来週の日曜日が総選挙の投票日。残る選挙運動期間は1週間のみ。この時点での感想を幾つか。
メディアは、今回の選挙の構図を三極の闘いとしている。その三極のうちの、「自公」対「希望」対峙の局面に主要な関心を向け、副次的に立憲民進にもライトを当てている。
しかし、今回の選挙は安倍一強の歪みを糺す選挙ではなかったか。安倍政権の傲り、政治や行政の私物化、極端な経済的強者優遇の姿勢、行政の不透明性、そして平和・原発・改憲問題…。これをどれだけ厳しく批判できるかが、主たる争点であったはずではないか。
その意味では、今次総選挙の闘いの構図は、明らかに2極構造だ。比例区選挙は各政党の争いだが、その一つの極が安倍自民であり、もう一つの極が最も厳しく最も原理的に安倍一強政治を批判してきた共産党。この2極の間に、中間諸政党がそれぞれの位置を定めて並ぶ構図。
そして、現行の小選挙区制を前提とする限り、現実的に議席を得るためには諸政党は近似の政党と連携してグループを作らざるを得ない。そのグループ対立の構図も、9条改憲と戦争法廃止をメインテーマに、「改憲自公」対「護憲共社憲」の2極対抗。その中間に、「希望・維新」が位置している。3極構造ではなく、飽くまで2極の構造に、ヌエのごとき夾雑物が位置しているとみるべきだろう。
基本は、安倍批判による自公離れ票が対極の共産あるいは護憲政党共闘にまで行き着くか、それとも中間での途中下車を許すか、の問題である。
「もり・かけ隠しの冒頭解散」が決まった頃、総選挙の主要な争点が安倍自民に対する国民のの審判であることは衆目の一致するところだった。ところが今、かなりちがった空気が漂っている。言うまでもなく、希望の党がしゃしゃり出て、失敗したことによるもの。
希望は、安倍政権批判の世の風向きを見てこれに乗ろうと出てきた「安倍自民に代わろうとする保守」である。ムジナをタヌキに代えたところで大した変化はない。実質的にアベ政権の基本政策を継承しようという受け皿にほかならない。一時は、安倍支持層を掘り崩し、安倍離れ票を獲得するかと思われたが、その反国民的な政治姿勢が早くも露呈して、馬脚を露わす事態となった。するとどうだ。「こんな希望の党ごときに比べれば、自公与党がよりマシ」に見えてくる現象が生じた。それが、序盤の選挙情勢分析が示しているところなのだと思う。
結局のところ「希望」とは、安倍離れ票を受けとめそれ以上にリベラル側に行かせぬという意味でのストッパーの役割だったはずだが、今のところ現実には安倍離れとなるはずの票を安倍に留めるという意味でのストッパーになっているのではないか。野党を大きく割って、「希望」という塊を作った、小池・前原・連合3者の政治責任は極めて大きい。
あと一週間の積極的論戦の深まりに期待したい。その主役は、有権者自身だ。そもそも選挙運動の主体は候補者でも政党でもなく、有権者すなわち主権者なのだ。主権者は、けっして候補者からの働きかけの客体にとどまるものではない。
「投票箱が閉まるまでの主権者」という言葉があるが、自由な選挙運動のあれもこれも規制しようという公選法は、選挙期間中の主権者の手も口も縛ろうとしてきた。それでも、できることはたくさんある。日々の会話で大いに選挙を語ることはまったく自由だ。投票依頼のための「戸別訪問」は禁止されているが、たまたま行き会った有権者に対する投票依頼は場所がどこであろうとも、「個々面接」として自由だ。電話による投票依頼にもなんの制約もない。
なにより、ウェブサイト利用の選挙運動は自由だ。ホームページ掲載も、ブログも、ツイッターも、フェイスブックも、ラインも発信元アドレスが明記されている限り自由なのだから、これを活用しない手はない。
選挙運動とは言論戦である。本来、戸別訪問も文書の頒布も、典型的な言論による選挙運動として自由が保障されなければならない。これを禁じる表向きの理由は、戸別訪問が密室での贈収賄の温床となりかねないということであり、文書頒布は金がかかり経済的な格差が票に影響を及ぼしかねないからということにある。
ブログも、ツイッターも、フェイスブックも、ラインも、貧者の武器たりうる。匿名に隠れた卑劣な発信は保護されないが、発信者のアドレスを明記したものである限り、候補者や政党の名を挙げて堂々と推薦し投票依頼しあるいは批判してよいのだ。
もっとも、電子メールの発信による選挙運動は一般有権者にはまだ解禁されていない。解禁されれば、選挙期間中莫大な量のメールが行き交い、メール利用による正常な業務を妨害することになりかねないからだという。メールにだけは注意して、あと一週間。有権者としての権利を大いに行使しようではないか。
(2017年10月15日)
昨日(10月13日)、話題のさいたま地裁「九条俳句判決」。まずは勝訴を喜びたい。
200万円の請求に対する慰謝料の認容額は5万円とわずかではあったが、さいたま市公民館職員の「公民館たより」への、「九条俳句」不掲載行為を違法で過失あるものとした。この点で、歴とした勝訴である。この判決の行政への影響は小さくない。
公民館たよりに掲載を拒否されたお陰ですっかり有名になった
「梅雨空に 『九条守れ』の 女性デモ」
句会で特選になり、通例「公民館だより」に掲載されるはずが、「政治的だから」として拒否された。
この不掲載を、判決は、公民館側が「思想や信条を理由として掲載しないという不公正な扱いをした」と違法と断じたのだ。
「梅雨空」が政治的であるはずはない。多分、「デモ」も「女性デモ」も政治的とは言えまい。公民館側には、『九条』『九条守れ』が、政治的ととらえられた。「いったいなぜ?」と問い返さねばならない。
「九条俳句」市民応援団- という訴訟支援のホームページが立ち上げられている。立派なものだ。
http://9jo-haiku.com/
このホームページの中に裁判資料のコーナーがあり、つぎのURLで判決全文を読むことができる。
http://9jo-haiku.com/modules/news/index.php?lid=65&cid=3
判決を読んで少なからず驚いた。公民館側がなにゆえにこの句の掲載を拒否したか、その理由について判決が語っているところにである。むしろ、語るべきほどのなにもないことにといわねばならない。
この点について、朝日が要領よく要約しているところでは以下のとおり。
「裁判長は、不掲載の判断をした公民館長らが過去に教員だった経験から『教育現場で憲法に対する意見の対立を目の当たりにして辟易し、一種の《憲法アレルギー》のような状態に陥っていたのではないかと推認される』と指摘。憲法に関連する文言が含まれた句に抵抗感を示し『理由を十分検討しないまま掲載しないことにしたと推認するのが相当だ』とした。」
これだけでは十分には分かりにくい。当該個所を判決書から引用すれば、以下のとおりである。
