澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

「起訴後勾留中の取調べに録画義務なし」との政府解釈にもかかわらず法案を推進する日弁連に強く抗議する ―「全過程可視化」はどこへ行ったのか?!

以上のタイトルは、昨日(5月16日)日弁連会長に宛てた法律家8団体の抗議書のタイトルそのものである。相当に厳しいトーン。私は、この抗議に全面的賛成の立場だ。
 まずはこの抗議の全文をお読みいただき、事態の深刻さをご理解いただきたい。

日本弁護士連合会 会長中本和洋殿 
       2016年5月16日

私たちは,参議院で審議中の刑事訴訟法等改正法案は,司法取引や盗聴の大幅拡大,「部分録画」を許す取調べ録音録画など,冤罪防止どころか新たな冤罪を作り出す危険が高く,捜査権限の拡大強化と国民監視を図るだけの制度を法制化するものだとして,本法案の廃案を求めて運動を続けてきました。
本法案は今週5月19日(木)にも採決予定と言われていますが,審議すればするほど本法案の人権侵害性が明らかになり,審議は全く尽くされていません。
このような法案を数の力で成立させることは絶対に許されません。

私たちは,日弁連が,17年前には現行盗聴法の成立に強く反対したにもかかわらず,本法案について推進の立場をとったことを誠に残念に思ってきました。日弁連が本法案を推進する最大の理由は,「取調べの可視化」が法制化されることにあったと思います。日弁連は,この「可視化」がどれほど不十分なものであっても,法制化されること自体が冤罪防止のための「一歩前進」であるとして,盗聴拡大や司法取引の導入と引き換えにしても余りある価値があると考えてきたはずです。

ところが4月8日の今市事件の宇都宮地裁判決は,本法案の先取りのような形で取調べの録音録画が行われたことにより,被告人の有罪判決が導かれるという重大な事態を露呈しました。暴力を振るわれ,「殺してゴメンナサイと50回言わされた」などの自白強要場面は録画されず,屈服して自白した場面が録画されて公判廷で再生されることにより,映像の強烈なインパクトによって,自白の「任意性」が容易に導かれただけでなく,実質証拠としても機能して有罪判決に至ったのです。裁判員たちは,録画がなければ有罪判断はできなかったと語っています。本法案の録画対象事件の少なさや大幅な例外規定をもって「抜け穴だらけの可視化」,「いいとこ録り」などと批判してきた私たちも,現実の裁判を目のあたりにして,これほど酷いことになるとは思わなかったと青ざめています。冤罪被害者たちは,本法案の恐ろしさを肌で感じ,必死で反対しています。

それだけでなく,今市事件に関連する国会質疑においては,本法案の重大な「欠陥」が明らかになりました。
今市事件では,2月に商標法違反で起訴され,起訴後の勾留中に殺人罪の取調べが行われ,6月に殺人罪で再逮捕されています。この3か月半にわたる起訴後勾留中の取調べにおいて自白が強要されましたが,その部分は録画されていません。そして,参議院法務委員会で林刑事局長は,別件で起訴後の勾留中の「被告人」に対する本件の取調べは,「被疑者」(法案301条の2第4項)の取調べではないから,録音録画義務がないと明言したのです。
これでは,本法案が成立したならば,別件での起訴後勾留を利用して,いくらでも録画なして自白を強要し,自白に追い込んだところで本件で逮捕することが可能になってしまいます。

日弁連は,本法案は,取調べの「全過程可視化」を実現するものだと主張し続けてきましたが,政府の解釈によって,「全過程可視化」など全く実現しないことが,はっきりと明らかになったのです。
法案の採決が迫った5月12日,日弁連の刑事法制委員会が,上記の一点に絞り,日弁連は,法務省等に対し,起訴後勾留中の取調べについても録音録画義務があることを明確にする法案への修正を求めるべきだとの意見書を出しました。ところが,日弁連の正副会長会議は,この意見を受け入れず,政府の解釈が間違っているとして,法案修正を求めない結論になったとのことです。

私たちは,この日弁連の結論に強く抗議します。
政府がはっきりと「録音録画義務なし」との解釈を明言しているのですから,法案が成立すればその解釈どおりに実務は動くでしょう。何か月も,やりたい放題,録画なしで自白を強要でき,自白に追い込まれて「スラスラ」自白している場面だけ録画する。このような法案の成立を,日弁連が黙って見ていることが許されるのでしょうか。
「全過程可視化」はどこに行ったのでしょうか。
法案はまだ成立していないのです。
政府見解に抗議し,法案の修正を求めるのは当然のことでしょう。
それがダメなら、今からでも日弁連として法案に毅然として反対して下さい。
「日弁連が冤罪に加担した」と言われないために。
日弁連が冤罪被害者と国民の信頼を取り戻すために。

  社会文化法律センター
  自由法曹団
  青年法律家協会弁護士学者合同部会
  日本国際法律家協会
  日本民主法律家協会
  盗聴・密告・冤罪NO!実行委員会
  盗聴法廃止ネット
  盗聴法の拡大と司法取引の導入に反対する刑事法研究者の会

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同じく8団体が、同じ日に民進党にも要請書を提出している。その、タイトルだけをお読みいただきたい。これで、本文はあらかた推察がつく。

冤罪防止を目的としたはずの刑事訴訟法等「改正」法案は、冤罪拡大の「大改悪」法案であることが、参院質疑の政府答弁で改めて明らかに!!
今市事件裁判判決(本年4月8日)を通して、「一歩前進」とされてきた取調べの可視化(録音・録画)が、「むしろ冤罪・誤判を誘導するという危険性」をメディアも報道!
私たちは、民進党が5月19日採決容認方針を撤回し、徹底かつ十分な審議を貫くことを強く求めます!

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法律家8団体がこぞって、刑事訴訟法等『改正』法案は、実は「冤罪・誤判誘発法」となる危険性を指摘しているのだ。そして、その指摘の内容は極めて具体的だ。今市事件の取り調べ経過と部分可視化による判決で、その危険は顕在化している、と警告し猛反対している。

今市事件の教訓は次のようなものだ。被告人は、まず「偽ブランド品のバッグを所持していた」という商標法違反の別件で逮捕され起訴された。起訴のあとは、取り調べに応じる義務はないとされているが、それはタテマエだけのこと。現実には本件の殺人事件について、ぎゅうぎゅう取り調べを受けた。このときに、自白強要があったが、この場面は録画されなかった。屈服して自白した場面だけが録画されて公判廷で再生されることになったのだ。「この,自白映像の強烈なインパクトによって,自白の『任意性』が容易に導かれただけでなく,実質証拠としても機能して有罪判決に至った」。裁判員たちは、「この映像がなければ有罪判決は出せなかった」と言っている。部分可視化がもたらした有罪判決であり、冤罪である可能性が限りなく高い。

