澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

ヨコスカからの「たより」に頼和太郎さん講演録

(2021年12月21日)
《非核市民宣言運動・ヨコスカ/ヨコスカ平和船団》からの「たより 326」が届いた。発行日付が2021.12.17となっている。

 総24ページの「たより」を開いて驚いた。メインの記事が11月23日開催の「横須賀基地問題シンポジウム」、その講師が頼和太郎さん(リムピース編集長)だったからである。

 頼さんは、12月10日に亡くなられている。その死を報じる朝日の記事を引用させていただく。

 頼和太郎さん(らい・わたろう=基地監視団体「リムピース」編集長)10日死去、73歳。米軍の艦船や航空機の動向を調べて発信するリムピースで、中心的な役割を果たしていた。横須賀海上保安部によると、神奈川県三浦市の三崎港で9日午前10時ごろ、頼さんのシーカヤックが転覆。別のカヤックに乗っていた妻(59)が海に飛び込んで抱え、近くの作業船に救助されたが、搬送先で死去した。

 「たより」には、元気な頼さんの写真と講演録(要約記事)が掲載されている。そのリードを紹介したい。「たより」の雰囲気をよく醸し出している一文。

 11月23日住民投票の会、基地問題シンポジウム。こういう集まりに出るのも2年ぶり。みんな元気そうで何より(ま、元気な人しか来ないもんね)。空白の期間を感じないほど、テキパキと準備して雑談して、すぐに解けこめる空間になるよね、この会は。
 今日は司会なんだけどさ、他所もそう?、打ち合わせなんてほとんどない。大まかに時間決めて誰が話すか確認して、1分で打ち合わせが終わる。講演者の時間だけはっきりすれば、後はなんとかなる。そこが力量なんだろうけど。
 講演がなんたって頼さんだからね(リムピース編集長頼和太郎さん)。攻めますよ、きっと。イヤな予感もちょっとする。
 始まってすぐに、緊急事態発生。まさかの椅子が足りない。50人くらいかと思ってたのに。追加の椅子を出してもまだ足りない。そしてついに70部用意した資料もなくなってしまった。慌てて追加の印刷に行く。
      ●
 頼さんの話はね、詳細なのよ、詳細すぎるのよ。「(難しすぎて)ちょっと何言ってるかわからないんですけど‥・」って思うんだけど、あの記憶力はすごいね。艦船や飛行機の名前、世界中の軍事問題をいつどこで何があったとすらすら出る基地問題第一人者だね。私が認定してあげるわ。(中略)
      ●
 帰るときにね、頼さんからカンパを頂きました。講演お礼の封筒がそのまま戻ってきました。こういうとこも頼さんらしい、ありがとう。

その頼さんが、講演から3週間を経ずして亡くなられた。合掌するのみ。

 もうすこし紹介したい。この「たより」発行団体が最近刊行した「横須賀鎮守府3人の反戦水兵」というパンフの宣伝。こんな上手な宣伝文句は滅多にお目にかかれない。私も、申し込むことにする。

「横須賀鎮守府3人の反戦水兵」のパンフ、読みました?お薦めですよ、難しくないです。「人生、悪いことばかりじやない」って感じです。
 反基地運動(平和活動も)やっている人って、気難しくてひねくれ者で、いつも不機嫌なイメージありますよね。実際多いでしょ。たぶん読者全員が「自分以外はちょっと変わってる人達」と思っているでしょう。体制に反対するなんて、清い心だけでやれないし。
 1932年、治安維持法で刑務所に服役した、日本海軍の若き水平遠の活動が書かれているんだけど、こういう本はどうしても資料物が多いし、軍事戦略のことは難しくなりがち。でもこのパンフは時代背景の解説、当事者の日記、家族や身近な人達のインタビューと構成が多方面なので、読み物として人の生き様を感じられる「人物記」です。
 たとえ戦時の兵士で、辛いこと悔しいこと悲しいことが多い暮らしの中にも、人は楽しさを見つけ、友情愛情を育み、未来への希望を持っている。元気になれる、久しぶりに良い本を読んだな?と思います。
 ちなみに、私のお気に入りは「兵士の友」第1号に書かれた、「ぢや兄弟!俺は紙上で兄弟に握手をする!」ってとこ。な?んか小憎いのよね。
横須賀で運動している人はもちろん、全国の「ちょっと変わってる人達」にも読んで欲しい一冊です。
 ちょっとだけ清い心が取り戻せますよ。

●横須賀鎮守府、3人の反戦水兵の「生き様」が問いかけるものは…。
A4・100ページ・200円

注文先は、下記(だと思う)。
非核市民宣言運動・ヨコスカ/ヨコスカ平和船団
横須賀市本町3-14山本ビル2F
tel/fax046-825-0157
市民宣言HPhttp://itsuharu-world.la.coocan.jp/
平和船団HPhttp://heiwasendan.la.coocan.jp/
郵便振込●00290-3-6512 非核市民宣言運動

嗚呼、北京の独裁が香港の民主主義を制圧した。中国に民主主義は絶えてなく、香港にも選挙はなくなった。

(2021年12月20日)
 かつて、安倍晋三という男が「積極的平和主義」を語った。彼が「積極的」という修飾語をつけると、「平和主義」は本来の意味の反対語に転化した。同様に、「民主主義」に「中国的」という3文字を冠すると民主主義は消え去る。民主主義社会の常識では、専制や独裁というべきものに転化するのだ。

 その「中国的民主主義」に飲み込まれた香港立法会の「選挙」は、本来の意味の選挙ではあり得ない。中国はまたまた、香港を舞台にその醜悪な本性をさらけ出した。

 選挙とは、民意を集約して権力を形成する営為を言う。正確な民意の反映という名分なくして選挙というに値せず、その名分を欠いた「選挙」によって形成された議会や権力に正統性はない。

 誰がどう見ても香港立法会議員「選挙」は茶番に過ぎない。民意を反映する手続ではなく、民意を抑え込み、民意を弾圧する手続としての「形だけの選挙」「選挙まがい」の「似非選挙」である。いや、形だけはあるとも、選挙に似ているというも愚かである。こうして形作られた議会には何の権威もない。

