澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

「沖縄ヘイト」には、メディアの言論力とDHC不買運動での対抗を

昨日(5月27日)の琉球新報3面に、「特別評論・復帰46年の沖縄」として、「ヘイトにあらがう言論力」と標題する論説が掲載されている。小那覇安剛琉球新報社会部長の署名記事だが、事実上の社説である。これは見逃せない。見逃してはならない。

復帰46年にしてなお本土並みとならない沖縄の現実への苛立ち。いな、それにとどまらない本土からの心ない差別の言動に対する沖縄の叫びが胸に突き刺さる。「県民をあざ笑う言論空間」における「沖縄ヘイト」の典型事例が挙げられ、「ヘイトに対抗する言論の力」「沖縄ヘイトを乗り越える沖縄メディアの力」が語られている。その筆は自信に満ちてはいるものの、本土に住む1人として襟を糺さざるを得ない。

 米軍基地の重圧にあらがう県民、沖縄のメディアを攻撃する誹謗中傷が続いている。その多くは事実に反するゆがんだ沖縄観に基づくものだ。その誤りを正し、事実によって反証する作業の重要性を、私たちは昨年12月の産経新聞報道への対応で再認識した。

 2017年12月1日、沖縄自動車道で起きた多重衝突事故で産経新聞は同月9日、インターネットの「産経ニュース」で米海兵隊曹長が日本人を救出して事故に遭ったと報道し、「救出行為」を報じない沖縄メディアを「報道機関を名乗る資格はない」と批判した。12日には、産経本紙にも記事が掲載された。

?「(曹長は)救助行為はしていない」とする在沖海兵隊の回答や沖縄県警など関係機関の取材を踏まえ、本紙は18年1月30日付けで「『米兵が救助』米軍否定」の見出しで、産経報道に疑義があることを報じた。その後、産経新聞は2月8日付で記事を削除し、謝罪した。その対応は真摯であった。産経社内でも厳しい議論があったことがうかがえる。
 記事削除までに約2か月を要した。それは本紙にとって試練の期間であった。
 産経報道を受け「なぜ米軍の救出活動を記事にしないのか」という批判が本紙に寄せられた。事実関係を取材した記者が苦り切った顔で報告してきた。「どこをつついても、海兵隊員が日本人を助けたという事実は確認できない」

 2か月は私たちに貴重な経験をもたらした。本紙の反証記事に対し読者から「県民、沖縄メディアに対する誹謗中傷に対して、事実を積み重ねて反論する力強い記事で対抗していってほしい」という激励があった。中傷やデマへの危機感を読者と共有できたことは得がたい教訓となった。

 沖縄に対する誹謗中傷の主舞台はネットである。「反日」「国賊」という言葉と共に沖縄をおとしめるゆがんだ言論空間が広がっている。「沖縄ヘイト」とも呼ぶべき言論空間の中で交わされる悪罵の数々が地上波の電波から流れた。「ニュース女子」問題である。東京メトロポリタンテレビジョン(東京MX)のバラエティー番組「ニュース女子」は2017年1月2日の放送で、米軍北部訓練場で建設されたヘリコプター発着場(ヘリパッド)に反対する住民をテロリストと例えて中傷した。

 番組内容で激しい中傷にさらされた辛淑玉氏の申したてを受け、放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送倫理検証委員会は「重大な放送違反があった」とする意見書をまとめた。BPO放送人権委員会も辛氏に対する人権侵害があったと認めた。

 名護市辺野古の新基地建設に象徴される基地負担の押し付けを拒む沖縄の抵抗をあざ笑う言論空間の広がりは、新たな偏見や誤解を生みだす。
 17年12月、米軍普天間飛行場所属のCH53大型輸送ヘリの窓が落下した普天間第二小学校に対し「学校を後から造ったくせに文句をいうな。戦闘機と共に生きる道を選んだくせに文句をいうな」という中傷の電話があったことなどは、その表れと言えよう。
?「戦闘機と共に生きるー」は事実に反する。本紙は、創立以来の普天間第二小の歩みと基地被害の経過を踏まえ、反証記事を掲載した。

 この5月、沖縄の日本復帰から46年が過ぎたが、県民の多くは「日本本土の国民と同様に扱われているのか」という疑問を抱いている。その要因は、広大な在沖米軍基地と、そこから派生する人権侵害を解消する抜本策を打ち出せないまま新基地建設を強いる日本政府の姿勢にある。

復帰運動を通じて、日本国憲法の適用に基づく「他県並」の人権尊重を求め県民は、今も基地の重圧からの脱却と人権回復を訴えている。その県民をあざ笑う言論空間がネットを中心に存在する。ヘイトに対抗するのも言論の力である。「沖縄ヘイト」を乗り越えるメディアの力が問われている。

偏見に基づく本土からの「沖縄ヘイト」。その悪罵の典型事例として語られているものが、地上波の電波から流れた「ニュース女子」である。この論説には名が出て来ないが、「DHCテレビジョン」が制作し、DHCがスポンサーとなって提供したデマとヘイトの番組である。DHC・吉田嘉明こそが、この地上波によるデマとヘイト垂れ流しの元凶なのだ。

論説は、誤りを指摘された産経の謝罪を真摯な対応と評価している。また、東京メトロポリタンテレビジョン(東京MX)も反省の弁を述べている。しかし、DHC・吉田嘉明のみは、真実を突きつけられ批判されてなお、反省するところがない。

この論説が述べているとおり、デマとヘイトを克服するには、真実を以てする言論による批判が王道であろう。それこそがメディアの力だ。しかし、DHC・吉田嘉明などに対してはその効果に限界があることを指摘せざるを得ない。DHC製品に対する消費者の不買運動は、DHC・吉田嘉明によって作られたデマとヘイトの言論空間を浄化する手段として有益であろう。

