澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

96条改憲批判ーその5          衆院憲法審査会・笠井亮意見に共感

5月9日の衆院憲法調査会で、焦点の96条改憲問題が議題とされ、各党の意見が表明された。日本共産党の笠井亮さんの意見の全文が、本日の「しんぶん赤旗」第2面に掲載されている。見出しは、「96条改憲 根本精神を否定」。よく練られた完成度の高い内容で、審査会でのこれからの論議は、この笠井意見を軸にして行われざるを得ない。96条改憲問題に関心を寄せる全ての人に熟読していただきたいと思う。

その全文は、既に赤旗ウェブ版にアップされている。(http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-05-10/2013051002_04_0.html)
それをお読みいただくこととして、要約をご紹介したい。但し、赤旗の掲載記事は、編集の都合だろうが、必ずしも小見出しの付け方が適切とは言いがたい。私なりに整理しての笠井意見紹介である。

『笠井亮委員意見要約』
※96条は立憲主義の表れ
 近代の立憲主義は、主権者である国民が、その人権を保障するために、憲法によって国家権力を縛るという考え方に立っています。ですから、憲法改定の要件も、ときの権力者に都合のいいように改変することが難しくされています。日本国憲法でも、圧倒的な賛成が得られて初めて、国民に承認を問えることにしているのです。
 96条の改定は、単なる「手続き論」や「形式論」ではなく、憲法の根本精神を否定するもので、憲法が憲法でなくなるという「禁じ手」なのです。ましてや、ときの政権がこれを求めるなど、本末転倒といわなければなりません。

※96条改憲の真の狙いは9条改憲
 なぜいま、96条改定か。その狙いが9条改憲にあることは明白です。
 9条改憲に向けてハードルを低くする、あるいは、国民に改憲の体験を積ませることで改憲に「慣れ」させる。このような姑息なやり方は、国民をあざむくものと言わなければなりません。

※96条改憲正当化根拠への反論
*日本国憲法は、「世界でも特別に変えづらい」「諸外国と比較して厳しすぎる」という主張がありますが、事実に反します。多くの国で共通しているのは、一般の法律の制定・改正よりも厳しい規定が設けられているということです。国民主権と立憲主義の要請によるもので、日本だけが特別に憲法改定が難しい国などということは、まったくありません。
*「国会が過半数で発議したとしても、国民投票がある」という主張もありますが、国民投票で判定できるのは、国会が発議した改憲案に賛成か反対かだけであって、国民が憲法改定案の内容を変えられるわけではありません。だからこそ、国会の発議は、熟議の結果、国会の圧倒的多数が合意しておこなう必要があるのです。
*「諸外国では改憲が頻繁に行われており、日本国憲法は時代に合わなくなっている」などという主張がありますが、日本国憲法は、9条をはじめ、基本的人権でも世界に誇れる先駆的な内容をもっています。先駆的で豊かな内容をもっている日本国憲法だから国民は改憲してこなかったのであって、ハードルが高いからではありません。

※改憲ではなく、憲法の完全実施を
 今日、憲法問題で問われていることは、改憲ではなく、9条をはじめとする憲法の平和的、民主的条項の完全実施をはかるとともに、憲法の全条項を守り抜き、どう生かすかです。

※96条改憲反対の国民的共同を
 憲法96条改定を9条改定の突破口として押し出す動きは、いま、9条改定の是非をこえて多くの人々からの批判を広げています。日本共産党は96条改定反対の一点で、国民的共同を広げ、改定を許さないため力をあわせるものです。

笠井意見については、ぜひ次のように語りたい。

★国会の憲法審査会での憲法改正の是非をめぐる議論が話題になっているね。
☆衆参両院に憲法審査会が設置されている。参院の方は選挙を目前にして、ほとんど審議は進んでいない。これに比して、衆院の方は、昨年末の総選挙で大勝した自民党の主導で一気呵成の勢いだね。

★改憲派、護憲派入り乱れてたいへんだろうね。
☆実は、「入り乱れる」という状況にはほど遠い。国会の議席は国民世論の分布を反映していない。50人の審査会委員のうち憲法改正阻止を明確に掲げる委員は、日本共産党の笠井亮さんたったひとりなんだ。

★そういえば委員の名簿の中に社民党の議員の名前がないね。
☆前回総選挙で5議席から2議席に後退した社民党には、委員の割り当てがなかった。笠井さんが孤軍奮闘せざるをえない。

★そのような勢力関係で、自民党が96条先行改憲論を目論むようになったのはどうしてだろう。
☆安倍自民は、世の中にある「憲法は古くなった」「そろそろ変えても良いんじゃない」という漠然としたムードが利用できると読んだのだろう。具体的に憲法のどこをどう変えるかとなると話しはなかなかまとまらない。しかし、96条の改憲手続き条項の改正なら、改憲派を総結集できるに違いないと踏んだ。橋下維新という右からの応援団の後押しもあったしね。

★しかし、昨日の審査会の論議では、96条先行改憲が成功しそうな勢いではないようだね。
☆そのとおり。安倍自民の思惑大外れというところだ。東京新聞の見出しが、「96条先行に異論続出」。船田元・自民党憲法改正推進本部長代理の「国民の多くは、改正のための改正と受けとめるきらいがある」の発言を紹介。自民・維新・みんなの積極改憲3党内でも、前向き、慎重の議員が混在していることが浮かびあがった、と報道している。毎日も、「96条先行 自民にも異論」「『ためにする改正』批判を懸念」と見出しを打った。

★その中で、笠井さんの発言はどうだったの。
☆朝日が、「一般法並みにハードルを下げるのは、憲法が憲法でなくなる禁じ手」と要約している。本質をよくとらえているだけでなく、分かり易く説得力がある。

★近代立憲主義が硬性憲法を要求することに必然性があるという、あの論理だね。
☆それだけでなく、いくつかの96条改憲の論拠とされるものに、的確な批判がなされている。短い文章だが全面的だ。論戦を通じて、「多数派のゴリ押改憲を可能とする96条改憲は姑息で本末転倒。国民を欺す禁じ手でもある」ということが、審査会全体にもメディアにも浸透してきた印象がある。

★それは心強いけれど、議会での共産党の議席は絶対少数だ。改憲阻止の防波堤の役割を果たせるだろうか。
☆そのことは国民世論の動向次第。今や、日本共産党が改憲阻止運動の最前線の主力部隊であることが明確になっている。改憲阻止の成否が、日本共産党の消長にかかっているといって過言でない。参院選も、その前哨戦である都議選も、憲法の命運をかけた闘いだが、その焦点は日本共産党の議席がどうなるかだ。
★結局は、安倍自民や、橋下・石原維新の改憲目論見を阻止するためには、なによりも共産党の議席を増やすことが王道ということだな。

96条改憲批判ーその4          「96条改正は改正限界を超える」説

一昨日のブログで、法には序列があることを述べた。実は憲法の内部にも序列がある。これなければこの憲法ではなくなるという「憲法の中の憲法」を根本規範といい、それ以外を憲法津と読んで、差別化している。ハンス・ケルゼン以来の通説的な憲法論だ。

憲法改正は何でもありではない。改正には限界がある。根本規範は、憲法制定権者の意思を体現するものとして、これを法的な意味で改正することはできない。現行憲法の規定で選任された国会議員や首相や閣僚が、この根本規範をないがしろにするような改正の原案作成はできない。国会はそのような改正案の発議ができない。

