澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

杉田水脈の「いいね」に、損害賠償を命じる逆転判決。

(2022年10月21日)
 昨日言い渡しの、下記東京高裁民事判決報道が大きな話題となっている。昨日の東京はこの上ない晴天。その天候同様の晴れやかな判決だった。

「杉田水脈議員に一転、賠償命令 『いいね』で伊藤詩織氏への侮辱」(朝日)
「伊藤詩織さん逆転勝訴、杉田水脈氏に賠償命令 中傷投稿に『いいね』」(毎日)
「伊藤詩織さん中傷ツイートに繰り返し『いいね』…自民・杉田水脈氏に2審は55万円の賠償命令」(読売)

 この愚行を繰り返した杉田水脈なる人物、信じがたいことだが政治家である。現在なお衆院議員、そして総務政務官。政治・政治家の劣化を嘆く声は高いが、政治家としての劣度においてこの人の右に出る者は少ない。日本の主権者が、このような政治家に貴重な議席を与えているのだ。我が国の民主主義の水準が嘆かわしい。

 杉田は2018年6?7月、ツイッター上で「枕営業の失敗」「ハニートラップ」「売名行為」などと伊藤を中傷した第三者の投稿計25件に「いいね」を押した。なにゆえの愚行だったか。その動機は、単に暇だったからではあり得ない。おそらくは、安倍晋三を中心とする政治グループへの帰属意識と忠誠心の証しであったろう。

 安倍晋三あればこその政治家杉田水脈である。その杉田の伊藤詩織攻撃は安倍陣営へのエールではあろうが、この上なくみっともないことになった。安倍晋三亡き後の寄る辺なき杉田水脈、果たしてこれまでのようにはしゃぎ続けることができるだろうか。

 私は、この判決に目を通していない。報道された限りでの理解だが、本件は名誉毀損訴訟ではなく、侮辱を請求原因とする訴訟である。名誉毀損の請求原因が「公然事実を摘示する表現で、原告の社会的評価を低下させた」という構成になるのに対して、侮辱では「公然と原告の人格を毀損する表現をした」となる。

 一般に、名誉毀損では「事実の摘示が必要」だが侮辱では不要、名誉毀損の侵害法益は「社会的評価」だが侮辱では「名誉感情」だと説かれる。しかし、厳密には、名誉毀損と侮辱とを分けるものは微妙である。その意味では、伊藤・杉田事件は貴重な侮辱事案の判決となった。

 この事件、本年3月の一審・東京地裁判決では請求棄却判決となっている。ツイッター上の「いいね」は、「必ずしも内容への好意的・肯定的な感情を示すものではない」「ブックマークなどの目的で使われることもあり、」「感情の対象や程度は特定できず、非常に抽象的、多義的な表現行為にとどまる」と、名誉感情を毀損する人格攻撃としての侮辱表現があったと認めなかったようだ。

 控訴審では一転、名誉感情の毀損を認めて原判決を変更し、杉田に55万円の支払いを命じた。決め手となったのは、「いいね」を押した行為だけに着目するのではなく、杉田が以前からインターネット番組などで伊藤の批判を繰り返していたことなどを勘案して、「名誉感情を害する意図があった」「国会議員の『いいね』は一般人とは比較しえない影響力がある」と、目的(主観)・効果(客観)両面での侮辱の成立を認め、賠償請求を認容した。欣快の至りである。

 昨夕の毎日(デジタル版)が、「杉田水脈氏の差別発言の数々」の解説記事を掲載している。その一部を抜粋しておきたい。杉田水脈とは何者であるかがよく分かる。

「性暴力被害に『女性はいくらでもウソをつけますから』」

 「20年9月の自民党内の会議では、行政や民間が運営する性暴力被害者のための「ワンストップ支援センター」を全国で増設する方針などを内閣府が説明した際、「女性はいくらでもウソをつけますから」と、被害の虚偽申告があるように受け取れる発言をした。 この発言を巡っては、大学教授らでつくる「公的発言におけるジェンダー差別を許さない会」が21年2?3月に実施したネット投票で、ジェンダーに関する問題発言のワースト1位に選ばれた。」

待機児童問題でも持論

 「保育園への入所選考に落ちた母親がブログにつづった「保育園落ちた日本死ね!!!」という言葉が話題になった16年には、保育所の増設などを求める動きに対し、産経新聞のニュースサイトでの自身の連載で「子供を家庭から引き離し、保育所などの施設で洗脳教育する。旧ソ連が共産主義体制の中で取り組み、失敗したモデルを21世紀の日本で実践しようとしているわけです」「コミンテルン(共産主義政党の国際組織)が日本の一番コアな部分である『家族』を崩壊させようと仕掛けてきました」などとつづり、物議を醸したこともある。」

「生産性がない」発言で雑誌が休刊に

 「18年、月刊誌「新潮45」8月号に「『LGBT』支援の度が過ぎる」とのタイトルで「LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供を作らない、つまり『生産性』がないのです」と寄稿。
 『多様性を受け入れて、さまざまな性的指向も認めよということになると、同性婚の容認だけにとどまらず、例えば兄弟婚を認めろ、親子婚を認めろ、それどころかペット婚や、機械と結婚させろという声も出てくるかもしれません』と性的少数者を差別する主張を展開した。 この寄稿に対して当事者や支援者から批判が殺到し、自民党本部前などで抗議集会が開かれる事態となり、「新潮45」は18年10月号で休刊となった」

杉田氏「多様性否定したことない」

 「一方、今年8月15日の総務政務官の就任記者会見で「新潮45」への寄稿について問われた杉田氏は「私は過去に多様性を否定したこともなく、性的マイノリティーの方々を差別したこともございません」と説明した。」

