1 以下は、不起訴処分となった本件告発(2017年10月16日付)の末尾の文章です。
「以上の被告発人両名に対する本件告発は、森友学園事件疑惑の全容解明を期待する国民世論を代表しておこなうものである。御庁検察官は、権力に屈しない毅然たる姿勢をもって、本告発にかかる事案について厳正な捜査を遂げ、さらに権力中枢の関与についてまで、国民が納得できるよう捜査が及ぶことを望むものである。」
残念ながら、同じことを検察審査員の皆様に申しあげなければなりません。仮に、皆様の判断が、検察官と同様のものだとすれば、もう森友学園事件の刑事事件としての立件は不可能となります。それは、日本の民主主義にとっての大きな禍根と言わざるを得ません。あとがないのです。
皆様に、耳を傾けていただくよう、お願いいたします。
2 検察審査員の皆さんの職責は、検察官の不起訴処分について、その当不当を判断することとされています。一見どんなに些細に見える事件に関しても、適正な刑事司法作用を実現するための検察審査員の関与は意義の大きいもので、それだけに重責と言うべきでしょう。
しかし、ときに、一見些細に見えるどころではない重大事件というものがあります。検察審査員の判断が、民主主義の根幹を揺るがすことにもなりかねない審査申立事件。森友事件関係者38人の一括不起訴処分に対する審査申立案件は、まさしくそのような重大な意味をもっています。あなた方審査員11人の、不起訴処分に対する当不当の判断が、わが国の健全な民主主義を発展させるのか衰退させるのか、そのような大きな影響力を持つものと考えざるをえません。
3 もっと正確に言えば、森友事件で表面化したわが国の政治や行政のありかたは、行政私物化、政治の私物化、あるいは国家の私物化と言われる事態です。憲法が想定するような公平で公正なものではありません。それを建て直すラストチャンスがあなた方の手中にあります。その権限を正しく行使していただきたいのです。仮にも、これを放置して、38名の不起訴を相当とするようなことになれば、わが国の民主主義は地に落ちてしまうことにもなりかねません。
4 森友学園事件の発端は、内閣総理大臣とその妻の威光によって、およそ非常識な教育を行う小学校の建設が認可される運びとなったことにあります。そして、国民の財産である国有地がその校地として只同然の価格で売り渡されたことが、明らかになりました。
これを追及された首相は、「国有地の売却や学校の認可に自分や妻が関わっていれば、首相も政治家も辞める」と明言しました。そのため、多くの官僚が首相を擁護するために、首相の意向を忖度して、書類の隠蔽・改ざん、虚偽の答弁を繰り返してきました。
首相夫妻が元凶で、内閣に自浄作用なく、政権与党も官僚も忖度を繰りかえすばかり。国会が本来の役割を果たし得ていません。最後の頼みが検察だったのですが、残念ながらこれも結局は頼りになりませんでした。とすれば、日本の民主主義は、検察審査会の審査員11名の皆様に希望を託するより方法はありません。
5 法とは正義の別名です。法の適切な運用によって、正義が実現します。皆様の適切な判断によって、日本の民主主義が息を吹き返します。
いま、あなた方11名が、その正義を実現することができる立場にあります。皆様が法であり、正義となります。政治の浄化のために、民主主義のために、勇躍して主権者の任務を果たしていただくよう期待して、本申立をいたします。
6 なお、一言付言いたします。審査員皆様の任務は、被疑者・被告発人の有罪を断定するものではありません。あくまで、本件が裁判官に有罪か無罪かを判断してもらうにふさわしい事案であるかどうかの判断なのです。その意味では、過度に有罪の確信にこだわる必要はありません。飽くまで、国民一般の目線で、これだけの灰色の材料があれば、裁判所の判断を仰ぐべきだというレベルの心証で、不起訴を不当とし、起訴を相当としてよいのです。
そのようなご認識で、以下の告発にかかる被疑事実をお読みください。
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森友学園問題での告発が正確に何件あるかは知らない。報道では、38人の被告発人がすべて不起訴となった。おそらく告発人のすべてが、検察審査会への審査申立をするだろう。
私は下記2件の告発代理人となった。
(1) 告発日 2017年10月16日
被疑者 (1)池田 靖? (2)佐川宣寿
罪状 (1)背 任??? (2)証拠隠滅
(2) 告発日 2017年11月22日
被疑者 美並義人
罪状 背 任
そのいずれも2018年5月31日に不起訴処分となり、その旨の通知が6月1日に発送され、2日に届いた。
本日(6月3日)、大阪検察審査会への審査申立書を起案し、明朝(6月4日)郵便で発送する。
その冒頭の担当審査員への訴えの部分が上掲の一文である。良い結果を期待しつつ…。
(2018年6月3日)
正規労働者と非正規労働者との労働条件格差は大きい。この格差の是正は、ますます大きな今日的課題ととなっており、それゆえに労働法実務の問題ともなっている。昨日(6月1日)、この問題に初めての最高裁判断が示されて話題を呼んでいる。
当然のことながら、あらゆる労働条件をめぐって、労使が鋭く対立している。非正規格差に関しては、労働者側のスローガンは「同一労働同一賃金」だ。しかし、使用者者側は非正規を安価で解雇容易な労働力として使いたい。あるいは使い捨てたい。格差大歓迎なのだ。
たとえば、パートで働く労働者には期末手当が出ない。同じ職場で同じように働いても、正規労働者には30万のボーナスが出て、パートにはゼロ。ありふれた光景だ。社長が、パートに1万円だけを支給したとして、これを「社長のありがたい思し召し」と受けとるべきか、「29万円の不当な格差」と考えるべきか。使用者側の頭になっていると、契約にない1万円が好意で支払われたことになり、「同一労働同一賃金」の原則からは「わずか1万円、バカにするな」ということなる。
労働条件は、労使の交渉で決まるのが本筋。労働者は労働組合を結成して団体交渉で高い労働条件を勝ち取るのが、法が想定するあるべき姿。とはいえ、現状、そのような想定が普遍性を持っていない。そこで、法が労働条件の最低限度を決める形で規制することになる。正規と非正規の格差についての規制はどうなっているか。これが、最近話題の労働契約法20条である。
労働契約法20条は読みにくい。毎日新聞が上手にリライトしているから、それをご覧いただきたい。
2013年に施行。正社員のような無期雇用労働者と、非正規の嘱託社員や契約社員のような有期雇用労働者の労働条件の差について
(1)職務の内容
(2)異動や配置変更の範囲
(3)その他の事情??
