(2020年7月5日)
昨日(7月4日)のこと、東京弁護士会から会報「リブラ」が届いた。それに、6ページの「関弁連だより」が同封されている。これを見て驚いた。巻頭を飾っている記事が、どうみても「アパホテルの宣伝」なのだ。百歩譲っても「アパホテル提灯インタビュー」だ。右翼・改憲派として名高い、あのアパホテルである。南京虐殺はなかったと言って憚らない歴史修正主義のあのアパホテル。人権擁護を使命とする弁護士会が取りあげる代物ではない。
関弁連ホームページに、「従前「わたしと司法」と題しインタビュー記事を掲載しておりましたが,このたび司法の枠にとらわれず,様々な分野で活躍される方の人となり,お考え等を伺うために,会報広報委員会が色々な場所へ出向くという新企画「関弁連がゆく」を始めることとなりました。」とある。その第1回の企画が、よりにもよって、アパホテルなのだ。不見識にもほどがある。
怒り心頭だが、関弁連とは何か。アパホテルとは何か。そして、何故アパホテルの提灯記事が、「関弁連だより」にふさわしくないのか、順を追って語らねばならない。
弁護士会は弁護士法にもとづく公法人であり、全弁護士が会員となる強制加入団体である。どの国家機関からも統制を受けることのない自治組織であることを特徴とし、個別の弁護士は、その業務の遂行に関しては弁護士会からのみ指導監督を受け、最高裁からも官邸からも法務省からも容喙されることはない。全国に、52の単位弁護士会があり、これを統括する日本弁護士連合会(日弁連)がある。
弁護士法にもとづく単位会と日弁連との間に、公法人ではない「中2階」の組織がある。通例「弁連」というようだが、全国8高裁の管轄内単位弁護士会の連合体である。
その8弁連のうち最大の規模をもつのが、「関東弁護士会連合会、略称「関弁連」である。東京高等裁判所管内13弁護士会によって構成されている。分かりにくいが、東京の三弁護士会(東京・第一東京・第二東京)と、神奈川県・埼玉・千葉県・茨城県・栃木県・群馬・山梨県・長野県・新潟県・静岡県の各弁護士会の連合組織。「関弁連に所属する弁護士の数は約2万人で,日本の弁護士の約60%が関弁連に属しています」という。
その歴とした弁護士団体広報紙のトップ記事、しかも新企画「関弁連がゆく」の第1回がアパホテルなのだ。いったい「関弁連はどこへ」ゆこうというのだ。
「たより」のトップに大きな顔写真、アパホテル創業者夫婦の次男で専務だという人物。冒頭に、「アパホテルと言えば,アパ社長こと元谷芙美子社長の笑顔のポスターで皆様にもお馴染みのことと思いますが,今回は,元谷芙美子社長のご子息であり,アパホテルで専務を務めていらっしゃる元谷拓さんに,アパホテルの色々をうかがってまいりました。」という、歯の浮くようなおべんちゃら。
2ページにわたるこのインタビュー記事には、人権も平等も、排外主義も歴史修正主義も、そして右翼政治家支持問題も改憲も、まったく出て来ない。要するに、アパホテルが問題企業とされてきた論点を全て素通りして、気恥ずかしいヨイショの質問に終始しているのだ。これは、弁護士会の品位に関わる。弁護士会の恥といっても過言ではない。この「たより」は、弁護士会の広報紙ではないか。アパホテルや右翼の宣伝チラシではない。
社会がアパホテルの存在を知ったのは、田母神俊雄の名と同時であったと言ってよい。2008年アパホテルは第1回「真の近現代史観」懸賞論文を募集、その大賞を獲得したのが当時現役の航空幕僚長・田母神であった。この件で田母神俊雄は更迭されてその地位を失うことになる。なお、この大賞は、「最優秀藤誠志賞」と名付けられていた。藤誠志とは、アパホテルの創業者元谷外志雄のペンネームである。
「真の近現代史観」というのが元谷外志雄の持論なのだ。通説の歴史は全て嘘だ。あれは、自虐史観でありGHQ史観だ。「日本は西洋列強が侵略して植民地化していたアジアの植民地軍と戦い、宗主国を追い払った植民地解放の戦いを行った。にもかかわらず、東京裁判において、日本が侵略国家であり、中国国民党政府軍が謀略戦としてつくった捏造の歴史によって南京大虐殺を引き起こした悪い国だと決めつけられた」という類の、典型的な歴史修正主義。
2017年1月、アパグループは客室に置いた歴史修正主義書籍『本当の日本の歴史 理論近現代史』で名を上げる。元谷外志雄が書いた、旧日本軍の南京事件を否定する内容。「いわゆる南京虐殺事件がでっち上げであり、存在しなかったことは明らか」というもの。この英語版を読んだ海外客の発信が大きな反響を呼び、国内外からの批判が殺到して、国際問題にまで発展したことが話題となった。
それだけではなく、元谷は「我が国が自虐史観から脱却し、誇れる国『日本』を再興するため…」として、「勝兵塾」を開設し、右翼人脈の改憲派政治家を支援している。稲田朋美やや下村博文など、安倍人脈の政治家が多く挙げられている。
もちろん、人の思想・信条は自由である。陰謀論も歴史学の定説批判も、他人に押し付けない限りは自由である。しかし、人権擁護と社会正義の実現を使命とする弁護士会がその提灯を持ってはならない。日本国憲法とその理念の擁護から大きくはずれた企業を推薦し支援するような行為があってはならない。アパホテルのような問題企業の宣伝を買って出るような不見識があってはならない。
コロナ禍の時節、格差社会の底辺の人に手を差し伸べている献身的な活動を行っている優れた人々がいるではないか。強者による人権侵害に臍を噛んでいる人々が数多くいるではないか。不当な差別に悔しい思いをしている人も、あちこちにいる。弁護士会が寄り添うべきは、まずそのような人々であろう。断じて、アパホテルではないのだ。
