私は、昨日(6月6日)「那須南九条の会」で戦争法案の違憲性について講演。本日(6月7日)は、川口で少人数の「憲法カフェ」に出席して質疑に応じた。多くの人が、憲法の平和主義が壊れるのではないかと危機感を募らせていることを痛感するとともに、戦争法案の違憲性の確信や反撃への手応えも感じている。
とりわけ、6月4日(木)衆院憲法審査会に参考人として出席した憲法学者3人が、口を揃えて「戦争法案は違憲」と言った「事件」の波紋は大きい。この話題が巷に満ちている。朝日川柳に次の句が掲載されている。
呼んどいて「異見」はいらぬというシンゾウ(林武治)
世の衝撃は大きく、政権の評判はがた落ちだ。法案審議について議論の潮目が変わる予感がする。法案審議についての潮目の変化は、当然に安倍内閣支持の世論の潮目の変化ともなる。
本日の東京新聞朝刊には「論戦 潮目変わる」の大きな見出し。そして、「違憲ショック」「各論から『違憲立法』へ」である。朝日も、昨日の「憲法解釈変更 再び焦点」「安保法制『違憲』、攻める野党」に引き続いて、第2面に「参考人の指摘 重みは」とする大きな解説記事を掲載し「審議大きな転換点」と締めくくっている。毎日も、「学者批判続々」「安保法制 政権に不信感」だ。
とりわけ、東京新聞のボルテージが高い。
「衆院憲法審査会に参考人として出席した憲法学者三人全員が安全保障関連法案を『違憲』と言明したのを受け、衆院特別委員会の審議の最大の焦点が、法案の中身から法案の違憲性に移った。『違憲ショック』で法案の正当性が根幹から揺らいだことで、政府・与党は防戦を強いられた」というリード。
「長谷部恭男早大教授は、他国を武力で守る集団的自衛権の行使を解禁した憲法解釈変更に基づく安保法案について『従来の政府見解の論理の枠内では説明できず、法的安定性を揺るがす』と指摘。小林節慶応大名誉教授(民主党推薦)と笹田栄司早大教授(維新の党推薦)も『違憲』と言い切った」と経過を要約のうえ、
「五日の特別委は、専門家三人の『違憲』発言を受けて審議の潮目が変わった。それまでは、どういう状況なら集団的自衛権の行使が許されるのかの基準に議論が集中していたが、法案の違憲性が中心になった」と解説している。
「政府側は『憲法解釈は行政府の裁量の範囲内』(中谷元・防衛相)と反論。だが、この説明は『政府が合憲と判断したから合憲だ』と主張するのに等しい」「安倍政権は憲法解釈変更の閣議決定に際し、一内閣の判断で憲法解釈を変え、憲法が国家権力を縛る「立憲主義」をないがしろにしたと批判された経緯もあるのに、今回の学者や野党側の「違憲」との指摘も、正面から受け止めようとはしなかった」と手厳しい。
衆院憲法審査会の与党推薦参考人は、当初佐藤幸治(京大名誉教授)が予定されていたとされている。佐藤の日程の都合がつかなくて、与党は内閣法制局に適任者の人選を依頼し、内閣法制局から長谷部の推薦を受けたと経過が報じられている。もし、当初予定の佐藤幸治の日程に差し支えなく佐藤が審査会に出席していればどうなっただろうか。おそらくは、長谷部以上に辛辣に断固として法案の違憲を論じたにちがいないのだ。
その、話題の佐藤幸治が昨日(6月6日)1400人の聴衆に語っている。毎日の報道が大きい。「憲法改正:『いつまでぐだぐだ言い続けるのか』 佐藤幸治・京大名誉教授が強く批判」というタイトル。
「日本国憲法に関するシンポジウム『立憲主義の危機』が6日、東京都文京区の東京大学で開かれ、佐藤幸治・京大名誉教授の基調講演や憲法学者らによるパネルディスカッションが行われた。出席した3人の憲法学者全員が審議中の安全保障関連法案を「憲法違反」と断じた4日の衆院憲法審査会への出席を、自民党などは当初、佐藤氏に要請したが、断られており、その発言が注目されていた。
基調講演で佐藤氏は、憲法の個別的な修正は否定しないとしつつ、『(憲法の)本体、根幹を安易に揺るがすことはしないという賢慮が大切。土台がどうなるかわからないところでは、政治も司法も立派な建物を建てられるはずはない』と強調。さらにイギリスやドイツ、米国でも憲法の根幹が変わったことはないとした上で『いつまで日本はそんなことをぐだぐだ言い続けるんですか』と強い調子で、日本国憲法の根幹にある立憲主義を脅かすような改憲の動きを批判した」
注目されるのは、毎日が紹介するパネルディスカッションでの議論の内容。
「違憲とは言えないかもしれないが、憲法の精神には反していることを示す『非立憲』という言葉が話題になった。これまで、特に政治家の行動を戒めるために使われてきた言葉という。樋口陽一・東大名誉教授は、憲法改正の要件を定める憲法96条を改正し、国会発議のハードルを下げる『96条改正論』や、政府・与党による安保法制の提案の仕方そのものが『非立憲の典型』と批判した。」
これは面白い。2013年の憲法記念日を中心に、メディアに「立憲主義」の用語があふれた。安倍内閣の96条先行改憲論が立憲主義に反すると批判の文脈でだ。立憲主義の普及が、96条改憲論に本質的なとどめを刺した。今度は、「非立憲」。7・1閣議決定が「非立憲」。戦争法の提案自体が「非立憲」。必ずしも、明確に立憲主義違反とは言えない場合にも「非立憲」。気軽に、手軽に「非立憲」。安倍政権の非立憲を大いにあげつらおう。
東京新聞2面に、「安保国会 論点進行表」が掲載されている。10項目の各論点について、先週の「第1週の議論」に続いて、「第2集(1?5日)の議論」がまとめられている。ここには安保特別委員会だけでなく、憲法審査会の参考人発言も要領よく書き込まれている。これは優れものだ。来週の進行が楽しみになってきた。
(2015年6月7日)