を考慮して「不合理と認められるものであってはならない」と規定する。現在、国会で審議されている働き方改革関連法案では労契法から削除され、パートタイム労働法に盛り込まれる方向で条文の表現も変更される。
お分かりのとおり、正規と非正規に「労働条件における格差があってはならない」とはしていない。「不合理な格差があってはならない」というのだ。では何が不合理か。「労働者の業務の内容」「責任の程度」「配置の変更の範囲」「その他の事情」を考慮して判断する、という。要するに、個別事例ごとに裁判で決着を着けるしかないことになる。
ということは、格差は不当だから納得できないとする非正規の労働者が、裁判を起こすしかないのだが、これは大仕事だ。これまで、幾つかの大仕事が労契法20条の要件を少しずつ具体化する成果を上げてきた。
通勤手当・家族手当・精勤手当・物価手当・住居手当・扶養手当・早出残業手当、夏季・冬季・病気休暇などでの差別は不合理とされてきた。
そして、昨日の「ハマキョウレックス契約社員訴訟」と、「長沢運輸定年後再雇用訴訟」の各最高裁(第2小法廷)判決である。労働者側の反応は対照的だった。「格差からの解放へ」とハタを出した前者と、無念の記者会見の後者と。
本日(6月2日)の毎日社説が要領よくまとめている。以下は、これをベースにした判決内容の紹介。
正社員と非正規社員が同じ仕事をした場合、待遇に差があるのは、労働契約法が禁じる「不合理な格差」に当たるのか。最高裁は、通勤手当などを非正規社員に支給しないのはその目的に照らし、不合理だと初めて認定した。
判決があったのは、物流会社(ハマキョウレックス)の契約社員として働くトラック運転手が提訴した裁判だ。
1審では通勤手当、2審ではそれに加え無事故・作業・給食の3手当について「支払われないのは不合理だ」と認定されていた。
最高裁は、四つの手当に加え、皆勤手当についても、乗務員を確保する必要性から支払われるのだから格差は不合理だと判断した。
しかし、住宅手当については、正社員と契約社員の間に転勤の有無などの差があり、契約社員に支払わないのは「不合理ではない」とした。
一方で、定年後に再雇用された嘱託社員のトラック運転手3人が原告の裁判(長沢運輸定年後再雇用訴訟)では、基本給や大半の手当について、格差は「不合理ではない」とした。退職金が支給され、近く年金が支給される事情も踏まえた。
ただし、全営業日に出勤した正社員に支払われる精勤手当や、超勤手当については、やはり個別に考慮して格差は不合理だと結論づけた。
この裁判で原告らは、同じ仕事なのに年収が2?3割減ったと訴えていた。企業側は「再雇用の賃下げは社会的に容認される」と主張し、2審はそれを認めていた。最高裁は一定の格差を認めつつも、そうした考え方にくぎを刺したと言える。
長沢運輸訴訟は、1審は労働者側の全面勝訴だったが、控訴審で逆転敗訴となっていたもの。労働者の側からは到底納得しがたい。
この点、本日の東京新聞社説は、こう述べている。
最高裁の考え方は明確である。同じ仕事をしていて、同じ目的を達成するための手当ならば、正社員、非正規社員を問わず、会社は支払わねばならない?という当たり前の結論である。
問題は定年後の再雇用者の給料だ。一審判決は「職務が同じなのに賃金格差があるのは不合理」とし原告勝訴だった。だが、最高裁は「定年制は労働者の長期雇用や年功的処遇を前提としながら、賃金コストを一定限度に抑制するための制度」だから、定年を境に賃金体系が変わるとし、原告の言い分を退けた。
ただ判決には疑問も覚える。運転手がハンドルを握る時間が同じなら、やはり「同一労働同一賃金」という物差しを当てるべきではないのか。
▽長沢運輸の定年後再雇用訴訟判決の要旨はこう述べている。
? 再雇用された嘱託乗務員と正社員は、職務内容と配置の変更の範囲が同じだが、賃金に関する労働条件はこれだけでは定まらない。経営判断の観点からさまざまな事情を考慮でき、労使自治に委ねられる部分も大きい。
? 定年制は賃金コストを一定限度に抑制する制度。正社員は定年までの長期雇用が前提だ。再雇用者は定年まで正社員の賃金を支給され、老齢厚生年金も予定されている。こうしたことは、不合理かの判断の際に考慮する点として20条が挙げる「その他の事情」となる。
世の使用者はこの最高裁の判断を納得するだろう。非正規労働者は納得できるはずがない。問題は、正規労働者諸君だ。格差の上位の立場にある者として納得してはならない。労働者の団結こそが労働者の利益で、分断こそが使用者の利益なのだから。
なお、最高裁は賞与の格差についても言及している。定年前、正規社員と当時は5か月分出ていた賞与は、定年後の再雇用で非正規となったとたんに、ゼロとなった。この点について、最高裁は、こう言っている。
??? 賞与は多様な趣旨を含み得る。嘱託乗務員は老齢厚生年金や調整金が予定され、年収も定年前の79%程度と想定。不合理ではない。
賞与なくても、定年前後で年収2割減程度なら不合理な格差とはならないというのだ。やむを得ないとして納得すれば、これが世の常識として定着することになる。批判を続けなければ事態は変わらない。労契法20条は、「明らかな合理性に裏付けられていると認められる場合を除いて格差は許されない」と読むべきであろう。
最終的には不本意で無念な判決ではあったにせよ、裁判を起こして原告となった長沢運輸の定年後再雇用労働者の皆さんに心からの敬意を表したい。
(2018年6月2日)
NHK会長 上田良一様
権力監視報道に立ち戻り、報道現場の萎縮克服を求めます
研究者・弁護士有志(名簿略)
目下、わが国では、森友・加計問題、防衛省の日報隠しに代表される国家の私物化、権力の濫用と腐敗が極限に達しています。しかも、そうした事態を正すべき国会審議と国政調査権が数の力に遮られ、機能不全の状態に陥っています。
このような民主主義の危機的状況を立て直す最後の砦は有権者の理性的な意思表明と行動ですが、それには有権者が賢明な判断を下すのに十分な情報が不可決です。いわゆるメディアの権力監視報道はそうした使命を担うものにほかなりません。
この点で、NHKは昨年来、森友学園問題や自衛隊の日報隠しなどで優れたスクープ報道を行ってきました。
しかし、その一方で、現場の記者の精力的な取材の成果を抑え込むような報道局上層部の姿勢が市民の疑惑、批判を招いてきたことも事実です。たとえば、去る3月29日の参議院総務委員会において、NHKの内部関係者から寄せられた通報と断って、「ニュース7、ニュースウオッチ9、おはよう日本などのニュース番組の編集責任者に対し、NHKの幹部が森友問題をトップ・ニュースで伝えるな、トップでも仕方ないが放送尺は3分半以内、昭恵さんの映像は使うな、前川前文科次官の講演問題と連続して伝えるな」などと事細かな指示が出ていることが取り上げられました。
こうしたNHK局内の動きと関連して、森友問題で貴重なスクープ取材をしてきたNHK大阪放送局の記者をこの6月の異動人事で記者職から外し、考査部に異動させるという動きも伝えられています。
私たちは、このような一連の動きに共通するNHKの権力監視報道の希薄化を危惧し、以下のことをNHKに求めます。
1. 受信料で支えられる公共放送機関としてのNHKは、権力から独立して自主自律の放送を貫くなか、権力を監視し、国民の知る権利に応える放送を続けているという視聴者の信頼を得ていることが大前提です。NHKが日々の報道でも人事においても、こうした前提を自ら壊すような言動は視聴者への背信行為であり、厳に戒めること
2.? NHK報道局の上層部は取材・番組制作の現場の職員を萎縮させるような人事権を含む権限の濫用を斥け、事柄の核心に迫ろうとする意欲的な取材、番組制作への職員のモチベーションを支え、高めるような役割と職責を果たすべきこと
3.? 以上の趣旨と関連して、目下、伝えられているNHK大阪放送局の記者を異動させる人事につき、不当で不合理なおそれも強く、中止を含め根本的に再検討すること?