弁護士も、弁護士会も、その社会的使命を忘れてはならない。
(2020年7月4日)
私は、盛岡の生まれで、故郷岩手の事情は常に気にかかる。このところのコロナ禍では、東京の感染拡大を尻目に唯一「感染者ゼロ」を誇っている。とは言うものの、どうも「感染者ゼロ」の維持は目出度いだけのことではないようだ。
「感染者ゼロ」の重さを知ったのは、富山県での第1号感染者の「村八分」報道に接して以来のこと。この春、京都市内の大学を卒業した女性が、郷里の富山に戻って県内感染の第1号となった。これが3月30日のこと。帰郷直後に友人数名と焼き肉屋での会食の機会があって再感染の機会となったようである。続いて数名の感染者が確認されると、「京都からコロナを持ち込んで富山に広めた」とバッシングされる事態となった。
当人も家族もネットで容易に特定され攻撃された。「村八分になって当然」という、心ないツィッターが今も残っている。真偽は定かでないが、「学生の自宅が石を投げられた」「父親が失職した」「市長に詰問された」「村八分になっている」などの情報が流れた。当人は軽症で間もなく検査では陰性になったが、周囲の人々が怖くなってなかなか退院できないとも報道された。
岩手ではまだ「感染者第1号」が出ていない。重圧は、日に日に増しているようだ。東京から帰省したいと連絡してきた息子に対して、両親から「絶対に帰ってくるな。第1号になったらたいへんなことになる」という返事があったとか、東京ナンバーの車は停めておけないなどという報道が繰り返されている。社会的同調圧力の強大さを物語っている。
この社会的同調圧力は、容易に警察と結びつく。「自粛警察」「マスク警察」「自粛ポリス」「コロナ警察」などの言葉があふれる世となった。身近に、思い当たる出来事がある。
かつて、社会的同調圧力は、君のため国のための、国民精神総動員に最大限利用され、助長された。国策に積極的協力を惜しむ人物には、「非国民」「国賊」という非難が浴びせられた。今なお、自粛せぬ輩には社会的な制裁が課せられる。ときには、警察力の行使を借りることも辞さない。
この心性が、対内的な求心力ともなり、排外主義にもなった。関東大震災の際の朝鮮人虐殺には「自警団」という名の非国民狩りの組織が作られもした。
丸山眞男の「日本の思想」(岩波新書)の中に、「國體における臣民の無限責任」という小見出しで、以下の印象深い記述がある。この「無限責任」は、社会的な責任であり、同調圧力が個人に求める責任である。天皇制とは、社会的同調圧力を介して、人民を支配するという見解と読める。
かつて東大で教鞭をとっていたE・レーデラーは、その著『日本?ヨーロッパ』のなかで在日中に見聞してショックを受けた二つの事件を語っている。一つは大正十一年末に起った難波大助の摂政宮(註・裕仁)狙撃事件(虎ノ門事件)である。彼がショックを受けたのは、この狂熱主義者の行為そのものよりも、むしろ「その後に来るもの」であった。内閣は辞職し、警視総監から道すじの警固に当った警官にいたる一連の「責任者」(とうていその凶行を防止し得る位置にいなかったことを著者は強調している)の系列が懲戒免官となっただけではない。犯人の父はただちに衆議院議員の職を辞し、門前に竹矢来を張って一歩も戸外に出ず、郷里の全村はあげて正月の祝を廃して「喪」に入り、大助の卒業した小学校の校長ならびに彼のクラスを担当した訓導も、こうした不逞の徒をかつて教育した責を負って職を辞したのである。このょうな茫として果しない責任の負い方、それをむしろ当然とする無形の社会的圧力は、このドイツ人教授の眼には全く異様な光景として映ったようである。もう一つ、彼があげているのは(おそらく大震災の時のことであろう)、「御真影」を燃えさかる炎の中から取り出そうとして多くの学校長が命を失ったことである。「進歩的なサークルからはこのょうに危険な御真彩は学校から遠ざけた方がよいという提議が起った。校長を焼死させるょりはむしろ写真を焼いた方がよいというようなことは全く問題にならなかった」とレーデラーは誌している。日本の天皇制はたしかにツァーリズムほど権力行使に無慈悲ではなかったかもしれない。しかし西欧君主制はもとより、正統教会と結合した帝政ロシアにおいても、社会的責任のこのようなあり方は到底考えられなかったであろう。どちらがましかというのではない。ここに伏在する問題は近代日本の「精神」にも「機構」にもけっして無縁でなく、また例外的でもないというのである。
私は丸山に傾倒するものではないが、彼の言う「このょうな茫として果しない責任の負い方、それをむしろ当然とする無形の社会的圧力」「社会的責任のこのようなあり方」「ここに伏在する問題は近代日本の「精神」にも「機構」にもけっして無縁でなく、また例外的でもない」との指摘には、深く頷かざるを得ない。
(2020年7月3日)
日本民主法律家協会発行の『法と民主主義』6月号(6月29日発行・第549号)のご紹介とご注文のお願い。
5月号に引き続いての新型コロナ問題特集となっている。先月号の特集が「新型コロナウイルス問題を考える」だったが、今月号は「新型コロナウイルス問題があぶり出したもの」。今までは見えなかった、あるいは目につきにくかった諸問題が、このコロナ禍の中であぶり出されている。まずは、目を背けずに見つめなければならない。
巻頭論文が金子勝氏の「新型コロナウイルス対策はなぜ失敗するのか」。筆者は、住専破綻に端を発した金融危機や福島第1原発事故に典型的に見られるように、日本社会はリスク対応能力を欠いた無責任社会であるとし、今回のコロナ危機にも、適切な対応ができていないという。日本のコロナウィルス対応を失敗と断定して、クルーズ船「ダイアモンド・プリンセス号」事故以来の政府の対応を分析する。その上で、「危機管理の鉄則を踏まえた抜本的なコロナ対策こそが、最大の経済政策になる」という。
