澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

「現代版・リットン調査団」を中国に派遣せよ。今度は「バチェレ調査団」だ。

(2021年12月15日)
 1931年12月10日、国際連盟理事会は「日支紛争調査委員会」の設置を決議し、次いでリットン以下5委員を任命した。世に言う「リットン調査団」の結成である。同調査団は精力的に、東京を皮切りに、上海、南京、漢口、北平(北京)を視察のあと、満洲地域を1か月間現地調査し、再び東京を訪問。その後北京で報告書を作成している。連盟理事会に完成した報告書を提出したのが32年10月1日である。

 1933年3月24日連盟総会は42対1(反対は日本)で同報告書を採択し、同日日本は国際連盟を脱退する。この調査団報告に対する歴史的な評価は種々あろうが、日本が国際連盟の調査に協力したことは特筆されてよい。費用の半額を負担してもいる。

 「中国の人権状況」をめぐって、これを指弾する勢力と批判を拒否する中国に追随する勢力とに、世界が分断の色を濃くしているいま、90年前の故事に倣って「国際連合中国人権状況調査委員会」を設置すべきではないか。そのような国際世論を盛り上げたい。

 現代版「リットン調査団」は、「バチェレ調査団」になる。中国政府は、「バチェレ調査団」のウイグルと香港の調査に無条件に協力しなければならない。

 国連人権高等弁務官ベロニカ・ミチェル・バチェレ・ヘリア(1951年9月29日生)は、女性初のチリ大統領を2期務めた政治家だが、外科医であり小児科医でもあるという。その父は、アジェンデ政権の協力者として独裁者ピノチェットに殺害された人、自身も拷問を受けた経験があるという。

 中国の人権弾圧が問題となって国連も腰をあげ、バチェレ人権高等弁務官が現地を訪問しての調査を申し出た。中国政府も、さすがに「NO」とは言えない。しかし、何をどのように調査するのか、調査の条件にこだわって、「協議」は続いているというが、調査は実現していない。

 この間、メディアには、主としてウィグル人亡命者からの生々しい人権侵害被害の報告が重ねられ、その都度、中国当局の「事実無根」「捏造」「うそにあふれ、中国をたたくための政治的なたくらみ」というお決まりの反論が繰り返されてきた。

 しかし、米バイデン政権の本気度は高く、新疆産製品を強制労働によるものとしてボイコットを呼びかけ、さらには綿製品に限らないすべての新疆産製品の輸入を禁止し、新疆産の原材料を使用する製品でないことの証明を求めるというところまで来ている。

 影響の大きい例では、太陽光パネルの材料であるシリコンがある。その生産量は世界の8割を中国が占め、その半分ほどがウイグルで採掘されているという。これをアメリカは、原料としての輸入をしないだけでなく、製品としてもウィグル産シリコン不使用を証明できない限り輸入は認めないという。

 この動きは、おそらく世界に広まるだろう。中国にとっての打撃となる。中国はその先手を打って、「バチェレ調査団」を受け入れると宣言すべきではないか。

 「バチェレ調査団」は、各国の政府関係者だけでなく、ジャーナリストと人権NGOの活動家を加えるべきだ。そして、被害を訴えた亡命者を帯同しなければならない。調査は2班に分けて、ウィグル各地と香港を対象とする。期間は最低2年はかかるだろう。中国当局が見せたくないところを見なければならないし、しゃべらせたくない現地の人の声を聞く工夫がなくてはならない。

 ところで、中国当局の公式見解は、「人民網日本語版」で手軽に確認できる。
 http://j.people.com.cn/
 その12月10日欄に、記者の質問に答える形で、汪文斌・外交部報道官がこう語っているのが、興味深い。
 


 新疆関連の問題は人権問題などでは全くなく、テロ対策、脱過激化、反分離主義の問題だ。中国政府が法に基づき暴力テロに打撃を与えるのは、まさしく新疆各民族人民の人権を最もよく守っていることになる。

 香港地区は中国の香港地区であり、香港地区の事は完全に中国の内政だ。中国政府が国家の主権と安全、発展上の利益を守る決意は確固不動たるものであり、「一国二制度」の方針を貫徹する決意は確固不動たるものであり、香港地区内部の事へのいかなる外部勢力による干渉にも反対する決意は確固不動たるものだ。」

 要するに、「新疆と香港の問題は、アンタッチャブルだ。他国に余計なことは言わせない」という、居丈高な姿勢。なんという余裕のない、なんという批判拒否体質。これでは、世界の良識からの理解を得られない。水掛け論を繰り返すのではなく、「バチェレ調査団」の調査を受け入れれば、中国政府側の利益にもなるのではないか。

中国共産党の民主主義論は、神権天皇を寿ぐ無内容な美文によく似ている。

(2021年12月13日)
 アメリカのバイデン政権が、「価値観を共有する」友好国を招いて「民主主義サミット」を開催し、これに中・露など「価値観を共有せざる」諸国が反発している。連合国対枢軸諸国の対立を再現するようなことがあってはならないが、人権や民主主義の蹂躙に対する必要な批判を遠慮してはならない。

 色をなした体で中国が反論を試みていることが興味深い。さすがに、批判は身にこたえるのだ。「民主主義なんぞ何の価値があるものか」と開き直ることはできない。「偉大な習近平の指導に従うことこそが、人民の利益に適うのだ」と言いたいところだが、そのような言葉は呑み込まざるを得ない。そして、おっしゃることは、「結党以来100年、中国共産党は民主を貫いてきた」である。へ?え、そうだったんですか。ちっとも知りませんでした。