 この「多様性否定したことない」という杉田発言について、「なるほど、『女性はいくらでもウソをつけますから』というとおりだ」などと言ってはならない。「いくらでもウソをつける」のは、『女性』ではなく『杉田水脈』という政治家なのだから。

宗教法人解散命令の要件には、刑事法令違反だけでなく、民事法令違反も含まれる。

(2022年10月20日)
 今朝の各紙の見出しには、「民法の不法行為も該当」というフレーズが躍っている。〈裁判所による宗教法人解散命令〉及び〈行政の解散命令請求〉の要件について、岸田首相答弁報道におけるものである。

 「首相は10月18日の衆院予算委では民法は『入らない』と答弁しており、1日で答弁を変更し、『民法の不法行為も入り得る』との認識を示した」という記事になっている。

 併せて、「旧統一教会を巡っては、幹部による刑法上の違反行為を認定した裁判例はないものの、民事裁判では組織的な不法行為責任が認定された例が2件ある。答弁変更により、解散命令に向けたハードルが下がる可能性がある」(毎日)とも報じられている。

 この論争、「宗教法人に対する解散命令の根拠としては刑事的な違法が必要ではないか」「民事的違法では足りないのではないか」というかたちで、提起されている。しかし、宗教法人法を素直に読めば、本来こんな論争が出てくる余地はない。にもかかわらず、政府が「刑事違法」にこだわったのは、できれば統一教会を温存したかったからではないか。その政府見解の根拠は、オウム真理教に対する解散命令における理由の誤読によるものと思われる。

 やや面倒だが、以下に、この点に関する関係条文とオウムの事例における裁判所の判断を確認しておきたい。

★ 宗教法人法81条(抜粋・リライト)

法81条1項(解散命令)

 「裁判所は、宗教法人について左の各号の一(どれかひとつ)に該当する事由があると認めたときは、所轄庁(文科大臣)の請求により、その解散を命ずることができる。
一 法令に違反して、著しく公共の福祉を害すると明らかに認められる行為をしたこと。
二 第二条に規定する宗教団体の目的(宗教の教義をひろめ、儀式行事を行い、信者を教化育成すること)を著しく逸脱した行為をしたこと。

 条文上の文言は、「法令に違反」である。「法令」が民事法を含むことは当然であって、「刑事法に違反して」となっていない以上は、民事法違反の場合を除外するとは読みようがない。また、「法令に違反」が仮に刑事法違反に限られるとすれば、条文の文言は「犯罪行為をしたこと」、あるいは「刑罰法規に違反する行為をしたこと」「犯罪の構成要件に該当する行為があったこと」などとなるだろう。「公共の福祉を害する…と認められ行為をしたこと」は、明らかに民事的な違法行為を含むという以外に解釈の余地はない。

★ 民事違法排除論

 にもかからず、首相は18日の衆院予算委で、オウム真理教に対する解散命令で裁判所が示した「刑法等の実定法規の定める禁止規範または命令規範に違反」との基準を根拠に、民法上の不法行為は含まないとの認識を示していた。
 はたして、この認識は正しいだろうか。オウムの事例における裁判所の判断を検討してみよう。

★ 対オウム真理教・解散命令の経過概略 

 1995年、東京都知事鈴木俊一と検察官は、宗教法人法第81条1項に基づいて、宗教法人オウム真理教の解散命令を東京地方裁判所に請求した。サリン生成を企てた殺人予備行為が、法第81条1項1号と2号に該当するとしてのことである。

 解散命令請求事件は、訴訟ではなく非訟手続である。請求を受理した東京地裁はこれを認めて宗教法人解散の決定をした(1995年10月30日)。これを不服としてオウム側が東京高裁に即時抗告をしたが抗告棄却となった(同年12月19日)。さらに、最高裁に特別抗告がなされたが、これも棄却され(96年1月30日)て解散命令が確定した。

★ オウム・地裁決定抜粋

 「刑法上の犯罪は、自然人を主体とするものであって、宗教法人自体がこれを犯すことはできない。」「(しかし)宗教法人と法令違反行為・目的逸脱行為の主体との厳密な一致を必ずしも要求していないと解される。」
 「宗教団体構成員の大部分あるいは中枢部分が、宗教団体の組織的行為として犯行に関与するなど、重大な犯罪の実行行為と宗教団体の組織や活動との間に、社会通念上、切り離すことのできない密接な関係があると認められる場合は、宗教法人法81条1項1号又は2号前段に基づき、宗教法人の解散を命じることができると解すべきである。」「あくまでも実質的にみて、宗教団体の組織的行為と認められるかどうかを基準とすべきである。」
 「本件殺人予備行為は、オウム真理教の教祖であり相手方の代表役員である松本智津夫の指示あるいは少なくともその承認の下に、オウム真理教団の組織的行為として実行されたものと認めるのが相当であり、重大な犯罪の実行行為と宗教団体の組織・活動との間に、社会通念上、切り離すことのできない密接な関係があると認められる場合に当たるから、宗教法人法81条1項1号及び2号前段に定める解散命令事由が存在するというべきである。」

 以上のとおり、地裁決定の関心は、「法人の犯罪といえるか」にのみあって、「解散命令の要件として民事違法を含むか」への言及はない。高裁決定は次のようにこのことに触れている。