次いで、コロナ感染の拡大によってあぶり出された医療の脆弱性が、医療者からの2本の論文によって明らかにされる。これまで、政策的に医療は質も規模も脆弱化させられてきたのだ。
子どもの発達成長権から見た教育も脆弱なのだ。政治的思惑から学校が全国一斉の休校となって、子どもの環境における経済格差が教育格差となっている実態が語られている。
コロナ禍の中では、公文書の作成・保管もおろそかになっている。専門家会議の議事録はいまだ作成されていない。
そして、ドイツ・フランス・イタリアからの報告である。各国とも、真摯な議論をしていることがよく分かる。
さらに、各界各現場から「『新型コロナ問題』から見えてきたもの」の寸評をいただいた。この深刻な事態だからこそ見えてきた様々な問題、とりわけ、この「危機」から生じた社会的弱者への深刻な被害のしわ寄せは看過しがたい。敢えて、お一人の原稿字数を800字に抑えての凝縮したコメント。読者の関心に応える貴重なものとなっている。
なお、「あなたとランチを〈番外編〉」は、「美魔女は法民に乗って?」と題して、33年間「法と民主主義」の編集に携わってきた林敦子さんのインタビュー。この間、1号の欠落もなく「法と民主主義」を作り続けてきたことが、どれほどたいへんなものだったのか、その片鱗が語られている。
そのほか、特別報告が2本。「黒川弘務元東京高検検事長の定年延長と検察庁法改正案問題 ─ 問題の本質と廃案までの経過」「法律家662名が安倍首相を刑事告発 ― 政治資金規正法違反・公職選挙法違反」
以上、読み応えは十分と思う。
ホームページはこちら。
https://www.jdla.jp/houmin/index.html
そして、ご注文はこちらから。よろしくお願いします。
https://www.jdla.jp/houmin/form.html
特集●新型コロナウイルス問題があぶり出したもの
◆特集にあたって ……… 編集委員会・丸山重威
■日本はなぜ間違ったのか
◆新型コロナウイルス対策はなぜ失敗するのか ……… 金子 勝
◆医療政策の大転換を─ショックドクトリンの向こうへ─ ……… 吉中丈志
◆新型コロナ危機、なぜ日本の医療は、脆弱な実態をさらけ出したのか ……… 本田 宏
■基本的人権とコロナ緊急事態── 欧州各国に学ぶ
◆ドイツにおける新型コロナウイルス感染症への対応 ……… 奥田喜道
◆フランスの緊急事態における権力の統制 ……… 植野妙実子
◆期間限定と比例性の原則── イタリアからの報告 ……… 高橋利安
◆緊急事態時における公文書は誰のものか? ……… 榎澤幸広
◆新型コロナウイルス感染症の拡大と子どもの権利 ……… 世取山洋介
◆「新型コロナ問題」から見えてきたもの
前川喜平/鈴木敏夫/大久保賢一/原 和良/笹渡義夫/二平 章/伊賀興一/青龍美和子/大竹 進/菊地雅彦/長谷川京子/笹本 潤/長谷川弥生/原いこい/浪本勝年/金 竜介/岩崎詩都香
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◆連続企画●憲法9条実現のために〈30〉
新型コロナと在日米軍、日米地位協定 ……… 布施祐仁
◆特別報告
黒川弘務元東京高検検事長の定年延長と検察庁法改正案問題
── 問題の本質と廃案までの経過 ……… 大江京子
◆特別報告
法律家662名が安倍首相を刑事告発
──政治資金規正法違反・公職選挙法違反 ……… 米倉洋子
◆メディアウオッチ2020●《コロナ危機・余聞》
逃走する政治、問われるメディア、そして電通
国会閉幕、「火事場」に問題は錯綜 ……… 丸山重威
◆あなたとランチを〈番外編〉
美魔女は法民に乗って? ……… 林 敦子さんインタビュー×佐藤むつみ
◆改憲動向レポート〈No.25〉
コロナ禍の最中にも憲法審査会開催に固執する自民党・公明党・日本維新の会 ……飯島滋明
◆書評●道理の通る国をめざしての刑事弁護六〇年余
── 石川元也著『創意─事実と道理に即して 刑事弁護六〇年余─』(日本評論社) ……… 加藤文也
◆インフォメーション
◆時評●子育て・教育の行方?暴言・暴力の威力(弊害) ……… 村松敦子
◆ひろば●マイナンバー利用の失態と懲りない策動 ……… 奥津年弘
(2020年7月2日)
有史以来の人類の歩みは、野蛮から文明への進化であった。もっと正確には、人類は、野蛮を排して文明を構築しようと努力を積み重ねてきた。もちろん、歴史が一直線に進化してきたわけではなく、これが法則という論証などできようもない。ときに、その逆流を見せつけられて暗澹たる思いを噛みしめることがある。30年前の天安門事件がそうだったし、香港で今進行している事態が同じ出来事である。
野蛮を象徴するものは何よりも暴力である。また、暴力にもとづく独裁であり専政でもある。文明を象徴するものは何よりも非暴力である。また、暴力に基づかない民主政であり、人権の思想である。
6月30日まで、香港は文明の圏内にあった。不完全ながらも、自由と民主主義と人権の享受が保障される世界であった。その深夜、突如として圏境を越えて野蛮が押し入って来た。一夜明けた7月1日の香港は、文明が圧殺されて野蛮に占領された別世界と化した。
何よりも重要な政治的言論の自由が失われ、民主主義と人権は逼塞した。代わって、剥き出しの権力が大手を振って闊歩する専政と弾圧国家の一部となったのだ。これは、資本主義と社会主義との対立などでは断じてない。まさしく、文明が野蛮に蹂躙された図なのだ。
