澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

大阪維新は改憲政党である

おおさか維新の会が、「2016年参院選マニフェスト」を公表している。
その公約集のタイトルが、「維新が変える。改革メニュー13」というもの。そのメニューの第1が、驚くなかれ「憲法改正」なのだ。もっとも、アベ自民の改憲草案と同工異曲では埋没するのみ。独自色がないはずはない。総論でのメニューには「憲法改正による教育無償化、道州制実現を含む統治機構改革、政治家改革」と書いてある。これが、トップに掲げられた公約である。

そこで、具体的な改憲内容に興味が湧くことになる。「教育無償化」と「道州制」についてはイメージが湧く。しかし、憲法改正のテーマとしての「政治家改革」ってなんだろう。

ところがマニフェストの具体的項目に目を通して見ると、次の3項目となっている。
(1) 教育の無償化
(2) 道州制実現を含む統治機構改革
(3) 憲法裁判所の設置
あれあれ。メニュー1の憲法改正による「政治家改革」はどこに行っちゃったの?

この(3)の「憲法裁判所の設置」は、「(2) 道州制実現を含む統治機構改革」の一部をなすものだろう。「政治家改革」という言葉は、メニュー2の「身を切る改革・政治家改革」の中にはある。しかし、当然のことだが憲法改正と結びつく内容としては語られていない。メニューのトップに置かれた「憲法改正による政治家改革」は文字通りメニューだけ。料理としては出てこない。

要するに、このマニフェストは真面目に読む有権者の存在を想定していない。メニューのトップに掲げた「憲法改正」問題についてこのありさまだ。相当ないい加減感覚で作成されたものというほかはない。これが、この政党の政策レベル。真面目さレベル。以下、まともに論評することに徒労感がつきまとう。

もちろん、「教育の無償化」という政策が悪かろうはずはない。しかし、維新の公約のキモは、「教育の無償化」を改憲と結びつけているところにある。これは「甘い罠」といわねばならない。気をつけよう、「甘い政策とおおさか維新」なのだ。

マニフェストの当該部分は、「すべて国民は、経済的理由によって教育を受ける機会を奪われないことを明文化。」「機会平等社会実現のため、保育を含む幼児教育、高等教育(高校、大学、大学院、職業訓練学校等)についても、法律の定めるところにより、無償とする。」という。これが全文。

「教育を受ける機会を奪われないことを明文化」とは、憲法に明文規定を置くという意味だろう。そして、憲法に「法律の定めるところにより、無償とする。」という条文を設けるという趣旨なのだろう。しかし、そんな迂遠な手間ひまをかける必要はない。憲法改正手続を待つことなく、すぐにでも教育無償化法案を提出すればよいことだ。予算はたいしたことはない。F35とオスプレイの買い付けをやめ、辺野古新基地建設を断念してその費用を転用するくらいで、十分ではないか。それで足りなきゃイージス艦も要らない。要はプライオリティの問題なのだ。

現行日本国憲法26条1項は、「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」と定めている。その子どもの教育を受ける権利に対応する義務の主体は、「社会全体 (大人一般)」とされている(旭川学テ大法廷判決)。もちろん、「社会全体 (大人一般)」とは政府も議会も含む概念だ。「経済的理由によって教育を受ける機会を奪われない」ことこそ、現行日本国憲法の現代憲法としての面目である。憲法改正をしなければ実現しない課題ではないのだ。

憲法改正を要しない政策課題をことごとしく憲法改正テーマとして押し出す維新の底意はどこにあるのか。アベ改憲志向政権へのスリよりである。改憲という重要テーマを軽く見せることで、政権に秋波を送っているのだ。「憲法改正なんぞはたいしたことではない。安倍自民党の改憲提案を拒絶しませんよ」というシグナルでもある。

道州制については、もう言い古されてきた。地方自治強化の名で、実は国の福祉機能と責任を切り捨てる新自由主義政策の目玉の一つである。福祉を切り捨てて法人税軽減の財源とすべしという財界による財界のための政策。

そして、統治機構改革としての「憲法裁判所」。
「政治・行政による恣意的憲法解釈を許さないよう、憲法裁判所を設置する」という。マニフェストには掲載されていないが、報道では「12人の裁判官で構成し、一審制とする」という。憲法裁判所は、具体的争訟とは無関係に法令の合違憲適合性の審査権を持つ裁判所をいう。うまく機能すれば、「政治・行政による恣意的憲法解釈を許さない」役割を果たすことになる。しかし、その反対に、「立法や行政に、迅速に合憲のお墨付きを濫発する」機関にもなりかねない。実はアベ政権が喜びそうな改憲案なのだ。

ドイツや韓国ではかなりうまく機能しているようだが、果たして日本でも適正な運用が期待できるかどうか。私は懐疑派である。この点慎重を要する問題というほかはない。

以上の憲法問題だけからも、おおさか維新の基本的な立ち位置が見えてくる。政権に擦り寄りながら票を集めねばならない、ということなのだ。

かつては「みんな」や「維新」を第三極といった。この表現には、政権与党と野党の対立軸とは、別の平面に位置しているという持ち上げのイメージがある。今、それはない。注目すべきは、維新自身が、政策の独自性発揮に苦労を隠していないことである。

マニフェストに「維新は他党とここが違う」という1項目が設けられている。わざわざ、そう言わなければならない苦しさが滲み出ている。しかも、そこに掲げられている表をよく見ても、他党との違いは見えてこない。

自らつくったこの表は、「民共」を左欄に、「自公」を右欄において、その中間の「維新」の政策が、左右の欄の政策とどう違うかを際たせようというもの。この表を見ると、「民共」対「自公」の対立はよく見えてくる。しかし、維新の独自性はよく見えない。目立つ独自政策は、あっけらかんとした「TPP賛成」くらいではないか。この点は新自由主義政党としての面目躍如というべきだろう。とても、全国で有権者の支持は得られまい。

たとえば、毎日が松井一郎について、こう言っている。
「初の大型国政選挙に挑むおおさか維新の会は憲法改正に賛成し、安倍政権には是々非々の立場。『自公』対『民共』が注目される中、いかに埋没を防ぐか。橋下徹前代表の政界引退で、『党の顔』としての重責を背負う」
これが、維新の今の立場をよく表している。要するに、票を取ろうと思えば、政策は『民共』に似てこざるを得ないし、さりとて「自公」に擦り寄るメリットは捨てられないし…。喜劇のハムレットなのだ。早晩消えゆく政党ではあるが、消えるまでに改憲の土台を整備し、改憲ムードという遺産を残されたのではたまらない。

赤旗は辛辣だ。
「『身を切る改革』を参院選の公約の1番目に掲げる、おおさか維新の会。一方で、母体となる地域政党・大阪維新の会の議員による政務活動費の不正支出は後を絶ちません。
 たとえば、堺市の小林由佳市議は、印刷や配布の実態がない政策ビラの代金などに計約1040万円を支出。返還をめぐって訴訟にまで発展しています。北野礼一元堺市議は、ゴルフコンペの景品購入代などに約1050万円を支出し、辞任に追い込まれました。
 大阪市の伊藤良夏市議は、トヨタの高級車「レクサス」の購入費の一部に政務活動費を充てていました。
 言行が一致しないのは、政務活動費の問題だけではありません。
 兵庫県議会で維新は、一昨年末に期末手当(ボーナス)を引き上げる議案に賛成しました。神戸市議会でも同年、議案の共同提案者となってまでボーナスを引き上げました。
 『退職金をゼロにした』と訴える松井一郎代表(大阪府知事)も、実際には廃止分を毎月の給与に上乗せし、総額で348万円も給与を増額させただけです。
 政党助成金についても、『必要経費』と言って手放しません。
 選挙のたびに『身を切る』と叫んで政治家としての『身分』を守り、公約をほごにして税金で身を肥やす。これが、おおさか維新の会が唱える『身を切る改革』の実態です。」

おおさか維新に集まる連中の質の低さは、赤旗が指摘するとおりである。問題議員はもっともっと多くいる。それが、この党の抱える本質的問題と言ってよいかどうかは分からない。しかし、おおさか維新は政党助成金をぬくぬくと受領し、けっして政党助成金の制度廃止を言い出さない。このことだけで、身を切る改革の本気度を信じることは到底できない。

こんな不誠実な政党への支持は、多くの有権者にとって自らの首を絞めることと強く警告せざるを得ない。だから申しあげる。「およしなさい。おおさか維新への投票」。
(2016年7月2日)

公明党の公約には、「憲法」も「沖縄」もまったく出てこない。

はや7月である。今年も半分が過ぎた。この秋はどのような秋になるだろうか。暮れはどうだろう? 鬼が笑っているだろうか。それとも鬼も哭いているのだろうか。

今月10日に参院選投開票。そして、31日には都議選である。とりわけ2016年参院選の結果は、日本の将来を大きく左右することになりかねない。憲法と日本の命運のかかる選挙である。

今日を含めて選挙運動ができる期間は、あと9日。当ブログも精一杯、野党共闘の側の勝利のための記事を書き続けたい。

今日は公明党を取り上げる。自民党の下駄の雪と揶揄されつつも、壊憲与党を支える大勢力となっている。昔は、「平和の党」や「福祉の党」を称したが、今、その面影はない。

公明党の参院選政策集に、憲法問題への言及のないことが話題となっている。自民党のように「隅っこに小さく」さえも載せない。自民党のように「もごもごと曖昧に」語ることすらしない。