以上
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本日(6月1日)午前中に、醍醐聰さんを筆頭とする有志7名が議員会館内で記者会見をし、午後NHKに赴いて、上記の申し入れを行った。
記者会見はおよそ90分。質疑は活発だった。思いがけなくも、有志の側だけでなく、取材の記者を含む共通認識が確認できたという印象。NHKは公共放送として、その使命を果たしていないのではないか。むしろ、権力を監視するジャーナリズムの本旨を貫こうとしている現場の記者をNHKの上層部が押さえつけているのではないか。NHKの中枢には、政権から通じている太いパイプが存在し、このパイプを通じて権力の意向が伝達される仕組みができあがっているのではないか。
記者職から外され考査部に異動の内示を受けているNHK大阪放送局の記者は、森友問題での数々のスクープで知られている。その記者としての活動は、政権にとって明らかに不都合なもの。政権からの指示か、NHKの忖度か、いずれにせよ政権の意向に沿った人事の象徴として注目されている。
NHKは官邸への擦り寄りを優先してこの記者の異動を強行するのか、それとも官邸のNHKに対する圧力などないことを明確にするために異動の内示を撤回するか。いまや岐路に立っているとの自覚が必要だ。
官邸の意向におもねることは易きにつくことである。総務省とは円滑な関係となり、事業計画も予算・決算も、スムースに運ぶことになろう。反対に、官邸の意向に背くことは、難きにつくことである。総務省とは不穏な関係となり、事業計画も予算・決算もスムースには運ばないと覚悟せざるを得ない。
しかし、どんなに困難でも、権力の意向におもねってはならない。権力を監視し批判すべきジャーナリズムの本道から離れてはならない。それは国民の信頼を失うことであり、公共放送の存在根拠を失うことでもあるのだから。
さらには、ことはNHKの問題にとどまらない。国民の知る権利を侵し、日本の民主主義過程の正常な展開を妨げて、国の将来をも危うくしかねない。それは、大本営発表の時代再来の悪夢である。とりわけ、アベ政権が改憲をねらう今、権力におもねらずに「権力が不都合とする情報」についての旺盛な報道姿勢が不可欠なのだ。
本日記者会見に参加していただいた第一線記者たちの、NHK問題についての共通認識が頼もしい。もっとも、NHKと産経・読売の記者は見えなかったようだが。
(2018年6月1日)
本日(5月31日)の朝刊各紙に、栃の心剛史(本名レヴァニ・ゴルガゼ)大関昇進の晴れがましい写真が掲載されている。実ににこやかで嬉しそうな表情。そして、彼が大きなジョージアの国旗を掲げているのが目を惹く。
「国旗を手に笑顔の栃ノ心」
https://www.jiji.com/jc/p?id=20180530111155-0027185226
これまではグルジアという国名でなじみが深かった。かのヨシフ・スターリンの出身地。キリスト教の聖人である聖ゲオルギオスを守護神とするところからの国名。グルジアもジョージアもその転訛。国旗のデザインも、聖ゲオルギオスの十字架なのだそうだ。
力士が母国の国旗を誇りとして異国・日本で掲げる姿は微笑ましくも清々しい。モンゴル出身者も、ブラジル人も、韓国も中国もブルガリアも、自国の国旗が好きな力士は同じようにやれば良い。もちろん、日の丸大好きな力士が日の丸を掲げて悪かろうはずはない。国旗ではなく県の旗でも市の旗でも、あるいは村旗でも町内会旗でも校旗でも、自分のアイデンティティとつながる旗を、自分が誇りに思う旗を掲げるがよい。
大事なことは、それぞれの掲げる旗の選択は自由だということだ。そして、自分の自由と同じく、他の人の自由も尊重しなければならないということ。誰も、自分の旗を掲げる自由を侵害されないし、自分の好まざる旗を掲げるよう強制されることはない。
栃の心に向かって、「ジョージアの国旗とは怪しからん。日本にいる間は、日の丸を掲げよ」などと野暮なことを言ってはならない。それは、栃の心という人格に対する心ない攻撃になる。誰の人格も同じように尊重しなければならないとする、近代社会の公理に反する。
「日の丸」も「君が代」も同じことだ。好きな人は、日の丸を手に君が代を歌いながら歩けばよい。しかし、嫌いな人に押しつけてはならない。
キーワードは多様性だ。それぞれが、他の人とは違った自分の考えと好みをもってよいのだ。他の人とはちがった考えや好みこそが尊重される。同時に、他の人の考え方や感じ方を尊重しなければならない。他人に強制はしない、他人から強制されることもない。これが、自由ということだ。
自由を侵す者の正体は、実は社会の多数派である。往々にして、社会の多数派は少数者に多数派の考え方や感性を押しつけようとする。自由とは人権である。人権とは、けっして多数決で侵してはならないもの。人権と民主主義とは緊張関係にある。油断していると、社会の多数派の同調圧力が、少数派個人の自由を押しつぶしてしまいかねない。
だから、呼びかけたい。「日の丸・君が代」を押しつけてはならない。「日の丸」も「君が代」も、ジョージアの国旗も、これを誇りとする人は、大切にすればよい。でも、どうしても「日の丸」や「君が代」を受け入れることができないという人に、押しつけないでいただきたい。強制はいけない。人権を大切にしていただきたい。
そのようなアピールのために、「おしつけないで 6.30リバティ・デモ」にご参加ください。私たちの共通の主張は、けっして「日の丸・君が代」反対ではありません。「日の丸・君が代強制」に反対なのです。「日の丸・君が代」が大切で大好きだという方のなかにも、「強制はよくない」と言ってくださる方は大勢います。思想や良心のあり方についての強制のない、みんながのびやかに生きることのできる社会を目指して、 「君が代」の強制と処分をはねかえすために、ご一緒にデモに参加していただけませんか。
私たちは、主張します。
「国旗・国歌」にどのような考えをもとうと自由であること、
「国を愛する」気持ちを押しつけることはできないということ、
学校に自由を取り戻したいということ、を。
この思いを広く訴えるために、私たち「君が代」裁判4次訴訟原告有志はデモを企画しました。歌ったり、踊ったり、シュプレヒコールをあげたり…。思い思いのスタイルで楽しく渋谷の町を歩こうと思っています。6月30日は“鳴り物”などを持ってお集まりください。
私たちと一緒に楽しく歩きましょう
… … … … … … … …
日時 6月30日(土曜日)
集会 18時半? ウィメンズプラザ・視聴覚室
