澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

「自衛隊が他国の領土で核兵器を輸送することは法理上許容される」という首相答弁の重大性

8月7日の衆議院予算委員会の詳細メモを目にした。民主党山井和則議員の質問に対する安倍首相の答弁に唖然とする。これはダメだ。こんな人物に一国の舵取りを任せてはおられない。

テーマは、非核3原則との関わりで、戦争法案の定める後方支援の範囲如何。「核兵器も『弾薬』として自衛隊による輸送が許されるか」という大問題である。

安倍は、「法的には可能だが、政策的にあり得ない想定」と、議論そのものを受け付けないという姿勢。これに、山井議員が執拗に食い下がっている。以下重要部分を抜粋する。

○山井
私の知り合いの広島の方からも、非核三原則に安倍総理が式典で触れられなかったことにショックで涙がとまらなかったということをおっしゃっておられました。唯一の被爆国である日本が、世界に核廃絶をアピールする一番重要な場じゃないですか。なぜ、懇談会で言うのであれば挨拶から抜いたんですか。歴代の総理大臣がずっと入れてきた、御自分も、去年、おととし入れてきた。おっしゃったように国是じゃないですか。なぜ国是を抜かれたんですか、広島だけ。国是を、あなたは、わざと意図的に抜いたんですよ。世界が、非核三原則の堅持を日本はやめるのかと思うのが当たり前じゃないですか。被爆者の方々は、もう本当にあきれられ、失望されておられます。
○安倍 (略)
○山井
そのことと関連するんではないかと思いますが、おととい、中谷大臣は、今回の安保法案の中で、結局、弾薬とみなされて、核弾頭つきの核ミサイルは、法律上は自衛隊が輸送することからは排除されないという答弁をされました。岸田外務大臣も、そのとおりだと認められました。
純粋法理上、核兵器を自衛隊が輸送することは除外されているのか、されていないのか、イエス、ノーで、安倍総理、お答えください。
○安倍
それは、そもそも、政策的選択肢としてないものをどうだという議論をすること自体が私は意味がない、このように思います。
○山井委員
全く答弁されませんね、先ほどの非核三原則にしても。国民の方は、これじゃ理解できませんよ。私たちが今審議しているのは安全保障法案という法律なんですから、法律上は、今回の安保法案で自衛隊が核兵器を輸送することは排除されているんですか、されていないんですか。イエス、ノーでお答えください。
○安倍
そもそも、政策上、これはあり得ない話であります。いわば政策的な判断をする私が、あり得ない話について、政策的な判断をする私が答えることは、まさに政策的な判断をしているという誤解を与えさせようと山井さんは考えておられるんだろうと思いますが、これは政策的には全くあり得ない話であります。そして、純粋に法理上ということではありますが、これは、事実上、政策的にはあり得ないんですから、まさに机上の空論と言えます。机上の空論ではありますが、中谷大臣がまさに純粋法理上は答弁したとおりであります。しかし、まさに私は政策的な判断をする立場の行政府の長でありますが、その長にそういう答えをさせて、それがあり得るかのごとくの印象を与えようとする議論は、私はそれは真摯な議論とは言えないのではないか、このように思います。
○山井
中谷大臣が答弁されたとおりだと、法理上は核兵器を自衛隊が今回の安全保障法案で輸送することは排除されていないということをお認めになりました。これは非常に大きなことであります。昨日も、「核兵器を輸送することを認めるということは使用することも容認するということにつながりかねない。そんなことはあり得ない」ということを被爆者団体の方々もおっしゃっておられます。法律上核兵器を自衛隊が他国の領土で輸送できるようにする、そんな危険な法律が許されるはずがないじゃないですか。
○安倍
先ほども申し上げたとおり、これは法理上の話であって、本来、法理上の話ではなくて、政策上あり得ないと私は言っているじゃないですか。政策上あり得ないということは、それは起こり得ないんですよ。起こり得ない。起こり得ないことをまるで起こるかのごとくそういう議論をするのは間違っていると、私が何回も申し上げているとおりであります。
そもそも、そんな、弾頭自体を日本に運んでくれと米国が言うこと自体は一二〇%あり得ませんよ。そして、日本側が、一二〇%ないということを前提に、頼まれたとしても、それは絶対にやりませんよ。それは当たり前ではありませんか、非核三原則もあるんですから。
○山井
安倍総理の答弁はおかしいと思いますよ。私たちが今、国会で議論しているのは法律ですよ。この法律は、五年、十年、二十年、三十年、将来の日本の国を左右するんですよ。今の政権が政策判断で核兵器は輸送しませんと、そんな答弁じゃ、全く安心も納得もできるはずないじゃないですか。法律的に可能だったら、次の政権が違法じゃないから核兵器を運びますと言えば、違法じゃないんですよ。絶対にあり得ないというならば、安倍総理、今回の法案の中で核兵器は除外するとしっかり明記してください。そうしないと納得できません。
○安倍
私は総理大臣として、あり得ない、こう言っているんですから、間違いありませんよ、それは。総理大臣としてそれは間違いないということを言っているわけですから。これはそもそもあり得ないということについて、それはまるで政策的にあり得るかのごとく議論することは間違っているということを申し上げているわけであります。
○山井
憲法を解釈変更して、憲法違反の安保法案を出している安倍総理があり得ないと言っても、国民は信用しませんよ。あり得ないことをやろうとしているから、国民は不安に思っているんじゃないですか。五年、十年、次の政権あるいはその次の政権が、もし政策的判断で核兵器を輸送すると判断した場合、この核兵器を輸送するということは違法になるんですか、違法でないんですか。
○安倍
核弾頭云々かんぬんという話をされましたが、そもそも日本側にそれを頼むということは一二〇%ありませんが、しかもそれを運ぶという能力を我々は持っておりませんが、その上においてそれを運ぶということはもちろんあり得ないわけでありまして、それは当然断る。しかし、それはそもそも全くない話でありまして、ですから、これはまさに、ほとんどここで政策論として議論する意味はないわけであります。
まさに法理上の話については答弁しているわけでありますが、しかし、政策論としてはこれは一二〇%あり得ないわけであります。
○山井
あり得ない、あり得ないとおっしゃるんだったら、政策判断であり得ないんじゃなくて、安倍総理のあり得ないという言葉ほど説得力のないものはないんですよ、法律で、安倍総理の言葉じゃなくて。私たち政治家は、後世の子供や孫たちの時代にも戦争のない、核兵器を絶対に輸送もしない、そういう日本を残す責任があるんですよ。その担保は、安倍総理の答弁ではだめです。法律にしっかり書いてください。核兵器、毒ガス、大量破壊兵器、それは絶対に弾薬に含まれない、そのことを法律に書いてください。書けない理由は何ですか。
○安倍
国是として非核三原則を我々は既に述べているわけでありますし、はっきりと表明をしております。それを例えば全ての法律に落としているかといえば、それはそうではないわけでありまして、国是は国是として確立をしているわけでありますが、この国是の上に法律を運用していくのは当然のことであろう、このように思うところでございます。
○山井
その国是を、きのうの平和式典で非核三原則、国是を言わなかったのはあなたじゃないですか。その前日に中谷大臣は、法律上、核兵器を輸送できると国会で答弁しているんですよ。日本だけじゃなくて世界じゅうの方々が、核兵器をもしかしたら持つかもしれない、そういう議論を始めるんじゃないかと不安に思うのはごく自然だと思いますよ。
「安倍総理は、今までの国是であった平和憲法、専守防衛、そういうものを壊そうとしているんじゃないか」「最近の政府の施策には被爆者の願いに反するものがあり、危惧と懸念を禁じ得ない、その最たるものが安保法案だ」と被爆者の代表の方々もおっしゃっておられます。
きょう安倍総理が認められたように、法律上、核兵器を自衛隊が輸送できるようにする、こんな危険な法律を日本の国で成立させることはできません。その撤回を求めます。安倍総理、最後に答弁をお願いします。
○安倍
山井委員が前提としていることは、全て間違っています。
○山井
法律的にはそのとおりじゃないですか。国民が議論するのは法律ですから。
以上で質問を終わります。