 むしろ、不思議でならない。中国共産党はどうして形だけの民主主義にこだわるのだろうか。《中国共産党の専制》《習近平の独裁》と、はっきり言うがよいではないか。専制・独裁こそ、多数人民の利益に適うのだ。しかも極めて効率よく。もちろん専制も独裁も、利益に均霑する多数者からの支持を失えば危うくなる。だから、少数者を多数者のために犠牲にするのはやむを得ない。人権やら民主主義やらを後生大事とし、党の支配に背き、愛国を軽蔑する輩を多数者の利益のために徹底して弾圧するのだ。そのどこが悪いのだ。

 中国は大国として発展しつつある、経済は発展している。生活は格段によくなっているだろう。それ以上に、いったい何を望むことがあろうか。

 人権や民主主義や反権力や少数者の権利などを価値として信奉する者は利口じゃない。それを口に出す者はバカだ。権力に反抗すればぶち込まれることを知りながら、敢えて行動する者はとうてい正気ではない。専制と独裁に身を委ねてみたまえ。こんな安楽なことはない。家族とも、親戚とも、近所とも、職場とも、社会とも、穏やかに付き合い、平穏な人生を送ることができるのだ。

 中国がそう言っても、香港には民主主義を奉ずる多くの人がいる。この人たちを徹底して押さえ込んでの選挙だった。民主派の立候補者は事前審査で立候補の資格なしとされる露骨な選挙介入が実行された。名目は「愛国者」ではないということ。「愛国者」とは、中国共産党への忠誠を誓う者という意味である。

 立法会の議席は70から90に増加したが、直接選挙による議席枠はわずか20人、15減である。この20の全議席を当然の如く親中派が占めた。選挙委員会による選出枠40議席、業界団体などによる職能枠30議席を含む全90議席が親中国派で占められ、民主派は一掃された。

 注目された投票率は、30.2%だった。警察当局は白票や棄権を呼びかける行為を禁じた選挙条例に基づく取り締まりを強化し、市民を相次いで逮捕。19日も妨害行為の防止を名目に、銃を手にした特殊部隊員や警官らが1万人態勢で警戒に当たった。

 投票ボイコットを呼び掛けて香港当局から指名手配されている区議会(地方議会)元議員(丘文俊氏(39))が、脱出先の英国で西日本新聞のオンライン取材に応じたという西日本新聞の下記の記事が衝撃的である。(北京・坂本信博)

 香港返還の1997年、14歳の時に家族と広東省から香港に移住した丘氏は、民主派区議として10年間活動してきた。19年の区議選では民主派が圧勝し議席の8割超を獲得。危機感を募らせた習指導部は、香港の反政府活動を取り締まる国家安全維持法(国安法)を成立させ、今年5月に選挙制度も変えさせた。
 現職議員への圧力が強まり、「政府にとって気に入らない発言をすると警告を受け、議員報酬の支給が数カ月遅れるようになった。尾行もされた。それでも、愛する香港を離れるつもりはなかった」と丘氏。
 6月、民主派議員同士で新たな組織づくりを始めると、警察が連日のように早朝4時に民主派の人々の自宅玄関ドアを壊して身柄を拘束するようになった。「逮捕されても3?5年の懲役刑で、40代半ばで出所できるから大丈夫と思っていた。でも、国家転覆罪などで10年以上投獄される恐れがあると分かってきた。恐怖を感じて毎朝4時に目が覚めた。頭がおかしくなりそうだった」と振り返る。
 7月、政府が現職区議に義務付けた香港への忠誠の宣誓式が開かれることになった。愛国者だと宣誓して議員を続けても政府の意向次第で資格が剥奪され、議員報酬の全額返還を求められる。辞職して香港を離れることを決め、渡英した。

民主主義の試練は続く。せめて、私たちの国をこんな状態にしてはならない。

八木秀次が懸念する天皇制消滅へのドミノ理論…そして確かな希望が残る。

(2021年12月19日)
 昨日に続いて、「AERA dot.」が紹介する週刊朝日の記事。「皇室の今後はどうなる? 原武史、石川健治、河西秀哉、八木秀次の各氏が語るあるべき姿とは」に関連してもう一言。
 https://dot.asahi.com/wa/2021120900077.html?page=1

 この記事で八木秀次は、秋篠宮家長女の皇族からの離脱に関して、天皇制存続への影響をこう語っている(抜粋)。

 「個人の自由意志を貫いて結婚した小室眞子さんをめぐる騒動は、天皇制の維持など、皇室のあり方に非常に大きな影響を与えたと思います。これが前例になることにより、他の内親王、女王の結婚にあたっても同じ形態がとれるようになりました。

 一番懸念されるのは、悠仁親王の即位拒否に道を開いたことです。姉が自由意志を貫いたことが前例となり、即位拒否を主張されてもだめだとは言えなくなった。皇室典範上、皇太子になると皇籍離脱はできませんが、なったとしても特例法という「逃げ道」があるのです。

 こうした道を開いたのは、上皇陛下の生前退位にあったと考えています。皇室典範には退位の規定はなく、むしろ解釈として禁止されていると考えられてきました。それを、当時の天皇陛下の思いを優先するという形にしました。結果として、皇族が自分の思いを貫くことを可能にしてしまった。その論理が提供され、眞子さんが自由意志を貫く結婚につながってしまったと考えるべきです。

 制度として捉えると、退位を認めた瞬間に皇位安定性は一気に揺らぎ、不安定になります。当時、私は「退位を認めることが、即位拒否や、即位後まもなくの退位を認めることになる。これが何度か続けば、皇室は継承できる天皇が誰もいなくなってしまう」と指摘しました。」

 なるほど、これが右翼の心情であり信条なのだ。皇統という血への信仰者(あるいはその集団)が予言する天皇制廃絶に至るドミノ理論である。少し補って解説すれば、最初のドミノが前天皇(明仁)の「8・8メッセージ」に始まる生前退位の実現であり、最後のドミノが天皇制の消滅、ないしは「天皇制の自然死」である。その因果を順序に並べると以下のとおりとなろうか。

(1) 前天皇(明仁)が自らの意志を貫いて生前退位
(2) ⇒個人の自由意志を貫いて皇嗣長女結婚・皇籍離脱
(3) ⇒他の皇族の追随(個人の自由意志による皇籍離脱)
(4) ⇒皇嗣長男(悠仁)の即位拒否
(5) ⇒天皇の自由意志による退位
(6) ⇒天皇位に就く者がなくなる
(7) ⇒象徴天皇という制度が消滅する

