舛添要一さん、あなたの都知事としての言動には、注目もし期待もしている。注目しているのは、都政が人権や民主主義あるいは教育・環境・消費生活等々に、とても大きな影響をもっているからだ。とりわけ、私の当面の関心は都立校での国旗国歌強制政策の転換だ。
期待しているのは、あなたの姿勢のリベラルさ故にだ。保守であってもリベラルではありうる。リベラルでさえあれば話し合いも歩み寄りも折れあうこともできる。その点、石原慎太郎とは大違いだ。東京都のホームページ「知事の部屋」で、あなたの記者会見の模様を動画で見ることができる。毎週金曜日午後3時からの定例記者会見の要旨は、各紙が報道もしている。就任以来のあなたの発言の態度も内容も、概ね好感のもてるものだ。もっとも、石原慎太郎との比較をベースにしてのことだから、あなたにはご不満だろうが。
石原記者会見は、やたらに威張りたがるキャラクター丸出しの不愉快な雰囲気だった。威圧的な姿勢に若い記者が気圧されていた。あなたの前任の石原後継知事も「威張りたがりキャラクター」のDNAを受け継いでいた。しかし、あなたは違う。目線を同じくして飾らずフランクに記者諸君と話し合う姿勢の好感度は大だ。やたらと威張らないというそのことだけで、石原時代よりもずっと期待がふくらむのだ。
あなたの言っていることは、常識的でリベラルだ。知性の自信に裏打ちされた余裕を感じる。憲法理念への理解も相当なものだ。都政がいつまでも暗黒の中世から抜け出せないでは困るのだ。あなたに、開明のルネッサンスへの転換の期待がかかっている。
ところが、「日の丸・君が代」問題については、どうもあなたの言うことがおかしい。リベラルでもなければ、知性の片鱗も見えない。ルネッサンスの明るさはなく、キリシタン弾圧や特高警察時代の暗さのままだ。どうなっているのだろう、と首を傾げざるを得ない。
舛添さん、あなたはあまりにも事実の経過を知らない。いや、知らされていない。また、あなたも知ろうとしていない。おそらくは関心が振り向けられていないのだ。教育委員会が独立行政委員会であることを口実に、面倒な問題を避けているとしか見えない。しかし、この問題の発端は石原都知事の国家主義イデオロギーを教育に持ち込んだところにある。あなたには、都知事としてこの右ブレを是正する責任がある。ことは、教育の問題であり、民主主義に大きく関わる問題なのだから、良心と勇気をもっていただきたい。
あなたに関心ないとして放置されては困る。ぜひとも、現状の教育の歪みを是正し、誰が見ても異常な東京都の教育を真っ当なものとする努力をしてもらわねば困るのだ。困るのは、訴訟当事者や教員だけではない。何よりも教育現場の子どもたちが困る。明日の主権者を育てる教育そのものが困り果てている。都民が困る。国民が困る。舛添さん、あなただって、このままでは教育には見識のない不適切知事と指摘されることになって困るはずなのだ。
まずは、もう少し、首都の公立校の教育現場の実情とこれまでの経過について、正確に把握されるようお願いしたい。教育庁幹部の、保身の報告だけを信用していたのでは、無能なお飾り教育委員同様、裸の王様のままとなってしまう。
少なくともこれだけは押さえていただきたい。1989年学習指導要領の国旗国歌条項改定前の「都立の自由」がどのようなものであったか。1999年国旗国歌法の内容はどのようなものであったか。同法案の審議の経過では「国旗国歌を強制するものでない」ことがあれだけ繰りかえし強調されながら、「石原教育行政」はどのようにして強制に踏み切ったのか。2003年10月の「10・23通達」が、どのような経過で出され、どのように教育現場に混乱を持ち込んだか。そして、いくつもの訴訟で、どのような判決が出ているのか。そして、現在なお、多くの訴訟が継続中で、最近の判決は都教委の連戦連敗であること、などである。そして、最高裁判決に付せられた、異例の補足意見の数々をよくお読みいただきたい。最高裁の裁判官諸氏は、けっして「日の丸・君が代」強制を問題ないとはしていない。むしろ、ぎりぎり「違憲とまでは言えない」とはしつつも、都教委の強引なやり方に苦り切った心情を露わにして、なんとか事態を改善しろよ、と言っていることを知ってもらいたい。
これまでの都の教育行政による、反憲法的反教育的な教育への介入に、直接あなたの責任があるわけではない。責任があるのは、石原都知事であり、その提灯持ち教育委員であり、それにつるんだ右翼都議の何人かであり、使い走りをさせられた教育庁の幹部職員である。
その多くは既にその任にはない。幹部職員に若干の残党がいる程度。あなたはいま、英断を下すことができる立場だ。しかし、時期を失すると、あなた自身の責任が出て来る。後戻りが難しくなってくる。早期に、手を打っていただくことが肝要だ。
私は確信している。あなたの感覚なら、経緯さえ正確に把握すれば「日の丸・君が代」不起立の教員の心情を理解できないはずがない。思想・良心の自由(憲法19条)、信教の自由(20条)、個人の尊厳(13条)への洞察の素養があるはずだ。にもかかわらず、あなたは、教育庁の担当職員にブロックされて、これまで都教委がいったい何をやって来たのか、いまどんな問題を抱えているのか、何も知らないことをさらけ出した。それが、6月12日金曜日の定例会見の席上でのことだ。
「週刊金曜日」の記者が、東京都敗訴の最近2判決についてあなたに質問をした。そのやや長い質問自体から、記者が問題に精通していることは明らかだった。ところが、質問を受けたあなたの方はほとんど何も知らないことを明らかにした。何も知らないが、自ら知ろうとはしない。この問題を都教委任せにしていればよいとの姿勢であることが明確になった。
記者の質問は、都(都教委)が1週間に2度の敗訴判決を受けるという異常な事態を踏まえて2点あった。
第1点 東京高裁の都教委敗訴判決がその理由中で、「都教委の国旗国歌問題に関する懲戒処分の量定決定は機械的な累積加重の手法となっている」「これは教員の思想・良心の自由を侵害する」と判示している。ここまで裁判所が明示した以上は機械的累積加重処分はやめるべきだと思うが、この点についての知事の見解を伺いたい。
第2点 これまで10・23通達以後の君が代処分を受けた教師は474人にのぼっている。この教師たちは、都と話し合いで問題を解決したいと望んでいる。教育の正常化のためにこれに応じる意思はないか、知事の見解を伺いたい。
これに対するあなたの回答は、おかしいものとなった。しかし、そのおかしさ自体が貴重な情報だ、削除せずに全部の映像を公開していることを評価したい。あなたは判決を読んでいないだけでなく、判決の内容や要旨の報告さえ受けていない。質問した記者の説明にもかかわらず、機械的累積加重処分の意味も理解できていない。そもそも裁判で、何が争点となり、なぜ東京都が惨めに敗訴したか、担当職員からの説明はなかったと判断せざるを得ない。
質問した記者も指摘をしているが、あなたには基礎事実について、大きな誤解がある。
どうも、あなたは、474人の懲戒処分の根拠が「国旗国歌法違反」にあるとお考えの節がある。
最後は、意味不明となる発言まで拾って、つなげてみると以下のようになる。
「国権の最高機関が法律を作っているわけですね。国旗日の丸、国歌君が代ということで。だから、公務員でありますから、当然それを守らないといけないという義務がある」「だから、これは思想の自由の侵犯だみたいな形では簡単にいかない」「国旗国歌法自体が、それでは憲法違反なのかと、こういう議論にもなるので」「私は国権の最高機関が決めたことなので、今言った問題点があるとしか申し上げません」「国歌って歌うから国歌ではないですか。そうでしょう。だから、そこまで言うと、それは屁理屈の世界になってしまうので、私はやはり国権の最高機関で決められたものは守るべきだと思っています。」
舛添さん、あなたは、「国旗国歌法を守らなければならないのか否か」を争点として訴訟が行われているとのご理解のようだ。知事就任以来、1年半に近い。その間、職員の誰一人として、あなたに訴訟の概要についての説明をする者がなかったということになる。
舛添さん、教育行政に関心をもっていただきたい。石原知事は極右の立場から、過剰に教育と教員行政に干渉した。それを放置していてはならない。都教委が、都知事から独立した立場にあることへの配慮は当然として、6月12日記者会見での質問には、まともに答えられるようにお願いをしたい。
何よりも、事実を知っていただきたい。私に報告を求められれば、喜んで出向きたい。あなたのリベラルな素養が、正確な事実経過についての認識さえあれば、これまでの都の教育行政がいかに無茶苦茶であるかについて共感してもらえるものと思う。そこから、異常な教育現場の現状を変革し、教員の意欲にあふれた教育現場を取り戻すために一歩を踏み出すことが可能となるはずである。くれぐれも申しあげる。今のままでは東京の教育はダメなのだ。
(2015年6月20日)
アメリカ南部・サウスカロライナ州の教会で9人が惨殺された。殺人者は21歳の白人男性、乱射された銃弾で亡くなったのはいずれも黒人の9人。現地時間6月17日夜(日本時間18日午前)のこと。教会で、無防備の人々を襲った悲劇。その理不尽に胸が痛む。
逮捕された犯人は日頃から人種差別の言動を露わにしており、典型的なヘイトクライムであると報じられている。また、この犯人は本年4月、21歳の誕生日に親から銃を買ってもらっているともいう。社会の暗黒と人の心の底に秘められた暗部とが噴出した印象。恐るべき社会の恐るべくも悲惨かつ醜悪極まる犯罪。