「三橋公民館及び桜木公民館の職員ら(引間、保坂及び斎藤)が、本件俳句を本件たよりに掲載することができるかどうかについて、十分な検討を行わなかった原因について、次のように推認することができる。
保坂及び引間は教員を経験した後、三橋公民館の主幹ないし館長を経て、管理職となっており、斎藤は、教育委員会や高校の事務主幹を経験した後、桜木公民館の館長となっているところ、引間が、教育現場において、国旗(日の丸)や国歌(君が代)に関する議論など、憲法に関連する意見の対立を目の当たりにしてきたように、保坂及び斎藤も、上記のような意見の対立を目の当たりにして、これに辟易しており、一種の『憲法アレルギー』のような状態に陥っていたのではないかと推認される。そして、上記『憲法アレルギー』の発露として、保坂は、本件俳句を本件たよりに掲載するのは問題ではないかと考え、引間に意見を求め、引間は、これに対し、本件俳句を本件たよりに掲載することは難しいと考える旨回答し、斎藤ら松木公民館の職員らも、『九条守れ』という憲法に関連する文言が含まれた本件俳句に抵抗感を示し、本件俳句を本件たよりに掲載することができない理由について、十分な検討を行わないまま、本件俳句を本件たよりに掲載しないこととしたものと推認するのが相当である。…
したがって、三橋公民館及び桜木公民館の職員らが、原告の思想や信条を理由として、本件俳句を本件たよりに掲載しないという不公正な取扱いをしたことにより、法律上保護される利益である本件俳句が掲載されるとの原告の期待が侵害されたということができるから、三橋公民館が、本件俳句を本件たよりに掲載しなかったことは、国家賠償法上、違法というべきである。」
こんなところに、日の丸・君が代が出てきた。判決は、次の認定をしている。
学校での日の丸・君が代論争⇒幹部職員の憲法アレルギー⇒「九条守れ」に抵抗感
そうした流れが、「九条俳句」掲載拒否の姿勢となった。「公民館は特定の政党の利害に関する事業は禁止している。世論が大きく分かれているものは広告掲載を行わない」「公平中立の立場であるべきだとの観点で、掲載は好ましくないと判断した」などという理由は後付けのものだという。
憲法は国民の人権を守る道具である。民主々義や平和の基礎でもある。それが、アレルギーの源泉になっているというのだ。判決は「本件俳句の不掲載は、憲法アレルギーの発露として」なされたという。このアレルギーは、理性ではなく、感性レベルでの憲法への抵抗感の存在を語っている。
アレルギーとは、本来無害なものが特定の人に有害な反応を示すこと。場合によっては、本来有益なものが原因物質となることもある。本判決は、まさしく本来有益な憲法が、ある人々には拒否反応として表れることを指摘しているのだ。憲法に対する病的な反応への警告。この判決、根拠のない憲法アレルギーを払拭せよとの戒めと読むべきで、そうしてこそ意義がある。
それにしても、認容額が5万円はいただけない。この額でよかろうはずはない。
(2017年10月14日)
10月22日総選挙が近い。総選挙の陰に隠れて忘れられがちだが、同時に最高裁裁判官の国民審査が行われる。今回は、第24回目となる国民審査。これも、有権者の貴重な意思表示の機会だ。ぜひ関心をもって、適切な意思表示をしていただきたいと思う。
日本民主法律家協会はこれまで毎回国民審査の対象となる各裁判官の適否に関する判断資料をパンフレットに作成して多くの人に提供してきた。今回急な解散・総選挙だったが、事務局長以下のスタッフが立派なものを作りあげて本日、日民協のホームページに掲載した。URLは以下のとおり。
http://www.jdla.jp/kokuminshinsa/2017kokuminshinsa.pdf
以下に、国民審査の趣旨や各裁判官の関与判決、投票上の注意などについて、その内容を抜粋して紹介するが、まずは私的な見解から。
今回の国民審査に付される最高裁裁判官は、下記の7人。その全てが、安倍内閣の任命によるものである。
大谷直人(おおたに なおと)裁判官出身(最高裁事務総長)
木澤克之(きざわ かつゆき)弁護士出身
山口 厚(やまぐち あつし)学者・弁護士出身
林 景一(はやし けいいち)行政官出身(外交官)
小池 裕(こいけ ひろし)裁判官出身(東京高裁長官)
菅野博之(かんの ひろゆき)裁判官出身(大阪高裁長官)
戸倉三郎(とくら さぶろう)裁判官出身(最高裁事務総長)
結論から言えば、素晴らしい裁判官は一人もいない。気骨のある人物も見あたらない。比較的リベラルと評価すべき者もない。毎回何人かは、×とすることを躊躇させる裁判官がいるものだが、今回に限っては見あたらない。遠慮なく全員に×をつけてしかるべきだろう。
権力に対するチェック機能の弱い裁判所の姿勢への総体的な批判として、全裁判官に×をつけての投票をしたい。
中で経歴や任命方法に大きな問題あるのが、次の2名。
※2016年7月任命された木澤克之氏は、2013年「加計学園監事」に就任していた人物。弁護士出身で日弁連の推薦リストにも入っていたそうではあるが。安倍批判の矛先がこの人に向かうことは避けられない。
※山口厚氏は、著名な刑法学者(東大名誉教授)だが、2016年弁護士登録し、2017年「弁護士枠」で最高裁に入った。日弁連の推薦はない。弁護士として1件の事件も担当していない人を「弁護士枠」(15名中4名)で任命してよいはずがなかろう。
判決内容に問題なのは次の事件の関与裁判官。
※厚木基地の周辺住民が、騒音被害を理由として夜間の自衛隊機の運航差止を求めた訴訟について、住民の被害の深刻さを認めながら、防衛大臣の自衛隊機の運航にかかる権限の行使には広範な裁量があり、「それが社会通念に照らし著しく妥当性を欠くものと認められるか否かという観点から審査を行うのが相当」であるところ、自衛隊機の運航は我が国の平和と安全、国民の生命、身体、財産等の保護の観点から極めて重要な役割を果たしており公共性、公益性があり、他方で住民の被害を軽減するための対策措置が講じられている事情を「総合考慮」すれば、防衛大臣の権限行使は違法でないとして、差止を認めた1審・2審判決を取り消し、差止請求を棄却した。
この恐るべき判決を書いたのは、大谷・小池・木澤の各裁判官。
※国土交通大臣が沖縄県知事を被告として提訴した辺野古新基地建設に関する訴訟の上告審では、第二小法廷の全員が国の肩をもった判断をしている。その中の一人が、菅野裁判官。
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(日民協リーフから)
最高裁は、憲法の番人として人権の砦たれ
憲法の危機がせまっています。最高裁は、どう向かいあってきているのでしょうか?
