村岡到さんが主宰するロゴス社が、「ブックレット・ロゴス」というシリーズを出している。
http://logos-ui.org/index.html
このほど、そのNo.12として、「壊憲か、活憲か」が刊行された。村岡到編で、村岡到・澤藤統一郎・西川伸一・鈴木富雄の共著。
「壊憲か、活憲か」のタイトルについて、冒頭に村岡さんが次のように書いている。なかなかに面白く読ませる。
「硬い内容にならざるをえないので、最初は言葉のクイズから始めよう。
憲法の「憲」の付く熟語をいくつ知っていますか? 誰もが知っているのは、賛否は別にして「護憲」だろう。「憲法を守る」を二文字にすれば「守憲」となるが、「主権」と同音なので、「護る」を選んだのであろう。
その対極に「改憲」があると思われている。だが、いわば「左からの改憲」もあり得るので、「護憲」の対極は「壊憲」のほうが分かりやすい。「違憲」は、憲法に違反していることを意味する。「違憲立法審査権」は法律用語である。「違憲」の反対は「合憲」。公明党は「加憲」と主張している。
近年は「立憲主義」が流行り言葉になっている。「活憲」=「憲法を活かす」も浮上しつつある。「婚活」になぞらえて「憲活」という人もいる(杜民党の吉田忠智党首)。「創憲」を見ることもあるが、「送検」されることを好む人はいない。憲兵はもういないが、憲政記念館はある。
今や国会議員がわずか5人となった社民党の前身である社会党は最盛期には250人も議員がいたが、1996年に解党するまで自他ともに「護憲の社会党」と称していた。そのころは、日本共産党はけっして「護憲」とは言わなかった。社会党が解党した後、共産党は「護憲」と言うようになった。だが、「活憲」は好まないようである。だから、ほとんどの場合に「憲法を生かす」と表記する。「生かす」だと「生憲」となるが、これでは「政権」と紛らわしいから、こう書く人はいない。「制憲」の2文字はほとんど使われないが「制憲会議」はある。
しかし、共産党系の運動でも「活かす」が使われることがある。…以下略。」
前書きに記された問題意識は、以下のとおりである。
「戦争法は施行されたが、市民による戦争法廃止の闘いは依然として全国で大きな規模で展開されている。そこでは『立憲主義』が強調されている。だが、この言葉は、少し前まではほとんど使われていなかった。憲法について真正面から考え、自らの生活や活動のなかで活かす努力は不十分だったのではないか。この反省のなかから、私は、『壊憲か、活憲か』を基軸として、憲法について明らかにしなければならないと考えるようになった。
すでに自民党の『日本国憲法改正草案』に対しては、多くの批判が提出されている。このブックレットでは、それらとは異なる角度から問題を提起する。
この小さな本は、この危険な壊憲策動に対して、憲法はなぜ大切なのか(村岡到論文)、岩手靖国訴訟を例にした訴訟を手段として憲法を活かす活動(澤藤統一郎論文)、自民党は立党いらい『改憲』を一貫して掲げていたのか(西川伸一論文)、さらに今から140年以上も前の明治維新の時代に千葉卓三郎によって書かれていた憲法草案の先駆性(鈴木富雄論文)について明らかにする。
ぜひとも、一読のうえ検討とご批判を切望する。」
面白そう。続きを読んでみたいと思われる方は、下記にご注文を。
2016年5月3日刊行で、四六判128頁、価格は1100円+税。
ロゴス〒113-0033東京都文京区本郷2-6-11-301
tel 03-5840-8525
fax 03-5840-8544
ついでに、私の執筆部分もお読みいただけたらありがたい。
目次は以下のとおり
まえがき
〈友愛〉を基軸に活憲を 村岡 到
はじめに 〈活憲〉の広がり
第1節 〈活憲〉の意味
第2節 憲法の意義
第3節 憲法や「市民」を軽視してきた左翼
第4節 共産党の憲法認識の揺れ、確たる転換を
第5節 「立憲主義」用語の曖昧さ
第6節 〈友愛〉の定立を
つなぎに
訴訟を手段として「憲法を活かす」
──岩手靖国訴訟を振り返って 澤藤統一郎
はじめに
「憲法を活かす」ことの意味
岩手靖国訴訟の発端
「政教分離」の本旨とは
靖国問題とは何なのか
岩手靖国訴訟──何をどう争ったのか
原告らの法廷陳述から
最低最悪の一審判決
勝ち取った控訴審での違憲判断
安倍政権下特有の靖国問題
「活憲」運動としての憲法訴訟
おわりに
自民党は改憲政党だったのか
──「不都合な真実」を明らかにする 西川伸一
はじめに
第1節 党史にはどう書かれてきたのか
第2節 綱領的文書にはどう書かれてきたのか
第3節 自民党首相は国会演説でどう発言してきたのか
むすび
日本国憲法の源流・五日市憲法草案 鈴木富雄
第1節 五日市憲法草案の先駆的中身
第2節 五日市憲法草案が発見された経過
第3節 起草者・千葉卓三郎
第4節 五日市の気風と五日市学芸講談会
第5節 GHQが憲法原案作成に着手した背景
第6節 「五日市憲法草案の会」の活動
あとがき
著者紹介
村岡 到 季刊『フラタニティ』編集長
澤藤統一郎 弁護士
西川伸一 明治大学教授
鈴木富雄 五日市憲法草案の会事務局長
そして、小著には過分の出版記念討論会が予定されている。
と き 2016年9月3日(土)午後1時30分
ところ 明治大学リバティタワー6F(1064教室)
報 告 村岡 到 澤藤統一郎 西川伸一 鈴木富雄
司 会 平岡 厚
参加費 700円
以上、伏してお願い申し上げます。
(2016年5月13日)
2年前(2014年)の2月、舛添都知事誕生の際には、ひそかに期待するところがあった。あの石原暗黒都政から脱却の展望が開けるだろうという思いである。石原は、2012年都知事選では舛添を支援することなく、こともあろうに田母神の応援に走った。こうして、舛添は石原後継の軛に縛られることのない好位置を占めたうえ、保守中道と公明票を集めて210万を越える大量得票で圧勝した。
舛添は、保守ではあるがリベラルに親和性をもつ位置に立つ。日の丸や君が代が好きなはずはない。よもや愛国心強制教育に固執するようなことはあるまい。石原アンシャンレジームに責任を負わない立場の舛添であればこそ、脱却も是正もできるのではないか。教育委員のメンバーも少しはマシになって、異常な教育行政は改善されるのではないか。そう考えたのは、甘かった。
舛添就任から1年経過しても、都教委の姿勢におよそ変化の兆しがみえない。彼の記者会見の発言を聞くうちに、「どうもこの人ダメなようだ」と思わずにはおられなくなった。この人、教育行政の実態をほとんど知らない。知ろうとする意欲がない。頭の中は、オリンピックのことだけでいっぱいなのだ。
2年待って、見切りを付けた。もう、舛添に期待するのはやめよう。舛添も闘うべき相手と見極めなければならない。そう考えを決めたころから、この人の公費の浪費や公私混同の話題が出てきた。私は何の躊躇もなく原則のとおりに批判した。
