悪名高い「10・23通達」が発出されて今日が13年目となる。これまでの長い闘いを振り返り、これからを展望して「学校に自由と人権を!」集会が開かれた。「日の丸・君が代」関連の裁判の原告団ら14団体でつくる実行委員会が主催したもの。盛会だった。
今年の集会には、情勢を反映して「憲法を変えさせない! 誰も戦場に送らせない!」という副題がついた。メインの講演は青井美帆学習院大学教授。「戦争できる国と教育」の演題。そして、私が特別報告「『君が代』訴訟の新しい動きと勝利への展望」。
以下に、私のレポートのレジメを掲載して、集会の報告とする。
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『君が代』訴訟の新しい動きと勝利への展望
はじめにーWe Shall Overcome
あの日から13年 今も闘い続けていることの意味を再確認しよう
I do believe That we shall overcome some day.
Somedayではあるが、勝利を展望して闘い続けよう。
第1 「10・23通達」関連訴訟全体の流れ
1 高揚期(予防訴訟の提訴?難波判決)
※再発防止研修執行停止申立⇒須藤決定(04年7月)研修内容に歯止め
※予防訴訟一審判決(難波判決)の全面勝訴(06年9月)
2 受難期(最高裁ピアノ判決?)
※ピアノ伴奏強制事件の合憲最高裁判決(07年2月)
⇒これに続く下級裁判所のヒラメ判決・コピペ判決
※「君が代」解雇裁判・一審佐村浩之判決(07年6月)が嚆矢
取消訴訟一審判決(09年3月)も敗訴。
難波判決 高裁逆転敗訴(11年1月)まで。
3 回復・安定期(大橋判決?)
※取り消し訴訟(第1次訴訟)に東京高裁大橋判決(11年3月)
全原告(162名)について裁量権濫用として違法・処分取消
※君が代裁判1次訴訟最高裁判決(12年1月)
河原井さん・根津さん処分取消訴訟最高裁判決(12年1月)
君が代裁判2次訴訟最高裁判決(13年9月)
間接制約論(その積極面と消極面) 累積加重システムの破綻
原則・減給以上は裁量権濫用として違法取消の定着
4 再高揚期(福島判決?)
※いま確実に新しい下級審判決の動向
※最高裁判例の枠の中で可能な限り憲法に忠実な判断を。
10・23通達関連だけでなく、都教委の受難・権威失墜の時代
第2 最近の諸判決と、その要因
13年12月 「授業をしていたのに処分」福島さん東京地裁勝訴・確定
14年10月 再任用拒否(杉浦さん)事件 東京高裁勝訴・確定
14年12月 条件付き採用免職事件 東京地裁勝訴 復職
(15年1月 東京君が代第3次訴訟地裁判決 減給以上取消)一部確定
15年 2月 分限免職処分事件 東京地裁執行停止決定
15年 5月 再雇用拒否第2次訴訟 東京地裁勝訴判決
15年 5月 根津・河原井さん(07年)停職処分取消訴訟 東京高裁逆転勝訴
15年10月 岸田さん(ピアノ)減給(修正裁決)処分取消 東京地裁勝訴
〈16年 4月 再雇用拒否東京地裁判決(請求棄却)→控訴審継続中〉
15年12月 再雇用拒否第2次訴訟 東京高裁勝訴判決
(15年12月 東京君が代第3次訴訟高裁判決 控訴棄却)
(16年 7月 最高裁三小 東京君が代第3次訴訟で上告棄却・不受理)
16年 7月 岸田さんの高裁判決(都教委の控訴棄却)
※基調は、最高裁判例にしたがった下級審の姿勢だが、
※最高裁判決法廷意見と補足意見の積極面が生きてきている。
※また、都教委の暴走を看過できないとする裁判所の姿勢が見て取れる。
※各原告団・弁護団による総力の努力が相乗効果を産んでいる。
※粘り強く闘い続けたことの(一定の)成果というべきではないか。
第3 訴訟での勝利への展望
1 最高裁判決における到達点の確認
*「間接」にもせよ、思想・良心に対する制約と認めたこと
*2名の裁判官の反対意見(違憲判断) とりわけ宮川意見の存在
*多数裁判官の補足意見における都教委批判
2 最高裁判決が語ったことに対する反論ー正面突破作戦
*最高裁の「論理」の構造そのものを徹底して弾劾し、真正面から判例の変更を求める。裁判所の説得方法は、「大法廷判例違反」「学界の通説に背馳」「米連邦最高裁の判例に齟齬」などにある。
*職務命令違反による懲戒処分が戒告にとどまる限りは、懲戒権の濫用にあたらない。⇒すべての懲戒が権利濫用として違法になる。
3 最高裁判決が語っていないことでの説得ー迂回作戦
*最高裁は、権利侵害論については語ったが、制度論については語っていない。
*「主権者である国民に対して、国家象徴である国旗・国歌への敬意を表明せよと強制することは、立憲主義の大原則に違反して許容されない」という意を尽くした主張に、判決は応えていない。
*手厚く述べた憲法20条違反(信仰の自由侵害)の主張にも、憲法26・13条・23条を根拠とする「教育の自由」侵害の主張にも、また、子どもの権利条約や国際人権規約(自由権規約)違反の主張についても、最高裁は頑なに無視したままである。
第4 勝利への展望を切り開くもの
※法廷内の訴訟活動と、現場と支援の運動の連携。
そして、司法の体質を変える運動と。司法だけが「民主化」することの困難さ。
※都政を変える運動と展望を。
※文科省の教育政策を弾劾する運動を
*国際人権論からの政治的追求など
We shall overcome some day.(闘いを継続することなしに勝利は得られない)
(2016年10月23日)
盛岡地裁における「浜の一揆訴訟」の口頭弁論期日(10月28日)が近づいてきた。
前回期日(8月5日)から2か月半。この間に、被告が準備書面による主張を提出し、原告がこれに反論することになる。
☆前回までの原告漁民側の主張を要約すれば、以下のとおり。