忖度がまかりとおる政治の私物化に、最高裁が人権の最後の砦として、その、チェック機能を発揮しているのでしょうか?
私たちには? 最高裁裁判官をやめさせる権利があります。
憲法と人権をないがしろにする裁判官には、×を
政府や大企業にいいなりの裁判官には、×を
国民審査とは… 私たちの憲法は、立法・行政・司法の三権分立を原則としています。裁判所は、違憲立法審査権を持ち、「憲法の番人」「人権の砦」の役割が課されています。
とりわけ裁判所の頂点に立つ最高裁判所は、重要な憲法解釈・法律解釈を担うほか、全国の下級裁判所裁判官の任命権を持っており、その権限と役割は重大です。
憲法上、最高裁判所の裁判官(定員15名・定年70歳)の任命権は内閣にあります。このように、最高裁裁判官の人事は時の政府によって独占されている上、密室で行われるため、時として、政府に迎合したり、国民の常識からかけ離れた判決を下すような裁判官が生まれる危険性があります。
国民審査は、このような危険性をふまえ、内閣が任命した最高裁裁判官が適任であるかどうかを、主権者である私たち国民が審査し、不適格な裁判官を罷免することができる制度です(憲法79条)。
最高裁判所の裁判官は、その任命後最初に行われる衆議院議員総選挙の際に国民審査に付され、その後10年を経過した後の最初の総選挙の際さらに審査に付されます。そして、この審査において、投票者の過半数が罷免すべきだとした裁判官は辞めさせられるのです。
いま憲法は危機の時代にあります。忖度政治がまかりとおっています。最高裁裁判所が憲法の番人として、人権の砦として、司法本来の機能をはたせるように、国民審査の重要性は高まっています。
国民審査の問題点・注意点
■投票方法
現行の国民審査は、1枚の投票用紙に対象裁判官全員の氏名が印刷され、罷免したい個々の裁判官ごとに「..」をつける仕組みですが、分からないから棄権するつもりで何も書かなかった投票は、全て「信任」とみなされるという重大な問題があります。棄権したい場合、投票用紙を受け取らないことはできますが、投票用紙は1枚なので、裁判官ごとに信任・罷免・棄権を分けて投票することは不可能です。また、「×」以外の記載は認められず、「〇」などをつけるとその投票用紙は丸ごと無効票にされるという問題もあります。
■衆議院選挙と同様の期日前投票・在外投票が可能に!
前回(2014年12月)までは、国民審査の期日前投票は投票日の7日前からしかできませんでしたが、2016年12月の法改正により、今回の国民審査から、総選挙の公示日の翌日(投票日の11日前・今年は10月11日.)からできるようになりました。不在者投票・海外からの投票(在外投票)も可能です。
また、今回の国民審査から18歳以上の方は投票できます。投票に行きましょう!
投票上の注意点
1 信任できない裁判官には一人ひとりに×印をつけましょう。
2 何も書かないと、なんと信任票になってしまいます。
3 ○や△など、×以外を書くと全体が無効となってしまいます。要注意!
4 信任か不信任か、判断ができないときには、投票用紙を受け取らないようにしましょう。
(2017年10月13日)
この国は、いまだにヘイトスピーチ天国なのか。臆面もない民族差別の横行を恥ずかしいとも、腹ただしいとも思う。
「懲戒請求:弁護士会に4万件超」「『朝鮮学校無償化』に反発」「インターネットに文書のひな型掲載」という見出しの記事が報道されている。
朝鮮学校への高校授業料無償化の適用、補助金交付などを求める声明を出した全国の弁護士会に対し、弁護士会長らの懲戒を請求する文書が殺到していることが分かった。毎日新聞の取材では、少なくとも全国の10弁護士会で計約4万8000件を確認。インターネットを通じて文書のひな型が拡散し、大量請求につながったとみられる。
各地の弁護士によると、請求は今年6月以降に一斉に届いた。現時点で、
▽東京約1万1000件
▽山口約6000件
▽新潟約6000件
▽愛知約5600件
▽京都約5000件
▽岐阜約4900件
▽茨城約4000件
▽和歌山約3600件??などに達している。
請求書では、当時の弁護士会長らを懲戒対象者とし、「違法である朝鮮人学校補助金支給要求声明に賛同し、活動を推進するのは犯罪行為」などと主張している。様式はほぼ同じで、不特定多数の賛同者がネット上のホームページに掲載されたひな型を複製し、各弁護士会に送られた可能性が高い。
請求書に記された「声明」は、2010年に民主党政権が高校無償化を導入した際に各弁護士会が朝鮮学校を含めるよう求めた声明や、自民党政権下の16年に国が都道府県に通知を出して補助金縮小の動きを招いたことに対し、通知撤回や補助金交付を求めた声明を指すとみられる。 (以下略)
弁護士に対する批判を遠慮する必要はない。しかし、この懲戒請求は、弁護士懲戒に名を借りた朝鮮学校に対する悪罵であり民族差別である。少数者の側、弱者の側の人権を擁護すべき弁護士の使命に対する不当な攻撃でもある。
この、特定弁護士や弁護士の特定業務への大量懲戒請求呼びかけ戦術は、2007年に橋下徹が始めたものだ。殺人事件被告の弁護団への懲戒請求をテレビで呼び掛け、同年中に約8000件の請求が届いたという。橋下を被告とする民事訴訟は、最高裁が2011年に「表現行為の一環に過ぎず、不法行為に当たらない」として終了した。一方、別の訴訟で最高裁は07年に「懲戒請求の乱用が不法行為になり得る」ことを明言している。
私は、DHCスラップ訴訟の被告となって、この種の事案に敏感となっている。スラップ訴訟は民事訴訟制度を濫用して表現の自由を侵すものだが、同じことは刑事告訴でもできるし、弁護士に対しては懲戒請求という戦術で達成できる。DHCスラップ訴訟弁護団で、この3者が違法となる要件について比較検討したことがある。
この点については、私は何か言わねばならないと思っていたところ、先を越された。親しい弁護士から、こんなメールをいただいた。抜粋して紹介させていただく。
「問題は、弁護士懲戒制度が自分の気に入らない意見や立場を攻撃する手段として濫用させることが一般化しつつあることです。この風潮を止めないと、制度そのものが破壊され、弁護士自治が揺らぎかねません。さらに、本件で標的となっている朝鮮学校支援のような類の問題に関わりを持つ弁護士の行動に制約がかかったり、弁護士会がこの種の問題に関わることを躊躇させる危険もはらんでいます。