海外出張の大名旅行ぶりの指摘を受けて、この人は「トップが二流のビジネスホテルに泊まりますか?」「恥ずかしいでしょう」と居直った。おや、こういう人だったのか、と認識をあらためた。相手の批判を極端にねじ曲げたうえでの反論は理性ある人の対応ではない。批判者の誰も、「二流のビジネスホテルに泊まるべきだ」と求めてはいない。都の出張規程の上限である一泊42000円のホテルで十分ではないか。それを20万円に近いスイートに宿泊する必要はなかろうとの批判を真摯に受け止めようとしないのだ。
さらに、公用車での湯河原別荘通いが暴かれた。メデイアへの匿名内部告発が報道の発端だという。問題発覚以後の「ルールに則っているから問題ない」というこの人の姿勢に、これはダメだとあらためて思った。自分の利益のためなら、ルール最大限活用主義者なのだ。
そして、公私混同の極み。家族旅行費用を政治団体の資金から支出し、ホテルからの領収証を「会議費」とさせて、政治資金収支報告書に虚偽記載しているという報道。これまでのところ、この報道内容の信憑性は高い。これは重大問題だ。倫理や道義の問題ではなく、刑事制裁の対象となる事件だからだ。ことは、知事の座がかかる事態に発展しかねない。
公私混同よりも、政治団体のカネの流用よりも、政治資金規正法に基づく収支報告書への虚偽記載がポイントである。これは、逃れ方が難しい。
政治資金規正法第1条の(目的)規定を掲記する。ぜひ、目を通していただきたい。
第1条 この法律は、議会制民主政治の下における政党その他の政治団体の機能の重要性及び公職の候補者の責務の重要性にかんがみ、政治団体及び公職の候補者により行われる政治活動が国民の不断の監視と批判の下に行われるようにするため、政治団体の届出、政治団体に係る政治資金の収支の公開並びに政治団体及び公職の候補者に係る政治資金の授受の規正その他の措置を講ずることにより、政治活動の公明と公正を確保し、もつて民主政治の健全な発達に寄与することを目的とする。
「議会制民主主義下の政治活動は、国民の不断の監視と批判の下に行われなければならない」。その監視と批判を可能とすべく「政治資金の収支の公開」を制度として整える。その厳格な収支の公開を主権者の目に晒すことによって、「政治活動の公明と公正を確保し、もつて民主政治の健全な発達に寄与することを目的」とすると言っている。この法律による制度の中核をなしているものは「政治資金の収支の公開」という手法である。もとより、この公開は正確でなくてはならない。虚偽の公開は、国民の不断の監視と批判を妨げることから、政治活動の公明と公正を毀損し、民主政治の健全な発達を阻害する犯罪行為とされるのだ。
その趣旨を、同法25条1項3号は、「政治資金収支報告書…に虚偽の記入をした者」は、「五年以下の禁錮又は百万円以下の罰金に処する」と定める。
もっとも、政治資金規正法25条は、会計責任者の身分犯であって、直接には会計責任者の罪科が問われることになる。会計責任者は法27条2項「重大な過失により、…第25条第1項の罪を犯した者も、これを処罰する」によって、故意がなかったというだけでは免責されない。
そこで、虚偽記載罪については一般に、会計責任者が「殿のために」すべてをかぶって、「殿の与り知らぬこと」となし得るが、本件の場合にはそうはいかない。
家族旅行のホテル代の領収証取得には、会計責任者は関与していない。舛添の指示のとおりに、会計責任者が報告書に虚偽の記載をしたものと考えざるをえない。しかも、正月に「会議」などあり得ないことは会計責任者の分かること。結局は、舛添と会計責任者の共同正犯(刑法60条)が成立し、身分のない舛添も処罰対象となる(刑法65条1項)可能性が限りなく高い。
それだけでない。法28条は、公民権停止を定める。
第28条 (第25条の)罪を犯し罰金の刑に処せられた者は、その裁判が確定した日から五年間(刑の執行猶予の言渡しを受けた者については、その裁判が確定した日から刑の執行を受けることがなくなるまでの間)、公職選挙法 に規定する選挙権及び被選挙権を有しない。
公民権を失うとどうなるか。
地方自治法第143条 普通地方公共団体の長が、被選挙権を有しなくなつたとき…は、その職を失う。
のである。
公職選挙法違反でも政治資金規正法違反でも、特定の犯罪で有罪になった者には、公職にある資格がないとされる。舛添の政治資金収支報告書虚偽記載罪はそのような類型の犯罪なのだ。
なお、政治資金規正法第2条は、次のように(基本理念)を掲げている。
第2条 この法律は、政治資金が民主政治の健全な発達を希求して拠出される国民の浄財であることにかんがみ、その収支の状況を明らかにすることを旨とし、これに対する判断は国民にゆだね、いやしくも政治資金の拠出に関する国民の自発的意思を抑制することのないように、適切に運用されなければならない。
政治資金はすべて国民が拠出した浄財である。任意の拠出資金だけではなく、税金から支出された政党助成金も含まれている。この浄財の公と私の財布とのケジメを無視したことは、国民が拠出した浄財をクスネたということになる。
このことによって、多くの国民が「政治資金をカンパしても、結局こんな使われ方で終わってしまう」。「馬鹿馬鹿しくってカンパなどやっていられるか」ということになってしまう。このように「政治資金の拠出に関する国民の自発的意思を抑制した」点において、舛添知事の責任は大きい。
それにしても、である。先に、田母神が逮捕された。次いで、舛添も刑事責任を追求されかねない。他の候補者・陣営は安泰なのだろうか。そして、舛添の失職と新たな都知事選があるのだろうか。風雲は急を告げている。
(2016年5月12日)
本日(5月11日)午前8時35分、雨上がりの水道橋・東京都教職員研修センターの門前。本日の服務事故再発防止研修を命じられている受講者と並んだ私がマイクを握る。センターの総務課長に正対して語りかける。
本日、卒業式での国歌斉唱の際に起立斉唱しなかったとして、心ならずも再発防止研修を命じられ、これから3時間余に及ぶ受講を強制される教員に代わって、代理人の澤藤から都教委に抗議と要請を申し上げます。
私たちは、国旗国歌に対する敬意表明の強制を、これに従えないとする教員の良心にむち打つ心ない行為と抗議を重ねてきました。最高裁裁判官諸氏も、私たちの訴えを半ばは認めているところです。
むち打たれた良心を重ねてさらにむち打つ行為、むち打たれた良心の傷に塩を塗り込むに等しい行為が、今日これから行われようとしている再発防止研修にほかなりません。
自己の良心に照らして恥じない行為を選択した教員、生徒に対して最良の教師であろうとして良心を貫いた教員に、いったいどのような研修が必要というのでしょうか。自分の良心を殺せ、国家に売り渡せ、良心よりは世渡りが大切、生徒には上手な世渡りの見本を見せろ、とでもいうのでしょうか。
