8月14日に予定されている安倍談話。「戦後70年談話」と銘打って、近隣諸国へのメッセージとして発信するものとなれば、その骨格は下記のようなものとなろう。
(1) 70年前の敗戦を分岐点として、その前後で歴史は二分されているという認識のもと、
(2) 未曾有の惨禍をもたらした先の大戦を総括して、
(3) 70年前における日本の再出発の理念を再確認し、
(4) 戦後70年間その理念は堅持されたかを検証し、
(5) 今後さらにその理念の実現を目指した未来を語る。
「戦後」談話なのだから、戦争と平和がテーマとなる。戦前の軍国主義や植民地支配が加害被害両面の戦争の惨禍をもたらし、国民の敗戦体験が恒久平和主義の理念を生みだしたことを述べ、戦後70年は曲がりなりにもその平和が保たれた貴重な時代であって、この先も平和が継続するよう努力しなければならない、と結ばれることになろう。
上記の構成で戦争と平和を語れば、次のようなものとならざるを得ない。
「先の大戦は侵略戦争であった。過酷な植民地支配と相俟って、日本は近隣諸国民にこの上ない悲惨と苦痛を与えた。日本は、このことを深く反省し、心から謝罪する。70年前、日本は平和で民主的な国家として再出発した。憲法が最重要の理念とする平和は、この70年間なんとか続いた。さらにこれからも平和持続のための努力を誓う」
これが、戦後継続した保守政権が採用してきた常識的な立場である。念のため、談話の主語は「日本国を代表する首相」である。敗戦をはさんでも、日本という国家に継続性が認められる以上、戦前の天皇制政府が行った植民地支配と侵略戦争については、国家・国民を代表して現首相が反省と謝罪をすべきが当然であろう。
これと比較して、「国民の戦後70年談話」の方は、首相談話のようにシンプルな構成とはなりにくい。それは、主として、国民(あるいは「市民」・「私たち」)の立場の多様性にある。
国民とは、一面は被治者であると同時に主権者でもある。戦前は臣民に過ぎなかった存在が、戦後は理念においては主権者となった。しかし、実のところは権力による統治の対象としてあり続けてもいる。
その国民が戦前において戦争や軍国主義・国家主義に演じた役割はどのようなものだったのだろうか。欺され、煽られ、操作されて戦争に駆り出された人々もあれば、積極的に富国強兵策に加担して利益に預かった人々もいる。また、天皇制政府に徹底して抵抗し反戦運動の故に過酷な弾圧を受けた人々もいるのだ。
「侵略戦争」や「植民地支配」という評価は、客観的なものとしてなしうる。しかし、反省や謝罪のあり方は、それぞれの立場において異なるものとなる。たとえば、国民(市民・私たち)の中に、在日の人々やニューカマーを含むとして、その人々を日本人と同じように「反省」や「謝罪」の主体とする不自然は明らかだろう。戦前平和を求める運動で過酷な弾圧を受けた人々についても、同様である。
国民(市民)の立場から、反省や謝罪をするのかについては微妙な問題がある。少なくとも、「日本国政府に対して、近隣諸国の民衆への加害責任を自覚して、徹底した反省と謝罪をするよう要求する」ことには異論がない。しかし、それだけでよいのか。戦後に生まれた世代の国民(市民)にも、加害者としての責任があり、反省と近隣諸国への謝罪が必要だろうか、必要とすれば何について反省し、どのように謝罪すべきなのか。このあたりの書きぶりは微妙なところである。とりわけ、謝罪が前面に出て来ると、談話の主体として、在日の人々を含むとすることが奇妙なこととなってくる。
戦後70年の総括については、憲法的視座からはさほど困難な問題はない。一貫して保守政権が9条を中心とする改憲を策動し、国民が憲法を擁護してきた。政府がアメリカに従属しながら自衛隊を創設し防衛力を増強し、国民の側がこれに対峙して憲法と平和を擁護してきた70年であった。国民の平和を求める運動の中で、54年のビキニ水爆実験に端を発した原水爆禁止運動と、60年の安保改定阻止運動の盛り上がりとその影響は特筆すべきものであった。
現時点での、安倍政権動向はきわめて危険であり、これから先の「未来志向」において、政権と国民の立場の違いは大きい。安倍談話の未来志向の基本は、「積極的平和主義」となるだろう。「消極的に何もしないで平和を待つのではなく、平和を求める諸国と共同して積極的に平和を創出する」覚悟が語られることだろう。
おそらくは、ここが対決点だ。安倍談話は、積極的平和主義の名のもとに何をしようというのだろうか。明らかに、自衛隊を世界中に派遣することが想定されている。あるいは集団的自衛権行使という戦争が想定されている。軍事力がもたらす「武力に基づく平和」の思想である。互いの軍備による抑止力に依存した「平和」。国民の側は、これに憲法9条が指し示す「武力によらない平和」を対置しなければならない。「平和を望むなら戦争を語らねばならない」ではなく、「平和を望むなら、もっともっと平和を語る」努力をしなければならない。それが、「憲法の視座から」の談話の主要な意味である。
国民の談話は、13日のシンポジウムで発表される。そして、14日には、安倍談話の発表となる。歴史認識と平和のあり方において、彼我の意識の差が明確になるだろう。13日発表の「国民談話」を、安倍談話評価の物差しとして使っていただきたい。
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なお、下記のURLが、8月13日「国民の70年談話」シンポジウムの確定内容のチラシになっています。
ぜひとも拡散をお願いいたします。
http://article9.jp/documents/symposium70th.pdf
集会のコンセプトは次のとおりです。
いま、政権と国民が、憲法をめぐって鋭く対峙しています。
その政権の側が「戦後70年談話」を公表の予定ですが、これに対峙する国民の側からの「70年談話」を採択して発表しようというものです。
そのことを通じて、彼我の歴史認識や平和な未来への展望の差異を明確にし、きちんとした批判をし、国民の立場からの平和な未来の展望を語ろうという企画です。
日時■2015年8月13日(木)11時?13時40分
(開場10時30分)
会場■弁護士会館 2階講堂「クレオ」ABC
http://www.nichibenren.or.jp/jfba_info/organization/map.html
■参加費無料 (カンパは歓迎)
<シンポジウム>「国民の70年談話」─日本国憲法の視座から?過去と向き合い未来を語る・安全保障関連法案の廃案をめざして?