このような事案について、ありがちな態度は『馬鹿は相手にしない』という大人の対応です。しかし、そのような『大人の対応』がこれまでどれほど排外主義や反知性主義を増長させてきたでしょうか?私は、そのような『大人の態度』は断固拒絶し、強く批判したいと思います。」
「被害者である各弁護士に訴えたいのですが、このような濫用的懲戒については、毅然とした対応をしましょう。具体的には、民事の不法行為を根拠とした損害賠償請求がもっとも有効だと思われます。これについては、最高裁平成19年4月24日第三小法廷判決(民集61巻3号1102頁)が明確な基準を示していますから、決然と行うべきです。」
なんと素晴らしい毅然たる姿勢。そう、弁護士は逃げてはならないのだ。不当な攻撃とは精一杯闘わなければならない。それが、弁護士が享受する自由に伴う責任というものだ。
同弁護士が引用する、懲戒濫用に対抗の武器となる最高裁判例の一部。
「…懲戒請求を受けた弁護士は、根拠のない請求により名誉、信用等を不当に侵害されるおそれがあり、また、その弁明を余儀なくされる負担を負うことになる。そして、同項が、請求者に対し恣意的な請求を許容したり、広く免責を与えたりする趣旨の規定でないことは明らかであるから、同項に基づく請求をする者は、懲戒請求を受ける対象者の利益が不当に侵害されることがないように、対象者に懲戒事由があることを事実上及び法律上裏付ける相当な根拠について調査、検討をすべき義務を負うものというべきである。そうすると、同項に基づく懲戒請求が事実上又は法律上の根拠を欠く場合において、請求者が、そのことを知りながら又は通常人であれば普通の注意を払うことによりそのことを知り得たのに、あえて懲戒を請求するなど、懲戒請求が弁護士懲戒制度の趣旨目的に照らし相当性を欠くと認められるときには、違法な懲戒請求として不法行為を構成すると解するのが相当である。」
つまり、「通常人としての普通の注意を払うことなく」軽々に弁護士懲戒請求をすれば、不法行為として損害賠償請求されることを覚悟しなければならないのだ。
当然のことながら、懲戒請求は請求者の住所氏名を明記しなければ、受け付けられない。うかうか、扇動に乗せられると、ある日、裁判所から損害賠償請求の訴状が届くことになりかねない。
よく考えるべきなのだ。
(2017年10月12日)
いったいどうなっているのって聞くと
「記憶がないの」という。
「じゃあ記録があるでしょう」というと、
「捨てました」という。
捨てたはずの記録が見つかると、
「それは怪文書だよ」という。
あとで本物だと分かると、
「これって正確ではない」という。
せめてこの人だけでも証言をというと、
「イタリアに行ってもう無理」という。
それなら別の人の証人喚問をというと、
「そんな必要はありません」という。
でも、「丁寧に説明しますと約束したよね」というと、
「もう十分、これ以上の説明は必要ない」という。
「それでも、もう一度ご説明を」っていうと、
「調査は司直の手に任せた」って。
いったいこれからどうなるのかしらって聞くと
「時が過ぎれば闇の中」とつぶやく
こだまでしょうか
いいえ あのひとたち
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不思議
私は不思議でたまらない
自由と民主のこの時代
安倍さん首相になったのが
私は不思議でたまらない
庶民を敵視の自民党
どうして選挙に強いのか
私は不思議でたまらない
年金削って保育園
介護削って奨学金
これこそ朝三暮四でしょう
私は不思議でたまらない
自分を愚直という人の
人を見下すしたり顔
あとでぺろりと舌出すの
私は不思議でたまらない
コントロールもブロックも
ウソと知りつつ再稼働
誰が責任とるのやら
私は不思議でたまらない
無理に作った薄笑い
歯の浮くようなウソ重ね
国民欺していることが
私は不思議でたまらない
誰にきいても笑ってて
本気で怒ってないことが
(2017年10月11日)
本日(10月10日)が、戦後25回目となる総選挙の公示日。憲法の命運を左右しかねない政治戦のスタート。アベ政権という国難除去が主たる課題だ。その主役は有権者であって、けっして政党でも政治家でもない。
当然のことながら、候補者もメディアも、そして選挙管理行政も、有権者が正確な政治的選択に至るように清潔で自由な環境を整備しなければならない。カネや利益誘導で民意を歪めてはならない。嘘とごまかしで、有権者をたぶらかしてはならない。虚妄の政権を作りあげてはならない。
強調したいことは、選挙という制度において投票はその一半に過ぎないということである。多様な国民の言論戦の結果が有権者の投票行動に結実する。投票の前には、徹底した言論戦が展開されなければならないのだ。今回の選挙では、まずはアベ政権という国難の実態が徹底した批判に曝されなければならない。それに対する防御の言論活動もあって、しかる後に形成された民意が投票行動となる。
論戦の対象とすべきものは、
アベ政権の非立憲主義。
アベ政権の反民主主義。
アベ政権の好戦姿勢。
アベ政権の政治と行政私物化の体質。
アベ政権の情報隠匿体質。
アベ政権の庶民無視の新自由主義的経済政策。
アベ政権の原発推進政策。
アベ政権の対米追随姿勢。
アベ政権の核の傘依存政策。
アベ政権の核廃絶条約に冷ややかな姿勢。
アベ政権の沖縄新基地対米追随姿勢。
………
いまここにある、アベという存在自体の国難を、具体的に指摘し摘除しなければならないとする壮大な言論戦において、有権者は積極的なアクターでなくてはならない。「よく見聞きし分かる」ことを妨げられない「知る権利」だけでなく、自分の見聞きしたこと考えたことを発信する権利も最大限保障されなければならない。まさしく、憲法21条の表現の自由が、最大限に開花しなければならないのが、選挙における言論戦なのだ。
ところが、公職選挙法は基本構造が歪んでいる。憲法が想定する建て付けになっていないのだ。だから、総選挙公示とともに、さまざまな不都合が生じる。
私たちは、地域で「本郷湯島九条の会」を作って、ささやかながらも地道な活動を続けている。毎月第2火曜日を、本郷三丁目交差点「かねやす」前での、護憲街頭宣伝活動の日と定めて4年以上になる。この間、厳冬でも炎天下でも、街宣活動を続けてきた。ところが、たまたま本日が10月の第2火曜日となり、予定の「本郷湯島九条の会」街頭宣伝行動が選挙期間と重なった。
その結果、奇妙な政治活動規制がかかることになる。その根拠は、「公選法201条の5」。まことに読みにくい条文だが、そのまま引用すれば、以下のとおり。
(総選挙における政治活動の規制)