本来、服務事故再発を防止するための研修とは、良心に恥じる行為をした公務員に対して、その良心を呼び覚まし、覚醒された良心に従った行動をするよう促すことにあるのではないでしょうか。
そのような見地からは、いま、舛添要一知事こそが、再発防止研修を受けるに最もふさわしい人物ではありませんか。目に余る、彼の公私混同、公費の浪費、そして開き直りは、良心にやましい行為であるに違いありません。仮に良心に恥じないというのであれば、それこそ諄々と説いて聞かせて、良心を呼び覚まし、以後は良心に従った行為をするよう研修を重ねる必要があるのです。
舛添知事は、公費で絵画・美術品を購入して、領収証の作成者には「資料代」と記載するよう求めたと報道されています。心の内では、まずいことをしているという認識があったに違いありません。良心に恥じる行為をしていたのです。この知事のような人にこそ、良心を呼び起こし、良心に従った行動をするよう善導する、服務事故再発防止研修の効果は大いに期待しうるのです。
一方、自らの良心のあり方を探し確認し、悩みながらも覚悟して自らの良心に従うことを選択した教員に、いったい何を反省せよせよというのでしょうか。結局は、思想や良心を投げ捨てよと威嚇するだけのことではありませんか。
私たちは、服務事故再発防止研修を国旗国歌強制の手段としてだけ問題にしているのではありません。それ自体が、思想・良心を侵害する違憲性・違法性の強い行為だと考えています。とりわけ、不起立の理由を執拗に問い質すようなことは、思想・良心の告白を迫る、典型的な思想・良心の侵害行為として大きな問題だと考えています。本日の研修において、けっしてそのようなことがあってはなりません。
今日の研修に携わるセンター職員の皆さまに、お考えいただきたい。
おそらくあなた方は、良心にむち打つ行為に加担することを不本意なことと内心はお考えではないか。それでも、職務だからと割り切り、あるいは諦めて、本日の任務についておられることと思う。
しかし、本日の研修受講命令を受けている教員は、「仕方がない」とは割り切らなかった。あきらめもしなかった。教員としての良心や、生徒に対する責任を真剣に考えたときに、安易に職務命令に従うという選択ができなかった。
懲戒処分が待ち受け、人事評価にマイナス点がつき、昇給延伸も確実で、賞与も減額され、服務事故再発防止研修の嫌がらせが待ち受け、あるいは、任地の希望がかなえられないことも、定年後の再任用が拒絶されるだろうことも、すべてを承知しながら、それでも日の丸・君が代への敬意表明の強制に屈することをしなかった。多大な不利益を覚悟して、良心に忠実な行動を選択したのです。
本日の研修命令受講者は、形式的には、非行を犯して懲戒処分を受けた地方公務員とされています。しかし、実は自分の思想と教員としての良心を大切なものとして守り抜いた尊敬すべき人格ではありませんか。
研修センター職員の皆さんの良心に期待したい。是非、自分のあり方と対比して、尊敬すべき研修受講者に対して、その人格を尊重し、敬意をもって接していただきたい。このことを、代理人としてお願い申しあげる。
(2016年5月11日)
私は、2003年10月23日、石原教育行政の「10・23通達」発出を当日の産経(朝刊)報道で知った。つまり、産経はこの種情報のリーク先として使われ、政権や右翼筋の広報担当となっているのだ。その産経が、本日とんでもない記事を発信した。
「教職員の政治活動に罰則 自民、特例法改正案、秋の臨時国会にも提出」というもの。
http://www.sankei.com/politics/news/160510/plt1605100003-n1.html
自民党は9日、今夏の参院選から選挙権年齢が「18歳以上」に引き下げられることを踏まえ、公立高校の教職員の政治活動を禁じる教育公務員特例法を改正し、罰則規定を設ける方針を固めた。早ければ今秋の臨時国会に改正案を提出する。同法は「政党または政治的目的のために、政治的行為をしてはならない」とする国家公務員法を準用する規定を定めているが、罰則がないため、事実上の「野放し状態」(同党幹部)と指摘されていた。
改正案では、政治的行為の制限に違反した教職員に対し、「3年以下の懲役又は100万円以下の罰金」程度の罰則を科することを想定している。
また、私立学校でも政治的中立性を確保する必要があるとして私立校教職員への規制も検討する。これまで「国も自治体も、私立には口出ししない風潮があった」(同党文教関係議員)とされるが、高校生の場合は全国で約3割が私立に通学する実情がある。
党幹部は「私立でも政治的中立性は厳格に守られなければならない」と指摘。小中学校で政治活動をした教職員に罰則を科す「義務教育諸学校における教育の政治的中立の確保に関する臨時措置法」を改正し、私立高の教職員にも罰則を適用する案が浮上している。
日本教職員組合(日教組)が組合内候補者を積極的に支援するなど選挙運動に関与してきた過去を踏まえ、組合の収支報告を義務付ける地方公務員法の改正についても検討する。
この改正法案の当否以前の問題として、罰則をもって禁じなければならないような「高校教職員の政治活動」の実態がどこにあるというのだろうか。1954年教育二法案制定当時と今とでは、政治状況はまったく違っている。かつての闘う日教組は、今や文科省との協調路線に転換している。「日の丸・君が代」問題でも、組合は闘わない。個人が、法廷闘争をしているのみではないか。
教育二法とは、「義務教育諸学校における教育の政治的中立の確保に関する臨時措置法」(教員を教唆せん動して特定の政治教育を行わせることを禁止)と、「教育公務員特例法」(教員の政治的行為を制限)とのこと。当時の反対運動の成果として、教特法への刑事罰導入は阻止された。それを今、60年の時を経て導入実現しようというのだ。
教育現場での教員の政治的問題についての発言は、残念ながら萎縮しきっていると言わざるをえない。それをさらに、刑罰の威嚇をもって徹底的に押さえ込もうというのだ。闘う力もあるまいと侮られての屈辱ではないか。
「政治的中立」の名をもって圧殺されるものが政権批判であることは、現場では誰もが分かっていることだ。さらに、萎縮を求められるものは「憲法擁護」であり、「平和を守れ」、「人権と民主主義を守れ」、「立憲主義を尊重せよ」という声だ。憲法に根拠をおく常識も良識も党派性を帯びた政治的発言とされてしまうのだ。
教育基本法(第14条)は、「良識ある公民として必要な政治的教養は、教育上尊重されなければならない。」と定める。明日の主権者を育てる学校が、政治と無関係ではおられない。18歳選挙権が実現した今となればなおさらのこと。刑事罰導入はいたずらに、政治的教養教育、主権者教育の限りない萎縮をもたらすことが目に見えている。それを狙っての法改正と指摘せざるをえない。