国会の委員会審議では「参考人質疑」が行われる。各党の委員が、自党の見解を支持する識者を参考人として推薦する。だから、各党の見解の分布がそのまま、参考人の意見の分布に重なる。私も過去に2度、参考人として招かれた経験があるが、事前に予定されたとおりの意見の陳述があって波乱なく終わった。これが通例なのだろう。波風の立つことのない安全パイのパフォーマンス。ところが、今日は違った。与党側にしてみれば、トンデモナイ事態の出来であったろう。
報道によれば、衆院憲法審査会は4日、与野党が推薦した憲法学者3人を招いて参考人質疑を行った。その質疑において、集団的自衛権の行使容認を含む安全保障関連法案に関する質問では、全員が「憲法9条違反」と明言したという。これは、近時まれなる痛快事ではないか。
参考人は、自民・公明・次世代の3党が推薦した長谷部恭男、民主党が推薦した小林節、維新の党推薦の笹田栄司の3氏。樋口陽一・杉原泰雄・浦部法穂・山内敏弘などの違憲論を述べると予想される大御所連ではない。安全パイと思われての出番であったろう。とりわけ、長谷部恭男がその役割であったと思われる。
周知のとおり、長谷部恭男とは、特定秘密保護法の原型を形つくった、「秘密保全のための法制の在り方に関する有識者会議」5人のひとりである。2011年1月から6月にかけて、6回の会合を開き、同年8月8日に「秘密保全のための法制の在り方について」と題する報告書をまとめた。秘密保全法制検討の会議にふさわしく、会議の経過はヒ・ミ・ツ。議事録の作成はなかったという。その会議の中枢にあって、特定秘密保護法案が国会提出となってからも、積極的な推進論者であった。当然のごとく、衆議院の特別委員会で自民党推薦の参考人として特定秘密保護法に賛成の意見を述べている。
また、小林節とは、長く改憲論を唱える憲法学者として孤塁を守った人物。この人の著書のタイトルが、「憲法守って国滅ぶ」(1992年)、「そろそろ憲法を変えてみようか」(小林節・渡部昇一共著、2001年)、「憲法、危篤!」(小林節・平沢勝栄共著、200年)と言うのだから、推して知るべし。もっとも、最近の安倍政権の解釈改憲路線に対する批判は鋭い。護憲的改憲論者なのか、改憲的護憲論者なのかよくわからないが。
そして、笹田栄司。司法制度の研究者として知られる人だというが、この人が、憲法9条や安保法制についてどのような発言をしているかはほとんど知られていないだろう。推薦者が維新というのも、どんな見解を述べるのかまったく推測不可能。その意味では、最も適格な参考人であったかも知れない。
長谷部は、集団的自衛権の行使容認について「憲法違反だ。従来の政府見解の基本的枠組みでは説明がつかず、法的安定性を大きく揺るがす」と指摘。「外国軍隊の武力行使と一体化する恐れが極めて強い」と述べた、という。(この部分産経による)
これは事件だ。与党(自・公、おまけに次世代まで含めた3党)が招いた憲法学者が、政府提出の法案を違憲と明言したのだ。安全パイが、「ロン!」と当たってしまったのだ。前代未聞のことであろう。痛快きわまりない。
法案作りに関わった公明党の北側一雄は「憲法9条の下でどこまで自衛措置が許されるのか突き詰めて議論した」と理解を求めた。だが、長谷部氏は「どこまで武力行使が新たに許容されるのかはっきりしていない」と批判を続けた、と報道されている。長谷部という人、御用学者と思っていたが、研究者としての信念を持っていると見直さざるを得ない。
小林も、「憲法9条は海外で軍事活動する法的資格を与えていない。仲間の国を助けるために海外に戦争に行くのは憲法違反だ」と批判した。明快この上ない。また、政府が集団的自衛権の行使例として想定するホルムズ海峡での機雷掃海や、朝鮮半島争乱の場合に日本人を輸送する米艦船への援護も「個別的自衛権で説明がつく」との見解を示した、という。護憲論でも改憲論でもなく、解釈論ならこうなる以外にない、ということなのであろう。
そして、笹田。従来の安保法制を「内閣法制局と自民党が、(憲法との整合性を)ガラス細工のようにぎりぎりで保ってきた」と説明し、「今回、踏み越えてしまった」と述べた、という。推薦した維新はどう思ったのだろうか。想定のとおりの発言と受け止めたのか、それとも予想外のこととして驚いたろうか。
いずれにしても、専門研究者からの「法案は違憲」の指摘である。今後の審議への影響がないはずはない。まったく影響ないのなら、参考人質疑という制度自体が無意味ということになる。
さっそく官房長官が会見でフォローを試みた。
「憲法解釈として法的安定性や論理的整合性が確保されている」としたうえで、「まったく違憲でないという著名な憲法学者もたくさんいる」と述べた、とのこと。これは、ハッタリというしかなかろう。こんなことを言うから、なおのこと政府の狼狽が見えてしまうのだ。
おそらくは、「違憲でないという憲法学者もいる」だけなら、おそらくウソではないだろう。しかし、「まったく」を付ければもうウソだ。「著名な」も「たくさんいる」もみんな根拠がない。どんな憲法学者が、政府与党のチョウチンを持とうというのか。明確にして欲しいものだ。
一方、法案が憲法に違反し、重大な問題をはらんでいるとする憲法学者は、上記の3人以外に、少なくも171人はいる。明治大学の浦田一郎教授ら6人が3日、国会内で会見して明らかにした憲法学者声明の賛同者数である。法案を合憲と主張する憲法学者が存在したとしても絶対少数。無視してよい程度。どの世論調査においても、法案反対派が多数を占める。どうやら、内閣と国会だけが、世論とねじれた存在になっているのだ。
安倍クン、無理押しは、安倍内閣の存立危機事態を招くことになるぞ。
(2015年6月4日)