※海洋のサケは無主物である。無主物先占の原則のとおり、誰でも獲った人がこれを自分の所有物にすることができる。漁民がサケの捕獲を継続反復して、漁労で生計をたてることは憲法22条に基づく「営業の自由」に属する。制約を受けない権利というものはないが、制約には相応の根拠が必要となる。例えば薬事法が定める薬局の距離制限を求める法律上の根拠に基づいて、薬局開設を不許可とした行政処分を最高裁は違憲と判断して取り消している。この理屈の構造は、本件と同じもの。営業の自由が軽々に制約されてはならない。小規模(20トン以下の小型船)漁民のサケ漁の許可申請には許可すべきが原則で、本件においては不許可の実質的理由すら示されていない。
※また、本件処分は形式的にも違法である。
不利益処分にはその理由を付記しなければならないが、根拠法条だけではなくその根拠法に該当する具体的な事実も付記しなければならない。しかし、本件の処分にはそのような記載がまったく欠けており、判例上違法として取消を免れない。
☆これに対して、被告岩手県は、9月20日付の準備書面で、初めて、一般漁民に「固定式刺し網によるサケ漁」を許可しない実質的な理由を整理して述べてきた。
以下のとおりである。
?岩手県の長年に亘るサケ産業(水産振興)政策とそれに基づく関係者の多大な尽力を根本的に損ねてしまうこと
?種卵採取というサケ資源保護の見地からも弊害が大きいこと
?各地漁協などが多大な費用と労力を投じた孵化放流事業により形成されたサケ資源をこれに寄与していない者が先取りする結果となり、その点でも漁業調整上の問題が大きいこと
?解禁に伴い膨大な漁業者が参入し一挙に資源が枯渇するなどの問題が生じること?沖合で採捕する固定式刺し網漁業の性質上、他道県との漁業調整上の摩擦も看過できないこと
?近年、県内のサケ資源が深刻な減少傾向にあること
以上の各理由は一応なりとも、合理的なものとは到底考えがたい。こんなことで漁民の切実な漁の自由(憲法22条の経済的基本権)が奪われてはならない。
☆各理由に通底するものは、徹頭徹尾定置網漁業完全擁護の立論である。およそいささかなりとも定置網漁業の利益を損なってはならないとする、行政にあるまじき偏頗きわまる立論として弾劾されてしかるべきでもの。利害対立する県民当事者相互間の利益を「調整」するという観念をまったく欠いた恐るべき主張というほかはない。
しかも、利害対立の当事者とは、一方は原告ら生身の零細漁民である。20トン以下の小型漁船で生計を立てる者で、法的には経済的基本権の主体である。そして対立するもう一方が、大規模な定置網漁業者である。その主体は、漁協単独の経営体であり、漁協と複数個人の共同経営体であり、株式会社であり、有限会社であり、定置網漁業を営む資本を有する経済力に恵まれた個人である。「浜の有力者」対「一般漁民」のせめぎあいなのである。
原告は、「定置網漁業者」と原告らのどちらに、サケを採捕せしめるべきが公平で合理的かという政策論争をしかけているのではない。原告の主張は、「定置網漁業者」の廃業を迫るものでもなければ操業規模を縮小せよというものでもない。定置網漁業者の利益が損なわれる虞があることを理由に、原告らに固定式刺し網によるサケの採捕の一律禁止をすることは法的になしえないと主張しているだけなのである。原告らの憲法上の経済的基本権を制約するに足りる憲法上の制約原理について、被告岩手県に課せられている主張挙証の責めが全うできるのかが問われている。
☆定置網漁業者の過半は、漁協である。したがって、被告の主張は、「漁協が自営する定置営業保護のために、漁民個人の固定式刺し網によるサケ漁は禁止しなければならない」ということに尽きる。
今回の書面のやり取りは、被告岩手県が徹底した「漁協ファースト」の原理を掲げ、原告が「漁民ファースト」をもって反論している構図である。
漁民の繁栄あっての漁協であって、その反対ではない。飽くまで「漁民ファースト」が当然の大原則。漁協の健全経営維持のために漁民の操業が規制される筋合いはない。
☆以下は、被告が「近年、県内のサケ資源が深刻な減少傾向にあること」を不許可の理由として挙げていることに対する批判の一節である。
「近年のサケ資源の減少傾向」が、固定式刺し網漁業不許可の理由とはなりえない。これを理由に掲げる被告の主張は、いわゆる「獅子の分け前」(Lion’s Share)の思想にほかならない。
漁協は獅子である。獅子がたっぷり食べて余りがあれば、狐にも分けてやろう。しかし今はその余裕がないから、狐にやる分け前はない。被告岩手県は無邪気に、傲慢な差別を表白しているのである。
行政は平等で、公正でなくてはならない。漁協を獅子とし、漁民を狐として扱ってはならない。原告ら漁民こそが人権の主体であり、漁協は原告ら漁民の便益に奉仕するために作られた組織に過ぎないのだから。」
(2016年10月22日)
松井一郎や。これでも、府民の人気で立っている大阪府知事。
ああ、確かに言うたがな。おとつい(10月19日)の夜や。ツイッターでな。「表現が不適切だとしても、大阪府警の警官が一生懸命命令に従い職務を遂行していたのがわかりました。出張ご苦労様」や。そのとおりやんけ。
そりゃあ、「土人」も「シナ人」も、言われた方は怒るわな。翁長はんが湯気立てて抗議をするのももっともやで。けどな、それも立場の違いや。翁長はんは翁長はんの立場で怒ったらええ。わいはわいで府民の立場で、警官を弁護せなならんのや。
こないだ民進党の蓮舫に、「行革は我々の原点。『まがい物』のようなところに持っていかれてはいけない」と、維新が「まがい物」扱いをされたやろう。これに対して、「どっちがまがい物なのか。『偽物』にまがい物と言われとうない」と言い返したった。ああ言いかえさなアカンのや。沖縄県民に大阪の機動隊員がポロカスに言われたら、言いかえさなアカン。言い返しにバッシングあったら、擁護せなアカンのや。