今、教育現場において「教育基本法の精神に基き、学校における教育を党派的勢力の不当な影響または支配から守る」ためには、政権の教育への過剰な介入を排除することに主眼を置かねばならない。
教育公務員も思想・良心の自由の主体である。同時に、教育という文化的営為に携わる者として、内在的な制約を有すると同時に、権力からの介入を拒否する権利を有する。
「教職員の政治活動に罰則」という、教職員の活動への制約は、政権の教育支配の一手段にほかならない。憲法をないがしろにし、教育基本法を敵視するアベ政権が、危険な牙をむいてきたといわなければならない。改憲反対勢力がこぞって反対しなければならないテーマがひとつ増えた。
(2016年5月10日)
私自身が突然に提訴されて被告となったDHCスラップ訴訟。一審勝訴したが控訴されて被控訴人となり、さらに控訴審でも勝訴したが上告受理申立をされて、いまは「相手方」となっている。その上告受理申立事件は最高裁第三小法廷に係属し、事件番号は平成28年(受)第834号である。
さて、訴訟活動として何をすべきだろうか。実は、この事件なら、常識的には何もしないのが一番なのだ。何もせずに待っていれば、ある日第三小法廷から「上告受理申立の不受理通知」が届くことになる。これでDHC・吉田の敗訴が確定して、私は被告の座から解放される。上告受理申立理由に一々の反論をしていると、不受理決定の時期は遅滞することにならざるをえない。何もしないのが一番という常識に反しても、敢えて反論はきちんとすべきか否か。ここが思案のしどころである。
ところで、スラップ訴訟へのメディアの関心が高くなっている。最近、ある大手メディアの記者から取材を受けた。そのあと記者から、丁寧な質問をメールでいただいた。
要約すれば、関心は大きくは次の2点だという。
? 「憲法21条(言論の自由)と32条(裁判を受ける権利)の整合性をどう考えるべきだろうか」
? 「アメリカでは、スラップ訴訟を規制して、原告の権利侵害という議論が起こらないのだろうか」
通底するものは、特定の訴訟をスラップと刻印することで、侵害された権利救済のための提訴の権利が侵されることにはならないのだろうか、という疑問である。
以下は、私のメールでの回答の要約。
具体的な内容や背景事情を捨象すれば、DHCスラップ訴訟の構造は、次のようなことになります。
(1) 私が吉田を批判する言論を展開し、
(2) 吉田が私の言論によって名誉を毀損されたとして、損害賠償請求訴訟を提起した。
(3) その訴訟において、
原告・吉田は、憲法13条にもとづく自分の人格権(名誉)が違法に侵害されたと主張し、
被告・私は、憲法21条を根拠に自分の言論を違法ではないと正当性を主張した。
(4) 審理を尽くして、裁判所は被告に軍配をあげて請求を棄却した。
(5) 吉田は結果として敗訴したが、憲法32条で保障された裁判を受ける権利を行使した。
つまり、誰でも、主観的に自分の権利が侵害されたと考えれば、その権利侵害を回復するために訴訟を提起することができる。結果的に敗訴するような訴えについても、提訴の権利が保障されているということになります。
以上は、具体的な諸事情を捨象すれば…の話しで、普通はこれで話が終わります。しかし、次のような具体的諸事情を視野に入れると、景色は変わって見えてきます。この景色の変わり方をどう考えるべきかが問われています。
(1) 違法とされ提訴の対象となった私の言論が典型的な政治的批判の言論であること。
(2) 提訴者が経済的な強者で、訴訟費用や弁護士費用のハードルを感じないこと。
(3) 提訴されれば、私の応訴の負担は極めて大きいこと。
(4) 原告の勝訴の見通しは限りなく小さいこと。
(5) 原告の請求は明らかに過大であること。
(6) 原告は提訴によって、侵害された権利の回復よりは、提訴自体の持つ威嚇効果を狙っていると考えられること。
(7) 現実に提訴はDHC・吉田批判の言論に萎縮効果をもたらしていること。
もっとも、原告の勝訴確率が客観的にゼロに等しいと言える場合には、問題が単純になるでしょう。そのような提訴は嫌がらせ目的の訴訟であることが明白で、民事訴訟制度が想定している訴えではないとして、提訴自体が違法とならざるをえません。しかし、そのような厳密な意味での「違法訴訟」は現実にはきわめて稀少例でしかないでしょう。
このような「明らかな違法訴訟」とまでは言えないが、強者による言論への萎縮効果を狙った違法ないし不当な提訴は類型的に数多く存在します。これをスラップ訴訟と言ってよいと思います。
つまり、単に勝訴の見込みが薄い訴えというだけでなく、これに前記の(1)?(7)などの事情が加わることによって、提訴自体が濫訴として強い可非難性を帯びることになります。
アメリカのスラップ訴訟規制は各州で制度の差があるようですが、報告例を耳にする限りでは、原告の提訴の権利を侵害すると問題にされてはいないようです。
スラップ規制のあり方として、2段階審査の方式を学ぶべきだと思います。
審理の初期に、被告からスラップの抗弁があれば、裁判所はこれを取り上げ、スラップとして取り扱うか否かを審理して暫定の結論を出します。
原告が、裁判所を納得させられるだけの勝訴の蓋然性について疎明ができなければ、以後はスラップ訴訟として審理が進行することになります。その大きな効果としては、原告の側に挙証責任が課せられること、そして原告敗訴の場合には、被告側の弁護士費用をも負担させられることです。これでは、スラップの提起はやりにくくなるでしょう。でも、訴訟ができなくはなりません。
一般論ですが、複数の憲法価値が衝突する場合、正確にその価値を衡量して調整することが立法にも、司法にも求められます。
一方の側だけから見た法的正義は、けっして決定的なものではありません。別の側から見れば、別の景色が見えることになります。
スラップ訴訟もそんな問題のうちの一つです。私は、政治的言論の自由が攻撃されて、権力や社会的強者を批判する言論が萎縮することが憲法の根幹を揺るがす大問題と考える立場ですから、飽くまで憲法21条の価値をを主としてとらえ、DHC・吉田の憲法32条を根拠とする名誉毀損を理由として訴訟を提起する権利は従でしかないと考えます。
私が掲げる憲法21条に支えられた言論の自由の旗こそが最重要の優越する価値であって、DHC・吉田の名誉の価値はこの旗の輝きの前に光を失わざるをえないという考えです。のみならず、そのような価値の衡量が予想される事態において、DHC・吉田が敢えて高額の損害賠償請求訴訟を提起することをスラップとして、非難しなければならないとするのです。
さらに、言論の萎縮効果をもたらすスラップには法的な制裁が必要であり、スラップを提起されて被告となる者には救済の制度が必要だと、実体験から考え訴えているのです。DHC・吉田がしたごときスラップの横行を許すことは、メディアにとっては死活に関わる問題ではありませんか。