第201条の5 「政党その他の政治活動を行う団体は、別段の定めがある場合を除き、その政治活動のうち、政談演説会及び街頭政談演説の開催、ポスターの掲示、立札及び看板の類(政党その他の政治団体の本部又は支部の事務所において掲示するものを除く。以下同じ。)の掲示並びにビラ(これに類する文書図画を含む。以下同じ。)の頒布(これらの掲示又は頒布には、それぞれ、ポスター、立札若しくは看板の類又はビラで、政党その他の政治活動を行う団体のシンボル・マークを表示するものの掲示又は頒布を含む。以下同じ。)並びに宣伝告知(政党その他の政治活動を行う団体の発行する新聞紙、雑誌、書籍及びパンフレットの普及宣伝を含む。以下同じ。)のための自動車、船舶及び拡声機の使用については、衆議院議員の総選挙の期日の公示の日から選挙の当日までの間に限り、これをすることができない。」
分かり易く要約すると、
「(政党に限らず)政治活動を行う団体は、その活動のうち、街頭政談演説の開催、ポスターの掲示、立札及び看板の類の掲示並びにビラ頒布並びに宣伝告知のための自動車及び拡声機の使用については、総選挙期間中に限り、これをすることができない。」
つまり、「本郷湯島九条の会」も、政治的な主義主張をもって活動している以上「政治活動を行う団体」と見なされるとすれば、これまで4年間やってきた街頭宣伝行動のスタイルをとることができない。
私たちは、会の横断幕を掲げ、会のポスターを掲示し、毎回会が作成した手作りのビラを配布し、スピーカーを使い、場合によっては宣伝カーを借りて訴えをしてきた。条文を素直に読む限り、これが違法というのだ。
念のために付言しておくが、本郷湯島九条の会が、特定政党や特定候補の応援をしたことはない。もちろん、投票依頼などしたこともなければする意思もない。それでも、公選法第201条の5が介入してくる。これは、「選挙運動」規制ではなく、選挙期間中に限ったことだが、「政治活動」を対象とする規制なのだ。
そこで、対策を相談した。
第1案 急遽日程を繰り上げて、街宣行動をしてはどうか。これなら、予定の通り、いつものとおりの憲法擁護の宣伝活動が可能だ。
第2案 「九条の会」としてではなく、徹底して個人として行うことなら、201条の5が介入してくる余地はない。スピーカーは使える。。署名活動もできる。しかし、そうすれば、会の名のはいったビラは一切撒けない。横断幕もないことになる。
第3案 「九条の会」として街宣活動をし、合法主義を貫く。ビラなし。横断幕なし。スピーカーなし。肉声ないしメガホンでの宣伝活動をする。
第4案 公選法第201条の5の「政治活動を行う団体」を限定して解釈する。あるいは条文を無視する。憲法に違反している法が有効なはずはない。また、現実的に逮捕や起訴はあり得ないのだから、警告や指導が入るまで予定の通りにやればよい。
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結局、第2案を採用することとなった。たまたま、このとき、ここに集まった個人が、それぞれ個人としての意見を表明するということ。このことに、文句を付けられる筋合いはない。
冒頭、私がマイクを握って、次のような発言をした。
ご近所のみなさま、ご通行中の皆さま、私は、本郷5丁目に在住する弁護士です。
日本国憲法とその理念をこよなく大切なものと考え、いま、憲法の改悪を阻止し、憲法の理念を政治や社会に活かすことがとても大切との思いから、志を同じくする地域の方々と、本郷湯島九条の会というささやかな会を作って、憲法を大切しようという運動を続けて参りました。
会は、毎月第2火曜日の昼休み時間を定例の街頭宣伝活動の日と定めて、これまで4年以上にわたって、ここ本郷三丁目交差点「かねやす」前で、護憲と憲法理念の実現を訴えて参りました。とりわけアベ政権の憲法をないがしろにする姿勢を厳しく糾弾しつづけまいりました。この4年間、厳冬でも炎天下でも続けてきた、「本郷湯島九条の会」街頭宣伝行動ですが、本日は理由あって中止いたします。
会は、毎回会の名を明記したビラを作成し配布してきましたが、本日はビラはありません。毎回、「九条の会」の横断幕と、幟を掲げてきましたが、本日横断幕も幟もないのはそのためです。
会としての街頭宣伝活動を中止するのは、本日総選挙の公示がなされたからです。公職選挙法にはまことに奇妙な規定があります。
公職選挙法201条の5は、「(政党に限らず)政治活動を行う団体は、その活動のうち、街頭政談演説の開催、ポスターの掲示、立札及び看板の類の掲示並びにビラ頒布並びに宣伝告知のための自動車及び拡声機の使用については、総選挙期間中に限り、これをすることができない。」としています。
つまり、選挙期間中は、団体としての政治活動のうち、看板の掲示やビラの配布、スピーカーの使用が禁じられているのです。私は、これは明らかに憲法に違反した無効な規定だと考えますが、「本郷湯島九条の会」としては違法とされていることはしないことにいたしました。
ですから、今私は「本郷湯島九条の会」の会員としての発言をしていません。飽くまで個人としての意見を表明しています。
選挙期間中といえども、個人として政治的見解を表明することに何の制約もありません。むしろ、選挙期間中は、有権者が最大限に表現の自由の享受を発揮しなければならないと思います。本日、ここに幾つかのポスターがあります。「いまこそ、9条守るべし」「核廃絶運動にノーベル平和賞」などのもの。中にはやや大型のポスターもありますが、すべて個人の意見表明としてなされているもので、団体の意思表明ではありません。
そして、たまたまこの場に居合わせた方が、ご自分の個人的な意見を表明したいとおっしゃっています。その方々に、順次マイクをお渡しします。
今日が大事な総選挙の公示日で、10月22日が投票日となります。このスピーカーを通じて流れる個人的なご意見は、その選挙の意義に関わる訴えになろうかと思いますが、あくまで本郷湯島九条の会としての発言ではないことをご理解ください。
(2017年10月10日)
「日の丸に向かって起立し、君が代を斉唱せよ」との強制には従えないという国民はけっして少なくない。強制でなければ起立してもよいが、強制となければ立てないという人もいる。自分は起立するが強制には賛成しがたいとするのが、ごく普通の考え方のようだ。
東京の公立校では、卒業式や入学式において式に参加する教職員には「起立・斉唱」を命じる職務命令が発せられる。それでも従うことができないとする教員が、あとを断たない。