政治家は人気商売や。維新はとりわけそうなんや。口にはせんものの府民がホンマのところ何を考えているかを読まんなならん。タテマエばかりで行儀ようしていたら、たちまち見捨てられる。オモロイこともようけあるけど、所詮は因果な商売や。前任の橋下かてそうや。「風俗活用せえ」て、あんなこと言い続けて目立たなアカンのや。アメリカのトランプやて、そうやろ。あれだけ、突っ張っているからここまで持ちこたえてんのや。
大阪人の気質てのはこうやな。ひとつは東京への対抗心や。敵愾心いうてもええ。これが地元限定タイガース人気の秘密や。対東京・対中央の叛骨。もう一つは、準中央意識の地方見下し優越感や。この二つの感情を、いつも勘定に入れて、算段せなアカンのや。
今回は、本土意識で沖縄への差別感がもろに出てきたんや。突発的なことやあらへんし、きれいごとではおさまらん。タテマエだけで差別発言は許されんなどと言ってはおられんのや。そんな様子を見せたら、途端に維新の人気はがた落ち、府民から見離される。多くの府民の心の奥にあるどろどろとした感情を上手にすくいとらねばならんのや。
だから、昨日(10月20日)も記者団に「沖縄の人の感情はあるので言ったことには反省すべきだと思う」とタテマエを言いつつも、「そのことで(警察官)個人を特定され、あそこまで鬼畜生のようにたたかれるのはちょっと違うんじゃないか。相手もむちゃくちゃ言っている」とゆうたとおり、警官の肩をもたなならんのや。
しかしや、若い大阪の機動隊員が「ぼけ、土人が」「帰れ、シナ人」などとは、よう言うたもんやな。なんと言えば、相手を侮辱することができるのか、日ごろから考えておったんやろうな。「ぼけ、沖縄県人が」「ぼけ、琉球人が」「ぼけ、ウチナンチューが」では悪口にならへん。相手の胸に突き刺さらんのや。「土人」は、単なる未開野蛮の一般名詞やあらへんで。戦前のアイヌや、占領した南方諸島の人々に対する固有の歴史にもとづく立派な差別用語や。一億総差別主義に浸った大日本帝国臣民とその末裔に根強く残る差別の語感を見事に表現して、相手を侮辱する言葉になったんや。「おまえんとこは、日本やない。未開の蛮地やんけ。その未開のボケの土人がえらそうなことを言うな」というわけやな。これをつづめて「ぼけ、土人が」。見事なやっちゃ、あっぱれなやっちゃ。ほとぼり過ぎたら、大阪府民栄誉賞を考えんないかんとちゃうか。
「帰れ、シナ人」は、もっと政治性の高い発言やな。日本の仮想敵国に中国があって、中国の大国化が日本の脅威で、そのための日米安保強化が必要で、安保のための辺野古と高江だ。それを妨害する奴らは、中国の手先に違いない。さすが大阪府警の機動隊員。ものごとを深く見ているやん。なんてったって本土を守るための沖縄の基地や。四の五の言わずに、沖縄はみあいのカネだけもろうて基地の建設に協力すればええやんか。それに楯突く沖縄県民は中国の手先や。だから「帰れ、シナ人」。整然たる論理やんか。沖縄差別と中国差別を兼ねたダブル差別。
でもな。本音を言えば、こんなことになっているのはアベ内閣の責任や。本当の責任者が口を拭って涼しい顔をしてはるのはおかしいんやないか。これは、大阪対沖縄の戦闘とはちゃうが、明らかに大阪府民と沖縄県民の衝突や。こんな具合に衝突させている元凶は、アベさんあんたの無策や。失敗や。そのとばっちりを沖縄と大阪が受けている。
それを他人事と知らん顔とは、殺生やんか。ええ、アベ晋三はん。
それとももしや、この大阪府警機動隊員の差別発言が大きな話題となって、辺野古だけでなく、高江で何が起こっているのか、世間の耳目を集めたことを苦々しく思ってはると言わはんのかね。
(2016年10月21日)
過日、ある著名な宗教学者をお訪ねして、お話しを伺う機会を得た。
当方の思惑は、入学式・卒業式での国旗国歌強制を必ずしも違憲とは言えないとする最高裁判決の論理を覆す材料がほしい。憲法学や教育学以外の分野での学問的成果の教示を得たいということである。
キーワードは、「『儀式的行事』における『儀礼的所作』」。最高裁判例は、入学式・卒業式を「儀式的行事」と言い、その式次第の中の国歌斉唱を「(慣例上の)儀礼的所作」という。
判決の当該個所の要旨は、次のようなもの。
「(国旗国歌についての)起立斉唱行為は、学校の儀式的行事における慣例上の儀礼的な所作として外部からも認識されるものであって、特定の思想又はこれに反する思想の表明として外部から認識されるものと評価することは困難であり、上記職務命令は、当該教諭に特定の思想を持つことを強制したり、これに反する思想を持つことを禁止したりするものではなく、特定の思想の有無について告白することを強要するものともいえない。」
最高裁は、何の説明もないまま自明のこととして、「起立斉唱行為=儀式的行事における慣例上の儀礼的な所作」とし、それゆえ、「特定の思想とは関係性をもたない」というのだ。本当だろうか。これでよいのか。
もちろん、多くの教員が「そんなはずはない。自分にとって国旗国歌(あるいは日の丸・君が代)は、自らの思想・良心に照らして受け入れがたい。とりわけ、教員である身であればこそ、児童・生徒の前での起立斉唱はなしがたい」という。しかし、最高裁は、これを主観的なものに過ぎないとして結局は切り捨てる。思想・良心は、すべからく主観的なものである。これを「主観的なものに過ぎない」と軽く見て、ごく形式的な基準で切り捨てられては、日本国憲法が思想・良心の自由を保障した意味がなくなる。
が、いま問題にしているのは、その前のこと。「儀式」・「儀礼」とは何を意味するのだろうか。「儀式・儀礼だから、これを強制しても、思想・良心とは関わりない」などと言えるものだろうか。
「儀式」・「儀礼」といえば、宗教と密接に関連するものではないか。宗教学者から意見を聞きたい、予てからそう考えていた。
悪名高い「自民党改憲草案」の第20条3項(政教分離条項)は、次のとおりである。