よろしくご理解をお願いいたします。
(2016年5月9日)
オリンピックはヤなもんだ
コントロールとブロックの
ダマシがケチのつきはじめ
オリンピックはヤなもんだ
所詮は奴らのメシのタネ
踊らされるはマッピラだ
オリンピックはヤなもんだ
ローマの時代のサーカスが
政権支えによみがえり
オリンピックはヤなもんだ
東京一極盛り上げて
東北・熊本切り捨てる
オリンピックはヤなもんだ
日の丸君が代煽り立て
愛国心を押しつける
オリンピックはヤなもんだ
国威発揚晴れ舞台
主役はナチスか安倍シンゾー
オリンピックはヤなもんだ
渋滞混雑騒音の
東京みんなで疎開しよ
オリンピックはヤなもんだ
猛暑のさなかの我慢会
出場選手は熱中症
オリンピックはヤなもんだ
当初予算がいつの間に
三段跳びやらハイジャンプ
オリンピックはヤなもんだ
ヘイトスピーチ野放しで
オモテナシなど言われても
オリンピックはヤなもんだ
一億一心火の玉と
戦時思わす気味悪さ
オリンピックはヤなもんだ
平和を嫌う政権が
作り笑いのオモテナシ
オリンピックはヤなもんだ
じゃぶじゃぶカネを注ぎ込んで
ツケは庶民のオモチダシ
オリンピックはヤなもんだ
宴のあとの荒涼に
責任もつ人影もなし
(2016年5月8日)
連休さなかの5月2日、東京地検は元航空幕僚長・田母神俊雄を公選法違反(運動員買収)で起訴した。2014年2月東京都知事選における選対ぐるみの選挙違反摘発である。選挙後に運動員にカネをばらまいたことが「運動員買収」とされ、起訴されたものは合計10名に及ぶ。
田母神俊雄(候補者) 逮捕・勾留中
島本順光(選対事務局長) 逮捕・勾留中
鈴木新(会計責任者) 在宅起訴
運動員・6名 在宅起訴
ウグイス嬢・女性 略式起訴
起訴にかかる買収資金の総額は545万円と報じられている。田母神・島本・鈴木の3人は共謀して14年3月?5月選挙運動をした5人に、20万?190万円の計280万円を提供。このほか田母神・鈴木両名は14年3月中旬、200万円を島本に渡したとされ、島本は被買収の罪でも起訴された。さらに鈴木らは、うぐいす嬢ら2人に計65万円を渡したとされている。
被疑罪名は、田母神俊雄(候補者)と鈴木新(会計責任者)が運動員買収、島本は買収と被買収の両罪、その余の運動員は被買収である。
田母神は、4月14日逮捕され、捜索され、身柄事件として起訴され、起訴後に保釈を申請して却下されている。特捜は、本腰を入れて立件したという印象。田母神自身にとっても、彼の応援団にも、ここまでやられるとは意外な思いではないだろうか。
いまも田母神俊雄の公式ホームページが開設されており、「本当の日本を取り戻す」「日本人の、日本人による、日本人のための政治」というキャッチコピーが踊っている。彼には、政治思想において自分こそが安倍晋三に最も近いという自負があったろう。実際、安倍は選挙前に田母神の集会に出かけて、応援演説までしている。
ウイキペディアからの孫引きだが、以下は田母神出馬についての賛同者リストからの抜粋である。アベ政治の応援団とほとんど重なっている。アベ・コア人脈と言ってもよいのではないか。
政治家
石原慎太郎(日本維新の会共同代表・元東京都知事)
土屋敬之(元東京都議会議員)
中山成彬(日本維新の会衆議院議員)
西村眞悟(無所属衆議院議員)
平沼赳夫(日本維新の会衆議院議員)
三宅博(日本維新の会衆議院議員)
松田学(日本維新の会衆議院議員)
大学教員
小堀桂一郎(東京大学名誉教授)
西部邁(元・東京大学教授)
藤岡信勝(元・東京大学教授、元・拓殖大学教授)
中西輝政(京都大学名誉教授)
荒木和博(拓殖大学教授)
小田村四郎(拓殖大学元総長)
関岡英之(拓殖大学客員教授)
石平(拓殖大学客員教授・評論家)
杉原誠四郎(武蔵野大学教授・新しい歴史教科書をつくる会会長)
西尾幹二(電気通信大学名誉教授)
渡部昇一(上智大学名誉教授)
実業家
中條高徳(アサヒビール名誉顧問、日本会議代表委員)
上念司(株式会社「監査と分析」代表、経済評論家)
水島総(映画監督、日本文化チャンネル桜元社長)
元谷外志雄(アパグループ代表)
評論家・芸能人など
加瀬英明(外交評論家)
クライン孝子(作家)
デヴィ・スカルノ(スカルノ元大統領第3夫人)
すぎやまこういち(作曲家・日本作編曲家協会常任理事)
西村幸祐(評論家)
百田尚樹(作家)
三橋貴明(経済評論家)
逮捕当日、田母神は「国家権力にはかなわない」と名言を吐いている。政治思想ではアベ政治と一体であった彼も権力とは一体でなかった。元空幕長という経歴をもち、安倍晋三を含むこの応援団の顔ぶれを揃えてなお、逮捕からも起訴からも身を守ることができなかった。特捜はよくぞ逮捕し、全容を明らかにし、起訴したものと思う。
アベ自民をより右から引っ張る役割を任じようとした田母神の政治生命は終焉したというべきだろう。今後はその役割を大阪維新が担うことになるのだろう。
政治的影響はともかく、政治とカネ、選挙とカネについての貴重な教訓を読み取らねばならない。目前の参院選や、その後の総選挙における野党共闘の陣営が、この教訓を十分に心して、不要な弾圧を避けなければならない。
公選法は、その前身である衆議院議員選挙法が、「男子普通選挙」を採用した1925年改正法以来、選挙活動の自由を極端に制約して弾圧法規として作用してる。言論による選挙運動を規制する不当とは闘わなくてはならない。しかし、選挙が結局はカネの力で左右されることがあってはならず、現行公選法における選挙資金調達方法や使途の規制がすべて非合理とは言えない。
とりわけ、選挙運動は無償が大原則で、選挙運動者にカネを支払えば犯罪となることを不合理とは言い難い。選挙運動への参加は飽くまで無償と肝に銘じなければならない。企業が選挙運動者を派遣して、被派遣者が企業への勤務の実体を欠くのに、企業がこれに給与を支給すれば、当該給与分の金額で運動員買収をしたことになる。
田母神の起訴罪名と罰条は、公職選挙法の運動員買収である。条文を抜粋すれば以下のとおり。
第221条(買収)「次に掲げる行為をした者は、3年(候補者がした場合は4年)以下の懲役若しくは禁錮又は50万円(100万円)以下の罰金に処する。
一 当選を得、若しくは得しめ又は得しめない目的をもって、選挙人又は選挙運動者に対し金銭、物品その他の財産上の利益の供与、その供与の申込み若しくは約束をしたとき。」
公選法上の買収には2種類ある。選挙人買収と運動員買収である。選挙人(有権者)を買収することは、直接に票をカネで買うことだ。運動員買収とは、集票作業をする人にカネを支払う方法で票を集めること、間接的にカネで票を買うことにほかならない。選挙運動は無償が大原則なのだから、選挙運動員にカネを渡してはならない。カネを渡せば運動員買収罪が成立する。受けとった運動員も処罰対象となる。買収だけでなく供応も同じだ。