「できない」の意味は飽くまで法的なもので、政治的な意味ではやってできないことではない。むりやりにやられてしまえば、事後に法的に争うことが困難であることは否めない。しかし、そのようにしてできた憲法は日本国憲法とは別の憲法であって、日本国憲法と一体性のある改正憲法ではなくなる。そのような「改正の限界を超えた改正案の発議」がもつ正当性の欠如は、「改正手続」において、十分に吟味し批判されなければならない。その際の十分な理論的批判の根拠たりうるのだから、改正の限界を論ずる実益はある。

何が根本規範か。国民主権・基本的人権・平和主義、この日本国憲法3本の柱を根本規範というべきことではほぼ一致している。問題は、96条の憲法改正手続条項である。憲法制定権力が憲法を確定する際に、憲法の硬性度について自ら決めて、憲法に書き込んだ。その96条を、今にして覆すことができるのか。

憲法改正規範については、根本規範に準じる位置にあるとの考え方が常識的なところ。国民主権・基本的人権・平和主義と同様に、改憲手続き条項も、立憲主義の表れの一面として、日本国憲法が日本国憲法であるための根本規範に準じるということができる。

従って、96条改正も「憲法改正の限界」の対象たりうることが憲法学界の大方の考えといってよいだろう。少なくとも、国民投票抜きの国会の議決だけで憲法改正を可能とする改正手続条項への変更は、「改正の限界」を超えるものとするのが多数説。

では、国会の発議要件を3分の2という特別多数から、一般の法律制定と同じ2分の1超まで緩和することは、憲法が許容するところだろうか。それとも改正の限界を超えるものというべきだろうか。

通説とまではいえないが、「改正規範(96条)の改正」は、憲法制定権力自らが憲法改正権を制約して、憲法全体の擁護を意図したものである以上、改正規範(96条)の改正は根本規範同様にできない、という有力説がある。日弁連の意見書では、これを多数説と紹介している。

問題は、学者の意見分布よりは、自分がどう納得し、どう人に語りかけることができるかだ。
こんなふうに語ってみてはどうだろうか。

*「何とか、安倍自民の目論む96条改憲を阻止したいと思うんだ。究極の批判としてどんなことが言えるんだろうか」
☆「究極の批判ねえ。『96条改憲は、憲法改正の限界を超えている』という批判はどうだろう」

*「憲法改正に限界なんてあるのかい? どういうこと?」
☆「憲法はまとまった一つの体系を形成しているから、これをはみ出す「改正」は、もとの憲法との同一性を保つことはできない。そのような「改正」は憲法が許すところではない、ということだ」

*「憲法の体系をはみ出すって、たとえばどんなもの?」
☆「たとえば、旧憲法では天皇主権だったが現行憲法では国民主権となった。これをもう一度天皇主権に戻すという「改正」は、明らかに現行憲法体系をはみ出す。このことを「改正」の限界を超えているという。これに対して、象徴天皇制を廃止するという内容であれば、当然許容される改正範囲内。憲法が想定している改正には自ずから限度があって、想定外のものは改正とはいわないということだ」

*「分からないではないが、まだ腑に落ちない。想定内と想定外の境界の線引きはどうするんだ」
☆「憲法は、主権者である国民が憲法制定権力となって制定した。従って、憲法における主要なプレーヤーは、『憲法を作った主権者である国民』と『憲法によって作られた国家権力』の2者となる。そして、憲法は、国民の国家権力に対する命令の体系としてできている。この国民主権を変更することは原理的にできない。また、人権と平和は、憲法の最高の価値でその価値を守るため、守らせるために憲法ができている。これも変えることはできない。このような、憲法の中の憲法というべき条項を根本規範といっている。根本規範を改正することは想定外だ」

*「分かったことにして先に進もう。問題は96条の改正が憲法の許容する改正の範囲内なのか、想定外として許されないのかだ」
☆「改正手続条項自体は根本規範とは言いがたい。でも、主権者が憲法体系全体をどの程度変えてはならないものと憲法に書き込んだかは、尊重されなくてはならない。だから、改正手続条項は『根本規範に準じる』ものとしての位置づけが与えられる」

*「結局、改正の限界を超えているといえるのかい」
☆「いま、改憲問題や小選挙区制問題で大活躍の上脇博之さんは、近著「日本国憲法対自民党改憲案ー緊泊! 9条と96条の危機」(日本機関紙出版センター・2013年5月10日刊)で、歯切れ良く「硬性憲法の軟性化は違憲」として、国会の発議要件のあり方を軽視してはならないと警鐘を鳴らしている。この書は、一般向けにコンパクトだが丁寧な叙述で分かり易い。改憲問題の経過や背景事情についてもよく書き込まれている。値段もお手頃(857円)。お薦めしたい」

*「結局はそちらで勉強しろということか」
☆「96条改憲が、国民投票抜きの手続への改正となれば、憲法改正の限界を超えるとして許容されないというのは多数説だ。自民党改憲案のような、国会の発議要件だけを変えることを憲法が許さないとする考えが多数説とは言えない。しかし、憲法を制定するに際して、主権者国民が大事な憲法をできるだけ変えてはならないとして3分の2条項を書き入れたのだ。その主権者の意思が脈々と憲法に生きていると考えれば、『96条の手続要件緩和は改正の限界を超えたものだ』と言えると思うんだ。これが究極の批判だろうね」

「再発防止研修」という名の思想弾圧に抗議する

本日の服務事故再発防止研修受講者は、日の丸・君が代強制の職務命令に服さなかったとして懲戒処分を受け、さらに、懲戒処分を受けたことを理由に、研修受講を命じられている。その受講者を代理して、教育庁の研修課長と研修担当の職員の皆さんに抗議と要請を申しあげる。

私は先月もここに来て、本日と同じようにあなた方に抗議と要請の申し入れをした。しかし、こんな近くでマイクを使いながら、私の声はあなた方の耳に届かなかったようだ。それなら、私は、あなた方の耳に届くようなお話しをしたい。課長も、そして本日の研修に携わる職員の皆さんにもよく聞いていただきたい。あなた方の個人としての責任をお話しする。

第2次大戦が終わったあと、ドイツの戦犯を裁く国際法廷がニュールンベルグで開かれた。そこで、平和に対する罪、人道に対する罪を問われた被告人は、「自分は国家に忠誠を誓っただけだ」「ヒトラーの命令に逆らえなかった」などと抗弁したが、受け入れられなかった。犯罪行為が上司の命令だから免責されることにはならない。

このことは、後にニュールンベルグ第4原則として次のように定式化され、国際的に承認されるところとなった。
「自分の政府や上官の命令に従って行動した事実は、道徳的選択が実は可能であったならば、その者の国際法の下での責任を免除しない」

本日の研修命令受講者は、「日の丸に正対して起立し、君が代を斉唱せよ」という職務命令の違反を問われている。しかし、職務命令は必ずしも正しいとは限らない。間違った職務命令に従うことが犯罪にもなり得るのだ。研修命令に携わるあなた方にも警告をしておきたい。上司の命令に従ってするのだからという理由では、あなた方の個人としての責任を消し去ることはできない。

確認しておきたい。都教委は、最高裁判決によって、これまで鋭利な武器としてきた懲戒処分の機械的累積加重システムを放棄せざるをえなくなった。その代わりとして考え出したのが、被処分者に対する服務事故再発防止研修の厳格化である。回数を増やし、時間を長くし、密室で数人がかりでの糾問までしている。今や、あなた方が、思想弾圧の最前線に立っている。