◇第1部 過去と向き合う
■戦後70年日本が戦争をせず、平和であり続けることが出来たことの意義
高 橋 哲 哉(東京大学教授)
■戦後改革における民主主義の理念と現状
堀 尾 輝 久(元日本教育学会・教育法学会会長)
■人間らしい暮らしと働き方のできる持続可能な社会の実現に向けて
暉 峻 淑 子(埼玉大学名誉教授)
■日本国憲法を内実化するための闘い─砂川・長沼訴訟の経験から
新 井 章 (弁護士)
■安全保障関連法案は憲法違反である
杉 原 泰 雄 (一橋大学名誉教授)
◇レクイエム 弦楽四重奏(日本フィルハーモニー)
◇第2部 未来を語る会場発言リレートーク
お一人5分間でお願いします。時間の許す限り。
◇第3部 「国民の70年談話」の発表と採択
(2015年8月11日)
8月7日の衆議院予算委員会の詳細メモを目にした。民主党山井和則議員の質問に対する安倍首相の答弁に唖然とする。これはダメだ。こんな人物に一国の舵取りを任せてはおられない。
テーマは、非核3原則との関わりで、戦争法案の定める後方支援の範囲如何。「核兵器も『弾薬』として自衛隊による輸送が許されるか」という大問題である。
安倍は、「法的には可能だが、政策的にあり得ない想定」と、議論そのものを受け付けないという姿勢。これに、山井議員が執拗に食い下がっている。以下重要部分を抜粋する。
○山井
私の知り合いの広島の方からも、非核三原則に安倍総理が式典で触れられなかったことにショックで涙がとまらなかったということをおっしゃっておられました。唯一の被爆国である日本が、世界に核廃絶をアピールする一番重要な場じゃないですか。なぜ、懇談会で言うのであれば挨拶から抜いたんですか。歴代の総理大臣がずっと入れてきた、御自分も、去年、おととし入れてきた。おっしゃったように国是じゃないですか。なぜ国是を抜かれたんですか、広島だけ。国是を、あなたは、わざと意図的に抜いたんですよ。世界が、非核三原則の堅持を日本はやめるのかと思うのが当たり前じゃないですか。被爆者の方々は、もう本当にあきれられ、失望されておられます。
○安倍 (略)
○山井
そのことと関連するんではないかと思いますが、おととい、中谷大臣は、今回の安保法案の中で、結局、弾薬とみなされて、核弾頭つきの核ミサイルは、法律上は自衛隊が輸送することからは排除されないという答弁をされました。岸田外務大臣も、そのとおりだと認められました。
純粋法理上、核兵器を自衛隊が輸送することは除外されているのか、されていないのか、イエス、ノーで、安倍総理、お答えください。
○安倍
それは、そもそも、政策的選択肢としてないものをどうだという議論をすること自体が私は意味がない、このように思います。
○山井委員
全く答弁されませんね、先ほどの非核三原則にしても。国民の方は、これじゃ理解できませんよ。私たちが今審議しているのは安全保障法案という法律なんですから、法律上は、今回の安保法案で自衛隊が核兵器を輸送することは排除されているんですか、されていないんですか。イエス、ノーでお答えください。
○安倍
そもそも、政策上、これはあり得ない話であります。いわば政策的な判断をする私が、あり得ない話について、政策的な判断をする私が答えることは、まさに政策的な判断をしているという誤解を与えさせようと山井さんは考えておられるんだろうと思いますが、これは政策的には全くあり得ない話であります。そして、純粋に法理上ということではありますが、これは、事実上、政策的にはあり得ないんですから、まさに机上の空論と言えます。机上の空論ではありますが、中谷大臣がまさに純粋法理上は答弁したとおりであります。しかし、まさに私は政策的な判断をする立場の行政府の長でありますが、その長にそういう答えをさせて、それがあり得るかのごとくの印象を与えようとする議論は、私はそれは真摯な議論とは言えないのではないか、このように思います。
○山井
中谷大臣が答弁されたとおりだと、法理上は核兵器を自衛隊が今回の安全保障法案で輸送することは排除されていないということをお認めになりました。これは非常に大きなことであります。昨日も、「核兵器を輸送することを認めるということは使用することも容認するということにつながりかねない。そんなことはあり得ない」ということを被爆者団体の方々もおっしゃっておられます。法律上核兵器を自衛隊が他国の領土で輸送できるようにする、そんな危険な法律が許されるはずがないじゃないですか。
○安倍
先ほども申し上げたとおり、これは法理上の話であって、本来、法理上の話ではなくて、政策上あり得ないと私は言っているじゃないですか。政策上あり得ないということは、それは起こり得ないんですよ。起こり得ない。起こり得ないことをまるで起こるかのごとくそういう議論をするのは間違っていると、私が何回も申し上げているとおりであります。
そもそも、そんな、弾頭自体を日本に運んでくれと米国が言うこと自体は一二〇%あり得ませんよ。そして、日本側が、一二〇%ないということを前提に、頼まれたとしても、それは絶対にやりませんよ。それは当たり前ではありませんか、非核三原則もあるんですから。
○山井
安倍総理の答弁はおかしいと思いますよ。私たちが今、国会で議論しているのは法律ですよ。この法律は、五年、十年、二十年、三十年、将来の日本の国を左右するんですよ。今の政権が政策判断で核兵器は輸送しませんと、そんな答弁じゃ、全く安心も納得もできるはずないじゃないですか。法律的に可能だったら、次の政権が違法じゃないから核兵器を運びますと言えば、違法じゃないんですよ。絶対にあり得ないというならば、安倍総理、今回の法案の中で核兵器は除外するとしっかり明記してください。そうしないと納得できません。
○安倍
私は総理大臣として、あり得ない、こう言っているんですから、間違いありませんよ、それは。総理大臣としてそれは間違いないということを言っているわけですから。これはそもそもあり得ないということについて、それはまるで政策的にあり得るかのごとく議論することは間違っているということを申し上げているわけであります。
○山井
憲法を解釈変更して、憲法違反の安保法案を出している安倍総理があり得ないと言っても、国民は信用しませんよ。あり得ないことをやろうとしているから、国民は不安に思っているんじゃないですか。五年、十年、次の政権あるいはその次の政権が、もし政策的判断で核兵器を輸送すると判断した場合、この核兵器を輸送するということは違法になるんですか、違法でないんですか。
○安倍
核弾頭云々かんぬんという話をされましたが、そもそも日本側にそれを頼むということは一二〇%ありませんが、しかもそれを運ぶという能力を我々は持っておりませんが、その上においてそれを運ぶということはもちろんあり得ないわけでありまして、それは当然断る。しかし、それはそもそも全くない話でありまして、ですから、これはまさに、ほとんどここで政策論として議論する意味はないわけであります。
まさに法理上の話については答弁しているわけでありますが、しかし、政策論としてはこれは一二〇%あり得ないわけであります。
○山井
あり得ない、あり得ないとおっしゃるんだったら、政策判断であり得ないんじゃなくて、安倍総理のあり得ないという言葉ほど説得力のないものはないんですよ、法律で、安倍総理の言葉じゃなくて。私たち政治家は、後世の子供や孫たちの時代にも戦争のない、核兵器を絶対に輸送もしない、そういう日本を残す責任があるんですよ。その担保は、安倍総理の答弁ではだめです。法律にしっかり書いてください。核兵器、毒ガス、大量破壊兵器、それは絶対に弾薬に含まれない、そのことを法律に書いてください。書けない理由は何ですか。
○安倍
国是として非核三原則を我々は既に述べているわけでありますし、はっきりと表明をしております。それを例えば全ての法律に落としているかといえば、それはそうではないわけでありまして、国是は国是として確立をしているわけでありますが、この国是の上に法律を運用していくのは当然のことであろう、このように思うところでございます。
○山井
その国是を、きのうの平和式典で非核三原則、国是を言わなかったのはあなたじゃないですか。その前日に中谷大臣は、法律上、核兵器を輸送できると国会で答弁しているんですよ。日本だけじゃなくて世界じゅうの方々が、核兵器をもしかしたら持つかもしれない、そういう議論を始めるんじゃないかと不安に思うのはごく自然だと思いますよ。
「安倍総理は、今までの国是であった平和憲法、専守防衛、そういうものを壊そうとしているんじゃないか」「最近の政府の施策には被爆者の願いに反するものがあり、危惧と懸念を禁じ得ない、その最たるものが安保法案だ」と被爆者の代表の方々もおっしゃっておられます。
きょう安倍総理が認められたように、法律上、核兵器を自衛隊が輸送できるようにする、こんな危険な法律を日本の国で成立させることはできません。その撤回を求めます。安倍総理、最後に答弁をお願いします。
○安倍
山井委員が前提としていることは、全て間違っています。
○山井
法律的にはそのとおりじゃないですか。国民が議論するのは法律ですから。
以上で質問を終わります。
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安倍の頭の中では、憲法・法律・政策の各レベルの整理ができていない。
行政府が行う政策は法にもとづいて行われなけばならない。その法は、憲法と法律という2層の構造でできている。憲法は硬く強固な枠組みである。軽々に変更はできない。その憲法が許容する限りの内容で、議会が必要に応じて法律を制定する。行政の政策は、その法律が許す範囲で選択肢を持つことになる。これが法の支配(この場合、法治主義と言ってもよい)の基本構造である。
今、戦争法という法律を作ろうと政府が提案し国会での法案審議が進行している。国会の審議では、その法が行政にどれだけの政策上の選択肢を与えるものであるか、(裁量を許容するか)が吟味されなければならない。そのときには、「純法理的に政府に政策上の選択肢としてどの範囲の行為をなしうるかの権限を付与したのか」は、まさに本質的な質問であって、行政府が政策として実行する意思がないとして答弁を拒否することは許されない。仮に、法律的には可能だが、けっして政策的に採用することがないというのなら、その部分については法律を作る必要性(立法事実)を欠くことになり、そのような法律の制定は不必要故に許されないことになる。
法案が許容する「米軍への弾薬の輸送」の中に、核兵器の輸送も含まれ、米軍の要請次第で自衛隊がなし得るものであるとしたら、国民の圧倒的な多数が、この法案に反対することになるだろう。「政策的にあり得ない」という答弁は、質問への回答を拒否する理由にならないし、「今のところは政策的に採りにくいから、法律的に可能としたことだけで満足」「こうしておけば、状況次第で政策を変更し、いつでも核兵器の輸送ができることになる」との意味を含むと読まねばならない。
また、この安倍答弁には別の角度からの問題もある。
健全な民主主義とは民衆の権力に対する猜疑によって保たれる。民衆が権力を信頼することは独裁を生む危険行為なのだ。民主的な手続を経て形成された政治権力も、民衆の批判なくしては容易に腐敗するものと考えねばならない。ましてや、安倍政権である。その傲慢・暴走ぶりは、戦後保守政治の中でも、最悪のものではないか。
「私は総理大臣として、あり得ない、こう言っているんですから、間違いありませんよ、それは。総理大臣としてそれは間違いないということを言っているわけですから。これはそもそもあり得ないということについて、それはまるで政策的にあり得るかのごとく議論することは間違っているということを申し上げているわけであります。」
この安倍答弁は、法の支配の構造について理解ない点でも、権力を持つ者が「私を信頼すればよいだけのこと」という傲りとしても、徹底して批判されなければならない。
そして、恐るべきは安倍政権の核政策のホンネである。国民に少しずつ、核に対する慣れを植えつけようとしているとしか思えない。戦争法案は、自衛隊と核との接触を可能とするものだということをよく認識しよう。
(2015年8月10日)
<シンポジウム>「国民の70年談話」─日本国憲法の視座から
?過去と向き合い未来を語る・安全保障関連法案の廃案をめざして?
