澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

「不敬」という言葉を社会から駆逐しよう

(2021年7月11日)
 私は、強権的な言葉狩りには反対の立場だ。しかし、差別用語の横行が差別を助長する効果をもたらすことは否定しようがない。人から発せられる言葉が、人々に働きかけ人々の意識を変える力をもっているのだ。差別用語を駆逐したい。ただし、強権的にではなく。

 同じことは、逆差別にも当てはまる。差別用語と同じ発想で、「不敬」という言葉をこの社会から駆逐したいと思う。「陛下」も、「殿下」も、「今上」もやめよう。主権者として、余りに情けなくもあり、バカバカしくもある。

 差別用語が社会に差別を蔓延させて被害者を作る如く、「不敬」や「陛下」は社会の権威化を助長し自由な発言の桎梏となる。民主主義や表現の自由を依拠すべき価値と標榜する人が、中国における共産党の神聖性は揶揄しながら、天皇の神聖性を傷付けてはならないと気苦労する図は滑稽でしかない。

 ところが、ときに思いがけない人から、「不敬」や「陛下」の言葉が発せられて戸惑うことがある。最近刊の週刊朝日(7月16日号)に掲載された、室井佑月「不敬よな」(連載コラム「しがみつく女」)もその一つ。普段のあっけらかんとした室井の発言に好感をもっていただけに、驚かざるを得ない。

 この記事のリードは、「宮内庁長官の『陛下が五輪で感染拡大を懸念と拝察』発言を、意に介さない菅首相や閣僚。作家・室井佑月氏は、『不敬』と憤る。」というもの。これだけで、察しはつく。室井の文章(抜粋)は、次のようなもの。

 陛下はコロナ対策分科会の尾身会長から何度か説明を受けているようだし、真っ当にあたしたち国民の心配をしてくださっただけだ。そして、長官の口を借り、メッセージを出された。

 しかし、この事実を認めたくない輩(やから)もいる。菅義偉首相は25日、
「長官ご本人の見解を述べたと、このように理解している」
 加藤勝信官房長官も25日の記者会見で、
「宮内庁長官自身の考え方を述べられた」
 といった。五輪開会式での陛下の宣言については、まだ関係者間で調整中だとも。

 はぁ? 陛下のメッセージさえなかったことにしてしまえってか。
 結局、この人たちの頭の中は、自分たちのことしかない。菅首相は東京五輪で国威発揚を狙い、その勢いで秋までに行われる衆議院選挙に臨みたい。あたしたち国民の命や健康を差し出した大博打(ばくち)をやりたい。

 感染症の専門家の意見でさえ、聞くつもりはない。なので、陛下が見るに見かねて、メッセージを出したんでしょ。今の政府とは違って、国民のことを考えていると。メッセージを出さずとも、開会式の宣言がいまだ調整中ってことでも、わかれってものだ。

 でも、このことをツイッターでちょっとつぶやいたら、「天皇の政治利用。不敬」といってくる輩がわらわら湧いてきて。
 ちょっと待て。自民党政権が、平和の祭典を政治利用し、天皇陛下でさえ政治利用しようとし、それがうまくいかなかった、てのが今回の真相だろ。国民に寄り添ってくれた陛下のお気持ちを、そのまま受け取れない方が不敬だと思うけど。

 結局室井の頭の中は、「国民を思いやる英邁な陛下」「その意を体することのない不敬な君側」という構造。「国民に寄り添ってくれた陛下のお気持ち」「そのまま受け取れない方が不敬」という締めくくり方は最悪ではないか。誰にも恐れ入らないリベラルな感性の持ち主というイメージのある室井にして、天皇の権威は別のようだ。あらためて、この社会の人々の意識の奥まで侵蝕している、天皇制の逆差別構造の根深さを見る思いである。だから、「不敬」や「陛下」という言葉を駆逐しよう。

ようやく開示されたNHK経営委議事録を読む ー ガバナンスが効いていないのは経営委員会だ

(2021年7月10日)
 昨日(7月9日)、4月7日付で開示を請求(NHK独自の手続では「開示の求め」という)していた下記3点の文書(写)の交付を受けた。別紙を含め全部で47ページである。
 (1) 別紙                 1枚
 (2) 2018年10月09日経営委員会議事録  表紙+本文8ページ
 (3) 2018年10月23日経営委員会議事録  本文35ページ
 (4) 2018年11月13日経営委員会議事録  表紙+本文2ページ

 相当な分量だが、この議事録、なかなかに読み応えがある。我々が想像していたストーリーがこの議事録で細部にわたって裏付けられている。それだけでない。これは巧まずして出来上がったドラマだ。悪役と善玉のコントラストがくっきりしていてまことに分かり易い。これに、場と場をつなぐ裏のやりとりを加えれば、興味深い劇にもなる。映画にもなる。

 ところで、放送法41条は、(議事録の公表)について、「経営委員長は、経営委員会の終了後、遅滞なく、経営委員会の定めるところにより、その議事録を作成し、これを公表しなければならない。」と定める。経営委員会というNHKの最高機関で何が議論されたのか、視聴者・国民に「遅滞なく公表せよ」というのが、法の要求するところ。これが、遅滞に遅滞を重ねて2年半を経てようやく日の目を見た。

 「ようやく」の意味は、期間だけではない。NHK(実質においては経営委員会)は、抵抗に抵抗を重ねて、遂に矢尽き刀折れて開示せざるを得ないところまで追い込まれたのだ。2年半は、悪あがきの積み重ねだった。