6月1日の東京新聞「こちら特報部」が、「違憲訴訟で闘う市民」を紹介している。もちろん、安倍政権の集団的自衛権行使容認の閣議決定に対する抗議の意思表示。個人での訴訟が少なくとも5件あるという。さらに、閣議決定と戦争法の双方を俎上に載せる集団訴訟を、松坂市長を先頭とする450人が準備中だとも紹介されている。小林節さんが、弁護団長引き受けの予定なのだそうだ。
この記事以来、何人かの方から問合せを受けた。「今度は違憲訴訟やらないんですか」「東京ではそんなことを企てているグループはないんですか」。そして、「もし、私がひとりで原告になろうと決意したら、代理人になっていただけますか」という方も。みんな、なんとかしなければならない。何かをやりたい、という雰囲気なのだ。
東京新聞の記事も、私に連絡をしてきた方たちも、こんな風に考えているのだと思う。
「今は憲法が大きな危機にある。その元凶である安倍政権に立法府が歯止めをかけることが難しそうだ」「それなら、三権の残る一つである司法に期待するしかない」「司法こそは、憲法の番人ではないか」「立法府や内閣は数の力を恃むところだが、司法は数を数えるところではない。純粋に違憲・違法の判断をしてくれるはず」「司法はたったひとりの市民の訴えにも耳を傾けるところではないか」
また、「何よりも、憲法改正の手続を僣脱して、閣議決定で違憲の宣言とは何ごとか」「今国会で進行しているのは、法律で憲法を覆えす試みではないか」「主権者をないがしろにした安倍クーデターだ」「国民世論が国会にも、内閣にも反映していないのだ」「このような事態に裁判所が無力であってよいはずはない」
そのように言いたいことが、とてもよくわかる。しかし、それでも提訴は難しいことになる。
実務法律家は、このような市民の司法への期待を、素人故の見当外れの願望と一蹴してはならない。少なくとも憲法論としてはこれらの見解の真っ当さは明白である。これを司法の場で実現する方法を真剣に検討すべきが筋だろう。
とは言うものの、私にはそのような知恵も能力もない。違憲訴訟立ち上げの運動にまったく参加していないし、東京にそのような運動があるかすらも知らない。この際、違憲訴訟をやってみようという積極的な元気も余裕もない。せいぜい、ブログを書き続けるくらいしか能がない。
もう、24年もまえのことになる。1000名を超える市民が原告になって、東京地裁に市民平和訴訟を提起した。湾岸戦争に戦費を支出するな、掃海部隊を派遣するな、そして原告各自に慰謝料1万円ずつの支払いを求めた。典型的な集団違憲訴訟である。この提訴が、この種訴訟のスタイルを作ったのではないだろうか。私はその弁護団事務局長だった。
1991年3月4日、百人を超える原告が、みんな手に手に一輪ずつの花をもって地裁に集合し提訴した。以来、法廷や集会には必ず、花を持参した。ゼッケンやワッペンにはうるさい裁判所も、さすがに花の持ち込みまでは咎めなかった。
この訴訟の請求の趣旨は、当初以下のとおりだった。
1、被告国は、湾岸協力会議に設けられた湾岸平和協力基金に対し90億ドル(金1兆1700億円)を支出してはならない。
2、被告国は、自衛隊法100条の5第1項についての「湾岸危機に伴う避難民の輸送に関する暫定措置に関する政令」(1991年1月29日公布政令第8号)に基づいて自衛隊機及び自衛隊員を国外に派遣してはならない。
3、被告国は、原告らそれぞれに対し各金1万円を支払え。
4、訴訟費用は被告の負担とする。
後に、「掃海部隊派遣差し止め」が加わり、90億ドルが現実に支出され掃海部隊が派遣されたあとは、「支出行為・派遣行為の、違憲・違法確認請求」に切り替えた。自衛隊機派遣は計画が消え、取り下げている。
市民平和訴訟の形式は、2004年に各地で取り組まれたイラク派遣差し止め訴訟に受け継がれた。
名古屋地方裁判所への提訴の請求の趣旨は以下のとおりである。
1 被告は、『イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法』により、自衛隊をイラク及びその周辺地域並びに周辺海域に派遣してはならない。
2 被告が『イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法』により、自衛隊をイラク及びその周辺地域に派遣したことは、違憲であることを確認する。
3 被告は、原告らそれぞれに対し、各金1万円を支払え。
4 訴訟費用は被告の負担とする。
市民平和訴訟で請求の根拠としたものが、憲法前文中に謳われている平和的生存権、そして納税者基本権である。いろんな工夫を凝らしてはみたが、裁判所を説得することはできなかった。この種の違憲訴訟は難しい。現行の訴訟制度の中で、憲法論まで到達することが容易ではない。
何を違憲の対象として特定するのか、被告の選定、原告適格、被侵害利益、訴えの利益、請求権の根拠、どのような請求の趣旨を立てるか…。裁判を土俵に乗せるまでが至難の業なのだ。さらに、土俵上でしっかり組んだと思っても、スルリと体をかわされる。そのうっちゃり技が統治行為論である。
裁判所の頭の中には、東京地裁伊達判決を覆した砂川事件大法廷判決の法理が離れなかったのだろう。最後はこのようにして違憲判決回避という裁判所なのだ。「高度に政治性の高いテーマについては、一見きわめて明白に違憲無効と認められない限り、違憲かどうかの法的判断を下すべきではない」という統治行為論である。つまりは、できるだけ国会や内閣という「民主的機関」の意思を尊重して司法は軽々に違憲判断をすべきではない、というのである。一見きわめて明白な憲法の番人の職務放棄である。
