(2023年2月18日)
旧統一教会が起こしたスラップは、今のところ5件。そのうちの1件が、ジャーナリスト有田芳生と日本テレビを被告とする「統一教会スラップ・有田事件」。係属裁判所は、東京地裁民事第7部合議B係(野村武範裁判長)である。
その第1回口頭弁論期日が、次のとおりに決まった。
5月16日(火)午後2時? 東京地裁103号法廷
この日の法廷では、訴状・答弁書・準備書面の陳述だけでなく、被告本人の有田さんと、弁護団長の光前幸一弁護士が、意見陳述を行う。
また、閉廷後の3時30分から報告集会(会場打診中)を予定している。この報告集会には、関連事件の当事者や弁護団、メディアにも参加を呼びかけ、大きな規模で行いたい。しかるべき記念講演も企画し、統一教会スラップとの共闘スタートの場とする予定。
統一教会からのスラップに、いささかの萎縮も許されない。法廷内での攻勢的な訴訟の進行だけでなく、法廷外でも大いにメディアに訴え、統一教会スラップを糾弾する大きな世論を形成しなければならない。
原告(統一教会)によるこの損害賠償請求の民事訴訟提起が、統一教会が自らに対する批判の言論の萎縮を意図した不当なスラップであることはあまりに明白である。原告(統一教会)代理人は、「紀藤(ミヤネ屋)事件」の第1回法廷で、「旧統一教会に対する多くの名誉毀損言論の中から、吟味して提訴したのが5件の訴訟になった。だから、全ての提訴はスラップ訴訟ではない」との趣旨を述べたという。
これは、DHCスラップでも耳にした弁明である。「5件を吟味して選定した」という代理人弁護士の責任は大きい。
まずは迅速に訴訟を進行させ、一刻も早く勝訴判決を獲得しなければならない。それが、被告とされた有田さんのためであるだけではなく、民主主義の基礎である表現の自由が要求するところでもある。事前の裁判所と当事者の打ち合わせでは、両被告(有田・日テレ)が2月27日(月)までに答弁書を提出、それに対する原告(統一教会)の反論の提出を経て、第1回期日を迎えることになる。
ところで、いずれも旧統一教会が原告となって起こした「統一教会スラップ」は、下記の5件である。
被告 紀藤正樹・讀賣テレビ (請求額2200万円)9月29日提訴
被告 本村健太郎・讀賣テレビ(請求額2200万円)9月29日提訴
被告 八代英輝・TBSテレビ(請求額2200万円)9月29日提訴
被告 紀藤正樹・TBSラジオ(請求額1100万円)10月27日提訴
被告 有田芳生・日本テレビ (請求額2200万円)10月27日提訴
有田弁護団は、他の関連全事件の被告らに連携を呼び掛けることとしている。実務的には情報と法的知見を交換しながら、協力して不当な勢力の不当訴訟と闘い、全事件を完全勝利としたい。有田事件はその先陣を切ることになるだろう。
皆様のご支援をお願いいたします。下記URLを開いてみてくざい。
「有田芳生さんと共に旧統一教会のスラップ訴訟を闘う会」
https://aritashien.wixsite.com/home
《有田芳生さんと共に闘う会》に、ご支援のカンパをお願いします。
https://article9.jp/wordpress/?p=20497
(2023年2月17日)
イスラエル・ネタニヤフ政権の「司法制度改革案」が政権を揺るがす政治問題となっている。1月以来、波状的に10万人規模の市民のデモが街頭に溢れているという。三権分立の崩壊を懸念し、「民主主義を守れ」というスローガンが叫ばれている。
市民の憤りの対象となっている「ネタニヤフ流・司法制度改革」の問題点は二つ。その一は「最高裁の判断を国会が多数決で覆すことができる」という三権分立の根幹に関わる制度「改革」案。そしてもう一つは、「裁判官の任命人事への政府の関与の拡大」だという。任命時からの裁判官統制で、司法を骨抜きにしようという魂胆。
政権側は、「裁判所は民主的な組織ではない。改革案こそが民主主義の精神に合致したもの」という。言わば、三権分立を崩壊させて、ときの政権の独裁を図ろうというもの。これを「民主主義」の名のもとに断行しようというのだ。なるほど、市民が「三権分立を守れ」「民主主義を守れ」と立ち上がらざるを得ない事態である。
ネタニヤフ首相は「権力のバランスを回復する」と主張している。2022年11月の総選挙で勝利したことで、改革が有権者の信任を得ているとも訴えた。あからさまに、「国民に選ばれていない司法が力を持ちすぎている」として、最高裁による法律審査の権限を制限するというのだ。これでは、「ときの政権が絶対的な力を持ち、独裁国家になりかねない」との批判を免れない。ヒトラーの手法に似ているではないか。
もちろん、この司法改革案には、政治的な動機がある。22年12月末に新たな連立政権を発足させたばかりのネタニヤフだが、収賄罪などで19年に起訴され公判中の身である。自身の有罪判決を避けるため司法の力を弱めようとしているとの臆測がくすぶる。安倍晋三が夢みた忖度司法を、ネタニヤフも望んでいる。
それだけでなく、政権と司法の緊張をいっそう高めたのが、閣僚罷免要求事件である。最高裁は1月18日、連立与党のユダヤ教政党「シャス」の党首アリエ・デリの内相兼保健相への任命が「著しく不当」とし、ネタニヤフ政権に罷免を命じた。
脱税の罪に問われたデリは22年1月、執行猶予つきの有罪判決を司法取引で受け入れた。イスラエル基本法(憲法に相当)は、有罪判決から7年間は閣僚になれないと定める。ところがネタニヤフ支持派は政権発足の直前、執行猶予つきの場合は就任できるよう国会で基本法を改正したという。
このあたりの手続の詳細はよく分からないが、デリを閣内に取り込み、連立政権を樹立するためのお手盛りとの批判は強く、最高裁の決定に至った。ネタニヤフは同月22日、止むなくデリ氏を罷免したが、連立政権運営は顕著に難しくなった。そこで、国会の議決で最高裁の決定を覆す制度「改革」を、ということなのだという。
この改革に危機感を募らせているのは、野党や法曹だけではないという。まず、地元経済界からも懸念の声が上がっているそうだ。イスラエルはIT(情報技術)などの新興企業が勃興し投資資金を集めてきたが、「知的財産や資産の保護は司法が独立した国でこそ可能だ」「国のビジネス拠点の地位に取り返しのつかない影響を与える」という声が上がっているという。
また、「政権は『ユダヤ人優位』の国家を目指し、アラブ人ら少数派を排除しようとしている。そのため、少数派の権利を守り、民主主義の基盤となってきた司法を弱めようとしているのだ」という、司法擁護論も根強いという。