とりわけ、140万沖縄県民に訴えたい。
「DHCの商品を買うことはすっぱりとおやめなさい。」「サプリメントにせよ、化粧品にせよ、あなたがDHCの製品を買いもとめれば、その利益の一部は、確実に沖縄ヘイトの放送や言論となって、沖縄をあざ笑うのですから。」「だから、くれぐれもデマとヘイトのDHC社の製品をお買い求めにならぬように。」「いや、けっして沖縄をおとしめるDHCの商品をお買い求めになってはなりません。」
(2018年5月28日)

「おしつけないで 6.30リバティ・デモ」へのお誘い ― 「君が代」強制と処分をはねかえすために

みなさま
 「君が代」裁判4次訴訟原告は、「日の丸・君が代」の強制に反対して処分を受け、その取り消しを求めて裁判を闘っています。

 学校現場では教員だけでなく生徒への締め付けも強まり、教育の自由が失われています。2020年東京オリンピックや来年の天皇代替わりに向けて、今後「日の丸・君が代」に敬意を払うべきだという圧力がさらに強まっていくのではないでしょうか。

 私たちは、主張します。
  「国旗・国歌」にどのような考えをもとうと自由であること、
  「国を愛する」気持ちを押しつけることはできないということ、
  学校に自由を取り戻したいということ、を。

 この思いを広く訴えるために、私たち「君が代」裁判4次訴訟原告有志はデモを企画しました。歌ったり、踊ったり、シュプレヒコールをあげたり…。思い思いのスタイルで楽しく渋谷の町を歩こうと思っています。6月30日は“鳴り物”などを持ってお集まりください。

 私たちと一緒に楽しく歩きましょう。
… … … … … … … …
日時 6月30日(土曜日)
 集会 18時半? ウィメンズプラザ・視聴覚室
          (表参道・青山学院大学前)
    報告 澤藤統一郎(弁護士)「4次訴訟の現段階」
 デモ 原宿・渋谷を歩く予定
 主催 おしつけないで! 6・30リバティ・デモ実行委員会

**************************************************************************
リバティ・デモと名付けられたこのデモは、文字通り自由を求めての行進である。その要求は、「誰にも『日の丸・君が代』を押しつけないで」というだけのシンプルなもの。「子供たちに『日の丸・君が代』を強制する教育をしないで」「教師を愛国心強制の手先にさせないで」ということでもある。

「国旗・国歌」あるいは「日の丸・君が代」には、多くの人がそれぞれのイメージをお持ちのことだろう。国旗・国歌(日の丸・君が代)にどう向き合うべきかについても、いろんな考え方があるだろう。しかし、最も大切なことは、それぞれの多様な考え方が尊重されなければならないということではないか。多様な考え方を強引に一つにまとめて、「この考え方だけが正しい」と、すべての人に押しつけるようなことをしてはならない。とりわけ、権力を持つ国や自治体がそんなことをしてはいけない。また、明日の主権者を育む教育の場で、そのような押しつけが許されてはならない。

すべての人に最も大切なものは、のびのびとものを考える自由、何ものにもとらわれない考え方の自由だ。この自由を侵そうという最も危険な存在が国家ではないか。国家は、教育を通じて国民の考え方を統制したくてしょうがないのだ。常に、時の為政者にとって操りやすい従順な国民精神がお望みなのだから。

主権者である国民に対して、下僕たる国家が「国民よ、私を愛せ」と命令し強制することができるわけがない。国旗・国歌(日の丸・君が代)は、「国家の象徴」なのだから、「国旗に向かって起立し、国歌を斉唱せよ」とは、国民に対して国家に敬意を表明するよう強制していることなのだ。この強制は、戦前のあの暗い時代の記憶を呼びさます。

15年前までは、都立校は「都立の自由」を誇りにしていた。自由とは何よりも、国家や東京都の強制からの自由のことだ。都立の自由は、「日の丸に向かって起立し、君が代を斉唱せよ」という強制を許さなかった。その事態を変えたのが、石原慎太郎という、あの都知事だった。その知事の時代に都教委が全都の教職員に「日の丸・君が代」への敬意表明の強制を命じた文書が「10・23通達」である。

いま都内の全公立校では「10・23通達」が猛威を振るっている。卒業式や入学式の直前に、各校長から全教職員に対して「起立・斉唱」を強制する文書による職務命令が発せられている。信じがたい光景ではないか。そして、教師としての信念において、自分の信ずる宗教の教義において、また「日の丸・君が代」が果たしてきた歴史に鑑みて、どうしても起立・斉唱の強制に応じられないとする教員が懲戒処分とされているのだ。

悪名高い10・23通達後の懲戒処分件数は、既に延べ481件に達している。その処分取消を求める訴訟が数多く提起され、最高裁・高裁・地裁で確定した処分取消の件数(都教委敗訴確定)が73件・63名という大きな数に上っている。そしていま裁判途中の教員が、デモを呼びかけているのだ。その名も、リバティ・デモである。

この不自由な世で、自由を求めるデモである。ニギニギしく、楽しく、のびのびとやりたいものだ。是非、多くの方にご参加をお願いしたい。ついでに、私の話もお聞きいただけたら、とてもありがたい。
(2018年5月27日)

「相手選手を潰してこい」は皇軍における上官の命令だ

日大アメフト部の選手が、関学との定期試合において、相手チームの中心選手に傷害行為に及んだ。これは、「不祥事」ではない。「体質露呈事件」と言うべきだろう。日大アメフト部の体質の問題にとどまらない。学生スポーツとは何なのだ。いや、そもそも人はなぜスポーツをするのか。スポーツとは、本来美しいものなのか。いったい、憧れたり持ち上げたりするに足りるものなのか。大金を投じて、オリンピックなどやるに値することなのか。広く深く、そして暗い問題の一端を垣間見た思いである。

既視感が二つある。一つは、アベ政権の忖度文化だ。森友問題でも加計学園問題でも、総理自らは特別の便宜をはかるよう指示したことを頑強に否定している。しかし、総理の意を忖度した官僚たちによる忠義立ては明らかになっている。総理のお友達への便宜をはかって、総理の行政私物化実現に邁進した官僚たちの情けなさ。日大アメフト部事件も、これによく似ている。