しかも、この取り調べの「部分可視化」について、参議院法務委員会で法務省の刑事局長は,このような「別件で起訴後の勾留中の「被告人」に対する本件の取調べは録音録画義務がない」と明言している。つまりは、現法案が成立すれば今市方式が是認されるのだ。

日弁連は、「部分可視化でも一歩前進」の立場、また「刑事局長答弁は法(案)の解釈を間違えている」という立場でもある。これに対して、8団体意見は「このような制度化された部分可視化は冤罪を誘発する」、「立法担当者が明言する取り調べ運用は必ず実務となる」という批判。
信頼されている日弁連が間違うとことだ。朝日も毎日も批判をしにくい。むしろ、赤旗のほかでは、産経がきちんと問題点を報道するという奇妙なことが起こっている。

明後日、5月19日(木)にも参議院での委員会採決強行があるかも知れない緊迫の状況。ぜひ反対の声に応じていただきたい。
(2016年5月17日)

「オリンピック・ワイロ誘致音頭」または「恥さらし音頭」

ハア?
あの日猪瀬が ながめた月が
きょうは 舛添ボロ照らす
次の次には 東京五輪
かたい約束 夢の夢
ヨイショ コリャ 夢となれ
オリンピックの 顔と顔
ソレトトント トトント 恥さらし

ハア?
あの日会議で もっともらしく
コントロールよ ブロックと
ウソを承知のしたり顔
ダマシとったが 我が手柄
ヨイショ コリャ 手柄顔
オリンピックの ウソとウソ
ソレトトント トトント 大ウソだ

ハア?
コンサル会社に払ったカネは
2億と少しのはした金
庶民騒ぐは すじちがい
これが相場のワイロ額
ヨイショ コリャ やすいもの
オリンピックの カネまみれ
ソレトトント トトント カネまみれ

ハア?
東京招致は 日本の知恵よ
ワイロとダマシの 大成功
追求されても二枚舌
日本の子どもに よい見本
ヨイショ コリャ 処世術
オリンピックの カネとウソ
ソレトトント トトント 大成功

ハア?
待ちに待ったる 世界のカネよ
西の国から 東から
北の空から 南の海も
越えて日本へ どんと来い
ヨイショ コリャ ザクザクと
オリンピックの カネとカネ
ソレトトント トトント ふんだくれ

ハア?
色もしぼんだ エンブレム 
大会経費は青天井
ゼネコン企業にはずむゼニ
いずれおとらぬ 無駄遣い
ヨイショ コリャ 人のカネ
オリンピックだ たかろうぜ
ソレトトント トトント この際だ

ハア?
終始一貫 無責任
どんなに金がかかっても
知事も首相も知らぬ顔
宴のツケは庶民宛
ヨイショ コリャ 気をつけよう
オリンピックの 霧と闇
ソレトトント トトント 無責任 

ハア?
政権はやせば 国民踊る
失政繕う 隠れみの
メディアこぞって 拍手の音に
アベの批判も かすみゆく
ヨイショ コリャ 思う壺
オリンピックの 笛太鼓
ソレトトント トトント もっと吹け

ハア?
暑い盛りの真夏の空に
聖火台など 要りはせぬ
省エネ日本の心意気
そのままギリシャにお返ししょ
ヨイショ コリャ お返ししょ
オリンピックは 要らないね
ソレトトント トトント 要らないよ

ハア?
リオの五輪は 政権ご難
東京五輪も ぐらぐら揺れて
オリンピックは 呪われづくし
いっそやめよう 東京五輪
ヨイショ コリャ 夢さませ
オリンピックの 夢と夢
ソレトトント トトント 悪夢だね

ハア?
東京五輪は 錦の御旗
東北復興そっちのけ
熊本復興どうでもよいさ
一極集中まっしぐら
いっそやめよう 東京五輪
ヨイショ コリャ 民のため
オリンピックは 困りもの
ソレトトント トトント やめちゃおう

ハア?
オリンピックのうらおもて
おもての成果は とりあって
うらの失敗 なすりあい
うらばっかりの
オ・モ・テ・ナ・シ
こんな五輪は返上だ 
ヨイショ コリャ 返上だ 
オリンピックは もう要らぬ
ソレトトント トトント 返上だ 
(2016年5月16日)

偶像も衆愚も 民主主義の反対概念である

36年ぶりに行われた北朝鮮の朝鮮労働党第7回党大会。
5月6日から始まって、最終日の9日に「決定書」が採択され、10日が祝賀行事であったとのこと。金正恩の事業総括報告に対して支持賛同が表明され、これが「偉大な綱領」とされた模様。そして、金正恩が最高位と位置付けられたという。

最高位とは、新設の「党委員長」ポストだとのこと。祖父、故金日成がかつて使っていた「党中央委員長」とは異なるとの説明だが、部外者には何のことだか分からない。どうでもよいことでもある。

韓国統一省関係者の「今回の党大会で最も重要なのが金正恩の偶像化」というコメントがメディアを賑わせた。権力者の偶像化? 個人崇拝? 今の時代に想像を絶する。反知性で知られる安倍晋三も考え及ぶまい。愚かな企てと笑って済まされることではない。他国とはいえ、無視しえない隣国でのこと。暗澹たる思い。

偶像となる権力者は、権力者を偶像として崇拝する衆愚の存在と一対をなす。領袖の演説に長い長い拍手を送るあの衆愚。喜々としてマスゲームのコマとなって、個性を埋没させるあの衆愚の姿だ。

日本における衆愚は、かつて臣民と呼ばれていた。明治政府は、「天子様」を偶像として臣民を教化し、『天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス』と憲法にまで書き込んだ。天皇こそが「最高位」であり、紛れもない偶像であった。実物とは似ても似つかぬ風貌の肖像画を描かせてこれを写真に撮って、ご真影なる偶像を作り上げ全国の学校に配布した。これに最敬礼する衆愚たる臣民たちがあればこその演出。

偶像と衆愚の一対は、理性を剥ぎ取られた衆愚を意のままに操る装置であり構造である。その完成形において、為政者は衆愚に対して、「天皇のために死ぬことこそが臣民の道徳」、「偶像のために死ね」とまで刷り込んだ。

為政者にとって、権力者の個人崇拝・偶像化はこの上ない調法な道具立てである。民衆の意思にしたがって権力が動こうというのではなく、権力の意向に従って民衆を動かそうとする場合の調法である。

日本における天皇の偶像化は19世紀の後半からおよそ100年続いた。世界の趨勢によほど遅れた事態と言わねばならない。21世紀の北朝鮮における金正恩の偶像化は、もはや世界の常識に反する愚挙である。民衆に対する徹底した服従と忠誠を求めることの愚挙というほかはない。

