澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

佐喜真淳候補は、辺野古新基地建設を容認するのかしないのか。

沖縄知事選から目が離せない。
昨日(9月3日)の当ブログで、佐喜真候補の討論会出席拒否を、候補者としての資格がないと厳しく批判した。一夜明けたら、「佐喜真氏、一転討論会参加へ 批判受け方針転換 『事務方の不手際で誤解』」という。やはり、批判はすべきものだ。

ここで堂々と、佐喜真は「できれば論争を避けようとした自らの姿勢を反省し、県民にお詫びするとともに、以後は歴史的な2018年沖縄県知事戦の候補者として恥ずかしくない論戦に挑みます」というべきだった。そうすれば、汚名挽回できたのだ。いま「正直」が政治家倫理の最重要徳目ではないか。ところが、「事務方の不手際で誤解」は、「正直」とはほど遠い不誠実な取り繕い。「秘書が」「妻が」「事務方が」との責任転嫁はみっともない。

そもそも、「事務方の不手際で誤解」は意味不明だ。佐喜真の言う「さまざまな行き違いで、討論会について事務方の不手際でマスコミに誤解を与えた」とはいったい何のことだ。マスコミが何をどう「誤解」したというのか。

確認しておこう。マスコミの理解は、以下のとおりである。これが誤解か。
「自民党沖縄県連は2日、沖縄県政記者クラブが出席を求めた県知事選立候補予定者討論会に対し、前宜野湾市長の佐喜真淳氏(54)が参加しないことを文書で回答した。「日本青年会議所(JC)が予定する討論会に一本化する」とし、マスコミ各社の討論会や座談会には一律で応じない。これに対し県政与党が擁立する衆院議員の玉城デニー氏(58)の陣営は「マスコミからの出席の要請には積極的に臨む」として候補者が露出する機会に前向きで、姿勢が分かれている。(琉球新報)」

重要なことは、拒否回答が文書で行われたことだ。文書の内容は、「投票まで残り1カ月もない超短期決戦の中で、1人でも多くの県民と直接、対話を重ねたいところから、日本青年会議所の討論会に一本化して対応したい」(琉球新報)という、愚にもつかない文面。この文書の読み方に、誤解の生じようがないではないか。

しかも、この文書の作成は、佐喜真擁立の最大母体である自民党沖縄県連。「事務方」とは、自民党のことなのだ。常識的に、「知事選立候補予定者討論会不出席。但し、極右団体の討論会を例外とする」。こんな非常識で、重要な方針決定が候補者抜きで決められていることは考えられない。それとも、佐喜真は自民党の操り人形に過ぎないということなのだろうか。

自民党県連も佐喜真も、信用ならぬというほかはない。佐喜真という人物、今後都合が悪くなると、「事務方の不手際で誤解」を繰り返すことに、きっとなる。そのような私の判断を誤解とは言わせない。

「自民県連が不参加と回答した報道を受けて県連に批判が相次いだため、方針を変更した」という、各紙の報道内容が正確なところだろう。ここからは私の推測だが、この批判は身内からのものが多かったに違いない。「こんな候補者の姿勢では、まったく意気が上がらない」「これでは選挙にならない。初めから負けいくさだ」という批判ないし抗議。真面目な運動員としては、せざるを得ないではないか。玉城陣営としては、幸先のよい願ってもない事態。涼しい顔で見守っていたというところだろう。

さて、知事候補佐喜真淳(自・公・維の推薦)が政策を発表した。メディアの報ずる内容は以下のとおりである。

「普天間飛行場の一日も早い返還を政府に求め、日米地位協定の改定を具体的に提言する」と強調した。一方で、最大の争点である名護市辺野古新基地建設の是非には触れなかった。「県民の暮らし最優先」を掲げ、全国平均並みの県民所得300万円の実現や子どもの保育費、給食費、医療費の無償化、跡地利用の推進などを打ち出した。

 普天間飛行場の辺野古移設について「最も重要なのは固定化を避けることだ。返還までの基地負担の軽減と危険性の除去を県民に訴えたい」と語った。辺野古移設の是非に触れないことについて、県が埋め立て承認を撤回したことで今後、政府が法的措置を検討していることを挙げ「法律的にどうなるか注視しなければいけない」と説明した。(琉球新報)

米軍普天間飛行場について「返還作業への即時着手と速やかな運用停止を求める」と明記したが、辺野古新基地建設の是非について触れなかった。国と連携し新たな沖縄振興計画の策定や経済特区、税制を実現する考えを示した。

辺野古新基地建設の是非に言及しない理由について、県が辺野古の埋め立て承認撤回をし、国が法的措置を取る構えを示していることを挙げ「法律的にどうなるのか注視しなければならない。一日も早い返還、それまでの負担軽減と危険性の除去を県民に訴えたい」と説明した。(沖縄タイムス)

妙な錯覚に襲われる。この佐喜真という候補者、沖縄県知事選を闘っているという自覚があるのだろうか。相変わらず宜野湾市長選を闘っている感覚のままなのではないだろうか。「世界で一番危険な・普天間飛行場」の返還・撤去について、沖縄県民に異論があろうはずはない。問題は、そのための条件とされた辺野古新基地の建設強行を認めるか否か。それこそが最大の争点ではないか。玉城は、断固阻止といっている。佐喜真はどうなのか。阻止にせよ、容認にせよ、あるいはその他の選択肢にせよ、意見をはっきりと言わねばならない。それが今、沖縄県知事選の候補者に求められている最低限の誠実さと言わねばならない。それなくして、沖縄県民の選択ができないではないか。

佐喜真や自民党は、このまま県民をごまかし、自民・公明の支持者もごまかしたまま票を掠めとろうというのか。佐喜真支持者諸君、自民党県連と佐喜真候補に、再びの抗議を集中されたい。辺野古新基地建設の是非について明確な政策を打ち出すように、と。
(2018年9月4日)

佐喜真淳の討論会出席拒否 ― 候補者としての資格がないぞ

注目の沖縄知事選。「オール沖縄」陣営からの玉城デニーと、「チーム沖縄」からの佐喜真淳との事実上の一騎打ち。最大の争点は、アベ政権が強行する辺野古新基地建設を許さないとする県民意思を確認するのか容認するのか。

さて、前宜野湾市長佐喜真淳とは何者であるか。宜野湾市で知られてはいても、沖縄全県で知られた存在ではない。ましてや、全国では無名の人。佐喜真は、自分が何者であるか、どのような政治思想を持ち、どのような県知事としての政策を持っているのか、有権者に対して明らかにする責任がある。沖縄に国民の注目が集まっている以上、ひろく国民にも明らかにしていただきたい。

とりわけ、宜野湾市の利益と沖縄全県の利益との関係微妙な「基地移転」の問題について、宜野湾市長選での「県外移転」公約を維持するのか変更するのか、明確にしなければならない。そのためには、立候補予定者討論会を重ねることが最も適切であろう。

ところが、彼は立候補予定者討論会には参加しないという。「沖縄県政記者クラブが主催する立候補予定者討論会への参加を断る方針を決めた。佐喜真氏側は『異例の超短期のため日程がつかない』との理由で、マスコミ各社が個別に主催する討論会や対論番組にも一切出席・出演しない対応を取っている。(琉球新報)」

要するに、議論を避けて逃げているのだ。これはみっともない。まるで、総裁選での討論を避けているアベとおんなじではないか。討論しても恥をかくだけ。票が増える見込みはない。票を減らすことが明らかなのだから、討論会や対論番組に出席・出演することのメリットはない。そんな時間があれば、県内右翼団体の挨拶回りをして票を固めた方がよい、との割り切った判断なのだ。

しかし、沖縄県民は、この佐喜真陣営の姿勢を民主主義政治における公職の候補者としてあるまじきものとして批判しなければならない。選挙の主体は、飽くまでも有権者である。有権者が正しい選択ができるように、候補者は自らが何者であるかを有権者に積極的に語って知ってもらわねばならない。それは、候補者の責務である。

消費者が市場で商品を購入するに際しては、ためつすがめつ商品の説明をよく聞き、よく調べなくてはならない。複数の商品あれば比較検討しなければならない。これは消費者にとっての、商品説明を受け、正しい選択を受ける権利である。商品の説明を拒否するような売り手は、市場から駆逐されなければならない。まさしく、佐喜真という知事選市場に並んだ商品は、その商品吟味を拒否するのだから、市場から退場してもらわねばならない。

さらに、興味を掻きたてるのは、佐喜真が、「日本青年会議所(JC)沖縄ブロック協議会が主催する公開討論会だけには出席する」としていること。要するに、佐喜真にとっては、「日本青年会議所(JC)」だけがホームで、他のすべてがアウェイなのだ。佐喜真は、「討論会はアウェイでは困る。イヤだ」「日本青年会議所(JC)の討論会なら、主催者との事前の打ち合わせが十分にできて、恥をかかずに済ませることができるから、これだけはやる」という算段なのだ。卑怯千万。佐喜真の何たるかをよく物語っている。

伊波洋一と争った2012年宜野湾市長選の際に話題となったことだが、佐喜真淳とは日本会議に所属する真正右翼である。いや極右であって、保守本流や創価学会・公明党が推せるような代物ではない。一方、「日本青年会議所(JC)」も同様の極右。佐喜真とJC。琴瑟相和する仲。あるいは、腹心の友の間柄。