民主主義の要諦は、人民の人民による人民のための政治(government of the people, by the people, for the people)と定式化される。「人民による人民のための政治」(government by the people, for the people)の意は分かり易いが、「人民の政治」(government of the people)は、やや分かりにくい。分かりにくいが、これこそが民主主義の神髄だという。
「人民の政治」(government of the people)のof は、同格を表す前置詞。つまり、(government = the people)であって、治める者と治められる者とが同格で同一であること、「自同性」を意味するのだと説かれる。
7月1日以来、香港人民の治者は北京政府であり中国共産党となった。ここには、治者と被治者の自同性も、同格性も同一性もない。暴力に基づく抑圧者と非抑圧者の関係があるのみ。ここには、民主主義の片鱗もない。
文明は、長い年月をかけて人権思想を育んできた。人権を権力の恣意から擁護しようと、法の支配という原則を作り、権力分立というシステムを作り、司法の独立を守り、罪刑法定主義を世界のスタンダードとしてきた。
その香港の文明は、一夜にして潰えた。今や、野蛮が跳梁する様を見せつけられるのみ。
昨日(7月1日)の香港では、文明の側に属する1万の民衆が、野蛮の中国政府に抗議するデモに立ち上がった。参加者は恐怖心を振り払って、「国安法という悪法を恐れず、中国共産党の独裁に抵抗する」「天が共産党を滅ぼす」「今こそ革命の時だ」―、さまざまなプラカードを手にした市民が声を上げながら行進したと報じられている。その心意気には感動せざるを得ない。
しかし、機動隊は真新しい紫色の警告旗をデモ隊に見せつけた。「国家分裂や中央政権転覆に該当し、国安法違反罪で逮捕される可能性がある」。そして「香港独立」と記した旗を手にした男性がその場で逮捕された。逮捕者は300人余に及んだという。
デモ行進も「香港独立」のプラカードも、文明世界では表現の自由として保障される。しかし、野蛮の世界と化したこの地では許されないのだという見せしめ。文明と野蛮のはざまで、人は揺れ悩む。「怖いが、怒りを我慢できず、ここ(デモ)に来た」という学生の声は、事態の深刻さだけでなく、希望の芽も語っているのではないか。
この歴史の逆流を目の当たりにして、小さくても精一杯の批判の声を積み上げていこうと思う。
(2020年7月1日)
本日・7月1日は、香港がイギリスから中国に返還された日。アヘン戦争で中国から割譲された香港は、1997年の今日、今度は強引に中国に戻された。50年間(2047年まで)は、一国二制度で高度の自治を約束されてのことである。しかし、以来23年にして、この約束は蹂躙されている。高度の自治は潰え、中国のイメージは地に落ちている。
香港の「民間人権陣線(民陣)」という民主派団体が、2003年以降、毎年7月1日の返還記念日には大規模なデモを継続して主催してきた。昨年(2019年)のデモは、「逃亡犯条例」改正案に反対する100万とも55万人とも言われた規模となったが、今年は香港警察当局がデモを禁止している。北京の指示があってのことか、香港政府当局の忖度によるものか、どちらでも「差不多(チャープトウ)」だ。当局は新型コロナ対策を口実にしているが、信じる者はない。香港のコロナ感染者数は既に大幅に減っているという。
6月28日から開かれていた中国全国人民代表大会(全人代)常務委員会はは、最終日の30日夕刻に、香港への統制を強化する「香港国家安全維持法案」を可決成立させ深夜に公布した。そして、本日7月1日からの施行だという。「国家安全維持法案」とは、香港の自由圧殺法案であり、民主主義封じ込めの法案であり、政治的活動に対する弾圧法案にほかならない。なんという性急で乱暴なやり口。なんという苛酷な圧制。
報道によれば、今回成立した国家安全維持法によって、香港に中国政府の出先機関「国家安全維持公署」が新設され、香港での治安維持を担う。香港政府がつくる「国家安全維持委員会」は中国政府の「監督と問責」を受け、中国政府の顧問を受け入れる。香港政府は中央政府の監督下に置かれ、国家分裂や政権転覆、外国勢力と結託して国家の安全に危害を加える行為を処罰対象とする。中国、香港への制裁を外国に要求することも処罰対象となる、という。
この中国の、つまりは中国共産党の度量のなさは、いったいどうしたことか。何を焦っているのだ。チベットやウィグルで何が行われているか。断片的な報道では事態がよく分からない。しかし、香港の事情を見ていると、もっと酷いことが各地で強権的に行われているのであろうと推量せざるを得ない。
もともとは、鄧小平が言い出した一国二制度ではないか。世界に約束された「高度な自治」のはずではないか。それが、いま強権的に蹂躙されようとしている。事態はきわめて深刻である。
今や中国は、恐るべき人権侵害大国である。国際世論の厳しい批判を、全て「内政干渉」と切り捨て、陰謀論さえ口にする。このなりふり構わぬ様は異様としか評しようがない。
香港の著名な民主派団体「香港衆志」は30日、解散を発表した。香港民主派の活動家に「逮捕情報」の恐怖が広がっているという。
その標的のひとりとみなされている周庭(英名 Agnes Chow Ting、アグネス・チョウ)のツィッターが痛ましい。
2020年6月28日
今日の香港での報道によると、香港版国家安全法は火曜日(30日)に可決される可能性が高い、そして「国家分裂罪」と「政権転覆罪」の最高刑罰は無期懲役という。日本の皆さん、自由を持っている皆さんがどれくらい幸せなのかをわかってほしい。本当にわかってほしい…😭
