一昨日(6月18日)都議会本会議での「セクハラ野次」が大きな話題となっている。野次の議員を指弾する世論の盛り上がりには救われる思いがするものの、都議会議場の情けなさと事後処理のお粗末さには目を覆わんばかり。
「妊娠や出産に悩む女性への支援策について都側に質問していた女性都議に対し、『自分が早く結婚したらいいじゃないか』『産めないのか』などのやじが飛び、議会内外に波紋を広げている。女性を蔑視し議会の品位をおとしめる内容の発言に、業を煮やした超党派の女性都議25人全員が19日、再発防止を徹底するよう議長に異例の申し入れをした」(東京新聞)と報じられている。
同議員のツイッターに「リツイート」の数は2万件を超え、都の議会局には19日だけで、1000件を超える意見が電話や電子メールで寄せられ、ほとんどが「女性に対して失礼な内容だ」などの苦情や批判だったという。
議場の不規則発言をすべて封じ込めよという主張には与しがたい。議事を活性化させる野次はありうる。寸鉄人を刺す気の利いた野次もあろうし、議場を和ませるユーモアの発言もある。しかし、問題の野次は、議場の発言であろうとなかろうと許される類のものではない。複数の発言者だけでなく、「やじに同調する人がいたのが悲しい」と言った塩村都議にまったくの同感であり、都民の一人として恥ずかしい限り。都議会というところは、そのレベルでしかない品位に欠ける多数が巣くう場所なのだ。国会の野次も似たりよったり。おそらくは、これが日本の社会全体の縮図と受けとめなければならない。
朝日の報道では、「ヤジの議場 知事も笑み」との見出しで次のように報道されている。
「問題のヤジがあったのは18日の都議会。晩産化について質問した塩村氏に『お前が早く結婚すればいいじゃないか』『産めないのか』とヤジが相次いだ。議場に笑い声が広がるなか、働く女性の支援を掲げる舛添要一知事も笑みを浮かべ、塩村氏は議席に戻ってハンカチで涙をぬぐった。」
「やじは男性の声だったが、発言者は特定されておらず、名乗り出てもいない。『自民党議員席から聞こえた』との証言が複数会派からあり、塩村氏が所属するみんなの党は、幹部が抗議したが、自民幹部は『確認できていない』と取り合わなかった。」
自民党議員団と舛添知事とは、恥を知らねばならない。実は、このところの舛添知事の堅実な姿勢に、それなりの評価をしていたのだが、この「笑みを浮かべ」報道でご破算だ。これでは、石原慎太郎都知事と変わるところがない。
なにより問題なのは、「自民の吉原修幹事長は『自民の議員が述べた確証はない。会派で不規則発言は慎むように話す』と述べるにとどまり、発言者を特定しない意向を明らかにした」という自民党の姿勢だ。発言者の責任もさることながら、発言者の特定をしようとしない都議会自民党の姿勢が糾弾されなければならない。
表現の自由は最大限の保障を受けなければならない。「表現の自由が保障される」ということの意味は、当該の表現によって、誰かのあるいは何らかの価値を損なうことが許容されるということにほかならない。無意味なつぶやきや、誰かへの讃辞だけの言論について「表現の自由を保障する」意味はない。「表現の自由」とは、お上品に誰かを褒める自由ではなく、言論によって誰かを傷つける自由のことなのだ。そうでなくては、法がわざわざ自由を保障するとした意味が無くなる。
だから、言論には責任が伴う。責任の所在が明らかでない「無責任言論」「言いっぱなし言論」は、それだけで「表現の自由の保障」を受ける資格を欠くことになる。この原則を確認しておきたい。責任の所在を不明確にしたままの匿名言論は、無責任の極み、卑怯卑劣。無責任なヤジを飛ばしておいて名乗り出ることなく逃げ切ろうとは、選挙で選出された議員としてあるまじき態度。
仮にも有権者の信任を得ての都議たる者、自分の言論に無責任であってはならない。「お前が早く結婚すればいいじゃないか」「産めないのか」とヤジを飛ばした輩よ。まずは名乗り出よ。名乗り出でることによって責任の所在を明らかにせよ。その上で、堂々と所信を釈明し開陳せよ。そして、都民のあるいは国民の再批判に耳を傾けよ。選挙区の有権者は、あらためてヤジ議員の議員としての適格性を判断せよ。都議会自民党よ、調査して発言者を特定せよ。誠実に対応しなければ、卑劣な匿名ヤジを容認するものと指弾されざるを得ない。世論から同罪と見なされることを覚悟しなければならない。
付言しておきたい。「言論には責任が伴う」「匿名の言論は無責任」の原則は例外を伴う。その典型が、公益通報(内部告発)である。圧倒的な強者を指弾する言論においては、匿名言論を許容しなければならない。強者とは、権力者や経済的強者のこと。権力や企業に腐敗があり、あるいは経済的な強者に不正不当の言動があるときに、意を決してこれを社会に告発しようとする者に対して、「まずは告発者の氏名を明示して責任の所在を明らかにせよ」などと言うことは馬鹿げている。社会は、このような告発によって恩恵を被る。社会全体で告発者に不利を被らせることなく擁護し通さねば、次に続く有益な告発を期待することができなくなる。言論の場や内容によって、顕名言論の原則には例外が伴うことを確認しておかねばならない。
なお、今日(20日)の朝日朝刊の報道で意外な記事にぶつかった。
「ツイッターで『うやむやにするつもりか』と批判した都教育委員で作家の乙武洋匡さんは『今回のヤジはおもてなしと正反対。本当にこの街で五輪を開催できるのか』と述べた。」というのだ。驚かざるをえない。
乙武教育委員よ。あなたにも良識の持ち合わせがあるのだ。あなたも、自民党都議の卑劣な言論を指弾する意欲をお持ちなのだ。しかし、あなたご自身が、『うやむやにするつもりか』と批判されていることを自覚しておられるだろうか。
多くの都民、都立校の教員、被処分者、そして教育庁勤務経験者らが、「都教委の日の丸・君が代の強制は、思想や信仰の転向を求めるもの」「教育が国家主義のイデオロギーを教師と生徒に注入している」「信仰や民族・国籍が多様化している生徒の思想・良心を掣肘している」「10・23通達以来、都立高は教育の場としての活力を失っている」「国家ではなく生徒を主人公とした教育を取り戻すために、教育委員諸賢には現場の訴えに耳を傾けていただきたい」とくり返し要請している。しかし、これを一顧だにせず、無視し続けている都教委の在り方に大きな批判の声があがっている。このことをどうお考えか。
生徒・子どもに最善の利益を保障すべき都教委が、その正反対なことをしているのだ。そのことをくり返し指摘されながら、「うやむやにして、逃げ通すつもりつもりなのか」と批判されているのだ。あなたご自身が、高給を食んでいる教育委員の一人として批判されていることを自覚し、責任を明確にして応えなければならない。当然のことながら、地位ある者には、相応の責任が伴う。他人を批判するだけでなく、自らを省みて、批判に耳を傾けて欲しい。せめては、あなたの肉声で要請や請願に対するご回答をいただきたい。
(2014年6月20日)
たまたま、「軍事研究」という月刊誌の最新号(2014年7月号)に目を通した。
普段は私に縁のない異界の専門誌だが、水島朝穂さんの愛読誌なのだそうだ。水島さんが、もう10年も前の「直言」に次のように記載している。
「私は、『朝雲』よりも1年早く『軍事研究』の定期購読を始めた。自宅書庫には、‥創刊号(1966年4月号)からの‥38年分がぎっしり詰まっている。‥一時期、正確には1973年7月号から1979年2月号まで、表紙の題字の下に『戦争のあらゆる要因を追求して人類恒久の平和を確立する』という言葉が掲げられていた。まるで『平和研究』誌である。軍事を語ることにそれだけイクスキュースが必要だったのだろう。
ところで、この雑誌で毎号まっさきに読むのがイエローページ、『市ヶ谷レーダーサイト』である。防衛庁が六本木にあったので、長らく「六本木レーダーサイト」といった。筆者は『北郷源太郎』。小名孝雄(『軍事研究』創設者)のペンネームと言われている。この人物は、北海道で『北方ジャーナル』というブラックジャーナルを主催。憲法学の世界では周知の『北方ジャーナル事件』の当事者である。この事件で最高裁判所大法廷は、『人格権としての名誉権』を基礎として、権利侵害を予防するための差止め請求権を承認し、これにより表現行為(この場合は雑誌という出版物)に対して差止めを行うことを一定の条件のもとで許容するという注目すべき判決を出している(1986年6月11日)。『市ヶ谷レーダーサイト』は、その小名の経験とセンスを遺憾なく発揮して、将官人事の動向から次期幕僚長候補、内局の人事異動まで異様に詳しい。」