このような、イジメに等しい研修は違法だ。いささかでも受講者の内心に踏み込み、くり返し執拗に反省を迫るようなことがあれば、思想良心を侵害することにもなる。東京都や教育委員会だけでなく、個人としてのあなた方もその責任の一端を負わねばならない。上司の命令だからということで、あなた方の個人としての責任が免除されることにはならない。

国家賠償法の法文上は、国等が賠償責任を負うばあい、公務員個人は被害者に直接の責任は負わず、国等からの求償の責任しか負わないように見える。しかし、加害行為の悪質性の程度が高い場合には、公務と無関係な違法行為と見るべきである。その場合は、国家賠償法ではなく、民法上の不法行為が成立して公務員個人の責任を追求することが可能となる。

あなた方が、無能な知事や、憲法に無知な教育委員の命を受けて、やむを得ず研修作業に携わっているという消極姿勢の限りにおいては、ニュールンベルグ原則を振りかざすようなことはしない。しかし、キリシタン弾圧の役人や特高まがいに、積極的な研修受講者への思想弾圧と思しき行為が報告された場合には、あなた方の個人としての責任を追及することを考えざるをえない。

そのような事態を迎えることがないように配慮を願いたい。これから、研修センターに入館する教員たちは、いずれも自らの思想や、教員としての良心を貫いた誇りの高い人たちだ。このような尊敬すべき教員たちを、その品性にふさわしく鄭重に遇していただきたい。本来この人たちに研修の必要はなく、真に再発防止研修の必要があるのは、研修を命じた側の知事と教育委員の諸君なのだから。

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  『「ユニクロ」柳井家大儲け』
「しんぶん赤旗」(5月8日付)のコラム「アベノミクス もうけるのは誰」によると、ユニクロ社の柳井正氏家族4人のこの5カ月間の保有株式の株価増加は次のとおりです。
柳井正氏本人              4047億円
2人の息子と妻             2093億円
家族所有の3つの資産管理会社  2408億円
驚くなかれ、合計8548億円の資産増加ということです。

同社の有価証券報告書によれば、全労働者の「給与手当」は839億円とされているので、柳井氏家族4人の資産増加額は、全従業員給与総額の10年分にも相当することになります。

同社の従業員総数は3万8339人(正社員は約半数)で、平均給与は220万円足らず。この10年間に本社の正社員は給与を上げる代わりに人数を減らして「少数精鋭化」し、元々低い準社員やアルバイトの賃金をさらに引き下げることで利益を上げてきました。

当ブログ「バングラデシュのユニクロ」でもふれましたが、柳井氏は「世界統一賃金構想」を打ち出し、日本人従業員について、「低賃金で働く途上国の人の賃金にフラット化するので、年収100万円のほうになっていくのは仕方がない」と言ってはばかりません。「労働者は奴隷のごとく、我が一族は王族のごとし」というわけです。これが、公正な社会のあり方でしょうか。狂気の沙汰というべきではないのでしょうか。

神野直彦著「人間回復の経済学」は次のように書いています。
「企業組織から労働の主体である人間が急速に排除されていく。しかも、企業組織からより多くの人間を追放した経営者こそ、優秀な経営者だと格付けされていく。・・・民間企業も政府も人間の首を切るゲームに熱中するようになる。」「失業者は巷にあふれ人間の社会から人間を追放するという狂気が、正気だと思われるようになってしまう。ケインズ的福祉国家は行きづまり、人間はいつ自分が社会から追放されてしまうのかという、雇用不安におびえて生きていくことになる。」(81ページ)

人を人とも思わず、自分の金儲けを恬として恥じない柳井氏のような経営者を絶賛し、社会から追放されないために、どんな酷い労働条件にも甘んじる人を大量につくり出すのが「アベノミクス」の本質なのです。
(5月8日)

96条改憲批判ーその3          「憲法とダイヤモンドは硬いのが値打ち」

人に貴賤上下の別はあり得ないが、法規には厳然たる上下の序列がある。その序列に従い、上位法が順次下位法の制定に権限を与えて法体系が形成されている。あらゆる法規が生みの親には逆らえない。下克上は許されない。

周知のとおり、法律・政令・条例・規則等々の厖大な法体系の最高法規として憲法が位置づけられている。下位法の制定改廃は容易に出来るが、上位法の制定改廃の要件はより厳格となる。憲法41条は、国会に「法律」制定と改廃の権限を与え、その要件を定める。法律より上位の最高法規たる憲法の改廃が、法律と同じ手続で良かろうはずはなく、その手続は自ずからさらに厳格となる。この手続の厳格性ー改正要件のハードルの高さーが「硬性」という言葉で表現される。法律と同じ手続で改廃可能な憲法は、「軟性憲法」である。

 
この区別は、イギリスのJ・ブライスに始まる説として、どの教科書にも紹介されている。典型的なものとして芦部信喜さんの解説を大胆に要約してみよう。
「軟性憲法とは『通常の法律と同じレベルにある』もので、そういう憲法は、『通常の法律を作る権力と同一の権力から生れ、通常の法律と同じ方法で発布または廃止される』が、硬性憲法は、『それが規制する他の国法よりも上位にある』もの、すなわち、『通常の立法権より高い権力または特別の権力をもった人または団体によって制定され、かつ、それらによってのみ変更することのできる』ものだ」

ここに、「憲法を作る権力」と、「憲法によって作られた権力」との明確な区別がある。前者が主権者である国民の憲法制定権力であり、後者が憲法によって権限の根拠を与えられた国家権力の一作用である。この別を混同してはならない。

憲法改正とは、本来憲法によって根拠を与えられた権力作用ではなく、主権者たる国民の憲法制定権力の行使なのだ。だから、立法作用とは異なる厳格な手続き要件があって当然なのだ。そのことが、憲法の硬さに表れている。憲法改正手続き要件の厳格さこそが、憲法の憲法たる所以である。成文憲法は自ずから硬性憲法であるが、硬い憲法ほどより高次の権力に支えられていることの証拠といってよい。ダイヤモンドと同様、憲法は硬いからこそ価値がある。輝きを放つのだ。

しかも、憲法とは、本来憲法によって権力を授けられた者の手を縛り、その権力の恣意的な発動を抑制するためにあることを思えば、権力を有する者の唱導による安易な改正を許さない硬さをもった憲法こそが意味のある「価値の高い」憲法と言うべきであろう。その権力は選挙における単純過半数の議席で成立することを思えば、発議要件を国会の過半数にまで引き下げることは、憲法の価値を貶めるものというべきである。

「憲法とダイヤモンドは硬いのが値打ち」説はこんなふうに語れるだろう。

*「国会ってさ選挙で選ばれた議員で構成されているんだから、国会の議決は国民の意思と考えて良いだろう。だとすれば、96条が憲法改正の発議の要件として3分の2の特別多数を要求しているのは、厳しすぎるんじゃない?」
☆「国会と国民とを同視してしまうと、『国会の議決だけで憲法を改正してもよい。国民投票は不要だ』となりかねない。とてもとても、国会と国民とを同視することはできないと思うね」

*「一票の格差や小選挙区制の問題があって、国会が正確に民意を反映していないことはよく分かる。そのような選挙制度の不公正を是正してもやっぱり、96条の厳格な手続が必要なのかな」
☆「問題は、憲法を改正するという行為と、法律を作ったり変えたりする行為とは、まったく次元の異なるものだということだ。憲法は、法体系において法律より高次の存在だから、法律と同じ手続で改正できるはずがない」