JCとは何であるか。「日本青年会議所」をウイキペディアで検索するとよい。『「日本商工会議所」、「日本青年団協議会」、「日本青年協議会」、「日本都市青年会議」、あるいは「日本青年社」とは異なります。」との注意があり、編集部からの註が付いていて、「大言壮語的な記述になっています。宣伝広告的であり、中立的な観点で書き直す必要があります」とされているが、それでも「問題となった事件・不祥事」欄に次の件が記載されている。
1998年 旭川女体盛事件
同 年 横浜セクハラ問題
2003年 東京JC日本振興銀行事件
強制わいせつ事件
2006年 八尾JC傷害致死事件
2007年 靖国神社アニメ制作問題
2008年 憲法タウンミーティング運営トラブル
2018年 「宇予くん」問題
批判ブログ著者への圧力
受動喫煙解雇撤回問題

一見して相当にいかがわしい。興味ある方はぜひウイキペディアの本文をお読みいただきたい。とんでもない団体であることがよく分かる。

今年にはいってから問題となった。「宇予くん」問題についてだけウイキペディアの記載を引用しておきたい。
「宇予くん」とは、本年2月、日本青年会議所国家戦略グループの内部組織である「憲法改正推進委員会」が、年初から「宇予くん」と称するキャラクターを用いたTwitterアカウントを運用し、「対左翼を意識し、炎上による拡散も狙う」というコンセプトの元で、関係ない機関・団体への誹謗中傷や品性を欠いた内容ばかり投稿していたとして、外部から批判を受けた。日本青年会議所はTwitterアカウントを削除し、2月28日「不適切だった」として謝罪した。

「宇予くん」とは、「右翼君」の転訛なのだろう。日の丸2本を背負った、いかにも品性と知性を欠いた、右翼っぽい男の子のキャラクター。このことも、リテラが要領よく書いている。以下を参照されたい。

公益社団法人日本青年会議所(通称JC)が、Twitter上で「宇予くん」なるキャラクターを通じ、ネトウヨ丸出しの暴言を連発していたことが発覚した問題。あらためてはっきりしたのは、JCという組織のトンデモぶりだ。
http://lite-ra.com/2018/03/post-3836.html

佐喜真とは、このトンデモJCと蜜月なのだ。お互い、紛れもない改憲右翼。
もちろん、思想は自由である。右翼にも、破廉恥団体との親密者にも、立候補の自由がある。しかし、それを有権者に隠してはならない。正々堂々と、「ワタシは日本会議に属する右翼です」「日本の右翼は、左翼・リベラルの主張の反対を信条としていますから、彼らが辺野古新基地建設反対を言う以上、ワタシは賛成です」「ワタシは、アベ内閣同様アメリカの走狗として甘んじる覚悟ですから、海兵隊もオスプレイも沖縄にいていただいてけっこうです」と正直に言うべきなのだ。

ところが、討論会に出ないとは、自らを有権者の前に曝して、適切な選択をしてもらおうという姿勢ではない。身内には、右翼的姿勢を強調して見せ、一般有権者にはその思想や体質を隠し通そうという邪悪な魂胆。

こういう人物は、民主主義社会における政治家として、そもそもの資質を欠いている。正直・公正に欠けた人物には、用心深く接しなければならない。商品説明の不足を追求せず商品の吟味不十分であったがために、あとになって欠陥住宅をつかまされたり、詐欺商法に泣くことにならぬように。
(2018年9月3日)

アベに対する「政治と行政の私物化」「隠蔽・改竄・口裏合わせ」「説明責任放棄」の批判に躊躇があってはならない。この批判を人格攻撃として封じることを許してはならない。

今年(2018年)9月は、沖縄県内各自治体の選挙の月となった。
「この1カ月間で県知事選挙、宜野湾市、本部町、伊是名村、大宜味村の4首長選挙、那覇、うるま、石垣の3市区の県議会議員補欠選挙、名護市や沖縄市をはじめとする29市町村議会選挙が実施される予定だ。ほぼ毎週選挙の告示、投開票があるという前代未聞の事態となっている。」(琉球新報)

とりわけ、9月30日投開票の沖縄知事選の結果は極めて重要だ。国政にも、アベの改憲策動にも大きく影響する。我がこととして、オール沖縄派候補勝利のために、力を尽くさねばならない。その立場から、このブログでも選挙運動に参加しようと思う。

その重要な沖縄県知事選の10日前に、自民党総裁選がある。こちらは、その結果が「極めて重要」ではない。自民党の総裁選びは、明らかに他人事。アベと石破、どちらの候補にも肩入れするつもりはない。しかし、事実上次期首相を決める選挙なのだから、無関心ではおられない。本日のブログでは、現時点での幾つかの感想を述べておきたい。

石破の総裁選パンフの表紙に大きく「正直、公正、石破茂」の文字。誰が見てもアベの政治姿勢批判である。「ワタクシ・石破茂は正直で公正である」というアピールは、「キミ・安倍晋三は、嘘つきで、アンフェア」という明確なメッセージ。「さあ、総裁選有権者である自民党の皆さま。正直で公正であるワタクシ・石破茂と、嘘つきでアンフェアな安倍晋三のどちらを選びますか」と争点化したのだ。

これに対して、アベ陣営から、「個人攻撃は好ましくない」「個人の人格攻撃は控えるべきだ」との批判が出たとのこと。石破支持を表明している竹下派の吉田博美参院幹事長も「相手への個人的なことでの攻撃は非常に嫌悪感がある」などと述べたと報道されている。私にとっては他人事なのだから、真面目に反論するのも大人げないが大きな違和感を禁じえない。やっぱり、「正直・公正」のアピールは、アベ個人に対する、その人格への攻撃として有効なのだ。党内、だれもが、そう思っている。ここまではよく分かる。

しかし、「安倍氏個人に対する人格攻撃は好ましくない」「個人的なことでの攻撃は非常に嫌悪感がある」はまったく理解できない。対立候補者の個人的資質や政治的活動歴に対する批判の言論は選挙戦の王道である。これを好ましくないと避けては、選挙運動は成り立たない。

ましてや、一対一の選挙戦。政治姿勢のあり方が対決点となるべき政治状況である。有権者の適切な選択を可能とするための、基礎的な情報の提供は不可欠である。互いに、自らの政治姿勢やその実践を語ると同時に、対立候補の政治姿勢やその実践歴を語らずして、いったい何のための選挙なのだ。

言論の自由は、とりわけ政治的言論の分野において議会制民主主義を支える基礎としての重要性をもつ。選挙運動とは、最高度に自由が保障された言論戦でなくてはならない。「ワタシは正直で、キミは嘘つきだ」「ワタシは国民のために公正な政治を行うが、キミは腹心の友のために政治を歪めている」「ワタシは、ガラス張りの政治を行い説明責任を果たしてきたが、キミは不都合を隠蔽し説明するすると言ってしないではないか」。このように彼我の姿勢と行動の比較・対照を訴えるのが、真っ当な選挙戦だ。「お互い、痛いところにはさわらないようにしよう」という馴れ合いは、選挙の体をなさない。

アベは、今回の総裁選に限らず、今後の選挙すべてにおいて、「不正直、不公正」を攻撃されることになる。もっと具体的には、「政治と行政の私物化」「隠蔽・改竄・口裏合わせ」「説明責任の放棄」の批判に曝される。これを、「個人攻撃だから好ましくない」と言ってはぐらかし通すつもりなのか。そんなことでは、自民党を議会制民主主義政党と呼んでよいのか、根幹にかかわる問題ともなる。

こんな分かりきったことなのに、自民党の中で「『正直・公正』は、個人攻撃として好ましくない」という声が出たことの意味には、二通りの理解が可能である。

一つは、アベ陣営の余裕のなさのなせる業との見方。「石破が本気になってアベの不正直・不公正を衝いてこられると相当なアベの痛手となる」「好ましくないとは、そういう意味だ」「どうせ勝てない石破ではないか。せめてアベの面子を潰さないように配慮した方が利口ではないか」「アベ攻撃に手加減の魚心あれば、選挙後にはそれなりの水心が期待できるぞ」という文脈。

もう一つは、石破陣営の高等戦略に乗せられた説。「単に『正直・公正』を掲げるだけではあまりにも平凡にすぎてインパクトに乏しい」「これにアベ派の『正直・公正を政策に掲げるのは怪しからん』というクレームを引き出すことができれば、俄然このキャッチが話題性を帯びることになる」「しめしめ。まんまとうまくことが運んだ」という見方。

吉田博美は、石破陣営にあってアベへの配慮を演じて見せたようで、その実、アベの味方を演じたフリをして、うまうまと『正直・公正』の話題化に成功したというのだ。石破が一時「正直・公正」のフレーズを降ろす可能性を示唆したのも、計算された演出だというのだが、さていかがなものか。

いずれにせよ、石破は「正直、公正」のフレーズを大きな話題にすることに成功し、しかもこれを堅持する方針を固めたのだ。ここまで大きくポイントを稼いだ。一方、「嘘つき・アンフェア」をあらためて印象づけられたアベ陣営は、藪をつついて蛇を出した失態。

なお、石破陣営の主観的意図は知らないが、日本社会全体に「正直、公正」が失われていることが大きな問題となっている。アベに象徴される「不正直・不公正」とこれに伴う「隠蔽・改ざん・口裏合わせ」のダーティーさは、政界にとどまらない。障がい者雇用に見られる官界の「ウソとごまかし」が衝撃だったが、産業界にも、スポーツ界にも、メディアにも、今やウソやごまかしやデマやフェイクがまかり通っている。いま、「正直、公正」の価値は重要で、これを争点とする意味は大きい。