(表参道・青山学院大学前)
報告 澤藤統一郎(弁護士)「4次訴訟の現段階」
デモ 原宿・渋谷を歩く予定
主催 おしつけないで! 6・30リバティ・デモ実行委員会
下記のチラシをご覧ください。
リバティデモチラシ
(2018年5月31日)
本日(5月30日)の党首討論。野党第一党である立憲民主党代表の枝野幸男は、持ち時間の19分を森友・加計の問題に絞って追及した。力をいれたのは、森友問題に関する首相の責任のとりかたについての食言である。これを「卑怯な行為」と喝破した。
「総理は昨年2月17日の衆議院予算委員会で『私も妻も一切、この認可にも、国有地払い下げにも関係ないわけでありまして、私や妻が関係したということになれば、これはまさに私は間違いなく総理大臣も国会議員も辞めるということははっきり申し上げておきたい』とおっしゃいました。ところが月曜日(5月28日)の予算委員会を聞いておりますと、どうも、金品の授受がないなど、贈収賄に当たらないから問題がない、というようなことをおっしゃっているようにも聞こえるご発言がありました」
「贈収賄などに該当すれば、もう総理や国会議員を辞めるのは当たり前の話でありまして、1年以上にわたって限定なく、関係していたら辞めるといったことを前提に議論してきたにもかかわらず、どうも昭恵夫人が一定の関係をしていたことをうかがわせるような材料が出てきたら、急に金品や贈収賄のような限定を付した。とすれば、一般にはそういったことを『卑怯な行為』といいます。まさか一国のリーダーが国会で堂々とそんな卑怯な振る舞いをすることはないと。そんなことがあったら社会の倫理観をまひさせ、国益を損なうと思いますがいかがでしょうか」
この枝野の問い掛けに対するアベの答弁は、以下のとおりだった。
「枝野さんは、急にこの前、28日に私が定義を、私が関わっていればという関わりについて、急に定義、前提条件を付けたのではないか、というご質問であります。それであれば卑怯ではないかということも言われた。では果たしてそうなのか。そういう答弁を私が初めてしたのか、ということであります。そこで、お答えをさせていただきますが、すでに私は平成29年3月24日、もう1年以上前のことでありますが、そのときに私は福山(哲郎)委員の質問に対して私はこう答えております」
「何か政治に籠池(泰典・森友学園前理事長)さんから依頼があって、そしてそこに何かお金の流れ、いわば籠池さん側が政治家等に対してさまざまな便宜をはかる中において、政治家が応えたのではないか。これはそういう疑惑だったはずであります。ですからその中において、『私も妻も一切関わっていない』と言ったのは事実でありますし、それは今でも事実であろう、と思っているわけでございます」
これは支離滅裂。まったく回答の体をなしていない。もしかしたら、アベは本気で「食言は、今さらのことではなく、もっと前からのことですよ」と言いたいのだろうか。
また、福山(哲郎)議員質問に対する17年3月24日答弁が、「私が『一切関わっていない』と言ったのは、カネなど受けとった贈収賄がないという意味ですよ」という弁明とは受けとりがたい。『私も妻も一切関わっていない』とは、文字通り、学校設置にも校地の売買にも「一切関わっていない」という意味以外にはあり得ない。「収賄にはならないけれども、関与はしていました」「関与はしていましたが、収賄になるほどのことはしていません」という含意で、『私も妻も一切関わっていない』というはずはないのだ。
時間があれば一問一答で問い詰められたはずだが、如何せんその時間がなかった。
念のため、17年2月17日衆院予算委員会民進党・福島伸享議員の質問に対するアベの答弁を確認しておきたい。これこそが、貴重な原点なのだから。
○福島委員
なぜ(政府委員の答弁が)もごもご言うのかわからないですけれども、私立大学でできないものを今回私立小学校でやって、法律を潜脱していて、脱法的な疑いがあるわけですよ。土地を買う値段もおかしければ、設置の認可の状況でもおかしいというのがこれなんですね。
? あえて言いますけれども、この小学校の名誉校長とされているのが「安倍昭恵先生」という方で、右を見ると、「安倍晋三内閣総理大臣夫人」と書いております。「この理事長の籠池先生の教育に対する熱い思いに感銘を受け、このたび名誉校長に就任させていただきました」と。
? この事実、総理は御存じでしょうか。
○安倍首相
この事実については、事実というのはうちの妻が名誉校長になっているということについては承知をしておりますし、妻から森友学園の先生の教育に対する熱意はすばらしいという話を聞いております。
? ただ、誤解を与えるような質問の構成なんですが、私や妻がこの認可あるいは国有地払い下げに、もちろん事務所も含めて、一切かかわっていないということは明確にさせていただきたいと思います。もしかかわっていたのであれば、これはもう私は総理大臣をやめるということでありますから、それははっきりと申し上げたい、このように思います。
○安倍首相
繰り返しになりますが、私や妻が関係していたということになれば、まさに私は、それはもう間違いなく総理大臣も国会議員もやめるということははっきりと申し上げておきたい。全く関係ないということは申し上げておきたいと思いますし、そもそも、何かそういうことが動いているかのようなことを前提にお話をされると、この小学校に通う子供たちもいるんですから、こういうことはやはり慎重にちゃんとやっていただきたい、このように思います。
この答弁では、何の限定もなく、きっぱりと「私や妻が関係していたということになれば、まさに私は、それはもう間違いなく総理大臣も国会議員もやめるということははっきりと申し上げておきたい」「全く関係ないということは申し上げておきたい」と言っている。けっして、刑事的な違法や贈収賄の成否を問題にした文脈にはなっていない。
このことを確認して、さて、このアベ答弁が、どう変わったか。18年3月28日参院予算委員会での増子輝彦議員の質問に対するアベの答弁はこうなっている。
○安倍首相
まず、不正はしていないということははっきりと申し上げておきたいと思います。
不正というのは何でしょうか。不正というのは、例えば金品を授受をして、授受をしてですね、行政にこれはこういうふうに政策を変えろと、こういうことであります。これがまさに今まで政治の世界においては大きな問題になってきた、贈収賄として問題になってきたところであります。まず、それでは全くないということは申し上げておきたいと。そして、そういう私は文脈の中において、一切関わっていないということを申し上げているわけでございます。