 このドミノ理論におけるキーワードは、「皇族の自由意志」である。天皇もその余の皇族も、男性であれ女性であれ、自由意志を貫くことができるなら皇族の身分から離脱したいと願っているというのだ。だから、天皇制を維持するためには、天皇や皇族の自由意志を認めてはならない。籠の鳥に自由を与えてはならない。うっかりこの自由を認めれば、パンドラの箱が開いて、みんな箱から飛び出して逃げてしまうことになる、というわけだ。

 この天皇制消滅に至るドミノ理論。八木は深刻な懸念として語っているが、私には素晴らしい希望に見える。皇族諸君も、不自由な籠から脱して、掛け替えのない自由やプライバシーを手に入れることができるのだ。天皇制維持にかかる数百億の国費の軽減にもなる。国民の主権者意識も成長するに決まっている。みんなハッピーではないか。

 パンドラの箱を開ければ、皇族も天皇も飛び立って誰もいなくなる。制度としての象徴天皇制もなくなる。しかし、神話のとおり、豊かで明るい希望は箱の中に残るのだ。天皇あっての日本という馬鹿げた神話を清算して、自立した国民が形作る確かな希望である。

皇族諸君、お濠を飛び越せ。自由な外界に脱出せよ。

(2021年12月18日)
 「AERA dot.」が、週刊朝日の記事として、「皇室の今後はどうなる? 原武史、石川健治、河西秀哉、八木秀次の各氏が語るあるべき姿とは」を掲載している。
 https://dot.asahi.com/wa/2021120900077.html?page=1

 この4人が語る内容がそれぞれに興味深い。とりわけ原武史の語るところは傾聴に値する。そして、八木秀次の言が臆面もなく右翼の考え方をさらけ出して、たいへんに有意義である。

 原は、大要こう言っている。

 「西洋列強から開国を迫られた日本は、植民地化を免れるため急いで軍事国家をつくる必要があり、天皇を軍事的なシンボルにしたのです。京都にいたときは中性的な姿をしていた天皇が、ひげを生やし、軍服を着て馬や軍艦に乗るなど、男性化していった。

 敗戦によってこの路線は破綻した。陸海軍を解体し、憲法を改正し、女性参政権を認めるなど、男女平等が進められました。

 ところが、皇室については、根本の部分はまったく変えなかった。戦後の皇室典範でも依然として皇位継承者を男系男子のみに限っているのは、軍事国家の名残のようなものです。このため、時間が経つにつれ、お濠の内側と外側の「ズレ」が拡大していきました。」

 的確で分かり易い指摘ではないか。近代天皇制は、軍国主義日本における支配の道具として新造されたものである。だから、京都では中性的な「お公家さん」だった天皇が、東京では大元帥となり、ひげを生やした軍服姿で白馬に乗って、臣民の前に姿を現したのだ。

 明治維新とともに作られた天皇像は、敗戦によって瓦解を余儀なくされる。世は、軍国主義を捨て自由と平等が謳歌する時代となった。本来天皇という支配の道具を必要とした社会ではなくなった。にもかかわらず、天皇制は生き延びた。しかも、皇室制度の基本はまったく変えずにである。こうして、「お濠の内側と外側のズレ」が拡大して矛盾が露呈している。その矛盾が、「お濠の内側」の女性に集中して表れている。

 「今回の眞子さんの件で、特に女性にとって、お濠の内側がいかに窮屈で生きづらいかがわかってしまった。眞子さんだけでなく、現上皇后も現皇后も、失声症になったり適応障害に苦しんだりしました。」

 さて、どうするか。「今は存続が大前提になっていて、結婚後も女性皇族を皇室に残して女性・女系への道を開くのか、男系男子に固執して旧皇族の男子を養子に迎えるのかといった二者択一のような議論になっている」が、原は明快にこう言う。

 「皇室制度自体を続けるのかという考え方が抜けています。憲法1条には「天皇の地位は主権の存する国民の総意に基づく」とあります。国民の総意がもう皇室はいらないと考えるのであれば、なくていいという話になる。こうした選択肢は考慮されていません。それだけでいいのでしょうか。」

 原自身が、「皇室はいらない」と意見を述べているわけではない。が、国民の議論として、象徴天皇制そのものの存廃を視野に議論を呼びかけている姿勢は、立派なものだと思う。

 これに比して立派とは言いようもないが、それなりに有益な発言をしているのが八木秀次である。天皇や皇族の振る舞いについて、右翼は右翼なりの不満を持ち、天皇制の存続に危機感をいだいているのだ。八木は、秋篠宮の長女が皇族から脱出したことについて、ぼやいてみせる。そして、その原因を作った前天皇(明仁)に遠慮のない批判をする。右翼がそんな不敬を言ってよいの? と揶揄したくもなる事態。

 八木の語りの中で、最も興味深いのは天皇家の「特別な存在」の根拠をこう言っているところ。

 「代々続いてきた男系の継承は守るべきです。歴史の連続性の重みは無視できない。継承者が男系から外れると正統性がなくなるからです。天皇や皇族と国民との違いは、歴代天皇の男系の血統に連なるか、それ以外かです。女系は一般国民となる血筋であり、女系継承を認めれば、国民との間に質的な違いはなくなります。血統によって区別され、代わりがいないからこそ特別な存在として、敬愛の念を抱くのです。」

 これは野蛮極まる血への信仰である。しかも、男系の血のみ貴しとする倒錯した信仰。かつて天理教の分派である「ほんみち」は、「生きとし生けるものにして、万世一系にあらざるはなし」と血統に対する信仰の愚かさを喝破して不敬罪に問われた。この事件は、いびつな国家が、特殊な血統を大事とした時代の特殊な出来事であったはず。ところが、今の世に、男系の血に対する特殊な信仰が生き延びているのだ。現在のお濠の内側は、こういう倒錯した信仰によって成り立っている世界。原は、女性皇族の穢れの問題にも言及している。