このことに関連して8月28日の「リテラ」の記事を引いておきたい。いつもながら、よく情報を集めて切れ味がよい。「安倍独裁化で首相批判が完全タブーのディストピア」を次のように語っている。

「石破氏の『正直、公正』撤回示唆発言を受けて、Twitter上には「#石破氏の新キャッチフレーズ」なるハッシュタグが登場。これがいわゆる大喜利状態となり、こんな盛り上がりを見せていた…。

「憲法違反はしません!」
「お友だちを優遇しません」
「国民を“こんな人達”と呼びません!」
「強行採決を繰り返しません」
「災害時に宴会はしません」
「自分のフェイスブックへの差別的書き込みを放置しません」
「ネトウヨ作家をNHK経営委員にしません」
「ヤクザに汚れ仕事は依頼しません!!」
「公文書は改竄せずに保存しておきます!」
「聞かれたことに答えます」
「約束を守ります」
「自由と民主主義」

このままではマスコミや市民が「ウソで国民をごまかす政治はやめろ」「えこひいきのない公正な政治を求める」と、民主主義国家としてごく当然ことを言っただけで、誰もが「安倍首相への個人攻撃」なるレッテルを貼られ、政権から弾圧されてしまう。なかにはこんなツイートまで見られた。
〈自由、民主主義、寛容、報道の自由、地方分権、開かれた政治、国民第一、弱者にやさしい政治、格差是正、公金の適正支出、討論・対話重視、誠実、三権分立、権力を私物化しない… ダメだ。何を言っても安倍への個人攻撃になってしまう。〉

まったく、そのとおり。付言することはない。

もう一つ。今や絶好調の「日刊ゲンダイ」の記事(8月27日)も引いておこう。「出馬表明を生中継 “安倍チャンネル”と化したNHKの過剰演出」の見出し。

 いやはや、異常な連携プレーだ。NHKが26日、視察先の鹿児島・垂水市での安倍首相の自民党総裁選への出馬表明を生中継。午後3時45分から緊急番組を組む熱の入れように、安倍首相も視聴者が恥ずかしくなるほどの露骨なカメラ目線で応じた。
 スタジオには“安倍首相べったり”の政治部の岩田明子記者が陣取る鉄壁の布陣である。彼女は「鹿児島での出馬表明は地方創生を重視する姿勢を打ち出すため」「今年は明治維新から150年。明治維新ゆかりの地、鹿児島を(出馬表明の)発信の地とすることで“新しい国づくり”への意欲を示す狙いもあったのかと思う」などと解説。安倍首相の出馬表明が5分足らずだっただけに、言い足りない部分をしっかりフォローし、政権のスポークスマンとしての役目を十分に理解しているかのようだった。

 今や「皆様」ではなく、「アベ様」のNHKに成り果てている。NHKの不気味なまでの“安倍チャンネル化”は、鳥肌が立つほどである。

同様の違和感を金平茂紀も述べている。昨日(9月1日)の毎日新聞「週刊テレビ評」欄での、「総裁選出馬の緊急特番への違和感 首相と党総裁は別の職務」というNHK批判の記事。

NHKのアベのための「総裁選出馬緊急特番」記事に、ことさらに「安倍総理大臣は…」と繰り返していたことを問題視し、「安易に首相と党総裁の呼称をまぜこぜにして用いることは公正ではない」と指摘した上、自民党の総裁選挙管理委員会が新聞・通信各社に対して総裁選挙について、「公正・公平な報道」を求める文書を配布したことを問題視している。

金平は、「こんな文書を一政党のトップ選びで配布すること自体が問題」とする。これが8月28日のこと、見方によっては、NHKが安倍出馬特番を放送したのを見越してからの申し入れ。この選管は、NHKには抗議の一つもしてはいない。

露骨にアベと結ぶNHK。あるいはNHK政治部。ここにも、「正直・公正」が欠けているのだ。
(2018年9月2日)

9月1日は、「国恥の日」。

敗戦と平和を考える8月が去って、9月になった。本日は、個人的に「国恥の日」と名付ける9月1日。1923年の今日、関東地方をマグニチュード7.9の巨大地震が襲った。死者10万5千余といわれる、その甚大な被害はいたましい限りだが、震災は恥とも罪とも無縁である。3・11津波の被害を「天罰」と言った愚かで無責任な都知事がいたが、この言こそ不見識の極み。自然災害自体に可非難性はない。

私が「国民的恥辱」「日本人として恥を知るべき」というのは、震災後の混乱のなかで日本人民衆の手によって行われた、在日朝鮮人に対する大量集団虐殺である。これは、まぎれもなく犯罪であり刑罰に値する行為。人倫に反すること著しい。その事実から目を背け、まともに責任を追求しようとせず、反省も、謝罪もしないままに95年を徒過したことを「国恥」といわざるを得ない。そして、今なお、この事実に正面から向き合おうとしない日本社会の排外主義容認を「国恥」というのだ。

もちろん、日本の歴史に真摯に向き合おうという日本人も少なくない。日本の民衆が、民族差別と排外主義とによって在日の朝鮮人・中国人を集団で大規模に虐殺した事実を直視し、自らの民族がした蛮行を恥辱としてこれを記憶し、再びの過ちを繰り返してはならないと願う人々。

そのような思いの人々が、毎年9月1日に、東京都墨田区の都立横網町公園内の追悼碑前で、「朝鮮人犠牲者追悼式典」を開催している。今年も行われた、本日11時からの式典に参加した。多くの友人に遭って、挨拶を交わした。

「おや小竹さん、沖縄へお出かけと聞いていました。お忙しいのにご苦労様です」「忙しいんだけれど、小池都知事のあの態度でしょう。無理しても出席しなけりゃいけないと思ってね」こういう会話が多かった。

あの石原慎太郎でさえ、この式典には都知事としての追悼文を寄せていたのだ。ところが、小池百合子は昨年から敢えて朝鮮人犠牲者に対する追悼文の送付を中止した。歴史に向き合うことをせず、反省などするものか、という姿勢と批判されてもやむを得まい。今年も追悼文なしと報道されて、その都知事の姿勢への批判の高まりを反映して、追悼式参加者数は、昨年を大きく上回る700人に上った。メディアの取材もかつてなく規模が大きかった。

今年の式典での追悼の辞で特徴的だったのは、やはり小池知事の姿勢への批判。そして、朝鮮半島情勢変化の兆しの中で排外主義や民族差別を克服していこうという呼びかけ。参加者の真剣さを反映してか、いつにもまして感動的な追悼集会だった。

ところで、関東震災後の朝鮮人虐殺には、軍と警察が深く関わっていたことが広く知られている。軍と警察が民衆を煽った責任のあることは論を待たない。しかし、恐るべきことは、自警団という名の民衆が武装し、積極的に朝鮮人狩をして、無抵抗の人々を集団で撲殺し刺殺し縛って川に投げ込むなどの蛮行におよんだことである。特殊な右翼思想集団や狂信的国粋主義者の犯罪ということではない。犯罪者集団や犯罪傾向をもった集団が、殺人・傷害に走ったということでもない。平凡な普通の日本人民衆が、残虐な殺人・傷害を重ねたのだ。

関東一円に無数にできた自警団とは、町内会や自治会であり商店会にほかならない。ごく普通の地域住民がそのメンバーであった。つまりは、おぞましい集団虐殺の実行犯は私たちの父祖自身なのだ。なぜこんなことを起こしたのか。正確に知り、記憶しなければならない。そのための、「国恥の日」である。

この点に関して、東京新聞8月29日夕刊文化欄「大波小波」というコラムに、「『千田是也』の名の由来」という記事が出ている。これに、知人が「千田是也のペンネームの由来が、千駄ヶ谷で朝鮮人に間違えられて虐殺されそうになった。という話は聞いたことがありましたが、千田是也が虐殺側の人間だったという事は知りませんでした」とコメントを寄せてきた。

同コラムは、「 劇団燐光群公演『九月、東京の路上で』(坂手洋二作・演出、今月5日まで)は、今の路上に溢れるヘイトと分断の禍々しい声から、95年前の朝鮮人虐殺という惨劇を黒々と呼び起こしてみせた。」と始まるが、中に次の記述がある。

「演劇人・千田是也の名が、震災直後の千駄ヶ谷で朝鮮人(コリアン)に間違えられ殺されそうになった体験に由来するのはよく知られている。ただし千田はそのとき、武器を持ち朝鮮人を求めて走っていた。千田は被害者になりかかった加害者だったのである。」

なんとなく、朝鮮人狩や集団虐殺に踊らされたのは「無知な大衆」であって、知識階級は別だ、という思い込みがありはしないだろうか。多くの学者や文人が、そのような目でこの事件を語っている印象がある。しかし、千田是也までが実はそのとき、「武器を持ち朝鮮人を求めて走っていた」となれば、事態はより深刻といわねばならない。

これについては、千田自身が書いた、詳細な手記が残されている。「潮」1971年9月号の『日本人100人の証言と告白』に掲載のものだという。千田の正直さと、問題の深刻さを教えられる。