それでも、次々と新しい挑戦者が現れるだろう。イラク訴訟がその典型で、名古屋高裁判決では立派な成果を挙げている。東京と大阪で、安倍靖国参拝違憲訴訟が進行中だが、ここにも新しい試みがある。これまではこの種の国家賠償請求では、請求の根拠として原告の宗教的人格権侵害を挙げていた。いま、平和的生存権の侵害も併せて強力に主張されている。
工夫の積み重ねがやがては力になっていく。新しい挑戦者に期待したい。
(2015年6月3日)
毎日新聞「オピニオン欄・社説を読み解く」は、月初めの火曜日に「前月の社説の主なテーマを取り上げ、他紙とも比較しながらより深く解説します」という論説委員長の署名記事。本日は、「国会審議のあり方」を取り上げて、安保法案審議に関しての自社の社説を解説している。切れ味の鋭さはないが、落ちついた姿勢で、内閣とメディアをたしなめ批判する内容となっている。
記事での言及はないが、各紙の関連社説の標題が掲記されているのが目を引く。
◇安保法案審議に対する社説の見出し
毎日 「大転換問う徹底議論を」(5月15日)
「決めつけ議論をやめよ」(5月26日)
朝日 「この一線を越えさせるな」
「合意なき歴史的転換」(5月15日)
読売 「的確で迅速な危機対処が肝要」
「日米同盟強化へ早期成立を図れ」(5月15日)
日経 「具体例に基づく安保法制の議論を」(5月14日)
「自衛隊の活動域さらに詰めよ」(5月21日)
産経 「国守れぬ欠陥正すときだ」
「日米同盟の抑止力強化を急げ」(5月15日)
東京 「専守防衛の原点に返れ」
「平和安全法制の欺(ぎ)瞞(まん)」(5月15日)
この見出しで、大まかに各紙のスタンスがつかめる。一方に、東京・朝日があり、対極に産経・読売がある。その間に、毎日・日経が位置するという構造。但し、この序列は当該の社説に限ってのこと。毎日の「リベラル度」は朝日と変わるまい。
東京新聞5月15日の社説にあらためて目を通した。熱のこもった、素晴らしい内容だ。読者の気持を動かす筆の力を感じる。
タイトルが「専守防衛の原点に返れ」で、三つの小見出しがついている。「平和安全法制の欺瞞」「憲法、条約の枠超える」「岐路に立つ自覚持ち」というもの。
まずは「平和安全法制」との政府のネーミングを欺瞞と断じている。
「呼び方をいかに変えようとも、法案が持つ本質は変わりようがない」「その本質は、自衛隊の活動内容や範囲が大幅に広げられ、戦闘に巻き込まれて犠牲を出したり、海外で武力の行使をする可能性が飛躍的に高くなる、ということだ」
社説子は熱く訴えている。
「思い起こしてほしい。なぜ戦後の日本が戦争放棄の「平和憲法」をつくり、それを守り抜いてきたのか。思い起こしてほしい。なぜ戦後の日本が「専守防衛」に徹してきたのか。
それは誤った政策判断により戦争に突入し、日本人だけで約三百十万人という犠牲を出した、先の大戦に対する痛切な反省からにほかならない。」
この社説の骨子は、戦後貫いてきた「専守防衛」の原点に返って、「海外での武力の行使に道を開く危うい法案」を批判するもの。「平和憲法を守り、専守防衛を貫いてきた先人たちの思いを胸に刻みたい」「二度と侵略戦争はしない、自国防衛以外には武力の行使や威嚇はしないという戦後日本の原点」に立ち返れ、とも言っている。
この社説の立場には賛意を表する。が、やや違和感を拭えない。我が憲法の平和主義の「原点」は何かという点についてである。
憲法9条を字義のとおりに読み、公開されている制憲議会の審議経過を通覧する限り、「非武装平和」が原点であったことに疑いはない。けっして「専守防衛」ではなかった。
東西冷戦構造の中で、警察予備隊から保安隊、そして自衛隊創設が「押しつけられた」。そのとき、国民世論のせめぎ合いの中で、設立された実力装置は、国防軍ではなく、「自衛のための実力」との位置づけにとどめられた。こうすることで憲法との折り合いをつけたのだ。これが、「専守防衛」路線の出自である。
原点の非武装平和の理念は大きく傷ついたが、専守防衛としてしぶとく生き残ったとも評価し得よう。今、現実的な論争テーマは、「専守防衛路線からの危険な逸脱を許してはならない」というものである。これが、許容ぎりぎりの憲法解釈の限界線を擁護する実践的議論でもあることを自覚しなければならない。
(2015年6月2日)
新日本宗教団体連合会(新宗連)の「新宗教新聞」(月刊・2015年5月23日号)が届いた。
一面トップが、「『安保法制』に危機感」の大きな見出し。リードでは、「有識者や宗教者から『国民の理解、国会議論がないまま先行する姿勢は、民主々義の存立を脅かす』『9条だけでなく、憲法そのものを壊す』などの批判の声があがっている」と強い危機感がにじみ出ている。
5月15日国民安保法制懇の反対声明が詳しく紹介されている。「健全な相互理解と粘り強い合意形成によってなり立つはずの民主主義の『存立を脅かす』」「自衛隊に多くの犠牲を強いるばかりか、国民にも戦争のリスクを強いる」と、新ガイドライン・安保法制関連法案危険性指摘の引用が印象的である。
また、「安倍政権の戦略は『改憲』」とタイトルを付して「九条の会」の学習会や5月3日横浜・みなとみらい地区臨港パークでの「5・3憲法集会」開催も紹介されている。この集会での大江健三郎発言の「安倍首相はアメリカとの間で『安保法制』を進めようとしているが、多くの日本人は同意していない」と安倍政権批判や、樋口陽一の「憲法は70年間、改正を目指す度々の攻撃に対して、先輩の憲法学者や国民が守り支えてきた」との訴えが記事になっている。
