活動を続けて参ります。…日本の国柄、日本人の精神のこもった自主憲法を制定します。
今、「日本のこころ」が失われつつあります。…私たちは、日本が長い歴史のなかで育んできた風俗、習慣、文化に息づく「日本のこころを大切にする」政策を推進し、明るく、温かな社会を創って参ります。

その政策の柱は、「誇りある日本を取り戻そう」というナショナリズム。
Policy 1 日本人の手による自主憲法の制定を
Policy 2 拉致被害者全員の救出を
Policy 3 日本の歴史・文化をいかした政策の実現を

今回参院選挙公約の第1に、「我が党は、長い歴史と伝統を持つ日本の国柄と日本人のこころを大切にした、日本人の手による自主憲法の制定を目指す。」がある。その自主憲法の目玉は次の4点とされている。
1.憲法上の天皇の位置付けを検討
2.国家緊急権に関する規定の整備
3.自衛のための戦力の保持
4.憲法改正の発議要件の緩和

この政党の選挙公約の1丁目1番地に「憲法上の天皇の位置づけ」が出て来ることに驚くべきか、驚かざるべきか。「自主憲法における天皇の位置付けの検討」といえば、現行日本国憲法の「象徴天皇制の見直し」以外にはない。元首化にとどめるのか、統治権の総覧者とするつもりなのか。いずれにせよ、「日本のこころ」とは、結局は天皇を中心とする国民精神のあり方、國体思想を意味するということなのだ。

1丁目2番地が「国家緊急権」規定で、以下「9条改憲」と「96条改憲」。この点は、アベ改憲路線の応援団の役割が意識されている。

こんな前世紀の遺物のごとき政党への支持は、この社会を枯死させかねない。多くの有権者にとってけっしてためにならない。だから心から申しあげる。「およしなさい。日本のこころへの投票など」。

蛇足ながら戯れ歌を献呈する。

こころこそ 心惑わす こころなれ
こころ見据えて 心許すな

こころには 心許すな 票やるな
心してこそ 心なおけれ

心せよ こころがかくす 下心
心尽くして 見抜け心を
(2016年7月3日)

大阪維新は改憲政党である

おおさか維新の会が、「2016年参院選マニフェスト」を公表している。
その公約集のタイトルが、「維新が変える。改革メニュー13」というもの。そのメニューの第1が、驚くなかれ「憲法改正」なのだ。もっとも、アベ自民の改憲草案と同工異曲では埋没するのみ。独自色がないはずはない。総論でのメニューには「憲法改正による教育無償化、道州制実現を含む統治機構改革、政治家改革」と書いてある。これが、トップに掲げられた公約である。

そこで、具体的な改憲内容に興味が湧くことになる。「教育無償化」と「道州制」についてはイメージが湧く。しかし、憲法改正のテーマとしての「政治家改革」ってなんだろう。

ところがマニフェストの具体的項目に目を通して見ると、次の3項目となっている。
(1) 教育の無償化
(2) 道州制実現を含む統治機構改革
(3) 憲法裁判所の設置
あれあれ。メニュー1の憲法改正による「政治家改革」はどこに行っちゃったの?

この(3)の「憲法裁判所の設置」は、「(2) 道州制実現を含む統治機構改革」の一部をなすものだろう。「政治家改革」という言葉は、メニュー2の「身を切る改革・政治家改革」の中にはある。しかし、当然のことだが憲法改正と結びつく内容としては語られていない。メニューのトップに置かれた「憲法改正による政治家改革」は文字通りメニューだけ。料理としては出てこない。

要するに、このマニフェストは真面目に読む有権者の存在を想定していない。メニューのトップに掲げた「憲法改正」問題についてこのありさまだ。相当ないい加減感覚で作成されたものというほかはない。これが、この政党の政策レベル。真面目さレベル。以下、まともに論評することに徒労感がつきまとう。

もちろん、「教育の無償化」という政策が悪かろうはずはない。しかし、維新の公約のキモは、「教育の無償化」を改憲と結びつけているところにある。これは「甘い罠」といわねばならない。気をつけよう、「甘い政策とおおさか維新」なのだ。

マニフェストの当該部分は、「すべて国民は、経済的理由によって教育を受ける機会を奪われないことを明文化。」「機会平等社会実現のため、保育を含む幼児教育、高等教育(高校、大学、大学院、職業訓練学校等)についても、法律の定めるところにより、無償とする。」という。これが全文。

「教育を受ける機会を奪われないことを明文化」とは、憲法に明文規定を置くという意味だろう。そして、憲法に「法律の定めるところにより、無償とする。」という条文を設けるという趣旨なのだろう。しかし、そんな迂遠な手間ひまをかける必要はない。憲法改正手続を待つことなく、すぐにでも教育無償化法案を提出すればよいことだ。予算はたいしたことはない。F35とオスプレイの買い付けをやめ、辺野古新基地建設を断念してその費用を転用するくらいで、十分ではないか。それで足りなきゃイージス艦も要らない。要はプライオリティの問題なのだ。

現行日本国憲法26条1項は、「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」と定めている。その子どもの教育を受ける権利に対応する義務の主体は、「社会全体 (大人一般)」とされている(旭川学テ大法廷判決)。もちろん、「社会全体 (大人一般)」とは政府も議会も含む概念だ。「経済的理由によって教育を受ける機会を奪われない」ことこそ、現行日本国憲法の現代憲法としての面目である。憲法改正をしなければ実現しない課題ではないのだ。

憲法改正を要しない政策課題をことごとしく憲法改正テーマとして押し出す維新の底意はどこにあるのか。アベ改憲志向政権へのスリよりである。改憲という重要テーマを軽く見せることで、政権に秋波を送っているのだ。「憲法改正なんぞはたいしたことではない。安倍自民党の改憲提案を拒絶しませんよ」というシグナルでもある。

道州制については、もう言い古されてきた。地方自治強化の名で、実は国の福祉機能と責任を切り捨てる新自由主義政策の目玉の一つである。福祉を切り捨てて法人税軽減の財源とすべしという財界による財界のための政策。

