澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

天皇(裕仁)が口にした松川事件の「真相」

(2022年1月7日)
 年末に、「拝謁記」が出版された。「拝謁」とは、臣下が王や君主に面会することである。もっとも、この出版は古代・中世の記録ではない。20世紀後半の、現行日本国憲法制定後における、大真面目な「凡庸な君主と聡明な臣下」の面談記録なのだ。臣下の側の筆の運びが、いかにも「拝謁」の文体となっている。この臣下は、この時代に、この「君主」に対して、こうまでへりくだらねばならなかったのだろうか。その内容の一部を下記で一読できるし、可視化した映像を視聴もできる。このような非対称の人間関係には、生理的嫌悪を禁じえない。

昭和天皇「拝謁記」―戦争への悔恨
https://www3.nhk.or.jp/news/special/emperor-showa/?tab=1&diary=1

昭和天皇は何を語ったのか?初公開・秘録「拝謁(はいえつ)記」?
https://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20190817_2

 この凡庸な君主たる人、私の子どもの頃の記憶では、「あっ、そー」としかしゃべることのできなかった御仁。 「あっ、そー」 だけでなくしゃべることができるんだ。とはいうものの、どうしてこんなにふんぞり返っていられるのだろう。記録されたとおりの調子でしかしゃべることができないのだろうか。滑稽でもあり、哀れでもある。

 「凡庸な君主」とは天皇(裕仁)、「聡明な臣下」とは初代宮内庁長官 田島道治。正確な書名は、「拝謁記 1 昭和24年2月~25年9月 (昭和天皇拝謁記 初代宮内庁長官田島道治の記録 第一巻 ? 2021/12)である。この「拝謁記」は、2019年8月、NHKによるスクープという形で世に出た資料。この度の岩波からの出版によって新たな話題となっている。

 「特徴的なことは、録音を起こしたような会話の記述」「昭和天皇の生々しい肉声が記された超一級の資料」「好悪の感情を隠さない天皇の人間的側面が明らかになっている」とされ、さらに「昭和天皇が戦争への後悔を繰り返し語り、深い悔恨と反省の気持ちを表明したいと強く希望していた」(が、叶わなかった)ことが、田島の筆によってメモされている。

 2000万もの被侵略国の人々を殺し、310万もの日本人の死にも責任を負わねばならないこの天皇(裕仁)が、「戦争への後悔を繰り返し語り、深い悔恨と反省の気持ちを表明したい」と言っても…今さら…なあ。人の責任には、どうにか取り返しのつくものと、どうにも取り返しのつかぬものがある。あんたの責任は、どうしたところで取り返しのつくものではない。そうだろう。

 ところで、興味深いのは、この「拝謁記」に「松川事件」に関する記述がみえること。天皇(裕仁)の方から、田島に「松川事件」の「真相」について語りかけているのだ。1953(昭和28)年11月11日の田島の記録の全文が以下のとおり。(カタカナ書きの部分はひらがなに直す)

(昭和天皇の発言) 「一寸(ちょっと)法務大臣にきいたが松川事件はアメリカがやつて共産党の所為(せい)にしたとかいふ事だが」「これら過失はあるが汚物を何とかしたといふので司令官が社会党に謝罪にいつてる」

(田島のメモ) 「田島初耳にて柳条溝事件(原文ママ)の如き心地し容易ならぬ事と思ふ」

 松川事件は、連合国軍総司令部の統治下だった1949年夏、下山事件、三鷹事件に続いて起こった。戦後最大の冤罪事件であり、権力によるデッチ上げ事件である。最終的に無罪を勝ち取った法廷闘争の金字塔たる事件。

 福島市松川町の旧国鉄東北線で線路のレールが何者かによって外され、通過した列車が脱線・転覆し、乗務員3人が死亡した。国鉄と東芝の労働組合幹部など20人が逮捕・起訴された。ときの政権によって共産党の犯罪と喧伝され、多くの共産党員が被告人とされた。1950年12月6日一審福島地裁判決では20人の被告人全員が有罪判決を受けている。内5名が死刑であった。

 1953年(昭和28年)12月22日の二審仙台高裁判決では、3人が無罪となっているものの17人が有罪(うち死刑4人)であった。天皇(裕仁)の松川事件への言及は、この二審判決直前の時期に当たる。

 この17人の有罪は、国民的な裁判批判の大運動展開の後に、事件から14年後に全員の無罪が確定した。が、事件の真犯人は今に至るも未解明である。当時鉄道を管理統制していた占領軍ならこの事件を起こせる、占領軍以外には起こせない、と言われていた。天皇(裕仁)は、それ以上の具体的な情報を持っていたのだろう。「法務大臣にきいたが松川事件はアメリカがやって共産党の所為にした」は、いま天皇(裕仁)生きていれば、内容を問い質したいところである。

 なお、当時の法務大臣は、指揮権発動で失脚したことで名高い犬養健(1952年?1953年)であり、その前任は反共活動で名高い木村篤太郎である。裕仁に情報を入れたのは、このどちらかであろう。

 しかし、残念ながら、「拝謁記」のこの日の記述はノートの最後のページに書かれ、いつもの詳細さに欠けている。田島自身が、「此日の記事は紙面を考へ要約なり」として筆を置いている。NHKが解読を依頼した現代史専門家らは、次のようにコメントしている。

 「汚物の意味は不明だが、法務大臣が天皇に報告するからには、根拠不明のうわさ話などではなく、アメリカから日本の捜査当局にもたらされた話だろう。これはこれまで根拠なく語られてきた謀略説を裏付ける初めての史料ではないか」「衝撃的な話だが、この記述だけでは評価しようがない。真偽が定かでない記述は慎重に扱うべきだ」

 きっといつか、解明される日が来るだろう。「松川事件の真犯人」と、「共産党のせいにした」権力の策動が。

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