司法が、真に市民のために役に立つものとなっているとの信頼と評価があれば、司法の権威を貶めようという、司法「改革」には、市民が反対運動に立ち上がることになる。
(2023年2月16日)
人事は重要である。そして、難しい。公的な機関の重要人事には、その社会の民主主義の成熟度が表れる。いま、学術会議会員の任命制度が議論になり、NHK新会長と、日銀新総裁の人事が話題となっている。その人事のありかたや人事制度の作り方に日本の民主主義の成熟度があらわれている。
学術会議も、NHKも、日銀も公共性の高い機関である。学術会議会員は内閣総理大臣が任命する。NHK会長は経営委員会の任命だが、その経営委員は両議院の同意を得ての内閣総理大臣の任命となっている。そして、日銀総裁は両議院の同意を得て内閣が任命する。とは言え、これは形だけのことで、けっして内閣や内閣総理大臣がオールマイティであってはならない。
司法や学術や報道に関する機関は、その本来的使命を貫くためには公権力からの掣肘を受けてはならない。公権力から独立した存在であるためには、人事の自律が不可欠である。権威主義的国家においては、公権力がその意のままに動く人物を任命することで、中央集権の秩序を作り出す。「国から金が出ている以上、国が選任権を持つのは当然」などという、野蛮な議論に幅を利かせてはならない。
金融政策の立案実施が政府から独立した中央銀行の専門的な判断に任せることが望ましいとされる。が、所詮は原理的に要請される独立でも自律でもない。今回は、貧乏くじとされる日銀総裁。「首相と握れる人物」が選任されることとなった。それで、格別の不都合は生じない。しかし、司法や学術や報道に関して、同様でよいことにはならない。
NHK会長は、頑固に報道の自由を墨守しなければならない。その姿勢が、国民の知る権利擁護に奉仕することになる。それにふさわしい人物を選任しなければならないのだが、その経歴から見る限り、新会長の適性はなはだ疑わしい。
そして、今国会に提案されようとしている、学術会議会員の選任方法の改悪が心配される。学術会議の存在意義は、原理的に政府からの独立と自律性にある。そしてその要は、誰を会員とするかの人事にある。それが今、危うい。日本学術会議の組織改革の法案が、学術会議の独立性を毀損しようとしている。
一昨日(2月14日)学術会議の歴代会長経験者5人(生存者の全員)が揃って、学術会議の独立性の尊重を求める声明を発表し記者会見をした。前例のないことである。
この声明の危機感は高い。岸田首相を宛先にして、「日本学術会議の独立性および自主性の尊重と擁護を求め、政府自民党が今進めようとしている、日本学術会議法改正をともなう日本学術会議改革につき根本的に再考することを願うものである」という趣旨。戦後の設立以降の学術会議の歴史を踏まえ、学術の独立性について「一国の政府が恣意的に変更して良いものではない」としている。
内閣府の方針では、会員選考の際に外部の第三者委員会が介入する仕組みを導入する。これに対し、声明では、アカデミーの世界では自律的な会員選考こそが「普遍的で国際的に相互の信認の根拠となっている」とし、「内閣府案はこれを毀損する」と批判している。この人事の手続が問題なのだ。
広渡氏は任命拒否問題に言及し、「首相は今からでも自分の判断で任命しなおすことが可能。本来は5人で首相に直接面会し、ひざを交えて話をしたかった」と話した。また、法案について「法改正の狙いは、任命拒否を正当化し、それを制度として法に組み込むことにある」と説明した。
この問題を論じた朝日の社説が、「各国の学術会議に相当する組織は、政府から独立した活動や会員選考の自主性・独立性を備える。それを歪(ゆが)め、強引に政府の意向に従わせるのでは、権威主義国家のやり方と見まごうばかりだ」と言っているのが、興味深い。「権威主義国家」とは、中国・北朝鮮・ロシア・ベラルーシ・イラン・アフガニスタン・サウジアラビヤ等々を指しているのだろう。日本の民主主義のレベルを、このような「権威主義国家」並みに落としてはならない。
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岸田文雄首相に対し日本学術会議の独立性および自主性の
尊重と擁護を求める声明
2023年2月14日
吉川弘之(日本学術会議第17?18期会長)
黒川 清(同第19?20期会長)
広渡清吾(同第21期会長)
大西 隆(同第22?23期会長)
山極壽一(同第24期会長)
私たち5名は、日本学術会議会長の職を務めた者として、現状における日本学術会議と政府の正常ならざる関係を深く憂慮し、日本学術会議が日本学術会議法に定められ、かつ、先進諸国など国際的な標準となっているナショナルアカデミーとしての独立性、自主性およびその裏付けとなる自律的な会員選考を堅持し、人類の福祉と日本社会の発展のために、科学的助言を通じてその使命をよりよく果たすことができるように、以下のように岸田文雄首相に対する要望を表明するものである。
1. 日本学術会議は、1948年日本学術会議法によって設立され、学術が戦前の轍を踏まず学問の自由と科学の独立を基礎に政府と社会に科学的助言を行う機関として位置づけられた。以来70余年、国民の負託に応える活動を進め、国際的に重要な科学者組織としてその地位を確立している。
2. 政府自民党においては、2020年10月の任命拒否問題に端を発し、日本学術会議改革問題を検討することとなり、今般、所管の内閣府による「日本学術会議の在り方についての方針」および「日本学術会議の在り方(具体化検討案)」が作成され、日本学術会議に向けて説明が行われた。これに対して、日本学術会議は、2022年12月8日および21日に第186回会員総会を開催し、審議検討のうえ、「方針」および「具体化検討案」に日本学術会議の根幹にかかわる強い懸念があるとして声明(「内閣府『日本学術会議の在り方についての方針』(令和4年12月6日)について再考を求めます」令和4年(2022年)12月21日)を採択し、政府にその再考を求めた。私たちは、これを理解することができる。
これらの懸念は、もとより日本学術会議現会員の手によって正しく解決されるべきであり、政府が真摯に対応しその懸念の払拭に努めるべきことを私たちは強く期待するが、内閣府の「方針」と「具体化検討案」(以下、内閣府案)は、科学者代表機関の独立性と自主性について歴史的かつ国際的に形成され、私たちが共有してきた基本的考え方とあまりにも隔たっており、重ねてここで指摘することが責務であると考える。