これはいったい何だ。「そういう文脈の中において、一切関わっていない」とは、「刑法上の贈収賄成否という限られた文脈においては、一切関わっていない」と読めるではないか。
いみじくも枝野幸男が指摘したとおり、妻の関与は否定しようがなくなった現在、もう「まったく関係ない」とか、「一切関わっていない」とは言えなくなった。本来、「かかわっていた以上は、これはもう私は総理大臣も議員も辞めなければなりません」「総理として私が国民に約束したことなのですから」と言わねばならない。その事態に至って、アベは卑怯にも前言を翻したのだ。
これは、自分の発言に責任をもとうとしない卑怯で卑劣な態度ではないか。アベ晋三、「嘘つき」だけでなく、「卑怯」のステグマも刻印された。
なお、アベ晋三の賄賂に関する認識も正しておきたい。賄賂とは金銭に限らない、経済上の価値をもつ必要もない。「人の欲望または需要を満足させるに足りる一切のもの」が賄賂になり得る。
賄賂罪の保護法益は、公務員の職務の公正にとどまらない。職務の公正に対する国民の信頼でもある。政治を私物化したアベ政治は、既に大きくこの信頼を損ねているではないか。
まさしく、信なくば立たず、である。国民からの信を失ったアベ内閣は、責任をとってすみやかに総辞職すべきである。一国を代表する人物が嘘つきであるだけでなく卑怯でもあることは、これこそ国民に採っての恥辱であり、対外的にも国益を損なうものなのだから。
(2018年5月30日)
加計問題も森友問題も終わらない。政治的にはとっくに詰みのはずなのだが、アベはどうしても負けを認めない。勝負が長引くうちに、次から次へと新たな真相が暴かれていく。トップのウソを隠そうとして、官僚諸君が苦労して嘘に嘘を重ねてきたことがまた暴かれている。これを平然と見下しているアベという人物が不気味でならない。
これだけ、ぼろくそに言われ続けて傷だらけとなった「しがみつき政権」も珍しかろう。こうなると、行政私物化の事件は、本当にこれだけだったのだろうか。実はアベ政権のもっと薄汚ない事件が、闇に隠されているのではないだろうか。そんな疑念も湧いてくる。
昨日(5月28日)の両院予算委員会の集中審議。そのハイライトを、本日の毎日社説が要領よくまとめている。「総理が怒らない不可解さ」というズバリのタイトル。
加計学園の獣医学部新設をめぐり、安倍晋三首相と学園の加計孝太郎理事長が面会していたのかどうかで混乱が広がっている。
愛媛県の公文書には、2015年2月25日に首相が加計氏と面会し「獣医大学の考えはいいね」と語った記録が残る。これに対し学園が「当時の担当者が実際にはなかった総理と理事長の面会を引き合いに出し、県と(同県今治)市に誤った情報を与えてしまった」とのコメントを唐突に出したからだ。
学園は、県が文書を国会に提出した当日には「理事長が15年2月に総理とお会いしたことはございません」と面会を否定するだけにとどめていた。なぜ最初から発表しなかったのか、不自然な対応である。きのうの衆参両院予算委員会の集中審議でもこのコメントが焦点になった。
仮にこれが事実だとすれば、架空の面会を報告することにより首相の後押しがあると見せかけ、県と市を動かそうとしたことになる。
実際、面会報告後に柳瀬唯夫首相秘書官(当時)が県と市の担当者と会い、国による国家戦略特区の手続きが進んでいく。その適正さを疑わせる重大な問題をはらんでいる。
県の文書によると、学園側は県に面会を報告した際に財政支援も求めた。県と市は今春、計約93億円の補助金拠出を決めている。
さらに不可解なのは首相が抗議しないことだ。これまで首相は「加計理事長は友人だが、私の地位を利用して何かを成し遂げようとしたことは一度もない」と繰り返してきた。
面会があったにしろなかったにしろ、県や市に報告した事実は学園側も認めている。まさに首相との関係を利用して獣医学部新設を実現しようとした行為ではないか。
首相は本来ならもっと学園の対応に怒ってしかるべきだろう。きのうの集中審議で野党はその点を突いたが、首相は「私は常に平然としている」などとはぐらかした。
そもそも学園側は真っ先に県と市に謝罪すべきなのに、ファクスを報道機関に送っただけで取材にも応じていない。首相との面会がなかった裏付けは示されないままだ。加計氏が国会など公の場で真相を語らなければ、疑惑はいつまでも続くことになる。
この「総理が怒らない不可解さ」を衝いたのは小池晃の質問。大略、次のようなものだった。
○小池晃
愛媛県が当委員会に提出したこの文書では、2015年2月25日に加計学園の理事長が安倍首相と15分程度面談をし、獣医学部の構想を伝え、首相からは、『そういう新しい獣医大学の考えはいいね』とコメントがあったと。ところが、加計学園は、『実際にはなかった面談を引き合いに出して県と市に誤った情報を与えた』という、ちょっと想像を絶することを言い出しているわけですね。
これ、愛媛県にも、報告・説明・謝罪はなかったそうです。ファクス一枚送っただけ。先ほどの議論では、総理にも報告なかったというわけですね。愛媛県の知事は、これは怒っているわけですよ。総理は何で怒らないんですか。
○安倍晋三
これは怒るとか怒らないとかいうことではなくて、愛媛県、まず愛媛県の文書について、私は、県の文書でございますから、コメントする立場にはないわけでございます。… 加計学園側のコメントについては、私はそれについて評論する立場にはないということは申し上げておきたいと思います
?○小池晃
全く私の言ったことに答えていないわけですよ。
私、言ったのは、愛媛県の文書についてのコメントじゃないんですよ。加計学園がうそだったと言ったわけでしょう。そのことについて、だって総理はこう言っているわけです。『加計理事長は、私が政治家になるずっと前の、学生時代の頃からの友人でありますが、私の地位を利用して何かを成し遂げようとしたことは、この40年間一度もありません』と。
まさに今回、何かを成し遂げようとしたんじゃないですか。そういうことを加計学園側が言ったわけでしょう。これは伝聞でも何でもないですよ。加計学園はそれをはっきり言っているわけですよ。総理の名をかたり、総理との架空の面談をでっち上げ、獣医学部の新設を実現しようと言ったと。
これ、総理がかんかんに怒らなきゃいけないはずなんですよ、利用されたんですから、総理が。それなのに平然としている。これは、結局、加計の言っていることが真実ではなくて、総理自らをかばうものであるということを御存じだから平然としているんじゃないですか。
○安倍晋三