*「96条と41条。どちらも同じ憲法に並んでいる条文じゃないか」
☆「条文のならびはそうであっても、性格がまったくちがう。主権者である国民が作ったのが憲法、その憲法によって作られ縛られているのが国家権力。立法権は国家権力の一部門だ。通常の立法と同じ手続で憲法をいじることは許されない」

*「すると、憲法改正の手続は、必ず法律制定の手続よりも厳格にできているのかな」
☆「手続的な厳格さを憲法の「硬性」という言葉で表現している。変えにくい、ということだね。硬いからこそ、憲法の格は法律より上なのさ」

*「安倍首相や、維新・みんなは、まずは硬い憲法を軟らかくしようというわけなんだな」
☆「そのとおりだ。憲法に縛られる立ち場の権力者が、都合が悪いから変えようとしても、そんなに都合良くは変えさせませんという役割を硬性憲法が果たしている」

*「憲法は硬いところに価値があるというわけか。ダイヤモンドと同じだ」
☆「ボクは、憲法の硬性は立憲主義に必須のものだと思う。その意味では、憲法もダイヤも、硬いからこそ輝くと思うね」

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  『図書館の自由宣言めぐり』
 ゴールデンウィークの最後の日、文京区の区立図書館めぐりをしました。「図書館の自由宣言」が本当に掲げられているか気になったから。
 疑ってごめんなさい。10館中5館しか巡れなかったけれど、1館を除いて、キチンと掲げてありました。掲げてなかった1館も館長さんらしき方が出てきて、申し訳なさそうに「展示の陰になったので外しています。指摘していただいて良かったです。すぐ、良い場所を選んで展示します。」と対応してくれました。
 どこも窓口対応の方は、一瞬頭に浮かばないようでしたが、説明しているうちに思い出したり、そばにいた別の司書の方が「あれです」と指さしてくれました。若い方より年配の方のほうが反応は良いように感じました。とっさには思い出せなかった方も、思い出せば自慢げな素振り。「かっこいい宣言ですね。図書館のような意義のある職場で働けていいですね」と言うと、嬉しそうに「司書になる時必ず教えられます」と答えてくれました。図書館もアウトソーシングで厳しい職場になっていると聞いていますが、皆さん忙しい時間を気持ちよく割いてくれました。
 休日最後の日とあって、図書の返却の人がたくさんいて、本離れなんて本当かしらと思われる賑わいぶりでした。「文化の砦がんばれ」と声援したくなりました。
 「図書館の自由が侵される時、我々は団結して、あくまで自由を守る」
 司書の皆さん、よろしくお願いします。私たちも後方支援いたします。(これは映画の原作、有川浩著の「図書館戦争」の主人公笠原郁のノリ)
 なお、どこの図書館にも「文京平和宣言」(1979年12月7日)と「文京非核平和宣言」(1983年7月13日)のプレートが有りました。「英知と友愛に基づく世界平和の実現を」「非核三原則の堅持とともに核兵器の廃絶と軍縮を全世界に訴え」などという格調高い言葉がしっかり刻まれていました。このような宣言を是とする心が憲法9条の改憲を押しとどめているのだと改めて思いました。
 また、そのうち暇を見つけて残りの5館を巡ってきます。

96条改憲批判ーその2          「敵は本能寺」論の切り口

安倍首相は、こういう。
「6、7割の国民が憲法を変えたいと思っていても、3分の1をちょっと超える国会議員が反対すれば、国民が一切、指一本触れることができないのはおかしい」「3分の1超の国会議員が反対すれば議論すらできない。あまりにもハードルが高すぎる」

えっ? 「6、7割の国民が憲法を変えたい」ですって? 何をどのように変えたいということでしょうか。「9条2項の削除」と「集団的自衛権の明記」、そして「基本的人権の縮減」に「天皇の元首化」ですって。それが、国民大多数の意見? それはないでしょう。国民ではなくて、あなたが変えたい憲法の中身じゃないですか。

えっ? 「6、7割の国民が憲法を変えたい」は仮定の話ですって? そんな仮定に過ぎない話で、大切な憲法を変えようだなんて、それこそ不謹慎。

96条は改憲手続き条項。改憲勢力が手続条項の改正だけに甘んじるはずはない。96条改憲は、紛れもなく「改憲のための改憲」である。「手段としての改憲」であるからには、必ず「目的としての改憲」が想定されている。では、安倍自民と維新・みんなの右翼3党が「手段としての改憲」のあとに、真の狙いとしている「目的としての改憲」の内容とは何か。

96条改憲の目的を意識すると、「96条改憲は、9条改憲の突破口」「96条改憲の先には、軍事大国化への道がある」「96条改憲は、本丸攻撃への外堀を埋めること」「96条改憲は、戦争への一里塚」「96条改憲の狙いは天皇を戴く国作りのため」「96条は9条の防波堤」「96条は人権と平和の砦だ」‥と言えよう。

改憲派の戦術は、まずは改憲手続のハードルを下げておくと言うこと。改憲の真の目的については、敢えて明確にしない。手続の変更だから国民の抵抗は激しくはあるまい。改憲要件を緩めておけば、頃合いを見計らって、真の目的達成に有利にことを運ぶことができる。これが右翼3党の思惑である。夏の陣の前に、大阪城の外堀・内堀を埋めた、あのやり方だ。何のための96条改憲かは伏せておいて、突如「敵は本能寺にあり」というあのやり方でもある。

「敵は本能寺」論はこんな語り口だろうか。

*「安倍首相は、『3分の1をちょっと超える国会議員が反対すれば、国民が憲法を変えたいと思っても実現できないというのはおかしい』と言っているね。議会より国民の意思が優先すべきなのだから、一理あるんじゃない」
☆「それ、まさしく『敵は本能寺』だ。安倍さんは、国民の意思を尊重しようなんて思っているんじゃない。本音のところは、憲法を根本から変えてしまおうと思っているだけさ」
*「96条の手続ではなく、その先にある変えたい憲法の中身が『本能寺』ってわけか。具体的にはどんなことだろう」
☆「ボクは、四つに整理している。日本国憲法の3本の柱である、基本的人権・国民主権・戦力の放棄の全部をなし崩しにしてしまうこと、そしてその3本の柱の土台である立憲主義を骨抜きにしてしまうこと」
*「いきなり『敵は本能寺』なんて言わずに、堂々と攻撃対象を明確にしたってよさそうじゃないか」
☆「それができないから、ごまかしているんだと思うよ。安倍さんが自分でも言っているとおり9条改憲の提案はハードルが高すぎる。9条改憲を争点に選挙するリスクも回避したい。取りあえずは、アベノミクスのボロがでる前、支持率が高いうちに96条改憲をやってしまいたい。」
*「手続きを変えるんだから、抵抗も少ないという読みだろうね。それで、『敵は本能寺にあり』と名乗りを上げるのは、いつになるんだろうね」
☆「96条改憲が終わって、しばらくしてから。右派勢力を糾合して改憲発議の案文を作るときだね」
*「明智光秀の作戦は図に当たった。本当の狙いはできるだけ隠しておくことが、有効だったわけだ。改憲も同じことだろうか」
☆「96条改憲の真の狙いが何で、発議要件緩和のあとに何が続くかを見極めておかないと、信長同様に、われわれ国民が寝首をかかれることになる」

96条改憲批判ーその1          「本末転倒」論の切り口

憲法改正問題の当面の焦点が、「96条改憲」に絞られてきた。この96条改憲批判の仕方について何回かにわたって考えて見たい。まずは、「本末転倒」論。4文字熟語「本末転倒」は、批判の武器としての有効性をもつものと思う。