生まれながらの差別主義者はいない。生得の偏見はない。人は、物心ついてから理不尽な差別や偏見の感情を、社会や家庭から学んで獲得していくのだ。彼の地の黒人差別、ユダヤ人差別、ヒスパニックやアジア人に対する差別感情。そして、身近な問題として在日の人々への理由なき偏見、ヘイトスピーチ。どのようにすれば、差別や偏見を克服できるのだろうか。
惨劇の舞台となった教会は、マーチン・ルーサー・キング牧師が訪れたこともある、公民権運動にゆかりの場所であるという。「キングセンター」は、殺害された人々に哀悼の意を表すとともに「キング牧師の魂、そして、その哲学に従い、私たちはいかなる人種差別、憎しみ、戦争、そして、暴力に強く反対します」とコメントしたという。「差別、憎しみ、暴力、そして戦争」が、否定さるべき負のキーワードとされている。
たまたま、本日の赤旗文化欄「今月の詩」に、おぎぜんたの「虐殺記念日のヤモリ」という題の詩が紹介されている。「ルワンダの虐殺記念日の夜」にちなんだ沈痛な詩。その中で、次の歌の一節が引用されている。
ある人種が優れていて
ある人種が劣っているという哲学が
永久にこの世から抹殺されるまで
この世はいつまでも戦争だ
注がついている。「ボブ・マーリーの歌『ウォー』から(エチオピアのハイレセラシェ皇帝の演説をもとにした歌である)」と。キングセンターのコメントと符節がピッタリだ。今日だからこそ、この歌詞が深く胸にしみいる。
ネットで検索すると、こんな訳文も見つかった。
ある民族がある民族より優れている、または劣っている
そんな思想が、最終的かつ永続的に根絶され廃棄されない限り
いたるところで、戦いは続いていく
いかなる国においても、市民の間に差別がなくなり
人間の肌の色が目の色と同じく意味をなさなくなるその日まで
戦いは続いていく
この歌の中の「人種」「民族」は、いろいろに置き換えられる。宗教、言語、家柄、門地、地域、性別、年齢、職業、経済力、学歴、身体能力、容姿……。人と人の間に、尊厳における優劣があると認めるところに、諍いの火種が生じる。諍いは憎悪であり、暴力を生み、戦争にもつながる。
この歌の中の「戦争」は、象徴的な意味であるだけではなく、現実の国家間の武力衝突でもあり陰惨な殺戮でもある。
差別と偏見とは、社会に埋め込まれた毒物であり自爆装置である。その処理を誤れば社会が崩壊する。人類の壊滅にもつながりかねない。だから、社会は理不尽な差別と偏見を克服しなければならない。そのためのあらゆる努力をしなければならない。それが、あらゆる憎しみや暴力をなくし、さらには戦争をなくする正道となるだろう。
(2015年6月19日)
昨日(6月17日)改正公職選挙法が成立した。これで、18歳のキミたちにも選挙権が与えられる。国政選挙・地方選挙で投票ができるだけではない。憲法改正国民投票の権利が君たちのものとなる。憲法を変えて新しい国の形を作ることが、君たち若者の役割だ。そのための18歳選挙権だということを肝に銘じていただきたい。憲法改正を期待されている君たちに私のホンネを語るから、心して聞きたまえ。
君たちにとっては古い歴史でしかないかも知れないが、70年前までの我が国は、皇紀輝く強国だった。富国強兵をスローガンとした一億一心の国柄で、台湾を植民地とし、朝鮮を国土に組み入れ、満州の建国を助けた。しかも、皇国の対外政策は、西欧列強に虐げられた東亜の民族の解放であり、五族共和の王道楽土建設という崇高な理想を目指すものであった。
ところが、我が国の精強と東亜の解放を快く思わぬ勢力に対して、我が国の生命線である満蒙の権益を守るために、自存自衛の戦争を余儀なくされた。我が軍と国民は一体となり、ナチズム・ドイツやファシズム・イタリアを盟友とし、世界を敵にまわしてよく闘った。
時に利あらずして善戦もむなしく我が軍は敗れた。しかし、果敢な健闘は皇国臣民としての矜持に照らしていささかの恥じるところもない。遺憾とすべきは、経済的生産力において欧米に比肩し得なかったことのみだ。臥薪嘗胆して、再び敗戦の憂き目を見ることのない強国を作り直さねばならない。これが、「日本を取り戻す」と私が常々唱えている内容だ。
ところが、戦後は風向きが変わった。「富国」はともかく、「強兵」のスローガンが吹き飛んでしまっている。挙国一致に代わって、個人の尊重だの、憲法だの、平和だの、人権だの、そして自由だのというゴタクが幅を利かせている。これでは他国から侮られるばかりではないか。私が、「戦後レジームからの脱却」をいうのは、そこを嘆いてのことなのだ。
戦後謳われた理念のなかで「民主主義」だけが唯一素晴らしいものだ。私の理解では、民主主義とは、選挙に勝ったものにオールマイティの権限を与えるもの。このような民主主義観は、私とウマが合う橋下徹も認識はおなじだ。選挙という神聖な手続を通じて、国政を任された私だ。次の選挙で主権者の意思が私を否定するまでは、ぐずぐず言わずに私に任せておけばよいのだ。
それに対して、「権力も憲法の矩を超えられない」とか、「憲法は権力を縛るためにある」とか、立憲主義とは「民主的に構成された権力といえども手を付けてはならない原則を定めること」などと、七面倒な小理屈が聞こえてくる。そんなことを言ってる奴に、「黙れ、非国民」と言ってやりたいが、残念ながらいまはさすがにそうは言えない。せいぜいが、「ニッキョウソ」「はやく質問しろよ」とヤジる程度で隠忍自重せざるを得ない。
18歳のキミたちに聞きたい。どうだね、憲法がこんなものなら有害だとは思わないかね。私は、日本の国家と国民の安全を守るために、精一杯働こうとしている。憲法がその私の手を縛るとすれば、憲法こそ国家と国民の安全の敵ではないか。憲法を守ることと、国民の利益を守ること、この二つを較べてどちらをとるのか。私は躊躇なく国民の利益をとるね。それがなぜ叩かれるのか、いまだによくわからない。
やはり昨日(6月17日)の党首討論で、この点が浮き彫りになった。このことを伝えるNHKニュースWEB版の報道が私の問題意識をかなり正確に伝えている。さすがは、NHK。「政府が右といえば左とは言えない」の言葉を実践している。これを素材に憲法を語っておきたい。
安全保障関連法案を巡り、安倍総理大臣は党首討論で、憲法解釈の変更の正当性、合法性は完全に確信を持っていると述べました。
キミたちも参考に覚えておきたまえ。自信のないときこそ、断乎たる口調で結論だけを繰り返すのだ。根拠や理由までは言わなくてもよい。人柄のよい大方の国民は、それだけで納得してくれる。マスメディアも、産経と読売だけではなく大方は私の味方だ。私の味方をした方が得になることは皆心得ている。メディアも上手に私をフォローしてくれる。
憲法学者からは、国際情勢に応じて憲法解釈が変わっていくのは当然のことだという意見がある一方、なぜ法案が憲法違反ではないと言えるのか、明確な説明はなかったという指摘もあります。
さすがは、政府子飼いのNHKの報道。これだと、まるで憲法学者の意見が半々に分かれているような錯覚を与えるだろう。あとで、籾井勝人を褒めておかなくてはならない。
安全保障関連法案を巡り、菅官房長官が、違憲ではないと主張している憲法学者の1人として挙げた中央大学の長尾一紘名誉教授は、党首討論の内容について「環境の変化に応じて憲法解釈が変わっていくのは当然のことだ。どこまでが必要な自衛の措置に含まれるかは、国際情勢を見ながら判断していくべきだという安倍総理大臣の説明は、ポイントを押さえている」と指摘しました。
事情をよく分からぬ人が聞けば、長尾一紘が多くの憲法学者の意見を代表する立場にあると誤解してくれるだろう。そこが付け目だ。しかも、「環境の変化に応じて憲法解釈が変わっていくのは当然のことだ」と憲法学者にお墨付きをいただいたのだから、ありがたい。これこそ、立派な先生だ。
我が国を取り巻く安全保障環境が変わったのだから、これまでは集団的自衛権行使は違憲だと言っていたけれども、この度は合憲としたのだ。どのような軍事行動ができて、どのような軍事行動が禁止されるか。それは、「環境の変化」次第。環境の変化の有無は、私が責任をもって判断する。できることとできないことを総理が仕分けする。これこそが、「ポイントを押さえている」ということだ。
そのうえで、「法案が分かりにくいのは確かだが、安全保障に関することを、すべての国民が詳しく理解するのは難しく、基本原則を説明したうえで法案の成立を図るべきではないか」と述べました。
そのとおりだ。この先生はものがよく分かっている。「安全保障に関することを、すべての国民が詳しく理解するのは難し」いのは当然だ。だから、選挙で選ばれた私を信頼すればよいだけの話。信頼できなければ次の選挙で落とせばよい。それが民主主義というものだろう。
一方、衆議院憲法審査会の参考人質疑で法案は憲法違反だと指摘した早稲田大学の長谷部恭男教授は、「法案がなぜ憲法違反ではないと言えるのかについて、安倍総理大臣から明確な答弁、説明はなかった。相変わらず砂川事件の判決を集団的自衛権行使の根拠にしていたが、この判決からそうした論理は出てこない」と指摘しました。
そのうえで、「これまでの憲法解釈を1つの内閣の判断でひっくり返すことを認めれば、今は憲法違反とされている徴兵制も、その時々の内閣の判断で認められることになりかねない」と述べました。
こういう輩を曲学阿世の徒という。国家よりも、国民よりも、憲法の字面が大切という人種だ。あろうことか、徴兵制までもちだして、これで若者諸君を脅かしたつもりでいる。
ところで18歳の諸君、私だって憲法を守らないとは一言も言ったことはない。ただし、憲法のイメージがずいぶん違うようだ。キミたちは、憲法という枠組みの素材はどんなものとお考えかな。鋼鉄? 木材? ガラス? 陶器? それともコンクリートかな?