 結局、目の前の選択肢は3本のように見える。
(1) 現行の男系男子の皇統維持に固執する
(2) 女性・女系天皇を認める。
(3) 天皇制を廃止する

現行の(1)を選択すれば立法作業は不必要である。(2)は国会で皇室典範を改正しなければならない。そして、(3)は憲法の改正を必要とする。

 実は、もう一つの選択肢もあるのではないか。天皇予備軍である皇族諸君が、次々と皇族から脱出をはかるのだ。お濠の内側は、こんなにも窮屈で暗く悲惨だ。人権を侵害されている皇族諸君が次々とお濠を飛び越して、自由な外界への脱出に成功すれば、世襲の天皇制は就位者を失って「自然死」することになる。

 これは、単なる夢想だろうか。

府立高の教員に踏み絵を迫る大阪府教育委員会。迫られた教員は…。

(2021年12月17日)
 人が人であり、自分が自分であるためには、全ての個人に思想・良心の自由が保障されなければならない。国民の思想・良心の自由に対する天敵は、言うまでもなく権力の主体としての国家である。その国家の手先になっているのが、東京ではかつては石原慎太郎であり、いま小池百合子である。いずれも、国家主義の尖兵として、「日の丸・君が代」の強制に躍起になっている。

 大阪でも事情は変わらない。かつては橋下徹、そして今は吉村洋文が知事として、公立校の学校行事で「日の丸・君が代」への敬意表明を強制し、これに従わない教員を容赦なく処分している。

 私には、橋下と吉村が、権力に抗して人権の擁護を使命とする弁護士であることが信じられない。権力とは、それを持つ者に人権の蹂躙を唆す魔力を持つものなのだろうか。それとも、橋下や吉村は人権というものを深く学んだことがないのか、あるいは生来の秩序大好き国家大事の人格なのだろうか。

 思想・良心の自由が外部に表出されるときは、他の全ての人権と同様に無制限ではあり得ない。しかし、無制限ではないことをもって、軽々に人権侵害の理由としてはならない。国連の専門機関であるセアートの日本政府に対する、「日の丸・君が代」強制の抑制を求める勧告の中にある下記の一文が、グローバルスタンダードである。
 「不服従という、無抵抗で混乱を招かない行為に対する懲罰を回避すべきこと」
 式への混乱を招かない、静かな不服従。これに制裁を加える理由はない。国連からこのような勧告を受けることは、日本が人権後進国として扱われていることとして、肝に銘じなければならない。国旗・国歌・日の丸・君が代への評価や好悪は多様である。この旗と歌とを通じて、人は国家や歴史と向き合う。だからこの旗と歌とに対する向き合い方は、個人の思想・良心、即ち国家観・歴史観・宗教観・教育観によってさまざまであって、その価値観を権力が適否を選別し強制してはならない。本来、この旗や歌は、公立学校の式典に持ち出すべきものではないが、少なくともこの旗や歌に対する敬意表明が強制されるようなことがあってはならない。これは、基本的人権のキホンのキであり、憲法史や憲法解釈学を学んだ者の常識に属する。

 しかし、日本に思想・良心の自由の保障はあるのだろうか。大阪高裁が、12月9日に言い渡した「君が代判決」が話題となっている。大阪府教委は、「実質において、起立して『君が代』を斉唱しなかったことを理由に、府立高教員の退職後の再任用を拒否」した。事実上の解雇に等しい。同判決は、この府教委の行為は違法だとして、再任用されていれば得たはずの1年分の賃金相当金額についての損害賠償請求を認めた。

 判決書を一読して興味深かったのは下記の点である。

 「府教委は,職務命令に違反して卒業式又は入学式等の国歌斉唱時に起立斉唱せず懲戒処分を受けた教職員に対する研修終了後に,「今後,卒入学式等における国歌斉唱時の起立斉唱の命令を含む上司の職務命令に従う」旨が記載された意向確認省に署名押印して提出するよう求め,これを提出しなかった再任用希望者に対しては同趣旨の意向確認を行い,その結果を再任用選考時の資料としていた。」

 こう書くと分かりにくいが、要するに、府教委は「今後は国歌斉唱時の起立斉唱の命令に従え。その旨の誓約書を提出しないと再任用はしないぞ」というタチの悪い恫喝を繰り返していたのだ。これに対して、裁判を起こした教員はどうしたか。

 「控訴人(不起立で処分された府立高の教員)は,平成26年の戒告処分について,平成28年1月に約30分の研修を受けた後,上記記載のある意向確認書に署名押印して提出するよう求められたが,後日,「地方公務員法に定める上司の職務命令に従います。ただし,今回の研修では十分な説明が得られなかったため,憲法その他の上位法規に触れると判断した場合はこれを留保します。」などと記載した意向確認書を自ら作成し,署名押印の上,提出した。」

 府教委は、この教員に「『意向確認書』に署名捺印して提出せよ」と求めた。その意向確認書には、「今後は国歌斉唱時の起立斉唱の命令に従います」と明記してある。言わば、踏み絵を迫られたのだ。これに対するこの教員の対応が見事だった。「上司の職務命令に従います。ただし,憲法その他の上位法規に触れると判断した場合はこれを留保します」として提出したのだ。憲法論からは、この教員の行動を非難することはできない。何しろ、憲法に忠実でありたいというのだから。

 それでも、当然の如く教員は再任用を拒否され、裁判に訴えた。一審敗訴の後の逆転判決を喜びたいが、行政の理不尽と一審判決の理不尽にも納得しがたい。同種事件は東京にもあり、一審での勝訴判決もあるが、上級審では敗訴している。

 あらためて願う。憲法の活きる社会であって欲しい。権力の人権侵害を速やかに救済する司法であって欲しい。そして、この判決を勝ち取った府立高の元教員の信念とその信念を貫いた生き方に心からの敬意を表したい。このような人がいてこそ、歴史は前進するのだ。

すべては、安倍晋三の責任を徹底追求しなかったツケなのだ。

(2021年12月16日)
?おじさん、弁護士でしょ。ちょっと教えて。「森友学園公文書改ざん訴訟が国の認諾で終了」って記事が出ているけど、「森友学園」ってなんだっけ。

☆安倍晋三が首相だった時代に、たくさんの不祥事が起こった。森友学園事件もその一つ。安倍晋三と妻の昭恵が、森友学園の右翼的な教育に共鳴して、その小学校建設に肩入れした。なにせ当初は、校名を「安倍晋三記念小学校」とし名誉校長に安倍昭恵が予定されていた。安倍夫妻の口利きの実態は明らかになっていないが、不動産鑑定士の評価では9億5600万円の国有地が、「8億円値引き」されて、1億3400万円で払い下げられた。これが、発覚して大問題となった。

