10月27日、三笠宮が亡くなった。もうすぐ葬儀が始まる。
没後、メディアはこの人の人生について相当量の情報を提供した。準備があったということだ。色川大吉や中根千枝らと親しい間柄とは知らなかった。宮地正人や樋口陽一らと座談会も行っているという。
新聞論調は、挙げて「リベラルで飾らぬ人柄」を偲ぶという内容。「戦争への反省を貫いた皇族」「皇族でありながら紀元節復活に反対した理性の人」という描き方。
三笠宮個人史にさしたる関心はないが、「リベラルな皇族」というメディアの描き方が国民意識に及ぼす影響には大いに関心をもたざるを得ない。ことは、象徴天皇制をどう構想し、現在の皇室のあり方をどう評価するかに関わる問題なのだから。
10月28日東京新聞の社説がひとつの典型であろう。
故人を「国民に親しみやすくも、信念の人だったに違いない。」と言っておいて、こう続ける。
「天皇や皇族のお立場をひと言で言い表すのは難しい。しかし、戦後の皇室の在り方を振り返ると、国民とともに歩み、国民に寄り添う存在であってほしいというのが国民の願いであり、皇室自身も目指してきた姿ではなかろうか。
つい先ごろ、天皇陛下が生前退位を望まれ、ビデオメッセージで静かに、また力強く、その胸中と意思を述べられたのは記憶に鮮やかであり、陛下の人間としての魅力と存在感に、聞く者は深く胸打たれもした。」
「三笠宮さまの率直な発言や親しみにあふれた行動を振り返る時、そこに皇室・皇族のひとつの理想像を思い浮かべてもいい。」
東京新聞のリベラルってこんなものだったのか。心底落胆するほかはない。
「陛下の人間としての魅力と存在感に、聞く者は深く胸打たれもした。」などという気恥ずかしい文章は、ジャーナリストの筆になるものとは思えない。「陛下」とは、どこかの「教祖」か「敬愛する将軍様」並みの扱いではないか。形を変えた、臣民根性丸出しというほかはない。三笠宮個人の好感度が、天皇制支持への国民意識の動員に、最大限利用されているのだ。
三笠宮の好感度の根拠となる生前語録は各紙が紹介している。たとえば…。
戦時中に支那派遣軍総司令部で行った彼の講話の原稿「支那事変に対する日本人としての内省」が残されているという。「中国の抗戦長期化の原因に挙げられているのは、日本人の『侵略搾取思想』や『侮華(ぶか)思想』であり、また抗日宣伝を裏付けるような『日本軍の暴虐行為』などなどだった。後に司令部はこの印刷原稿を『危険文書』とみなし、没収・廃棄処分にしたといわれる」(毎日・余録)
「帝王と墓と民衆」という著書中の「わが思い出の記」に以下の印象的な一文があるそうだ。
「(敗戦、戦争裁判という)悲劇のさなかに、かえってわたくしは、それまでの不自然きわまる皇室制度――もしも率直に言わしていただけるなら、『格子なき牢獄』―から解放されたのである」(朝日)
皇族が、皇室制度を「不自然きわまる」とし、「格子なき牢獄」とまで言ったのだ。もっとも、これは戦前の制度に関してのことだが、戦後「不自然きわまる格子なき牢獄」は本当になくなったか。囚人は解放されたのだろうか。
「昭和十五年に紀元二千六百年の盛大な祝典を行った日本は、翌年には無謀な太平洋戦争に突入した。すなわち、架空な歴史を信じた人たちは、また勝算なき戦争を始めた人たちでもあったのである」(「紀元節についての私の信念」文芸春秋59年1月号)
これも、朝日が紹介している。「架空な歴史を信じた人たちは、また勝算なき戦争を始めた人たちでもあった」というのは、この人が言えばこその重みがある。
制度と人とは分かちがたく結びつき、人の評価が制度を美化し、制度の肯定評価に重なるおそれを払拭しがたい。伝えられる限りでは、個人としての三笠宮の好感度は皇族の中では抜群のものだろうが、それだけに、これを天皇制の肯定評価に結びつけようという動きにこそ警戒しなければならないと思う。
(2016年11月2日)
東京「君が代裁判」弁護団会議の都度、議論が繰り返される。入学式・卒業式での国旗国歌強制を違憲とは言えないとする最高裁判決の論理を覆すヒントがほしい。裁判官に頭を切り換えてもらう法律分野以外での学問的成果の教示を得たい。
我々の前に立ちはだかっている最高裁判決の「壁」となっているのは、次の文章である。
「本件各職務命令の発出当時,公立高等学校における卒業式等の式典において,国旗としての『日の丸』の掲揚及び国歌としての『君が代』の斉唱が広く行われていたことは周知の事実であって,学校の儀式的行事である卒業式等の式典における国歌斉唱の際の起立斉唱行為は,一般的,客観的に見て,これらの式典における慣例上の儀礼的な所作としての性質を有するものであり,かつ,そのような所作として外部からも認識されるものというべきである。したがって,上記国歌斉唱の際の起立斉唱行為は,その性質の点から見て,上告人らの有する歴史観ないし世界観を否定することと不可分に結び付くものとはいえず,上告人らに対して上記国歌斉唱の際の起立斉唱行為を求めることを内容とする本件各職務命令は,上記の歴史観ないし世界観それ自体を否定するものということはできない。
また,上記国歌斉唱の際の起立斉唱行為は,その外部からの認識という点から見ても,特定の思想又はこれに反対する思想の表明として外部から認識されるものと評価することは困難であり,職務上の命令に従ってこのような行為が行われる場合には,上記のように評価することは一層困難であるといえるのであって,本件各職務命令は,特定の思想を持つことを強制したり,これに反対する思想を持つことを禁止したりするものではなく,特定の思想の有無について告白することを強要するものということもできない。そうすると,本件各職務命令は,これらの観点において,個人の思想及び良心の自由を直ちに制約するものと認めることはできないというべきである。」(2011年6月6日第一小法廷)
もっとも、このあとには最高裁の弁明めいた文章が続き、「個人の歴史観ないし世界観に由来する行動(敬意の表明の拒否)と異なる外部的行動(敬意の表明の要素を含む行為)を求められることとなる限りにおいて,その者の思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面があることは否定し難い。」とは言うのだ。しかし、飽くまで、「(国旗国歌に対する起立斉唱を強制する)本件各職務命令は,個人の思想及び良心の自由を直ちに制約するものと認めることはできない」という原則が後生大事に貫かれている。
最高裁の「論理」におけるキーワードは、「儀式的行事」における「儀礼的所作」である。最高裁は、入学式・卒業式を「儀式的行事」と言い、その式次第の中の国歌斉唱を「(慣例上の)儀礼的所作」という。最高裁は、何の説明もないまま、自明のこととして、「『儀式的行事』における『儀礼的所作』」だから、思想・信条とは無関係だという。最高裁の言葉をそのまま使えば、「学校の儀式的行事である卒業式等の式典における国歌斉唱の際の起立斉唱行為は,慣例上の儀礼的な所作としての性質を有するものである。したがって,国歌斉唱の際の起立斉唱行為は,各教員の有する歴史観ないし世界観を否定することと不可分に結び付くものとはいえ(ない)」というのだ。
この最高裁の「論理」は、「儀式的行事」「儀礼的所作」という必ずしも明確ではない概念を介在させることによって、学校儀式での日の丸・君が代強制を、思想・良心の問題と切離そうというものである。