水島さんにこれだけ論じてもらえれば「軍事研究」も本望だろう。私も、水島解説に大いに興味をそそられる。
最近号は、特集記事「ウクライナ侵攻作戦&中国原子力空母」で手にしてみたのだが、件のイエローページ「市ヶ谷レーダーサイト」に目が行った。タイトルは「安倍総理の防衛知識は大丈夫なのか?」。結論は、「姑息な手段に逃げないで、堂々と憲法改正をすべきである」だが、その過程になかなか注目すべきことが書いてある。
注目すべき第1点は、「安倍総理の防衛知識は大丈夫なのか?」の内容。
「安倍総理は5月15日の記者会見で、集団的自衛権行使容認の必要性とその為の憲法解釈の変更の必要性を、自らパネルを使い熱弁をふるって説明した。‥驚くべきは二つに絞ったパネルの内容である。一つは避難邦人を乗せた米輸送艦を日本の護衛艦が護衛できないというもの。もう一つは海外派遣されている自衛隊がテロリストに襲撃されたNGOを救援できないというもの。小保方先生の実験ノートにも驚かされたが、このパネルはそれに匹敵するほどお粗末な代物だ。‥隣国で有事となり逃げ遅れた邦人を救出しなければならない場合で、米輸送艦を護衛するための護衛艦を派遣できる環境と余裕があるのなら、なにも米輸送艦に頼む必要など最初からないのであって、海自の輸送艦やチヤーター船を派遣すればいいのではないだろうか。そもそも米輸送艦が邦人を輸送するというケースなどあるのだろうか。少なくとも日米安保条約上の義務として米軍がそうする義務はまったくないし、軍事的合理性から見てもそのようなことはしないだろう。次のNGO救援も然り。‥また良く喧伝されるグレーゾーンについても治安出動や海警行動で対処できるものばかりである。」
注目すべき第2点が、軍事研究専門家から見た、集団的自衛権概念の捉え方である。
「巷の意見を聞いても、集団的自衛権の行使ができなければ日本の防衛が心配だという声となって来る。しかしそれは集団的自衛権を、日米が集団となって自衛しようという権利とでも誤解しているに違いない。集団的自衛権とはあくまで集団になって防衛する権利ではなく、『武力攻撃を受けた国が自国と密接な関係にある場合に、これをもって自国の平和と安全を侵害するものと認め、被攻撃国を援助して共同防衛に当たる権利』である。平たく言えば自ら攻撃されてなくても侵略国を攻撃する権利だ。即ち憲法9条で禁止された戦力にはできても防衛力にはできない『先制攻撃』と『海外派兵』をすることなのである」
敢えて繰り返す。集団的自衛権を、「日米が集団となって自衛しようという権利」などと誤解してはいけない。集団的自衛権とは、「武力攻撃を受けた国が自国と密接な関係にある場合に、これをもって自国の平和と安全を侵害するものと認め、被攻撃国を援助して共同防衛に当たる権利」なのである。ここまでは、平凡で平板な記述。目を惹くのは、「平たく言えば」以下の底意。「自ら攻撃されてなくても侵略国を攻撃する権利だ」。もっと具体的には、「憲法9条で禁止された戦力にはできても防衛力にはできない『先制攻撃』と『海外派兵』をすること」だという。つまるところ、集団的自衛権とは現行憲法では認められない『先制攻撃』と『海外派兵』をする権利なのだ。
少し、コメントを加えたい。「自ら攻撃されてなくても侵略国を攻撃する権利」は不正確であろう。集団的自衛権行使の相手国は、「侵略国」である必要はない。「武力攻撃を受けた国」で十分なのだ。ベトナムがアメリカに対する侵略国だから、わが国がベトナムに対して集団的自衛権としての武力行使が可能となるわけではない。アフガン、イラクについても同様。集団的自衛権行使が、「侵略国」を相手にする場合にだけ認められるというロジックはありえない。
集団的自衛権とは、具体的には「憲法9条で禁止された戦力にはできても防衛力にはできない『先制攻撃』と『海外派兵』をすること」と喝破しているのは炯眼というべきである。水島さんが、筆者の「経験とセンスが遺憾なく発揮」されていると言うのもむべなるかな。
憲法9条(2項)は「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」と定めている。憲法によって保持を禁じられた「戦力」とは、「自衛権行使のための最小限度」を超過する実力を意味する。集団的自衛権の行使を容認するとは、「自衛のため」の実力という制約を取り払うこと。それは、自衛力(この記事では「防衛力」)ができなかったことを可能とすること。現行憲法では禁止された「戦力」を保持することであり、自衛力では突破できなかった『先制攻撃』と『海外派兵』を可能とすることなのだ。
筆者北郷源太郎は「だから、今の憲法のもとではできない。堂々と国民に信を問う手続を踏んで憲法改正をすべきだ」と言う。
私は、「今の憲法のもとではできない。姑息な解釈改憲は許されない」点には同意する。しかし、「だから、堂々と、明文改憲をすべきだ」という見解には、到底賛成できない。「先制攻撃」も「海外派兵」も許さぬ憲法を守り抜こう。
(2014年6月19日)
有楽町駅頭をご通行中の皆様、ご紹介いただきました東京弁護士会憲法問題対策センター委員の澤藤と申します。ただいま、東京弁護士会会長、第二東京弁護士会会長以下、集団的自衛権問題で、弁護士が駅頭の訴えをさせていただいております。しばらくお耳をお貸しください。集団的自衛権問題を解説している日弁連のリーフレットを配布しています。ぜひ、お手にとってお読みください。
「集団的自衛権」とは何でしょうか。なぜその行使を容認し得ないのでしょうか。このことを分かりやすくどう訴えたらよいのか、永く考え続けてきて、少しずつ自分なりに考えが整理されまとまってきました。
集団的自衛権には、権利の「権」が付いています。いったいどんな権利というべきでしょうか。「自衛権」なら分かりやすい。「戦争をしかけられたときに、やむをえない範囲での反撃として武力を行使する権利」。このように説明して、誰にでも理解してもらえると思います。しかし、集団的自衛権の方は、自国が攻撃されていない場合を想定しているのですから、明らかに自衛のために武力を行使する権利とは違うもの。分かりにくいこと、この上ない。
自衛のためにするものではない武力の行使とは、「戦争をしかける」ことにほかなりません。自衛権の行使ではない武力の行使を権利とする集団的自衛権とは、結局のところ「戦争をしかける権利」だと言わざるを得ません。ですから、わが国が集団的自衛権を発動して武力を行使した場合、武力行使をしかけられた相手国は、当然に自衛権を行使してわが国に武力をもって反撃する権利を取得することになります。これはわざわざ危険を招き寄せる愚行というべきではないでしょうか。
戦争は、仕掛ける国があって始まります。これまで、わが国は専守防衛に徹することを頑なに宣言し続けてきました。現実にわが国が攻撃をしかけられた場合にだけ自衛権を発動する、そのための自衛隊だという原則を守ってきました。絶対に戦争を仕掛ける国にはならないとしてきたのです。ところが、集団的自衛権の行使容認とは、その原則を投げ捨てて、「日本が戦争を仕掛けることができる国になる」ということなのです。集団的自衛権とは、「戦争をしかける権利」のこと。安倍政権はいま、その「他国に戦争をしかける権利」を手に入れようとしているのです。しかも、国民の意思も国会の意思さえも問うことなく、閣議決定による一内閣の憲法解釈変更をもって、憲法をねじ曲げてしまおうということなのです。
なぜ、集団的自衛権行使を容認し得ないのか。それは憲法が「他国に戦争をしかける権利」など認めていないことが明らかだからです。集団的自衛権行使とは、積極的に戦争を仕掛けることであり、平和を破壊する行為そのものだからです。日本国憲法をどう読んでも、集団的自衛権の行使を認める余地はありません。
この世には戦争をしたい人が確実にいます。戦争間近の緊張関係を歓迎する人は、もっと数が多い。一部の人にとっては、兵器の調達で莫大な儲けを掴むチャンスです。また、戦争とは領土を保全し、市場を獲得し、資源を確保するために有効な手段だと信じられてもいます。景気を刺激する手段として有効だとも考えられています。国内の諸矛盾や国民の不満を、戦争の熱狂をもって一気に逸らして解決する手段として魅力的でもあります。鬱屈した国民の気分を刷新し統合するために、あるいは売名意欲の高い者にとっては、功を遂げ、歴史に名をなす絶好のチャンスだともとらえられています。