?そんなことがあったから、安倍さんを「右翼で国政私物化総理」と言ったのね。「森友学園事件」って安倍さんの右翼オトモダチへのえこひいきで、国有地をタダ同然で払い下げたという問題ね。

☆それだけじゃない。この怪しい国有地売却の経過を記録しているはずの公文書が大量に廃棄されたり、14の決裁文書が290個所にわたって改竄されていた。後で明らかになったのは、安倍夫妻や自民党の大物政治家の名前を消すための公文書改竄。

?きっと、安倍さんが裏で公文書の廃棄や改竄を命令してたんでしょうね。

☆誰でもそう思うのが当たり前。安倍晋三は、国会で「自分や妻が関わっていれば、首相も国会議員も辞める」と言った。だから、都合の悪い文書を残しておくわけにはいかなかった。でも、本当のところは分からない。官僚が首相の立場を「忖度」してゴマを摺ったのかも知れない。

?「本当のところは分からない」なんてじれったいじゃないの。真実を明らかにする方法はないのかしら?

☆国会が国政調査権を発動して調べるのが一番の筋だろう。その一環として、衆参の予算委員会は佐川宣壽理財局長を証人として呼出し、宣誓の上証言させた。が、彼は、安倍からの指示を否定したが、改竄の経緯については証言を拒否した。野党は偽証で刑事告発しようとしたが、告発には3分の2の委員の賛同が必要で、自公や維新の議員が賛成するはずはないから、結局あきらめた。

?ほかに方法はないの?

☆世論の突き上げにあって、さすがに財務省も腰をあげた。内部調査委員会を作って調査し、「森友学園案件に係る決裁文書の改ざん等に関する調査報告書」をとりまとめて公表した。この報告書に基づいて、財務省は本庁と近畿財務局の幹部20人を処分した。もちろん、安倍関与の事実は出てこない。これで幕引きというわけ。「内部調査では信頼できない。信頼できる外部委員を入れて調査をやり直せ」という声には、聞く耳をもたない。

?警察や検察は動かなかったの?

☆何人もの人が、何人もの関係者を、いくつもの罪名で告発した。すべての告発事件が大阪地検特捜部に集められ、佐川宣寿以下の財務省職員ら計38人に対する告発が、すべて不起訴処分となった。「検察も安倍に忖度しているのか」と非難囂々だった。その後、事件は大阪第1検察審査会の審査に持ち込まれたが、いかんせん検察には捜査の権限はない。佐川ら10人について「不起訴不当」の議決となったが、「起訴相当」とはならなかった。大阪地検特捜は形ばかりの再度の捜査の上、再びの不起訴とし捜査は終了した。安倍の指示は、暗闇のまま。

?あれもダメ、これもダメ。じゃあ、話題になっている「森友学園公文書改ざん訴訟」ってなんなの?。

☆森友事件での公文書改竄は、東京の財務省本庁ではなく、出先の近畿財務局で起こった。実際に改竄を実行したのは、本庁からの命令を受けた近畿財務局の職員だった。そのうちの一人、赤木俊夫さんは、不本意ながらやらざるを得ず、正義感から自分の行為を恥じて結局痛ましい自死の結果となった。赤木さんの妻・雅子さんは、夫の自死は国に責任がある。その経過を明らかにしたいとして、国を相手に損害賠償請求の裁判を起こした。併せて、佐川宣壽も被告にしている。この裁判の過程で新しい資料が出て来るなどの進展はあった。そして、これから証人申請がなされるという時になって国に対する裁判は、国の認諾で突然に終わった。

?「認諾」ってなんなの?

☆原告の請求を被告が受諾すれば、原告は満足することになって紛争は解決し裁判は終了する。この場合は、「1億円支払え」という原告の請求を、被告が「全面的に認めます」という書面を陳述して、訴訟は終了した。

?じゃあ、安倍首相の公文書改竄の責任が明らかになったのかな?

☆いや、「請求を認諾する」ことは、必ずしも「請求の根拠となった請求原因事実を認める」ことを意味しない。むしろ、これからの訴訟の進展の中でいろんな事実を明らかにしていこうという原告側の思惑を封じ込めようという意図が見え見えと言ってよい。

?岸田首相は、財務省による改竄の責任を認めることで、安倍さんを叩いたようにも見えるけど。実は助けたというわけ?

☆両方の見方があるだろうね。この認諾が、一時的には安倍に対する打撃になることは避けられないが、長期的に見ると安倍の利益になる公算が高い。この裁判が長引けば、折に触れて安倍の責任、自民党の汚点が思い出される。この訴訟を終了させることは、安倍にだけではなく自民党にも有益なこと。とりわけ来年の参院選への影響を考えれば、今の時期がベストと考えたのかも知れない。

?なんだ。結局は安倍さんや昭恵さんの責任追求の場がなくなったと言うことか。

☆原告だった雅子さんが、提訴によって獲得しようとしてたのはお金ではなく、文書改竄を命じた人や経過をはっきりさせることだったはず。とりわけ、佐川宣壽と安倍晋三との具体的なやり取り。それが断ち切られて、「真相にふた」「問題に幕」を狙っての認諾。どうにもスッキリしない。

?今後はどうなるの?

☆国は認諾したけれど、佐川宣壽に対する550万円請求の裁判は残されている。弁護団は努力を重ねるだろうし期待もしたい。関連する情報開示の別訴訟もある。しかし、国を除いて佐川だけになった裁判で、予定していた関係者の尋問を実現したり新しい事実を発掘するような展開は、これまでよりも困難になるだろう。国が認諾した債務を支払えば、もう原告には損害はないと判断されるかも知れない。

?まるで、疑惑の幕引きに税金1億円を注ぎ込んだみたい。これからどうすればよいの?

☆もう一度原点に帰って、安倍晋三と昭恵の悪行を思い起こし、洗い直そう。そして、世論の力を再結集して国会やメディアに訴える。国会はもう一度、安倍の責任と、岸田の幕引き姿勢を追求しなければならない。日本の民主主義の力量が試されている。

?一番大切なことはどういうこと?