「国及び地方自治体その他の公共団体は、特定の宗教のための教育その他の宗教的活動をしてはならない。ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りでない」
自民党は、20条3項に但書きを付することで、政教分離の壁に大穴を開けようとしている。その穴は、「社会的儀礼又は習俗的行為」である。おそらくは、神社参拝も玉串料や真榊奉納も、あるいは大嘗祭や即位の礼関連行事への参加も「社会的儀礼又は習俗的行為」としたいのだ。
自民党の「社会的儀礼又は習俗的行為」、最高裁の「儀式的行事における慣例上の儀礼的な所作」。前者は20条(政教分離)の問題、後者は19条(思想・良心の自由)の問題として語られているが、さて、両者はどう関わるのだろう。
こんな問題意識で伺った宗教学者のお話しは、歯切れよくたいへん有益だった。幾つも、知らないことを教えていただいた。まとめると以下のとおりだ。もっとも、私が理解した限りでのことだから、正確性は期しがたいことをお断りしておく。
「文科省の調査で、卒業式に国旗国歌を持ち込んでいるのは、中国と韓国と日本だけ。これは東アジア文化圏特有の現象。儒教文化の影響と考えてよい。
儒教の宗教性をめぐっては肯定説・否定説の論争があるが、儒教の中心をなす概念「孝」とは直接の親を対象とするものではなく祖先崇拝のことで、祖先の霊を神聖なものとして祀るのだから宗教性を認めるべきだろう。
その儒教では、天と一体をなす国家を聖なるものとみる。国家は宗教性をもつ神聖国家なのだから、国旗を掲げて国歌を奏することは、神聖国家の宗教儀式にほかならない。これが、中国の影響下の儒教文化圏の諸国だけで、教育現場に国旗国歌が持ち込まれる理由だと思われる。
宗教には、幾つかのファクターがある。「律法・戒律」「教義」「帰依の信念」などとならんで、「儀礼」は重要なファクターである。祭りという神事も典型的な儀式・儀礼であって、神道は儀礼を重視する宗教である。儀礼だから宗教性がない、などとは言えない。
儀礼には宗教的なものと世俗的なものがあり、その境界は微妙である。ハーバート・フィンガレットという宗教学者が、直訳すれば「孔子ー世俗と聖」という書物を著している。邦訳では、「孔子 聖としての世俗者」となっているようだ。この書に、儒教における神聖な国家像が描かれている。
日の丸・君が代の強制は、儒教圏文化の所産である神権的天皇制国家の制度として作られた儀礼。とりわけ、参列者が声を合わせて一斉に聖なる国家を讃えて唱うという行為は宗教儀式性が高い。同調して唱うことに抑圧を感じる人にまで強制することが神聖国家を支える重要なシステムとなっている。
明治維新を準備した思想の柱は、国学ではなく儒学だと考えられる。その中でも水戸学といわれるもの、典型は会沢正志斎の「新論」だが、ここで國體が語られている。國體とは神なる天皇を戴く神聖国家思想にほかならない。これが、明治体制の学校教育と軍隊内教育のバックボーンとなった。戦後なお、今もこれが尾を引きずっているということだ。」
なるほど、骨格としてはよく分かる。これをどう咀嚼し、肉付けして、憲法論とし、裁判所を説得する論理として具体的に使えるものとするか。それが、私たち実務法律家の仕事になる。
(2016年10月20日)
大正期の俳人渡辺水巴の句である。水巴は、高浜虚子に師事した職業俳人。その虚子の「俳句はかく解しかく味わう」(1918年原著刊)に、この句が以下のように解題されている。
王位は人間の第一位と考えなければならず、また王位に在る人の幸福も思いやられるのであるが、いずくんぞ知らん、その位置に在る人になって見ると、その王位にあることが非常の苦痛で、どうかして暫くの間なりともそれを離れて見たいような心持がする。この句は別に王位を退いたものとは見られぬが、とにかく自分の領土を離れて単に一人の旅人となれば、もう自分の身にはその王位はなくなって、いかにも気軽な一私人となったのである、折節時候は春の事であるから、うららかな春風はその一私人の衣を吹いて、心も身ものびのびとするというのである。
王位は皇位と読み換えてよい。100年前のことではなく、今の世のことに置き換えることができる。そして、表からだけではなく、裏からも読み解かねばならない。
皇位は生まれながらの日本国民統合の象徴と考えなければならず、誰の目にもその地位に在る人の好運と幸福が思われるのであるが、いずくんぞ知らん、その立場に在る人になって見ると、神ならぬ生身の人間の悲しさ、その皇位にあることが非常の苦痛で、どうかしてそれを離れたいという心持になる。しかも高齢になれば、なおさらのことなのである。
この句は皇位を退いた者について詠んだものではなく、とにかく自分を縛るこの領土を離れて単に一人の旅人となれば、もう自分の身にはその皇位はなくなって、ひとときなりともいかにも気軽な一私人となれるのではないか、との空想と願望とを、皇位にある者に代わって詠んだものである。そのようなことが実現すれば、折節時候は春の事であるから、うららかな春風はその皇位を離れた一私人の衣を吹いて、心も身ものびのびとするというのであるが、それは空想の世界におけるだけのこと。現実には、たまさか領土を離れても、一私人とはなり得ぬこの身に冷たい秋風が心に沁みる不運・不幸を、皇位にある者に代わって嘆く句と読み解くべきなのである。実に不幸の形は多様で多彩なのだ。
天皇の生前退位希望を100年前の水巴が予見していたとも言えるし、皇位にあることの苦痛やプレッシャーはいつの時代でも誰の目にも「お気の毒さま」と同情するしかないのだ、とも言えるだろう。
(2016年10月19日)
ドナルド・トランプだ。共和党の大統領候補だ。
オレこそ、アメリカ大統領にふさわしい。
きっとオレが大統領になる。
なんてったって、デモクラシーのアメリカなんだから。
デモクラシーってなんだ?
