私自身が突然に提訴されて被告となったDHCスラップ訴訟。一審勝訴したが控訴されて被控訴人となり、さらに控訴審でも勝訴したが上告受理申立をされて、いまは「相手方」となっている。その上告受理申立事件は最高裁第三小法廷に係属し、事件番号は平成28年(受)第834号である。
さて、訴訟活動として何をすべきだろうか。実は、この事件なら、常識的には何もしないのが一番なのだ。何もせずに待っていれば、ある日第三小法廷から「上告受理申立の不受理通知」が届くことになる。これでDHC・吉田の敗訴が確定して、私は被告の座から解放される。上告受理申立理由に一々の反論をしていると、不受理決定の時期は遅滞することにならざるをえない。何もしないのが一番という常識に反しても、敢えて反論はきちんとすべきか否か。ここが思案のしどころである。
ところで、スラップ訴訟へのメディアの関心が高くなっている。最近、ある大手メディアの記者から取材を受けた。そのあと記者から、丁寧な質問をメールでいただいた。
要約すれば、関心は大きくは次の2点だという。
? 「憲法21条(言論の自由)と32条(裁判を受ける権利)の整合性をどう考えるべきだろうか」
? 「アメリカでは、スラップ訴訟を規制して、原告の権利侵害という議論が起こらないのだろうか」
通底するものは、特定の訴訟をスラップと刻印することで、侵害された権利救済のための提訴の権利が侵されることにはならないのだろうか、という疑問である。
以下は、私のメールでの回答の要約。
具体的な内容や背景事情を捨象すれば、DHCスラップ訴訟の構造は、次のようなことになります。
(1) 私が吉田を批判する言論を展開し、
(2) 吉田が私の言論によって名誉を毀損されたとして、損害賠償請求訴訟を提起した。
(3) その訴訟において、
原告・吉田は、憲法13条にもとづく自分の人格権(名誉)が違法に侵害されたと主張し、
被告・私は、憲法21条を根拠に自分の言論を違法ではないと正当性を主張した。
(4) 審理を尽くして、裁判所は被告に軍配をあげて請求を棄却した。
(5) 吉田は結果として敗訴したが、憲法32条で保障された裁判を受ける権利を行使した。
つまり、誰でも、主観的に自分の権利が侵害されたと考えれば、その権利侵害を回復するために訴訟を提起することができる。結果的に敗訴するような訴えについても、提訴の権利が保障されているということになります。
以上は、具体的な諸事情を捨象すれば…の話しで、普通はこれで話が終わります。しかし、次のような具体的諸事情を視野に入れると、景色は変わって見えてきます。この景色の変わり方をどう考えるべきかが問われています。
(1) 違法とされ提訴の対象となった私の言論が典型的な政治的批判の言論であること。
(2) 提訴者が経済的な強者で、訴訟費用や弁護士費用のハードルを感じないこと。
(3) 提訴されれば、私の応訴の負担は極めて大きいこと。
(4) 原告の勝訴の見通しは限りなく小さいこと。
(5) 原告の請求は明らかに過大であること。
(6) 原告は提訴によって、侵害された権利の回復よりは、提訴自体の持つ威嚇効果を狙っていると考えられること。
(7) 現実に提訴はDHC・吉田批判の言論に萎縮効果をもたらしていること。
もっとも、原告の勝訴確率が客観的にゼロに等しいと言える場合には、問題が単純になるでしょう。そのような提訴は嫌がらせ目的の訴訟であることが明白で、民事訴訟制度が想定している訴えではないとして、提訴自体が違法とならざるをえません。しかし、そのような厳密な意味での「違法訴訟」は現実にはきわめて稀少例でしかないでしょう。
このような「明らかな違法訴訟」とまでは言えないが、強者による言論への萎縮効果を狙った違法ないし不当な提訴は類型的に数多く存在します。これをスラップ訴訟と言ってよいと思います。
つまり、単に勝訴の見込みが薄い訴えというだけでなく、これに前記の(1)?(7)などの事情が加わることによって、提訴自体が濫訴として強い可非難性を帯びることになります。
アメリカのスラップ訴訟規制は各州で制度の差があるようですが、報告例を耳にする限りでは、原告の提訴の権利を侵害すると問題にされてはいないようです。
スラップ規制のあり方として、2段階審査の方式を学ぶべきだと思います。
審理の初期に、被告からスラップの抗弁があれば、裁判所はこれを取り上げ、スラップとして取り扱うか否かを審理して暫定の結論を出します。
原告が、裁判所を納得させられるだけの勝訴の蓋然性について疎明ができなければ、以後はスラップ訴訟として審理が進行することになります。その大きな効果としては、原告の側に挙証責任が課せられること、そして原告敗訴の場合には、被告側の弁護士費用をも負担させられることです。これでは、スラップの提起はやりにくくなるでしょう。でも、訴訟ができなくはなりません。
一般論ですが、複数の憲法価値が衝突する場合、正確にその価値を衡量して調整することが立法にも、司法にも求められます。
一方の側だけから見た法的正義は、けっして決定的なものではありません。別の側から見れば、別の景色が見えることになります。
スラップ訴訟もそんな問題のうちの一つです。私は、政治的言論の自由が攻撃されて、権力や社会的強者を批判する言論が萎縮することが憲法の根幹を揺るがす大問題と考える立場ですから、飽くまで憲法21条の価値をを主としてとらえ、DHC・吉田の憲法32条を根拠とする名誉毀損を理由として訴訟を提起する権利は従でしかないと考えます。
私が掲げる憲法21条に支えられた言論の自由の旗こそが最重要の優越する価値であって、DHC・吉田の名誉の価値はこの旗の輝きの前に光を失わざるをえないという考えです。のみならず、そのような価値の衡量が予想される事態において、DHC・吉田が敢えて高額の損害賠償請求訴訟を提起することをスラップとして、非難しなければならないとするのです。
さらに、言論の萎縮効果をもたらすスラップには法的な制裁が必要であり、スラップを提起されて被告となる者には救済の制度が必要だと、実体験から考え訴えているのです。DHC・吉田がしたごときスラップの横行を許すことは、メディアにとっては死活に関わる問題ではありませんか。
よろしくご理解をお願いいたします。
(2016年5月9日)
「ちきゅう座」という規模の大きな「ブログ集積サイト」がある。11年前に開設されたものだそうたが、編集委員会が運営している。編集委員会の眼鏡にかなった投稿を掲載し、またブログを転載している。
http://chikyuza.net/
設立の趣旨を、「今の世界や日本が極めて危うい方向に進んでいるという認識の下に、それぞれの分野の専門家や実践家の眼を通じた、確かな情報、問題の本質に迫る分析などを提供し、また共同の討論の場を作ることを志しています。」と言っている。
なにがきっかけか知らないが、昨年(2015年)の秋ころに編集委員長から丁寧な問合せがあり、以来このサイトが当ブログを毎日転載してくれている。1日の途切れもなく毎回の「憲法日記」を紹介していただいていることをありがたいと思う。
その「ちきゅう座」に [交流の広場]というコーナーがある。4月28日その広場に、「専門家に表現の自由などない / 野田医師の裁判について弁護士さんの安堵に日本社会将来不安。」という投稿が掲載された。投稿者は、「札幌のサル」というペンネームを使っている。
このタイトルの、「弁護士さん」とは、私のことと思い当たる。私は、当ブログ「澤藤統一郎の憲法日記」に、「野田正彰医師記事に違法性はないー大阪高裁・橋下徹(元知事)逆転敗訴の意味」の記事を書いた。4月23日のこと。「札幌のサル」氏には、この記事がお気に召さなかったようだ。明らかに、私のブログに対する批判の投稿。
私も、他人を批判する。但し、権力や権威を有する者、あるいは権力や権威を笠に着る者に限ってのこと。それ以外を批判の対象とすることはあり得ない。
私も、他人から批判される。私には権力も権威もないが、批判するに値すると認めていただいたことをありがたいと思う。拙文をお読みいただき、何らかの反応を示していただいた方にはひとしく感謝申しあげたい。それが、論理的な批判であっても非論理的な批判であっても、である。
「札幌のサル」氏の投稿が、 [交流の広場]に掲載されたということは、おそらく私の再反論が期待されているということなのだろう。投稿の最後の結びも、私への問いかけとなっている。無視していては失礼にもなりかねない。また、野田正彰医師の名誉にも関わるところがある。逐語的にコメントしておきたい。
まず、投稿の全文は以下のとおり。
「専門家に表現の自由などない / 野田医師の裁判について弁護士さんの安堵に日本社会将来不安。」
医師の橋下診断の可否は、その専門性において厳格に問われるべきで、表現の自由などということで正当化されたら、市民やその代表者はたまったものではない。精神病という専門医師の根拠さだか〈な〉らぬ診断で病院や強制収容所送りになったソ連邦を想起させる。野田医師は反権力といわれるが、このたびは弁護士権力に依存しているだけ。医師の橋本〈下〉診断自体がその成否を問われるべきで、専門家には表現の自由などないことを知るべきだ。また自由に表現されたからと言って、その専門性の正しさが担保されるものでもない。野田君(というのはわたしはかれと旧知なので)は何度も無責任な専門家発言をして平気でいられる人物であることを知らない者がいるか。専門性の責任が問われている時代に、専門家の無責任かもしれない表現の自由をよく擁護できたもんです。黒を白ということが仕事?の弁護士さんならではの専門性ゆえですか。<札幌のサル>
