花満開の日曜日。どこに足を伸ばすべきか。上野、谷中、飛鳥山、六義園、あるいは小石川植物園、千鳥ヶ淵、墨堤、新宿御苑…。やっぱり、今日は上野だろう。
花の名所は数あるが、花見の名所は上野を措いてない。ここが花見の本場、花見のメッカだ。花見とは、花を見に行くことではない。ようやく訪れた春の、浮き浮きしたこの気分の共有を確認する集いなのだ。
花は植物で、花見は社会現象である。花は美しく、花見は猥雑である。人がいなくても花は花だが、大勢の人がいなくては花見は成立しない。老も若きも、男も女も、赤子も犬も、猫も杓子も参加しての花見だ。歩くあり、しゃがむあり、座り込むあり、寝込むもあり。杖をつく人も、車椅子の人も。人、人、人。寄せては返す人の波だ。
せわしなく歩く人と、シートに座を占めた人々。それぞれが、しゃべり、写真を撮り、弁当を開き、酒を飲んでいる。歌もあり、踊りもある。屋台の前のごった返し、席取りのいざこざ、満員のトイレの列への割り込みを非難する声も、カタクリの蕾を踏んじゃダメだという注意も、皆なくてはならない花見文化の構成要素。
年に1度のこの雑踏の雰囲気が、我々の民族的アイデンティテイ。とはいえ、この上野の人混みの中に飛び交ういくつもの外国語。そしていろんな肌の色の人々。ああ、花見文化の浸透力の強さよ。
銭湯で 上野の花の 噂かな (子規)
子規の当時から、上野の山はこうだったのだろう。
ところで、その上野の桜ケ丘といわれる高台に、「王仁博士記念碑」と、その由来を記した副碑がある。彰義隊顕彰碑にほど近い場所。
「王仁博士」は、5世紀初日本に『論語』『千字文』を伝えたという百済人。その記念碑は、戦前植民地統治時代に建てられている。その建立の日付が、「皇紀2600年」となっていることに驚いた。朝鮮には、檀君神話に基づく檀君紀元(檀紀)という紀年法がある。その元年は、皇紀よりはるかに古い。これを用いず、西暦でもなく、わざわざ皇紀を使っているのだ。
転載だが、同碑の建立経緯は次のとおりであるという。
「昭和11年(1936)、趙洛奎という朝鮮人が、四宮憲章(国文学者・皇明会長)のもとを訪ねた。趙は、王仁の事蹟を聞き、彼を顕彰するための碑を建てたいとして、その自作の碑文を示し、四宮に添削を請うたのである。
四宮はこれを受け、建碑のための後援会を組織し、井上哲次郎・中山久四郎を主唱者に立てて寄付金を募った。この結果、協賛者として、近衛文麿・徳富蘇峰・林銑十郎・頭山満ら、特別賛助者として、水野錬太郎・鈴木貫太郎・宇野哲人・白鳥庫吉・韓相龍といった錚々たる顔ぶれが集まることになり、昌徳宮(李垠、註・大韓帝国最後の皇太子)から下賜金も交付された。また、同碑は、かつて弘文院や孔子堂などの儒学関連の建造物があったという由緒をもつ、上野公園の桜ヶ丘に建てられることが決まった。
その後、博士王仁碑は無事建立され、昭和15年(1940)4月にはその除幕式が挙行された。各大臣、朝鮮総督、東京府知事、東京市庁が祝詞を送り、来賓祝辞として荒木貞夫や林銑十郎が挨拶を行うなど、除幕式は官主導で大々的に行われた。
同碑は、将来的に、王仁の生誕地と見なされた扶余(朝鮮)や、伝王仁墓(大阪)にも建てられる予定であったが、戦局の悪化により、計画が頓挫してしまったようである。〔以上、先賢王仁建碑講演会編『紀元二千六百年記念 博士王仁碑』、1940年を参考〕
四宮憲章も李垠も、もう知る人とてないだろう。今も名を知られているのは、評判の悪い人物ばかり。この碑。王仁博士と韓国民衆にとっては、どうも屈辱の碑であるようだ。
この碑の由来なんぞには無関心に、多くの人がこの碑の周りで寛いでいた。この碑に腰掛けて弁当を開いている者も。平和な風景ではある。この碑建立当時の桜は、どんな風情だっただろうか。
(2018年3月25日)
まず、醍醐聰さんの昨日(3月23日)付ブログを転載させていただく。
タイトルは、「自民党議員の暴言を議事録から抹消するのは公文書の『改ざん』である」というもの。
渡邊美樹議員、和田政宗議員の暴言が議事録から消されようとしている
今朝の『東京新聞』の<特報>欄に「議事録からの発言削除次々」と題する記事が掲載された。それによると、自民党の渡邊美樹議員が3月13日に開かれた参議院予算委員会の過労死防止等に関する公聴会で出席した過労死遺族に対して「お話を聞いていると、週休7日が人間にとって幸せなのかと聞こえる」と発言した箇所が議事録から削除することを同委理事会で決したとのことである。
また、自民党の和田政宗参院議員が3月19日の参議院予算委員会で、財務省の太田充理財局長に向かって、「民主党政権時代の野田総理の秘書官も務めており、増税派だからアベノミクスをつぶすために、安倍政権をおとしめるために意図的に変な答弁をしているのか」と発言した件も、翌20日、自民党の申し出を受けて、予算委理事会で会議録から削除されることになった、と伝えている。
そこで、参議院事務局の文書課に問い合わせたところ、次の通りだった。
・予算委員会の理事会で渡辺議員、和田議員の該当する発言箇所を削除することが決まっている。その箇所を含め、目下、議事録を作成中である(未完)。
・渡辺議員の該当発言箇所は全て削除、和田議員の該当発言は一部を削除(書き換えではない。)
・こうした削除は「参議院規則」第158条に基づいてなされた。
しかし、こうした暴言はそれ自体、発言した国会議員の資質を国民が判断する上で必要な情報であり、それを会議録から削除することは議員・政党に不都合な事実を抹消する『改ざん』=公文書の私物化にほかならない。
削除は参議院規則にも背く
ちなみに「参議院規則」第158条は、次のとおりである。
「発言した議員は、会議録配付の日の翌日の午後五時までに発言の訂正を求めることができる。但し、訂正は字句に限るものとし、発言の趣旨を変更することができない。国務大臣、内閣官房副長官、副大臣、大臣政務官、政府特別補佐人その他会議において発言した者について、また、同様とする。<以下、省略>」
つまり、発言の「訂正は字句に限」り、「発言の趣旨を変更することができない」と定められているのである。今回の渡邊議員発言、和田議員発言は「字句の訂正」で収まるものでないことは明らかであり、当該箇所を削除すれば、「発言の趣旨」は不明となる。したがって、発言の削除が「参議院規則」第158条に違反することは明らかである。
削除前の発言は決裁文書で残されるが公開されない
今日、参議院事務局文書課にかけた電話の最後で、こんなやりとりをした。
醍 醐「委員会議事録も公文書と考えてよいか?」
(しばらく間をおいて)
参議院「そう考えている」
醍 醐「では、削除前(元)の発言はどこに残るのか?」
参議院「決裁文書に残る」
醍 醐「その決裁文書は情報公開の対象となるのか?」
参議院「非公開としている」
醍 醐「不開示理由のうちのどれに該当するのか?」
参議院「そこまでここで説明できない」
醍 醐「決裁文書も公開されないなら議事録から削除された暴言は国民の目に触れる機会がなくなる」
参議院「録画はある」
醍 醐「しかし、それでは『公文書管理法』が定めた文書主義を遵守することにならない」
公文書としての議事録は国民共有の知的資源であり、国民の知る権利をかなえる公器であって、政党・政治家が身勝手に手を加えることができる私物ではない。この意味で、議事録の改ざんは国民の知る権利を冒涜する不当行為である。
……… 以上引用 ………