公明党の選挙政策集は「希望が行きわたる国へ」という21頁に及ぶものだ。大項目で6、小項目では52の政策を掲げている。そのなかに、憲法がまったく出てこないのだ。護るとも、活かすとも、付け加えるとも、語るとも、論ずるとも、変えるとも、なくするとも言わない。まったくのダンマリ。国民の間に憲法や立憲主義についての関心がこれだけ高まっているときに、国の行く末を左右するこの大問題への徹底した沈黙は、不気味というほかはない。

大項目の第5項が、「安定した平和と繁栄の対外関係」。この中には、「アジア太平洋地域の平和と繁栄の構築」という小項目がある。しかし、ここでも中国に対する侵略戦争や、韓国に対する植民地支配に関する歴史認識はまったく語られていない。そもそも憲法の理念を語る姿勢に欠けていると指摘せざるを得ない。憲法問題については完全なフリーハンドを留保しておきたいという意思表示なのだろう。こんな政党に投票できるだろうか。

公明党の選挙公約に欠けているのものは「憲法」だけではない。実は、「沖縄」も出てこない。「普天間」も「辺野古」の文字もない。もちろん、「海兵隊」も「カデナ」も「オスプレイ」も「地位協定」もない。公明党は、いったい国と沖縄の深刻な対立問題をどう考え、どう対応しようとしているのか。その方針について、民意の審判を受ける意思はないというのだろうか。

しかも、である。辺野古新基地建設に伴う大浦湾の公用水面埋立問題に関わって、沖縄県知事の埋立承認取消を執行停止とし、埋立工事の続行を強行させた悪名高い国交大臣は、公明党所属の石井啓一ではないか。辺野古埋立を是とするのであれば、堂々と公約に掲げて民意の審判を仰ぐべきが当然ではないか。

選挙遊説でも、公明党の幹部は憲法も沖縄も語らないという。しかし、両テーマとも日本の政治の根幹に関わる大問題である。有権者の関心もきわめて高い。これに触れない公明党の選挙公約を、いったい何と評すべきか。

「2014年衆院選や13年参院選の公約では、憲法に新たな条項を加える『加憲』の項目があったが、今回は触れていない。山口那津男代表は(6月)9日の記者会見で『今回の選挙は、憲法改正の成熟した選択肢が実現していないので、争点にはならないと考えている』と説明した。」(毎日)
これは、論理的に破綻している。前回・前々回選挙では成熟していた憲法改正の選択肢が、今回選挙ではその成熟がしぼんだとでもいうのであろうか。事態はまったく逆であることが明らかだ。要するに公明党は、都合の悪いことからは逃げているだけのことなのだ。

憲法についても沖縄についてもホンネを語らず、きれいごとだけを並べてごまかして、票だけはいただこうという、姑息な魂胆が透けて見える。これが公明党の流儀というほかはない。このような真摯さと誠実さに欠ける政党の集票活動に有権者は惑わされてはならない。

この公明党の姿勢への反発を「日刊ゲンダイ」が報じている。「公明党まさかの大苦戦 比例区に手回らず支持者離れも深刻」という表題。

「支持者を裏切った結果か。公明党が真っ青になっている。参院選で予想外の苦戦をしているからだ」というリードで始まっている、その記事の中に次の取材コメントが紹介されている。
「公明党は定数が増えた選挙区に次々に候補者を擁立しています。愛知は9年ぶり、兵庫と福岡は24年ぶりに立てた。パワーが分散されたためか、埼玉と兵庫は大苦戦している。埼玉は最後の1議席を共産党と争い、兵庫は民進党と競り合っている。焦った公明党は、安倍首相に泣きつき、埼玉と兵庫の公明党候補の応援演説をしてもらっています。もし、2つの選挙区を落としたら、山口那津男代表の責任問題になるでしょう」(公明党事情通)

「公明党の支持者は、公明党を“平和の党”“福祉の党”と信じて支持し、選挙になれば知り合いに投票をお願いする、いわゆる“フレンド票”を集めてきた。ところが公明党は、“戦争法案”成立に突っ走った。あれで、熱心な支持者ほど離れてしまった。今回、“自分は公明党に一票を入れるけど、フレンド票は集めない”と口にする人も多い。比例票が激減する可能性があります」(公明党関係者)

同様の報道は、複数見られる。私には選挙情勢や党内事情についての真偽を判断する術はない。しかし、かつては平和を語って平和憲法擁護の立場を明確にし、福祉を語って民衆の支持を集めていた政党のこの様変わりである。戦争法を強行採決し、弱い者イジメの新自由主義政策に加担している公明党に、かつての真面目な支持者が愛想をつかして公明党離れをしつつあるということは、大いに納得できる。

こんな不誠実な政党への投票は、多くの有権者にとって自らの首を絞めることと強く警告せざるを得ない。だから申しあげる。「およしなさい。公明党への投票」。
(2016年7月1日)

新たな有権者諸君に呼びかける

私のブログの記事は、転載・引用大歓迎である。
昔、労働事件に携わっていた頃、日刊で「分会ニュース」を発行している組合がいくつかあった。ビラにして、これを毎日門前で出勤の労働者に手渡すのだ。あるいは、始業前に各従業員の机に配布する。その熱意と努力には敬服せざるを得ない。そんなニュースの発行者は、常に記事のネタ探しに苦労していた。私の拙いこのブログの記事が、形を変えて今もあるそのような「ミニ・ニュース」の埋め草に使ってもらえたら、本望というもの。事々しく出典を明示する必要はない。一部だけの引用でも使いやすいように変えていただいても結構。使いまわしていただけたら、なおさらありがたい。
 
そんな思い入れで、今回参院選に新たに有権者として権利を行使する若者への呼びかけの一文をものしてみたが、身近な人に読んでもらって評判がよくない。「上から目線の説教調が鼻につく」というのだ。で、第2バージョン、第3バージョンなどをつくってみた。使えるものなら、どこかを使っていただきたい。もちろん、ノリとハサミで作り直していただいてもいっこうにかまわない。

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若者よ。

未来は君たちのものだ。
君たちがこれから生きていく社会は、
君たち自身がつくるものとなる。
だから、若者よ。
君たちのよりよい未来をつくるために、
まずは選挙に参加しよう。
投票に行こう。

若者よ。
理想を語ろう。
この世に生まれたすべての人が、
意義ある生を送ることのできる社会について。
すべての個人に人間としての尊厳を保障する社会について。
人が自由で平等とされる社会について。
弱い者すべてに暖かい手を差し伸べる社会について。
人に優しく持続的な環境が大切にされる社会について。

そして、なによりも平和について。
戦争がないだけでなく、
貧困や差別や抑圧のない真の平和について。
そのようなよりよい未来について
理想を語り合おう。

若者よ。
この社会の現実を見つめよう。
厳然と存在する、貧困と格差を。
一方に奢侈と浪費があり、
もう一方に窮乏と絶望のある不合理を。
富が一極に集中し、
集積した富が権力を構成して、
不平等を再生産し拡大するこの理不尽な悪循環を。
不合理な差別が意識的につくられ利用されているおぞましさを。
尊大で傲慢な政治が、平等と自由を掘り崩している理不尽を。
政治が金で動かされている、この薄汚さを。
個人が自立せず、権威や権力に盲従する不甲斐なさを。
貧困・格差・搾取・差別・偏見が原因となっている
国際社会の混乱を。

よりよい未来を作るために、
現実を理想に近づける努力をしよう。
だから、若者よ。
新たな有権者よ。
選挙に参加しよう。
投票に行こう。

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新たな有権者の諸君

冷静に過去を見つめよう。
私たちの国と社会が、
かつてどのようなものであったか。
どのようなことをしたのか。
そして70年前に、
筆舌に尽くしがたい戦争の惨禍から、
どのように再出発をしたのかを。

「再び政府の行為によって戦争の惨禍を繰り返さない」という決意は、
今忘れられずに維持されているだろうか。
「戦後レジームからの脱却」を呼号する権力を
このまま許しておいてよいのか。

新有権者諸君
選挙に参加するとは、単に投票することではない。
主体的に、社会と政治に関わることだ。
理想に照らして、現実の矛盾を見定めること。
そして、議論し行動することだ。
説得することであり、されることでもある。
そうして、考えた末の投票をすることだ。
選挙をきっかけに、社会を考えること。
主権者としての自覚と自分の意見をもつことだ。

そのようにして、
君たち自身の手で、
政治を変え社会を変え、
君たちのよりよい未来をつかみ取ることができる。
だから、若者たちよ。
選挙に参加しよう。
投票に行こう。

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新しく有権者となった君たちに訴える。
君たちが頼りだ。
君たちこそ希望だ。
君たちがよりよい未来をきっとつくる。
君たち自身のよりよい人生のためにも、
是非とも選挙に参加をお願いしたい。
投票所に足を運んでいただきたい。

今ある社会は、大人たちが作った。
理想にはほど遠い。
今の大人たちは、
多くのしがらみに足を取られて
理想を語ることができない。
この社会を理想に近づけるのは、
君たち若い世代だ。