の確定プログラムのお知らせです。
開場が10時30分。プログラムは11時?13時40分となります。
プログラムの全体を、3部構成にしました。
◆第1部 「過去と向き合う」 有識者の講演
あの戦争と戦後70年を、各分野で振り返っての
◇日本フィルハーモニー 戦没者鎮魂の弦楽四重奏演奏
◆第2部 「未来を語る」 会場発言リレートーク
若者、女性、憲法課題に取り組んでいる立場から
(高校生や大学生、母親、若手弁護士、
裁判で闘っている方などに発言を依頼しています)
◆第3部 「国民の70年談話」の発表と採択
下記のURLが、シンポジウムの確定内容のチラシになっています。
ぜひとも拡散をお願いいたします。
http://article9.jp/documents/symposium70th.pdf
集会のコンセプトは次のとおりです。
いま、政権と国民が、憲法をめぐって鋭く対峙しています。
その政権の側が「戦後70年談話」を公表の予定ですが、これに対峙する国民の側からの「70年談話」を採択して発表しようというものです。
そのことを通じて、彼我の歴史認識や平和な未来への展望の差異を明確にし、きちんとした批判をし、国民の立場からの平和な未来の展望を語ろうという企画です。
日時■2015年8月13日(木)11時?13時40分
(開場10時30分)
会場■弁護士会館 2階講堂「クレオ」ABC
http://www.nichibenren.or.jp/jfba_info/organization/map.html
■参加費無料 (カンパは歓迎)
<シンポジウム>「国民の70年談話」─日本国憲法の視座から?過去と向き合い未来を語る・安全保障関連法案の廃案をめざして?
◇第1部 過去と向き合う
■戦後70年日本が戦争をせず、平和であり続けることが出来たことの意義
高 橋 哲 哉(東京大学教授)
■戦後改革における民主主義の理念と現状
堀 尾 輝 久(元日本教育学会・教育法学会会長)
■人間らしい暮らしと働き方のできる持続可能な社会の実現に向けて
暉 峻 淑 子(埼玉大学名誉教授)
■日本国憲法を内実化するための闘い─砂川・長沼訴訟の経験から
新 井 章 (弁護士)
■安全保障関連法案は憲法違反である
杉 原 泰 雄 (一橋大学名誉教授)
◇レクイエム 弦楽四重奏(日本フィルハーモニー)
◇第2部 未来を語る会場発言リレートーク
お一人5分間でお願いします。時間の許す限り。
◇第3部 「国民の70年談話」の発表と採択
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戦後70周年を迎える今年の夏、憲法の理念を乱暴に蹂躙しようとする政権と、あくまで憲法を擁護し、その理念実現を求める国民との対立が緊迫し深刻化しています。
この事態において、政権の側の「戦後70年談話」が発表されようとしていますが、私たちは、安倍政権の談話に対峙する「国民の70年談話」が必要だと考えます。
そのような場としてふさわしいシンポジウムを企画しました。憲法が前提とした歴史認識を正確に踏まえるとともに、戦後日本再出発時の憲法に込められた理念を再確認して、平和・民主主義・人権・教育・生活・憲法運動等々の諸分野での「戦後」をトータルに検証のうえ、「国民の70年談話」を採択しようというものです。
ときあたかも、平和憲法をめぐるせめぎ合いの象徴的事件として安全保障関連法案阻止運動が昂揚しています。併せて、この法案の問題点を歴史的に確認する集会ともしたいと思います。
ぜひ、多くの皆さまのご参加をお願いいたします。
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主 催■「国民の70年談話」実行委員会
代表・新井 章 事務局長・加藤文也
連絡先■東京中央法律事務所(電話 03-3353-1911)
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報じられるところでは、戦後70年の安倍談話の発表は8月14日(金)になる模様である。この日、閣議決定を経て出される首相談話は、日本の戦争と戦後の歴史の総括的評価に関する公式文書となる。
既に、戦後50年村山首相談話が「植民地支配と侵略を、痛切に反省し心からお詫び」するものと出され、これが国の公的な歴史認識として定着し、小泉首相60年談話がこれを踏襲した。「戦後レジームからの脱却」を呼号する、歴史修正主義者安倍晋三が70年談話を出そうというのだから、村山談話修正に執念を燃やしてのことだとは誰にでも分かることだ。
ところが、天の時、地の利、人の和、すべてが安倍の思惑とは大きくかけ離れてしまった。到底中央突破で我意を押し通せる事態ではない。依拠する右翼の諸君のために、多少なりとも村山談話にケチをつけなければならない。その落としどころとして「侵略」「植民地支配」のキーワード外しを考えていたのに、有識者懇談会の答申が、「侵略」も「過酷な植民地支配」も盛り込んでしまった。これをことさらに省けば、内外からの袋叩きが目に見えている。「反省」も然りだ。
残るは「痛切なおわび」。これはなんとかごまかしたい。これを取り入れたら、安倍カラーは皆無。なんのために70年談話発表を言い出したのか、わけが分からなくなってしまう。
そんな見方が一般的で、「安倍談話の原案『おわび』盛らず」となりそうなのだ。一部の報道では、「首相が7日夜に自民、公明両党幹部に示した原案には、戦後50年の村山談話や戦後60年の小泉談話に盛り込まれたアジア諸国への「おわび」の文言が入っていないことが分かった。」とされている。また、「原案には過去の大戦に対する『反省』は盛り込まれていたが、『植民地支配と侵略』については、必ずしも明確な位置づけではなかった。このため、公明側は『なぜ日本は反省をするのか。その対象を明確にしないと伝わらない』と主張し、『侵略』という文言もしっかりと位置づけるよう求めた。」(朝日デジタル)ともいう。
この詳報のソースは、公明党幹部のメディアへのリーク以外に考えがたい。公明が、安倍を牽制にかかっているのだ。安倍をめぐる「人の和」が崩壊を始めている。
また、8月7日の日テレ報道は「来週発表する戦後70年の首相談話について、安倍首相が過去の村山談話などに盛り込まれた『侵略』との表現を踏襲しない方向で調整していることがわかった。」と報じている。「6日、安倍首相に提出された有識者会議の報告書では『侵略』を明記したが、2人の委員からは異議が出ていた。7日、安倍首相はこうした点をあげながら、『侵略』との表現を踏襲しないことをにじませた」という。なんともフザケた話し。
実のところ、安倍談話がどういうものとなるかは、当日まで分からない。安倍自身も、自分の意思をどこまで貫けるのか、大いに迷っていることだろう。「国民の70年談話」は、先行する安倍談話を批判するものとして案文を作れるものと考えていたが、後出しジャンケンはできそうにない。
侵略戦争や植民地支配という歴史認識に揺るぎがあろうはずはない。これを踏まえて、首相談話には「痛切な反省」と「心からお詫び」が不可欠である。しかし、国民の談話ではどうだろうか。日本の天皇制ファシズムや超国家主義・軍国主義は、近隣諸国民衆の敵であっただけでなく、日本の民衆の敵でもあった。リベラルな日本の良心も、かつての日本国家から野蛮な弾圧を受けたのである。日本の「国民」のどの部分の立場を代理するかで、「反省とお詫び」の内容は大きく変わってくる。
さらには、未来をどう志向するかの問題について、政権と国民の立場の違いは大きい。安倍談話の未来志向の基本は、「積極的平和主義」となるだろう。「消極的に何もしないで平和を待つのではなく、平和を求める諸国と共同して積極的に平和を創出する」覚悟が語られることだろう。
ここが対決点だ。安倍は積極的に何をしようというのか。明らかに自衛隊を世界に派遣することが想定されている。あるいは集団的自衛権という武力による威嚇がもたらす「武力に基づく平和」の思想である。互いの軍備による抑止力に依存した「平和」。国民の側は、これに憲法9条が指し示す「武力によらない平和」を対置しなければならない。「平和を望むなら武力の整備を」ではなく、「平和を望むなら、武力を減らし、なくす」努力をしなければならない。
安倍首相は14日に談話を閣議決定した上で会見する方針という。またまた、同じことを繰り返し、丁寧にはぐらかして説明するのだろう。それでも、きちんと安倍の説明を聞き、きちんと批判しよう。