この強制の発端となったのが、悪名高い「10・23通達」である。かつて、都立高は「都立の自由」を誇っていた。その象徴が、日の丸・君が代の強制とは無縁なことだった。自由とは、権力からの束縛を受けないこと。日の丸・君が代は、国家権力の象徴なのだから、日の丸・君が代強制の受容は、自由の放棄にほかならない。
2003年10月23日。右翼石原慎太郎が都知事2期目のこの時期に、トンデモ知事のお友だちが教育委員を乗っ取り、トンデモ教育委員会が日の丸・君が代の強制を始めた。以来、職務命令違反として懲戒処分を受けた教員は延べ480名に上る。そして、知事が交代しても、強制は続けられている。
起立できないとする教員の理由は千差万別であって一括りにはできない。それぞれの歴史観・国家観・戦争観などの思想・信条による場合もあれば、自分の信仰が日の丸・君が代への敬意表明を許さないという方もあり、教育者としての信念から教育に国家主義的統制を持ち込ませてはならないとする方もある。また、外国籍の生徒との触れあいからその生徒の民族的アイデンティティーを尊重しなければならないという立場からの不起立の例も少なくない。
懲戒処分を受けた者の多くが、処分取消の訴訟を提起して争う。今のところ、判決の趨勢は、「処分量定が戒告にとどまる限り、行政裁量の範囲内として違法とは言えない」「しかし、処分対象の教員に具体的な法的不利益が及ぶ減給・停職となれば量定過酷に過ぎて、裁量権の逸脱濫用に当たり違法となる」というもの。つまり、裁判所は減給以上は取り消すが、戒告は取り消さないのだ。
我々は、違憲判断をしない司法を強く批判している。憲法の砦としてのその職責を放棄した情けない裁判所、裁判官なのだから。しかし、その裁判所でさえ、減給・停職処分は違法として取り消していることを重視しなければならない。
東京都教育委員会は、裁判所から「違法だから取り消す」と判決されるような処分をしたことを恥じなければならない。責任を感じなければならない。なによりも違法な処分をして迷惑をかけた教員に真摯な謝罪をしなければならない。
さて、東京「君が代」4次訴訟原告団14名のうち6名が、減給・停職の処分を受けた者。その6名が求めた処分取消請求に対して、9月15日東京地裁判決は、予想されたとおり6名全員の処分取消を認容した。そして、そのうちの5名について、都教委は敗訴を認めて控訴を諦めた。残る1名についてだけ都教委は争いを続けるというが、これで5名の原告については処分取消が確定した。遡って処分はなかったものとなり、給与は再計算されてカットされた分は、年5%の遅延損害金を付して返還されることになる。
その5名が、本日(10月9日)早朝、東京都教育委員会に対して、「謝罪を求める申入書」を配達証明付きの郵便で発送した。その全文を下記に紹介する。怒りがほとばしる謝罪要求となっている。
役立たずの都教委諸君。まずは、この謝罪要求に真摯に耳を傾けたまえ。そして、あなた自身の責任だということを自覚したまえ。この教員たちは、自分の職責から逃げずに、自分の良心をつらぬいた尊敬すべき人々だ。その真剣な謝罪要求を、保身のために無視するのは、卑怯きわまる。恥を知る人間として、ものを考えたまえ。そのためには、最低限、原告らが都教委を訴えた訴訟の判決書きを読みたまえ。もし、判決内容がよく理解しかねるということなら、あなたが依頼した被告側の弁護士に解説を求めたまえ。仮に原告側弁護士の意見や解説を聞きたいということなら、いつでも応じることを約束する。
そのうえで、原告らに謝罪するかしないか、君たちの良心に従った回答をしたまえ。
もう一度委員5人全員の名を挙げておく。あなた方は飽くまで教育行政の主体なのだ。組織に隠れて逃げる無責任を決めこむことができない立場にある。にもかかわらずお飾りに過ぎないと言われることを甘受されるのか。当事者意識ゼロ。職責意識ゼロ。憲法感覚ゼロ。教育に関する見識ゼロ。それでいて、報酬だけは受け取ろうという根性を恥ずかしいとは思わないか。そう言われ続けてよいと思っているのか。
中井敬三
遠藤勝裕
山口 香
宮崎 緑
秋山千枝
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2017年10月8日
東京都教育委員会委員長 中井敬三 殿
東京「君が代」4次訴訟原告団
A
B
C
D
E
東京「君が代」第4次訴訟勝訴確定にともなう謝罪を求める申し入れ書
私たちは、2014年3月17日に東京地方裁判所に提訴してから3年を闘い、9月15日佐々木判決により、減給・停職処分を取り消された原告である。
都教委は敗訴したが、原告らを控訴することができなかった。それにより、A-減給10分の1・1ケ月、B-減給10分の1・6月、C-減給10分の1・1ケ月、D-減給10分の1・6月、E-停職6ヶ月、の各処分取り消しが確定した。
2003年10月23日に発令されたいわゆる「10・23通達」により、卒・入学式で「日の丸・君が代」を強制され、不当な懲戒処分を受けた結果、私たち原告は多大な精神的・肉体的苦痛を味わった。
都教委は、減給・停職処分は「裁量権の逸脱・濫用で違法」であると判断が下ったことを真摯に反省し、原告らに心からの謝罪をせよ。
都教委は、懲戒処分の通知の時には、原告らの自宅まで来たのであるから、原告の自宅へきて謝罪せよ。その上で、返金せよ。
都教委は、君が代1次訴訟以降、不起立行為に対する減給及び停職処分は「違法である」と断罪され続け、最高裁から、処分行政の見直しを諭されてきた。
にもかかわらず、今回処分を取り消された中で1名だけ控訴した。司法をも無視する暴挙である。即刻控訴を取り下げよ。
9月15日判決で処分を取り消され、都教委が控訴を断念せざるを得なかった2名の現職原告に対して、再処分をするな。
以上申し入れる。10月13日までに下記へ回答を求める。
〈連絡先〉東京「君が代」裁判弁護団 事務局
(2017年10月9日)
昨日(10月7日)の毎日新聞第10頁「オピニオン」面に、編集委員伊藤智永の連載コラム「時の在りか」が載っている。今号は、「政治家の生き方を選ぶ」。政治家の生き方などどうでもよいことだが、冒頭のアベ晋三と小池百合子のエピソードが興味深い。
まずアベについて。
衆院解散に反対だったはずの菅義偉官房長官に、側近議員が「なぜ同意したんですか」と尋ねたら、答えたそうだ。
「反対したさ。でも、総理が言うんだ。国会が始まったら、またモリ・カケ(森友・加計両学園問題)ばかりだろ、もうリセット(機器の動作を最初の状態に戻すこと)したいんだって」