そして、統治機構改革としての「憲法裁判所」。
「政治・行政による恣意的憲法解釈を許さないよう、憲法裁判所を設置する」という。マニフェストには掲載されていないが、報道では「12人の裁判官で構成し、一審制とする」という。憲法裁判所は、具体的争訟とは無関係に法令の合違憲適合性の審査権を持つ裁判所をいう。うまく機能すれば、「政治・行政による恣意的憲法解釈を許さない」役割を果たすことになる。しかし、その反対に、「立法や行政に、迅速に合憲のお墨付きを濫発する」機関にもなりかねない。実はアベ政権が喜びそうな改憲案なのだ。

ドイツや韓国ではかなりうまく機能しているようだが、果たして日本でも適正な運用が期待できるかどうか。私は懐疑派である。この点慎重を要する問題というほかはない。

以上の憲法問題だけからも、おおさか維新の基本的な立ち位置が見えてくる。政権に擦り寄りながら票を集めねばならない、ということなのだ。

かつては「みんな」や「維新」を第三極といった。この表現には、政権与党と野党の対立軸とは、別の平面に位置しているという持ち上げのイメージがある。今、それはない。注目すべきは、維新自身が、政策の独自性発揮に苦労を隠していないことである。

マニフェストに「維新は他党とここが違う」という1項目が設けられている。わざわざ、そう言わなければならない苦しさが滲み出ている。しかも、そこに掲げられている表をよく見ても、他党との違いは見えてこない。

自らつくったこの表は、「民共」を左欄に、「自公」を右欄において、その中間の「維新」の政策が、左右の欄の政策とどう違うかを際たせようというもの。この表を見ると、「民共」対「自公」の対立はよく見えてくる。しかし、維新の独自性はよく見えない。目立つ独自政策は、あっけらかんとした「TPP賛成」くらいではないか。この点は新自由主義政党としての面目躍如というべきだろう。とても、全国で有権者の支持は得られまい。

たとえば、毎日が松井一郎について、こう言っている。
「初の大型国政選挙に挑むおおさか維新の会は憲法改正に賛成し、安倍政権には是々非々の立場。『自公』対『民共』が注目される中、いかに埋没を防ぐか。橋下徹前代表の政界引退で、『党の顔』としての重責を背負う」
これが、維新の今の立場をよく表している。要するに、票を取ろうと思えば、政策は『民共』に似てこざるを得ないし、さりとて「自公」に擦り寄るメリットは捨てられないし…。喜劇のハムレットなのだ。早晩消えゆく政党ではあるが、消えるまでに改憲の土台を整備し、改憲ムードという遺産を残されたのではたまらない。

赤旗は辛辣だ。
「『身を切る改革』を参院選の公約の1番目に掲げる、おおさか維新の会。一方で、母体となる地域政党・大阪維新の会の議員による政務活動費の不正支出は後を絶ちません。
 たとえば、堺市の小林由佳市議は、印刷や配布の実態がない政策ビラの代金などに計約1040万円を支出。返還をめぐって訴訟にまで発展しています。北野礼一元堺市議は、ゴルフコンペの景品購入代などに約1050万円を支出し、辞任に追い込まれました。
 大阪市の伊藤良夏市議は、トヨタの高級車「レクサス」の購入費の一部に政務活動費を充てていました。
 言行が一致しないのは、政務活動費の問題だけではありません。
 兵庫県議会で維新は、一昨年末に期末手当(ボーナス)を引き上げる議案に賛成しました。神戸市議会でも同年、議案の共同提案者となってまでボーナスを引き上げました。
 『退職金をゼロにした』と訴える松井一郎代表(大阪府知事)も、実際には廃止分を毎月の給与に上乗せし、総額で348万円も給与を増額させただけです。
 政党助成金についても、『必要経費』と言って手放しません。
 選挙のたびに『身を切る』と叫んで政治家としての『身分』を守り、公約をほごにして税金で身を肥やす。これが、おおさか維新の会が唱える『身を切る改革』の実態です。」

おおさか維新に集まる連中の質の低さは、赤旗が指摘するとおりである。問題議員はもっともっと多くいる。それが、この党の抱える本質的問題と言ってよいかどうかは分からない。しかし、おおさか維新は政党助成金をぬくぬくと受領し、けっして政党助成金の制度廃止を言い出さない。このことだけで、身を切る改革の本気度を信じることは到底できない。

こんな不誠実な政党への支持は、多くの有権者にとって自らの首を絞めることと強く警告せざるを得ない。だから申しあげる。「およしなさい。おおさか維新への投票」。
(2016年7月2日)

公明党の公約には、「憲法」も「沖縄」もまったく出てこない。

はや7月である。今年も半分が過ぎた。この秋はどのような秋になるだろうか。暮れはどうだろう? 鬼が笑っているだろうか。それとも鬼も哭いているのだろうか。

今月10日に参院選投開票。そして、31日には都議選である。とりわけ2016年参院選の結果は、日本の将来を大きく左右することになりかねない。憲法と日本の命運のかかる選挙である。

今日を含めて選挙運動ができる期間は、あと9日。当ブログも精一杯、野党共闘の側の勝利のための記事を書き続けたい。

今日は公明党を取り上げる。自民党の下駄の雪と揶揄されつつも、壊憲与党を支える大勢力となっている。昔は、「平和の党」や「福祉の党」を称したが、今、その面影はない。

公明党の参院選政策集に、憲法問題への言及のないことが話題となっている。自民党のように「隅っこに小さく」さえも載せない。自民党のように「もごもごと曖昧に」語ることすらしない。

公明党の選挙政策集は「希望が行きわたる国へ」という21頁に及ぶものだ。大項目で6、小項目では52の政策を掲げている。そのなかに、憲法がまったく出てこないのだ。護るとも、活かすとも、付け加えるとも、語るとも、論ずるとも、変えるとも、なくするとも言わない。まったくのダンマリ。国民の間に憲法や立憲主義についての関心がこれだけ高まっているときに、国の行く末を左右するこの大問題への徹底した沈黙は、不気味というほかはない。