日本国憲法下では、このような愚挙は許されない。「民主主義」に反するからといってよいのだろうが、実は憲法には「民主主義」という用語が出てこない。

ポツダム宣言には、「民主主義」という言葉がある。
第10項の第2文「日本政府は日本国国民における民主主義的傾向の復活を強化し、これを妨げるあらゆる障碍は排除するべきであり、言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立されるべきである。」という用法。この「民主主義的傾向」の含意はよく分かる。

これに比べて、日本国憲法には、国民主権はあっても「民主主義」はない。前文の第1文には、「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。」という。この「人類普遍の原理」が民主主義であろう。

民主主義とは、集団の意思決定過程において、成員の意思を最大限尊重する手続的原則と言ってよいと思う。まず、衆愚ではない自己を確立した個人の存在が出発点にある。個人が先にあって、集団を形づくる。家族や小集団から、大規模集団、地域社会、国政に至るまであらゆる集団や組織に、民主主義が要求される。あらゆる集団に、衆愚も偶像も不要ということなのだ。

民主主義が浸透している社会では、自立した理性ある個人間の討議によって、集団の意思形成がはかられる。そのとき、個人は平等の発言権をもつことになる。すべての個人に、情報に接する自由と、表現の自由とが保障されなければならない。

偶像も衆愚も、民主主義の反対概念である。偶像化された個人は唾棄すべき存在である。崇拝される個人を、意識的に軽蔑しよう。そして、けっして衆愚にはならないと心しよう。
(2016年5月15日)

安心して叩ける「水に落ちた舛添」をどこまで打つべきか

政治資金収支報告書虚偽記載問題についての舛添要一都知事による釈明記者会見は、火に油を注ぐ結果となった。まずは、世論の反応の健全さを肯定評価したい。

都庁ホームページの「知事の部屋」で、動画として繰りかえし見ることができるし、発言の全文が文字に起こされてもいる。知事には相当に辛い内容だが、早期にアップしたことにはそれなりの敬意を表さねばなるまい。
  http://www.metro.tokyo.jp/GOVERNOR/KAIKEN/TEXT/2016/160513.htm

舛添バッシング一色ともいうべき、この世論の反応は、政治資金公開制度が正常に作動した結果といってよい。これが、政治資金の動きを公開することによって、政治や政治家を「国民の不断の監視と批判の下に晒す」ことの効果だ。彼は、既にレイムダックであり、水に落ちた犬となっている。もはや彼のいうことに、何の説得力もない。リーダーとしての仕事はできない。

政治資金規正法には、世論の監視に期待するだけではなく、「政治資金の授受の規正その他の措置を講ずる」こいう側面もある。規正によって、「政治活動の公明と公正を確保し、もつて民主政治の健全な発達に寄与する」ということ。

こちらは、知事が主宰する政治団体の政治資金収支報告書虚偽記載を犯罪として処罰することを想定している。私は、水に落ちた犬を寄ってたかってむち打つ仲間に加わろうという趣味はないが、いくつか、やや不正確なコメントが見られるので、次のことだけを記しておきたい。

※「政治資金規正法の虚偽記載罪は、政治団体の会計責任者(あるいは会計責任者の職務を補佐する者)の身分犯で、政治団体の代表者(舛添)の犯罪ではない」
第一次的にはそのとおりである。しかし、舛添の私的なホテルの宿泊費支出を「会議費用」として収支報告書に記載したことに、舛添が絡んでいないはずはない。結局は、共同正犯(刑法60条)が成立し、同法65条1項(身分犯の共犯規定)により、舛添についても虚偽記載罪(政治資金規正法25条1項)が成立する。

※「報告書への虚偽記載罪は故意犯なので、『間違いだった』で済まされてしまう。」
これも間違い。政治資金規正法27条2項は、「重大な過失により、…第25条第1項の罪(虚偽記載)を犯した者も、これを処罰するものとする。」となっている。

※「報告書を事後に訂正すれば、虚偽記載罪は結局不可罰となる」
とんでもない大間違いである。虚偽を記載した報告書の提出によって、犯罪は完成する。その後の訂正は、犯罪の成否に何の関わりも持たない。「訂正すれば問題がないだろう」とは、いかな軽率者も口にしてはならない。むしろ、事後の訂正は、犯罪の自認にほかならない。

※「有罪になつても必ずしも公民権停止とはならない。執行猶予がつけば、あるいは罰金刑の場合は公民権停止を免れる」
これも不正確な言なので、条文を掲記しておく。
政治資金規正法第28条1項 (第25条・虚偽記載)の罪を犯し罰金の刑に処せられた者は、その裁判が確定した日から五年間公職選挙法に規定する選挙権及び被選挙権を有しない。
 また、(刑の執行猶予の言渡しを受けた者については、その裁判が確定した日から刑の執行を受けることがなくなるまでの間)選挙権及び被選挙権を有しない。

同条2項は、禁錮刑実刑に処せられた者については、「その裁判が確定した日から刑の執行を終わるまでの間+5年間」が、執行猶予の場合は、「その裁判が確定した日から刑の執行を受けることがなくなるまでの間」が公民権停止期間としている。

もっとも、以上の「5年」は原則で、裁判所は判決で、これを短縮することもゼロとすることも、情状によっては可能である。

選挙で選出された地位にある現職者は、公民権停止の効果としてその職を失う。

※なお、舛添に「会計責任者の選任・監督に過失(重過失である必要はない)があれば」、最高50万円の罰金に処せられる(25条2項)。これにも、原則5年の公民権停止がつくことになる。

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ところで、舛添バッシングに関して、傾聴すべきブログの記事を目にした。
以下は、宮島みつやという論者による筆の冴えである。タイトルは、「舛添より酷かった石原慎太郎都知事時代の贅沢三昧、登庁も週3日!それでも石原が批判されなかった理由」というもの。
  http://lite-ra.com/2016/05/post-2228.html

…この問題では、舛添都知事をフクロ叩きにしているマスコミがなぜか一切ふれない事実がある。それは、東京都知事の豪遊、税金での贅沢三昧が、石原慎太郎・都知事の時代から始まっていたということだ。いや、それどころか、1999年から2012年まで続いた石原都政での知事の“公私混同”は舛添都知事を遥かに上回っていた。たとえば、04年、「サンデー毎日」(毎日新聞出版)が「『知事交際費』の闇」と題した追及キャンペーンを展開したことがある。「サン毎」が情報開示請求を通じて明らかにしたのは、高級料亭などを使って一回に数十万単位が費やされていた「接遇」の実態だった。これは、他の知事と比べても突出したもので、しかも相手の顔ぶれを見ると、徳洲会理事長の徳田虎雄氏や文芸評論家の福田和也氏など、ほとんどが石原氏の友人やブレーン。ようするに石原氏は“お友達”とのメシ代に税金を湯水のごとくぶっ込んでいたのだ。