投稿のメインタイトル「専門家に表現の自由などない」は、明らかな誤りである。むしろ、「専門家には、その専門分野における意見表明の社会的責務がある」というべきであろう。仮に責務の有無については見解の相違としても、すべての人に保障されている「表現の自由」が、専門家だけには保障されないということはあり得ない。
投稿者は、野田医師の論評の内容を批判する根拠を具体的に指摘し得ず、専門家一般についていかなる表現の自由もない、と極論してしまったのものと推察する。
あるいは、野田医師ではなく、弁護士である私のブログでの記事について、「専門家に表現の自由などない」のだから「表現をやめよ」、と言ったのかも知れない。しかし、私は私の「表現の自由」を絶対に譲らない。「専門家だからものが言えない」とすれば、社会は有益な知見を失うことになる。知る権利が大いに傷つけられることになろう。
投稿のサブタイトル「野田医師の裁判について弁護士さんの安堵に日本社会将来不安」も、あまりに具体性に乏しい一般論での語り口で、それゆえ有益な議論の深まりが期待できない。
橋下対野田訴訟において、なにが争われたか。橋下に対する野田診断の医学的正確性ではない。橋下の過去の言動から推認される橋下の公人としての適性に関する野田医師の見解の表明として、「新潮45+」掲載記事の表現が許容されるか否かが争われたのだ。
原告橋下側は「『新潮45+』記事は原告の名誉(社会的評価)を傷つけるものとして違法」と主張し、被告野田・新潮側は「表現の自由が保障される範囲内の言論として違法性はない」と争った。実質的に、訴訟は「橋下(当時は知事)の名誉と、表現の自由の角逐」の場であった。あるいは「個人の名誉と、国民の知る権利の衡量」の場であったといってもよい。
当然のことながら、橋下個人も人権主体である。その社会的な名誉も名誉感情も尊重されてしかるべきだ。しかし、公人となり、強大な権力をもつ地位に就いた以上、批判の言論を甘受せざるを得ない立場に立ったのだ。
民主主義社会は、自由な言論の交換によって成り立つ。もちろん、自由な言論も無制限ではありえなく、他人の名誉を毀損する言論には一定の限界がある。その限界を狭く解釈したのでは、政治的言論は成り立たない。憲法が「表現の自由を保障する」としているのは、権力者や公人の論評に関しては、その社会的評価を傷つける表現をも許容するものでなくては意味がない。
今回の野田医師逆転勝訴判決は、その理を認めた。「橋下個人の外部的名誉や名誉感情という個人的価値」を凌駕する、野田医師の「表現の自由の価値、その自由に連なる社会の知る権利の価値の優越」を認めたのだ。
私は、「権力者や公人・政治家を批判する言論の自由」をこの上なく尊重する立場であるから、この逆転勝訴を望ましい結果として評価した。これが、投稿者の「弁護士さんの安堵」と言う表現となっている。しかし、そのことが「日本社会将来不安」につながるというのは、荒唐無稽というほかはない。
野田医師の誌上診断ないし見解も、私の野田医師擁護論も、それが大阪府知事という、公人・政治家を対象とした批判の言論であることが大前提である。市井の人物や、体制批判者を指弾する言論と混同してはならない。
現在判例が採用している「公共性・公益性・真実(相当)性」という、違法性阻却要件は相当に厳格である。大阪高裁判決は、野田医師の「誌上診断」は、橋下の社会的評価を低下せしめるものではあるが、その記述は公共的な事項にかかるもので、もっぱら公益目的に出たものであり、かつ野田医師において記事の基礎とした事実を真実と信じるについて相当な理由があったと認め、記事の違法性はないとした。橋下知事(当時)の名誉毀損はあっても、野田医師の表現の自由の価値を優越するものとして、橋下はこれを甘受しなければならないとしたのだ。この違法性阻却のハードルの高さは、けっして言論の自由の濫用による「日本社会将来不安」につながる恐れを生じるものではない。
むしろ、このハードルの高さが政治家批判の言論を違法として封じ、あるいは批判の言論を萎縮させている。この現状こそが、権力者には居心地がよく、民衆には将来不安というべきではないだろうか。
投稿記事本文の「医師の橋下診断の可否は、その専門性において厳格に問われるべきで、表現の自由などということで正当化されたら、市民やその代表者はたまったものではない。」は、必ずしも文意明確ではない。
仮に、「医師の診断が正確であるか否かは、その専門性にふさわしく厳格に問われるべきで、不正確な診断が『表現の自由』ということで正当化されるようなことがあつてはならない」という主旨であれば、その限りにおいて異論があろうはずはない。しかし、訴訟がそのような問題を争って行われたものでないことは既述のとおりである。
「精神病という専門医師の根拠さだか〈な〉らぬ診断で病院や強制収容所送りになったソ連邦を想起させる。」と、問題になりえようもない極論をあげつらうことは無意味である。おそらくは、反権力の精神科医は、敢然として「病院や強制収容所送りとされた側」に立って、体制側の似非医学を反駁することになろう。
「野田医師は反権力といわれるが、このたびは弁護士権力に依存しているだけ。」
これは文意を解しがたい。裁判所や検察は権力だが、弁護士は権力ではない。「弁護士権力に依存」とは、訴訟において訴訟代理人として弁護士を依頼したことをいうのだろうか。それとも、私がブログで判決を肯定的に論評したことを指すのだろうか。どちらにしても、それが「権力に依存した」と論難される筋合いのものではない。
「自由に表現されたからと言って、その専門性の正しさが担保されるものでもない。」は、当然のこと。「表現の自由の範囲内の言論」として違法性を欠くことと、言論の内容である誌上診断の正確性とは、まったくの別問題である。だから、何の批判にもなっていない。
仮に、橋下が野田医師の患者であったとすれば、野田医師には橋下の症状や診療経過について、医師としての職業上の守秘義務(刑法134条)が課せられる。今回のように、医師が誌上で、ある人物の症状や疾患について直接本人に対する診察を経ることなく見解を述べるのは、普通の読者の普通の注意による読み方をすれば、厳密な確定的医学診断ではありえない。飽くまでも仮説的意見ないし論評に過ぎない。そのような意見・論評は、公人についてのものである限り許されるのだ。もとより、疾患診断の正確性とは別問題である。
「野田君(というのはわたしはかれと旧知なので)は何度も無責任な専門家発言をして平気でいられる人物であることを知らない者がいるか。」という表現は、事実を摘示することにより野田医師の名誉を毀損するものである。「札幌のサル」氏が、野田医師に訴えられたとすれば、氏の側で、その表現の公共性・公益性・真実(相当)性を立証しなければならない。野田医師は、橋下から訴えられ、その面倒なことをして勝訴した。
「専門性の責任が問われている時代に、専門家の無責任かもしれない表現の自由をよく擁護できたもんです。」
もし、この議論が通用するなら、医師や弁護士や会計士や技術士や、ありとあらゆる学問の研究者の権力批判の言論を封じることになり、権力批判の言論を擁護することもできなくなる。具体論なしで、ある側面を極限まで一般化する論理の過ちの典型と指摘せざるを得ない。
弁護士は、「黒を白という専門職」ではない。しかし、黒と白とをしっかりと見極めるべき専門職ではある。そして、権力と対峙する人権の側に立つべき専門職でもあると理解している。私のブログ記事に、批判さるべきところは、いささかもない。
(2016年5月5日)
野田正彰医師は硬骨の精神科医として知られる。権力や権威に歯に衣着せぬ言動は、権力や権威に安住する側にはこの上なくけむたく、反権力・反権威の側にはまことに頼もしい。その野田医師が、大阪府知事当時の橋下徹を「診断」した。「新潮45」の誌上でのことである。誌上診断名は「自己顕示欲型精神病質者」「演技性人格障害」というもの。この誌上診断が名誉毀損に当たると主張されて、損害賠償請求訴訟となった。
一審大阪地裁は一部認容の判決となったが、昨日(4月20日)大阪高裁は逆転判決を言い渡し、橋下徹の請求を全部棄却した。欣快の至りである。
高裁判決は、野田医師の誌上診断は、橋下の社会的評価を低下せしめるものではあるが、その記述は公共的な事項にかかるもので、もっぱら公益目的に出たものであり、かつ野田医師において記事の基礎とした事実を真実と信じるについて相当な理由があった、と認め記事の違法性はないとした。橋下知事(当時)の名誉毀損はあっても、野田医師の表現の自由を優先して、橋下はこれを甘受しなければならないとしたのだ。
橋下が上告受理申立をしても、再逆転の目はない。判断の枠組みが判例違反だという言い分であれば、上告受理はあり得ないことではない。しかし、本件の争点は結局(野田医師が真実と信じることについての)相当性を基礎づける事実認定の問題に過ぎない。これは最高裁が上告事件として取り上げる理由とはならないのだ。