戦前の天皇制もそうだった。天皇はけっして自ら命令を下さない。しかし、東条をはじめとする群臣は、例外なく天皇(裕仁)の意向を忖度して、オオミココロに沿ったのだ。そうしてこそ、天皇の意思を実現しながらも、天皇の法的政治的責任を免じることができたのだ。

もう一つの既視感。この選手の傷害行為は、監督とコーチの強い示唆で行われたという。コーチは監督の意を受けて、選手に敵愾心を煽り、闘争心の欠如をなじり、「試合に出たければ相手チームのQBを潰してこい」と言ったという。また、「関学の選手がけがをすれば秋の試合で有利になる」とまでも。これは、敵に対する皇軍のありかたと何とそっくりではないか。

監督は将校、コーチは下士官、そして選手は一兵卒である。将校の意を体して下士官は兵に命じる。「民間人をスパイ容疑者として殺せ」「捕虜になった敵兵を切れ」「縛られた敵を殺せ」と。上官の命令はヘイカの命令だとする強要なのだから、いささかでも兵が躊躇すれば制裁が待っている。大和魂がないとなじられる。「私は貝になりたい」の世界だ。こうして、凡庸な悪によって限りない残虐行為が繰り広げられた。

今回の事件が大きな反響を呼んでいるのは、上記二つの既視感による。とりわけ、日本人の精神構造が実のところ敗戦以前とすこしも変わってはいないのではという漠然たる不安からなのだろう。

私は、とりわけ傷害の実行犯となった凡庸な若者に注目する。この若者は、われわれ日本人の平均的な精神構造の持ち主ではないか。それなりの常識も倫理観も備えている。正義観もあるに違いない。しかし、主体性がない。上から命じられ、「闘争心が欠けている」「このままでは試合に出してやらない」と言われると、断れない。その気になって、躊躇なく相手選手の背後から突進してぶつかっていく。その従順な姿勢が、かつての皇軍の兵士像と重なるのだ。

その意識構造は、朝鮮で、中国で、南方で、暴威を振るった皇軍兵士と変わらない。彼ら、その時代の平均的日本人が、平時暴力的であったはずはない。むしろ、多くは温厚で腰が低く、礼儀正しい市井の人々だったはず。しかし、上からの命令によって、いとも容易に凡庸な悪事が重ねられたのだ。

我々は、このことをつきつめて反省してこなかった。天皇の戦争責任を曖昧にした我々は、天皇の対極にある下々の責任をも曖昧にした。個々の兵士の平時なら犯罪となる残虐行為の責任を、お互いのこととして許し合ったのだ。英霊として奉られさえもした。関東大震災のあとの自警団員が朝鮮人を大量虐殺して、日本人同士ではその罪をお互いに許し合ったごとくにである。

それゆえ、凡庸な悪は無反省に今の社会に生き残った。今の日本の若者が戦場に行けば、かつての皇軍兵士と同じ蛮行を繰り返すに違いない。戦場に行かずとも、そそのかされば、ヘイトスピーチもヘイトクライムにも走ることになるだろう。

日大アメフト部の愚かで従順なこの選手や、財務省の愚かで従順な官僚こそ、実は他人事ではない今の我々自身の姿ではないか。

日大のこの選手には次の言葉を耳に入れておきたい。

  あとの後悔する前に 思いとどまれ さきの忖度

(2018年5月26日)

あゝ籠池泰典よ 君の無念を噛みしめる(改版)

君の思想は妖しきも
人柄憎めぬ君なれば
君に一声かけまほし
君 気骨を失うことなかれ
語るに怯むことなかれ
アベに忖度あるなかれ

アベ夫妻との蜜月が
いつの間にやら暗転し
君は目障り
君は邪魔
うるさい口を塞ぐため
昨夏の盛りに捕らえられ
夫婦ともども塀の中

国策ゆえに勾留は
300日にも及びたり

有罪宣告あらざるに
300日もの監禁は
泣くに泣けない 身の辛さ
憤怒を深く呑み込んで
いでや怨みを晴らさばや

思えばアベを甘く見た
アキエのことも甘く見た
教育勅語にアベバンザイ
アベを取りまき 取り入って
神風吹かせてうまくいく
上手の手から水が漏れ
手のひら返して邪魔にされ
トカゲのシッポと切られたり

昨日の同志が今日の敵
相信じた朋友が
今さら「妻は欺された」
信義に悖る一言は
いくらなんでも酷すぎる
卑劣な輩の痴れ言は
トカゲのアタマの保身術
いかで許しておくべきや

あゝ籠池泰典よ 君の無念を噛みしめる

卑劣と非情は権勢に
常に伴うものなれど
アベと昭恵はひどすぎる
怒りは怒髪天をつく

祟徳の院は舌を噛み
血文字の呪いを書きつけて
魔道の王となりしとか
ああ君の心も似たるかな
憤怒の炎 燃やさばや

それでもようやく塀の外
マイクに向かってしゃべる身に

「早朝の 志を得る 初夏の風」
その意気や良しとは思えども
300日の勾留に
失いしものは多からん

ようやく言葉を取り戻し
しゃべれる立場となりぬれば
アベの顔色なからしめ
溜飲下ろすも近きこと

君よ語れ 真実を
アベと昭恵の恐るるは
真実のみにあろうから

あゝ籠池泰典よ 君の無念を噛みしめる
君 精気を失うことなかれ
矜持を捨てることなかれ
叛骨失うことなかれ
膝を屈することなかれ
語るに怯むことなかれ
アベに忖度あるなかれ
(2018年5月25日)

なぜ、「浜の一揆」なのか

控訴理由書の冒頭に、原審での結審期日に、原審原告ら訴訟代理人(弁護士 澤藤大河)が口頭で述べた最終意見陳述を掲記しておきたい。事案の概要と、控訴人(原告)らの考え方が、よくまとめられているからである。