森友決裁文書「改竄問題」に関する和田政宗の質問は大きな話題となった。自民党議員の質の低下ここに極まれりという、格好の見本としてである。幇間(たいこもち)さながらの政権へのへつらい・ゴマすり。そして、居丈高に文書改竄の責任を理財局長以下官僚に押しつけようという露骨な意図が見え透いた、聞くに堪えない質問。
恥ずかしげもなく、強きを助けてゴマを摺り、弱きをいじめる。その体質を見せつけたもの。記念碑的質問として、しっかり記録に残しておくべきが、問題箇所削除とは、重ねての「改竄問題」である。
3月19日(月)の参院予算委員会の森友問題の集中審議における和田政宗と太田充理財局長とのやり取り。話題となった部分の「改ざん前」の問題個所は以下のとおりだ。参議院の職員が醍醐さんに語ったとおり、「録画はある」のだから、起こすことは可能なのだ。
▼和田政宗
これ、何にも調査していないですよね、これ。調査、本当にこれやっているんですか、もう答弁全然最初から変わっていないじゃないですか、これ。
この書換えに関して、安倍総理の、「私や妻が国有地払下げに関わっていたのであれば総理大臣も国会議員も辞める」という発言について、この発言があったから財務省の官僚がそんたくして書換えをやった、不用意だったと言っている人や一部のメディアがありますけれども、これはとてもおかしな話でありまして、やましいことがあれば国会議員を辞めるという決意は、これ政治家として皆が肝に銘じておかなくてはならないことでありまして、これだけの気概を持った政治家がどれだけいるでしょうか。その覚悟が褒められるなら分かりますけれども、批判される意味が分かりません。
政治家は身を賭して政治を行う、こうした決意が批判されるなら、政治はそうした覚悟のない、もう極めて甘っちょろいものになってしまいます。
そこで、財務省に聞きますが、麻生財務大臣は、書換えにこの総理発言の影響はないというふうに答弁をしているのに、先週金曜日に太田理財局長は、首相や大臣も答弁がある、政府全体の答弁は気にしていたと思うと答弁をしています。麻生財務大臣は財務省が作った答弁要領を基に答弁しているのに、一方で太田理財局長は矛盾したことを言う。佐川前理財局長の答弁矛盾から書換えが起こったのに、まだこうしたことをやっているわけです。
太田理財局長、この答弁について説明してください
△太田理財局長
基本的に、今回のことは国会の答弁を気にして、そのことをということで申し上げました。それは、基本的には佐川局長の答弁が主ですけれども、じゃ、総理大臣なり大臣なり、政府の答弁は気にしていないというふうに言えるほどの材料は持ち合わせておりません。
(略)
▼和田政宗
(略)
まさかとは思いますけれども、太田理財局長は、民主党政権時代の野田総理の秘書官も務めておまして、増税派だから、アベノミクスを潰すために、安倍政権をおとしめるために意図的に変な答弁しているんじゃないですか、どうですか。
△太田理財局長
お答えを申し上げます。私は、公務員として、お仕えした方に一生懸命お仕えするのが仕事なので、それを言われると、さすがに幾ら何でも、そんなつもりは全くありません。それは幾ら何でも、それは幾ら何でも御容赦ください。
**************************************************************************
太田理財局長の最後の答弁は、悲鳴である。
「それを言われると、さすがに幾ら何でも、そんなつもりは全くありません。それは幾ら何でも、それは幾ら何でも御容赦ください。」とは、言葉を補えば、
「それは言ってはならないことでしょう。それを言われると、私だって腹が立つ。真面目に仕事をしている官僚全体に対する侮辱じゃないですか。さすがに幾ら何でも、ことさらに安倍政権を貶めるなんて、そんなつもりは全くありません。にもかかわらず、それは幾ら何でも酷い言いぐさではありませんか。それは幾ら何でもあり得ぬことの押しつけですから、そんな質問はせぬよう御容赦ください。」
恐らくは、それに続けて、「国会議員の立場を笠に着て、権高に弱い立場にある官僚を苛めおって、それがまともな人間のやることか」と言いたいところを我慢して呑み込んだのだろう。
この和田政宗質問は、共産党小池書記局長から「恐喝的な質問で言語道断」といわれただけでなく、その低劣さは麻生太郎財務相によっても、裏書きされた。翌日(3月20日)の参院予算委員会で、麻生は「少なくとも、その種のレベルの低い質問というのはいかがなものかというのは、軽蔑はします」と言っている。せっかくヨイショして、あからさまに軽蔑されたのだ。
まだ3月だが、「それは幾ら何でも、それは幾ら何でも御容赦ください。」は、今年(18年)の流行語大賞ものだ。受賞者は、もちろん理財局長ではない。こんなセリフを言わせた和田政宗でなければならない。アベを支える者の低劣さを表現したことにおいて称賛に値するからだ。**************************************************************************
これも拡散希望メールの転載
■今すぐ、参議院へ抗議の意見発信を!■
まだ議事録は確定していません。
この週末に「議事録改ざんは許されない」「元の発言を残せ」の意見を発信、
発送下さい。
参議院宛て 意見・質問
電話:03?3581?3100 (平日の午前9時から午後5時)
郵送:〒100?0014
東京都千代田区永田町1?7?1 参議院広報課
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(添付ファイルは送れませんのでご注意ください。)
(2018年3月24日)
本日、盛岡地裁にて、「浜の一揆」訴訟の判決言い渡し。残念ながら、思いもかけない「完敗」である。裁判所構内の石割り桜、蕾も堅く開花は遠かった。
事案は、「サケ」「刺し網」許可申請を不許可とした岩手県知事の行政処分に対する取消請求訴訟である。判決は、訴訟の形式面では、原告側の言い分をほぼ全面的に認めた。被告が「そのような許可の制度は想定されていない」とした、原告らの「年間漁獲量を年間10トンに限定した」「サケ」「刺し網」漁業許可申請を適法なものと認めた。つまり、門前払いとはせずに、適法な訴えとして行政訴訟(取消請求訴訟)の土俵には乗っけたのだ。
その上で、裁判所は、本件申請を不許可とする実質的理由が認められるとして、取消請求を棄却した。
固定式刺し網漁業によるサケの採捕を禁止することについては,
(1) 漁業調整上の必要性が認められる。
(2) サケ資源の保護培養上の必要性も認められる。
というのだ。
到底納得しがたく、原告らとともに控訴審を闘う決意だが、本日の感想のいくつかを述べておきたい。
原告らは「浜の一揆」の心意気でこの訴訟を提起した。このネーミングは、幕末の南部三閉伊一揆を意識したものである。三閉伊一揆は、「弘化の一揆」と「嘉永の一揆」の2度の蜂起からなる。「弘化の一揆」は大きな成果を上げて収束したかに見えたが、やがて南部藩は、一揆衆への約束を反故にする。弘化の一揆を「失敗」と総括した農民たちが、再度結集し作戦を練り上げて7年後に「仙台藩への強訴」を敢行し、今度は一揆の犠牲者を出すことなく、49か条の要求のほとんどを実現させたという。いわば、「弘化の失敗を嘉永で挽回した」のだ。
