澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

政府金融政策の一翼を担う日本銀行と、政権批判を本来の使命とするNHK。その基本理念を混同してはならない。

(2023年1月21日)
 毎日新聞一昨日朝刊の「記者の目」欄。「NHK会長人事 視聴者から見えぬ選考過程」というメインタイトル。「ささやかれてきた『首相官邸の関与』」「『透明性』のために多くの事実開示を」という二つの小見出しが付いている。執筆者は屋代尚則記者(東京学芸部)。NHK問題を論じつつ、ジャーナリズムのあり方や、民主主義的な組織論についての問題提起となっている。

 間もなくNHK会長が交替する。前田晃伸現会長が退任して、1月25日付で稲葉延雄新会長の就任となる。新会長は元日本銀行理事で、その後はリコーの取締役会議長だった人物とか。果たして、問題山積のNHKの会長としてふさわしい人なのかどうか。多くの国民の関心の集まるところだが、昨年からNHKや関係者への取材を続けてきた専門記者の目からも「視聴者から見えぬ選考過程」として違和感を抱かざるを得ないという。むしろ「ささやかれてきた『首相官邸の関与』」を嘆いている。これでよかろうはずはない。

 記者の疑義は、端的にこう表現されている。

 「NHKは視聴者の受信料で成り立つ公共放送だ。そのトップを担う人物が、私たちの目が届かない“密室”で決められ、そこに政権の意向が関わっているのではないかという疑念が、私には拭えない。」

 ジャーナリズムの本領は権力からの独立にある。権力におもねらず、権力批判を恐れぬ健全な言論のためには、政権の意向が関わっての会長人事などあってはならない。ところが、記者の目はこう見ている。

 「NHKは、報道機関として政治との適切な『距離』をどう保つかが常に問われる。しかし、会長の人選を巡っては近年、首相官邸の強い関与が指摘されてきた。今回の会長人事を巡っても、ある自民党の国会議員は『官邸が会長人事に関わる動きがあった』と明かし、永田町では、稲葉氏を推す声が岸田文雄首相の周辺から上がったのではとささやかれている」

 だから、会長人事の選考過程の透明性が重要になるのだが、会長選任権を持ち、この人事に責任をもつ立場にある経営委員会委員長の森下俊三は、記者の質問にこう答えるのみだという。

 「『人事に関することは基本的に非公表だ。ただ透明性は求められるので、おおむね過去(の会長人事の際)と同じフォーマットで公表している』というものだった。事前に政治家と話をしたのかという質問にも『人事の話なのでコメントは控える』」

 記者の問題意識は、民主主義の根幹に関わる。「国会議員も、首相も閣僚も、自治体の首長も、私たちの目が届かない“密室”で決められてはならない」。公共放送の会長人事も、同様である。「人事に関することは基本的に非公表」という論理こそが厳しく非難されなければならない。実は、政権肝いりの会長人事をカムフラージュしているだけのことではないか。これでよかろうはずはない。

 このような不透明な選考過程でNHK会長となる稲葉延雄なる人物、昨年12月の記者会見でこう言っているそうだ。

 「中央銀行(日銀)は自主性、独立性が求められる。NHKも不偏不党、公平公正な報道を追求する組織で、NHKが持つ使命には親近感を覚える」

 こりゃダメだ。この人は、報道機関のあり方を日銀と同等のものとしか理解していない。ジャーナリズムの基本理念など頭にないのだ。
 本来彼は、こう言うべきだった。

 「私は長く日銀に勤めて、政府の金融政策の一翼を担ってまいりました。その経歴から、私の基本姿勢が政府寄りで、NHK会長としては不適格ではないかという視聴者や国民の皆様のご疑念はよく理解しております。
 しかし、私は心機一転、民主主義におけるジャーナリズムとは何であるかについて虚心に学び直し、あの会長だからNHKは、政府寄り・政権寄り・権力寄りだと言われることのなきよう、放送を担当する現場の自主性を最大限尊重して、NHKを健全な報道機関とすることに鋭意努力をいたします」
 
 さらに、こう続けたら満点なのだが。
 「私のNHK会長人事打診が、経営委員会からのものではなく、官邸から直接のものであったことは、世に噂されているとおりです。火のないところに煙は立たないのです。しかし、私はけっして官邸に忖度はいたしません。おそらくは、官邸の期待を裏切ることになることでしょう。それが視聴者や国民からのNHKに対する信頼を維持するためにやむを得ないからです」

 なお、日銀法と放送法との差異を指摘しておきたい。

 日銀法第4条(政府との関係) 「日本銀行は、その行う通貨及び金融の調節が経済政策の一環をなすものであることを踏まえ、それが政府の経済政策の基本方針と整合的なものとなるよう、常に政府と連絡を密にし、十分な意思疎通を図らなければならない

 当然といえば当然なのだが、日銀とは、「政府の経済政策の一環をなす」存在である。それゆえ、その活動は「政府の基本方針と整合的なもの」であることが求められ、「常に政府と連絡を密にし、十分な意思疎通を図らなければならない」と縛られているのである。政府からの独立はおこがましい。

 NHKは、他の民放と同様、第1条2号・3号で、こう目的を定められている。
「放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによつて、放送による表現の自由を確保すること」「放送に携わる者の職責を明らかにすることによつて、放送が健全な民主主義の発達に資するようにすること」
 
 仮に、日銀のごとくに、「政府の基本方針と整合的なもの」「常に政府と連絡を密にし、十分な意思疎通を図る」とすれば、報道機関の使命の死以外のなにものでもない。

東電刑事事件での高裁無罪判決に拭えない違和感の正体

(2023年1月20日)
 一昨日、東京高裁(細田啓介裁判長)は、東京電力の元幹部、勝俣恒久・武黒一郎・武藤栄の3被告人に、一審に続いての無罪判決を言い渡した。が、なんとも釈然としない。どうしても、ざらついた違和感を拭えない。

 この事件、東電福島第一原発事故に伴う住民の被害に関して、業務上過失致死傷罪で強制起訴されたもの。当初、検察官の処分としては不起訴だった。が、告発した市民が納得できないとして検察審査会への審査を申立てて起訴相当の議決となり、さらに起訴議決があって、強制起訴となった。

 11人の検察審査委員のうち、少なくとも8名以上(全員だった可能性もある)が、2度にわたって、「起訴すべし」と判断したのだ。予想される巨大津波に対して、なすべき対策を怠って、避難を強いられた入院患者らを死亡に至らせた。その責任は問われるべし、というのが市民の結論である。