しかし、まだ、さすがに、時代の空気は、大っぴらには「戦争しましょう」と呼び掛けることを許してはいません。そんな呼びかけは、安倍首相といえども躊躇せざるをえません。そこで、戦争をしたい人々は、国民に向かってこう言うことになります。
「危険な敵性国が、どんな出方をしても直ちに武力対応できるように準備怠りなくしておきましょう」「万全の想定の下、万全の武力行使の準備を整えておくことが安全で安心につながる方策として納得いただけますよね」。
実は、これこそ、戦争を招き寄せる危険な言動ではないでしょうか。近隣諸国を敵性国と規定して、その適性国がわが国に危険な行為をするであろうと大っぴらに公言して、対処の方法を整備する。これは挑発以外の何ものでもありません。近隣諸国の側から見れば、こうなるはずです。
「日本は平和主義を捨てたのだ」「日本は、自国が攻撃を受けなくても他国に武力攻撃をする決意を固めつつある」「それなら、日本がどんな出方をしても直ちに武力対応できるように準備怠りなくしておかなければならない」「そのように準備しておかねば安全も安心もない」。
このような危険な負のスパイラルを断ち切らなければなりません。安倍内閣がやっていることは、危険極まりないものと言わねばなりません。
私たちの国は69年前に、戦争の惨禍の反省の上に、再び政府の行為によって戦争の愚を繰り返さぬことを誓って再生しました。平和を大切にしよう。戦争は絶対に繰りかえしてはならない。そのために、「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」と憲法で決めたのです。自衛権の行使であればともかく、自国が攻撃されてもいないのに、「他国に戦争をしかける権利」など、日本国憲法の下で認められるはずがありません。集団的自衛権の行使を容認する余地のないことが明らかです。
安倍内閣は、今国会会期中にも閣議決定で憲法9条の解釈を変更して集団的自衛権行使を容認しようとしています。これは、憲法改正の手続を踏むことでの改正の自信がないからです。そのような姑息な手段での、憲法の破壊、平和の放棄を許してはなりません。
この安倍内閣の危険なたくらみを許すのか否か。最終的に決めるのは、主権者国民です。明日が今日に続く平和でありますように、「安倍内閣の集団的自衛権行使容認ノー」、「閣議による解釈改憲を許さない」「他国に戦争を仕掛ける権利を認めてはならない」という声を大きく上げていただくようお願いいたします。
(2014年6月18日)
正午ころ、ぽとりと郵便受けに投函されたものがある。封筒に入った「坂のまちだより」。毎月欠かさずに届けられるが、ポスティングする方をお見受けしたことはない。
「坂のまち」とは、文京の町の異名。本郷台、白山台、小日向台、小石川台、関口台などの台地の尾根と、元々は谷や川だった道路とを結んで多くの坂がある。名前のついている坂の数が120を超えるとか。
その「文京」の、「九条の会」機関紙が「坂のまちだより」。手作り感、地元密着感が魅力のA4・1枚に裏表の印刷物。題字は、芝増上寺法主の八木季生さんの筆になるもの。それに、「『憲法は宝』文京の町から憲法九条の声を響かせます」との惹句が添えられている。
今号の一面は、内藤功さんの「集団的自衛権の問題について」の寄稿。紹介に値するものとして、以下に一部を抜粋する。
「集団的自衛権とは、『自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利』です。『自衛』ではありません。『他衛』です。憲法9条の下で、集団的自衛権行使が許されるわけはありません。
1939年当時、海軍省軍務局長として、日独伊軍事同盟に反対した井上成美大将は、1946年1月、海軍将官の反省会で語っています。『国軍の本質は、国家の存立を擁護するにあり。他国の戦いにはせ参ずるごときは、その本質に反す。第一次大戦に日本が参戦せるも邪道なり。たとえ同盟軍が、他より攻撃された場合に於いても、自動的参戦は絶対に不賛成にして、この説は堅持して譲らざりき』
集団的自衛権行使を許せば、自衛隊が海外で『武力行使をしない』『戦闘地域に行かない』という二つの歯止めは外され、自衛隊が『戦闘地域で』『戦闘に従事する』ことになります。」
内藤功さんは、1945年4月奈良県の海軍経理学校橿原分校入校という経歴をもつ。本土決戦に備えて、棒地雷を持って戦車に飛び込む自爆攻撃の訓練をしていたという。銃剣術の訓練では、南方の陸戦隊帰りの兵曹長が「内地ではこんなワラ人形でやってるが、戦地では、捕虜を突いている。心臓を一撃で刺す。エグルように抜く」と話していたそうだ。
その内藤さんにとって、「最後の海軍大将・井上成美」の言葉は当時に於いて重い響きをもっていたにちがいない。その人の言葉が68年の時を経て、今、安倍政権の下において、新たな意味をもって生き返ることとなった。
井上は、こう言っている。
安倍政権は国軍の本質を知らない。国家の存立を擁護することこそその本質的任務であって、国家の存立を擁護することと無関係に、他国を侵略することも、他国の戦いにはせ参ずる集団的自衛権行使のごときも、国軍の本質に反する。第一次大戦に日本が参戦せるは邪道であったが、今また安倍政権はその邪道に一歩を踏み出す過ちを犯そうとしている。たとえ同盟軍が、他より攻撃された場合に於いても、我が軍の参戦は絶対に不賛成にして、この説を堅持して譲ってはならない。
いま、井上成美が世にあらば、安倍晋三をしかり飛ばしたであろうか。はたまた精神注入棒で活を入れたであろうか。いや、諄々と不心得を説きあかしたであろうと思われる。
「たより」の読後、確かに、文京の町に響いた憲法九条の声が聞こえた。
(2014年6月17日)
本日の東京新聞朝刊。目次に当たる「きょうの紙面」に、「解釈改憲 地方が異議」とある。
まずは2面に、「解釈改憲反対『立憲ネット』地方議員215人で発足」との記事。
「憲法解釈変更による集団的自衛権の行使容認に反対しようと、超党派の地方議員でつくる『自治体議員立憲ネットワーク』の設立総会が15日、東京都内で開かれた。安倍晋三政権に対抗し、市民と連携して地方から立憲主義と平和を守る方針を確認した。
北海道から九州までの民主や社民、生活者ネット、緑の党、無所属の都道県議や区市町村議ら215人で発足。共同代表に西崎光子東京都議(生活者ネット)や角倉邦良群馬県議(民主)ら5人が就いた。
各自治体で解釈改憲に反対する決議を目指すほか、来春の統一地方選で連携する議員を増やすための政策提言をまとめる。安倍首相が進める憲法解釈変更の閣議決定に向け、東京で抗議集会も予定する。
角倉県議は『地方議員が平和を守る運動の先頭に立ち、閣議決定や法改正に歯止めをかけたい』と訴えた。」
このネットワークに共産党議員ははいっていない。呼び掛けられてもいないようだ。同党の地方議員総数は約2700名。現時点でのネットの215人は決して多い数ではないが、大きな可能性を感じさせる。
そして、3面。「首長『解釈改憲ノー』続々」「地方政治 強まる危機感」「戦争に直結」「9条守れ」の見出し。こちらは、「集団的自衛権の行使容認のための憲法解釈変更に、各地の知事や市長らが次々と反対の声を上げている」「解釈改憲を急ぐ首相を黙認できないとの思いは静かに広がっている」という、首長の声を拾っている。
批判の声を挙げている首長として名を挙げられたのは13名。上田札幌市長や、松井広島市長、田上長崎市長、末松鈴鹿市長などだけでなく、舛添東京都知事、阿部長野県知事、湯崎広島県知事、広瀬大分県知事、大村愛知県知事など。
「発言が目立ち始めたのは、首相が5月15日の記者会見で憲法解釈変更を検討する考えを表明してから。‥行使容認反対などを求めた意見書を国会に提出した市町村議会も約60あることと合わせ、地方でも危機感が強まっている」という内容。