「本末転倒」の典型的な使い方の一つのパターン(Aパターン)は、以下のとおり。

「憲法のどこをどう改正するのか肝心な中身の議論を後回しにして発議要件だけを先に緩和するという手法は、本末転倒と言わざるを得ない」(沖縄タイムス社説「憲法記念日に・96条改正は本末転倒だ」)

「本末」の本とは、根本・本体・本筋・本論の本。末とは、その反対語となる枝葉末節の末。沖縄タイムスは、改正の中身の議論を「本」とし、改正内容本体の議論を抜きにして、発議要件という形式だけを論じること「末」ととらえ、「本と末とを転倒した倒錯の議論」とした。

もう一つの典型(Bパターン)がつぎのとおり。
「改正のための国会議員数が足りないからその要件を緩和するというのは本末転倒だ」(海江田万里民主党代表談話)

海江田さんは、改正要件具備のための努力を「本筋」とし、その努力をせずにルールを変えてしまうことを、「本筋を踏みはずした『末』」と表現し、本末転倒と批判した。

A・B両パターンの内容はやや異なるものだが、同じく「本末転倒」という言葉が用いられたのは、いずれも手口の姑息さを批判する心情の表れだ。
自民・維新・みんなの「96条改憲1点突破連合」の狙いが、改憲の真のねらいをとりあえずは伏せておくこと、そのうえで今は不可能な改憲発議要件のハードルをさげようという思惑で一致した。これを、Aパターンは改憲目的隠しの面を批判し、Bパターンは姑息なルール変更の面を批判して、ともに「本末転倒」と表現したのだ。だから、「96条改憲は本末転倒」論は使えるスローガンとなる。

Aパターンの「本末転倒」論には、「96条改悪は手続変更に過ぎないと侮ると、あとからとんでもない実質改憲が襲ってくるぞ」という警告が込められている。日本共産党の志位和夫さんが「96条改定は9条改定の突破口」(5・3憲法集会2013)と述べ、5月3日の朝日一面トップが「96条改正を突破口 視線の先には9条」と警告しているとおりである。

Bパターンで目を惹いたのは、石川健治さんの朝日・オピニオン欄の寄稿。
「(96条改正論議は)真に戦慄すべき事態だといわなくてはならない。その主張の背後に見え隠れする将来の憲法9条改正論に対して、ではない。議論の筋道を追うことを軽視する、その反知性主義に対してである」「サッカーのプレーヤーはオフサイドのルールを変更する資格を持たない。フォワード偏重のチームが優勝したければ、オフサイドルールを変更するのではなく、総合的なチーム力の強化を図るべきである。『ゲームのルール』それ自体を変更してまで勝利しようとするのであれば、それは、サッカーというゲームそのものに対する、反逆である」。分かり易い本末転倒論。

改憲論者として知られる小林節さんも、「縛られた当事者が『やりたいことができないから』と改正ルールの緩和を言い出すなんて本末転倒、憲法の本質を無視した暴挙だよ。近代国家の否定だ。9条でも何でも自民党が思い通りに改憲したいなら、国民が納得する改正案を示して選挙に勝ちゃいいんだ。それが正道というものでしょう」という。ここでも、正道(本筋・本道)からはずれた「96条改憲手法」が「本末転倒」と批判されている。

「本末転倒」の応用は、こんな語り口だろうか。

*「安倍首相が96条改憲を参院選の公約にするそうだね」
☆「やり方が姑息だ。ボクは本末転倒だと思うね」

*「本末転倒って、なぜだい?」
☆「本来堂々と、憲法改正の目的を明示して国民的な議論をすべきだろう。憲法9条を変えて国防軍を作るとか、天皇をいただく日本に作りかえるとか。そのねらいを隠して、手続の問題だからとことさら軽い問題として提案することが本筋をはずれた本末転倒ということだ」

*「なるほど。でも、政党なんだから自分の政治理念を実現するために手練手管を弄するのは、やむを得ないんじゃないか」
☆「与党が悪徳商法と同じじゃ困るよ。しかも、ことは憲法改正問題だ。飽くまで、主権者にきちんと考え方を提示しなければならない。96条改憲のあとに控えているものについての議論が深まらないうちに、選挙で票を掠めとろうとすることが本末転倒さ」

*「でもね。自民・維新・みんなの3党だけでは、国会の改憲発議要件をクリヤーすることは難しい。それなら、発議の要件を緩和しようというのは、当然の発想だと思うけど」
☆「それがまた本末転倒。3分の2の賛同を得る努力をするのが本筋なのに、発議要件を緩和してしまおうというのは筋違い。これまでのルールが自分に都合が悪いからって、まずルールを変えようって言い出すの、おかしくない?」

*「ルールだって絶対じゃないだろう。おかしなルールは変えていけばいいんじゃないか」
☆「ルールは少しもおかしくない。ただ、改憲勢力に都合が悪いというだけなのさ」

*「それでもし、96条が改正されて、発議要件が緩和されたらどうなるのだろうか」
☆「今は、国会で圧倒的な多数をとれる改憲案でなくては発議ができない。自ずから、少数派にも中間派にも配慮をしなければ改憲案の作成はできない。しかし、96条改改正後には、改憲発議が法律案並みになるということだ。選挙で勝利をおさめた「時の政権」が単独で改憲案を発議することができるようになる。国民投票の頻度はあがり、内容もドラスティックなものになっていくだろう」

*「それは分かった。しかし、そのような提案をすること自体が間違っているといえるのか?」
☆「ほかならぬ国の形の基本を定める憲法の改正問題だ。民主々義の手続が徹底しなくてはならない。民主々義とは討議によって国民全体の最大限の納得を保障する手続であって、手っ取り早く多数派が少数派の意向を圧殺することではない。国民全体に、正確に問題の所在と、問題の重大性を提示することが必要だ。それを欠いていることが姑息であり、本末転倒なのだといいたい」

「映画・図書館戦争」と「自衛隊・情報保全隊」

「図書館戦争」という映画が大ヒット上映中だという。ベストセラーとなった有川浩の同名小説を映画化したもの。

まず、以下の宣言をご覧いただきたい。
 図書館は資料収集の自由を有する。
 図書館は資料提供の自由を有する。
 図書館は利用者の秘密を守る。
 図書館はすべての検閲に反対する。
 図書館の自由が侵される時、われわれは団結して、あくまで自由を守る。

小説の中の空想の図書館が掲げる宣言だと一瞬思ってしまいそうだが、さにあらず。これは1954年日本図書館協会が綱領として採択した「図書館の自由に関する宣言」で、現在も全国の図書館に掲げられている。

この映画のロケの舞台となった水戸市立西部図書館の立花郷子館長は「『宣言』は司書の資格を取るための勉強では必ず学びますし、司書になってからもいろいろな研修などで触れますから、図書館に勤務する者にとってはおなじみです」。「『図書館戦争』では、図書館は出版の自由、表現の自由、思想の自由を守る拠点のように描かれています。現実の図書館とは違いますが‥利用者の読書の自由を守るという立場は一緒です」と語っている(5月2日付毎日)。

知らなかった。それで興味を持って調べてみると、この宣言が出る前の1948年に国立国会図書館法が制定されている。この法律の前文が素晴らしい。こう高らかに謳っている。

「国立国会図書館は、真理がわれらを自由にするという確信にたって、憲法の誓約する日本の民主化と世界平和とに寄与することを使命として、ここに設立される」

この法律はアメリカ合衆国の図書館使節団の意見をいれて成立したものだが、この前文を挿入したのは当時参議院議員であった歴史学者の羽仁五郎だそうだ。衆参両院の本会議で、羽仁五郎参議院図書館運営委員長は「従来の政治が真理に基づかなかった結果悲惨な状況に至った。日本国憲法の下で国会が国民の安全と幸福のために任務を果たしていくためには調査機関を完備しなければならない」と述べている。