 一審以来の争点は二つ。「予見可能性」と「結果回避可能性」である。予見可能性とは、「本件事故の原因となった巨大津波の発生は予見できた」ということであり、結果回避可能性とは、「取るべき対策をとっていれば原発事故は防げた」ということである。いずれの「可能性」の認定も微妙な判断とならざるを得ない。そして、通常の刑事訴訟の原則のとおりに、立証責任は検察官役を務める指定弁護士の側が負うことになる。

 具体的に問題とされたのは、2002年に国が公表した地震予測「長期評価」と、長期評価に基づいて東電子会社が2008年に算出した「最大15・7メートル」の津波予測の信頼性だった。このような事前予測ができていたのだから、当然に「予見は可能」であり、これに基づく対策を取れば「結果回避も可能」だったと考えて少しもおかしくはない。

 ところが、判決は、「10メートルを超える津波が襲来する現実的な情報だったとは言えず、その具体的な根拠についての証明は不十分」と、「予見可能性」と「結果回避可能性」を否定し、一審の無罪判決を不服とした指定弁護士の控訴を棄却した。果たして、これでよいのだろうか。

 通例、人権の重みを論じる立場からは、刑事事件における無罪判決を刑事司法の健全性の証しとして歓迎する。だが、この判決は同列に論じられない。

 現代の刑事司法手続の大原則は、《疑わしきは被告人の利益に》というものである。犯罪の立証のために、訴追側には圧倒的な力量が与えられている。合理的な疑いを容れる余地のない程度にまで犯罪の立証ができなければ、無罪の推定が働く。

 しかし、その刑事司法の大原則は、飽くまで訴追者である警察・検察の力量と意欲を前提としてのものというべきであろう。さらには、被告人として想定されているのは、権力と対峙する個人である。権力を担う人々や、権力と一体となった人物を想定するものではない。

 本件では、指定弁護士の献身的な活動があったが、その活動の力量には自ずから限界がある。検察官が警察を指揮して、また検察庁を挙げての証拠収集能力があることに比較すればその劣位は明白と言わねばならない。

 また、強制起訴された被告人3名は、国策を担っての原発運転者でもある。限りなく権力に近い立場と言ってよい。《疑わしきは被告人の利益に》という現代刑事司法手続の大原則を適用することにためらいがあり、無罪の結論に疑義が晴れないのだ。

 問題の「長期評価」は、国の機関である地震調査研究推進本部がまとめたものである。これに基づいての08年津波予測は「最大15・7メートル」というものであった。これを採用して、予見可能性を肯定しても、少しもおかしくはない。

 ところが、判決は、「長期評価」の信頼性を否定し、「影響が大きな運転停止を義務づけるほどの予見可能性はなかった」「(原発の敷地の高さの)10メートルを超える津波襲来を現実的な可能性として認識させるような情報ではなかった」と結論づけた。その前書きに「誤差を含む」「利用には留意が必要」などとある。東日本大震災が起きた領域の地震発生確率などは信頼度が「やや低い」とされていた。国の中央防災会議の報告などにも採り入れられなかった。などと指摘して信頼性を否定した。併せて、念を入れて結果回避可能性も否定している。

 刑事被告人の人権は、権力作用と直接に対峙するものとして疎かにはできない。刑事司法の諸原則は厳格に守られねばならない。しかし、刑事司法の諸原則が当然の前提としている諸条件が調っているとは必ずしも言いがたい本件においてまで、その大原則を、通常の事件にも増して厳格に貫こうとする裁判所の姿勢に違和感を持たざるを得ない。被害者から上がった「不当判決」「悔しい」という声にこそ、十分に耳を傾けたい。

「今年訪れるべき世界の52カ所」― その第2位に盛岡

(2023年1月19日)
 本日は憲法も人権も民主主義も無関係。私の故郷の話題である。「それがどうした?」と言われれば、「いえ、どうもしません。つまらぬ話題で済みません」と謝るしかない。

 あのニューヨークタイムズが、毎年の年頭に独自の情報を集め独自の基準で旅行先を紹介しているのだそうだ。今年も、1月12日に「2023年に行くべき(世界の)52カ所」を発表した。そのトップは、イギリスの首都ロンドン。世界に知られた大都会、歴史に溢れた街でもある。これには驚かない。さもありなんと思わせる。

 これに続く第2位が、なんと盛岡だという。私の故郷だ。これは驚くべきことではないだろうか。東京・大阪ではない。奈良・京都・鎌倉でもない。札幌・小樽・函館でも、倉敷・津和野・日田でもなく、那覇・金澤・静岡でもない。いったい、どうして盛岡なのだろうか。
 
 盛岡、けっして印象深く目立った街ではない。NHKラジオで全国の天気予報を聞いていると、仙台の次は秋田に飛び、その次は札幌となる。土地の人のプライドは高いが、全国では認めてもらえない。東北では、仙台以外は、なべて「その他」の街でしかない。

 盛岡市が選ばれた理由の第一は、「大正時代に建てられた和洋折衷建築や、現代的なホテルのほか伝統的な旅館もある。城跡も公園になっていて、歩いて楽しめる街」との評価だという。なんという薄弱な世界第2位の根拠。これなら、仙台も、会津若松も、山形も、二本松も、みんな2位ではないか。

 もっとも、推薦理由はそれにとどまらず、東京から新幹線で数時間で行ける便利さや、山に囲まれ川が流れる風景を紹介し「混雑を避けて歩いて楽しめる美しい場所」「完全に見落とされてきた街」と、盛岡を再評価する内容になっているともいう。そうか、「完全に見落とされてきた街の魅力」なのか。やや複雑な評価。褒められているのやら貶されているのやら。

 さらに、名物の「わんこそば」やコーヒー豆にこだわった喫茶店など、食についても紹介されているという。結局はその程度なのだ。その程度なのだが、訪れた人に、文章にはしにくい他にない魅力を感じさせるものなのだと理解しておきたい。

 52都市の中には、19番目に福岡市が選ばれているという。「焼き鳥やラーメンだけでなくワインやコーヒーなども屋台で楽しめる」と博多の中洲を紹介しているとか。これも、大した推薦理由とは思えないが、博多も魅力的な街である。どうして、2位と19位かは分からない。定量的評価は難しいのだ。

 ニューヨークタイムズのホームページには、秋の紅葉の時期に盛岡城跡公園で撮影したと見られる動画が掲載されている。これを「人混みを避けて歩いて楽しめる美しい場所」と言われれば、まったくその通りである。世界で何番目かは問題ではない。