2020年6月30日
私、周庭は、本日をもって、政治団体デモシストから脱退致します。これは重く、しかし、もう避けることができない決定です。
絶望の中にあっても、いつもお互いのことを想い、私たちはもっと強く生きなければなりません。
生きてさえいれば、希望があります。周庭
「生きてさえいれば、希望があります。」という言葉の中に、切実さと絶望の深さが見える。「自由を持っている、幸せな日本の私たち」が代わって声を上げなければならないと思う。
(2020年6月30日)
6月25日、東京高裁(阿部潤裁判長)が、「在外邦人の最高裁裁判官国民審査制限は違憲」という判断を含む判決を言い渡した。当事者は「勝訴」の二文字を掲げて、記者会見に臨んだ。もっとも、一審では認められた慰謝料請求が高裁では棄却となり、主文だけでは「敗訴」の判決。
同判決は理由中に、「次回までに制度の改善なく(原告らが)投票不能なら、国賠法上の違法となる」とわざわざ書き込んでいるという。次回総選挙は目前ではないか。上告の有無にかかわらず、政府はこの判決に応えて、早急に臨時国会を開いて「最高裁判所裁判官国民審査法」の改正を行うべきである。いずれ、この時期に最高裁裁判官の国民審査が話題に上るのは結構なことだ。
この事件の原告になっているのは、米国在住の映画監督想田和弘さんら5人。煩わしさに負けず、費用負担にもめげず、このような提訴をする人がいるから新たな判例も生まれ、制度も改善される。想田和弘さんらの行動に敬意を表したい。
在外邦人の選挙権行使制限の問題については、「在外日本人選挙権剥奪違法確認等請求事件」と名を冠した訴訟の05年9月14日大法廷判決で決着済みである。
96年10月20日総選挙当時において、在外邦人に一切の在外投票を認めなかった公職選挙法の規定は、憲法15条、43条、44条に違反すると判断し、しかも「原告らが次回の選挙において選挙権を有することの確認を求める訴え」の適法性を認めて認容した。のみならず、国会の立法不作為(為すべき立法を怠ること)に過失あることまで認めて、慰謝料5000円の支払を命じた。
この最高裁判決の後、衆参両院の選挙については、在外邦人の選挙権行使が可能となったが、総選挙の際に行われる最高裁裁判官の国民審査には投票できない状態が続いて、2017年国民審査についての合違憲が争われることになった。
昨年(2019年)5月の東京地裁一審判決(森英明裁判長)では、その違憲性を認めた上で、国の立法不作為の責任をも認めて、原告1人当たり5000円の慰謝料を賠償するよう命じていた。
その一審判決によれば、国民審査を巡って2011年に東京地裁で同種訴訟の判決があり、海外から国民審査に投票できないことを「合憲性に重大な疑義がある」と指摘していたという。にもかかわらず、その後も国が立法措置を講じなかったことについて2017年の国民審査で審査権を行使できなかった事態に至ったことを正当化する理由はうかがわれない」と非難。「長期間にわたる立法不作為に過失が認められることは明らか」として、国の賠償責任を認定している。これは、立派な判決。
この度の控訴審判決は、国会の責任(立法不作為)を認めず賠償請求を棄却した。この点、必ずしも立派な判決とは言いがたい。
しかし、控訴審判決には、国民審査の意義を「司法権に国民の意思を映させ、民主的統制を図るための制度だ」との指摘があるという。選挙権の保障と同様、その制限にはやむを得ない事情が必要だとした。
しかも、審査権は選挙権と同様、「権利行使の機会を逃すと回復できない性質を持ち、賠償では十分に救済されない。」「次回審査で審査権が行使できなければ違法になると認めた」。制度の改正を急げとの、メッセージであろう。
とかく影が薄いと言われる最高裁裁判官の国民審査だが、主権者国民が最高裁裁判官を見守っているということを確認する貴重な機会である。
どんな経歴のどんな人物が最高裁裁判官になって、どんな裁判をしてきたのか。有権者によく知ってもらうことが必要である。日本民主法律家協会は、国民審査の都度、その努力を重ねてきた。
そして、裁判官の来歴を知ってきっぱりと×を付けよう。よく分からない場合に、何の印も付けずにそのまま投票してしまえば、全裁判官を信任したことになる。よく分からない場合には、躊躇なく全員に×をつけることだ。何しろ、今や全最高裁裁判官が安倍内閣の任命によるものなのだから。
(2020年6月29日)
すっかりお馴染みとなった、「米ジョンズ・ホプキンス大学システム科学工学センター(CSSE)の集計」。本日(6月29日)までに、新型コロナウイルスによる世界の感染者の累計は1000万人を超え、死者数50万人に達した。
これは恐るべき事態というほかない。人類はどうあがいても、ウィルスには勝てない。感染症の撲滅などできようもない。人類は、自然を破壊しつつ、破壊されて平衡を失った自然からの報復を受け続けているのだ。
感染者・死者の数で群を抜いているのが、アメリカとブラジルである。その両国とも、大統領がマスクを着けないことで共通しているのが、興味深い。
トランプは、マスクを着けない理由を、記者団には、こう語っている。
「ただマスクをしたくないんだ。CDCは“推奨する”と言っている。私は体調は悪くない」
「私は、大統領オフィスの素晴らしい大統領執務机で働いている。マスクをしながら他の大統領や首相や支配者や王族を歓迎するというのはどうかと思う」
「私には合わない。考えを変えるかもしれないけれど。だけど(今の状況は)そのうち過ぎ去るだろう。早く過ぎ去って欲しいね」