「原告ら訴訟復代理人の澤藤大河から、訴訟の終結に際して、貴裁判所にご理解いただきたいことを、要約して陳述いたします。

原告らは、本件訴訟を「浜の一揆」と呼んでまいりました。ご存じのとおり、旧南部藩は、大規模な一揆が頻発したことで知られています。一揆は、藩政に対する抵抗であり、同時に藩政に癒着した豪農や網元あるいは大商人への抵抗にほかなりません。
原告らは、現在の県の水産行政を、一揆を招いた藩政や領内の身分支配の秩序と変わるところがないではないかと批判し抗議しているのです。

一揆の原因には、まずは生活の困窮がありました。それに藩政の非道への怒りが重なって決死の決起となったのです。本件浜の一揆訴訟も事情は同様です。今のままの漁業では食っていけない。後継者も育たない。廃業者が続出している。とりわけ3・11後は切実な状況になっている。この危機感が、提訴の原因となっています。
さらに、どうして浜の有力者と漁協だけにサケ漁を独占させて、零細漁民には一切獲らせないというのか。こんな不公平は許せない。という理不尽に対する怒りが、漁民100人に提訴を決意させたのです。この原告らの心情と、原告らをこのような心情に至らしめた事情について、十分なご理解を戴きたいと存じます。

本件における原告らの請求は、憲法上の権利としての「営業の自由」を根拠とするものです。
三陸沿岸を回遊するサケは無主の動産です。井田齊証言にあったとおり、大いなる北太平洋の恵みが育てたものであって、誰のものでもありません。養殖による漁獲物とは決定的に異なるものとして、そもそも誰が採るのも自由。これが大原則であり、議論の出発点です。

漁民が生計を維持するために継続的にサケを捕獲することは、本来憲法22条1項において基本権とされている、営業の自由として保障されなければなりません。もちろん、憲法上の権利としての営業の自由も無制限ではあり得ません。合理性・必要性に支えられたもっともな理由があれば、その制約も可能ではあります。その反面、合理性・必要性に支えられた理由がない限り、軽々に基本権の制約はできないということになります。

この憲法上の権利を制約するための、合理性・必要性に支えられた理由を、法は2要件に限定しています。漁業法65条1項の「漁業調整の必要あれば」ということと、水産資源保護法4条1項の「水産資源の保護培養の必要あれば」という、2要件です。
その場合に限って、特定の魚種について、特定の漁法による漁を、「県知事の許可を受けなければならない」と定めることができるとしているのです。

この法律上の2要件を具体化した岩手県漁業調整規則23条1項3号は、固定式刺し網漁には知事の許可を要すると定めたうえ、「知事は、『漁業調整』又は『水産資源の保護培養』のため必要があると認める場合は、漁業の許可をしない。」と定めています。

ということは、固定式刺し網漁によるサケ採捕の許可申請があれば、許可が原則で、不許可には県知事が「漁業調整」または「水産資源の保護培養」の必要性の具体的な事由を提示し根拠を立証しなければなりません。したがって、キーワードは「漁業調整の必要」と「水産資源の保護培養の必要」となります。行政の側がこれあることを挙証できた場合に、不許可処分が適法なものとなり、できなければ不許可処分違法として取り消されなければならず、同時に、許可が義務付けられることにもなります。

このうち、「水産資源の保護培養の必要」は比較的明確な概念で、井田齊証人の解説で、この理由がないことは明確になっています。サケ資源の保護培養のためには、河川親魚の確保さえできればよく、原告らに対する本件許可がそれに影響を与えることはあり得ないからです。

なお、被告は原告らが年間10トンの上限を設けて申請していることについて、「そのような上限が守られるはずはない」と、原告らに対する不必要な不信と憎悪をむき出しにしています。しかし、生業を成り立たせ、後継者を育てるために、資源の確保にもっとも切実な関心をもっているのが、原告ら漁民自身であることは、原告尋問の結果から、ご理解いただけるところです。しかも、これを守らせる法的義務が漁民相互の間にあるわけではなく、許可の条件が守られているかどうかを監視するのは行政の責任です。その業務が煩瑣だから、一律に禁止すべきだというのは、まことに乱暴な本末転倒の論理としか言いようがありません。

一方、「漁業調整の必要」は、はなはだ曖昧な概念ですが、これを行政が曖昧ゆえに恣意的に基本権制約の根拠とすることは許されません。

お考えいただきたいのです。現状が、極端に不公平ではありませんか。けっして適切な漁業調整が行われているとは言えない事態ではありませんか。
「調整」を要する当事者の一方、すなわち大規模な定置網業者がサケ漁を独占しています。もう一方の当事者である原告ら零細漁民には、過酷な罰則をもって、サケ漁が禁止されています。原告らは、定置網漁を禁止せよなどとは言っていません。ほんの少し、自分たちにも獲らせてくれと言っているだけではありませんか。どうして行政は、こんなにも頑なに、現状に固執しなければならないのでしょうか。このことに関する原告らの不信がまさしく、「浜の一揆」の原因となっています。

「漁業調整」の本来の指導理念は、漁業法第1条に、「この法律は…漁業の民主化を図ることを目的とする」という、法が特別に明記した「漁業の民主化」でなくてはなりません。経済的強者に資源の独占を許し、零細漁民に漁を禁止することが、「民主化」の視点から、どうして許されることになるのでしょうか。

また、本件では、定置網漁業者の過半を占める漁協の経済的存立のために漁民のサケ漁を禁止することの正当性が問われてもいます。いったい、漁協優先主義が漁民の利益を制約しうるのでしょうか。

水産業協同組合法第4条は、「組合(漁協)は、その行う事業によつてその組合員又は会員のために直接の奉仕をすることを目的とする」。これが漁協本来の役割です。漁民のために直接奉仕するどころか、漁協の自営定置を優先して、漁民のサケ漁禁止の理由とする、これは法の理念に真っ向から反することではありませんか。

弱い立場の、零細漁民の立場に配慮することこそが「漁業の民主化」であって、漁協の利益確保のために、漁民の営業を圧迫することは、明らかに「民主化」への逆行と言わざるを得ません。言うまでもなく、「漁民あっての漁協」であって、「漁協あっての漁民」ではありません。