 この山に囲まれ川が流れる美しい穏やかな街の風景は、乱開発から守られなければ維持できない。また、ここに住む人々の生業の持続なくしては維持できない。人々の文化的営みなくしては訪れる旅人を楽しませる街の空気の醸成もあり得ない。

 人々の経済活動と、環境の保護と、住民自治と…。やっぱり、こんな話題にも、人権や民主主義が関わらざるを得ないようだ。

 それにしても、盛岡の5月は、生命の息吹にあふれた地上の天国である。いや、盛岡に限らない。東北のすべてがそうだろう。いや、そう言えば秋も捨てがたい。

 汽車の窓 はるかに北にふるさとの山見え来れば 襟を正すも(啄木)

 方十里 稗貫のみかも稲熟れて み祭三日 そらはれわたる(賢治)

日本学術会議の独立性を堅持しなければならない。

(2023年1月18日)
 来週の月曜日、1月23日に開会が迫った通常国会。その論議の最大のテーマは、安保改定3文書に表れた安全保障戦略の大転換である。これを許すのか否かが、日本の命運に関わる。そして、これに関連する学術会議法改正案にも注目せざるをえない。

 安倍・菅や、それを支える右翼陣営が、日本学術会議を攻撃する真の理由は、同会議が《日本の「軍事・防衛研究」に反対してきた》という点にある。政府は、学術会議の独立性を剥奪して政府の方針を注入し、科学技術の軍事転用を図りたいのだ。さらに本音を言えば、大学の自治も、メディアの自由も、日弁連の在野性も認めたくはない。すべてを政府・与党の方針が貫く日本にしたい。そうすれば、大軍拡も防衛産業の育成も思うがまま。日本の大国化が実現できる。北朝鮮や中国が、羨ましくてしょうがない。だから、安全保障戦略の大転換と関わりが出てくるのだ。

 日本学術会議の会員は250人。3年ごとに半数が改選されるが、菅政権発足以前その人選に政府が介入することはなかった。「学問の自由」(憲法23条)は、「学術団体の自治・独立の保障」をも意味するものと理解され、政府の任命が形式なものであることは当然と理解されていた。「政府は、金は出すがけっして口は出さない」というお約束なのだ。

 これを乱暴に蹂躙したのが、安倍晋三亜流・菅義偉前首相の初仕事だった。長年の慣行を破って、政府が快しとしない研究者6名の任命を拒否したのだ。後世の歴史書には、学問の自由に対する悪辣な弾圧者としてだけ、菅義偉の名が遺ることになるだろう。

 政府は、この任命拒否に続いて、学術会議の独立性を剥奪しようと追い打ちの算段を重ねて、大きな世論の反撃を受けることとなった。3年間のせめぎ合いを続けた末の改正法案は、新規会員の選考過程をチェックする第三者委員会新設を盛り込む内容となっている。

 日本学術会議はこれを深刻に受けとめ、昨年暮れ12月21日の総会で、法改正を目指す政府方針に「学術会議の独立性に照らして疑義があり、存在意義の根幹に関わる」として再考を求める声明を出している。

 今、この問題での担当大臣は、後藤茂之(経済再生担当相)。この人が、1月13日閣議後の記者会見で、下記のように発言して、科学技術の軍事転用を視野に入れた改正案ではないことを強調した。

 「(改正法案は)学術会議の独立性はこれまで同様に保つ。会員選考には基本的に現行方式が続く」「会員以外の有識者からなる第三者委員会を学術会議に設置するが、第三者委員会の委員は一定の手続きを経て会長が任命するものと考えている」「会員などの候補者を最終的に決定するというのも学術会議であることを今検討している法案で想定している」「基本的に現行方式が続き、その手続きを第三者委が透明化して国民に示すということだ」「学術会議の活動に政府が口を出すことは全く想定していない」「軍事研究にシフトするために、第三者委員会で学術会議の独立性に手を入れるという趣旨は全くない」

 これに、今度は右翼が噛みついた。産経新聞社が発行する「夕刊フジ」の公式サイトが「zakzak」。その昨日の記事が、「第三者委メンバーを会議が任命!? 日本学術会議?大甘?改革案 岸田政権が提出検討 虫のいい話『お手盛り調査になるのは明白』島田洋一氏」というタイトル。記事を読まなくても、内容はあらかた分かる。島田洋一(福井県立大学教授)とは、こういうときに引っ張り出される、常連の右翼。櫻井よしこらとのお友達。

 zakzakの記事中の「学術会議に対しては、年間約10億円もの血税が投入されながら…」という一節にあらためて驚く。何ということだ。日本の学問の殿堂に、「年間わずか10億円」という情けなさ、恥ずかしさ。あの、天下の愚策・アベノマスクの予算措置が466億円だった。違憲の疑い濃い政党助成金が年間315億円。日本がアメリカから売り付けられた戦闘機F35Aの価格は、1機100億円をはるかに超えている。

 同記事は、おしまいに島田洋一のコメントを引用する。
 「『税金はよこせ、人事は自分たちにやらせろ』という虫のいい話は社会では通用しない。自分たち独自で政府から離れて独立性を確保すればいい」

 この俗論、俗耳に入り易いのだろう、繰り返されている。名古屋市長・河村たかしが、あいちトリエンナーレに粗暴な介入をしたときにも同様のことを言っていた。「税金を使って、天皇陛下の肖像画をバーナーで燃やして足で踏みつけるという展示をやっていいのか」。

 同種の理屈はいくつも展開されている。「国立大学は国家の税金で運用されているのだから、国旗を掲揚し国歌を斉唱するのが当然」「教育公務員は税金を支給されているいるのだから、教育の理想を求めるなどと言ってはならない。教育行政の命じるとおりの教育方針に従え」。

 これを放置しておくと、こんなことまで言いかねない。
 「裁判官は国から支給される税金で喰っているのだから、国が当事者となる訴訟では、国を敗訴させてはいけない」

 公費の支給は、近視眼的な国家の利益のためにのみなされるものではない。国益を越えた、学問・科学・文化・芸術のために支出されてよいのだ。そのことによって、国民の精神生活や社会性が多様で豊かになるからだ。むしろ、学問や学術会議を時の政権の都合で縛ってはならない。

 民主主義社会では、政府が自らの政策を批判する団体にも、公費を支出する寛容さが求められる。『金は出す、口は出さない』は、「虫のいい話」ではなく、そのことを通じて政府は自らの姿勢の検証を可能としているのだ。