 まず毎日新聞などメディアがこの議事録の開示を求めて拒否され、NHKの内規に従った不服申立手続きである「再検討の求め」を申し立てた。この手続において諮問を受けた「NHK情報公開・個人情報保護審議委員会」は、20年5月開示すべしと明確に答申した。しかし、NHK(実質においては経営委員会)はこれを拒否した。

 その後メディアなどからする3件の開示の求めがあり、その「再検討の求め」において、「審議委員会」は、再度開示せよと答申した。21年2月のことである。だが、NHKはこれにも従おうとはしなかった。そこで、NHKに関連する市民運動が乗りだした。市民団体の100余名が、仮に開示を拒否されれば提訴することを広言して、開示の求めをした。これが、4月7日のことである。

 この開示の求めに対して、NHKは2度にわたっての「回答延期」を通知した。この段階で、104名が提訴した。6月14日のこと。そして、3度目の「回答延期」のあと、開示の通知に至った。

 問題の議事録には、経営委員会の上田良一NHK会長(当時)に対する「厳しい注意」の経過が詳細に記載されている。注意とされた理由はガバナンスの不備である。経営委員会がいう「NHK会長のガバナンス」とはなんぞや。

 NHKの番組「クローアップ現代+」で放映された、「かんぽ生命保険不正販売問題」について、郵政側はNHK会長に番組制作の現場を押さえこむよう期待した。しかし、NHKの番組制作現場は郵政との交渉において、一貫して「NHKでは、番組制作と経営は分離している。番組作成に会長は関与しない」と説明している。

 「番組制作と経営は分離している」ことは報道機関のあり方として当然ことではないか。だが、日本郵政側はこれに納得しなかった。「放送法上編集権は会長にある」(形式的にはその通り)との立場で、NHKのガバナンスのあり方を問題としたのだ。つまり、郵政側が言う「NHKのガバナンスのあり方についての不満」とは、「かんぽ生命不正販売報道」を黙認し、その続編放映を中止させないNHK執行部の姿勢についての不満にほかならない。

 ガバナンスとは、経営陣がしっかりと番組制作現場を押さえ込んでかつてな報道をさせないこと、なのだ議事録の中で議事録の中で森下俊三(当時、経営委員長代行)は、こう発言している。

(森下代行・現経営委員長)
 本当は彼ら(郵政側)の気持ちは納得していないのは取材の内容なんです。こちら(NHKの取材)に納得していないから、経営委員会に言ってくるためにはこのポイント(ガバナンス)しか(ない)、経営委員会は番組のことは扱わないのでこう言ってきている(ガバナンス不備と言ってきている)けども。本質的にはそこ(取材の内容)で、本当は彼らが(番組の制作に)不満感を持っているということなんですよね。

 (村田委員・現経営委員長代行)
 それは森下代行言われたように、やっぱり彼ら(郵政側)の本来の不満は(取材の)内容にあって、内容については突けないからら、その手続論の小さな瑕疵のことで攻めてきてるんだけども。でも、この経営委員会の現実としても、手紙が来た以上経営委員会が返事しないわけにはいかないですよね。

 誰もがよく分かっている。本当は、郵政側も経営委員会も、「クローアップ現代+」がとんでもない番組を作って放映したことを問題としているのだ。どうして、とんでもないか。総務省の天下り幹部を擁している、郵政グループの悪徳商法摘発などという、言わば「お上に楯突く」番組だからだ。しかし、そうは言えないから、「ガバナンスに不備がある」「今後は視聴者目線に立って適切な対応をする」というのだ。「視聴者目線」とは、悪徳商法被害者の目線ではない。加害者である悪徳業者側の目線に立つというのである。正気か。

 今回開示された議事録が明らかにした当時の経営委員の責任は極めて重い。とりわけ森下俊三である。その責任は徹底して追及されなければならない。森下本人も、これを任命した政権も、である。

平穏な表現行為に対する実力での妨害を厳重に処罰せよ。

(2021年7月9日)
 中国のことはさて措き、私たちのこの国の民主主義的状況を語らねばならない。この日本には満足な表現の自由があるのだろうか。いや、そんな他人事のような言い方はやめよう。この日本社会の表現の自由の現実は、大きく抉られた穴だらけのものでしかない。今のうちに何とかしなければ、再びあの暗い時代の轍を踏むことになりかねない。

 表現の自由とは、当たり障りのないことを発言する自由を意味するものではない。おべんちゃらを述べることは「自由」とも「権利」とも言うに値しない。誰かの人格を毀損し、誰かにとっては神聖なものを傷付け、誰かにとっては不愉快な表現が、権利として許されるということでなければならない。

 端的に言えば、言いにくいことを、言いにくい相手に対して、発言する自由が基本的人権ひとつとして保障されているのだ。政治権力に反抗し、社会的な強者を批判し、社会的な権威を否定し、多数者の常識に挑戦する少数者の言論の自由が保障されなければならない。国家も、政治家も、政党も、企業も、企業主も、大学も、学者も、新聞もテレビも言論人も、法曹も、検察も最高裁も、宗教家も、芸術家も、アスリートも、そして天皇も皇室も皇祖皇宗も、批判の言論から免れることはできない。あらゆる権力や権威への批判の表現の自由の保障が、民主主義の基礎を形作っている。

 国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」は、その時点までの表現の不自由の実例の展示を敢えてする問題提起の企画だった。それが、はからずも多くの人の注視のに表現の不自由を再現する場となる衝撃を社会に与えた。