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安倍の頭の中では、憲法・法律・政策の各レベルの整理ができていない。

行政府が行う政策は法にもとづいて行われなけばならない。その法は、憲法と法律という2層の構造でできている。憲法は硬く強固な枠組みである。軽々に変更はできない。その憲法が許容する限りの内容で、議会が必要に応じて法律を制定する。行政の政策は、その法律が許す範囲で選択肢を持つことになる。これが法の支配(この場合、法治主義と言ってもよい)の基本構造である。

今、戦争法という法律を作ろうと政府が提案し国会での法案審議が進行している。国会の審議では、その法が行政にどれだけの政策上の選択肢を与えるものであるか、(裁量を許容するか)が吟味されなければならない。そのときには、「純法理的に政府に政策上の選択肢としてどの範囲の行為をなしうるかの権限を付与したのか」は、まさに本質的な質問であって、行政府が政策として実行する意思がないとして答弁を拒否することは許されない。仮に、法律的には可能だが、けっして政策的に採用することがないというのなら、その部分については法律を作る必要性(立法事実)を欠くことになり、そのような法律の制定は不必要故に許されないことになる。

法案が許容する「米軍への弾薬の輸送」の中に、核兵器の輸送も含まれ、米軍の要請次第で自衛隊がなし得るものであるとしたら、国民の圧倒的な多数が、この法案に反対することになるだろう。「政策的にあり得ない」という答弁は、質問への回答を拒否する理由にならないし、「今のところは政策的に採りにくいから、法律的に可能としたことだけで満足」「こうしておけば、状況次第で政策を変更し、いつでも核兵器の輸送ができることになる」との意味を含むと読まねばならない。

また、この安倍答弁には別の角度からの問題もある。
健全な民主主義とは民衆の権力に対する猜疑によって保たれる。民衆が権力を信頼することは独裁を生む危険行為なのだ。民主的な手続を経て形成された政治権力も、民衆の批判なくしては容易に腐敗するものと考えねばならない。ましてや、安倍政権である。その傲慢・暴走ぶりは、戦後保守政治の中でも、最悪のものではないか。

「私は総理大臣として、あり得ない、こう言っているんですから、間違いありませんよ、それは。総理大臣としてそれは間違いないということを言っているわけですから。これはそもそもあり得ないということについて、それはまるで政策的にあり得るかのごとく議論することは間違っているということを申し上げているわけであります。」
この安倍答弁は、法の支配の構造について理解ない点でも、権力を持つ者が「私を信頼すればよいだけのこと」という傲りとしても、徹底して批判されなければならない。

そして、恐るべきは安倍政権の核政策のホンネである。国民に少しずつ、核に対する慣れを植えつけようとしているとしか思えない。戦争法案は、自衛隊と核との接触を可能とするものだということをよく認識しよう。
(2015年8月10日)

水に落ちそうな安倍を打て

安倍晋三とは、日本国憲法に限りない憎悪をもつ人物である。憲法改正こそが彼の終生の悲願にほかならない。日本国の首相としてこの上なくふさわしからぬこの人物が首相の任についている。憲法擁護義務を負う首相であるにかかわらず、憲法の平和主義に敵意を露わにし、戦後レジームからの脱却を呼号している。9条の改憲が無理なら、議席の多数を恃んでの解釈改憲・立法改憲のたくらみに余念が無い。こうして安倍は特定秘密保護法を成立させ、今戦争法を成立させようと躍起になっている。

私たち国民の側の課題は、戦争法案を廃案に追い込むことと安倍内閣を打倒することの2点となっている。この2点は分かちがたく一体となった課題なのだ。澤地久枝の依頼によって金子兜太が筆をとったという「安倍政治を許さない」が時代のスローガンととして定着しつつある。許されざる安倍政治とは、あらゆる分野に及んでいるが、何よりも憲法を破壊し平和を蹂躙する「戦争法案」の成立を許してはならない。

安倍政権の危険性と、戦争法の危険性。その両者がともに国民の間に広く深く浸透しつつある。安倍政権にかつての勢いはない。相当のダメージを受けてふらふらの状態となっている。が、いまだにダウンするまでには至っていない。「水に落ちた犬は打て」というが、まずは水に落とさねばならない。ようやく水辺にまでは押してきた。もう一歩で水に落とすことができそうではないか。大きな世論の批判で、安倍を水に落とそう。

世論調査で、「戦争法案に反対」は圧倒的多数だ。しかし、これだけでは安倍政権に廃案やむなしと決断させるには十分でない。むしろ強行突破の決意をさせることになりかねない。政権の側に、「反対運動の高揚は法案の成立までのこと。法案が成立してしまえば、みんな諦めるさ」という国民への見くびりがあるからだ。

今は何よりも、安倍内閣の支持率を低下させることが重要だ。30%の危険水域以下となれば、水に落ちた犬状態といってよいだろう。

さらに、重要な指標が与党である自民・公明両党の支持率だ。安倍政権の支持率低下の顕著さに比較すると、自民党支持率低下の傾向はさほどではない。これに火がつけば、事態は大きく変わることになるだろう。今でも腰の引けている自民党参議院議員が、安倍を見捨てることになるからだ。法案を批判し、内閣を批判し、与党を批判する。このことによって法案を廃案に追い込む展望が開けつつあると思う。議席の数がすべてを決めることにはならないのだ。

安倍政権のヨタヨタぶりは、国立競技場建設計画の白紙撤回となって表れた。次いで、辺野古新基地計画の凍結である。仙台市議選での「自民党後退、共産党前進(3人トップ当選)」の結果も手痛い。8月6日広島平和記念式典での非核三原則言及せず問題もあり、70年談話も安倍カラーは押さえこまれそうな雲行き。TPPも思惑のとおりには行かない。埼玉知事選も、川内原発再稼働への風当たりも強い。そこに、礒崎や武藤のオウンゴールが重なる。安倍晋三、こころなし精気に欠ける。疲れ切った表情ではないか。相当にこたえているのだろう。

さらに今日になってのできごとだ。今月20日に告示9月6日投開票予定の岩手県知事選挙に立候補を表明していた、元復興大臣の平野達男参議院議員が立候補を取り消した。相当にみっともない戦線離脱なのだ。そして、政権への痛手である。

平野達男は、民主党政権の復興大臣との印象が強いが、今は民主党を離脱して無所属の参議院議員。今回は自民・公明の推薦で立候補表明をして、現職達増拓也との保革一騎打ちの構図が描かれていた。100万を超す県内有権者を対象に、自民・公明の与党連合と、民主・生活に共産までくっついた野党連合との票の取り合い。戦争法案の賛否を問うミニ国民投票の様相であった。

ところが、このところ自・公の評判がすこぶる悪い。自民党独自の最新世論調査シミュレーションでは、ダブルスコアの水が開いたという。戦争法案参院審議のヤマ場に、与党がダブルスコアで野党連合に敗北ではなんとも惨めなことになり、法案成立の大きな支障になる。「だから平野達男君、立候補はおやめなさい」と声がかかったのだ。結局は現職達増の無投票当選という白けた結果となる。

本日の平野の立候補記者会見では、平野はあけすけに「国の安全保障の在り方が最重要課題へと浮上し、県政の在り方が論点になりづらい状況が生じてきた」と述べたという。翻訳すれば、「知事選でありながら、戦争法案の賛否を問うワンイシュー選挙になりそうで、そうなれば自公に推された立場で勝てるわけがない」ということなのだ。

加えて、参議院議員である平野が知事選に立候補すれば、参院選の補選をしなければならない。これが10月になるが、この選挙も自公の衰退を天下にさらけ出すことになるというのが、「立候補はおやめなさい」のもう一つの理由だったという。ダブルの敗戦を避けて、不戦敗を選んだというわけだ。