大項目の第5項が、「安定した平和と繁栄の対外関係」。この中には、「アジア太平洋地域の平和と繁栄の構築」という小項目がある。しかし、ここでも中国に対する侵略戦争や、韓国に対する植民地支配に関する歴史認識はまったく語られていない。そもそも憲法の理念を語る姿勢に欠けていると指摘せざるを得ない。憲法問題については完全なフリーハンドを留保しておきたいという意思表示なのだろう。こんな政党に投票できるだろうか。

公明党の選挙公約に欠けているのものは「憲法」だけではない。実は、「沖縄」も出てこない。「普天間」も「辺野古」の文字もない。もちろん、「海兵隊」も「カデナ」も「オスプレイ」も「地位協定」もない。公明党は、いったい国と沖縄の深刻な対立問題をどう考え、どう対応しようとしているのか。その方針について、民意の審判を受ける意思はないというのだろうか。

しかも、である。辺野古新基地建設に伴う大浦湾の公用水面埋立問題に関わって、沖縄県知事の埋立承認取消を執行停止とし、埋立工事の続行を強行させた悪名高い国交大臣は、公明党所属の石井啓一ではないか。辺野古埋立を是とするのであれば、堂々と公約に掲げて民意の審判を仰ぐべきが当然ではないか。

選挙遊説でも、公明党の幹部は憲法も沖縄も語らないという。しかし、両テーマとも日本の政治の根幹に関わる大問題である。有権者の関心もきわめて高い。これに触れない公明党の選挙公約を、いったい何と評すべきか。

「2014年衆院選や13年参院選の公約では、憲法に新たな条項を加える『加憲』の項目があったが、今回は触れていない。山口那津男代表は(6月)9日の記者会見で『今回の選挙は、憲法改正の成熟した選択肢が実現していないので、争点にはならないと考えている』と説明した。」(毎日)
これは、論理的に破綻している。前回・前々回選挙では成熟していた憲法改正の選択肢が、今回選挙ではその成熟がしぼんだとでもいうのであろうか。事態はまったく逆であることが明らかだ。要するに公明党は、都合の悪いことからは逃げているだけのことなのだ。

憲法についても沖縄についてもホンネを語らず、きれいごとだけを並べてごまかして、票だけはいただこうという、姑息な魂胆が透けて見える。これが公明党の流儀というほかはない。このような真摯さと誠実さに欠ける政党の集票活動に有権者は惑わされてはならない。

この公明党の姿勢への反発を「日刊ゲンダイ」が報じている。「公明党まさかの大苦戦 比例区に手回らず支持者離れも深刻」という表題。

「支持者を裏切った結果か。公明党が真っ青になっている。参院選で予想外の苦戦をしているからだ」というリードで始まっている、その記事の中に次の取材コメントが紹介されている。
「公明党は定数が増えた選挙区に次々に候補者を擁立しています。愛知は9年ぶり、兵庫と福岡は24年ぶりに立てた。パワーが分散されたためか、埼玉と兵庫は大苦戦している。埼玉は最後の1議席を共産党と争い、兵庫は民進党と競り合っている。焦った公明党は、安倍首相に泣きつき、埼玉と兵庫の公明党候補の応援演説をしてもらっています。もし、2つの選挙区を落としたら、山口那津男代表の責任問題になるでしょう」(公明党事情通)

「公明党の支持者は、公明党を“平和の党”“福祉の党”と信じて支持し、選挙になれば知り合いに投票をお願いする、いわゆる“フレンド票”を集めてきた。ところが公明党は、“戦争法案”成立に突っ走った。あれで、熱心な支持者ほど離れてしまった。今回、“自分は公明党に一票を入れるけど、フレンド票は集めない”と口にする人も多い。比例票が激減する可能性があります」(公明党関係者)

同様の報道は、複数見られる。私には選挙情勢や党内事情についての真偽を判断する術はない。しかし、かつては平和を語って平和憲法擁護の立場を明確にし、福祉を語って民衆の支持を集めていた政党のこの様変わりである。戦争法を強行採決し、弱い者イジメの新自由主義政策に加担している公明党に、かつての真面目な支持者が愛想をつかして公明党離れをしつつあるということは、大いに納得できる。

こんな不誠実な政党への投票は、多くの有権者にとって自らの首を絞めることと強く警告せざるを得ない。だから申しあげる。「およしなさい。公明党への投票」。
(2016年7月1日)

新たな有権者諸君に呼びかける

私のブログの記事は、転載・引用大歓迎である。
昔、労働事件に携わっていた頃、日刊で「分会ニュース」を発行している組合がいくつかあった。ビラにして、これを毎日門前で出勤の労働者に手渡すのだ。あるいは、始業前に各従業員の机に配布する。その熱意と努力には敬服せざるを得ない。そんなニュースの発行者は、常に記事のネタ探しに苦労していた。私の拙いこのブログの記事が、形を変えて今もあるそのような「ミニ・ニュース」の埋め草に使ってもらえたら、本望というもの。事々しく出典を明示する必要はない。一部だけの引用でも使いやすいように変えていただいても結構。使いまわしていただけたら、なおさらありがたい。
 
そんな思い入れで、今回参院選に新たに有権者として権利を行使する若者への呼びかけの一文をものしてみたが、身近な人に読んでもらって評判がよくない。「上から目線の説教調が鼻につく」というのだ。で、第2バージョン、第3バージョンなどをつくってみた。使えるものなら、どこかを使っていただきたい。もちろん、ノリとハサミで作り直していただいてもいっこうにかまわない。

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若者よ。

未来は君たちのものだ。
君たちがこれから生きていく社会は、
君たち自身がつくるものとなる。
だから、若者よ。
君たちのよりよい未来をつくるために、
まずは選挙に参加しよう。
投票に行こう。

若者よ。
理想を語ろう。
この世に生まれたすべての人が、
意義ある生を送ることのできる社会について。
すべての個人に人間としての尊厳を保障する社会について。
人が自由で平等とされる社会について。
弱い者すべてに暖かい手を差し伸べる社会について。
人に優しく持続的な環境が大切にされる社会について。