★ オウム・高裁決定抜粋

 「宗教法人法が宗教団体に法人格を取得する道を開くときには、これにより法人格を取得した宗教団体が、法人格を利用して取得・集積した財産及びこれを基礎に築いた人的・物的組織等を濫用して、法の定める禁止規範もしくは命令規範に違反し、公共の福祉を害する行為に出る等の犯罪的、反道徳的・反社会的存在に化することがありうるところから、これを防止するための措置及び宗教法人がかかる存在となったときにこれに対処するための措置を設ける必要があるとされ、かかる措置の一つとして、右のような存在となった宗教法人の法人格を剥奪し、その世俗的な財産関係を清算するための制度を設けることが必要不可欠であるとされたからにほかならない。

 右のような同法81条1項1号及び2号前段所定の宗教法人に対する解散命令制度が設けられた理由及びその目的に照らすと、右規定にいう
「宗教法人について」の「法令に違反して、著しく公共の福祉を害すると明らかに認められる行為」(1号)、「2条に規定する宗教団体の目的を著しく逸脱した行為」(2号前段)とは、
(1) 宗教法人の代表役員等が法人の名の下において取得・集積した財産及びこれを基礎に築いた人的・物的組織等を利用してした行為であって、社会通念に照らして、当該宗教法人の行為であるといえるうえ、
(2) 刑法実定法規の定める禁止規範又は命令規範に違反するものであって、
(3) しかもそれが著しく公共の福祉を害すると明らかに認められる行為、又は宗教法人法2条に規定する宗教団体の目的を著しく逸脱したと認められる行為
をいうものと解するのが相当である。」

 オウムの事例は刑法犯案件であったが、高裁(抗告審)決定はわざわざ「刑法」と、刑法案件に限定されないことを明示した。また、「実定法規の定める禁止規範又は命令規範」は、刑事法に限らないことの明示の表現と言ってよい。さらに、「反道徳的」「反社会的」も同じ意味をもつものと解する根拠となる。

★ オウム・最高裁決定
 同法人は、憲法20条の定める信教の自由を侵害しているなどとして最高裁判所に特別抗告をした。結論は特別抗告棄却である。
 特に解散命令の要件に触れるところはなく、宗教法人に対する不利益をもたらす解散命令という制度が、憲法20条による信教の自由を侵害することにはならないという憲法解釈論に限られている。

「より速くより高くより金儲け」 ー 東京五輪川柳から

(2022年10月19日)
 東京五輪の汚職事件摘発は止まるところを知らない。またまた本日、「ミスター電通」が収賄容疑で4度目の逮捕となり、併せて広告業大手ADKホールディングス社長らが贈賄の容疑で逮捕された。が、もっと大物の立件はないのだろうか。あの政治家や、このJOC元会長など、疑惑の報じられている人は多い。是非とも徹底的に、五輪の膿をしぼり出してほしいもの。

 石原慎太郎の思いつきに猪瀬や小池がはしゃぎ、安倍晋三が悪乗りした東京五輪である。その背後には、巨額の利権がうごめいている。その汚さは底なしに見えるが、さて、どこまで疑惑の解明が進んでいるのだろうか。庶民のモヤモヤ感が、新聞の川柳投句欄に溢れている。毎日新聞の「仲畑万能川柳」欄から最近のものを拾ってみた。実に見事なもの。

 今頃になって五輪が盛り上がり 高槻 かうぞう

 より速くより高くより金儲け 甲府 千徳紘美

 豪邸で高齢なのに汚職する 取手 はにわゆう

 じいちゃんが五輪の件で留置場 北九州 はっちゃん

 おもてなしなんだ賄賂のことなのか 別府 タッポンZ

 「おもてなし」東京五輪は裏多し 大牟田 西のニシ

 開幕の前に汚れていた五輪 射水 江守正

 五輪理事ドンというよりガンですな 北九州 はっちゃん

 結局はカネで決まったスポンサー 相模原 アンリ

 やっぱりね復興五輪じゃなかったな 日立 小雪

 五輪ほど汚れてないぞ野良着だが 兵庫 新ポスト

 オリパラを巡るお金はまだ巡る 下関 タケロー7

 五輪色全て疑惑のグレーだな 西東京 矢ケ崎耕一

 五輪後に残ってました金の輪が 下松 暇人

 電通は越後屋なのか代官か 横浜 おっぺす

 五輪とは利権者達の宴なり 北九州 まんまる

 終っても東京五輪まだ汚点 奈良 一本杉

 五輪後に赤字と汚職だけ残る 千葉 東孝案

 東京は汚職五輪と総括し 和歌山 屁の河童

 甘い汁又吸えそうだ札幌で 横浜 樫原雅良

 角川の辞書にも載ってる贈収賄 川崎 ゆさこ

 AOKIから着服をした?五輪理事 神奈川 荒川淳

 五輪史のスーツのしみを見てしまい 会津若松 やぶ空坊

統一教会の解散命令に向けて歯車が回り始めた。これを止めてはならない。

(2022年10月18日)
 昨日消費者庁に設置された『霊感商法等の悪質商法への対策検討会』が、7回の審議を終えて報告書を発表した。私には意外な印象だが、世人の関心の的となっている統一教会に対する解散命令請求問題に踏み込んだものとなった。
 「旧統一教会については、社会的に看過できない深刻な問題が指摘されているところ、解散命令請求も視野に入れ、宗教法人法第78条の2に基づく報告徴収及び質問の権限を行使する必要がある」という結論。

 さらに意外なことに、同日岸田首相が永岡桂子文科相に、上記の報告に従った「質問権の行使」手続への着手を指示した。こうして、事態は急進展の兆しを見せている。うまく行けば、以下の工程が進展することになる。重かった歯車が回り始めたのだ。