しがらみのないまっさらな感覚で理想を語り、
君たちがこれから長く生きるこの社会を
君たち自身の手で、よりよいものにして欲しい。
だから、君たちに訴える。
よりよい未来をつくるために、
是非とも選挙に参加をお願いしたい。
投票所に足を運んでいただきたい。

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新有権者諸君
諸君はこの颯爽たる
諸君の未来圏から吹いて来る
透明な清潔な風を感じないのか
それは一つの送られた光線であり
決せられた南の風である

諸君はこの時代に強いられ率いられて
奴隷のように忍従することを欲するか
権力と資本に屈服することを潔しとするか

むしろ諸君よ
更にあらたな正しい時代をつくれ

諸君よ
時の政権が平和の理想をなげうって
国粋・排外の論調が膨らみ高まるときに
諸君はその中に没することを欲するか
じつに諸君はこの地平線における
あらゆる形の山嶽でなければならぬ

新たな詩人よ
雲から光から嵐から
透明なエネルギーを得て
理想の社会の形を暗示せよ

新しい時代のコペルニクスよ
余りに重苦しい社会的重力の法則から
この銀河系を解き放て

新たな時代のマルクスよ
これらの盲目な衝動から動く世界を
素晴らしく美しい構成に変へよ

諸君の手にある政治参加の権利
新たに手にした有権者としての資格
それを用ひ尽くして
諸君は新たな社会の形成に努めねばならぬ

ああ諸君はいま
この颯爽たる諸君の未来圏から吹いて来る
透明な風を感じないのか
(2016年6月30日)

「EU離脱国民投票」の「日本国憲法改正国民投票」への教訓

民主主義とはなんだろうか。なんとなく分かっているようで正確に定義することは難しい。民主主義の正しさを証明することはさらに難しい。民意にもとづく政治だから常に正しいとは限らない。このことは、脳裏に刻むべきだ。ナチスも天皇制政府も民衆の意思が支えた。

間接民主主主義の不完全さはアベ政権の存在自体が見事な証明となっている。では直接民主主義はどうだ。プレビシットというのはまことにいやな語感。大阪都構想の住民投票などはまさしくプレビシットとして、危うく成功しそうになった愚かな事例であったろう。

民衆が独裁を支え独裁が民衆の支持という正当性を獲得する儀式としてのプレビシット。その歴史上の典型事例として挙げられる、1804年ナポレオンの皇帝就任を是認した国民投票の賛成票は99.93%、1934年ヒトラーの総統就任を是とした投票の賛成率は89.93%、オーストリアが実施した国民投票でのナチス支配下のドイツへの併合への賛成票は99.73%であったという。(朝日.com)

英国のEU離脱問題は、国民投票という制度の危うさを示す1事例の追加として貴重であり教訓に満ちている。国民投票の結果を、「それが国民の意思の結実なのだから正しい」とか、「最高の民主的手続の結果なのだから尊重しなければならない」などと、けっして言ってはならない。国民投票の結果が間違っていたかどうかの検証には長いスパンが必要かと思っていたが、わずか3日間で答が出てしまったようだ。

投票前には、英国〈BRITAIN〉+離脱〈EXIT〉の造語「BREXIT(ブレグジット)」が流行ったという。ところが投票直後から、英国〈BRITAIN〉と後悔〈REGRET〉を組み合わせた「BREGRET(ブリグレット)」、あるいは後悔〈REGRET〉+離脱〈EXIT〉で、「REGREXIT」(リグレジット)という言葉が行き交っているという。国民投票は間違いだったというのだ。多くの国民個人の投票行動として、そして国家の選択として。そもそも、なすべきでない国民投票をしたということにおいても〈REGRET〉せざるを得ないのだ。

EUは、独・仏の不再戦の誓いの具体化として始まったヨーロッパ統合の理念の結実と言ってよい。その平和の理念が、ナショナリズムの反撃を受けて後退を余儀なくされての英国の離脱だ。その意味で、まことに残念といわざるを得ない。

しかし、今問題とするのはそのような大局的な意味での誤りではない。投票直後から、「失敗だった」「欺された」「やり直しを」という声が満ちているという、その手続的なお粗末さについてである。多くの人の命運に関わるこんなに大事なことが、このように軽々しく扱われていることへの疑問である。

新聞の見出しが「離脱派公約の『うそ』続々」と報道している。再投票を求める署名は既に400万人に近いという。また、当日のロンドン地区の豪雨が、残留派の投票への足を鈍らせたともいう。英国民は、短慮な国民投票で、EU離脱を決めたのだ。

本来、民主主義は、熟議の政治であり、熟慮の政治でもある。ある時点での民意の検知よりは、相当期間における熟議と熟慮のプロセスをこそ重視しなければならない。煽動され過熱した国民の意思ではなく、真実の情報に基づく冷静な論議の末の国民投票でなくては過つのだ。「こんなはずではなかった」「私の投票先を変更したい」と言っても後の祭りなのだから。

このことを日本国憲法の改正手続のあり方に貴重な教訓としなければならない。民意を問うこと自体に積極的意味があるとか、その時点での主権者の意思は尊重されねばならない、などと言ってはならない。軽々に改正時の民意を絶対化してはならない。その投票結果は、次の世代をも拘束するのだ。世代を超えて妥当する揺るぎない規範の選択という責任が伴うことが自覚されなければならない。

イギリスの制度はよく知らない。報道によれば、「国民投票の結果を議会の決議で覆すことは可能」だそうである。そして、英下院で議論する対象になるかを決める要件の署名数は10万人ということ。現在、署名はその40倍にも達しており、近く下院の委員会が議題として取り上げるか否かの協議が始まるという。ならば、大騒ぎしての国民投票はいったい何のためだったのだろうか。

わが国のこととして考えれば、軽々に改憲発議や国民投票はすべきでないということになろう。相当期間の冷静な熟議があり熟慮があれば、改憲発議も国民投票も不要との結論に落ちつくはずなのだから。
(2016年6月29日)

選挙期間中の落選運動ビラ配布は?

3年前の2013年参院選以来のインターネット選挙運動解禁は、画期的な選挙運動の自由をもたらした。しかし、インターネット選挙運動の解禁によって、ビラやチラシの必要がなくなったわけではない。特定の場所に集まる人々を対象に、特定の内容のビラやチラシを配布する必要は相変わらずあり、インターネットやブログの発信で代替できるものではない。

にもかかわらず、ビラやチラシについての規制は厳しいままだ。知恵を絞って、せめて、落選運動のビラやチラシを自由に撒けることにならないか、と考えた方がいらっしゃる。

たまたま都内のある方から、こんな相談を受けた。
「7月10日の投票日前に、地元で、ご年配者向けに『本当に自民党・公明党で良いのでしょうか?』というチラシを作成・配布を考えています。
公選法のグレーゾーンにあたる場合は、しない方が良いというアドバイスもありますが、公示後の落選運動のビラは、グレーゾーンに入るのでしょうか。」

以下は、この問に対する回答の一端。
「改憲を許すか阻止するか」という厳しいせめぎあいの中での貴重な活動に敬意を表します。ビラ・チラシの配布は本来は憲法上の権利です。表現の自由でもあり、参政権の行使としても、自由に行えてよいはず。しかし、べからず公職選挙法による無用の弾圧は避けなくてはなりません。

お尋ねの『本当に自民党・公明党で良いのでしょうか?」というチラシ。もし、この趣旨を逸脱しない落選運動に特化したチラシを、団体が組織的に行うのではなく市民個人が手作りのものを、手渡しで配布するなら、なんの問題もありません。公示の前後を問わず、投票日当日も配布することに差し支えがありません。

ある文書の配布が法に触れないか。そのことを考えて結論を出す際には、次の3段階で考えてください。
第1 この文書は選挙運動文書としてその配布は違法とならないか。
第2 この文書は、選挙期間中の政治活動文書として違法にならないか。
第3 法が特に定める「脱法文書」に当たらないか。

まず、「第1 選挙運動文書としてその配布は違法とならないか。」
公職選挙法は、選挙運動に厳重な規制を設けています。選挙運動に当たる文書(公職選挙法では、「選挙運動のために使用する文書図画」といっています)の配布に関する規制のあり方は、一般的に禁止して、法が認めたものだけに限定して許可するという厳しさ。結局は、選挙運動に当たるビラの配布として可能なのは、選挙用ハガキと証紙ビラに限られることになります(公職選挙法142条)。

ですから、「野党候補のAさんを当選させましょう」「比例はB党へ」という投票依頼文言を記載したビラ・チラシは、手作りのものでも不特定または多数の人々を対象とする配布は禁じられています。

問題は、何をもって「選挙運動」に当たるかです。法に規定はなく、判例は『特定の選挙について、特定の候補者の当選を目的として、投票を得又は得させるために直接又は間接に必要かつ有利な行為』とし、行政実務もこれによっています。実は、この「間接」「必要かつ有利な行為」は曖昧さを残していますが、候補者名なく、投票依頼文言もない文書を選挙運動文書とすることは無理も甚だしいといわざるを得ません。

