「学校に自由と人権を! 10・17集会ー子どもを戦場に送るな!」の集会にお集まりの皆様に、東京君が代訴訟弁護団からご報告を申し上げます。
2003年10月23日、石原慎太郎都政第2期の時代に都教委が悪名高い「10・23通達」を発出しました。以来12年になります。この間、「日の丸・君が代」強制に服することができないとした教職員延べ474名が懲戒処分を受けました。この強権発動は、「日の丸・君が代」強制問題にとどまらず、学校現場を命令と服従の場とし、自由で創造的な教育はすっかり影をひそめてしまいました。
さらに、都教委は「学校経営適正化通知」(06年4月13日)を発して、信じがたいことに、職員会議での挙手採決を禁止しました。学校運営に教職員の意見反映を峻拒したのです。学校現場には、ものも言えない状況が蔓延しています。教職員は疲弊し、意欲を失い、自由闊達な雰囲気を欠いた教育は危機的状況に追い込まれています。その最大の被害者は、子どもたちであり、明日の民主主義といわざるを得ません。
10・23通達に対しては、現場での闘い、社会的な支援の闘いと並んで、10年余の長きにわたる裁判闘争が継続しています。これまでのところ、裁判の成果は勝利を博したとは言えません。しかし、けっして敗北したとも言えない一定の成果は挙げています。残念ながら裁判によって「日の丸・君が代」強制を根絶することはできていませんが、石原教育行政がたくらんでいた教員に対する思想統制は不成功に終わっていると評価できる事態ではあるのです。
これまで、10・23通達関連訴訟判決で、処分違法とされて取消が確定したのは56件、人数では47名となっています。行政には甘い裁判所も、都教委のやり方は非常識で到底看過できないとしているのです。都教委は司法から断罪されたといってよい状態です。ですから、都教委は10・23通達に基づく一連の施策を抜本的に見直すことが求められています。ところが、都教委が反省しているようには見えません。被処分者に対する「再発防止研修」を質量ともに強化し、なんとしてでも、教職員の抵抗を根絶やしにして、「日の丸・君が代」強制を徹底しようとしています。都教委は異常、そう指摘せざるを得ません。
これまでの「10・23通達」関連訴訟全体の判決の流れを概観して見ましょう。
最初、まだ最高裁判決のない時代に大きな成果をあげた時期がありました。これを仮に「高揚期」と名付けます。しかしこの時期は長く続かず、10・23通達以前の事件ですが、ピアノ伴奏強制拒否訴訟の最高裁判決で覆ります。その後しばらく「受難期」が続きます。そして、一定の成果を得て「安定期」にはいります。そして、本日ご報告したいのは、今安定期の域を脱して「再高揚期」にあるということです。都教委の側から見れば、今は「裁判ボロ負け続きの最悪期」なのです。
「高揚期」
10・23通達関連事件で、裁判所が最初の判断を示したのは、再発防止研修執行停止申立(民事事件の仮処分命令申立てに相当します)に対する決定です。裁判長の名をとって須藤(典明)決定と呼んでいる2004年7月の決定は、「内心に踏み込み、思想良心に関わる内容の研修は違法」として、研修内容に歯止めをかけました。さらに、2006年9月の予防訴訟一審判決(難波判決)は、「日の丸・君が代」強制を違憲違法とした全面勝訴の画期的判決となりました。担当裁判所は、教職員と一緒に、石原教育行政の暴挙に怒ってくれたのだと印象をもちました。これで、「『日の丸・君が代』強制は違憲、という流れが決まった」そう思いました。しかし、残念ながらこれはつかの間の喜びに過ぎませんでした。
「受難期」
その後半年足らずで、待ち構えていたように最高裁第三小法廷が、ピアノ伴奏強制拒否事件判決(07年2月)を出します。外形的な行為(君が代斉唱のピアノ伴奏)の強制があっても、必ずしも内心の思想・良心を侵害することにはならないという、奇妙な内外分離論に基づくものでした。
まことに奇妙な合憲論なのですが、最高裁判決は下級審の裁判官に重くのしかかります。ピアノ伴奏だけでなく、君が代不起立を理由とする懲戒処分は、ことごとく合憲合法とされました。事件や当事者に向き合わず、人事権を握る上だけに目をやり、上におもねる「ヒラメ判決」、最高裁判決の言い回しをそのまままねた「コピペ判決」が続きました。まさに受難の時代でした。
その嚆矢をなす典型が、「君が代・解雇裁判」一審佐村浩之判決(07年6月)です。難波判決の直後に結審しながら、ピアノ判決後に弁論再開して、「ヒラメのコピペ判決」を言い渡したのです。関連全訴訟の中心をなす、処分取消訴訟(第1次「君が代裁判」)一審判決(09年3月)も全面敗訴に終わりました。?波判決の控訴審判決も逆転敗訴(11年1月)となりました。ここまでが、長かった苦難の「受難期」です。
「回復・安定期」
この沈滞した局面を打破したのが、第1次「君が代裁判」控訴審、東京高裁大橋判決(11年3月)でした。戒告を含む全原告(162名)について、裁量権濫用にあたるとして違法と断じ、処分取消の判決を命じたのです。最高裁判決の枠には従いながらも、その制約の中で、教員側の訴えに真摯に耳を傾けた画期的判決でした。
難波判決に次ぐこの判決は最高裁では維持されませんでした。それでも、最高裁は減給以上の処分は重きに失するとして取り消しました。こうして、君が代裁判1次訴訟最高裁判決(12年1月)、河原井さん・根津さん処分取消訴訟最高裁判決(12年1月)などかこの仕切りに続き、第2次君が代裁判最高裁判決(13年9月)もこれに従って、「戒告なら合法」「減給以上は裁量権濫用で違法」という判断が定着します。
最高裁は、「日の丸・君が代」の強制は、間接的には思想良心の自由を侵害していると認めます。しかし、間接的な制約に過ぎないから、都教委側にある程度の強制の合理性必要性があれば合憲と言ってよいというのです。納得はできず不服ではありますが、ピアノ判決の理屈よりは数段マシになったとも言えます。
何よりも、原則として戒告だけが認められるとなって、都教委のたくらみであった累積加重の懲戒システムが破綻しました。これは、毎年の卒業式・入学式のたびに繰り返される職務命令違反について機械的に懲戒処分の量定を加重する、おぞましい思想弾圧手法です。心ならずも、思想良心を投げ出して命令に屈服し、「日の丸・君が代」強制を受容するまで、懲戒は重くなり確実に懲戒解雇につながることになるのです。私たちが思想転向強要システムと呼んだ、この邪悪なたくらみは違法とされ、採用できなくなりました。都教委は猛省しなくてはなりません。
再高揚期
そしていま、新たな下級審判決の動向が見られます。最高裁判例の枠の中ですが、大橋判決のように、可能な限り憲法に忠実な判断をしようという裁判所の心の内を見て取ることができます。さらに、10・23通達関連事件に限らず、都教委は多くの処分についての訴訟を抱え、ことごとく負け続けています。いまや、都教委の受難・権威失墜の時代です。これを教員側の「再高揚期」と言ってよいと思います。
ちなみに、最近の都教委が当事者となった事件の判決を並べてみましょう。
13年12月 「授業をしていたのに処分」福島さん東京地裁勝訴・確定
14年10月 再任用拒否(杉浦さん)事件 東京高裁勝訴・確定
14年12月 条件付き採用免職事件 東京地裁勝訴 復職
(15年1月 東京君が代第3次訴訟地裁判決 減給以上取消)一部確定
15年 2月 分限免職処分事件 東京地裁執行停止決定
15年 5月 再雇用拒否第2次訴訟 東京地裁勝訴判決
15年 5月 根津・河原井さん停職処分取消訴訟 東京高裁逆転勝訴
15年10月 Kさん、ピアノ伴奏拒否事件東京地裁処分取消判決
原処分・停職→人事委員会修正裁決・減給処分→東京地裁・減給取消
以上のすべてが、10・23通達関連判決ではありません。しかし、明らかに、10・23通達関係訴訟で明らかになった、都教委の暴走を到底看過できないとする裁判所の姿勢が見て取れます。今や都教委は、悪名高い暴走行政庁なのです。
各原告団・各弁護団による総力の努力が相乗効果を産んでいるのだと思います。何よりも、最高裁判決と2名の裁判官の反対意見(違憲判断)、とりわけ宮川裁判官の意見、そして多くの裁判官の補足意見の積極面が生きてきていると実感しています。まだ十分とは言えませんが、粘り強く闘い続けたことの成果というべきではないかと思っています。