「侵略者」と「被侵略者」、「加害行為」と「防御行為」との区別を曖昧にしてはならない。

(2023年1月17日)
 鈴木宗男という政治家がいる。中川一郎の秘書から自民党の議員となり、今は、維新に所属している。親露派として知られる人だが、むしろ、親プーチン派というべきだろう。彼の1月6日ブログが、その親露・親プーチンと、反ウクライナの姿勢を世に発信して話題となった。

 「プーチン大統領が日本時間6日、18時から36時間の停戦を国防軍に命令している。
 ロシア正教のクリスマスは1月7日である。祈りの時間を与えようと考えるプーチン大統領は、いかなる状況であっても失ってはならない人としての心が感じられる。一方、ウクライナ側はこの停戦を評価するどころか『偽善は自分の中に留めておけ』と極めて強い口調で批判しているが、闇雲に批判するゼレンスキー大統領の頭づくりはどうなっているのだろうかと首を傾げざるを得ない
 ウクライナにも熱心なロシア正教の方が沢山いるので、プーチン大統領は配慮しての36時間停戦を発表したと私は受け止めている。
 そもそも論だが、ウクライナは自前では戦えない国で、アメリカ、イギリスから武器や資金援助を受けてかろうじて戦っているのではないか。
 自分の力で戦えない国がどうして大きなことを言えるのか。その感覚がウクライナ問題の根源である。冷静に大局観を持って対応すべきではないか。
プーチン大統領の新年のお年玉とも言うべき『停戦』を、G7、G20の首脳は重く受け止め、停戦を実現してほしいものである」

 分かり易い文章。鈴木の国防観、国際感覚、そして「冷静な大局観」がよく表れている。もっとも、この人の一方的な親プーチン姿勢には、「頭づくりはどうなっているのだろうかと首を傾げざるを得ない」。

 この人の最新のブログが、また、なかなかのもの。昨日付けの「ムネオ日記」にこうある。こちらは、けっして分かり易くはない。

 「ウクライナ紛争の報道で、ロシアが攻撃しウクライナ人が何人亡くなったというニュースは出るが、ウクライナの攻撃によりロシア兵、ロシア人が何人死んだというニュースは出ない。」
 (最初は誤読した。鈴木宗男もロシアの戦況に関する報道統制を批判したのかと思ったのだが、どうやらそうではない。報道機関の不公正を非難する主旨のようなのだ。しかし、ロシアの当局が正確な情報を出さないのだから、「ロシア兵、ロシア人が何人死んだというニュースが出る」わけはない。もっとも、1月1日のウクライナ東部占領地域でのロシア軍臨時兵舎攻撃での被害を89人のロシア動員兵が死亡したと認めた。これが、事情あっての異例なこととと伝えられている)

 「メディアは公平とか公正を旨としてと、よく使うがウクライナ問題に関しては圧倒的にウクライナの報道量が多いと感じる」
(この一文には怒りを抑えがたい。加害者と被害者の間の「公平・公正」とは、いったいどうあるべきと考えているのか。ロシアの軍隊が国境を越えてウクライナに攻め込んで、ウクライナの人々の生活の場を悲惨な戦場にしたのだ。死亡者も負傷者も、破壊された建物も公共施設もインフラも、被害のすべてがウクライナのもので、ロシアのものではない。ロシアには民間人の犠牲者はない。報道量に絶対差があって当然ではないか)

 「こうした流れに視聴者も段々引きずられ、ウクライナに同情が寄る面が出てくるのではないか。」
(断じてそうではない。人々を、反ロシア・反プーチンとしているのは、侵略者に対する憎しみである。親ウクライナの心情は、被侵略者への同情である。侵略者側と被侵略者側、この立場の違いの大きな落差がロシアとウクライナに対する感情を分けている)

 「それぞれ世界でたった一つの命である。命を守るためには『停戦』しかない。 メディアから『停戦すべきだ』という発言がないことは残念である。15日のワシントンにおける岸田総理の記者会見でも停戦に向けての言及はなかった」
(人の命が大切なことは言うまでもない。その命を奪っている犯罪国がロシアであり、その首魁がプーチンではないか。昨年2月24日のウクライナ侵攻の前史として両国間にどんな経緯があったにせよ、戦車で国境を越えたプーチンの罪業は消せない。鈴木宗男も、プーチンに対して、潔くその罪を認めた上で停戦に応じるよう、強く進言すべきではないか)

 「『核なき世界』という前に、先ずは『停戦』と思うのだが…」
(最後は、意味不明の一文。しかし、ここにも核による反撃をチラつかせるプーチンの罪を薄めようとの意図が感じられる。停戦はあってしかるべきだが、加害者と被害者の区別を曖昧にしてはならない)

岸田文雄の得意と失意。

(2023年1月16日)
 どうです、わたくし岸田文雄の働きぶり。我ながらホレボレというところ。ときどき自分の才能にニンマリですよ。あのアベさんもできなかった、大軍拡・大増税。事実上、易々とやっちゃった。

 憲法改正はね、自民党結党以来の党是ですよ。「党是」って、「悲願」とか「宿願」っていうこと。明文改憲には、だれも手を付けられなかった。岸信介、中曽根康弘、安倍晋三も、憲法の一字も変えていない。でも、私・岸田が、事実上憲法ぶっ壊しましたものね。大したもんでしょう。

 だから、アメリカ大統領も、私のことをベタ褒めですよ。日本時間での月月14日、バイデン大統領と会いました。皆さん、テレビ見たでしょう。ホワイトハウスの南正面玄関で、アメリカ大統領が私を出迎えたんですよ。「あなたは真のリーダーであり、真の友人だ」とまで言ってくれた。異例の厚遇って話題沸騰ですよ。本当に、私、歓迎されたんだ。多少は、舞い上がってもよいでしょう。もちろん、アメリカの旧式武器を買ってくれるマヌケなお客さんだからって、やっかむ人もいるけどね。

 「岸田は宏池会なんだから、ハト派のはずじゃなかったのか」って。そりゃ、何度も言われますよ。「ハトの卵からタカが生まれた」とか、「ウリの蔓にトリカブトが成った」なんて悪口も。ぜんぜん気にしちゃいませんよ。すべては結果次第でね。

 私は、ハトのフリをしていたわけじゃない。みんなが勝手にそう思い込んでいたというだけのこと。タカの本性丸出しの安倍さんじゃ、みんな警戒したでしょう。でも、「特技は人の言うことをよく聞くこと」なんていう私は警戒されない。なんだ、結局「アメリカと財界と右翼勢力の言うことにしか聞く耳もたなかったのか」なんて気が付いたときには、時既に遅しという次第。本当に、私は有能なんだ。