 あの衝撃が意味するものをもう一度考え直そうとする展示会が、今年の6月から7月の予定で企画された。東京・大阪・名古屋の3会場で行われるはずであった。しかし、またまた、この3会場の企画がともに日本社会には満足な表現の自由がないことを立証する経過をたどっている。

 この事態を、「表現の自由を守ろうという陣営と、これを攻撃しようという勢力がせめぎ合っている」などと表現することは不正確で誤解を招くものと思う。正確には、「いま、表現の自由が、暴力と恫喝によって逼塞を余儀なくされようとしている」のだ。社会がこのことを重く受けとめ、この暴力と恫喝を許さないとする民主主義的な力量を持たねばならないが、残念ながらそこまでに至っていない。

 しかし、平穏な表現行為に対しての実力をもってする妨害は、明らかに犯罪である。せめて我が国が法治国家であるという証しを見せてもらわねばならない。

 今夏に各地で開催される予定だった「表現の不自由展・その後」の内、民間展示施設で6月25日から開催の予定であった「東京展」が、右翼による周辺での妨害行為などの末、開会予定日の前日に延期に追い込まれた。実行委員会は、「あくまでも延期です。これから更なる会場選定を行い、東京都内で「表現の不自由展」を開催いたします。」と声明したが、今のところ新たな開催の通知はない。

 大阪市中央区の府の施設「エル・おおさか」で、7月16〜18日に予定されていた「表現の不自由展かんさい」の開催も同様の右翼の妨害行為があり、施設の管理者が6月25日付で利用承認を取り消した。驚くべきは、吉村洋文府知事の発言である。翌26日に記者団に対して、「安全な施設の管理・運営を果たすのは(抗議活動によって)難しい」「取り消しには賛同している」と述べたという。大阪展の主催者は同30日に指定管理者を相手取り、大阪地裁に処分の取り消しと、執行停止を申し立てた。本日(7月9日)、大阪地裁は、実行委員会に会場の利用を認める執行停止決定を出した。

 そして、最も順調に見えた「名古屋展」(7月6?11日の予定)が卑劣な妨害行為に見舞われた。昨日(7月8日)午前9時半ごろ、同展が行われていた「市民ギャラリー栄」で郵便物の開封時に破裂音がする事件があった。破裂音がしたのは施設7階市文化振興事業団の事務室。郵送された茶封筒(縦約23センチ、横約12センチ)を職員が開封したところ、破裂音が10回ほど続いた。捜査関係者によると、爆竹とみられ、周囲に黒い粉が散乱したという。封筒は同ギャラリー宛てで、不自由展中止を求める内容の文書が添えられていた。

 明らかに威力業務妨害である。しかし、名古屋市はこれに断乎たる姿勢を見せず、「安全上の観点」から11日まで施設を臨時休館すると決めた。展覧会は事実上の展示中止となっている。主催団体側が主張しているとおり、この犯行は「暴力による表現の封殺」を狙ったもので、その目的を遂げている。

 皇室批判に対する反批判はあってもよい。歴史の真実に対する歴史修正主義的な批判も自由である。しかし、平穏な展示を実力をもって妨害することは許されない。結果としてであれ、これを許してしまっては、法的秩序が崩壊する。法治主義の国家ではなくなる。

 東京・大阪・名古屋とも、表現の自由の受難がそれぞれに多様である。大阪展は、前途多難ではあろうが司法的救済がかろうじて間に合った。名古屋展は、2日だけは開催できたものの、4日の日程が潰されることになりそう。東京の苦心は続いている。日本社会の「表現の不自由」は、今なお現実のものなのだ。

オリパラの「無観客」開催って、そりゃいったい何だ。

(2021年7月8日)
 えー、ようやく手許に原稿が届きましたので、読み上げます。いや、会見を始めさせていただきます。
 もう皆様ご承知のとおり、7月23日から始まる東京オリンピックは、緊急事態宣言下に行われることになります。これまで私が繰り返し申し上げてきたことは、「しっかりと感染対策を徹底することで国民の命や健康を守り、安全・安心の大会を実現する」ということでした。この方針にいささかの揺るぎもございません。その趣旨に鑑み、首都圏1都3県のオリ・パラ競技は、「無観客」での開催ということにいたしました。国民の命や健康を守るための措置ですので、皆様にはご了解いただきたくお願い申し上げます。
 原稿はここまでですので、私からは以上です。ご質問はできるだけ、手短に。

幹事社からの質問です。これまで政府は、「人類がコロナに打ち勝った証しとしての東京五輪」を謳っていたと思います。しかし、現実には緊急事態宣言下のオリンピック開催になってしまいました。結局、人類も日本も、コロナに打ち勝つことはできなかったとの理解でよろしいでしょうか。

 まず、これまで私が繰り返し申し上げてきたことは、しっかりと感染対策を徹底することで国民の命や健康を守り、国民のために安全で安心なオリンピック・パラリンピックを開催するということでした。今後も、その方針に変わるところはございません。次の方どうぞ。

「無観客」での開催ということがイメージしにくいのでおたずねします。おそらくチケットを購入した観客は会場に入れないということでしょうが、アスリートのほかには、いったい誰が競技場に入ることになるのでしょうか。

 えー、これまで私が繰り返し申し上げてきたことは、しっかりと感染対策を徹底することで国民の命や健康を守り、国民のために安全で安心なオリンピック・パラリンピックを開催するということでした。完全無観客での開催は、これまで予定されていた「収容人数の50%までで上限1万人」に比較して、随分と安全で安心なオリンピック・パラリンピックになるということも事実ではないでしょうか。
 はい、次の方どうぞ。