そして、なによりも平和について。
戦争がないだけでなく、
貧困や差別や抑圧のない真の平和について。
そのようなよりよい未来について
理想を語り合おう。

若者よ。
この社会の現実を見つめよう。
厳然と存在する、貧困と格差を。
一方に奢侈と浪費があり、
もう一方に窮乏と絶望のある不合理を。
富が一極に集中し、
集積した富が権力を構成して、
不平等を再生産し拡大するこの理不尽な悪循環を。
不合理な差別が意識的につくられ利用されているおぞましさを。
尊大で傲慢な政治が、平等と自由を掘り崩している理不尽を。
政治が金で動かされている、この薄汚さを。
個人が自立せず、権威や権力に盲従する不甲斐なさを。
貧困・格差・搾取・差別・偏見が原因となっている
国際社会の混乱を。

よりよい未来を作るために、
現実を理想に近づける努力をしよう。
だから、若者よ。
新たな有権者よ。
選挙に参加しよう。
投票に行こう。

**************************************************************************
新たな有権者の諸君

冷静に過去を見つめよう。
私たちの国と社会が、
かつてどのようなものであったか。
どのようなことをしたのか。
そして70年前に、
筆舌に尽くしがたい戦争の惨禍から、
どのように再出発をしたのかを。

「再び政府の行為によって戦争の惨禍を繰り返さない」という決意は、
今忘れられずに維持されているだろうか。
「戦後レジームからの脱却」を呼号する権力を
このまま許しておいてよいのか。

新有権者諸君
選挙に参加するとは、単に投票することではない。
主体的に、社会と政治に関わることだ。
理想に照らして、現実の矛盾を見定めること。
そして、議論し行動することだ。
説得することであり、されることでもある。
そうして、考えた末の投票をすることだ。
選挙をきっかけに、社会を考えること。
主権者としての自覚と自分の意見をもつことだ。

そのようにして、
君たち自身の手で、
政治を変え社会を変え、
君たちのよりよい未来をつかみ取ることができる。
だから、若者たちよ。
選挙に参加しよう。
投票に行こう。

**************************************************************************
新しく有権者となった君たちに訴える。
君たちが頼りだ。
君たちこそ希望だ。
君たちがよりよい未来をきっとつくる。
君たち自身のよりよい人生のためにも、
是非とも選挙に参加をお願いしたい。
投票所に足を運んでいただきたい。

今ある社会は、大人たちが作った。
理想にはほど遠い。
今の大人たちは、
多くのしがらみに足を取られて
理想を語ることができない。
この社会を理想に近づけるのは、
君たち若い世代だ。

しがらみのないまっさらな感覚で理想を語り、
君たちがこれから長く生きるこの社会を
君たち自身の手で、よりよいものにして欲しい。
だから、君たちに訴える。
よりよい未来をつくるために、
是非とも選挙に参加をお願いしたい。
投票所に足を運んでいただきたい。

**************************************************************************
新有権者諸君
諸君はこの颯爽たる
諸君の未来圏から吹いて来る
透明な清潔な風を感じないのか
それは一つの送られた光線であり
決せられた南の風である

諸君はこの時代に強いられ率いられて
奴隷のように忍従することを欲するか
権力と資本に屈服することを潔しとするか

むしろ諸君よ
更にあらたな正しい時代をつくれ

諸君よ
時の政権が平和の理想をなげうって
国粋・排外の論調が膨らみ高まるときに
諸君はその中に没することを欲するか
じつに諸君はこの地平線における
あらゆる形の山嶽でなければならぬ

新たな詩人よ
雲から光から嵐から
透明なエネルギーを得て
理想の社会の形を暗示せよ

新しい時代のコペルニクスよ
余りに重苦しい社会的重力の法則から
この銀河系を解き放て

新たな時代のマルクスよ
これらの盲目な衝動から動く世界を
素晴らしく美しい構成に変へよ

諸君の手にある政治参加の権利
新たに手にした有権者としての資格
それを用ひ尽くして
諸君は新たな社会の形成に努めねばならぬ

ああ諸君はいま
この颯爽たる諸君の未来圏から吹いて来る
透明な風を感じないのか
(2016年6月30日)

選挙期間中の落選運動ビラ配布は?

3年前の2013年参院選以来のインターネット選挙運動解禁は、画期的な選挙運動の自由をもたらした。しかし、インターネット選挙運動の解禁によって、ビラやチラシの必要がなくなったわけではない。特定の場所に集まる人々を対象に、特定の内容のビラやチラシを配布する必要は相変わらずあり、インターネットやブログの発信で代替できるものではない。

にもかかわらず、ビラやチラシについての規制は厳しいままだ。知恵を絞って、せめて、落選運動のビラやチラシを自由に撒けることにならないか、と考えた方がいらっしゃる。

たまたま都内のある方から、こんな相談を受けた。
「7月10日の投票日前に、地元で、ご年配者向けに『本当に自民党・公明党で良いのでしょうか?』というチラシを作成・配布を考えています。
公選法のグレーゾーンにあたる場合は、しない方が良いというアドバイスもありますが、公示後の落選運動のビラは、グレーゾーンに入るのでしょうか。」

以下は、この問に対する回答の一端。
「改憲を許すか阻止するか」という厳しいせめぎあいの中での貴重な活動に敬意を表します。ビラ・チラシの配布は本来は憲法上の権利です。表現の自由でもあり、参政権の行使としても、自由に行えてよいはず。しかし、べからず公職選挙法による無用の弾圧は避けなくてはなりません。

お尋ねの『本当に自民党・公明党で良いのでしょうか?」というチラシ。もし、この趣旨を逸脱しない落選運動に特化したチラシを、団体が組織的に行うのではなく市民個人が手作りのものを、手渡しで配布するなら、なんの問題もありません。公示の前後を問わず、投票日当日も配布することに差し支えがありません。

ある文書の配布が法に触れないか。そのことを考えて結論を出す際には、次の3段階で考えてください。
第1 この文書は選挙運動文書としてその配布は違法とならないか。
第2 この文書は、選挙期間中の政治活動文書として違法にならないか。
第3 法が特に定める「脱法文書」に当たらないか。