トランプ支持者には、マスクを着けない大統領を、強く逞しいリーダーと見る傾向があるとされる。ところが、アメリカのコロナ状況は日に日に逼迫している。そんな悠長なことを言ってはおられない。とりわけ、共和党色の強い南部西部諸州ほど、感染拡大が顕著であるという。
そこで、ペンス副大統領が、マスク着用を住民に呼びかける事態となった。本日(6月29日)、ペンスが南部テキサス州を訪れ、自らもマスクを着用して、住民にマスクを着用するよう呼びかけたことが、話題となっている。のみならず、トランプにマスクを着用して模範を示すよう求める超党派の圧力が高まっているという。
新規感染者数は全米の半数以上の州で急増しており、特に、早期の経済活動再開を推進してきた南部と西部の州で多い。より厳格な法規制を呼び掛ける声も広がっている。これまでは、大統領の批判に消極的な共和党議員の間でも、トランプにマスク着用を強く求める声が高まっている。一部の議員は、米大統領がもっとはっきり模範を示すべきだと主張しているという。
次いで、ブラジルのジャイル・ボルソナロ大統領である。新型コロナのパンデミックをめぐる世界の対応を「ヒステリー」と呼ぶ人物。当然に右翼、いや極右とよばれる人。知性の欠如においては、トランプと兄たりがたく弟たりがたし。この人に、裁判所から「マスク着用命令」が発せられて、話題となっている。
6月22日、ブラジルの連邦裁判所は、ボルソナーロ大統領に「首都ブラジリア市内で出歩く際にマスクを着けなければならない」とのマスク着用命令を言い渡した、と報じられている。命令違反には罰金が課せられ、その額は最大で1日当たり2000レアル(約4万円)だという。
「公の場でのマスクの着用」は、本年4月以来首都ブラジリア市民の法的義務とされている。これを守らない者には、一切の忖度なしに、大統領にも命令を出す。ブラジルの裁判所はたいしたもの、立派ではないか。
ボルソナロ大統領は、以来人前に姿を現す際はマスクを着用するようにはなったが、6月26日になって、この裁判所の命令を不服として控訴した。このことが、また話題となっている。
AFPは以下のように報じている。
首都ブラジリアでは4月以降、新型ウイルスの感染抑制対策として公共の場でのマスク着用が義務付けられているが、極右のボルソナロ大統領はこの法律をたびたび無視。これを受けてある弁護士がボルソナロ大統領には自身の「無責任な行動」に対する説明責任があるとして裁判を起こしていた。
レナト・ボレリ判事は22日の判決で、ボルソナロ大統領が公共の場でマスクを着用していないと認定し、「大統領には国内で施行されている法律に従う憲法上の義務がある」として法律を守るよう命じ、従わなければ罰金を科すとした。
法律問題で政府を代表する検察当局はAFPに対し、ブラジリアではすでにマスク着用が義務付けられているため、裁判所は無用な介入を行っていると主張した。
そして、我がアベノマスクである。こちらは、マスクを着けないことで知性の欠如を露わにしたのではない。莫大な資金を投じてヘンなマスクを国民に配布したことで、トランプやボルソナロにも負けない判断力不足をさらけ出したのだ。身内も含めて、誰も着用しないから、ムキになって自分だけはヘンなマスクを着用し続けている。それがまたまた揶揄の材料となっている。
トランプとボルソナロと、そしてアベ。みんなよく似て、みんなヘン。
(2020年6月28日)
河井克行・案里の運動員買収の実態がほぼ明確になりつつある。検察のリークだけではなく、メディアによる追及もめざましい。何より、世論の糾弾が厳しく、被買収者が否定しきれない空気を作っている。そのことが、「買収ドミノ」「告白ドミノ」といわれる現象を生んでいる。
だが、これまで明らかになりつつあるのは、河井夫妻から地元議員への金の流れだけである。これは、事案の半分でしかない。もっと重要なのは、安倍晋三ないしは自民党中枢から河井夫妻への、買収原資となった金の流れの解明である。いったい誰が、どのような意図をもって、いつ、どのようにこの金額を決め、送金したのか。
この点については、検察のリークも、メディア追及の成果も表れてはいない。世論の糾弾も厳しさも不十分で「告白ドミノ」も存在してはいないのだ。はたして検察は、この点に切り込んでいるのだろうか。メディアはどうだろうか。
トカゲの尻尾切りを、生物学では「自切」というそうだ。非常の時に、トカゲは自ら尻尾を切る。尻尾は容易に切れる構造になっており、切っても出血はせず、やがて再生する。外敵に襲われたとき、自切し尻尾は、しばらく動き回ることで外敵の注意を引きつけ、その隙に本体は逃げることができるのだ、という。これ、アベトカゲの常套手法。本体を守るために、尻尾を切り捨てるのだ。「責任は尻尾限り」と言わんばかりに、である。
今また、安倍晋三は河井という尻尾を切り捨てた。この切り捨てられてうごめく2本の尻尾にばかり注意をとられていると、その隙に本体が逃げおおせてしまうことになりかねない。腐ったアタマをこそ、押さえねばならない。
ところで、たまたま明るみに出た広島の地方保守政界の選挙事情。ドップリ、金が動き金で動く体質をさらけ出した。これは、ひとり広島だけのことなのだろうか、また自民党だけの問題だろうか。広島だけの特殊事情であり、アベ・溝手確執の特殊事情故のこととは思いたいところだが、おそらくはそうではあるまい。
インターネットテレビ局ABEMAに、『ABEMA Prime』という報道番組がある。そこに、かの勇名を馳せた元衆議院議員・豊田真由子が出演して、埼玉4区(朝霞市・志木市・和光市・新座市)でも、事情は大同小異であったと語っている。一昨日(6月26日)のことだ。
埼玉4区は、関東都市圏の一角、けっして保守的風土が強い土地柄というわけではない。ここでの選挙事情は、日本中似たようなものであるのかも知れない。