(2015年8月9日)
次世代の党とは、安倍政権の右側からの応援団。その存在自体で、「安倍よりもまだ右がいる」と相対化する役割を担っている。しかし、皮肉なもので、安倍の極右ぶりが次世代の存在理由を否定してしまった。
その結党が2014年8月1日、1年前のことだ。結党後初めて昨年暮れの総選挙で国民の審判を受け、選挙前には19あった衆議院の議席のうち、17議席を失って平沼赳夫と園田博之の2議席のみとなった。石原慎太郎も落選組の一人。ご同慶の至りである。
一度も選挙の洗礼を受けていない参議院には「6人も!」の議席が「まだ」ある。その内の一人が、来年改選期を迎える江口克彦である。同党の「両院議員総会長」という肩書。松下電器産業でどっぷりと企業の論理に浸かって生きてきた人物。
その江口が、「国会で『女性、扱いにくい』発言 次世代の党議員」と物議を醸している。
東京新聞の記事は以下のとおり。
「女性活躍推進法案を審議するために開かれた6日の参院内閣委員会で、次世代の党の江口克彦参院議員(比例)が参考人への質問の際に『女性は相手によってセクハラだとか、セクハラじゃないとか言ってくる』『女性社員は管理職になっても扱いにくいところがあると思う』などと述べた。女性への配慮を欠いた発言で、今後批判を浴びそうだ。
江口氏は終了後の取材に『自分の会社経営者としての経験を基に、男女差別やセクハラはいけないと言いたかったが、誤解される表現があったならば不徳の致すところだ』と釈明した。」
「『気が合わない男性からハグされるとセクハラだと。もっとひどいのは握手するだけでセクハラだと』などと発言した」
「誤解される表現」という表現ぶりが、彼の「不徳」をよく表している。報道にも読者にもなんの誤解があるものか。ホンネを語って不徳の至りをさらけ出しただけのこと。おそらく、松下の社内では、「セクハラ」「パワハラ」の訴えがあっても、「たいしたことのないことを、特定の相手に対して大袈裟に言っているんだろう」と聞き流して、真剣に耳を傾けることはなかったのだろう。これが、前世代経営者の時代錯誤感覚。こんな感覚の政治家は、次世代の到来を俟たずに、速やかに淘汰されなければならない。
保守政治家の感覚の奇妙さ鈍感さの露呈には事欠かない。またまた、自民党の二人が今日の紙面を賑わしている。
「自民党の中川雅治参院議員(68)=東京=が、自身の公式ウェブサイトに載せた中学時代の体験に「いじめを正当化している」などとネット上で批判が広がり、当該記事を削除していたことが分かった。さらに同党の熊田裕通衆院議員(50)=愛知1区=も自身のサイトに載せた学校時代の思い出の記事を批判され、削除した。「炎上」の背景には、自民党の武藤貴也衆院議員が安保法制に抗議する学生を「利己的」などとツイッターで非難し、同党議員の発言への関心が高まっていたことがあるとみられる。
中川氏は自身のサイトで、義家弘介衆院議員、橋本聖子参院議員(ともに自民)との対談記事を5年ほど前から載せていた。この中で中川氏はいじめの問題を話題にし、中学時代にクラスで同級生が裸にされたことなどを紹介。記事は今月4日ごろからネット上で拡散し、「弱者を思う気持ちがない」などと批判が広がり、5日に記事が削除された。
中川氏は取材に「自分はやっていない。そういうことがあったのを見たということ。あっけらかんとしたもので、いじめとは思っていなかった」と説明。削除した理由は「誤解が広がったため」としている。
一方、熊田氏は公式サイトで、学校時代に仲間と女性教師をトイレに閉じ込めたという体験をつづり、批判が相次いだ。熊田氏は記事を削除し、サイト上に謝罪文を掲載。秘書は「議員は取材に応じられない」としている。」(毎日)
毎日が要約した、中川のウェブサイト記事は以下のとおりである。
「中学時代、クラスの悪ガキを中心に皆いつもふざけていて、小さくて可愛い同級生を全部脱がして、着ていた服を教室の窓から投げるようなことをよくやっていました。脱がされた子は素っ裸で走って服を取りに行く。皆でおなかやおちんちんにマジックで落書きしたりしました。やられた方は怒っていましたが、周りはこれをいじめだと思っていませんでしたね。今なら完全ないじめになり、ノイローゼになったりするケースもあるのかなあと思います。」
ここでも弁明は、「誤解が広がった」である。何をどう誤解したというのか、「イジメでないものをイジメと誤解された」とでも言いたいのか。イジメをイジメではないと誤解したのがオマエだろうに。
あらためて考えざるをえない。加害者と被害者とでとらえ方の違いである。足を踏まれた側の痛みが、踏んだ方にはわからないのだ。イジメの加害者は、被害者の心情を分かろうとしない。この中川という男は、「あっけらかんとしたもので、いじめとは思っていなかった」と平気で言ってのける。まったく被害者の心情を理解する感性を持たずに政治家となってしまったのだ。自分の感性を、あるいは感性の欠如を恥ずべきことと思っていない。人の痛みを理解できない者は政治家になってはならない。おそらく安倍晋三も同じ欠陥をもっている。このような感性が、侵略戦争や植民地支配における被害者の心情の理解を妨げており、反省も謝罪も拒否することになっているのだ。
私の関心は、鼎談の相手方だったという義家弘介と橋本聖子の反応にもある。義家・橋下ともに、自民党の文教族である。教育には一家言をもっていなければならない立場。このようなイジメ不感症男の問題発言には、ただちに叱責してしかるべきであった。少なくも、注意してたしなめるくらいはしなければならない。何もせずに、相槌を打っていたのだろうか。こんな連中が、道徳教育を論じたり、「日の丸・君が代」の強制政策を担っているのだ。
このところ、問題発言が目白押しである。話題となったのは、「マスコミ弾圧集会」で盛りあがった自民党37人衆。それに礒崎陽輔、武藤拓也、麻生太郎。そして、江口克彦、中川雅治、熊田裕通等々である。これに、義家弘介と橋本聖子を加えてもよい。
発言を批判されれば、「誤解」と弁明しながら、いとも簡単に撤回し黙り込む。その発言の軽さと無責任ぶりに呆れるしかない。常識も信念もなくその場限りの口先だけで世渡りをしているこんな連中が、多数決で政治を動かしている。違憲の法案成立の一票の頭数に数えられるのだ。
これら時代錯誤政治家の感性の貧しさは、目を覆わんばかりではないか。「安倍を倒せ」のスローガンは、このような安倍を支えている政治家についても、「もろともに倒せ」のことでなくてはならない。
(2015年8月8日)
安倍晋三とは、日本国憲法に限りない憎悪をもつ人物である。憲法改正こそが彼の終生の悲願にほかならない。日本国の首相としてこの上なくふさわしからぬこの人物が首相の任についている。憲法擁護義務を負う首相であるにかかわらず、憲法の平和主義に敵意を露わにし、戦後レジームからの脱却を呼号している。9条の改憲が無理なら、議席の多数を恃んでの解釈改憲・立法改憲のたくらみに余念が無い。こうして安倍は特定秘密保護法を成立させ、今戦争法を成立させようと躍起になっている。
私たち国民の側の課題は、戦争法案を廃案に追い込むことと安倍内閣を打倒することの2点となっている。この2点は分かちがたく一体となった課題なのだ。澤地久枝の依頼によって金子兜太が筆をとったという「安倍政治を許さない」が時代のスローガンととして定着しつつある。許されざる安倍政治とは、あらゆる分野に及んでいるが、何よりも憲法を破壊し平和を蹂躙する「戦争法案」の成立を許してはならない。
安倍政権の危険性と、戦争法の危険性。その両者がともに国民の間に広く深く浸透しつつある。安倍政権にかつての勢いはない。相当のダメージを受けてふらふらの状態となっている。が、いまだにダウンするまでには至っていない。「水に落ちた犬は打て」というが、まずは水に落とさねばならない。ようやく水辺にまでは押してきた。もう一歩で水に落とすことができそうではないか。大きな世論の批判で、安倍を水に落とそう。
世論調査で、「戦争法案に反対」は圧倒的多数だ。しかし、これだけでは安倍政権に廃案やむなしと決断させるには十分でない。むしろ強行突破の決意をさせることになりかねない。政権の側に、「反対運動の高揚は法案の成立までのこと。法案が成立してしまえば、みんな諦めるさ」という国民への見くびりがあるからだ。
今は何よりも、安倍内閣の支持率を低下させることが重要だ。30%の危険水域以下となれば、水に落ちた犬状態といってよいだろう。