私は、訴状や準備書面、判決書きを目にしていない。このことをお断りした上で、報道された限りでの経過の説明と意見を述べておきたい。
「新潮45」2011年11月号が、「橋下徹特集」号として話題となった。この号については、当時新潮社が次のように広告を打っている。
「特集では、橋下氏の死亡した実父が暴力団員であったことに始まり、『人望はまったくなく、嘘を平気で言う。バレても恥じない。信用できない』(高校の恩師)、『とにかくカネへの執着心が強く、着手金を少しでも多く取ろうとして「取りすぎや」と弁護士会からクレームがつくこともあった』(最初に勤務した弁護士事務所の代表者)といった、橋下氏を知る人の発言や、『大きく出ておいてから譲歩する』『裏切る』『対立構図を作る』という政治戦術、そして知事就任から府債残高が増え続けている現実、またテレビ番組で懇意になった島田紳助氏との交友についても触れるなど、橋下氏の実像をわかりやすくまとめた構成になっています。是非ご一読を。」
この特集記事の1本として、「大阪府知事は『病気』である」(野田正彰・精神科医)が掲載された。病気の「診断」名が「自己顕示欲型精神病質者」「演技性人格障害」というもの。その診断根拠は、橋下に対する直接の問診ではなく、それに代わる高校時代の橋下の恩師の証言等である。
この記事によって、名誉を傷つけられたとして、橋下が新潮社と野田医師を提訴した。損害賠償請求額は1100万円。この請求に対して、昨年(15年)9月、一審大阪地裁(増森珠美裁判長)は、一部記載について「橋下氏の社会的評価を低下させ、名誉を毀損する内容だった」として、新潮社と野田医師に110万円の支払いを命じた。「精神分析の前提となった橋下氏の高校時代のエピソードを検討。当時を知る教諭とされる人物の『嘘を平気で言う』などの発言について『客観的証拠がなく真実と認められない』」との判断だった。
昨日の逆転判決については、朝日の報道が分かり易い。
「橋下徹・前大阪市長は『演技性人格障害』、などと書いた月刊誌『新潮45』の記事で名誉を傷つけられたとして、橋下氏が発行元の新潮社(東京)と筆者の精神科医・野田正彰氏に1100万円の賠償を求めた訴訟の控訴審判決が21日、大阪高裁であった。中村哲裁判長は、記事は意見や論評の範囲内と判断。110万円の賠償を命じた一審判決を取り消し、橋下氏の訴えを退けて逆転敗訴とした。
同誌は、橋下氏が大阪府知事時代の2011年11月号で「大阪府知事は『病気』である」とする野田氏の記事を掲載し、高校時代の橋下氏について「うそを平気で言う」などの逸話を紹介。「演技性人格障害と言ってもいい」と書いた。高裁判決は、記事は当時の橋下氏を知る教員への取材や資料に基づいて書かれ、新潮社側には内容を真実と信じる相当の理由があり、公益目的もあったとした。」
また、焦点の「記事の内容を真実と信じる相当の理由」の有無については、次のような報道がなされている。
「高裁判決は野田氏が橋下氏の生活指導に当時、携わった教諭から聞いた内容であることなどから、『真実と信じた相当の理由があった』と判断した(時事通信)」
「中村裁判長は、野田氏が橋下氏の生活指導に関わった高校時代の教諭に取材した経緯などを検討した。その結果、記事内容を裏付ける証明はないものの、『野田氏らが真実と信じる理由があり、名誉毀損は成立しない』と判断した(毎日)」
「野田氏の精神分析の前提となった橋下氏のエピソードについて、1審判決は『客観的証拠がなく真実と認められない』として名誉毀損を認定したが、高裁判決は別記事での取材内容も踏まえ『真実との証明はないが、真実と信じるに足る理由があった』とした(産経)」
「昨年9月の1審判決は、記事の前提になった橋下氏の高校時代のエピソードを『裏付けがない』としたが、高裁の中村哲裁判長は『複数の人物から取材しており、真実と信じる相当の理由があった』と指摘した(読売)」
以上のとおり、原審と控訴審ではこの点についての判断が逆転した。橋下はこれに不服ではあろうが、憲法判断の問題とも、判例違反とも主張できない。結局は事実認定に不服ということだが、それでは上告審に取り上げてはもらえないのだ。
「新潮45編集部は『自信を持って掲載した記事なので当然の判決と考える』とコメント。橋下氏側は『コメントを出す予定はない』とした。」と報道されている。
名誉毀損訴訟においては、表現者側の「表現の自由」という憲法価値と、当該表現によって傷つけられたとされる「『被害者』側の名誉」とが衡量される。この両利益の調整は、本来表現内容の有益性と「被害者」の属性とによって判断されなければならない。野田医師の橋下徹についての論述は、有権者国民にとって、公人としての知事である橋下に関する有益で重要な情報提供である。明らかに、「表現の自由」を「橋下個人の名誉」を凌駕するものとして重視すべき判断が必要である。
総理大臣や国会議員・知事・市長、あるいは天皇・皇族・大企業・経営者などに対する批判の言論は手厚く保護されなければならない。それが、言論・表現の自由を保障することの実質的意味である。権力や権威に対する批判の言論の権利性を高く認めることに躊躇があってはならない。この点についての名誉毀損訴訟の枠組みをしっかりと構築させなければならない。
現在の名誉毀損訴訟実務における両価値の調整の手法は、名誉毀損と特定された記事が、「事実の指摘」であるか、それとも「意見ないし論評であるか」で大きく異なる。野田医師の本件「誌上診断」は、典型的な論評である。基礎となる事実(高校時代の恩師らの取材によって得られた情報)の真実性が問題になる余地はあるものの、その事実にもとづく推論や意見が違法とされることはあり得ない。これは「公正な論評の法理」とされるもので、我が国の判例にその用語の使用はないが、事実上定着していると言ってよい。
そして、実は野田医師の論評が、知事たる政治家の資質に関するものであることから、真実性や相当性の認定も、ハードルの高いものとする必要はないのだ。真実性はともかく、真実相当性認定のハードルを下げるやり方で表現の自由に軍配を上げた高裁判決は、極めて妥当な判断をしたものといえよう。もう、政治家や政治に口を差し挟もうという企業や経営者が、名誉毀損訴訟を提起する時代ではないことを知るべきなのだ。
なお、同じ「新潮45」の特集記事に関して、以下の産経記事がある。
「橋下徹前大阪市長が、自身の出自などを取り上げた月刊誌『新潮45』の記事で名誉を傷つけられたとして、発行元の新潮社とノンフィクション作家の上原善広氏に1100万円の損害賠償を求めた訴訟の判決が(2016年3月)30日、大阪地裁であり、西田隆裕裁判長は橋下氏の請求を棄却した。判決によると、同社は新潮45の平成23年11月号で、橋下氏の父親と反社会的勢力とのかかわりについて取り上げた。西田裁判長は判決理由で「記事は政治家としての適性を判断することに資する事実で、公益目的が認められる」とした。
私見であるが、「記事は政治家としての適性を判断することに資する事実で、公益目的が認められる」は、単なる違法性阻却の必要条件ではない。判決理由に明示していなくても、その公益目的の重要性は、真実性や真実相当性認定のハードルを低くすることにつながっているはずである。
野田医師の逆転勝訴は、私のDHCスラップ訴訟の結果にも響き合う。何よりも、憲法上「精神的自由権」の中心的位置を占める表現の自由擁護の立場から、まことに喜ばしい。
(2016年4月22日)
例のアベ政治御用集団・「放送法遵守を求める視聴者の会」の蠢動がやまない。
4月1日付で、「TBS社による重大かつ明白な放送法4条違反と思料される件に関する声明」を発表し、記者会見をしている。あろうことか、TBSを標的にスポンサーへの圧力をかけることを広言するに至っている。
アベチルドレンが百田尚樹を招いての会合で、「マスコミをこらしめるには広告料収入をなくせばいい。文化人が経団連に働き掛けてほしい」「悪影響を与えている番組を発表し、そのスポンサーを列挙すればいい」などと気勢を上げて、世論からの厳しい指弾を受けたのは、昨年(2015年)の6月。議員に代わって、今度は右派「言論人」たちが、気に食わないメディアのバッシングに一役買って出たということなのだ。一見在野の如くだが、明らかにアベ人脈の面々。
この声明の一部を抜粋する。カッコ内は私(澤藤)の感想。
「勿論、放送法第4条に定められた『政治的公平性』や『多角的論点の提示』は曖昧な概念であり、このような概念を根拠に政府による罰則を適用するのは極めて危険である。(そのとおり) が、今回のTBSによる安保法制報道は、議論の余地も政府による恣意の介在も許さない、局を挙げての重大かつ明確な放送法違反とみなし得よう。(そんな決め付けが危険ではないの?) 残念ながら、現行の標準的なガイドラインに従えば、TBS社は電波停止に相当する違法行為をなしたと断定せざるを得ないのではあるまいか。(「あるまいか」は「断定」とは矛盾するね) ただし、誤解ないように強調したいが、当会は、政府が放送内容に介入することには断固反対する。(本当? いったいどっちなの?) もしも電波停止のような強大な権限が、時の政権によって恣意的に用いられたならば、民主主義の重大な危機に直結する。いかなる政権も、どんな悪質な事例であれ、放送事業の内容への直接介入に安直に道を開いてはならない。(あなたたちが、その道を開こうと先導しているではないか)」