また、思い出す。私は、岩手靖国訴訟を担当して盛岡地裁で敗訴した。「最悪にして最低」の判決だった。あの敗訴判決には足が震える思いをした。その後、2年を経て、仙台高裁で「天皇や内閣総理大臣の靖国神社公式参拝は違憲」という、実質勝訴の判決を得た。「盛岡の仇を仙台で討った」のだ。
あのときもそうだったが、幸いにも、原告らが代理人の無念と失意を慰めて意気軒昂である。再び、「盛岡の仇を仙台で返したい」と思う。
「弘化の一揆」の指導者として知られるのが、浜岩泉村牛切の牛方・弥五兵衛(またの名を万六)。彼は、老齢の身を押して三閉伊一帯を再度の蜂起のために単身オルグして歩く途上で、身元が割れて捕らえられる。藩都盛岡の牢内で、法によらず斬首されたと伝えられている。「嘉永の一揆」の指導者として知られるのが、田野畑村の太助。彼は明治期になって、維新政府に再び蜂起を試みて失敗。新政府に拷問され、自ら命を断っている。
文字どおりに命を懸けた、彼ら一揆指導者の決意の凄まじさに、たじろがざるを得ない。原告たちは、まさしくその子孫である。今の時代、裁判に負けても命に関わることはないが、「浜の一揆」と言うにふさわしい、気合いのはいった控訴審にしなくてはならない。
(2018年3月23日)
ことごとしく言うほどのことではないが、教育と教育行政とはまったく異質のものである。両者は異質のものとして厳格な区分が必要で、教育行政による教育への支配や介入は厳に慎まなければならない。
教育とは真理あるいは真実と確認された知の体系を次代に伝達し承継するという優れて文化的な営為である。また、その知を獲得して国家や社会を建設する主体となる人格を育てる崇高な営為でもある。
教育行政とは、国民の教育を受ける権利を実現するにふさわしい、教育条件の整備をその任務とする。予算を獲得し、校舎を建設し、教員を採用し、しかるべく配置し、給与を支払い…、教育が成り立つよう外的な条件を整備することであって、教育そのものではない。学生・生徒に何をどのように教えるかという教育そのものには、本来関与しない。むしろ関与してはならない。
これもことごとしく言うほどのことではないが、学校教育の主体は飽くまで学校である。学校とは、校長をリーダーとする教育専門家としての教員集団を指す。そして、教育行政の主体は各自治体に設置されている教育委員会であって文科省ではない。文科省は教育委員会に対して、限定された範囲での指導助言ができないではないが、つとめて抑制的でなくてはならない。
ところで、「教育と教育行政は異なる」「教育行政は教育を不当に支配してはならない」。これは当然のこととして世に受け入れられているだろうか。
「農林水産業と農水行政は異なる」「薬事業と薬事行政は別物である」「食品業と食品規制行政とを混同してはならない」「原子力発電に対し規制行政は独立していなければならない」などは、あまりにも当たり前のことだろう。ところが、教育と教育行政の関係となると、「あまりにも当然」ではない現実がある。
文科省は、2階から平場にある教育現場を見下ろして、教育内容に指図し介入することができると考えている節がある。彼らの目の下、中2階の位置に教育委員会があり、現場への指図は、ここを通じてやれるものとの思い上がりがあるようなのだ。
また、この2階は、3階に位置する政権や政権与党からは監視を受け、介入を許してもいる。教育委員会も、文科省も、露骨な政治的介入に対しては、本来防波堤にならなければならない。
戦前にはこんな議論はなかった。国家が教育を支配した。天皇制国家は臣民支配の無限の徹底を求めて、教育を膝下に置いたのだ。教育は全て天皇の勅令に基づいて行われた。天皇制権力の望むままに、「臣民」に対して、「天皇は神の子孫であり、現人神である」「天皇のために命を捧げることこそ、臣民の生くべき道」と、荒唐無稽の限りを吹き込んだ。壮大な一億総マインドコントロールを試み、半ば成功したのだ。
戦後の教育は、その反省から再出発した。「今回の敗戦を招いた原因はせんじ詰めれば教育の誤りにあった」(幣原喜重郎元首相)という問題意識が、戦後教育改革の原点となった。これが「戦後レジーム」だ。アベが脱却を図ろうというのは、このことなのだ。
戦前教育の基本だった大日本帝国憲法と教育勅語のセットが、日本国憲法と教育基本法に換えられた。教育勅語は参院では「失効」、衆院では「排除」の決議がなされた。
1947年制定の教育基本法の眼目は、その10条「教育は、不当な支配に服することなく」という、教育の国家支配からの独立にあった。同条文の文言は、「どこからの不当な支配」と明記されてはいないが、教育行政からの支配を含むものであることは明らかである。
第1次安倍政権下の2006年、教育基本法が「改正」された。しかし、47年教育基本法10条の「不当な支配に服することなく」の文言は、かろうじて「改正」法16条に残された。
今必要なことは、公権力や政治勢力による教育に対する支配・介入に、国民が監視の目を光らせなければならないと自覚することだ。今回の前川喜平講演に対する、政権与党と文科省の執拗で高飛車な圧力は、目に余る。徹底して糺弾しなければならない。
安倍政権下、民主主義が劣化し、貶められている。政権や与党そして教育行政の支配から、教育を独立させることの重要性を再認識したいものと思う。安倍内閣と自民党に教育に手を出させてはならない。赤池誠章、池田佳隆などというタチの悪い時代錯誤議員は、選挙で落とさねばならない。
この間雲隠れしていた池田佳隆(愛知3区・安倍チルドレン)が本日(3月22日)、2分足らずの間だけだが、カメラの前に立ったという。そこで池田が語ったことが次のとおりと紹介されている。
「今回、問題となりました(前川氏の)授業が、果たして法令に準拠した授業であったのかどうか、地元の皆様方からのご懸念があれば、その大切なお声を国にしっかりとお届けすること、地元の皆様方の大きなお力で今こうして国会議員を務めさせていただいている私にとりましては、当然、大切な仕事であると常々考えてまいりました。今回、その信念に従ってお問い合わせをさせていただいた次第であります。」
池田は、こう言っているのだ。
「選挙民が、前川氏を不快に思い、選挙民が文科省に問合せを要求しているから、それにしたがったまでだ。これが民主主義だ。どこが間違っているのか」
目を覆わんばかりの議員の劣化である。選挙民への責任転嫁。これは民主主義ではない。民主主義とは理性に基づく政治だ。議員たる者、違法は糺さなければならない。違法を要求する選挙民を説得しなければならない。教育の何たるかを弁えず、戦後の教育法体系の転換を理解しない愚かな議員。責任転嫁された人々を含め、選挙民はこんな程度の議員を選出したことを恥じなければならない。
(2018年3月22日)
昨日(3月20日)の毎日朝刊トップ記事は衝撃だった。
「文部科学省が前川喜平・前事務次官の授業内容を報告するよう名古屋市教育委員会に求める前、文科省に照会したのは自民党文科部会長代理の池田佳隆衆院議員(比例東海)で、市教委への質問項目の添削もしていたことが取材で明らかになった。文科部会長を務める赤池誠章参院議員(比例代表)が文科省に照会していたことも判明した。」
これは問題が大きい。これまでは、「文科省の不祥事」だった。これで一気に、「政権与党と安倍政権の体質露呈事件」となった。この池田佳隆。安倍政権を支える安倍チルドレンの一人だという。