豊田真由子は、「とある先輩議員から、『ちゃんと地元でお金を配ってるの? 市長さん、県議さん、市議さんにお金を配らなくて、選挙で応援してもらえるわけがないじゃないの』と叱られ、びっくりしたことがある。選挙の時に限らず、この世界は桁が違うお金が動いているんだと、5年の間に感じた」と告白したという。さらにこう言っている。
「私はお金も無かったので、(自民)党からの1000万円と親族からの借金などでやったが、収支報告書を見た他の議員さんに『本当にこれでやってんの? どうやって勝ったの? 市議会議員選挙並みだね』と笑われるくらいだった。ど根性で地べたを這いつくばることで、だんだんとお助けをいただけるようになっていったが、必ずしもそうではない地域があるし、『お金をくれないんだったらあなたを応援しないよ』という方もいる。やっぱりそういう風習のようなものが日本の政治にはあるし、国会議員の選挙というのは、地元の市長さんや県議さん、市議さんに応援してもらわないと、非常に戦いにくい、厳しいということだ。議員さんに世襲の方や大きな企業グループのご子息が多いのも、そうではないとやっていけない世界だからだ」。
わが国の政治風土と、有権者の民度を語る貴重な証言である。そのような、票と議席の集積の頂点に、腐ったアタマが乗っかっている。切られた尻尾のうごめきに幻惑されることなく、この際本体のアタマを押さえなければならない。
(2020年6月27日)
昨日(6月26日)、東京地裁で注目すべき判決が言い渡された。「NHK映らないテレビ、受信契約の義務なし」「NHK視聴できない装置付けたTV、受信契約義務なし」などの見出しで報じられているもの。
「NHKのチャンネルは映らない構造のテレビで、民放だけを見ていてもNHK受信料を支払わねばならないのか。それとも、支払わなくてもよいのか」。その問題に「支払いの義務はない」と判断した初めての判決である。当然控訴されるだろうから、東京高裁や最高裁の判断に関心を寄せざるを得ない。
放送法第64条1項は、(受信契約及び受信料)について、「協会(NHK)の放送を受信することのできる受信設備を設置した者は、協会とその放送の受信についての契約をしなければならない。」と受信契約締結義務を定め、
その上で、「ただし、放送の受信を目的としない受信設備又はラジオ放送…に限り受信することのできる受信設備のみを設置した者については、この限りでない。」とする。
NHKとの受信契約締結の義務主体(即ち、受信料支配義務者)は、「NHKテレビ放送を受信することのできる受像設備を設置した者」である。「NHKのテレビ放送を受信できないテレビをもっているだけでは、受信契約締結義務は生じないし、受信料支払い義務も生じない。誰が読んでも、放送法にはそう書いてある。
ところが、この種の裁判は過去4回あって、全てNHKの勝訴、視聴者側の敗訴で終わっている。今回初めて、NHKの敗訴となった。NHKの衝撃はさぞや大きいに違いない。
問題は、「NHKの放送を受信することのできる受信設備」の解釈である。これまでの判決は、市販のテレビに加工してNHKの放送を受信できなくしても、復元の可能性ある以上は、「NHKの放送を受信することのできる受信設備であることに変わりはない」とした。
例えば、2016(平成28)年7月20日東京地裁判決はこういう。
「被告(受信料請求対象者)は,本件工事を行ったことにより,本件受信機で原告(NHK)の放送を受信することはできない状態にあると主張するが,…被告が本件工事の施工を依頼した者に復元工事を依頼するなどして本件フィルターを取り外せば,本件受信機で原告の放送を視聴することができるのであるから,…現に原告の放送を視聴することができない状態にあるとしても,これをもって,被告が『受信機を廃止すること等により,放送受信契約を要しないこととなった』ということはできない。」
昨日言い渡しのあった事件の内容は、報道によると以下のとおりである。
原告の女性は2018年、受信料を徴収されないようNHKが視聴できない装置を付けて樹脂などで固定したテレビを購入した。その上で、NHKを被告として、受信契約を結ぶ義務がないことの確認を求めて提訴した。
NHKは訴訟で「原告のテレビは放送を受信できる基本構造を維持している」「フィルターや電波の増幅器(ブースター)を使うなどの実験をした結果、原告のテレビでは『NHKを受信できる状態に簡単に復元できる』と主張した」などと主張したが、小川理津子裁判長は「専門知識のない原告がテレビを元の状態に戻すのは難しく、放送を受信できるテレビとはいえない」と判断した。「増幅器の出費をしなければ受信できないテレビは、NHKを受信できる設備とはいえない」とも判示したという。
原告はNHKの受信料の徴収に批判的な意見の持ち主とのことだが、判決は「どのような意図であれ、受信できない以上契約義務はない」と説示していると報じられている。この訴訟の原告代理人は高池勝彦弁護士。新しい歴史教科書をつくる会会長を務め、最右翼の歴史修正主義派として知られる人物。N国同様、右の側からNHKを揺さぶろうという提訴の意図が透けて見える。
しかし、この訴訟の原告や代理人の意図がどうであれ、私は歓迎すべき判決だと思う。放送法が、NHKと視聴者との関係を契約と制度設計している以上、NHKは視聴者に信頼され、視聴者に魅力ある内容の放送をする努力を尽くさなければならない。NHKを視聴しない者からも、取れるものなら受信料を戴こうという姿勢は情けない。民放番組だけを視聴しようという者に対してNHKに受信料を支払えとする判決は、制度の趣旨からも、法の条文の文言からもおかしいというほかはない。