私は常に平然としております。加計学園のコメントによれば、加計理事長ではなく、当時の担当者が実際にはなかった面会を引き合いに出し、県と市に誤った情報を与えてしまったように思うとのことでありまして、それ以上私にはコメントのしようがないということでございます。
○小池晃
いつも平然としていないじゃないですか。野党から指摘されたら、かんかんになって、この場で血相を変えて反論しているじゃないですか。それを、担当者ははっきり認めているわけですよ、事実でないことを言いましたと。しかも、これは、獣医学部設置が停滞して、何らかの活路が見出せるのではないかとの考えから、ありもしないことを言ったというんですよ。これ、かんかんに怒らないのは、どう考えたっておかしいじゃないかと。
○安倍晋三
愛媛県の文書について私はコメントする立場にはございません。
○小池晃
私が聞いているのは、総理、他人ごとで済まされる話じゃないと思うんですよ。
だって全て総理の言動をめぐっての記述なんですよ。総理の言動をめぐっての記述が、2月25日に総理が加計理事長と会っていなければ説明が付かないようなことになっているわけですよ、これ。
結局、コメントできない、愛媛の文書だからコメントできないというのは、否定も反証もできないからでしょう。もしそうでないというんだったら、反証してくださいよ。
○安倍晋三
これは証拠を出すとかいうことではなくて、これは県が出された文書でございますから、それを評論あるいはコメントする立場にはないということでございます。
安倍晋三よ。愛媛県知事は怒っている。あなたはなぜ怒らないのか。加計学園はあなたの名を騙り、あなたとの架空の面談をでっち上げ、愛媛県と今治市を欺罔して獣医学部の新設を実現しようと画策した。これによって、公費93億円を手に入れたではないか。こんな不正の手段に使われたあなたがなぜ怒らないのか。
加計孝太郎よ。もし、加計学園の自白コメントが真実だとしたら、毎日新聞社説のいうとおり、「架空の面会を報告することにより首相の後押しがあると見せかけ、県と市を動かそうとした」ことになる。もっと端的に言おう。加計学園が学園ぐるみで詐欺を働いた疑惑が濃厚となる。
考えても見よ。「2月25日面会の報告」のリアリティを。アベとカケの仲を知る関係者の皆が、「絵空事の架空の面会の報告」とは思わなかった。いかにもありそうなリアリティに満ちていたから、その記載のとおりに信用したのだ。しかも、その後の事態は「2月25日面会の報告」のとおりに進行したではないか。
加計孝太郎よ。真実は二つに一つだ。「2月25日のアベ・カケ面会は存在した」が、盟友アベの立場を慮ってないことにした。あるいは、「2月25日のアベ・カケ面会は存在しなかった」が、学部新設のために敢えて盟友アベの名を出して、県と市とを欺した、のどちらか。
加計よ、君も教育者の端くれだろう。加計学園は仮にも教育機関ではないか。本当に「絵空事の架空の面会の報告」で自治体を欺し、首相をダシに使って補助金の取り込みをたくらんだというのか。仮にそのとおりなら、加計学園のブランドイメージは、計り知れない傷を負って地に落ちることになる。
加計孝太郎よ、こそこその逃げ隠れはもう止めよ。覚悟して公の場で、真実を語れ。
今のままでは、「嘘つきアベ」に並ぶ「嘘つきカケ」となってしまう。嘘つき学園であり、新獣医学部は「嘘から生まれたキャンパス」となってしまうのだから。
(2018年5月29日)
昨日(5月27日)の琉球新報3面に、「特別評論・復帰46年の沖縄」として、「ヘイトにあらがう言論力」と標題する論説が掲載されている。小那覇安剛琉球新報社会部長の署名記事だが、事実上の社説である。これは見逃せない。見逃してはならない。
復帰46年にしてなお本土並みとならない沖縄の現実への苛立ち。いな、それにとどまらない本土からの心ない差別の言動に対する沖縄の叫びが胸に突き刺さる。「県民をあざ笑う言論空間」における「沖縄ヘイト」の典型事例が挙げられ、「ヘイトに対抗する言論の力」「沖縄ヘイトを乗り越える沖縄メディアの力」が語られている。その筆は自信に満ちてはいるものの、本土に住む1人として襟を糺さざるを得ない。
米軍基地の重圧にあらがう県民、沖縄のメディアを攻撃する誹謗中傷が続いている。その多くは事実に反するゆがんだ沖縄観に基づくものだ。その誤りを正し、事実によって反証する作業の重要性を、私たちは昨年12月の産経新聞報道への対応で再認識した。
2017年12月1日、沖縄自動車道で起きた多重衝突事故で産経新聞は同月9日、インターネットの「産経ニュース」で米海兵隊曹長が日本人を救出して事故に遭ったと報道し、「救出行為」を報じない沖縄メディアを「報道機関を名乗る資格はない」と批判した。12日には、産経本紙にも記事が掲載された。
?「(曹長は)救助行為はしていない」とする在沖海兵隊の回答や沖縄県警など関係機関の取材を踏まえ、本紙は18年1月30日付けで「『米兵が救助』米軍否定」の見出しで、産経報道に疑義があることを報じた。その後、産経新聞は2月8日付で記事を削除し、謝罪した。その対応は真摯であった。産経社内でも厳しい議論があったことがうかがえる。
記事削除までに約2か月を要した。それは本紙にとって試練の期間であった。
産経報道を受け「なぜ米軍の救出活動を記事にしないのか」という批判が本紙に寄せられた。事実関係を取材した記者が苦り切った顔で報告してきた。「どこをつついても、海兵隊員が日本人を助けたという事実は確認できない」
2か月は私たちに貴重な経験をもたらした。本紙の反証記事に対し読者から「県民、沖縄メディアに対する誹謗中傷に対して、事実を積み重ねて反論する力強い記事で対抗していってほしい」という激励があった。中傷やデマへの危機感を読者と共有できたことは得がたい教訓となった。
沖縄に対する誹謗中傷の主舞台はネットである。「反日」「国賊」という言葉と共に沖縄をおとしめるゆがんだ言論空間が広がっている。「沖縄ヘイト」とも呼ぶべき言論空間の中で交わされる悪罵の数々が地上波の電波から流れた。「ニュース女子」問題である。東京メトロポリタンテレビジョン(東京MX)のバラエティー番組「ニュース女子」は2017年1月2日の放送で、米軍北部訓練場で建設されたヘリコプター発着場(ヘリパッド)に反対する住民をテロリストと例えて中傷した。
番組内容で激しい中傷にさらされた辛淑玉氏の申したてを受け、放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送倫理検証委員会は「重大な放送違反があった」とする意見書をまとめた。BPO放送人権委員会も辛氏に対する人権侵害があったと認めた。