さらに、重要な指標が与党である自民・公明両党の支持率だ。安倍政権の支持率低下の顕著さに比較すると、自民党支持率低下の傾向はさほどではない。これに火がつけば、事態は大きく変わることになるだろう。今でも腰の引けている自民党参議院議員が、安倍を見捨てることになるからだ。法案を批判し、内閣を批判し、与党を批判する。このことによって法案を廃案に追い込む展望が開けつつあると思う。議席の数がすべてを決めることにはならないのだ。
安倍政権のヨタヨタぶりは、国立競技場建設計画の白紙撤回となって表れた。次いで、辺野古新基地計画の凍結である。仙台市議選での「自民党後退、共産党前進(3人トップ当選)」の結果も手痛い。8月6日広島平和記念式典での非核三原則言及せず問題もあり、70年談話も安倍カラーは押さえこまれそうな雲行き。TPPも思惑のとおりには行かない。埼玉知事選も、川内原発再稼働への風当たりも強い。そこに、礒崎や武藤のオウンゴールが重なる。安倍晋三、こころなし精気に欠ける。疲れ切った表情ではないか。相当にこたえているのだろう。
さらに今日になってのできごとだ。今月20日に告示9月6日投開票予定の岩手県知事選挙に立候補を表明していた、元復興大臣の平野達男参議院議員が立候補を取り消した。相当にみっともない戦線離脱なのだ。そして、政権への痛手である。
平野達男は、民主党政権の復興大臣との印象が強いが、今は民主党を離脱して無所属の参議院議員。今回は自民・公明の推薦で立候補表明をして、現職達増拓也との保革一騎打ちの構図が描かれていた。100万を超す県内有権者を対象に、自民・公明の与党連合と、民主・生活に共産までくっついた野党連合との票の取り合い。戦争法案の賛否を問うミニ国民投票の様相であった。
ところが、このところ自・公の評判がすこぶる悪い。自民党独自の最新世論調査シミュレーションでは、ダブルスコアの水が開いたという。戦争法案参院審議のヤマ場に、与党がダブルスコアで野党連合に敗北ではなんとも惨めなことになり、法案成立の大きな支障になる。「だから平野達男君、立候補はおやめなさい」と声がかかったのだ。結局は現職達増の無投票当選という白けた結果となる。
本日の平野の立候補記者会見では、平野はあけすけに「国の安全保障の在り方が最重要課題へと浮上し、県政の在り方が論点になりづらい状況が生じてきた」と述べたという。翻訳すれば、「知事選でありながら、戦争法案の賛否を問うワンイシュー選挙になりそうで、そうなれば自公に推された立場で勝てるわけがない」ということなのだ。
加えて、参議院議員である平野が知事選に立候補すれば、参院選の補選をしなければならない。これが10月になるが、この選挙も自公の衰退を天下にさらけ出すことになるというのが、「立候補はおやめなさい」のもう一つの理由だったという。ダブルの敗戦を避けて、不戦敗を選んだというわけだ。
これまでは、こう報道されていた。
「衆院での安保法案の強行採決に対する世論の反発が広がり、法案を推進する与党側にとって逆風となっている。県内各地であいさつ回りを重ねる平野氏も『法案に対する反応は厳しい。自民の支援をなぜもらったのかと聞かれることもある。国政と県政は別のことと説明すれば理解はしていただいている』と話す。参院で審議入りした安保法案について平野氏は『慎重な審議が必要』との考えだ。
一方、達増陣営は『法案は違憲』との立場を前面に出し、強行採決した与党陣営が推す平野氏と、反対の野党勢力の対立構図を強調する。達増氏は後援会の集会などで『県民が正しい選択をすることで国政も変えられる』と訴え、安保法案の是非を問う主張を繰り広げている。」(朝日・岩手版)
明らかに、安倍と距離を置いた戦争法案反対がプラスイメージ、安倍にベッタリはマイナスイメージとなって、立候補すら見送らざるを得ないのだ。
9月6日投開票の岩手県知事選はなくなった。しかし、岩手県議選は同日投開票される。戦争法案推進勢力と反対勢力の票の奪い合いがどうなるか。100万有権者の審判を待ちたい。
岩手だけではない。アチラもコチラも、安倍に冷たく、憲法に暖かい風が吹いている。
(2015年8月7日)
1945年8月6日午前8時15分。広島に投下された原子爆弾が炸裂したそのとき。その時刻こそが人類史を二つに分ける瞬間である。これこそが人類史上最大の衝撃の事件。悲惨きわまりない大量殺戮。人類は、核エネルギーという、自らを滅ぼすに足りる手段を獲得したことを自らに証明したのだ。
その大事件から、今日がちょうど70年。広島の平和記念式典には55000人が参列した。海外からの参加も、過去最多の100か国を超えるものだった。
松井市長が核兵器を「絶対悪」と呼んでその廃絶を訴えた。
「人間は、国籍や民族、宗教、言語などの違いを乗り越え、同じ地球に暮らし一度きりの人生を懸命に生きるのです。私たちは『共に生きる』ために、『非人道性の極み』、『絶対悪』である核兵器の廃絶を目指さなければなりません。」
さらに注目すべきは次の一節である。
「今、各国の為政者に求められているのは、『人類愛』と『寛容』を基にした国民の幸福の追求ではないでしょうか。為政者が顔を合わせ、対話を重ねることが核兵器廃絶への第一歩となります。そうして得られる信頼を基礎にした、武力に依存しない幅広い安全保障の仕組みを創り出していかなければなりません。その実現に忍耐強く取り組むことが重要であり、日本国憲法の平和主義が示す真の平和への道筋を世界へ広めることが求められます。」
最前列に位置していた、安倍晋三の耳にはこう聞こえたのではないだろうか。
「今、日本の首相に求められているのは、『人類愛』と『寛容』を基にした国民の幸福の追求ではないでしょうか。けっしてナショナリズムの鼓舞でも近隣諸国の危険をあげつらう煽動でもありません。近隣諸国の為政者と顔を合わせ、対話を重ねることが核兵器廃絶への第一歩となります。そうして得られる信頼を基礎にした、武力に依存しない幅広い安全保障の仕組みを創り出していかなければなりません。けっして、武力に基づく積極的平和主義の鼓吹や、切れ目のない防衛体制の構築の宣伝ではないはずです。日本国憲法の平和主義が示す真の平和への道筋を世界へ広めることが切実に求められています。憲法の平和主義を蹂躙して集団的自衛権の行使を可能とする戦争法案を制定するなどは、戦争で亡くなった多くの人たちやそのご遺族の平和への願いを踏みにじる暴挙ではありませんか」
安倍晋三という人物、とてつもなく心臓が強い人なのだろう。それにしても居心地が悪かったに違いない。6月23日の沖縄全戦没者慰霊祭と同様、多くの参列者からの敵意を感じたことだろう。あのときには「何しに来たか」「戦争屋」「帰れ、帰れ」という罵声が浴びせられたことが話題となった。おそらく今日も同様の罵声を覚悟での式典参列だったろう。どのくらいの野次や罵声があったかはよく分からない。「戦争法案反対」「安倍内閣打倒」のスローガンを叫んだデモの洗礼は受けたようだ。
被爆者らが式典後の安倍晋三と面談した。被爆者側が、戦争法案について、「憲法違反であることが明白」「長年の被爆者の願いに反する最たるもの」として撤回を要望した。これに対して、首相は「不戦の誓いを守り抜き、紛争を未然に防ぐものであり、国民の平和を守り抜くためには必要である」と述べたと報道されている。また、首相はここでも「国民の皆さんの意見に真摯に耳を傾けながら、分かりやすい説明をしていく」と応えたという。
問題点が明確になってきた。松井市長が平和宣言の中で述べた「武力に依存しない安全保障」の考え方と、安倍首相のいう「専守防衛を越えた切れ目のない防衛力の整備こそが抑止力となって平和をもたらす」という倒錯した思考とのコントラストである。安倍流抑止論は、自国の軍事力は強ければ強いほど抑止力になって平和をもたらす。この考え方は、核こそが最大の抑止力であり、最大の平和の担保だとなりかねない。
あ?あ、ホントはボク、ちやほやされるのが大好きなんだ。無視されたり、罵声を浴びせられたり、「カエレ、カエレ」とやられるのは、相当にこたえる。そりゃボク戦争は好きだよ、だけど「戦争屋」って言われるのは明らかに悪口だから面白くはない。何しに来たかって? 職務上来ないわけには行かないんだ。部下の書いた原稿を読みに来ただけさ。あの原稿の中でボクの意見が反映されているのは非核三原則の言葉をはぶいたことくらい。核こそ究極の抑止力だもの。日本人の核アレルギーを少しずつ正常化しておかなきゃならない。少しずつ国民をならしていかなとね。でも、職務を離れたら二度とこんなところには来たくない。ホントは右翼の集会に行きたいんだ。そこなら、みんな仲間として温かく迎えてくれる。ちやほやしてくれるもんね。