民衆の望みを実行することだろう。
民衆がパンを望めばパンを。
民衆がサーカスを望めばサーカスを。
これが、デモクラシーの原点だ。
そのために、民衆と権力が一体となっていることだ。
民衆が民主的な指導者を選ぶってことだ。
民主的な指導者ってなんだ?
民衆のホンネを掬って実現することのできる人物だ。それがオレさ。
民衆はなかなかホンネをしゃべらない。
本当は誰もが、排外主義者じゃないか。
ホンネのところは移民を受け入れたくはない。
そうして、仕事と安寧を守りたいのだ。
それだけじゃない。
女が対等に振る舞うことは煙たいのだ。
異なる人種や民族や宗教には違和感があるのだ。
でも、みんな表面を取り繕って、人権尊重だの差別はいけない、なんて言う。
ロッカールームこそ、ホンネを語る場所。
ロッカールームでの発言こそが民衆の願望だ。
これに耳を傾けるのが、最も民主的な政治指導者というもんじゃないか。
オレはロッカールームの会話が大好きだ。
ホンネを語ろう。ホンネに耳を傾けよう。
デモクラシーとは、民衆がそのレベルにふさわしい権力を作ることだ。
ロッカールームで語るホンネにふさわしい指導者を選ぶことだ。
その意味でオレこそが、最も合衆国国民のホンネのレベルにぴったりの大統領なのだ。
合衆国の民衆は、オレ以上のレベルの大統領ももつことはできない。だから、この選挙に勝ってアメリカ合衆国の大統領になるのはオレなのだ。
オレに権力を与えるデモクラシー万歳。
オレを大統領に押し上げるロッカールームデモクラシー万歳。
(2016年10月18日)
「DHCスラップ訴訟」勝訴確定の第一報を受けて以来10日が経過した。なんとたくさんの人から祝意を受けたことだろう。そして嬉しいことに、多くの人から、「今後DHCの製品は絶対に買わない」「DHCのコマーシャルにはスイッチを切る」「機会あるたびに、周りの人にDHCや吉田嘉明の酷さを知ってもらうようお話ししている」と言ってもらった。
ブログを見た高校時代の友人から、メールが届いた。
「やっと無罪放免?となったようで、良かった。おめでとう。…普通なら、『齢も齢だから、マアあまり無理をしたりトラブルを起こさないようにしたら、』などと言うところだけど、澤藤君に対しては無意味、あるいは失礼になるのかな? 昨秋以来、TVコマーシャルにDHCが出てくるとチャンネルを換えたり、実生活においては、サプリメントなどは全く使わなくなったり・・・」
不愉快な思いはさせられたが、負けずにがんばった甲斐があったというものだ。スラップ常習者には相応の報いがなければならない。
ところで、ここ1年ほど、私の自己紹介は次のようなものだった。
「私は、現役の『弁護士』です。弁護士とは社会正義と人権の守り手。法を武器に、弱者の側に立って権力や富と闘うのが本来の任務。私こそがそのような弁護士だと自負しています。そして、私は『ブロガー』です。毎日「澤藤統一郎の憲法日記」を書き続けています。そのネタは、弁護士としての業務と関係し、どれもこれも権力や権威や経済的な強者には、当たり障りのあるものばかり。さらに、私は『被告業』を営んでいます。2014年5月以来、当ブログの記事が名誉毀損に当たるとして、DHCと吉田嘉明から仕掛けられた不当極まるスラップ訴訟の被告です。提訴時には2000万円、後に請求は拡張されて6000万円の損害賠償請求訴訟。その応訴には煩わしさがつきまといます。もちろん、心理的な負担も大きい。
以上の『弁護士』『ブロガー』『被告業』は、私の中では三位一体なのです。弁護士は社会から与えられた自由を、臆することなく怯むことなく適切に行使する責務があると思っています。ブログはその責務を果たす場。その遠慮のない強者糾弾の記事で6000万円請求の提訴を受けたのですから、一歩も引けない。弁護士が不当な圧力に屈して、批判の言論を萎縮するようなことがあってはならない。被告としての応訴の実態も、ブログに発表することで、弁護士としての職業倫理の責めを果たしていると考えているのです。」
その私が、勝訴確定によって被告であり続ける資格を失った。2年と半年の間、暖め続け慣れ親しんだ被告の座。憤ったり、不愉快な思いもしたが、今は懐かしさを込めて振り返り、ここに厳粛に『被告業廃業宣言』をせざるを得ない。
続いて、話題は再就職に及ぶことになる。私は被告業を廃業しても、「元被告」の地位は持ち続けることになる。なにより、私は弁護士であり続け、ブロガーとしての記事の掲載も続けていく。DHCスラップ訴訟の後始末もしなければならない。
「被告業」を辞して、「元被告業」を営むというのでは積極性に欠ける。考えた末、「スラップ糾弾業」への転職宣言をすることとしたい。
私は、平和や政教分離、国旗国歌問題、政治とカネ、思想・良心の自由、教育を受ける権利、消費者問題、医療・薬害などに関心をもってきた。以前からスラップ問題に格別の思い入れがあったわけではない。しかし、不本意ながらもスラップの当事者となった。この問題に取り組むボルテージは自ずから高い。このテーマについては、社会から私に期待するところも小さくなかろう。
被告業をやめるとは、スポーツ選手が現役を引退するようなものだ。引退後、さっぱりとその世界から足を洗う生き方もあるが、監督としてあるいはコーチとして、あるいは解説者としての再スタートもある。