「日の丸」と「君が代」。そのいずれも、歴史的な負の遺産としての側面を否定しようのない存在である。また、国旗国歌(国家象徴)としては、その取り扱いにおいて、個人と国家との関係についての価値観が直截に表現されるものでもある。「日の丸」と「君が代」、これほど歴史観、国家観に関わるシンボルはない。この歌や旗にどう向かい合うかが、思想・良心に無関係なはずはない。
ところが、最高裁は、「日の丸に向かって起立し君が代を斉唱する行為」と、日の丸・君が代が象徴した「天皇制国家の侵略戦争・植民地支配・国家主義・軍国主義・人権否定・差別肯定等々の負の側面」(負とは、日本国憲法の理念に相反することをいう)とを切り離したのだ。その道具が、両者に介在させられた「儀式的行事」と「儀礼的所作」のキーワードである。
さすがの最高裁も直接に「国旗国歌(日の丸・君が代)の強制は、思想良心に無関係」とは言えない。そこで持ち出された策が、こういう「論理」だ。「日の丸・君が代への起立斉唱は『儀式的行事における儀礼的所作』に過ぎない」。「『儀式的行事における儀礼的所作』であるから思想良心には無関係」「だから、『儀式的行事における儀礼的所作』に過ぎない日の丸・君が代を強制しても、思想・良心を侵害したことにはならない」
このような最高裁の「論理」は、到底理性ある国民を納得させるものではありえない。
この論理の核心をなすものは、『儀式的行事における儀礼的所作だから、特定の思想や良心(歴史観ないし世界観)を否定することと不可分に結び付くものとはいえ(ない)」という部分である。「儀式的行事における儀礼的所作だから思想的には無色」というドグマ。これを徹底して批判しなければならない。
私は、「儀式的行事における儀礼的所作」とは、世俗性よりは宗教性に馴染むものと思う。著名な宗教学者の示唆によってこのことを確信するようになった。儀式・儀礼は宗教行事の重要な要素である。儀式の参加者総員が、日の丸に向かって起立し君が代を斉唱する図は、まさしく「宗教儀式における各信仰者の宗教儀礼たる所作」である。
また、問題はさらに根深い。仮に、国家神道のシンボルであった「日の丸・君が代」の宗教性が客観的に払拭されているにせよ、問題は幾つも残ることになる。
まず、日の丸・君が代の強制を自己の信仰に対する侵害と観念し、「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない」という憲法20条2項の抵触が生じる。
また、宗教儀式や儀礼の強制(あるいは禁止)が、なぜ個人の信仰や宗教上の信念を侵害するものとされているかを把握しなければならない。特定の宗教における儀式や儀礼という身体的な所作と、その宗教の教義や帰依の信念とが、密接に結びついているからである。
ことは、20条の信仰の自由にとどまらない。19条が保障の対象としている思想・良心の自由においても同様に身体的な強制(禁止)が思想良心を直接に侵害することになる。むしろ、思想・良心に反する行為の強制こそは、思想・良心に対する侵害の典型的なあり方というべきなのである。
その意味では、国家神道(天皇教)を国教とした旧憲法時代には、権力が宗教の自由を徹底して抑圧しただけでなく、宗教に無関係な世俗的思想・良心も徹底して押さえ込んだ。
その明治維新を準備した思想の源流として著名なものが水戸学、とりわけ尊皇攘夷思想の代表作といわれる会沢正志斉の「新論」であるという。
「『新論』は、対外関係の切迫のもとで国体論による人心統合の必要を強調し、そのための具体的方策を国家的規模での祭祀に求め、祭・政・教の一体化を主張した。『億兆心を一にして』というような用語法や忠孝一致の主張にもあらわれているように、のちの教育勅語や修身教育の淵源となる性格の強い書物である。ところで、『新論』がこうした人心統合に対立させているのは『邪説の害』であるが、それはより具体的には、さまざまの淫祀、邪教、キリスト教なども含めた、ひろい意味での宗教のことにほかならない。」(安丸良夫「神々の明治維新」岩波新書)という。
「新論」以来、国体論による人心統合の必要が強調されていたのだ。これを採用した天皇制政府は、具体的方策を「国家的規模での国家神道祭祀に求め」た。ここでは、「祭・政・教の一体化」がはかられたのだ。「祭」は宗教的儀礼で、「政」が軍事を含む政治、「教」は天皇を神とする信仰を意味するものだろう。教育の場と軍隊で、その浸透がはかられた。
ここから、過日伺った宗教学者の説示とつながる。私が理解した限りでのことだから、正確性は期しがたいことを、再度お断りしておく。
「文科省の調査で、卒業式に国旗国歌を持ち込んでいるのは、中国と韓国と日本だけ。これは東アジア文化圏特有の現象。儒教文化の影響と考えてよい。
儒教の宗教性をめぐっては肯定説・否定説の論争があるが、儒教の中心をなす概念「孝」とは直接の親を対象とするものではなく祖先崇拝のことで、祖先の霊を神聖なものとして祀るのだから宗教性を認めるべきだろう。
その儒教では、天と一体をなす国家を聖なるものとみる。国家は宗教性をもつ神聖国家なのだから、国旗を掲げて国歌を奏することは、神聖国家の宗教儀式にほかならない。これが、中国の影響下の儒教文化圏の諸国だけで、教育現場に国旗国歌が持ち込まれる理由だと思われる。
宗教には、幾つかのファクターがある。「律法・戒律」「教義」「帰依の信念」などとならんで、「儀礼」は重要なファクターである。祭りという神事も典型的な儀式・儀礼であって、神道は儀礼を重視する宗教である。儀礼だから宗教性がない、などとは言えない。
儀礼には宗教的なものと世俗的なものがあり、その境界は微妙である。ハーバート・フィンガレットという宗教学者が、直訳すれば「孔子ー世俗と聖」という書物を著している。邦訳では、「孔子 聖としての世俗者」となっているようだ。この書に、儒教における神聖な国家像が描かれている。
日の丸・君が代の強制は、儒教圏文化の所産である神権的天皇制国家の制度として作られた儀礼。とりわけ、参列者が声を合わせて一斉に聖なる国家を讃えて唱うという行為は宗教儀式性が高い。同調して唱うことに抑圧を感じる人にまで強制することが神聖国家を支える重要なシステムとなっている。
明治維新を準備した思想の柱は、国学ではなく儒学だと考えられる。その中でも水戸学といわれるもの、典型は会沢正志斎の「新論」だが、ここで國體が語られている。國體とは神なる天皇を戴く神聖国家思想にほかならない。これが、明治体制の学校教育と軍隊内教育のバックボーンとなった。戦後なお、今もこれが尾を引きずっているということだ。」
さらに伺いたいのは、宗教儀式や「儀礼」がどのように「教義」や「信念」と結びついているのか。身体性や共同性のもつ信仰への関わりである。そして、他の信仰を持つ者、信仰を持たない者に対する「儀礼」の強制がいかなる心理的な葛藤をもたらすことになるのか。さらには、その「儀礼」強制による軋轢や葛藤の構造は、宗教を離れた思想や信念に関しても、同じものと言えるのではないのだろうか。
ここまで聞ければ、これをどう咀嚼し肉付けして、憲法論とし、裁判所を説得する論理として具体的に使えるものとするか。それが、私たち実務法律家の仕事になる。これが成功すれば、最高裁判例の「論理」の土台を掘り崩すことができるのではないだろうか。
(2016年11月1日)
2論稿とは、内藤光博教授の「市民の『表現の自由』を侵害するスラップ訴訟ー言論活動を萎縮させる『スラップ』、日本社会での認識を高めることが必要だ」
http://webronza.asahi.com/national/articles/2016102800003.html?