この露骨な教育への権力的介入に、野党が合同ヒアリングでスクラムを崩さない。前川さんを招いた中学校長、地元名古屋市教委も原則を貫いて清々しい。中日新聞もよく頑張っている。
そしても何よりも、前川さんご本人の姿勢が頼もしい。
「文部科学省の前川喜平・前事務次官は21日、長野市内で講演。自民党国会議員の指摘を受けて文科省が自身の授業内容を名古屋市教委にメールで報告を求めた問題について「メールは、威嚇効果を狙ったともとれる内容で前代未聞だ。『政治家が関与しているのでは』と思ったら、やはりそうだった。文科省も情けない。断れなかったとしても、うまくかわすべきだった」と述べた。」(毎日)
かつては「面従腹背」だったという前川さんだが、いまは政権と自民党を相手に、一歩も引かない姿勢が小気味よい。しかも、悲壮感なく、大言壮語せず、落ちついて誰もが納得せざるを得ない原則論を語るところが素晴らしい。
前川コメントの中で、「『政治家が関与しているのでは』と思ったら、やはりそうだった」という点が印象的だ。元事務次官の長い官僚経験が、(「官僚だけでやれることではない」)「政治家が関与しているのでは」との判断に至らせたのだ。背後関係発覚後の「やはりそうだった」という、この「やはり」が重い。
ひるがえって、森友問題が同じ構図である。こちらは、財務省理財局の国有地9割引不当廉売だから、文科省のメールよりは格段にその違法が分かり易い。この極端な値引きが違法であるだけでなく、その決裁関連文書の書き換えがこれに輪をかけた重大な違法である。国民誰もが、「官僚だけでやれることではない」「官邸か有力政治家が関与しているにちがいない」と思っているのだが、いまだにスッキリと「やはりそうだった」と言えないもどかしさが残っている。
また、前事務次官が「メールは、威嚇効果を狙った(ともとれる)内容」と言っていることを噛みしめなければならない。
「命令も禁止もしていない」「質問しただけだ」「何の問題もない」は、失当も甚だしい。権力をもつ者と、権力に従わざるを得ない弱い立場にあるものとの関係で問題は生じる。権力者の意向を忖度して、その意向のとおりに動かざるを得ないのが、弱い立場にあるということである。権力をもつ者が、含意のある質問をしただけで、命令や禁止の効果を持つことは当然なのだ。これが権力の側から見た威嚇効果であり、弱い立場にある者の萎縮効果である。
この不当な政治介入は自民党文科部会の組織的な教育内容への「不当な支配」である点で深刻な問題である。しかも、文科省メールで誹謗された前事務次官は、安倍首相の腹心の友が理事長を務める学校法人加計学園の獣医学部新設に関して、「国家戦略特区での学部新設を認める過程で行政がゆがめられた」と明言した人物である。
衆目の一致するところ、これは政権の腹いせとしての「見せしめ」を、文科省のメールで行っているということなのだ。これも、安倍政権とこれを支える与党の質の低下を示して余りある事件だと言ってよい。
前川さん、政権に負けるな。自民党に負けるな。不正に負けるな。教育の何たるかを知らない野蛮な行為に負けるな。真っ当な教育行政回復のために、負けてはならない。
今、野党は一丸となって前川さん、あなたを応援している。メディアもそうだ。そして何よりも、民意があなたを支えている。これで、内閣支持率は、さらに確実に低下する。目指せ支持率20%。
(2018年3月21日)
不当な支配
本日(3月20日)、議員会館において「森友文書改ざん疑惑を徹底追及する! 緊急院院内集会」。各議員でこの問題を追及中の野党各党議員が発言。各議員から、「6野党の共闘」が力説され、各議員の怒りのほとばしりが伝わってきた。そのボルテージが高かった。「安倍一強政治は、ほとんど独裁に近い」「だから、腐敗しきっている」「議会制民主主義の危機と言わざるを得ない」「安倍政権を倒して、議会制民主主義を救おう」というもの。
また、「これまで1年間の審議においては、改竄された資料にしたがって説明を受けてきた」「結局国会が欺され続けてきた」「改ざん前の原資料を全部出しますと言ったあとも欺し続けた」「ようやく3月12日に改竄14点の文書が出てきたが、その後も小出しに出てくる」「これがホンモノの原決裁文書なのか」「まだ隠しているのではないか」「安倍政権のやることは、もう信用できない」とも。
野党議員の一人はこう言った。
「昨年10月の総選挙はいったい何だったのか。安倍政権は国民全てを欺して票と議席を掠めとったのではないか」「改憲勢力の3分の2議席の獲得は、国民を欺して手に入れたもの。選挙のやり直しが必要だ」
まったく、もっともなご主張。
事前のお知らせでは、「公文書の書き換え(改ざん)はどのような罪なのか?」も徹底討論します」となっていた。この点については、おおよそ、下記のブログ記事に掲載した。
「森友・決裁文書」の改竄は犯罪である。
https://article9.jp/wordpress/?p=10007
これに多少の付言をしておきたい。
☆改竄を犯罪と確認することの意味
「森友・加計問題の幕引きを許さぬ会」有志は、
? 2017年10月16日、近畿財務局職員1名を背任で、佐川宣寿理財局長(当時)を証拠隠滅で、東京地検に告発した。被告発人の職員は、近畿財務局と森友学園との国有地売買価格交渉経過の音声データの出現によって発言内容の特定が可能となった者である。
? 同年11月22日には、本件国有地の瑕疵担保責任の正確な理解に基づいてゴミ処理費用相当額の値引きの必要のないことを指摘して、不当な低価額の売却をした近畿財務局長(当時)を背任で東京地検に告発した。
☆その当時、森友問題に関する国会での責任追及が必ずしも十分な成果を上げ得ない状況において、各告発は捜査機関に対してだけでなく、世論や野党に対しても、当該各行為が犯罪に当たるものであることの確固たる根拠を提供することによって、行政や政権の責任追及への寄与を目的とするものであった。
☆いま、3月12日に公表された、決裁文書14点についての300個所に及ぶ改竄についても、上記各告発と同様に、その犯罪性を明確にすることが必要と思われる。
☆もっとも、告発には慎重さが要求される。国会での政治責任追及とは異なり、告発は厳密に刑事責任に限定したものとしかならない。また、追及を司法権力に委ねることとなり、捜査は秘密裡に行われる。可能であれば、世論を背景にした市民運動と、国会での野党による責任追及が望ましい。
☆当該行為が犯罪に当たるという確信を世論に提供する手段として、告発は有用性をもつが、「告発を受けて捜査中」「告発を受けた以上は刑事司法での解決を」という答弁拒否の口実を与えぬよう配慮が必要となろう。
☆本件各決裁文書改竄の犯罪性認識は、その動機の重大性を推認させるものとして重要である。犯罪として訴追を受けることのリスクを覚悟してまでせざるを得なかった、改竄の必要性はどこにあったのか。
☆原決裁文書14点300個所の改竄(削除)個所は、次の内容に集約される。
(1) 安倍昭恵関与記載の削除
(2) 本件国有地貸付⇒売却の「特例」性記述の削除
(3) 事前の価格交渉の存在自体の削除
(4) 政治家関与事実の削除
☆上記(4)はさしたる重要性を持たない。
上記(3)削除の主たる理由は、財政法第9条にあると思われる。
「国の財産は、…適正な対価なくしてこれを譲渡してはならない。」
民対民の売買は、交渉で価格が決まるが、国有財産の売却価格を交渉で決めてはならない。客観的に決まる「適正対価」でなくてはならない。