名護市辺野古の新基地建設に象徴される基地負担の押し付けを拒む沖縄の抵抗をあざ笑う言論空間の広がりは、新たな偏見や誤解を生みだす。
17年12月、米軍普天間飛行場所属のCH53大型輸送ヘリの窓が落下した普天間第二小学校に対し「学校を後から造ったくせに文句をいうな。戦闘機と共に生きる道を選んだくせに文句をいうな」という中傷の電話があったことなどは、その表れと言えよう。
?「戦闘機と共に生きるー」は事実に反する。本紙は、創立以来の普天間第二小の歩みと基地被害の経過を踏まえ、反証記事を掲載した。
この5月、沖縄の日本復帰から46年が過ぎたが、県民の多くは「日本本土の国民と同様に扱われているのか」という疑問を抱いている。その要因は、広大な在沖米軍基地と、そこから派生する人権侵害を解消する抜本策を打ち出せないまま新基地建設を強いる日本政府の姿勢にある。
復帰運動を通じて、日本国憲法の適用に基づく「他県並」の人権尊重を求め県民は、今も基地の重圧からの脱却と人権回復を訴えている。その県民をあざ笑う言論空間がネットを中心に存在する。ヘイトに対抗するのも言論の力である。「沖縄ヘイト」を乗り越えるメディアの力が問われている。
偏見に基づく本土からの「沖縄ヘイト」。その悪罵の典型事例として語られているものが、地上波の電波から流れた「ニュース女子」である。この論説には名が出て来ないが、「DHCテレビジョン」が制作し、DHCがスポンサーとなって提供したデマとヘイトの番組である。DHC・吉田嘉明こそが、この地上波によるデマとヘイト垂れ流しの元凶なのだ。
論説は、誤りを指摘された産経の謝罪を真摯な対応と評価している。また、東京メトロポリタンテレビジョン(東京MX)も反省の弁を述べている。しかし、DHC・吉田嘉明のみは、真実を突きつけられ批判されてなお、反省するところがない。
この論説が述べているとおり、デマとヘイトを克服するには、真実を以てする言論による批判が王道であろう。それこそがメディアの力だ。しかし、DHC・吉田嘉明などに対してはその効果に限界があることを指摘せざるを得ない。DHC製品に対する消費者の不買運動は、DHC・吉田嘉明によって作られたデマとヘイトの言論空間を浄化する手段として有益であろう。
とりわけ、140万沖縄県民に訴えたい。
「DHCの商品を買うことはすっぱりとおやめなさい。」「サプリメントにせよ、化粧品にせよ、あなたがDHCの製品を買いもとめれば、その利益の一部は、確実に沖縄ヘイトの放送や言論となって、沖縄をあざ笑うのですから。」「だから、くれぐれもデマとヘイトのDHC社の製品をお買い求めにならぬように。」「いや、けっして沖縄をおとしめるDHCの商品をお買い求めになってはなりません。」
(2018年5月28日)
みなさま
「君が代」裁判4次訴訟原告は、「日の丸・君が代」の強制に反対して処分を受け、その取り消しを求めて裁判を闘っています。
学校現場では教員だけでなく生徒への締め付けも強まり、教育の自由が失われています。2020年東京オリンピックや来年の天皇代替わりに向けて、今後「日の丸・君が代」に敬意を払うべきだという圧力がさらに強まっていくのではないでしょうか。
私たちは、主張します。
「国旗・国歌」にどのような考えをもとうと自由であること、
「国を愛する」気持ちを押しつけることはできないということ、
学校に自由を取り戻したいということ、を。
この思いを広く訴えるために、私たち「君が代」裁判4次訴訟原告有志はデモを企画しました。歌ったり、踊ったり、シュプレヒコールをあげたり…。思い思いのスタイルで楽しく渋谷の町を歩こうと思っています。6月30日は“鳴り物”などを持ってお集まりください。
私たちと一緒に楽しく歩きましょう。
… … … … … … … …
日時 6月30日(土曜日)
集会 18時半? ウィメンズプラザ・視聴覚室
(表参道・青山学院大学前)
報告 澤藤統一郎(弁護士)「4次訴訟の現段階」
デモ 原宿・渋谷を歩く予定
主催 おしつけないで! 6・30リバティ・デモ実行委員会
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リバティ・デモと名付けられたこのデモは、文字通り自由を求めての行進である。その要求は、「誰にも『日の丸・君が代』を押しつけないで」というだけのシンプルなもの。「子供たちに『日の丸・君が代』を強制する教育をしないで」「教師を愛国心強制の手先にさせないで」ということでもある。
「国旗・国歌」あるいは「日の丸・君が代」には、多くの人がそれぞれのイメージをお持ちのことだろう。国旗・国歌(日の丸・君が代)にどう向き合うべきかについても、いろんな考え方があるだろう。しかし、最も大切なことは、それぞれの多様な考え方が尊重されなければならないということではないか。多様な考え方を強引に一つにまとめて、「この考え方だけが正しい」と、すべての人に押しつけるようなことをしてはならない。とりわけ、権力を持つ国や自治体がそんなことをしてはいけない。また、明日の主権者を育む教育の場で、そのような押しつけが許されてはならない。
すべての人に最も大切なものは、のびのびとものを考える自由、何ものにもとらわれない考え方の自由だ。この自由を侵そうという最も危険な存在が国家ではないか。国家は、教育を通じて国民の考え方を統制したくてしょうがないのだ。常に、時の為政者にとって操りやすい従順な国民精神がお望みなのだから。
主権者である国民に対して、下僕たる国家が「国民よ、私を愛せ」と命令し強制することができるわけがない。国旗・国歌(日の丸・君が代)は、「国家の象徴」なのだから、「国旗に向かって起立し、国歌を斉唱せよ」とは、国民に対して国家に敬意を表明するよう強制していることなのだ。この強制は、戦前のあの暗い時代の記憶を呼びさます。
15年前までは、都立校は「都立の自由」を誇りにしていた。自由とは何よりも、国家や東京都の強制からの自由のことだ。都立の自由は、「日の丸に向かって起立し、君が代を斉唱せよ」という強制を許さなかった。その事態を変えたのが、石原慎太郎という、あの都知事だった。その知事の時代に都教委が全都の教職員に「日の丸・君が代」への敬意表明の強制を命じた文書が「10・23通達」である。
いま都内の全公立校では「10・23通達」が猛威を振るっている。卒業式や入学式の直前に、各校長から全教職員に対して「起立・斉唱」を強制する文書による職務命令が発せられている。信じがたい光景ではないか。そして、教師としての信念において、自分の信ずる宗教の教義において、また「日の丸・君が代」が果たしてきた歴史に鑑みて、どうしても起立・斉唱の強制に応じられないとする教員が懲戒処分とされているのだ。