注目すべきは、長崎市の田上富久市長。記者会見で、安倍政権の動きについて「原爆被爆者には、日本の在り方の大きな方針転換になるのではないかという不安に結び付いている」と指摘。8月9日の原爆犠牲者慰霊平和祈念式典で読み上げる平和宣言文で、この問題に触れる方針だという。三重県鈴鹿市の末松則子市長は、解釈改憲での行使容認を「戦争に直結すると捉えられかねない」と批判。「母親の立場からみても素晴らしい憲法。9条は変えてほしくない」と訴えた。札幌市の上田文雄市長は消費者問題の弁護士出身。首相は会見で、乳児や母親を描いたパネルを用いて行使容認が必要とする事例を説明したが、「危機感だけをあおる手法は、国民に冷静な判断をさせない催眠商法のやり方に酷似している」と厳しく批判したという。 また、長野県中川村の名物村長曽我逸郎氏のインタビューが紹介されている。このインタビューの内容もおもしろいが、同村のホームページの「村長の部屋」も一見の価値がある。
信濃毎日新聞から村長へのアンケート依頼に対する丁寧な回答があり、その中に「集団的自衛権の行使容認に関する質問」への村長の見解が示されている。
(2)集団的自衛権行使を憲法解釈の変更で容認することについてどう思うか。
・反対
▽その理由は
憲法とは、時代を超えた普遍的な規範である。移り変わる時代の中における個々の政権によるその場その場の政治的判断は、憲法を基準として検討され、下されなければならない。最高法規とはそういう意味である。
従って、もし憲法を変更しようとするなら、人類にとっての時代を超越した普遍的な価値について、踏み込んだ十分な議論がなされ、合意が形成された上でなければならない。
にもかかわらず、解釈によって憲法の内実をお手軽に実質的に変更できるとする考えは、自分の個人的かつその時の判断・解釈を憲法より上位に置くものであり、不遜である。このような考え方のできる人は、時代を超えた人類普遍の価値が存在することを理解しておらず、その場の都合や利害しか判断基準として持っていない。」
東京新聞は、これを「村長は、村のホームページで首相を戒めている」と解説している。
「地方の異議」は、自民党内部からも生じている。本日の朝日に、「自民岐阜県連『性急すぎる』 集団的自衛権で異例の要請」との記事。
「安倍政権が今国会中にも閣議決定を目指す集団的自衛権の行使容認について、自民党岐阜県連が「性急すぎる」として、県内全42市町村議会議長に、慎重な議論を求める意見書を議会で採択するよう要請したことがわかった。県議会でも同様の意見書を採択し、政府に提出する方針。
要請文は10日付。農協改革とあわせて、各議長に『国民生活に重大な影響を及ぼす案件であるのに、関係者と十分な議論を経ることなく、性急なスケジュールで検討が進められている。国民の理解を得る形で結論を出すべきだ』と呼びかけ、意見書案を添えた。
意見書案は集団的自衛権について、『議論を否定するものではないが、国防、安全保障の根幹に関わり、国民生活に影響を及ぼす重要な問題』と指摘。『全国で公聴会を開くなどの方法で、結論を出すべきだ」としている。異例の意見書案の背景には、来春の統一地方選へ向け、公明党への配慮もあるとみられる」
自民党県議の「党本部や官邸がやっていることがすべて正しいわけではない。あまりにも性急というか、慎重さに欠ける」「公明党との関係もぎくしゃくし、統一地方選にも影響する。選挙で公明党の票がなかったら危ない議員もいる」と安倍政権を批判する発言も紹介されている。
「全国有数の自民王国」でこの事態。安倍政権の性急さ強引さを、快く思わない自民党地方組織が岐阜だけであるはずはない。このようなやり方では、民意を蹴散らすことになりはすまいかと心配しているにちがいない。議員も、首長も、自民党地方組織も、だんだんとものをいうようになってきた。
東京新聞のインタビューで曽我村長が語っている。
「住民が地元の議会や首長に、行使容認に反対する意見書や声明を出すよう働き掛けてほしい。ゲームのオセロは、黒ばかりの盤面でも、少しずつ白のこまが増えれば、局面は大きく変わる。政治も同じだ」
少しずつ、白のこまが増え始めているという手応えがある。
(2014年6月16日)
ワールドカップ・ブラジル大会のCグループ。その初戦で、日本とコートジボワールが対戦した。私はスポーツとしてのサッカーそのものにはほとんど興味がない。しかし、サッカーという競技がもつ社会への影響力には関心をもたざるを得ず、観客の熱狂ぶりや、巨額の金の動き、そしてナショナリズムのあり方などには興味津々である。
なお、私は常に弱者の側に味方したいとする立場。日本チームのFIFAランキングが46位と初めて知って、23位だという格上のコートジボアールに対しての善戦を期待した。結果は、ほぼランキングが示す実力差のとおりの試合となったようだ。
ところで、コートジボアールという国に、ほとんどイメージがない。象牙海岸・宗主国フランスからの独立・政情不安・カカオの産地。その程度が、私の同国に対する知識のすべてといってよい。せっかくのこの機会に、かの国の内情を少しは知りたいと思った。
こんな時、一昔前なら、まずは百科事典を開くことになろう。その上で、図書館か本屋さんに足を運ぶことになったはず。今は、ネットの検索で結構な量の情報が手に入る。手軽でもあり、金もかからない。ウィキペディアの充実ぶりにも感心させられる。以下は、すべて本日ネットの検索で初めて知ったことの受け売り(出典は省略させていただく)。俄然、コートジボアール・チームの勝利に祝意を表明したくなった。
西アフリカに位置するコートジボワールは大西洋に面し、人口は約2500万人。首都はヤムスクロ。日本とほぼ同じ面積の国土に63の民族が暮らしているという。1960年の独立までフランスの植民地だった。かつては、象牙の輸出が盛んで、国名はフランス語で「象牙の海岸」を意味する。当然のことというべきか、公用語はフランス語。世界一のカカオの生産と輸出で知られている。
独立直後は、カカオとコーヒーの輸出や外国企業の誘致で「イボワールの奇跡」と呼ばれる年成長率8%の高度経済成長を達成したという。ところが、80年代には経済が失速した。90年と2002年に内戦があり、2010年末の大統領選の結果をめぐっても内乱が起きた。
政情不安には、多民族間の非融和だけでなく、宗教や貧困の問題が複雑に絡んでいるという。これを統合するものとして、サッカーがあるということだ。コートジボワール代表がW杯に初出場を決めたのは05年。06年のドイツ大会に出場している。このとき、「サッカーは分断された国民を一つにまとめる希望の光」となったとされる。
コートジボワール代表がワールドカップ出場を決めた瞬間、選手たちはピッチ上に座り、内戦のさなかにあった母国に平和を呼びかけた。そのマイクを握ったのが同国のスター選手、ディディエ・ドログバ。今日の試合にも出場した選手。「北も南も、西も中央もない。コートジボワールはひとつです。この豊かな国を、戦争の犠牲にしてはいけない。武器を置いて、心をひとつにしよう!」と語りかけた。彼は、内戦を終えたコートジボワール政府が創設した「対話・真実・和解委員会」のメンバーの一人でもある。
コートジボアールのナショナルチームの愛称を、“エレファンツ”という。いまや国民的ヒーローであるディディエ・ドログバがエレファンツ(代表の愛称)のオレンジ色のシャツに初めて袖を通したのは、奇しくも第一次内乱が始まる数日前の2002年9月だった。つまり彼の代表キャリアは、この国の内乱の歴史とともにあったと解説されている。
内乱は、大別するなら南北に分かれての争いだが、北部を占めるイスラム教徒と、南部に多いキリスト教徒間の争いでもあった。しかしサッカーの代表チームには、イスラム教徒もいればキリスト教徒もいる。トゥーレ兄弟は北部の出身、ドログバやカルーは南部の出だ。彼らが一致団結して戦う姿を国民一人ひとりが自分たちになぞらえて「結束」を思い起こしてほしい、というのが“エレファンツ”の願いだった。
ワールドカップ初出場を決めた2005年の対スーダン戦のスタジアムには、内線で敵対する両陣営も居並び、エレファンツの勝利によって、「この夜国がひとつにまとまった」とされる。エレファンツは5対0で快勝し、翌日の新聞は「5ゴールが、5年間の戦争の悪夢を消し去った」という見出しを打ったという。
エレファンツは、サッカーというスポーツの代表チームという枠を超え、敵対する政権を調和させてしまえるほど、コートジボワールにとっては平和のシンボルであり、国民の夢なのだ、という。