内閣府案は、政府と科学者が国の科学技術政策とその課題履行のために「問題意識や時間軸を共有」して協働することを求めているが、それはいわば、Scientist in Governmentの仕事である。しかし、科学者コミュニティの代表機関が課題とする政府への科学的助言は、そのような協働とは異なり、ときどきの政府の利害から学術的に独立に自主的に行われるべきものである。その独立性を保障することこそ科学の人類社会に対する意義を十全ならしめる必要条件であり、一国の政府が恣意的に変更してよいものではない。
また、そのような独立性は会員選考の自律性を不可欠とするが、内閣府案が企図する「第三者から構成される委員会」の介入システムは、これとまったく両立しない。2004年法改正によって自律性保障のために採用されたコ・オプテーション制(広く推薦された多数の科学者の中から日本学術会議が会員候補者を審査のうえ決定する)は、先進諸国のナショナルアカデミーに普遍的な選考方法として、国際的に相互の信認の根拠となっているものであるが、内閣府案はこれを毀損するものでしかない。
3. 私たちは、以上のべてきた理由に基づいて、岸田文雄首相に対して、日本学術会議の独立性および自主性の尊重と擁護を求め、政府自民党が今進めようとしている、日本学術会議法改正をともなう日本学術会議改革につき根本的に再考することを願うものである。また、政府と日本学術会議の間には、2020年10月の菅義偉前首相による第25?26期日本学術会議会員候補者6名の任命拒否が信頼関係を損ねる問題として存続している。これもまた私たちにとって憂慮すべき対象であり、日本学術会議の自主性に本質的に関わる問題として適切に解決されなければならない。
最後に、私たちは、政権と科学者コミュニティとの、政府と日本学術会議とのあるべき関係について、本来ならば、一部の科学者や政党プロジェクトチームのような狭い範囲でなく、より長期的視野の公平な検討の仕組みの下での議論が行われ、科学者をふくめた社会のなかの議論、そして与野党を超えた国会での議論が必要であることを表明する。
(2023年2月15日)
昨日、2月14日の「本郷湯島九条の会」・本郷三丁目交差点「かねやす」前での街頭宣伝。まずは、「米軍事戦略に呑み込まれる日本」と題した、石井彰代表世話人の報告。
風が冷たい昼休みのひとときでしたが、13人の参加者で大いに意気あがる、賑やかな街宣となりました。開始前にたくさんのプラスターを道に広げていると、二十歳前後の若者たちが通りかかって、「オレ、戦争なんか行かないもん」。また別の若者は、「オレは自転車に乗って逃げちゃうもん」。わたしたちが、「一緒に戦争に反対しようよ」と声をかけましたが、さて、気持ちが通じたかどうか。
マイクはアメリカの軍事戦略にのって日本が戦争国家になりつつあることを告発しました。岸田首相は昨年末に安全保障3文書を閣儀決定し、今年1月にはバイデン米大統領に会って「敵基地攻撃能力保有」を決めてきたことを告げ、バイデン米大統領に賞賛され、あまつさえ「統合防空ミサイル防衛IAMD」に参加することを約束してしまう始末です。「敵基地攻撃能力」を持たないと「統合防空ミサイル防衛IAMD」に参加できないのです。
さらに軍拡をおこなうための増税、社会保障の削減が始まっていることを訴え、まさに安全保障3文書は軍需産業の基盤強化、軍事分野の官民学の連携強化、空港・港湾・道路などの軍事利用が狙われていることを訴えました。
日本は、何よりもロシアのように侵略する国になってはならない。アメリカの戦争戦略のもとで敵を探して先制攻撃を仕掛ける準備など、けっしてしてはならない。そして、ウクライナのように侵略される国になってもならない。抑止力という名で、軍事的な挑発を繰り返すことの危険を理解しなければならない。
若者を戦争にいかせてはいけない、そのため皆様方とともに戦争させないために力を合わせましょう、そう呼びかけました。4月の統一地方選挙には「戦争する国」にしようとしている政党に投票することを止めましょうと訴えました。
[プラスター]★自民党さん LGBTQなぜ困る?★浮き足立つな、落ちつこう。★反対しよう戦争への道。★トンデモない、軍拡・大増税。★9条の会、迷わず平和路線。★トマホーク、オスプレイいらない、憲法9条と国連強化。★軍事栄えて、福祉、子育て、医療、年金やせる。
最後に私がマイクを取って短く訴えた。
「トルコとシリアの大震災で、多くの人か亡くなっています。人は、互いに殺し合うのではなく、助け合わねばなりません。私たちの国・日本は、戦争国家ではなく、国際協調国家です。人殺しの準備をするのではなく、このようなときこそ命を助ける事業に力を尽くさなければなりません。
私たちの国は、150年前に近代国家の仲間入りをしました。そして、その歴史の前半は、幾つかの内戦を経て対外戦争を繰り返しました。目標は富国強兵。侵略戦争と植民地支配をこととする精強な軍国主義国家を作りあげて、そして亡びました。
戦後は軍国主義の戦前ときっぱり縁を切って、9条を持つ平和国家として生まれ変わりました。以来75年余、私たちの国は曲がりなりにも平和を維持し続けています。今後も、この平和を続けていかねばなりません。平和憲法は、人を殺す準備ではなく、世界中の人々の命を救えと教えています。
戦前は、近隣諸国や西欧先進国に負けない国防国家を作ることが国の備えだと考えました。軍備を拡大すれば、国は安全になると盲信したのです。そして、失敗しました。その高くついた反省から、戦後は平和を望むならば徹底して平和の準備をすることとしたのです。軍拡も、核共有も、日米安保も、集団的自衛権も、平和を壊す危ない橋だと知らねばなりません。政府の言うことを鵜呑みにすることなく、平和について、真剣にお考えください。」
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街宣終了後、主要メンバーが寒さを避けて近所の定食屋「ゆげ」に入って、暖かいカレーうどんなど口にしながら、気分良く話しが弾んだ。いったいいつから、この街宣活動が始まったのかが話題になり、どうやら今年の春で、満10年になるのだと話が落ちついた。
第2期安倍晋三政権発足が2012年12月末。その危険性を13年春に地元の集会で私が喋った。そして、その集会の席上で街宣活動を呼び掛けたことが発端だという。その後しばらくして、毎月第2火曜日のお昼に定まった。これが、みんなの記憶の一致するところ。以来、台風で中止となったことが一回だけ。ずっと続いているのだから、なかなかのもの。近所の人も、近くの交番の警察官も、よく耳を傾けてくれているというのが、自己満足的な甘い評価。