 宗教法人審議会の開催と答申⇒文科省職員の調査⇒文科大臣の解散命令請求⇒裁判所の解散命令⇒法人格剥奪と選任された清算人による財産清算手続

 岸田首相が、この歯車を回し始めた政治責任は重い。途中で翻意することも、失敗することも許されない。

 さて、馴染みの薄い宗教法人法第78条の2である。その第1項を、本件の事例に当て嵌めて書き出してみるとこうなる。

 「文科大臣は、統一教会について、解散命令の要件(「法令に違反して、著しく公共の福祉を害すると明らかに認められる行為をしたこと」「宗教団体の目的を著しく逸脱した行為をしたこと」)に該当する疑いがあると認めるときは、〈統一教会の業務又は事業の管理運営に関する事項に関し〉報告を求め、または担当職員に統一教会の代表役員その他の関係者に対し質問させることができる」。但し、その調査の強制力はない。

 なお、同条の第2項以下も書き出しておこう。
第2項 前項の規定により報告を求めまたは担当職員に質問させようとする場合においては、文科大臣は、あらかじめ宗教法人審議会に諮問してその意見を聞かなければならない。

第3項 前項の場合においては、文科大臣は、報告を求めまたは当該職員に質問させる事項及び理由を宗教法人審議会に示して、その意見を聞かなければならない。

第4項 文科大臣は、第1項の規定により報告を求めまたは担当職員に質問させる場合には、宗教法人の宗教上の特性及び慣習を尊重し、信教の自由を妨げることがないように特に留意しなければならない。

第5項 第1項の規定により質問する担当職員は、その身分を示す証明書を携帯し、統一教会の代表役員その他の関係者に提示しなければならない。

第6項 第1項の規定による権限は、犯罪捜査のために認められたものと解釈してはならない。

 信教の自由に配慮し、軽々に宗教団体に対する不当な弾圧とならないように制度設計ができているのだ。検討会の報告書は、この点をこう言っている。

 「宗教法人法第81条に基づく解散命令については、団体としての存続は許容されるとはいえ、法人格を剥奪するという重い対応であり、信教の自由を保障する観点から、裁判例にみられる同条の趣旨や要件についての考え方も踏まえ、慎重に判断する必要がある。
 また、宗教法人法第78条の2に規定する報告及び質問に関する権限は、解散命令の事由等に該当する疑いがあると認められるときに、宗教法人法の規定に従って行使すべきものとされ、これまで行使した例はない。しかし、これらの消極的な対応には問題があり、運用の改善を図る必要があるとの指摘があった。
 旧統一教会については、旧統一教会を被告とする民事裁判において、旧統一教会自身の組織的な不法行為に基づき損害賠償を認める裁判例が複数積み重なっており、その他これまでに明らかになっている問題を踏まえると、宗教法人法における『法令に違反して、著しく公共の福祉を害すると明らかに認められる行為をした』又は『宗教団体の目的を著しく逸脱した行為をした』宗教法人に該当する疑いがあるので、所轄庁において、解散命令請求も視野に入れ、宗教法人法第78条の2第1項に基づく報告徴収及び質問の権限を行使する必要がある。」

なお、同報告書はこの点に関する高裁判例を引用して次のように解説している。

 「東京高等裁判所決定(1995年12月19日)において、解散命令制度が設けられた理由に関し、『同法が宗教団体に法人格を取得する道を開くときは、これにより法人格を取得した宗教団体が、法人格を利用して取得・集積した財産及びこれを基礎に築いた人的・物的組織等を濫用して、法の定める禁止規範もしくは命令規範に違反し、公共の福祉を害する行為に出る等の犯罪的、反道徳的・反社会的存在に化することがありうるところから、これを防止するための措置及び宗教法人がかかる存在となったときにこれに対処するための措置を設ける必要があるとされ、かかる措置の一つとして、右のような存在となった宗教法人の法人格を剥奪し、その世俗的な財産関係を清算するための制度を設けることが必要不可欠であるとされたからにほかならない』との考え方が示されている。
 あわせて同決定においては、オウム真理教の解散命令に関し、
 ?法人の代表役員等が、法人の人的・物的組織等を用いて行ったものであること、
 ?社会通念に照らして、当該宗教法人の行為といえること、
 ?刑法等の実定法規の定める禁止規範又は命令規範に違反すること、
といった要件を満たす必要があるとの考え方が示されている。」

 解散命令が確定すればどうなるか。宗教法人法49条3項の規定に従い、「文科相の請求により又は裁判所の職権で、清算人を選任」して、清算手続が開始されることになる。

 こうして統一教会の法人格は剥奪され、その財産は清算される。しかし、教義が断罪されることはなく、宗教団体としての存続は可能である。布教活動も制約を受けることはない。しかし、税制上の優遇措置を受ける資格は失う。なによりも、行政と司法から、『法令に違反して、著しく公共の福祉を害すると明らかに認められる行為をした』との烙印を押されることの不利益を甘受せざるを得ない。

 権力の暴走は恐ろしい。憲法20条の理念を承けた宗教法人法は、再びの宗教弾圧の時代を繰り返さぬよう十分な配慮をもって宗教団体を遇している。それでも例外的な措置として宗教法人に対する解散命令の制度を設けざるを得ない。長期間にわたっての統一教会の反人権的・反社会的な行為は、例外的な措置の適用を必然としている。解散命令に向けて回り始めた歯車の回転が止められることにならぬよう多くの目で、監視を続けなければならない。

《NHK文書開示請求訴訟》次回10月26日法廷は、森下俊三の不法行為がテーマ。

(2022年10月17日)

NHK森下俊三経営委員長の不法行為責任を問う
《NHK文書開示請求訴訟》10月26日(水)14時・415号法廷。

 NHKと森下俊三経営委員長の両名を被告として、NHKの報道姿勢と総理大臣任命の経営委員会のあり方を根底から問う《NHK文書開示請求訴訟》。その第5回口頭弁論が、以下の日程で開かれます。
  日時 10月26日(水) 午後2時
  法廷 東京地裁415号