そして、私の「スラップ訴訟の実害と対策 私の経験からージャーナリズム全体の萎縮状況がスラップ訴訟を生む土壌に」
http://webronza.asahi.com/national/articles/2016102600001.html
本日(2016年10月31日)早朝、WEBRONZA「社会」のジャンルでアップされた。実は掲載まで、内藤論稿との抱き合わせ原稿依頼とは知らなかった。研究者らしく問題の全体状況をバランスよく解説した内藤論稿と、当事者として問題の焦点をしぼった拙稿との組み合わせが絶妙ではないか。
拙稿の新味は、スラップ訴訟の増加傾向を「ジャーナリズム全体に萎縮状況のあることが基本的な原因だろう」と言っていること。「天皇制や政権批判における言論の層が薄く切れ味も鈍い。だから、やや突出した言論が権力の側から叩かれる。これに対して言論界が一致して、表現の自由擁護のために闘うという雰囲気が脆弱である。こういう状況が、スラップを生む土壌となっている。」とする論調。詳細はサイトをご覧いただきたい。
売り込んだ記事ではない。編集部からの寄稿依頼によるもの。法セミに続く企画。少しずつ、スラップへの社会的関心が高まっているように思える。
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NHK経営委員会宛ネット署名(11月4日締切り)のお願いー「次期NHK会長選考にあたり、籾井現会長の再任に絶対反対し、推薦・公募制の採用を求めます」
NHK経営委員会 御中
来年1月に籾井現会長の任期が満了するのに伴い、貴委員会は目下、次期NHK会長の選考を進めておられます。
私たちは、放送法の精神に即して、NHKのジャーナリズム機能と文化的役割について高い見識を持ち、政治権力からの自主・自立を貫ける人物がNHK会長に選任されることを強く望んでいます。
籾井現会長は、就任以来、「国際放送については政府が右ということを左とは言えない」、「慰安婦問題は政府の方針を見極めないとNHKのスタンスは決まらない」、「原発報道はむやみに不安をあおらないよう、公式発表をベースに」など、NHKをまるで政府の広報機関とみなすかのような暴言を繰り返し、視聴者の厳しい批判を浴びてきました。このような考えを持つ人物は、政府から自立し、不偏不党の精神を貫くべき公共放送のトップにはまったくふさわしくありません。
次期会長選考にあたっては、視聴者の意思を反映させる、透明な手続きの下で、ジャーナリズム精神を備え、政治権力に毅然と対峙できる人物が選任されるよう、貴委員会に対し、以下のことを強く要望いたします。
1. 公共放送のトップとして不適格な籾井現会長を絶対に再任しないこと
2. 放送法とそれに基づくNHKの存在意義を深く理解し、それを実現できる能力・見識のある人物を会長に選考すること
3. 会長選考過程に視聴者・市民の意思を広く反映させるよう、会長候補の推薦・公募制を採用すること。そのための受付窓口を貴委員会内に設置すること
署名数は現在2万8000筆ほど。もう一押しで3万に到達します。
詳細は以下を参照ください。
http://kgcomshky.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/nhk-1e91-1.html
(注)紙の署名用紙はこちら→http://bit.ly/2aVfpfH(注)この署名運動についてのお問い合わせは
メール:kanjin21menso@yahoo.co.jp または、
お急ぎの場合は 070-4326-2199 (10時?20時受付)までお願いします。
(注)以下のネット署名でNHK経営委員会に提出する名簿にはメールアドレス以外の項目すべてが記載されます。ネット上に集計結果を公開するときは「お名前」「お住まい(市区町村名)」は削除します。
→ 集計結果の公開URLは https://goo.gl/GWGnYc
*署名の第3次集約は11月4日(金)(第3版)です。
11月7日、NHKに提出予定です。
(2016年10月31日)
国連総会第1委員会(軍縮・国際安全保障問題)は、10月27日核兵器禁止条約締結に向けて交渉を開始する会議を来年に招集するとした決議案を、圧倒的な賛成多数で採択した。「『核兵器を禁止し、完全廃絶につながるような法的拘束力のある措置』を交渉するために『国連の会議を2017年に招集するよう決定する』」というもの。キーワードは「法的拘束力」である。世界各国の核廃絶への意気込みが伝わってくる。年内に国連総会本会議で採択のうえ、核兵器の法的な禁止をめぐる本格的な議論が初めて国連で行われることになる。ところが、この決議に、日本が反対に回っていることが話題になっている。
この決議の共同提案国が57か国。採決の結果は、賛成123、反対38、棄権16だった。唯一の戦争被爆国である日本が、共同提案国57か国に加わっていない。賛成123か国の中にもはいらなかった。棄権ですらなく、少数派・反対グループ38国の一員となった。北朝鮮ですら賛成している。NPT体制における核保有5大国の一角である中国は棄権と、国際世論に配慮しているのに、日本は「反対」というのだ。
「法的拘束力をもつ核軍縮には反対」と明言する日本。これが本当に、私の国だろうか。かつて、3000万筆の原水爆反対署名を集めて、国際世論を喚起した被爆国と同じ国なのだろうか。核兵器廃止に反対票を投じる現政権が、日本国民を代表する正当性をもっているのだろうか。憤懣に堪えない。
さらに噴飯物なのが、政府の反対理由である。岸田文雄外相・萩生田官房副長官が閣議のあとの記者会見で明らかにし、同旨をアベ首相も述べている。
「慎重な検討を重ねた結果、反対票を投じた。北朝鮮などの核、ミサイル開発への深刻化などに直面している中で、決議は、いたずらに核兵器国と非核兵器国の間の対立を一層助長するだけであり、具体的、実践的措置を積み重ね、核兵器のない世界を目指すというわが国の基本的考えと合致しないと判断した」
「核兵器のない世界を目指す」から、世界の潮流に断乎逆らって「法的拘束力をもつ核軍縮には反対」というのだ。誰がどう考えたところで、説明になってない。論理として成り立たない。「反対」の姿勢もさることながら、こんな理由しか言えないのだから情けない。とんでもない政府ではないか。
もし、こんな屁理屈がまかりとおるのなら、賛成・反対自由自在だ。何にでも賛成もできるし、反対もできる。訳が分からなくなる。理屈と膏薬はどこへでも付く、とはよく言ったもの。たとえば、次のようにだ。
「慎重な検討を重ねた結果、世界平和と軍縮を促進しようという決議には反対票を投じた。平和を語って戦争を準備する勢力の台頭など深刻な事態に直面している中で、決議は、いたずらに平和を称える勢力と軍縮によって軍事バランスを崩すことが危険だと考える諸国との間の対立を一層助長するだけであり、具体的、実践的措置を積み重ねて、平和な世界を目指すというわが国の基本的考えと合致しないと判断した」
「慎重な検討を重ねた結果、地球温暖化防止のための温室効果ガス排出規制に関する条約には反対票を投じた。世界に経済発展の格差という現実があり、各国が開発と環境保全との深刻な矛盾に直面している中で、決議は、いたずらに先進国と途上国、排出規制促進派と反対派の間の対立を一層助長するだけであって、具体的、実践的措置を積み重ね、地球環境保全を究極目標とするわが国の基本的考えと合致しないと判断した」
「慎重な検討を重ねた結果、あらゆる児童を労働から解放して教育の機会を保障すべきとする決議には反対票を投じた。国によっては、文化や財政や、あるいはその国に進出している資本の発言力によって、児童労働の解放は直ちに現実する見通しのない深刻な事態において、決議は、いたずらに後進国と先進国、貧しき者とこれを搾取する者との間の対立を一層助長するだけであり、具体的、実践的措置を積み重ねて、やがては過酷な児童労働をなくそうというわが国の基本的考えと合致しないと判断した」