これまでは、IOC委員などの「五輪ファミリー」や、スポンサー企業は別枠として観戦を認める方向と言われてきました。これには世論の強い反発があります。「無観客」というと、別枠を否定してシャットアウトするようにも理解できますが、その理解でよいでしょうか。もし、別枠を認めるとすれば、どのくらいの数を想定していますか。

 そのことですが、これまで私が繰り返し申し上げてきたことは、しっかりと感染対策を徹底することで国民の命や健康を守り、国民のために安全で安心なオリンピック・パラリンピックを開催するということでした。IOC関係者や招待のスポンサー企業関係者を入れるか否かについても、しっかりと感染対策を徹底させていただきます。
 はい、次の方。

開会式も、「無観客」と伺いましたが、天皇も参加しないということでしょうか。それとも、「観客外」の別枠の一人として、開会式に参加するのでしょうか。

 えー、これまで私が繰り返し申し上げてきたことは、しっかりと感染対策を徹底することで国民の命や健康を守り、国民のために安全で安心なオリンピック・パラリンピックを開催するということでした。天皇陛下の命や健康を守り、国民のために安全で安心な開会式といたします。
 はい、次の方。

これまで総理は、「有観客」に強くこだわってきました。突然の方針転換の理由は、都知事選での自民の伸び悩みでしょうか。それとも、このところの新たなコロナ感染者の急増なのでしょうか。

 えー、これまで私が繰り返し申し上げてきたことは、しっかりと感染対策を徹底することで国民の命や健康を守り、国民のために安全で安心なオリンピック・パラリンピックを開催するということでした。この方針を総合的俯瞰的に具体化するとなれば、「無観客」という結論しかない。こう考えることが当然ではないでしょうか。
 次の予定がありますので、この辺で打ち切らせていただきます。

もう一点だけお伺いします。国民の安全安心を第一にお考えなら、当然にオリパラ中止とすべきではないでしょうか。多くの国民がそう思っています。総理には、この国民の声が聞こえませんか。

 これまで繰り返し申し上げてきたとおり、しっかりと感染対策を徹底することで国民の命や健康を守り、国民のために安全で安心なオリンピック・パラリンピックを開催いたします。そのための無観客開催じゃないですか。これ以上のことは、ペーパーに書いてありませんので、またいつか。

 ?! 弁護士在職50年の表彰状が元号の表記 ?!

(2021年7月7日)
 生来、褒められた経験はほとんどない。子どもの頃から表彰などとは無縁だった。先年、期成会から寄稿の一文を褒めていただいただき、賞状をいただいたことが唯一の例外だろう。

 その私に日弁連から「表彰状」が贈られてきた。まったく唐突に、である。その全文を紹介しておきたい。

表彰状
会員 澤藤統一郎殿

あなたは50年の永きにわたり法曹として職責を果たされてきました
この間人権の擁護と社会正義の実現を使命としてたゆまぎる努力を重ねてこられまた司法制度の改善発展のために多大なる貢献をされました
あなたのこの貴い業績をたたえるため記念品をお贈りして表彰いたします

  令和3年6月11日
   日本弁護士連合会
    会長 荒 中

 事前に何の連絡も問い合わせもなかったが、「50年の永きにわたり法曹として職責を果たされてきました」「この間人権の擁護と社会正義の実現を使命としてたゆまぎる努力を重ね」「司法制度の改善発展のために多大なる貢献をされました」と言われれば、いささかの自負はある。だから、日弁連から、「あなたのこの貴い業績」と言われれば、嬉しくもなる。

 とはいうものの、これは在職50年会員(232名)に対する同文の表彰文言なのだ。特に私の具体的な弁護士活動に着目しての表彰ではない。弁護士たる者かくあるべしという抽象的な理想の弁護士像を表彰理由として書き込んだだけのこと。

 それにしても、「法曹としての職責」を「人権の擁護と社会正義の実現」と確認したうえ、「司法制度の改善発展」としている日弁連の姿勢は評価に値するものと思う。「政財界で活躍し」とか、「弁護士の社会的地位を高め」とかは言わないのだ。

 ところで、「令和3年6月11日」という日付の無神経さに驚く。私が、元号大嫌いなことを知っての嫌がらせかとも思いたくなる。西暦表示を原則にして、どうしても元号表示にしてくれという変わり者がいたら直してやればよいではないか。いずれにしても、二通りの紀年法があることが、たいへんな混乱をもたらしているのだ。

 表彰状と一緒に、事務総長名の添え書きも送られてきた。これも、「令和3年6月吉日」である。せっかくの表彰が興醒めで、不愉快でもある。

 が、その文中に、「記念品は別便にて,7月上旬までにお届けする予定です」とあった。「記念品」とは何だろう。少し機嫌を直して楽しみにしていたら送ってきた。立派な卓上ケースである。印鑑と朱肉と名刺を入れるサイズ。七宝のキラキラがまぶしい。

 問題は、この筺のデザインである。どうしても引っかかるものを感じる。真ん中に、金色の弁護士バッジがある。その下に左右一輪ずつのヒマワリがある。これはよい。しかし、弁護士マークを囲むように、2羽の鳳凰がヤケに目立つのだ。古代より「有徳の天子が位に就く時に現れる」というあの鳳凰である。

 弁護士バッジは、ヒマワリの花を図案化したものというが、この筺の中央にある金ピカのマークは、菊の紋章に見えなくもない。邪推すれば、ことさらに似せて作ったとさえ思われる。