まず、「第1 選挙運動文書としてその配布は違法とならないか。」
公職選挙法は、選挙運動に厳重な規制を設けています。選挙運動に当たる文書(公職選挙法では、「選挙運動のために使用する文書図画」といっています)の配布に関する規制のあり方は、一般的に禁止して、法が認めたものだけに限定して許可するという厳しさ。結局は、選挙運動に当たるビラの配布として可能なのは、選挙用ハガキと証紙ビラに限られることになります(公職選挙法142条)。

ですから、「野党候補のAさんを当選させましょう」「比例はB党へ」という投票依頼文言を記載したビラ・チラシは、手作りのものでも不特定または多数の人々を対象とする配布は禁じられています。

問題は、何をもって「選挙運動」に当たるかです。法に規定はなく、判例は『特定の選挙について、特定の候補者の当選を目的として、投票を得又は得させるために直接又は間接に必要かつ有利な行為』とし、行政実務もこれによっています。実は、この「間接」「必要かつ有利な行為」は曖昧さを残していますが、候補者名なく、投票依頼文言もない文書を選挙運動文書とすることは無理も甚だしいといわざるを得ません。

落選運動は選挙運動の定義には本来当てはまりません。ただ、場合によっては、A候補の落選を意図した文書が、対立する唯一のB候補の「投票を得又は得させるために間接に必要かつ有利な行為」と認定される恐れは絶無とはいえません。この点をグレーゾーンと言えば、いえないこともないかと思います。幸い、東京選挙区では心配ご無用ですが。

『本当に自民党・公明党で良いのでしょうか?」というチラシが、選挙用文書になるとは到底考えられないところです。

「第2 この文書は、政治活動文書として違法にならないか。」
公職選挙法には奇妙な規定があって、選挙運動期間中の選挙運動だけでなく、政党や政治団体の政治活動を大幅に規制し、確認団体とされた特定の団体についてだけ、この規制を解除するという複雑な制度を設けています。(公職選挙法201条の6)

規制される政治活動は、態様や効果の点において、選挙運動と紛らわしいもの7種類で、そのなかには「ビラの頒布」が含まれています。ですから、選挙期間中政党や政治団体のビラ・チラシの配布は、選挙運動用文書について禁止されているだけでなく、政治活動文書も原則禁止なのです。そして、一定の要件を備えた確認団体についてだけ、候補者名などを入れない、いわゆる法定ビラ(3種類)を配布することができるとされています。

したがって、確認団体でない政治団体が組織的に政治活動文書(落選運動文書を含みます)を配布することは禁じられていることになります。問題は、ここでいう政治団体の定義で、政治的な発言をするあらゆる団体がこれに当てはまるとは思えませんが、この点は、グレーと言わざるを得ません。
もっとも、この規制は政党や政治団体のビラ配布に関するもので、市民が純粋に個人として行うものについては規制の対象外で自由とされています。お尋ねのものは、この範疇に属するもので、違法ではないと考えられます。

最後に、「第3 法が特に定める『脱法文書』に当たらないか。」
公職選挙法は、その第146条を(文書図画の頒布又は掲示につき禁止を免れる行為の制限)として、脱法行為を禁止しています。
「選挙運動の期間中は、いかなる名義をもつてするを問わず、《文書図画の頒布》の禁止を免れる行為として、『公職の候補者の氏名』若しくは『シンボル・マーク』、『政党その他の政治団体の名称』又は『公職の候補者を推薦し、支持し若しくは反対する者の名を表示する』文書図画を頒布することができない。」

ですから、「本当に自民党・公明党で良いのでしょうか?」というチラシに、『○○選挙区候補者W』『候補者のシンボル・マーク』、『政党名や政治団体名』又は『△△候補者をCさんが推薦しています』『▽▽候補にはDさんが反対しています』などと書き込んではいけないということになります。

無用の弾圧を招かぬよう細心の注意を払いつつ、できるだけのことをしたいものと思います。
(2016年6月28日)

反共を叫べ。野党共闘に楔を打ち込め。各個撃破せよ。そうして、改憲への道を切り開け。

シンゾーよ。汝との契約に従って、民衆を支配する要諦を教えんか。深く心に刻んで、夢忘れることなかれ。

何よりも、分断して統治せよ。これこそが支配の鉄則であると知れ。
可能な限り被治者を孤立した砂粒の状態に置け。砂粒は無力なのだ。砂粒から脱した民衆の結束を恐れよ。民衆の連帯を警戒せよ。

民衆が小グループで互いに敵対する状態が望ましい。常に、被治者の不和を利用せよ。徹底して不和に付け込め。不和がなければつくり出せばよい。

野党の協力は、危険極まりない。無党派市民との連携あればなおさらだ。けっして、これを捨て置いてはならない。選挙共闘に成功体験をさせてはならない。極度に恐れよ。あらゆる手段をもって、野党の共闘に悪罵を投げつけよ。

共闘の妨害に、手段を選んではならない。利用できるものはなんでも利用せよ。躊躇すれば、手遅れになる。共闘を恐れ、うろたえているところを民衆に見透かされぬよう、心しつつ徹底して共闘に楔を打ち込め。

野党の選挙協力を「野合」と批判せよ。野合とは、まことに品位に欠けた言葉だが、汝が口にするにふさわしい。

この場合のキーワードは、「反共」だ。民衆の中に潜む漠然たる反共意識を煽れ。これを刺激して、最大限に利用せよ。反共意識の根源は、「天子に弓引く不敬の共産党」だ。かつては共産党のシンパとみられること自体が恐るべき不幸を招いた。保身をこととする民衆にとって共産党に近づくことはタブーだった。企業が支配する今の社会においても、漠然たる民衆の反共意識はなくなっていない。これを徹底して利用するのだ。

共産党への漠然とした民衆の不安に付け込んで、野合との批判は、主として民進党とその支持者に向けよ。
「破防法適用団体の共産党」「自衛隊を違憲という共産党」「野党共闘は共産党の主導だ」「民進党には、もれなく共産党がついてくる」「気をつけよう。暗い夜道と民進党」と叫べ。「共産党主導の無責任な野党統一候補にはまかせられない」と、絶叫せよ。総理としての品位に欠けるだの、理屈が通ってないだのという批判は、無視せよ。勝てば官軍なのだから。