安倍晋三首相が国会開会中は疲れきっていらいらし、国会が終わって外遊に出ると元気になるのは、衆目の一致するところだ。
思えば10年前、第1次政権を放り出したのも9月、臨時国会初日に所信表明演説まで行った翌々日、各党代表質問の1時間前だった。理由は腹痛とされているが、記者会見で本人が述べたのは、国会運営の行き詰まりである。
今回の解散理由である「国難」も、信を問うより先に国会で話し合うべきだが、伝家の宝刀を握る人は国会そのものが嫌だという。返答に窮した菅氏の顔が目に浮かぶようではないか。
おそらく、このとおりなのだろう。臨時国会冒頭解散の大義なんて、こんな程度のものなのだ。アベに国政運営の情熱は感じられない。もう、身を引いたらよかろう。政治家人生をリセットして、大好きな外遊で余生を過ごしてもらうことが、本人のためであるのみならず、日本の平和や民主主義のためにも望ましい。
さて、もうひとり。リセットおばさんこと小池百合子についてのエピソード。
小池百合子東京都知事が「私がリセットします」と割り込んできた時は、安倍首相も虚をつかれただろう。
しかも、民進党の前原誠司代表が、党丸ごと希望の党に「合流」を即決して、首相は一時「どんな選挙結果になろうと、自分が責任を取る」と悲壮な言を口にしたという。
しかし、それから1週間余、
「排除」
「踏み絵」
「持参金」
「股くぐり」
「私は出ない」
「全てが想定内」
など情味を欠いた言葉が飛び交い、選挙戦に入る前に新党「ブーム」は失速気味である。
政局が静かだった8月、小池氏と会った旧知の大学教授は、築地市場移転の話を振ったら、
「どうだっていいじゃない、そんなこと。もっと前向きに次のこと考えなきゃ」
と一笑に付され、国政への野望に鼻白んだという。
なるほど。これも、さもありなんと思わせる話。
小池にとっては、築地市場移転問題など、「どうだっていい、後ろ向きの話」なのだ。頭にあるのは、「権力欲に前向きの次のこと」だけなのだ。
このコラムは、「選挙が政治家の生き残り競争に終始したら、私たちは何を選べばいいか。個々の政治家の生き方に票を投じたらどうだろう。」という趣旨なのだが、その本論の方は面白くもおかしくもない。しかし、アベと小池の、こんなできすぎたエピソードがよく耳にはいってくるものだと感心せざるを得ない。
同じページの「みんなの広場」(投書欄)の4通の投書がみな読むに値する。うち3通は、アベ・小池のエピソードに関連する。中でも、「翼賛政治再来のような混乱」(無職・中村千代子・奈良市)が、アベ・小池を忌避して野党共闘にエールを送ろうという立場。スジが通って爽やかである。
大義なき衆院解散への怒りもどこへやら、連日メディアが取り上げる「希望の党」の動向が気になって仕方がない。綱領も抽象的で組織体制も確立していない新党に公認申請するため、政治信条をリセットし、踏み絵を踏まされた前議員らには怒りを通り越し、哀れささえ感じる。
「小池人気」にあやかろうと新党に吸い込まれるように群がる政党と前議員たち。戦後72年の今、翼賛政治再来を思わせる政党政治の混乱、未熟、堕落を目にするとは思ってもみなかった。この新党は現政権との対立軸を掲げるが、政党の核でもある安全保障・憲法観が自民党と変わらない。補完勢力ではなく、れっきとした“別動隊”だ。
安保法制や「共謀罪」法の廃止を求めて市民団体と野党が築いてきた連携が新党設立で崩れるのではとの不安もあった。しかし暮らしの中での怒りや苦しみを政治の変革に求めて運動する市民と野党共闘の取り組みは揺らいでいないと思う。エールを送りたい。
メディアが作りあげる、「アベ・自民 対 小池・希望」の対立構図。確かにおもしろおかしいが、この構図の強調は「暮らしの中での怒りや苦しみを政治の変革に求めて運動する市民と野党共闘」勢力の存在を埋没させ、視野の外に追い出しかねない。
投書者が指摘するとおり、「アベ・自民」と「小池・希望」とは、政党の核である安全保障政策や憲法観において変わるところがない。希望は、れっきとした自民の“別動隊”なのだ。にもかかわらず、「アベ・自民か、小池・希望か」の構図だけを前面に出して保守2党しか選択肢を示さないとすれば、これは翼賛体制というほかない。指摘のとおり、「翼賛政治再来を思わせる政党政治の混乱、未熟、堕落」の事態である。この投書子のような良識に期待したい。
もう一つ。「『恥なし議員』に任せられない」(無職・松崎準一・68・堺市)も紹介しておきたい。
…日本を取り巻く国際情勢には確かに不安を覚える。きちんと国民を守り、各種の問題を確実に解決してもらいたい。ところが、不信感を払拭することもせず、「記憶にない」「記録は処分した」などとごまかしに力を注ぐありさまだ。恥ずかしげもなく、こんな振る舞いをする人たちに政治を任せたくない。今回はそのための選挙だと思う。
テレビなどのマスコミは「森友・加計」隠しの解散と批判しながら、関係が指摘された政治家を番組に呼んでも、司会者や評論家らは突っ込んで追及しない。不思議だ。“選挙劇場”として楽しんでいるだけではないだろうか。
まったくそのとおりだ。選挙戦を他人の“選挙劇場”として楽しんでいてはならない。自分たちの運命を自らが決する選択という自覚をもたなくてはならない。この社会がどうあるべきかについて、一人ひとりが責任を持たねばならないのだ。伊藤が紹介する、アベや小池のごとき無責任政治家の党に投票してはなない。
(2017年10月8日)
アベ自民が、疑惑隠しの解散で総選挙になろうとしている。森友・加計問題をきっかけに、国民に歪んだ政権の政治姿勢がくっきりと見えている。アベ自民への国民の批判は厳しい。これを奇貨とした小池百合子が、アベの批判者面をしてその受け皿の地位を狙っている。いま、混乱甚だしい。
10月4日のことだ。都議会本会議終了後、小池百合子は党の公約について記者団に説明した。当人は、自民との政策の相違を強調したつもりだったが、記者の受け取り方はそうならなかった。
記者から出た質問は、「希望の党は第2自民党との指摘もありますが…」というものだった。こう問われて小池は、「ムッとした表情を浮かべ」と報道されている。その上で何と答えたか。
「第2どころか第1を目指したいと思います。それは、新しい保守政治という観点です」などと言い捨てて会見を終えた。言い捨てで会見を終了するのが、この人のいつものパターン。
「第2どころか第1を目指したいと思います」とは、この文脈では明らかに、「第2自民党ではなく、第1自民党を目指したいと思います」という意味だ。「自民党の補完勢力視は、失礼な話。私こそが本来の自民党、アベ自民党は小池自民の補完勢力に過ぎない」と言いたいのだろう。