私は、憲法はゴムでできているのだと思う。あるいは粘土だ。伸縮自在で融通無碍なことが大切なのだ。所詮、憲法とは道具ではないか。使い勝手のよいものでなくては役に立たない。
それにしてもだ、ゴムの伸び縮みにも限度がある。もっともっと使いやすいものに取り替えたいというのが、私の望みなのだ。だから、18歳諸君。私に力を貸していただきたい。憲法改正に邁進し、再び他国からないがしろにされることのないよう、いざというときには戦争ができる国をつくろうではないか。そしてけっして戦争では負けないだけの精強な軍隊を作ろうではないか。キミたち若者が真っ先に兵士となって戦場に赴き、祖国と民族の歴史を守るために、血を流す覚悟をしてもらいたい。そのための、18歳選挙権であるということを肝に銘じて忘れないように。
(2015年6月18日)
人を助けることは美しい行為だ。しかし、安倍内閣を助けようなどとは醜いたくらみ。平和憲法擁護こそが美しい立派な行為だ。ボロボロの戦争法案の成立に手を貸そうとは、不届き千万ではないか。仲裁は時の氏神という。だが、この期に及んでの維新の動きは、「時の死神」たらんとするものにほかならない。
そもそも、維新とは何ものか。誰もよくはわからない。おそらく当の維新自身にも不明なはず。自民を見限り、期待した民主党政権にも裏切られた少なからぬ有権者の願望が作りだした「第三極」のなれの果て。「自民はマッピラ、民主もダメか」の否定の選択が形となったが、積極的な主義主張も理念も持ち合わせてはいない。あるのは、民衆の意識動向に対する敏感な嗅覚と、自分を高く売り込もうという利己的野心だけ。
しかし、ここに来て大きな矛盾が露呈しつつある。「国民意識環境」の大きな変化が、ポピュリズムと利己的野心の調和を許さない状況を作りだしていることだ。ポピュリズムに徹すれば党の独自性発揮の舞台なく埋没しかねない。さりとて、利己的野心を突出させれば確実にごうごうたる世論の非難を受けることになる。
さらに、維新への世論の支持は急速に低下している。真っ当な良識からの評価は皆無といってよいだろう。議席の数は不相応な水ぶくれ。国会内での存在感も希薄だが、国会の外ではほとんどなんの影響力もない。次の国政選挙では見る影もなくなる公算が高い。「崩壊の危機」という見方さえある。彼らの危機感も相当なものであろう。
そのような折り、危機乗り切りの焦りからか、労働者派遣法改正法案審議での「裏切り」に身を投じた。どうやら、毒をくらわば皿までの勢い。農協法改正法案の「対案」を提出して自公との修正協議を迫っている。そして、いまや窮地に陥っている、戦争法案の救出に手を貸そうというシナリオが見え見えである。
しかし、ここはよく考えた方がよい。自公と組むメリットばかりに目が行っているようだが、それは確実に滅びの道なのだ。権力の甘い腐臭の誘惑の先には、食虫植物の餌となる昆虫の運命が待ち受けている。
我が身を安倍政権と与党に売り込むには、いまがもっとも高価に値を付けることができる時期との打算。しかし、安倍政権に手を差し伸べることは、憲法と平和を売り渡すことであり、そしていまや世論に背を向けることでもある。
戦争法案の違憲性は、既に国民に広く浸透し確信にまでなっている。丁寧に説明すればするほどボロが出てくる。安倍は、丁寧にはぐらかし、丁寧に都合のよい部分だけをオウムのごとくに繰り返してきたが、それでもこの体たらく。いまや、誰の目にも愚かで危険なピエロとなり下がってしまっている。
政府が法案を合憲と強弁する根拠は完全に破綻した。まさしく「違憲法案のゴリ押し」「憲法の危機」の事態が国民の目に明らかとなり、法案撤回を求める国民世論は大きく盛りあがっている。やや反応が鈍かったメディアもようやくにして重い腰をあげつつある。このとき、まさかの伏兵として維新が安倍政権に手を貸そうというのだ。
「維新の党が今国会に提出する安全保障関連法案の対案の骨子が16日、明らかになった。集団的自衛権を使って中東・ホルムズ海峡で機雷を取り除くケースを念頭に、『経済危機』といった理由だけで自衛隊を送ることができないようにする。安倍晋三首相は同海峡での機雷除去に強い意欲を示しており、修正協議になった場合の焦点になりそうだ。対案は来週にも国会に提出する。」(朝日)
政府も与党も大歓迎で協議に応じることだろう。
おそらくは、維新はこう考えている。
「いまこそ、我が党の存在感を示すとき。数の力では自・公が圧倒しているのだから、この法案はいずれ通ることになる。それなら、少しでもマシなものにしておくことで、世論のポイントを稼げることになるはず」
維新は、戦争法案推進勢力と反対勢力との間に立って、「時の氏神」を気取っているのだろう。しかし、朝日が報道する維新の「対案」は、政府提案の腐肉にほんのひとつまみの塩を振りかけた程度のもの。腐肉は腐肉。法案違憲の本質はまったく変わらない。維新案はその実質において、憲法の平和条項に対する死の宣告に手を貸すものである。
維新の諸君よ、鋭敏な嗅覚で世論の法案反対の高まりを見よ。戦争法の成立に手を貸すことが、国民の大きな怒りを招き自らの滅亡に至ることを直視せよ。だから、こう一声かけざるを得ない。「君、死神となるなかれ」と。
(2015年6月17日)
溺れる者は藁をもつかむ。藁をつかんだところで詮ないことを知りつつもの人の性。昨日(6月15日)の記者会見で、長谷部恭男が語っている。政府が戦争法を合憲という論拠の説明についてである。「藁にもすがる思いで砂川判決を持ち出してきたのかもしれませんが、藁はしょせん藁、それで浮かんでいるわけにはいきません。」
砂川判決は、あれは藁なのか。藁に過ぎないのだが、そのほかに戦争法案を合憲というすがるべき根拠がなにもなかったから、やむなくこれにすがったというのだ。言い得て、まことに妙である。
ところが、政府はこの藁すらも捨てた。すがっても詮ないことを思い知らされたからだ。「衆院平和安全法制特別委員会は15日、一般質疑を行った。中谷元(げん)防衛相は、1959年の最高裁の砂川事件判決が集団的自衛権の行使容認を合憲だと判断する根拠になるかどうかについて『直接の根拠としているわけではない』と明言した」。藁とすがった砂川判決を捨てて、「中谷氏は『(根拠は)あくまでも72年の政府見解の基本的論理だ。砂川判決を直接の根拠としているわけではないが、砂川判決はこの基本的な論理と軌を一にするものだ』と答え、政府が個別的自衛権の行使を認めた72年見解が根拠との考えを示した」(以上、毎日)。
おや、72年見解の論理に説得力がなかったから、砂川判決を持ちだしたのではなかったの? いずれにせよ、「72年政府見解」は集団的自衛権行使違憲の説明でしかない。こりゃダメだ。同見解は藁よりか細い。いや、そもそも水に浮かない。
念のために、72年政府見解の末尾の部分を引用しておこう。
「わが憲法の下で武力行使を行うことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであって、したがって、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない。」
ところで、今朝の東京新聞が紹介している、長谷部恭男・小林節共同記者会見のボルテージはたいしたものだ。お二人の、憂い・怒り・使命感・心意気が痛いほど伝わってくる。まことにその言やよし。とりわけ、戦争法が成立した場合の対応についての発言には驚いた。感嘆するしかない。
長谷部:国政選挙で新しい政府を成立させ、いったん成立したこれらの法律を撤回することを考えるべきだ。
小林:次の選挙で自民党政権を倒せばよい。最高裁判決を待つより、よほど早い。
「安保ハンタイ。安倍を倒せ」なのだ。
この会見に刺激されて、ひねってみたのが次の戯れ歌。
藁は藁 所詮頼りにならねども 大船なければ すがるやむなき
砂川のよどみに浮かぶわらひとつ つかみかねてぞ 安倍は沈まん
高村から岸田にそそぐ砂川の 中の谷にて枯れる安倍(あんばい)
砂川で 立憲主義の 浮き沈み
藁捨てて すがるは維新橋の下
自と公と維新もろとも 泥の下
(2015年6月16日)
6月15日。55年前のこの日、東大生樺美智子が日米安保条約改定反対のデモの隊列の中で、警官との衝突の犠牲になった。当時私は高校2年生だったが世情騒然の雰囲気が印象に深い。津々浦々に「アンポ・ハンタイ」「岸を倒せ」の声が響いていた。
あの大国民運動をつくり出したものは、何よりも戦争を拒否し平和を願う圧倒的な国民の願いであったろう。当時戦後15年、戦争の記憶は成年層には鮮明に残っていた。「再びの戦争はごめんだ」「危険なアメリカとの軍事同盟なんぞマッピラ」という感覚が国を覆っていた。当時も、政府はアメリカとの同盟が「東」側からの攻撃に抑止効果をもつと宣伝したが、多くの国民が耳を傾けるところとはならなかった。