 さらに、海外視察も豪華すぎるものだった。石原氏は01年6月、ガラパゴス諸島を視察しているが、公文書によれば、その往復の航空運賃は143万8000円、もちろんファーストクラスを利用していたとみられる。しかも、この視察で石原氏は4泊5日の高級宿泊船クルーズを行なっており、本人の船賃だけで支出が約52万円。この金額は2人部屋のマスタースイートを1人で使った場合に相当するという。なお、随行した秘書などを含む“石原サマ御一行”の総費用は約1590万円だった。

 訪問国や為替レートを考えると、これは、今問題になっている舛添都知事と同じ、あるいは、それ以上の豪遊を税金を使って行っていたといっていいだろう。ところが、当時、この「サンデー毎日」のキャンペーン記事を後追いするメディアは皆無。世論の反応も怒りにはならず、追及は尻すぼみに終わった。

 ご存知のとおり、石原氏は芥川賞選考委員まで務めた大作家であり、国会議員引退後、都知事になるまでは、保守論客として活躍していたため、マスコミ各社との関係が非常に深い。読売、産経、日本テレビ、フジテレビは幹部が石原べったり、「週刊文春」「週刊新潮」「週刊ポスト」「週刊現代」も作家タブーで批判はご法度。テレビ朝日も石原プロモーションとの関係が深いため手が出せない。

 批判できるのは、せいぜい、朝日新聞、毎日新聞、共同通信、TBSくらいなのだが、こうしたメディアも橋下徹前大阪市長をめぐって起きた構図と同じで、少しでも批判しようものなら、会見で吊るし上げられ、取材から排除されるため、どんどん沈黙するようになっていった。

 その結果、石原都知事はどんな贅沢三昧、公私混同をしても、ほとんど追及を受けることなく、むしろそれが前例となって、豪華な外遊が舛添都知事に引き継がれてしまったのである。

 にもかかわらず、舛添都知事だけが、マスコミから徹底批判されているのは、今の都知事にタブーになる要素がまったくないからだ。それどころか、安倍政権の顔色を伺っているマスコミからしてみれば、舛添都知事は叩きやすい相手なのだという。

「安倍首相が舛添都知事のことを相当嫌っているからね。舛添氏は第一次安倍政権で自民党が参院選で惨敗した際、『辞職が当然』『王様は裸だと言ってやれ』と発言するなど、安倍降ろしの急先鋒的存在だった。安倍首相はそんな舛添氏の口を塞ごうと内閣改造で厚労相にまで起用したが、内心ではかなり舛添に腹を立てていた。都知事になってからも、五輪問題で安倍の側近の下村(博文・前文科相)を批判したり、憲法問題で『復古的な自民党改憲草案のままなら自分は受け入れられない』などと発言をする舛添都知事のことを、安倍首相はむしろ目障りだと感じていたはず。だから、今回の件についても、舛添が勝手にこけるなら、むしろいいチャンスだから自分の息のかかった都知事をたてればいい、くらいのことを考えているかもしれない。いずれにしても、官邸の反舛添の空気が安倍応援団のマスコミに伝わっているんだと思うよ」(政治評論家)

 実際、普段は露骨な安倍擁護を繰り返している安倍政権広報部長というべき田崎“スシロー”史郎・時事通信社解説委員なども、舛添に対してはうってかわって、「外遊なんてほとんど遊びだ」と激しい批判を加えている。

 一方で、石原元都知事にその贅沢三昧のルーツがあることについては、今もマスコミはタブーに縛られ、ふれることさえできないでいる。

 舛添都知事の不正を暴くのは意味のあることだが、「マスコミもやる時はやるじゃないか」などと騙されてはいけない。強大な権力やコワモテ政治家には萎縮して何も言えず、お墨付きをもらった“ザコ”は血祭りにする。情けないことに、これが日本のメディアの現状なのである。(宮島みつや)

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なるほど、舛添バッシングの構造は、こんなものかも知れない。少なくとも、こんな側面がある。私は、舛添擁護論に与しないし、告発も躊躇しないが、以上の指摘は心しておきたいと思う。
(2016年5月14日)

「壊憲か、活憲か」(ロゴス社)購読のお願い

村岡到さんが主宰するロゴス社が、「ブックレット・ロゴス」というシリーズを出している。
  http://logos-ui.org/index.html
このほど、そのNo.12として、「壊憲か、活憲か」が刊行された。村岡到編で、村岡到・澤藤統一郎・西川伸一・鈴木富雄の共著。

「壊憲か、活憲か」のタイトルについて、冒頭に村岡さんが次のように書いている。なかなかに面白く読ませる。

「硬い内容にならざるをえないので、最初は言葉のクイズから始めよう。
 憲法の「憲」の付く熟語をいくつ知っていますか? 誰もが知っているのは、賛否は別にして「護憲」だろう。「憲法を守る」を二文字にすれば「守憲」となるが、「主権」と同音なので、「護る」を選んだのであろう。
 その対極に「改憲」があると思われている。だが、いわば「左からの改憲」もあり得るので、「護憲」の対極は「壊憲」のほうが分かりやすい。「違憲」は、憲法に違反していることを意味する。「違憲立法審査権」は法律用語である。「違憲」の反対は「合憲」。公明党は「加憲」と主張している。
 近年は「立憲主義」が流行り言葉になっている。「活憲」=「憲法を活かす」も浮上しつつある。「婚活」になぞらえて「憲活」という人もいる(杜民党の吉田忠智党首)。「創憲」を見ることもあるが、「送検」されることを好む人はいない。憲兵はもういないが、憲政記念館はある。
 今や国会議員がわずか5人となった社民党の前身である社会党は最盛期には250人も議員がいたが、1996年に解党するまで自他ともに「護憲の社会党」と称していた。そのころは、日本共産党はけっして「護憲」とは言わなかった。社会党が解党した後、共産党は「護憲」と言うようになった。だが、「活憲」は好まないようである。だから、ほとんどの場合に「憲法を生かす」と表記する。「生かす」だと「生憲」となるが、これでは「政権」と紛らわしいから、こう書く人はいない。「制憲」の2文字はほとんど使われないが「制憲会議」はある。
 しかし、共産党系の運動でも「活かす」が使われることがある
。…以下略。」