 何がコツかって? ひとつは、国会論議を避けること。そして、国民を煽ることだね。国民に恐怖を植え付けて、これに火を付けること。中国は恐い。ロシアも恐いぞ。北朝鮮はもっと恐い。恐い相手は、ある日突然何をしてくるか分からない。そのときに備えて、敵基地攻撃能力を備えておかなくてはならない。恐くて悪い敵国も、日本が敵基地攻撃能力を備えていると分かれば、報復を恐れておいそれと日本を攻撃しなくなる。平和が保たれる。これが抑止力。アメリカと一体になれば、もっともっと大きな抑止力ができる。

 抑止力って、戦争を防ぐためのチカラ。これあればこそ、恐くて悪い敵国も、軽々に日本への侵略をすることはない。もちろん、抑止力って軍備のこと。軍備を強くすればするほど、大きくすればするほど、抑止力も高まる。つまり、軍隊を増員し兵器を買い込んで、軍備を拡大し増大すればするほど、平和が来る。なんだか変だって? そんなことはない。平和とは、勝ち取るもの。勝ち取るためには闘わねばならない。闘いには武器が要る。軍備を拡大すればするほど、平和になるわけさ。

 その点、日米首脳に意見の齟齬はない。大統領は私の訪米を歓迎し、両首脳間のパートナーシップ、そして日米同盟はかつてなく強固であると言った。私も返答した。日米両国が近年で最も厳しく複雑な安全保障環境に直面している中、我が国として、昨年12月に発表した新たな国家安全保障戦略等に基づき、反撃能力の保有を含む防衛力の抜本的強化及び防衛予算の相当な増額を行っていくってね。大統領は喜んでくれた。もう、これで、実際戦争になっても大丈夫さ。

 とは言え、いつまでも国会論議を避けているわけには行かない。もうすぐ、通常国会が始まる。気分は良くないね。予算はすんなり通らないのじゃないかな。なにより、ぶち上げた大軍拡には、大増税が必要だ。国民がすんなり受け容れるはずはない。これ以上の支持率低下はやっぱり恐い。

 それにしても、大軍拡はアメリカからは大歓迎だ。「あなたは真の友人」「あなたこそ真の指導者」と手放しだった。公費を使っての外遊はいい心持ち。お土産だって全部税金だものね。いつまでも外遊していたかった。どうして、同じ大軍拡が、国内では評判悪いのだろう。軍拡すればするほど平和が保障されるっていうのに…。

政治家井上義行曰く ― 「私は全く同情しません」「大根1本で1週間暮らせる」「甘ったれるな」

(2023年1月15日)
 参議院議員・井上義行と言えば、安倍晋三側近として知られた政治家。昨年7月10日の参院選で、安倍晋三がとりまとめた統一教会信者票によって当選した国会議員である。

 井上義行当選後に、世論は統一教会批判一色となった。当然に、統一教会との癒着の深かった自民党・清和会への風当たりも強い。その渦中の井上が、朝日新聞の単独インタビューに応じた。思惑あってのことではあろうが、安倍後継勢力の心情を吐露して興味深い。

インタビュー報道の標題は、「旧統一教会の支援受けた自民・井上氏 山上容疑者へ『甘ったれるな』」というもの。朝日新聞デジタル1月11日19時の記事である。

 「事件の一報をどう知りましたか」という問で始まる前半部分は、紹介にも批判にも値しない。後半をご紹介して、私の感想を添えておきたい。

 ――容疑者は犯行動機として、旧統一教会への恨みから「深い関わりがあった安倍氏を狙った」と供述したとされます

 最初は、政治信条が合わないアンチ安倍さんの人物の犯行なのかと思いました。宗教団体とか、ましてや旧統一教会の存在が犯行動機になっているとは、みじんも考えませんでした。ただ、どんな理由でも人を殺すことは許されません。私の認識ではテロ行為だと思っています。
 容疑者は絶対的加害者で、安倍さんは被害者なのになぜ安倍さんが統一教会と近かったと報道され、容疑者が気の毒だったみたいな風潮になるのか。そこに腹立たしさを感じています。
(「容疑者は絶対的加害者で、安倍さんは被害者」との認識が、社会とズレている。「山上は安倍晋三殺害に関しては加害者だが、その生育歴においては統一教会による虐待被害者であり、安倍晋三と自民党もこのこの虐待に加担している。また、「なぜ安倍さんが統一教会と近かったと報道され、容疑者が気の毒だったみたいな風潮になるのか」と言えば、「安倍さんが統一教会と近かった」ことも、「山上が気の毒だった」ことも、安倍陣営には如何に「腹立たしさを感じた」としても、真実だからである)

 ――母親による教団への高額献金で苦しんだと供述したとされることについてはどう思われますか

 容疑者が言ったことをうのみにするって、テロリストの思うつぼじゃないでしょうか。まだ容疑者の供述は報道ベースで一部分に過ぎません。そもそも、教団を憎んでいたのに安倍さんを狙う動機にも矛盾を感じています。捜査当局が意図的に都合の良い情報を流している可能性さえあると思っています。
 その上で、報道ベースの供述を信用していません。別の勢力によるテロの可能性だって十分にあり得るはずです。まずは裁判で本人の口から語られる動機を聞きたいと思います。
(なるほど、人は自分に不都合なことを信じない。あるいは、自分の信じたいようにしかものごとを理解しない。山上の報道ベースの供述は、陰謀論の類いだというのだ。さすがに、安倍晋三側近である)

 ――事件が起きてから、教団から選挙支援を受けていたことはまずいと思いませんでしたか

 特に何も思いませんでした。選挙中に関わった教団側の人たちは皆優しかったです。必ず集合時間の30分前に集まり、まじめでもありました。容疑者が語る教団像と私が目の当たりにした教団像は違って見えました。
(この人には、まったく何の反省も悔恨もない。そして、今なお、統一教会と立場が同じなのだ。今に至ってなお、統一教会と手を切ろうという意思は毫もない。岸田自民党執行部はこれを放置しておいてよいのか)

 ――安倍氏が教団票を差配し、参院選ではあなたへの支援を指示したという指摘もあります
 
 教団票について、私から安倍さんにお願いしたことも、安倍さんから聞いたこともありません。安倍さんが教団票を巡って、どのような動きをしていたのか、教団との関係がどうだったのかはわかりません。
(これを発言の通りに信用する人はまずあるまい。保守の政治家が、自分のボスの票のまとめ方に無関心であるはずはない。井上君、ウソをついてはいけない。キミの7代先に祟ることになる)