これから、闘いは続きます。まずは、最高裁の「論理」の構造そのものを徹底して弾劾し、真正面から判例の変更を求める正攻法の努力をしなければなりません。裁判所に対する説得の方法は、「大法廷判例違反」「学界の通説に背馳」「米連邦最高裁の判例に齟齬」などとなるでしょう。そして、「職務命令違反による懲戒処分が戒告にとどまる限りは懲戒権の濫用にあたらない」という判断を、大橋判決のように「すべての懲戒が権利濫用として違法になる」という判断の獲得はけっして不可能てはないと考えています。
さらに、まだこの問題に関して最高裁判決が語っていないことでの説得ー迂回作戦を試みなければなりません。
「主権者である国民に対して、国家象徴である国旗・国歌への敬意を表明せよと強制することは、立憲主義の大原則に違反して許容されない」「「日の丸・君が代」強制は、憲法20条2項に違反(宗教的行為を強制されない自由の侵害)に当たる」「憲法26・13条・23条を根拠とする「教育の自由」侵害に当たる」「子どもの権利条約や国際人権規約(自由権規約)に違反する」等々の主張についても、手厚く議論を積み上げていきたいと思います。
法廷内の闘いと、現場と支援の運動。そして、司法の体質を変える運動。さらには、都政そのものの質を変える運動。文科省の教育政策を弾劾する運動などと結びついて、粘り強く最終的な勝利を展望したいと思います。よろしく、ご支援をお願いいたします。
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公表された議事録作成の経緯の検証と当該議事録の撤回を求める申し入れ」への賛同署名のお願い
そもそも存在しない安保関連法案の「採決」「可決」を後付けの議事録で存在したかのように偽るのは到底許されません。私たちは、このような姑息なやり方に強く抗議するとともに、当該議事録の撤回を求める申し入れを提出します。ついては多くの皆様に賛同の署名を呼びかけます。
ネット署名:次の署名フォームの所定欄に記入の上、発信下さい。
http://goo.gl/forms/B44OgjR2f2
賛同者の住所とメッセージを専用サイトに公開します。
https://bit.ly/1X82GIB
第一次集約日 :10月27日(火)22時とします。なお、詳細は、下記ブログをご覧ください。
https://article9.jp/wordpress/?p=5768
(2015年10月18日・連続931回)
昨日(10月8日)、東京地裁民事19部(清水響裁判長)は、元小学校音楽専科教員Kさんの懲戒処分取消請求訴訟で都教委の懲戒処分を取り消す判決を言い渡した。またまたの都教委敗訴判決。すっかり、敗訴判決が定着した都教委となった。
Kさんは、卒業式における「君が代」斉唱の際のピアノ伴奏を命じられて、信仰上の理由から服することができなかったのだ。このことが、職務命令違反として懲戒処分となったものだが、裁判所はこの懲戒処分を取り消した。はからずも、宮崎緑新教育委員の就任記念祝賀判決としても意義のあるものとなっている。
被処分者の会からの報告では、「今回の判決により、都教委が係わる教育裁判で、都教委は7連敗となりました。司法の目から見ても都教委は『非常識』ということです。なお、都教委中井教育長は『今回の判決は誠に遺憾で、今後、内容を確認し、訴訟対応をとっていく』と控訴の意向を示しています。」とのこと。
本日のブログでは、被処分者の会がいう「都教委の非常識」を解説したい。多少面倒でも、是非ご理解いただきたい。東京都教育委員の6人にも、この拙文をお読みいただけたらありがたい。
中学校の公民授業以来おなじみのとおり、日本国憲法の統治機構は、他の文明諸国同様に三権分立の制度を採用している。権力の集中を防いで国民の人権を擁護するためであることも、ご存じのとおりである。司法は、立法・行政の各部門の行為の合憲性・適法性をチェックする役割を担っている。このことを、憲法81条は「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。」と表現している。この条文は「最高裁は」としているが、最高裁に直接提訴はできない。したがって、下級審も憲法判断をする。憲法適合性だけでなく、法律への適合性も。その最終審が最高裁となる。
なんとなく、「裁判所こそは憲法の番人、人権の砦。立法や行政に違憲・違法・不当を行う不心得者があれば、裁判所が是正してくれる。だから法の支配は安泰だ」などという俗信が蔓延しているのではないだろうか。残念ながら、現実の制度運用はそんな国民の期待に応えるものにはなっていない。
合憲と違憲、合法と違法の区別は、くっきり二分されているわけではない。グラデーションのどこで線引きするかは常に微妙な問題だ。しかも、立法にも行政にも、裁量権という「判断権限の余地ないし幅」が広くあるとされている。さらに、司法は自分ならこうするという判断を示すわけではない。立法や行政のやっていることの違法・不当が目に余り、「到底目をつぶって放置してはおけない」と考えるときだけ、口を出して是正するのだ。だから、判決が、立法や行政の行為を違憲・違法と宣告するのは、実はなかなかにないことなのだ。これは、見方によっては司法が機能していないとも言える。司法運用の現実は、立法にも行政にも、この上なく大甘なのである。これで、司法が憲法が期待している役割を果たしていると言えるのか、心配せざるを得ないほどなのだ。
この三権分立における運用の実態を、司法消極主義と言っている。立法や行政に対して司法が謙抑的であるとも表現される。立法府は主権者の選挙によって構成される国権の最高機関(憲法41条)であり、行政府も国会が構成するのだから、間接的に有権者の意思に基づくものである。それに対して、司法は民意を反映した構成とはなっていない。「だから、司法消極主義にはそれなりの正当性の根拠がある」ともされ、「いや、到底憲法が想定する司法の役割を果たしていない。その結果、権力の横暴による人権侵害が放置されているではないか」と批判をされてもいる。私は、実務家の実感として後者の立場にあるが、いまはその当否についての議論は措く。
ともかく、現実の三権分立の制度運用において、司法はきわめて消極的なのだ。裁判所が、行政にものを言って、行政のやることを違憲・違法・裁量権の濫用、などとチェックするなどは滅多にないことなのだ。だから、行政庁が司法から「あなたのやってることは違法」「だから処分は取り消す」とアウトの宣告を受けることは、たいへんに恥ずべきことと受け止めなければならない。教育部門においてはなおさらのことである。都教委の諸君は、この辺の感覚がお分かりでない。もしかしたら、単なる鈍感ではなくて、司法の判断など無視しようという魂胆を秘めているのではないだろうか。
行政は厳格に法に従ってなされなければならない。たった1件でも、裁判所から、「違法」「処分取消」の判決を受けたら、そのことを深刻に反省し、違法を犯したプロセスを検証し、責任を明確にして再発防止の策を講じなければならない。そうしてこそ、再びの敗訴判決の恥を繰り返さぬことが可能となる。それが、都民に奉仕すべき都政の真っ当なありかたである。
ところが、都教委という組織は、真っ当ならざることこの上ない。すでに、いくつもの最高裁判決において違憲判断だけはかろうじてまぬがれたものの、「褒められたやり方ではない」「なんとか教育現場正常化の努力をせよ」「処分の量定は、社会観念上著しく妥当性を欠いて裁量権の範囲を逸脱している」と敗訴していながら、これを深刻に反省した形跡がない。むしろ、判決に抵抗し敵愾心を燃やしているようにさえ見える。だから、下級審の判決で最近7連敗となっているのだ。昨日のKさん事件判決は、その典型というべきだろう。
行政訴訟の類型はいくつかあるが、そのメインは行政処分の取消請求訴訟である。Kさんは、懲戒処分の取消請求訴訟を提起した。その提訴の前に東京都人事委員会に審査請求を申し立て、人事委員会の裁決を経ている。こうしてはじめてめて、行政訴訟を提起する手続的要件を具備したことになる。
都教委がKさんに対してした原処分は、「停職1か月」であった。これは、Kさんが同種の行為により過去4回の懲戒処分を受けていたことを理由としてのもの。「停職1か月」の間は、給与の支給がないだけでなく学校に出て授業をすることができない。
これに対して、人事委員会は、いわゆる「修正裁決」をして「減給10分の1・1月」に処分の量定を落とした。