貴裁判所が「漁協栄えて漁民が亡ぶ」という倒錯した被告県側の主張に与することなく、一揆の心意気で本提訴に踏み切った原告らの思いに応える判決を言い渡されるよう、心からお願いして、代理人陳述といたします。」

当審においては、以上の「原告」を「控訴人」に置き換えて十分なご理解をいただきたい。

(2018年5月24日)

「獣医大いいね・総理」の独白

昨日(5月22日)の朝刊各紙。いずれもトップに、「首相『獣医大学いいね』」の大見出しだった。2015年2月に、私が官邸に加計孝太郎を迎えて15分間面談し、学校法人「加計学園」の獣医学部新設の説明を受けて、「新しい獣医大学の考えはいいね」と応じたという内容だ。

いかにももっともらしいのが、シャクにさわる。

 獣医大いいね!とキミが言ったから2月25日は加計記念日

なんて、よみ人知らずのパロディがネットを駆け回っている。これがまた、上手だからシャクでならない。為政者に対する悪口を禁止できたら、世の中もっと平穏におさまるのに、表現の自由なんて害悪の元。

元凶は、愛媛県だ。私が嘘つきだとは、そりゃ天下周知の事実だよ。しかし、とどめを刺さないのが、エチケットというものだろう。愛媛県知事というお人、武士の情けを知らないひどい奴ではないか。

これで、私は、後世に「忖度首相」「デンデン総理」というだけでなく、「嘘つき首相」「獣医大いいね総理」「総理案件総理」として名を残すことになるのか。まことに悔しい。

私には、潔さの美学の持ち合わせはない。往生際が悪いと言われようと、加計孝太郎ともども嘘を突き通す以外にとるべき道はない。またまた出そう。「ないことの立証は悪魔の証明を求めるもの」というあの奥の手。うまく行けば、これで今回も何とか逃げ切れるかも知れない。

とはいえ、愛媛県が参院予算委員会に提出した関連文書27枚の内容は、具体的で詳細だ。事実の体験者しか書けない臨場感があり、真実性についての説得力がある。背景事情とも符合しているし、何よりも県に捏造の文書を作成する動機がない。誰が見たって、愛媛県側の文書の信憑性が高く、私と加計が嘘つきだと思われる。それが真実だから、困ったものだ。また、腸が痛くなる。

しかし、私も美しい日本を取り戻すと言い続けてきた政治家だ。こういうときにこそ、生き方のバックボーンとしての教育勅語を思い出す。

教育勅語には、「爾臣民 朋友相信シ」とあるではないか。私と加計は、「相信ずる朋友」だ。友人同士が真実を守り抜こうという友情は月並みのありふれたものだ。真実を敵にまわして、嘘を突き通すという悪だくみこそ、固い朋友の相信ずる姿ではないか。

しかも、2015年2月当時、加計の獣医学部新設構想は窮地に陥って、窮鳥として私の懐に飛び込んできたのだ。そりゃあ、ゴルフや会食をともにするたびに加計の思惑は聞いてきたさ。だから、15分の面談ですべてを承知した。かれは、親の代から教育をビジネスとしてきた男だ。しかも、政治とつるんだビジネスの勘どころをよくつかんでいる。私も、開戦時東条内閣の商工大臣だった岸信介以来、商売人とつるんだ政治家の家系だ。だから、私が加計に「獣医大いいね」と言えば、私の権限をフル活用して、最大限の便宜をはかってやろうということなのだ。その後は、ご存じのとおり総理秘書官を通じてトントン拍子の進捗だっただろう。

国政私物化という批判覚悟で私が彼に便宜をはからったのは、「朋友相信シ」の美しい友情からだ。今や「朋友相信シ」て、お互いに嘘を突き通すことこそが友情の証しだ。

そりゃあ、指摘されるまでもなく、教育勅語には、「常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ」という一節もあることは知っているさ。しかし、それは庶民に向けた徳目だ。私や加計に向けたものではない。国憲も国法も、上に立つものが、下々に守らせるものだろう。最近の人々は、その辺の理解が欠けているんじゃないのかね。困ったものだ。本当に困ったことだ。世も末だ。
(2018年5月23日)

緊急のご賛同お願い ― 「NHK大阪記者の不当異動人事中止を求める要望」

加計問題が愛媛県文書(「いいね文書」)の開示で新たな展開を見せている。森友問題についても、明日(5月23日)国有地値下げ交渉に関わる大量の新文書が提示される。アベ内閣は、既に詰んでいるはずなのだが、潔く投了という気配はない。頑強に記録の事実を否定し続けて国民のアキラメを待つ作戦。

そんなアベ政権の指示なのか、NHK上層部の忖度なのか。NHKの不当人事に衝撃が走っている。

第一報は日刊ゲンダイの5月17日記事。次のリードだ。

「皆様のNHK」どころか、これでは“安倍様のNHK”だ。森友学園問題に関するスクープを連発していたNHK大阪放送局の記者が突如“左遷”されるというのだ。安倍政権の急所である森友問題を報道させないための“忖度人事”ではと、NHK内部に衝撃が走っている。

 「森友問題スクープ記者を“左遷” NHK『官邸忖度人事』の衝撃」
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/229227

その後、この 『NHK官邸忖度人事』記事の信憑性が確認された。このままでは、5月25日付の異動が実行となる模様。

そこで、この異動を止めるために、「NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ」が下記の緊急の要望書提出に賛同者を募っている。

?2018年5月24日

NHK会長 上田良一様
NHK放送総局長 木田幸紀

?NHK大阪放送局の記者の不当な異動人事の中止を求める要望書

NHK視聴者有志(賛同者名簿は別紙)