これまでは、こう報道されていた。
「衆院での安保法案の強行採決に対する世論の反発が広がり、法案を推進する与党側にとって逆風となっている。県内各地であいさつ回りを重ねる平野氏も『法案に対する反応は厳しい。自民の支援をなぜもらったのかと聞かれることもある。国政と県政は別のことと説明すれば理解はしていただいている』と話す。参院で審議入りした安保法案について平野氏は『慎重な審議が必要』との考えだ。
一方、達増陣営は『法案は違憲』との立場を前面に出し、強行採決した与党陣営が推す平野氏と、反対の野党勢力の対立構図を強調する。達増氏は後援会の集会などで『県民が正しい選択をすることで国政も変えられる』と訴え、安保法案の是非を問う主張を繰り広げている。」(
朝日・岩手版)

明らかに、安倍と距離を置いた戦争法案反対がプラスイメージ、安倍にベッタリはマイナスイメージとなって、立候補すら見送らざるを得ないのだ。

9月6日投開票の岩手県知事選はなくなった。しかし、岩手県議選は同日投開票される。戦争法案推進勢力と反対勢力の票の奪い合いがどうなるか。100万有権者の審判を待ちたい。

岩手だけではない。アチラもコチラも、安倍に冷たく、憲法に暖かい風が吹いている。
(2015年8月7日)

安倍晋三 ヒロシマの憂鬱

1945年8月6日午前8時15分。広島に投下された原子爆弾が炸裂したそのとき。その時刻こそが人類史を二つに分ける瞬間である。これこそが人類史上最大の衝撃の事件。悲惨きわまりない大量殺戮。人類は、核エネルギーという、自らを滅ぼすに足りる手段を獲得したことを自らに証明したのだ。

その大事件から、今日がちょうど70年。広島の平和記念式典には55000人が参列した。海外からの参加も、過去最多の100か国を超えるものだった。

松井市長が核兵器を「絶対悪」と呼んでその廃絶を訴えた。
「人間は、国籍や民族、宗教、言語などの違いを乗り越え、同じ地球に暮らし一度きりの人生を懸命に生きるのです。私たちは『共に生きる』ために、『非人道性の極み』、『絶対悪』である核兵器の廃絶を目指さなければなりません。」

さらに注目すべきは次の一節である。
「今、各国の為政者に求められているのは、『人類愛』と『寛容』を基にした国民の幸福の追求ではないでしょうか。為政者が顔を合わせ、対話を重ねることが核兵器廃絶への第一歩となります。そうして得られる信頼を基礎にした、武力に依存しない幅広い安全保障の仕組みを創り出していかなければなりません。その実現に忍耐強く取り組むことが重要であり、日本国憲法の平和主義が示す真の平和への道筋を世界へ広めることが求められます。」

最前列に位置していた、安倍晋三の耳にはこう聞こえたのではないだろうか。
「今、日本の首相に求められているのは、『人類愛』と『寛容』を基にした国民の幸福の追求ではないでしょうか。けっしてナショナリズムの鼓舞でも近隣諸国の危険をあげつらう煽動でもありません。近隣諸国の為政者と顔を合わせ、対話を重ねることが核兵器廃絶への第一歩となります。そうして得られる信頼を基礎にした、武力に依存しない幅広い安全保障の仕組みを創り出していかなければなりません。けっして、武力に基づく積極的平和主義の鼓吹や、切れ目のない防衛体制の構築の宣伝ではないはずです。日本国憲法の平和主義が示す真の平和への道筋を世界へ広めることが切実に求められています。憲法の平和主義を蹂躙して集団的自衛権の行使を可能とする戦争法案を制定するなどは、戦争で亡くなった多くの人たちやそのご遺族の平和への願いを踏みにじる暴挙ではありませんか」

安倍晋三という人物、とてつもなく心臓が強い人なのだろう。それにしても居心地が悪かったに違いない。6月23日の沖縄全戦没者慰霊祭と同様、多くの参列者からの敵意を感じたことだろう。あのときには「何しに来たか」「戦争屋」「帰れ、帰れ」という罵声が浴びせられたことが話題となった。おそらく今日も同様の罵声を覚悟での式典参列だったろう。どのくらいの野次や罵声があったかはよく分からない。「戦争法案反対」「安倍内閣打倒」のスローガンを叫んだデモの洗礼は受けたようだ。

被爆者らが式典後の安倍晋三と面談した。被爆者側が、戦争法案について、「憲法違反であることが明白」「長年の被爆者の願いに反する最たるもの」として撤回を要望した。これに対して、首相は「不戦の誓いを守り抜き、紛争を未然に防ぐものであり、国民の平和を守り抜くためには必要である」と述べたと報道されている。また、首相はここでも「国民の皆さんの意見に真摯に耳を傾けながら、分かりやすい説明をしていく」と応えたという。

問題点が明確になってきた。松井市長が平和宣言の中で述べた「武力に依存しない安全保障」の考え方と、安倍首相のいう「専守防衛を越えた切れ目のない防衛力の整備こそが抑止力となって平和をもたらす」という倒錯した思考とのコントラストである。安倍流抑止論は、自国の軍事力は強ければ強いほど抑止力になって平和をもたらす。この考え方は、核こそが最大の抑止力であり、最大の平和の担保だとなりかねない。

あ?あ、ホントはボク、ちやほやされるのが大好きなんだ。無視されたり、罵声を浴びせられたり、「カエレ、カエレ」とやられるのは、相当にこたえる。そりゃボク戦争は好きだよ、だけど「戦争屋」って言われるのは明らかに悪口だから面白くはない。何しに来たかって? 職務上来ないわけには行かないんだ。部下の書いた原稿を読みに来ただけさ。あの原稿の中でボクの意見が反映されているのは非核三原則の言葉をはぶいたことくらい。核こそ究極の抑止力だもの。日本人の核アレルギーを少しずつ正常化しておかなきゃならない。少しずつ国民をならしていかなとね。でも、職務を離れたら二度とこんなところには来たくない。ホントは右翼の集会に行きたいんだ。そこなら、みんな仲間として温かく迎えてくれる。ちやほやしてくれるもんね。

東京に帰ってきたら、もひとつ、イヤなことが待っていた。ボクが見つくろって人選した「戦後70年談話・有識者懇談会」の報告書だ。ボクが本心大嫌いなことは知っているくせに、「侵略」や「植民地支配」なんて言葉が並んでいる。なんのための諮問なのか、あの連中わからんのかね。以心伝心とか、アウンの呼吸とか。分かりそうに思ったんだけど。もしかしたら、沈みそうな船に見切りをつけて、みんなボクの船から逃げだそうとしているのかな。なんだか、トモダチがだんだん減っていきて、淋しいし心細い。

ようやく広島の6日が終わったら、次は9日の長崎が待っている。少し前までは、「怒りのヒロシマ」「祈りのナガサキ」といわれたものだが、最近の長崎は遠慮がない。また何か言われるんだろうから、ホントは行きたくない。でも、行かないともっともっと叩かれる。ほんに、総理も楽じゃない。
(2015年8月6日)

「フルスペック佐藤」 その屁理屈の危険

NHK日曜討論。これまでは時間の無駄と思って関心なかったが、先週に続いて今日も594KHZを選局した。先週7月26日が「与野党激論 どうする新国立競技場・安保法案」。今日が、「参院 論戦激化 安保法案 10党に問う」である。

聴衆を前にした「論戦」とは、聴衆に好感度をアピールして、その支持の獲得を競う「戦い」である。その論戦の選手として、自民党は先週稲田朋美を送り出した。この人、この種のバトルにまったくの不適任。評価は「感じ悪いよね」の一言以上に言うべきものはない。安倍政権と自民党の支持率低下の貢献役にピッタリだ。自民党に人なきがごとしである。

それに比較して、今週の自民党代表選手である佐藤正久は、人柄のアピール度はけっして感じ悪くない。しかし、あまりに軽い。頼りない。支持者への演説ならともかく、「論戦」は無理だろう。やはり、自民党に人はいない。稲田朋美や佐藤正久が前面に出ざるを得ないというのは、もはや法案審議に重要影響事態だ。いや存立危機事態かも知れない。これなら、戦争法案は潰せる。