しかし、Kさんはこの減給の裁決をも不服として、裁判所に取消請求の訴訟を提起した。この場合の請求の内容は、「『人事委員会裁決で修正された都教委の減給処分』を取り消せ」というやや込み入ったものとなるが、裁判所はこれを認め、判決は減給処分を違法として取り消した。
都教委処分(停職)⇒人事委員会修正裁決(減給)⇒地裁判決(減給も取消)
つまりは、ホップ、ステップ、ジャンプで、Kさんの処分は取り消されたのだ。もちろん、まだ判決は確定してない。が、都教委は自分の間違いを反省すべきなのだ。控訴して争う愚は避けるべきだ。仮に、控訴してもこの判決は確実に上級審で維持されるだろう。その場合の本判決の意味はより大きなものになる。
判決書は全55頁とかなりのボリューム。一見して、丁寧な書きぶりが印象的だ。
Kさんがキリスト者であり、Kさんの所属する日本聖公会が、君が代を「神聖不可侵な天皇の統治する御代が永遠に続き、栄えることを祈願する歌であるとの解釈を示していること」「都教委による「君が代」の強制が思想良心の自由及び信教の自由に反するとして、その即時中止を求める旨の声明文を採択していること」を認定している。
そして、裁量権濫用については、次のように判断している。
「教職員に直接の不利益が及ぶ減給処分は…学校の規律や秩序の保持等の必要性と処分による不利益の内容との権衡の観点から当該処分を選択することの相当性を基礎づける具体的な事情が認められる場合であることを要する」との判断枠組みを前提に、「これまでに懲戒処分を4回受けているが、その態様はいずれも積極的に式典の進行を妨害する内容の非違行為ではない」「本件不伴奏が原告の信仰等に基づくものであり、これにより卒業式の進行上、具体的な支障が生じたとは認められないこと等を考慮すると、…都の裁量権を考慮しても、減給は重すぎる」
したがって、「処分は裁量権の逸脱濫用に当たるとして違法、これを取り消す」との結論となっている。
飽くまで、最高裁判決が許容する枠組みの中でのことではあるが、できるだけ、憲法に忠実に、行政の暴走から人権を擁護しようという姿勢を見て取ることができる。
それにしても、だ。中井敬三教育長のコメントは、困ったものである。
どうして、「今回の判決は誠に遺憾で、内容を確認し訴訟対応をとっていく」としか言えないのだろうか。相変わらずの頑な姿勢。言葉の上だけの強がりかも知れないが、この悪役ぶりはもう痛々しい。
「処分は違法との裁判所のご指摘をいただきました。法に従わねばならない立場にあるものとして、この判決を重大なものとして受け止め真摯に対応いたします」と、このくらいのことがどうして言えないのだろうか。
何度、敗訴を重ねたら、この人たちは「反省」とか「再発防止策」の必要に思い当たるのだろうか。都教委の各教育委員には、都民からの厳しい教育的指導が必要ではないか。
しかしもう彼らは敗訴判決には慣れっこになって、再教育や指導を受け付けない、反省とは無縁の境地に飛んで行ってしまったのだろうか。
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10月17日集会はこの判決で一層盛りあがることになる。是非ご参加をいただきたい。
『学校に自由と人権を!10・17集会』
子どもたちを戦場に送るな!
―「日の丸・君が代」強制反対! 10・23通達撤回!―
2015年10月17日(土)
13時開場 13時30分開会 16時30分終了
豊島区民センター6F文化ホール(池袋駅東口 徒歩5分)
アクセス地図
http://www.toshima-mirai.jp/center/a_kumin/
☆資料代 500円
☆集会の主な内容
講演 「イラクから見る日本?暴力の連鎖の中で考える平和憲法」
高遠菜穂子さん(イラク支援ボランティア)
歌のメッセージ 中川五郎さん(フォークシンガー)
特別報告 「『君が代』訴訟の新しい動きと勝利への展望」
澤藤統一郎弁護士(東京「君が代」裁判弁護団副団長)
(2015年10月9日・連続922回)
毎年10月に、「10・23通達」に抗議する市民集会が行われる。今年は、「子どもたちを戦場に送るな!?「日の丸・君が代」強制反対! 10・23通達撤回!?」という副題を付しての集会。
集会の日時・場所等は以下のとおり。
2015年10月17日(土)
13時開場 13時30分開会 16時30分終了
豊島区民センター6F文化ホール(池袋駅東口 徒歩5分)
アクセス地図は
http://www.toshima-mirai.jp/center/a_kumin/
集会のメインの企画は、高遠菜穂子さん(イラク支援ボランティア)の講演
「イラクから見る日本?暴力の連鎖の中で考える平和憲法」というもの。
そして、歌のメッセージ 中川五郎さん(フォークシンガー)が花を添える。
私も、東京「君が代」裁判弁護団副団長として特別報告を担当する。
「『君が代』訴訟の新しい動きと勝利への展望」 澤藤統一郎弁護士
この集会の主催は、以下の「10・23通達関連裁判訴訟団・元訴訟団」14団体を糾合する実行委員会。
「日の丸・君が代」不当処分撤回を求める被処分者の会/「日の丸・君が代」強制反対・再雇用拒否撤回を求める第2次原告団/東京「再雇用拒否」第3次原告団/東京・教育の自由裁判をすすめる会/「日の丸・君が代」強制反対 予防訴訟をひきつぐ会/「君が代」不当処分撤回を求める会(東京教組)/「日の丸・君が代」強制に反対し子どもと教育を守る会(都教組八王子支部)/東京都障害児学校教職員組合/東京都障害児学校労働組合/アイム‘89・東京教育労働者組合/都高教有志被処分者連絡会/「良心・表現の自由を!」声をあげる市民の会/河原井さん根津さんらの「君が代」解雇をさせない会/府中「君が代」処分を考える会
国民の激しい抵抗に遭いながら、戦争法が強行成立とされた直後の今年の集会である。例年にも増して、戦争と「日の丸・君が代」強制、平和とナショナリズム、国際平和をどう構築していくべきか、を切実に考える集会となるはず。「子どもたちを戦場に送るな」というスローガンにリアリティが感じられるではないか。
是非、ご参加をお願いしたい。なお、参加費は資料代として500円。
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私の報告は「訴訟の新しい動き」と「勝利への展望」を語るもの
私は、10・23通達関連の判決の動向を、次のように4期に分けて把握している。
高揚期⇒受難期⇒回復・安定期⇒再高揚期
いまは、「再高揚期」にあるとして、展望を語ることになる。
レジメの一部を抜粋して掲載しておく。興味のある方は、集会に足をお運びいただきたい。
☆「10・23通達」関連訴訟判決全体の流れ
1 高揚期
※再発防止研修執行停止申立⇒須藤決定(04年7月)研修内容に歯止め
※予防訴訟一審判決(難波判決)の全面勝訴(06年9月)
2 受難期
※ピアノ伴奏強制事件の合憲最高裁判決(07年2月)
⇒これに続く下級裁判所のヒラメ判決・コピペ判決
※「君が代」解雇裁判・一審佐村浩之判決(07年6月)が嚆矢
取消訴訟一審判決(09年3月)も敗訴。
難波判決 高裁逆転敗訴(11年1月)まで。
3 回復・安定期
※取り消し訴訟(第1次訴訟)に東京高裁大橋判決(11年3月)
全原告(162名)について裁量権濫用として違法・処分取消
※君が代裁判1次訴訟最高裁判決(12年1月)
河原井さん・根津さん処分取消訴訟最高裁判決(12年1月)
君が代裁判2次訴訟最高裁判決(13年9月)
間接制約論(その積極面と消極面) 累積加重システムの破綻
原則・減給以上は裁量権濫用として違法取消の定着
4 再高揚期
※いま確実に新しい下級審判決の動向
※最高裁判例の枠の中で可能な限り憲法に忠実な判断を。
10・23通達関連だけでなく、都教委の受難・権威失墜の時代
☆新しい諸判決と、その要因
13年12月 「授業をしていたのに処分」福島さん東京地裁勝訴・確定
14年10月 再任用拒否(杉浦さん)事件 東京高裁勝訴・確定
14年12月 条件付き採用免職事件 東京地裁勝訴 復職
(15年1月 東京君が代第3次訴訟地裁判決 減給以上取消)一部確定
15年 2月 分限免職処分事件 東京地裁執行停止決定
15年 5月 再雇用拒否第2次訴訟 東京地裁勝訴判決
15年 5月 根津・河原井さん停職処分取消訴訟 東京高裁逆転勝訴
※最高裁判決と補足意見の積極面が生きてきている。
※粘り強く闘い続けたことの(一定の)成果というべきではないか。(以下略)
(2015年10月7日・連続920回)