落選運動は選挙運動の定義には本来当てはまりません。ただ、場合によっては、A候補の落選を意図した文書が、対立する唯一のB候補の「投票を得又は得させるために間接に必要かつ有利な行為」と認定される恐れは絶無とはいえません。この点をグレーゾーンと言えば、いえないこともないかと思います。幸い、東京選挙区では心配ご無用ですが。

『本当に自民党・公明党で良いのでしょうか?」というチラシが、選挙用文書になるとは到底考えられないところです。

「第2 この文書は、政治活動文書として違法にならないか。」
公職選挙法には奇妙な規定があって、選挙運動期間中の選挙運動だけでなく、政党や政治団体の政治活動を大幅に規制し、確認団体とされた特定の団体についてだけ、この規制を解除するという複雑な制度を設けています。(公職選挙法201条の6)

規制される政治活動は、態様や効果の点において、選挙運動と紛らわしいもの7種類で、そのなかには「ビラの頒布」が含まれています。ですから、選挙期間中政党や政治団体のビラ・チラシの配布は、選挙運動用文書について禁止されているだけでなく、政治活動文書も原則禁止なのです。そして、一定の要件を備えた確認団体についてだけ、候補者名などを入れない、いわゆる法定ビラ(3種類)を配布することができるとされています。

したがって、確認団体でない政治団体が組織的に政治活動文書(落選運動文書を含みます)を配布することは禁じられていることになります。問題は、ここでいう政治団体の定義で、政治的な発言をするあらゆる団体がこれに当てはまるとは思えませんが、この点は、グレーと言わざるを得ません。
もっとも、この規制は政党や政治団体のビラ配布に関するもので、市民が純粋に個人として行うものについては規制の対象外で自由とされています。お尋ねのものは、この範疇に属するもので、違法ではないと考えられます。

最後に、「第3 法が特に定める『脱法文書』に当たらないか。」
公職選挙法は、その第146条を(文書図画の頒布又は掲示につき禁止を免れる行為の制限)として、脱法行為を禁止しています。
「選挙運動の期間中は、いかなる名義をもつてするを問わず、《文書図画の頒布》の禁止を免れる行為として、『公職の候補者の氏名』若しくは『シンボル・マーク』、『政党その他の政治団体の名称』又は『公職の候補者を推薦し、支持し若しくは反対する者の名を表示する』文書図画を頒布することができない。」

ですから、「本当に自民党・公明党で良いのでしょうか?」というチラシに、『○○選挙区候補者W』『候補者のシンボル・マーク』、『政党名や政治団体名』又は『△△候補者をCさんが推薦しています』『▽▽候補にはDさんが反対しています』などと書き込んではいけないということになります。

無用の弾圧を招かぬよう細心の注意を払いつつ、できるだけのことをしたいものと思います。
(2016年6月28日)

反共を叫べ。野党共闘に楔を打ち込め。各個撃破せよ。そうして、改憲への道を切り開け。

シンゾーよ。汝との契約に従って、民衆を支配する要諦を教えんか。深く心に刻んで、夢忘れることなかれ。

何よりも、分断して統治せよ。これこそが支配の鉄則であると知れ。
可能な限り被治者を孤立した砂粒の状態に置け。砂粒は無力なのだ。砂粒から脱した民衆の結束を恐れよ。民衆の連帯を警戒せよ。

民衆が小グループで互いに敵対する状態が望ましい。常に、被治者の不和を利用せよ。徹底して不和に付け込め。不和がなければつくり出せばよい。

野党の協力は、危険極まりない。無党派市民との連携あればなおさらだ。けっして、これを捨て置いてはならない。選挙共闘に成功体験をさせてはならない。極度に恐れよ。あらゆる手段をもって、野党の共闘に悪罵を投げつけよ。

共闘の妨害に、手段を選んではならない。利用できるものはなんでも利用せよ。躊躇すれば、手遅れになる。共闘を恐れ、うろたえているところを民衆に見透かされぬよう、心しつつ徹底して共闘に楔を打ち込め。

野党の選挙協力を「野合」と批判せよ。野合とは、まことに品位に欠けた言葉だが、汝が口にするにふさわしい。

この場合のキーワードは、「反共」だ。民衆の中に潜む漠然たる反共意識を煽れ。これを刺激して、最大限に利用せよ。反共意識の根源は、「天子に弓引く不敬の共産党」だ。かつては共産党のシンパとみられること自体が恐るべき不幸を招いた。保身をこととする民衆にとって共産党に近づくことはタブーだった。企業が支配する今の社会においても、漠然たる民衆の反共意識はなくなっていない。これを徹底して利用するのだ。

共産党への漠然とした民衆の不安に付け込んで、野合との批判は、主として民進党とその支持者に向けよ。
「破防法適用団体の共産党」「自衛隊を違憲という共産党」「野党共闘は共産党の主導だ」「民進党には、もれなく共産党がついてくる」「気をつけよう。暗い夜道と民進党」と叫べ。「共産党主導の無責任な野党統一候補にはまかせられない」と、絶叫せよ。総理としての品位に欠けるだの、理屈が通ってないだのという批判は、無視せよ。勝てば官軍なのだから。

こうして、野党共闘を崩すことができれば、念願の改憲への道が開けてくる。堂々の国防軍をつくって軍事大国へ大きく一歩を踏み出せるではないか。そのときこそ、人権だの民主主義だの、七面倒なことに拘泥しなくて済む時代が到来する。汝が、全き権力者となる。行政府の長だけでなく、立法府の長をも兼ね、さらには統帥権をも手にすることになるのだ。

シンゾーよ。もう一度、支配の要諦を確認しよう。
分断して統治せよ。楯突く政党を各個撃破せよ。擦り寄る政党は利用し尽くせ。限りなく弱小化した政治集団を、最後は一党独裁に吸収せよ。その成功の理想型が、大政翼賛会であり、ナチスではないか。

富国強兵の経済政策によって肥大化した精強の国防軍が、翼賛議会の満場一致をもって海外出兵を決議するそのときにこそ。汝のいう「戦後民主主義からの脱却」が実現し、「美しい日本を取り戻す」ことができたことになる。

そのときだ。シンゾーよ。汝と私の、血の契約が成就することになる。汝は政治家として名をなす。私は戦争と大量の殺戮を望むのみ。私の名は死に神。

シンゾーよ。我が教えを銘記せよ。今こそ、大願成就への岐れ道。野党共闘に楔を打ち込んで、改憲への道を切り開くのだ。
(2016年6月27日)

かつて、創価学会は平和憲法擁護・反戦を掲げていた。

「公明党=創価学会ではない」とは、ときに聞かされること。「公明党≒創価学会ですらない」「創価学会は真面目ですよ。平和を求めることにおいては特にね」などとも。とりわけ学会の婦人部が、原水爆禁止や9条擁護に熱心だとされる。私は、その真否を判断できる材料をもちあわせない。ただ、創価学会の前身創価教育学会は、戦前の天皇制政府から過酷な弾圧を受けている。その意味では軍国主義の被害者であった。信徒団体としての創価学会が、平和を求める集団であってなんの不思議もない。

とはいえ。創価学会が王仏冥合という独特の政治理念をもって政界への進出を試み、公明政治連盟を作りさらに公明党の母体となったのは周知の事実。

その公明党の昨今の体たらくはどうだ。創価学会が真に平和を志向する団体であるなら、公明党がアベ自民党の下駄の雪となって、どこまでも改憲路線を支えていることは奇妙奇天烈というほかはない。今次参院選における公明党代表山口那津男の野党共闘への攻撃のボルテージはただごとでない。改憲阻止・立憲主義の回復・集団的自衛権行使容認反対・戦争法廃止での共闘に対するむき出しの敵意である。自身の憲法や平和への立ち位置をよく示している。

本当に創価学会は平和を志向しているのだろうか。公明党を通して創価学会を見る限り、眉唾と言った方が分かり易い。もしかしたら、公明と学会とは、二つの顔をもって役割分担しているのかも知れない。公明が反共・親自民・改憲路線の顔、学会が平和・護憲・環境保護の顔。両面取り込んで、分裂もしない奇妙なところが、この集団の強みであり、不気味なところでもある。

集団的自衛権行使容認の公明党には、創価学会の一部から猛反対があったようだ。戦争法の法案提出から強行採決反対する一連の運動の節々に、確かに創価学会のグループがデモに参加していた。これは、ごく一部の微震に過ぎないのだろうか。実は屋台骨を揺るがすほどの激震の徴候なのだろうか。外からは見えない。

創価学会と平和・憲法。昔は本当に相性がよかったようだ。創価学会婦人部は本気になって、平和憲法擁護、9条改憲阻止を訴えていたという。そのことを28年前の創価学会婦人部編『まんが・わたしたちの平和憲法』を紹介するブログで知った。