 思い起こせば、孫文「三民主義」に「民権主義」があり、毛沢東に「新民主主義論」(1940年)がある。民主主義をないがしろにするとは言えないのだ。とは言え、革命中国においても、党の支配を制約する「民権」「民主」を貫いてきたとは、意外も意外。

 中国に民主主義があるのか、固唾を飲んで見守ったのは1989年6月天安門事件のときだった。その後、中国に民主主義の片鱗でも残されていないか、固唾を飲んで見守ったのは2020年香港の事態である。1989年に絶望し、2020年には、その絶望を確認するしかなかった。

 にもかかわらず、中国はこう言っている。「中国にも民主主義はある。但し、それは英米流のものではない」「中国の近代化では、西洋の民主主義モデルをそのまま模倣するのではなく中国式民主主義を創造した」「中国は独自に質の高い民主主義を実践してきた」。

 要するにに、「民主主義」に「中国式の」という修飾を付加すると、別物になってしまうのだ。

 昨年(2020年)6月、国連の人権理事会でカナダなど40か国余が共同して、「中国に対して、国連高等弁務官の新疆入りの容認を求める共同声明」を発表した。その共同声明は新疆での人権弾圧問題でけでなく、「国家安全維持法(国安法)下での香港の基本的自由悪化とチベットでの人権状況を引き続き深く懸念している」とも指摘していた。
 これに対して、ジュネーブの中国国連代表部の上級外交官Jiang Yingfengは、共同声明が指摘した問題の存在を否定して「政治的な動機」に基づいた干渉だと非難し、香港問題については、「国安法制定以降、香港では混乱から法の支配への変化が見られている」と述べた。(ロイター)
 https://jp.reuters.com/article/china-rights-un-idJPKCN2DY137

 香港では、権力が市民の言論の自由を奪い、出版の自由を妨害し、権力を批判する新聞を廃刊に追い込み、中国共産党の統制に服さない結社を解散させ、デモさえ許さず、恣に活動家を逮捕し起訴し有罪判決を言い渡している。この事態を中国共産党は、「混乱から法の支配への変化」というのだ。

 中国共産党にとっては、民主主義とは「望ましからざる混乱」に過ぎない。民主主義が必然とする市民の自由な諸活動を徹底して弾圧し、押さえ込むことこそが「あるべき法の支配」だというのだ。中国共産党の恐るべき本心、そして恐るべき詭弁である。

 最近中国の民主主義に関する論説を読んでいると、なんとなく既視感を禁じえない。戦前の神権天皇制政府を持ち上げた、あの恐るべき無内容ながらも、延々たる美文によく似ているのだ。

 あのバカげた神権天皇制の権威主義的政治体制についてさえ、「五箇条のご誓文を淵源とする民主主義の精神で貫かれている」と持ち上げる倒錯した論説もある。また、万世一系の天皇は「臣民を赤子としてこの上なくお慈しみあそばされた」という愚論もある。これが、中国共産党の民主主義論によく似ているのだ。

 万世一系を中国共産党の無謬性に置き換え、天皇を習近平に、臣民を人民に読み替えれば、実はたいして変わらない。両体制とも、これこそが臣民(人民)の利益を擁護するための最高の政治体制であることを疑っていない。民主主義なんぞは非効率であるばかりでなく間違ってばかり。そう言えば、八紘一宇の思想は一帯一路に似ているではないか。

 民主主義が、画一化され定型化された政治理念でないことは当然である。しかし、「文化は多様」「文明は多様」「それぞれの国や民族の歴史や伝統は多様」というレベルで「民主主義も多様」と言えば、明らかに民主主義否定の詭弁でしかない。重要なことは、民主主義を支えている具体的な諸制度や自由の検証である。「中国的民主主義」は、とうていそのような検証に耐え得る代物ではない。

今朝の毎日新聞が報じた、2件の在日差別訴訟。

(2021年11月19日)
 本日の毎日新聞朝刊。社会面トップが、『ヘイト投稿、放置できぬ 川崎の在日コリアン 男性を提訴』という記事。その紙面での扱いの大きさに敬意を表したい。

 続いて、『差別文書、差し止め命令 フジ住宅の賠償増額 大阪高裁』の記事。今のところ、《東のDHC》《西のフジ住宅》の両社が、悪名高い在日差別企業の横綱格。そのフジ住宅に対する厳しい高裁判決。ヘイトの言論はなかなか無くならないものの、ヘイトに対する批判の世論や運動は確実に進展していると心強い。

 まずは、ヘイト投稿への損害賠償請求提訴。提訴は、昨日(11月18日)のこと。提訴先は原告の居住地を管轄する横浜地裁川崎支部である。

 「川崎市の多文化総合教育施設「市ふれあい館」館長で在日コリアン3世の崔(チェ)江以子(カンイヂャ)さん(48)は18日、インターネット上で繰り返し中傷を受けたとして、投稿した関東地方の40代の男性に対し、慰謝料など305万円の損害賠償を求める訴えを横浜地裁川崎支部に起こした。

 訴状などによると、男性は2016年6月、自身のブログで「崔江以子、お前何様のつもりだ‼」とのタイトルで「日本国に仇(あだ)なす敵国人め。さっさと祖国へ帰れ」などと投稿した。崔さんの請求を受けてブログ管理会社が投稿を削除すると、同年10月から約4年にわたり、ブログやツイッターなどで崔さんについて「差別の当たり屋」「被害者ビジネス」などと書き込んだ。

 崔さんは21年3月に発信者情報の開示を請求し、投稿した男性を特定した。男性は崔さんとの手紙のやり取りの中で自身の行為を認めて謝罪をしたものの「仕事がなくてつらかった」などと弁解したため、反省がみられないとして提訴に踏み切った。」