それだけではない。佐藤正久には「【あかりちゃん】ヒゲの隊長に教えてあげてみた」の動画のイメージが定着してしまった。佐藤が何をしゃべっても、あかりちゃんにやり込められている、あの軽薄な動画キャラクターのイメージがつきまとう。これは凄いことだ。前代未聞のこと。

政権と与党には思いがけない障害物が続出の難レース。オウンゴールも数知れず。それに加えて、この動画も大きな障害となってきた。たどたどしく同じことを繰り返す「ヒゲの隊長」には、高校生あかりちゃんの鋭い反論の声がかぶさってくるからだ。

下記ユーチューブは7月9日に公開され、本日(8月2日)現在、動画再生回数は既に90万回を超えている。
https://www.youtube.com/watch?v=L9WjGyo9AU8
このパロディの作者、何者かは知らないがたいへんな才能。その才能の持ち主も、ここまでの効果の絶大さは予想していなかったろう。なにしろ、参議院安全保障特別委員会の自民党筆頭理事でもあり、党国防部会長でもある「時の人」の面目を完膚なきまでに潰して見せたのだから。

礒崎陽輔も、ツィッターでの10代女性とのバトルが話題となった。
礒崎が集団自衛権を隣の家の家事に例えた発言をしたことに対し、若い女性から『バカをさらけ出して恥ずかしくないんですか』と返され議論に。女性は『まず例えが下手』『火事と戦争を同等にして例えるのがおかしい』『例え話は同等の物で例えないと例えにならないんだよ』などと攻撃。女性のトーンは『やばい。頭悪いし、中学生でも論破できるレベルの政治家』と激しく、結果礒崎はこの女性をブロックしたという。女性は「逃亡。情けない補佐官だなぁ」と語って終了。

今日(8月2日)は、高校生のデモが話題となっている。その多くが、来夏の参議院議員選挙に投票する年代。あかりちゃんも含めて、若者たち、頼もしいではないか。

「アカリちゃんハンデ」を別にしても、佐藤正久の今日の発言のメチャメチャぶりに驚いた。「これまで政府が一貫して集団的自衛権を違憲と言ってきたのは、『フルスペックの集団的自衛権』に限ってのことだった。今、法案となっている新3要件によって限定された集団的自衛権にはこれまで言及がなかった」「だから限定された集団的自衛権行使の立法が法的安定性を損なうことはない」。ヒゲの佐藤よ、そんないい加減なことを言ってよいのか。またまた、オウンゴールの1点献上ではないか。

これまでの政府見解に照らして佐藤発言の不正確は明らかだが、さらに一般論から言ってこれは典型的な詭弁である。概念の全部とその部分をことさらに対立させて、「全部の禁止や約束」を「部分は禁止されていない」「部分は約束していない」と強弁する居直りの手口。こんな詭弁を世間では、屁理屈と言う。このヒゲの「屁理屈」、実は相当に危険なものなのだ。たとえば次の如し。

「憲法を守ると宣誓はしましたが、フルスペックの憲法全部を守ると約束した覚えはありません。だから、私に都合の悪い条文についての義務履行は拒否します」

「自衛隊は国民を守るためにあるとは言ったけれど、フルスペックの国民全体を守ると言った覚えはない。だから、自衛隊を違憲というような国民まで守らなければならないわけではない」

「外国とは平和に協調するとは申しあげたが、フルスペックですべての国と仲良くしなければならないと申しあげたことはございません。70年経っても、我が国に対する戦争責任を言い続けるような国とまで協調しなければならないわけではございません」

「公約を守るべきは公党として当然のこと、しかしフルスペックの公約遵守が非現実的なのは皆さまご存じのとおり。フルスペックの公約全部を必ず実現と言った覚えはありませんから、実現できない公約があっても責任追及されるいわれはないわけでございます」

こんな論理あり? 放送で天下に公言すること? 
(2015年8月2日)

街頭で「法的安定性」問題を訴える。

皆さん、ご近所の弁護士です。今日も、夕刻から国会の周囲はデモ隊で埋まっています。国会のまわりだけでなく日本中の辻々で、戦争法案反対の声が盛りあがっています。日本共産党文京地区委員会は、今週と来週の毎日「ストップ戦争法案 夕方街頭宣伝」を行っています。たまたま今日は、その場所が本郷三丁目交差点。近所ですから応援のビラ撒きにやって来ましたが、予定外の飛び入りで、マイクを握ります。少しの時間耳を貸してください。

今年は終戦70周年。70年前の今頃、日本は絶望的な戦争の真っ最中でした。7月26日にポツダム宣言を突きつけられ、その受諾を勧告されていたのです。しかし、国民のほとんどは、そんなことは知らなかった。「もうすぐ、本土決戦だ」「今に神風が吹く」、あるいは「撃ちてし止まんあるのみ」と言っていた時期です。

重臣近衛文麿が天皇に上奏文を提出して、「敗戦は必至。一億総玉砕など避けなければならない。軍部を粛正することで英米中と和睦を」と提案したのが、2月14日のこと。正確な情報をもっている者には、それ以前から日本の敗戦が明らかでした。しかし、愚かな天皇は、国体の護持にこだわり「もう一度戦果を挙げてからでないと」と言い続け、無条件降伏に追い込まれたのです。この間に、東京大空襲があり、沖縄地上戦があり、広島と長崎の悲劇があり、ソ連参戦の事態に至ってのようやくの降伏。半年早く降伏していれば、どれだけの命が救われたことでしょうか。

何と愚かな戦争で、かけがえのない国民の命が奪われてしまったのか。70年前の日本国民は、戦争の惨禍を骨身にしみて、再び戦争を繰り返さないことを誓って新しい国を発足させました。その思いの結実が日本国憲法にほかなりません。

再び戦争の悲惨を繰り返さないためにはどうしたらよいか。まずは、為政者にすべての戦争を禁止しよう、そして戦争の道具である軍隊をもたないことを決めよう。それだけではありません。天皇のために命を捨てよという馬鹿げたスローガンがなぜまかり通ったか。民主主義がなかったからだ。国民主権が平和をもたらすだろう。教育の自由も、報道の自由も、何よりも人間の尊重こそが、平和の保障だ。その意味では、日本国憲法は9条だけでなく、前文から103か条の全文すべてが平和を指向した「平和憲法」なのです。

敗戦というこの上ない高価な代償をもって日本は貴重な平和を手に入れました。その貴重な平和は、曲がりなりにも70年続いてきました。しかし、その平和が大きく崩れようとしています。今、国会で審議が進行している戦争法案によってです。安倍首相は、「戦争法案とレッテルを貼るのは怪しからん。これは『平和・安全保障法制』だ、と言っていますが、欺されてはなりません。国会での議論の内容は、どのような条件が整ったら日本は戦争を始めることができるか、というものなのです。まさしく、戦争法案というのがふさわしい。

これまでは、専守防衛が国是でありました。日本がどこかの国から現実に武力攻撃を受けた場合にだけ、自衛のための武力の行使はやむを得ない、と認める。これが専守防衛です。しかし、日本が攻撃を受けていなくても、一定の要件が整えば戦争を始めたっていいじゃないか、というのが安倍政権であり、これを支えている自民・公明の与党です。

日本国憲法が制定された当時、保守政権のリーダーたちは、自衛の戦争も否定していました。「古来あらゆる戦争が自衛のためと称して行われてきた」というのがその理由です。

しかし、保守政権は1954年の自衛隊創設以来、専守防衛路線を国是としてきました。憲法9条も自衛権の行使までは禁じていない。専守防衛の装備・編成しかもっていないから、自衛隊は違憲な存在とは言えない。もちろん、集団的自衛権の行使は自衛権の行使とは次元を異にするもので、明確に違憲。そう言い始めて60年が経過したのです。