下記のURLをごご覧いただきたい。
  http://seoul-life.blog.jp/archives/62149212.html

このブロガーは、ソウルに在住の若い人だ。こう言っている。
「ここに書かれた戦争へのシナリオが今の状況とそっくり
 これは、1988年、僕が12歳の時に創価学会婦人部平和委員会の編纂で第三文明社から出版された『まんが・わたしたちの平和憲法』の最後の章です。主人公の男の子たちが旅に行っている1年あまりの間に、自覚のない国民が選挙で憲法改正に同意してしまい、その後に起こる悲劇を描いています。
 僕はこの時この本を読んで憲法というものについて面白く学びましたが、この章を読んでとても怖くなったことと、それでもこんなことは起こるはずがない、もし起こるような動きがあれば何があっても止めなければ、と幼心に感じたのを覚えています。
 もちろんこのまんがは夢の話ですし、極端なところがあるでしょう。しかしこの夢を現実にさせたがっているのが今の政権です。実際に、このまんがのp.184?185のような動きはほとんど現実のものとなってきてしまいました。
 自民党と組んでいる公明党はもともとこのまんがのような護憲政党だったはずです。しかし、僕に平和憲法を教えてくれた公明党はすでに、その正反対の憲法違反を押し進める側になってしまいました。今の自公を勝たせてはいけません。彼らは昔の自民党でも、昔の公明党でもありません。…
 第九条の理想は、時の幣原首相がマッカーサーに陳情して憲法となったものだそうです。アメリカに押し付けられたものではありませんでした。確かに理想かもしれません。でも日本がその理想の旗を降ろしてしまったら、世界はその理想に近づくでしょうか、遠ざかるでしょうか。…
 このまんがを編纂したのは普通の主婦の人たちだそうです。これを読んで何かを感じる方は、どうか声を上げていただきたいと思います。多くの人にシェアしていただき、感じていただきたいです。身の回りの創価学会の人にも見せてあげてください。
 国を守るという美名のもとに国家の名によって殺されるのは、国会議員でも、彼らに投票した大人たちでもなくて、子供たちなのです。最後にこのまんがの第六章冒頭の文をここに挙げます。

『いま憲法(特に第九条)が変えられる動きがあります。
一人ひとりが憲法に関心を持ち、第九条の平和の心を守っていきましょう。』」

この漫画は創価学会婦人平和委員会が出版した、「わたしたちの平和憲法―まんが (平和への願いをこめて―ジュニア版)」(1988/9)である。作画は、懐かしい山根赤鬼。念のためとアマゾンを検索したら、中古の出品3冊出てきた。価格は、17,998円、25,282円、そして30,000円という。今はあとかたもない歴史的な遺物として、高価なのかも知れない。

創価学会婦人平和委員会編の『平和への願いをこめて』(第三文明社・1981)というシリーズもある。本格的な民衆の戦争体験記集である。戦地の体験、各地の空襲、沖縄地上戦、そして原爆…。
下記URLをご覧いただきたい。
「昭和50年代の青年部と婦人部の反戦出版」
  http://jounin.web.fc2.com/hansen/hansen.htm

戦争を知らない世代へ?(全56巻)
戦争を知らない世代へ? 全24巻
平和への願いをこめて 全20巻

最後の全20巻は下記のとおり。
?引揚げ編
?従軍看護婦編
?戦後生活(関西)編
?広島・被爆その後編
?学童疎開編
?基地の街(神奈川)編
?女たちの戦禍編
?聞き書き(千葉)編
?戦争未亡人(埼玉)編
?女教師編
?樺太・千島引揚げ(北海道)編
?沖縄戦後編
?被爆二世(長崎)編
?農村婦人(東北)編
?女子挺身隊(中部)編
?満蒙開拓(長野)編
?国防婦人会(大阪)編
?四国編
?戦争孤児(東京)編
?外地編 あの星の下に

上記「?従軍看護婦編 白衣を紅に染めて」の一節にネットで接することができた。従軍看護婦の手記が、慰安婦の惨状を語っている。
「ジャワ島に行く途中、私達の乗った輸送船が潜水艦に襲われ・・・・その時は運よく魚雷に当たらず、私たちはヤレヤレと胸をなでおろしましたが、それも束の間、またまた、何かの理由で船は進行を阻止され、やむなく途中のセレベス島マカッサルという所で1か月待機することになりました。ところが、私はこの地で先に記した戦場での負傷者よりもっとひどいものを見ることになりました。それは日本軍隊の恥部ともいわれている従軍慰安婦の実態でした。性病に冒され、局部が形がなくなるほどむごくくずれた彼女達は、『決していわないでくれ』といいながら、少しずつその生き地獄のさまを話してくれたものです。戦争のために送られた兵隊達もそこが戦場となっていなければ、休日もある。休みといっても行く所もすることもなければ、勢い、男達は慰安所に列をなす。慰安婦の数は少なくはなかったが、兵隊の数はあまりにも多く、時間を区切って用を済まさせたが、1日に数えきれないほどの人数を受け入れなければならず、それはもう生きた心地はない……と。それまで話に聞いたことはありましたが、現実にそういう所に身をさらさなければならない女性と接するにつけ、その中には朝鮮の女性もたくさんおりましたし、私は『ああ、日本人って、日本軍隊ってこういうものだったのか』と同じ日本人の女性として、言葉に表すこともできない憤りに苦しんだものでした」(156?157ページ、孫引き)

かつての創価学会は、かくも堅固な護憲派であり、反戦の姿勢も堅持していたのだ。この人たちの後輩が、今アベ改憲勢力の手先になりさがっているのだろうか。嗚呼。
(2016年6月26日)

浜の一揆訴訟が問いかけるものー「21世紀の水産を考える会」総会での報告

「NPO法人21世紀の水産を考える会」の年次総会にお招きいただき、浜の一揆訴訟についてお話しする機会をいただいたことに感謝いたします。

この運動、この訴訟について、是非とも多くの人に知ってもらいたいのです。しかし、岩手の地元メディアは紹介に冷淡です。行政や漁連に遠慮をしているのではないかといういぶかしさを拭えません。漁民自身が、「生活を守ろう」「後継者を確保して漁業を継続しよう」と立ち上がっていることに、もっと大きな関心をもって話題にしてもらいたいところです。

私は、この漁民の運動を、幕末の三閉伊一揆と同様の理不尽な支配構造への抵抗運動だととらえています。そのことをご理解いただきたくて、別紙のようにレジメはつくってまいりました。ところが、本日の総会に配布された、貴会の機関誌「日本人とさかな」33号に、トピックス「浜一揆提訴報告(岩手県サケ漁業権裁判)」が掲載されています。目を通して見ますとこれがなかなかによくできている。無味乾燥なKレジメよりよっぽど面白い。私が今日お話ししようと思ったことは、あらかたここに書いてある。実はこれ、私のブログの転載記事なのです。

「漁業で生活できる行政を」―浜の一揆訴訟の第3回法廷
  https://article9.jp/wordpress/?p=6902

3頁にわたるかなりの長文ですが、さわりは次の文章。

「(1月14日法廷後の)報告集会では、いくつもの印象的な発言があった。
『サケがとれるかどうかは死活問題だし、今のままでは後継者が育たない。どうして、行政はわれわれの声に耳を傾けてくれないのだろうか。』『昔はわれわれもサケを獲っていた。突然とれなくなったのは平成2年からだ。』『いまでも県境を越えた宮城の漁民が目の前で、固定式刺し網でサケを獲っているではないか。どうして岩手だけが定置網に独占させ、漁民が目の前のサケを捕れないのか』『大規模に定置網をやっているのは浜の有力者と漁協だ。有力者の定置網漁は論外として、漁協ならよいとはならない。』『定置網漁自営を始めたことも、稚魚の放流事業も、漁民全体の利益のためとして始められたはず。それが、漁協存続のための自営定置となり、放流事業となってしまっている。漁民の生活や後継者問題よりも漁協の存続が大事という発想が間違っていると思う』

帰りの車内で、これはかなり根の深い問題なのではないかと思い至った。普遍性の高いイデオロギー論争のテーマと言ってよいのではなかろうか。

岩手県水産行政の一般漁民に対するサケ漁禁止の措置。岩手県側の言い分にまったく理のないはずはない。幕末の南部藩にも、天皇制政府にも、その政策には当然にそれなりの「理」(正義)があった。その「理」と、岩手県水産行政の「理」とどう違うのだろうか。あるいは同じなのだろうか。

私は現在の県政の方針を、南部藩政の御触にたとえてきた。定めし、高札にこう書いてあるのだ。

『今般領内沿岸のサケ漁の儀は、藩が格別に特許を与えた者以外には一律に禁止する』
『これまで漁民の中にはサケを獲って生計を立てる者があったと聞くが、今後漁民がサケを獲ること一切まかりならぬ』
『密漁は厳しく詮議し、禁を犯したる者の漁船漁具を取り上げ、入牢6月を申しつくるものなり』
これに対する漁民の抵抗だから、『浜の一揆』なのだ。

しかし、当時の藩政も「理」のないお触れを出すはずはない。すべてのお触れにも高札にも、それなりの「理」はあったのだ。「理」は「正義」と言い換えてもよい。まずは「藩の利益=領民全体の利益」という「公益」論の「理」(正義)が考えられる。

漁民にサケを獲らせては、貴重なサケ資源が私益にむさぼられることになるのみ。サケは公が管理してこそ、領民全体が潤うことになる。公が管理することとなればサケ漁獲の利益が直接に漁民に配分されることにはならないが、藩が潤うことはやがて下々にトリクルダウンするのだ。年貢や賦役の軽減にもつながる。これこそ、ご政道の公平というものだ、という「理」(正義)である。