そして、安保反対国民運動が盛りあがったもう一つの契機が、衆議院での強行採決である。「アンポ、ハンタイ」の大合唱は、平和と民主主義についての危機感が相乗してのこと。その運動の標的となった敵役が、A級戦犯・岸信介であった。
今、再びの「安保ハンタイ」の声。「戦争法案を廃案に」「憲法を壊すな」「安倍を倒せ」の掛け声が全国に渦を巻いている。半世紀を経て、岸信介の孫、安倍晋三が敵役だ。今度は平和主義・民主主義だけでなく、「立憲主義を壊すな」がスローガンに加わっている。
今や、60年安保を彷彿とさせる運動の勢い。状勢は、明らかに憲法擁護勢力が、安倍ゴリ押し改憲内閣を追い詰めている。ところが、このときに意外な伏兵が現れた。裏切り・寝返りと言ってよかろう。維新の動きである。見方によっては、もっとも自分を高く売るタイミングをはかっていたのではないだろうか。維新は、労働者派遣法案で民主・生活と組んで、与党案へ反対で足並みを揃えていたはず。それが、あっという間の自民への摺り寄りだ。
この伏兵の動きが戦争法案反対運動にも影響しかねない。昨日(6月14日)、ゾンビ橋下が安倍と醜悪な3時間の会見。その後、橋下はツィッターで「維新の党は民主党とは一線を画すべきだ」と述べているそうだ。安倍とは蜜月。「自民党とは一線を画すべきだ」とはけっして言わない。
しかし、覚えておくがよい。裏切り・寝返りは、リスクを伴う行為だ。できるだけ高い対価を求めてのタイミングでなされるが、高い対価には相応の大きな危険が伴うことになる。策士策に溺れるのがオチとなろう。
ユダはイエスを売って銀貨30枚を得た。小早川秀秋は、関ヶ原の裏切りで55万石の大大名となった。古来、裏切りの動機も対価の多寡もさまざまだが、共通しているのは、裏切りが打算であること、できるだけ高く売れるタイミングで実行されること、そして、打算ゆえの裏切り者の末路が惨めであること、汚名が長く残ること。
そして、よく覚えておこう。最近教えられて印象に残ったブレヒトの言葉だ。
ベルトルト・ブレヒトは、その著「戦争案内」の最後で、ヒトラーの写真を指しつつ、こう言っているそうだ。
こいつがあやうく世界を支配しかけた男だ。
人民はこの男にうち勝った。
だが、あまりあわてて勝利の歓声をあげないでほしい。
この男が這いだしてきた母胎は、まだ生きているのだ。
腹を切ったはずの落城の將がゾンビとなってうごめく醜悪な世の中だ。問題はゾンビ自身ではなく、むしろゾンビを産みだした母胎の方だ。この母胎はまだ暖かい。戦争法案をめぐる憲法擁護の戦いは、この母胎との戦いでもある。
(2015年6月15日)
私が被告とされているDHCスラップ訴訟は、7月1日に結審予定となっている。、
その7月1日(水)の予定は以下のとおり。
15時00分? 東京地裁631号法廷 第7回口頭弁論期日。
被告本人(澤藤)意見陳述。その後に弁論終結。
15時30分?17時 東京弁護士会508号会議室 報告集会
弁護団長 経過説明
田島泰彦上智大教授 ミニ講演
本件訴訟の各論点の解説とこの訴訟を闘うことの意義
弁護団・傍聴者 意見交換
判決報告集会の持ち方
他のDHCスラップ訴訟被告との連携
原告や幇助者らへの制裁など
被告本人 お礼と挨拶DHCスラップ訴訟
7月1日法廷では、私が口頭で意見陳述をする予定。その予定稿を掲載する。やや長文だが、読み物としても面白いのではなかろうか。この日、結審となって次回は判決期日となる。ぜひ、ご注目いただきたい。憲法上の言論の自由に関わるだけではない。政治とカネの問題にも、消費者問題の視点からの規制緩和問題にも関連している。
心底から思う。こんなスラップ訴訟の横行を許してはならない。そのためには、まず勝訴判決を取らなければならない。
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目 次
はじめにー本意見陳述の目的と大意
1 私の立場
2 ブログ「憲法日記」について
3 「本件ブログ記事」執筆の動機
4 言論の自由についての私の基本的な理解
5 「本件ブログ記事」の内容その1ー政治とカネの関わりの視点
6 「本件ブログ記事」の内容その2ー規制緩和と消費者問題問題の視点
7 原告らの「本件提訴」の目的とその不当
8 原告DHC・吉田の関連スラップ訴訟
おわりにー本件判決が持つであろう意味
はじめにー本意見陳述の目的と大意
口頭弁論終結に際して、裁判官の皆さまに意見を申し上げます。
本件の法律的な論点については、被告代理人が準備書面で主張し尽くしています。私の陳述は、必ずしも法的構成にとらわれることなく、被告本人として周辺の事情について裁判官のご理解を得たいとするものです。ぜひ、耳を傾けていただくようお願いいたします。
私は、人生ではじめての経験として突然に被告本人となり、この1年余の期間、心ならずも被告として応訴を余儀なくされる立場に置かれて来ました。当初は2000万円、途中請求の拡張があって6000万円の支払いを請求される立場の被告です。当然のことながら、心穏やかではいられません。不当な提訴と確信しつつも、あるいは不当な提訴と確信するからこそ、不愉快極まりない体験を強いられています。
どんな提訴に対しても、応訴には、時間も労力も、そしてある程度の費用もかかります。軽率で不当な提訴が、被告とされる者にいかに大きな有形無形の負担を強いるものであるか、身に沁みて実感しています。この理不尽極まる事態を受容しえません。到底、納得することができません。
どう考えても、私に違法と判断される行為や落ち度があったはずはありません。私は、憲法で保障されている「言論の自由」を行使したに過ぎないのです。いや、むしろ、私は民主主義社会の主権者のひとりとして、社会に有益で有用な言論を発信したのだと確信しています。提訴され被告とされる筋合いはありえません。
本件で問題とされた私の言論は、政治とカネにまつわっての民主主義的政治過程攪乱への批判であり、消費者利益が危うくなっていることに関しての社会への警告です。「民主主義の政治過程をカネの力で攪乱してはならない」という自明の大原則に照らして厳しく批判されるべき原告吉田の行為に対して、必要で適切な批判と警告の言論にほかなりません。
この点についての私の真意を裁判官の皆さまに、十分ご理解をいただきたく、以下のとおり意見を申し述べます。
なお、もう一点お願いしておきたいことがあります。私の書いた文章が、原告の訴状ではずたずたに細切れにされています。貴裁判所の指示で作成された「主張対照表」においても同様です。原告は、細切れになった文章の各パーツに、なんとも牽強付会の意味づけをして、「違法な文章」に仕立て上げようとしています。貴裁判所には、くれぐれも、原告が恣にした細切れのバラバラ文章の印象で、違法性の有無を判断することのないようにお願いしたいのです。
まずは原告が違法と非難する5本の各ブログの文章全体を、私が書いたとおりの文章としてよくお読みいただくようにお願いいたします。文章全体をお読みいただくことで、常識的な理性と感性からは、各記事が、非難すべきところのない政治的言論であることをご理解いただけるものと確信しています。
1 私の立場
私は、司法修習23期の弁護士です。学生時代に、松川事件被告人の救援運動や鹿地亘氏事件の支援運動に携わったことなどから、弁護士を志望しました。修習生の時代に青年法律家協会の活動に加わり、「法は社会的弱者の権利擁護のためにある。司法は弱者の権利救済を実現するための手続である」と確信するようになり、そのような「法や司法本来の理念を実現する法曹になろう」と思い立ちました。
1971年に弁護士登録して、今年が45年目となります。この間、労働事件、消費者事件、医療・薬害訴訟、教育関係事件、職場の性差別撤廃・政教分離・国旗国歌強制反対・平和的生存権などの憲法訴訟に携わってまいりました。常に弱者の側、つまりは、労働者・消費者・患者・市民・国民の側に立って、公権力や大企業、カネや権威を持つ者と対峙して、微力ながらも弁護士本来の仕事をしてまいりました。概ね、これまで初心を忘れることなく職業生活を送ってきたとのいささかの自負があります。
とりわけ、日本国憲法を携えて実務法律家として職業生活を送ることができたことを何よりの人生の好運と考え、憲法擁護、平和・人権・民主主義の憲法理念の擁護のための姿勢を堅持してきたつもりです。
本件に関連していえば、政治資金規正法や公職選挙法問題については、刑事弁護実務において携わった経験から、また、いくつかの選挙運動に関係したことから、関心をもち続けてきました。政治資金規正法の理念である政治資金の透明性確保の要求については、民主主義の基礎をなす制度として強く共感し、カネで政治を動かそうとすることへの強い嫌悪と警戒感を有してきました。