「私のセンダ・コレヤという芸名の由来である(千駄ヶ谷をとって“千田” 朝鮮人つまりコーリアンをもじって“是也”というわけである)千駄ヶ谷で朝鮮人に間違えられて殺されそうになった事件の起きたのは、大震災の二日目の晩だったとおぼえている。
 町々の炎が夜空を真っ赤にそめ、ときどきガソリンや火薬の爆発する無気味な音が聞こえ、余震が繰り返され、担架や荷車に乗せた負傷者たちの行列がつづく状況のなかで聞くと、朝鮮人が日ごろの恨みで大挙して日本人を襲撃しているとか、無政府主義者や社会主義者が井戸に毒を投げ込んだり、通り端で避難民に毒まんじゅうを配ったりしているとかいうバカバカしいデマが、いかにもほんとうらしく思えてくる。また、別な方面からの情報によれば、軍は目下、多摩川べりに散開して神奈川方面から北上中の強力な不逞鮮人集団と交戦中だという。
 そこで私も勇みたって、二階の長持ちの底から先祖伝来の短刀を持ち出して、いつでも外から取れるように便所の小窓のかげにかくし、登山ヅエを持ってお向かいの息子さんといっしょに家の前の警備についた。
 そのうち、ただ便々と待っているのも気がきかぬ気がして、敵情偵察かなにかのつもりで、千駄ヶ谷の駅にちかい線路の土手をのぼって行くと、後ろのほうで「鮮人だ、鮮人だ!」という叫びが聞こえた。ふりかえると、明治神宮の、当時はまだ原っぱだった外苑道路のヤミのなかを、幾つもの提灯が近づいてくるのが見えた。それを私はてっきり「不逞鮮人」をこっちへ追ってくるものと思い込んで、はさみ打ちにしてやろうと、そっちへ走って行くと、いきなり腰のあたりをガーンとやられた。あわてて向き直ると、雲つくばかりの大男がステッキをふりかざして「イタア、イタア!」と叫んでいる。
 登山ヅエを構えて後ずさりしたら「違うよ!違いますったら」といくら弁解しても相手は聞こうともせず、ステッキをめったやたらに振り回しながら「センジンダア、センジンダア!」とわめきつづける。
 そのうち、提灯たちが集まってきて、ぐるりと私たちを取り巻いた。見ると、わめいている大男は、千駄ヶ谷駅の前に住む白系ロシア人の羅紗ラシャ売りだった。そっちは朝鮮人でないことは一目でわかるのだが、私のほうは、そうもいかない。その証拠に、棍棒だの木剣だの竹ヤリだのマキ割りだのを持った、これも日本人だか朝鮮人だか見分けのつきにくい連中が「ちくしょう白状しろ」「ふてえ野郎だ、国籍をいえ」と私をこずきまわすのである。「いえ日本人です。そのすぐ先に住んでいるイトウ・クニオです。このとおり早稲田の学生です」と学生証を見せても、いっこう聞き入れない。
 そして、マキ割りを私の頭の上に握りかざしながら「アイウエオ」をいってみろだの「教育勅語」を暗誦しろだのという。まあ、この二つはどうやら及第したが、歴代天皇名をいえというのにはよわった。どうせ、この連中だってよく知っていまいと度胸をすえ、できるだけゆっくりと「ジンム、スイゼイ、アンネー、イトク、コーショー、コーアン、コーレイ、カイカ、スージン、スイニン、ケーコー、セイム、チューアイ……」
 もうその先は出てきそうもなくなったとき、ありがたいことに、誰かが後ろのほうから、「なぁんだ、伊藤さんのお坊っちゃんじぁねぇか、だいじょうぶです。この人なら知っています」といってくれた。近所の酒屋の若い衆である。すると、もう一人「そうだ、伊藤君だ」と青年団の服を着た男が前に出てきた。これは千駄ヶ谷教会の日曜学校にかよっていたころの友だちだった。
 私の場合のようにこうあっけなくすんでしまえば、ただのお笑いぐさだが、あの朝鮮人騒ぎではずいぶんたくさんの何の罪もない朝鮮人が殺された。朝鮮人に似ているというだけで――もともと大した区別はないのだから、その場の行きがかりで、ただ朝鮮人と思い込まれたというだけで多くの日本人が殺されたり、負傷したりした。いま思えば、あれは、ナチスのユダヤ狩りと同じように、震災で焼け出され、裸にされた大衆の支配層に対する不満や怒りを、民族的敵対感情にすり替えようとした政府や軍部の謀略だったのだろう。
 それにしても、私は一方的に被害者だったかのような事件の顛末であったが、その私自身も自警団のマネをして加害者たらんとした気持ちを動かしたのである。このときの経験から、朝鮮問題はあちらの立ち場からの把握、理解をすることがいかに大切であるか、つくづくと思い知ったのである。(同氏の文章と談話をまとめた)」

改めて、日本人の中にある差別や排外主義の根深さを痛感するとともに、それを克服するために、「朝鮮問題は、あちらの立ち場からの把握、理解をすることがいかに大切であるか」を実践しなければならないと思う。ことあるごとに、繰りかえし、辛い歴史を見つめ直し、語り継がねばならない。今日、9月1日はそのための「国恥の日」である。
(2018年9月1日)

「DHC私は買いません」「デマとヘイトとスラップのDHC製品は買ってはいけない」 ― 「DHCスラップ訴訟」を許さない・第137弾

本日、東京地裁415号法廷で、私が反訴原告となっているDHCスラップ訴訟(反撃訴訟)の口頭弁論期日が開かれた。多くの方に傍聴いただき、とても心強い思い。ありがとうございます。

閉廷後、傍聴参加者から楽しいタグ(札)をいただいた。防衛省へのデモに参加したら、配布していたものという。ラミネート加工した名刺大。表面に「DHC私は買いません」の文字と、ジュゴンとヤンバルクイナ(であろう)のイラスト。「NO HATE」の添え書きがある。なるほど、「ニュース女子問題」での、DHCへの抗議運動体がつくったのだ。センスがよい。可愛らしい。もちろん、DHCではなく、ジュゴンやクイナがである。

裏面は、英語。I BOYCOTT HATEとあって、DHCの文字が駐禁マークの中に閉じ込められている。こちらのイラストはジュゴンだけ。

私は、DHC商品の不買運動を提唱してきた。ことあるごとに、「DHC商品を買うのはおよしなさい」「デマやヘイト、スラップを常習とする、こんな企業は社会から退場させなければならない」「あなたが、DHCの製品を買えば、その分だけデマやヘイト、スラップを助長することになる」「あなたが、DHC製品の購入をやめれば、その分だけ民主主義や社会正義を助長することになる」と発言し続けている。

DHC商品の不買を言い続けているのは、私だけではなかったのだ。こんなに本気で、DHCのボイコットをしている運動体があることを初めて知った。ネットで検索して、「沖縄への偏見をあおる放送をゆるさない市民有志」という市民団体のようだ。

DHC・吉田嘉明は、デマとヘイトとスラップとで無数に敵を増やしているのだ。デマとヘイトとスラップと、こんなにみごとに三拍子揃えた企業も珍しい。DHCの製品が生活に必要不可欠ということはあり得ない。他社の製品に乗り換えればよいだけのこと。消費者のその選択で、デマとヘイトとスラップを防止することができる。

大いに声をあげよう。「DHC私は買いません」「デマとヘイトとスラップのDHC製品は買ってはいけない」

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次回期日は2018年10月26日(金)午後1時30分?415号法廷。今度はヤマ場を迎える。

本日の法廷では、まず反訴原告(澤藤)側が、準備書面(4)を陳述。新しい証拠として、「『ニュース女子騒動』BPOは正気か」という吉田嘉明のiRONNA(産経のネット・サイト)への投稿記事などを提出した。この吉田の投稿は、産経新聞が「ニュース女子騒動、DHC会長が衝撃の反論手記」と報道したもの。

反訴原告の弁護団長光前弁護士から、人証の申請は、次の4名の予定という説明。
1 反訴原告本人 澤藤統一郎
2 反訴被告本人 吉田 嘉明
3 証人(反訴被告会社顧問弁護士) 今村 憲
4 証人(反訴被告会社総務部法務課)杉谷義一
本件スラップ訴訟提起の動機や提訴規準については、反訴被告本人と顧問弁護士の尋問が不可欠である。また、乙15-1のブログ記事によれば、反訴被告会社総務部法務課の杉谷義一という社員が、反訴被告を批判するブログの削除を要求している。この社員が提訴を担当していたとみられ、経緯を明確にするため証人採用が必要である。本日の反訴原告準備書面への反論の有無を見極めた上で、立証趣旨と尋問事項を確定したい。

これに対して、DHC・吉田嘉明側の代理人から、反論の準備書面を提出したい。との要望があって、最終的に次のスケジュールが決まった。

DHC・吉田嘉明側の反論準備書面提出期限を9月19日、
澤藤側の証拠申出書の提出期限を10月5日、
DHC・吉田嘉明側に証拠採用に反論あれば10月19日、

を各期限として各書面を提出する。

その上で、次回期日は
2018年10月26日(金)午後1時30分? 415号法廷
となった。

次回には、人証の採否が決まる。事実上の山場になると思われる。

今度は、大事な法廷。皆様、ぜひ傍聴にご参加を。
(2018年8月31日)

憲法と落語(その2) ― 「帯久」にも公正な裁判を受ける権利がある

「帯久」という演目は寄席では聞けない。なにしろ長い噺だ。くすぐりや笑いは殆どない。サゲも面白くない。これを聞かせるのが、話者の力量。

もとは上方噺。米朝が得意としていたという。これを享保年間の江戸の噺に移し替え、名奉行大岡越前の裁きとしたのは圓生(六代目)だという。いま、志の輔や円窓が独演会で演るそうだが、私は圓生百席のCDでしか聞いたことがない。