天皇制政府も、個人の私益を捨てて公益のために奉仕するよう滅私奉公を説いた。その究極が、「命を捨てよ国のため、等しく神と祀られて、御代をぞ安く守るべき」という靖國の精神である。「君のため国のため」「お国のため」の滅私奉公が美徳とされ、個人の私益追求は悪徳とされた。個人にサケを獲らせるのではなく、公がサケ漁を独占することに違和感のない時代であった。

また、現状こそがあるべき秩序だという「理」(正義)があろう。『存在するものはすべて合理的である』とは、常に聞かされてきた保守派のフレーズだ。現状がこうなっているのは、それなりの合理的な理由と必然性があってのこと。軽々に現状を変えるべきではない。これは、現状の政策の矛盾を見たくない、見ようともしない者の常套句だ。もちろん、現状で利益に与っている者にとっては、その「利」を「理」の形にカムフラージュしているだけのことではあるが。

現行の岩手県水産行政は、藩政や明治憲法の時代とは違うという反論は、当然にあるだろう。一つは、漁協は民主的な漁民の自治組織なのだから漁協の漁獲独占には合理性がある、というもの。この論法、原告の漁民たちには鼻先であしらわれて、まったく通じない。よく考えると、この理屈、個人よりも家が大切。社員よりも会社が大事。住民よりも自治体が。国民よりも国家に価値あり。という論法と軌を一にするものではないか。個人の漁の権利を漁協が取り上げ、漁協存続のためのサケ漁独占となっているのが現状なのだ。漁協栄えて漁民亡ぶの本末転倒の図なのである。

また、現状こそが民主的に構成された秩序なのだという「理」(正義)もあろう。まずは行政は地方自治制度のもと民意に支えられている。その民主的に選出された知事による行政、しかも民主的な議会によるチェックも、漁業調整委員会という漁民によるチェックもある。その行政が、正当な手続で決めたことである。なんの間違いがあろうか。そういう気分が、地元メデイアの中にもあるように見受けられる。そのような社会だから、漁民が苦労を強いられることになるのだ。」

以上のことで、私が本日申しあげたいことは尽きているのですが、あらためて整理すれば以下の3点ほどのことになります。

まずは、浜の一揆訴訟では、漁民らは憲法上の権利の実現を要求しているのであって、「お代官様のお情けにおすがりして、サケをとらせていただくよう特別の許可をお願いしているのではない」ということ。

しかも、漁民らの要求は生活の維持のための切実なもので、生存と後継者維持の立場から不可欠なものとして尊重されなければならないこと。

これに対抗して、漁民のサケ漁の権利を制約してもよいとする岩手県知事の側の根拠がおよそ薄弱であること。中でも、漁協中心主義の漁業政策に納得できるような根拠は見出し難いこと。

このことをお話しするために準備したレジメは以下のとおりです。

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はじめに

三陸沿岸の漁民は、予てから沿岸で秋サケの採捕を禁じられていることの不合理を不満とし、これまで岩手県水産行政に請願や陳情を重ねてきたが、なんの進展もみませんでした。とりわけ、3・11の被災後はこの不合理を耐えがたいものと感じることとなり、2015年11月5日、100人の漁民が岩手県(知事)を被告として、盛岡地裁に行政訴訟を提起しました。原告らは、これを「浜の一揆」訴
訟と呼んでいます。

訴訟における請求の内容は、県知事の行った「サケ採捕申請不許可処分」の取消と、知事に対する「各漁民のサケ採捕申請許可」義務付けを求めるものです。
 小型漁船で零細な漁業を営む漁民に「サケを獲らせろ」という要求の実現を目指すもので、このことは、「漁民を保護して、漁業がなり立つ手立てを講じよ」という行政への批判と、「後継者が育つ漁業」をという切実な願いを背景にするものです。本件は県政の水産行政のあり方を問うとともに、地域の民主主義のあり方を問う訴訟でもあります。また、3・11被災後の沿岸漁業と地域経済の復興にも、重大な影響をもつものとも考えています。

? 訴訟の概要
第1 経過概要
 1 県知事宛許可申請⇒小型漁船による固定式刺し網漁のサケ採捕許可申請
    2014年9月30日 第1次申請
    2014年11月4日 第2次申請
    2015年1月30日 第3次申請
 2 不許可決定(102名に対するもの)
    2015年6月12日 岩手県知事・不許可決定(277号・278号)
     *277号は、固定式刺し網漁の許可を得ている者  53名
     *278号は、固定式刺し網漁の許可を得ていない者 49名
 3 審査請求
    2015年7月29日 農水大臣宛審査請求(102名)
    2015年9月17日 県側からの弁明書提出
    2015年10月30日 審査請求の翌日から3か月を経過
 4 提訴と訴訟の経過
    2015年11月5日 岩手県知事を被告とする行政訴訟の提起(100名)
    2016年1月14日 第1回法廷 瀧澤さん意見陳述 訴状・答弁書陳述
    2016年3月11日 第2回法廷 
    2016年5月20日 第3回法廷 
    2016年8月05日 次回第4回法廷(予定)

第2 訴訟の提訴の内容
 1 当事者 原告 三陸沿岸の小型漁船漁業を営む一般漁民100名
          (すべて許可申請・不許可・審査請求の手続を経ている者)
         被告 岩手県(処分庁 岩手県知事達増拓也) 
 2 請求の内容
   *知事の不許可処分(277号・278号)を取消せ
     *277号処分原告(既に固定式刺し網漁の許可を得ている者) 51名
     *278号処分原告(固定式刺し網漁の許可を得ていない者)  49名
   *知事に対するサケ漁許可の義務づけ(全原告について)
    「年間10トンの漁獲量を上限とするサケの採捕を目的とする固定式刺網漁業許可申請について、申請のとおりの許可をせよ。」

第3 争点の概略
1 処分取消請求における、知事のした不許可処分の違法の有無
(1) 手続的違法
  行政手続法は、行政処分に理由の付記を要求している。付記すべき理由とは、形式的なもの(適用法条を示すだけ)では足りず、実質的な不許可の根拠を記載しなければならない。それを欠けば違法として取消理由となる。ましてや、本来国民の自由な行為を一般的に禁止したうえ、申請に従って個別に解除して本来の自由を回復すべき局面においては、飽くまでも許可が原則であって、不許可として自由を制約するには、合理性と必要性を備えた理由が要求される。その具体的な理由の付記を欠いた本件不許可処分はそれだけで手続的に違法である。
  本件不許可処分には、「内部の取扱方針でそう決めたから」というだけで、まったく実質的な理由が書かれていない。
(2) 実質的違法
  法は、申請あれば許可処分を原則としているが、許可障害事由ある場合には不許可処分となる。下記2点がサケ採捕の許可申請に対する障害事由として認められるか。飽くまで、主張・立証の責任は岩手県側にある。
  ?漁業調整の必要←漁業法65条1項
  ?水産資源の保護培養の必要←水産資源保護法4条1項
2 義務づけの要件の有無 上記1と表裏一体。 
3 原被告間の議論はまだ噛み合ったものとなっていない。

? 何が争われているのか
第1 漁民のサケ採捕は憲法上の権利である。これを制限しうるのか。
1 憲法22条1項は営業の自由を保障している。
    ⇒漁民がサケの漁をすることは原則として自由(憲法上の権利)
    ⇒自由の制限には、合理性・必要性に支えられた理由がなくてはならない。
  *漁業法65条1項は、「漁業調整」の必要あれば、
   水産資源保護法4条1項は、水産資源の保護培養の必要あれば、
    「知事の許可を受けなければならないこととすることができる。」
  *岩手県漁業調整規則23条
   「知事は、「漁業調整」又は「水産資源の保護培養」のため必要があると認める場合は、漁業の認可をしない。」
   ⇒県知事が、「漁業調整」「水産資源の保護培養」の必要性について
      具体的な事由を提示し、証明しなければならない。
2 海洋の資源は原則として無主物であって、これを採捕(採取と捕獲を併せた立法上の造語)することは本来的に自由である。採捕を業として行うことは、営業の自由(憲法22条1項)に属する基本権として保障されている。
  憲法上の基本権が、無制限な自由ではなく、「公共の福祉」による内在的な制約に服すべきことは当然としても、原則が自由であることは、その制約には、首肯しうるだけの、制約の必要性と合理性を根拠づける理由がなくてはならない。
3 原告は、自らの憲法上の権利を制約する行政庁の不許可処分を特定して、これを違法と主張しているのである。権利を制約した側の被告行政庁において、その適法性の根拠を主張し挙証する責めを負うべきは当然である。
4 原告の営業の自由を制約する法律上の根拠は、漁業法65条1項にいう「漁業調整の必要」と、水産資源保護法4条1項にいう「資源の保護培養の必要」以外にはない。岩手県漁業調整規則23条1項3号は、この両者を取り込んで「知事は、漁業調整又は水産資源の保護培養のため必要があると認める場合は起業の認可をしない」としている。
5 だから、本来被告は「漁業調整又は水産資源の保護培養のための必要」に当たる具体的事実を主張しなければならない。しかも、「憲法上の権利を制約する根拠として」十分な、必要性・合理性を基礎づけるものでなくてはならない。
6 ところが、被告は自らした不許可処分の適法性の根拠について語るところはなく、もっぱら内規として取り決めた「取扱方針」によるとだけ主張して、具体的な根拠事実を主張しようとしない。原告に許可を与えれば漁業調整や水産資源の保護に不都合が生じる根拠となる具体的な事実についてはまったく主張しようとしない。「庁内で作成した「取扱方針」(2002年制定)にそう書いてあるから」というだけ。しかも、知事が適用している「取扱方針」の条項は、「固定式刺し網漁不許可」に関するもので、「サケ漁の許可」に関するものではない。51名の原告は「固定式刺し網漁不許可」は既に得ているので、被告(知事)の不許可処分の理由は、論理的に破綻している。