また、市民が弱者として経済的強者に対峙する消費者問題にも強く関心をもち、広範な消費者事件の諸分野で訴訟実務を経験してきました。弁護士会内の消費者委員会活動にも積極的に関与し、東京弁護士会の消費者委員長を2期、日本弁護士連合会の消費者委員長2期を勤め、消費者問題をテーマにした日弁連人権擁護大会シンポジウムの実行委員長も経験しています。消費者問題に取り組む中で、官僚規制の緩和や規制撤廃の名目で、実は事業者の利益拡大の観点から消費者保護の社会的規制が攻撃され、その結果消費者保護行政が後退していくことに危機感を募らせてきました。この規制緩和策への警戒感は、現実の消費者被害や被害者に直接に向き合う中で獲得した心構えとして、貴重なものと考えています。
2 ブログ「憲法日記」について
私は、インターネットに「澤藤統一郎の憲法日記」と標題するブログを書き続けています。これも、弁護士としての職業的な使命の一端であり、職業生活の一部との認識で書き続けているものです。とりわけ、弁護士としての行動の理念的な指針となるべき憲法を擁護する立場を鮮明にし、憲法や憲法の理念について、実務法律家の視点からときどきの話題のテーマを取り上げて書き続けているものです。
以前にも断続してブログを書いた経験がありますが、現在継続中のものは、第2次安倍政権の発足に危機感を持ち、その改憲路線に警鐘を鳴らすことを主たる目的として、2013年1月1日から書き始めたものです。当初は、以前私が事務局長を務めていた、日本民主法律家協会のホームページの片隅を借りていたのですが、同年4月1日に自前のブログを開設し毎日連続更新を宣言して連載を始めました。幅広く憲法関連問題を題材として、途切れることなく毎日記事を掲載しています。もちろん顕名で、自分の身分を明示し、自分の言論の内容に責任をもっての記事です。
このブログを書き続けて、本年6月9日で、連続更新記録は800日となりました。この間、私のブログは、公権力や権威や社会的強者に対する批判の姿勢で貫かれています。政権や大企業や天皇制などを批判することにおいて遠慮してはならないと自分に言い聞かせながら書き続けています。そのような視点で世の中を見据えて、批判すべきを遠慮なく批判しなければならない。そのような私の視界に、「DHC8億円裏金事件」が飛び込んできたのです。
3 「本件記事」執筆の動機
2014年3月に週刊新潮誌上での吉田嘉明手記が話題となる以前は、私はDHCという企業とは馴染みがなく、主としてサプリメントを製造販売する大手の企業の一つとしか認識はありませんでした。もっともサプリメントについては、多くは実際上効果が期待できないのに、あたかも健康や病気の回復に寄与するかのような大量宣伝によって販売されていることを問題視すべきだとは思い続けていました。
業界に問題ありとは思っていましたが、DHCや原告吉田には個人的な関心はまったくなく、訴状で問題とされた3本のブログは、いずれも純粋に政治資金のあり方と規制緩和問題の両面からの問題提起として執筆したものです。公共的なテーマについて、公益目的でのブログ記事であることに、一点の疑いもありません。
4 言論の自由についての私の基本的な理解
本件訴訟では、原告(DHCと吉田嘉明)両名が、被告の言論によって名誉を侵害されたと主張しています。しかし、自由な言論が権利として保障されているということは、その言論によって傷つけられる人の存在を想定してのものにほかなりません。傷つけられるものは、人の名誉であり信用であり、あるいは名誉感情でありプライバシーです。
そのような人格的な利益を傷つけられる人の存在を想定したうえで、なお、人を傷つける言論が自由であり権利であると保障されているものと理解しています。誰をも傷つけることのない言論は、格別に「自由」だの「権利」だのと法的な保護を与える必要はありません。
視点を変えれば、本来自由を保障された言論によって傷つけられる「被害者」は、その被害を甘受せざるを得ないことになります。DHCと吉田嘉明の原告両名は、まさしく私の権利行使としての言論による名誉や信用の毀損(社会的評価の低下)という「被害」を甘受しなければならない立場にあります。これは、憲法21条が表現の自由を保障していることの当然の帰結といわねばなりません。
もちろん、法が無制限に表現の自由を認めているわけではありません。「被害者」の人格的利益も守るべき価値として、「表現する側の自由」と「被害を受けるものとの人格的利益」とを衡量しています。本件の場合には、この衡量の結果はあまりに明白で、原告DHCと原告吉田嘉明が「被害」を甘受しなければならないことは自明といってもよいと考えられます。
その理由の第1は、原告らの「公人性」が著しく高いことです。しかも、原告吉田は週刊誌に手記を発表することによって自らの意思で「私人性」を放棄し、「公人性」を前面に押し出したのです。
もともと原告吉田は単なる「私人」ではありません。多数の人の健康に関わるサプリメントや化粧品の製造販売を業とする巨大企業のオーナーです。これだけで「公人」性は十分というべきでしょう。これに加えて、公党の党首に政治資金として8億円もの巨額を拠出し提供して政治に関与した人物なのです。しかも、そのことを自ら暴露して、敢えて国民からの批判の言論を甘受すべき立場に立ったというべきです。自分で、週刊誌を利用して、自分に都合のよいことだけは言いっ放しにして、批判は許さない、などということが通用するはずはないのです。まずは、この点が強調されなければなりません。
その第2点は、私のブログに掲載された、原告らの名誉を侵害するとされている言論が、優れて公共の利害に関わることです。
無色透明の言論というものも、具体的な言論の内容に関わらない表現の自由というものも考えられません。必ず言論の内容に則して表現の自由の有無が判断されます。原告吉田は、自分がした政治に関わる行為に対する批判の言論を甘受すべきなのです。しかも、政治とカネというきわめて公共性の高いシビアなテーマにおいて、政治資金規正法の理念を逸脱しているというのが、私の批判の内容なのです。これは、甘受するしかないはずです。仮にもこの私の言論が違法ということになれば、憲法21条の表現の自由は画に描いた餅となってしまいます。民主主義の政治過程がスムーズに進行するための基礎を失うことになってしまいます。
さらに、第3点は、私の言論がけっして勝手な事実を摘示するものではなく、すべて原告吉田が自ら週刊誌に公表した事実に基づいて、常識的な推論をもとに論評しているに過ぎないことです。意見や論評を自由に公表し得ることこそが、表現の自由の真髄です。私の原告吉田に対する批判の論評が表現の自由を逸脱しているなどということは絶対にあり得ません。これを違法とすれば、それこそ言論の自由は窒息してしまいます。
仮に私が、世に知られていない原告らの行状を暴露する事実を摘示したとすれば、その真実性や真実であると信じたことについての相当性の立証が問題となります。しかし、私の言論は、すべて吉田自身が公表した手記を素材として、常識的に推論し論評したに過ぎないのですから、事実の立証も、相当性の立証も問題となる余地はなく、私の論評がどんなに手厳しいものであったとしても、原告吉田はこれを甘受せざるを得ないのです。
5 「本件ブログ記事」の内容その1ー政治とカネの関わりの視点
私のDHC・吉田両原告に対する批判は、純粋に政治的な言論です。原告吉田が、小なりとはいえ公党の党首に巨額のカネを拠出したことは、カネで政治を買う行為にほかならない、というものです。
原告吉田はその手記で、「私の経営する会社…の主務官庁は厚労省です。厚労省の規制チェックは特別煩わしく、何やかやと縛りをかけてきます」と不満を述べています。その文脈で、「官僚たちが手を出せば出すほど日本の産業はおかしくなっている」「官僚機構の打破こそが今の日本に求められる改革」「それを託せる人こそが、私の求める政治家」と続けています。
もちろん、原告吉田自身、「自社の利益のために8億円を政治家に渡した」などと露骨に表現ができるわけはありません。しかし、原告吉田の手記は、事実上そのように述べたに等しいというのが、私の意見であり論評です。これは、原告吉田の手記を読んだ者が合理的に到達し得る常識的な見解の表明に過ぎないのです。そして、このような批判は、政治とカネにまつわる不祥事が絶えない現実を改善するために、必要であり有益な言論なのです。
政治資金規正法は、その第1条(目的)において、「政治団体及び公職の候補者により行われる政治活動が国民の不断の監視と批判の下に行われるように」としています。まさしく、私は、「不断の監視と批判」の言論をもって法の期待に応え、「民主政治の健全な発達に寄与」しようとしたのです。