 菊の紋章を囲む2羽の鳳凰。さすがに龍までは書き込まれていないが、皇室礼賛のデザインと見まがうばかり。在野精神を貫くべき弁護士への贈答品として、とうてい適切とは思えない。表彰され記念品をもらってのことで、口にはしにくいのだが、皇室の雰囲気に似せて目出度い雰囲気を演出しましたよ、と言われているようで、こちらも興醒めなのだ。

川柳に見るIOC・オリンピックの正体

(2021年7月6日)
 毎日新聞の仲畑万能川柳欄にはいつも感心させられる。採用句にはことさらに奇を衒ったものはない。良質な社会の感覚の反映と見てよいと思う。

 その川柳欄にオリンピック礼賛の句はない。誰が見ても不合理なIOCもオリンピックも、その権威は地に既に落ちている。揶揄のネタでしかないのだ。ごく最近の掲載句から、IOCをテーマにしたもの、オリンピックそのものを詠み込んだもの、東京五輪に関するもの、そしてコロナとオリンピックに関するものと、分類して引用してみる。

IOCは徹底してバカにされている。国民の怒りの対象だが、ストレートに怒りをぶつけていては、佳作にならない。ひねりの利いた句に、溜飲が下がる思いがする。

 IOCの正体見たり魑魅魍魎 熊本 坪井川

 夏空や魔王降臨IOC つくば かっぱ

 IOC銀銅なくて金金金 北九州 藤井真知子

 バッハさん何の犠牲も払わない 福岡 朝川渡

 犠牲やらアルマゲドンやら云う五輪 神奈川 荒川淳

 僕たちはIOC(イヤなオッサンクラブ)です 札幌 紅帽子

 ガースーさん煽(おだ)てて稼ぐハッバさん 東京 カズーリ

 バッハ氏の言うわれわれは誰なのか? 福岡 朝川渡

 開催し後は野となれ山となれ 水戸 AカップT

オリンピックそのものに対する評価は、極めて辛辣である。国民は、オリンピックをよく見つめ、忌まわしいもの、禍々しいものと断じている。この評価は、今後変わることはないだろう。

 絶対に民主主義ではない五輪 相生 岡本雅人

 五輪はな毎回ギリシャで質素にせえ 京都 語句

 参加より開くが五輪の新理念 東京 城山光

 責任の回避レースもある五輪 湯沢 馬鹿馬太物
 
 考えたこともなかった五輪意義 千葉 ペンギン

 「五輪て?」考えている日本人 千葉 ペンギン

 避妊具もお酒もあるよ五輪です 箕面 のうめい

 五輪よりあたしゃ観たいの小劇場 札幌 紅帽子

 五輪より危ないらしい運動会 福岡 つとかぶら

 オリ・パラの声高くして耳痛し 北九州 けめちゃん

 やるやれぬチキンレースになる五輪 久喜 高橋春雄

 ススメススメ五輪にススメ 調布 おんちや

今回の東京オリンピック開催に関しても、国民の冷めた目が厳しい。どの句にも、なるほどと肯かざるを得ない。

 徒競走店閉めさせてまでやるか 入間 元々帳じり

 復興も勝った証もない五輪 千葉 水差人

 国民の命を懸けて五輪する 奈良 長野晃

 8割が反対してもする五輪 北九州 とっちゃん

 こどもダメおとなはやるぞ運動会 西宮 風仙

 去年ならオリンピックが出来たかも 長野 欣雀

 熱中症対策もあるのよ五輪 春日部 猫文庫

 責任の所在解らん五輪して 下関 畠中英樹

 後悔はコロナに勝つと言ったこと 岩手 認知性

 こそこそとつなぐ聖火は今どこに 千葉 小川敏之

 新聞の隅で静かに聖火(ひ)が走る 交野 大沼章

 安倍がしたマリオ招致は徒花か 伊豆 シロくん

 誘致した慎太郎氏は知らぬ顔 芦屋 みの吉

そして、コロナと五輪である。これは川柳子の恰好のネタ。

 それみろとどちらが言うか菅か尾身 大阪 石頭

 言われたくないな東京五輪型 大阪 食いしん坊

 尾身さんを三原じゅん子が睨んでる 北九州 ささきとも

 八月に五輪新株うまれそう 大阪 佐伯弘史

 出馬すりゃトップ当選尾身会長 長崎 めがねばし

 五輪では医療従事者確保でき 名古屋 まりりん

 今回はノーと言えたね分科会 札幌 ヨーちゃん

通覧してつくづく思う。川柳子は、今回のコロナ禍での東京五輪が危ういと言っているだけではない。IOCやオリンピックそのものの欺瞞性を見てしまった。王様は、もともと裸だったのだ。これに気付かないフリをしている政権や組織委員会のあり方は、滑稽でもあり痛々しくさえある。

祝・福手裕子候補トップ当選

(2021年7月5日)

 この記事は、7月6日に加筆して若干の修正をしている。東京都議選の結果については、概ね各紙の論調は「勝者なき選挙」という如くである。傍観者からはそう見えるのかも知れないが、勝敗のドラマは起伏に富み多様である。

 個人的には、地元文京区で応援した共産党の福手裕子候補がトップ当選を果たしたことが無条件に嬉しい。最近、選挙結果に快哉を叫ぶことが少ないだけに、地元有権者の見識に感謝したい気持。前回同様、2人区に3人の立候補があって、ひとりはみ出して落選したのは、自民党の現職・中屋文孝候補、公明の支持を得ての落選である。選挙戦最終日には小泉進次郎が応援に入ったとのことだが、その効果はまったくなかった。前回自民だけでとった2万6997票(得票率28.13%)が、今回は公明票を含めて2万5097票(29.19%)と減らした。この票の減り方は、自・公グループに対する都民の厳しい審判があったと言ってよいだろう。