本日は、第13回の「被処分者の会」定期総会。会の正式名称は、「『日の丸・君が代』不当処分撤回を求める被処分者の会」である。
石原第2期都政下での悪名高い10・23通達の発出が、2003年10月23日。2004年3月と4月の卒業式・入学式以来今日まで、思想・信条や信仰から、あるいは教員としての良心において「日の丸・君が代」強制に服することができないとして懲戒処分を受けた教員は延べ474名。
その処分に承服することはできないとし、処分取消の集団訴訟を主たる目的に「被処分者の会」が結成された。自覚した個人が明確な目標をもって結成した自律的な組織である。その会の毎年1度の定期総会が今年で13回目となった。思えば、これまで既に長い闘いである。しかも道は半ば。まだ先は遠い。
しかし、被処分者の総会は今年も明るい雰囲気であった。総会議案書の中の次の一文が目を惹いた。
「今次総会は、安倍政権が憲法違反の戦争法を強行成立させた直後に、各裁判が新たな裁判を迎える中で行われます。私たちは、『子どもたちを戦場に送らない』決意のもと、憲法を守る闘いと、『日の丸・君が代』強制反対の闘いを一体のものとして闘い抜きます。再雇用二次訴訟の地裁での勝訴、河原井さん・根津さんの停職処分取消と損害賠償を命じた東京高裁の逆転勝訴判決などこの間の各訴訟での私たちの不屈の闘いは、都教委を確実に追い詰めています。」
事務局長報告の中では、次のように語られた。
「都教委のやり方は、あまりに独善的で強引なんです。だから、このところ都教委は裁判に負けつづけています。いまは、1引き分けをはさんで、都教委は裁判に6連敗です。1引分けを0.5に数えれば、6.5連敗です。
13年12月 「授業をしていたのに処分」福島さん東京地裁勝訴
14年10月 再任用拒否(杉浦さん)事件 東京高裁勝訴
14年12月 条件付き採用免職事件 東京地裁勝訴
(15年1月 東京君が代第3次訴訟 東京地裁判決 減給以上取消)
15年 2月 分限免職処分事件 東京地裁執行停止決定
15年 5月 再雇用拒否第2次訴訟 東京地裁勝訴判決
15年 5月 根津・河原井さん停職処分取消訴訟 東京高裁逆転勝訴
すべてが、『日の丸・君が代』強制関連事件ではありませんし、またすべてが被処分者の会の事件でもありません。しかし、これは私たちが一体となった闘いの粘り強い闘いの成果で、都教委は明らかに追い詰められています。私たちは自信をもって奮闘し続けます」
都教委の訴訟での連敗記録は、大阪と並ぶ恥ずべきものと言わねばならない。東京都の教育行政は明らかに暴走しており、裁判所から警告が発せられ、ブレーキがかけられているのだ。10月中にまた2件の判決が予定されている。都教委の連敗記録はさらに続くことになるだろう。
また、戦争法案反対の集会やデモには、被処分者の会から連日多数が参加したと報告された。多くの人が、日の丸・君が代を戦争の歴史と関連づけて、その強制を受け容れがたいとした。いま、はからずもその認識の先見性が明確化される事態を迎えている。
次のような発言があった。
「10年前には、『日の丸・君が代を戦争と結びつけるなんて、今どき何と大袈裟な』と思われるような雰囲気があった。でもいまや、日の丸・君が代強制と戦争との結びつきは、切実なリアリティをもって実感される時代となった」
闘いには、旗と歌が必要だ。
一揆の押し出しの先頭には、小丸のむしろ旗が掲げられた。
官軍は誰も見たことのない錦の御旗を捧げ持った。
大元帥は、各連隊に連隊旗を親授した。
そして、日の丸と君が代は、皇国の軍国主義と侵略主義の象徴となり、億兆心を一にし戦意を鼓舞する小道具となった。
彼の地ドイツで1935年国旗とされたハーケンクロイツは、45年の敗戦とともに旧時代の象徴とされて、いまに至るもその掲揚が禁止されている。しかし、旧体制を徹底して克服し得なかったここ日本では、「日の丸・君が代」が国旗国歌として生き残っている。
「日の丸・君が代」と戦争との大いなる関わり。これまでは、過去の戦争との歴史的関わりだけを問題にしてきた。これからは、日の丸・君が代と近未来の戦争との関連を現実のものとして問わなければならない。
(2015年10月3日・連続916回)
「口は禍の元」という言葉には違和感がある。禍の源は、腹の底に潜んでいるものであって、口に責任転嫁してはならない。普段はこれを口の門から出ぬよう注意をしているのだが、時にこれがうっかり外に出る。このうっかり出た言葉を、「失言」と言うのは不正確。実はそれこそ腹の底に潜めていたホンネなのだ。
3日前のこと。菅義偉官房長官は、「『直撃LIVE グッディ!』(フジテレビ)に出演し、歌手の福山雅治さんと俳優の吹石一恵さんの結婚について、『本当、良かったですよね。結婚を機に、やはりママさんたちが、一緒に子供を産みたいとか、そういう形で国家に貢献してくれればいいなと思っています。たくさん産んでください』と発言した」。そう、報じられている。第1次安倍政権で、柳沢伯夫厚生労働相(当時)が、女性を「産む機械」に例えた発言で批判を受けた。あれと同根のホンネ。
そのホンネが、「違和感を感じる」「政治家の口にすることではない」などと批判され叩かれている。叩いている世論の健全さが好もしい。違和感の根源は、「子どもを産むことが、すなわち国家に貢献すること」という認識にある。菅の腹の底に潜んでいる、「国民は国家のために子どもを産むことこそ」「国家のために子どもがいる」というホンネが批判されているのだ。
ことは憲法の根本的な理解に関わる。国家のための個人か。個人のための国家か。いうまでもない。個人のために国家がある。個人が集まって協議して国家を作るのだ。国家が必要だから、あった方が便利だから、国家を作る。国家が個人に先んじて存在するわけではない。どんな国家が使い勝手がよく、どんな国家が国民にとって安全で安心か、その設計は個人が集まって知恵を絞るこになる。不具合が見つかれば作り直す。もう要らないとなったら、国家などなくしてもよいのだ。
「子どもを産むことは国家に貢献するから価値がある」とは逆さまの発想。けっして、「子どもは国家のために産むものではない」のだ。すべての子どもは、この世に生まれるだけでこの上ない価値がある。しかし、国家は個人に役に立つことによってはじめて、その限りおいてその存在に価値が認められる。
半世紀ほどの昔、ジョン・F・ケネディという政治家がいた。彼は国民に、「国があなたのために何をしてくれるのかを問うのではなく、あなたが国のために何を成すことができるのかを問うて欲しい。」と呼びかけた。国民の自尊心をくすぐる狙いの発言として有効ではあったが、その論理は完全な権力者の発想であって、民主主義者の言葉ではない。
国旗国歌強制の問題もまったく同じだ。「国旗国歌=国家」であるから、個人は国旗国歌の前で、実は国家と対峙している。国旗国歌への敬意表明の行為の強制は、国家への忠誠の強制と同じこと。個人の僕に過ぎないはずの国家が、個人を凌駕し優越して、国民個人を僕とする下克上が起きることになる。これを背理であり、倒錯だと言うのだ。
「国家のために子どもを産め」のホンネも、「国旗に正対して起立し、国歌を斉唱せよ」の強制も、同じことなのだ。
国家のために子どもを産み、国家のために子どもを育て、その子は国家のためにはたらき、国家のために戦って、国家のために死ぬ。これが、20世紀の前半まで、日本国民に押しつけられた国民の道徳だった。しかも、その国家の中心に天皇が据えられ、「命を捨てよ君のため」と、忠死が強制された。
「お国のために子供を産め」という菅らのホンネには、あの天皇制が臣民に押しつけた尊大さを思い出させるものがある。だから、世論は本能的に警戒の反応を示したのだ。「誰の子どもも殺させない」と、名言を喝破したママの会の母親は、愛する子を国家に取られて戦場に送り込まれる恐怖を感得したからこそ、戦争法反対の行動に起ち上がったのだ。政権はそのことをちっとも学んでいないのだ。子どもの貧困を深刻化し子育ての条件の整備も怠ってきたこの政権が、「国家のために産めよ増やせよ」とは、いったい何ごとか。
「お国のために」「国家のために」というスローガンに欺されてはならない。
(2015年10月2日・連続915回)
以前から内定と報道されていたことだが、宮崎緑(千葉商科大学教授・元ニュースキャスター)が東京都の教育委員になった。昨日(9月30日)「任命に係る議会の同意」を得たことでの正式決定。任期は4年間、本日(2015年10月1日)から2019年9月30日までである。