原告吉田は、明らかに法の理念に反する巨額の政治資金を公党の党首に拠出したのです。しかも、不透明極まる態様においてです。この瞬間に、原告らは、政治家や公務員と同等に、いやそれ以上に拠出したカネにまつわる問題について国民からの徹底した批判を甘受し受忍すべき立場に立ったのです。これだけのことをやっておいて、「批判は許さない」と開き直ることは、それこそ許されないのです。
6 「本件ブログ記事」の内容その2ー規制緩和と消費者問題の視点
私はブログにおいて、8億円の拠出が政治資金規正法の理念に反するというだけでなく、原告吉田の政治家への巨額拠出と行政の規制緩和との関わりを消費者問題としての視点から指摘し批判しました。
薬品・食品の業界は、国民の生命や健康に直接関わる事業として、厚労省と消費者庁にまたがって厳重な規制対象となっています。個々の国民に製品の安全に注意するよう警告しても無意味なことは明らかなのですから、国民に代わって行政が企業の提供する商品の安全性や広告宣伝の適正化についての必要な規制をしなければなりません。国民に提供される商品の安全を重視する立場からは、典型的な社会的規制である消費者行政上の規制を軽々に緩和してはならないはずです。しかし、企業は利潤追求を目的とする組織ですから、消費者の利益を犠牲にしても利潤を追求する衝動をもちます。業界の立場からは、規制はコストであり、規制は業務拡大への桎梏と意識されます。規制を緩和すれば利益の拡大につながると考えます。だから、行政規制に服する立場にある企業は、なんとかして規制緩和を実現したいと画策するのです。これがきわめて常識的な見解です。私は、長年消費者問題に携わって、この常識を我が身の血肉としてきました。
私のブログ記事は、なんのために彼が政治家に巨額の政治資金を提供したのか、という動機に関して、私は原告吉田の政治家への巨額なカネの拠出は行政の規制緩和を狙ったものと指摘し、彼のいう「官僚機構の打破」の内実として機能性表示食品制度導入問題を取り上げました。このようなものの見方は、極めて常識的なものであり、立証を求められる筋合いのものではありません。機能性表示食品制度は、アベノミクスの「第3の矢」の目玉の一つです。つまりは経済の活性化策として導入がはかられたもので、厳格な社会的規制の厳守という消費者利益の保護は二の次とされているのです。
私のブログの記載のなかで、最も問題とされているのは次の記事です。
「サプリの業界としては、サプリの効能表示の自由化で売上げを伸ばしたい。もっともっと儲けたい。規制緩和の本場アメリカでは、企業の判断次第で効能を唱って宣伝ができるようになった。当局(FDA)の審査は不要、届出だけでよい。その結果が3兆円の市場の形成。吉田は、日本でもこれを実現したくてしょうがないのだ。それこそが、『官僚と闘う』の本音であり実態なのだ。渡辺のような、金に汚い政治家なら、使い勝手良く使いっ走りをしてくれそう。そこで、闇に隠れた背後で、みんなの党を引き回していたというわけだ。
大衆消費社会においては、民衆の欲望すらが資本の誘導によって喚起され形成される。スポンサーの側は、広告で消費者を踊らせ、無用な、あるいは安全性の点検不十分なサプリメントを買わせて儲けたい。薄汚い政治家が、スポンサーから金をもらってその見返りに、スポンサーの儲けの舞台を整える。それが規制緩和の正体ではないか。『抵抗勢力』を排して、財界と政治家が、旦那と幇間の二人三脚で持ちつ持たれつの醜い連携」
今読み直してみて、どこにもなんの問題もないと思います。消費者問題をライフワークとしてきた弁護士として、これくらいのことを社会に発信しなくては、職責を全うしたことにならないとさえ思います。
「大衆消費社会においては、民衆の欲望すらが資本の誘導によって喚起され形成される」とはガルブレイスの説示によるものです。彼は、一足早く消費社会を迎えていたアメリカの現実の経済が、消費者主権ではなく生産者主権の下にあることを指摘しました。彼の「生産者主権」の議論は、わが国においても消費者問題を論ずる上での大きな影響を及ぼしました。ガルブレイスが指摘するとおり、今日の消費者が自立した存在ではなく、自らの欲望まで大企業に支配され、操作される存在であるとの認識は、わが国の消費者保護論の共通の認識ーつまりは常識となっているものです。
このような基本認識のとおりに、現実に多くの消費者被害が発生しました。だから、消費者保護が必要なことは当然と考えられてきたのです。被害を追いかけるかたちで消費者保護の法制が次第に整備されてくるそのような時代に私は弁護士としての職業生活を送りました。ところが、それに対する事業者からの巻き返しを理論づけたのが「規制緩和論」です。「行政による事前規制は緩和せよ撤廃せよ」「規制緩和なくして強い経済の復活はあり得ない」という経済成長優先が基調となっています。企業あるいは事業者にとって、消費者保護の規制は利益追求の桎梏なのです。消費者の安全よりも企業の利益を優先する規制緩和・規制撤廃の政治があってはじめて日本の経済は再生するというわけです。
アベノミクスの一環としての機能性表示食品制度は、まさしく経済活性化のための規制緩和です。コンセプトは、「消費者の安全よりは、まず企業の利益」「企業が情報を提供するのだから、消費者注意で行けばよい」「消費者が賢くなればよい」「消費者被害には事後の救済という対応でよい」という考え方です。消費者サイドからは、けっして受け容れることが出来ません。
機能性表示食品制度は本年4月から実施されています。報道では「機能性表示食品として消費者庁に届け出した食品の中には、以前、特定保健用食品(トクホ)として国に申請し、「証拠不十分」と却下されたものも交じっている」とされています。「トクホ落ち」という業界用語で語られる食品が、今や機能性表示食品として堂々と宣伝されることになったのです。まさしく、企業のための規制緩和策以外の何ものでもないのです。
原告吉田の手記が発表された当時、機能性表示食品制度導入の可否が具体的な検討課題となっていました。「経済活性が最優先。国民の安全は犠牲になってもやむを得ない」という基本路線に、業界は大いに喜びました。国民の安全を最優先と考える側からは当然に反発の声があがりました。もちろん、日弁連も反対の立場を明確にしています。そのような時期に、私は機能性表示食品制度導入問題に触れて、「DHC吉田が8億円出しても惜しくないのは、サプリメント販売についての『規制緩和という政治』を買い取りたいからなのだと合点がいく」とブログに表現をしました。まことに適切な指摘だったと思います。
7 「本件提訴」の目的とその不当
カネをもつ者が、そのカネにものを言わせて、自分への批判の言論を封じようという濫訴が「スラップ訴訟」です。はからずも、私が典型的なスラップ訴訟の被告とされたのです。私の口を封じようとしたのはDHC会長の原告吉田嘉明。彼が不愉快として封じようとした私の言論は、私がブログ「憲法日記」に書いた3本の記事。政治とカネにまつわる政治的批判の言論。そして原告吉田の政治資金提供の動機を規制緩和を通じての営利追求にあるとした、消費者問題の視点からの指摘の言論です。これらが社会的に有用な言論であることは既述のとおりです。
原告吉田が私をだまらせようとして、2000万円の損害賠償請求訴訟を提起したことに疑問の余地はありません。私は、原告吉田から「黙れ」と恫喝されて、けっして黙ってはならないと決意しました。もっともっと大きな声で、何度も繰りかえし、原告吉田の不当を叫び続けなければならない。その結果が、同じブログへの「『DHCスラップ訴訟』を許さない」シリーズの連載です。6月12日現在で、44回書き連ねたことになります。読み直してみるとなかなかに充実した内容で、貴重な問題提起になり得ていると思います。原告吉田は、このうちの2本の記事が名誉毀損になるとして、請求原因を追加し、それまでの2000万円の請求を6000万円に拡張しました。この金額の積み上げ方それ自体が、本件提訴の目的が恫喝による言論妨害であって、提訴がスラップであることを自ら証明したに等しいと考えざるを得ません。
8 原告DHC・吉田の関連スラップ訴訟
原告吉田嘉明の週刊新潮手記が発表されると、政治資金8億円を裏金として受けとっていた「みんなの党」渡辺喜美代表に対して、ごうごうたる非難が巻きおこりました。8億円の内、3億円については借用証が作成されたとのことですが、5億円については貸金であることを示す書類はないようです。カネの動きも、貸金にしては極めて不自然。そのほかにも、渡辺側の不動産を原告吉田が渡辺の言い値で購入したことも明らかとなりました。このような巨額のカネが、政治資金規正法にもとづく届出のない裏金として動いていたのです。