また、大阪宗教者9条ネットワークが「戦争法案断固反対」を採択したとの記事もある。この記事では、「安保法制」ではなく、「戦争法案」断固反対との見出しが目を引く。5月16日午後2時から、「宗教者としてともに歩むー平和を尊び憲法9条を世界に」をテーマに、大阪市の大阪カテドラル聖マリア大聖堂で開かれた集会で、「宗教者9条の和」代表世話人でもある宮城泰年聖護院門跡門主、松浦悟郎カトリック司教がそれぞれ憲法の大切さ、平和への思いを語った。中学2年の時に敗戦を迎えた宮城門主は、軍事教練などの苦い思い出を語りながら、「自民党は、『安保法制』11法案の成立を企てているが、9条だけでなく、憲法そのものを壊していこうとしている。今こそもう憲法に敏感にならなければならない」と危機感を露わにし、松浦司教は「日本の世界への貢献は、軍事力とは違う土俵がある」として、平和的な支援活動がアジアや世界から信頼を得ていることを強調した。「戦争法案に断固反対する」集会アピールを採択した後パレードに移り、大阪城公園まで9条改悪反対などを訴え行進したという。
紙面の隅々に、戦争反対、世界に平和を、そして、宗派を超えた戦没者の追悼という意気込みが溢れている。さらに、戦争責任から目をそらしてはならない、戦争の危機が宗教弾圧をもたらすとの危機感などが感じられる。
また、巨大宗教団体である真宗大谷派(東本願寺)が5月21日に、里雄康意宗務総長名で、「日本国憲法の立憲の精神を遵守する政府を願うー正義と悪の対立を超えて」とする声明を発している。心して耳を傾けるべき立派な内容である。やや長いが、全文を紹介したい。
「私たちの教団は、先の大戦において国家体制に追従し、戦争に積極的に協力して、多くの人々を死地に送り出した歴史をもっています。その過ちを深く慙愧する教団として、このたび国会に提出された『安全保障関連法案』に対し、強く反対の意を表明いたします。そして、この日本と世界の行く末を深く案じ、憂慮されている人々の共感を結集して、あらためて『真の平和』の実現を、日本はもとより世界の人々に呼びかけたいと思います。
私たちは、過去の幾多の戦争で言語に絶する悲惨な体験をいたしました。それは何も日本に限るものではなく、世界中の人々に共通する悲惨な体験であります。そして誰もが、戦争の悲惨さと愚かさを学んでいるはずであります。けれども戦後70年間、この世界から国々の対立や戦火は消えることはありません。
このような対立を生む根源は、すべて国家間の相互理解の欠如と、相手国への非難を正当化して正義を立てる、人間という存在の自我の問題であります。自らを正義とし、他を悪とする。これによって自らを苦しめ、他を苦しめ、互いに苦しめ合っているのが人間の悲しき有様ではないでしょうか。仏の真実の智慧に照らされるとき、そこに顕(あき)らかにされる私ども人間の愚かな姿は、まことに慙愧に堪えないと言うほかありません。
今般、このような愚かな戦争行為を再び可能とする憲法解釈や新しい立法が、『積極的平和主義』の言辞の下に、何ら躊躇もなく進められようとしています。
そこで私は、いま、あらためて全ての方々に問いたいと思います。
『私たちはこの事態を黙視していてよいのでしょうか』、
『過去幾多の戦火で犠牲になられた幾千万の人々の深い悲しみと非戦平和の願いを踏みにじる愚行を繰り返してもよいのでしょうか』と。
私は、仏の智慧に聞く真宗仏教者として、その人々の深い悲しみと大いなる願いの中から生み出された日本国憲法の立憲の精神を蹂躙する行為を、絶対に認めるわけにはまいりません。これまで平和憲法の精神を貫いてきた日本の代表者には、国、人種、民族、文化、宗教などの差異を超えて、人と人が水平に出あい、互いに尊重しあえる「真の平和」を、武力に頼るのではなく、積極的な対話によって実現することを世界の人々に強く提唱されるよう、求めます。」
さらにキリスト教も、である。日本キリスト教協議会のホームページの冒頭に、小橋孝一議長による「今月(2015年5月)のメッセージ」が掲載されている。「剣を取るものは皆、剣で滅びる」という標題。
そこで、イエスは言われた。「剣を鞘に納めなさい。剣を取るものは皆、剣で滅びる。」マタイ26章52節
イエスを守ろうとして剣を抜いて大祭司の手下に打ち掛かった者を制して、主は「剣を鞘に納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」と断言されました。これは歴史の主の世界統治方針です。
どのような理由があろうとも、武力によって立つ者は、たとえ一時的には成功したかに見えても、結局歴史の主にその罪を裁かれ、身を滅ぼす結果になるのです。
大日本帝国は「富国強兵」のスローガンを掲げて、武力によって諸国を侵略・支配する罪を犯し、裁かれて滅びました。そして「剣を鞘に納める」誓いを内外に表明して、新しい歩みを始めました。
しかし戦後70年、その誓いを破り、再び「剣を取る者」となるための議案が国会で議決されようとしています。再び「剣で滅びる」道に歩み出そうとしているのです。何と恐ろしいことでしようか。
戦後の「平和の誓い」は、戦争によって自分たちが受けた苦しみによるもので、他国・他民族を殺し苦しめた罪の悔い改めによるものではなかったのではないか。その浅さが今露呈しているのです。
日本社会の根底に潜む罪を今こそしっかりと見つめ、「剣を取る者は皆、剣で滅びる」との歴史の主の御言葉に身をもって聴き従い、世に訴えなければなりません。
「剣を鞘に納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」
これこそ、日本国憲法9条の精神ではないか。安倍晋三にも、高村正彦や中谷元にもよく聞かせたい。いや宗教者は、もっと品がよく、「安倍さんも、高村さんも、中谷さんも、皆さんよくお聞きください」というのだろう。それにしても、宗教者諸氏の平和への思い入れと、それが損なわれることへの危機感はこの上なく強い。
日本国中の津々浦々、そしてあらゆる分野に、安倍内閣の戦争法反対の声よ、満ちてあれ。