 「川崎市は20年4月、ヘイトスピーチに刑事罰を科す全国初の『市差別のない人権尊重のまちづくり条例』に基づいて有識者で構成する審査会を設置。この審査会がヘイトと認定した計51件のネット上の書き込みを削除するようサイト運営者に要請した。このうち37件が削除されたものの要請に強制力はなく、残る14件にそれ以上の措置をとれないのが実情だ」

 弁護団は「やったことに対して責任を取らせるというのがこの裁判の趣旨。削除要請だけでは問題が解決しないケースで、このまま放置できないと考えた」と話している。

 この被告とされた男性は、「仕事がなくてつらかった」から在日差別の投稿を繰り返していた。イジメの動機として多く語られるところは、惨めで弱い自分を認めたくないとする心理が、自分よりも弱く見える相手を攻撃することによって、自分の弱さを打ち消そうとするものだという。

 問題は、このような攻撃の捌け口として、在日コリアンが標的とされる日本社会の現状にある。リアルな社会では差別を恥としない右翼政治家や評論家、行動右翼の言行が幅を利かせ、差別本が世に満ちている。ネットの世界では匿名の壁に隠れて口汚い差別用語が飛び交っている。この状況が、在日コリアン攻撃に対する倫理的抵抗感を失わしめ、しかも報復のない安全な弱い者イジメと思わせてはいないだろうか。在日コリアンだけでなく、貧困や性差別や心身の障害などでの差別に苦しむ人々についても、イジメの対象としてよいと思わせる風潮があるのではないか。

 いまや、理念や倫理を語るのでは足りない。刑罰や、損害賠償命令という形での民事的な制裁が必要と考えざるを得ない。差別言論は、刑事罰を科せられ、あるいは損害賠償を負うべき違法行為と自覚されなければならない。広範にその自覚を拡げるために毎日新聞記事のスペースの大きさを歓迎したい。

 そして、たまたま同じ日に、「差別文書、差し止め命令 フジ住宅の賠償増額 大阪高裁」の記事である。

 「ヘイトスピーチ(憎悪表現)を含む文書を職場で繰り返し配布され、精神的苦痛を受けたとして、東証1部上場の不動産会社「フジ住宅」(大阪府岸和田市)に勤める在日韓国人の50代女性が同社と男性会長(75)に計3300万円の賠償を求めた訴訟の判決で、大阪高裁(清水響裁判長)は18日、1審・大阪地裁堺支部判決から賠償額を計132万円に増額し、文書配布を改めて違法と判断した。1審判決後も文書が配られ続けたとして、会社側に配布の差し止めも命じた。」

フジ住宅については、当ブログで何度も取りあげてきた。下記を参照いただきたい。

https://article9.jp/wordpress/?s=%E3%83%95%E3%82%B8%E4%BD%8F%E5%AE%85 

 昨日の判決では、「会社側には差別的思想を職場で広げない環境作りに配慮する義務がある」との判断が示されたという。その上で、「差別を助長する可能性がある文書を継続的かつ大量に配布した結果、現実の差別的言動を生じさせかねない温床を職場に作り出した」ことをもって、会社側はその配慮義務に違反し、「女性の人格的利益を侵害した」と結論付けたという。

 これは素晴らしい判決である。これまで、労働契約に付随する義務として、使用者には労働者に対する「安全配慮義務(=安全な労働環境を整えるよう配慮すべき義務)」があるとされてきた。今回の判決はこれを一歩進めて、「使用者には労働者に対して、差別的思想を職場で広げない環境作りに配慮すべき義務を負う」としたのだ。つまりは、労働者を尊厳ある人間として処遇せよという使用者の具体的義務を認めたということである。さらに判決は、ヘイト文書の職場内での配布を差し止め仮処分も認容した。これも素晴らしい成果。

 裁判所は、よくその任務を果たした。が、それも原告の女性社員が臆することなく訴訟に立ち上がったからこその成果である。社内での重圧は察するに余りある。孤立しながらの提訴に敬意を表するとともに、この原告を支えて見事な判決を勝ち取った弁護団にも拍手を送りたい。

 フジ住宅は「差し止めは過度の言論の萎縮を招くもので、判決は到底承服できず、最高裁に上告して改めて主張を行う」とのコメントを発表したという。ぜひ、上告してもらいたい。そして、《弱者を差別し傷付ける言論の自由の限界》についてのきちんとした最高最判例を作っていただきたい。そうすれば、フジ住宅というヘイト企業も社会に貢献したことになる。

「弾圧を受けた弁護士の弁護士が有罪とされ、そのまた弁護士までが資格剥奪の通告を受けた」

(2021年10月25日)
 今は昔のこと。中国司法制度調査団などというツァーに参加して、何度か彼の地の法律家と交流したことがある。

 そのとき、裁判官の独立も、弁護士の在野性も、検察官の罪刑法定主義もほとんど感じることはできなかった。日本の司法には大いに不満をもっていたが、彼の地の司法はとうていその比ではなかった。

 改革開放政策に踏み切った中国が経済発展を遂げるには、近代的な法制度をつくり、その法制度を運用する厖大な法律家の創出が必要になるという時期。みごとな通訳を介して、私は遠慮なくものを言った。

 「中国共産党の専横を抑制するには、法の支配を徹底するしかない。厖大な数の法律家が育てばその役割を果たしてくれるのではないか」「とりわけ、人権意識の鋭い弁護士が多数輩出することが中国の社会を民主化するきっかけになるのではないか」「権力の横暴が被害者を生み、その被害者が弁護士を頼らざるを得ないのだから、反権力の弁護士が育たないはずがない」「そのような弁護士の輩出による中国共産党の一党独裁の弊害への歯止めを期待したい」