この事件について、渡辺だけでなく原告DHC・吉田側をも批判する論評も多くありました。原告吉田はその内の10件を選び、ほぼ同時期に、削除を求める事前折衝もしないまま、闇雲に訴訟を提起しました。明らかに、高額請求訴訟の提起という爆弾により、市井の言論を委縮させ、更なる批判言論を封じ込むという効果を狙ってのものというべきです。
10件もの提訴自体が、明らかに濫訴であることを物語っています。また、原告吉田が公表した手記を契機に、同じような原告DHC・吉田批判が、彼らの経済的支配の埒外にあるミニコミに噴出したのは、その批判(言論)内容が多くの人に共通した、普遍的な推論と所見であることを推認させるものと考えられます。
東京地裁に提起された訴訟10件の賠償請求額は最低2000万円、最高2億円です。私は当初「最低ライン」の2000万円でしたが、その後ブログに「口封じのDHCスラップ訴訟を許さない」と書き続けて、請求額は6000万円に増額となっています。
その10件のうち、折本和司弁護士(横浜弁護士会)が被告になっている事件は今年の1月15日に第1号判決となり、次いで3月24日に被告S氏についての第2号判決が、いずれも「原告完敗・被告完勝」の結果となりました。私の事件がこれに続く第3号判決になることが予想されます。
そのほかに、関連する2件の仮処分申立事件があって、それぞれに申立の却下決定(東京地裁保全担当部)と抗告却下決定(東京高裁)があります。判決2件とこの4件を合計して計6件、原告DHC・吉田は連戦連敗なのです。私は、可能な限りの記録閲覧をしていますが、今後も、原告DHC・吉田の連敗記録が途切れることはありえないと確信しています。
本年3月24日に東京地裁民事第23部合議部(宮坂昌利裁判長)が、私のブログなどに比較して手厳しいツイッターでの発言について、なんの躊躇もなく、名誉毀損も侮辱も否定して、原告の請求を棄却しています。注目すべきはこの判決の中に次のような判示があることです。
「そもそも問題の週刊誌掲載手記は、原告吉田が自ら『世に問うてみたい』として掲載したもので、さまざまな立場からの意見が投げかけられるであろうことは、吉田が当然に予想していたはずである」「問題とされているツイッターの各記述は、この手記の公表をきっかけに行われたもので、その手記の内容を踏まえつつ、批判的な言論活動を展開するにとどまるもので、不法行為の成立を認めることはできない」
私の事件での被告準備書面は、原告吉田が週刊新潮に手記を発表して、「自ら政治家(みんなの党渡辺喜美)にカネを提供したことを暴露した」という事実を捉えて、「私人性の放棄」と構成しています。これに対して宮坂判決は、原告吉田が「自ら積極的に公人性を獲得した」と判断したのです。
おわりにー本件判決が持つであろう意味
本件は本日結審して判決を迎えることになります。
その判決において、仮にもし私のこのブログによる言論について、いささかでも違法の要素ありと判断されるようなことがあれば、およそ政治に対する批判的言論は成り立たなくなります。原告吉田を模倣した、本件のごときスラップ訴訟が乱発され、社会的な強者が自分に対する批判を嫌っての濫訴が横行する事態を招くことになるでしょう。そのとき、市民の言論は萎縮し、権力者や経済的強者への断固たる批判の言論は後退を余儀なくされるでしょう。そのことは、権力と経済力が社会を恣に支配することを意味します。言論の自由と、言論の自由に支えられた民主主義政治の危機というほかはありません。
仮に私のブログの表現によって原告らに不快とするところがあったとしても、原告はそれを甘受し受忍しなければなりません。原告両名はこの上ない経済的強者です。サプリメントや化粧品など国民の健康に直接関わる事業の経営者でもあります。原告らは社会に多大の影響を与える地位にある者として、社会からの批判に謙虚に耳を傾けねばならない立場にあります。
原告らの提訴自体が違法であることは明白です。貴裁判所には、このような提訴は法の許すところではないと宣告の上却下し、あるいは請求を棄却して、一刻も早く私を被告の座から解放していただくよう要請いたします。
なお、最後に一言いたします。スラップ訴訟提起の重要な狙いとして、「論点すりかえ効果」と「潜在的言論封殺効果」があるといわれています。
本来は、原告吉田嘉明が小なりとはいえ公党の党首(渡辺喜美)に8億円もの政治資金を拠出していたこと、しかもそれが表に出て来ないで闇にうごめいていたことこそが、政治資金規正法の理念に照らして重大問題であったはずです。私の指摘もそこにありました。ところが、その重要な問題が、いまは私のブログの記載が、あるいは原告DHC・吉田からスラップを受けて被告とされたライターの記述が原告DHC・吉田に対する名誉毀損にあたるか否かという矮小化された論点にすり替えられてしまっています。
さらに、本件スラップ訴訟は、けっして私の言論だけを封殺の標的にしているのではありません。私に、あるいは他の9人に対しスラップ訴訟を仕掛けることによって、同じような発言をしようとした無数の潜在的表現者を威嚇し萎縮させて、潜在的言論封殺効果を狙っているのです。だから私は、自分ひとりが勝訴しただけでは喜べない立場にあります。
本件不当訴訟を仕掛けたことに対して、原告DHC・吉田やこれを幇助したその取り巻きに対する相応のペナルティがなければ、スラップ訴訟は「やり得」に終わってしまいます。やり得を払拭し、再発の防止の効果を挙げるために有益な判決を期待しています。
以上のとおり、本件は優れて憲法21条の問題ではありますが、それだけではなく政治資金規正法の理念の問題でもあり、消費者問題と規制緩和の問題でもあり、民事訴訟を濫用しての言論萎縮効果の問題でもあります。これらの問題にも十分配慮され、公正かつ妥当な判決の言い渡しによって、貴裁判所がその職責を果たされるよう、期待申し上げる次第です。
(2015年6月14日)
戦争法案への世論の動向をはかるバロメータとして重要なものの一つが、地方紙の姿勢とその紙面構成である。第2次安倍政権発足直後の96条先行改憲の動きを止めたものが、2013年5月憲法記念日前後の地方紙各紙の圧倒的な批判の社説であった。
中央各紙の姿勢は、ほぼ色分けが固定している。地方紙の動向は、世論をはかる指標として意味が大きく、「地元」選出の議員に影響大なるものがある。だから、機会あるごとに地方紙を読むように心がけている。この感覚は、東京育ちにはつかみにくい。また、有力な地方紙・ブロック紙をもたない大阪人にもわかりにくいのではないだろうか。
本日、たまたま神奈川新聞を読んだ。一面トップ、紙面半分以上のスペースを割いて、「安保法案 自民OBも反対」「藤井氏『自公インチキ』」の記事。
「山崎拓・自民党元副総裁、亀井静香元金融担当相らかつて自民党に所属した議員や元議員の重鎮4人は12日、日本記者クラブで会見し、集団的自衛権行使を可能とする安全保障関連法案に反対の考えを表明した。山崎氏は「地球の裏側で後方支援活動をすると憲法違反になる行動を引き起こす。自衛隊と相手方が殺し合う関係になるのは間違いない」と述べた。
ほかに藤井裕久元財務相と武村正義元官房長官が出席した。山崎氏は「問題点が多々あり、十分な審議を尽くすべきで、今国会での成立に反対だ。平和国家としての国是は大いに傷つく」との声明も発表した。‥‥
共同通信の配信記事として、全国の地方紙を大きく飾っているはず。もっとも、トップ扱いの判断や関連記事は、神奈川新聞独自のもの。この記事は、神奈川同様、各「地元」で大きな話題となるだろう。保守系先輩議員からの忠言を、現役の議員諸氏はどう聞くのだろうか。
首都の地方紙・東京新聞は一面左上隅に、「自民OBら 反対表明」の見出しと4人の写真を掲げ、記事は3面にまわした。比較的扱いは小さい。その代わり、社会面のトップに、「砂川事件弁護団再び声明」と記者会見を大きく取り上げた。これまたすばらしい。時宜を得た記事で、これも戦争法案廃案を求める運動に大きく力を与えるもの。
この声明の最後は、「安倍首相や高村正彦副総裁の言説が無価値であり、国民を惑わすだけの強弁にすぎないことはもはや明白であるから、一刻も早く態度を改め、提案している安保法制(改正法案)を撤回して、憲法政治の大道に立ち返られんことを強く要求するものである。」と結ばれている。
記事は、「最高裁判決には集団的自衛権行使の根拠はない」「合憲主張『国民惑わす強弁』」という大見出し。
他国を武力で守る集団的自衛権の行使容認を柱とする安全保障関連法案について、政府が1959年の砂川事件の最高裁判決を根拠に合憲と主張しているのに対し、判決時の弁護団の有志5人が12日、東京都内で会見し、「裁判の争点は駐留米軍が違憲かに尽きる。判決には集団的自衛権の行使に触れるところはまったくない」とする抗議声明を出した。5人はみな戦争を知る白髪の八十代。「戦争法制だ」「国民を惑わすだけの強弁にすぎない」と批判し、法案撤回を求めた。