☆残る理由(1)(2)は、「安倍昭恵関与あったから、本件を特例とした」ということになる。(3)も、「だから学園側の言い分に耳を傾けざるを得なかった」となる。
☆つまり、官僚が犯罪を犯していることを認識し、訴追のリスクを覚悟してなお、改竄(削除)しなければならなかったのは、「安倍昭恵の関与があったから、特例として本件国有財産を廉売した」という事実の隠蔽にあったのだ。その隠蔽工作は、忖度の域を超えて、指示や強制の存在を推認させる。
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本日のメインの企画・上脇博之(神戸学院大学教授)講演「森友文書改ざん疑惑(=事件)をどう見るか」のレジメは以下のとおり。
はじめに
・朝日新聞がスクープ報道(今月2日朝刊、3日朝刊)。
・財務省は12日に「書き換え」を認め、78頁に及ぶ調査結果を公表。14の決裁文書で変更部分は290カ所。2017年2月下旬から4月までの期間で「書き換え」が行われた。
◆国の説明責任と情報保存義務
・国民主権、知る権利が保障されている下では、国家機関は主権者国民に情報を公開し、説明する責任あり。
・そのために国家機関には収集情報を記録・保存することが義務付けられる必要がある
1.説明責任の重要性の例としての森友学園事件(財政法違反の国有地売払事件)
?会計検査院の検査
・内閣は、国会・国民に対し国の財政状況の報告義務あり(第91条)。
・国の収入支出の決算は会計検査院が検査し、内閣はその検査報告とともに国会への提出義務(第90条第1項)。
?国有地、財政法および会計検査院法
・国の財産は、「適正な対価」なしに譲渡も貸し付けもしてはならない(財政法第9条第1項)。
・「適正な対価」については、国(財務省)が国民・国会・会計検査院に対し説明する責任がある。
・会計検査院が検査を受けるものに帳簿・書類・資料の報告の提出を求め、関係者に質問・出頭を求めた場合、それらの求めを受けたものは、これに応じなければならない(会計検査院法第26条)。
これに応じない場合には、会計検査院は懲戒の処分を要求できる(会計検査院法第31条第2項)。
?財務省の森友学園への国有地売払は財政法違反
・2016年6月、財務省は、学校法人「森友学園」に対し、国有地の鑑定価格9億5600万円からゴミ(1万9500トン)の撤去費用を含め8億2200万円を差し引いて1億3400万円で売却。
・会計検査院は2017年11月、財務省の森友学園への国有地売払につき8億1900万円の値引きしたことについて「適切とは認められない」、値引きの「根拠が不十分」と指摘した報告。
・2016年3月30日に国と森友学園の協議を録音した音声データでは学園側が「3メートルより下からはそんなにたくさん出てきていない」と発言し国側の職員が「言い方としては混在と。9メートルまでの範囲で」と発言。
・地中ごみを試掘した業者が、森友学園と財務省近畿財務局からの働きかけがあり、ごみは実際より深くにあると見せかけた虚偽の報告書を作成した、と大阪地検特捜部の調べに証言している模様。
2.財務省の決裁文書改ざん事件
?公文書の作成・保存は民主主義の根幹・・・公文書等の管理に関する法律(公文書管理法)
(目的)第1条 この法律は、国及び独立行政法人等の諸活動や歴史的事実の記録である公文書等が、健全な民主主義の根幹を支える国民共有の知的資源として、主権者である国民が主体的に利用し得るものであることにかんがみ、国民主権の理念にのっとり、公文書等の管理に関する基本的事項を定めること等により、行政文書等の適正な管理、歴史公文書等の適切な保存及び利用等を図り、もって行政が適正かつ効率的に運営されるようにするとともに、国及び独立行政法人等の有するその諸活動を現在及び将来の国民に説明する責務が全うされるようにすることを目的とする。
?民主主義国家の行政として相応しい近畿財務局の公文書記載
?財務省の改ざんは民主主義の実質的否定(民主主義の危機)
?安倍首相・官房長官・麻生財務大臣・財務省・国土交通省の公表遅れ
・国土交通省は、今月5日、”改ざん”前の財務省作成の保管文書の存在を把握し、杉田官房副長官と財務省に報告し、その写しを財務省に提出し、杉田副長官は6日に安倍首相と菅義偉官房長官に伝えた。しかし、そのことはマスコミに公表されず、隠蔽され続けた。
・財務省は、8日、「現在、近畿財務局にあるコピーはこれが全て」として”改ざん”後の文書を国会に開示。
・安倍首相も麻生財務大臣も”改ざん”前の文書の存在があると報告を受けたのは、「11日だった」と説明。
・公文書の重要性を踏まえれば、未確認でも、そのことを国民・国会に報告しなかったこと自体が隠蔽。
・首相らが、すぐに”改ざん”を認め公表しなかったのは、元々”改ざん”を知っていたからではないか。
3.”改ざん”による隠蔽の理由
?安倍晋三夫婦は森友学園側の者(それも内閣総理大臣夫婦)
・籠池理事長について安倍首相は「いわば私の考え方に非常に共鳴している方で、その方から『小学校をつくりたいので、安倍晋三小学校にしたい』という話がございましたが、私はそこでお断りをしているんですね。」「あの、事実というのはですね、うちの妻が名誉校長になっていることについては、承知をしておりますし、妻からですね、この、森友学園ですか? の『先生の教育に対する熱意は素晴らしい』という話は聞いております」と答弁(2017年2月17日の衆院予算委員会)。
・森友学園で3回も講演し「瑞穂の國記念小学院」の名誉校長を引き受けた安倍昭恵夫人は安倍首相の分身・・・夫人付き職員が計5名も。
・「開成小学校設置趣意書」には、日本国憲法に適合する「こども権利条約・男女共同参画・雇用均等法」などを「日本人の品性をおとしめ世界超一流の教育をわざわざ低下せしめた」と批判し、さらに戦前の「富国強兵的考え」や「教育勅語」を高く評価する記述になっていて、森友学園の塚本幼稚園の園児の「受け皿が必要」だと記載。つまり、実質的には安倍晋三記念小学院!
?改ざんによる下記の削除
・<打合せの際、「本年4月25日、安倍昭恵総理夫人を現地に案内し、夫人からは『いい土地ですから前に進めてください』とのお言葉をいただいた」との発言あり(森友学園籠池理事長と夫人が現地の前で並んで写っている写真を提示)>
・<記事の中で、安倍首相夫人が森友学園に訪問した際に、学園の教育方針に感涙した旨が記載される>
・<国会においては、日本会議と連携する組織として超党派による「日本会議国会議員懇談会」が平成9年5月に設立され、現在、役員には特別顧問として麻生太郎財務大臣、会長に平沼赳夫議員、副会長に安倍晋三総理らが就任>
?改ざんによる隠蔽で一番助かったのは安倍首相ら
安倍首相は「私や妻がこの認可あるいは国有地払い下げに、もちろん事務所も含めて、一切関わってないということは明確にさせていただきたいと思います。もし関わっていたんであればですね、これはもう、私は総理大臣を辞めるということでありますから、これははっきりと申し上げたいと、このように思います」と答弁(2017年2月17日の衆院予算委員会)・・・財務省への隠蔽メッセエージではなかったか。
・佐川・理財局長は「学園側との交渉記録は廃棄した」と国会答弁(2017年2月24日)・・・首相官邸と調整した結果。
・安倍政権が続くと、公文書の廃棄・改ざんも続き、今後、不都合な記録がなされなくおそれあり!