どうも何を言っているのか、よく分からない。
声明は、TBSが放送法違反を犯したと決めつけたうえで、TBS本社と、「倫理向上委員会を名乗る任意団体BPO」と、「TBSの報道番組のスポンサー企業各位」と、国会のそれぞれに「要望」を申し入れている。
この声明のBPOに対するむき出しの敵意が際立っており、「放送法遵守を求める視聴者の会」の性格をよく表している。
TBSを名指しの攻撃に、さすがにTBSも反論した。昨日(4月6日)付の「弊社スポンサーへの圧力を公言した団体の声明について」とするコメント。短いものなので全文を引用する。
「株式会社TBSテレビ
弊社は、少数派を含めた多様な意見を紹介し、権力に行き過ぎがないかをチェックするという報道機関の使命を認識し、自律的に公平・公正な番組作りを行っております。放送法に違反しているとはまったく考えておりません。
今般、「放送法遵守を求める視聴者の会」が見解の相違を理由に弊社番組のスポンサーに圧力をかけるなどと公言していることは、表現の自由、ひいては民主主義に対する重大な挑戦であり、看過できない行為であると言わざるを得ません。
弊社は、今後も放送法を尊重し、国民の知る権利に応えるとともに、愛される番組作りに、一層努力を傾けて参ります。」
公平・中立を求めるという名目での政権迎合のメディア攻撃。アベ政権が改憲を公言することができるのは、このような政権迎合の輩の蠢動の後押しがあってのことなのだ。
「視聴者の会」の声明自身がいうとおり、『政治的公平性』や『多角的論点の提示』は極めて曖昧な概念であり、どのようにも論じることができる危険を内包している。
このことに関連して、『法と民主主義』の最新号(2・3月合併号)が、「アベ政権と言論表現の自由」を特集している。
http://www.jdla.jp/houmin/
主な記事は、以下のようなもの。
◆安倍政権によるメディア介入と言論・表現の自由の法理………右崎正博
◆情報統制に向かう日本 進む放送介入………田島泰彦
◆安倍政権の圧力とNHK政治報道の偏向………戸崎賢二
◆安倍政権のメディア政策──その戦略と手法………石坂悦男
放送界での最大の問題メデイアは、TBSではなく明らかにNHKである。
「安倍政権の圧力とNHK政治報道の偏向(戸崎賢二)」は、「NHK『ニュースウオッチ9』が報道しなかった事項」を一覧表にまとめている。テレ朝の「報道ステーション」、TBSの「NEWS23」との比較においてである。
テレ朝とTBSの両者が報道して、NHKが報道しなかった事件(あるいは言葉使い)の主なものは次のとおり。
5月20日【党首討論】ポツダム宣言について「詳らかに読んでいない」との安倍総理の答弁
5月28日【衆院特別委】安倍総理「早く質問しろよ」などのヤジ(NHKは翌日報道)
6月1日【衆院特別委】日本に対して攻撃の意思のない国に対しても攻撃する可能性を排除しないとする中谷防衛大臣の答弁
6月1 日 衆院特別委】「イスラム国」に対し有志連合などが行動する場合後方支援は法律的に可能との中谷大臣の答弁
6月中旬 憲法学者へのアンケートほか、「違憲」とする憲法学者が多数であることの報道
7 月1 日 自民党「勉強会」の発言について「威圧」「圧力」という表現使う
7月15日【衆院特別委】採決に「強行」という表現使う
7月29日【参院特別委】戦闘中の米軍ヘリへの給油を図解した海上自衛隊の内部文書について共産党小池副委員長が追及
8月5 日【参院特別委】「後方支援で核ミサイルも法文上運搬可能」という中谷大臣の答弁
8月19 日【参院特別委】安保法案成立を前提とした防衛省文書で中谷大臣の矛盾する答弁を共産党小池副委員長が追及。
8月下旬 ノルウェーの平和学者、ヨハン・ガルトゥング博士が来日、安倍首相の「積極的平和主義」は本来の意味とは違うと批判
9月2日【参院特別委】自衛隊統合幕僚長が訪米した際の会議録について共産党仁比議員が追及
9月17日【参院特別委】採決で「強行採決」という表現を使う
情報源はもっぱらNHKという視聴者がいたとすれば、恐るべく偏頗な情報に操作されていることになる。なるほど、アベ政権と籾井NHK、持ちつ持たれつの関係がよく見えてくる。
このことは、3月31日の参院総務委員会質疑でも話題とされている。民進党の江崎孝議員が、この「法と民主主義」を取り上げて籾井会長らを追及している。上記の一覧表をパネルにして、NHKの報道姿勢の偏向ぶりを問題としたのだ。
「NHK」対「テレ朝・TBS」の対立の構図。けっしてそれぞれの側の応援団が相互に批判し合って、水掛け論になっているのではない。中立や公平という用語は、すべてを相対化してしまう危険を内包している。視聴者が真に関心をもつべきは、時の権力に不都合な事実が萎縮することなく放送されているか否か、という一点である。
真実を曇らせる力をもつものは権力である。その権力に遠慮も迎合もすることのない姿勢があってこそジャーナリズムと呼ぶにふさわしい。権力は、自らの正当性を訴えるのに十分な情報発信力をもっている。放送において、臆するところのない権力批判に圧倒的なスペースが割かれて当然なのだ。その基準からは、明らかにNHKがおかしい。TBSはそれよりはマシで、当たり前というだけのこと。
「視聴者の会」はアベ政権の外にあって、アベ改憲政権のお先棒担ぎ。この蠢動に動じてはならないが、軽視してもならないとおもう。
(2016年4月7日)
米軍による目取真俊の「身柄拘束」と引き続く海保による逮捕。辺野古基地建設反対運動への弾圧として憤っていたが、比較的早期の釈放となったことにまずは胸をなで下ろしている。
海保は、逮捕後すみやかに送検したようだ。送検を受けた検察の持ち時間は24時間。この間に、裁判所に勾留を請求するか釈放しなければならない。結局検察官の判断によって、勾留請求なく身柄の釈放に至った。
もっとも、不起訴処分となったわけではない。刑特法2条を被疑罪名とする嫌疑については処分保留のままで、法的には捜査が継続することになる。早期不起訴を求める世論形成が必要な事態なのだ。
4月2日の東京新聞が、一面と社会面に取り上げ、「芥川賞作家を海保逮捕」「米軍拘束」「辺野古制限区域 海上抗議で初」「『刑事事件化は異常』」という見出しで記事を掲載した。目取真の写真だけでなく、「仲間を返せ、と抗議の声を上げる」現場の写真も付けてのことである。この扱いが事件の大きさを正当に反映したものだろう。毎日も、社会面で記事にし、浅田次郎と又吉栄喜の目取真に寄り添ったコメントを掲載した。
ところが、朝日の扱いがあまりに小さいことに驚き、赤旗には掲載がなかったことに焦慮を憶えた。その上で、ネットで検索した限りで不当逮捕への抗議行動の規模が予想ほどのものでなかったのかと早とちりをしてしまった。今日(4月3日)の赤旗で、共産党の赤嶺政賢も抗議行動に駆けつけたことを知った。社民党の照屋寛徳も、そして沖縄平和運動センターの大城悟事務局長も海保(11管)現場での抗議行動に参加して、「オール沖縄、オール日本の取り組みで基地建設を止めていこう」と訴えていたことを確認して安心した。
私の早とちりは、目取真が「危険な匂い」のする作家であることからきている。もしかしたら、オール沖縄の運動体の一部に、この危険な匂いを敬遠する思いがありはしないかという危惧があった。
けっして熟した表現ではないが、「不敬文学」というジャンルの提唱がある。不敬とは、かつて日本の刑法に存在していた「不敬罪」の、あの不敬である。大日本帝国は支配階級の調法な統治のツールとして天皇制を拵え上げた。人民支配の道具としての天皇制は、一面精神的な支配として「一億の汝臣民」をマインドコントロールするものであったが、これにとどまらない。マインドコントロールの利かない者を暴力で押さえ込んだ。その野蛮な暴力の法的根拠の最たるものが不敬罪である。
敗戦後制度としての不敬罪はなくなった。しかし、「不敬」は死語になることなく、いまだに隠微に生き続けている。天皇や皇族への批判の言論は不敬としてタブーとなっているのだ。世渡り上手はタブーと上手に付き合うことになる。売れっ子作家がタブーに触れることはない。天皇や皇族を語るときには、世の良識にしたがって、当たり障りのないことを述べて済ますのだ。そのことがタブーを再生産することになる。
しかし、作家とは本来危険な存在である。必要あれば、タブーに切り込むことを敢えて厭わない非妥協性をもたねばホンモノではない。「不敬文学」とはそのようなホンモノに対する敬意を込めた造語にほかならない。
沖縄の歴史を紐解くときに、天皇や天皇制との対峙なくして語ることはできない。もちろん日本全国においても同様というべきではあるが、沖縄は間違いなく格別である。沖縄の民衆の意識の深層を掘り起こすときには、天皇タブーに触れることが避けられない。このとき、タブーを意識して心ならずも妥協するか、敢然とタブーに切り込むか、表現者としてのホンモノ度が問われる。
目取真は間違いなく、非妥協派の一人である。昨日(4月2日)の毎日が解説記事の中で代表作の一つとして挙げた「平和通りと名付けられた街を歩いて」がその典型とされている。皇太子(現天皇)夫妻の2度目の沖縄訪問を舞台として、この二人に沖縄戦の記憶を深層に宿している沖縄の民衆を対峙させ、皇室の聖性や虚飾を剥ぎ取ろうとするタブーへの挑戦は、目取真の真骨頂と言えよう。