前書きに記された問題意識は、以下のとおりである。
「戦争法は施行されたが、市民による戦争法廃止の闘いは依然として全国で大きな規模で展開されている。そこでは『立憲主義』が強調されている。だが、この言葉は、少し前まではほとんど使われていなかった。憲法について真正面から考え、自らの生活や活動のなかで活かす努力は不十分だったのではないか。この反省のなかから、私は、『壊憲か、活憲か』を基軸として、憲法について明らかにしなければならないと考えるようになった。
 すでに自民党の『日本国憲法改正草案』に対しては、多くの批判が提出されている。このブックレットでは、それらとは異なる角度から問題を提起する。
 この小さな本は、この危険な壊憲策動に対して、憲法はなぜ大切なのか(村岡到論文)、岩手靖国訴訟を例にした訴訟を手段として憲法を活かす活動(澤藤統一郎論文)、自民党は立党いらい『改憲』を一貫して掲げていたのか(西川伸一論文)、さらに今から140年以上も前の明治維新の時代に千葉卓三郎によって書かれていた憲法草案の先駆性(鈴木富雄論文)について明らかにする。
 ぜひとも、一読のうえ検討とご批判を切望する。」

面白そう。続きを読んでみたいと思われる方は、下記にご注文を。
2016年5月3日刊行で、四六判128頁、価格は1100円+税。

ロゴス〒113-0033東京都文京区本郷2-6-11-301
  tel  03-5840-8525
  fax 03-5840-8544

ついでに、私の執筆部分もお読みいただけたらありがたい。
目次は以下のとおり

まえがき
〈友愛〉を基軸に活憲を  村岡 到
  はじめに 〈活憲〉の広がり
  第1節 〈活憲〉の意味
  第2節 憲法の意義
  第3節 憲法や「市民」を軽視してきた左翼
  第4節 共産党の憲法認識の揺れ、確たる転換を
  第5節 「立憲主義」用語の曖昧さ
  第6節 〈友愛〉の定立を
  つなぎに

訴訟を手段として「憲法を活かす」
 ──岩手靖国訴訟を振り返って  澤藤統一郎
  はじめに
  「憲法を活かす」ことの意味
  岩手靖国訴訟の発端
  「政教分離」の本旨とは
  靖国問題とは何なのか
  岩手靖国訴訟──何をどう争ったのか
  原告らの法廷陳述から
  最低最悪の一審判決 
  勝ち取った控訴審での違憲判断
  安倍政権下特有の靖国問題
  「活憲」運動としての憲法訴訟
  おわりに

自民党は改憲政党だったのか
 ──「不都合な真実」を明らかにする  西川伸一
  はじめに
  第1節 党史にはどう書かれてきたのか
  第2節 綱領的文書にはどう書かれてきたのか
  第3節 自民党首相は国会演説でどう発言してきたのか
  むすび

日本国憲法の源流・五日市憲法草案  鈴木富雄
  第1節 五日市憲法草案の先駆的中身
  第2節 五日市憲法草案が発見された経過
  第3節 起草者・千葉卓三郎
  第4節 五日市の気風と五日市学芸講談会
  第5節 GHQが憲法原案作成に着手した背景
  第6節 「五日市憲法草案の会」の活動
  あとがき


著者紹介
村岡 到 季刊『フラタニティ』編集長
澤藤統一郎 弁護士
西川伸一 明治大学教授
鈴木富雄 五日市憲法草案の会事務局長

そして、小著には過分の出版記念討論会が予定されている。
 と き  2016年9月3日(土)午後1時30分
 ところ  明治大学リバティタワー6F(1064教室)
 報 告  村岡 到 澤藤統一郎 西川伸一 鈴木富雄
 司 会  平岡 厚
 参加費  700円

以上、伏してお願い申し上げます。
(2016年5月13日)

限りなくクロに近い濃いグレイ?舛添知事の政治資金規正法違反の疑惑

2年前(2014年)の2月、舛添都知事誕生の際には、ひそかに期待するところがあった。あの石原暗黒都政から脱却の展望が開けるだろうという思いである。石原は、2012年都知事選では舛添を支援することなく、こともあろうに田母神の応援に走った。こうして、舛添は石原後継の軛に縛られることのない好位置を占めたうえ、保守中道と公明票を集めて210万を越える大量得票で圧勝した。

舛添は、保守ではあるがリベラルに親和性をもつ位置に立つ。日の丸や君が代が好きなはずはない。よもや愛国心強制教育に固執するようなことはあるまい。石原アンシャンレジームに責任を負わない立場の舛添であればこそ、脱却も是正もできるのではないか。教育委員のメンバーも少しはマシになって、異常な教育行政は改善されるのではないか。そう考えたのは、甘かった。

舛添就任から1年経過しても、都教委の姿勢におよそ変化の兆しがみえない。彼の記者会見の発言を聞くうちに、「どうもこの人ダメなようだ」と思わずにはおられなくなった。この人、教育行政の実態をほとんど知らない。知ろうとする意欲がない。頭の中は、オリンピックのことだけでいっぱいなのだ。

2年待って、見切りを付けた。もう、舛添に期待するのはやめよう。舛添も闘うべき相手と見極めなければならない。そう考えを決めたころから、この人の公費の浪費や公私混同の話題が出てきた。私は何の躊躇もなく原則のとおりに批判した。

海外出張の大名旅行ぶりの指摘を受けて、この人は「トップが二流のビジネスホテルに泊まりますか?」「恥ずかしいでしょう」と居直った。おや、こういう人だったのか、と認識をあらためた。相手の批判を極端にねじ曲げたうえでの反論は理性ある人の対応ではない。批判者の誰も、「二流のビジネスホテルに泊まるべきだ」と求めてはいない。都の出張規程の上限である一泊42000円のホテルで十分ではないか。それを20万円に近いスイートに宿泊する必要はなかろうとの批判を真摯に受け止めようとしないのだ。

さらに、公用車での湯河原別荘通いが暴かれた。メデイアへの匿名内部告発が報道の発端だという。問題発覚以後の「ルールに則っているから問題ない」というこの人の姿勢に、これはダメだとあらためて思った。自分の利益のためなら、ルール最大限活用主義者なのだ。

そして、公私混同の極み。家族旅行費用を政治団体の資金から支出し、ホテルからの領収証を「会議費」とさせて、政治資金収支報告書に虚偽記載しているという報道。これまでのところ、この報道内容の信憑性は高い。これは重大問題だ。倫理や道義の問題ではなく、刑事制裁の対象となる事件だからだ。ことは、知事の座がかかる事態に発展しかねない。

公私混同よりも、政治団体のカネの流用よりも、政治資金規正法に基づく収支報告書への虚偽記載がポイントである。これは、逃れ方が難しい。

政治資金規正法第1条の(目的)規定を掲記する。ぜひ、目を通していただきたい。

第1条 この法律は、議会制民主政治の下における政党その他の政治団体の機能の重要性及び公職の候補者の責務の重要性にかんがみ、政治団体及び公職の候補者により行われる政治活動が国民の不断の監視と批判の下に行われるようにするため、政治団体の届出、政治団体に係る政治資金の収支の公開並びに政治団体及び公職の候補者に係る政治資金の授受の規正その他の措置を講ずることにより、政治活動の公明と公正を確保し、もつて民主政治の健全な発達に寄与することを目的とする。