(2015年5月26日)
名は体を表すという。もちろん、「多くの場合には」ということであって、「常に」ではない。狗肉を売るに羊頭を掲げるのは、この「多くの場合には」という常識に付け込んでのこと。不用意に名を軽信すると、あとで悔やむことになる。
狗肉を狗の肉と正直に表示したのでは買い手がつかない。そこで、羊頭の看板を掲げ、偽装表示を施すことが必要となってくる。狗の肉を、あたかも羊の肉と思い込ませるセールストークで売り込もうという悪徳商法。ここでは、羊の肉と名付けられて、実は狗肉が売られることになる。
「他のどんな名前で呼んでもバラはバラ」であるごとく、「他のどんな名前で呼んでも狗肉は狗肉」なのだ。看板ではなく、包装ではなく、名前ではなく、欺罔のセールストークではなく、商品の中身の実体を見極めなければならない。うっかり買ってからでは、取り返しのつかないことになる。
うまい話には裏がある。甘い話には毒が潜んでいる。ゴテゴテと看板を飾り立てるセールストークは、それだけで眉唾物と警戒しなければならない。今まさに、政権が危険な商品を国民に売り付けようとしている。
このブログでは一貫して「戦争法案」と呼称してきた5月16日国会提出の閣法2法案。その正式名称は「我が国及び国際社会の平和及び安全の確保に資するための自衛隊法等の一部を改正する法律案」と、「国際平和共同対処事態に際して我が国が実施する諸外国の軍隊等に対する協力支援活動等に関する法律案」である。「平和」「安全」「国際」「共同」などの好もしいイメージの語でデコレーションされた法案の名称。これが羊頭である。美しいラッピングでもある。端的に言えば、偽装表示にほかならない。
メディアでは、「平和安全法制整備一括法案」「国際平和支援恒久法案」などと呼んでいるが、これは体を表した名ではない。狗肉の実体を隠すことに手を貸しているというべきではないか。トリカブトをバラと呼んではならない。狗を羊と見誤ってはならない。
前者の提案理由に、「国際連携平和安全活動のために実施する国際平和協力業務その他の我が国及び国際社会の平和及び安全の確保に資するために我が国が実施する措置について定める必要」が謳われている。後者についても、「国際社会の平和及び安全の確保に資する」という。「国際」「連携」「平和」「安全」「協力」の大安売りである。
私(たち)がその実体から戦争法案と名付けた法案は、他のどんな名前で呼ぼうとも、「平和」や「安全」の名で飾りたてようとも、戦争の腐臭が消えないのだ。眉に唾を付けよう。この法案の売り手は、これまでも平気で嘘をついている男なのだから。
さらに問題は、「専守防衛」にある。
安倍首相は昨日(5月27日)午後の衆院平和安全法制特別委員会で、集団的自衛権の行使を容認する安全保障関連法案について、先制攻撃を排除した「専守防衛」の原則を変更するものではないとの見解を示した。民主党長妻昭代表代行が「専守防衛の定義が変わったのではないか」と問い質したのに対し、「専守防衛の考え方は全く変わりない」と否定した。
専守防衛とは、自衛力の行使を、自国の領土が武力攻撃を受けた場合に限るということだ。しかも、自国民の安全を守るために最小限の実力の行使に限定する。これが、自衛隊の存在を許容する9条解釈の限界とされてきた。自衛隊は、専守防衛に徹するものとして誕生したのだ。1954年自衛隊法成立に際しては、参議院が「自衛隊の海外出動を為さざることに関する決議」を成立させている。全会一致でのことだ。
専守防衛は、自衛力の行使の場所は自国領内に限定することを想定している。時間的には、相手国からの攻撃のあとのものとの想定である。遠く、自国を離れた戦地での防衛的な武力行使や、先制攻撃をもっての武力行使をまったく想定していない。海外での武力行使、自国を攻撃していない国に対する武力行使は、専守防衛ではない。
集団的自衛権の行使とは、自国が攻撃されていないときに、同盟国への攻撃に反撃する武力行使なのだから、専守防衛から逸脱することになるのは自明のことである。専守防衛では、つまりは個別的自衛権の行使では不十分だとしての法改正なのだから、あまりに当然のこと。
しかし、専守防衛から逸脱するとあからさまに認めれば、国民に不安の種を植えつけることになる。ここは、集団的自衛権という危険な狗肉に、専守防衛というラッピングをしてしまおう。憲法9条遵守という羊頭の看板も掲げておこう、というわけだ。
着目すべきは、看板でも、ラッピングでもない。商品実体なのだ。戦争法案が想定する集団的自衛権行使を選択肢として許せば、自衛隊は国防軍化することになる。いざというときのために、装備も編成も作戦も、すべては一人前の軍隊として歩き出すことになる。これだけでたいへんに危険なこととなる。
さらに、この上なく危険な同盟国アメリカの先制攻撃で始った戦争のある局面で、アメリカの一部隊が攻撃されたからということから自衛隊が一緒に闘うことになりかねない。これを「巻き込まれた戦争」というか、「日本主導の戦争」というかは問題ではない。日本が戦争当事国となり、全土が攻撃目標となり得るのだ。
くれぐれも用心しよう。暗い夜道と安倍話法。
(2015年5月28日)
日曜日、ゴルフコースの坂道を登りながらこう考えた。説明責任を果たさなければ叩かれる。さりとて、丁寧に説明すれば世論は離れていく。ほんに、政治家も楽ではない。人をたぶらかすのは難しい。
そんな沈んだ気持の週明け。各紙の朝刊に碌な記事が出ていない。とりわけ不愉快なのが、日経だ。1面に「本社世論調査」の結果として「安保法案『今国会で』25%」という大見出し。