「慎重な検討を重ねた結果、両性の平等を促進しようという決議には反対票を投じた。世界の各国はそれぞれの歴史や伝統に基づく男女の社会的・文化的・法的地位のあり方をもち、それぞれ個別多様に深刻な事態に直面している中で、決議は、いたずらに形式的平等促進を称える諸国と、国内諸事情によってそのことに慎重な諸国との間の対立を一層助長するだけであり、具体的、実践的措置を積み重ねて、真の両性の平等を目指すというわが国の基本的考えと合致しないと判断した」
「慎重な検討を重ねた結果、世界から貧困と格差をなくそうという決議には反対票を投じた。世界の各国には、貧困と格差をなくそうという諸国だけでなく、経済発展が何よりも優先と考える国もあり、熾烈な競争こそが配分すべきパイを極大化すると考える国もある。決議は、いたずらに各国の政策対立を一層助長するだけであり、具体的、実践的措置を積み重ね、貧困格差のない世界を目指すというわが国の基本的考えと合致しないと判断した」
国際問題だけではなく、国内問題でも同じことだ。
「慎重な検討を重ねた結果、近代立憲主義の原則を尊重すべしとする国会決議には反対せざるを得ない。我が国には憲法9条を遵守して国際協調と平和を擁護せよという見解のみがあるわけではない。防衛環境の変化の中で、政府が厳格に憲法を遵守すると宣言することは特定の近隣国に誤ったメッセージを送ることになり、抑止力を脆弱化することにもつながるとする意見も根強い。このような意見がある限り、決議は、いたずらに「立憲主義の理念」と「国防最優先の思想」との間の対立を一層助長するのみならず、具体的、実践的措置を積み重ねて、立憲主義と国防との両立を目指すというアベ政権の基本的考えと合致しないと判断した」
「慎重に検討を重ねた結果、福祉を増進し、教育を無償化し、労働条件を改善し、中小企業と農漁業を振興し、環境を保全するための予算増額の措置には反対せざるを得ない。我が国には、この国を「世界で一番大企業が活躍しやすい国」にすべきであるという有力な耳を傾けるべき意見がある。このような意見がある限り、老齢者福祉も、障がい者福祉も、生活保護も、貧困対策も、教育無償化も、労働条件改善も、中小企業と農漁業を振興も、すべては大企業の利益を損なうものであるいじょう、いたずらにこの国の深刻な階級対立や思想対立を一層際立たせることを助長するのみならず、具体的、実践的措置を積み重ねて、大企業が満足する範囲で福祉政策との両立を認めるというアベ政権の基本的考えと合致しないと判断した」
こんな「屁理屈政権」には、即刻退場してもらわねばならない。
(2016年10月30日)
DHCスラップ訴訟の勝訴確定の第一報を報じて(10月6日)から3週間余が経過しました。あらためて、熱いご支援をいただいた多くの皆さまに心からの御礼を申し上げます。
光前幸一団長をはじめとする136人の弁護団の皆さま。右崎正博・田島泰彦・内藤光博の3教授、そして法廷後集会で貴重なご報告をいただいた、北健一・三宅勝久・烏賀陽弘道のジャーナリストの皆さま、さらには貴重な情報をお寄せただいた「ネットワークユニオン東京」と「DHC分会」の皆さま。ブログで、ネットで拡散していただいた方々にも、本当に御世話になりました。
この勝訴の意義と今後の課題を確認するために、下記の要領で、「DHCスラップ訴訟・勝訴報告集会」を開催いたします。ご支援いただいた皆さま、是非ご参加ください。まずは、日程の確保をお願いいたします。
日時 2017年1月28日(土)午後(1時30分?4時30分)
場所 日比谷公園内の「千代田区立日比谷図書文化館」4階
「スタジオプラス小ホール」にて
プログラムは未定です。弁護団会議で検討して確定しますが、経過報告に終わらせず、表現の自由や、政治とカネ、消費者利益と規制緩和、スラップ対策などについて意見交換を行う有意義な集会にしたいと思います。
また、当日までに「DHCスラップ訴訟・勝訴報告文集」(弁護団編)のパンフレットを作成して、集会で配布いたします。この報告文集も内容未確定ですが、後日のための参考資料を残すというだけでなく、多くの方の反スラップ運動に資する意見掲載を通じて、個別のスラップ対策の基本を提示し、スラップ撲滅へのヒントになるような内容にしたいと考えています。
なお、DHCスラップ訴訟は必ずしもこれで終了ではありません。今度は攻守ところを変えての反撃の第2幕の「アンチDHCスラップ・訴訟」を提訴すべきかどうか、意見調整中です。最終結論は、時効期間満了の2017年5月16日までに出すことになります。
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さて、勝訴確定以来、今日まで当ブログには「DHCスラップ訴訟を許さない・シリーズ」第80弾?87弾を掲載する(https://article9.jp/wordpress/?cat=12)とともに、あらゆる機会を見つけて、次のような発言を心がけてきました。
「DHCスラップ訴訟は、そもそもが無理な提訴。そのことは、一審判決でDHC・吉田も身に沁みたはず。ところが、執拗に、棄却明らかな控訴をし、上告受理申立までして、確定まで2年半をひっぱった。」「これが、富者が金に糸目を付けずに、言論の自由を蹂躙しようとする典型的なスラップのかたち」「DHC・吉田が封殺しようとした言論の内容は、政治とカネの問題であり、消費者利益を損なう規制緩和」「高額損害賠償の形で、言論萎縮を狙ったスラップ訴訟の提起自体が薄汚いこと。」「有効なスラップ対策としては、実効的な制裁が必要だ。何よりも、スラップを提起するような企業や経営者には、ダーティなイメージがつきまとって経営に支障が生じるという制裁が一番効き目がある」「DHC製品を購入しないという消費者の経済制裁が、言論の自由を守ることにも、社会的規制に関する規制緩和に歯止めをかけて消費者利益を擁護することになる」「『法学セミなー』10月号のスラップ特集がタイムリーなよい企画になっている是非お読みいただきたい。」
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B01IW56RKG/togetter06-22/ref=nosim/
なお、訴訟支援者のお一人から、「反スラップが運動としての広がりをもつために」とする以下のメールをいただきました。
「報告文集を作成されるということですが、どんなものになるか楽しみです。」
「告発が運動となるには民衆的な広がりが必要です。武富士反スラップやユニクロ反スラップには、その背景となる多重債務や過重労働に苦しむ民衆の存在がありました。DHCスラップに、サプリ健康被害や従業員の過重労働を告発する人が多ければ、反スラップに運動としての広がりが生まれたかもしれません。
他方で、DHCスラップを政治的批判に対する権力者からの弾圧とみると、大手マスコミの萎縮から高江の抗議活動弾圧まで、その関連領野は限りなく広がります。しかも、表現の自由に対するスラップという観点から見ると、争われる法律が、道交法、土地占有、名誉棄損などと多岐にかかわるので、法廷闘争の戦術も共有しにくいし、これらをまとめあげようとすると、争点があまりにも抽象的・理念的になってしまう。
ブロガーの団結を訴えても、そもそもDHCスラップの被告たちが団結できなかった以上、一般の政治批判のブロガーたちが団結できないのも無理ありません。
僕は、今回のDHCスラップ法廷闘争の最も重要な成果は、法律家たちに非対称的な名誉棄損民事訴訟の問題点を喚起したことだと思います。法学セミナーのスラップ訴訟特集号とともに、今度の報告文集は、その重要な拠点となるのではないでしょうか。」
「公共図書館に所蔵され一般市民が読めるような文献となるとともに、ネットで誰でも読めるようなテキストになったらいいなと思います。」
もっともなご指摘とご提案。ありがとうございます。
(2016年10月29日)
原告ら代理人の澤藤から、原告準備書面(4)の要旨を口頭で陳述いたします。