こうして、野党共闘を崩すことができれば、念願の改憲への道が開けてくる。堂々の国防軍をつくって軍事大国へ大きく一歩を踏み出せるではないか。そのときこそ、人権だの民主主義だの、七面倒なことに拘泥しなくて済む時代が到来する。汝が、全き権力者となる。行政府の長だけでなく、立法府の長をも兼ね、さらには統帥権をも手にすることになるのだ。

シンゾーよ。もう一度、支配の要諦を確認しよう。
分断して統治せよ。楯突く政党を各個撃破せよ。擦り寄る政党は利用し尽くせ。限りなく弱小化した政治集団を、最後は一党独裁に吸収せよ。その成功の理想型が、大政翼賛会であり、ナチスではないか。

富国強兵の経済政策によって肥大化した精強の国防軍が、翼賛議会の満場一致をもって海外出兵を決議するそのときにこそ。汝のいう「戦後民主主義からの脱却」が実現し、「美しい日本を取り戻す」ことができたことになる。

そのときだ。シンゾーよ。汝と私の、血の契約が成就することになる。汝は政治家として名をなす。私は戦争と大量の殺戮を望むのみ。私の名は死に神。

シンゾーよ。我が教えを銘記せよ。今こそ、大願成就への岐れ道。野党共闘に楔を打ち込んで、改憲への道を切り開くのだ。
(2016年6月27日)

かつて、創価学会は平和憲法擁護・反戦を掲げていた。

「公明党=創価学会ではない」とは、ときに聞かされること。「公明党≒創価学会ですらない」「創価学会は真面目ですよ。平和を求めることにおいては特にね」などとも。とりわけ学会の婦人部が、原水爆禁止や9条擁護に熱心だとされる。私は、その真否を判断できる材料をもちあわせない。ただ、創価学会の前身創価教育学会は、戦前の天皇制政府から過酷な弾圧を受けている。その意味では軍国主義の被害者であった。信徒団体としての創価学会が、平和を求める集団であってなんの不思議もない。

とはいえ。創価学会が王仏冥合という独特の政治理念をもって政界への進出を試み、公明政治連盟を作りさらに公明党の母体となったのは周知の事実。

その公明党の昨今の体たらくはどうだ。創価学会が真に平和を志向する団体であるなら、公明党がアベ自民党の下駄の雪となって、どこまでも改憲路線を支えていることは奇妙奇天烈というほかはない。今次参院選における公明党代表山口那津男の野党共闘への攻撃のボルテージはただごとでない。改憲阻止・立憲主義の回復・集団的自衛権行使容認反対・戦争法廃止での共闘に対するむき出しの敵意である。自身の憲法や平和への立ち位置をよく示している。

本当に創価学会は平和を志向しているのだろうか。公明党を通して創価学会を見る限り、眉唾と言った方が分かり易い。もしかしたら、公明と学会とは、二つの顔をもって役割分担しているのかも知れない。公明が反共・親自民・改憲路線の顔、学会が平和・護憲・環境保護の顔。両面取り込んで、分裂もしない奇妙なところが、この集団の強みであり、不気味なところでもある。

集団的自衛権行使容認の公明党には、創価学会の一部から猛反対があったようだ。戦争法の法案提出から強行採決反対する一連の運動の節々に、確かに創価学会のグループがデモに参加していた。これは、ごく一部の微震に過ぎないのだろうか。実は屋台骨を揺るがすほどの激震の徴候なのだろうか。外からは見えない。

創価学会と平和・憲法。昔は本当に相性がよかったようだ。創価学会婦人部は本気になって、平和憲法擁護、9条改憲阻止を訴えていたという。そのことを28年前の創価学会婦人部編『まんが・わたしたちの平和憲法』を紹介するブログで知った。

下記のURLをごご覧いただきたい。
  http://seoul-life.blog.jp/archives/62149212.html

このブロガーは、ソウルに在住の若い人だ。こう言っている。
「ここに書かれた戦争へのシナリオが今の状況とそっくり
 これは、1988年、僕が12歳の時に創価学会婦人部平和委員会の編纂で第三文明社から出版された『まんが・わたしたちの平和憲法』の最後の章です。主人公の男の子たちが旅に行っている1年あまりの間に、自覚のない国民が選挙で憲法改正に同意してしまい、その後に起こる悲劇を描いています。
 僕はこの時この本を読んで憲法というものについて面白く学びましたが、この章を読んでとても怖くなったことと、それでもこんなことは起こるはずがない、もし起こるような動きがあれば何があっても止めなければ、と幼心に感じたのを覚えています。
 もちろんこのまんがは夢の話ですし、極端なところがあるでしょう。しかしこの夢を現実にさせたがっているのが今の政権です。実際に、このまんがのp.184?185のような動きはほとんど現実のものとなってきてしまいました。
 自民党と組んでいる公明党はもともとこのまんがのような護憲政党だったはずです。しかし、僕に平和憲法を教えてくれた公明党はすでに、その正反対の憲法違反を押し進める側になってしまいました。今の自公を勝たせてはいけません。彼らは昔の自民党でも、昔の公明党でもありません。…
 第九条の理想は、時の幣原首相がマッカーサーに陳情して憲法となったものだそうです。アメリカに押し付けられたものではありませんでした。確かに理想かもしれません。でも日本がその理想の旗を降ろしてしまったら、世界はその理想に近づくでしょうか、遠ざかるでしょうか。…
 このまんがを編纂したのは普通の主婦の人たちだそうです。これを読んで何かを感じる方は、どうか声を上げていただきたいと思います。多くの人にシェアしていただき、感じていただきたいです。身の回りの創価学会の人にも見せてあげてください。
 国を守るという美名のもとに国家の名によって殺されるのは、国会議員でも、彼らに投票した大人たちでもなくて、子供たちなのです。最後にこのまんがの第六章冒頭の文をここに挙げます。