 ――安倍氏が亡くなった背景に、あなたが参院選で支援を受けた教団があった可能性を考えたことはありませんか

 その質問自体が容疑者の供述を元にしていると思います。
(その回答自体が問題に向き合わない逃げの姿勢を意味している。警察が、安倍晋三を擁護する方向でのリークをすることはあり得ても、敢えて安倍批判につながる捏造リークをすることはあり得ない。このことは、井上の知悉するところであるはず) 

 たとえ、容疑者がそう言っていたとしても、私は全く同情しません。私は大根1本で1週間暮らしてきた経験があります。40歳にもなって、親の財産のことで苦しむなんて、甘ったれるなと思います。
(「私は全く同情しません」は、政治家として失格ではないか。せめて、「だからと言って、人を殺してはなりません」と言うべきだろう。その上で、山上の不幸を繰り返さない手立てについて語らねばならない。なお、「40歳にもなって、親の財産のことで苦しむなんて、甘ったれるな」は、加害者側を擁護したい一心でのトンチンカン。この人、貧しい人、弱い人、苦しんでいる人、差別されている人に、常にこう言っているのだろう。「私は全く同情しません」「大根1本で1週間暮らしていける」「甘ったれるな」と)

 ――事件後に明るみに出た教団が抱える献金問題や2世問題についてはどう感じていますか

 2世問題や献金問題というのは教団だけの話ではなくて宗教全般に関わる話なので、私としてはコメントを差し控えたい。
(逃げてはいけない。「教団が抱える献金問題や2世問題について」、あなたは逃げられない立場にある。あなたに投票したすべての人に対する責任という見地からも、安倍政権を支えてきた保守陣営に対する責任としても、あなたは明確に述べなくてはならない。たとえ、その回答が「私は、統一教会と同意見です」「信教の自由を尊重すべきであって、信仰による高額献金規制はあってはならない」「2世だって、自分自身の意思で信仰を選び取っているはず」でもよい。その回答を是とするか否とするかは、有権者に任せればよい。何も言わずに、黙り込むのは卑怯千万、民主主義社会における政治家の態度ではない)

少なくとも、私は教団の教義についてどのように教えられ、どのように運用されてきたかは知らずに、家族の問題や反共産主義など共通のところで共闘していたので、教団そのものに着目している報道とは大きく認識が違っていると思います。
(こう言う弁解をするようでは政治家失格だ。「私は教団の教義についてどのように教えられ、どのように運用されてきたかは知ら(なかった)」ことが本当なら、無責任極まる。訳の分からぬ怪しげな団体から票をとりまとめてもらって当選したその不明を恥じなければならない。即刻、議員を辞職すべきではないか)

山上徹也起訴 ー 「暴力は許されぬ」か、「背景を徹底解明せよ」か。

(2023年1月14日)
 昨日、奈良地検は安倍晋三殺人の被疑者・山上徹也を起訴した。起訴罪名は、殺人とその手段としての銃刀法違反。報道の限りでは、銃撃の事実と責任能力の存在に問題はないと思われるので、審理の争点は自ずから犯行の動機に収斂することになる。動機とは、「背景事情」と置き換えてもよい。
 
 当然のことながら、被告人・山上徹也は、その殺人と銃刀法違反の犯罪行為に責めを負わねばならない。相応の刑罰を受けねばならないということだ。同時に、法廷は被告人の犯行に至る動機を十分に解明し、情状として酌むべき諸点を見落としてはならない。それなくして適正な量刑はあり得ないのだから。その審理を通じて、自ずから、統一教会の反社会性と、その統一教会と安倍晋三や自民党との癒着の実態が明らかにされることになろう。この点については弁護人の活動のみならず、公益の代表者としての検察官の姿勢にも期待したい。

 産経を除く本日の各紙朝刊が、この件について社説を掲載している。いずれも、《刑事責任の明確化》と《背景事情の解明》の両者に触れつつも、その軽重のバランスの取り方に温度差が見受けられる。より正確に言えば、前者に重点を置いている讀賣社説の立場が際立っている。同紙の治安重視の姿勢の表れと言ってよいのだろう。

 産経を除く5紙の各社説の標題を並べてみるだけでよく分かる。

 朝日 銃撃事件と社会 暗部の検証 ここからだ
 毎日 安倍氏銃撃 裁判へ 背景の徹底解明が必要だ
 東京 安倍氏銃撃起訴 法廷外でも背景に迫れ
 日経 安倍氏銃撃が日本社会に及ぼした衝撃
 読売 安倍氏銃撃起訴 どんな理由でも暴力許されぬ

 朝日・毎日・東京の3紙が「背景の徹底解明が必要」と強調している。「背景」とは、端的に言えば反社会的『宗教団体』と政権与党との癒着の実態ということである。東京新聞に至っては、「法廷外でも背景に迫れ」と気迫十分である。読売だけが、過度に「どんな理由でも暴力許されぬ」ことを強調している。そして、日経は「衝撃の深さ」を語る以外には内容はない。

 まずは、朝日である。「どんな理由があろうとも、許されない犯行だ。問答無用の暴力は、言論を積み重ねて形作るべき民主社会にとって最大の敵である。」とは言う。しかし、「(山上が語っている)動機から凶行へ至ったとすれば、その前に、孤立を深めさせぬ手立てや機会が社会の側になかったか。裁判を通じて、「心の闇」を生んだ環境と背景を解き明かし、検証を続ける必要がある」という。

 そしてまた、「いわゆる『宗教2世』問題の本質は、社会通念と相いれない活動を続ける教団に誘い込まれた親のもとで育った場合、自らの意思で信仰を選んだわけではないのに、人生を大きくゆがめられてしまう点にある」とも言う。

 さらに、最後をこう締めくくっている。「事件の背景には、自民党と旧統一教会の半世紀に及ぶ蜜月関係が横たわる。教団の問題を放置してきたばかりか、選挙協力を求め関係を深めた政治家もいる。民主政治の根幹にかかわる問題だ。春の統一地方選では、首長や議員の候補と教団との関係が厳しく問われる。この暗部を徹底的に解明・清算しなければ、国民の不信は拭えない。」