これで、東京都の教育委員は下記の6人となった。
教育長 中井敬三 ?18年 3月31日
委 員 木村 孟 ?16年10月19日
委 員 乙武洋匡 ?17年 2月27日
委 員 山口 香 ?15年12月20日
委 員 遠藤勝裕 ?18年 3月12日
委 員 宮崎 緑 ?19年9月30日
率直に申しあげて東京都教育委員の評判はきわめて悪い。石原都政時代のお友だち人事で、鳥海厳、米長邦雄、横山洋吉ら札付きの右翼が任命され教育現場を荒廃させてきたからである。石原都政が過去のものになってからも、残滓を引きずって真っ当な姿勢を取り戻していない。
今年、東京都内23区の教育委員会の一つとして、「つくる会」系の中学校歴史・公民の教科書を採択していない。都教委だけが、突出して、歴史・公民ともに、育鵬社版を採用しているのだ。これひとつ見ても、都教委はおかしい。
都立高等学校の歴史教科書の各学校ごとの採択についても、実教出版株式会社の「高校日本史」を採択するなと各校に圧力をかけている。この教科書に、次の記述があるからだというのだ。
「国旗・国歌法をめぐっては、日の丸・君が代がアジアに対する侵略戦争ではたした役割とともに、思想・良心の自由、とりわけ内心の自由をどう保障するかが議論となった。政府は、この法律によって国民に国旗掲揚、国歌斉唱などを強制するものではないことを国会審議で明らかにした。しかし一部の自治体で公務員への強制の動きがある。」
この記述の真実性に疑問の余地はない。しかし、都教委は「一部の自治体で公務員への強制の動きがある。」が、自分への批判だと思い当たって面白くないのだ。バカバカしさに呆れるしかない。
このような都教委ではあるが、乙武洋匡や山口香の任命は明らかに、石原都政の時代には考えられない人事であった。アンシャンレジームからの脱出にひとすじの光明を灯すものとの印象を受けた。しかし、今日まで、その希望は現実とならないままにややもすれば立ち消えそうになっていた。そこに宮崎緑である。
「人格が高潔で、教育、学術及び文化に関し識見を有する」というのが、教育委員の要件である。教育委員の諸氏に、そんなレベルの立派な仕事を期待するものではない。ごく普通の感覚で、教育行政に責任を持ってもらいたい。
私は、新任の教育委員にお願いをしてきた。
明日の主権者を育てる教育環境を整備する重責を担っていることを自覚していただきたい。自分の目で、「日の丸・君が代」強制問題の資料をよくお読みいただきたい。そして、自分の頭でこの問題をよく考えいただきたい。事務局職員の作った要約レジメだけを読んでいたのでは、あなたの職責を全うしたことにはならない。都民への責任を果たしたことにはならない。
長いものではないから、少なくとも、代表的な最高裁判決はよくお読み願いたい。教育庁の事務局に頼らずとも、その程度の検索能力はお持ちだろう。最高裁判決が、都教委の「日の丸・君が代」強制を苦々しく見ていることをよく理解していただけるはず。多数意見でさえ、処分は原則戒告に限り、それ以上の重い処分は違法として取り消している。このことだけでも都教委の恥ではないか。半数を超す最高裁裁判官が補足意見を付して、「日の丸・君が代」強制を都教委のイニシャチブでなんとか解決せよとしてる事実を重く受け止めねばならない。さらに、筋の通った少数意見が「日の丸・君が代」強制は違憲だと厳しく批判していることも知ってもらわねばならない。「日の丸・君が代」強制に反対している弁護団の見解にも耳を傾けてもらいたい。
少なくとも、「日の丸・君が代」強制が真面目な教師を悩ませていることを、憲法や教育基本法が想定している教育のあり方を荒廃させていることをご理解いただきたい。
もう、10年も前のことになるが、関東弁護士会連合会の広報紙「関弁連だより」の「わたしと司法」という欄に、宮崎緑インタビュー記事がある。
そこで、大学での活動を聞かれて、宮崎はこう語っている。
「政策情報学です。20世紀までの学問は,専門化,細分化されて,1つ1つは研ぎすまされたけれど,「木を見て森を見ず」というところがあったと思います。「森」がわしづかみで見えるような学問的な受け皿がなければ新しい時代の対応はできないであろうという考えから今学術会議等でもアカデミズムの再編が課題になっています。そこで,新しく作られたのが政策情報学です。
政策情報学部というのは日本では初めての学部です。物事に対するアプローチが様々な角度から行われ,斬新なことをすることが可能です。「政策」情報学と言っていますが,これは,公的機関の意思決定だけではなくて,企業でもいいし,個人のポリシーでもいいんです。意思決定全てが対象です。」
同氏には、ぜひとも専門としている政策情報学の手法で、10・23通達発出とその後の全過程を対象に分析してしていただきたい。都教委が「日の丸・君が代」強制に踏った意思決定の真の意図・動機をつぶさに検証していただきたい。検証の資料としては、都教委を被告とする山ほどある裁判資料で十分だろう。
そのようにして、「木を見て森を見ず」ということに陥ることなく、「森」をわしづかみで見えるようにして、新しい時代への的確な対応をお願いしたい。それこそ、同氏の任務であり職責ではないか。
たくさんの裁判を抱えていることは、都教委の自慢にはならない。しかも、その多くで都教委は敗訴しているのだ。裁判所からも批判されるその体質を改め、処分の繰りかえしに終止符を打つ努力をお願いしたい。
宮崎緑・新教育委員任用を、石原や石原後継時代とはひと味違ったニュー舛添人事だと思いたい。宮崎新委員の動向に期待しつつ見守りたい。
(2015年10月1日・連続914回)
富士には月見草がよく似合う。秋の風には鈴虫の音色。
日の丸には、武運長久の寄せ書きがよく似合う。千人針も。特攻も。そして、右翼の街宣車の騒音や暴力団員の鉢巻がぴったりだ。
靖国神社と平和の祈りとは似合わない。ハーケンクロイツと国際協調は似合わない。日の丸と九条も水と油。似合わないこと甚だしい。
この不似合いを無理矢理結びつけた「日の丸・九条の会」なる代物があるという。おふざけの類だろうが、黙っておられない。「日の丸・君が代」の強制に抵抗し、胃の痛くなる思いで、「日の丸・君が代」とたたかっている人たちの神経を逆撫でにする、配慮に欠け品位に欠けた茶番劇。
次には「君が代・九条の会」が生まれるのだろうか。「天皇バンザイ・九条の会」「靖国・九条の会」「歴史見直し・九条の会」と続くのだろうか。不まじめ「日の丸・九条の会」は、お・や・め・な・さ・い。
「日の丸」の権力的強制は、歴史認識に無自覚な人々の「日の丸」容認を背景にしている。社会的な日の丸への敬意表明同調圧力が、国家主義者による強制を可能としているのだ。「日の丸」や「君が代」の社会的容認度を少しでも高める試みを許してはならない。
もちろん、天皇についても、靖国神社についても同じことだ。九条を語る陣営の中から、「日の丸」積極容認の声が出て来るその無自覚さに、唖然とする。
「日の丸九条の会」の設立趣旨・要綱を掲げているサイトがある。
設立趣旨・要綱の全文は以下のとおり。
「日章旗は、過去「日本帝国」の旗頭として使われ、未だその侵略戦争の傷は癒えていない。しかし、これ自体にはなんら罪はなく、デザインも大変に優れており、もとより日本国の象徴として定着している。
ここに、これに愛着をもち「九条も立憲主義もこわすな」と下記の点で賛同する者の緩やかな集まり「日の丸9条の会」を設立する。
1?憲法が権力者を縛るための最高規範であることを認識し、今次の安倍政権の解釈改憲を認めない。
2―日章旗に愛着心をもつことを誇りをもって宣言する。
3―国旗・国歌の使用・不使用につき、誰に対するいかなる強制も嫌がらせも許さない。
4―専守防衛を明確にするための改憲でない限り、日本国憲法9条等の改憲を許さない。
5―侵略のための軍備は許さず、日本の核武装もその計画研究も認めず、非核三原則を堅持させる。
6―アメリカ合衆国を含めどの国の属国化していくことを認めない。
7ー啓発・運動にはもとより非暴力の手法のみを使い、他団体とも随時、共同で行動する。
8ー添付の画像を旗頭とする。
平成27年9月9日
日の丸愛好家にふさわしく、元号を使用しての宣言。おそらくは、右翼にも戦争法反対のウィングを広げるという大義名分を考えての「日の丸9条の会」なのだろう。しかし、各職域の九条の会がそれぞれ真摯さにあふれているのに、このおふざけは人の胸をうたない。運動に資するとは到底考えられない。