専守防衛路線は、自衛隊の存在を法的に承認する意味では、オーソドックスな憲法解釈ではありません。しかし、ともかく60年間安定的に続けられてきた行政解釈です。この解釈を前提に、憲法9条とは何なのか、政府のこれからの外交・防衛政策がどうなるか予想ができるものでした。少なくとも、昨年7月1日以前には。

今、礒崎陽輔という首相補佐官が、「法的安定性など関係ない。大事なのは外国からの脅威にどう対応できるかだ」と言って物議を醸しています。彼らのいう法的安定性とはいったいなんでしょうか。実は、「だるまさんがころんだ」のゲームをイメージしていただくと、ことが分かり易いと思います。

鬼は、後ろ向きで「だるまさんがころんだ」と唱える。鬼以外のみんなは、鬼の見ていないうちに動くのですが、鬼の見ているときにはけっして動かない。鬼にすれば、みんな動かないはずなのに、「だるまさんがころんだ」を繰り返すうちに、確実に鬼に近づいて行くのです。

この一見変わっていないように見えるところが、彼らのいう「法的安定性」。憲法9条の解釈は、文字どおりの戦力不保持から、警察予備隊、保安隊を経て、自衛隊の存在容認に。そのあとの海外派遣任務の追加。保有する武器の拡大。防衛庁から防衛省への格上げ。次第に、限りなく一人前の軍隊に近づきながら、しかし、少しずつしか変わってこなかった。このことが「法的安定性」の保持です。しかし、最後の一線としての集団的自衛権行使容認だけはできなかった。「だるまさんが転んだ」流のやり方では、どうしても突破できない。礒崎は、このことを正直に、「法的安定性などにこだわっていたのでは、集団的自衛権行使容認はできない」と言っちゃったのです。これが、「法的安定性は関係ない」の真意です。しかし、安倍政権は、相変わらず「だるまさんがころんだ」でやれるんだという建前で通そうとしている。だから、礒崎がホンネを口走ってしまったので大慌てなのです。

昨年7月1日の、集団的自衛権行使を容認した閣議決定にも、「政府の憲法解釈には論理的整合性と法的安定性が求められる。」と明記されています。しかし明記はされているけれど、それは所詮字面だけの無理な話。論理的整合性も法的安定性も投げ捨ててしまおうというのが、ホンネのところ。そのホンネをついつい口走ってしまったので、礒崎という首相補佐官は、今、野党からも政権内部からも詰められているのです。

これは失言というよりはホンネだ。憲法なんか関係ない。邪悪な近隣諸国から攻撃を受ける危険があるのだから、その対応の方が何よりも重要でしょう、ということです。これが、安倍政権全体の憲法についての考え方を表すホンネ。一度露わになった本音は、撤回しても謝罪しても、それこそが発言者の本心であり本性である以上、消し去ることはできません。問われているのは、礒崎という補佐官の個人的な資質ではない。安倍政権の姿勢そのものなのです。

皆さん、70年前の熱かった夏を思い起こしましょう。ようやく手にした平和の尊さを再確認しましょう。危険な戦争法案は廃案にするしかありません。議会の中では、与党勢力が多数派で優位のようですが、実は議会外の国民世論においては法案反対派が圧倒的多数です。法案を廃案に追い込めるか否か、これは偏に世論の喚起と国民の行動にかかっています。

皆さん、ぜひご一緒に戦争法案に反対する世論をさらに強くし、危険な安倍政権を退陣に追い込むよう、力を合わせようではありませんか。
(2015年7月31日)

大波かぶる礒の崎、しぶきはもろに安倍政権

7月27日(月)参院審議入りの初日。この日表には出て来なかったが、影の主役は安倍の側近礒崎陽輔だった。あるいは、礒崎がクローズアップさせた「法的安定性」というテクニカルタームであったというべきか。

この日本会議での民主党北澤俊美の質問はなかなかのものだった。この人がかつては防衛大臣だったのだ。民主党政権を壊してしまったことを惜しいと思わせる内容。北澤は「法的安定性」に言及してこう言っている。

「総理、あなたは政治家として本当に責任を果たすつもりがあるなら、集団的自衛権の行使を可能にする憲法改正を正々堂々と掲げ、国民の信を問えばよい。それが王道であります。それなら憲法も立憲主義も傷つくことはありません。ところが、総理は、憲法解釈の変更という言わば抜け道を選び、国会での数に頼るという覇道を邁進しています。抜け道と覇道の行き着くところ、憲法の法的安定性は大きく損なわれます。」

維新の小野次郎も聞かせた。法的安定性に関しては、次のような質問。
「政府が根拠の一つとしている砂川判決から集団的自衛権の合憲性を導き出すことが困難であることについては、これまでに法律家である与党公明党山口代表を含めてほとんどの法律専門家が指摘しているところであります。専門家に受け入れられていないこのような憲法及び法律の解釈で押し通して将来にわたって法的安定性は確保できるのか、どうお考えなのか、御認識をお伺いしたい」

これに対する首相答弁は、従来と変わりばえのない紋切り。まったく迫力に欠ける。この人に丁寧な説明を期待するのは、木によりて魚を求むるの感。
「法案の憲法適合性、政府における検討及び法的安定性についてお尋ねがありました。まず、新3要件については、砂川判決と軌を一にするこれまでの政府の憲法解釈の基本的な論理の範囲内のものであるため、法的安定性は確保されており、将来にわたっても憲法第九条の法的安定性は確保できると考えています。」
これは要約ではない。速記録がこうなっているのだ。

砂川最高裁判決は1959年のこと。1972年の自衛権に関する政府見解は、当然にこれをも踏まえて、「わが憲法の下で武力行使を行うことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであって、したがって、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない。」と結論づけたものである。

この72年政府解釈から数えても40年余、54年自衛隊発足時から数えれば60年余。歴代政権は一貫して「集団的自衛権行使は違憲」と言い続けてきた。いわゆる専守防衛路線である。安倍政権は、乱暴にこれを覆して「集団的自衛権行使合憲」としたうえで、集団的自衛権行使を可能とする法案を提出しているのだ。

この安倍政権の姿勢を、野党も国民世論も法律家も、口を揃えて「立憲主義に反する」と言い、同時に「法的安定性をないがしろにするもの」と指摘した。このことを北澤は、「抜け道と覇道」と言い、「行き着くところ、憲法の法的安定性は大きく損なわれます。」と手厳しい。

無論、政権は懸命に防戦している。安倍の答弁に見るとおり、「立憲主義に反しない」「法的安定性は確保されている」と弁明に大わらわだ。

ところが、首相の側近中の側近である礒崎陽輔が、ホンネを言ってしまった。思いがけない世論の反発への焦りもあったろうし、地元の席での気安さからでもあるのだろう。「法的安定性」なんてどうだってよいのだ。憲法解釈の一貫性よりも、中国や北朝鮮の危険に対処することの方が大切だろう。そう言っちゃったのだ。みごとなオウンゴールである。

「法的安定性」とは、分かりきったことのようで、漠然とした概念。有斐閣「法律学小辞典」では、「どのような行動がどのような法的効果と結びつくかが安定していて、予見可能な状態をいう」とある。なるほど、苦心の語釈。

「法の支配」は、権力の恣意を許さないための大原則だ。形だけの法体系があっても、その法の要件と効果が確定せず、曖昧で、ぶれて、改廃きわまりない、あるいは解釈次第で伸び縮み自由では、権力規制の実効性を持ち得ない。法的安定性は、法の支配に伴う必須の要請なのだ。

「法的安定性などはどうでもよい」とは法に縛られない独裁者の言である。こういう為政者のいるところ、法の支配が貫徹する国ではない。「価値観を同じくする国」ともいえない。中枢にこのようなホンネを持ち、このような発言をする者を抱える政権は恐ろしい。憲法の枠も、法律の枠も、目先の政策の必要次第でいとも容易く破られるからだ。

礒崎を切り捨てて「政権は礒崎とは違う」と大見得を切るか、礒崎を抱えたままで「政権の体質は礒崎と同質」と見られても良しとするか、安倍政権のあり方が鋭く問われている。国民は目を見開いて注視している。
(2015年7月29日)