(2018年3月20日)
私が世論です。老若を包摂し両性を具有。日本国民だけでなく在日外国人も含む、この国土に暮らす人びとの意見の総和。それが私なのです。
いつも憲法君を仰ぎ見ていますが、あれは堅物に過ぎてあんまり付き合い易い相手ではありません。70余年前、憲法君誕生の時には、二人は蜜月の関係だったんですが、今は敬して遠ざける関係。私と憲法君と、意見が一致することもあれば、そうでないことも。
そりゃあ、憲法君はとても立派で毅然としていますよ。それに較べて私の方は立派というわけにはいかない。時に激し、時に臆し。過度に持ち上げられたり、過度に貶められたり。
よく言われるんですよ。おまえはつかみどころがない。主体性・自律性がなく、いつも誰かに操作されて、フワフワしているってね。でも、それはしょうがない。所詮私の性格はそんなもんですよ。そんなものではありますが、やっぱり私だって、目も耳も嗅覚ももっている。ものごとを見据え考えて判断する能力もあるし、ものごとの本質を見抜く力だってある。
このところの各紙の世論調査の結果が私の能力をよく示しているって、そう思うんですよ。今回に限っては、私、世論調査の結果に少々鼻が高い。
各報道機関による最新の内閣支持率を見てください。3月16(金)?18(日)の調査結果を発表したのが、朝日・毎日・共同・NNN(日テレ)の4社。結果は下記(%)のとおり。いずれも、大幅に支持が減って、不支持が増え、不支持が支持を大きく凌駕しています。NNN(日テレ)の調査などは、不支持が支持を20%余も上回っています。これはインパクトが強い。
朝日新聞 支持 31(前回44)?13
不支持48(前回37)+11
毎日新聞 支持 33(45)?12
不支持47(32)+15
共同通信 支持 38.7(48.1)?9.4
不支持48.2(39.0)+9.2
NNN 支持 30.3(44.0)?13.7
不支持53.0(37.3)+15.7
問題は、この内閣支持率急落の原因となった森友問題の本質について、私がどう見ているか、私が誰に責任があると考えているかです。当然のことながら、佐川氏ではない。意外なことに麻生財務省でもない。やはり、責任の所在は首相夫妻にあると見抜いていることが重要なのです。
たとえば朝日。
《学校法人・森友学園との国有地取引に関する決裁文書の改ざんについて、安倍首相の責任の有無・程度については、「大いに責任がある」42%が最も多く、「ある程度責任がある」40%、「あまり責任はない」10%、「まったく責任はない」4%と続いた。「大いに」と「ある程度」を合わせ、「責任がある」は82%に上っている。
この問題の解明のため、安倍首相の妻昭恵氏が国会で説明する必要があるかどうかについては、「必要がある」が65%で、前回2月調査の57%から増加。「必要はない」は27%(前回調査33%)だった。
麻生太郎財務相が今回の責任をとって大臣を辞任すべきかについては、「辞任すべきだ」50%、「辞任する必要はない」は36%。麻生氏が改ざんについて「理財局の一部の職員によって行われた。最終責任者は佐川(宣寿(のぶひさ)・前理財局長)だ」と説明していることに「納得できない」は75%に上り、「納得できる」は13%にとどまった。》
また、たとえばNNN。
《森友学園に関わる決裁文書の改ざんがなぜ行われたと思うかについては、「政治家から何らかの働きかけがあった」が40.1%、「政治家を忖度(そんたく)した」が23.6%などとなっている。
また、麻生財務相が辞任する必要があるかという問いには、「必要があると思う」が60.8%に上った。安倍首相の昭恵夫人の証人喚問については「必要だと思う」と答えた人が65.2%に達した。》
官僚限りあるいは財務省限りで尻尾を切っただけでは、私は納得しないということです。まずは佐川前理財局長を国会に招致して宣誓の上証人として尋問し、その後に首相夫人を尋問することで真相を徹底して明らかにし、しかる後に麻生財務相、あるいは安倍首相自身に、きちんと責任を取ってもらいたい。これが、私の意見なのです。
「信なくば立たず」というではありませんか。私を無視しての政治は成立しません。私は、一見おとなしいように見られがちで、そのために安倍首相や麻生財務大臣兼副首相などからは、軽んじられていますが、一旦怒ると結構力はありますし、権力者には恐い存在なのですよ。
私がないがしろにされるときには、憲法君と手を組んで、あいともに内閣打倒などに立ち上がることを考えざるをえません。そのときは、現政権だけでなく、保守政治そのものが壊れることにもなりかねません。
安倍首相周辺には、よくよくそのあたりをお考えいただきたいと思います。
(2018年3月19日)
辛淑玉さんが、ジャーナリスト石井孝明を被告として、名誉毀損損害賠償請求訴訟を提起した。一昨日(3月16日)のこと。名誉毀損言論の媒体はツイッター、請求金額は550万円。
BPO(放送倫理・番組向上機構)の放送人権委員会が、DHCテレビ制作のデマとヘイトの情報番組「ニュース女子」放映に関して、辛さんの名誉を毀損する人権侵害が成立すると認めて、TOKYO MXに対して再発防止の勧告をおこなったのが、3月8日。ところが、その後も辛さんに対する誹謗中傷ツイッターが絶えない。そこで、代表格の石井孝明への提訴となったとのこと。
朝日の報道では、「訴状によると、辛氏は2016年11月?18年2月、ツイッターで多数回にわたり、石井氏から名指しで「縁もゆかりもない、沖縄で、総連の裏金使って訪問して踊っている」「総連?の使う工作員」などと言及された。17年10月には、ツイッターで「日本人への罵声を繰り返す外国人辛淑玉」「極右が焼き討ちしかねない」などと発言され、安心して生活する権利を侵害されたと主張している。」
訴訟における請求原因は、「被告(石井)は、その言論(ツイッター)において、『原告(辛)は、北朝鮮など外国政府から指示や資金提供を受けて、日本国内で違法な諜報活動をおこなうスパイやテロリストである』と事実を摘示して、原告の社会的評価を低下させた。」ということになる。
被告は抗弁において、この言論の公共性、公益性、そして真実性(ないしは相当性)を立証しなければならない。衆目の一致するところ、それは無理な話しだ。石井の敗訴は火を見るより明らかといってよい。
石井は、身をもって、「デマやヘイトの言論には、損害賠償の責任が伴う」という実例を示すことになる。そのことを通じて、ネトウヨ諸君に、「愚かな言論は慎むべし」と教訓を垂れる反面教師の役割を果たすことになる。
私は、この訴訟の成り行きを特別に注目せざるを得ない。その理由は、石井が「私はこの訴訟をいわゆるスラップ訴訟であると認識しています」と公言したからだ。苦し紛れにもせよ、何と愚かなことを。
これまではDHC・吉田嘉明に言ってきた言葉を、石井にも言っておかなければならない。
「誰にも、デマやヘイトを語る権利はない」「言論の自由の美名で、デマやヘイトを語ることは許されない」「デマやヘイトで他人を傷つければ、民事刑事の法的責任が問われる」
石井の如く「デマやヘイトで他人の人格を傷つければ、民事訴訟において損害賠償を請求される」のは当然のことで、不当に毀損された名誉を回復するためのこの提訴をスラップとは言わない。
スラップとは、典型的にはDHC・吉田嘉明が私(澤藤)にしたような、正当な言論を嫌って、正当な言論の萎縮を狙う、恫喝的な提訴をいう。自分の権利救済を目的とするよりは、自分への批判の言論を封殺することを目的とした提訴。多くの場合、高額損害賠償(私の場合は6000万円)をふっかけることで、恫喝の効果を狙う。辛対石井の訴訟は、スラップとはまったく様相を異にしているではないか。