東京に帰ってきたら、もひとつ、イヤなことが待っていた。ボクが見つくろって人選した「戦後70年談話・有識者懇談会」の報告書だ。ボクが本心大嫌いなことは知っているくせに、「侵略」や「植民地支配」なんて言葉が並んでいる。なんのための諮問なのか、あの連中わからんのかね。以心伝心とか、アウンの呼吸とか。分かりそうに思ったんだけど。もしかしたら、沈みそうな船に見切りをつけて、みんなボクの船から逃げだそうとしているのかな。なんだか、トモダチがだんだん減っていきて、淋しいし心細い。
ようやく広島の6日が終わったら、次は9日の長崎が待っている。少し前までは、「怒りのヒロシマ」「祈りのナガサキ」といわれたものだが、最近の長崎は遠慮がない。また何か言われるんだろうから、ホントは行きたくない。でも、行かないともっともっと叩かれる。ほんに、総理も楽じゃない。
(2015年8月6日)
8月には戦争について、思い、語り、考えなければならない。一億国民のすべてを巻き込んだだけでなく、その10倍を遙かに超える近隣諸国の民衆に計り知れない悲惨をもたらしたあの戦争。まずは、事実を曲げることなくその実態を掘り起こし、記録し、けっして風化させない努力を継続しなければならない。
それだけではない。なぜあの戦争がおきたのか、誰にどのような責任があるのか、を厳しく問わなければならない。そのようにして過去と向かい合ってこそ、ふたたびの愚行と惨禍を繰り返さないことが可能となる。
戦争の責任はすべての国民にあったという一億総懺悔論がある。けっして、荒唐無稽な考え方ではない。あの戦争を多くの国民(当時は「臣民」だった)が熱狂的に支持し積極的に加担したことは否定し得ない。多くの国民が近隣諸国の植民地支配や侵略戦争を待望し、他国民衆の犠牲において自らの繁栄を望んだ歴史的事実を消すことができない。傍観した国民はその姿勢に責任を持たねばならないし、戦争に反対した国民さえもが力量不足の責任を問われるべきという立論がある。
しかし、一億総懺悔では、各々の立場や役割に応じた責任の質や大小を明らかにすることができない。不再戦の反省の糧とはならない。それぞれの立場や実際に演じた役割に応じた戦争責任の大小を考えるとすれば、その第一に責任を問われるべきが、昭和天皇裕仁であることはあまりに明白である。
真摯に戦争を考え、ふたたびの戦争を起こさぬようにと戦争の原因と責任に思いをめぐらすときに、A級戦犯の上に君臨していた天皇の戦争責任に論及すべきは当然である。東条英機以下のA級戦犯の戦争責任には論及しながら、天皇の責任に言及することをタブー視する風潮はまことに危険である。戦前の民主主義の欠如が、大きな戦争の原因だったのだから。再びの天皇の権威確立はふたたびの戦争への道となりかねないのだ。天皇こそは、誰もがもっとも批判の対象としなければならない存在である。天皇への批判を躊躇させるこの社会の空気に、敢えて抗わねばならない。
8月15日が近づくと、「終戦のご聖断」を天皇の功績の如くにいう神話が繰り返される。このような言論は、愚かなものというだけでなく、歴史を偽る危険なものと考えなければならない。
本日の東京新聞は、全2面を割いて「逃し続けた終戦機会 負の過去に向き合え」という特集記事を掲載している。加藤陽子東大教授の「語り」を中心とする企画で、労作と評価できるものではある。が、向き合うべき「負の過去」として加害責任が述べられていない。「逃し続けた終戦機会」における天皇裕仁の責任についてもまったく言及がない。リベラル派を以て任じる東京新聞が、いったいなにを遠慮しているのだ。そのようなメディアの姿勢が、天皇タブーを作りだし拡大していくのではないか。
「天皇の戦争責任」という井上清(京都大学名誉教授)の名著がある。私の手元にあるのは、1975年8月15日初版の現代評論社本だが、著者没後の2004年に「井上清・史論集〈4〉天皇の戦争責任」として岩波現代文庫所収となっている。
この書で明解にされていることは、天皇が単なる捺印ロボットではなかったということである。積極的に東条を首相に据えて、周到に開戦を準備した天皇の開戦責任に疑問の余地はない。
「聖断をもって終戦を決意し、平和をもたらした天皇」というストーリーは天皇自身が語っているところだが、「遅すぎた聖断」であることは明白な事実である。東京新聞企画も、「逃し続けた終戦機会」として、終戦の決断の可能性あった機会6時点をとらえて解説している。その最初の機会が、1943年2月のガダルカナル撤退。2番目が44年7月のサイパン陥落、3番目が44年9月26日天皇が初めて終戦に言及したことが記録として確認できるこの日だという。そして4番目が45年3月10日の東京大空襲の被害のあと。そのあと5月にも6月にも、終戦のチャンスがあったとされている。
それでも東京新聞である。政権の御用新聞ではない。この企画の末尾の記事を転載しておきたい。
「岩手県の軍人の戦死時期を調べた研究によれば、その9割近くが最後の1年半に集中していた。310万人の日本人が死亡し、アジアに与えた惨禍は計り知れない太平洋戦争。やめ時は何度もあった。」
直接には天皇の責任に触れていないが、「やめ時は何度もあったが、遅れたために多くの命が失われたこと」は明記されているのだ。
なぜやめられなかったか。いうまでもなく、国体の護持にこだわったからである。国民の命よりも天皇制擁護を優先した結果が、遅すぎた敗戦を招いてあたら多くの命を失うことになった。それが、310万人の9割の命だという。
米軍による本土空襲は200以上の都市におよび、死者100万人といわれる。1945年8月にはいってからだけでも、水戸、八王子、長岡、富山、前橋、高崎、佐賀、広島、豊川、福山、八幡、長崎、大湊、釜石、花巻、熊本、久留米、加治木、長野、上田、熊谷、岩国、光、小田原、伊勢崎、秋田と、8月15日の終戦当日まで及んでいる。累々たる瓦礫と死傷者の山。国体護持にこだわった一人の男の逡巡が奪った命と言って過言ではない。
井上清は、その書の末尾に、「天皇の戦争責任を問う現代的意味」という項を設けて次のように結んでいる。
「天皇は輔弼機関のいうがままに動くので責任は輔弼機関にあり、天皇にはないという論法に、何の根拠もない。
東条首相はそのひんぴんたる内奏癖によって、天皇の意向をいちいち確かめながら、それを実現するように努力したのであって、天皇をつんぼさじきに置いて、勝手に戦争にふみ切り、天皇にいやいやながら裁可させたのではない。そして東条は、赤松秘書官の手記によれば、天皇親政の問題に関連して、つぎのように語っている。
『憲法で「天皇は神聖にして侵すべからず」とあるのを解して、学者は、天皇には何の責任もないと論じている。然し、自分は大東亜戦争開戦前の御決断に至る間の御上の御心持をお察しして、天皇は皇祖皇霊に対し奉り大いなる御責任を痛感せられておる御模様を拝察できた。臣下たる我々は戦争に勝てるかということのみ考えていたのである。それに比べて比較にならぬ程の大きな御責任の下で、御決断になったものである。これは開戦1ヵ月余になって始めて拝承できた払の体験である』。
ほかでもない内奏癖の東条首相が、天皇はいかに重大な責任感をもって開戦を『御決断になった』かを述べている。
対米英戦争の開始も、天皇の責任をもった「御決断」によって行なわれた。同様に1931年9月開始の中国東北地方侵略いらいの不断に拡大した中国侵略戦争も、天皇の主体的な「御裁可」とその前段の「御内意」により実現されたのであった。
占領軍の極東国際軍事法廷は、天皇裕仁の責任をすこしも問わなかった。それはアメリカ政府の政治的方針によることであったとはいえ、われわれ日本人民がその当時無力であったためでもある。降伏決定はもっぱら日本の支配層の最上層部のみによって、人民には極秘のうちに、『国体』すなわち天皇制護持のためにのみ行なわれた。人民は降伏決定に何ら積極的な役割を果すことがなかった。そして降伏後も人民の大多数はなお天皇制護持の呪文にしばりつづけられた。日本人民は天皇の戦争責任を問う大運動をおこすことはできなかった。
アメリカ帝国主義は、天皇の責任を追及するのではなく、反対に天皇をアメリカの日本支配の道具に利用する道を選んだ。しかも現代日本の支配層は、自由民主党の憲法改定案の方向が示すように、天皇を、やがては日本国の元首とし、法制上にも日本軍国主義の最高指揮者として明確にしようとしている。