 皆様にはNHKの健全な経営と充実した放送のためにお忙しい毎日をお過ごしのことと存じます。
? この間私たちは、森友学園問題に関して、貴局が多くのスクープを行い、森友問題の真相解明に大きな役割を果たしてきたと評価しています。
 ところが、先日、私たちは、森友学園問題の真相に迫る取材に精力的に取り組んできた大阪放送局の記者を記者職から外す人事異動が検討されているとの報道に接しました。
 私たちが関与しない貴局内の人事ですが、異動人事が伝えられる記者は、政権寄りと批判が向けられてきたNHKの政治報道において、時の首相夫妻が疑惑の中心人物となっている森友問題の真相に迫る貴重な取材を続けてきた記者といわれています。このような記者は私たち市民の知る権利に応える誠実で頼もしい人材であり、NHKに対する視聴者の信頼の揺らぎを食い止めるために貢献をしてきた人材でもあると思います。
 そのような記者が森友問題の真相解明の重要な局面で取材現場から外されるとすれば大変不可解なことであり、視聴者は強い疑惑を向けざるを得ません。

 皆様におかれましてはNHKに対する視聴者の信頼を失墜させるような異動人事を中止する措置を直ちに講じられるよう強く要望します。
 仮にも、伝えられたような異動人事が強行されるなら、私たちのみならず、多くの視聴者はそれを左遷人事とみなし、今後のNHKの政治報道に強い不信を抱くことになるのは必至です。

 受信契約の締結義務を是認した先の最高裁判決を引くまでもなく、受信契約も受信規約で定められた受信料の支払い義務も、NHKが放送法第4条他を遵守し、自主自律の放送を貫いて、国民の知る権利に応える放送を続けているという視聴者の信頼を得ていることが大前提です。NHKがそうした前提を自ら壊すような人事を強行するなら、今、受信料の支払いを続けている視聴者の間でも、支払い意欲を減退させる人々が増えるのは必至です。
 NHKの人事担当部署がそのような愚行を犯さないよう、皆様の賢明なご判断と早急な措置を強く要請します。
  以上

賛同の締め切りは5月23日(水)24時である。
下記アドレスにメールでの賛同通知をお願いいたします。     mekiki2018@yahoo.co.jp
ファクスなら、043-461-7004

呼びかけの中心を担っている醍醐聰さんからは次のような連絡をいただいた。

NHK大阪放送局の記者の左遷と受け取れる異動人事の動きは、NHK内で市民の知る権利に応えるため、森友問題の真相に迫る取材をしてきた記者の良識を踏みにじるものであり、NHKの報道現場にも計り知れない萎縮を生む恐れが大きいと考えられます。
そこで、私たち「NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ」は全国のNHK視聴者団体、個人や森友問題で一緒に行動した方々に、賛同の呼びかけをして、不当な異動人事の中止を求める添付のような要望書を24日午前中にNHK上田会長ほかに提出することにしました(25日に異動人事の内示が予定されているため)。

急な呼びかけですが、皆様にご賛同の呼びかけをさせていただきます。
大変短い期間ですが、皆さまの団体、お知り合いの方々にも至急、呼びかけを広めていただけると幸いです。

**************************************************************************
大阪の阪口徳雄君は、5月20日に下記のブログを発表している。
http://blog.livedoor.jp/abc5def6/

????? NHK記者の「不当配転」が真実なら受信料拒否宣言をしようと思う

日刊ゲンダイが森友問題を精力的に取材しスクープを発していた辣腕記者を森友問題の取材から外し内勤に変えるとの報道があった。
真相は不明である。
しかし、NHKのトップが「ニュースのトップに森友、加計問題を扱うな」という指示の「内部告発」があったということが国会で議論になっていた。その後の報道を見ていると森友、加計問題はニュースのトップではなく「途中」になってきた印象を持つ。

日刊ゲンダイの報道を信じたくないがNHKのトップは安倍総理のくだらない発言を大げさに、さも重要なことのように誇張して報道するニュースの様子とかを見るにつけ官邸に忖度した報道が多すぎる。

森友問題を一番詳しく取材した記者は本来はNHKの誇りである。このような記者を優遇することはあっても、不当配転をすれば、これは他の諸問題でも官邸が困る報道を取材してきた記者をNHKは同様に不利益取り扱いをすることを意味する。いわば見せしめ人事となろう。これは当該記者のみならず、他の記者への萎縮効果も甚大となろう。

もし日刊ゲンダイの記事の通りであるなら私個人はNHKに受信料の支払いを「拒否」しようと思う。NHKに内容証明郵便で拒否理由を明白にして通知して拒否しようと思う。いつまで続けるかは未だ不明である。

私は以前、籾井会長がNHKの会長に任命されていた間の3年のうち籾井が辞めるまでの約2年半あまり受信料の支払いを拒否した。この時はNHKに内容証明郵便で通知した。何回か督促があったが、断り続け、籾井が辞めたので再開した。

今回の処置は籾井の個人的資質とは異なり、NHKの持つ本質的、構造的な権力忖度人事であり、これでは放送法4条の趣旨をNHKが安倍政権の前で自ら放棄するに等しい。

受信料拒否する者にNHKが裁判するなら私自らは受けて立つし,他の者に裁判でもあれば法的な支援は惜しまない気持ちである。

日刊ゲンダイの記事が間違いであると信じたい。

(2018年5月22日)

書き初めに勇ましい字が出ぬように(かうぞう)

一昨日(5月19日)毎日新聞「仲畑流万能川柳」の年間賞表彰式があった。
2017年の投稿59万句から選ばれた年間大賞は、

  書き初めに勇ましい字が出ぬように

2017年1月1日に掲載された句。大阪府高槻市作野一男(柳名・かうぞう)の作。

特に優れた句とは思えない。しかし、選者には、これが時代の空気を反映した注目すべき警句と解されたのだ。かつて、戦争の時代には、「勇ましい字」が書き初めに躍った。「勇ましさ」はことさらの「憎悪」や「差別」、そして「非人間性」をともなうものでもあった。

1字の勇ましい字なら、こんなところであろうか。
  武 勇 征 勝 皇 国 奮 闘 軍 戦 

2字なら、

?必勝 皇基 大君 軍機 皇楯 聖戦 撃滅 尽忠 忠義 愛国 …

4字熟語となれば、

?滅私奉公 挙国一致 尽忠報国 堅忍不抜 一億一心 七生報国 八紘一宇 鬼畜米英 五族協和 …

そして、戦時の戦意高揚標語の数々。以下は、落合道人、前坂俊之などが、収集し整理したものの孫引きだが、なかなかみごとなものではないか。まこと、わが大八洲は言霊の幸ふ国なのだ。但し、言霊は、科学にも物量にもかなわなかった。