原告ら100名は、本訴訟を「浜の一揆訴訟」と呼んでいます。
原告らが居住する三陸沿岸の農民・漁民は、幕末・嘉永弘化の時代に、南部藩政を揺るがす三閉伊大一揆を起こしたことで知られています。この一揆は、歴史上類をみない全面勝利の一揆として記憶されています。原告らは、この一揆に蜂起した農民・漁民と同様の深刻な要求を掲げ、この一揆に蜂起した農民や漁民と同じ心意気をもって、この訴訟に臨んでいるものであることをご理解いただきたいのです。
原告らが要求を突きつける相手は、いまや南部藩ではありません。岩手県庁がその相手となっています。嘉永・弘化の一揆では、1万6000人の大群衆が、聞く耳を持たない南部藩を直接の交渉相手とせず、篠倉峠を越えて仙台領に越訴し、伊達藩に窮状を訴えることによって、その要求を勝ち取りました。いま、岩手県が聞く耳を持たない。やむなく原告らは、貴裁判所に訴えを提起しているのです。
本件のこれまでの双方の主張の交換で、ほぼ争点の輪郭が浮かびあがってきました。原告主張の骨格は次のとおりです。
原告ら100名は、いずれも20トン未満の小型漁船を操業して零細な漁業で生計を立てている漁民です。しかし、3・11震災大津波の被害を受けて、まだ立ち直ることができません。このままでは漁業で生計を立てて行くことに希望がもてない。後継者を育てることもできない。この深刻な事態を切り開いく唯一の方法が、三陸沿岸の主力魚種であるサケ漁を行うことです。
原告らにとっては、目の前の三陸の海に回遊するサケを漁することが、生活をかけた切実な要求なのです。今の持ち船で、固定式刺し網によるサケを獲って、漁業を継続したい。一隻について、年間10トンを上限とするサケ漁。これが、原告らの要求です。
ところが、漁業に関する複雑な法が原告らの前に立ちはだかっています。漁業法65条による委任を受けて岩手県知事が制定した岩手県漁業調整規則は、「知事の許可無くしては、固定式刺し網によるサケ漁まかりならぬ」としています。では、許可をいただたきたいと申請しても、どうしても駄目だという。
その理由は、「三陸のサケは大規模な定置網業者に獲らせることに決めた。その定置漁業の水揚げに影響するから、零細漁民のサケ漁は許可できない」というものです。要するに、「定置網漁に邪魔だからおまえたちに漁はさせない」というのです。これはおかしい。バカバカしいほど偏頗で不公平。南部藩政並みと言わざるを得ません。
公正であるべき行政が、三陸の漁民に三陸沿岸でサケを獲ってはならないというこのことの不合理が準備書面(4)のメインテーマです。
原告らは憲法上の経済的基本権である営業の自由の主体として、憲法上の権利を主張しています。被告はこの権利を制約するきちんとした理由を語り得ていません。せいぜいが、「固定式刺し網漁業を認めると定置網漁業者との間で漁業調整上の深刻な摩擦が生じるから不都合」だという程度。とんでもない。深刻な摩擦は、既に生じているのです。「大規模定置網漁業者対零細漁民間の著しい不公平」という形でです。本件許可はこの不公平と摩擦を緩和するものでこそあれ、拡大するものではありません。
また、被告はこうも言っています。「定置網漁業者の過半は漁協である。漁協は漁民全体の利益を代表する組織だから、漁協の利益を保護するために原告らにサケの漁獲を禁じることは合理性がある」という趣旨。まるで、「お国のためだ。お国を優先して国民は我慢するのが当然」という議論。これは南部藩ではなく、旧憲法時代の大日本帝国の言い分。日本国憲法の経済的基本権がまったく分かっていない立論でしかありません。
今回の書面のやり取りは、被告岩手県知事が徹底した「漁協ファースト」の原理を掲げ、原告が「漁民ファースト」をもって反論している構図なのです。水産業協同組合法を引用するまでもなく、漁協は漁民一人ひとりの利益に奉仕すべき存在。漁民の繁栄あっての漁協であって、漁協のための漁民ではありません。飽くまで「漁民ファースト」が当然の大原則なのです。漁協の健全経営維持のために漁民の切実な要求であるサケ漁が禁止されてよかろうはずはありません。
古来、有限の財貨や資源の配分のあり方に関して必ず引用される古典として、イソップ物語「獅子の分け前」の一編があります。
獅子とロバとキツネが獲物を分配することになり、公平・平等に分けようとしたロバは獅子の怒りを買って喰われてしまいます。残ったキツネは大部分をライオンに与えて、自分はごくわずかな分け前で我慢せざるを得ません。
言うまでもなく獅子は権力の象徴。ロバとキツネはどちらも被支配者ですが、ロバは権力の思惑を忖度しないで弾圧される愚直な正直者。キツネは権力者にへつらって生き延びざるを得ないとする狡猾な利口者。
岩手県庁は、定置網漁業者と一体となった獅子にほかなりません。強大な権力を持ち、ロバやキツネに、傲慢な態度で差別をしてかまわないとしているのです。しかし、本来行政は理不尽な獅子であってはならない。誰にも、平等で公正でなくてはなりません。ましてや、漁民はロバでもキツネでもない。主権者であり、人権主体なのです。そして、漁協は原告ら漁民の便益に奉仕するために作られた組織に過ぎないのです。
もう一つ。被告はこうも言っています。「三陸のサケは孵化事業の成果だ。原告ら漁民は孵化事業に関与していないのだからサケを獲らせろとは言えないはず」。これも理屈になっていません。いま、サケを獲らせてもらえないから、漁民が孵化事業から遠ざけられているだけの話。また、漁協が漁民の利益のために、孵化事業に精励することには合理性があります。孵化事業を行ったから、生育したサケを漁獲する権利があるというものではない。さらに、孵化事業には、多額の公費が注ぎ込まれているという事情もあります。もちろん、国税にせよ、県税にせよ、原告らも担税者なのです。孵化事業による利益を特定の事業者が独占して、原告らをサケ漁から閉め出すことは、著しく正義に反します。
なお、取消請求における手続的違法として、原告が訴状で指摘した理由付記の不備は追完の方途なく、既に結論は決しているものと考えています。
以上が、原告準備書面(4)の骨格です。ご理解いただきたいと存じます。
今回の主張で、手続的違法の問題と、実体的違法の主要な論点である「漁業調整の必要」については、基本的に主張は終えたと考えています。次回には、残る論点である「水産資源の保護培養」の問題について主張を補足するとともに、証拠調べにはいる前の段階における主張整理の書面を提出します。また、人証の申請を予定しています。次々回には、人証の取り調べをお願いいたします。
(2016年10月28日)
各紙が、世界経済フォーラム(WEF)の2016年版「ジェンダー・ギャップ指数」(Gender Gap Index:GGI)を報道している。国際比較における「男女平等ランキング」として定着しているものだが、日本は144か国中の111位と順位を下げたことが話題になっている。2014年が104位、15年が101位。そして、今年の111位は過去最低であるという。
もっとも、「ジェンダー・ギャップ」の比較は、指標のとりかたで変わってくる。
たとえば、国連開発計画(UNDP)のジェンダー不平等指数(Gender Inequality Index:GII)では、昨年発表のランキングで日本は、155か国中の26位であるというが、こちらはあまり話題にならない。GIIよりはGGIの方が、詳細なデータでの比較になっているからなのだろう。
GGIは、女性の地位を経済、教育、政治、健康の4分野で分析する。今年のランキングでは、日本は健康や教育では順位を上げたが、「経済」が118位と12ランクも下げている。その主たる理由は、収入の比較方法を改め実態に近づくように修正したからだという。その結果、「所得格差」が75位から100位に急落して、総合順位に反映したのだという。これまでが、やや上げ底だったというわけだ。これは、安倍内閣にとって由々しき数字ではないか。