 今回の法廷では、原告主張の第7準備書面の要約を、パワーポイントを使って、弁護士澤藤大河が解説いたします。テーマは、被告森下俊三の不法行為責任にしぼった陳述です。ぜひ傍聴をお願いいたします。

 なお、今回傍聴券の配布はありません。先着順に415号法廷に入廷してください。コロナ対策としての空席確保の措置はありませんので、傍聴席の座席数は十分だと思われます。
 また、閉廷後報告集会を開催いたします。時刻・場所は未定ですが、決まり次第お知らせいたします。こちらにも、ご参加下さい。

 この訴訟は、原告114名の情報公開請求訴訟です。もっとも、行政文書の公開を求める訴訟ではなく、NHKに対して、その最高意思決定機関である経営委員会議事録の開示を求める訴訟です。いい加減に誤魔化した議事録ではなく、手抜きのない完全な議事録と、その文字起こしの元になった録音・録画の生データを開示せよという訴訟になっています。

 問題の議事録は、経営委員会が当時の上田良一会長に「厳重注意」を言い渡したこと、そしてその前後の事情が明記されているものです。なにゆえの「厳重注意」だったか。経営委員会が、NHKの報道番組に介入して、放送を妨害する意図をもっての「会長厳重注意」だったのです。

 NHKの良心的看板番組「クローズアップ現代+」が、「かんぽ(生命)保険不正販売」問題を放映したところ、加害者側の日本郵政がこの番組をけしからんとして、NHKに圧力をかけてきました。経営委員会は、この外部の圧力から番組制作を護らなければならない立場であるにかかかわらず、なんとその正反対のことをしでかしました。当時経営委員会委員長代行だった森下俊三が先頭に立って、日本郵政の上級副社長鈴木康雄らの番組攻撃に呼応して、番組制作現場への圧力を加える『会長厳重注意』を強行したのです。放送の公正を歪める、放送法違反の行為です。

 森下俊三はその後経営委員会委員長となり、さらに再選されて今なお、経営委員会委員長におさまっています。こんな経営委員を選任したのは、あんな内閣総理大臣、安倍晋三でした。大きな責任があります。

 訴訟までされながら、なぜNHKは、原告たちに開示を求められた議事録やデータを出さないのか、あるいは出せないのか。NHK執行部に議事録を出せない理由はありません。むしろ、経営委員から不当な「厳重注意」の処分を受けた会長側とすれば、きちんと議事録を提出してことの曲直を糺して欲しいという希望があるに違いないのです。

 原告たちは、被告NHKに対する文書開示請求権を持っている。その請求権の履行を妨害しているのは、経営委員会委員長の森下俊三なのです。これを、不法行為として、損害賠償を請求しているのです。

 何しろ、NHKという組織では、経営委員会が最高権力者です。NHKの会長を選任することも、クビを切ることもできます。NHKが独自の判断で、経営委員会議事録の開示も非開示もできるはずはありません。お伺いを立てて、経営委員会のご意向次第。何しろ、議事録には経営委員会の放送法違反が書き込まれているのです。

 以上のスジを約10分のパワポにまとめて、ご説明いたします。本来、権力を監視することを本領とするのがジャーナリズムです。権力から独立していなければならない巨大メディアが、こんなにも権力にズブズブなのです。NHKという巨大メディアの政治権力への従属性という問題の本質がよく見える法廷となるはずです。

神は女性に、ヒジャブをかぶれと教えしや。神は、かくも非寛容で残忍なるや。

(2022年10月16日)
 神が人をつくったのではない。人が神を作ったのだ。ところが往々にして、その神が人を支配し、人を不幸に陥れる。場合によっては神が人を殺す。とりわけ、ナショナリズムと結びついた神は狂気を帯びる。ナショナリズムがカルトとなり、そのカルトが国家権力を握るとき悲劇が生じる。かつて、神権天皇制国家がそうであったし、いまテヘランで起きていることも同様だ。

 ちょうど1か月前の9月16日、イランの首都テヘランでヒジャブ(スカーフ)のかぶり方が不適切だとして警察に逮捕されていた22歳の女性、マフサ・アミニさんが急死した。9月13日警察に警棒で頭を殴られ、警察車両に頭を打ち付けられるなどした後意識不明に陥り16日に亡くなったとされる。警察発表は心臓発作が原因だと説明しているが、信じる者はいない。翌17日から、悪名高い「風紀警察」による撲殺だとして抗議するデモがイラン各地に広がった。女性の地位の確立を求める行動でもあり、その背後にある宗教支配への抵抗でもある。

 当局は、これに徹底した弾圧で応じている。権力の正統性の根幹に関わる問題と捉えられているからだ。これは、ときの政権だけでなく、体制維持の問題なのだ。

 国際人権団体アムネスティ・インターナショナルは10月13日、イランの反スカーフデモで治安部隊に殺害されたとして把握している144人のうち、10代の子供が少なくとも23人含まれていたと発表した。うち17人は治安部隊の実弾射撃で死亡したという。アムネスティは「容赦ない残忍な弾圧だ」と非難。子供の犠牲者数は実際はもっと多いとみて、調査を継続する。
 ノルウェー拠点の人権団体「イラン・ヒューマン・ライツ」は12日の報告で、大人も含め少なくとも201人が死亡したとしている。