これまで裁判所は、NHKに甘過ぎる判決を重ねてきた。ピリリと辛い判決は、NHKにとっての、ちょっぴり苦い良薬というべきだろう。
(2020年6月26日)
昨日(6月25日)の中国新聞の報道が、「克行容疑者『安倍さんから』と30万円 広島・府中町議証言」というものだった。これは、強烈なインパクト。
この証言をしたのは、案里容疑者の後援会長を務めたベテラン府中町議・繁政秀子(78)。中国新聞の報道は、以下のとおり詳細でリアリティ十分である。なぜ、ここまで話す気持になったのか、その説明はない。
繁政町議は中国新聞の取材に、参院選公示前の昨年5月、克行容疑者から白い封筒に入った現金30万円を渡されたと認めた。現金を受け取った理由について、自民党支部の女性部長に就いており「安倍さんの名前を聞き、断れなかった。すごく嫌だったが、聞いたから受けた」と振り返った。
繁政町議によると、克行容疑者が現金を差し出したのは、案里容疑者が参院選前に広島市中区へ設けた事務所だった。克行容疑者から呼ばれ、2人きりになった時に白封筒を示された。
気持ちの悪さを感じてすぐに「いただかれません。選挙できんくなる」などと断ったが、「安倍さんから」と言われ、押し問答の末に受け取ったという。現金は今も使っていないとして「返したい。とても反省している」と話した。
繁政町議は同じ県内の女性議員として案里容疑者とつながりがあり、後援会長を引き受けたという。選挙戦では出陣式や個人演説会でマイクを握り「心を一つにして素晴らしい成績で当選させてほしい」などと支持を呼び掛けていた。
今のところ、克行らが買収先に、金を渡した相手は94名に及ぶという。その中で、ひとり繁政町議だけに『安倍さんから』と言ったというのでは不自然極まる。その他の議員や首長にも、現金を交付する際に、『安倍さんから』と申し添えたものと一応の推認が可能である。
実際、昨年7月参院選公示前には、首相の秘書団が案里議員の陣営に入り、企業や団体を回っていたと報じられている。そのような事情のもとでの『安倍さんから』には自然なリアリティがある。『安倍さんから』ではなく、「総理からです」「総裁からのお金です」、あるいは「これ、党本部から」だったかも知れない。なにも言わないのが、よほど不自然であろう。いずれ、安倍晋三と結びつけられた現金の授受に意味があったのだ。
2019参院選広島選挙区(定数2)の選挙結果は、以下のとおりである。
1位当選 無所属現 森本真治 (推薦:立民・国民・社民)
得票 329,729(32.3%)
2位当選 自民新 河井案里 (推薦:公明)
得票 295,871(29.0%)
3位落選 自民現 溝手顕正 (推薦:公明)
得票 270,183(26.5%)
2位と3位の自民票の合計は、566,054票(55,5%)であって、自民(+公明)の総得票数は2議席獲得には足りない。河井と溝手とは、票を食い合って、2位争いをしたことになる。その結果、5期目を目指した長老の溝手が新人の案里の後塵を拝して落選した。前回までは無風だった選挙区で、自民の陣営内での票の食い合いでは、豊富な実弾と『安倍さんから』の意味づけが効いたということだ。
『安倍さんから』のインパクトは、日本の民主主義へというだけのものではない。日本の国民や広島県民に対してだけのものでもない。安倍晋三と検察に対して、インパクトが大きいのだ。まずは、政治責任のレベルでの問題がある。実弾の原資が公認料1億5000万円だったことは、今さら覆うべくもない。溝手憎しで溝手を追い落とすために案里を擁立し、選挙資金を投入し、秘書団を派遣し、自らも応援演説に奔走した安倍晋三の責任は重大である。
それだけではない。安倍晋三の法的責任が追及されなければならない。「買収目的交付罪」(公選法221条1項5号)に当たる恐れがある。
公職選挙法は分かりにくい。弁護士の私も、隅々までよく分かっているわけはない。かつて公職選挙法違反被告事件の弁護をかなりの件数受任し、その都度それなりの勉強をして原理原則は心得ているつもりだが、細かいことまでは知らない。
この問題での野党ヒアリングで、郷原元検事が指摘して以来、「買収目的交付罪」が俄然話題となってきた。私は、今回初めてその罪名を知った。
公職選挙法221条は、おなじみの選挙買収の処罰規定である。最高刑は懲役3年。
その1項1号によって、克行の「(案里の)当選を得しめる目的をもつて選挙運動者(94名の地方議員等)に対し金銭を供与することが犯罪となる。これが、典型的な、運動員買収罪である。
さらに、同条同項第5号は、克行の運動員買収罪成立を前提に、「運動員(地方議員等)買収をさせる目的をもつて選挙運動者(克行)に対し金銭交付をした」者を処罰する。これが、「買収目的交付罪」なのだ。買収資金の提供者を処罰して、クリーンな選挙を実現しようという立法趣旨と理解される。
では、いったい誰がこの買収資金の提供者なのだろうか。克行自身が口にした、『安倍さんから』の一言が有力が手掛かりとして浮上した。買収資金提供者は、安倍晋三ではないのか。案里選挙には、自民党内での常識的公認料の10倍の資金が注ぎ込まれた。これは、最高幹部の裁断なくしてはできないこと。安倍か、二階か、あるいは菅か。その3人の他にはあるまい。
しかも、この常識外の多額な選挙資金の提供は、実弾込みの金額として認識されていたのではなかったか。安倍晋三は、この疑惑を晴らさなければならない。そして、ここまで捜査が進展した以上、検察も引き下がれない。政権からの独立に関する国民の信頼がかかっているのだ。「『安倍さんから』と30万円」のインパクトは、とてつもなく大きいのだ。