以下は、下記URLで、石井自身が述べている提訴を受けての「弁明」である。
http://blog.livedoor.jp/ishiitakaaki3/archives/7759599.html分かりにくいが、小見出しもそのままに引用する
「訴状が到着してから、詳細を言及したいと思います。
目的
私はこの訴訟をいわゆるスラップ訴訟であると認識しています。
辛淑玉氏は、自分が日本に差別されたという主張、外国の力を使う沖縄独立を主張を繰り返し、在日外国人でありながら日本国内の軍事基地建設の妨害工作を支援してきました。私には人権侵害の意図はなく、彼女のその行動と発言を批判しました。
誹謗について
総連の裏金などの言及をしたとのことですが、詳細は存じませんが、実は1年ほど前に、訴訟提起の前に大半を自発的に削除しており、社会的影響はないと思われます。なぜツイッターという動きの速く、過去の検索をしない短文SNSで1年前の話を蒸し返すのか理解に苦しみます。また国会などでも、山田宏参議院議員が指摘したように北朝鮮関連団体の挺身隊対策協議会と一緒に辛淑玉氏は沖縄問題で動いています。外国人でありながら内政干渉行為を繰り返しています。これは異常な行為です。北朝鮮関係者によって基地妨害工作が行われて居るという、公的な目的の提起のための言及の一環であり、その言葉尻をとらえて攻撃するのは、おかしいと思います。
また彼女を「工作員」など、露骨に述べたものは記憶にありません。」
?また彼は、スリーパーセルの言及について「一種の冗談であり、そもそも外国勢力を利用した沖縄独立を主張する話を批判した論評です。これ以外に記録はありません。これで訴訟を起こすのは理解に苦しみます」などとも言っている。
何ともみっともない、締まらない弁明。自分の言論に責任をもつという気概が微塵もない。「訴訟提起の前に大半を自発的に削除しており、社会的影響はない」「彼女を『工作員』など、露骨に述べたものは記憶にありません」「一種の冗談」では、ジャーナリスト失格だ。ジャーナリストたる者、確固たる事実に基づいて信念にしたがった論評を展開しなければならないのだから。
石井の「辛淑玉氏は、自分が日本に差別されたという主張、外国の力を使う沖縄独立を主張を繰り返し、在日外国人でありながら日本国内の軍事基地建設の妨害工作を支援してきました。私には人権侵害の意図はなく、彼女のその行動と発言を批判しました」との一文は、拙劣ながらもこんな構造だろう。
1 辛淑玉氏は、
?自分が日本に差別されたという主張
?外国の力を使う沖縄独立を主張
を繰り返し、
(辛淑玉氏は、)
?在日外国人でありながら日本国内の軍事基地建設の妨害工作を支援してきました。
2私(石井)には
?(辛に対する)人権侵害の意図はなく、
?彼女のその行動と発言を批判しました。
石井が批判したという「彼女のその行動と発言」とは、
?の行動と、??の発言のことと理解するしかない。
「?自分(辛)が日本に差別されたという主張」
を批判することは、よほどの配慮ない限りヘイトとならざるをえない。
「?外国の力を使う沖縄独立を主張」
というまとめ方が、真実性の立証という高いハードルを乗り越えない限りデマである。
「?在日外国人でありながら日本国内の軍事基地建設の妨害工作を支援してきました。」
という決め付けはデマそのものというほかはない。このことは、BPO人権委員会勧告で明確になっていると言ってよい。
そもそも、これだけ誹謗を重ねる言論をしておいて、
「私(石井)には ?(辛に対する)人権侵害の意図はなく、」
などと開き直ることは無意味である。
「?彼女のその行動と発言を批判」の違法性阻却も免責もあり得ず、石井は謝罪と賠償をしなければならない。
なお、私は石井のことをよく知らない。ウィキペディアの以下の記載を見て、なるほどさもありなんと納得した。こんな程度の人物なのだ。
「漫画、「美味しんぼ」の東日本大震災における原発事故を反原発の視点で描いた「第604話 福島の真実その22」の中で、福島での被曝由来を思わせる鼻血描写に福島差別との批判が集まる中、石井はTwitter上で美味しんぼに対する猛批判を展開した。2014年5月7日、福島県や双葉町が版元である小学館に「風評被害」であると抗議文を送った流れを受け、石井が「(作者である)雁屋哲をリンチしましょう」とツイートしたところ一転、自身も猛批判にさらされた。批判を受けた石井はリンチの語感を誤解していたと釈明、当該のツイートを削除した。
Webサイト「agora-web」にて、精神科医の香山リカに対して「精神疾患に罹患している。」「参加している運動が外国政府から資金が提供されている。」「組織暴力団や極左暴力集団と繋がりを有している」などと書き、誹謗中傷や名誉棄損を繰り返していたとして香山が石井を提訴。謝罪文を掲載することを条件として、民事訴訟法第267条に基づく裁判上の和解が2017年2月20日に成立。石井は「私は、このような事実と異なる記事を作成し、「agora-web」上に掲載したことにより、香山リカさんの名誉を不当に傷付けたことについて、心より反省し、謝罪いたします」と自身のブログにて謝罪した。」
要するに、軽率で懲りない人なのだ。
(2018年3月18日)
おや、お久しぶり。珍しくお散歩ですか。
上野の大寒桜は満開と聞きましてね。
大寒桜と陽光はもう見頃ですね。濃い紅色がみごとですよ。待ちかねた春が来たという喜びの色。
昨日の雨で洗われて空がきれいですから、花も柳も、よく映えますな。
まったく。澄んだ青空を背景に、「花は紅、柳は緑」。この上ない日和ですね。
ソメイヨシノはまだ開いていませんが、今日東京の開花宣言だというじゃありませんか。どういうことでしょうかね。
あれは、靖国神社の境内にある標準木の開花で決めるんだそうですよ。
靖国神社とサクラですか。ぱっと咲いて、ぱっと散る。潔く死ぬことを美化するサクラというイメージですな。あまり気持ちのよいものではない。
たまたま、気象庁の手近の場所が靖国だったからと説明されていますがね。ホントのところはどうでしょうか。
そういえば、太平洋戦争での最初の特攻隊が、敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊の4隊でしたな。
「敷島の大和心を人問わば 朝日ににおう山桜花」という例の宣長の歌から採ったネーミングですね。
特攻で確実に死ぬ兵士を、散る桜に例えて、「朝日ににおう山桜花」と美化したわけでしょう。罪の深いことですな。
昔の兵営にはサクラが付きものと聞いていましたが、潔く美しく散れ、という押しつけでしょうかね。
押しつけではないかも知れない。もしかしたら、忖度せよだったかも知れませんな。
兵営にサクラ、靖国にサクラは似つかわしいかも知れない。校舎にさくらはふさわしいんでしょうかね。
明治期、兵制の整備と学制の整備とはほぼ同時に進行しましたが、兵制の方が少し早かった。学校体育などは兵隊の教練を意識的に真似るものだった。校舎のサクラも、兵舎のサクラを真似たものでしょうね。子どもたちは、立派な兵になることを期待されていたんですから。
そういえば、ソメイヨシノの咲くころに、新宿御苑では、安倍さんの観桜会があるそうですよ。招待状が来たという知り合いから聞きました。
えっ? 安倍さんって、話題の昭恵さんの夫のあの安倍さんのことですか。いま、花見をするような余裕がおありなんですかねえ。
夫婦で、参会者に何を語ろうというのでしょうかね。「私たちは少しも悪くない。悪いのは籠池や佐川たちで、私たち夫婦は被害者だ」って。