選挙運動は、判例において「特定の選挙について、特定の候補者の当選を目的として、投票を得又は得させるために直接又は間接に必要かつ有利な行為」と定義されている。選挙運動は飽くまで、自発的な意思によって行われるべきもので、報酬はない。選挙運動は無償が原則である。選挙運動者に報酬を支払えば、運動員買収として処罰対象となるのだ。もっとも選挙運動には当たらない純粋な労務の提供や事務作業者に対しては、予め届け出た者に限って決められた範囲の額の対価を支払うことができる。気をつけなければならないのは、たとえ労務者として届出があっても、単純労務の提供の範囲を超えて「選挙運動をした者」となれば報酬を支払ってはならないということだ。
飽くまで、公職選挙法の定めでは、選挙運動は無償(ボランティア)であることを原則としている。この警告を「一方的な思い込みに基づく論理」などと揶揄するようでは、選挙弾圧を招くことになる。
たとえば、2012年選挙における宇都宮選対の打ち上げの「会食費」が政治資金収支報告書に計上されたり、宴席で突然に「労務者報酬」が配られたりするようなことになるのだ。このようなやり方で、善意の選挙運動参加者を犯罪行為に巻き込んだ選対事務局長の責任はとりわけ大きい。
東京地検特捜は、今回強く右を叩いた。次には、左を叩くことでバランスをとろうとする可能性を否定しえない。
選挙運動に参加する者は、無償が大原則であることをわきまえよう。常に心掛けよう。選対本部長や事務局長から「ごくろさまです」とカネを差し出されたら、犯罪として立件される虞のある危険な事態だと心得なければならない。
(2016年5月7日)
本日は東京「君が代」裁判・4次訴訟の第10回口頭弁論。原告は、第8準備書面(個別事情)、第9準備書面(裁量権濫用の具体論)、第10準備書面(国家賠償における損害論)を提出して、争点となっている主張を一応終えた。
法廷では弁護団事務局長の平松真二郎弁護士が第9準備書面を要約陳述した。
今のところ最高裁は、卒業式等において起立斉唱の職務命令を受けた教員の不起立を職務命令違反として懲戒処分とすることを、教員の思想・良心に抵触することと認めながらも、かろうじて違憲ではないとの判断にとどまっている。しかし、その最高裁も、法的に実害をともなう減給以上の処分は過酷に失するとし、違憲とまでは言えないとしても懲戒権者の裁量権逸脱濫用と認めて違法とし、処分を取り消している。
従前、形式的機械的に不起立回数のみによって累積加重の処分を続けてきた石原教育行政の思惑は頓挫した。しかし、いま都教委は、複数回の不起立を理由とする減給処分を強行し、その違法が鋭く争われている。
平松弁護士の陳述は、最高裁判例の立場を前提に、「不起立による処分回数の累積のみによっては、減給以上の処分の正当性を基礎づける事情とはなし得ない」ことについての根拠について、実務的な指摘をするものだった。裁判官3名は、よく耳を傾けていたと思う。
そして、毎回の法廷で続けられている原告の陳述。なぜ、「日の丸・君が代」への敬意表明強制に従うことができないのか。どのように思想・良心を貫くことが困難なのか。それぞれの事情が語られる。今回は、身体の不自由な原告のお一人が、悩んだ末に君が代斉唱時に着席した経過を述べた。処分を覚悟して、生徒に恥じない教師としての姿勢を貫くための不起立。陳述の内容は後記ののとおりである。
なお、法廷後の報告集会で、求められて若手弁護士が印象的な発言をした。
「私の長男が、この春幼稚園を終えて小学校に入学しました。幼稚園の卒業式は、それこそ園児を主人公としたたいへんに暖かい雰囲気のもの。それが、小学校の入学式となると一変して儀式化してしまう。何度も、『起立』・『礼』の違和感。私には、起立・斉唱の職務命令はないがそれでも、不快な思いが拭えません。現場の先生方の気持がよく分かりました」
「同級生の親の一人にオーストラリア人がいて、感想を話し合う機会がありました。その人にとっても学校がまるで軍隊のように見えて、とても違和感が強かったようです。オーストラリアではあのような儀式は一切ないと言っていました。卒業式での国旗国歌は、都教委がいうように、国際儀礼や国際常識を学ぶ場ではありません」
もう10年以上も以前のことだが、ある弁護士が子供の入学式に保護者として出席したときの感想を次のように書いていたのを記憶している。
「君が代斉唱は不愉快だが、自分は保護者席で起立した。自分一人のことを考えれば、不起立はたやすいが、妻や子の立場もある。自分一人の不起立は自己満足に終わるだけ。とりわけ、妻はPTAでの活動を心していたので、その活動に支障が及んではならないと思ってのこと」という主旨。
私は思う。たやすいことでも、たやすいことではなくても、君が代斉唱を不愉快と思うなら、せめて保護者席で起立せずに着席してその意思を表せ。自分の身分を懸けて厳しい闘いを強いられている教員がいるのだ。「日の丸」「君が代」への敬意表明強制を暗黙のうちに肯定してはならない。そのような場面では、社会から自由を与えられた立場の弁護士は、その職業倫理において、斉唱のために起立してはならない。
今日の集会では、清々しいその若手弁護士の発言に拍手が湧いた。
(2016年5月6日)
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原告意見陳述
私は、教職最後の卒業式で国歌斉唱時に起立しなかったために、職務命令違反を理由に都教委から戒告処分を受けました。私が不起立するに至った事情について、陳述致します。
私は、都立高校に国語科教員として37年間勤務し、後半の17年間は夜間定時制高校に勤務しました。夜間定時制の初めの勤務校・A高校で4年目を迎えようとする時、高血圧性脳内出血を発症し、一年間治療とリハビリのために休職しましたが、左の上肢・下肢機能障害により、身体障害2級の認定を得て復職しました。復職した4年後に10・23通達が発出されました。
私は、翌2004年4月、K高校定時制に転勤しました。入学式・卒業式の役割分担が式場内の時には、国旗・国歌の強制に従いたくないという思いは強くありました。同時に、間近になった定年退職後の生活の心配がありました。国歌斉唱時に起立しなければ、戒告処分があります。それは退職金及び年金の減額につながります。それが不安の種でした。身体障害者の私にとって、定年後に仕事を続けることに困難を感じていましたので、退職後の生計は退職金と年金に拠る外はないと考えました。入学式・卒業式に臨み、信条に反して起立することを考えるのは苦痛でした。悩んだ結果、私が行ったのは、開式と同時に起立し、新入生・卒業生の呼名が終了するまで起立していることでした。起立したのは国歌斉唱のためにではなく、新入生・卒業生を見守るためだと言う私自身への言い訳のためでした。客観的に見れば、国歌斉唱時に起立していたのですから、強制に屈した情けない姿、強制なのだから仕方がないとのあきらめや無力感を生徒たちに見せたことに違いありません。信条に反する恥ずべき行為をしたと思い、悩みました。