戦前は思想弾圧を受け、後に文部大臣ともなった森戸辰男がやはり衆議院議員としてこの法律の制定に関与している。同議員は次のように趣旨を説明している。
「民主主義は何よりもまず人間の理性、道理と真実に基礎をおく政治でなければならない。国会が真実を尊重し、真理に聴従するところとなり、衆愚の政治の府ではなく衆智の政治の府となり、かくて新議会の品位を高め、新政治に科学性を加え、もって平和と文化と人道を目指す民主主義を樹立しなければならない。国会図書館はこうした民主主義を樹立し、文化国家を建設する為の極めて大切な基礎条件の一つである。何よりも真実をつかみ, 真理をとらえようとする態度が大切であり。真の自由はそうした中から得られるものである」

国立国会図書館のホームページで、現在の第15代大滝則忠館長も「この前文は国立国会図書館の原点を示しています」と述べている。「真理がわれらを自由にする」という言葉は、設立理念として、東京本館のホールの梁に刻まれている。これらの立法経過や「図書館宣言」からは、戦後の新生民主主義日本を作り上げていこうとした先人たちの熱気が伝わってくる。

「図書館戦争」という映画は、「メディア良化法」で検閲が正当化された近未来に、図書館が独自に組織した自衛組織「図書隊」が読書の自由を守るために戦うというストーリーらしい。荒唐無稽だが、「読書の自由を守る」「読書の秘密の自由をまもる」というコンセプトは素晴らしい。

ところで、佐藤信介監督は「自衛隊のおかげで、基地での撮影が可能になり‥図書館のディテールを表現することができました」と言っている。えっ? 自衛隊の協力?
「自衛隊はなぜ協力してくれたのでしょう」という問いに「国民の思想の自由を守る組織として、協力したいと言っていただきました」との答え(5月2日付毎日)。

冗談ではない。欺されてはならない。現実の自衛隊は、国民の思想・良心の自由を守るどころではない。自衛隊は思想良心の自由の弾圧者である。情報保全隊をフル稼働させて国民の政治運動、市民運動の監視に怠りない。国防・治安の目的のためには、国民の図書館利用の秘密なんぞになんの関心もない。それにもかかわらず、図々しくもあっけらかんと協力を申し出る自衛隊の神経に驚く。この自衛隊の自信を支えているものをこれ以上大きくしてはならない。

2012年3月26日仙台地裁判決は、陸上自衛隊東北方面情報保全隊が「市民99名の表現活動を対象とした監視活動によって違法に情報を収集・保有した」と認定。これを、自己の個人情報をコントロールする権利の侵害として国家賠償の請求を認めた。もちろん、発覚した違法情報収集活動は氷山の一角に過ぎない。

今は亡き羽仁五郎も森戸辰男も、後世軍事組織が復活し、憲兵隊よろしく国民を対象に思想調査活動をすることなど想像もできなかったろう。自衛隊は、「戦場は二つある」と言っているそうだ。第1の戦場が戦闘力がぶつかり合う本物の戦場。そして、第2の戦場は、世論やマスコミとの情報戦だという。第2の戦場では、市民が敵になる。図書館利用の自由を守ろうとする限り、図書館も自衛隊の敵である。「図書館の自由が侵される時、われわれは団結して、あくまで自由を守る」との宣言は、そのとき真価が問われることになる。

日米支配層からの日本国憲法虐待に ストップを

本日は、66回目の憲法記念日である。
この国に、奇跡のごとく珠玉の日本国憲法が生まれ、また奇跡のごとく66年間改憲を阻止し得たことをまずは喜びたい。同時に、この憲法がこれまでの激しい攻撃に曝された歴史を省み、この日を、この憲法を守り生かし輝かせる覚悟の日としたい。

 
日本国憲法は官民の盛大な祝賀の中で誕生した。戦争の惨禍を2度と繰り返してはならないとする国民感情は国中に満ち満ちていた。なによりも平和が歓迎され、平和を保障する手段としての国民主権と人権の尊重は国民が遍く積極的に支持するところであった。国民注視の中で、帝国議会での「憲法改正」審議が進行して新憲法制定に至ったとき、国民は歓呼をもってこれを祝福した。賑やかに花電車が走り、憲法音頭が踊られた。官製副読本でも新憲法の意義が強調され、国民主権・人権・そして戦力の不保持は、新生日本の明るい未来を指し示すものであった。

しかし、その官民共同の新憲法への祝福は3年ともたなかった。東西冷戦構造下における占領政策の転換以降、日米の支配層にとって日本国憲法は政策遂行の桎梏となった。憲法がようやく3歳になったばかりの1950年6月、朝鮮戦争勃発を機に「警察予備隊」が発足、これが52年保安隊、54年自衛隊となった。憲法9条、とりわけその2項の受難の歴史が始まった。他の憲法理念についても同様と言ってよい。

以来、日本国憲法は日米支配層がこれを攻撃し、日本の民衆がこれを擁護する関係の図式となって今日に至っている。憲法「改正」は、アメリカがこれに従属する日本の保守政権に押し付けたものであり、日本の民衆はこの「押し付け」を跳ねのけて、今日まで憲法を擁護した。そのことを通じて日本国憲法は、次第に民衆の血肉として定着した。日本国憲法は、保守政権からは虐待児とされたが、日本の民衆にとってはいつくしみ育てた愛児となった。

とはいえ、日本国憲法は単なる庇護の対象ではない。実定憲法として、日本の民衆の平和・人権・民主々義の具体化の鋭利な武器となり得るものである。この憲法を使いこなさねば宝の持ち腐れ、改憲を阻止してきた意味も薄れる。政治の場で、生活の場で、社会的な運動のあらゆる場面で、そして法廷で、憲法を輝かせることを心掛けたい。

なにゆえにかくも憲法にこだわるのか。憲法に盛り込まれている理念と統治の構造が、国民の未来を直接に左右するものだから。人間が生きていくための行動の自由、精神の自由、経済活動の自由はどうなるのか。権力を構成する仕組みやそのチェックはどのようにされるのか。侵害された権利を救済する裁判所はどのように設計されているのか。そして、平和はどう保たれるのか。民主々義はどう生かされるのか、教育はどうなるのか、報道の自由の運命は、宗教は‥。それらすべての問題の根底に憲法が関わっている。

そのような観点からすれば、改憲を阻止するそのこと自体が問題であるよりは、改憲阻止のせめぎ合いを通じて、憲法の理念を擁護しあるいは現実化できるかが主要な問題点である。明文改憲を阻止しえたとしても、徹底した解釈改憲や立法改憲によって憲法理念が圧殺されれば、民衆の側の敗北と言わざるを得ない。

いま、憲法問題として、何が実質的にせめぎあいのテーマとなっているのだろうか。
もっとも鋭い対立点は防衛問題である。自衛隊の行動についての解釈改憲の限界が見えてきて、明文改憲なしでは、海外での戦闘行為ができない、自衛力を超える武装もできない。自衛権行使の限界を取っ払った国防軍にすることによって、世界のどこでも武力行使のための派兵が可能になり、盟主アメリカの手下としての働きが可能となる。この軍事力の整備と海外展開志向の動機は目上の同盟国アメリカの「押しつけ」によるものだが、海外展開する日本企業の強い要求に沿うものでもある。