GGIは、各比較項目について完全平等を1、完全不平等を0に数値化する。一昨年(2014年)の数値だが、総合指数1位は、アイスランド(0.8594)、2位フィンランド(0.8453)、3位ノルウェー(0.8374)、4位スウェーデン(0.8165)、5位デンマーク(0.8025)…と続いて、日本は104位(0.6584)。
興味深いのは、日本の分野別指数。経済0.6182、教育0.9781、健康0.9791、そして政治が0.0583と極端に低い。なお、日本と中国、韓国がいずれもよく似た平等後進国となっている。
なぜこうなのだろうか、と考える。なぜ、世界共通の現象として、ジェンダーギャップがあるのだろうか。そして、なぜ日本においてそのギャップが著しいのだろうか。
私にとってこの種の問題を考える際の基本書がある。若桑みどりの著書、なかでも「女性画家列伝」(1985年・岩波新書)。
この書の書き出しはこうなっている。
「美術史に残る女性の芸術家はきわめて少ない。人々はその理由として、女性は本来創造的行為や思索に向いていないのだと言ってきた。
今日ではそのような説を頭から信じる人はいない。なぜなら、美術系の大学は圧倒的に女性によって占められており、その才能の優秀さには誰も目をつぶることはできないからである。私は都立の芸術高校から芸大の美術学部に進んだが、ここで天才的な能力を持って目立っていたのはみな女性の友人だった。では、いまその女性がどうしているかというと、私の友人の場合、みな現在は主婦になっていて制作はしていない。
今でも芸大の美術学部の教授たちはみな男性である。男女共学になってからやがて半世紀近くになるというのに、芸大美術学部には唯一人の女の教授もいない」
また、同書に収録された女性芸術家との対談のなかで、若桑は自分の執筆活動と子育てについて、次のようにリアルに語っている。
「私は子供二人いますから最悪ですよ。私、論文に打ちこむと、その世界に浮かんじゃうわけですね。16世紀とか、シュール・レアリスムとか。論文を書いている時に「御飯」なんていわれると、カーッと来ますね。(笑) ま、しようがないから、立つんですけどね。水仕事しながら、この大学者がこんな茶碗なんか洗って。(笑) こんなすごい学者が魚なんて焼いてんだからって。(笑) そうすると子供が、何ブツブツいってるの、早く作ってよっていう。こんな大学者が御飯作るなんて、何てことだっていってんのよ、なんていうと、向こうは学者だなんて思ってませんからね。御飯作るおばさんだと思ってる。(笑) でも、子供ですから、親の世界を尊重して邪魔する。子供が小さい時、私の誕生日に沈黙券ていうのくれたんです、十分とか五分とか、子熊ちゃんとかいろいろ書いて、ホチキスでとじてあるんです。何って聞くと、私にそれ渡しておいて、私が五分って渡すと彼は五分黙って、私の勉強の邪魔しないって、そういう券で、(笑) それで私一度に全部渡して部屋に閉じこもりました。」
「自分で望んでつくった子供ですからね。育てあげるのは当然です。でも私は本当に男性と同じ時間がほしい。切実です。」
なるほど、そのとおりだろう。実によく分かる。男性としては耳が痛い。
同じ書に、「家父長制と女」という小見出しで、水田珠枝の『女性解放思想史』(筑摩書房)が引用されている。「私はこの本に書かれているいくつかの事実には反論があるし、また事実の解釈についても全面的に共感はしないけれども、…今までの思想史のなかで女性がどういう立場に置かれていたかを、明快に、わかり易く書いてある好著だと思う。」とのコメントしてのものである。
「歴史をおしすすめた原動力、それは生産力であった。生活資料を生産し増大させる能力が、人類を自然から分離し、生活水準を高め、私有財産を、階級分化を、権力を発生させ、文化をつくりあげていった」。しかし、出産という重荷を負う女性は、生活資料の生産において男性に劣り、その結果、生産の占有権は男性の手に握られる。こうして「物をつくりだす男性は尊敬されるが、命をつくりだす女性は軽視される。……生活資料の生産が生命の生産を、男性が女性を支配することになる」。
「こうした男女関係を制度として固定し、永続化したのが家父長制であった。そこでは、生活資料の生産と消費、そして生命の生産が家族を単位としておこなわれるために、生産活動で優位にたつ男性=家長が絶対権をにぎり、唯一の財産所有者となって、家族員の生活を保障するというかたちをとりながら、かれらの権利も人格も労働も、一身に吸収してしまう。……したがって、この制度の下では、女性の経済的、人格的自立の可能性はうしなわれる。階級支配とは異質な、しかも普遍的な性支配は、家父長制によってつらぬかれ、他人に依存する女性の性格もそこでつくりあげられる」。
ここで語られているのは、「物をつくりだす性」と「命をつくりだす性」の対比である。優位に立った前者が後者を支配する構造があるというのだ。おそらく、文明の進歩とはこの支配・差別を意識的に克服する過程なのだろう。
ヨーロッパ諸国がジェンダーギャップを克服しつつあるのに、中国(99位)、日本(111位)、韓国(116位)が揃って後塵を拝している。おそらくは、「女子と小人は養い難し」とする儒教文化の影響なのだろう。
戦後民主々義は、「父子有親。君臣有義。夫婦有別。長幼有序。朋友有信。」の五倫も、「男女7歳にて席を同じくせず」も、教育勅語も、銃後の婦徳も、みんな払拭したはずなのだが、この社会の根っこのところで脈々と生き残っているということなのだろう。
(2016年10月27日)
私が諸君の民主々議の教師、石原慎太郎だ。諸君は、よくぞ私を4回にもわたって都知事に選任した。この間なんと13年6か月。それには礼を言わねばならない。おかげで面白くやらせてもらった。しかし、敢えて言おう。そのことは諸君が愚昧であることの証明にほかならない。
最初の選挙での後出しジャンケン、あのときの私の第一声を憶えておいでか。「裕次郎の兄です」というあの出馬宣言。あれで当選した。
その後は、差別発言、豪華出張旅行、無駄遣い、身内の優遇、日の丸・君が代強制、新銀行東京…と、好き放題にやらせてもらった。なんてったって、都民が私を選び、都民が私のすることを黙認したのだ。責任は私にではなく、都民諸君にある。
何をやっても、やらなくても、石原軍団みたいなサポーターと愚昧な都民が、私を持ち上げ、押し上げ続けてくれた。文句を言わない、甘い有権者ばかりで、ホントによいところだよ。東京は。
私なんぞを知事にして、好きなことをやらせてくれた都民諸君。人が好いにもほどがあろうというもの。このごろようやく、その身の無知と蒙昧に臍を噛んでいるのかも知れない。しかし、そりゃ遅すぎるし、滑稽というものだ。
都民の生活はいざ知らず、都知事って商売は楽でいいぞ。確実に週休4日はとれる。給料も退職金もがっぽりだ。物見遊山も税金でできる。仕事は、「ヨキニハカラエ」と言っておればよい。成果は自分のものにし、責任は部下に押しつける。あとから「あれはあんたの責任」といわれたときには、「もともと専門的で難しいことが分かるわけはない」と言って逃げればよい。まあ、都知事は3日やったらやめられない。
「いったい、あんたは在任中に何をやったのか」と? 私は、精一杯日本国憲法に悪罵を投げつけてきた。それについては、かなりの成果をあげたと思うね。なにしろ、憲法こそが諸悪の根源だ。国家をないがしろにして、個人の人権を根源的な価値とするなんて莫迦なことをいうもんだ。国を守る軍隊はいらないとかね。だから、「命がけで憲法を破る」と言ってきたわけだ。障害者に人権があるのかと発言をしたし、ババアをおとしめ、三国人を危険とも言ったし、ジェンダフリーも禁句にした。そして、あとは尖閣問題に首を突っ込んだ。日の丸・君が代の強制は、私が実現した最たる成果だ。
私はつくづくと、都の官僚組織はよくできていると思う。上意下達というのは、ありゃあ嘘だ。上意は下達されないね。そんなことをすれば、「上」の責任問題が残るじゃないか。上意は飽くまで、「下」が忖度するんだな。だから、責任はいつも「下」にあって、「上」は安泰だ。私にとって、こんなに都合のよい居場所は他にない。