このCDの語り口が実にみごとで、ついつい聴きほれてしまう。聞き手の心理は、圓生の意図のとおりに操られて、それがまた心地よい。結末の大団円に違和感なく、後味の良さまで感じさせるのが名人芸。だが、ストーリーを反芻してみると、これは実にイヤな噺なのだ。ルールなきお白州の裁き。奉行の思い込みによる強引な訴訟指揮と判決。法にも証拠にも基づかない、およそ公正さを欠いた偏頗な結論なのだ。

この噺、別名を「指政談」という。「政談」とは訴訟を題材にした話のことだが、まさしく本格派政談。刑事事件と民事事件とがごっちゃになったお白州もの。圓生の噺のなかには、「民権のなかった時代のことでございます。原告・被告が砂利の上に控えております」などという描写が出てくる。

なぜ「指」か。自白強要の手段として指への細工が施される。奉行は紙片で帯屋久七の人差し指と中指を結んで糊付けて封印し、「この封印を破れば死罪」と脅して、自白を強要する。その奉行の「知恵」から名付けられた「指政談」。ここが一番イヤなところ。

この噺は、「享保五年の春、日本橋本町四丁目に和泉屋与兵衛という呉服店があり、二丁目には、帯屋久七さんという呉服屋さんがございました。」から始まる。「帯久」とは、帯屋久七という呉服屋。これがスコブル付きのいやな奴、悪玉という設定。対する和泉屋与兵衛が、これ以上はないという善人。

この二人の商売の盛衰と人間関係の葛藤が語られた後に、犯罪が起こる。「火付け」である。現住建造物放火(但し、未遂)の重罪。犯行に及んだのは、悪玉の帯久ではなく善人の与兵衛である。悪玉帯久は火を付けられた被害者の側。「善人」の犯罪をどう裁くか。何ゆえに刑罰が必要か、刑罰の本質とはなにかを考えさせる素材でもある。

火付けの動機に長い話しがある。当初は、和泉屋が繁盛を極め、帯屋は「売れず屋」と異名をとるほどの窮状。帯久は、与兵衛に金を借りに来る。最初は20両。これを返済した後30両、次いで50両、70両と金額は増えるが、与兵衛はいやな顔をせずに無利子で金を貸し、酒肴のもてなしまでする。そして11月、貸金の額は100両となった。

その年の大晦日。帯久は和泉屋に返済金100両を持参する。しかし、忙しい年の瀬、100両の金は与兵衛に見せはするが、与兵衛は受けとる前に座を外し、結局帯久はこれを懐にして帰宅する。この100両、与兵衛は自分の落ち度として、帯久への追求を断念する。

年が明けて享保六年、この二人の運が逆転する。帯久は、浮いた100両を使って売り出しの景品として、繁盛のきっかけをつかむ。一方、与兵衛は娘を失い、妻を亡くし、大火で店を失い、大病を患う。そして10年。与兵衛は零落した身で、帯屋の戸を叩いて、いささかなりともの借金を申し込む。自分を世話している元番頭の商売の元手を都合していただきたいという要請。ここが悪役帯久の見せどころ。にべもなく断るだけでなく、キセルで与兵衛の額を割って表に放り出す。

絶望した与兵衛は、死ぬつもりで帯屋の庭の松の枝ぶりを探しているうちに、普請場の鉋屑が目にとまる。ええい腹いせにと、これに火を付けたが大騒動の始まり。さいわい、火は消し止められるが、与兵衛は取り押さえられる。昔を知る町方は、内々に済ませようとするが、帯久が町奉行に訴え出て、ようやくにお白州の場面となる。事件を語らずして訴訟は語れないのだ。

訴え出たのが帯久だがこれは、被疑者与兵衛に対する火付けの告発のようなもの。火付けの動機についての調べの中で、百両のカネの返済の有無が問題となる。この民事事件に関しては、帯久は被告の立場。

大岡越前は、いたく権高い。エラそうなのだ。再三、帯久に「そちは、100両返したつもりで、実は返し忘れたのであろう」と誘導するが、帯久は断固として否認する。そこで、奉行は「思い出すためのマジナイ」として、右手の指2本を括って封印するのだ。

これでは、箸も持てない。眠れない。帯久は三日目に音を上げて「思い出しました。10年前、確かに100両借りて返し忘れていたに相違ありません」。で、100両返済することになった。だけでなく10年分の利息150両も支払えと命じられる。合計250両のうち、即金での支払いが200両、残額50両については、毎年1両、50年の年賦での支払いと和解成立し、その旨の証文が交わされる。

これで民事事件は終了。その上で、刑事事件の判決言い渡し。「和泉屋与兵衛。その方の火付けの罪軽からず。火あぶりの刑を申しつくる」「但し、刑の執行は奉行が仲立ちした50両の年賦支払いが完了した後とする」で、お開き。なお、このとき与兵衛は61歳という設定。50年先は111歳となる。

民事事件で、裁判官が被告に自白を強要するなどは言語道断。しかも、そのやり方がムチャクチャ。裁判の公正などはない。刑事事件としては、適正手続の観念がない。法治を曲げて、人治の極み。

本来、事実認定は、小さな間接事実を積み上げることで行われる。本件では、問題の大晦日のあとの帯屋の財務状況好転の原因に関心がもたれなければならない。暮れまであれ程苦しかった帯屋の台所が、新春には一転して豊かになった。そのカネの出所の追求が重要。裁きは、事実に謙虚でなくてはならない。

すべての人がもつ人権だが、もともと弱いもの。権力によっても経済力によっても社会的な多数派によっても、容易に傷つけられる。傷ついた人権を救済するのが、裁判の役割である。憲法32条は「何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない」と定める。ここには、人権の砦としての裁判所が想定されているのだ。「帯久は悪人だから人権はない」などと言ってはならない。火付けの与兵衛ともども公正な裁判を受ける権利が保障されなければならない。

大岡越前は、本来が行政官僚。江戸の治安行政のトップという立場にある。これでは、権力によって傷つけられた人権を救済することはできない。また、裁判の過程で、裁判官が人権侵害をしてはならない。刑罰を定める法も、訴訟手続の法も厳格に守られなければならない。

個別事例の具体的妥当性で、結果オーライとしてはならない。「帯久」がよくできた噺だけに、強くそう思わせられる。
(2018年8月30日)

次回法廷は、明後日金曜日(8月31日)午後1時30分? 415号法廷で ― 「DHCスラップ訴訟」を許さない・第136弾

民事訴訟の弁論期日は淡々と進行する。スリリングなことは起こらない。傍聴して手に汗握る見せ場などはない。それでも、この法廷という空間で国民の権利が具体化する。法の枠の中でのことではあるが、法廷とは国民の権利を増大し伸長させる場である。が、時には切り縮めることもある。本件は、表現の自由や消費者の権利がどうなるかという重要な事案。ぜひ、応援していただきたい。

DHCと吉田嘉明が、私(澤藤)に6000万円を請求したのが「DHCスラップ訴訟」である。いったい何を考えてこんな非常識なムチャクチャをやったのか。吉田嘉明は、自分に対する批判者を威嚇したのだ。恫喝したと言ってもよい。「オレを批判すると面倒なことになるぞ。オレに対する批判はやめておいた方が利口だ」という威嚇である。

民事訴訟とは、自分の権利が侵害されたときにその救済を求めてするものなのだ。権利の救済のための提訴はすべての人に保障された権利である。だが、その権利の行使に藉口して、実は他人の表現の自由を侵害することは許されない。DHCと吉田嘉明はそれをやった。

4年前の春、私は当ブログで吉田嘉明を3度批判した。今読み直してみて、実に真っ当な批判の言論である。吉田嘉明とDHCは、批判されるべきが当然で、私は、自覚ある主権者の一人として、必要でなすべき責務を果たした思いである。

また、私は当時DHCについても、吉田嘉明についても殆ど知るところがなかった。スラップ訴訟を提起されてから、DHC・吉田嘉明のレイシズムやデマの体質も、右翼陣営のスポンサーとしての役割も、少しずつ、知ることになった。4年前の春、当ブログで吉田嘉明を3度批判した当時は、個人的な怨みもなければ、ことさらに痛めつけようという意図など持ちようがなかった。批判の対象とした吉田嘉明の言動についての情報のすべてが、吉田嘉明自身が週刊新潮に発表した「手記」によるものであった。その手記の内容にふさわしい適切な批判をしたものであって、それ以上でも、以下でもない。

私の吉田嘉明に対する批判は「カネで政治を歪めてはならない」という純粋に政治的な言論である。歪められてはならないとしたのは、消費者のための政治であり、消費者行政であった。私は、常に消費者利益擁護の立場に徹しての言論を心がけている。このときもその立場からの立論だった。どこからどう見ようとも真っ当な言論で、違法と言われる筋合いはまったくない。

もとより、政治的・社会的強者は批判を甘受しなければならない。言論の自由とは、強者を批判する権利を意味する。ところが、吉田嘉明には批判甘受の度量がなかった。自分で発表した手記に対する批判がよほど応えたようだ。その結果、過度にうろたえての思慮を欠いた所業が、高額請求の訴訟提起。合計10件のスラップ訴訟の大量提訴だった。普通、こんな勝ち目のない提訴を大量に提訴することは考えられない。弁護士費用や訴訟費用が厖大になるからだ。侵害された権利回復を目的として、こんな濫訴はあり得ない。費用無視、コストパフォーマンス無視のスラップ訴訟なればこその高額請求訴訟の濫発である。自分の権利救済ではなく、批判者を脅かすことが目的なのだ。高額訴訟の提起で脅かせば、へなへなと萎縮して批判を差し控えるだろうと思い込んでのことなのだ。