「日本経済新聞社とテレビ東京による22?24日の世論調査で、集団的自衛権の行使を可能にする関連法案の今国会成立に『賛成』が25%と4月の前回調査から4ポイント低下し、『反対』が55%と3ポイント上昇した。政府・与党は今国会での法案成立を目指すが、慎重論の強さが改めて浮き彫りになった。」
見出しの付け方も、記事の書き方も、もっと別の言い方があるだろう。産経や読売を見習うように、よく言って聞かせなければならない。
日経記事が癪に障るのはむしろ2面の世論調査詳報だ。見出しが、「安保法案『説明不十分』8割」というもの。「成立への懸念強く」「内閣支持層でも7割」というのだ。
「日本経済新聞社の世論調査で、26日に衆院で審議入りする安全保障関連法案への懸念の強さが改めて浮き彫りになった。8割が政府の説明は不十分だと回答。安倍晋三首相の『米国の戦争に巻き込まれることはない』との発言に『納得しない』も7割を超えた。政府・与党は今国会成立をめざすが、必要性はまだ浸透していない。」
何より頭にきたのは、今年1月から5月までの世論変化のグラフを掲載していること。わざわざ「集団的自衛権行使に関する法案成立には反対が増えつつある」というコメント付きでだ。反対世論は順調に増加して、「49%→55%」となっており、私の愛する賛成派国民は「31%→25%」と着実に減っている。
また、わざわざ目立つように表を拵えて、次のように報じている。
◇集団的自衛権行使に関する法案成立に
賛成 25% 反対 55%
◇首相の『米国の戦争に巻き込まれることはない』との説明に
納得する 15% 納得しない73%
◇政府の安全保障関連法案に関する説明
十分だ 8% 不十分だ 80%
こんな数字は、細かいポイントで目立たないようにすべきが常識ではないか。たかが民間新聞の分際で、政府に楯突こうというのか。
日経だけではない。毎日の世論調査結果もその報道姿勢も不愉快極まる。政権批判が新聞の使命だといわんばかりではないか。父の晋太郎が在籍していた社ではあるが、最近偏っているのではないか。いや、いつまでも昔のままで時代の風を読めていないのではないか。
「毎日」1面の見出しは、「安保法案『反対』53%」というもの。活字が大きすぎる。太すぎる。続いて、「今国会成立『反対』54%」「本社世論調査」というもの。
記事の内容は以下のとおり。
「毎日新聞は23、24両日、全国世論調査を実施した。集団的自衛権の行使など自衛隊の海外での活動を広げる安全保障関連法案については『反対』との回答が53%で、「賛成」は34%だった。安保法案を今国会で成立させる政府・与党の方針に関しても『反対』が54%を占め、「賛成」は32%。公明支持層ではいずれも『反対』が『賛成』を上回った。」
「質問が異なるため単純に比較できないが、3月と4月の調査でも安保法案の今国会成立には過半数が反対している。政府・与党は26日から始まる国会審議で法案の内容を丁寧に議論する姿勢をみせているが、説明が不十分なまま日程消化を優先させれば、世論の批判が高まる可能性がある。」
これが最新の調査結果。これが、昨年7月1日集団的自衛権行使容認の閣議決定後の国民的議論の暫定結果だ。今や、政府が閣議を経て国会に上程した法案に、国民世論の過半が反対しているのだ。賛成派は、4分の1か、3分の1。しかも、説明すればするほど、国民は「分からない」と言い「説明不足だ」という。そして「反対だ」という世論が増えていくのだ。なんとものわかりの悪い国民だろうか。
ここでの国会戦術はよく考えなければならない。強行突破か、一歩後退しての迂回か、いずれの戦術をとるべきか。
我が手には、小選挙区制のマジックで掠めとった圧倒的な国会の議席がある。幸いに、官製相場と悪口を言われながらも株価を維持しているおかげで、まだ安倍政権支持の世論は不支持を上回っている。今のうちなら、強行突破は可能だ。どうせ「丁寧な説明」を重ねたところで、国民が納得するはずはない。むしろ、世論は集団的自衛権反対、戦争法案反対などに固まりつつある。ならば、ジリ貧を避けるのが上策だろう。公明と次世代を語らって、強行に審議入りし、強行採決を重ねても法案成立に漕ぎつけるのが得策ではなかろうか。
とは言うものの、これは大きな賭けだ。リスクはこの上なく大きい。60年安保の教訓を思い起こそう。あの騒ぎは、新安保条約の危険性に国民が反対しただけではない。衆議院の強行採決が民主主義の危機という世論を喚起して、あの盛り上がりとなったのだ。結局は、新安保条約は自然成立となったが、祖父岸信介は政権を投げ出さざるを得なかった。こんな事態の再来は十分に考えられる。まさしく私の政権の「存立危機事態」の到来だ。いや既に、「重要影響事態」の水域には到達していると考えざるをえない。
憂鬱だ。ほんに、政治家も楽ではない。人をたぶらかすのは難しい。
(2015年5月25日)
商売と政治とはよく似ている。どちらも、人を説得し「その気」にさせる技術を伴う。悪徳商法と安倍政治手法とはよく似ている。どちらも、詐欺すれすれ。うっかり乗せられると、どちらも被害甚大である。賢く身を守る術を心得ねばならない。
独立行政法人国民生活センターが、5月21日付で、「高齢者が支払えなくなるまで次々に販売するSF商法」と、悪徳による「次々販売」「過量販売」被害の増加に警告を発した。
http://www.kokusen.go.jp/news/data/n-20150521_1.html
「SF商法」とは、集団催眠商法と言った方が分かり易い。50年ほども前の「新製品普及会」なる悪徳グループを元祖とするところから、ローマ字の頭文字をとって「SF」。この安直な業界用語がお役所用語としても定着した。会場に顧客を集めサクラが雰囲気を盛り上げる。最初は安物をただ同然で配って消費者の気持をつかんだあとに、本命の高額商品を売り付ける。被害額の大きな悪徳商法の典型のひとつとされる。