エレファンツがいかに力持ちでも、背負っているものがとてつもなく重い。本日の貴重な1勝によって、少しは肩の荷が軽くなったことであろう。祝意を表するにやぶさかではない。
(2014年6月15日)
本日は地元の学生グループに招かれてごく小さな規模の憲法学習会の講師を務めた。テーマは、特定秘密保護法の問題点と集団的自衛権。少人数の聞き手とのやり取りは結構楽しかった。
報告は3パートになった。「立憲主義」・「解釈改憲」・「秘密保護法制」である。「立憲主義とは何か」、「どうして今集団的自衛権行使容認の解釈変更なのか」、そして「特定秘密保護法のどこがどう問題なのか」という問いかけから始まるレポート。
※近代憲法の何たるかは、1789年フランス革命後の人権宣言16条に定式化されている。「権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていないすべての社会は、憲法をもたない」というもの。ここに、人権こそが至高の憲法価値であること、公権力は人権を制約することのないよう謙抑的につくられていなければならないこと、つまり「個人主義」と「自由主義」とが明瞭に宣言されている。以来、憲法は「人権のカタログ」部分と、人権を侵害しないように設計された「統治機構」部分とから構成されるようになった。
ここには、「主権者国民が権力を創設するが、その公権力は最も大切な国民の人権を傷つけることのないように設計され運用されなければならない」「そのために、公権力の設計と運用の在り方についての主権者の意思を予め確定し、この主権者の意思を公権力の担当者に示して、これにしたがって公権力を行使するよう命じる」という大原則が前提にされている。このようにして公権力行使を統制する考え方が立憲主義である。
※主権者国民から権力担当者に対する命令が憲法であるから、その命令の内容を軽々に変更はできない。変更するとなれば、慎重に国民の意思を確認してからでなくてはならない。民主主義社会では時の権力は国会での過半数の勢力によって形成されるから、国会での過半数の議決で憲法改正ができるとすれば、憲法が権力を統制するという役割を果たせなくなる。憲法改正は必然的に立法手続以上の厳格な要件を要求することになる。これが憲法が「硬性」であるということ。
安倍政権が成立するや、自民党改憲草案を念頭に、明文改憲が試みられた。そのための戦略として、まず96条先行改正が目指された。つまり、憲法改正手続を改正して、硬い憲法を軟らかくほぐしておいて、改正しやすい憲法にすることから始めようとした。しかし、これが評判が悪かった。「姑息なやり方」「国民を欺くもの」「裏口入学的手法」「96条改憲の向こうに9条改憲」「立憲主義の何たるかを理解していない」と散々。昨年の憲法記念日を挟んで、世論は完全に96条先行改憲論にノーを突きつけた。第1ラウンド、安倍の負けであった。
明文改憲ができないととなるや、安倍は第2ラウンドは解釈改憲を持ち出した。憲法9条に手を付けずに、内閣限りでその解釈を変えて、実質的な9条改憲をやってのけようということ。具体的には、これまで憲法9条2項によって「集団的自衛権の行使は憲法上できない」とされていた解釈を、強引に変えてしまおうということ。
しかし、これは、96条先行改憲以上に、実質的な9条改憲であり、「立憲主義の何たるかを理解していない」やり口。「姑息なやり方」「国民を欺くもの」「裏口入学的手法」である。それでも、安倍政権は、内閣法制局長官の首をすげ替え、自分で選任した安保法制懇の報告を受け、自作自演で集団的自衛権行使容認の路線を突っ走りつつある。
そのための与党協議において、座長の高村自民党副総裁から、「高村私案」が示されている。これが昨日(6月13日)のこと。これまでは、個別的自衛権行使には次の3要件が必要と政府解釈が確立していた。
(1)我が国への急迫不正の侵害がある
(2)これを排除するために他に適当な手段がない
(3)必要最小限度の実力行使にとどまる
この3要件のすべてを満たした場合にはじめて自衛権の発動が可能となる、というもの。
高村私案は、この要件を次のように変更しようというものだ。
?我が国に対する武力攻撃が発生したこと、または他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるおそれがあること
?これを排除し、国民の権利を守るために他に適当な手段がないこと
?必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと
問題は、(1)と?の差である。自衛権の発動は、従来政府解釈(1)では「我が国への急迫不正の侵害が現在している」場合に限られている。これに対して、高村私案?は、「我が国に対する武力攻撃が発生した」場合に限られない。「他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ」た場合に拡大されている。これが、集団的自衛権の行使を容認するということだ。
問題はそれだけではない。「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される『おそれ』があること」がくせ者。?の文章を「(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)、または(他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるおそれがあること)」と重文として読めば、集団的自衛権についてだけ「幸福追求の権利が根底から覆される『おそれ』があること」が要件として関わってくることになる。これも、『おそれ』という曖昧さが大きな問題をはらむものとなっている。
さらに大きな問題は、「{(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)、または(他国に対する武力攻撃が発生し)}これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるおそれがあること」と複文として読めば、個別的自衛権行使の要件としても『おそれ』が関係してくることになる。
つまり、「我が国に対する武力攻撃が発生したことにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される『おそれ』がある」場合には、個別的自衛権行使が可能となるというのだ。従来解釈に比して、「急迫不正の侵害」という要件を抜いていることに加えて、「我が国の存立が脅かされる『おそれ』がある場合」、「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される『おそれ』がある場合」にも、ひろく武力行使が可能と、どさくさに紛れて要件を緩和したことになる。このような姑息なやり方には、徹底した批判が必要だ。
※そして、特定秘密保護法の問題である。
民主主義政治過程のサイクルは、一応は「国民意思⇒選挙⇒立法府⇒行政府⇒司法」と図式化することができる。この国民意思形成の過程では、国民に十分な情報が提供されていなければならない。とりわけ、国政に関する情報は、国民の財産であって、国民がこれに接して、民意の形成に役立てなければならない。
戦前、軍機保護法や港湾要塞法などは軍の装備や編成を軍事機密として国民の目から秘匿した。戦時色が深まると、軍用資源秘密保護法や国防保安法はさらに、外交、財政、経済、資源等、総力戦を構成するすべての部門の重要機密を厳罰をもって保護するようになった。その基本的な考え方は、「国民はよけいなことを知る必要がない」「必要な情報は政府が管理しておけば十分」というもの。
特定秘密保護法も同じ考え方、「40万件といわれる特定秘密は国民は知らなくてよい」「政府が国民に知らせてもよいという情報だけを知らせておくことで十分」という基本的な考え方でできている。国会議員にも、裁判官に対しても、同様の考え方が貫かれている。これは、民主主義を衰弱される危険な法律。
2013年12月6日に特定秘密保護法は成立し、同月13日に公布された。その1年後、本年12月13日に施行ということになる。ぜひ、それまでに法の廃止を実現したい。そうでなくては、民主主義の政治サイクルが空回りすることになり、議会制民主主義は形骸化し衰退しかねない。