私の「スラップ糾弾業」就業宣言は、現役引退後のスポーツ選手が、その経験を活かして監督か解説者に転進するようなもの。元スラップ被告の私が、スラップの害悪を世に語り続ける語り部となろうという決意の表明である。
とりあえずは報告集会を開かねばならない。パンフレットも作ろう。そして、私のブログでは、DHC・吉田のやり口を繰りかえし語ろう。政治とカネの問題だけでなく、サプリメントの安全に保証のないことを広くみんなに知らせよう。スラップの薄汚さを社会に周知せしめよう。
もっともっと多くの人に、「今後DHCの製品は絶対に買わない」「DHCのコマーシャルにはスイッチを切る」「機会あるたびに、周りの人にDHCや吉田嘉明の酷さを知ってもらうようお話ししている」と言ってもらえるようにする努力。それが私のなすべきこと。そのような「スラップ糾弾業」と、「弁護士」および「ブロガー」の三者は、私の中で三位一体なのだ。
(2016年10月17日)
本日(10月16日)の21時04分、朝日新聞デジタルが、「号外」を出した。「新潟県知事選で、医師で野党系候補の米山隆一氏(47)の当選が確実になった」という。おっ、なんと見事な。欣快の至り。
勝負にならない⇒背中が見える⇒急追⇒接戦⇒大接戦⇒横一線 との変遷が報じられてはいた。
「県民世論は原発再稼働反対なのだから、この世論を票に取り込めば勝てる」「TPP問題も今や大きな追い風」とも聞かされてはきた。
それでも、相手は「自民・公明」+「経済界・電力業界・連合」である。なかなかに勝てそうな気はしない。またまた、善戦むなしく…となるのではないか。本当に「当確」なのだろうか。糠喜びではなかろうか。
そして21時10分に続報。「新潟県知事選は16日投票され、無所属新顔で医師の米山隆一氏(49)=共・社・由推薦=が、同県・前長岡市長の森民夫氏(67)=自・公推薦=ら無所属新顔3氏を破り、当選が確実になった」。これで、まずは間違いなかろう。
米山当選の意義は、大きくは二つ。まずは、原発再稼働否定の民意が確認されたこと。これはとてつもなく重く大きい。
世界最大規模のプラント・柏崎刈羽原発を地元に抱え、事実上その再稼働の可否を問う選挙である。「原発再稼働問題の今後を左右する天王山」「最も重要な自治体選挙」と位置づけられたこの選挙に示された民意の重さは格別である。川内原発の停止を求めている三反園訓鹿児島県知事との連携を期待したい。
そしてもう一つは、野党共闘の拡大・強化への弾みである。「市民」と野党の共闘候補が勝利した意味は大きい。野党共闘は「共産・社民・自由」の3党推薦で、民進自主投票となったが、蓮舫代表までが応援にはいった。変則ではあったが、実態としては4野党共闘に限りなく近い。また、無党派市民の応援活動も大きいと報じられていた。
解散・総選挙が近いと噂されるこの時期である。「1議席を争う選挙では、野党共闘なくして勝利はない」「1議席を争う選挙でも、野党の共闘あれば現実に勝利が可能だ」という今回選挙での実例が示した成果のインパクトが大きい。
自・公勢力が各議院で議席の多数を占めているのは、小選挙区が生み出す死票のマジックによるもの。これまで野党は、分断され、各個撃破されてきたのだ。アベ政治とは、そのような上げ底議席に支えられてのことなのである。
新しい時代、新しい局面の幕開けを予感させる。
原発再稼働・TPPなどを経済の柱に据えようというアベ政権である。自公推薦候補の敗北は、現政権の終わりの始まりという予感がする。
(2016年10月16日)
9月30日、「軍学共同反対連絡会」が結成された。
同連絡会は軍学共同に反対する科学者と市民の情報ネットワークであり、運動体でもある。池内了名古屋大学名誉教授・野田隆三郎岡山大学名誉教授・西山勝夫滋賀医大名誉教授の3氏を共同代表として、発足時の参加者は17団体と122個人。法律家団体である日民協も名を連ねている。現時点での参加団体は以下のとおり。
軍学共同反対アピール署名の会
大学の軍事研究に反対する会
「戦争と医」の倫理の検証を進める会
日本科学者会議(全国)
地学団体研究会
平和と民主主義のための研究団体連絡会議
日本民主法律家協会
民主教育研究所
日本私立大学教職員組合連合
東京地区大学教職員組合協議会(都大教)
武器輸出反対ネットワーク(NAJAT)
日本平和委員会
日本科学者会議平和問題研究委員会
日本科学者会議埼玉支部 新潟大学職員組合
大学問題を考える市民と新潟大学教職員有志の会
京滋私大教連
九条科学者の会かながわ
大学での軍事研究に反対する市民緊急行動(略称 軍学共同反対市民の会)
なお、事務局長・事務局として赤井純治・香山リカ、小寺隆幸、多羅尾光徳の諸氏。
当面の取り組みの焦点が、日本学術会議への働きかけ。同会議に設けられた「安全保障と学術特別委員会」の動向を注視し、問題点を広く世に訴えるとともに、市民の声を学術会議に届ける取り組みを行うことが確認された。そしてもう一つが、紐付き防衛研究委託(安全保障技術研究推進制度)の是正である。
結成当日(9月30日午後)の記者会見での共同代表らの発言に、現在の問題点がよく表れている。
「デュアルユースが大きな問題だと盛んに言われるが、安全保障のためならいいのではという意見が出ている」