また、「日本国の象徴として定着している」との認識は容認できない。東京地裁の判決(2006年9月21日・「予防訴訟」における難波判決)でさえ、「日の丸・君が代」を次のように言っている。
「我が国において、日の丸、君が代は、明治時代以降、第2次世界大戦終了までの間、皇国思想や軍国主義思想の精神的支柱として用いられてきたことがあることは否定し難い歴史的事実であり、国旗・国歌法により、日の丸、君が代が国旗、国歌と規定された現在においても、なお国民の間で宗教的、政治的にみて日の丸、君が代が価値中立的なものと認められるまでには至っていない状況にあることが認められる。」
手堅い判決文の中でさえ、「日の丸、君が代が国旗、国歌と規定された現在においても、なお国民の間で宗教的、政治的にみて日の丸、君が代が価値中立的なものと認められるまでには至っていない」と言われているのだ。これを「日本国の象徴として定着している」と公言することによって、日の丸の社会的認容・定着化に加担することは、この国の保守勢力・国家主義者を喜ばせることで、反動に加担することにほかならない。
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本日午前中は都庁で、都教委と「日の丸・君が代」強制にまつわる問題での集団交渉があった。「日の丸・君が代」強制に抗って処分された人々や、父母の立場の人々による今日の交渉テーマは、「内心の自由の告知」禁止問題。かつては、校長や教頭が、卒業式・入学式の前に、「プログラムでは、国旗に向かって起立し国歌を斉唱するようお願いすることになりますが、日本国憲法は内心の自由を保障しています。ですから、けっして強制にわたるものではありません。飽くまでご協力をお願いするものです」との告知が普通に行われていた。それが、石原慎太郎教育行政が禁止して今日に至っている。そのことが国際的にも問題になりつつあり、文科省も問題と認識しているのだ。
この件に関しての交渉のあと、都庁32階食堂で、リラックスした雰囲気でみんなとランチをともにした。ここで、「日の丸9条の会」が話題となった。もちろん、私が口火を切って話題にしたのだ。弾んだ話しの大要を再構成する。
「私は、あるサイトで「日の丸9条の会」というものを知った。私の感性がどうしてもこれを受け付けない」
「私も見つけた。大きな違和感がある」
「天皇の発言をリベラルだと持ち上げる、あのセンスとよく似ている」
「「日の丸」と九条は両立しないでしょう」
「右へ運動を広げたいのだろうが、目先の小利に目が行って、大事なことが忘れられている」
「軽々にナショナリズムを持ち上げてもらっては困る」
「先日の反原発デモに日の丸が出てきて驚いた。愛する日本を汚すなという意味合いだったようだが、とてもついていけない」
「日の丸を自分の側のシンボルにした途端に、国家や政権と対決する姿勢を見失うことになる」
「一方に、深刻に悩みながら「日の丸・君が代」と対決している人がいるのに、どうしてこんなにノーテンキに日の丸を肯定できるのだろうか」
食事時の会話としては軽さに欠けるが、刺身にワサビだ。耳に心地よい会話で味付けの今日のランチは旨かった。
(2015年9月11日・連続894回)
A アメリカでは、連邦最高裁が今年の6月に同性婚を禁じた州法を違憲と断じて、今や全州が同性婚を認めているそうだね。
B けっこうなことではないか。同性婚の容認は、その社会の寛容度のバロメータだと思うね。個人の精神のあり方やライフスタイルの多様性を尊重するからこその同性婚だ。そんな社会は、個人を縛らない。だから誰にとっても生きやすいのだと思う。
A 何が、非寛容の原因だろうか。
B 一つは社会の多数派の倫理観だろう。これが強固な社会的同調圧力となる。もう一つは一部の宗教的信念だろうね。そのようなものが、政治と結びつくところがやっかいだ。
A 日本では、戦前までは結婚は子をなして家の存続や繁栄をはかるためのものとされた。しかし、現行憲法や戦後の民法は家制度を厳格に廃したじゃないか。いまだに、多数派の強固な倫理観が同性婚に非寛容かね。
B 家制度の残滓はこの社会の至る所にあるではないか。選択的別姓の制度すら、「醇風美俗に反する」という右派の攻撃を受けて実現しない。結婚式は、「ご両家」の主催で誰も怪しまない。女性には、良妻賢母が期待される‥。
A それはともかく、日本では宗教的な理由による強固な反対論は考えにくいが。
B 宗教一般が、同性婚反対というわけではない。しかし、宗教は結婚という制度に深く関わってきた。その宗教が、「神が愛し合うように男女を作り、結婚を祝福した」「同性の愛は神の意に沿わず、祝福の対象とはならない」と説くと、話は面倒になる。
A アメリカでは、法制度としての同性婚は認めても、宗教的信念から個人としては絶対に認めないという、反対派のボルテージも高いようだね。
B それを象徴する事件が起きた。一昨日(9月3日)、ケンタッキー州のある郡の行政担当者が、信仰上の信念から、同性婚に対する結婚証明書発行を拒否したという。連邦地裁からの命令も無視したとして、裁判所は法廷侮辱罪でこの郡の担当者を拘束して収監したとニュースになっている。
A この人、法廷で「神の道徳律と職務上の義務が一致しない。判決に従うことは良心が許さない」と述べたそうじゃないか。「自分の内心が命じる思想や良心」と、「職務上の義務」の不一致は、往々にしてあることではないか。外部からの強制を排して、内心の声に忠実になるというのは立派な行動とは言えないか。
B むずかしい問題を含んでいるが、公務員が明らかに合法で正当な目的をもち、かつ行政に真に必要な自分の職務を拒否することは原則として許されない。結論としては、そう考えざるを得ない。
A たとえば、敬虔なクリスチャン教師が、聖書に書いてあることは真実だという信念から、公立学校の歴史の教科において「天地と生物界は、神が7日かけて創造した」「進化論は間違いである」と教えることはどうなのだ。
B 教員は自己の信念にかかわりなく、文明が真実と確認している事項を生徒に教える義務を負っている。これを教えるべきことは、正当な教員本来の職務だ。それが、教育という営為だし、生徒の学ぶ権利に応えることでもある。たとえ、内心の信念と異なっていてもこれを教える義務を果たさねばならない。
A 要するに、内心の自由よりも、公務員や教員としての職責が優先するということなのか。
B いいや、必ずしもそうではない。上司の明らかに違法な命令には服する必要はない。第三帝国における「ヒトラーの命令だから」、帝国日本の「天皇の命令だから」ということでの残虐行為は免責されない。つまりは、従ってはならない、ということなのだ。
A ジェノサイドや捕虜の虐待の命令なら、内心の良心を優先してこれに従うべきだという話はわかりやすい。しかし、今、そんな極端な違法な命令は考えられない。具体的には、公立校教員の「日の丸・君が代」への起立斉唱命令の拒否について聞きたい。教員としては、公務員である以上は、上司の職務命令に従うべきではないのか。同性婚に結婚証明書発行を拒否することとどこが違うのだ。
B わかりやすい違いは、教員に「日の丸・君が代」を強制することは、教員本来の職務内容ではないということだ。教員は生徒に対して知識と教養を伝える立場にあるが、特定の価値観を注入することは職務内容ではない。「日の丸・君が代」強制とは、教員が率先垂範して生徒に対して国家に対する忠誠や敬意の表明のイデオロギーを注入せよということだ。そのような強制は意識的に排除しなければならない。「従う必要がない」だけでなく、「従ってはならない」と言ってしかるべきなのだ。
A 普通多くの人はそんな大げさなこととは考えずに、軽く立って軽く歌うか、歌うふりをしているんだと思う。日本人なら、当然「日の丸・君が代」を大切にすべきだという考えもあろうに、どうしてそんなに「日の丸・君が代」にこだわるんだろう。
B 同性婚問題と似ているところがある。社会の圧倒的な多数派は、異性間の愛情と結婚を求める。しかし、少数ながら異なる心理や性向をもつ人もいる。「日の丸・君が代」にこだわるグループも少数派だが、少数派の存在も尊重されなければならない。人権とはそういうものだろう。
A そもそも、「日の丸・君が代」とは何なんだ。
B 「日の丸・君が代」という歌と旗はシンボルだ。何を象徴しているかについて、二重の意味がある。一つは、国旗国歌として日本という国家を象徴している。もう一つは、戦前から使われていた大日本帝国の事実上の国旗国歌として、天皇制や軍国主義、侵略戦争や植民地支配という負の歴史を象徴している。