☆雅子さんは記者会見で「なぜ夫が亡くなったのかを知りたいと思って始めた裁判。お金を払えば済む問題ではない」と話している。本当にそのとおりだと思う。
 もとはと言えば、安倍政権の横暴が幾重にも露わになった事件。しかし、嘘とごまかしにまみれ、政治を私物化してきた安倍政権を政権の座からも国会からも、駆逐できなかった。国民も議会もメディアも力が足りなかった。自公の与党政権を批判する勢力がもっと強ければ、こんなことにはならなかったはず。すべては、安倍晋三という邪悪なる者の責任を徹底追求できなかったことのツケだと思う。
 モリ・カケ・サクラ・クロカワイ…。しっかりと、みんな忘れないように肝に銘じよう。

「現代版・リットン調査団」を中国に派遣せよ。今度は「バチェレ調査団」だ。

(2021年12月15日)
 1931年12月10日、国際連盟理事会は「日支紛争調査委員会」の設置を決議し、次いでリットン以下5委員を任命した。世に言う「リットン調査団」の結成である。同調査団は精力的に、東京を皮切りに、上海、南京、漢口、北平(北京)を視察のあと、満洲地域を1か月間現地調査し、再び東京を訪問。その後北京で報告書を作成している。連盟理事会に完成した報告書を提出したのが32年10月1日である。

 1933年3月24日連盟総会は42対1(反対は日本)で同報告書を採択し、同日日本は国際連盟を脱退する。この調査団報告に対する歴史的な評価は種々あろうが、日本が国際連盟の調査に協力したことは特筆されてよい。費用の半額を負担してもいる。

 「中国の人権状況」をめぐって、これを指弾する勢力と批判を拒否する中国に追随する勢力とに、世界が分断の色を濃くしているいま、90年前の故事に倣って「国際連合中国人権状況調査委員会」を設置すべきではないか。そのような国際世論を盛り上げたい。

 現代版「リットン調査団」は、「バチェレ調査団」になる。中国政府は、「バチェレ調査団」のウイグルと香港の調査に無条件に協力しなければならない。

 国連人権高等弁務官ベロニカ・ミチェル・バチェレ・ヘリア(1951年9月29日生)は、女性初のチリ大統領を2期務めた政治家だが、外科医であり小児科医でもあるという。その父は、アジェンデ政権の協力者として独裁者ピノチェットに殺害された人、自身も拷問を受けた経験があるという。

 中国の人権弾圧が問題となって国連も腰をあげ、バチェレ人権高等弁務官が現地を訪問しての調査を申し出た。中国政府も、さすがに「NO」とは言えない。しかし、何をどのように調査するのか、調査の条件にこだわって、「協議」は続いているというが、調査は実現していない。

 この間、メディアには、主としてウィグル人亡命者からの生々しい人権侵害被害の報告が重ねられ、その都度、中国当局の「事実無根」「捏造」「うそにあふれ、中国をたたくための政治的なたくらみ」というお決まりの反論が繰り返されてきた。

 しかし、米バイデン政権の本気度は高く、新疆産製品を強制労働によるものとしてボイコットを呼びかけ、さらには綿製品に限らないすべての新疆産製品の輸入を禁止し、新疆産の原材料を使用する製品でないことの証明を求めるというところまで来ている。

 影響の大きい例では、太陽光パネルの材料であるシリコンがある。その生産量は世界の8割を中国が占め、その半分ほどがウイグルで採掘されているという。これをアメリカは、原料としての輸入をしないだけでなく、製品としてもウィグル産シリコン不使用を証明できない限り輸入は認めないという。

 この動きは、おそらく世界に広まるだろう。中国にとっての打撃となる。中国はその先手を打って、「バチェレ調査団」を受け入れると宣言すべきではないか。

 「バチェレ調査団」は、各国の政府関係者だけでなく、ジャーナリストと人権NGOの活動家を加えるべきだ。そして、被害を訴えた亡命者を帯同しなければならない。調査は2班に分けて、ウィグル各地と香港を対象とする。期間は最低2年はかかるだろう。中国当局が見せたくないところを見なければならないし、しゃべらせたくない現地の人の声を聞く工夫がなくてはならない。

 ところで、中国当局の公式見解は、「人民網日本語版」で手軽に確認できる。
 http://j.people.com.cn/
 その12月10日欄に、記者の質問に答える形で、汪文斌・外交部報道官がこう語っているのが、興味深い。
 


 新疆関連の問題は人権問題などでは全くなく、テロ対策、脱過激化、反分離主義の問題だ。中国政府が法に基づき暴力テロに打撃を与えるのは、まさしく新疆各民族人民の人権を最もよく守っていることになる。

 香港地区は中国の香港地区であり、香港地区の事は完全に中国の内政だ。中国政府が国家の主権と安全、発展上の利益を守る決意は確固不動たるものであり、「一国二制度」の方針を貫徹する決意は確固不動たるものであり、香港地区内部の事へのいかなる外部勢力による干渉にも反対する決意は確固不動たるものだ。」

 要するに、「新疆と香港の問題は、アンタッチャブルだ。他国に余計なことは言わせない」という、居丈高な姿勢。なんという余裕のない、なんという批判拒否体質。これでは、世界の良識からの理解を得られない。水掛け論を繰り返すのではなく、「バチェレ調査団」の調査を受け入れれば、中国政府側の利益にもなるのではないか。

『きょういく』と『きょうよう』に満ちた一日

(2021年12月14日)
 誰の言葉か。「高齢者には『きょういく』と『きょうよう』が必要」だという。教育と教養ではない。「『今日行くところ』と『今日すべき用事』があれば、ボケることはない」ということ。まったくそのとおり。コロナ禍の最近、今日行くところがなくなっている。

 本日は恒例の「本郷・湯島9条の会」街頭宣伝活動。厳寒の冷雨を衝いての決行である。さながら、赤穂浪士討ち入りの心境。300年余以前の今日、徒党を組んだテロリスト集団が大江戸を騒がせた。47名共謀しての、住居侵入、往来妨害、監禁、傷害、殺人、死体損壊、建造物損壊等々の刑事犯罪の数々。