『いま憲法(特に第九条)が変えられる動きがあります。
一人ひとりが憲法に関心を持ち、第九条の平和の心を守っていきましょう。』」

この漫画は創価学会婦人平和委員会が出版した、「わたしたちの平和憲法―まんが (平和への願いをこめて―ジュニア版)」(1988/9)である。作画は、懐かしい山根赤鬼。念のためとアマゾンを検索したら、中古の出品3冊出てきた。価格は、17,998円、25,282円、そして30,000円という。今はあとかたもない歴史的な遺物として、高価なのかも知れない。

創価学会婦人平和委員会編の『平和への願いをこめて』(第三文明社・1981)というシリーズもある。本格的な民衆の戦争体験記集である。戦地の体験、各地の空襲、沖縄地上戦、そして原爆…。
下記URLをご覧いただきたい。
「昭和50年代の青年部と婦人部の反戦出版」
  http://jounin.web.fc2.com/hansen/hansen.htm

戦争を知らない世代へ?(全56巻)
戦争を知らない世代へ? 全24巻
平和への願いをこめて 全20巻

最後の全20巻は下記のとおり。
?引揚げ編
?従軍看護婦編
?戦後生活(関西)編
?広島・被爆その後編
?学童疎開編
?基地の街(神奈川)編
?女たちの戦禍編
?聞き書き(千葉)編
?戦争未亡人(埼玉)編
?女教師編
?樺太・千島引揚げ(北海道)編
?沖縄戦後編
?被爆二世(長崎)編
?農村婦人(東北)編
?女子挺身隊(中部)編
?満蒙開拓(長野)編
?国防婦人会(大阪)編
?四国編
?戦争孤児(東京)編
?外地編 あの星の下に

上記「?従軍看護婦編 白衣を紅に染めて」の一節にネットで接することができた。従軍看護婦の手記が、慰安婦の惨状を語っている。
「ジャワ島に行く途中、私達の乗った輸送船が潜水艦に襲われ・・・・その時は運よく魚雷に当たらず、私たちはヤレヤレと胸をなでおろしましたが、それも束の間、またまた、何かの理由で船は進行を阻止され、やむなく途中のセレベス島マカッサルという所で1か月待機することになりました。ところが、私はこの地で先に記した戦場での負傷者よりもっとひどいものを見ることになりました。それは日本軍隊の恥部ともいわれている従軍慰安婦の実態でした。性病に冒され、局部が形がなくなるほどむごくくずれた彼女達は、『決していわないでくれ』といいながら、少しずつその生き地獄のさまを話してくれたものです。戦争のために送られた兵隊達もそこが戦場となっていなければ、休日もある。休みといっても行く所もすることもなければ、勢い、男達は慰安所に列をなす。慰安婦の数は少なくはなかったが、兵隊の数はあまりにも多く、時間を区切って用を済まさせたが、1日に数えきれないほどの人数を受け入れなければならず、それはもう生きた心地はない……と。それまで話に聞いたことはありましたが、現実にそういう所に身をさらさなければならない女性と接するにつけ、その中には朝鮮の女性もたくさんおりましたし、私は『ああ、日本人って、日本軍隊ってこういうものだったのか』と同じ日本人の女性として、言葉に表すこともできない憤りに苦しんだものでした」(156?157ページ、孫引き)

かつての創価学会は、かくも堅固な護憲派であり、反戦の姿勢も堅持していたのだ。この人たちの後輩が、今アベ改憲勢力の手先になりさがっているのだろうか。嗚呼。
(2016年6月26日)

野党共闘をどう見るかー18・19歳の意見と向き合う

昨日(6月23日)の毎日新聞朝刊。「参院選で有権者になる20歳未満の男女各50人の計100人に野党共闘について聞いた」という記事。回答した92人の意見分布と9人の個別意見を紹介している。「野党共闘に「賛成」と答えたのは28人。「反対」は18人で、最も多かったのは「その他」の46人だった。」という。新有権者の意見を知ることは極めて有益である。

もっとも、やや漠然とした問に、必ずしも噛み合わない回答になっているとの印象を避けられない。野党共闘は憲法改悪阻止ないしは立憲主義の回復を主たる目標とするもの。もう少し具体的には、「7・1閣議決定」と「戦争法の廃止」を主たる共通課題としている。だから本来は、野党の共闘が共通課題とした理念や政策への賛否を明確にしたうえ、その後に、その目的に照らして共闘が意味あるものか否かについて意見を聞くべきではなかったか。そうすれば、もう少し整理された分かり易い意見を聞くことができたのにと思う。

それでも、記事が述べているとおり、それぞれの回答者の真剣さが伝わってくる。僭越ながら、個別の意見に向き合い検討してみたい。

賛成意見(28人中の3人の意見)
◆共闘は無理だと思っていた。自分たちの政策を横に置いても改憲を阻止したい真剣さが初めて見えた気がする。今回の選挙の争点には、過去にない重みのあることが分かった。……………………北海道・大学生・男19
◇澤藤コメント 至極真っ当な見解ではないか。各政党がそれぞれの理念や政策を有していても、明文改憲を許してしまえば取り返しのつかないことになる。したがって、「各政党独自の政策を横に置いても改憲を阻止するという一点で共闘する」姿勢を積極評価している。「今回の選挙の争点には、過去にない重みがある」というのは、明文改憲がかかった選挙だという理解なのであろう。論評の必要がない。

◆実際に憲法改正阻止ができるかどうかは疑心暗鬼の部分もあるが、与党対野党というわかりやすい図式で、報道もわかりやすくなった。以前より関心を持って見られるようになった。………………………埼玉・大学生・女19
◇澤藤コメント 「実際に憲法改正阻止ができるかどうかは疑心暗鬼」とは、「今次の野党による選挙共闘成立くらいのことでは、憲法改正阻止を実現すること難しいのではないか」ということのようだ。だから回答者は改憲阻止を望む立場なのだろう。ところが、野党共闘の成立の積極評価を「改憲阻止の目標」に照らしては語らず、「与党対野党というわかりやすい図式で、報道もわかりやすくなった」「以前より関心を持って見られるようになった」という傍観者としてのメリットを語るレベルで終えている。できれば、もっと積極的な当事者意識が欲しいところ。当事者意識とは、主権者意識と言い変えてもよい。