 次いで、「毎日社説」も、「いかなる事情があっても、人命を奪うことは許されない」とは言う。その上で、「ただ、銃撃に至った経緯は、詳細に明らかにされなければならない。安倍氏と教団の関わりも焦点となる」と述べている。また、「裁判とは別に、政治の取り組みも欠かせない。安倍氏と教団の関わりについて、岸田文雄首相は調査を拒んでいる。しかし、安倍氏が国政選挙で、教団の組織票を差配していたとの証言がある。自民党が教団と関係を持つようになったのは、安倍氏の祖父・岸信介元首相にさかのぼる。清和会(現安倍派)を中心に半世紀にわたって続いてきた。自民党も背景の解明に努めるべきだ」と、自民党に辛口である。

 東京新聞<社説>は、さらに厳しい。「事件後、世論は揺れた。理由はどうあれ殺人は許されず、厳罰に処すべきだという正論の一方、被告の生い立ちなどから少なからぬ同情論も生まれた。…同情論が漂った一因には、反社会的な行為を重ねてきた教団と親密な関係を築き、事件発生まで自省のなかった政治、特に自民党への強い憤りがあったからだろう」
 「2015年の教団の名称変更に当時の安倍政権が関与したのか否か、国政選挙で教団票を差配したと指摘される安倍氏の役割など、教団と自民党との親密な関係の核心部分には踏み込んでいない。その検証には今もなお、背を向けたままだ。銃撃事件の本質と、教団と政治との親密な関係が無縁とは言えない。裁判では解明に限界がある。法廷に加え、国会でも事件の背景に迫らねばならない」

 これに比較して、讀賣「社説」のトーンは明らかに異なる。
 「白昼堂々、選挙で演説中の政治家が銃撃された事件は、民主主義社会に深い傷を残した」「裁判では、山上容疑者の犯行時の精神状態に加え、教団への恨みを安倍氏への銃撃で晴らそうとした経緯なども焦点になるだろう。裁判所には、犯行がもたらした重大な結果や事件の背景を踏まえ、厳正に判断してもらいたい」「山上容疑者の境遇に同情する声があり、本や衣類のほか、100万円を超える現金が届いているという。ネット上には、教団の問題点を明らかにしたとして、英雄視するような投稿も見られる。だが、どのような事情があろうが、自分の目的を達成するために人の命を奪うことなど、あってはならない。犯行を正当化するような一部の風潮は極めて危険だ」

 最後に日経 [社説]である。
 「参院選のさなか、白昼の街頭で有力政治家が殺害されるという凶行は世界中に衝撃を与えた。民主主義が脅かされ、治安に対する信頼は低下した。招いた結果は極めて深刻である。事件は政治と宗教の関係など様々な問題を浮き彫りにした。山上被告は動機として母親が入信した世界平和統一家庭連合(旧統一教会)への恨みを挙げ、教団による巨額献金の実態が注目された。…教団と政治家の不透明な関係が問題視され、自民党は関係の断絶を宣言した。いずれも対応は緒に就いたばかりである。成果や実効性を注意深く見守りたい」「背景や本人の心理を公開の法廷で明らかにすることが重要だ。それを通じて事件の教訓を社会全体で共有しなければならない」

 おそらくは、世論の心情は朝日・毎日・東京3紙の論調に近いものと思われる。だから、安倍国葬反対の世論が6割を越え、岸田内閣の支持率が下がり続けているのだと思う。この刑事裁判では、何よりも背景事情の徹底解明を期待したい。そして、政治もメディアも、訴訟を傍観するのではなく、独自に統一教会と自民党との癒着の解明に努力を継続していただきたい。

「統一教会スラップ・有田事件」の報告と、ご支援のお願い。

(2023年1月13日)
 「旧統一教会スラップ・有田事件」は、東京地裁民事第7部合議B係(野村武範裁判長)に係属しています。被告とされた有田芳生さんの弁護団は現在5名。光前幸一弁護団長、澤藤大河事務局長。これに、郷路征記・澤藤統一郎・阿部克臣の3弁護士。もっと多数の弁護士に弁護団へのご参加をいただき、「共に闘って」いただくよう要請中ですが、弁護団の人数が増えてもこの5人はその核となり続けます。

 弁護団はこの訴訟を、受け身の姿勢ではなく攻勢的に進行することを課題としています。原告統一教会によるこの民事訴訟提起は、統一教会が自らに対する批判を嫌って、批判の言論の萎縮を意図した不当なスラップであることは明白です。まずは迅速に訴訟を進行させ、一刻も早く勝訴判決を獲得しなければなりません。それが、有田さんのためだけではなく、民主主義の基礎である表現の自由が要求するところだと思います。

 にもかかわらず、今のところ本件訴訟の進行は遅々たるもので、第一回口頭弁論期日さえいまだに決まっていません。決まっているのは1月23日11時のオンラインでの進行協議(進行についての打合せ)のみ。弁護団としては、「迅速な審理の進行を望むこと」「形骸化しない充実した口頭弁論を望むこと」を裁判所に申し入れています。

 この進行協議では、第1回口頭弁論をいつ開き、どのように進行するかが決まることになるでしょう。そのときは、すぐにご報告いたします。

 現在、弁護団は答弁書の作成と証拠資料の収集に没頭しています。元来が無理な提訴ですから、有田側の勝訴は間違いありません。問題は、どのように勝つか、そしてどうしたら迅速に勝てるかです。答弁書は間もなく完成の予定で、当ブログでも、できるだけのご報告をいたします。

 ところで、いずれも旧統一教会が原告となって起こした「旧統一教会スラップ」は、下記の5件です。

 被告 紀藤正樹・讀賣テレビ (請求額2200万円)9月29日提訴
 被告 本村健太郎・讀賣テレビ(請求額2200万円)9月29日提訴
 被告 八代英輝・TBSテレビ(請求額2200万円)9月29日提訴
 被告 紀藤正樹・TBSラジオ(請求額1100万円)10月27日提訴
 被告 有田芳生・日本テレビ (請求額2200万円)10月27日提訴

 有田弁護団としては、他事件と連携し情報を交換しながら、「共に闘う」姿勢を堅持したいと思っています。力を合わせて不当な勢力と闘い、全事件を完全勝利したいと願っており、有田事件はその先陣を切ろうと考えています。

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 なお、皆様のご支援をお願いいたします。12月21日の当ブログでもお願いしましたが、再度のカンパの要請を申し上げます。
  https://article9.jp/wordpress/?p=20497

 「有田芳生さんと共に旧統一教会のスラップ訴訟を闘う会」という、やや長い名前の会が立ち上がってます。この長い名称からも、統一教会スラップを我が事として闘おうという心意気が溢れています。