 前回トップ当選の都ファ候補・増子博樹は、前回票4万2185票(43.96%)を今回は3万0077票(34.98%)まで1万2000余(率にしてほぼ10%)も減らした。これは、非自民保守勢力の退潮である。もっとも、公明票を除いてなお、これだけの票を獲得しているとも言える。

 前回は2万6782票(27.91%)を獲得しながら、215票差で次点に泣いた共産福手は、今回は4000票を上積みして、3万0815票(35.84%)での堂々のトップ当選となった。共産支持者だけでなく、立憲・社民・ネット・れ新などの支持者をも糾合しての勝利というべきだろう。おそらくは、オリパラ開催中止の訴えが有権者の共感を得たのだと思われる。

 文京の選挙区は、願ったとおりの開票結果となった。予想と大きくは違わない。都全体でも大方は、「自民・公明で過半数の議席に届かない」を主たる評価としているようだ。菅・自公政権に十分な痛手となっている。共産と立民の緩やかな「共闘」もそれなりの効果を上げたようだ。

 とは言え、共産党の議席獲得数は19にとどまった。公明の23にも届かない。伸び悩んだにせよ自民が第一党である。また、合理的な存立理由をもたない都ファが、退潮著しいとは言え、それなりの票を得て、議席を維持している。何という民主主義であろうかとも思い、それでも強権政治よりはずっとマシなのだとも思う。

 この都議選の結果への評価として納得できるのが、本日(7月5日)の東京新聞<社説>「東京都議選 五輪強行への批判だ」というもの。以下、その抜粋である。

 「4日投開票の東京都議選で、自民、公明両党は合わせて過半数に届かなかった。新型コロナウイルス感染症が拡大する中、感染対策が迷走し、観客を入れて五輪・パラリンピックを開催する方針を示してきた菅義偉政権への批判の表れだ。

 大会を巡って、都民ファーストの会は「最低でも無観客」と訴えてきた。共産党は「中止」、立憲民主党は「中止か延期」を主張した。これに対し、自民は第一党復帰を目指し、公明と合わせて過半数を目標にしていた。菅政権は6月、大会会場の観客数の上限を1万人とし、「無観客が望ましい」とした専門家の提言に反する決定をした。

 菅政権の見通しの悪さ、安全安心よりも大会を優先しようとする姿勢が、都民の批判につながったとみられる。今秋までに行われる次期衆院選でも、自公両党は厳しい戦いを避けられない情勢だ。」

 東京オリパラ反対、コロナ対策を徹底せよ。コロナ補償を手厚くせよ。医療と介護を充実せよ。コロナを克服したあとも五輪はやめろ。そう、言い続けなければならないと思う。 

東京五輪と北京五輪を機に オリンピック挽歌を

(2021年7月4日)

 陰鬱な雨の日曜日。耳にはいるのは熱海の土石流被害のニュースは。神奈川でも、千葉でも豪雨の被害が報じられている。気が滅入る。オリンピックどころではなかろうと呟かざるを得ない。

 東京オリパラはきっぱりと中止したいもの。それだけでなく、今後もうオリパラは一切やめようではないか。今回、コロナ禍と重なってオリンピックの何たるか、IOCやJOCの何たるかを我々は知ってしまった。こんな愚劣な集団の愚劣な思惑に振り回されるのは、ごめんだ。この思いは、コロナ後も変わるばずがない。

 コロナ禍が終われば、私的なスポーツの国際交流は復活するだろう。しかし、この肥大したオリパラは不要だ。いや、有害極まる。国威発揚と商業主義と売名とナショナリズムの醸成、こんなものに貴重な国費を投じてはならない。

 私の手許に最新の、東京都の広報(7月号)と文京区報(6月25日号)がある。いずれも、オリパラ推進の立場での紙面作り。「いよいよ東京2020大会が始まります!」(都報)、「文京区で楽しむ東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会」(区報)という見出しを付けている。

 都報にも区報にも、表紙に市松模様の東京オリンピック2020のエンブレムが掲載されている。あれはどう見てもコロナマークだ。言うまでももなく、コロナとはクラウン(冠)のこと。電子顕微鏡写真のウィルスの形がクラウン(冠)に似ていたことからの命名。あのエンブレムは紛れもなくクラウン(冠)の形のコロナマーク。これを額に刻印したマスコットは、コロナ・ボーイと呼ぶべきだろう。このデザインはコロナ蔓延以前のものだが、芸術家の直感力の賜物というべきか、何らかの啓示があったのだろうか。今後、東京2020と新型コロナとの切っても切れない関係の象徴となるだろう。パンデミック下に強行されたオリンピックとなるにせよ、世論が止めたまぼろしのオリンピック大会となるにせよ。

 確実なことは、この東京大会を機にオリンピックは急速にしぼんでいくことになる。国威発揚の舞台としても、ナショナリズム高揚の手段としても、ビッグなビジネスチャンスとしても、もう機能しない。指導者が笛を吹いても、もう人は踊らない。冷めた目で、笛を吹くひとの滑稽な姿を見つめるだけのことになるだろう。かつては祝祭のオリンピックに讃歌が献じられた。今、愚劣なオリンピックに挽歌を手向けなければならない。まずは、目前の東京オリパラ、そして来年の北京冬季オリンピックがオリンピック終焉の墓標となるだろう。