(2023年2月14日)
いま、通常国会が開かれています。衆議院予算委員会での質疑を素材に、正しい日本語の勉強をいたしましょう。
岸田文雄さんは内閣総理大臣の立場にあって、政府の政策全般について野党の質問に責任をもって答弁しなければなりません。もちろん、岸田さんを厚く支える官僚のスタッフがあってこそできることですが、最後は岸田さんがその肉声で語らなければなりません。その岸田さんの答弁は、正しい日本語になっているでしょうか。
素材は、まず、2023年2月1日衆院予算委員会での、性的少数者や同性婚問題をテーマにした質疑での、岸田さんの次の答弁です。
「(同性婚の法制化については)極めて慎重に検討すべき課題だ。こうした制度を改正することになると、日本の国民全てが大きな関わりを持つことになる。社会が変わっていく問題でもある。すべての国民にとっても家族観や価値観、社会が変わってしまう課題だ」
その2日後に、荒井勝喜首相秘書官がこの岸田答弁に関連して、オフレコの場ながら記者団に、「僕だって見るのも嫌だ。隣に住んでいるのもちょっと嫌だ」「秘書官室もみんなが反対している」「同性婚を認めたら国を捨てる人がでてくる」と発言して世の耳目を集めたことは、ご存じのとおりです。
荒井秘書官更迭後の2月8日の予算委員会で、岸田さんは2月1日答弁の真意を問われます。立憲民主党の岡本章子さんは、「当事者からは非常にネガティブな表現として受け止められている」として、首相に謝罪と撤回を求めました。
これに対する岸田首相答弁は以下のとおりです。
「同性婚制度の導入は、国民生活の基本に関わる問題であり、国民一人ひとりの家族観とも密接に関わるものであり、その意味で全ての国民に幅広く関わる問題であるという認識のもとに『社会が変わる』と申し上げた。決してネガティブなことを言っているのではなく、もとより議論を否定しているものではない」
「国民各層の意見、国会における議論、あるいは同性婚に関する訴訟の動向、また地方自治体におけるパートナーシップ制度の導入、運用の状況を注視していく必要がある。こうした慎重な検討が必要、議論が必要という意味で申し上げた」
さて、皆さん。この2月8日首相答弁は、正確な日本語として読みとることができるでしょうか。また、首相答弁としてふさわしい内容でしょうか。それぞれご意見をどうぞ。
A 「ハイ、私の率直な意見ですが、この日本の首相は日本語がお上手ではないように思います。2月1日の発言が、同性婚の法制化についてのネガティブな意見であったことは明らかではありませんか。そのことを否定する2月8日答弁は間違いです。仮に、岸田さんが同性婚の法制化についてポジティブなご意見であれば、『迅速に法制化を実現します』と言っているはずで、『極めて慎重に検討すべき課題だ』というのは、ポジティブな意見ではないということです。日本の首相は、そんなことも分からない人なのでしょうか」
B 「私も、似たような意見ですが、私が強調したいのは、同性婚を『社会が変わってしまう課題』だと言っていることです。『社会が変わってしまう』という言葉づかいは、ネガティブな方向に変わることと理解するしかありません。ポジティブで望ましい方向への変化は、日本語ではけっして『変わってしまう』とは言わないものです。単に『社会を変える課題』ならポジティブなニュアンスが出てきます。『社会を変える切っ掛けとなりうる課題』『社会変革を展望する課題』など、明確なポジティブ表現を避けての岸田さんの物言いは、明らかにネガティブではありませんか」
C 「私は、反対の意見です。正しい日本語の使い方があるという前提がまちがつていると思います。どう突つかれても、あとで弁明ができ、逃げおおすことのできることが、上手な言葉の使い方であって、岸田さんの2月1日答弁も2月8日弁明も、破綻一歩手前で踏みとどまっており、それなりによくできた言葉づかいだと思います。
だれが考えたって、岸田さんは、1日段階では同性婚否定論を述べ、その後止むなく荒井秘書官を更迭した時点で意見を変えたのです。しかし、自分に非があるという印象を最小限に抑えるために、撤回も謝罪も拒否して首尾一貫した体裁を装ったのです。なかなかの日本語の使い手と言うべきではないでしょうか」
D 「それはおかしい。正確な論理は正しい言葉でのみ語られる。国民をごまかし、たぶらかし、目くらましするための、嘘の言葉は正しい言葉づかいではない。まずは、岸田首相発言の論理構造あるいはその破綻を正確に見抜くための言語能力が必要だが、それだけでは足りない。こんな不誠実な答弁をして恥じない政権トップに大いに怒る姿勢を持たねばならない」
(2023年2月13日)
私が所属する東京弁護士会では、23年度役員選挙・常議員選挙が、先週金曜日の2月10日に行われる予定だった。が、今年は定員を上回る立候補者がなく、結局無投票で立候補全員が当選となった。やや寂しいという感を否めない。議論なくして役職のみがある弁護士会の姿は必ずしも正常ではない。
弁護士会の在り方については、本来侃々諤々の議論があってしかるべきである。その議論に市民が関心を寄せて欲しいとも思う。在野を貫く真っ当な弁護士会のあり方は、けっして弁護士のみの利害に関わるものではない。市民の権利や自由や民主主義に関わる。さらには、社会の公正さや平和にも。
無投票となった選挙だが、立派な選挙公報が届いた。会長候補者松田純一弁護士の長文の選挙公約には、「4.弁護士の使命を果たすために」の節があり、中にはこういう記述がある。
(1)人権問題への対応
弁護士法第1条第1項及び第2項に掲げる人権擁護・社会的正義の実現、そして、法律制度の改善は弁護士の使命です。東弁は、普遍的価値とされてきた人権、現代的な人権、近未来に生成されるべき人権にしっかり対応しなければなりません。
子ども、高齢者・障がい者、女性、性的マイノリティ、外国人、消費者、犯罪被害者、えん罪被害者等のいわゆる社会的弱者の権利。IT化を含む民事・刑事司法制度改革、再審法改正課題、取調べの可視化実現、貧困・格差問題、差別やヘイトスピーチの問題。死刑制度廃止と刑罰制度の改革等々、日弁連と東弁がこれまで取り組んできた諸課題に全力で取り組みます。SDGsを踏まえて、ビジネスにおける人権尊重という視点にも光を当てたいと思います。
……
(4)憲法的価値について