戦争法案参議院審議入りー「断固廃案にしよう」「必ず廃案にできる」

本日(7月27日)延長国会での、戦争法案参院審議が始まった。連日、猛暑の中で、多くの人が国会を取り囲んで法案反対の意思表示をしている。デモも集会も、対外的には世論の盛り上がりを可視化する方策であり、対内的には連帯と団結を確認し拡大する手段だ。反対運動は、確実に拡がりつつある。とりわけ、若者に、女性に、つまりは戦争の被害を最も深刻に受ける層に。また、これまで声を上げにくかった人々も起ち上がりつつある。大いに勇気づけられる。

衆議院の強行採決による敗北感・無力感や焦燥感が感じられない。これは、運動参加者の確信によるものであろう。本日(7月27日)日経と読売が世論調査結果を発表して、7月の各紙の調査が出揃った。日経が「内閣不支持率50%となり、支持率38%を上回った」。読売が、「不支持49%、支持43%」。ともに初めて不支持率が支持率を上回った。産経調査でも、「不支持52・6%、支持39・3%」となっている。すべての調査が示している、この逆転劇の衝撃は計り知れない。安倍政権、盤石のように見えて、実は案外に脆いことをさらけ出した。とても、もう一度の強行採決などできそうにもない。60日ルールの適用も同様だ。

それだけではない。こういうときには、劣勢側の焦りがエラーを招き寄せる。またまた、オウンゴールの1点が献上された。

これまでもたびたび話題の礒崎陽輔首相補佐官が、昨日(7月26日)大分市の講演で、安全保障関連法案が法的安定性を損なうものとの批判があることに反論した。「法的安定性は関係ない。わが国を守るために(集団的自衛権行使が)必要かどうかが基準だ」と述べた、という。「この発言は安保環境の変化に立脚した議論が必要との考えを示したものとみられるが、法的安定性を軽視したとも受け取れる言い方で、野党の反発を呼びそうだ」(共同)。「安保法案『法的安定性確保』軽視発言の礒崎補佐官が大炎上 民主は解任要求、自民も不快感」(産経)と報道されている。

さっそく本日、民主党の枝野幹事長が、記者会見でこの発言を取り上げた。
「法治主義や法の支配は、ルールはこう解釈されて一方的に変更されない(というもの)。であればこそ、そのルールに従ってみんな生きていくことができる。それを法的安定性と呼ぶ。ところが、法的安定性を関係ない、つまり、ルールは都合でころころ変わるということでは、憲法はもとより、そもそも法治主義、法の支配という観点から、行政に携わる資格なし、と思う。安倍首相は法の支配の『いろは』の『い』もわかっていない補佐官をいつまで使い続けるのか」

本日安倍首相は本会議の答弁において「民主党などが『徴兵制復活』と連呼しているが、『徴兵制は明確な憲法違反で導入はあり得ない』と否定した」という。しかし、憲法に「徴兵制は許さない」との条文があるわけではない。徴兵制は、憲法18条で禁止されている「その意に反する苦役」に当たるという解釈が定着して、違憲と言われているのだ。「集団的自衛権行使は違憲」と定着していた解釈を、一転合憲と覆したのは安倍政権である。さらにこの上、「法的安定性は問題ではない」ということになれば、「徴兵制は崇高な国民の自発性に基づく義務であって苦役ではない。したがって合憲であることは明らかである」と、いつでも言い出せることになるのだ。

法案の危険性は次第に国民に浸透しつつある。反対運動は盛りあがってる。運動の成果は目に見えるものとなっている。防戦側はミスの連続だ。最近、公明党支持者の公明党への愛想づかしがニュースに大きく取り上げられるようになってきた。このままでは公明党がもたなくなるだろう。

そのような中で、安倍に何か智恵があるか成算があるかといえば、何もなさそう。本日の参院本会議答弁も、「わが国を取り巻く安全保障環境がますます厳しさを増す中、憲法9条の範囲内で、国民の命と平和な暮らしを守り抜くために不可欠な法案だ」「参院での法案審議においても工夫を凝らして分かりやすく、丁寧な説明を心掛けていく」と、すり切れたレコード状態だ。的を外した答弁を丁寧に繰り返すことを宣言したに過ぎない。

これなら、法案を廃案に追い込むことのリアリティ十分ではないか。来夏に選挙を控えた参議院である。公明党議員が、この評判の悪い戦争法案成立にがんばれるわけがない。公明がポシャれば、自民党単独では過半数に届かないのだ。

「どうせ数の力で押し通す」「60日ルールの適用が可能なのだから、既に勝負あった」という醒めた発言はけっして的を射たものではない。

政治学の概念として「自己実現する予言」というものがある。「法案は、どうせ通る」「勝負は2014年12月の総選挙で既についている」「結局は議会内の数の力で決まる」という「予言」が重なれば、そのとおりに自己実現することになる。

反対に、多くの人が「この闘い、勝たねばならない」ことを理解し確認し、「絶対に勝とう」と決意を固め、そして「きっと勝てる」と確信したとき、運動の昂揚は安倍政権とともにこの法案を葬ることになる。

ものごとをなし遂げようというときには、成功体験のイメージトレーニングの重要性が説かれる。法案を廃案に追い込むとともに、安倍退陣をイメージして、「戦争法案ただちに廃案」「安倍はやめろ」「安倍政権を許さない」のスローガンを高く掲げて、自己実現させようではないか。
(2015年7月27日)

戦争法阻止運動に新たな広がりの可能性ー自分の言葉、自分のスタイルのさわやかさ

市民運動、社会運動、大衆運動、民衆運動、政治運動…。なんと名付けてもよいが、被治者である市民・国民・住民・消費者が共通の要求を実現しようとする運動(仮に「市民運動」と言っておこう)は、純粋に参加者の自発性に支えられている。その運動体に内部統制の強制力はなく、上命下服の指揮関係を持たない。

市民運動の全体力量は、「参加者の数×各参加者の意欲」と定式化できるだろう。運動の参加人員を大きくするためにも、参加者一人ひとりの行動意欲を引き出すためにも、一人ひとりを尊重する運動スタイルでなければならない。運動参加者が、自分の言葉で語り、自分のスタイルで活動できる多様性を尊重することこそが運動を大きく広げることのカギではないか。

いま、戦争法案反対の国民運動に、若者と女性を中心に運動の新しいあり方が話題になっている。さわやか、かっこういい、自分の言葉で語り、自分のスタイルを大切にする。そのような評価であり期待でもある。

私は、7月5日下記のブログで若者の運動にエールを送った。しかし、その程度。
 「7月3日雨の金曜日 澁谷に集まった若者たちに寄せて」
  https://article9.jp/wordpress/?p=5164

ところが、同期の友人郷路征記弁護士が若者の行動にいたく感激したとメールを送ってきた。以下、その抜粋である。

SEALD’sのスピーチとコールがメチャカッコいいと思っています。こんなカッコのいい若い女性の口から、「アベハ ヤメロ」、「コクミン ナメンナ」、「センソウシタガル ソウリハ イラナイ」等という激し い言葉が飛び出してくると、私の理性は霧消してしまって、聞き惚れてしまいます。新聞やテレビでは知りえないことです。インターネットの持つ訴求力は、大変なものなのかもしれません。

日曜日、コンピューターの前に座って、ずっとSEALDsの動画、ツイッター等を追いかけてきました。そして、強く心を揺さぶられました。奥田愛基君は「30万人を集めましょう」と言っていましたが、可能性があるかもしれません、彼らなら。

ネットにアップされている彼らのスピーチは、素晴らしいと思いました。
まだ、見ていない方は、ぜひ、クリックして、彼らの訴えに耳を傾けてください。
SEALDS関西の女性のスピーチも、非常に感動的です。まるで、憲法9条が乗り移ったかのような。安倍を断罪する言葉の強さ、鋭さ。その訴える力。激しい言葉を並べるのではなく、大きな声を張り上げるのでもないのですが。言葉が、借り物ではない彼女の信念に裏打ちされているからでしょうし、事態の本質をとても明解に指摘する能力に優れているからでしょうね。前日の日比谷の野音の集会に出たお爺さん、お婆さんをあげて、この人たちが闘い続けてきてくれたから、いまの平和があるというところでは、思わず、うると来ましたね。