 私の言葉は、ほとんど無視された。せいぜいが、「あなたは中国共産党のなんたるかを知らない」「そんな甘いものじゃない」「まったくの部外者だから、勝手なことを言える」という言葉が返ってきた程度。

 今、中国の人権派弁護士が孤立して、中国共産党の暴虐に蹂躙されている模様が報道されている。「中国で人権派弁護士は、権力の監視役として一定の役割を果たしてきた。習近平指導部は、党の一党独裁体制を脅かす存在として抑圧を続けている」と共同記事。昔中国で聞かされた「中国共産党はそんな甘いものではない」という言葉を思い出す。なるほど、これが現実なのだ。

 かつての天皇制権力の暴虐も、弁護士の人権活動を蹂躙した。はなはだしきは、国賊共産党員の弁護活動従事を治安維持法違反に当たるとして検挙した。当時司法の独立はなく、当然の如く有罪が宣告され、弁護士資格は剥奪された。当時弁護士の自治はなく、弁護士会も天皇制権力に毅然とした姿勢をとることはできなかった。同じことが、いま中国で起こっているのだ。

 2015年7月9日、約300人の弁護士・人権活動家が一斉拘束された。「709事件」としてよく知られている。しかも、拘束された人権派弁護士たちは苛酷な拷問を受けたとされる。多くの弁護士が、この弾圧で投獄され資格を失った。それだけではなく、この事件で起訴された弁護士の弁護を務めた弁護士が弾圧されている。

 「709事件」の被害者として著名な人権派弁護士王全璋は、服役して刑期を終えた。ところが、王全璋の弁護を担当した余文生弁護士は18年1月からの拘束が続いているという。その余弁護士の弁護を引き受けたのが、盧思位弁護士。余弁護士は苛酷な拷問のうえ有罪判決を受けて下獄し、廬弁護士は香港の事件受任で資格剥奪の通告を受けているという。

 余弁護士の妻、許艶氏は夫の拷問を告発するとともに、「(一斉拘束事件では)弁護士の弁護士の弁護士まで圧力を受けた」と憤っていると報じられている。ああ、中国には人権はなく、刑事司法もない。あるのは、お白州レベルの糾問手続だけなのだ。

 これは、社会主義とも共産主義とも無縁な現象。野蛮な権力の容認は、未開社会の文化度・文明度を物語るものである。

「もっと生きていたかった ー 風の伝言」

(2021年8月11日)
 不定期刊の「風のたより」を送ってくれる石川逸子さんから、新刊書をいただいた。「もっと生きていたかった ー 風の伝言」という33編の詩集。

 出版した一葉社の解説には、「『生きたいのに生きられなかった 数え切れないほどの ひとたち』― 打ち捨てられた死者たちに想いを馳せてきた詩人・石川逸子の哀悼小詩集。」とある。

 あとがきにはこうある。「この国はなんと歴史に学ばない国でしょうか。一旦、世界に目を転じれば、其処にも、かしこにも、いわれなく殺戮され、恐怖に怯えるひとびとがいて…。(性懲りもなく、再び屍の山を築く気かよ)――地底から聞こえてくる、もっと生きていたかった、ひとびとのかすかな呟きに耳を傾けねばと思うこの頃です。」

 この世に生を受けた誰もが望むことは何よりも生きること、生きながらえること。できることなら、家族の愛に包まれて育ち、親しい友と交わり、友人とともに学び、そして人を愛し働き、また家族をなして子をもうけ育てること。そのような生を断ち切られた人々を静かに見つめ、その思いを代弁する33編。

 生を断ち切られた人は、さまざま…。戦没者、ナチスの収容所で犠牲となったユダヤ人、日本軍に殺された朝鮮人、従軍慰安婦とされた女性、終戦間近の特攻兵、沖縄戦の犠牲者、広島・長崎の爆死者、ナバホ族の放射線死者、パレスチナで殺された少年、イラク戦空爆の死者…。ヒトでないのは、ひそひそとささやき交わす福島の牛の遺体。どの詩からも、「もっと生きていたかった」というつぶやきが聞こえる。

 一編だけ、笑っている遺骨の詩がある。他とは異なる不思議な宗教詩ともいうべき雰囲気の詩。これだけを紹介させていただく。
 
笑 い 声

輜重兵特務一等兵 キタガワ・ショウゴ
1937年5月14日 銃弾に左胸部を貫かれ
戦死 享年24

幼い甥・姪たちへの手紙
「いまかうして戦ひあってゐる人々の中には
一人もいけない人は居やしない
ただ戦争だけがいけないことなのだ」

若者は 一発の銃も「敵」にむけないことを
おのれに課した
中国の子どもたちとのんびり遊び 里人にタバコを分ける
家の中に彼を 招待し 飴をもてなし
入浴まですすめる 里人たち

「おじさんは 憎い敵兵はただ一人も見やしなかった」
「おじさんは 戦友に文句を言われても 自分では
 とてもいい気分なのさ」

「次には ロバの話 水牛の話 豚の話を書こう」
記した 若い「おじさん」は
小さな骨になって 生家に帰ってきた

骨は(だれ一人殺さずに済んだ)と
嬉しそうに 笑っていた

「僕は一つの解決を射止めて、気軽に帰ってきた。
この嬉しそうな白木の箱の中で、赤ん坊のように
喚き立てている僕の声を聴いて呉れたまへ」
夜更け耳をすまし ひそやかな若者の
笑い声を聴こう