政党とは、結局のところ利害相対立する国民諸階層のうちのどの層の利益を代弁するかで分かれる。私は常識的に、この社会の基本構造を経済的な強者と弱者との緊張関係において見る。政治・政党とはその反映なのだから、徹底して搾取される経済的弱者の側に立つ政党と、その反対に搾取する側の経済的強者である大企業の利益擁護に徹する政党の両極が必然的に生じる。それが、日本共産党と自民党と言ってよい。この左右の両極を結ぶラインにその余の中間政党がならぶ。共産の側に近いか自民の側に近いかその立ち位置をはかられる。
民進党(民主党)は、幅が広かった。個々の議員は、雑多な政治思想や立ち位置をもっていたが、圧倒的な世論が民進党全党をして、集団的自衛権行使容認反対の運動に結集させていた。それが今、雪崩をうっての希望の党への集団的な脱落の体たらく。
民進から希望への転向派諸君は、踏み絵を踏まされて、「9条改憲反対」も「集団的自衛権行使容認反対」もあっさりと旗を降ろした。極端な右方向への集団的地滑りである。滑り落ちる先は、単に右であるだけでない。選挙公約も定まらない政党だった。党規約も組織も明確ではなく、党の意思決定過程はブラックボックスと内部から批判が出ている、そんなカオスに落ちていったのだ。
「青は藍より出でて藍より青し」という。「小池は、自民より出でて自民より保守」の立ち位置なのだ。それが、「第2自民どころか、わたしこそ第1自民」発言となるのだ。防衛政策において自民よりタカ派。改憲課題に自民以上に積極姿勢。党運営において、自民以上に不透明で非民主的。希望の党に希望の灯りは見えない。
気をつけよう。暗い夜道と希望の党。気をつけよう。オレオレ詐欺と希望の党。
反自民、反アベのつもりのあなたの票が、自民以上の保守に取り込まれぬように。
(2017年10月7日)
ノーベル賞の季節である。例年ほとんど関心はないのだが、今年は別だ。平和賞に国際NGO「核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)」の受賞が決まった。核兵器の非合法化と廃絶を目指す活動、とりわけ今年の核兵器禁止条約成立への貢献に対する顕彰だという。
朝日デジタルが、第五福竜丸平和協会をインタビューして、安田和也事務局長の「核廃絶への期待だ」「核兵器廃絶に向けた取り組みに対する期待へのあらわれだと思う」とのコメントを記事にし、「受賞を喜んだ」と報じている。私も、平和協会の活動に携わる者の一人として、そして核廃絶を強く願う立場の一人として、「核兵器禁止条約推進運動の受賞」を喜ぶべき立場にある。
しかし、こんなとき「本多勝一はどう言うのだろうか」と思う。彼こそは、私の尊敬するジャーナリスト。この人ほど、ブレのない筋を通す人も珍しい。その本多が、ノーベル賞について、「もともと『賞』というものはすべて基本的に愚劣なのだろう。その中でも特に愚劣なノーベル賞は、かくのごとく、言語的文化的には『人種差別賞』であり、平和に関しては逆に『侵略賞』である。こんなものに断じて幻想を抱いてはならない」(「ノーベル賞という名の侵略賞・人種差別賞」)と言っているのだ。
文中に、その具体例として次の一節がある。1973年11月の文章。
「さて、このたび、その合衆国のキッシンジャー氏、あのB52によるハノイ市絨毯爆撃・大虐殺に最も貢献したキッシンジャー氏に、こともあろうにノーベル『平和』賞が決定した。私は心底から『おめでとう』を言いたい。なぜなら、ノーベル賞というものがいかに愚劣きわまるものかを、大衆に理解されるためにこれは大変役立つからである。これほど明快に本質を見せつけてくれた例は、これまで少なかった。」
また、本多は1978年に、「笹川良一氏にノーベル賞を」という過激な一文をものしている。これが傑作だが、長くなるので引用を控える。さわりは、「笹川良一氏というバクチの胴元と、同氏が受章した勲一等」とを「犬の糞と馬の小便」の取り合わせにたとえるところ。「実にピッタリ、こんなによい受賞者は他に少ない」としたうえで、「笹川氏には、そろそろノーベル賞などいかがであろうか。私は心から推薦したい。それによってノーベル賞の『馬の小便』ぶりが一層みんなに理解される…」という。なお本多には、「天皇にこそノーベル賞を!」(1974年)というエッセイもある。核付き沖縄返還の佐藤栄作が受章したノーベル平和賞である。そのイメージがよかろうはずはない。
だから、「反核運動にノーベル平和賞」を素直に喜ぶことにやや躊躇を覚えるのだが、今回はわが国の政府のお陰で、この躊躇を払拭できそうなのだ。
これも、朝日デジタルの記事から。
「日本政府は、核兵器禁止条約の採択に貢献した核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)のノーベル平和賞受賞の報を複雑な思いで受け止めている。核廃絶へ向けた意義を認める一方、核・ミサイルの脅威を高める北朝鮮に触れ「遠く離れた国と、現実の脅威と向き合っている我々とでは立場が違う」といら立ちを見せる外務省幹部も。首相官邸と同省は受賞を受けてのコメントを出さなかった。
核禁条約は9月に50カ国以上が署名し、早ければ来年中の発効が見込まれる。ICANの受賞は、核禁条約を政治的に後押しする可能性があるが、日本政府の不参加の立場は変わらない見通しだ。
ただ、日本政府内では受賞を契機に新たな懸念も出始めている。核兵器廃絶に向けて、欧州は2015年にイランが核開発を制限する見返りに経済制裁を解除する合意を米国などとともに結んだ。欧州にはイラン核合意と同様のアプローチが北朝鮮にも有効との主張もあり、今回の受賞で北朝鮮との「対話」を促す機運が高まれば、圧力強化を呼びかけてきた日本の方針がつまずきかねない。」
客観的にみて今年のICANへのノーベル平和賞は、核保有大国に政策転換を迫る力をもつものだ。トランプ政権にもアベ政権にも大きな打撃となり、一方国際的な反核運動のうねりにこの上ない励ましとなるだろう。
朝日はこうも伝えている。
「共産党の小池晃書記局長は6日、朝日新聞の取材に「核兵器禁止条約を主導したNGOの受賞は核兵器のない世界を目指す動きを励ますことになる。逆に日本政府の異常ぶりが際立つことになった」と述べた。」
今回のノーベル平和賞については、「侵略賞・人種差別賞」ではないことを確認しよう。そして、素直に大いに喜ぼうではないか。
(2017年10月6日)