スピーチをしている人は、みんな、自分で考えたことを、皆に訴えようと誠実に展開している。押し付けている感じはまったくない。悲壮感などの余分な感情もない。驚くほど、しっかりしている。こんな素晴らしい若者たちがいるなんて、本当に希望を持てます。コールは本当に素晴らしい。ノリがよくて、リズムがあって。

そして郷路君は、同期有志の弁護士が作っているメーリングリストに「希望を拡げたい」というタイトルで次の記事を寄せた。

「前略、突然のメールをお許し下さい。ぜび、お知らせしたいことがあり、ご迷惑をかえりみず、メールをさせていただきました。
 
7月17日、ユーチューブを徘徊していて、戦争法制に反対する動画が目について、ついクリックしたのですが、すぐ引き込まれてしまいまし た。スピーチをしている女性がとてもカッコ良かったのです。
スピーチの内容は勿論素晴らしかったのですが、その後のコールが一段と素晴らしかった。正直言って、驚きました。その映像は次のリンクをクリックすることで見ることができます。

https://www.youtube.com/watch?v=I5nowbc1Jqs&list=PL0r_ha6smF6TY6DQ4cO_QgXIAvJ62CbSl&index=4

その驚きをメーリングリストに投稿したら、別のスピーチを紹介してもらいました。
https://www.youtube.com/watch?v=BzSwC8wSNNA
7月18日からの3連休は、関連するスピーチを見続けました。それらは、以下に大体纏められています。
https://www.youtube.com/watch?v=I5nowbc1Jqs&list=PL90_FDu3Dz6MIauQ6vjUg-igiQ0bl7RIh
結論として、私は、この国の若い世代に、強い希望を抱くことができたのでした。
ツイッターやフェイスブックで、彼らが所属する「SEALD-s」に関する情報を集めました。

SEALD-sとは「(Students Emergency Action for Liberal Democracy – s・自由と民主主義のための学生緊急行動」の略です。彼らの考え方については以下のウエブを参照してください。
http://www.sealds.com/

彼らは、戦争法制に関しては6分間の動画で要領よく批判していますし、動画の最後では、我々に対する呼びかけをしています。
https://www.youtube.com/watch?v=6LuZDH0GHOE
その呼びかけに触発されて、みなさまに「SEALD-s」のスピーチをぜひ聞いていただきたいと私は思い、このメールを差し上げようと決意をしたのです。
それは、私が抱いた希望を拡げることなのだと・・・。

可能であれば、ぜひ、動画を見てその印象を記載したメールを関係する方々に広く送付して頂きたいと思います。このメールの転送でもかまいません。多くの広い層の方々に、希望を拡げることが、岐路に立っている日本の民主主義にとって、立憲主義にとって、平和主義にとって、今、最も大切なことだと思うからです。」

これに対して、仲間ゆえの遠慮なさから、忌憚のない突っ込みの反応が直ぐにあった。このあたりがメーリングリストの面白いところ。

「そんなに若者に変に感動してないで、北海学園事件のときのように貴兄自らが街頭デモやスピーチの先頭に立たなきゃダメだよ。今は傍観者(失礼)的感動の時に非ず。平和国家『存立危機事態』故、戦争法案阻止、安倍内閣打倒に向けて今日明日明後日と大衆行動あるのみ。」

これに対する郷路君の返答が、また素晴らしい。
「僕にとっては、これが戦争法案阻止、安倍内閣打倒にむけての行動なので、頑張ります。昔から、他人と同じ行動は取れないタイプだったので、ゴメンね」

彼は所属する札幌弁護士会の会員全員(メールアドレスの分かる人) に、同文をメール送信したという。
「530通ですね。1通、1通手作業だったので、よく使う指の部分が痛くなりました。」

そして、「嬉しい反応が返ってきています。」と、今度は返事を送信してくれている。

これはすごいことだ。
おそらく彼は、どうすれば保守派も反動派も含めた多くの弁護士の耳に、戦争法反対・安倍政権打倒の訴えを届けることができるだろうかと思い続けていたに違いない。そして、若者たちの訴えを届けようと考えたのだ。

一昔前。街頭に立った若者は、「われわれわぁ、せいけんをぉ、だんことしてぇ、ふんさいするぅ」と、独特の抑揚でアジ演説をした。アメ帝と日本独占資本が敵で、たいていの問題は、その敵とその手先を糾弾することでこと足りた。それも真実かも知れないが、独特のスピーチスタイルであり、仲間内以外には通じない言葉を使って平気だった。今の若者は、もっと多様。自分の言葉で語る人が多くなっている。しかも、シールズの動画を見る限りだが、その語る内容は誰にも了解可能なうえ的確で訴える力をもっている。

札幌弁護士会に所属する全弁護士に若者の声を伝えた郷路君も「自分の言葉、自分のスタイル」にこだわった自分流の運動参加なのだ。戦争法案反対のこの運動、まだまだ拡がりそうではないか。
(2015年7月24日)

安倍クン見苦しい。孟子の引用はやめたまえー老漢文教師の嘆き

アベ君。私は恥ずかしい。キミに漢文を教えたのは私だ。「昔々ある学校で」のことだ。キミの漢文理解の素養が貧弱なことには、教師である私にも大いに責任がある。なんとも悲しく、お恥ずかしい限りだ。

キミは、強行採決で幕を閉じた7月15日衆議院平和安全法制特別委員会の質疑において、長妻昭議員の質問に答える中でこう言っている。

「当然批判もあります。しかしその批判に耳を傾けつつ、みずから省みてなおくんばという信念と確信があればしっかりとその政策を前に進めていく必要があるんだろう、こう思うわけであります。」

有名な、「孟子」公孫丑編の一節「自反而縮 雖千萬人 吾往矣」(自ら反(かえり)みて縮(なお)くんば、千万人と雖も吾往かん)を引用しての信念の披瀝なのだろう。この孟子の一節は、キミの座右の銘と聞いている。これまでも、何度も答弁で引用されたとのことだ。キミの公式ホームページには、キミの政治信条として、この言葉が次のように掲げられている。

「自らかえりみてなおくんば、一千万人といえどもわれゆかん」
村田清風もまた吉田松陰も孟子の言葉をよく引用されたわけでありますが、自らかえりみてなおくんば、一千万人といえどもわれゆかんと、この自分がやっていることは間違いないだろうかと、このように何回も自省しながら、間違いないという確信を得たら、これはもう断固として信念を持って前に進んでいく、そのことが今こそ私は求められているのではないかと、このように考えております。

だが、この引用は私には理解できない。むしろ、不適切極まるものと言ってよい。ホームページから削除し、今後は一切この名句の引用は辞めたがよい。強くそう願う。キミ自身のためにも、孟子の名誉のためにもだ。そして私の教員人生の汚点を消していただきたいのだ。

私がキミに孟子を講義したときには、真っ先に孟子の革命思想をお話ししたはずだ。貝塚茂樹説を引用して、「孟子」という書物は永く異端思想を含むものとしてとり扱われてきたことをよく教えた覚えがある。

孟子は、周の武王が殷の紂王に反旗をひるがえして討滅し、ついに天下をとったことを正面から是認している。暴虐な君主は民意を失い、そのことによって天命を失い、天子としての統治の正統性を喪失してしまったのだ。これに対して、周の武王は人民の与望をにない、したがって天の命を受けて、天子としての統治の資格を得たのだ。人民の意志にもとづいて武王が紂王を殺しても弑逆の罪を構成しない。そう唱えたのだ。これは、万世一系の国体思想に敵対する危険思想ではないか。