防衛問題と並んで突出しているのが、極端なまでのナショナリズムの昂揚である。天皇、国柄、国旗・国歌、元号、歴史・伝統・文化、政教分離の緩和‥。そして、家族の尊重である。一見、時代錯誤、精神の退化のごとくであるが、おそらくそうではあるまい。

背景に大企業の要請としての新自由主義政策がある。メガコンペティションの時代に大企業が勝ち抜くためには、経済的強者の自由こそが尊重されなければならない。経済弱者には最大限の自助努力が要請され、財政を通じての所得再分配機能は抑制されて、大企業の負担の軽減が追求される。その結果、格差は拡がり貧困が蔓延する。そのままでは社会の不満が鬱積し社会が壊れる。そのような社会の再統合をしなければ安定した社会の持続が困難となる。再統合のシンボルとして天皇や国柄、伝統・文化・歴史、民族的アイデンテティが利用される。政策が生み出した貧困層を反体制化させずに、日本国民であることのありがたさに満足させることができれば、こんなにうまい手はない。

軍事大国化は大きな政府、新自由主義は小さな政府を指向する。矛盾はするが、徹底して国民には自助努力を求めて福祉や教育の予算を削る一方、国防予算だけを肥大化する国家が目指される。直接税中心主義から間接税中心主義になり、長期的には累進課税のさらなるフラット化が目指されている。要するに、弱肉強食の市場原理が横行する社会の到来が間近であり、それに対応する憲法「改正」が目指されている。

そしていま、憲法への虐待が本格化されようとしている。まず憲法96条に改憲の矢を立て、ここに穴がこじ開けられようとしている。全力でこれを阻止しなければならない。

本日の憲法記念日は、そのように自覚して、日米支配層から虐待されている日本国憲法を守り励まし、一層その真価を発揮すべく運動する覚悟を新たにすべき日としたい。

改憲論議・世論調査と議員アンケートの壮大なねじれ

憲法記念日を前に、各紙の憲法問題報道が活発となっている。本日の朝日世論調査と、読売の国会議員アンケートを併せて読むと興味深い。

朝日1面トップの見出しは、「96条改定し改憲手続き緩和 反対54% 賛成38%」というもの。記事のおさまりは「96条の改正要件緩和については、自民党が昨年作った憲法改正草案で主張。最近は安倍政権も唱えているが、有権者は慎重であることが浮かびあがった」となっている。

これに対して、読売のトップの見出しは、「憲法96条、自・維・みんな9割超が改正に賛成」。こちらは世論調査ではなく、議員アンケートの結果。自民・維新・みんなの議員の90%以上が、96条改憲派だという。

「憲法に関するアンケート調査を衆参両院の全国会議員を対象に実施した。回答した議員のうち、改正の発議要件を定めた憲法96条について、自民党は96%、日本維新の会は98%、みんなの党は96%が『改正すべきだ』と答え、3党いずれも改正賛成が9割超に上った。一方、民主党は25%、公明党は11%にとどまり、政党間の違いが鮮明になった」という。

朝日世論調査と読売アンケートの対比は以下の通りである。
  朝日世論調査 96条改正反対54%  96条改正賛成38%
  読売議員調査 96条改正反対22%  96条改正賛成74%

また、朝日の「9条改定反対52%」という小見出しに続く記事は、「9条についても『変えない方が良い』が52%で、『変える方が良い』の39%より多かった」。「自民投票層でも、『変えない方が良い』が55%で、『変える方が良い』は30%だった」となっている。これに対する読売アンケートでは、9条改憲派(「自衛のための軍隊保持」)は59%に及んでいる。

かくも極端に、国会議員の意見分布は、国民世論の意見の分布と齟齬をきたしている。もっとも重大な憲法改正問題というテーマにおいてである。この捻れの原因の主たるものが、小選挙区制のマジックであることは明らかといえよう。改憲派は、底上げ・虚飾の多数をもって、改憲発議を目論んでいるのだ。

朝日に、浦部法穂さんが、次のようにコメントを寄せている。
「そもそも憲法改正権は国民にあるのだから、改憲は国民の側から『国会で案を作れ』という声が起きてから初めて国会が議論するものだ。ところが、憲法で行動を制約され、命じられる側の国会、まして統治権の中枢の内閣が今の憲法では都合が悪いからといって改憲を主張するのは、本末転倒でおかしい」
むべなるかな。読売と併読するとその感一入である。

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ぜひ、もひとつどうぞ。

  『バングラデシュのユニクロ』
ダッカのアパレル工場崩壊事故の続報では、2日現在死者は411名にのぼり、140名ほどが行方不明だという。縫製工場の労働者や遺族ら数千人が経営者の処刑を求めて、怒りのデモをしている。

崩壊した工場にはイギリスやスペインの激安衣料メーカーが入っていた。労働条件の過酷さ、搾取のすさまじさが伝えられている。平均で1日10時間、週6日働いて月収40ドル足らず。崩壊ビルに入っていたイギリスの格安衣料メーカー「プライマーク」の最低賃金は、月収約20ドル、時給に換算して約10円という信じがたい金額。ジェトロの調査によれば、同国の製造業労働者の平均年収は14万円。インドの43万円、中国の56万円と比べても破格の低賃金。今回多数の犠牲者を出した縫製業は女性労働者が大部分を占めるので、被害者の賃金はさらに低い。大正時代の紡績工場のルポルタージュ「女工哀史」が頭に浮かぶ。

激安衣料品といえば、日本の「ユニクロ」は進出していないのか気になるところ。最近、その「ユニクロ」は「ブラック企業」なのではとの議論が盛んだ。「ユニクロ」では、新卒社員の入社3年以内離職率が年々上がって、現在では50%を遙かに超えている。加えて、正社員の休職者が3%もあって、そのうち40%あまりがうつ病などの精神疾患だということだ。社員を酷使するブラック企業だと批判される所以である。

その「ユニクロ」を展開するファーストリテイリングが「世界統一賃金構想」を考えているという。コストでしのぎを削っている激安メーカーのことだ。「中国のユニクロ社員の賃金を日本の社員並みに上げましょう」という話でないことは明らかだ。日刊ゲンダイは「ユニクロショックは地獄のはじまり 年収100万円時代にのみ込まれる」「弱肉強食の競争社会で富を得るのは一握りの勝ち組だけ」と報じた。4月21日付朝日のインタビューに、社長の柳井氏は「低賃金で働く途上国の人の賃金にフラット化するので、年収100万円になっていくのは仕方がない」と答えている。日経ビジネスで、柳井氏は社員教育について「努力を重ねて35歳ぐらいで執行役員になる。そして45歳ぐらいでCEO になるのが正常な姿だと思っています」と語っている。

グローバル化するということは、日本人労働者にとってこういう過酷で激烈な競争を意味する。アベノミクス効果でユニクロ株が高騰し、柳井社長の資産は3兆円になったと報じられている。「同社は従業員にとってはブラックな面があるかもしれないが、経営陣や株主にとっては理想的な企業といえる」とブラック企業アナリストの新田龍氏は述べている。たぶん、「うっかりした消費者」も良い企業だと思ってしまうかもしれない。