 発売日:2021年07月12日
 著者/編集:石川 逸子
 出版社:一葉社 価格1100円

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https://honto.jp/netstore/pd-book_31083493.html

軍政のミャンマーで蹂躙されている人権と民主主義

(2021年3月16日)
昨日(3月15日)の記者会見で、国連のドゥジャリク事務総長報道官は、クーデターへの抗議デモが続くミャンマーで治安部隊の弾圧により「これまでに女性や子どもを含む少なくとも138人の平和的なデモ参加者が殺害された」と述べた。グテレス事務総長は同日の声明で、国軍による弾圧激化について「がくぜんとしている」「デモ参加者の殺害や恣意的な拘束は基本的人権を侵害しており、自制や対話を求める国連安全保障理事会の呼び掛けにも反している」と批判した。

ミャンマーの人口は5000万人余。その9割が仏教徒だという。仏教徒の戒律として、出家には十戒、在家信者にも五戒が課せられる。五戒とは、不殺生戒・不偸盗戒・不邪婬戒・不妄語戒・不飲酒戒。その筆頭が《不殺生戒》。生きとし生けるものの命を奪ってはならないとする戒めだというが、もちろん「人を殺してはならない」がメインである。

漢の高祖は、法は三章のみと言った。「人を殺す」「人を傷つる」「人の物を盗む」を罪とする。モーゼの十戒も、「汝、人を殺す勿れ」と言う。古今東西を通じて、「殺人」は社会が許さない違法な行為であり、「殺してはならない」という規範は、人の倫理として深く心に刻まれている。

ミャンマーの治安部隊や国軍の兵士とて、人である。その多くは、仏教徒でもあろう。どうして、平和なデモ隊に銃を向け、実弾を発射できるのだろうか。命じられたからとしても、どうして人殺しができるのだろうか。どうして、圧倒的な民衆の側に敵対し、殺人までできるのだろうか。

今、ヤンゴンで、マンダレーで、白昼路上での大規模な集団殺人が行われている。殺す側と殺される側が対峙しているとき、「その等距離の位置を堅持する」「両者の言い分を聞こう」などと

人権を語るべき国も個人も、ともかく「殺人をやめよ」と声を発しなければならない。

ヤンゴン市内在住のジャーナリストからのこんな報道に接すると胸が痛む。

 SNS上には、国軍が民間人に発砲する「蛮行」の様子を示すさまざまな動画がアップされている。中でもひどいのは「発砲を嫌がる警官を軍人が脅して、民間人を撃つよう命令する」様子を映したものだ。BBCが3月15日に伝えたところによると、抗議デモ開始以降、ミャンマー全土で少なくとも120人以上が死亡したという。

 見せしめ的な殺害行為もある。かねて「何体の遺体が集まったら国連は行動を起こすんですか?」と書いた紙を持ち、孤軍奮闘している姿が各国のニュースサイトに報じられた男性、ニーニーアウンテッナインさん(23)は2月28日、ヤンゴン市内のデモの主要スポット・レーダンで当局により射殺された。国際社会に向け、メディアに発信する人間は消される状況にある。(さかい もとみ)

 軍政は戒厳令を発している。ミャンマーでは、法の支配が停止され、軍が権力を掌握しているということである。軍政の最高意思決定機関「国家統治評議会」は、昨日(3月16日)付の国営紙で、ヤンゴン6地区に発令した戒厳令の詳細を公表した。軍法会議を設置し、政府や国民の不信、恐怖をあおる行為や政府職員の規律に悪影響を与える行為、偽情報の流布など23項目を犯罪とした。最高刑は死刑、上訴は認めないなどとする内容。デモ参加者らへの弾圧をさらに強める可能性が高いと報じられている。

人権と民主主義とはセットになっている。目的的な価値である人権を擁護するために手段的な価値としての民主主義が重要なのだ。民主主義が崩壊するとき、人権も失われる。民主主義の崩壊を象徴するものが戒厳令にほかならない。自民党改憲案(2012年)は、戒厳令と紙一重の詳細な緊急事態条項が提案されている。ミャンマーの出来事は、けっして対岸の火事ではない。

桐野夏生が描く「表現の不自由」のデストピア『日没』

(2021年2月20日)
話題の桐野夏生「日没」を先ほど読み終えた。読後感を求められれば、「この本を手にするんじゃなかった」というのが正直なところ。まだお読みでない人に、親切心から警告しておきたい。これは、読み始めたら途中で止められない。普通の神経の持ち主には耐え難いほどの精神的苦痛をもたらす。希望も救いもない。「日没」に、明日の夜明けの気配はまったくないのだ。それでも、恐い物見たさの誘惑に克てない人には、「自己責任でお読みなさい」と言うしかない。

小説の冒頭、主人公の作家が正体不明の施設に収容されるまでの展開は不自然で、出来のよくない平凡な小説風。時代や社会という背景がまったく描かれていないから、ここまではリアリティに欠けるのだ。ところが、このデストピア施設での生活が始まると巻を置けなくなる。読み進むのが苦痛なのだがやめられない。結局、最後まで引っ張られることになる。

「私」が収容されるのは、千葉と茨城の県境近くにある「療養所」。実は、国家が運営する反体制・反道徳の作家を「更生」させる施設。被収容者は、読者からの「告発」によって選定される。被収容者は徹底して他人と切り離され、孤立した状態で、圧倒的な力を持つ弾圧者と対峙する。弾圧者は、「私」について、私も知らない隠された事実をいくつも知っている。監視社会・管理社会・密告社会の極限状態が、この小説の舞台設定となっている。