売り手は脅すわけではない。明らかな詐欺とも言いにくい。仕掛けは、ウソすれすれの話術とプロとしての演出が作りだす昂揚した雰囲気にある。消費者の心理が完全に操作された状態となり、先を争って我勝ちに商品を買おうとすることになるのだ。
もちろん、「集団催眠状態」から覚醒すれば、消費者は悔やむことになる。なぜあのときはあんなにも、こんなつまらぬものが欲しいと思ったのだろう。どうしてあんな奴の言うことを信用してしまったのだろう。不要なものを買わされた。明らかにたぶらかされた。こんな商品は引き取ってくれ。金を返せ。
商売とは、所詮そんなものだという考え方も根強い。上から目線で消費者の自己責任論が説かれもする。われわれ消費者弁護士は、このような場面での「業者擁護論」「消費者自己責任論」と闘い続けてきた。「あるべき賢い消費者像を想定し、これを基準とするようなことがあってはならない」「消費者被害は、現実の弱い消費者像に寄り添うところから立論しなければならない」というのが、基本の考え方だ。
この理は、実は政治にも当てはまる。悪徳業者は政権を握る政治家に、集団催眠に陥る消費者は煽動された国民にちょうどピッタリなのだ。
安倍晋三の政治手法を「SF政治」と名付けてよいだろう。安倍が国民をあからさまに脅しているわけではない。明確な詐欺とも言いにくい。問題は、ウソすれすれの話術と、プロとしての演出が作りだした政治的雰囲気にある。国民の心理を巧みに操作して、このままでは近隣諸国の不埒な跳梁を許すことになると不安を煽り、国民生活を守るためと信じ込ませて、支持と得票を獲得しているのだ。
もちろん、この先「集団催眠状態」から覚醒すれば、国民が悔やむことは目に見えている。なぜあのときはあんなにも、こんなつまらぬことにこだわったのだろう。どうしてあんな奴の言うことを信用してしまったのだろう。近隣諸国を挑発する不要な法律を作ることに加担させられた。明らかにたぶらかされた。こんな立法は廃止せよ。平和と国際友好を取り戻せ。
政治とは、所詮そんなものだという考え方も根強い。上から目線で国民の自己責任論が説かれもする。そんな、「政権擁護論」「国民の自己責任論」とは、断固闘わねばならない。悪徳政治家の口車に乗せられると、どこまでもっていかれるやら見当もつかない。眉に唾を付けて慎重にかからないと、取り返しのつかないことになる。
だから、私は、次のように警告したい。
最近では、国政選挙が間近にないため、長期政権の兆しとともに、平和の危機と、貧困・格差拡大の被害が目立っています。株価釣り上げに目眩ましされた国民に対し、戦争法案や企業利益確保政策への支持が掠めとられようとしています。初めは警戒していた国民も、与党や政権から、繰りかえし、「あなたのための政治をしている」「平和のためです」「国の安全のためです」「そのうちきっとおこぼれがまわってきますよ」などと思いやるような言葉を掛けられて説得されてしまう。説明を聞いているうちに、良いことをしてくれそうな錯覚に陥って、投票してしまうなどの事情がうかがえます。
最近のこのような手法では、国民が長期間欺されて、たいへん危険な法案が次々と提案され、次々と成立しかねないことが危惧されます。SF政治に欺される人の特徴からは、戦争体験の受継の不十分や、孤独、貧困などからの絶望、判断能力の低下といった問題が関係してくるため、事態はたいへんに深刻です。そこで、国民がSF政治の被害に遭遇して手遅れにならないため次のようにご注意ください。
違憲違法な危険法案は、次々にやって来ます。早期に食い止めないと、切りがありません。放置しておくと、最終的にはリアルな戦争被害が生じるまで続くこことになります。一刻も早く食い止めなければなりません。
次々に法案が提出され、成立していくうちに、何が憲法原則で何が平和なのかが、分からなくなり、気が付いたら平和がなくなってしまい、戦争に突入していたということになりかねません。むしろ、そのような国民意識の混乱が政権の付け目なのですから、しっかり見極めましょう。
安易に為政者の言うことを鵜呑みにしてはいけません。昨日まで神様だった人が、突然「実は私は人間ですよ」と宣言したり、神風の吹くはずが吹かなかったり、鬼畜だった米英が民主主義の先生になったり。最近も「原発は安全」だとか、「完全にブロックされコントロールされている」だの。いくらも身近な実例があるではありませんか。
権力者が甘いことを言うときは、隠れたウソを嗅ぎつけなければなりません。「うまい話には裏がある」「甘い話しには落とし穴」「タダより高いものはない」こういう庶民の知恵を発揮して、政府や与党の嘘を見抜き、支持と票の要求には、きっぱりと断りましょう。大切な平和に関わる問題です。くれぐれも、慎重な対応を。
以下は催眠商法についての識者(社会心理学者)のコメントの私流の解釈
SF政治の個々のテクニックは一般的な政治的言論でも用いられてはいる。しかし、SF政治では、政治家がこれらのテクニックを意識的に合わせ技で国民に働きかけているのが特徴となっている。特に、社会心理学的に根拠のある「承諾誘導」のテクニックが多用されている。このテクニックによって、国民は当該政治判断の必要性や妥当性などといった重要な点に注目を払わないように誘導され、政権からの働きかけに何ら違和感を持つことなく、政治選択をしてしまう。
理性ではなく感性レベルへの訴えかけであり、テクニックによる国民意識操作なのだから、民主主義は完全に形骸化したものとなっている。
問題は、民主主義の成熟度にあるのだが、悠長に自然な熟成を待っておられるほどの時間的な余裕があるかは疑わしい。
(2015年5月23日)