(2014年6月14日)
集団的自衛権に関する与党協議の展開は目まぐるしいが、実は結論は既に決まっていて、形づくりだけを見せられているのかもしれない。そう思わせる成り行きとなってきた。
飯島勲内閣官房参与がワシントンで講演し、公明党と創価学会の関係について、これまでの政府見解は政教分離原則に反しないとしてきたが、「もし内閣が法制局の答弁を一気に変えた場合、『政教一致』が出てきてもおかしくない」と述べたのが6月10日。政府が解釈変更に至った場合には、「(公明党が)おたおたする可能性も見える」とまで語ったという。これが、集団的自衛権をめぐる与党協議に関し、「来週までには片が付くだろう」との表明に関連しての言及である(時事)。なんという、えげつなさ。なりふり構わぬ露骨な牽制。
これで「公明党がおたおたした」ということなのだろうか。12日には、一斉に「集団的自衛権 公明行使一部容認へ」「公明に限定容認論」「公明、苦渋の歩み寄り」などという見出しの記事が出る事態となった。「公明党は、集団的自衛権を使える範囲を日本周辺の有事に限定したうえで認めるかどうかの検討を始めた」「1972年の政府見解を根拠に政府・自民党に歩み寄った」と報じられている。
公明党が、「限定容認論」の根拠として持ち出したのが、72年政府解釈である。そのさわりは、以下のとおり。
「政府は、従来から一貫して、わが国は国際法上集団的自衛権を有しているとしても、これを行使することは憲法の容認する自衛の措置の限界をこえるものであって許されない、との立場にたっている。
憲法は、第9条において、戦争を放棄し戦力の保持を禁止しているが、前文において『全世界の国民が‥平和のうちに生存する権利を有する』ことを確認し、第13条において『生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利』を定めていることからも、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを禁じているとは解されない。
右にいう自衛のための措置は、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最小限度の範囲にとどまるべきものである。したがって、わが憲法の下で武力行使を行うことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであって、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とする集団的自衛権の行使は、憲法上許されない」
9条の解釈に、前文の平和的生存権と、13条の幸福追求権とが動員されている。その上での結論は、「わが憲法の下で武力行使を行うことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」、つまり個別的自衛権の行使は容認される。しかし、「他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とする集団的自衛権の行使は、憲法上許されない」、つまりは集団的自衛権の行使は憲法上容認し得ない、というものである。
以上のとおり、72年政府見解とは、集団的自衛権を否定する根拠の説明である。個別的自衛権がかろうじて合憲であることの反面、集団的自衛権の行使は憲法上許されないとしたのだ。その見解の、その理由をそのままに、集団的自衛権行使容認の根拠に転換しようというのである。だから、「苦汁の歩み寄り」「平和の党の岐路」「支持者への説明がたいへん」などと評されているのだ。
公明党がここまで譲歩すると、自民党はさらに追撃しての譲歩を迫ることになる。本日(13日)の、第6回与党協議において、新たな「叩き台」としての高村私案が示された。「他国に対する武力攻撃が発生し、(日本の)国民の生命、自由などが根底から覆されるおそれがある」場合には、集団的自衛権行使が認められるとするもの。
政府はこれまで自衛権発動の要件を、「(現実に)日本に対する急迫、不正の侵害があった場合」に限定していた。これは個別的自衛権だけを容認してその発動の要件を限定するものとなっていた。高村私案は、集団的自衛権行使を容認するだけでなく、「国民の生命、自由などが根底から覆される『おそれがある場合』」とすることで、個別的自衛権の行使の要件についてまでも緩和するものとなっている。どさくさに紛れて、あわよくばそこまで、という底意が見えている。
本日の会合で、高村氏は私案を「閣議決定案の核心部分に当たる」と説明したという。さすがに、公明側は即答を避けたようだが、押し切られそうな雰囲気。既に、集団的自衛権の「限定承認」は既定事実化し、今国会の会期内にできるか否か、時期だけの問題となったように報道されている。
衆目の一致するところ、公明は自民から「政権離脱の選択肢はない」と足下を見られての結果なのであろう。結局は、「できるだけの抵抗はしてみましたが、相手が強引でやむをえません」という風情。「これくらいの形づくりで、ご勘弁いただきたい」という姿勢に見える。それでは、自党の支持者だけではなく国民を納得させることができない。結局は、公明は憲法の平和主義蹂躙に手を貸したことになってしまう。それでよいのか、公明党。
(2014年6月13日)
サッカーのワールドカップ(W杯)ブラジル大会の開幕戦は6月12日、つまり本日。もっとも時差があって、日本時間では13日午前5時が初戦のキックオフになるという。
オリンピックとワールドカップ。国境を越えた人と人との交流の場として意味のないものだとは思わない。しかし、商業主義とナショナリズムの横行には白けてしまう。自分の近くには来て欲しくない。「日本人なら日本チームを応援するのが当然」という同調圧力にも辟易だ。
幸いにして、今回の会場は遠い。開幕式・開幕戦が行われるメインスタジアムは巨大都市サンパウロにある。そのサンパウロでの公共交通機関のストライキやワールドカップへの抗議行動が話題になっている。「開催に反対するデモは、今後も国内各地で計画されている。賛成派と反対派がせめぎ合う中で、4年に1度の祭典は開幕を迎える」と報道されている。ワールドカップに興味はないが、ストとデモには大いに興味をそそられる。
まずはストである。5月下旬からサンパウロ州営バスの運転手がストライキに突入し、市営の地下鉄がこれに続いた。市内の交通は大混乱の事態となった。ストライキを決行するからには、最小限の犠牲で最大限の効果を狙うのが戦術上の常道。ワールドカップ直前、あるいは盛りあがった真っ最中の時期を狙ってのストライキは、戦術としては上策となる。5路線ある同市地下鉄は一部運行しているが、開幕戦スタジアムの駅に向かう電車は全て運行を中止している状態が続いたという。
もちろん、争議は戦争ではない。いずれ復帰すべき職場を潰してしまっては元も子もなくなる。勤務先企業に決定的ダメージを与えるような争議戦術は当然に回避される。また、極端に世論を敵にまわす戦術もとりにくい。しかし、「ワールドカップ開催のこの時期にこそ効果的な戦術を」「いまは大々的にストを打っても大丈夫」という、労組の側の読みを支える状況があるのだ。
このようなさなかに、労働裁判所の命令が下された。
「5月28日、裁判所が混雑時間帯の完全稼動と通勤量が少ない時間帯に70%を維持するよう命令し、これに違反すれば毎日4万4000ドル(約450万円)の罰金を賦課すると警告したが、労働組合員のストライキの意志は折れなかった」と報じられた。サンパウロ地下鉄労組がストライキを強行する理由は、物価上昇率の高さのためだという。今年の上半期のブラジル物価上昇率は約6%だが、地下鉄労働者の初任給は停滞したまま。労組側の言い分は、「ワールドカップのための金はあるのに、なぜ大衆交通のための金はないのか」というもの。
6月8日には、「罰金」額の増額が命じられた。「ブラジルの労働裁判所は8日、サッカーW杯ブラジル大会の開幕戦を目前に控えたサンパウロの地下鉄職員らが賃上げを求め続けるストライキは違法だとして、職員らに対しスト続行1日当たり50万レアル(約2300万円)の罰金支払いを命じた。一方の職員らは投票で、この裁判所命令を無視し、ストを続行することを決めた」【AFP=時事】との事態になっている。ロイター通信などによると、「労組側は裁判所の命令を受けて実施した組合員投票で、スト続行を決定。W杯開催に反対する市民らとともに、デモを行う構えをみせている」という。