章立ては以下のとおり、みごとなタイトル付けである。
 第一章 召喚
 第二章 生活
 第三章 混乱
 第四章 転向

己の無力を自覚せざるをえない状況で、プライドを堅持して抵抗するか、あるいは屈するか。「私」は、その両者の間で、揺れ動くことになる。「面従腹背」や「転向のフリ」が、奏功するような状況ではない。初め、反抗すれば「減点」が加算され、減点1ごとに、収容期間が1週間延長されることを宣告される。それでも、「私」は抵抗を試みもするが、また空腹から従順になったりもする。

やがて、この施設から「娑婆」へ戻ることは不可能なことがほのめかされ、多数の自殺者があることも分かってくる。権力側は収容者の自殺をむしろ歓迎しているしいう。「私」は、渾身の抵抗を試みるが、成功はしない。そして…。

小説の巧拙に関わりなく、この小説にリアリティを与える状況のあることが恐怖の源泉なのだろう。体制を礼賛し、反中・嫌韓の表現には寛容でありながら、反体制・反日・反道徳というレッテルを貼られた作家や作品にについての「表現の不自由」という現実をこの社会は現出している。学術会議の任命拒否問題しかり、である。

作中の設定では、「ヘイトスピーチ法」の成立とともに、「有害図書」の作家の更生の必要を定める法律が制定されたという。以来、国家が有害作家の更生に乗り出し、何人もの作家が消されていくことになる。これは絵空事ではない。権力をもつ者には、羨望の事態だろう。

恐怖に震えた「私」が、この施設の精神科医に「先生、転向しますから、許してください」と懇請する場面がある。これに対して、精神科医が笑って言う。「転向って小林多喜二の時代じゃないんだから、人聞きが悪い」。この小説は、多喜二の時代の再来が、夢物語ではないことを語っている。

この「落日」が描いているのは、作家に対する弾圧である。しかし、文学や芸術が権力から攻撃される以前に、政治活動や社会的活動、あるいは労働運動、ジャーナリズムや学術・教育に対する弾圧が先行しているに違いない。「日没」の描く風景が恐ろしいだけに、あらためて自由を擁護しなければならないと思う。

「デジタル改革関連法案」が指向する、監視社会化・管理社会化の危険を警戒しなければならない。

(2021年2月18日)
2月9日、政府は「デジタル庁設置法」を含む、「デジタル改革関連法案」を閣議決定し、同日衆院に提出した。典型的な束ね法案で、新設・改正の法案数は計64本に及ぶ。政府は、今国会で成立を図り、「デジタル化推進の司令塔」としてのデジタル庁を9月創設の予定という。

報じられているところでは、法案は、▽デジタル庁設置▽理念を定めた基本法▽マイナンバーと預金口座のひもづけ▽押印廃止などの社会整備▽自治体のシステム標準化―の5分野からなり、政府はこれを一括して審議することを想定しているという。

新設されるデジタル庁は、首相をトップとして、担当大臣や副大臣も配置。事務方のトップには特別職の「デジタル監」を置く。500人規模の組織とし、民間から局長級を含め100人程度の登用を想定しているという。

他省庁への勧告権を持ちながら、国の情報システムの整備・管理や、自治体のシステム共通化に向けた企画・総合調整などを担う。政府が重要課題に掲げるマイナンバーカードの普及についても司令塔となる。

政府は、「デジタル化」によって、国民生活の利便が向上することを強調する。説明資料には、「国民の幸福な生活の実現」「人に優しいデジタル化」「誰一人取り残さないデジタル社会の実現」「安心して参加できるデジタル社会の実現」などいう、歯の浮くような言葉がならぶ。

首相は成長戦略の柱の一つにデジタルを掲げ、平井卓也デジタル改革相は「スマートフォン一つで60秒以内であらゆる行政手続きができるようにする」とまでいう。あたかも、デジタル化によって、バラ色の社会が開け、国民が豊かに幸福度が増していくかのごとき幻想が振りまかれている。本当に、そうだろうか。

デジタル技術自体に善悪の色はない。良くも悪くも使われる道具でしかないが、使い方を間違えると取り返しのつかない大きな障害をもたらす凶器となる。とりわけ、信頼できない権力が推進するデジタル化とは、極端な監視社会・管理社会を目指すものとなる危険を孕んでいる。

IT技術の発達は、個人の監視と管理の徹底を可能とする。国民は家族歴・生育歴・交友歴を把握される。健康情報も、教育歴も、経済生活歴も丸裸にされる。誰と会って、どんな本を購入し、どんなデモに参加したかさえ、一瞬にして可視化される。

今回の「デジタル改革関連法案」『国民生活の利便促進』を名目に、実は『IT技術による全国民直接監視社会』『監視の徹底による国民管理』を指向する危険を警戒しなければならない。

国家が集積する圧倒的な情報量は、丸裸にされた国民の自由を形骸化する。国家は、全国民のあらゆる情報を握って国民に対する意識や行動の操作を可能として、民主主義を形骸化する。既に、中国にその萌芽を見ることができよう。

デジタル改革関連主要6法案の概要は以下のとおりである。
【デジタル庁設置法案】
・首相をトップとし、担当大臣らも配置
・国の情報システムを統括、監理
・他省庁への勧告権などの権限を持つ
【デジタル社会形成基本法案】
・ゆとりと豊かさを実感できる国民生活の実現
・デジタル化の目標や達成時期を定めた重点計画の作成
【預貯金口座の登録、管理に関する2法案】
・本人の同意でマイナンバーにひもづけた口座で、公的な給付金の受け取り、災害や相続時に照会が可能に
【デジタル社会形成関係整備法案】
・各自治体でばらつきがある個人情報保護のルールを統一化
・行政手続きの押印廃止の推進
・マイナンバーカードの機能をスマホに搭載
・引っ越し先に転出届の情報を事前通知
【地方公共団体情報システム標準化法案】
・自治体ごとにばらばらなシステムを、国が策定した基準に合わせるよう求める