「議会制民主主義下の政治活動は、国民の不断の監視と批判の下に行われなければならない」。その監視と批判を可能とすべく「政治資金の収支の公開」を制度として整える。その厳格な収支の公開を主権者の目に晒すことによって、「政治活動の公明と公正を確保し、もつて民主政治の健全な発達に寄与することを目的」とすると言っている。この法律による制度の中核をなしているものは「政治資金の収支の公開」という手法である。もとより、この公開は正確でなくてはならない。虚偽の公開は、国民の不断の監視と批判を妨げることから、政治活動の公明と公正を毀損し、民主政治の健全な発達を阻害する犯罪行為とされるのだ。

その趣旨を、同法25条1項3号は、「政治資金収支報告書…に虚偽の記入をした者」は、「五年以下の禁錮又は百万円以下の罰金に処する」と定める。

もっとも、政治資金規正法25条は、会計責任者の身分犯であって、直接には会計責任者の罪科が問われることになる。会計責任者は法27条2項「重大な過失により、…第25条第1項の罪を犯した者も、これを処罰する」によって、故意がなかったというだけでは免責されない。

そこで、虚偽記載罪については一般に、会計責任者が「殿のために」すべてをかぶって、「殿の与り知らぬこと」となし得るが、本件の場合にはそうはいかない。

家族旅行のホテル代の領収証取得には、会計責任者は関与していない。舛添の指示のとおりに、会計責任者が報告書に虚偽の記載をしたものと考えざるをえない。しかも、正月に「会議」などあり得ないことは会計責任者の分かること。結局は、舛添と会計責任者の共同正犯(刑法60条)が成立し、身分のない舛添も処罰対象となる(刑法65条1項)可能性が限りなく高い。

それだけでない。法28条は、公民権停止を定める。
第28条 (第25条の)罪を犯し罰金の刑に処せられた者は、その裁判が確定した日から五年間(刑の執行猶予の言渡しを受けた者については、その裁判が確定した日から刑の執行を受けることがなくなるまでの間)、公職選挙法 に規定する選挙権及び被選挙権を有しない。

公民権を失うとどうなるか。
地方自治法第143条 普通地方公共団体の長が、被選挙権を有しなくなつたとき…は、その職を失う。
のである。

公職選挙法違反でも政治資金規正法違反でも、特定の犯罪で有罪になった者には、公職にある資格がないとされる。舛添の政治資金収支報告書虚偽記載罪はそのような類型の犯罪なのだ。

なお、政治資金規正法第2条は、次のように(基本理念)を掲げている。
第2条 この法律は、政治資金が民主政治の健全な発達を希求して拠出される国民の浄財であることにかんがみ、その収支の状況を明らかにすることを旨とし、これに対する判断は国民にゆだね、いやしくも政治資金の拠出に関する国民の自発的意思を抑制することのないように、適切に運用されなければならない。

政治資金はすべて国民が拠出した浄財である。任意の拠出資金だけではなく、税金から支出された政党助成金も含まれている。この浄財の公と私の財布とのケジメを無視したことは、国民が拠出した浄財をクスネたということになる。

このことによって、多くの国民が「政治資金をカンパしても、結局こんな使われ方で終わってしまう」。「馬鹿馬鹿しくってカンパなどやっていられるか」ということになってしまう。このように「政治資金の拠出に関する国民の自発的意思を抑制した」点において、舛添知事の責任は大きい。

それにしても、である。先に、田母神が逮捕された。次いで、舛添も刑事責任を追求されかねない。他の候補者・陣営は安泰なのだろうか。そして、舛添の失職と新たな都知事選があるのだろうか。風雲は急を告げている。
(2016年5月12日)

むち打たれた良心に重ねてむち打つ行為をやめよ?再発防止研修は舛添知事にこそ

本日(5月11日)午前8時35分、雨上がりの水道橋・東京都教職員研修センターの門前。本日の服務事故再発防止研修を命じられている受講者と並んだ私がマイクを握る。センターの総務課長に正対して語りかける。

本日、卒業式での国歌斉唱の際に起立斉唱しなかったとして、心ならずも再発防止研修を命じられ、これから3時間余に及ぶ受講を強制される教員に代わって、代理人の澤藤から都教委に抗議と要請を申し上げます。

私たちは、国旗国歌に対する敬意表明の強制を、これに従えないとする教員の良心にむち打つ心ない行為と抗議を重ねてきました。最高裁裁判官諸氏も、私たちの訴えを半ばは認めているところです。

むち打たれた良心を重ねてさらにむち打つ行為、むち打たれた良心の傷に塩を塗り込むに等しい行為が、今日これから行われようとしている再発防止研修にほかなりません。

自己の良心に照らして恥じない行為を選択した教員、生徒に対して最良の教師であろうとして良心を貫いた教員に、いったいどのような研修が必要というのでしょうか。自分の良心を殺せ、国家に売り渡せ、良心よりは世渡りが大切、生徒には上手な世渡りの見本を見せろ、とでもいうのでしょうか。

本来、服務事故再発を防止するための研修とは、良心に恥じる行為をした公務員に対して、その良心を呼び覚まし、覚醒された良心に従った行動をするよう促すことにあるのではないでしょうか。

そのような見地からは、いま、舛添要一知事こそが、再発防止研修を受けるに最もふさわしい人物ではありませんか。目に余る、彼の公私混同、公費の浪費、そして開き直りは、良心にやましい行為であるに違いありません。仮に良心に恥じないというのであれば、それこそ諄々と説いて聞かせて、良心を呼び覚まし、以後は良心に従った行為をするよう研修を重ねる必要があるのです。

舛添知事は、公費で絵画・美術品を購入して、領収証の作成者には「資料代」と記載するよう求めたと報道されています。心の内では、まずいことをしているという認識があったに違いありません。良心に恥じる行為をしていたのです。この知事のような人にこそ、良心を呼び起こし、良心に従った行動をするよう善導する、服務事故再発防止研修の効果は大いに期待しうるのです。

一方、自らの良心のあり方を探し確認し、悩みながらも覚悟して自らの良心に従うことを選択した教員に、いったい何を反省せよせよというのでしょうか。結局は、思想や良心を投げ捨てよと威嚇するだけのことではありませんか。

私たちは、服務事故再発防止研修を国旗国歌強制の手段としてだけ問題にしているのではありません。それ自体が、思想・良心を侵害する違憲性・違法性の強い行為だと考えています。とりわけ、不起立の理由を執拗に問い質すようなことは、思想・良心の告白を迫る、典型的な思想・良心の侵害行為として大きな問題だと考えています。本日の研修において、けっしてそのようなことがあってはなりません。

今日の研修に携わるセンター職員の皆さまに、お考えいただきたい。
おそらくあなた方は、良心にむち打つ行為に加担することを不本意なことと内心はお考えではないか。それでも、職務だからと割り切り、あるいは諦めて、本日の任務についておられることと思う。