その「ユニクロ」、大々的にはバングラデシュに進出を果たしていない。しかし、ずいぶん頭の良い方法を考えついている。2010年に「グラミン」グループとソーシャルビジネスで合弁会社「グラミン・ユニクロ」を設立しているのだ。服の企画、生産、販売を通じて、バングラデシュの貧困、衛生、教育などの社会的課題の解決を図るというコンセプトを掲げてのこと。828万人(うち97パーセントは女性)にのぼる「グラミン銀行」の借り手のネットワークを利用して、貧困者の職業訓練と服の販売とをめざす。ところが、バングラデシュにおけるTシャツ1枚の市場価格は50円。両者の思惑や目標を達成する道はなかなか遠いようである。ユニクロは盛んに企業イメージ向上の宣伝材料に「グラミン・ユニクロ」を使っている。今回の災害ビルに入らなくて良かったと胸をなで下ろしていることだろう。 

韓国国会「靖国神社参拝等糾弾決議」 たった一人の棄権の意味

他人の足を踏んだ者には、踏まれた者の痛みが分からない。踏んだ方が忘れても、踏まれた方はその痛みを忘れることができない。

韓国国会は29日の本会議で、日本の閣僚らの靖国神社参拝や、歴史認識をめぐる安倍晋三首相の発言を非難する決議を出席議員239人のうち、棄権1人を除く圧倒的な賛成多数で採択した(ソウル共同)。

その決議の標題は、「日本閣僚等靖国神社参拝及び侵略戦争否認妄言糾弾決議」。内容は、麻生太郎副総理ら日本の閣僚らによる靖国神社参拝と、安倍晋三首相の歴史認識をめぐる一連の発言について、「非理性的な妄動や妄言は、未来志向の韓日関係構築や北東アジアの平和定着に深刻な悪影響を及ぼす外交的な挑発行為だ」と厳しく糾弾するもので、日本の「責任ある立場の人々」に対して、靖国神社参拝や「過去を否定する」発言をやめ、心からの謝罪を表明するよう要求。また、韓国政府には、「日本の軍国主義回帰の動きについて、国際社会と協力しあらゆる外交的手段を動員して強力な措置を取ること」を求めるとの内容。

尹炳世(ユンビョンセ)外相は、さっそく同日のうちに、訪韓中の米下院外交委員会のスティーブ・シャボット・アジア太平洋小委員長と面談し、この決議の内容を伝えた、という。

同決議に関して、菅義偉官房長官は30日午前の記者会見で、「国のために命をささげた方に尊崇の念を表するのは当然だ」と述べ、正当性を重ねて強調。同時に「2国間関係全体に影響を及ぼすことは全く望んでいない。外交ルートを通じ真意を説明していきたい」とした、と報じられている。

相変わらずの、足を踏まれた者の痛みを理解しようとしない傲慢な姿勢というほかはない。

ところで、韓国議会の「日本糾弾決議案」が「全会一致」ではなく、1人の棄権票があることが気になった。日本に気兼ねする議員もひとりくらいは‥、と思ったのだが、大まちがいだった。

「中央日報」(韓国の大手保守系紙)日本語版によると事情は次のとおり。
「与野党ともに最近の日本の極右化に反対し、決議案の“全会一致”通過が当然視されていたが、結果は在籍議員239人のうち238人が賛成し、議員1人が棄権した。棄権の主人公はキム・ギョンヒョプ民主統合党議員だった。
同議員は決議案表決直後の記者会見で、『今回の糾弾決議案の趣旨には賛成する』としながらも『日本に対する実効的な措置が含まれていないから』と棄権の理由を明らかにした。『外交的な抗議レベルにすぎなかった今までの対日決議案が実質的に影響力があったかどうかは疑問』とし『日本の閣僚と政治家に対する入国禁止など強力な制裁案が決議案に含まれるべきだが、与野党の合意過程でこうした中身が抜けてしまった』と指摘した」

要するに、「こんな実効性のない生温い決議に賛成できるか」という意思表示の棄権なのだ。足を踏まれた側の痛みの記憶は、かくも強くかくも厳しい。

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 もう一つ、こちらもどうぞ。   
 
  『バングラデシュのビル倒壊とグラミン銀行』
 24日バングラデシュの首都ダッカ近郊で、縫製工場などが入った8階建てビルが倒壊し、死者が380人、負傷者1000人にのぼると伝えられている。瓦礫の下の死傷者はまだ増える模様で、このビルには3000人以上の人が働いていたという。事故前にビルのひびがみつかり、いったんは労働者が屋外に避難したにもかかわらず、経営者が屋内で働くよう強制して、この悲惨な災害が起こった。

 近年、中国の労働コストの3分の1という労賃の低さにひかれて、日本企業も含め外国企業が流入している。輸出の80パーセントは繊維製品で、「世界のアパレル工場」といわれている。衣料品の安さをノーテンキに喜んで、こうした犠牲に思いが至らなかったことに、暗澹たる気分になる。

 バングラデシュは世界最貧国に数えられる。国民の75パーセント(1億1800万人)が1日2ドル未満で暮らしている。ほぼ日本の人口に相当する人々が年収7万円ほどで暮らしているのだ。国土の大部分がガンジス川のデルタ地帯の低湿地で、周期的に洪水、津波、干ばつ、サイクロンに襲われので富の蓄積ができない。そのうえ、行政がうまく機能していない。日本を始め外国からの経済援助も有効に利用されていない。政治家や官僚の汚職が多い。

 そうした政治の貧困を補うように、NGO活動が盛ん。その中で一番有名なのが「グラミン銀行」だ。貧困層へ低金利の少額融資(マイクロクレジット)をする。「グラミン」とは「村の」という意味で、はじめ農村部の女性の自立と貧困改善をめざして始められた。その業績をたたえて経済学者で創設者のムハマド・ユヌス と「グラミン銀行」は2006年にノーベル平和賞が授与された。ほかならぬ「平和賞」だ。

 1974年、アメリカに留学して帰国したユヌスはチッタゴン大学の経済学部長として、学生たちに「あらゆるタイプの経済問題を解決してくれるエレガントな経済理論」を教えていた(ムハマド・ユヌス自伝「貧困無き世界をめざす銀行家」早川書房)。ところが、その年バングラデシュは大飢饉に襲われ、大学の外には無言で死んでいく餓死者があふれていた。愕然としたユヌスは農村の貧困をどうにかして救おうと決意する。大学の近くの村で竹で編んだ椅子を作っている女性は、材料の竹を買うわずかな金がないために高利貸しから金を借り、悪循環に陥っていた。1日中働いてもたった2セントしか稼げない。「大学の講義で、私は何万ドルもの金について論じてきた。ところが、今、私の目の前ではわずか数セントの金を巡って生と死の問題が起こっているのだ」(同書より)。

 ユヌスは学生と共に村の貧困の調査をし、銀行に金を貸してくれるように頼み回るがどこも応じてくれるところはない。策に窮したユヌスは村の42所帯のために 、ポケットマネーの27ドルを提供した。ここから壮大な「グラミン銀行」の事業が始まっていく。働き者であるけれど、イスラムの戒律に縛られて、字を書くことはおろか、お金など触ったこともなく、見知らぬ男性と口もきけなかった貧しい農村の母親たちが、家庭の経済に責任を持ち、子供に教育を与え、プライドを持って人生を切り開いて成長していくのだ。しかし、貧困の根は深い。倒壊した縫製工場で働いていた人たちは一日働いて、いくらの収入があったのだろうか。ユヌスの自伝に取り上げられた母親の子供たちや同胞が、ダッカの縫製工場の瓦礫の下に横たわっているのかと思う。

 「自分がグラミンの仲間たちと一緒にしてきた仕事のすべては、この目の前にある問題を解決するために捧げられたものだと見なしている。その問題とは、人類のあらゆる努力を汚し、侮辱するものー貧困である」(同書より)。

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