2011年3月のK高校定時制卒業式が、私にとっては、在職中最後の卒業式でした。その卒業式が近付く中、私は、卒業生と共に行った沖縄修学旅行のこと、共に学んだ沖縄戦の実相を度々思い返しました。この修学旅行で生徒だちと心を通わせる交流がありました。
私が修学旅行の前の年の3年生から担任した学級にKという多動性の落ち着きのない生徒がいました。彼の行動が原因となり、学級が授業中や考査中に騒然となることがありました。この件で、校長は企画調整会議で学年主任に対し、教科担当者を含めて一斉に取り組めるような具体策を提案するように指示しました。学年主任の報告を受けて担任団としては、教科担当者から授業時の状況や対応を聞き取ることにしました。問題になったK君には、持ち前の底力と気立てのよさがあり、私は、それらのよい点に着目し、それを引き出しながら、問題行動を改善するように仕向けようと考え、対話を繰り返しました。この過程で親との信頼関係も生まれ、親から相談を持ちかけられることもありました。K君は徐々に私たちの説得を受けとめるようになり、問題行動の改善を約束するまでになりました。
生徒たちが4年生に進級した翌年度に実施された沖縄修学旅行の時には、このK君と、もう一人、校長の指導に反抗したことがあるM君の二人が、足場の悪い戦争遺跡のガマの中で、足の不自由な私を気遣って交代で背負ってくれるということがありました。校長は、卒業式の式辞で、この事に触れ、「今年の卒業生には気持ちの優しい生徒が多かった」と述べました。K君とM君は「問題児」どころか、実に気持ちの優しい生徒たちなのです。このような生徒たちの姿を見て、私は、彼らの成長と私たち学年担任団の思いが受けとめられていたことを確信しました。私は身体に障害があるために、生徒指導に動き回ることには、辛いこともありましたが、生徒が成長する姿を見ることに喜びを覚えました。
沖縄修学旅行の時のK君との交流で記憶に残ることがもう一つあります。摩文仁の平和祈念公園を一緒に歩いていた時でした。K君が「ここはどういう場所なの?」と尋ねるので、私は、「今は平和の礎が並んで平和を祈る場所になっているけれど、沖縄戦最大の激戦地だった」と答えました。すると、K君が「え、ここが!」と驚きの声を発したのです。今、平和な光景が広がる同じ場所で、多くの人の血が流されたとは信じられなかったからでしょう。
このような記憶を蘇らせながら、今の平和がいつまでも続き、日本が再び戦争への道を突き進むようなことがあってはならないと思いました。国旗・国歌が、この国が犯した侵略戦争に、国民を駆り立てるために使われたのは、紛れもない歴史的事実です。そのような国旗・国歌の強制には従うべきでないという思いを強くしました。
卒業式が近付き、私がそのような思いを強くしている時、校長が、職員会議で卒業式の包括的職務命令を伝えました。私は職務命令に反対して、「予防訴訟で最高裁に公正判決を要請する署名には、元管理職も応じてくれた。校長の本音はどうなのか。私は不自由な身体なので、起立姿勢を続けるのは辛い。ましてや、信条に反するのだから、なお辛い」という主旨の発言をしました。私がそのような発言をしたからだと思います。卒業式の前日に、私は校長室に呼ばれました。校長は、「あなたが起立しなければ注意する。その時式は中断するし、生徒がざわつくかもしれない。皆が迷惑する。」と言い、起立するよう求めました。
卒業式当日、開式の合図と共に、私は起立し、国歌の伴奏が始まるのを確認してから、着席しました。式は何の混乱もなく続けられました。
私に対して科された戒告は決して程度の軽い処分ではありません。私のような身体障害者を含めた教職員の生活を経済的に脅かし、そのことによって起立することを迫り、精神的苦痛をもたらすものとなっています。
かつて私が心ならずも起立し、恥ずべき行為をしたと悩んだのも、その戒告の不利益を恐れたためだったことを、もう一度申し上げて、私の陳述を終わります。
「ちきゅう座」という規模の大きな「ブログ集積サイト」がある。11年前に開設されたものだそうたが、編集委員会が運営している。編集委員会の眼鏡にかなった投稿を掲載し、またブログを転載している。
http://chikyuza.net/
設立の趣旨を、「今の世界や日本が極めて危うい方向に進んでいるという認識の下に、それぞれの分野の専門家や実践家の眼を通じた、確かな情報、問題の本質に迫る分析などを提供し、また共同の討論の場を作ることを志しています。」と言っている。
なにがきっかけか知らないが、昨年(2015年)の秋ころに編集委員長から丁寧な問合せがあり、以来このサイトが当ブログを毎日転載してくれている。1日の途切れもなく毎回の「憲法日記」を紹介していただいていることをありがたいと思う。
その「ちきゅう座」に [交流の広場]というコーナーがある。4月28日その広場に、「専門家に表現の自由などない / 野田医師の裁判について弁護士さんの安堵に日本社会将来不安。」という投稿が掲載された。投稿者は、「札幌のサル」というペンネームを使っている。
このタイトルの、「弁護士さん」とは、私のことと思い当たる。私は、当ブログ「澤藤統一郎の憲法日記」に、「野田正彰医師記事に違法性はないー大阪高裁・橋下徹(元知事)逆転敗訴の意味」の記事を書いた。4月23日のこと。「札幌のサル」氏には、この記事がお気に召さなかったようだ。明らかに、私のブログに対する批判の投稿。
私も、他人を批判する。但し、権力や権威を有する者、あるいは権力や権威を笠に着る者に限ってのこと。それ以外を批判の対象とすることはあり得ない。
私も、他人から批判される。私には権力も権威もないが、批判するに値すると認めていただいたことをありがたいと思う。拙文をお読みいただき、何らかの反応を示していただいた方にはひとしく感謝申しあげたい。それが、論理的な批判であっても非論理的な批判であっても、である。
「札幌のサル」氏の投稿が、 [交流の広場]に掲載されたということは、おそらく私の再反論が期待されているということなのだろう。投稿の最後の結びも、私への問いかけとなっている。無視していては失礼にもなりかねない。また、野田正彰医師の名誉にも関わるところがある。逐語的にコメントしておきたい。
まず、投稿の全文は以下のとおり。
「専門家に表現の自由などない / 野田医師の裁判について弁護士さんの安堵に日本社会将来不安。」