私の伯父は戦死し、私は戦後の傷跡が残るなかで育ち、平和憲法を誇りとする教育を受けて成長しました。ところが、ウクライナ侵攻を機に現在、十分な問題点の指摘や国民的議論や国会における熟議もないまま、敵基地への反撃(攻撃)の政府提言へと急転回する動きがあります。基本的人権の尊重、国民主権、恒久的平和主義など憲法的価値に関わる問題については、東弁内においても議論を尽しながら毅然と対応します。
これが、全国最大規模の単位弁護士の次期会長の弁である。通り一遍で不十分だという批判もありえようが、これだけのことを全会員に公約していることを貴重だと思う。
さて、全会員に送付された選挙公報の内容はともかく、第1面の記載に、視覚的にギョッとさせられた。
会長・副会長・監事・常議員・そして日弁連代議員の候補者一覧表が出ているのだが、そのすべてに、生年月日と登録年月日付記されている。これが全て元号なのだ。私は、昭和も平成も令和もなじめない。昭和・昭和・昭和そして平成・令和である。これを見ていると目が痛くなる。クラクラする。なぜこんな不便で不愉快な道具を使おうというのだ。
さすがに、ところが各候補者のコメントは全て西暦表記となっている。このコントラストがあまりに鮮やかなのだ。
選挙公報には、会長(1名)・副会長(6名)・監事(2名)の計9名の候補者が略歴と所信を述べている。会長候補は全文西暦表記である。副会長候補6名全員もそうなのだが、一人だけが括弧を付けて元号を併用している。幹事候補2名も西暦表示だが一人だけが括弧を付けて元号を併用している。
つまり、9人の候補者の内の7人が西暦単独表記、2人が西暦・元号併用なのだが西暦をメインとしている。元号のみはゼロ。元号をメインとしていた併用派もゼロなのだ。これが通常の感覚ではないだろうか。
しかし、候補者個人の文章ではなく、弁護士法に則った弁護士会の公的な文書となると、元号オンリーの不気味な世界となる。これは奇妙だ。弁護士会は、どの官庁からも命令を受ける立場にない。元号使用を廃して、西暦単独でよいはずなのだ。
不便極まりない元号の使用、しかも近代天皇制が発明した一世一元の旧時代の遺物。すみやかに西暦表記に切り替えていただきたい。それまで、目の痛み、目のクラクラが治まらない。
(2023年2月12日)
「建国奉祝派」というものがある。日本会議だの、神社本庁だの、自民党安倍派だの…。今年も各地で奉祝行事が報告されているが、盛り上がりには欠けるようだ。盛り上がりには欠けるものの、それなりに行事は続いているというべきか。伝統右翼のイデオロギーは、統一教会とともに健在なのだろうか。これを支える民衆の意識はどうなっているのだろうか。実はよく分からない。
右派の論調のトレンドを見るには、まず産経新聞である。分かり易い。昨日の「主張」(社説)が、「建国記念の日 美しい日本を語り継ごう」というもの。何とも、色褪せた「美しい日本」。要するに、愛国心の押し売り、押し付けであるが、愛国心の鼓吹が国防や軍拡に直結していることに、今さらながらギョッとさせられる。
「美しい日本」という言葉は、社説の最後の結びとして出て来る。「いまこそ、日本を美しいと思い、守ろうとする心を語り継ぐ意義は大きい」と言うのだ。自ずから湧き起こる『日本を美しいと思う心』ではなく、『無理にでも、日本を美しいと思い、守ろうとする心』である。愛国心の強制が語られている。
建国記念の日に関してはこういう。
「国を愛するには、建国の物語を知らねばなるまい。日本書紀によれば辛(かのと)酉(とり)の年(紀元前660年)の正月、初代天皇である神武天皇が大和の橿原宮で即位し、日本の国造りが始まった。現行暦の2月11日である」
「国を愛する」ことが当然の善だという大前提。そして、「建国の物語を知れば、国を愛するようになれる」と言わんばかりの非論理。と言うよりは、信仰と言ってよい。
「以来日本は、貴族の世となり武士の世となっても、ただ一系の天皇をいただく国柄を守り続けてきた。19世紀に西洋列強がアジア諸地域を次々に植民地化するようになると、明治維新により天皇を中心に国民が結束する国家体制を築き、近代化を成し遂げた。時の政府が2月11日を紀元節の祝日と定めたのは明治6年で、そこには、悠久の歴史をもつ国家の素晴らしさを再認識し、国民一丸となって危機を乗り切ろうとする意味があった。」
恐るべし産経。いやはや、目の眩むような、恥ずかしげもない皇国史観。「素晴らしい天皇」教であり、「美しい日本」教の信仰でもある。いまごろ、こんなアナクロのマインドコントロールに引っかかる、産経読者もいるのだろうか。
美しい日本も、愛国心の押し付けも、これまで言い古されてきた。この産経主張のトレンドは、愛国心の涵養が国防や軍拡と直接に結びついていることなのだ。
「ウクライナの戦闘は、国を愛し守ろうとする意志がいかに大切であるかを教えてくれた。寡兵のウクライナ軍と市民の懸命な戦いに世界は瞠目し、当初は及び腰だった支援が次々に寄せられた。もしも将来、日本が同じ惨禍に見舞われたとき、同じような意志を示しうるだろうか」という書き出しは、いつもながらの、「侵略されたらどうする」論の繰り返しだが、これが愛国心と結びつけられる。
「祝日法では『建国をしのび、国を愛する心を養う』日とされている。ウクライナ情勢だけでなく、台湾有事への懸念など東アジア情勢も厳しさを増す中、改めてその思いを深める必要があろう」
「戦争を肯定するつもりは毛頭ない。むしろその逆だ。国を愛し守ろうとする意志を持つことが、他国に侵略の野望を抱かせない抑止力となる」という論法。日本は他国に侵略の野望を一切有せず、他国のみが日本に侵略の野望を抱いているという前提。
「日本の建国を祝う会」も、明治神宮会館(東京都渋谷区)で行われた奉祝中央式典で、大原康男会長は主催者代表あいさつで、「我が国では政府主催の式典は行われていない」。教育基本法上の教育の目標「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」という項目を挙げた上で、「政府主催の奉祝式典を開催すべきだ」と強く訴えたという。こちらも、愛国心の押し売りである。
12月16日閣議決定の「国家安全保障戦略」の中に、次の一文がある。
「2 社会的基盤の強化
平素から…諸外国やその国民に対する敬意を表し、我が国と郷土を愛する心を養う。そして、自衛官、海上保安官、警察官等我が国の平和と安全のために危険を顧みず職務に従事する者の活動が社会で適切に評価されるような取組を一層進める」