 この事態は、宗教が人を不幸にしている好例である。かつて、天皇の神聖性を認めない宗教も学説も政治勢力も文学も、非国民・国賊として徹底した弾圧を受けた。いま、ヒジャブ着用強制の是非を巡る論争が、宗教論争を越えて体制選択の問題にもなっている。神の教えを認めないとするイランのデモに、国家が妥協し得ないのだ。政府はデモ参加者を国外の敵対勢力に扇動された者たちだとして、取り締まりの方針を変えていない。

 イランは厳格なイスラム国家といわれる。教えに従って、女性は公共の場でスカーフなどで髪を隠すことが義務づけられている。外国人も例外とされない。保守強硬派のライシ現政権は、その取り締まりを強化している。

 いま、イランの抗議デモに連帯する動きが、トルコからヨーロッパにも広がっているという。そして、抗議のパフォーマンスとしての女性の断髪が続いているという。「長い美しい髪が男性を誘惑するから、ヒジャブで隠せ」というのが、髪の教えらしい。これに、「短髪にすればスカーフはいらない」という抗議なのだという。

 「他国の、あるいは他人の宗教には寛容であれ」「真摯な宗教行為を尊重しなければならない」というのが、宗教と接する際の基本作法である。「宗教上の信念において、ワクチンは打てない」「輸血は拒否する」「剣道の授業は受けられない」という要望は、可能な限り尊重されなければならない。だから、ヒジャブを被る宗教習俗は尊重すべきではあろう。

 しかし、個人の宗教的信念の問題と、国家権力の強制の問題とは厳格に分けて考えなければならない。いま、問題は、権力が宗教を背景に女性を差別し、人権を弾圧している局面である。

 神はそれほどにも非寛容で、デモ隊への発砲も辞さない残酷な存在なのか。人が作った神の恐ろしさをあらためて思う。

国葬での弔意強制も、学校での国旗国歌の強制も、国家主義というカルトのなせる業なのだ。

(2022年10月15日)
 赤旗一面の下段に「潮流」という連載コラムが掲載されている。朝日の「天声人語」や、毎日新聞の「余録」に当たる、赤旗の看板である。

 本日の「潮流」が、「日の丸・君が代」強制問題を取りあげてくれた。なるほど、タイムリーなのだ。

 書き出しはこうである。
 「反対の声が大きく広がるもとで強行された安倍晋三元首相の「国葬」。「弔意」を強制し、憲法が保障する思想・良心の自由を侵害する政府の行為はもう一つの「強制」を思い出させます。教育現場における「日の丸・君が代」の強制です」

 安倍国葬を経て、特定政治家への弔意の強制をあってはならないとする国民的合意が形成されたと言ってよい。では、「日の丸・君が代」への敬意の強制はどうか、というタイムリーな問題提起。

 実は、いずれも個人の価値感に任せられるべき領域の問題なのだ。国家が、国民に特定の価値観を押し付けてはならない。安倍晋三に対する弔意は近親者や政治的立場を同じくする人々には自然なことでも、それ以外の人々には他人事である。飽くまで個人の心情が尊重されるべきで、国家が弔意を表明せよといういう筋合いはない。国旗・国歌(日の丸・君が代)についても同様に、国家は、国民個人の国家観や歴史観に寛容でなければならない。国家中心主義の立場から、愛国心を押し付けたり、国旗・国歌(日の丸・君が代)に敬意を表明すべきことを強制するなど、もってのほかなのだ。

 このことを「潮流」は、「国旗・国歌に対する態度はそれぞれの考えにもとづいて自由に判断するべきなのに、教職員には卒業式・入学式などで起立・斉唱することが強要されています。東京都では起立・斉唱の職務命令に従わなかったなどとして約20年間にのべ約500人が処分されました」と述べている。そのとおりなのだ。

 そして、もう一つタイムリーな出来事を紹介している。「先日、この問題をめぐって強制に反対する市民らが文部科学省と交渉しました。ILO(国際労働機関)とユネスコ(国連教育科学文化機関)が日本政府に出した勧告を実施することを求めたものです」。よくぞ取りあげてくれた。

 「ILOとユネスコの勧告は『起立や斉唱を静かに拒否することは…教員の権利に含まれる』とした上で、卒業式などの『式典に関する規則』について教員団体と対話する機会を設けることを求めています。『国旗掲揚・国歌斉唱に参加したくない教員にも対応できるような』合意をつくることが目的です」

 よくぞ、内容がお分かり。まるで、私が起案したみたい。

「しかし、日本政府は勧告を事実上、無視したままです。市民らとの交渉でも文科省は終始、消極的な姿勢だったといいます。教職員の思想・良心の自由が奪われた学校で、子どもたちが本当の意味で憲法や自由について学べるのか。政府は国際的にも問題が指摘されていることを真摯に受け止めて、直ちに勧告に沿った対応をするべきです」

  さすがによくできた練れた文章。文科大臣にも、東京都知事にも、大阪府知事にも、そして東京都と大阪府の各教育委員にもよく読ませたい。

 ところで、弔意の強制と国旗国歌の強制、カルト(ないしはセクト)をキーワードとすると共通点が見えてくる。

 フランスの反セクト法(2001年)では、「著しい、あるいは繰り返される心理的・身体的圧力、若しくはその判断力を侵害する技術により生じた心理的・身体的な隷属状態」に乗じて、「その無知あるいは脆弱な状態を不当に濫用する行為」が処罰対象とされるという。日本では考えられないところだが。

 この条文だと国旗国歌の強制は、カルトのやることだ。東京都教育委員会も、香港を蹂躙した中国共産党も、反セクト法では犯罪者たりうる。国家主義者が権力を握ると、愛国心の高揚だの、国旗国歌の強制だのをしたくてならないのだ。