A それで、「日の丸に正対して起立し、君が代を斉唱する」ことをどうとらえるんだ。
B 二重の意味があることになる。一つは、日本国という存在に敬意を表し、尊重するという意味だ。もう一つは、日の丸と君が代が戦意を鼓舞し侵略の小道具となった、あの戦前の歴史を受容するという意味。
A 多くの人はそうまでは思っていないのではないか。
B 真剣にものを考え、熱意ある教育者ほど、この問題にこだわらざるを得ない。少数の考えだから無視してよいということにはならない。
A 職務命令で卒業式や入学式の「日の丸・君が代」が強制され、違反には懲戒処分が続いているそうだが。
B 「日の丸・君が代」の強制とは、国家への忠誠、少なくとも敬意を表明することの強制にほかならない。また、戦前の負の歴史を免罪することへの加担の強制でもある。
ドイツが、学校の生徒にハーケンクロイツへの敬意表明を強制したらどうなると思う? 世界が驚愕するに違いない。実は日本はそれをやっているのだ。国民主権国家になったのに、戦前と同じ「天皇の御代よ、永遠なれ」という「臣民歌」を歌いたくないという人の心情は理解できるだろう。教育の場で、これをすることは子どもたちに、特定のゆがんだ歴史的価値観を押しつけることになる。
A 自分の気持ちにそぐわないから従えないということではないのか。
B もちろん、教員個人の思想良心の核になるところで、受容できないという問題はある。これを受け容れてしまえば、自分が自分でなくなってしまうというぎりぎりのところなのだ。単なる好悪とか気分や好みの問題ではないということだ。
だが、今同性婚証明拒否事件との対比で論じたのは、個人の信条を離れた教員の職責としての問題だ。戦前の臣民教育による洗脳や刷り込みの教育を繰り返してはならないということは、主観的な教員の思いであるよりは客観的な憲法が想定する教員の職務の内容だ。
国家は往々にして間違うものだ。国家のいうことを絶対視してはならない。教育とは、国家に奉仕する人間を育成する場ではない。国家をどう作るかを決める能力のある主権者を育成する場なのだ。
A 理念としては理解できないでもないが、同性婚の証明書発行拒否も、「日の丸・君が代」強制拒否も、同じように自分の思想や信仰を絶対として、公務員としての任務を拒否している感がまだ拭えない。
B 教員が、自分の信念に反するとして進化論を教えることを拒否してはならない。生徒に進化論を教えることは教員の本来的職務に属することなのだから。同様に、同性婚の証明書発行も、その職員の本来的職務に属することなのだから宗教的信念に反するとの理由で拒否することはできない。
しかし、教員に対する「日の丸・君が代」の起立斉唱命令は、教員の本来的職務に属することではないこととして強制し得ない。この理は、憲法の体系と、教育の本質、戦前の教育のあり方に対する戦後教育改革の理念、それが結実した戦後教育法体系によって導かれる結論なのだ。
A 判例はそのことを認めているのかい。
B 最高裁は、今はその半分だけの理解しかない。しかし、やがてはそのことを理解することになるだろう。
(2015年9月5日)
2014年7月の国連自由権規約委員会は、その「勧告22」において、日本に対して「(自由権規約の厳格な要件を満たさない限り)思想・良心及び宗教の自由あるいは表現の自由に対する権利へのいかなる制限を課すことも差し控えることを促す」と勧告した。
同委員会から日本に対して、「思想・良心の自由」に触れた勧告は初めてのことである。当然に「日の丸・君が代」強制問題を念頭においたものである。日本は、この勧告に誠実に対応すべき条約上の義務を負う。
本日は「勧告22」をめぐって、議員会館内で「国連自由権勧告フォローアップ 8・21 三省(文科・外務・法務)交渉」が行われた。必ずしも、各省の態度が誠意あるものであったとはいえないが、それなりの手応えは感じられる内容だった。
とりわけ、文科省の担当者から、卒業式・入学式における「内心の自由の告知」について、「各学校において、内心の自由を告知することが適切な指導方法だと判断される場合には、そのような指導方法も創意工夫のひとつとして許容される」という趣旨の答弁があったことが印象的な大きな収穫だった。
「内心の自由の告知」とは、典型的には式の直前に司会から説明される次のようなアナウンスである。
「式次第の中に君が代斉唱がございます。できるだけ、ご起立の上斉唱されるようご協力をお願いいたしますが、憲法上お一人お一人に内心の自由が保障されております。けっして起立・斉唱を強制する趣旨ではないことをご承知おきください」
「内心の自由の告知」は、10・23通達発出以前には過半の都立校で行われ、同通達以後は一律禁止されてもう12年になる。考えてみれば、学校の判断と責任とで、これくらいのことができるのは当たり前のことだが、今のご時世では、この程度の答弁を引き出すことが大きな収穫なのだ。
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引き続いての記者会見。その席で、私に求められたのは、「日の丸・君が代」強制の何が問題か、という説明。
「日の丸・君が代」強制とは、公権力が個人に対して、国家の象徴である歌や旗に対して敬意の表明を強制する行為です。その問題点は、次の3点にまとめられると思います。
第1点は、そもそも公権力がなし得ることには限界がある。国民に対して「日の丸・君が代」に敬意を表明することの強制は、その限界を超えた行為としてなしえないということ。
第2点は、憲法が保障する思想良心の自由の侵害に当たるということ。
そして第3点が、公権力が教育に介入しナショナリズムを煽る方向での教育の統制にあたることです。
まず第1点です。
立憲主義のもとでは、主権者国民がその意思で国家を作り、国家がなし得る権限を与えたと考えます。公権力はその授権の範囲のことしかなしえません。「日の丸・君が代」は、国家の象徴です。この旗や歌に対する敬意表明を強制する行為は、国家が主権者である国民に対して、自分に敬意を表明せよと命令していることになります。つまりは、被造者が創造主に対して、自己への敬意の表明を強制しているのです。こんなことは背理であり、倒錯としか言いようがありません。
また、一般論としては、公権力は公務員に職務命令を発する権限があります。公務員は上級に従う義務があります。そうでなくては、公務員秩序を保つことができません。しかし、上級は下級に、なんでも命令することができるわけではありません。自ずから合理的な限度があります。公権力が、「我を敬え」と強制するような職務命令はこのような限度を超えるもので、立憲主義の原則からは有効に発することができない、と考えざるをえません。
次いで第2点です。
「日の丸・君が代」は、戦前の天皇崇拝や軍国主義・侵略戦争・植民地支配の負の歴史と、あまりにも深く結びついています。このような旗や歌は、自分の思想や良心において受け容れがたく、それへの敬意表明の強制は、自分の思想、あるいは教員としての良心を深く傷つけるものである場合、強制はできません。これこそ、憲法19条が保障するところです。
第3点は、教育は公権力の統制や支配から自由でなければなりません。この近代市民国家での常識からの逸脱です。主権者国民が国家を作るのであって、国家が国家に都合のよい国民の育成をはかろうとすることは筋違いも甚だしいのです。
国家は教育行政において教育条件整備の義務は負うが、教育の内容や方法に立ち入ってはならない。それは、公権力による教育への不当な支配として違憲違法になります。
教育の場での「日の丸・君が代」強制は、国家が国家主義イデオロギーを子どもたちに注入していることにほかなりません。この強制は直接には教員に向けられていますが、実は教員の背後にいる子どもが被害者です。国家が思想を統制し、教育を支配したときにどのような事態となるか、私たちは、敗戦までその実例をイヤと言うほど、見せつけられたではありませんか。
立憲主義、思想・良心の自由、国家に束縛されない自由な教育を受ける権利。いずれも、戦後に日本国憲法とともに日本の制度となったもので、「戦後レジーム」そのものです。安倍政権のいう「戦後レジームからの脱却」は、まさしく「日の丸・君が代」強制路線であり、教育を国家主義に染め上げようというものにほかなりません。