もちろん、ブログを見れば分かるとおり、目取真の運動に関する発信は極めて真っ当であって物議を醸す要素はまったくない。しかし、「オール沖縄」とは当然に保守層をも含んでいる。革新層にも、統一のために保守層への配慮を過度に重視する傾向もあるのではないか。目取真の位置を私ははかりかねていた。もしかしたら、いざという局面では、「オール沖縄」の目取真に対する視線は冷たくなるのではないか。
私の危惧は杞憂に過ぎなかった。「オール沖縄」は目取真の強靱な精神をしっかりと抱え、支えている。この広さと深さこそが、強さの根源であろう。あらためてオール沖縄の団結のあり方に敬意を表したい。
(2016年4月3日)
2013年4月1日から毎日連続更新を続けてきた当ブログは、本日で丸3年となった。この間、36か月。1096日(365日+365日+366日)である。1日1記事を書き続けて、本日が連続1096回目、明日のブログから4年目にはいる。
「三日坊主」という揶揄の言葉はあるが、「三年坊主」とは言わない。むしろ、「石の上にも三年」というではないか。その三年間の途切れない継続にいささかの達成感がある。とはいうものの、このブログを書き始めた動機からは甚だ不満足な現下の政治状況と言わざるを得ない。
今次のブログ連載は2013年1月1日から書き始めた。正確には、日民協ホームページの一隅を借りて以前にも連載していた「憲法日記」の再開であった。第2次安倍政権の発足に危機感を持ったことがきっかけ。安倍流の改憲策動に抵抗する一石を投じたいとのことが動機である。案の定、この政権は「壊憲」に余念なく、危険きわまりない。しかも、日本全体の右傾化によって発足したこの政権は、この3年余で、保守陣営全体を極右化しつつある。
当ブログ再開当時「当たり障りのあることを書く」と宣言しての気負いから、直ぐさま間借り生活の窮屈を感じることとなった。そのため、自前のブログを開設して引っ越し、連続記録のカウントを始めたのがその年の4月1日。以来、あちこちに問題を起こしつつの「憲法日記」の連続更新である。
安倍内閣がまだ続いていることに焦慮の思いは強いが、他方この間のブログの威力とさらなる可能性を実感してもいる。「保育園落ちた。日本死ね」の1本のブログが、政治を動かしている現実を目の当たりにしたばかりでもある。以前、当ブログでは「ブロガー団結宣言」を掲載したが、あらためて、その修正版として「リベラル・ブロガー団結宣言」を再掲載したい。
「すべてのリベラル・ブロガーは、事実に関する情報の発信ならびに各自の思想・信条・意見・論評・パロディの表明に関して、権力や社会的圧力によって制約されることのない、憲法に由来する表現の自由を有する。
リベラル・ブロガーは、市井の個人の名誉やプラバシーには最善の配慮を惜しまない。しかし、権力や経済的強者あるいは社会的権威に対する批判においていささかも躊躇することはない。政治的・経済的な強者、社会的な地位を有する者、文化的に権威あるとされている者は、リベラル・ブロガーからの批判を甘受しなければならない。
無数のリベラル・ブロガーの表現の自由が完全に実現するそのときにこそ、民主主義革命は成就する。万国のリベラル・ブロガー万歳。万国のリベラル・ブロガー団結せよ。」
現代的な言論の自由を語るとき、ブロガーの表現の自由を避けては通れない。憲法21条は、「言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と定める。日本国憲法に限らず、いかなる近代憲法も、その人権カタログの中心に「表現の自由」が位置を占めている。「表現の自由」の如何が、その社会の人権と民主主義の到達度を示している。文明度のバロメータと言っても過言でない。
しかし、人がその思想を表明するための表現手段は、けっして万人のものではない。この表現手段所有の偏在が、個人の表現の自由を空論としている現実がある。「言論、出版その他一切の表現の自由」における、新聞や出版あるいは放送を典型とする言論の自由の具体的な担い手はマスメディアである。企業であり法人なのだ。基本的人権の主体は本来個人であるはずだが、こと表現の自由に限っては、事実上国民は表現の受け手としての地位にとどめられている。メディアの自由の反射的利益というべき「知る権利」を持つとされるにすぎない。
そもそも、本来の表現の自由は個人のものであったはず。その個人には、せいぜいがメディアを選択する自由の保障がある程度。いや、NHKの受信にいたっては、受信料支払いを強制されてなお、政権御用のアベチャンネルを押しつけられるありさまではないか。
その事情を大きく変革する可能性がネットの世界に開けている。IT技術の革新により、ブログやSNSというツールの入手が万人に可能となって、ようやく主権者一人ひとりが、個人として実質的に表現の自由の主体となろうとしている。憲法21条を真に個人の人権と構想することが可能となってきた。まことにブログこそは貧者の武器というにふさわしい。個人の手で毎日数千通のビラを作ることは困難だ。これを発送すること、街頭でビラ撒きすることなどは不可能というべきだろう。ブログだから意見を言える。多数の人に情報を伝えることが可能となる。ブログこそは、経済力のない国民に表現の自由の主体性を獲得せしめる貴重なツールである。ブログあればこそ、個人が大組織と対等の言論戦が可能となる。弱者の泣き寝入りを防止し、事実と倫理と論理における正当性に、適切な社会的評価を獲得せしめる。ブログ万歳である。
この「個人が権利主体となった表現の自由」を、今はまだまだ小さな存在ではあるが大きな可能性を秘めたものとして大切にしたい。反憲法的ネトウヨ言論の氾濫や、匿名に隠れたヘイトスピーチの跋扈の舞台とせず、豊穣なリベラル言論の交換の場としたい。この新しいツールに支えられた表現の自由を手放してはならない。
ところが、この貴重な表現手段を不愉快として、芽のうちに摘もうという動きがある。その典型例がDHCスラップ訴訟である。経済的な強者が、自己への批判のブログに目を光らせて、批判のリベラル・ブロガーを狙って、高額損害賠償請求の濫訴を提起している現実がある。もちろん、被告として標的にされた者以外に対しても萎縮効果が計算されている。
だから、全国のリベラル・ブロガーに呼び掛けたい。他人事と見過ごさないで、リベラル・ブロガーの表現の自由を確立するために、あなたのブログでも、呼応して声を上げていただきたい。さらに、全ての表現者に訴えたい。表現の自由の敵対者であるDHCと吉田嘉明に手痛い反撃が必要であることを。スラップ訴訟は、明日には、あなたの身にも起こりうるのだから。
(2016年3月31日・「憲法日記」連続3年更新の日に)
「季刊フラタニティ(友愛)」(発行ロゴス)の宣伝チラシの惹句を起案した。6人が分担して、私の字数は170字。最終的には、下記のものとなった。
経済活動の「自由」が資本主義の本質的要請。しかし、自由な競争は必然的に不平等を生み出す。「平等」は、格差や貧困を修正して資本主義的自由の補完物として作用する。「フラタニティ」は違う。資本主義的な競争原理そのものに対抗する理念ととらえるべきではないか。搾取や収奪を規制する原理ともなり得る。いま、そのような旗が必要なのだと思う。
いかにも舌足らずの170字。もう少し、敷衍しておきたい。
典型的な市民革命を経たフランス社会の理念が、『リベルテ、エガリテ、フラテルニテ』であり、これを三色旗の各色がシンボライズしていると教えられた。日本語訳としては、「自由・平等・博愛」と馴染んできたが、今「フラテルニテ」は、博愛より友愛と訳すのが正確と言われているようだ。この雑誌の題名「フラタニティ」は、その英語である。
「自由・平等」ではなく、「友愛」をもって誌名とした理由については、各自それぞれの思いがある。市民革命後の理念とすれば、「民主」も「平和」も「福祉」も、「共和」も「共産」も「協働」もあるだろう。「共生」や「立憲主義」や「ユマニテ」だってあるだろう。が、敢えて「フラタニティ(友愛)」なのである。
自由と平等との関係をどう考えるべきか、実はなかなかに難しい。「フラタニティ」の内実と、自由・平等との関係となればさらに難解。されど、「フラタニティ」が漠然たるものにせよ共通の理解があって、魅力ある言葉になっていることは間違いのないところ。
「フラタニティ」は、この社会の根底にある人と人との矛盾や背離の関係の対語としてある。競争ではなく協同を、排斥ではなく共生の関係を願う人間性の基底にあるものではないか。多くの人が忘れ去り、今や追憶と憧憬のかなたに押しやられたもの。
市民革命とは、ブルジョワの革命として、所有権の絶対と経済活動の自由を最も神聖な理念とした。市民革命をなし遂げた社会の「自由」とは、何よりも経済活動の「自由」である。その後一貫して、経済活動の「自由」は資本主義社会の本質的要請となった。経済活動の自由とは、競争の自由にほかならず、競争は勝者と敗者を分け、必然的に不平等を生み出した。そもそも持てる者と持たざる者の不平等なくして資本主義は成立し得ない。