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再度、五輪開催中止を求める新ネット署名の紹介
「危険性がますます明らかになっている東京五輪開催の中止を訴えます」

 著名13氏が呼びかけ人になっての新しいネット署名が始まった。その署名サイトへのアクセスは、「危険性がますます明らかになっている東京五輪開催の中止を訴えます」をキーワードとする検索で。

 以下は、呼びかけ人の訴え

 東京五輪開催の危険性がますます明らかになっています。私たちは五輪主催者が状況をしっかりと直視し、開催を中止することを緊急に求めます。

 いよいよ五輪開催が予定される期日が迫ってきました。私たちは昨年の開催延期の決定以来、日本政府と五輪主催者が「安心安全」のスローガンをどのように実現するのか、国民に納得のいく説明を行うのを待ってきました。残念ながらそのような説明が行われていないどころか、逆に感染防止体制の様々な欠陥が明らかになってきました。また、現在首都圏ではコロナの感染者数が再拡大する傾向にあり、感染力の強いデルタ株の割合も増えています。高齢者以外の方々にあまねくワクチン接種をおこなうことも不可能であると報道されています。このように低いワクチン接種率で行うことになろうとは1年前に考えてもみませんでした。私たちの不安は急速に高まっています。

私たちの怒りも深くなっています。日常生活の抑制を求めながら、数限りないコロナクラスターを無数につくる可能性を秘めた五輪開催を強行しようとする不条理に、また子どもたちから運動会を奪いながら観戦を求めようとする大人の身勝手に怒っています。

 このように1年前に延期を決めたときと現在では、開催をめぐる条件が変化しているにもかかわらず、IOCと日本政府は開催ありきで、市民の声を聞く気が全く無いようです。市民の間には今さら何を言ってもと無力感が拡がっていますが、それでもこの切迫した時期だからこそ、最後のチャンスと考え、あえて言うべきことを言っておきたいと、私たちもこの署名をもって、その隊列に加わります。

日本国民の健康と命、そして世界の人々の健康と命が守られなくてはならないと考え、政府に改めて訴えます。歴史的暴挙ともいうべきこの東京五輪が中止されることを求めます。

 もはや残された時間は少なくなってきました。私たちは切羽詰まったお願いをしております。遅くなる前にこの暴挙を中止する決断をしていただきたいと。

コロナ禍での東京五輪中止を課題に明日都議選投票日

(2021年7月3日)
 明日が都議選投票日。地元文京区の福手ゆう子・共産党候補の街頭演説に出かけた。志位和夫党委員長が応援弁士を務めていた。

 文京選挙区は定数2、自民、都ファと共産の3候補が争う分かりやすい構図。激戦・接戦・横一線というのは、誇張ではなかろう。自・都ファ・共の争いというのは、今の首都の政治状況を象徴する選挙戦。

 4年前も同じ顔ぶれでの闘いだった。都ファの候補が当時吹いていた風に乗り、公明の支持まで取り付けて、トップ当選した。公明の支持のない自民候補が保守系組織を総動員して2位にすべり込み、共産福手候補はわずか215票差での次点となった。風が左右する首都の選挙の特徴がよく出た結果。

 今回選挙では、自民は公明の支持を得ている。とはいうものの、前回は都ファにくっついた公明票、ホントに自民候補の得票に結びつくものだろうか。また、公明に自民支持の大義があるのだろうか。有権者に対する自民候補の魅力はさっぱり見えていない。それでも、政権との結びつきはそれだけで一定の票になる。

都ファの凋落は避けがたいところ。4年前の風は今はない。むしろ、逆風が吹いている。都ファは公明にも見離されている。この都ファ候補が、議員団の幹事長であり、連合の組織内候補なのだ。

 福手ゆう子候補の訴えを聞くのは告示日以来だが、驚いた。わずか8日間で、候補者はこんなにも変わるものか。淀みのない、自信に満ちた話しぶり。メリハリの効いた話し方が分かり易い。聴衆に訴える言葉の力がある。余裕を表す身振り手振り。そして聴衆の共感と好感を誘う訴えの内容。気迫と熱意が伝わってくる。

 党委員長の応援よりも立派な演説ではなかったか。この福手候補の演説のボルテージは、文京区内を駆け回っての手応えの反映なのだろう。まぎれもなく、ノッているのだ。

 志位応援演説は、いつもながらのものだったが、菅義偉への評価が場を沸かせた。
「菅さんには答弁の能力がないんです。私が一問質問すると、さっとお付きの官僚から紙が出て来てこれを読む。次の質問をすると、また次の紙が出てきてこれを読む。国会での答弁くらいは、自助努力でお願いしたい。」

 この党首の話に耳を傾けながら、つくづくと思う。志位和夫よ、習近平になる勿れ。日本共産党よ、中国共産党に似る勿れ。

 さて、明日。賽の目は、吉と出るか凶と出るか。運次第ではなく、民意次第。

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五輪開催中止を求める新ネット署名
「危険性がますます明らかになっている東京五輪開催の中止を訴えます」

 著名13氏が呼びかけ人になっての新しいネット署名が始まった。その署名サイトへのアクセスは、「危険性がますます明らかになっている東京五輪開催の中止を訴えます」をキーワードとする検索で