今や、権力をもつ者は、愛国心と国防とを、不即不離・表裏一体と意識している。これまでにも増して、愛国心の鼓吹は危険なものとなった。愛国心は危ない。触ると火傷する。暴発して身を滅ぼすことにもなりかねない。
(2023年2月11日)
本日は、「建国記念の日」である。戦前は紀元節だった。おそらく伝統右翼にとっての最も重要な日。何しろ、根拠に欠けるとは言え、天皇制の起源の日なのである。この日、初代の天皇神武が大和の樫原で就任したとされる。もちろん史実ではなく、後世に編まれた神話であり、伝承の世界の出来事。近代天皇制政府は1873(明治6)年太政官布告で紀元前660年2月11日とした。いまは、閣議決定でなんでも出来る。明治政府は太政官布告で歴史を確定したのだ。
その紀元節の日を、戦後の保守政権が、大きな反対運動を押し切って「建国記念の日」とした。戦前と戦後の断絶が不徹底で、実は連続しいることの証左の一つである。
かつては、国史として教えられたことではあるが、いま初代天皇の実在を信ずる者はない。それでも天皇教の信者や右翼にとっては、天皇の家系と日本という国家との起源が同一ということがこの上なく重要なのだ。もっと正確にいえば、そのような神話や伝承を国民の多くが受容することが重要なのだ。
本日、岸田首相は、以下のとおりの「『建国記念の日』を迎えるに当たっての内閣総理大臣メッセージ」を公表した。
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「建国記念の日」は、「建国をしのび、国を愛する心を養う」という趣旨のもとに、国民一人一人が、我が国の成り立ちをしのび、今日に至るまでの先人の努力に思いをはせ、さらなる国の発展を願う国民の祝日です。
我が国は、四季折々の豊かな自然と調和を図りながら、歴史を紡ぎ、固有の文化や伝統を育んできました。今日、科学技術・イノベーション、文化芸術をはじめ、多くの分野で我が国は国際社会から高い評価を受けています。
長い歴史の中で、我が国は幾度となく、大きな困難や試練に直面しました。先人たちは、その度に、勇気と希望を持って立ち上がり、明治維新や高度経済成長など、幾多の奇跡を実現してきました。そして、自由と民主主義を守り、人権を尊重し、法を貴ぶ国柄を育ててきました。一人一人のたゆまぬ努力と国民の絆の力によって築かれた礎の上に、今日の我が国の発展があります。そのことを決して忘れてはならないと考えます。
このような先人たちの足跡の重みをかみしめながら、国民の命と暮らしを守り、自由のもたらす恵沢を確保し、全ての人が生きがいを感じられる社会の実現を目指します。そして、今を生きる国民の皆さんと共に、直面する課題に立ち向かい、将来の我が国国民に対し、世界に誇れる日本を繋いでいきたいと考えます。「建国記念の日」を迎えるに当たり、私はその決意を新たにしています。
「建国記念の日」が、我が国の歩みを振り返りつつ先人の努力に感謝し、さらなる日本の繁栄を希求する機会となることを切に希望いたします。
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この岸田のメッセージには、皇祖皇宗も天皇も建国の謂われも出てこない。もしかすると、右翼にとっては不満なのかも知れないが今やそんな時代ではない。一方、憲法も国民主権も平和も出てこない。何よりも敗戦によって「国」は、その成り立ちの原理を根底から変革したのだ、ということが語られていない。その意味では、まことに不正確で不十分だと思う。以下のように述べるべきではないだろうか。
「建国記念の日」は、「建国をしのび、国を愛する心を養う」という趣旨の国民の祝日とされています。しかし、国とは何か、建国とは何をいうのかについては、国民一人々々の意見を尊重しなければなりません。また、公権力の行使に携わる立場にある者が、「国を愛する心を養うべき」とすることが、実はたいへん危険なことではないのかとも考えられます。さらには、かつては政府が富国強兵のスローガンをもって、「さらなる国の発展」を実現すべく、国民に対して号令を掛けたことはは深く反省しなければなりません。
我が国は、四季折々の豊かな自然と調和を図りながら、歴史を紡ぎ、固有の文化や伝統を育んできました。他国の歴史や文化に敬意を払いつつ、わが国固有の文化にも誇りをもちたいと思います。しかし、最近、科学技術・イノベーション、文化芸術、表現の自由、ジェンダー平等、LGBTへの寛容度等をはじめ、多くの分野で我が国は国際社会から大きな遅れを指摘されるに至っています。その責任の多くが、近年の政権のあり方にあることは明確であると深く反省せざるを得ません。
近代の歴史の中で、我が国の為政者は幾度となく大きな過ちを犯してきました。その最大のものは、我が国が起こした近隣諸国に対する侵略戦争と植民地支配です。聖戦の名によって国民を動員しての戦争は未曾有の惨禍を内外に残し、天皇主権の軍国主義国家は消滅したのです。
そうして、新たな日本国憲法を採択して、天皇主権を排し、国民主権のもと新たな平和国家として再生したのです。これをもって、建国というべきではありませんか。そしていま、広範な国民が、憲法を改正しようという旧勢力の動きに抗して、自由と民主主義を守り、人権を尊重し、法を貴ぶ国柄を育てつつあります。
権力を担い、国を動かした先人たちの誤りは誤りとして確認し、再びの過ちを繰り返さない反面教師としながら、何よりも国民の命と暮らしを守り、自由のもたらす恵沢を確保し、全ての人が国家にとらわれることなく、生きがいを感じられる社会の実現を目指さねばなりません。そして、今を生きる国民の皆さんと共に、直面する課題に立ち向かい、将来の我が国国民に対しても幸福を保障する日本を繋いでいきたいと考えます。「建国記念の日」を迎えるに当たり、私はその決意を新たにしています。
「建国記念の日」が、我が国の歩みを振り返りつつ、権力を担った先人の過ちを直視するとともに、市井の人々の努力に感謝し、さらなる日本の繁栄を希求する機会とするよう、国民のみなさまにお誓い申し上げます。
(2023年2月10日)
本日の毎日新聞朝刊(1面・3面)に、「消えゆく安倍家」の大型記事。「山口4区に後継者不在」「保守王国山口、政争の果て」「安倍家窮状に岸家葛藤」「親子の決断、世襲批判も」のサブ見出しが付いている。
https://mainichi.jp/articles/20230210/ddp/001/010/001000c