中国「核心的利益」論の理不尽。

(2021年2月13日)
「森喜朗・川淵三郎」迷走劇の根は深く、あぶり出されたものは女性差別問題だけではない。我々の社会が抱える構造的な病理を照らし出した貴重な経過から学ぶべきことは多い。わけても、「沈黙は理不尽への同意であり加担ともなる」ことを胸に刻みつつ、「声を上げれば状況を変えられる」ことに希望をつなぎたい。

沈黙してはならない理不尽は世に満ちているが、今や強大国となった中国の「核心的利益」論を批判しなければならない。自国が「核心的利益」と名付けた数々を絶対に譲れないとするその姿勢の頑迷と傲慢の危険についての批判である。

自国の主張を絶対に譲らないという中国の頑なさは、戦前の天皇制日本を彷彿とさせる。天皇の神聖性や、天皇の神聖性の上に成り立つ「國體」は、指一本触れてはならない不可侵の「核心的利益」とされた。のみならず、「満蒙は日本の生命線」も「絶対的国防線」も「核心的利益を譲らない」とする同様の批判拒否体質の姿勢の表れである。

印象に新しいのは、昨年(2020年)「断固として、国家安全法を立法し香港に適用する」と言い出した当時、併せて中国が香港の民主化運動を支援する国際勢力に対して、「香港は中国の核心的利益、必ず守らなくてはならない重要な原則だ」「外部からの干渉は許さない」と牽制したことである。孤立した香港の民主化運動に、中国と対峙する実力はなく、いま野蛮な中国の実力が香港の民主主義を蹂躙している。

香港の民衆にとっての自由と民主主義は、それこそ彼らの「核心的利益」ではないか。香港にとどまらない。台湾の自立も、新疆ウイグル人の人権も、チベットの独立も、それぞれの民衆の「核心的利益」である。なにゆえ、中国がこれを毀損する名分を主張できるというのだろうか。ここにあるのは、強大国の野蛮な実力の誇示に過ぎない。

「領土と主権に関わる核心的利益」という呪文を絶対とし万能とする主張の愚かさが省みられねばならない。「利益」は、常に具体的な誰かのものである。国家の利益とは、実は「国家を僭称する誰か」の利益であると考えざるを得ない。国家の中の被支配階級、被征服民族、被抑圧階層の利益は僭称されている。のみならず、「中国の核心的利益」は、香港の利益ではありえない。核心的利益の主体から、台湾も除かねばならない。チベットも、新疆ウイグル自治区も、東トルキスタンも除いた「中国」とは、「国家」という名に値するものだろうか。

中国は、「核心的利益」の外延を拡大してきている。「国家主権と領土保全(国家主権和領土完整)」だけでなく、「国家の基本制度と安全の維持(維護基本制度和国家安全)」「経済社会の持続的で安定した発展(経済社会的持続穏定発展)」などという曖昧な概念も持ちだしている。結局は、中国全土の人民の利益ではなく、中国共産党とその支持勢力の利益をいうものと理解するほかはない。

また、「核心的利益」が国家のものであったとしても、それゆえに人権に優越する価値たりうるものではない。中国の「核心的利益」論は、人権の価値を顧みることのない、超国家主義以外の何者でもない。文明が到達した普遍的価値を蹂躙して恥じない、野蛮の主張と評するしかない。

この問題に関して、「声を上げれば状況を変えられる」望みは乏しい。それでも、「沈黙は理不尽への同意であり加担ともなる」ことを胸に刻みつつ、決して沈黙はしないことを決意したいと思う。中国に対してだけでなく、超大国アメリカにも、そして当然のことながら、日本の権力にも。

民主主義が試練に曝されている。強権国家への誘惑に絡めとられてはならない。

(2021年2月1日)
2度目の緊急事態宣言のさなかに1月が過ぎて、今日からは2月。例年春を待ち望むころだが、今年はまた格別。1月8日発出の緊急事態宣言の明けはどうやら3月以降にずれ込む模様。重苦しい日が続く。

ダイヤモンド・プリンセス号が『初春の東南アジア大航海16日間』周航の終盤に那覇に寄港したのが、昨年(2020年)の今日。このとき、1月25日に香港で同船から下船した香港人男性(80才)の船内感染が確認されている。2月3日、同船が横浜港に着いてから騒然たる事態となった。あれから1年なのだ。

この1年、コロナ・パンデミックは世界の民主主義に試練を与え続けてきた。コロナと闘うためには民主主義という手続は非効率で余りに無力ではないか、という攻撃に今も曝されている。権力を集中した権威主義的な政権こそが、コロナ禍と有効に闘う能力をもち成果をあげているとの主張と、民主主義擁護の主張とがせめぎあいを続けている。

このことは、人類史的な課題というべきであろう。歴史の本流は、滔々たる専制から民主制への大河を形成しているが、時折の逆流の存在も否定し得ない。近くは1930年代に、少なからぬ国が民主主義を投げ捨てて全体主義に走った。国家間の緊張関係が高まる中、個人の人権や自由などと生温いことを言ってはおられない。この非常時には、民族の団結、権力の集中こそが最重要事である、という主張が幅を利かせた。戦争に勝てる強力な国家あっての個人ではないか、というわけだ。我が国のスローガンでは、「富国強兵」「滅私奉公」である。