しかし、本日の研修受講命令を受けている教員は、「仕方がない」とは割り切らなかった。あきらめもしなかった。教員としての良心や、生徒に対する責任を真剣に考えたときに、安易に職務命令に従うという選択ができなかった。

懲戒処分が待ち受け、人事評価にマイナス点がつき、昇給延伸も確実で、賞与も減額され、服務事故再発防止研修の嫌がらせが待ち受け、あるいは、任地の希望がかなえられないことも、定年後の再任用が拒絶されるだろうことも、すべてを承知しながら、それでも日の丸・君が代への敬意表明の強制に屈することをしなかった。多大な不利益を覚悟して、良心に忠実な行動を選択したのです。

本日の研修命令受講者は、形式的には、非行を犯して懲戒処分を受けた地方公務員とされています。しかし、実は自分の思想と教員としての良心を大切なものとして守り抜いた尊敬すべき人格ではありませんか。

研修センター職員の皆さんの良心に期待したい。是非、自分のあり方と対比して、尊敬すべき研修受講者に対して、その人格を尊重し、敬意をもって接していただきたい。このことを、代理人としてお願い申しあげる。
(2016年5月11日)

アベ政権が牙をむいてきた?「教特法に刑罰導入の改正法案」報道

私は、2003年10月23日、石原教育行政の「10・23通達」発出を当日の産経(朝刊)報道で知った。つまり、産経はこの種情報のリーク先として使われ、政権や右翼筋の広報担当となっているのだ。その産経が、本日とんでもない記事を発信した。

「教職員の政治活動に罰則 自民、特例法改正案、秋の臨時国会にも提出」というもの。
  http://www.sankei.com/politics/news/160510/plt1605100003-n1.html

 自民党は9日、今夏の参院選から選挙権年齢が「18歳以上」に引き下げられることを踏まえ、公立高校の教職員の政治活動を禁じる教育公務員特例法を改正し、罰則規定を設ける方針を固めた。早ければ今秋の臨時国会に改正案を提出する。同法は「政党または政治的目的のために、政治的行為をしてはならない」とする国家公務員法を準用する規定を定めているが、罰則がないため、事実上の「野放し状態」(同党幹部)と指摘されていた。
 改正案では、政治的行為の制限に違反した教職員に対し、「3年以下の懲役又は100万円以下の罰金」程度の罰則を科することを想定している。
 また、私立学校でも政治的中立性を確保する必要があるとして私立校教職員への規制も検討する。これまで「国も自治体も、私立には口出ししない風潮があった」(同党文教関係議員)とされるが、高校生の場合は全国で約3割が私立に通学する実情がある。
 党幹部は「私立でも政治的中立性は厳格に守られなければならない」と指摘。小中学校で政治活動をした教職員に罰則を科す「義務教育諸学校における教育の政治的中立の確保に関する臨時措置法」を改正し、私立高の教職員にも罰則を適用する案が浮上している。
 日本教職員組合(日教組)が組合内候補者を積極的に支援するなど選挙運動に関与してきた過去を踏まえ、組合の収支報告を義務付ける地方公務員法の改正についても検討する。

この改正法案の当否以前の問題として、罰則をもって禁じなければならないような「高校教職員の政治活動」の実態がどこにあるというのだろうか。1954年教育二法案制定当時と今とでは、政治状況はまったく違っている。かつての闘う日教組は、今や文科省との協調路線に転換している。「日の丸・君が代」問題でも、組合は闘わない。個人が、法廷闘争をしているのみではないか。

教育二法とは、「義務教育諸学校における教育の政治的中立の確保に関する臨時措置法」(教員を教唆せん動して特定の政治教育を行わせることを禁止)と、「教育公務員特例法」(教員の政治的行為を制限)とのこと。当時の反対運動の成果として、教特法への刑事罰導入は阻止された。それを今、60年の時を経て導入実現しようというのだ。

教育現場での教員の政治的問題についての発言は、残念ながら萎縮しきっていると言わざるをえない。それをさらに、刑罰の威嚇をもって徹底的に押さえ込もうというのだ。闘う力もあるまいと侮られての屈辱ではないか。

「政治的中立」の名をもって圧殺されるものが政権批判であることは、現場では誰もが分かっていることだ。さらに、萎縮を求められるものは「憲法擁護」であり、「平和を守れ」、「人権と民主主義を守れ」、「立憲主義を尊重せよ」という声だ。憲法に根拠をおく常識も良識も党派性を帯びた政治的発言とされてしまうのだ。

教育基本法(第14条)は、「良識ある公民として必要な政治的教養は、教育上尊重されなければならない。」と定める。明日の主権者を育てる学校が、政治と無関係ではおられない。18歳選挙権が実現した今となればなおさらのこと。刑事罰導入はいたずらに、政治的教養教育、主権者教育の限りない萎縮をもたらすことが目に見えている。それを狙っての法改正と指摘せざるをえない。

今、教育現場において「教育基本法の精神に基き、学校における教育を党派的勢力の不当な影響または支配から守る」ためには、政権の教育への過剰な介入を排除することに主眼を置かねばならない。

教育公務員も思想・良心の自由の主体である。同時に、教育という文化的営為に携わる者として、内在的な制約を有すると同時に、権力からの介入を拒否する権利を有する。

「教職員の政治活動に罰則」という、教職員の活動への制約は、政権の教育支配の一手段にほかならない。憲法をないがしろにし、教育基本法を敵視するアベ政権が、危険な牙をむいてきたといわなければならない。改憲反対勢力がこぞって反対しなければならないテーマがひとつ増えた。
(2016年5月10日)

スラップ訴訟をどう定義し、どう対応すべきか ?「DHCスラップ訴訟」を許さない・第78弾

私自身が突然に提訴されて被告となったDHCスラップ訴訟。一審勝訴したが控訴されて被控訴人となり、さらに控訴審でも勝訴したが上告受理申立をされて、いまは「相手方」となっている。その上告受理申立事件は最高裁第三小法廷に係属し、事件番号は平成28年(受)第834号である。

さて、訴訟活動として何をすべきだろうか。実は、この事件なら、常識的には何もしないのが一番なのだ。何もせずに待っていれば、ある日第三小法廷から「上告受理申立の不受理通知」が届くことになる。これでDHC・吉田の敗訴が確定して、私は被告の座から解放される。上告受理申立理由に一々の反論をしていると、不受理決定の時期は遅滞することにならざるをえない。何もしないのが一番という常識に反しても、敢えて反論はきちんとすべきか否か。ここが思案のしどころである。