「白髪の八十代有志5人」の会見の写真が若々しい。坂本修、神谷咸吉郎、内藤功、新井章、山本博の各弁護士。
会見の冒頭。新井章弁護士は眼鏡を外し、鋭いまなざしを子や孫世代の記者たちに向けた。そして「事件の弁護活動をした私らは裁判の内容にある種の証人適格を持っている」と法律家らしく語り始めた…。
あとは省略するが、「集団的自衛権について砂川判決から何かを読み取れる目を持った人は眼科病院に行ったらいい」というフレーズが紹介されている。そう。飛蚊症(ひぶんしょう)という目の病気がある。ないものがあるように見えるのだ。トンデモナイものが、あたかも飛んでいるように見える。高村正彦さん、誰にも見えないものがあなたにだけは見えているようだ。そりゃたいへんだ。早めに眼科の診察を受けることをお勧めする。
(2015年6月13日)
6月6日、「立憲デモクラシーの会」パネルディスカッションでの、樋口陽一の発言に耳を傾けたい。
「日本の近代化は戦前まで、立憲主義がキーワードだった。ところが、戦後はひたすら民主主義を唱えていればいいという時代があった。立憲主義と民主主義は場合によっては反発し合う。民主主義とは、人民による支配であり、憲法制定権力になる。一方、立憲主義は人間の意思を超えた触れてはならないものがあるとの考え方に基づく」(6月10日東京新聞)
ここで指摘されているものは、民主主義と立憲主義の緊張関係である。戦前、民主主義を標榜することが困難だった時代、政治のキーワードは立憲主義だったという。樋口は、戦前の立憲主義を評価する立場だ。そして、今、立憲主義がないがしろにされていることを、憂うべき深刻な事態として警告を発している。
民主主義は、時の政権に暴走の口実を与える。ファシズムの母胎にもなり得る。これに歯止めをかけるものとして、多数支持だけでは乗り越えられない理念的なハードルとしての立憲主義の機能が期待される。安倍政権には、その自覚が欠けているのだ。
樋口が示唆する視点で戦前を顧みたい。寺内正毅という人物がいた。長州軍閥の出身で、初代の朝鮮総督を務めた。韓国併合の際に、「小早川 加藤 小西が 世にあらば 今宵の月を いかに見るらむ」という愚かな「歌」を詠んだいやな奴。そして、無益なシベリア出兵を決断して、将兵を無駄死にさせた首相でもある。戦前の植民地主義と軍国主義を象徴するごとき武断派の政治家。彼の内閣は政党政治に基盤をおかない超然内閣の典型ともされる。当時から、識見能力とも無能の評が定着し、民衆からの好感度すこぶる低かった。
この評判の悪い寺内が、当時のマスコミから「ビリケン宰相」と呼ばれていたことが興味深い。ビリケンとは、今は通天閣の名物としてしか知られていないが、アメリカ製の人形キャラクター。この人形に寺内の風貌が似ていたという。そのことに引っかけて、寺内を立憲主義を守らない政権担当者だという、「非立憲(ひりっけん)」の非難と揶揄の意味合いを込めたあだ名。ビリケンのキャラクター自身に罪はないが、たまたま「ひりっけん」という政治用語に発音が似ていた不運からの、ビリケンの受難であった。
石川健治(東大教授)も発言している。
問題提起したい。「合憲と違憲」とは別次元で語られる「立憲と非立憲」の区別についてだ。京都帝国大の憲法学者、佐々木惣一が、違憲とは言えなくても「非立憲」という捉え方があると問題提起した。今、ここに集まってこられた方は今の政治の状況に何とも言えないもやもや感を抱いていると思う。そののもやもや感を「非立憲的」と表現した。まさに今、非立憲的な権力と政権運営のあり方が、われわれの目の前に現れているのではないのか。
樋口が応えて発言を続ける。
現政権はまず憲法96条を変え、改憲発議に必要な国会議員数3分の2というハードルを下げようとした。まずこれが非立憲の典型。安保法案は提出方法そのものが非立憲だ。国民が集団的自衛権の議論に飽きたころに法案を提出し、国民に議論を提起せずに、憲法の質を丸ごと差し替える法案を提出した。さらに安倍晋三首相は米国の議場で、日本の国会に提出もしていない安保法案について、夏までに必ず実現すると語った。これは憲法が大前提としている国民主権にも反する。
東京新聞は、この紹介記事に「法律をまず変え、それに合わせ改憲 これはまさに非立憲的な事態だ」と見出しを打った。
寺内正毅と安倍晋三、時代は違うが似たもの同士。出自は長州、「我が軍」大好き。やることすべてが「非立憲」。
「安倍・非立憲内閣」、「安倍・非立憲首相」、「ザ非立憲・安倍」「非立憲政治家・安倍晋三」…。安倍には非立憲がよく似合う。それにしても、ヒリッケンとは、発音しづらい。ビリケンとはよく言った。いまの世に、もはやビリケンのキャラクターイメージはない。けれども、語感の軽さと揶揄の響きだけは十分に残っているではないか。
そんなわけで、謹んで「安倍・ビリケン内閣」の御名をたてまつることとしよう。
(2015年6月12日)
6月6日東大で催された「立憲デモクラシーの会」パネルディスカッションが、時節柄大きな話題となった。総合タイトルは「立憲主義の危機」である。昨日(6月10日)の東京新聞に、その内容が要領よく紹介されている。見出しが「安保法案は立憲主義の危機」と付けられている。
メインの佐藤幸治講演が耳目を集めたが、パネルディスカッションでの樋口陽一発言録に注目したい。傾聴に値するものとして、その一部を東京新聞に採録されたままの形で転載する。
歴史に学ぶとは、負の歴史に正面から対面することであり、同時に、先人たちの営みから希望を引き出すことでもある。今の政治は負の歴史をあえて無視するだけでなく、希望をもつぶそうとしている。戦後レジームからの脱却だけでなく、戦前の先人たちの努力を無視、あるいはそうした努力について無知のまま突き進もうとしている。
1931年の満州事変の時、国際法学者の横田喜三郎(1896〜1993)は、「これは日本の自衛行動ではない」と断言した。その横田の寄稿を載せた学生たちの文集が手許にある。
その中で横田は「汝平和を欲さば、戦への備えをせよ」とのラテン語の警句を引き、「汝平和を欲すれば平和を準備せよでなければならない」と呼び掛けた。そして文集に、学生が「横田先生万歳!」「頑張れ!」と共感を書き込んでいる。恐らく、この二人の学生は兵士として出征しただろう。再び母校に戻ってくることはなかったかもしれない。
今、私たちが対しているのは、平和を欲すれば戦争を準備しようという警句通りの時代。しかし、かつて文集に書き込みを残した若者たちがいたし、この会にも若い人がたくさん参加している。われわれは日本の将来に対して、大きな責任がある。立憲主義の土台を維持できるかどうかは、世界に対しても大事な責任なのだ。
「平和を願う者は、戦争の準備をしなければならない」「平和を欲するのなら戦争を準備せよ」などとは言い古された常套句だが、状況によっては真実であることを否定し得ない。それだけに、まどわされぬよう警戒しなければならない。歴史的には、戦前われわれの上の幾世代かが、このとおりに考え実行して、国を滅ぼした。この警句は、言わば試され済みの亡国の思想にほかならない。
「汝平和を欲さば、戦への備えをせよ」とは、古典的な抑止力思想である。防衛的な自国を近隣侵略国の魔の手が狙っている。飽くまで自国の武力は善である。自国の武力を増強して「戦へ備える」ことこそが戦を避け、平和をもたらす、というのだ。語られるのは、「武力による自国の平和」である。当然に相手国も同様に考える。一国の武力の増強は相手国を刺激して相互の武力の増大を招く負のスパイラルを必然化する。武力を増強すればすれほど、一国の軍事化が進めば進むほど、平和なのだということになる。パラドックスというよりは倒錯の事態である。いつかは破綻を免れない。
70年前、戦争の惨禍から再生した我が国は、この倒錯の思想の克服を宣言した。「汝平和を欲すれば平和を準備せよ」の原則を確立した…はずなのだ。これが、日本国憲法の平和主義の理念であり、9条の精神である。今、時代の逆転を許してはならない。痛切にそう思う。
横田喜三郎は後に最高裁長官となった。前任の田中耕太郎や、その後の石田和外などの「反動」長官にはさまれた「ずいぶんマシな司法の時代」の長官という印象がある。しかし、15年戦争が開始した時代に学生に向かって「汝平和を欲すれば平和を準備せよ、でなければならない」と呼びかけていることはまったく知らなかった。あの戦前の暗い時代にも、9条の精神をもっていた人はいたのだ。共感する若者もいた。
確かに、戦前の先人たちの努力を無視してはならない。あるいは、そうした努力について無知であってはならない。平和を希求した先人についても、立憲主義を追求した先人についても、である。
(2015年6月11日)