 署名の開始は、開催が目前に迫る中で、首都圏では新型コロナウイルスの感染が再拡大しつつあり、残された時間が少なくなっている切迫感に突き動かされてのことだという。インターネットサイト「Change.org」で昨日(2日)朝から開始。菅義偉首相、国際オリンピック委員会(IOC)、日本オリンピック委員会(JOC)、小池百合子都知事らに対し、五輪中止を求める内容。

 要望書では、五輪の「安心安全」をどう実現するのかについて国民が納得いくような説明がされていないこと、首都圏でコロナの感染者数が再拡大する傾向にあること、ワクチン接種率が低いことなどを問題視。「日常生活の抑制を求めながら、コロナクラスターを無数に作る可能性を秘めた五輪開催を強行しようとする不条理」への怒りが深くなっている、と指摘する。

 主催者が「開催ありきで、市民の間には今さら何を言っても無駄だと無力感が広がっている」なかで、「切迫した時期だからこそ、最後のチャンスと考え、あえて言うべきことを言っておきたい」として、「歴史的暴挙ともいうべき東京五輪が中止されること」を求めている。(朝日から)

 署名の呼びかけ人と賛同者は以下の通り。(50音順)
◆呼びかけ人 
浅倉むつ子さん(法学者)、飯村豊さん(元外交官)、上野千鶴子さん(社会学者)、内田樹さん(哲学者)、大沢真理さん(東京大学名誉教授)、落合恵子さん(作家)、三枝成彰さん(作曲家)、佐藤学(東京大学名誉教授)、澤地久枝さん(ノンフィクション作家)、田中優子さん(前法政大学総長)、春名幹男さん(ジャーナリスト)、樋口恵子さん(評論家)、深野紀之さん(著述家)
◆賛同者
高橋源一郎さん(作家)、三浦まりさん(政治学者)

都議選が問う「コロナとオリパラ」 ー 実は、「コロナとオリパラ」に問われる都民の意識

(2021年7月2日)
 7月4日都議選が目前である。前回選挙時には予想もできなかった、コロナ絡み、オリパラ絡みの、何とも形容しようのない絶妙な首都の議会選挙となっている。

 コロナの蔓延はいったん収まるかにみえて、今、疑うべくもなくリバウンドの途上にある。この最悪の時期、しかも酷暑の東京でのオリパラ開催のデメリットは誰の目にも明らかである。一方、オリパラ開催のメリットや意義は霞の彼方、主催者の説明すら二転三転して定かではない。それでも、オリパラは強行されようとしている。そのオリパラ強行の是非についての民意を問う、はからずも絶好のタイミングでの都議選である。

 国威発揚と商業主義と売名と、そして民衆を愚民化する意識操作と。オリンピックの本質が、これほどに深く鋭く問われ論議され断罪されたことはかつてなかった。権威を剥奪されたオリンピック開催とコロナの蔓延とが重なって、以前から日程が予定されていた選挙がはからずも命の重みを問う選択になっている。偶然とは言え、何という興味深い展開であろうか。

 このような非常事態には、平時に用意された手垢のついた常套句は用をなさない。それぞれの政治グループや候補者がもっている、イデオロギーや基本姿勢が露骨にあぶり出されることになる。

こんにちは、kanrisha さん

 「コロナとオリパラ」という組み合わせられた論点への解は、基本的には二つ。一つは「コロナ対策徹底のために、オリパラを中止せよ」であり、もう一つは、「オリパラ開催を前提に、必要なコロナ対策を」というものである。前者は、都民の命と健康を最優先する考え方であり、後者は国威発揚と商業主義と売名を優先させる考えである。

 今、都議選は、「コロナとオリパラ」を巡って、基本的に3グループの争いになっている。一方に「オリパラを中止して、コロナ対策に専念せよ」という共産、その対極に「オリパラ開催を当然として、安全・安心な大会に」という自民。そしてその中間に、「無観客での開催」という都ファ。あとは、そのバリエーションである。

 自民のいう「安全・安心」は、まったくの無内容である。具体性がない、科学的根拠がない。言わば、空念仏。それでも、オリパラ開催の方針だけが明瞭なのだ。最近になって、菅が、「(一部)無観客もあり得る」と言い始めた。
 水際対策のダダ漏れ、穴だらけのバブル方式、ワクチン調達の挫折、変異株蔓延の恐怖、医療態勢の逼迫、世界各地での再拡大…。勝負に出たはずの菅が、明らかに躊躇し始めている。が、けっして中止とは言わない。

 都ファが、「無観客開催」を言っているのが興味深い。前回選挙では吹いた追い風が、今回は期待できない。彼らは、生き残りのために、ひたすら都民の意向を探っている。その都ファが、小池百合子の方針に従っていたのでは全滅しかねない、という判断なのだ。オリパラ中止とは言えないが、「無観客開催」と言わねば生き残れないという結論。

 共産の立場はシンプルで分かり易いだけでなく、一貫していてブレがない。これは、人権思想徹底の賜物と言うべきだろう。

 都議選では、各党の各候補者が、「コロナとオリパラ」をテーマに政策を競い合っている。しかし、実のところ、「コロナとオリパラ」問題で問われているのは首都の選挙民の意識である。何よりも都民の命を大切にする政治を選択するのか、「安全・安心」の空念仏で「国威発揚と商業主義と売名」の場としてのオリパラ開催を優先させるのか。その中間で良しとするのか。その最悪の選択は、第5波の感染拡大をもたらし、多くの人命を奪うことにもなる。選択の間違いは恐ろしい。

 重大な都議選である。選択の間違いは悔やみきれないことになる。

澤藤統一郎の憲法日記 © 2021. Theme Squared created by Rodrigo Ghedin.