第2 漁協中心主義は漁民の権利を制約しうるか。
1 漁業法にいう、漁業の民主化とはなにか。
  零細の個々の漁民の権利にこそ配慮することではないか。漁協の営業のために、漁民の営業を圧迫することは「民主化」への逆行である。
2 漁民あっての漁協であって、漁協あっての漁民ではない。
  主客の店頭は、お国のための滅私奉公と同様の全体主義的発想ではないか。
3 結局は、浜の有力者に奉仕する漁業行政の「カムフラージュの理論」ではないか。
            以 上
(2016年6月25日)  

野党共闘をどう見るかー18・19歳の意見と向き合う

昨日(6月23日)の毎日新聞朝刊。「参院選で有権者になる20歳未満の男女各50人の計100人に野党共闘について聞いた」という記事。回答した92人の意見分布と9人の個別意見を紹介している。「野党共闘に「賛成」と答えたのは28人。「反対」は18人で、最も多かったのは「その他」の46人だった。」という。新有権者の意見を知ることは極めて有益である。

もっとも、やや漠然とした問に、必ずしも噛み合わない回答になっているとの印象を避けられない。野党共闘は憲法改悪阻止ないしは立憲主義の回復を主たる目標とするもの。もう少し具体的には、「7・1閣議決定」と「戦争法の廃止」を主たる共通課題としている。だから本来は、野党の共闘が共通課題とした理念や政策への賛否を明確にしたうえ、その後に、その目的に照らして共闘が意味あるものか否かについて意見を聞くべきではなかったか。そうすれば、もう少し整理された分かり易い意見を聞くことができたのにと思う。

それでも、記事が述べているとおり、それぞれの回答者の真剣さが伝わってくる。僭越ながら、個別の意見に向き合い検討してみたい。

賛成意見(28人中の3人の意見)
◆共闘は無理だと思っていた。自分たちの政策を横に置いても改憲を阻止したい真剣さが初めて見えた気がする。今回の選挙の争点には、過去にない重みのあることが分かった。……………………北海道・大学生・男19
◇澤藤コメント 至極真っ当な見解ではないか。各政党がそれぞれの理念や政策を有していても、明文改憲を許してしまえば取り返しのつかないことになる。したがって、「各政党独自の政策を横に置いても改憲を阻止するという一点で共闘する」姿勢を積極評価している。「今回の選挙の争点には、過去にない重みがある」というのは、明文改憲がかかった選挙だという理解なのであろう。論評の必要がない。

◆実際に憲法改正阻止ができるかどうかは疑心暗鬼の部分もあるが、与党対野党というわかりやすい図式で、報道もわかりやすくなった。以前より関心を持って見られるようになった。………………………埼玉・大学生・女19
◇澤藤コメント 「実際に憲法改正阻止ができるかどうかは疑心暗鬼」とは、「今次の野党による選挙共闘成立くらいのことでは、憲法改正阻止を実現すること難しいのではないか」ということのようだ。だから回答者は改憲阻止を望む立場なのだろう。ところが、野党共闘の成立の積極評価を「改憲阻止の目標」に照らしては語らず、「与党対野党というわかりやすい図式で、報道もわかりやすくなった」「以前より関心を持って見られるようになった」という傍観者としてのメリットを語るレベルで終えている。できれば、もっと積極的な当事者意識が欲しいところ。当事者意識とは、主権者意識と言い変えてもよい。

◆さまざまな意見を言う人が集まれば、団体として幅が出ると思う。一つの意見、政策を訴える一つの党よりも柔軟な対応をしてくれそう。…熊本・高校生・男18
◇澤藤コメント 共闘のメリットを「幅」「柔軟な対応」に求めて評価する意見。現今の風潮では、「決められない政治」「優柔不断」が攻撃されている。とりわけ右派から民主主義的政治過程の手続的加重が嫌われる時代である。そのようなときに、意見の異なるさまざまな人びとの集合自体に価値を認める見解は、民主主義の原点に立ち帰る素敵なものだ。とはいうものの、あまりに抽象的な一般論としてしか語られてないことが気にかかる。果たして、なんのためのどのような共闘かを認識したうえで、問題を煮詰めての結論なのだろうか。

反対意見(18人中の3人の意見) 
◆党是が全く違う政党が一緒に戦って、与党を倒した後に何ができるのか疑問が残る。………………福島・大学生・男18
◇澤藤コメント これは、果たして自分の意見なのだろうか。与党の共闘攻撃をオウム返しに口にしているだけのようで、読む方に気恥ずかしさが残る。野党の選挙共闘は、本当に「党是が全く違う政党が一緒に戦」ってるのだろうか。自・公という「党是が全く違う政党」でさえ、それなりに共闘しているではないか。4野党は、改憲阻止、立憲主義や平和主義・福祉重視の理念、あるいは成長よりは分配を重視する経済政策において、立場は近いというべきではないか。「与党を倒した後に何ができるのか」ですって? 与党を倒せるところまで闘えたらたいしたものではないか。もし、与党を倒すことができれば、そのあとには新たな連立政権を作る道が開けるだろう。

◆4党は主張が大きく異なるのに選挙のために組むのはおかしい。一致しているのは安保法制廃止と改憲阻止くらいで、消費税や自衛隊への考え方もバラバラだ。……………兵庫・専門学校生・男18
◇澤藤コメント 問題は2点。「消費税や自衛隊への考え方がバラバラなまま、安保法制廃止と改憲阻止で、選挙のために組むことがおかしい」か。そして、本当に、「4野党が一致しているのは安保法制廃止と改憲阻止くらいで、消費税や自衛隊への考え方もバラバラ」なのか。
 共闘とは考え方の違う者が、小異を捨てて大同に就くことだ。「消費税や自衛隊への考え方」を小異とし、「安保法制廃止と改憲阻止」を大同として、選挙民に訴えることは少しもおかしくない。むしろ、小異にこだわって、大同を生かすことができなくなることこそが有権者の期待を裏切ることになるというべきだろう。
 「4野党の消費税や自衛隊への考え方はバラバラ」だろうか。消費税については当面8%維持で一致できる。問題は、福祉政策の財源確保のため税制をどうするかに各党の政策のバラエティはある。しかし、そのバラエティが共闘の障壁となるものではない。自衛隊について、その存在を違憲とするのは共産党だが、同党は性急にその解散を求めないと明言している。自衛隊の海外派兵阻止の一点を4野党の大同とすれば、共産党の自衛隊の存在を容認することは小異に過ぎず、共闘の一致点設定の支障とはなっていない。

◆たくさんの政党があり、それぞれ考えがあるのに、共闘でいろいろな政党の良さが薄れるのではないか。………………………福岡・大学生・女18

◇澤藤コメント これは、ご自分の意見なのだろう。多様な政党の存在を肯定するもっとなご意見。しかし、議会制民主主義においては、結局は選挙による議席数がものをいうことになる。多数の小政党は、大同団結することなしには、結局のところ議会に議席をもつことができない。ご意見はリアリティに欠けるものではないだろうか。譲れるところは譲って、共通する重要課題で選挙共闘をすることは、結局は、部分的にはせよ小政党の考え方の良さをさを生かす道となるのではないだろうか。しかも、今は歴史の分岐点となりかねない重大事態。憲法を守りきらないと、「いろいろな政党の良さ」を発揮する基盤が失われかねない。

「その他」の意見(46人中の3人の意見)
◆どちらともいえない。与党に強引な政治をさせないためには良いと思う。ただ、これまでの野党はまとまって、ばらけてを繰り返している印象が強く、まとまりきれないのではないか。……………………青森・団体職員・男18

◇澤藤コメント これは、野党共闘は評価する立場。その理由を「与党に強引な政治をさせないため」と明確にして、自分の見解の論理性を一貫させている。しかし、「まとまりきれないのではないか。」と共闘の継続性を問題として悲観している。私は思うのだが、今は事前に悲観している余裕などない。改憲はこの国に取り返しのつかない事態をもたらしかねない。それなら、悲観も楽観もなく、改憲阻止のための共闘をせざるを得ないのではないか。この回答者の立場からは、もっと共闘を積極評価してもよいのではないかと思えるのだが。

◆興味がない。最近の政治家は汚職など問題が目立ち、信頼できないので何をしようと変わらないんじゃないかと思う。………………………栃木・大学生・男18

◇澤藤コメント そのような気分も分からないではない。でも、あなたが政治を見放せば、今の政治を消極的に支持したことになる。それこそが、アベ政権の思う壺。汚職にまみれた政党や政治家、信頼できない政治を、批判して欲しい。そうしなくては政治は変わらない。不愉快な社会も変わらない。そのことはあなた自身の将来にはね返ってくる。

