「日の丸」この厄介なるもの
富士には月見草がよく似合う。
さて、日本には何が似合うだろうか。
富士・さくら・白砂青松・琴の音・かな文字・和歌俳句・鮮やかな四季のうつろい、そして日本国憲法…。断じて「日の丸」ではない。
「日の丸」は、かつては特攻と武運長久の願いとによく似合った。いまは、右翼街宣車と安倍自民とによく似合っている。
参院選運動期間最終日の昨夕、安倍自民の「最後の訴え」は秋葉原だった。そこに集まった群衆が日の丸を打ち振っている姿をネットの動画が映し出している。まことに異様な光景ではあるが、安倍と右翼と日の丸、実はとてもお似合いなのだ。かつての保守本流が、こうなってはならないと距離を置いていたものに、安倍自民党はどっぷりと浸かっている。なるほど、安倍が言う「取り戻したい日本」とは、群衆が日の丸を打ち振るあの時代の日本のことなのだ。
各国の国旗は、それぞれにその国家の基本理念となるメッセージを持っている。自由や平等や博愛、あるいは民族の団結や労働者の権力の正統性等々。戦前のドイツは、ナチスの党旗であったハーケンクロイツを国旗とした。この旗のデザインが、国家社会主義とアーリア人優越のメッセージを象徴するものとされた。敗戦後、国家の体制が根本から変わったときに国旗国歌の変更はごく自然な成り行きとなった。ドイツもイタリアも新国旗を採用したが、第2次大戦の敗戦国のうち、ひとり日本だけが、戦前と同じ国旗国歌を採用している。これも歴史認識を問われる大きな問題。
日の丸・君が代は大日本帝国と余りにも緊密に結びついた。天皇を神とする宗教国家の象徴でもあり、天皇主権・軍国主義・民族優越思想・排外主義、そして侵略主義・権威主義・人権軽視の象徴でもあった。敗戦と新憲法制定によって、国が真に生まれ変わったとするのであれば、国旗国歌も変更すべきが当然であった。
敗戦を挟んで、新旧二つの日本について、その連続性を重視する立ち場と、断絶性を重視する立ち場が相克している。日本国憲法は、断絶の立場をとりつつも象徴天皇という曖昧模糊なるものを制度として残した。そして、日本人自身の手による、旧体制への徹底した弾劾も、戦争責任の追求も行われなかった。その不徹底の憾みが、今日、政権与党の街頭選挙演説に「日の丸」を打ち振る愚かな群衆を生み出している。
日の丸が、全国民から等しく受容されるシンボルであれば、自民党支持者がこれを打ち振る理由はない。明らかに、他党支持者には受容しがたいシンボルだという認識があればこその「特定陣営の選挙運動の道具として有効な日の丸」なのだ。しかも、自民党支持者全体ではなく、安倍晋三に体現される排外主義・軍国主義・国体思想のシンボルとして意識されている。
つまり、日の丸はタテマエとしては、国民全体のシンボルなのだが、その現実において右翼勢力のシンボルとなっている。この二重性が、「安倍自民に限って支持者が日の丸を打ち振る」理由となっている。日の丸の現実は、国民全体を統合する役割ではなく、分裂を演出しているのだ。右翼が安倍を支え、安倍が右翼を鼓舞している。ヘイトスピーチの横行は紛れもなく、安倍政権が生み出したもの。
本日の選挙結果の如何にかかわらず、既に状況は深刻である。長期保守政権がつくりだした格差と貧困そして社会不安が、鬱屈した民衆を育てている。民衆の鬱屈が政権批判に向かわず、まだ一部ではあるが日の丸を打ち振る排外主義的な心理を醸成している。
日の丸・君が代強制を許さない運動と訴訟とは、益々その意義を大きくしている。
(2013年7月21日)