もしかしたら、これが、日本文化の精髄なのかも知れない。天皇制というのは、まさしくこんなもんだ。天皇無答責だろう。戦争始めたのは自分じゃないって突っぱねたじゃあないか。戦争責任なんて、言葉のアヤだって。私は、天皇ほど国民を不幸にはしていないが、天皇の責任回避ぶりには、見習わねばならない。
ところが、このところ知事無答責の雲行きが少々怪しい。今年の9月の末に私は84歳の誕生日を迎えはしたが、いかにも憂鬱なんだ。豊洲の地にさまざまな不祥事が発覚しそのとばっちりが前々々任者の私にまで及んできて、ただの推測を元にした私自身の名誉にかかわりかねぬような中傷記事が氾濫している。心痛で健康まで損なわれた始末。私だって、頭も心も痛くなるのだ。
私は、若々しさ、乱暴さ、独断などを売り物に世渡りをしてきた。が、どうもこれがうまくいきそうにない。無理をして、舛添のような目に遇いたくはない。そこで、突然だが、「おいたわしや作戦」に切り替えようと思う。どうせ、甘い都民が相手だ。
「おいたわしや作戦」にしたがって、豊洲問題での事情聴取は文書にしてくれと言ったところ、小池知事から質問状が届いた。その最後の質問はこんなものだ。
「(1)一連の問題について、石原氏は当時の知事としての道義的責任があるとお考えか。(2)もし責任があるとお考えの場合、どのように対処しようと考えておられるのか。」
この質問は小意地が悪い。責任を否定すれば、傲慢と舛添のように叩かれる虞がある。さりとて責任を認めると次には法的追及が待っている。「厚化粧」なんて悪口を言わなきゃよかった。
回答は慎重を要する。低姿勢を決めこみつつ、法的責任は認められないと突っぱねなければならない。戦後の天皇と同じだ。基本は、「知らない」「記憶にない」「十分に報告を受けていない」と、逃げの一手だ。弁護士とよく相談して、次のような回答を拵えた。期せずして、天皇の戦争責任回避のものの言い方と似たようなものになったが、これはいたしかたない。
そもそも、都知事が最終決裁を行うべき事案は膨大かつ多岐にわたるところ、本件のように専門的な知識・判断が必要とされる問題については、私自身に専門的知見はないことから、都知事在任中、私は、知事としての特段の見解や判断を求められたり大きな問題が生じている旨の報告を受けたりしない限り、基本的に担当職員が専門家等と協議した結果である判断結果を信頼・尊重して職務を行っておりました。本書のご回答において、度々、私自身は関与していないとか、担当者に任せていたとか、担当職員が専門家の意見を聞いたり専門業者と協議したりしながら実質的に決定していくもの等お答えしている趣旨は、このような意味合いです。加えて、13年半という在任期間中に私が都知事として決裁をした案件数は膨大であることもあり、ご質問の各事項については、本書のご回答以上の記億はございません。
これで一件落着とは思わないが、なんとかこれで凌げるのではないか。ここで、せめて私のできることは、反面教師になって、愚昧な都民にもう少し賢くおなりなさい、ということだ。権力者への批判を忘れ、人の好いばかりの無知な有権者は、結局のところ、私のような知事を生み、私のような知事を育てる。だから、民主々義に不可欠なものは、権力に対する甘い好意の支持ではなく、辛辣な批判の姿勢なのだ。まあ、私が言うのもおかしなものだが…。
(2016年10月26日)
辺野古・高江の、基地反対運動からは目を離せない。厳しいせめぎあいの中では、いろいろと驚くべきことが生じる。目取真俊の身柄拘束にも、本土機動隊員の「土人」「シナ人」発言にも、そして松井知事の差別容認姿勢にも驚いたが、これと並んで島袋文子さんへの出頭命令にも驚ろかざるを得ない。87歳・車椅子の身で、今や現地の運動のシンボルとなっているこの人に、警察からの呼出である。被疑罪名が暴行か傷害かは明らかにされていない。告訴状が出ているのか、被害届だけなのかも定かでない。ともかく、名護署が、文子さんを呼び出して取り調べを始めたのだ。
被疑事実は、今年5月9日辺野古でのことのようだ。被害を受けたと主張しているのは、「日本のこころ」の和田政宗参議院議員とその「同行者」ないしは「スタッフ」である。
和田議員は自身のツイッターで次のように繰り返してきた。
「沖縄辺野古で、不法占拠のテントを撤去し合法的な抗議活動をするよう訴えたが、我々の演説を活動家達は暴力を振るい妨害。私は小突かれ腕をひっかかれ、スタッフは頬を叩かれたり、プラカードの尖った部分で顔面を突かれ転倒。警察と相談し対処する」
「5月に沖縄辺野古キャンプシュワブ前で道路用地にテントを張り不法占拠する活動家達に、不法占拠をやめるよう呼びかけた。その際、私と我が党スタッフが活動家達に暴行を受けたが、先日、警察に相談し被害届を提出した。憲法で保障される政治活動や表現の自由を力で阻止するというもの。戦わねばならぬ」
このような和田議員の発信をフォローしたネットニュースのIWJが、文子さん取り調べに関して和田議員を批判する記事を書き、同議員がこれを「捏造記事」だと反批判している。この点に、私は関心を向けたいと思う。和田議員もジャーナリスト(NHK)出身である。報道の自由に理解はあろうと思う。
和田政宗議員がIWJの報道を批判しているのは、10月18日の以下のブログである。抜粋では不正確となりかねないので、全文を引用する。
「岩上安身氏率いるIWJ ジャーナリズムにあるまじき捏造記事
ジャーナリスト出身者として、岩上安身氏率いるIWJが明かに嘘をついた記事をネット上にアップしたので反論するとともに、ジャーナリズムとしてやってはならないこと(右であろうと左であろうと)をしているので糾弾します。
まず当該記事を書いた佐々木氏の取材申し込み(2回)に対して、私と我が事務所は「お会いして取材をお受けします」と明確に回答しています。
言った言わないになるといけないので、私は電話取材でなく原則面会で取材を受けています。
悪意のある記者の「取材拒否された」を防ぐため、私も我が事務所も明確に「取材は受けます」と答えていますが、佐々木記者は「取材に応じず」と言っています。明確な虚偽にあたります。
ジャーナリズムとしてやってはならないねつ造です。
そして、私は島袋氏を訴えていません。
沖縄・辺野古において我々の正当な政治活動を活動家達が妨害しました。
私は、私に暴行した2人の男について被害届を出しましたが、島袋氏には被害届を出しておりません。
島袋氏は我々に暴行を繰り返したので、やめて、やめなさいと言いましたが、非暴力の我々を繰り返し叩き続け、同行者がかなり強い平手打ちを受け、同行者が被害届を出したものです。
記事を書いた佐々木氏は動画に暴行の現場が写っていないと言いますが、すべての動画が公開されているわけではありません。
公開されていない証拠映像は警察に提出済みです。
佐々木氏が「どこの世界に、87歳のおばあちゃんに対して暴行の被害届を出す「国会議員」がいるだろうか。健康で強壮な大の男のやることか。男として恥ずかしくないのか。」というのは、明らかに事実に反する誹謗中傷であり、謝罪と訂正がなければしかるべき措置を取ります。
事実に基づいて批判をするなら批判は甘んじて受けますが、取材を受けると言っているのに「取材に応じず」いうねつ造、岩上氏本人も事実を確認しないまま事実に反するツイッターをリツイートしています。
ジャーナリズムにあるまじき行為については、ジャーナリズム出身者として断固たる措置を取ります。」
この記事に、批判の対象としたIWJの記事(以下IWJ記事)のURLが付されている。内容は以下のとおり。
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/339597
「高江で座り込みを続ける87歳の「文子おばあ」こと島袋文子さんから「暴行を受けた」と被害届を出した「日本のこころ」和田政宗議員!42歳!!IWJは再三取材を試みるも応じず!