彼らにこそ潔く散ってもらいたいと思いますね。この件に関わっていたら、総理大臣も議員も辞めると明確におっしゃったんですから。散り際美しくありませんね。
観桜会のころまで、アベザクラは散らずにもつでしょうか。
八重桜の散るころかも知れません。
招待状をよく確認するよう、友人に忠告しておきましょう。「開催日までに内閣総辞職があれば中止」と小さい字で書いてあるかも知れませんから。
もしかしたら、改竄された招待状かもしれませんよ。招待状の日時に行ってみたら、観桜会などはなかったりして。どういうことかと、アベ事務所に問い合わせると、「その招待状は改竄されたものです」なんてね。
しかも、アベ夫妻は、「改竄の事実は存じません。改竄の指示などは一切しておりません」なんてね。
薄汚いね。「花は紅、柳は緑」の鮮やかさとはおよそ無縁な世界の出来事。
アベという膿をしぼって捨てて、美しいきれいな国にしたいものですね。
ではまた。
ご機嫌よろしゅう。
(2018年3月17日)
志ある若手弁護士は、その時代にふさわしい「時代を映す事件」に取り組む。そのような事件の弁護団に飛び込む。かつては、公害事件であったり、薬害救済であったり、大規模消費者被害であったり、情報公開請求訴訟であったり。あるいは、いじめ・体罰、過労死、基地問題、ヘイトスピーチ、天皇の代替わりにともなう政教分離訴訟…などなど。
今それは、まぎれもなく原発訴訟。時代を映す問題としてこれ以上のものはない。文明史的な大事件として、取り組むに値する訴訟事件。
澤藤大河が「ふるさとを返せ 津島原発訴訟」弁護団に参加して事件にどっぷりと浸かっている。ずいぶんと時間も労力も使っているようだ。
同弁護団はホームページを開設している。
http://www.tsushima-genben.com/
「『ふるさとを返せ 津島原発訴訟』は,2011年3月11日の福島第一原発事故に伴う放射能汚染によって「ふるさと」を追われた,浪江町津島地区の住民による集団訴訟です。
津島地区の住民は、代々培われてきた伝統芸能や先祖が切り拓いた土地を承継しながら、地区住民がひとつの家族のように一体となって、豊かな自然と共に生活してきました。
ところが、津島地区は、現在もなお放射線量の高い帰還困難区域と指定され、地区全域が人の住めない状況となっています。
津島地区の住民は、いつかはふるさとに帰れると信じながらも、いつになれば帰れるか分からないまま、放置されて荒廃していく「ふるさと」のことを遠く避難している仮住まいから想う日々です。
国及び東京電力は、広範囲の地域の放射能汚染という重大事故を起こしておきながら、原発事故に対する責任に正面から向き合おうとしません。
国及び東京電力のこのような姿勢に堪えかねた津島地区住民の約半数となる約230世帯700名の住民が立ち上がり、2015年9月29日、国及び東京電力を被告として、福島地方裁判所郡山支部に集団提訴をしました。」
本日(3月16日)の口頭弁論期日に、原告らの「第41準備書面」が陳述された。その要旨を、訴訟代理人澤藤大河が口頭で陳述したという。それが以下のとおり。
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本日陳述の、「原告ら第41準備書面」は、被告国の第11準備書面の第6、つまり「本件事故には結果回避可能性がなかった」との主張に反論するものです。
被告国の主張は,概略次のようなものです。
「被告国が,事故前において考えつくことができた津波対策は,防波堤・防潮堤の建設だけである。
しかも津波予測に基づき対策として作られたであろう防波堤・防潮堤は、敷地を囲う物ではなく、海に面した東側に大きな切れ目のある構造になるはずであり、このような防波堤・防潮堤を建設しても、本件津波に耐えることはできず事故は避けられなかった。
また、この工事の工期はもちろんのこと、被告国の認可手続きにも時間がかかり,本件津波までに間に合うものではなかった」
というものです。
津波対策として、防潮堤防波堤にて敷地への海水侵入を防ぐという考え方を「ドライサイトコンセプト」といい、敷地への海水侵入があったとしても個別の重要機器を防水して機能を守る考え方を「ウェットサイトコンセプト」といいますが、国の主張は、「ドライサイトコンセプトしかなかったのだ」ということになります。
しかし、この国の主張には、根本的な誤りがあります。
まず、「結果回避可能性」の有無は客観的に判断されるということです。
行為者の認識、能力、意欲など、主観的な事情は取り除き、客観的に可能性を判断するのが結果回避可能性の議論なのです。
被告国の主張は、客観的に判断されるべき結果回避可能性の議論において,「行為者が考えつかなかった」というような行為者の主観的な事情を考慮すべきとする点で誤っています。
特に、津波対策として,効果の乏しい防波堤・防潮堤の建設しか思いつかなかったはずであるとの主張は,自らの不勉強と無能力をことさらに強調しているだけであり,その責任を軽減したり、結果回避可能性を否定することには繋がりません。
客観的には,敷地に海水が侵入しても,なお原子炉を冷却できるようウェットサイトコンセプトでの対策を行うよう被告東京電力に指導すれば,本件事故は回避することが可能でした。これらの対策は,事故前に十分実施可能だったのです。素材や技術的な面での飛躍的進歩は、なにも必要ありませんでした。
被告国の主張は根本的な考え方を誤っていますが、それはさておいて、津波対策として、本件事故以前の時点で、ドライサイトコンセプトしかないとの主張についても、誤りであると指摘せざるを得ません。
1991年にはフランス・ルブレイエ原子力発電所にて洪水浸水事故があり、開口部の閉鎖という対策がなされていました。また、福島第一原子力発電所においてすら、1991年溢水事故の後、地下階に設置された重要機器が被水して機能を失わないよう、非常用ディーゼル発電機室入り口扉の水密化も行われていたのです。
被告国は、「ウェットサイトコンセプト」も取り入れるべきだったのです。
また、被告国が主張する「津波対策として建設されるはずだった防波堤・防潮堤」も、非常に不自然なものです。津波対策であるのに、敷地を取り囲むものではなく,海に面した東側を大きく開けた防波堤を建設することになったはずだったというのです。
実際には、被告東京電力の技術者は敷地全周を囲う計画を立てていました。この計画は最終的に刑事事件で起訴されている経営陣に拒否されました。
津波対策の防波堤であれば,敷地全周を囲むべきで,切れ目があってはならないのは当然のことといわなくてはなりません。土木技術の専門家ならずとも,容易にわかることです。
さらに、被告国は,対策の実施には時間的余裕がなかったとも主張します。
しかし,事故後の津波対策は,わずか1ヶ月という短期間で本件津波と同等の津波に耐える対策が実施されました。このことは、被告国が自ら報告しているのです。
確かに防波堤・防潮堤を建設しようとすれば、大規模な土木工事にそれなりの期間は必要です。しかし、防波堤・防潮堤のみが対策であるというのは,被告国の思い込みに過ぎません。
ウェットサイトコンセプトに基づく,個別重要機器の防水や予備電源の配置などを行えば,長くとも数ヶ月間という短期間に対策を完了することができたはずです。
被告国が長期評価により想定される津波の波高が15m以上となることを知り得た2002年に,あるいは遅くとも2006年には津波対策を実施するように被告東京電力に対し規制権限を行使すべきであって,そうしておれば本件津波襲来までに対策を完了し,事故を回避することができたことは客観的に明らかなことなのです。
(2018年3月16日)