 「本郷・湯島9条の会」は、犯罪とは無縁の徹底した合法主義団体である。が、改憲阻止の意気込みだけは、討ち入りの浪士並み。「9条壊憲ストップ」「戦争できる国へ、9条改悪ストップ」「6兆円こえる軍事費、いつの間にか戦争する国に」「敵基地攻撃能力は9条違反」「グズグズ地盤の辺野古基地建設中止」「思いやり予算1兆円軍事費6兆円超え」「人類の理想、戦争放棄の9条」「批判しない野党、わさび抜きのおすし、からし抜きのおでん」「しなくても増える軍事費、しても増えない支援金」等々のプラスターにはビニールをかぶせ、代わる代わるマイクを握った。

 「世論は安倍改憲政権を倒した。ところが却って今、改憲の危機が迫っている」「安倍晋三が言ってるそうだ。強面の自分ではできないが、岸田政権だからこそ改憲の可能性が高まった」「どんな事態でも9条を変えてはならない。9条こそは、戦争への歯止め。9条がなくなれば再び戦争を繰り返す日本になる」「憲法9条は理想に過ぎないという人もいる。しかし、理想は大切にしなければならない。平和の理想を語りあうことが平和の維持のために必要ではないか」「安易な現実への妥協は汚辱にまみれた戦争への道、飽くまでも美しい平和の理想を追い求めよう」「憲法9条こそが、実は日本にとって最も現実的な安全保障政策であることを確認しよう」「国の安全を軍備の増強に頼ることは、対立する国同士の限りない軍拡競争の連鎖に落ち込み、結局は国を滅ぼすことになる。それこそが、80年前太平洋戦争に突入した歴史の教訓ではないか」

「戦争に対する反省は、勝てない戦いを始めたことではない。勝っても負けても、悲惨極まりない戦争を始めたことだ」「中国の台頭著しい今、対抗する武力を抑止力にしょうという考え方が、リアリティを失っている」「日本は各国と平和的に連携し国際法と国際世論の良識を集約した批判をもって軍事大国の覇権主義に対抗する。これよりほかに手段はない」「アメリカの核の傘に頼ることは、結局核競争の危険な悪循環をもたらすだけの無意味なこと」

「80年前、日本国民は周囲の国民を、鬼畜米英と言い、暴支を膺懲すべしと言い、不逞鮮人取り締まれと言った」「戦争をするには、無理にでも相手を憎まなければならない」「外国人を差別し、憎悪するような風潮は戦争の準備でもある」「平和は、世界の諸国民との親密な友情によって支えられる」「お互いの、ヘイトの言動や心情は、戦争につながる」「どの国の人も大切にしよう」「とりわけ、中国・朝鮮・韓国の人びとと友好を深めよう」

 街宣終了後、リーダーの石井彰さんが、いみじくも言った。「こういうときこそ、草の根が大事です。大集会も大宣伝もたいせつだけれど、何よりも心ある人みなが、身近なところで声を上げなくてはならない。7500ある九条の会」みんなが一斉に声を上げれば力になります。本日は、ご苦労様でした」

 その後に、文京革新懇の世話人会議。やはり、今の改憲策動の切迫感がこもごも語られた。そして、選挙共闘の必要性と、必要ではありながら現実には難しいことも。

 革新懇の世話人会議は高齢者が多い。さすがに含蓄の深い言葉にハッとさせられることも。

 「これまで、何度も選挙を経験してきたが、自分たちが努力し積み上げてきたもの以上の成果は出ない、そう思わせられ続けてきた。しかし、今回だけは、例外ではないかと夢を見た。市民と野党の共闘に支えられた政権獲得選挙という夢。しかし、儚い夢は破れた。やはり成果は、自分たちが努力し積み上げてきたものだけなのだ。次も、確実なものを積み上げなければならない」

 「『反共は戦争の前夜』。言い古された感があるが、この度はこの言葉が身に沁みた。『反共攻撃』『野党共闘の妨害』は、保守の側にとっての至上命令なのだ。臆せず怯まずに、反共攻撃とは対峙して克服しなければならない」 

 そして夕刻は、オンライン参加の「法と民主主義」編集会議。『きょういく』と『きょうよう』に満ちた、討ち入りの日の一日だった。

中国共産党の民主主義論は、神権天皇を寿ぐ無内容な美文によく似ている。

(2021年12月13日)
 アメリカのバイデン政権が、「価値観を共有する」友好国を招いて「民主主義サミット」を開催し、これに中・露など「価値観を共有せざる」諸国が反発している。連合国対枢軸諸国の対立を再現するようなことがあってはならないが、人権や民主主義の蹂躙に対する必要な批判を遠慮してはならない。

 色をなした体で中国が反論を試みていることが興味深い。さすがに、批判は身にこたえるのだ。「民主主義なんぞ何の価値があるものか」と開き直ることはできない。「偉大な習近平の指導に従うことこそが、人民の利益に適うのだ」と言いたいところだが、そのような言葉は呑み込まざるを得ない。そして、おっしゃることは、「結党以来100年、中国共産党は民主を貫いてきた」である。へ?え、そうだったんですか。ちっとも知りませんでした。

 思い起こせば、孫文「三民主義」に「民権主義」があり、毛沢東に「新民主主義論」(1940年)がある。民主主義をないがしろにするとは言えないのだ。とは言え、革命中国においても、党の支配を制約する「民権」「民主」を貫いてきたとは、意外も意外。

 中国に民主主義があるのか、固唾を飲んで見守ったのは1989年6月天安門事件のときだった。その後、中国に民主主義の片鱗でも残されていないか、固唾を飲んで見守ったのは2020年香港の事態である。1989年に絶望し、2020年には、その絶望を確認するしかなかった。

 にもかかわらず、中国はこう言っている。「中国にも民主主義はある。但し、それは英米流のものではない」「中国の近代化では、西洋の民主主義モデルをそのまま模倣するのではなく中国式民主主義を創造した」「中国は独自に質の高い民主主義を実践してきた」。

 要するにに、「民主主義」に「中国式の」という修飾を付加すると、別物になってしまうのだ。

 昨年(2020年)6月、国連の人権理事会でカナダなど40か国余が共同して、「中国に対して、国連高等弁務官の新疆入りの容認を求める共同声明」を発表した。その共同声明は新疆での人権弾圧問題でけでなく、「国家安全維持法(国安法)下での香港の基本的自由悪化とチベットでの人権状況を引き続き深く懸念している」とも指摘していた。
 これに対して、ジュネーブの中国国連代表部の上級外交官Jiang Yingfengは、共同声明が指摘した問題の存在を否定して「政治的な動機」に基づいた干渉だと非難し、香港問題については、「国安法制定以降、香港では混乱から法の支配への変化が見られている」と述べた。(ロイター)
 https://jp.reuters.com/article/china-rights-un-idJPKCN2DY137