「22年7月の安倍氏の銃撃事件を受け、政界から「安倍家」の名前が消える。水面下では、同族の岸家から安倍氏後継を迎える案も模索されていた。運命に翻弄された一族の葛藤と決断を追う」というのがリードに当たる記事。「消えゆく安倍家」「安倍家窮状」「安倍系の退潮」と、安倍一族の凋落が語られている。
先週日曜日の2月5日に下関市議選があった。改選前、市議会の自民系会派は、安倍晋三系の「創世下関」(9人)と、林芳正系の「みらい下関」(11人)に分かれていた。今回市議選で、安倍系「創世」の現職2人が立候補せず、さらに現職2人が落選した。また、安倍系の新人3人が出馬したが、当選したのは1人だけ。一方、林系「みらい」は現職全員が当選。さらに、林系の新顔4人のうち、2人が当選している。「林が太って安倍細る」の趣だが、さしたる意味のあることでもなかろう。
そんな状況での、「安倍家」と「岸家」の事情が語られている。これに「林家」が絡んだ構図。ほとんど、ヤクザ組織の跡目問題である。時代錯誤の馬鹿馬鹿しい限りだが、保守王国の特殊性というよりは、これが日本の政治の現状なのだ。あらためて、我が国の民主主義の成熟度を考えさせられる読み物になっている。
関係者の最大関心事は、安倍晋三死去に伴う今年4月の衆院山口4区(下関市、長門市)補選である。ここに、だれを擁立するか。安倍後援会では、安倍・岸一族からの立候補を切望した。が、結局適わなず、「安倍家」の名前が政界から消えることにもなった。政治銘柄「安倍ブランド」の消滅である。
山口4区補選の安倍後継を巡っては、当初、妻・安倍昭恵が本命視されたが固辞。その後、晋三の母・洋子が「後継者は孫がいい」と語ったといううわさが広まり、安倍後援会は「3人の孫」のうち誰かの出馬を期待した。3人とは、安倍晋三の兄・寛信の長男▽安倍の弟岸信夫氏の長男・信千世▽信夫の次男――だという。
3人の孫のうち、まず浮上したのは安倍姓を持つ寛信の長男だった。だが、本人に立候補の意思がなく、安倍後援会は擁立を断念した。後援会は次に岸信千世に打診したが、岸家は「2区の人たちへの仁義がある」などとして断った。岸家としては信夫の体調不良もあり、長男の信千世を4区補選に出す考えはなかった。信夫の次男も「(興味が)ない」とのこと。
その後4区補選の候補者擁立作業は難航した。前田晋太郎・下関市長、江島潔参院議員、杉田水脈衆院議員の名前などが次々と浮上しては消えた。「やはり信千世さんを招きたい」として、安倍家の血を引く信千世への期待が高まったが、信千世は父の跡目を継いで2区の補選に出馬する。こうして、4区補選に、安倍・岸一族は出ないことになった。
安倍晋三も、岸信介の血を引く3代目の世襲政治家である。その跡目をさらに、「安倍・岸」一族につなげようというアナクロニズム。
岸信夫は、2月7日に議員辞職した。その補選に長男の信千世が出馬することが確実視されている。当然に、世襲批判に曝されることになる。
しかし、岸信千世は、世襲について7日の出馬記者会見で問われ、こう答えたという。
「こういう(世襲政治家の)家庭環境にあったからこそ、政治の課題、地域の課題について真剣に考える機会が昔からあった」
どっぷりと世襲政治家の家風に浸った苦労知らずの人物の言う「政治の課題」「地域の課題」とは、いったい何だろうか。いかにして地盤・票田を固めるか、どうしたら先代から受け次いだ支持者の利益を擁護できるか、その利益擁護を票につなげるにはどうするか、この地盤をそのまま次に承継するにはどうすればよいのだろうか。真剣に考えていたというのは、そんなことのみに違いない。
(2023年2月9日)
本日、午前11時から、東京「君が代」裁判・5次訴訟の第8回口頭弁論期日。満席の法廷で、原告側から準備書面(11)を要約して陳述した。担当したのは、弁護団最若手の山本紘太郎弁護士。
今回のテーマは、国連の自由権規約委員会の日本政府に対する総括所見である。「日の丸・君が代」強制問題に触れて、その是正を求める内容となっている。セアートに続いてのダブル勧告となった。いつの間にか、日本は人権後進国になってしまった。同性婚不承認問題、LGBT差別問題、夫婦同姓強制問題等々と同様に、日本の自由や民主主義は、大きく世界の水準から遅れてしまった。日の丸・君が代強制の現場から、「世界水準から遅れた日本の人権状況」が見えてくるのだ。
以下、山本弁護士の陳述である。じっくりとお読みいただきたい。
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本日陳述の準備書面(11)につき概要を口頭で説明いたします。
1 準備書面(11)の位置づけ
(1)原告らは、約2年前の2021年3月31日に提訴して以来、10・23通達から始まった国旗国歌についての起立斉唱命令、そして職務命令に従えなかった教職員には機械的累積的に懲戒処分を科すという都教委の処分が違憲違法なものであるとの主張を重ねてきました。そのような中、正に都教委の問題が国連の自由権規約委員会の審査で取り上げられていました。そして、昨年2022年11月3日、自由権規約委員会は日本政府に対して勧告を出しました。その結論を読み上げます。
38.委員会は、締約国(日本)において思想及び良心の自由が制限されているとの報告に懸念を抱いている。学校の式典で国旗に向かって起立し、国歌を歌うということに従わないという教師の消極的で破壊的でない行為の結果、一部の者が最長6ヶ月の職務停止の処分を受けたことを懸念している。さらに、委員会は、式典中に生徒に起立を強制するために物理的な力が行使されたとされることに懸念している(第18条)。
39.締約国(日本)は、思想及び良心の自由の効果的な行使を保障し、規約第18条の下で許容される狭義の範囲を超えて制限するようないかなる行動も慎むべきである。自国の法律と慣行を規約第18条に適合させるべきである。
勧告を踏まえ、原告らの主張のうち、主に憲法違反、条約違反の主張をより盤石なものとすることが準備書面(11)の目的です。
(2)勧告からも明らかなとおり、昨今、国旗国歌の起立斉唱命令をめぐる問題は、国内に留まらず、国際的な関心事にもなっています。
国旗国歌の起立斉唱命令をめぐる問題について、前回2014年、自由権規約委員会から勧告が出ていたことは、準備書面(8)で主張しました。
同じ問題で、ILO・ユネスコ合同委員会セアートから、2019年・2022年と繰り返し勧告が出ていることは本訴で主張してきました。
更に、2022年11月、総括所見において勧告が出されました。