この状況のもとで、1931?45年の戦争における天皇裕仁の責任を明白にすることは、たんなる過去のせんぎだてではなく、現在の軍国主義再起に反対するたたかいの、思想的文化的な戦線でのもっとも重要なことである、といわざるをえない。」
憲法を壊し戦争法案を上程した安倍政権のもとで、しかも天皇責任論タブー視の言論状況の中で、井上清が1975年に発した警告を受け止めなければならない。民主主義の欠如こそが最大の戦争の要因なのだから。
(2015年8月5日)
下記のURLが、シンポジウムのチラシになっています。
ぜひとも拡散をお願いいたします。
http://article9.jp/documents/symposium70th.pdf
企画の総合タイトル
シンポジウム「国民の70年談話」ー日本国憲法の視座から
過去と向き合い未来を語る・安全保障関連法案の廃案をめざして
日時■2015年8月13日(木)午前11時?午後1時20分
会場■弁護士会館 2階講堂「クレオ」ABC
・東京メトロ丸ノ内線、日比谷線、千代田線「霞ヶ関駅」B1-b出口より直通
・東京メトロ有楽町線「桜田門駅」5番出口より徒歩8分
■参加費無料 (カンパは歓迎)
戦後70周年を迎える今年の夏、憲法の理念を乱暴に蹂躙しようとする政権と、あくまで憲法を擁護し、その理念実現を求める国民との対立が緊迫し深刻化しています。
この事態において、政権の側の「戦後70年談話」が発表されようとしていますが、私たちは、安倍政権の談話に対峙する「国民の70年談話」が必要だと考えます。
そのような場としてふさわしいシンポジウムを企画しました。憲法が前提とした歴史認識を正確に踏まえるとともに、戦後日本再出発時の憲法に込められた理念を再確認して、平和・民主主義・人権・教育・生活・憲法運動等々の諸分野での「戦後」をトータルに検証のうえ、「国民の70年談話」を採択しようというものです。
ときあたかも、平和憲法をめぐるせめぎ合いの象徴的事件として安全保障関連法案阻止運動が昂揚しています。併せて、この法案の問題点を歴史的に確認する集会ともしたいと思います。
ぜひ、多くの皆さまのご参加をお願いいたします。
スケジュール
《第一部》過去と向き合う
■戦後70年日本が戦争をせず、平和であり続けることが出来たことの意義
高橋哲哉(東京大学教授)
■戦後改革における民主主義の理念と現状
堀尾輝久(元日本教育学会・教育法学会会長)
■人間らしい暮らしと働き方のできる持続可能な社会の実現に向けて
暉峻淑子(埼玉大学名誉教授)
■日本国憲法を内実化するための闘い─砂川・長沼訴訟の経験から
新井 章(弁護士)
■安全保障関連法案は憲法違反である
杉原泰雄(一橋大学名誉教授)
《第二部》未来を語る
◆若者・高校生・大学生・女性・母親・ジャーナリスト・教員…
多くの人がそれぞれに語る未来の展望
《第三部》「70年談話」
◆「国民の70年談話」の発表と参加者による採択
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政権と国民とが、憲法をめぐって鋭く対峙している。戦後70年の今日、平和憲法が最大の危機にある。その憲法を蹂躙しつつある政権の側が公表しようとしている「戦後70年談話」に対決する、国民の側からの「70年談話」が必要と考える。
政権の談話に対峙する「国民の側の談話」は、政権の歴史認識を批判し、平和な未来への展望を語るものとなるだろう。
たまたま、本日(8月4日)の朝日新聞朝刊15面に、あの「敗北を抱きしめて」の著者であるジョン・ダワーのインタビュー記事が掲載されている。表題は「日本の誇るべき力」だが、内容を紹介する冒頭の見出しが「国民が守り育てた反軍事の精神 それこそが独自性」というもの。
ダワーは、政府と国民を明確に区別し、「日本の誇るべき力(ソフトパワー)」を「国民が守り育てた反軍事の精神」と高く評価している。多くの国民が同じ思いであろう。
「国民の70年談話」に参考となると思われる部分を抜粋しておきたい。
「世界中が知っている日本の本当の力(ソフトパワー)は、現憲法下で反軍事的な政策を守り続けてきたことです」
「1946年に日本国憲法の草案を作ったのは米国です。しかし、現在まで憲法が変えられなかったのは、日本人が反軍事の理念を尊重してきたからであり、決して米国の意向ではなかった。これは称賛に値するソフトパワーです。変えたいというのなら変えられたのだから、米国に押しつけられたと考えるのは間違っている。憲法は、日本をどんな国とも違う国にしました」
「このソフトパワー、反軍事の精神は、政府の主導ではなく、国民の側から生まれ育ったものです。敗戦直後は極めて苦しい時代でしたが、多くの理想主義と根源的な問いがありました。平和と民主主義という言葉は、疲れ果て、困窮した多くの日本人にとって、とても大きな意味を持った。これは、戦争に勝った米国が持ち得なかった経験です」
「幅広い民衆による平和と民主主義への共感は、高度成長を経ても続きました。敗戦直後に加えて、もう一つの重要な時期は、60年代の市民運動の盛り上がりでしょう。反公害運動やベトナム反戦、沖縄返還など、この時期、日本国民は民主主義を自らの手につかみとり、声を上げなければならないと考えました。女性たちも発言を始め、戦後の歴史で大切な役割を果たしていきます」
「繰り返しますが、戦後日本で私が最も称賛したいのは、下から沸き上がった動きです。国民は70年の長きにわたって、平和と民主主義の理念を守り続けてきた。このことこそ、日本人は誇るべきでしょう。一部の人たちは戦前や戦時の日本の誇りを重視し、歴史認識を変えようとしていますが、それは間違っている」
この観点、この視座において、「国民の70年談話」をまとめたいものと思う。
(2015年8月4日)
「法的安定性は問題ない」と放言した礒崎陽輔はいったいなんのために参院特別委員会に参考人として招致されたのか。彼は、謝罪のために招かれたと心得ていたのではないか。謝罪の言葉を準備し、準備していた謝罪の言葉を述べて、これで一件落着とでも思っているのではなかろうか。ひととき頭を下げていれば、そのうち風はおさまるだろう。思い違いも甚だしい。
もちろん、加害者の真摯な謝罪が被害者の感情を癒すのに有効で有益なことはありうる。加害者の真摯な謝罪が、事態の混乱を収めて再発防止の出発点になることもしばしば経験するところではある。しかし、礒崎の確信犯的放言と口先だけの謝罪は、そんな類のものではない。
礒崎が参考人として招致されたことの目的は2点を明らかにするためであったろう。
第1点は、彼が首相補佐官として憲法法案の審議を担当する適性を欠いていることについての確認である。
2点目は、適性を欠いた補佐官を選任して用い続けてきた内閣の責任の確認である。
本日の委員会で、礒崎は「私の軽率な発言により審議に多大な迷惑をかけた。発言を取り消すとともに心よりおわび申し上げる」と陳謝したという。また、「法的安定性は確保されている。安全保障環境の変化を述べる際に、大きな誤解を与えた」と説明したともいう。発言を撤回して陳謝することによって彼の適性欠如が治癒されただろうか。そんな馬鹿げたことはけっしてあり得ない。
「軽率」とは、うっかりホンネを漏らしてしまったということ、適性の欠如を隠し通せなかったというだけのこと。その「軽率」によって審議を急いでいる内閣に「多大な迷惑」をかけてしまったというのである。「おわび」は審議を遅らせたことについてのものに過ぎない。彼は、「今後人前でホンネはもらさじ」との教訓を噛みしめているに違いない。
「法的安定性など無関係。重視すべきでない」というのは、この上ない非立憲の姿勢。違憲と問題視されている法案の審議を担当する資格はない。国民の側からは、礒崎の口先だけの謝罪など不要だ。必要なことは補佐官の辞任である。適性欠如が明らかになったのだから、即刻辞任すべきが当然だなのだ。
礒崎は「職務に専念することで責任を果たしたい」とも言ったそうだが、とんでもない。「今後は、憲法問題を取り扱う適性を欠いていることを上手に隠し通して、再びボロを出すようなヘマはしないから、職務を続けさせてくれ」と言っているのだ。こんなことが通じるはずはない。本人が自ら辞任するのでなければ、首相の責任が前面に出て来ざるを得ない。
参議院の礒崎に続いて、衆議院にもトンデモナイ議員が現れた。武藤貴也という若手が、礒崎に負けじとばかりに俄然話題の人になってきた。選挙区は滋賀4区。1979年の生まれだそうだが、この度初めてこの人物の発言を知ることになって驚愕した。そして考え込まざるをえない。単なる「滋賀の恥」というレベルの問題ではない。戦後教育の衰退が、こんな人物を育ててしまったのだ。こんな小さなモンスターの卵みたいなものが議会に巣くっていたのだ。背筋が寒くなる。