要するに孟子にあっては、天子の天子たる所以は、民意に基づくところにある。天命とは、実は人民の意志にほかならない。政権は民意に背いてはならない。政権が民意に背けば、天がこれを見放し、人民は専制政府に対して抵抗し革命を起こす権利をもっている。「孟子」はそう宣言したのだ。「孟子」には、このようなラジカルな民主主義的政治思想が含まれている。

キミは、このことを理解しようとしていない。
「孟子」が「自反而縮 雖千萬人 吾往矣」というとき、これが為政者の言と想定されているはずはない。為政者の言とすれば、「民がなんと言おうとも、為政者の信念を貫いて、民意を踏みつぶす」という意味になってしまうではないか。まさしく、それが今の君の立場だ。だから、私は、悲しくもあり、恥ずかしくもある、というのだ。

キミは、民意から離脱しているというだけでなく、真っ向から批判されていることを自覚している。孟子なら、厳しくキミを叱責して、為政者としての資格喪失のレッドカードを突きつけるところだ。ところがキミは、孟子の言葉を引いて「自らかえりみてなおくんば、一千万人といえどもわれゆかん」と開き直っている。キミが闘おうと言っている一千万人とは、キミに為政者としての資格を授けた民そのものではないか。キミのいうことは筋が通らない。キミの論理はすっかり混乱している。キミは武王でなく、既に紂王の立場なのだ。だからもう、天はキミの側にない。無理してその地位に留まろうとする悪あがきはやめた方がよい。紂王のごとき悲惨な最期を遂げる前にだ。

私は政治家の座右の銘とすべき名句についても、キミに教えたことがあるが、こちらはキミにはお気に召さなかったようだ。もし、キミがもう一度、政治家として再出発する機会があれば、座右の銘を次の一節に換えたまえ。

子貢、政を問う。子の曰わく、「食を足し兵を足し、民をしてこれを信ぜしむ」。子貢が曰わく、「必らず已むを得ずして去らば、斯の三者に於いて何れをか先きにせん」。曰わく、「兵を去らん」。曰わく、「必ず已むを得ずして去らば、斯の二者に於いて何れをか先きにせん」。曰わく、「食を去らん。古えより皆な死あり、民は信なくんば立たず」。

愛弟子である子貢の問に答えて、孔子が政治の要諦を語っている、よく知られた一節。ここには、「食・兵・信」という政治の3価値が並べられて、その価値の序列が話題となっている。いろんな解釈が乱立しているが、私は君にこう教えたはずだ。

「『食』とは経済のこと、あるいは国民の福祉を意味している。『兵』とはいうまでもなく軍備である。そして、『信』とは為政者と人民との信頼関係、すなわち民主主義にほかならない。為政者は、戦争も軍備も撤廃して差し支えない。国民の福利さえも場合によっては削減せざるを得ない。しかし、民主主義だけはけっして捨てる去ることができない」
それが、今の世にまで通ずる孔子の教えなのだ。

アベ君、キミはいま、「『兵』をとって、『信』を捨てた」。民主主義を捨てて、戦争と軍備を選択した。孔子の教えを投げ捨てたのだ。さぞや孔子も嘆いていることだろう。孔子だけではなく、私もだ。そして、日本国憲法も、なのだ。
(2015年7月22日)

安倍クン正確な国語を使うようにー老国語教師の述懐

アベ君。私は恥ずかしい。キミに国語を教えたのは私だ。いつ、どこでと特定すれば物議を醸すことにもなりかねない。「昔々あるところで」のことだ。その昔々以来、キミの言語能力の進歩はない。キミのコミュニケーション能力の欠落には私にも責任がある。なんともお恥ずかしい限りだ。

私は口を酸っぱくしてキミに教えたはずだ。国語とは、コミュニケーションの手段であることを。最も大切なのは国語の技術ではなく、相手に自分の意見や心情を伝えようという熱意であり、相手の意見や心情を正確に汲もうという真摯な意思なのだと。キミにはその両者がともに欠落しているのだ。

国語が社会的存在であることもよく教えたはずだ。自分勝手な言葉の使い方は傲慢な性格の表れであって、言葉の受け手を困惑させるだけでなく、言葉の使い手の信用を落とすことになると。

その典型が「積極的平和主義」だ。「平和主義」という多くの人が好感を持つ被修飾語に「積極的」という修飾語をかぶせれば、常識的な意味での「平和主義」を強調する好ましい言葉だと思うはずではないか。ところが、キミが「積極的」という言葉を「平和」にかぶせた途端に、平和が戦争に変身してしまうのだ。こんな手品のような、自分勝手な言葉の使い方を、私はキミに教えた覚えはない。

さらにアベ君。最近気になるのは、キミの「理解」という言葉の意味の理解についてだ。キミは、「理解」という言葉を十分理解しているのだろうか。どうもあやしい。理解という言葉についてのキミの無理解が、国民に大きな混乱をもたらしていることを理解したまえ。

言葉には、重層的な意味がある。けっして単純に1語が、1概念と結びついているわけではない。キョトンとしていてはいけない。大事なことだ。よく分かってもらいたい。

キミは、戦争法案について、「国民の理解が十分ではない」と言った。このキミの言葉は、国民が法案の内容について認識を深めていないというのか、国民が認識した法案に了解を与えていないというのか、そのあたりが曖昧でよく分からない。キミに十分な国語能力があれば、もう少し明晰な語り口になるのだが…。

理解という言葉には、「ものごとを正確に認識する」という意味Aと、「あるものごとについての相手の立場や考え方に賛同や好意の心情を持つ」という意味Bが併存している。

Aが、「原発事故の経過はよく理解している」「総理の憲法21条についての理解はおかしい」という使い方における理解。Bは、「総理には沖縄県民の辺野古基地建設反対住民の心情についてご理解いただきたい」「再び戦争を起こしてはならないという国民感情に理解がない」という用例における理解。

BはAから派生したものではあろうが、明らかに違うもの。Aは理性的な認識だけを意味し、Bはこれに好意・賛同・シンパシーの心理が付加されている。

ところでアベ君。キミが、Aの意味で「国民の理解が十分ではない」といえば、国民が法案の中身について正確な認識を欠いている、という意味だ。立法事実や、それぞれの事態の要件の決め方や効果としての自衛隊の活動可能範囲などについて、国民はよく分かっていないということになる。だから、認識不十分な国民によく説明をして認識を深めてもらえば、法案に賛成してもらえるようになる。そういう文脈で、語っていることになる。

ところが、Bの意味で「国民の理解が十分ではない」といえば、国民は「このような法案には賛成できない」と言っていることになる。法案の中身をよく分かった人も、あるいは必ずしもよくは分らないない人も、「ともかく、法案が抱える危険がよく分かった」「もうこれ以上安倍のやり口を許さない」ということだ。もう態度は決まっているのだから、さらに説明を重ねることは意味のないことになる。

アベ君、おそらくキミの当初の思惑は、Aの意味で理解が不十分な国民が、丁寧な説明を受けて、次第に法案賛成に回っていくだろうと楽観していたのではなかろうか。ところが、あらゆる世論調査の結果は、国会の審議が進み、メディアが詳細な報道をするにしたがって、法案賛成派は減り、反対派が増加した。そして「首相の説明は不十分」という国民の割合も増加するばかり。

これは、Aの意味で理解が不十分な国民が、だんだんと認識を深めよく分かってきて、Bの意味で理解が不十分な国民に変身していったのだ。

最初は、本当に「よく分からない。もっと説明を」と要求していた国民が、安倍クン、キミの説明で、「これは危険だ」「安倍や自公のいうがままにしておいたらたいへんなことになる」と変わっていった。その意味で、A型からB型への大量の変異が生じたのだ。いまや、安倍クン、キミの言うことは信用できないという意味で国民のキミに対する理解がなくなっているのだ。

だから、いつまでも同じ「丁寧な説明」を続けても無意味なのだ。どうもキミにはその辺の意識が希薄なようだ。悪いことは言わない。潔くあきらめて、法案を撤回すべきではないだろうか。

その上であらためて、もう一度国語の勉強をしなおすことをお勧めする。私も責任上、付き合うことにしたい。
(2015年7月21日)

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