悪名高い10・23通達後の懲戒処分件数は、既に延べ481件に達している。その処分取消を求める訴訟が数多く提起され、最高裁・高裁・地裁で確定した処分取消の件数(都教委敗訴確定)が73件・63名という大きな数に上っている。そしていま裁判途中の教員が、デモを呼びかけているのだ。その名も、リバティ・デモである。
この不自由な世で、自由を求めるデモである。ニギニギしく、楽しく、のびのびとやりたいものだ。是非、多くの方にご参加をお願いしたい。ついでに、私の話もお聞きいただけたら、とてもありがたい。
(2018年5月27日)
日大アメフト部の選手が、関学との定期試合において、相手チームの中心選手に傷害行為に及んだ。これは、「不祥事」ではない。「体質露呈事件」と言うべきだろう。日大アメフト部の体質の問題にとどまらない。学生スポーツとは何なのだ。いや、そもそも人はなぜスポーツをするのか。スポーツとは、本来美しいものなのか。いったい、憧れたり持ち上げたりするに足りるものなのか。大金を投じて、オリンピックなどやるに値することなのか。広く深く、そして暗い問題の一端を垣間見た思いである。
既視感が二つある。一つは、アベ政権の忖度文化だ。森友問題でも加計学園問題でも、総理自らは特別の便宜をはかるよう指示したことを頑強に否定している。しかし、総理の意を忖度した官僚たちによる忠義立ては明らかになっている。総理のお友達への便宜をはかって、総理の行政私物化実現に邁進した官僚たちの情けなさ。日大アメフト部事件も、これによく似ている。
戦前の天皇制もそうだった。天皇はけっして自ら命令を下さない。しかし、東条をはじめとする群臣は、例外なく天皇(裕仁)の意向を忖度して、オオミココロに沿ったのだ。そうしてこそ、天皇の意思を実現しながらも、天皇の法的政治的責任を免じることができたのだ。
もう一つの既視感。この選手の傷害行為は、監督とコーチの強い示唆で行われたという。コーチは監督の意を受けて、選手に敵愾心を煽り、闘争心の欠如をなじり、「試合に出たければ相手チームのQBを潰してこい」と言ったという。また、「関学の選手がけがをすれば秋の試合で有利になる」とまでも。これは、敵に対する皇軍のありかたと何とそっくりではないか。
監督は将校、コーチは下士官、そして選手は一兵卒である。将校の意を体して下士官は兵に命じる。「民間人をスパイ容疑者として殺せ」「捕虜になった敵兵を切れ」「縛られた敵を殺せ」と。上官の命令はヘイカの命令だとする強要なのだから、いささかでも兵が躊躇すれば制裁が待っている。大和魂がないとなじられる。「私は貝になりたい」の世界だ。こうして、凡庸な悪によって限りない残虐行為が繰り広げられた。
今回の事件が大きな反響を呼んでいるのは、上記二つの既視感による。とりわけ、日本人の精神構造が実のところ敗戦以前とすこしも変わってはいないのではという漠然たる不安からなのだろう。
私は、とりわけ傷害の実行犯となった凡庸な若者に注目する。この若者は、われわれ日本人の平均的な精神構造の持ち主ではないか。それなりの常識も倫理観も備えている。正義観もあるに違いない。しかし、主体性がない。上から命じられ、「闘争心が欠けている」「このままでは試合に出してやらない」と言われると、断れない。その気になって、躊躇なく相手選手の背後から突進してぶつかっていく。その従順な姿勢が、かつての皇軍の兵士像と重なるのだ。
その意識構造は、朝鮮で、中国で、南方で、暴威を振るった皇軍兵士と変わらない。彼ら、その時代の平均的日本人が、平時暴力的であったはずはない。むしろ、多くは温厚で腰が低く、礼儀正しい市井の人々だったはず。しかし、上からの命令によって、いとも容易に凡庸な悪事が重ねられたのだ。
我々は、このことをつきつめて反省してこなかった。天皇の戦争責任を曖昧にした我々は、天皇の対極にある下々の責任をも曖昧にした。個々の兵士の平時なら犯罪となる残虐行為の責任を、お互いのこととして許し合ったのだ。英霊として奉られさえもした。関東大震災のあとの自警団員が朝鮮人を大量虐殺して、日本人同士ではその罪をお互いに許し合ったごとくにである。
それゆえ、凡庸な悪は無反省に今の社会に生き残った。今の日本の若者が戦場に行けば、かつての皇軍兵士と同じ蛮行を繰り返すに違いない。戦場に行かずとも、そそのかされば、ヘイトスピーチもヘイトクライムにも走ることになるだろう。
日大アメフト部の愚かで従順なこの選手や、財務省の愚かで従順な官僚こそ、実は他人事ではない今の我々自身の姿ではないか。
日大のこの選手には次の言葉を耳に入れておきたい。
あとの後悔する前に 思いとどまれ さきの忖度
(2018年5月26日)
君の思想は妖しきも
人柄憎めぬ君なれば
君に一声かけまほし
君 気骨を失うことなかれ
語るに怯むことなかれ
アベに忖度あるなかれ
アベ夫妻との蜜月が
いつの間にやら暗転し
君は目障り
君は邪魔
うるさい口を塞ぐため
昨夏の盛りに捕らえられ
夫婦ともども塀の中
国策ゆえに勾留は
300日にも及びたり
有罪宣告あらざるに
300日もの監禁は
泣くに泣けない 身の辛さ
憤怒を深く呑み込んで
いでや怨みを晴らさばや
思えばアベを甘く見た
アキエのことも甘く見た
教育勅語にアベバンザイ
アベを取りまき 取り入って
神風吹かせてうまくいく
上手の手から水が漏れ
手のひら返して邪魔にされ
トカゲのシッポと切られたり
昨日の同志が今日の敵
相信じた朋友が
今さら「妻は欺された」
信義に悖る一言は
いくらなんでも酷すぎる
卑劣な輩の痴れ言は
トカゲのアタマの保身術
いかで許しておくべきや
あゝ籠池泰典よ 君の無念を噛みしめる
卑劣と非情は権勢に
常に伴うものなれど
アベと昭恵はひどすぎる
怒りは怒髪天をつく
祟徳の院は舌を噛み
血文字の呪いを書きつけて
魔道の王となりしとか
ああ君の心も似たるかな
憤怒の炎 燃やさばや
それでもようやく塀の外
マイクに向かってしゃべる身に
「早朝の 志を得る 初夏の風」
その意気や良しとは思えども
300日の勾留に
失いしものは多からん
ようやく言葉を取り戻し
しゃべれる立場となりぬれば
アベの顔色なからしめ
溜飲下ろすも近きこと
君よ語れ 真実を
アベと昭恵の恐るるは
真実のみにあろうから
あゝ籠池泰典よ 君の無念を噛みしめる
君 精気を失うことなかれ
矜持を捨てることなかれ
叛骨失うことなかれ
膝を屈することなかれ
語るに怯むことなかれ
アベに忖度あるなかれ
(2018年5月25日)