 個人よりも国家大事とする倒錯した心理が、愛国主義であり国家主義である。全体主義と言ってもよい。国葬だからとして被葬者への弔意を強制するのも、学校儀式で国旗国歌を強制するのも、国家主義というカルトのなせる業なのだ。

保守心情の感動と涙を誘った菅の弔辞は代筆だった。

(2022年10月14日)
 またまた、安倍国葬ネタが続く。今度は、安っぽい保守派心情に感動を呼んだ「涙の菅弔辞」の化けの皮である。

 香川県の地方紙「四国新聞」に、スシローこと田崎史郎執筆の、コラム「岸田、菅の『話す力』追悼の辞の明暗」が掲載された。10月9日付のこと。このコラムの表題が意味深である。実は、「安倍国葬の追悼の辞をめぐって、岸田文雄、菅義偉両名の『話す力』の格差が話題となっている。その明暗の真相を語ろう」というものなのだ。

 スシローは、「安倍国葬参列者の拍手と感動の涙を誘った友人代表の弔辞」が菅本人のものではなくスピーチライターの筆になるものだったとスッパ抜いている。これまで菅は、いかにも自分で弔辞を書いたかのように振る舞ってきた。スシロー、こんな重要秘密を暴露して、今後の商売に差し支えはないのだろうか。他人事ながら、やや心配せざるをえない。

 コラムの要点は以下のとおりである。
 菅の弔辞には感動の讃辞が送られた一方、岸田の追悼の辞に対する評価は「役人が書いたような文章の棒読み」などさんざんだった。
 「評価はまるで真逆。ところが、である。岸田の追悼の辞も菅のそれも、実はスピーチライターは同一人物だった。」
 「菅は、山縣有朋が、長年の盟友、伊藤博文に先立たれ、故人をしのんで詠んだ歌を引用した。…この歌はライターの原案段階から入っていた。」

 では、「スピーチ原案のライターが同じなのに、評価がなぜ分かれたのか。私は、どれだけ『念』を入れたのかの違いだと思う」

 これ以外に、読むべきところはない。菅の「感動の弔辞」は本人が書いたのではなく、プロ(あるいは官僚)のスピーチライターに代筆を依頼したものだという。残念ながら、そのライターの名前は特定されておらず、電通との関係があるともないとも言ってはいないが、あの「拍手」「感動」「涙」を誘ったのは菅本人の言葉ではなく、他人の文章なのだ。

 「山県の(伊藤を悼む)歌はライターの原案段階から入っていた」ということだから、驚く。プロのライターが、軍国主義の巨魁の歌を引用する無神経さにである。しかも、伊藤は朝鮮植民地化を象徴する人物である。安倍が葛西の葬儀に引用したばかりであることを知らないはずもなかろう。菅は、次からライター替えた方が無難だろう。

 さらに驚くべきは、「岸田と菅の弔辞はどちらも同じスピーチライターが書いたもの」だという事実。どうしてこうなったのか、この辺の裏話は知りたいところ。そして、田崎は、同じライターで評判が真逆に分かれた理由を「どれだけ『念』を入れたのかの違い」だという。田崎の文章は分かりにくい。「念」とは何か、だれの『念」の入れ方がどう違ったのか、さっぱり分からない。

 同じライターの二つの弔辞に対する念の入れ方が違っているというよりは、菅と岸田で、ライターへの依頼の仕方における念の入れ方に差があったという意味であろうか。それにしても、どう違ったのだろうか。

 政治家の形式的な式辞だの弔辞などは官僚が書いた紋切り型の文章を読めば良い。しかし、時には、まるで自分が書いたような上手な文章が求められる。菅にとっては、友人代表の弔辞。そのように起案しなければならないが、自分にそんな能力はない。そこで、代筆のスピーチライターの出番となる。

 ライターは飽くまで黒衣である。聞き手には、あたかも菅本人が書いた文章と思ってもらわねば、拍手も感動も涙も湧いて来ない。そして、いつまでも黒衣は黒衣に徹しなければならず、秘密を破ることは許されない。

 ある日、あれは菅本人の文章ではない。あたかも菅自身が書いたものの如く、念には念を入れて周到につくられたゴーストライターの作文である、と秘密が漏らされたときに、魔法は解ける。拍手も感動も涙も全て、嘘によっていざなわれたこととなって白けるのだ。

 だから疑問に思う。なぜ、政権中枢に取り入ることで、喋るネタを仕入れていたスシローこと田崎が、菅の弔辞の化けの皮を剥がすようなことをしたのだろうか。もう、菅には、次の目はないというシグナルなのだろうか。

あれあれ、「海賊」が「国賊」に謝っちゃだめでしょう。

(2022年10月13日)
 国葬ネタが続く。自民党の、村上誠一郎議員に対する処分のこと。
 村上は、安倍国葬に欠席すると表明した際に、安倍に対する評価としてこう言った。

 「財政、金融、外交をぼろぼろにし、官僚機構まで壊して、旧統一教会に選挙まで手伝わせた。私から言わせれば国賊だ」

 けだし、簡にして要を得た名言である。この名言が「1年間の役職停止処分」の理由となった。「党員たる品位をけがす行為」だというのだ。しかし、解せない。安倍政権下で、財政も金融も外交もぼろぼろになったではないか。安倍が、政治を私物化して健全な官僚機構を壊したことも間違いない。統一教会に選挙まで手伝わせたことも、いま明らかになりつつある。以上は、争いようのない事実ではないか。これをして村上は、安倍を「国賊だ」と評した。私は「国賊」という言葉はキライだが、村上が安倍を指して「国賊だ」と言ったことには、筋の通った十分な理由がある。真実を語ることを押さえてはならない。