「護る軍機は 妻子も他人」「国のためなら 愛児も金も」「空へ この子も捧げよう」「金は政府へ 身は大君へ」「支那の子供も 日本の言葉」「笑顔で受取る 召集令」「家庭は 小さな翼賛会」「りつぱな戦死とゑがほの老母」「屑も俺等も七生報国」「翼賛は 戸毎に下る 動員令」「強く育てよ 召される子ども」「働いて 耐えて笑つて 御奉公」「屠れ米英 われらの敵だ」「子も馬も 捧げて次は 鉄と銅」「まだまだ足りない 辛抱努力」「国が第一 私は第二」「任務は重く 命は軽く」「一億が みな砲台と なる覚悟」「科学戦にも 神を出せ」「二人して 五人育てて 一人前」「産んで殖やして 育てて皇楯(みたて)」「日の丸で 埋めよ倫敦(ロンドン) 紐育(ニューヨーク)」「米英を 消して明るい 世界地図」「初湯から 御楯と願う 国の母」「嬉しいな 僕の貯金が 弾になる」「百年の うらみを晴らせ 日本刀」「アメリカ人をぶち殺せ!」「征け 米英にとどめ刺すまで」「突け 米英の心臓を」「米鬼を一匹も生かすな!」「今に見ろ 敵の本土は焼け野原」「撃滅へ一億怒濤の体当たり」

今は、「憲法に明記するだけ自衛隊」という時代だが、投句者や選者には、こんな「勇ましい」書き初めをする近未来が、見えているのかも知れない。
(2018年5月21日)

いま、学問的には『人種』という(差別的)概念は使いません。

本日は、姪の結婚式に出席。
さわやかな季節に、さわやかな天候に恵まれた、ステキな結婚式だった。

私には3人の弟妹があり、それぞれが子をなしているが、そのすべてが女性。8人の姪がいて甥はない。今日は6人目の姪の結婚式。宗教色のまったくない人前結婚式が清々しい。

東大駒場構内にあるレストラン・ルヴェソンヴェールの中庭にしつらえた式場で、2人がそれぞれに考えた結婚の誓いを読み上げ、近親者の大きな拍手に包まれた。お互いが対等なパートナーとして尊重しあって、2人の人生を築き上げていく決意が伝わってくる。2人は既に婚姻届は提出済みで、新婦の姓を名乗ることを届けているという。なお、2人とも研究者である。

新郎が、軽やかに挨拶した。

「姓をどちらにするかには、あまりこだわりはありませんでした。でも、周りの女性から、『結婚で姓が変わるって、面倒で大変なこと』とよく聞いていましたので、それならその面倒を自分が引き受けて体験してみよう、と思ったんです」「で実際にやってみて、大変なことを経験しました。いろんな手続が煩わしいだけでなく、お金もかかるんですね」
選択的別姓制度の実現は、間もなくのようでなかなか実現しない。

この新郎、本日の新婦のドレスまで手作りしたという。立派なものだ。このような若者が育っていることに意を強くする。

新婦である姪は、わが親族の中でただ1人の研究者。この姪の専攻分野が古代人の骨や歯のDNA解析だとは、以前から聞いていた。人類学や考古学と重なる研究をしているのだそうだ。

「人類学とはロマンの学問であると思う。人の役には立たなくても,ヒトの謎を解明するというロマンに魅せられて,人類学者は突き進んでいく。私が研究している古代DNA解析という分野は,特にその傾向が強い。遺跡から発掘された骨や歯などの遺骸から,DNAを抽出して過去の人々の遺伝情報を読み解く。そこには様々な情報が眠っている。例えば,ネアンデルタール人と私たちホモ・サピエンスが混血していたことは,2010年に古代DNA分析によって明らかになり,人類学界に衝撃が走るほどの大きなニュースとなった。

何年か前の彼女の一文である。なるほど、そんなことをやっているのだ。

で、披露宴の最中に、ウェディングドレス姿の新婦に、不粋な質問をしてみた。

「骨のDNA分析で、日本人と韓国・朝鮮人、あるいは中国人との区別や同定は可能なの?」
「それは無理ですね。」

「DNA分析での人種の特定って、確率論的にはできるんじゃない?」
「今、学問的には『人種』という概念は使いません。それは、無意味だし、差別でしょう。」

私は、姪から教えられて納得した。民族は人文学的概念だが、人種とは自然科学上の概念だと思いこんでいた。しかし、DNAの研究者が、「今、学問的には『人種』という概念は使いません。」というのだ。人種概念は、学問的に無意味であるだけでなく、邪悪な思惑のはいりこんだ「差別」なのだ。

私の質問は日本人優越思想という根拠のないバカげた俗説への反駁のためである。もちろん、日本人劣等説もバカげた俗説である。ホモサピエンスに、優等も劣等もありえない。

日本人優越のバカげた俗説とは、たとえば吉田嘉明(DHC会長)のいう、以下のごとき「ヘイトに満ちたデマ」である。

「最近、遺伝子の研究により、日本人は彼ら(中国人や韓国人)とは全く関係のない民族だということが分かってきました。縄文人の遺伝子を解析したら、他のアジア人とはまるで違う人種であったというのです」「アジアの中でも唯一日本人だけがヨーロッパ人に近い民族だった」「顔は似ていても、どうして中国人や韓国人とはこうも違うのだろうと思っていたことが、ここへきてやっと氷解しました」「我々は全くの異人種である韓国人と仲良くすることはあっても、そして多少は移民として受け入れることはあっても、決して大量にこの国に入れてはいけない」

日本人の成り立ちに関する有力な学説として、埴原和郎の「二重構造モデル」説がある。弥生時代に大陸からやってきた渡来人が日本列島に移住し、縄文人と混血したが、列島の両端に住むアイヌと沖縄の人たちは渡来人との混血が少なかったために縄文人の遺伝的要素を強く残した、というものだ。相対的に、内地人は、縄文人の遺伝的要素が小さいことになる。「最新のDNA解析によって、『二重構造モデル』はほぼ裏付けられたと言ってよい」のだという。