きっかけは、今や著名この上ない彼の「炎上ツィッター」だ。
「SEALDsという学生集団が自由と民主主義のために行動すると言って、国会前でマイクを持ち演説をしてるが、彼ら彼女らの主張は『だって戦争に行きたくないじゃん』という自分中心、極端な利己的考えに基づく。利己的個人主義がここまで蔓延したのは戦後教育のせいだろうと思うが、非常に残念だ。」
「戦争に行きたくない」という当然で切実な若者の声を、「自分中心、極端な利己的考え」とし、「利己的個人主義がここまで蔓延したのは戦後教育のせい」と憂いてみせる。
この男の頭の構造は、国民の権利の要求は、すべて「戦後教育がもたらした自分中心、極端な利己的考え」として斥けられることになるのだろう。労働組合活動を通じて労働条件の向上を求める労働者の要求も、生存権を保障せよという主張も、男女の実質的平等を求める運動も、思想良心や表現の自由に関わる要求も…、である。
これだけで驚くに十分だが、実は彼の普段の発言はこんな程度ではない。
彼は、「わが国は自主核武装するしかない」と公言する、核武装論者なのだ。
「いざとなったら、アメリカは日本を守らないと思っています。たとえ小規模な局地戦争でも一度戦端が開かれれば、戦争はエスカレートしていく可能性があります。大規模な戦争になれば、最後は核の使用にまで発展してしまうかもしれません。だから核武装国家同士は、戦争できないのです。」
だから、「戦争を回避し平和を維持するために核武装をせよ」というのだ。「積極的平和主義=武力による平和論」の行き着く先が核武装であることをなんとも軽くさらりと言っちゃうのだ。
それだけではない。日本国憲法全面否定論者である。安倍晋三のホンネを語る立場にあると言って良かろう。たとえば、次の如し。
そもそも「民主主義とは、人間に理性を使わせないシステム」である。民主主義が具体化された選挙の「投票行動」そのものが「教養」「理性」「配慮」「熟慮」などといったものに全く支えられていないからである。第一次世界大戦前は、民主主義はすぐに衆愚政治に陥る可能性のある「いかがわしいもの」であり、フランス革命時には「恐怖政治」を意味した。民衆が「パンとサーカス」を求めて国王・王妃を処刑してしまったからである。戦前の日本では「元老院制度」や「御前会議」などが衆愚政治に陥らない為のシステムとして存在していた。しかし戦後の日本は、ただただ「民意」を「至高の法」としてしまった。
私は「基本的人権の尊重」が日本精神を破壊した「主犯」だと考えているが、この「基本的人権」は、戦前は制限されて当たり前だと考えられていた。全ての国民は、国家があり、地域があり、家族があり、その中で生きている。国家が滅ぼされてしまったら、当然その国の国民も滅びてしまう。従って、国家や地域を守るためには基本的人権は、例え「生存権」であっても制限されるものだというのがいわば「常識」であった。もちろんその根底には「滅私奉公」という「日本精神」があったことは言うまでも無い。しかし、戦後憲法によってもたらされたこの「基本的人権の尊重」という思想によって「滅私奉公」の概念は破壊されてしまった。
この武藤貴也とは、百田尚樹を呼んで沖縄2紙を潰そうと盛りあがった「文化芸術懇話会」の中心人物のひとりである。類は友を呼ぶというのだろうか。礒崎といい、武藤といい、安倍のお友だちとしてピッタリである。このようなアベトモたちのホンネさらけ出しは、もはや安倍政権の末期症状といって差し支えなかろう。
(2015年8月3日)
NHK日曜討論。これまでは時間の無駄と思って関心なかったが、先週に続いて今日も594KHZを選局した。先週7月26日が「与野党激論 どうする新国立競技場・安保法案」。今日が、「参院 論戦激化 安保法案 10党に問う」である。
聴衆を前にした「論戦」とは、聴衆に好感度をアピールして、その支持の獲得を競う「戦い」である。その論戦の選手として、自民党は先週稲田朋美を送り出した。この人、この種のバトルにまったくの不適任。評価は「感じ悪いよね」の一言以上に言うべきものはない。安倍政権と自民党の支持率低下の貢献役にピッタリだ。自民党に人なきがごとしである。
それに比較して、今週の自民党代表選手である佐藤正久は、人柄のアピール度はけっして感じ悪くない。しかし、あまりに軽い。頼りない。支持者への演説ならともかく、「論戦」は無理だろう。やはり、自民党に人はいない。稲田朋美や佐藤正久が前面に出ざるを得ないというのは、もはや法案審議に重要影響事態だ。いや存立危機事態かも知れない。これなら、戦争法案は潰せる。
それだけではない。佐藤正久には「【あかりちゃん】ヒゲの隊長に教えてあげてみた」の動画のイメージが定着してしまった。佐藤が何をしゃべっても、あかりちゃんにやり込められている、あの軽薄な動画キャラクターのイメージがつきまとう。これは凄いことだ。前代未聞のこと。
政権と与党には思いがけない障害物が続出の難レース。オウンゴールも数知れず。それに加えて、この動画も大きな障害となってきた。たどたどしく同じことを繰り返す「ヒゲの隊長」には、高校生あかりちゃんの鋭い反論の声がかぶさってくるからだ。
下記ユーチューブは7月9日に公開され、本日(8月2日)現在、動画再生回数は既に90万回を超えている。
https://www.youtube.com/watch?v=L9WjGyo9AU8
このパロディの作者、何者かは知らないがたいへんな才能。その才能の持ち主も、ここまでの効果の絶大さは予想していなかったろう。なにしろ、参議院安全保障特別委員会の自民党筆頭理事でもあり、党国防部会長でもある「時の人」の面目を完膚なきまでに潰して見せたのだから。
礒崎陽輔も、ツィッターでの10代女性とのバトルが話題となった。
礒崎が集団自衛権を隣の家の家事に例えた発言をしたことに対し、若い女性から『バカをさらけ出して恥ずかしくないんですか』と返され議論に。女性は『まず例えが下手』『火事と戦争を同等にして例えるのがおかしい』『例え話は同等の物で例えないと例えにならないんだよ』などと攻撃。女性のトーンは『やばい。頭悪いし、中学生でも論破できるレベルの政治家』と激しく、結果礒崎はこの女性をブロックしたという。女性は「逃亡。情けない補佐官だなぁ」と語って終了。
今日(8月2日)は、高校生のデモが話題となっている。その多くが、来夏の参議院議員選挙に投票する年代。あかりちゃんも含めて、若者たち、頼もしいではないか。
「アカリちゃんハンデ」を別にしても、佐藤正久の今日の発言のメチャメチャぶりに驚いた。「これまで政府が一貫して集団的自衛権を違憲と言ってきたのは、『フルスペックの集団的自衛権』に限ってのことだった。今、法案となっている新3要件によって限定された集団的自衛権にはこれまで言及がなかった」「だから限定された集団的自衛権行使の立法が法的安定性を損なうことはない」。ヒゲの佐藤よ、そんないい加減なことを言ってよいのか。またまた、オウンゴールの1点献上ではないか。
これまでの政府見解に照らして佐藤発言の不正確は明らかだが、さらに一般論から言ってこれは典型的な詭弁である。概念の全部とその部分をことさらに対立させて、「全部の禁止や約束」を「部分は禁止されていない」「部分は約束していない」と強弁する居直りの手口。こんな詭弁を世間では、屁理屈と言う。このヒゲの「屁理屈」、実は相当に危険なものなのだ。たとえば次の如し。
「憲法を守ると宣誓はしましたが、フルスペックの憲法全部を守ると約束した覚えはありません。だから、私に都合の悪い条文についての義務履行は拒否します」
「自衛隊は国民を守るためにあるとは言ったけれど、フルスペックの国民全体を守ると言った覚えはない。だから、自衛隊を違憲というような国民まで守らなければならないわけではない」
「外国とは平和に協調するとは申しあげたが、フルスペックですべての国と仲良くしなければならないと申しあげたことはございません。70年経っても、我が国に対する戦争責任を言い続けるような国とまで協調しなければならないわけではございません」
「公約を守るべきは公党として当然のこと、しかしフルスペックの公約遵守が非現実的なのは皆さまご存じのとおり。フルスペックの公約全部を必ず実現と言った覚えはありませんから、実現できない公約があっても責任追及されるいわれはないわけでございます」
こんな論理あり? 放送で天下に公言すること?
(2015年8月2日)