週明けの9日には地下鉄職員のストライキが続き市内中心部をデモ行進、街頭で治安部隊と衝突して催涙ガスなどが使われ、多くの駅が閉鎖されて道路は200キロもの渋滞となったという。興味深いことには、交通警察の一部が賃上げを要求してストライキに加勢したことが渋滞をさらに悪化させたという。そして、ストは一時中断しているが、大会開幕日の現地時間で12日にも実施される恐れがある(毎日)と報道されている。
次いでもう一つの関心がワールドカップへ抗議のデモである。
今回のワールドカップの施設は、多くの貧民地域において強制的に立退かされた住民の犠牲の上で行われているという。また、ワールドカップの費用は天文学的に増加し国民に重くのしかかっているともいう。
毎日新聞の昨日(6月11日)夕刊の「特集ワイド:W杯開幕直前、盛り上がるのはデモやスト どうしたブラジル」の掲載写真は、「『必要なのは競技場でなく、学校だ』と書いたプラカードを掲げ抗議する教師たち」である。
興味深い内容の記事となっている。たとえば、「W杯開幕が近づくにつれ、再びデモが頻発。参加者の多くは『パンを』と訴えているわけではない。1兆円を超えるW杯開催費用を『税金の無駄遣い』と批判し、『その金を医療と教育の充実に回せ』と主張する。一方、賃上げを求めるストも絶えず、バスや地下鉄がしばしば止まる。鈴木さん(地元紙編集局長)は『インフレで国民の生活は苦しくなるばかり。デモが続く背景には、医療と教育に投資するというルセフ大統領の約束が1年たっても実行されないことへの不満がある』と解説する」
さらに興味深いのは、次の指摘。
「それでも食べることにきゅうきゅうとしていた頃なら、人々はサッカーで憂さを晴らした。しかし、そこから脱した膨大な中間層は『医療や教育の改善という、より高度化した要求』を持つようになっていた」「多くのブラジル人はスタジアムなどの施設整備に使われた金の何割かは、政治家の懐に入ったと信じている。彼らの目には、W杯も『政治家の政治家による政治家のためのイベント』としか映っていません」というのだ。
真っ当な人は、パンとサーカスのみにて生きるものに非ず。「ワールドカップよりは、医療と教育を」という要求は、真っ当で健全なものではないか。また、賃金カット覚悟でストライキを決行する労働者の自覚も真っ当ですがすがしい。ワールドカップ自国開催のの機会に、ブラジルの真っ当さを世界に示したストとデモ。「どうした ブラジル」どころではない。「たいしたものだ ブラジル国民」と見出しを打つべきだろう。
(2014年6月12日)
本日は東京「君が代」裁判第四次訴訟(原告14名)の第1回口頭弁論期日。係属は東京地裁民事11部。527号法廷の傍聴席は抽籤による傍聴者で埋まり、真摯な緊張感がみなぎった。
本日の法廷では、原告の教員3名と、原告ら代理人を代表した平松真二郎弁護士が、堂々の意見陳述を行った。約30分、合議体の裁判官3名のどなたもが真剣に耳を傾けてくれたという印象がある。
本日に限らないが、原告教員の陳述には襟を正さざるを得ない。多くの原告が、生徒に恥ずべきことはできないという、教育者としての真っ当な自覚から「日の丸・君が代」強制に従えないことを切々と述べることになる。人が人であるために、自分が自分であるために、そして教師が教育者であるために、生徒の信頼を裏切ってはならないとする動機から、「日の丸・君が代」強制に屈することができないというのだ。
書面にして裁判官に読んでも同じことかといえば、決してそうではない。法廷での立ち居振る舞いや肉声は、書面とはひと味もふた味も違った直接のコミュニケーション手段となる。原告3名の今日の意見陳述は、私の胸に重く響いた。
平松弁護士の陳述は、これから審理を担当する裁判所に向かって、「『既に言い渡されている同種事件の最高裁判決を踏襲して処理すればよい』などという安易な態度での審理や判決であってはならない」というもの。懲戒処分をめぐる事実関係は、これまでの最高裁判決事案とは大きく異なってきている。「日の丸・君が代」強制を違憲違法とする法的根拠は多岐にわたるが、最高裁判決は憲法19条論にしか触れていない。本件では最高裁が示した19条解釈の誤りを糺し、さらに公権力の教育への介入禁止などのその他の論点についても十分な審理をお願いしたい、というもの。
既に定年退職された男性教員原告お一人の陳述と、平松弁護士の陳述を抜粋してご紹介する。
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38年間の教員人生の中で、2003年に出された「10・23通達」の衝撃を忘れることはできません。それまでの都立高校では、生徒の目線に立った人学式・卒業式が、創意工夫を凝らして行われてきました。それが突然、一片の通達で「日の丸・君が代」強制の場に変えられたのです。それから10年以上が過ぎました。 今もなお、その強制と処分行政が続いていることに驚きます。
「10・23通達」以前の卒業式を思い出します。私は夜間定時制に長く勤務しましたが、定時制では途中で学校を去っていく生徒も少なくありません。ですから、困難を乗り越えて4年後にゴールにたどり着いた時の喜びは、言葉では言い表せないほどです。卒業式では、卒業証書を高々と掲げる者、ガッツポーズをする者、また、在学中に生んだ子どもを抱えて証書をもらう者、様々で、その姿に一人一人の人生が凝縮されるのです。私たち教師は、自主的に卒業式の役割分担を決め、生徒の動きに合わせて臨機応変に動きました。子連れの生徒の場合は、預かってあやすこともしました。年配の方や車椅子の生徒には近くに行って介助しました。式の会場も体育館ではなく、食堂を使ってフロア形式で行いました。形式的な「儀式」ではない、心を合わせて卒業生を祝うアットホームな式でした。
しかし、「通達」で、卒業式は一変しました。処分と脅しを背景とした職務命令が出され、式の形態や進行は通達通りの画一的なものになりました。会場である食堂に、意味のない「演壇」が持ち込まれ、校長が見下ろす形にされました。各学校の事情や工夫は一切認められず、生徒主体の式は圧殺されました。
生徒にまで「君が代」の起立斉唱が強制され、最近では生徒の「送辞」や「答辞」にも管理職のチェックが及ぶと聞きます。さらに、その命令体制は卒入学式にとどまらず、教育活動の隅々にまで及ぶようになりました。
退職直前の卒業式の時、私は3年生の担任でした。定時制は4年卒業が原則ですが、3年で卒業する道もあるので、3年の担任も卒業生を送り出します。
最後の卒業式で私は、「君が代」斉唱時に起立せず、処分を受けました。
私は「通達」以降、「日の丸・君が代」の強制には強い批判を持ちながらも、あえて不起立はしませんでした。生徒や同僚に与える影響も考え、踏み切れなかったのです。しかし、教育現場はどんどん息苦しくなり、「何を言ってもムダ」という気分が広がっていきました。退職を控え、私が半生をささげてきた都立高校教育とは何だったのか、これでいいのか、と思い悩みました。最後くらいは自分の気持ちに素直でありたい・・これが私の結論でした。
卒業式の2日後に東日本大震災が勃発し、日本国中が大混乱に陥りました。
その夜は職員室にごろ寝し、翌日からは生徒への連絡に忙殺されました。多くの方が津波で亡くなり、原発が爆発するという非常時に、都教委の職員が私の事情聴取のために学校を訪れました。震災の支援どころか、不起立教員への処分を最優先するこの対応は常軌を逸しています。
退職して1年後、私は教え子の卒業する姿を見たくて、副校長に何度も卒業式の問い合わせをし、やっと直前に形ばかりのお知らせが届きました。
当日、3年まで担任をした生徒たちが目の前にいるのに、会場にいる私の紹介は全くありませんでした。都教委の命令によるものです。卒業生退場の時に、私は出口に走って行って、生徒だちと握手して別れを惜しみましたが、退職した後まで不起立教員を排除し、生徒と教師の触れ合いを断ち切ろうとした都教委の卑劣さに、今でも怒りを感じます。