私に対する「黙れ」という恫喝が、当初は2000万円のスラップ訴訟の提起だった。私が黙らずに、スラップ批判を始めたら、たちまち提訴の賠償請求額が6000万円に跳ね上がった。なんと、理不尽な3倍増である。この経過自体が、言論封殺目的の提訴であることを雄弁に物語っているではないか。

そのスラップ訴訟は私(澤藤)の勝訴で確定したが、DHC・吉田嘉明が意図した、「吉田を批判すると面倒なことになる」「面倒なことに巻き込まれるのはゴメンだ。だから吉田嘉明を刺激せずに批判は差し控えた方が賢い」という社会に蔓延した風潮は払拭されていない。スラップに応訴のための私の出費や労力も補填されてはいない。そこで、今私は、DHC・吉田嘉明を被告として、スラップ提訴が不法行為となるという主張の裁判を闘っている。これが「反撃訴訟」「リベンジ訴訟」などと呼んでいるもの。「反撃」とは、DHCスラップ訴訟の提訴自体が違法であることを理由とした、私からDHC・吉田嘉明に対する660万円の損害賠償請求。係属部は、東京地裁民事第1部合議係。

その「反撃訴訟」の次回口頭弁論期日が、明後日金曜日(8月31日)午後1時30分から、東京地裁415号法廷で開かれる。ぜひ傍聴いただきたい。

次回閉廷後には、いつものとおり、短時間だが資料も配布して弁護団からの経過説明や意見交換をしたいと思う。公開の法廷は、だれでも、なんの手続も不要で傍聴できる。報告集会への参加も自由。よろしくお願いします。

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ところで、私はDHCに対する責任追及の訴訟を継続しているだけでなく、DHC商品の不買運動を提唱している。ことあるごとに、「DHC商品を買うのはおよしなさい」「デマやヘイト、スラップを常習とするような企業は社会から退場させなければならない」「あなたが、DHCの製品を買えば、その分だけデマやヘイト、スラップを助長することになる」「あなたが、DHC製品の購入をやめれば、その分だけ民主主義や社会正義を助長することになる」と発言し続けている。

私の弁護士としての活動の大きなテーマの一つが、消費者利益の擁護である。弁護士の仕事としての個別事件としての消費者被害救済の重要性はいうまでもないが、弁護士会活動の、あるいは消費者問題に取り組む弁護士集団の課題は、消費者主権の確立にある。

消費市場における消費者とは、実は労働者であり、勤労市民であり、中小業者であり、年金生活者であり、学生・児童などなど…。生活者としての国民にほかならない。その生活者が、自覚的な消費者として市場における賢い行動によって、よりよい社会を築くことができるのではないか。これが「消費者主権」の基本的な考え方。

宣伝に操られて少しでも安いものを求める受動的な消費者から一歩抜け出て、自らの消費行動における選択が社会の持続性や平和や民主主義にどう関わるかということを考える「賢い消費者」となろう、という運動の提唱でもある。

まさしくDHCこそが、典型的な「賢い消費者が排斥すべき企業」であり、「賢い消費者が買ってはならない商品を販売している企業」である。ヘイトやスラップを事として恥じない企業には、賢い自覚的な消費者の選択によって、社会から退場してもらわねばならない。

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消費者主権の考え方が、世に浸透してくると、賢い消費者をターゲットにした市場戦略を練る企業が現れる。そのような企業のなかでカタログハウスに注目したい。あの「通販生活」誌で有名な通販業者。取り扱い商品として、食品もあれば化粧品もある。DHCと競合している部門に焦点を当てたい。

この会社のホームページでは、自らの企業思想を「下を向いて歩こう」と表現している。「下」とは地べたのこと、有限な地球環境を意味している。地球環境の持続可能性を第一義とし、その持続を可能とする企業であることが謳われている。

同じことが、「20世紀型経済成長論の破綻」とも表現されている。つまりは、「消費増加は善」ではないというのだ。「消費増加⇒生産増加⇒雇用増加⇒貧困解消」というサイクルを良しとする抜きがたい発想への深刻な疑問である。「ビジネス満足」と「地球満足」とは対立するものととらえられ、『どれだけ消費すれば満足なのか』(アラン・ダーニング1996)が紹介されている。この書物は、「地球は「消費」に耐えられるか。環境と公正と文化の視点からの消費社会論」「過剰消費が環境を危機に追いやっている。消費をエコロジーの観点から問い直し、真の充足を得る脱消費型ライフスタイルを探る」というキャッチコピーで売り出されているもの。こんな書物をホームページに掲げるのだから、そもそも、「売らんかな」の精神に乏しい。「売れれば売れるほど、儲かるからよし」ではないのだ。

この基本姿勢で、この企業は幾つかの「憲法」をもっている。まずは、2018年版カタログハウスの「商品憲法」というもの。
第1条 できるだけ、「地球と生物に迷惑をかけない商品」を販売していく。
第2条 できるだけ、「永持ちする商品」「いつでも修理できる商品」を販売していく。
第3条 できるだけ、「寿命が尽きた商品」は回収して再資源化していく。
第4条 できるだけ、「ゴミとCO2 を出さない会社」にしていく。
第5条 できるだけ、「メイド・イン・ジャパン」の買い物で雇用を増やしたい。
第6条 大型家具は「震度6強」テストを受けて倒れにくかったものにかぎり販売していく。
第9条 できるだけ、核ミサイル、原子力潜水艦、戦闘機、戦車、大砲、銃器のたぐいは販売しない。

さらに、「食品憲法」というものもある。
第1条 「自然の食材だけでつくった食品」以外は売りません。
第2条 にがり、かんすいのような「伝統的添加物」および珊瑚カルシウムのような「天然由来添加物」以外の食品添加物を使った食品は売りません。
第3条 農薬の使用実態や残留量を調べて、はっきりしない食品は売りません。
第4条 放射性物質(セシウム134/137)は国の基準(100ベクレル/キロ)よりも厳しい小社基準(20ベクレル/キロ)を定めて、これを超えている食品は売りません。
第5条 食品の廃棄ロスをできるだけ減らすために、賞味期限が6ヵ月以上残っている食品は出荷します。

その下位法に当たるのであろう「「食品」の売らないルール」という具体的規則もある。
1.食品添加物を添加した食品は売らない。
2.主要原料に遺伝子組み換え作物を使用した食品は売らない。
3.主要原料に農薬の使用実態や残留が不明な農作物を使用した食品は売らない。
4.輸入牛やそれらを由来とする素材を使用した食品は売らない。
5.主要原料に抗生物質など、薬品類の使用実態や残留が不明な畜産物・海産物を使用した食品は売らない。
6.食品に触れる包装材に塩化ビニル、ポリカーボネート、エポキシ樹脂が使われているものは売らない。
7.製造工程と生産管理体制(金属検出の対策など)の確認ができない食品は売らない。
8.放射能残留検査で「小社基準」を上回った食品は売らない。

「化粧品憲法」は次のとおり。
第1条 【トレーサビリティ】全ての成分について、由来原料と主要産地を公開しています。
第2条 【敏感肌成分基準】石油由来成分やシリコーン、紫外線吸収剤は原則、使っていません。肌負担につながる成分は極力避けています。
第3条 【安心仕様ルール】敏感肌の人でも安心して試せます。1ヵ月使ってみて肌に合わなかったときは全額返金します。
第4条 【6人の専門家チェック】6人の専門家たちのチェックに合格しない商品は販売しません。

「化粧品」の売らないルール
1.石油由来成分(界面活性剤、色素、香料)を使用しているものは売らない。
2.旧表示指定成分を使用しているものは売らない。
3.紫外線吸収剤を使用しているものは売らない。
4.光毒性のリスクある成分を使用しているものは売らない。
5.シリコーンを使用しているものは売らない。
6.牛由来成分、ホルモン類を使用しているものは売らない。
7.放射線量測定で厚生労働省の「乳幼児食品の安全基準」を超えるものは売らない。
8.ヒトパッチテストによる皮膚刺激性試験で、肌への刺激が極力弱いことが確認できないものは売らない。
9.目に入りやすい化粧品は動物を使わない眼刺激試験で、「無刺激性」または「軽度刺激性」と確認できないものは売らない。
10.6名の専門家による商品チェックに合格しない商品は売らない。

これと対極にあるものが、話題になった「電通十訓」。これこそ、企業の本音。経営体が、資本主義の荒波を乗り切るための体消費者基本戦略である。

 1 もっと使わせろ
 2 捨てさせろ
 3 無駄使いさせろ
 4 季節を忘れさせろ
 5 贈り物をさせろ
 6 組み合わせで買わせろ
 7 きっかけを投じろ
 8 流行遅れにさせろ
 9 気安く買わせろ
10 混乱をつくり出せ

体系的な整序がイマイチだが、要は、「消費者には無駄使いさせても、使える物を捨てさせてでも、少しでも多く物を買わせろ」「不要なものでも、欺してでも、消費者に物を買わせろ」という鉄則である。この姿勢なくしては、企業が消費市場で生き残れない。しかし、この「ビジネス満足」は、大きな「地球不満足」を招いて、地球環境の持続性を失わしめることになる。

この「十訓」は、褒められたものではないが、違法とまでは言い難く、経営者の本音であって外的強制なくしてこれを捨てさせることは難しい。当面は賢い消費者の行動を通じての批判を高めるしかない。