たとえ「自称」であっても、日本の「保守」はここまで墜ちてしまったのだろうか。2016年5月、ある国会議員が沖縄・辺野古のキャンプ・シュワブゲート前で、基地反対派の市民から「暴力行為を受けた」として被害届を出した。
被害を訴えたのは、まがりなりにも「保守政党」を自称する、「日本のこころを大切にする党」参議院議員の和田政宗氏。42歳の男盛りである。訴えられたのはなんと、車イスで歩くのもままならない87歳のおばあちゃん、島袋文子さん(通称「文子おばあ」)である。」
さあ、これが国会議員の名誉を毀損する「捏造記事」だろうか。
整理してみよう。
和田議員が、「捏造」というのは、次の2点である。
(1)「IWJは再三取材を試みるも応じず!」
この記事は、和田議員側からは、「IWJは、(和田議員に、裏をとるために)再三取材を申し込んだが拒否された」と読めるが、真実は「2回の取材申込みはあったが、取材を拒否していない。取材は受けると告げている」。だから、記事は捏造。
(2)「参議院議員の和田政宗氏が「暴力行為を受けた」として島袋文子さんを被疑者とする被害届を出した。」
和田議員は、議員に暴行した2人の男性については被害届を出しているが、島袋氏には被害届を出していない。島袋氏に被害届を出したのは同議員ではなく、同行者である。だから、この記事は捏造。
IWJの批判記事が、国会議員である和田議員の名誉を毀損する違法なものと言えるかの高いハードルは幾つもあり、これを乗り越えることは難しい。このことは、ジャーナリストでもある和田議員自身がよく分かっていることと思う。
最初のハードルは、IWJ記事が、普通の読者の普通の読み方で、客観的に議員の社会的評価をおとしめて、名誉を毀損するものと言えるか、という点。
「IWJは再三取材を試みるも応じず!」が、メディアからの取材申し出を無視する民主主義社会の議員にあるまじき事実の指摘として和田議員の社会的評価をおとしめるものと言えるだろうか。IWJ記事は議員の涜職や政治資金規正法違反や人権侵害やスキャンダルをあげつらうものではない。「IWJは再三取材を試みるも応じず!」程度の事実の摘示で、国会議員の社会的評価が揺らぐとは到底考えられない。それが常識的な健全な判断と言うべきではないか。
もうひとつは、「参議院議員の和田政宗氏が「暴力行為を受けた」として島袋文子さんを被疑者とする被害届を出した。」という点である。
これも、暴力を受けたとするものが被害届を提出した、という事実摘示。言われた者の社会的な評価をおとしめる事実摘示とは考えられない。
IWJ側は、記事が不正確だという和田議員の指摘には真摯に対応すべきが当然である。しかし、それは飽くまでジャーナリストとしての倫理の問題で、IWJ記事が違法ということとは次元の異なる問題である。
仮に、和田議員がこの第1のハードルを越したとしても、IWJ記事が公共の事項に関わるもので、公益目的で書かれていることには疑問の余地がない。
すると、第2のハードルは、摘示の事実が主要な点において真実ではないと言えるかである。事実摘示の真実性は、必ずしも完璧なものである必要はない。主要な点において真実であればよい。
(1)については、「取材を試みるも応じず!」の主要な点における真実性はかなり高いものと思われる。「少なくとも2度の要請があって取材に応じなかった」ことは和田議員の認めるところである。この点の(少なくとも主要な点の)真実性が認定される可能性は限りなく高い。
(2)については、和田議員は、「議員に暴行した2人の男性については被害届を出したが、島袋氏には被害届を出していない。島袋氏に被害届を出したのは同議員ではなく、同行者である。」という。これが本当だったとして、確かにIWJ記事(2)は正確性を欠いている。しかし、和田議員と同行者の「被害者グループ」が被害届を出しているのだ。主要な点において真実と言える可能性は残されている。
そして最後に、真実と信じるについて相当な理由があったのではないかという、相当性のハードルである。以上の諸事情から、これは問題ない。軍配はIWJ側に上がることになるだろう。
要は、表現の自由と、批判対象の名誉権との調整との問題である。批判対象者の属性によってこの調整の原理は大きく異なることになる。この程度の記事が、一々国会議員の名誉毀損と言われたのでは、ジャーナリズムの萎縮は免れない。公権力の側にいる者は批判の言論を甘受しなければなない、と言うことなのだ。それは、意見や論評についてだけのことではない。事実摘示の問題に関しても同様なのだ。
米連邦最高裁の判例に定着した「現実的悪意の法理」と言うものがある。これは、公的立場にある者に対する批判は、誤った言論といえども保護に値する有益性をもつという理解から、表現者に「現実的悪意」があったことの立証に成功しない限りは名誉毀損が成立しないとする法理である。連邦最高裁の用語を引用すれば、「現実的悪意」とは、真実でない表現について表現者が「虚偽であることを知っていた」か「虚偽であるか否かを不遜にも無視した」ことを指す。
公的人物に限ってのことだが、これは批判の言論の自由を尊重するもの。多少は間違っていてもよいのだということなのだ。単に論評の領域だけではなく、事実摘示の分野についても同様なのだ。我が国の訴訟実務では、「相当性の理論」の限度ではあるが、国会議員は事実摘示を誤った報道についても、批判の言論を甘受しなければならない。この程度の批判の記事に「捏造」「しかるべき措置を取る」というのでは、国会議員としての大度に欠けるというほかはない。
(2016年10月25日)
私自身が被告にされたDHCスラップ訴訟に関連して、発言を求められる機会が多い。あるメディアの編集者から次のような質問を受けた。「なぜ日本でスラップ訴訟が増えているのか」というもの。少し、考え込まざるをえない。
日本でスラップ訴訟が増えていることを当然の前提とした質問で、私もそのような傾向にあるものと印象を受けている。しかし、スラップ訴訟の正確な件数の推移についての統計はない。もとより、スラップの定義が困難な以上、正確な統計を取りようがない。また、世に話題となった「いわゆるスラップ訴訟」は数えられるが、その暗数を推測する方法は考え難い。
私は、DHC・吉田から提訴を受けた際に、これは報道されるに値する大きな問題性を抱えた事件だと思って、主要な新聞各社の記者に取り上げてもらうよう訴えた(産経・読売には行ってない)。しかしどの記者も、おそらく記事にはならないということだった。「その程度の事件はありふれているから」というニュアンスなのだ。
これには少々驚いた。スラップの被告となった被害者は自分で声を上げなければ、スラップ被害を報道してはもらえない。世間は知ってくれないのだ。私は、自ら声を上げる決意を固めて猛然と自前のブログで反撃を始めた。おかげで、私の事件は多少は世に知られるようになった。
DHC・吉田は、同時期に私を含めて自分を批判した者10人に訴訟を提起している。請求額は最低2000万円から最高2億円まで。しかしこのことも、マスメデイアには取り上げられなかった。結局、DHC・吉田から訴えられた10人のうち、声を上げたのは私一人だけだった。DHCスラップ訴訟に限ってのことだが、声を上げた被害者の1人に対して、暗数となった9人の被害者が存在したことになる。
自分がスラップの当事者となってよく分かる。ともかく、早く被告の座から下りたいのだ。騒ぐことで傷口を広げたくない、問題を大きくして引き延ばしたくない。そういう心情になるのだ。明数1に暗数9を加えて、スラップ実数はその10倍。スラップ被害を受けた者の1割だけが声を上げる。そんなところなのかも知れない。
言論萎縮を求めたDHC・吉田の提訴に、私は徹底して闘う決意をした。これは自由な言論を封じようとする社会的圧力との闘いと意識した。闘うことで、スラップの「言論萎縮効果」ではなく、「反撃誘発効果」の成功例を作ろうと考えた。そうして、この不当提訴をブログで猛然と批判し始めた。DHCスラップ訴訟を許さないシリーズである。法廷で闘う以外には、ブログだけが私の武器だった。こんな風に声を上げるスラップ被害者はおそらく稀有の例なのだろう。だから、明数だけを取り出しても、全体数はなかなか推測しがたい。
それでも、スラップ訴訟が今大きく話題となっていることは疑いない。それだけのスラップ実害についての認識が社会的に浸透しつつあるということだ。そのような目立つスラップが増えているとして、その原因はどこにあるのだろうか。
そのひとつは、この社会の「言論対政治的権力」、あるいは「言論対経済的権力」の対立構造において、言論が劣勢になっているからではないかと思う。ジャーナリズム全体が萎縮状況にあると言ってもよい。権力や富者を批判する言論が不活発で、天皇制批判、政権批判、与党批判、財界批判、米国批判における言論の分厚さがなく、やや突出した言論が権力や経済的強者の側から叩かれる。言論界が一致して、これに対抗して表現の自由擁護のために闘うという雰囲気が弱い。こういう状況が、スラップを生む土壌となっているのではないか。
高額請求訴訟の提訴で発言者は黙るだろう。世間も提訴を糾弾することはないだろう。そう思い込ませる空気がある。言論全体がなめられているのだ。
一つ一つの事件で、このような空気を払拭して、言論の劣勢を挽回したい。DHCスラップ訴訟での勝訴はそのささやかな一コマである。
(2016年10月24日)