「学術会議会長が『個別的自衛権の範囲内なら許せるのではないか』と発言したことに衝撃を受けている」
「防衛と攻撃の線引きは不可能。多くの戦争は自衛のためにおこなれた。自衛のための戦争は口実に過ぎない」
「自衛を強化すると、必ず攻撃も強化する。エスカレーションの論理の行き着く先が核兵器」
「軍用と民用は区別がつかない。軍がお金を出すのは軍事用に使うという目的があるから。政府は核兵器の使用も憲法に違反しないと発言している。」
「ノーベルは無煙火薬は究極だからこれで戦争は行われなくなると考えたが使われた」
「軍学共同になる大きな理由の一つに財政的貧困がある。教育研究予算が少ない。これを根本的に改善しないと解決できない。」
法的な課題としては、何よりも憲法が柱とする平和主義との関わりがある。そして、憲法23条「学問の自由・大学の自治」と26条「教育を受ける権利」を、この問題にどう具体化するかを検討しなければならない。さらに、日民協の会合で、次のような指摘があった。
「大学や学術機関が防衛研究に関われば、特定秘密保護法の網が被せられることになる。研究が秘密の壁で隔てられるだけでなく、大学が権力の監視に取り込まれることになる」。なるほどそのとおりだ。
これまで、学術会議は学術研究の軍事利用を戒める厳格な態度を貫いてきた。ところが、前会長広渡清吾氏とは対照的な大西隆現会長になってからは様相が変わった。政権や防衛省の意向を汲もうというのだ。日本の科学・学術の研究のあり方を大きく軍事技術容認の方向に舵が切られかねない。
その学術会議は、1950年4月の総会採択の「戦争を目的とする科学の研究には絶対従わない決意の表明(声明)」では、「再び戦争の惨禍が到来せざるよう切望するとともに、科学者としての節操を守るためにも、戦争を目的とする科学の研究には、今後絶対に従わないというわれわれの固い決意を表明する」と言っている。
また、 学術会議は、さらに67年の総会でも「軍事目的のための科学研究を行わない声明」を出している。「われわれは、改めて、日本学術会議発足以来の精神を振り返って、真理の探究のために行われる科学研究の成果が平和のために奉仕すべきことを常に念頭におき、戦争を目的とする科学の研究は絶対にこれを行わないという決意を声明する。」
以上の理念が、長く日本の科学者の倫理と節操のスタンダードとされ、これに則って大学や公的研究機関の研究者は軍事研究とは一線を画してきた。当然のことながら、日本国憲法の平和主義と琴瑟相和するもの。ところが、いま、この科学者のスタンダードに揺るぎが生じている。言うまでもなく、平和憲法への攻撃と軌を一にするものである。
大西隆は、学術会議に「安全保障と学術に関する検討委員会」を設け、軍事研究を認めない従来の姿勢の見直しを検討している。もちろん、背後に政権や防衛省の強い意向があってのことである。
政権は、軍事技術の研究進展の成果によって防衛力を強化したい。あわよくば、防衛力だけでなく攻撃力までも。軍事研究とその応用は、経済活性化の手段としても期待されるところ。憲法9条大嫌いのアベ政権である。この要求に大西隆らが呼応しているのだ。
とはいうものの、露骨な軍事研究容認は抵抗が強い。そこで持ち出されているのが、「デュアルユース」という概念。民生用にも軍事用にも利用することができる技術の研究ならよいだろうという口実。なに、「薄皮一枚の民生用途を被せた軍事技術の研究」にほかならない。
問題は深刻な研究費不足であるという。政権や防衛省が紐をつけた軍事研究には、予算がつく。昨年(2015年)に始まったこと。アベ政権の平和崩しは、ここでもかくも露骨なのだ。
安全保障技術研究推進制度とは、1件3000万円(程度)の研究費を付けて募集する。毎年10件を採用するという。その成果は、防衛省が「我が国の防衛」「災害派遣」「国際平和協力活動」に活用するが、それだけではなく「民生用の活用も期待する」とされている。
防衛省自身が次のとおり述べている。
「これまで防衛省では、民生技術を積極的に活用し、安全保障に係る研究開発の効率化を図ってきたところですが、昨今の科学技術の進展を踏まえ、より一層革新的な技術に対する取組みを強化すべく、広く外部の研究者の方からの技術提案を募り、優れた提案に対して研究を委託する制度を立ち上げます。」
「本制度の研究内容は、基礎研究を想定しています。得られた成果については、防衛省が行う研究開発フェーズで活用することに加え、デュアルユースとして、委託先を通じて民生分野で活用されることを期待しています。」(防衛省ホームページ)
さらに大きな問題は、大西が「1950年、67年の声明の時代とは環境条件が異なって専守防衛が国是となっているのだから、自衛のための軍事研究は許容されるべき」と発言していることだ。
「デュアルユース」とは、技術研究を「民生用」と「軍事用」に分類し、「軍事用研究」も「民生」に役立つ範囲でなら許容されるというもの。ところが、「軍事用研究」の中に「専守防衛技術」というカテゴリを作ると、「専守防衛のための軍事技術は国是として許容されるのだから、民生に役立つかどうかを検討するまでもない」となる。結局は限りなく、許容される軍事技術の研究分野を広げることになる。