したがって、資本主義社会とは、不平等を必然化する社会である。本来的に自由を重んじて、不平等を容認する社会と言ってもよい。スローガンとしての「平等」は、機会の平等に過ぎず、結果としての平等を意味しない。しかし、自由競争の結果がもたらす格差や貧困を修正して、社会の矛盾が暴発に至らないように宥和する資本主義の補完物として作用する。一方、「フラタニティ」は、資本主義的自由がもたらした結果としての矛盾に対応するものではなく、資本主義的な競争原理そのものに対抗する理念ととらえるべきではないだろうか。
人が人を搾取する関係、人が人と競争して優勝劣敗が生じる関係、そのような矛盾に対するアンチテーゼとしての、人間関係の基本原理と考えるべきではないだろうか。いま、貧困や格差が拡がる時代に、貧困・格差を生み出す「自由」に対抗する理念となる「旗」が必要なのだと思う。
なお、「博愛」か「友愛」か。
「愛」は、グループの内と外とを分けて成立する。外との対抗関係が強ければ強いほど、内なる「愛」もボルテージの高いものとなる。社会的には許されぬふたりの仲ほどに強い愛はない。家族愛も、郷土愛も、民族愛も、愛国心も、排外主義と裏腹である。外に向けた敵愾心の強さと内向きの愛とは、常に釣り合っている。
「友愛」は、「仲間と認めた者の間の愛情」というニュアンスが感じられる。最も広範な対象に対する人類愛は「博愛」というに相応しい。もっとも、「博愛」には慈善的な施しのイメージがつきまとう一面がある。ならば「友愛」でもよいか。訳語に面倒がつきまとうから、「フラタニティ」でよいだろう。
(2016年3月30日)
本日は、三題噺である。お題は、3人の人名。古舘伊知郎と菅孝行、そして忌野清志郎。
まずは、古舘伊知郎。3月18日の報道ステーションの内容が大きな話題を呼んでいる。キャスター古舘本領発揮の熱い語りかけ。歴史に残る放送ではないか。古舘流に「これぞ全国民必見」と評して過言でない。友人に教えられていくつかのURLで録画を見た。下記がそのひとつ。完全なものではないが、URLが短い。是非ともの視聴をお勧めし、拡散をお願いしたい。
https://www.dailymotion.com/embed/video/x3ym0kc
番組の表題は、「憲法改正の行方…『緊急事態条項』ーワイマール憲法が生んだ『独裁』の教訓と緊急事態条項」。ヒトラーの台頭を許したワイマール憲法の陥穽と、自民党改憲草案「緊急事態条項」とを対比して、安倍自民の危険な動向に警鐘を鳴らすものとなっている。
古舘自身がワイマールに飛び、ナチス台頭ゆかりの故地を訪ね、強制収容所跡で記録映像を重ね、ナチスから弾圧を受けた犠牲者の家族を取材し、ドイツの法律家や憲法研究者の意見を聞く。構成がしっかりしており、映像に訴える力がある。そして、古舘の情熱の語り口が聞かせる。影響は大きいのではないか。
この番組が抉ったものは、ワイマール憲法の「国家緊急権」条項がどのように使われて、ナチスの暴発を許したのかという問題性である。「最も民主的な憲法のもとでも、独裁が生じうる」そのメカニズムを検証して、安倍自民が準備している「自民党改憲草案」における「緊急事態条項」と重ねて、その類似性・危険性を警告している。
ドイツの憲法学者に自民党改憲草案の緊急条項部分を読んでもらうと、「これはワイマール憲法48条(国家緊急権条項)を思い起こさせる」「内閣が法律と同じ効力を持つ政令を制定することは危険」「財政措置まで議会の関与なく内閣の一存で決められる」「災害などには法律で適切に対処している日本で、このような憲法条項があるだろうか」という指摘は重い。
最後は、スタジオで長谷部恭男が「法律と同じ効力を持つ政令が制定できるとは、緊急時には令状なしの逮捕や捜索もできるという危険を残すこと」と、オーソドックスな解説をして締めくくっている。
当時、最も民主的で進歩的と言われたワイマール憲法であったが、その憲法の欠陥を衝いてヒトラーの独裁が成立した。これを許したのが、ワイマール憲法の「国家緊急権」条項である。緊急事態に名を借りて、ナチスは全権委任法を成立させた。その結果、1933年からドイツ敗戦の1945年まで、ドイツの議会は事実上死んだ。議会制民主主義は崩壊し、法律は議会に代わってヒトラーの内閣が作った。
自民党改憲草案の緊急事態条項はこの悪夢の再現に道を開くもの、という危機感に溢れた番組構成となった。古舘は、「いまの日本で、ドイツで起こったようなこととなるわけはありません。」と繰り返している。もちろん、このフレーズに「しかし、…」と続くことがある。その語り口は、付け入る隙を与えない見事なものだ。古舘の意識的な否定にかかわらず、誰が見ても安倍がヒトラーに重なる。緊急事態条項を準備した自民党がナチスだ。
この番組の映写を集会や学習会で活用することが考えられないだろうか。ほぼ30分。これを借り出して使えるようにできないか。関係者にお考えいただきたい。
スタッフ一丸となった使命感に溢れた番組作りの姿勢に敬意を表したい。それだけでなく、古舘個人にも讃辞を惜しまない。彼には怒りのエネルギーが充満しているはず。安倍内閣やこれを支える右翼連中からの圧力への怒り。番組担当はもうすぐ終わりというこの時期に怒りのほとばしりを見事に冷静にやってのけている。
私は先日のブログに、「憤怒の思いあるときに、上品な文章は書けない。品のよい文章では、怒りの気持が伝わらない。『保育園落ちた。日本死ね』の文章は、怒りが文体に表れて、多く人の心に響いたのだ。私もこの文体を学びたいと思う。」と書いた。古舘は、品良く怒りを表した。これがあっぱれ。
その反対に「憤怒の思いを、これ以上は考えられない品の悪さで表現した」典型例を引きたい。
お題の二つ目。菅孝行という人物がいる。何者とも言い難いが、彼の若き日を回想する次の一文をお読みいただきたい。
「舞芸一年目の秋には砂川基地拡張のための測量が強行され騒然となった。私たち舞芸自治会は全学連に加入して砂川町に泊りこみ、歌と踊りのバラエティーショーを仕こんで、闘争の合間のひとときを、隊列のあちこちや神社の境内でやった。
数千のデモ隊と機動隊とが対峙した夕刻の一触即発の時、「赤とんぼ」の歌が湧き起こった隊列の只中に私はいたが、あの歌の意味はなんだったのか。次々と歌でも歌ってなきゃ間ももたなかった。全くの素手でスクラムを組んでいたデモ隊には、次にくる機動隊の暴力の予感にふるえる悲鳴だったか、あるいはアメリカ軍の基地拡張への、日本人のナショナルな心情の吐露だったのか。おっちょこちょいの舞芸の連中が、折からの夕焼けシーンに乗って歌いはじめたのかもしれぬが、とても奇妙な情景だった。『赤とんぼ』の歌を打ち消すように機動隊が襲いかかり、引きずり出されては、機動隊の乱打のトンネルに次々と送りこまれていった。機動隊の暴力行為で多数の負傷者を出したこの日の流された血の代償として、政府は強制測量無期延期を決定しなくてはならなかった。」
私がこの人の文章に目を留めたのは、「歌に刻まれた歴史の痕跡」の一章として書かれた三木露風「赤とんぼ」2番の歌詞についての解釈。私の記憶では、彼は大意次のように述べている。
「十五でネエヤが嫁に行ったはずはない。ネエヤは身を売られたのだ。本当に嫁に行ったのなら、お里のたよりが途絶えることはない。当時、貧しい家の女児は幼いうちから裕福な家の子守に出され、長じては身を売られる例がすくなくなかった。露風は、子ども心に漠然とそのことを感じていたのだろう。そのことがこの歌詞のものかなしさの根底にある」
まったく自分には見えていないことの指摘を受けて、うろたえた憶えがある。
この人が、最近の「靖國・天皇制通信」に、「闘争の歌の〈品格〉とはなにか」という一文を寄稿している。これが面白い。ここに出て来る忌野清志郎が、お題の三つ目だ。
先年亡くなった忌野清志郎という過激な歌手がいた。
RCサクセションの「いけないルージュマジック」はいわれもなく挑発的に聴こえた。彼は、おかしなことを一杯やった。その一つが、タイマーズの結成である。《清志郎に「よ〈似た男」》ゼリーが率いる覆面バンドが結成され、アン・ルイスのライブとか、あちこちのコンサートに乱入して飛び入りで歌った。タイマーズとは「大麻」のことだというから、入を食っている。彼らは広島平和コンサート、パレスチナ独立記念パーティなどにも出演した。
1989年10月フジテレビのヒットスタジオR&Nに出演して、リハーサルとは全く道う、放送禁止用語に溢れたFM東京を罵倒するうたを歌って物議をかもした。奇しくも司会は、先ごろ朝日放送の報道番組のキャスターを下ろされた古舘伊知郎たった。タイマーズが罵倒ソングを歌った理由は、山口富士夫との共作「谷間のうた」、COVERS収録の「サマータイム・ブルース」、「土木作業員ブルース」などの放送禁止や放送自粛への抗議だった。因みに「土木作業員ブルース」を歌う時のいでたちは、ヘルメット、覆面姿の「武装」学生のパロディだった。
♪FM東京腐ったラジオ FM東京 最低のラジオ
何でもかんでも放送禁止さ!
FM東京汚ねえラジオ FM東京 政治家の手先
なんでも勝手に放送禁止さ!
FM東京バカのラジオ FM東京
こそこそすんじゃねえ○○○○野郎! FM東京
♪FM東京腐った奴らFM東京気持ち悪いラジオ
何でもかんでも放送禁止さ!
FM東京汚ねえラジオFM東京政治家の手先
○○○○野郎! FM東京
※(セリフ)ばかやろう!