強調すべきは、隠れた、禁じ手としての「第11訓」があることだ。これに手を染めれば、違法となり、悪徳といわれる。

11 政治家を利用しろ。政治家に金を渡せ。もちろん禁じ手だから慎重に裏金として。額は多ければ多いほどよい。できれば8億円ほども。その金は生きてくる。いずれは自分の会社の事業を規制する官庁の規制を緩和し、さらには規制そのものを撤廃する企業の自由第一の政治の実現にもつながる。そのために、政治家に渡す金を惜しんではならない。

吉田嘉明が渡辺喜美に8億円を渡したのは、この「第11訓 」の実践である。繰り返そう。「DHC商品を買うのはおよしなさい」「デマやヘイト、スラップを常習とするような企業は社会から退場させなければならない」「あなたが、DHCの製品を買えば、その分だけデマやヘイト、スラップを助長することになる」「あなたが、DHC製品の購入をやめれば、その分だけ民主主義や社会正義を助長することになる」。そして、「カネにまみれた汚い政治を一掃したければ、DHC商品を買うのはおよしなさい」。
(2018年8月29日)

あと三年、アベ・シンゾーでご辛抱ください。

おなじみアベ・シンゾーが、毎度おさわがせいたします。このたび、自民党総裁選への出馬を正式に表明いたしました。私自身のため、妻アキエのため、腹心の友のため、そして大臣をやりたい仲間たちのためでございます。どうぞ皆様、あと3年のご辛抱をお願いいたします。

思えば、昨年の衆院選を「国難選挙」と名付けて、北朝鮮のお陰をもって国民の皆様の支持を大きく掠めとったのが私の手柄。あれが、わずか11カ月前のこと。すっかり国際情勢は変わってしまいましたが、せっかく底上げの議席を頂戴しているうちに、国民の反対の強い政策をやってのけるのが、私の責任であり使命である。そう自覚しております。

来年には皇位継承や20カ国・地域(G20)首脳会議、再来年には東京五輪・パラリンピックなどが控えておりまして、だからどうしたとも言われそうですが、ここは大仰に「日本は大きな歴史の転換点を迎える」ナンチャッテ。我ながら少々恥ずかしいのですが、意味のないことを意味ありげに申し上げるのが私の得意とするところ。平成の先の、まだ元号の定まっていない時代に向けて、新たな国造りを進めていく。その先頭に立つ決意でございます。「新たな国造り」って、なにいつもの枕詞ですから、中身の穿鑿はご無用に願います。

考えていることは、皇位継承の儀式において、私の強固な支持基盤である右翼の皆様の喜ぶパフォーマンスとして、「テンノーヘイカ・バンザイ」を何度でも繰り返してお見せしなければなりませんし、オリパラは国威発揚の千載一遇のチャンスではありませんか。強化費をはずんで、好成績者にはボーナスつけて、私の出番を多くしなければと策を練っているところでございます。

6年前の総裁選に出馬したときのあの高揚した志、大日本帝国と大日本帝国憲法を取り戻すとのお約束にはいささかの揺らぎもありません。政治的には天皇を中心とした国家の和の精神を確立し、軍事的にはアメリカに身を寄せつつも近隣諸国に対する威嚇として十分な装備と編成を整備し、経済的には大企業が何の制約もなく自由な経済活動ができるような基盤を整えること。これまでもやってきたところではありますが、今後とも国民の抵抗を排して断固やり抜く決意でございます。

なかでも大切なのは、一刻も早く遅れている辺野古新基地建設を完成し、イージスアショア建設に着手し、全国にオスプレイを配備することです。これまでは、北朝鮮情勢緊迫と国民を煽ることでことを運んでまいりましたが、どうも半島情勢が私の思惑に反して、下手をすると南北融和、朝鮮半島非核化、北東アジアに平和が訪れるなどとなりかねません。ですから、それまでにことは緊急を要します。早いうちに、基地建設も、オスプレイ配備も済ませて、臨戦態勢を整えなければなりません。それができるのは私だけのこと。

政治にしても、経済政策にしても、沖縄問題にしても、「強きを助け、弱きを挫く」という私の志を貫くには、なまなかな気力体力ではなしがたいところではございますが、幸か不幸か、気力体力十二分であるとの主観的確信に至った以上、万難を排して不人気な政策遂行の責任を果たしていかねばなりません。

総裁選の争点や論戦のありかたについてのご質問ですが、私も政治家ですから、不利なことはけっしてやりません。とりわけ、政治姿勢の問題については、なんにつけても、「これから国民の皆様には丁寧に説明を尽くしてまいる所存でございます」と言ってその場を凌いでいけば、アッという間に3年くらいはやり過ごせる。というのが私の体験に基づく自信であります。

また、石破さんは「正直、公正」をスローガンに出馬表明をしましたが、それはアンフェア。まるで私アベ・シンゾーが、「不正直、不公正」で、政治や行政を私物化していると言わんばかりではありませんか。だれが見てもその批判が当たっているだけに、そんなことを言っていけない。真実を衝くのは、総裁選ではタブーなのです。その辺の掟は、石破さんも最近は多少分かってこられたようでけっこうなことでございます。お互い自民党員同士ではありませんか。総裁選で、本気になってお互いの傷を暴き合うような愚は避けるべきが当然と考えております。

政策論争ですか。そんなことをしたら、日本の総理大臣がまともな討論能力をもっていないという国家秘密が天下に明かにされてしまうではありませんか。それは、国益に反します。石破さんは、政策別の討論会開催を要求していますが、これに応じることが私にとって得策なはずはなく、応じることはできません。不利が分かりきっているのに受けて立つほど私はバカではないつもりです。

えっ? どうして第一声では憲法改正について触れなかったのかというご質問。これもですね、改憲を叫んで有利になるなら叫びます。いま改憲を訴えることは、必ずしも総裁選に有利にならない。むしろ、ダンマリを決めこむ方が得策で、私の立場が安泰となったところでバサッとやってしまおうというのが、バカではない私の基本作戦。しかし、私はけっして改憲をあきらめることができない立場です。だから、その後身内の集会では、率直に改憲を訴えていますよ。時と所によって、何枚でも舌を取り替えるのが私のやり方。みなさま、ご協力をよろしく。

さて、総裁選への協力・非協力を見極めての選挙後の露骨な論功行賞が私の手口。勝負はもう見えていますから、事実上は消化試合。それでも、「これから、国民にはさておき、自民党の皆様には丁寧に説明を尽くしてまいる所存でございます」。
(2018年8月28日)

そりゃオカシイ ― 「大嘗祭は宗教行事だが重要な儀式だから公費支出を認める」って?

来年(2019年)、現天皇(明仁)がその職を辞して、長男(徳仁)がその地位を承継する。次期天皇の就任は2019年5月1日と予定され、その後一連の代替わり儀式が行われる。天皇がかつて宗教的権威を体現する者とされていたため、伝統に基づく代替わり儀式に固執するとなれば、どうしても宗教性を帯びることになり、憲法に抵触することになる。その最たるものが、11月に予定されている大嘗祭にほかならない。

その大嘗祭に関して、一昨日(8月25日)の毎日新聞朝刊に、目立つ大きな記事。「大嘗祭『公費支出避けるべきでは』秋篠宮さまが懸念」の見出しで、以下の内容。他紙に後追いのないことも含めて、これは興味深い。

来年5月に即位する新天皇が五穀豊穣を祈る皇室の行事「大嘗祭(だいじょうさい)」について、秋篠宮さまが「皇室祭祀に公費を支出することは避けるべきではないか」との懸念を宮内庁幹部に伝えられていることが関係者への取材で判明した。大嘗祭は来年11月14日から15日にかけて皇居・東御苑での開催が想定されている。政府は来年度予算案に費用を盛り込む。

 宗教色が強い大嘗祭に公費を支出することには、憲法で定める政教分離原則に反するとの指摘がある。政府は今年3月に決定した皇位継承の儀式に関する基本方針で、「宗教的性格を有することは否定できない」としながらも、「皇位が世襲であることに伴う重要儀式で公的性格がある」と位置付けた。費用は平成の代替わりの際と同様、皇室行事として公費である皇室の宮廷費から支出する。

 平成の大嘗祭では、中心的な行事「大嘗宮(だいじょうきゅう)の儀」の祭場建設のための約14億円を含めて費用は総額約22億5000万円に上った。関係者によると、同程度の儀式を行った場合、物価の変動などを考慮すると、費用は大幅に増える可能性がある

通常の皇室祭祀は、天皇、皇后両陛下と皇太子ご一家の私的生活費である内廷費で賄われる。これに対して、皇室の公的活動は宮廷費から支出される。政府は大嘗祭について宮廷費で予算措置を講じる方針だが、秋篠宮さまは宮内庁幹部に対して多額の宮廷費が使われることへの懸念を示したうえで「内廷費で挙行できる規模にできないだろうか」とも話しているという。今年度の内廷費は3億2400万円だった。

 秋篠宮さまは、新天皇が即位すると、皇位継承順位第1位の皇嗣となる。同庁幹部は秋篠宮さまの懸念について、毎日新聞の取材に「承知していない」としている。

 皇室祭祀などに詳しい宗教学者の島薗進・上智大学教授は「皇嗣となる方の素直な意見として歓迎したい。大嘗祭に公的な費用が使われることは、国の宗教的な活動を禁じる憲法20条に抵触する恐れがあり、本来好ましくない。政府は多様な意見を踏まえて、慎重に皇位継承儀式を進めてほしい」と話している。