 いったいどういうことなのだ。「財政、金融、外交をぼろぼろにし、官僚機構まで壊した国賊」が国葬に祭りあげられ、これを正当に批判した議員に処分である。そりゃオカシイ。石流れ木の葉が沈んではならない。アベが流れ、村上が沈むのは、あべコベではないか。

 党紀委員会の委員長は、安倍一派と気脈を通じる衛藤晟一。委員会終了後、記者団に「『国賊』との発言は極めて非礼な発言で許しがたいものだという意見で一致した」と説明している。「財政、金融、外交をぼろぼろにした」「官僚機構まで壊した」ではなく、「国賊」という表現が、保守派の逆鱗に触れて、「極めて非礼」だというのだ。安倍はといえば、不規則発言で品位を問われた人物。「国賊」が極めて非礼なら、「キョーサントー」「ニッキョーソ」はどうなのだろう。

 この処分、国民にはどう映るだろうか。「自民党って、意外に狭量」「党内の言論の自由というのはこの程度のものか」「多くの意見があっての国民政党ではないのか」「自民党の面々、ホントは安倍に対する冒涜を許したくはないんだ」「国民の6割強が国葬に反対だ。村上が6割強の側で、党紀委員会は3割の側なのに」「自民党がもっと強くなると、言論の自由が危うくなる」…。

 だが一方、村上に失望という向きも多いのではないか。「村上は党紀委員会に、『国賊』発言を撤回して謝罪する―という趣旨の文書を事前に提出していた」。事後には、「発言を撤回し、深くおわび申し上げます。15日の山口県民葬が終わりましたら、速やかにご遺族におわびにお伺いしたい、とも述べた」という。おやおや。

 村上は、海賊(村上水軍)の末裔という出自を誇る人物である。海賊には、山賊・盗賊・蛮族・野盗とは違った反権力・自由のニュアンスがある。18世紀初チャールズ・ジョンソン著の『海賊史』には、海賊のユートピア「リバタリア」が描かれている。ここでは、奴隷制や専制主義などが否定され、自由や平等、民主主義などの価値観が重視されていた。当時、多くの若者が自由と平等を求めて、海賊になったともいう。

 誇り高い海賊の末裔が、国賊なんぞに負けてはならない。処分はやられてもいたしかたないが、謝罪は海賊らしくない。さらに、安倍政治の評価に関する名言の撤回は、いかにももったいない。

 村上の名は、「安倍1強」が強まる中で、保守陣営からの政権批判者として著名であった。
 特定秘密保護法にも、「森友・加計学園問題」でも、安倍批判を重ねて、保守の良心を示してきた。とりわけ、14年の集団的自衛権行使容認の憲法解釈変更や翌15年の安全保障関連法には、反対を明言した。安倍退陣を求めた村上の謝罪は、いささか残念ではある。今後、「転向」などせずに筋を通してもらいたいものと思う。

安倍国葬出席の最高裁長官、不見識ではないか。

(2022年10月12日)
 安倍国葬という奇妙奇天烈な代物については、多方面にわたって問題山積である。今後長期にわたっての徹底的な検討で解明しなければならない。

 私も、問題と思った一点を書き留めておきたい。戸倉三郎最高裁長官が当然のごとく「葬儀」に参列して追悼の辞を述べたことへの違和感である。これを違憲・違法とまでは言いがたいが、どう考えても不見識である。戸倉長官は、内閣からの参列要請を拒否すべきではなかったか。

 もし、長官が司法の独立の観点から安倍国葬参列を拒否し、その理由を記者会見で明示でもしていれば、司法に対する世人の見方を変えることができたであろう。「司法の実態は行政権の一部でしかない」との社会に蔓延している固定観念を覆し、行政権からの、また政権与党からの、司法権の独立をアピールする絶好の機会であったが、無念なるかな、その機を逸した。

 現実には、戸倉長官は、内閣から期待された役割を期待されたとおりに無難にこなした。内閣からも、政権与党からも無難な「番犬」との信頼を篤くしたところであるが、結局は何の問題提起もせず、国民には何の益するところももたらさなかった。

 メディアの一部には、「国葬であるからには、三権の長の列席があって当然」という感覚がある。その感覚の前提として、「最高裁長官とは結局のところ行政官ではないか」「内閣に指名された長官ではないか。内閣の要請を受けて当然」という牢固たる認識がある。

 しかし、日本国憲法の構造上、司法権の真骨頂は、内閣からの独立にある。確かに、最高裁長官は、内閣が指名し天皇が任命する。天皇の任命が形式的なものに過ぎないことは当然として、内閣が指名するから内閣に劣位する存在ではない。毅然として内閣の違憲・違法を糺すべき立場にある。

 今回の安倍国葬は、憲法にも法律にも根拠をもたない。仮に、最高裁が内閣法制局が首相に進言したという法的根拠の屁理屈を是認するとすれば、不見識も甚だしい。国権の最高機関とされる国会の関与もない。このような閣議決定限りの国葬に、内閣の要請で出席することを不見識という。

 「内閣の要請に応えて国葬の形を調えることに協力しても差し支えないのでは」との反論もあるかも知れない。しかし、最高裁は司法権の頂点に立ち、最高裁長官は大法廷の裁判長を務める。裁判体の長でもあるのだ。この国葬の違憲・違法をあらそう訴訟は既に数多く提起されており、これからも提起が予想される。それらの訴訟は最終的に最高裁の判断を仰ぐことになるのだ。

 最高裁長官の公正中立に対する信頼は、行政権と対峙して怯むところがないという全ての裁判官の姿勢から生まれる。最高裁長官が、内閣からの要請で、総理大臣を長く務めたというだけの保守政治家の葬儀に列席することは、憲法の想定するところではなく、国民の期待するところでもない。

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