※(加筆)なにが27極ネットだおらあ!FM仙台おらあ!
○○○○野郎! FM東京!
※(セリフ)ざまあみやがれい! (註 菅の文章に伏せ字はない)
これ以上品の悪いうたを歌うのは難しい。しかし、YouTubeで聞いてみると、凛としていて、少なくとも私には、爽やかなプロテストソング以外のものではない。
たかがFM東京の放送禁止や放送自粛への抗議といって楼小化してはならない。権力のラジオやテレビヘの表現弾圧、メディアの自主規制という、いまでは全然珍しくなくなってしまった事態への、本質的なプロテストの姿勢がそこにはあった。タイマーズというRCサクセションを一皮剥いたマトリューシュカのようなバンドが結成されたのが、天皇代替わりの自粛蔓延の年、このFM東京罵倒ソングの誕生が、その翌年であることは決して偶然ではない。
忌野清志郎の「FM東京腐ったラジオ」のYouTubeを私も聞いてみた。なるほど菅のいうとおり「爽やかなプロテストソング」である。からっと痛快なのだ。このとき司会の古舘は、確かに「不適切な表現」を謝罪してはいる。が、まったく恐縮した様子はない。もちろん、止めにはっいてもいない。プロテストをおもしろがっている気持が伝わってくる。古舘を含む当時の業界人の暗黙の支援あっての清志郎のパフォーマンスであったろう。
菅孝行の文章は、もう少し続く。
「昨年、国会前で、茂木健一郎が、この歌の替え歌を歌った。勿論、罵倒対象は安倍と政府と与党に置き換えられていた。茂木という人物は、アヤシイ奴である。もし、茂木ではなくデモ隊本体が、腐った政府、キタネエ政府、アメリカの手先、経団連の手先、こそこそすんじゃねえと歌ったら、本歌の精神を引き継ぐ見事なリバイバルだったのに、と思う。生きていれば恐らく、忌野清志郎は、反原発の首相官邸前行動や、戦争法制反対の国会包囲の群衆の中にいて、新しいうたを作ったに違いない。」(抜粋)
プロテストの新しい歌が欲しい。プロテストの精神を大切にしたい。そのような目で「日本死ね」の文章の後半ををもう一度読み直してみよう。
不倫してもいいし賄賂受け取るのもどうでもいいから保育園増やせよ。
オリンピックで何百億円無駄に使ってんだよ。
エンブレムとかどうでもいいから保育園作れよ。
有名なデザイナーに払う金あるなら保育園作れよ。
どうすんだよ会社やめなくちゃならねーだろ。
ふざけんな日本。
保育園増やせないなら児童手当20万にしろよ。
保育園も増やせないし児童手当も数千円しか払えないけど少子化なんとかしたいんだよねーってそんなムシのいい話あるかよボケ。
国が子供産ませないでどうすんだよ。
金があれば子供産むってやつがゴマンといるんだから取り敢えず金出すか子供にかかる費用全てを無償にしろよ。
不倫したり賄賂受け取ったりウチワ作ってるやつ見繕って国会議員を半分位クビにすりゃ財源作れるだろ。
まじいい加減にしろ日本。
これ、歌になる。古舘ほどの品はないものの、「闘争の歌」としての品格十分。立派な歌詞だ。誰か曲を付けないだろうか。
(2016年3月21日)
昨日(3月7日)の朝日新聞社会面が、スラップ訴訟関連の記事を取り上げた。
見出しは、「言論封じ『スラップ訴訟』」「批判的な市民に恫喝・嫌がらせ」というもの。デジタル版では、「批判したら訴えられた…言論封じ『スラップ訴訟』相次ぐ」となっている。
http://digital.asahi.com/articles/ASJ3652LRJ36UTIL00H.html?rm=324
ようやくにしてではあるが、まずは目出度い大手メディアデビューである。
スラップの実態や弊害についての議論は、ネット上では旺盛に行われている。当ブログの「DHCスラップ訴訟を許さない」シリーズは本日が第77弾。おかげで、スラップに関する情報の提供を受けたり、相談に与ることも少なくない。しかし、大手メディアの沈黙が不気味であった。記者会見には来るメディアも、記事にはしない。萎縮効果はここまで…と疑わざるを得ない事態だった。が、この記事をきっかけに、他紙も安心してスラップの記事を書くことができるようになるのではないか。遠慮なく、DHC・吉田嘉明の名前を出して。そのような批判の記事なくしては、メディア自身の表現の自由も危うくなるではないか。
朝日の記事の冒頭に次のリードがある。
「会社などを批判した人が訴訟を起こされ、『スラップ訴訟だ』と主張する例が相次いでいる。元々は米国で生まれた考え方で、訴訟を利用して批判的な言論や住民運動を封じようとする手法を指す。法的規制の必要性を訴える専門家もいるが、線引きは難しい。」
具体的な事例として、最初に「伊那太陽光発電スラップ訴訟」を紹介し、この事件に大きくスペースを割いている。
次いで、DHCスラップ訴訟(対澤藤事件)が取り上げられている。その全文が次のとおり。
「憲法は『裁判を受ける権利』を定めており、『スラップ訴訟』かどうかの線引きは難しい。
1月、化粧品大手ディーエイチシー(DHC)と吉田嘉明会長が、ブログで自らを批判した沢藤統一郎弁護士に賠償を求めた訴訟の判決が東京高裁であった。
吉田会長がみんなの党(解党)の渡辺喜美元代表に8億円を貸していた問題を、沢藤弁護士はブログで『自分のもうけのために、政治家を金で買った』と批判。吉田会長は、同様の批判をした評論家や他の弁護士も訴えた。このため沢藤弁護士はブログで『スラップ訴訟だ』とさらに批判。すると2千万円だった請求が6千万円に増やされた。
東京地裁に続いてDHC側の請求を棄却した高裁の柴田寛之裁判長は『公益性があり、論評の範囲だ』と述べた。判決後、沢藤弁護士は『訴えられると、言論は萎縮せざるを得ないと実感した。判決にほっとした』と話した。DHC側は上告受理を申し立てた。」
これをいかにも朝日らしい、というのだろうか。臆病なまでに公正らしさに配慮して、「憲法は『裁判を受ける権利』を定めており、『スラップ訴訟』かどうかの線引きは難しい。」と書いたあとでの、DHCスラップ訴訟の紹介なのだ。
それでも、この記事の掲載には大きな意義がある。「スラップ訴訟」という用語の解説もあるし、これまでの「訴えられた側が『スラップ訴訟』だと主張した例」として、幸福の科学事件、武富士事件、オリコン事件などの経過概要も紹介されている(もっとも、固有名詞はすべて伏せられている)。スラップ訴訟という言葉を人口に膾炙せしめ、スラップのダーティーなイメージを世に広めるために、大きな役割を果たすことになるだろう。
この朝日記事の最大の評価ポイントは、コメンテーターとして、内藤光博教授を採用したことである。その全文を引用しておこう。
「スラップ訴訟の研究を進める専修大学の内藤光博教授(憲法学)は『特定の発言を封じるだけでなく、将来の他の人の発言にも萎縮効果をもたらす。言論の自由に対する大きな問題で、法的規制も検討するべきだ』と指摘する。
米国では1980年代、公害への抗議や消費者運動をした市民に、大企業が高額賠償を求める訴訟が多発。『表現の自由への弾圧』と批判され、90年代以降に防止法が作られた。カリフォルニア州など半数以上の州で制定。裁判所が初期段階でスラップと認定すると訴訟が打ち切られ、提訴側が訴訟費用を負担する仕組みが多いという。
ただ、日本ではまだ認識が薄く、基準もあいまいだ。内藤教授は『まずは事例を研究した上で、きちんと定義し、議論を深める必要がある』と話す。」
さて、公正にして中立な朝日の記事は、スラップ訴訟の仕掛け人である吉田嘉明のコメントを掲載している。
「朝日新聞の取材に、吉田会長は『名誉毀損訴訟を起こすのは驚くほど金銭を要し、泣き寝入りしている人がほとんどではないでしょうか。それをいいことに、うそ、悪口の言いたい放題が許されている現状をこそ問題にすべきです』とのコメントを寄せた。」
開いた口が塞がらない。この人はなんの反省もしていない。多くの敗訴判決から何も学んでいないのだ。これでは、今後も同じことを繰り返すことになる。
この人が『名誉毀損訴訟を起こすのは驚くほど金銭を要し』とは、聞かされる方が驚くほどのこと。吉田嘉明は、自ら「何度も長者番付に名を連ね、現在も多額の収入と資産がある」と表明している人物である。私は、「カネに飽かせてのスラップ訴訟常連提起者」と批判してきた。その当人が「敗訴必至の訴訟に驚くほど金銭を要した」というのだ。
通常の訴訟は経済合理性に支えられている。勝訴してもペイせず、費用倒れに終わることの明らかな提訴は、普通は行われない。敗訴のリスクが高ければなおさらのことである。真っ当な弁護士に相談すれば、「およしなさい」とたしなめられるところ。ところが、スラップ訴訟はまったく様相を異にする。経済合理性は度外視し、判決の帰趨についての見通しも問題としない。ただひたすらに自分に対する批判者に、可能な限り最大限のダメージを与えようという目的の提訴なのだ。だから、「金銭を要する」のはスラップ訴訟である以上、あまりに当然のことなのである。これを当の本人が「驚くほど」高額ということになのだから、いったいどれほど莫大な金額をかけたものやら、驚くほどのことというわけだ。