民主主義とは、国民の政治参加を公理として、政治権力の正統性の根拠を国民の意思におく思想であるが、これにとどまらない。人権擁護を目的とする政治過程の理念でもある。民主主義の政治は、国民一人ひとりの人権、即ち国民の人格の尊厳を至高の価値としてこれを擁護しようとする。人権を損なってはならないのだから、強大な権力は危険視され、権力も権限も分散しなければならない。権力の国民に対する支配の徹底を是とせず、国民に対する過度な支配の徹底を避けなければならないと指向する。

国民に対する過度な支配の徹底を避けるためには、国民の政治参加と政権批判の言論の保障が不可欠である。結局民主主義とは、国民の政治参加によって形成された権力を分立・分散させ、国民からの政治批判を保障して、強力な権力を抑制する制度であり運用である。ジェファーソンが定式化したとおり、「政府に対する信頼は常に専制の源泉である。自由な政府は、信頼ではなく、猜疑にもとづいて建設せられる」。

ところが、コロナ禍の中、国民が民主主義を投げ捨てて、強権政治を待望する時代が既に始まっているのではないかという見解がある。もちろん、主としては中国を念頭においてのことではあるが、必ずしも中国に限らない。各国に、そのような誘惑が満ちている。権力者にはもちろん、国民の側にも。

典型的にはこんなことだ。権威ある無謬の領袖あるいは政党という権力を信頼し、その指示に任せて従うことが最も効果的にコロナと闘う方法だ。この権力を批判したり貶めたりすることは「利敵」行為として非難されねばならない。権力は、強く大きいほど有効な闘いが可能だ。ならば、できるだけの武器を与えるべきである。国民のプライバシー擁護など贅沢なことを言ってはおられない。中国に限らず、西欧の各国も強制力を伴うコロナ対策の徹底を打ち出しているではないか。

日本の権力も国民も、強制力使用の誘惑にかられている。闘う相手は、いま「鬼畜米英」や「暴支膺懲」に代わって、コロナ・パンデミックとなった。闘う相手は変われども闘い方の基本構造にはさしたる変わりはない。コロナとの戦いには勝たねばならない。そのために責任を負う政府には武器が必要だ。その武器を与えよ。この要求が、昨年の「新型インフルエンザ特措法」の改正であり、今国会に上程されている、「新型インフルエンザ特措法」「感染症法」の改正案である。

自民党と立憲民主党との協議の結果法案修正の合意が成立し、2月3日には、この修正合意で法案は成立の予定だと報じられている。最も問題とされた、刑事罰(懲役・罰金)条項は削除され、幾つかの評価すべき修正点はある。しかし、過料(行政罰)は残されている。緊急事態宣言前に実施する「まん延防止等重点措置」の問題も解消していない。これで、一件落着としてはならない。不必要な強制措置は、断固として拒絶しなければならない。ことは、民主主義の本質に関わる問題である。

ところで、「改憲問題対策法律家6団体連絡会」は、2021年1月20日「新型インフルエンザ等対策特措法等の一部を改正する法律案に反対する声明」を発表した。そして、本日刑事罰解消で問題解決としてはならないという趣旨で、「特措法等改正案の罰則規定の削除を求める法律家団体の緊急声明」を追加的に発表した。

「改憲問題対策法律家6団体」とは、社会文化法律センター(共同代表理事 宮里邦雄)、自由法曹団(団長 吉田健一)、青年法律家協会弁護士学者合同部会(議長 上野格)、日本国際法律家協会(会長 大熊政一)、日本反核法律家協会(会長 大久保賢一)、日本民主法律家協会(理事長 新倉修)。その全文は、日民協の下記URLを開いてご覧いただきたい。
https://jdla.jp/shiryou/seimei/210120-2.pdf

https://jdla.jp/shiryou/seimei/210201.pdf

両声明の「結語」だけを、引用しておきたい。

2021年1月20日 声明 「結語」
これらの多くの疑問を置き去りにしたまま、刑罰や過料(行政罰)によって国民を威嚇し、新型コロナウイルス感染症を抑え込もうとする本改正案は、上記のとおり、そもそも立法事実としてのエビデンスを欠き、目的と手段の合理的関連性も疑わしく、重大な人権侵害を招く危険があり、結局、国民との間に新型コロナウイルス感染症についての理解を深め、政府と国民の間に強固な信頼関係を構築することで当面する危機を乗り越えようという民主主義・立憲主義の理念に反するというべきである。
政府のこれまでの新型コロナウイルス感染症対策の失政の責任もうやむやにし、また、昨年の緊急事態宣言の検証も反省もないまま、感染拡大の責任を国民に転嫁して、刑罰や過料を科すような政府発表の改正案については、断固として反対であることを、ここに表明する。

2021年2月1日 声明 「結語」
以上のとおり、罰則による強権的な手段を用いて私権を制限することは、そもそも立法事実を欠き違憲の疑いがあるうえ、行政権力の市民生活への過度の介入をもたらすなど、憲法上重大な問題をはらむ。行政罰(過料)にしても、過料の金額を修正しても、問題の本質は変わらない。
以上より、罰則規定はすべて削除することを強く求める。
なお、改正法案は、罰則規定の問題のほかにも、「まん延防止等重点措置」の発動要件を政令で定めるとしていること、国会による統制が規定されていないことなど問題が多く、十分な審議と修正が必要であって、附帯決議等で拙速に法案を成立させることは絶対にあってはならないことを付言する。

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