 心意気は十分なのですが、先立つべきものが、先には立たない現状でカンパを要請しています。ぜひ、ご協力ください。

会のURLは下記のとおり。
https://aritashien.wixsite.com/home

そして、送金先口座情報は下記。
https://aritashien.wixsite.com/home/donation

送金先の口座は下記のとおりです。

三菱UFJ銀行 月島支店
普通口座 4500218
口座名 チームAAA

「チームAAA」とは、もともとは「アンチ・アベ・アクション」の略なのだそうです。「有田・圧勝・あっさりと」くらいに読み替えてください。

この「共に闘う会」の賛同者は、下記のとおりなかなかの顔ぶれ。

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賛同人リスト(五十音順)
青木理 ジャーナリスト
阿部岳 新聞記者
池田香代子 翻訳家
石井謙一郎 フリーライター
石坂啓 漫画家
石橋学 新聞記者
井筒和幸 映画監督
内田樹 作家
江川紹子 ジャーナリスト
木村三浩 一水会代表
坂手洋二 脚本家
佐高信 作家
辛淑玉 コンサルタント
せやろがいおじさん(榎森耕助) 芸人
高世仁 ジャーナリスト
谷口真由美 法学者
寺脇研 映画プロデューサー
中沢けい 作家
仲村清司 作家
浜田敬子 ジャーナリスト
藤井誠二(事務局) ノンフィクションライター
二木啓孝(事務局) ジャーナリスト
前川喜平 教育評論家
松尾貴史 俳優・コラムニスト
三上智恵 ドキュメンタリスト
宮台真司 社会学者
室井佑月 作家
望月衣塑子 新聞記者
森健 ジャーナリスト
森達也 映画監督
安田浩一 ノンフィクションライター
山岡俊介 ジャーナリスト
吉永みち子 ノンフィクション作家

国際人権規約委員会の総括所見を尊重して、裁判所は国旗国歌の強制を違憲と判断しなければならない。

(2023年1月12日)
 本日は、東京「君が代裁判」第5次訴訟の弁護団会議。ここしばらくは、ズームでのオンライン会議が続く。その便利さに慣れてはきたが、リアルに顔を合わせないのは、なんとなく物足りないような、淋しいような。

 次回2月9日の第8回法廷には、原告準備書面(11)を提出する。テーマは、国際人権規約委員会の総括所見に表れた「教員に対する、国旗起立国歌斉唱強制の違憲違法」。本日の会議は、その準備書面の案文検討が主たる内容。若い弁護士が新鮮なテーマを立派にこなしている。こちらは、なかなか付いて行くのもたいへん。

 さて、国連の国際人権規約委員会は、2022年11月3日、市民的及び政治的権利に関する規約(通称「自由権規約」)実施状況に関する第7回日本政府報告書に対して、総括所見を発表した。もちろん、関係者の意見を十分に聴取してのことである。

 この総括所見は、不起立等を理由とする教員に対する懲戒処分に懸念を示し、日本の法律とその運用の慣行を、思想及び良心の自由についての『自由権規約18条』に適合させるべきことを勧告した。その勧告の結論は以下のとおりである。

38.委員会は、締約国(日本)における思想及び良心の自由の制限についての報告に懸念をもって留意する。学校の式典において、国旗に向かって起立し、国歌を斉唱することに従わない教員の消極的で非破壊的な行為の結果として、最長で6ヵ月の職務停止処分を受けた者がいることを懸念する。委員会は、さらに、式典の間、児童・生徒らに起立を強いる力が加えられているとの申立てを懸念する。(第18条)

39.締約国(日本)は、思想及び良心の自由の効果的な行使を保障し、また、規約第18条により許容される、限定的に解釈される制限事由を超えて当該自由を制限することのあるいかなる行動も控えるべきである。締約国は、自国の法令及び実務を規約第18条に適合させるべきである。

 最高裁判例では、国際協調主義(憲法前文、同98条2項)の立場から、「条約法条約」31・32条に基づき、自由権規約の一般的意見や総括所見を踏まえて法令の解釈適用がされてきている。自由権規約を批准する日本においては、自由権規約に定められる権利の実現のために必要な措置をとるため、憲法上の手続に従って必要な行動をとらなければならない(自由権規約第2条2項)。

 裁判所には、自由権規約の完全な実施が求められている。裁判所も総括所見を踏まえて自由権規約18条を解釈すべきであり、10・23通達もこれに基づく職務命令も条約不適合により無効である。

 自由権規約委員会は、不起立等を、宗教及び信念の自由と同等に保護される思想、良心の自由についての表明と評価し、不起立等を理由に最長で6か月の停職処分にもなる自由の制限は、同条3項の制限を超えて自由を制限しているもので規約不適合の疑いがあるとし、日本政府に対し、法令や実務を自由権規約18条に適合させることを勧告するものである。

 同条3項は、「宗教又は信念の自由については、法律に定める制限であって、公共の安全、公の秩序、公衆の健康若しくは道徳又は他の者の基本的な権利及び自由を保護するために必要なもののみを課すことができる。」としており、自由権規約を体系的に解釈すれば、同項は厳密に解釈されるべきとされる。原告らの思想、良心を表明する自由の制約が10・23通達によるもので「法律に定める制限」ではなく、また教育実施と起立斉唱行為では求める内容が違い、日本政府の回答からは安全、秩序、道徳等の具体的な制限事由を見いだせないことから、自由権規約18条に適合しない疑いがあるとする。

 なお、念のため、自由権規約委員会は、不起立等を「消極的で非破壊的な行為」(単に、起立しないだけで、式の進行を妨害したり混乱させることのない行為)と評価し、自由権規約19条の「意見を持つ自由」「表現の自由」とはせず、自由権規約18条の思想、良心を「表明する自由」としている。

 自由権規約に定められる権利の実現のために必要な措置をとるため、憲法上の手続に従って必要な行動をとらなければならない(自由権規約2条2項)。裁判所は、司法権の範囲内で条約上の義務を実現する義務があり、理念を同じくする憲法については条約適合的な解釈を試み、条約違反の法律については国内で適用してはならない。

 裁判所が、締約国の司法機関として、自由権規約を実施する義務を負い、管轄の下にあるすべての個人に対し、 人権享受を確保することをも約束していることに締約国の注意を喚起するものである。日本のように、条約を一般的に受容する体制を取っている国においては、自由権規約2条2項は「立法措置」よりも「その他の措置」を求めており、関連国内法規等が規約と十分に一致していないとき、関連国内法規等を条約適合的に解釈適用することが裁判所の役割として強く求められている。

 以上に確認の通り、裁判所は「総括所見」での勧告を遵守して、10・23通達等は自由権規約18条に不適合であり、無効であることを宣言しなければならない。

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