意外なことに、三貫地遺跡(福島県)から出た縄文人のDNA配列は、現代日本人とわずか12%の共通部分しかもたないという。「縄文人の遺伝子を解析したら、他のアジア人とはまるで違う人種であった」にせよ、現代日本人のDNAは、圧倒的に渡来人系優勢ということになる。吉田嘉明の作文は妄説に過ぎない。

当然のことだが、縄文系と渡来人系、どちらのDNAが優勢かで、日本人の優等・劣等を論じることはできない。そもそも、日本人と近隣諸国の国民を比較して、優劣を論じること自体がバカげているのだ。それは科学的に無意味であり、差別でもあるのだから。
(2018年5月20日)

ソンタクこそは日本文化の神髄である

「忖度」、そりゃ大切だ。周りとうまくやるためには、一に忖度、二に忖度。
処世の要諦、これ忖度。忖度なしには、世渡りできない暮らせない。

出世しようと思うなら、ね、キミ。
上司の意中を忖度できなくっちゃね。

なんてったって、ソンタクこそは日本文化の神髄だ。忖度なくして、われわれの和の文化はあり得ない。忖度があって初めて、美しい日本の社会が存在するんだ。 17か条の憲法も、教育勅語も、忖度でできている。忖度は、大和民族の文化でもあり、伝統でもあるのだ。

そう。忖度は、男尊女卑や、大勢順応、権威追随、権力への諂いなどとともに、民族の優れた精神的遺産なのだ。天皇制とともに、いつまでも大切にしなければならない。しかも、今や、企業文化の基盤となっているのだからね。

いいかね、この社会は上位の者と下位の者とが階層をなしてできている、みんながみんな人間は平等だ、なんて言いだしたらいったいどうなる。この社会の平穏な秩序が壊れてしまうじゃないか。これを防ぐのが、忖度の文化だ。下位者の上位への自発的服従という美風だ。

社会の秩序を守るために、いにしえの聖人が道を説いてきた。たとえば、五倫。君臣の義、父子の親、夫婦の別、長幼の序、朋友の信だ。今なら、さらに富者と貧者の和、多数派と少数派の議。あるいは諸民族間の敬であろうか。

この五倫をパクって、極端な国家主義と天皇崇拝を混ぜて拵え上げたのが教育勅語だ。臣は君に、子は父に、妻は夫に、幼は長に、そして朋友は互いに、忖度せよというわけだ。臣たる者、君命の出づる前に、主君の心中を察して行動せよ、言いにくいことを言わせるな。これが忖度の意味であり精神文化たる所以。

暴力団の鉄砲玉は、組長からあいつを襲えと具体的な指示を受けるわけではない。言われる前に、立派に忖度して組長の意に沿うのだ。そして、事後には組長から指示を受けていないと、組と組長を守ることになる。これこそ忖度文化の到達点。

戦前の天皇制がそうだった。天皇はけっして自ら命令を下さない。しかし、東条をはじめとする群臣は、例外なく、天皇(裕仁)の意向を忖度して、オオミココロに沿ったのだ。そうしてこそ、天皇の意思を実現しつつも、天皇の法的政治的責任を免じる口実をつくるのだ。

「木戸幸一日記」や「原田熊雄日記」が示すように、上奏以前の内奏等の過程で、天皇はしばしば質問(下問)や沈黙の形で、自らの意思を間接に示しており、そこから内奏者等は天皇の意思をまさに「忖度」して、その意に沿って何らかの決定を行っているのである。(横田耕一・「忖度」が横行する社会)

戦後今に至るも、この伝統は受け継がれている。いま、「天皇(明仁)の意に沿うべきだ」などと恥ずかしげなく言える空気が世に満ちている

「和をもって貴しとなす」も同じことだ。「和」とは、もちろん主体性をもった平等者間の連帯や団結のことではない。下っ端役人は上級官僚にツベコベ言うな。官僚は天皇に逆らってはならない。上からの命令や懲罰によってではなく、下僚の上級に対する自発的な服従でできあがる官僚秩序の形成を「貴い」としたのだ。これこそ、忖度の文化と伝統の草分けではないか。いま、これがわが国の企業内人間関係に生きていて、愚物の企業経営者が、社内の「和」を説いている。

文化と伝統の墨守は、保守政党のお手のもの。モリ・カケ事件でのアベ晋三は、忖度した官僚を、トカゲの尻尾よろしく切り捨てて涼しい顔だ。「私も妻も、けっして指示なんぞしていない」というわけだ。

日大アメフト部の監督も、この辺はよく心得ている。
「弊部の指導方針は、ルールに基づいた『厳しさ』を求めるものでありますが、今回、指導者による指導と選手の受け取り方に乖離が起きていたことが問題の本質」と言ってのけた。これはホンネだろうが、たいしたものだ。

この監督は、ルール違反のタックルで相手チームの主力選手にケガを負わせろ、とまでは言っていなかったのかも知れない。しかし、当の選手には監督が何を望んでいるかは、明瞭に「忖度」可能だったのだ。だから、監督の望むとおりに実行した。

監督の側は、いざというときは、「自分は指示をしていない」「選手が忖度した結果だとすれば、それは勝手にした間違った忖度だ」と逃れることを想定している。天皇も、アベも、組長も、そして体育部の監督も、忖度文化の利益を存分に享受しているのだ。

だけどね、キミ。「忖度」がいつもうまく行くとは限らない。
出世しようと上司の意中を忖度した結果が、上司に裏切られることも、往々にしてあるんだな。その場合は、泣くに泣けない悲劇となる。

「忖度」にも、相応の覚悟が必要ってことだ。佐川や、柳瀬や、迫田や、美並などの行く末をよくよく見てみようじゃないか。
(2018年5月19日)

澤藤統一郎の憲法日記 © 2018. Theme Squared created by Rodrigo Ghedin.