◆さまざまな意見を言う人が集まれば、団体として幅が出ると思う。一つの意見、政策を訴える一つの党よりも柔軟な対応をしてくれそう。…熊本・高校生・男18
◇澤藤コメント 共闘のメリットを「幅」「柔軟な対応」に求めて評価する意見。現今の風潮では、「決められない政治」「優柔不断」が攻撃されている。とりわけ右派から民主主義的政治過程の手続的加重が嫌われる時代である。そのようなときに、意見の異なるさまざまな人びとの集合自体に価値を認める見解は、民主主義の原点に立ち帰る素敵なものだ。とはいうものの、あまりに抽象的な一般論としてしか語られてないことが気にかかる。果たして、なんのためのどのような共闘かを認識したうえで、問題を煮詰めての結論なのだろうか。

反対意見(18人中の3人の意見) 
◆党是が全く違う政党が一緒に戦って、与党を倒した後に何ができるのか疑問が残る。………………福島・大学生・男18
◇澤藤コメント これは、果たして自分の意見なのだろうか。与党の共闘攻撃をオウム返しに口にしているだけのようで、読む方に気恥ずかしさが残る。野党の選挙共闘は、本当に「党是が全く違う政党が一緒に戦」ってるのだろうか。自・公という「党是が全く違う政党」でさえ、それなりに共闘しているではないか。4野党は、改憲阻止、立憲主義や平和主義・福祉重視の理念、あるいは成長よりは分配を重視する経済政策において、立場は近いというべきではないか。「与党を倒した後に何ができるのか」ですって? 与党を倒せるところまで闘えたらたいしたものではないか。もし、与党を倒すことができれば、そのあとには新たな連立政権を作る道が開けるだろう。

◆4党は主張が大きく異なるのに選挙のために組むのはおかしい。一致しているのは安保法制廃止と改憲阻止くらいで、消費税や自衛隊への考え方もバラバラだ。……………兵庫・専門学校生・男18
◇澤藤コメント 問題は2点。「消費税や自衛隊への考え方がバラバラなまま、安保法制廃止と改憲阻止で、選挙のために組むことがおかしい」か。そして、本当に、「4野党が一致しているのは安保法制廃止と改憲阻止くらいで、消費税や自衛隊への考え方もバラバラ」なのか。
 共闘とは考え方の違う者が、小異を捨てて大同に就くことだ。「消費税や自衛隊への考え方」を小異とし、「安保法制廃止と改憲阻止」を大同として、選挙民に訴えることは少しもおかしくない。むしろ、小異にこだわって、大同を生かすことができなくなることこそが有権者の期待を裏切ることになるというべきだろう。
 「4野党の消費税や自衛隊への考え方はバラバラ」だろうか。消費税については当面8%維持で一致できる。問題は、福祉政策の財源確保のため税制をどうするかに各党の政策のバラエティはある。しかし、そのバラエティが共闘の障壁となるものではない。自衛隊について、その存在を違憲とするのは共産党だが、同党は性急にその解散を求めないと明言している。自衛隊の海外派兵阻止の一点を4野党の大同とすれば、共産党の自衛隊の存在を容認することは小異に過ぎず、共闘の一致点設定の支障とはなっていない。

◆たくさんの政党があり、それぞれ考えがあるのに、共闘でいろいろな政党の良さが薄れるのではないか。………………………福岡・大学生・女18

◇澤藤コメント これは、ご自分の意見なのだろう。多様な政党の存在を肯定するもっとなご意見。しかし、議会制民主主義においては、結局は選挙による議席数がものをいうことになる。多数の小政党は、大同団結することなしには、結局のところ議会に議席をもつことができない。ご意見はリアリティに欠けるものではないだろうか。譲れるところは譲って、共通する重要課題で選挙共闘をすることは、結局は、部分的にはせよ小政党の考え方の良さをさを生かす道となるのではないだろうか。しかも、今は歴史の分岐点となりかねない重大事態。憲法を守りきらないと、「いろいろな政党の良さ」を発揮する基盤が失われかねない。

「その他」の意見(46人中の3人の意見)
◆どちらともいえない。与党に強引な政治をさせないためには良いと思う。ただ、これまでの野党はまとまって、ばらけてを繰り返している印象が強く、まとまりきれないのではないか。……………………青森・団体職員・男18

◇澤藤コメント これは、野党共闘は評価する立場。その理由を「与党に強引な政治をさせないため」と明確にして、自分の見解の論理性を一貫させている。しかし、「まとまりきれないのではないか。」と共闘の継続性を問題として悲観している。私は思うのだが、今は事前に悲観している余裕などない。改憲はこの国に取り返しのつかない事態をもたらしかねない。それなら、悲観も楽観もなく、改憲阻止のための共闘をせざるを得ないのではないか。この回答者の立場からは、もっと共闘を積極評価してもよいのではないかと思えるのだが。

◆興味がない。最近の政治家は汚職など問題が目立ち、信頼できないので何をしようと変わらないんじゃないかと思う。………………………栃木・大学生・男18

◇澤藤コメント そのような気分も分からないではない。でも、あなたが政治を見放せば、今の政治を消極的に支持したことになる。それこそが、アベ政権の思う壺。汚職にまみれた政党や政治家、信頼できない政治を、批判して欲しい。そうしなくては政治は変わらない。不愉快な社会も変わらない。そのことはあなた自身の将来にはね返ってくる。

◆よく分からない。どの政党も日本の未来ではなく政権を握ることしか考えていないから、同じようにしか感じない。………………………山梨・高校生・男18
◇澤藤コメント 本来政党とは、「日本の未来」を考えるべきで、「政権を握る」ことを自己目的化してはならない。おっしゃるとおりだと思います。
今、「日本の未来」を揺るがす大きな問題が起きようとしています。それが、日本国憲法の改正(改悪)問題。あなた方の先輩世代の有権者が、いま政権与党を勢いづかせて、平和や人権、民主主義を壊す改憲を現実的な課題としています。これを放置しておくことは、軍国主義がのさばった、自由のない戦前の時代を再来させかねません。野党共闘は、政権を握ることを目的としたものではなく、かけがえのない憲法を変えさせないためのものだと理解していただきたいのです。
(2016年6月24日)

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