防衛用と攻撃用の軍事技術の境界は見定めがたい。状況次第で、どこまでもエスカレートすることになるだろう。近隣諸国へも、挑発的なメッセージを送ることになりかねない。一国の「防衛」力の増強は、「抑止力」を発揮するとは限らない。近隣諸国への疑心と武力増強のスパイラルをもたらすことになるのだ。
戦争法反対運動では、非武装平和(ないしは、非軍事平和)派と、専守防衛(個別的自衛権容認)派とが共闘して、限定的集団的自衛権容認派と闘った。いま、現前に見えてきたものは、専守防衛(個別的自衛権容認)是認を口実とする軍事技術研究容認である。
飽くまで、日本国憲法は、非武装平和(ないしは、非軍事平和)を原則としていることを確認しなければならない。
(2016年10月15日)
本日は、東京「君が代」裁判第4次訴訟での原告7名についての本人尋問。東京地裁103号大型法廷で、午前9時55分開廷午後4時30分閉廷までの長丁場。充実した、感動的な法廷だった。
10・23通達関連の訴訟は数多いが、そのメインとなっているのが、起立斉唱命令違反による懲戒処分取消を求める「東京『君が代』裁判」。172名の1次訴訟から始まって、現在一審東京地裁民事第11部に係属しているのが4次訴訟。
2010年から2013年までの間に、17名に対して懲戒処分22件が発せられた。その内の14名が原告となって、19件の処分取消を求めている。なお、処分内容の内訳は、「戒告」12件、「減給1月」4件、「減給6月」2件、「停職6月」1件である。
主張の骨格として、第1に、公権力は、立憲主義の構造上、主権者に対して、国家象徴に敬意表明を強制する権限をもたないとする立論(「客観違憲」と呼んでいる)をし、また第2に、個人の権利侵害による違憲違法性として、憲法19条、23条、26条違反ならびに国際条約等に違背する(「主観違憲」)ことを主張している。さらに、本件各懲戒処分が裁量権を逸脱・濫用したものであることを主張している。
申請のとおりに原告13名の本人尋問が採用されて、本日(10月14日)7名、次回(11月11日)に6名の尋問が行われる。
本日7名の原告は、それぞれの立場から処分の違憲違法を基礎づける事実を語った。皆が、児童・生徒を主人公とし、それに向かい合う真摯な教育実践を語り、その教育理念と真っ向背馳するのが、「国旗国歌」ないし「日の丸・君が代」に象徴される国家主義的教育観であり、公権力による教育支配であると述べた。
ある者は、侵略戦争と植民地支配をもたらした戦前の教育の誤りを語り、その轍を踏んではならないとする思いから日の丸・君が代を受容できないとし、またある者は、教員としての良心において、生徒に国家主義を刷り込む行為に加担できないとし、またある者は生徒の前で面従腹背の恥ずべき行為はできないとした。
明らかになったことは、誰もが悩みなく不起立を貫いているのではないこと。多くの原告が、最初は不本意ながらも起立していたという。強い同調圧力と懲戒処分の威嚇効果からである。累積処分が職を奪うことになる恐怖心から不本意な起立を重ねたという原告がほとんど。しかし、やがて真剣に生徒に向かい合おうとする努力の中で、不本意な起立に訣別する。悩みながらも、自分を励まして、起立強制を拒否するに至る。問題の深刻さから体調を崩し、精神的なバランスを崩したりの葛藤の末にである。さながら、感動的な7本の人間ドラマを観ている趣だった。
また、各原告は「10・23通達」体制下で、教育現場がいかに変わったか。都教委の横暴が、現場をいかに荒廃させたかを語った。職員会議での採決禁止通達以来、教員集団の教育力は地に落ち、教員の情熱も自発性も責任意識も、既に大きく失われてしまったとの証言は生々しい。
私が主尋問を担当した教員は、不本意ながらも起立を続けたあと、大きな緊張と決意で不起立に転じた。しかし、5回の不起立は現認処分なく経過し、6回目から処分されるようになった。その後、現認と処分が繰り返され、3度の戒告処分を受けたあと、2度の減給処分を受けている。
この教員は次のように述べている。
「反省なく、不起立を繰り返せば処分を重くするのは当然、という考え方には同意できません。一般的な非違行為であれば、反省を欠くとして繰り返しの処分が重くなることは理解できます。しかし私は、自分の思想や良心に照らして、起立できないのです。非違行為といわれること自体も不本意で、反省の色が見られないと言われても反省のしようがありません。」
「もちろん戒告も納得できませんが、4回目と5回目の処分が戒告ではなく減給になっていることについては、どうしても納得できません。私の思想や良心は不可分の一個のものです。何回目の不起立であろうとも、職務命令に従えなかった理由は、同じ一個の思想・良心に基づくということです。ですから、私の思想良心が変わらない限り、同様の状況で職務命令が出されれば、結果として何度でも不起立とならざるを得ません。私に、『反省して起立せよ』というのは、思想や良心を変えろ、あるいは屈服せよ、ということです。減給処分は、そういう脅しにほかなりません。」
次回(11月11日)午前9時55分から午後4時30分まで、6名の原告尋問が、同じ103号法廷で行われる。関心おありの方には是非傍聴をお薦めする。いま、この社会で、東京の教育現場で起こっている現実が語られる。貴重な体験となると思う。
(2016年10月14日)