既に準備書面(8)で主張したところですが、総括所見がどのようなものなのかについて若干補足します。自由権規約40条では、締約国に、条約加入後の一定期間に、条約上の義務履行状況を条約の実施機関である自由権規約委員会に政府報告書を提出し、審査を受ける手続きである国家報告制度を採用しています。条約の実施機関が締約国の条約の実施状況を監視するモニタリングシステムです。自由権規約委員会は、政府報告書の審査の後、自由権規約40条4項の規定に従い適当と考え得る意見として総括所見を出し、締約国に送付します。総括所見は、「序、積極的側面、主要な懸念事項および勧告」から構成され、一般的に自由権規約委員会からの勧告というと、この総括所見における勧告のことを指すことになります。
総括所見は、締約国の国内法令や行政慣行など、人権侵害の温床となっている問題点の改善を勧告することに力点が置かれています。2022年総括所見においては、国旗国歌の起立斉唱命令をめぐる問題に懸念が示され、勧告が出されました。前回2014年総括所見においても勧告を受けていましたが、2022年の総括所見では、より具体的かつ明示的に問題が取り上げられたことが特徴として指摘できます。
(3)言うまでもなく、日本は条約である自由権規約に批准しています。国際協調の精神が必要であり、条約の実施機関からの指摘は無視できません。
条約の実施機関からの勧告を踏まえた法解釈の必要性については、最高裁判所自身が指摘しているとも言えます。記憶に新しいところでは、夫婦別姓に関する2021年6月23日の最高裁判決において、その理由と三浦守裁判官の意見において条約の実施機関である女子差別撤廃委員会からの勧告が出たことが指摘され、宮崎裕子裁判官と宇賀克也裁判官の反対意見では、違憲判断を基礎づける事情として勧告が引用されています。また別の、非嫡出子の法定相続分に関する2013年9月4日の最高裁決定においても、違憲判断をする際の一事情として自由権規約委員会などからの勧告を指摘しています。更に、元最高裁判所判事の千葉勝美弁護士は、憲法と国際人権法で共通のテーマが争点となる事件においては、勧告の基である「国際人権法」について、「憲法解釈において、これらを除外する合理的な理由がない限り、参考にしなければならない必須の要素とされているものと考える。」とまで述べています。
今日において、条約の実施機関からの勧告は、憲法をはじめとする日本の法解釈において必ず考慮すべき事情と言うべきです。
(4)そこで、準備書面(11)では、原告らの主張のうち、その第1において条約違反を、第2において憲法違反を主張します。憲法の掲げる国際協調の精神から2022年総括所見による勧告の存在やその内容を踏まえて法解釈がされなければならないこと、そして、国旗国歌の起立斉唱命令をめぐる法令や被告らの実務は憲法や条約に違反することを明らかにしました。
2 準備書面(11)における各主張の概要
(1)条約違反(準備書面(11)第1)
国連の自由権規約委員会は、原告らの不起立等を自由権規約18条が保障する思想、良心の表明と捉え、都教委の法令や行政慣行が思想、良心の表明の自由を侵害していることに懸念を示し、自由権規約18条に適合するよう、人権侵害の温床となっている都教委の法令や行政慣行の改善を勧告しました。
自由権規約委員会は、本訴で争われている都教委の法令や行政慣行は自由権規約18条に適合していないと判断しています。
そして原告らは、条約実現義務がある裁判所には、10・23通達や本件職務命令、本件懲戒処分が条約不適合によって無効になることを宣言すべきであると主張しています。
起立斉唱命令をめぐる2011年最高裁判決が示した憲法19条の人権の保障範囲と自由権規約18条の人権の保障範囲が異なっています。憲法違反とは別個の解釈基準で条約違反は判断されなければならないことを強調しています。
(2)憲法違反(準備書面(11)第2)
人権の普遍性、国際協調の精神から、その精神、原理原則を同じくする自由権規約を踏まえた憲法解釈をすべきことを3つの視点から主張しました。
まず、自由権規約委員会の委員から、職務命令に従って教育を行うよう求めることと起立斉唱行為を求めることは別であり、起立斉唱命令による思想、良心の自由の制限と自由権規約18条の適合性を問う質問が出ていました。本件職務命令が教育実施を目的としても、思想、良心の自由の制限は、それはそれとして発生するからです。このような、国際的な常識で違憲審査をすれば、本件職務命令は違憲無効です。明治憲法下における思想弾圧の歴史を反省し、法律の留保を認めず、本来は自由権規約よりも徹底的に人権保障をしているのが日本国憲法だからです。
次に、2022年総括所見は、自由権「規約第18条の下で許容される狭義の範囲を超えて制限するようないかなる行動も慎むべきである。」と述べます。これは、国家による恣意的な解釈を制限するという違憲審査基準論における二重の基準論の考え方と趣旨を同じくします。憲法と自由権規約はその精神、原理原則を同じくし、国際人権規約に定められた権利は日本国憲法上も保障されているとするのであれば、憲法19条には、自由権規約18条の保障範囲以上の人権保障が求められているというべきです。表明の自由の違憲審査には、少なくとも、いわゆる厳格な審査が必要です。起立斉唱命令をめぐる2011年最高裁判決の法理では、人権保障水準が国際社会のものよりも低く、憲法19条がその役割を果たせていません。
更に言えば、10・23通達など都教委の実務は、法律より上位にある条約である自由権規約への不適合を勧告されました。条約不適合の勧告は2014年に引き続き2回目です。都教委の実務は、ILO/ユネスコ合同委員会のセアートからも勧告を受けています。国際協調の精神は教育の目標の一つです。都教委は、自由権規約や教員の地位に関する勧告に適合するよう率先して対応しなければなりません。しかし、都教委は、何ら実質的な対応をせず、今日に至りました。かような状況で形式的に繰り返し続けられる本件職務命令に合理性を見出すことはできません。そして起立斉唱命令をめぐる最高裁判決の法理によれば、本件職務命令に合理性を見出せなければ、違憲無効です。
3 さいごに
数多の人権問題を扱う国際機関から個別の問題に勧告が出ると言うのは、決して無視してはならない理由と重みがあります。曲がりなりにも「人権先進国」を標榜する日本においては猶更です。裁判所におかれては、起立斉唱命令をめぐる2011年最高裁判決が出てから今日に至るまでの国内外の社会実態を踏まえ、人権を保障することで国際社会の平和と発展に寄与できるような適正な判断を求める次第です。