定時制での経験を少々話します。女子のAさんは、いじめをきっかけに中学3年間ほとんど学校に行かず、引きこもりの生活をしていました。定時制入学当初の彼女は、一人で電車に乗ってどこかに行くこともできませんでした。つまり、社会的な経験が極めて少ないのです。そんな彼女でしたが、心の通う友達ができると、休まず学校に通うようになりました。最後は生徒会の役員にまで立候補し、優秀な成績で卒業していきました。引きこもりだった生徒が、定時制というコミュニティーの中で自己を回復していく過程は本当に感動的です。
問題行動の多かった男子のB君は、学校外で事件を起こし、警察に補導され、鑑別所に入ってしまいました。彼はそれ以前も鑑別に入ったことかあり、今度は少年院送致もありうる状況でした。私は、彼を学校に戻したい一念で鑑別所に面会に行き、励ましました。家庭裁判所の審判の日、私も傍聴しましたが、裁判長が私に向かって「B君を学校で受け入れる用意があるか」と質問、私は「全力をあげます」と答えました。休憩を取った後、保護観察との結論が出ました。学校に戻った彼は、しだいに心を開くようになり、無事卒業しました。
生徒がどんな問題を抱えていようと、教師は生徒に寄り添い、彼らの成長のために全力を尽くします。しかし、都教委は、それとはまったく逆に、問題を抱えた生徒は切り捨てる、という姿勢を強めています。現場では自由闊達な教育実践が衰弱し、それが生徒の活動に否定的な影響を及ぼしています。一番の被害者は生徒なのです。この現状こそまさに「10・23通達」以来の職務命令体制の帰結です。生徒と教師の触れ合いを再び教育現場に取り戻すために、裁判官の皆様の賢明な判断をお願いして陳述を終わります
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1 2003(平成15)年10月23日のいわゆる10・23通達以来,東京都の公立学校において,卒業式等の儀式的行事において国歌の起立斉唱が義務付けられ,これに従わない教職員に対する懲戒処分が繰り返されています。これまでに延べ462名の教職員が懲戒処分を受けています。
10・23通達を巡っては,これまでに多数の訴訟が提起され,2011(平成23)年5月から2013(平成25)年9月までの間にいくつもの最高裁判決が出されました。これまでの最高裁判決の結論は,国歌の起立斉唱の義務付けは思想良心の自由に対する間接的制約であるが,義務付けの必要性,合理性があれば憲法上許容されるというものでした。
2 もとより,原告らは,国歌の起立斉唱の義務付け,その義務違反に懲戒処分をもってのぞむこと自体違憲であり,戒告処分を含めたすべての懲戒処分が違法であると考えて本件訴訟の提訴に至りました。
本件訴訟で問われている主要な論点は二つあります。
一つは,教育という社会的文化的営みに,国家がどこまで介入することが許されるのかという問題です。
戦前の教育は,神である天皇が唱導する戦争に参加することこそが忠良なる臣民の道徳であると教え込むものでした。富国強兵,殖産興業,植民地支配といった国家主義的国策の正当性を児童生徒に刷り込む場として教育が利用されました。国家のイデオロギーそのものが教育の内容となり、民族的優越と忠君愛国が全国の学校で説かれたのです。その結果が,無謀な戦争による惨禍となりました。
歴史の審判は既に下っています。教育を国家の僕にしてはならない。国家が教育内容を支配し介入してはならない。国家が特定のイデオロギーを国民に押し付けてはならない。
この普遍的な原理が日本国憲法26条,23条,そして13条として結実しています。そして教基法16条が教育内容に対する「不当な支配」を禁ずることを確認しています。あまりに大きな代償と引き換えに得たこの憲法上の理念をゆるがせにしてはなりません。
10・23通達は,教育内容を教育行政機関が定めるものであって,公権力による教育への支配介入にほかなりません。しかしながら,この重大な問題について、最高裁の各判決は,いまだに判断を示しておりません。
3 本件訴訟におけるもう一つの問題が,個人の精神の内面に国家はどこまで介入することが許されるのかという問題です。
前述のとおり,最高裁判決の結論は,国歌の起立斉唱の義務付けは,その必要性,合理性があれば憲法上許容されるというものでした。私たちは,この点に関する一連の最高裁判決には、その判断の枠組みにおいても、一定の必要性、合理性が認められるという点においても承服しがたいと考えて、司法判断の変更を求めて,本件の訴訟活動をおこなっていく所存です。
4 ところで,一連の最高裁判決には,数々の個別意見が付されています。補足意見においてもその多くが国歌の起立斉唱の「強制」に慎重な姿勢が示されています。
たとえば,2011(平成23)年5月30日第二小法廷判決(平成22年(行ツ)第54号事件)では,須藤正彦裁判官は,
「教育は強制ではなく自由闊達に行われることが望ましいのであって,……卒業式などの儀式的行事において,『日の丸』,『君が代』の起立斉唱の一律強制がなされた場合に,思想及び良心の自由についての間接的制約等が生ずることが予見されることからすると……あるべき教育現場が損なわれることがないようにするためにも,それに踏み切る前に,教育行政担当者において,寛容の精神の下に可能な限りの工夫と慎重な配慮をすることが望まれる」
と述べています。
そのほか,2011年の一連の最高裁判決では竹内行夫裁判官,千葉勝美裁判官,大谷剛彦裁判官,金築誠志裁判官,岡部喜代子裁判官が,2013年1月最高裁判決では桜井龍子裁判官が,2014年9月最高裁判決では鬼丸かおる裁判官がそれぞれ補足意見を述べています。
これらの各最高裁裁判官の補足意見では,国歌の起立斉唱の義務付けを推し進めても,不起立と懲戒処分との果てしない連鎖を生むだけであり,それがもたらす教職員の萎縮と教育現場の環境悪化を憂慮し,その連鎖を断ち切るために,寛容の精神のもとに思想良心の自由の重みを考慮して,「全ての教育関係者の慎重かつ賢明な配慮」を求め,「全ての関係者によってそのための具体的な方策と努力が真摯かつ速やかに尽くされていく必要」が説かれていました。
5 しかるに,都教委は,これらの最高裁判決を真摯に受けとめようとする姿勢を欠き、免罪符を得たとばかりに国歌の起立斉唱命令に従えない教職員に対する圧力を一層強めています。従前よりも処分内容が加重された懲戒処分を科すことにより教職員に対する強制を押し進めています。
本件の原告の中にも,複数回の不起立というだけで減給処分が科せられた者がいます。そこには,ただただ国歌の起立斉唱の義務付けを貫徹しようとする思惑だけが見て取れ、最高裁判決の各補足意見が,教育環境の改善を図るために寛容の精神及び相互の理解を求めたことについての配慮はみじんもみられません。不起立とそれに対する懲戒処分が繰り返される結果,教育現場の環境が悪化しようが,永続的に紛争が続くことになろうが,起立できない教職員に対して徹底的に不利益処分を科し,根絶やしにすることに固執する姿しか見られません。
このような姿は,最高裁裁判官の各補足意見の真意に沿うものではないことが明らかです。
6 それを措いても,本件訴訟においては,これまでの最高裁判決の多数意見の判断,結論に漫然と従って判断されてはなりません。
2011年の一連の最高裁判決以降,都教委の再発防止研修の強化など,より精神的自由に対する制約が強められていること,原告らに科された各懲戒処分の実質的内容が加重されていることなど事実経過を正確に認識したうえで,憲法19条が保障する思想良心の自由が侵害されているか否かが判断されなければなりません。また,都教委による教育内容介入が,教基法16条が禁ずる「不当な支配」に該当するか否かが判断されなければなりません。そして,懲戒処分を繰り返している被告の真の意図を直視した判断がなされなければなりません。
最高裁判決の多数意見の結論のみに漫然と従い,硬直した判断を行うことは,「いたずらに不起立と懲戒処分の繰り返しが行われていく事態」を黙過し,各最高裁裁判官が危惧した国歌の起立斉唱の義務付けに端を発する教育現場の荒廃をも容認するものにほかならず,はからずも貴裁判所の判断が,教育環境を悪化させる一端を担う結果となるのです。
訴訟の冒頭に当たって,このことをくれぐれも強調し,教育の本質についての深い洞察に基づいた的確な訴訟指揮を求めるものであります。
この陳述が実る日の来たらんことを。
(2014年6月11日)