島薗教授のいうとおりだ。真面目にものを考えようという人で、この意見に反対は考えられない。ただ、話者によってニュアンスの違いは避けられない。私なら、「大嘗祭に公的な費用が使われることは、国の宗教的な活動を禁じる憲法20条に抵触する恐れが強く当然に避けるべきだ。政府は違憲の恐れの指摘を無視して、敢えて公的費用を投じての大嘗祭を強行すべきではない」と言いたいところ。

ところで、大嘗祭は秘儀とされ、その内容には諸説ある。これを政府はどう説明しようとしているか。本年(2018年)4月3日、政府は「大嘗祭の挙行については、『「即位の礼」・大嘗祭の挙行等について』(平成元年12月21日閣議口頭了解)における整理を踏襲し、今後、宮内庁において、遺漏のないよう準備を進めるものとする。」と閣議口頭了解している。

日本国憲法施行以来天皇代替わりは1回しかない。その際の「「即位の礼」・大嘗祭の挙行等について」1989(平成元年)年12月21日閣議口頭了解における整理とは以下のとおりである。

大嘗祭の意義
大嘗祭は、稲作農業を中心とした我が国の社会に古くから伝承されてきた収穫儀礼に根ざしたものであり、天皇が即位の後、初めて、大嘗宮において、新穀を皇祖及び天神地祇にお供えになって、みずからお召し上がりになり、皇祖及び天神地祇に対し、安寧と五穀豊穣などを感謝されるとともに、国家・国民のために安寧と五穀豊穣などを祈念される儀式である。それは、皇位の継承があったときは、必ず挙行すべきものとされ、皇室の長い伝統を受け継いだ、皇位継承に伴う一世に一度の重要な儀式である。

儀式の位置付け及びその費用
大嘗祭は、前記のとおり、収穫儀礼に根ざしたものであり、伝統的皇位継承儀式という性格を持つものであるが、その中核は、天皇が皇祖及び天神地祇に対し、安寧と五穀豊穣などを感謝されるとともに国家・国民のために安寧と五穀豊穣などを祈念される儀式であり、この趣旨・形式等からして、宗教上の儀式としての性格を有すると見られることは否定することができず、また、その態様においても、国がその内容に立ち入ることにはなじまない性格の儀式であるから、大嘗祭を国事行為として行うことは困難であると考える。

次に、大嘗祭を皇室の行事として行う場合、大嘗祭は、前記のとおり、皇位が世襲であることに伴う、一世に一度の極めて重要な伝統的皇位継承儀式であるから、皇位の世襲制をとる我が国の憲法の下においては、その儀式について国としても深い関心を持ち、その挙行を可能にする手だてを講ずることは当然と考えられる。その意味において、大嘗祭は、公的性格があり、大嘗祭の費用を宮廷費から支出することが相当であると考える。

以上の政府説明を要約するとこういうことになる。
(1)大嘗祭の宗教的性格は否定しがたい。
(2)しかし、一世に一度の極めて重要な伝統的皇位継承儀式として公的性格がある。
(3)だから、大嘗祭の費用を宮廷費から支出することが相当だ。

そりゃオカシイ。無理だろう。こんな屁理屈を認めると、際限なく天皇の行為の公的性格が広がる。憲法は、政府がこんな無茶を言い出さないように、国事行為を限定し、政教分離規定を置いたのだ。大嘗祭に宗教的性格が認められる以上は、公的な性格のものとしてはならない。公的性格の範囲をズブズブにして公的支出を認めてはならない。政教分離の実効性がここで問われているのだ。

どうしても大嘗祭をやりたければ、天皇家の私的な行事として、内廷費でやればよいだけのことだ。どこの家庭の行事も同じこと、財布の許す範囲でやりくりすればよい。あきらかに、秋篠宮の言い分の方が真っ当だ。案外、手強い人が皇族の中にもいる。
(2018年8月27日)

創価学会にお願いしたい。安倍政権の政教分離原則違反行為に、「謗法厳誡」の立場から、もっと厳格な対応をしていただきたい。

「聖教新聞」とは、言わずと知れた創価学会の機関紙。その一昨日(8月24日)の紙面に次の記事が掲載されたという。これは、興味津々。

「創価学会の名称を騙った提灯献灯 警視庁に告訴申し立て」
 創価学会は靖国神社主催の「みたままつり」(7月13?16日)において、学会を勝手に騙り、「創価学会」の名称入りの大型提灯を陳列させた氏名不詳者を23日、偽計業務妨害罪及び名誉毀損罪で、警視庁(麹町警察署)に告訴の申し立てを行った。
 提灯を献灯するためには同神社に所定の費用を支払う必要があるが、学会は献灯の申し込みなど一切行っていない。にもかかわらず、「みたままつり」で学会の名称が入った大型提灯が陳列されたため、これを見た関係各方面から学会に問い合わせがあり、日常の法人及び宗教業務が妨害された。
 また告訴状では、学会の名称入り提灯が陳列されることは、「謗法厳誡」を旨とする学会が謗法を容認したとの印象を与えるものであり、学会の名誉を毀損すると指摘。悪質な犯罪行為の再発防止のため、厳重な捜査と、被告訴人に対する厳重な処罰を求めている。

靖国神社の恒例行事である「みたままつり」とは、靖国神社自身の説明によれば、下記のようなもの。
 東京のお盆時期に当たる7月13日から16日までの4日間行われる みたままつりは、英霊をお慰めする行事として昭和22年に始まり、ご遺族・戦友・崇敬者の方々から献納いただいた大小約3万灯の献灯が掲げられます。
 みたままつり の趣旨をご理解いただき、御祭神奉慰(ほうい)顕彰(けんしょう)のため献灯下さいますようお願い申し上げます。
  大型献灯:1灯 12,000円
  小型献灯:1灯  3,000円

千代田区観光協会はこう紹介している。「日本古来のお盆にあたる、7月13日から16日までの4日間、国のために尊い命を捧げられた英霊を慰める行事として、昭和22年(1947年)に始まり、毎年開催されてます。」

こういう説明を読んでも、ご理解いただきたいとされる「みたままつり の趣旨」はよく分からない。「お盆の時期に、英霊をお慰めする」行事という理解で十分ということなのだろうか。仏教行事であるお盆(盂蘭盆会)と神道の関係はどうなっているのか、英霊は六道を輪廻しているのか、本来国家が管理するとされていた死者の魂が盆のあいだだけは家族のもとに帰るということなのか。そんなことはどうでもよいのか。

靖国神社は、天皇制政府によって創建された軍国神社である。戦争神社と言ってもよい。古い歴史を持つでははなく、伝統というほどのものもない。天皇や陸海軍との一体性がアイデンティテイ。みたままつりはさらに新しく戦後にできたもの。民族の歴史とか、民族の伝統から生まれたものではなく、神社にふさわしい行事とも言えない。この神社に教義というほどのものがあるわけではなく融通無碍であることが強みなのだ。いまは、「A級戦犯の分祀は教義上できない」と言っているが、状況変わればどうにでもなるのだ。

今年(2018年)の「みたままつり」に、「創価学会」の大型提灯が献灯されていたことは、ネットで話題となっていた。提灯に書かれた献灯者の名義は「創価学会」であって、中間機関名や地方組織名の記載はない。

てっきり、「創価学会も角が取れて丸くなったものだ」「自公連立政権をやっていける仲なのだ。創価学会も自民党におもねらざるをえないのか」などと思っていた。しかし、どうもそうではないらしい。誰かが12000円を支払って、「創価学会」の提灯を献納した。それが、創価学会にとっては、偽計業務妨害にもなり、名誉を毀損する行為でもあるというのだ。

創価学会名義の献灯は、見ようによっては、「創価学会が、国のために尊い命を捧げられた英霊を慰める」という立派な行為をしたようでもある。が、これは創価学会にとっては告訴せざるを得ない悪質な犯罪行為なのだという。それを理解するには、「謗法厳誡」という学会信者に課せられたタブーを知らねばならない。

「謗法」(「ほうぼう」とも「ぼうほう」とも読むようだ)とは、「法」すなわち日蓮聖人の正しい教えを「謗(そし)る」こと。ケチをつけることだ。四箇格言という日蓮の他宗派批判がある。「真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊」という苛烈なもの。この厳格な他宗批判の伝統墨守こそが創価学会の本領であって、他宗批判に緩みを見せることは、あってはならない「謗法の容認」なのだ。「国のために尊い命を捧げられた英霊を慰める」ためとした提灯の献灯などは、他宗教の考え方で創価学会員としてあるまじき行為。あたかも創価学会が、「英霊を慰める」行為をやっているような「騙り(かたり)」は絶対に許せない。だから、厳重な捜査と、氏名不詳の犯人に対する厳重な処罰を求めているというのだ。

であるならば、安倍晋三やその一統の、靖国参拝や伊勢神宮参拝あるいは玉串料や真榊奉納などという政教分離原則違反の違憲行為に対して、創価学会には「謗法厳誡」の立場からもっと敏感に厳格な対応をしてもらいたい。安倍の所業は、提灯一個の献灯どころの生易しいものではない。その悪質な違憲行為の黙認は、自公連立優先の思惑から、創価学会が謗法を容認したとの印象を与えるものであり、学会の名誉を毀損することにもなりかねない。ぜひとも、悪質な政教分離違反行為の再発防止のため、厳重な抗議をお願いしたい。

(2018年8月26日)

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