いま、「日の丸・君が代」強制を許さないたたかいは、憲法を守り民主的な教育を守る運動の一環であって、安倍政権の改憲路線や戦争法案成立強行の動向と対峙する意味を持っているものと考えています。
(2015年8月21日)
本日は、東京「君が代」裁判・4次訴訟の第6回口頭弁論期日。東京地裁527号法廷が、代理人席傍聴席とも満席となった。原告の準備書面(5)の陳述に加えて、原告1名、原告代理人1名が口頭で意見陳述をした。
「日の丸・君が代」強制の職務命令違反を理由とする懲戒処分の効果は、第1次訴訟の最高裁判決が、かろうじて処分の合憲性を認めたが、損害を伴わない戒告のみにとどめるべきとして、減給停職等の実質損害を伴う処分は過酷に過ぎて違法とされている。
石原教育行政の処分の量定は以下のように累積加重するものであった。
1回目不起立 戒告
2回目 減給(10分の1・1か月)
3回目 減給(10分の1・6か月)
4回目 停職1月
5回目 停職3月
6回目 停職6月
おそらくは、7回目で免職を考えていたはず。
この累積加重の懲戒処分の手法を我々は、「転向強要システム」と呼んだ。心ならずも、思想・良心を枉げて、国旗国歌(「日の丸・君が代」)への敬意表明強制の屈辱を受け入れるまで、処分は加重され、それでも拒否し続ければ最終的には失職を余儀なくされる。400年前の、あのキリシタン弾圧の踏み絵と同じ構造だというのが我々の主張である。最高裁は、この点を認めた。最高裁が認める処分の量定は、原則戒告だけなのである。
もちろん、原告団も弁護団も、それで満足していない。違憲の判断を求めて、裁判所を説得する努力を重ねている。訴状と、その後の5本の原告準備書面は、違憲論で埋めつくされている。本日陳述の準備書面(5)も同様である。そして、その中のさわりを弁護団の雪竹奈緒弁護士が語った。
テーマは「儀礼・儀式論」である。最高裁の合憲判断の理由中に、「卒業式の国旗国歌掲揚は儀礼・儀式に過ぎない」と述べられている。「儀礼・儀式に過ぎないものの強制は、直接に思想良心を侵害するものとはならない」との文脈である。これへの反論の仕方には、「儀礼・儀式であっても、その強制は思想良心の自由を侵害しうる」というものもあるが、本日の雪竹弁護士の論旨は、「学校行事における儀礼・儀式こそ、子どもへの特定の思想刷り込みの手段として危険なもの」ということにある。
長文の準備書面の一部の要約だが、短くすることで、ポイントを凝縮した分かり易い意見陳述となった。以下、その原稿を掲載する。
なお、原告本人(数学科教員)の陳述も、教育の場における「日の丸・君が代」強制の問題点を浮かび上がらせて、立派な内容だった。残念ながら、当ブログへの掲載の許諾を得ることを失念していた。後日あらためて掲載したい。
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意 見 陳 述
東京地方裁判所民事第11部乙B係 御中
原告ら訴訟代理人 弁護士 雪竹 奈緒
1 本件で問題となっている国旗掲揚・国歌起立斉唱につき、最高裁判所は、「学校の儀式的行事」における「慣例上の儀礼的な所作」であって、個人の思想良心を直ちに制約するものではない、と述べています。また都教委は、国旗掲揚・国歌起立斉唱は「国際儀礼」である、として、やはり「儀式」「儀礼」であるから思想良心の侵害にはならない、と主張します。
しかし、「儀式である」から、「儀礼である」から、起立斉唱を命令しても思想良心を侵害しない、ということになるのでしょうか。むしろ、「学校儀式」における「儀礼的所作」こそが子どもへの思想注入に利用され、大変恐ろしい結末をもたらしたという歴史的事実があったのだという現実を、私たちは決して忘れてはなりません。
2 戦前の小学校や中学校においては、三大節や四大節といった国家の祝祭日に、学校儀式を挙行することが、小学校令施行規則などによって定められていました。その内容は、時期によって多少の違いはあるものの、おおむね「唱歌君が代合唱」、「天皇・皇后の『御真影』への一同最敬礼」、「学校長教育勅語奉読」等を含むものでした。昭和期にはいって発表された文部省「礼法要綱」では学校儀式の順序・方式等を細かく定め、全国で画一的な学校儀式が挙行されてきました。
戦前の学校教育は総体が、教育勅語を中心として「忠君愛国の志気を興す」国民教化の場でしたが、特に学校儀式については、四大節に関する教材に以下のような教員向け記述があります。「天長節の儀式と緊密に関連させて、最後に右のごとき心構を喚び起こし得るように取り扱う。」その内容として「みんな天長節の式に列して、ほんとうにおめでたい日であると思った。お写真を拝んでありがたいと思った。天皇陛下の御恵みをうける私たちは、みんなしあわせである。天皇陛下が益々お健やかで、日本の国が益々栄えていくことをうれしいと思った。わたしたちも、先生のいいつけをよく守って、りっぱな国民にならなければならない、という覚悟をつよくした。」とあります。
すなわち、学校儀式は、児童生徒にこのような忠君愛国の心構えを植え付ける目的があることを明言しているのです。
実際、戦前の学校儀式を体験した人たちの証言では、「私たちの周囲には国とか天皇とかいうただならぬものがたちこめていて、子供心に私はすくなくともただならなさは感じとっていた」とか、「(御真影は)何かわけが分からぬながら、畏敬すべきもの、この世のほかのものという印象を受けていた」など、厳粛な雰囲気の学校儀式の中で、天皇や国家が神聖化され、「何かわけが分からぬながら」ひれ伏すべきもの、という心情が醸し出されていったことが見てとれます。
国家は目に見えない抽象的なものであり、天皇ははるか遠くの存在です。それを、旗や歌、御真影といった「目に見えるもの」「感得出来るもの」に象徴させ、それらを使った儀式を繰り返し行うことによって、国民に、天皇や国家への絶対服従を刷り込んでいったのです。
このような忠君愛国精神の国民に統合された国家がいかなる悲劇を生んだかは、あらためてここで申し上げる必要もないと思います。
3 10・23通達は戦前回帰だ、というと、「何を大げさな」「この近代民主主義国家で、今さら、あのころのような戦争体制に戻るはずはない」とお思いになる方が多いかもしれません。しかし、つぶさに見ていくと、それが決して杞憂でないことがお分かりいただけると思います。
かつて国家統合の象徴として利用された「君が代」や「日の丸」を中心に据えた儀式。
御真影の位置や式の順序等を詳細に定めた戦前の学校儀式同様、国旗の掲揚位置や式次第、会場設営まで詳細に定めた画一性。
何よりも、「厳粛かつ清新な」雰囲気の中で例外なく全員を起立斉唱させることで、ただなんとなく「全員が起立斉唱するのが当然のもの」「国旗・国歌は敬意を表すべきもの」という雰囲気を醸し出すこと。
なんと、戦前の儀式の光景に似ていることでしょうか。
10・23通達の実施の指導の中で、近藤精一指導部長が次のような発言をしています。「卒業式や入学式について,まず形から入り,形に心を入れればよい。形式的であっても,立てば一歩前進である。」
「形」すなわち儀式から入り、後に「心」を入れる。まさに、戦前の学校儀式と同じ意図を有していることを、都教委自身が告白しているのです。
4 10・23通達について、これは教師や生徒にロボットになれというのと同じことであるとし、ナチスの将校、アイヒマンの例を引いて警鐘を鳴らす学者もいます。アイヒマンは、ナチス・ドイツの占領したヨーロッパ全域からユダヤ人をポーランドの絶滅収容所に移送する責任者で、ホロコーストに大きな責任を負っている人物でした。しかし彼は、上司の命令をただ伝えただけだと裁判で抗弁し、自分が義務に忠実であったわけで、ほめられることはあっても犯罪者ではないと主張しました。
行政や上司の命令について、その内容を吟味することなく無目的に従うことを当然視する教員が多くなってしまえば、皆がアイヒマンになってしまうわけで、その命令が誤っていたときに取り返しのつかない結果をもたらすことになるのです。
5 現在、国会で議論されている、いわゆる安保関連法案について、「戦争できる国家体制づくりだ」と批判する声が上がっています。「戦争できる国家体制」に、「国家に絶対服従する国民」がそろったら、この国はどうなってしまうのでしょうか。いま、この国は重大な岐路に立たされています。
平和国家70年の歴史に恥じないご判断を裁判官の皆様にお願いして、私の陳述を終わります。
(2015年7月10日)