 香港では、権力が市民の言論の自由を奪い、出版の自由を妨害し、権力を批判する新聞を廃刊に追い込み、中国共産党の統制に服さない結社を解散させ、デモさえ許さず、恣に活動家を逮捕し起訴し有罪判決を言い渡している。この事態を中国共産党は、「混乱から法の支配への変化」というのだ。

 中国共産党にとっては、民主主義とは「望ましからざる混乱」に過ぎない。民主主義が必然とする市民の自由な諸活動を徹底して弾圧し、押さえ込むことこそが「あるべき法の支配」だというのだ。中国共産党の恐るべき本心、そして恐るべき詭弁である。

 最近中国の民主主義に関する論説を読んでいると、なんとなく既視感を禁じえない。戦前の神権天皇制政府を持ち上げた、あの恐るべき無内容ながらも、延々たる美文によく似ているのだ。

 あのバカげた神権天皇制の権威主義的政治体制についてさえ、「五箇条のご誓文を淵源とする民主主義の精神で貫かれている」と持ち上げる倒錯した論説もある。また、万世一系の天皇は「臣民を赤子としてこの上なくお慈しみあそばされた」という愚論もある。これが、中国共産党の民主主義論によく似ているのだ。

 万世一系を中国共産党の無謬性に置き換え、天皇を習近平に、臣民を人民に読み替えれば、実はたいして変わらない。両体制とも、これこそが臣民(人民)の利益を擁護するための最高の政治体制であることを疑っていない。民主主義なんぞは非効率であるばかりでなく間違ってばかり。そう言えば、八紘一宇の思想は一帯一路に似ているではないか。

 民主主義が、画一化され定型化された政治理念でないことは当然である。しかし、「文化は多様」「文明は多様」「それぞれの国や民族の歴史や伝統は多様」というレベルで「民主主義も多様」と言えば、明らかに民主主義否定の詭弁でしかない。重要なことは、民主主義を支えている具体的な諸制度や自由の検証である。「中国的民主主義」は、とうていそのような検証に耐え得る代物ではない。

献金も 平たく言えば 賄賂なり

(2021年12月12日)
 一昨日の維新の政治資金規正法違反告発について、足りないところを補いたい。
 政治資金規正法の理念は、大きくは二つある。
 一つは、《(1) 政治資金の動きを透明化し、国民の目に見えるようにすること》であり、もう一つは、《(2) 政治資金の流れに一定の縛りを儲けて、カネの力で政治を動かすことに歯止めをかけること》である。
 
 (1)の目的は、各政治団体の収支や資産状況を明らかにすることによって、その政治団体を経済的に支えている人や団体を明確にすることにある。そのことを明らかにすることによって、それぞれの政党や政治団体の性格の把握が可能となる。それが、国民の次の投票行動に結びつくことが期待されている。

 たとえば、DHC・吉田嘉明やフジ住宅から献金を受けている政党や政治家は、ヘイト体質だと考えてよい。アパホテルからの寄附を受けていれば、歴史修正主義と親和性が高いと判断されるだろう。

 今回話題となった維新の政治資金収支報告では、金融市場でのマネーゲームで大儲けをしていた人物から、年に2150万円もの政治献金を受けていることが明らかとなった。維新とはそういう性格の政党なのだ。そういう勢力から、献金を受けて恥じない政党なのだ。しかも、村上世彰といえば、インサイダー取引で有罪確定した人物ではないか。

 (2)の目的は、極端な不公正が生じることのないように、政治献金の量的・質的取締りを行おうというというものである。村上世彰の維新への政治献金は法が取り締まらざるを得ない巨額なのだ。

 貧者の一灯が集まって支えている政党であるか、マネーゲームの上がりを原資とする献金を集めて運営されている政党であるか、国民は目を凝らして注視し、そして判断しなければならない。自分にとって、誰が味方で、誰が敵なのかを。

 しばらく前に、私のブログに「そのカネが無償の愛のはずはない」という表題の記事を書いた。DHC・吉田嘉明の渡辺喜美(当時・みんなの党)に対する8億円貸付に関してのものだが、村上世彰の維新への政治献金についても当てはまる。

 毎日新聞「仲畑流万能川柳」(略称「万柳」)欄、2015年2月10日掲載の末尾18句目に、
  民意なら万柳(ここ)の投句でよくわかる(大阪 ださい治)
とある。まったくそのとおりだ。

 その民意反映句として、第4句に目が留まった。
  出すほうは賄賂のつもりだよ献金(富里 石橋勤)
 思わず膝を打つ。まったくそのとおり。

 過去の句を少し調べてみたら、次のようなものが見つかった。
  献金も 平たく言えば 賄賂なり(日立 峰松清高)
  献金が無償の愛のはずがない(久喜 宮本佳則)
  超ケチな社長が献金する理由(白石 よねづ徹夜)

 選に洩れた「没句供養」欄の
  献金と賄賂の違い霧と靄(別府 吉四六)
という句も実に面白い。庶民感覚からは、疑いもなく「献金=賄賂」である。譲歩しても「献金≒賄賂」。

 国語としての賄賂の語釈に優れたものが見あたらない。とりあえずは、面白くもおかしくもない広辞苑から、「不正な目的で贈る金品」としておこう。「アンダーテーブル」、「袖の下」、「にぎにぎ」という裏に隠れた語感が出ていないのが不満だが。
 
 村上ファンド・村上世彰から維新・馬場伸幸への政治献金として渡ったカネは、これが健全な庶民感覚に照らして「不正な目的で贈る金品」の範疇に含まれることは理の当然というべきだろう。

 前述の各川柳子の言い回しを借りれば、この2150万円は、「出すほうは賄賂のつもりだよ」であり、「平たく言えば 賄賂なり」である。なぜならば、「出すカネが無償の愛のはずがない」のであって、「超ケチな社長が金を出す理由」は別のところにちゃんとある。結局は、「無償の政治献金」と、「私益を求めての賄賂」の違いは、その実態や当事者間の思惑において「霧と靄」の程度の差のものでしかない。これが社会の常識なのだ。

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