「週刊新潮・8億円裏金提供暴露手記」の批判者を被告として、DHC・吉田が原告となって提起したスラップ訴訟は、私に対するものを含めて同時期に10件ある。損害賠償請求額は最低2000万円、最高は2億円である。この請求金額が、貼用印紙額や弁護士費用の計算基準となる。敗訴覚悟の無茶苦茶な高額請求をしておいて、「驚くほど金銭を要し」たのは自業自得以外のなにものでもない。しかし、問題の本質は別のところにある。
DHCスラップ訴訟とは何か。吉田嘉明が8億円もの裏金を政治家渡辺喜美に提供して、規制緩和の方向に政治を動かそうとした。そのことに対する批判の意見が噴出したとき、その批判の政治的言論を高額損害賠償請求の訴訟を濫発して封殺しようとしたものなのだ。しかも、その提訴を通じて社会を威嚇し、政治的な言論に対する萎縮効果を狙ったところに、最大の問題がある。
吉田は、自らに対する政治的な批判の言論を「うそ、悪口の言いたい放題」という。自らが、事実を手記として週刊誌に発表しておいて、これを批判されると、批判に「うそ、悪口の言いたい放題」と悪罵を投げつける。果たして批判の言論が「うそ」であるか、「悪口」であるか、「言いたい放題」であるか、いくつもの判決が既に決着をつけている。
吉田は、自分への批判を封じ込めたいというのだが、それが許されるようでは、世も末だ。表現の自由は地に落ち、民主主義が崩壊する。
メディアは、これを他人事として傍観していてはならない。やがては自分に降りかかってくる問題ではないか。これまで、私が記者会見で何度も訴えてきたことを繰り返したい。
「私の判決が、DHC・吉田の完敗でよかった。もし、ほんの一部でもDHC・吉田が勝っていたら、政治的な言論の自由は瀕死の事態に陥いることになる。
DHCスラップ訴訟とは、優れて政治的な言論の自由をめぐるせめぎ合いの舞台なのだ。そのような目で、私の事件にも、その他のDHCスラップ訴訟にも、そしてその他のスラップ訴訟にも注目していただきたい。
ぜひ、記者諸君に、自分の問題としてとらえていただくようお願いしたい。自分が書いた記事について、記者個人に、あるいは社に、2000万あるいは6000万円という損害賠償の請求訴訟が起こされたとしたら…、その提訴が不当なものとの確信あったとしても、どのような重荷となるか。それでもなお、筆が鈍ることはないと言えるだろうか。
権力や富者を批判してこそのジャーナリズムではないか。ジャーナリストを志望した初心に立ち返って、金に飽かせての言論封殺訴訟の横行が、民主主義にとっていかに有害で危険であるか、想像力を働かせていただきたい。今、世に頻発しているスラップ訴訟の害悪を広く知らしめ、スラップ防止の世論形成に努めてもらいたい。
スラップ訴訟は、言論の萎縮をもたらす。今や政治的言論に対する、そして民主主義に対する恐るべき天敵なのだ。けっして、スラップに成功体験をさせてはならず、その跋扈を防止しなければならない。」
(2016年3月8日)
一昨日(2月29日)の毎日新聞夕刊。特集ワイドが、「『バナナの逆襲』フレドリック・ゲルテン監督に聞く」を掲載した。全面に近いスペースを割いた、文字どおりの「ワイドな特集」。
http://mainichi.jp/articles/20160229/dde/012/200/005000c
「農民VS米大企業、映画にしたら訴えられた」「衰える『表現の自由』」というストレートな大きな見出しが小気味よい。 記者の力量もあって、表現の自由への圧力とジャーナリズムのあり方についての問題提起として、読み応え十分である。ただ、残念ながら、「スラップ訴訟」という言葉が出て来ない。
この特集での映画の紹介は以下のとおり。
「ニカラグアのバナナ農園で働く労働者12人が、米国では使用禁止の農薬の影響で不妊症になった可能性があるとして、米国の食品大手ドール・フード・カンパニーを相手取り損害賠償を求める裁判を起こす。ゲルテンさん(スウェーデン人)は、その裁判を追ったドキュメンタリー映画を製作。これが第2話(2009年、87分)だ。」
「映画は09年、ロサンゼルス映画祭に出品される予定だったが、ドール社は主催者に上映中止を要求。ゲルテンさんを名誉毀損(きそん)で訴える。監督自身が上映に向け孤軍奮闘する姿を描いたのが第1話(11年、87分)だ。」
私が注目したのは、以下の点だ。
米メディアの多くはゲルテンさんに厳しく、非難の矢面に立たされる。「メディアの大半はドール社やそのPR会社に取材し、『貧しいキューバ人移民の悪徳弁護士がバナナ農民を原告に立て、米企業を脅迫している』『世間知らずのスウェーデン人が弁護士を英雄に仕立て上げた』といった物語として報じました。作品を見てもらえず、うそつき呼ばわりされ、かなりのストレスを感じました」
「米国の報道陣には、大多数とは違う視点で物事を報じるエネルギーや好奇心が薄いという印象を受けました」とも。
ゲルテンは、アフリカや中米で記者活動の経験をもつ。その経験から、ジャーナリストの一般的な習性を「事件でも問題でも一つの現象を描く場合、人と、特に大多数とは違う角度から描くことに熱意と努力を発揮する」と見ているという。それだけに、企業に配慮したかのような米メディアの報道姿勢を意外に感じたというのだ。この指摘は、示唆に富むものではないか。
その理由について、ゲルテンの語るところはこうだ。
「米国は一種の『恐怖社会』じゃないかなという印象を持ちました。例えばスウェーデン人の私は、失職しても子供の教育費も家族の医療費も無料ですから、すぐには困らない。でも民間頼りの米国では、そうはいかないんです」
さらに、こうも言う。
「米国企業の場合、自社の信用を落とすような報道に対しては、イメージ戦略として、とりあえず訴えを起こす傾向がありますが、記者たちはそれを恐れているように思います。大企業に訴えられた新聞社が、末端の記者を解雇して訴訟を免れる例が過去に何例もあるのです。少人数の調査で、ようやく貴重な事実を発掘しても、十分な訴訟費用のないメディアだと記者たちを最後まで守りきろうとしないこともあります」
彼は、「映画は裁判を描いただけなのに、それが上映されないのはおかしいと私は言い続けた。つまり当たり前のことをしたわけです」という。ところが、「私の知る少なからぬ米国人には、一人で抵抗することがよほどすごいことのように思えたようです。それだけ当局や大企業からの圧力が浸透しているということではないでしょうか」
ゲルテンは「ジャーナリストが年々弱くなってきている」と慨嘆し、こう締めくくっている。
「ネットの浸透、紙メディアの衰退で、ジャーナリストは常に失職を恐れています。でも不安や恐れにばかりとらわれていては、良い仕事はできません。独立した、自由に物を書けるジャーナリストのいない社会に本当の意味での民主主義は育ちません。政府にも政党にも企業にも批判されない無難な話だけが流されることになってしまいます。本当の話には必ず批判があります。後に賞を受けたような報道は必ず、その渦中では反論を浴び、圧力や批判を受ける。だからこそ、ひるんではならないのです」
すばらしい言ではないか。本当にそのとおりだ。「自由に物を書けるジャーナリストのいない社会に本当の意味での民主主義は育たない」のだ。だが、ジャーナリストといえども、衣食足りてこそ自由に物を書けるのだ。失職の恐れ、社会保障のない社会に放り出されることの恐れが、結局はジャーナリズムを「政府にも政党にも企業にも批判されない無難な話だけが流される」ことにしてしまう。ジャーリスト個人の資質だけの問題ではなく、社会のあり方がジャーナリズムの質を規定しているのだ。
ゲルテンは、スウェーデンと米国を比較して、明らかに米国のジャーナリズムはおかしくなっていることに警告を発している。では、日本はどうだ。「社会のあり方がジャーナリズムの質を規定している」とすれば、米日は大同小異。しかも、伝統浅い日本のジャーナリズムは、米国よりもはるかに権力や企業の圧力に弱い。
権力の意向を忖度し、萎縮して「無難な話だけが流される」状態は既に定着している。それであればこそ、停波処分をチラつかせた権力の威嚇効果はてきめんなのだ。さすれば、DHCや吉田嘉明相手程度でも、恐れることなく私が批判を続けることの意義はあろうというもの。けっして「ひるんではならない」し、「ひるむ必要」もないのだから。
『バナナの逆襲』は、東京・渋谷のユーロスペース(配給・きろくびと)で上映中。3月18日までの予定。問い合わせはユーロスペース(03・3461・0211)へ。
3/05(土)15:00回後に、小林和夫さん(オルター・トレード・ジャパン) 、石井正子さん(立教大学異文化コミュニケーション学部教授)らのトークを予定。
渋谷・ユーロスペースでの上映時間は下記URLで。
http://kiroku-bito.com/2bananas/index.html
3月19日(土)からは、横浜シネマリンで公開。
http://cinemarine.co.jp/counterattack-of-bananas/
さらに、続いて下記劇場でも公開決定とのこと。
名古屋シネマテーク/大阪・第七藝術劇場/神戸アートビレッジセンター/広島・横川シネマ
(2016年3月2日)