ところで、スラップ訴訟へのメディアの関心が高くなっている。最近、ある大手メディアの記者から取材を受けた。そのあと記者から、丁寧な質問をメールでいただいた。

要約すれば、関心は大きくは次の2点だという。
? 「憲法21条(言論の自由)と32条(裁判を受ける権利)の整合性をどう考えるべきだろうか」
? 「アメリカでは、スラップ訴訟を規制して、原告の権利侵害という議論が起こらないのだろうか」

通底するものは、特定の訴訟をスラップと刻印することで、侵害された権利救済のための提訴の権利が侵されることにはならないのだろうか、という疑問である。

以下は、私のメールでの回答の要約。

具体的な内容や背景事情を捨象すれば、DHCスラップ訴訟の構造は、次のようなことになります。

(1) 私が吉田を批判する言論を展開し、
(2) 吉田が私の言論によって名誉を毀損されたとして、損害賠償請求訴訟を提起した。
(3) その訴訟において、
 原告・吉田は、憲法13条にもとづく自分の人格権(名誉)が違法に侵害されたと主張し、
 被告・私は、憲法21条を根拠に自分の言論を違法ではないと正当性を主張した。
(4) 審理を尽くして、裁判所は被告に軍配をあげて請求を棄却した。
(5) 吉田は結果として敗訴したが、憲法32条で保障された裁判を受ける権利を行使した。

つまり、誰でも、主観的に自分の権利が侵害されたと考えれば、その権利侵害を回復するために訴訟を提起することができる。結果的に敗訴するような訴えについても、提訴の権利が保障されているということになります。

以上は、具体的な諸事情を捨象すれば…の話しで、普通はこれで話が終わります。しかし、次のような具体的諸事情を視野に入れると、景色は変わって見えてきます。この景色の変わり方をどう考えるべきかが問われています。

(1) 違法とされ提訴の対象となった私の言論が典型的な政治的批判の言論であること。
(2) 提訴者が経済的な強者で、訴訟費用や弁護士費用のハードルを感じないこと。
(3) 提訴されれば、私の応訴の負担は極めて大きいこと。
(4) 原告の勝訴の見通しは限りなく小さいこと。
(5) 原告の請求は明らかに過大であること。
(6) 原告は提訴によって、侵害された権利の回復よりは、提訴自体の持つ威嚇効果を狙っていると考えられること。
(7) 現実に提訴はDHC・吉田批判の言論に萎縮効果をもたらしていること。

もっとも、原告の勝訴確率が客観的にゼロに等しいと言える場合には、問題が単純になるでしょう。そのような提訴は嫌がらせ目的の訴訟であることが明白で、民事訴訟制度が想定している訴えではないとして、提訴自体が違法とならざるをえません。しかし、そのような厳密な意味での「違法訴訟」は現実にはきわめて稀少例でしかないでしょう。

このような「明らかな違法訴訟」とまでは言えないが、強者による言論への萎縮効果を狙った違法ないし不当な提訴は類型的に数多く存在します。これをスラップ訴訟と言ってよいと思います。

つまり、単に勝訴の見込みが薄い訴えというだけでなく、これに前記の(1)?(7)などの事情が加わることによって、提訴自体が濫訴として強い可非難性を帯びることになります。

アメリカのスラップ訴訟規制は各州で制度の差があるようですが、報告例を耳にする限りでは、原告の提訴の権利を侵害すると問題にされてはいないようです。

スラップ規制のあり方として、2段階審査の方式を学ぶべきだと思います。
審理の初期に、被告からスラップの抗弁があれば、裁判所はこれを取り上げ、スラップとして取り扱うか否かを審理して暫定の結論を出します。

原告が、裁判所を納得させられるだけの勝訴の蓋然性について疎明ができなければ、以後はスラップ訴訟として審理が進行することになります。その大きな効果としては、原告の側に挙証責任が課せられること、そして原告敗訴の場合には、被告側の弁護士費用をも負担させられることです。これでは、スラップの提起はやりにくくなるでしょう。でも、訴訟ができなくはなりません。

一般論ですが、複数の憲法価値が衝突する場合、正確にその価値を衡量して調整することが立法にも、司法にも求められます。

一方の側だけから見た法的正義は、けっして決定的なものではありません。別の側から見れば、別の景色が見えることになります。

スラップ訴訟もそんな問題のうちの一つです。私は、政治的言論の自由が攻撃されて、権力や社会的強者を批判する言論が萎縮することが憲法の根幹を揺るがす大問題と考える立場ですから、飽くまで憲法21条の価値をを主としてとらえ、DHC・吉田の憲法32条を根拠とする名誉毀損を理由として訴訟を提起する権利は従でしかないと考えます。

私が掲げる憲法21条に支えられた言論の自由の旗こそが最重要の優越する価値であって、DHC・吉田の名誉の価値はこの旗の輝きの前に光を失わざるをえないという考えです。のみならず、そのような価値の衡量が予想される事態において、DHC・吉田が敢えて高額の損害賠償請求訴訟を提起することをスラップとして、非難しなければならないとするのです。

さらに、言論の萎縮効果をもたらすスラップには法的な制裁が必要であり、スラップを提起されて被告となる者には救済の制度が必要だと、実体験から考え訴えているのです。DHC・吉田がしたごときスラップの横行を許すことは、メディアにとっては死活に関わる問題ではありませんか。

よろしくご理解をお願いいたします。
(2016年5月9日)

「オリンピック惨歌」ーまたは「五輪怨み節」

オリンピックはヤなもんだ  
 コントロールとブロックの
 ダマシがケチのつきはじめ

オリンピックはヤなもんだ 
 所詮は奴らのメシのタネ
 踊らされるはマッピラだ

オリンピックはヤなもんだ 
 ローマの時代のサーカスが
 政権支えによみがえり

オリンピックはヤなもんだ 
 東京一極盛り上げて
 東北・熊本切り捨てる

オリンピックはヤなもんだ 
 日の丸君が代煽り立て
 愛国心を押しつける

オリンピックはヤなもんだ 
 国威発揚晴れ舞台
 主役はナチスか安倍シンゾー

オリンピックはヤなもんだ 
 渋滞混雑騒音の
 東京みんなで疎開しよ

オリンピックはヤなもんだ 
 猛暑のさなかの我慢会
 出場選手は熱中症

オリンピックはヤなもんだ 
 当初予算がいつの間に
 三段跳びやらハイジャンプ

オリンピックはヤなもんだ 
 ヘイトスピーチ野放しで
 オモテナシなど言われても

オリンピックはヤなもんだ 
 一億一心火の玉と
 戦時思わす気味悪さ

オリンピックはヤなもんだ 
 平和を嫌う政権が
 作り笑いのオモテナシ

オリンピックはヤなもんだ 
 じゃぶじゃぶカネを注ぎ込んで
 ツケは庶民のオモチダシ

オリンピックはヤなもんだ 
 宴のあとの荒涼に
 責任もつ人影もなし

(2016年5月8日)

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