◆よく分からない。どの政党も日本の未来ではなく政権を握ることしか考えていないから、同じようにしか感じない。………………………山梨・高校生・男18
◇澤藤コメント 本来政党とは、「日本の未来」を考えるべきで、「政権を握る」ことを自己目的化してはならない。おっしゃるとおりだと思います。
今、「日本の未来」を揺るがす大きな問題が起きようとしています。それが、日本国憲法の改正(改悪)問題。あなた方の先輩世代の有権者が、いま政権与党を勢いづかせて、平和や人権、民主主義を壊す改憲を現実的な課題としています。これを放置しておくことは、軍国主義がのさばった、自由のない戦前の時代を再来させかねません。野党共闘は、政権を握ることを目的としたものではなく、かけがえのない憲法を変えさせないためのものだと理解していただきたいのです。
(2016年6月24日)

「沖縄全戦没者追悼式」と「平和の礎」の思想

本日、沖縄戦で組織的戦闘が終結したとされる「6月23日」。あの日から71年目である。折も折。元米海兵隊員の強姦殺害事件への追悼・抗議集会の直後であり、辺野古新基地建設反対を最大テーマとする参院選のさなかでもある。

選んだ如くのこの時に、「沖縄全戦没者追悼式」が糸満市の平和祈念公園で開かれた。アベ晋三も、抗議を受ける悪役としての参列。今年も「帰れ」という野次が飛んだという。さぞや針のムシロに坐る心もちであったろう。

「『全』戦没者追悼式」であることに意味がある。「平和の礎」の刻銘と同様に、勝者と敗者を区別することなく、また兵士と民間人の区別もなく、その死を意味づけすることなく、沖縄戦の戦没者のすべてを、かけがえのない命を失った犠牲者として等しく追悼するという考え方だ。ここはひたすらに戦没者の死を悼む場であって、それ以上に出過ぎた、遺族以外の何ものかが死者の魂を管理するという考えが拒否されている。

これと対極にあるのが、死者を徹底して区別し、死者の魂を国家が管理するという靖國の思想である。死者を悼むのではなく、特別の死に方を礼賛し称揚して、特定の死者の魂を国家が管理するというのだ。靖國神社は、天皇の軍と賊軍とを徹底して区別し、天皇への忠死か否かで死者を区別し、敵と味方を未来永劫に分かつ差別の思想に拠っている。露骨な死者の国家利用と言ってよい。しかも、軍国主義高揚のための戦没者と遺族の心情の利用である。

平和の礎は、21万1326人の沖縄戦戦没者の名を刻銘している。
「太平洋戦争・沖縄戦終結50周年記念事業の一環として、国籍を問わず、また、軍人、民間人の別なく、全ての戦没者の氏名を刻んで、永久に残すため、平成7年(1995年)6月に建設したものです。その趣旨は、沖縄戦などでなくなられた全ての戦没者を追悼し、恒久平和の希求と悲惨な戦争の教訓を正しく継承するとともに、平和学習の拠点とするためです。」とされている。

「平和の礎」のデザインコンセプトは、“平和の波永遠なれ(Everlasting waves of peace)”というもので、屏風状に並んだ刻銘碑は世界に向けて平和の波が広がるようにとの願いをデザイン化したものだという。この刻銘碑の配列は、沖縄県民・県外都道府県民・外国人の各死者の刻銘碑群に区分されている。その外国人刻銘数は1万4572人。内訳は以下のとおりである。
 米国 14,009
 英国    82
 台湾    34
 朝鮮民主主義人民共和国 82
 大韓民国  365

なお、沖縄県民    149,362人
   県外都道府県計  77,402人
で、いずれも兵士と民間人の区分けはしていない。

平和の礎も沖縄全戦没者追悼式も、まったく靖国のようではない。靖国のように敵味方を区別しない、靖国のように兵士だけを顕彰するものではない。靖国のように神道という宗教形式をもたない、靖国のように天皇の関与がない、靖国のように戦没者の身分や階級にこだわらない、靖国のように恩給の受給資格と連動しない。そして、靖国のように愛国心を鼓舞しない。靖国のように戦死者の勇敢さや遺徳を誇示することはない。靖国のように、戦争を美化しない。靖国のように敗戦を無念としない。靖国のように、戦犯を祀ることがない。戦犯というカテゴリーもなければ、祀るという行為とも無縁である。靖国のように戦争や軍隊や兵士を意味づけることをしない。もちろん、靖国のように、武器を飾ってみせたりなどけっしてしない。

この日、思い起こすべきは、沖縄県平和祈念資料館設立の趣意書にある次の言葉である。
「1945年3月末、史上まれにみる激烈な戦火がこの島々に襲ってきました。90日におよぶ鉄の暴風は、島々の山容を変え、文化遺産のほとんどを破壊し、20数万の尊い人命を奪い去りました。沖縄戦は日本に於ける唯一の県民を総動員した地上戦であり、アジア・太平洋戦争で最大規模の戦闘でありました。

 沖縄戦の何よりの特徴は、軍人よりも一般住民の戦死者がはるかに上まわっていることにあり、その数は10数万におよびました。ある者は砲弾で吹き飛ばされ、ある者は追い詰められて自ら命を絶たされ、ある者は飢えとマラリアで倒れ、また、敗走する自国軍隊の犠牲にされる者もありました。私たち沖縄県民は、想像を絶する極限状態の中で戦争の不条理と残酷さを身をもって体験しました。
 この戦争の体験こそ、とりもなおさず戦後沖縄の人々が、米国の軍事支配の重圧に抗しつつ、つちかってきた沖縄のこころの原点であります。
 ”沖縄のこころ”とは、人間の尊厳を何よりも重く見て、戦争につながる一切の行為を否定し、平和を求め、人間性の発露である文化をこよなく愛する心であります。
 私たちは、戦争の犠牲になった多くの霊を弔い、沖縄戦の歴史的教訓を正しく次代に伝え、全世界の人びとに私たちのこころを訴え、もって恒久平和の樹立に寄与するため、ここに県民個々の戦争体験を結集して、沖縄県平和祈念資料館を設立いたします。」

本日の琉球新報が、「安全保障関連法が施行され、日本が戦争のできる国へと大きく変貌した中で迎える『慰霊の日』」に、格別の思いの社説を書いている。タイトルが「慰霊の日『「軍隊は住民を守らない』 歴史の忘却、歪曲許さず」というもの。これこそ今ある沖縄の原点ともいうべきものだろう。

「『地獄は続いていた』
 日本軍(第32軍)は沖縄県民を守るためにではなく、一日でも長く米軍を引き留めておく目的で配備されたため、住民保護の視点が決定的に欠落していた。首里城の地下に構築した司令部を放棄して南部に撤退した5月下旬以降の戦闘で、日本兵による食料強奪、壕追い出し、壕内で泣く子の殺害、住民をスパイ視しての殺害が相次いだ。日本軍は機密が漏れるのを防ぐため、住民が米軍に保護されることを許さなかった。そのため戦場で日本軍による命令や強制、誘導によって親子、親類、友人、知人同士が殺し合う惨劇が発生した。
 日本軍の沖縄戦の教訓によると、例えば対戦車戦闘は『爆薬肉攻の威力は大なり』と記述している。防衛隊として召集された県民が急造爆弾を背負わされて米軍戦車に突撃させられ、効果があったという内容だ。人間の命はそれほど軽かった。県民にとって沖縄戦の最も重要な教訓は「命(ぬち)どぅ宝(命こそ宝)」だ。

『終わらない戦争』
 戦後、沖縄戦の体験者は肉体だけでなく心がひどくむしばまれ、傷が癒やされることなく生きてきた。その理由の一つが、沖縄に駐留し続ける米軍の存在だ。性暴力や殺人など米兵が引き起こす犯罪によって、戦争時の記憶が突然よみがえる。米軍の戦闘機や、米軍普天間飛行場に強行配備された新型輸送機MV22オスプレイの爆音も同様だ。体験者にとって戦争はまだ終わっていない。
 戦後も女性たちは狙われ、命を落とした。1955年には6歳の幼女が米兵に拉致、乱暴され殺害された。ベトナム戦時は毎年1?4人が殺害されるなど残忍さが際立った。県警によると、72年の日本復帰から2015年末までに、米軍構成員(軍人、軍属、家族)による強姦は129件発生し、147人が摘発された。そして今年4月、元海兵隊員による女性暴行殺人事件が発生した。
 戦場という極限状態を経験し、あるいは命を奪う訓練を受けた軍人が暴力を向ける先は、沖縄の女性たちだ。女性たちにとって戦争はまだ続いている。被害をなくすには軍隊の撤退しかない。
 『軍隊は住民を守らない』。私たちは過酷な地上戦から導かれたこの教訓をしっかり継承していくことを犠牲者に誓う。国家や軍隊にとって不都合な歴史的出来事の忘却、歪曲は許されない。

本日沖縄を訪れたアベ晋三は、この血を吐くような地元紙の社説を読んだだろうか。この社説に象徴される沖縄の民衆の気持ちを理解しただろうか。沖縄全戦没者追悼式と平和の礎の思想に触れ得ただろうか。それとも、改憲戦略においてどのように沖縄の世論を封じ込めるべきかと策をめぐらしただけであったろうか。
(2016年6月23日)

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