医師の橋下診断の可否は、その専門性において厳格に問われるべきで、表現の自由などということで正当化されたら、市民やその代表者はたまったものではない。精神病という専門医師の根拠さだか〈な〉らぬ診断で病院や強制収容所送りになったソ連邦を想起させる。野田医師は反権力といわれるが、このたびは弁護士権力に依存しているだけ。医師の橋本〈下〉診断自体がその成否を問われるべきで、専門家には表現の自由などないことを知るべきだ。また自由に表現されたからと言って、その専門性の正しさが担保されるものでもない。野田君(というのはわたしはかれと旧知なので)は何度も無責任な専門家発言をして平気でいられる人物であることを知らない者がいるか。専門性の責任が問われている時代に、専門家の無責任かもしれない表現の自由をよく擁護できたもんです。黒を白ということが仕事?の弁護士さんならではの専門性ゆえですか。<札幌のサル>
投稿のメインタイトル「専門家に表現の自由などない」は、明らかな誤りである。むしろ、「専門家には、その専門分野における意見表明の社会的責務がある」というべきであろう。仮に責務の有無については見解の相違としても、すべての人に保障されている「表現の自由」が、専門家だけには保障されないということはあり得ない。
投稿者は、野田医師の論評の内容を批判する根拠を具体的に指摘し得ず、専門家一般についていかなる表現の自由もない、と極論してしまったのものと推察する。
あるいは、野田医師ではなく、弁護士である私のブログでの記事について、「専門家に表現の自由などない」のだから「表現をやめよ」、と言ったのかも知れない。しかし、私は私の「表現の自由」を絶対に譲らない。「専門家だからものが言えない」とすれば、社会は有益な知見を失うことになる。知る権利が大いに傷つけられることになろう。
投稿のサブタイトル「野田医師の裁判について弁護士さんの安堵に日本社会将来不安」も、あまりに具体性に乏しい一般論での語り口で、それゆえ有益な議論の深まりが期待できない。
橋下対野田訴訟において、なにが争われたか。橋下に対する野田診断の医学的正確性ではない。橋下の過去の言動から推認される橋下の公人としての適性に関する野田医師の見解の表明として、「新潮45+」掲載記事の表現が許容されるか否かが争われたのだ。
原告橋下側は「『新潮45+』記事は原告の名誉(社会的評価)を傷つけるものとして違法」と主張し、被告野田・新潮側は「表現の自由が保障される範囲内の言論として違法性はない」と争った。実質的に、訴訟は「橋下(当時は知事)の名誉と、表現の自由の角逐」の場であった。あるいは「個人の名誉と、国民の知る権利の衡量」の場であったといってもよい。
当然のことながら、橋下個人も人権主体である。その社会的な名誉も名誉感情も尊重されてしかるべきだ。しかし、公人となり、強大な権力をもつ地位に就いた以上、批判の言論を甘受せざるを得ない立場に立ったのだ。
民主主義社会は、自由な言論の交換によって成り立つ。もちろん、自由な言論も無制限ではありえなく、他人の名誉を毀損する言論には一定の限界がある。その限界を狭く解釈したのでは、政治的言論は成り立たない。憲法が「表現の自由を保障する」としているのは、権力者や公人の論評に関しては、その社会的評価を傷つける表現をも許容するものでなくては意味がない。
今回の野田医師逆転勝訴判決は、その理を認めた。「橋下個人の外部的名誉や名誉感情という個人的価値」を凌駕する、野田医師の「表現の自由の価値、その自由に連なる社会の知る権利の価値の優越」を認めたのだ。
私は、「権力者や公人・政治家を批判する言論の自由」をこの上なく尊重する立場であるから、この逆転勝訴を望ましい結果として評価した。これが、投稿者の「弁護士さんの安堵」と言う表現となっている。しかし、そのことが「日本社会将来不安」につながるというのは、荒唐無稽というほかはない。
野田医師の誌上診断ないし見解も、私の野田医師擁護論も、それが大阪府知事という、公人・政治家を対象とした批判の言論であることが大前提である。市井の人物や、体制批判者を指弾する言論と混同してはならない。
現在判例が採用している「公共性・公益性・真実(相当)性」という、違法性阻却要件は相当に厳格である。大阪高裁判決は、野田医師の「誌上診断」は、橋下の社会的評価を低下せしめるものではあるが、その記述は公共的な事項にかかるもので、もっぱら公益目的に出たものであり、かつ野田医師において記事の基礎とした事実を真実と信じるについて相当な理由があったと認め、記事の違法性はないとした。橋下知事(当時)の名誉毀損はあっても、野田医師の表現の自由の価値を優越するものとして、橋下はこれを甘受しなければならないとしたのだ。この違法性阻却のハードルの高さは、けっして言論の自由の濫用による「日本社会将来不安」につながる恐れを生じるものではない。
むしろ、このハードルの高さが政治家批判の言論を違法として封じ、あるいは批判の言論を萎縮させている。この現状こそが、権力者には居心地がよく、民衆には将来不安というべきではないだろうか。
投稿記事本文の「医師の橋下診断の可否は、その専門性において厳格に問われるべきで、表現の自由などということで正当化されたら、市民やその代表者はたまったものではない。」は、必ずしも文意明確ではない。
仮に、「医師の診断が正確であるか否かは、その専門性にふさわしく厳格に問われるべきで、不正確な診断が『表現の自由』ということで正当化されるようなことがあつてはならない」という主旨であれば、その限りにおいて異論があろうはずはない。しかし、訴訟がそのような問題を争って行われたものでないことは既述のとおりである。
「精神病という専門医師の根拠さだか〈な〉らぬ診断で病院や強制収容所送りになったソ連邦を想起させる。」と、問題になりえようもない極論をあげつらうことは無意味である。おそらくは、反権力の精神科医は、敢然として「病院や強制収容所送りとされた側」に立って、体制側の似非医学を反駁することになろう。
「野田医師は反権力といわれるが、このたびは弁護士権力に依存しているだけ。」
これは文意を解しがたい。裁判所や検察は権力だが、弁護士は権力ではない。「弁護士権力に依存」とは、訴訟において訴訟代理人として弁護士を依頼したことをいうのだろうか。それとも、私がブログで判決を肯定的に論評したことを指すのだろうか。どちらにしても、それが「権力に依存した」と論難される筋合いのものではない。
「自由に表現されたからと言って、その専門性の正しさが担保されるものでもない。」は、当然のこと。「表現の自由の範囲内の言論」として違法性を欠くことと、言論の内容である誌上診断の正確性とは、まったくの別問題である。だから、何の批判にもなっていない。
仮に、橋下が野田医師の患者であったとすれば、野田医師には橋下の症状や診療経過について、医師としての職業上の守秘義務(刑法134条)が課せられる。今回のように、医師が誌上で、ある人物の症状や疾患について直接本人に対する診察を経ることなく見解を述べるのは、普通の読者の普通の注意による読み方をすれば、厳密な確定的医学診断ではありえない。飽くまでも仮説的意見ないし論評に過ぎない。そのような意見・論評は、公人についてのものである限り許されるのだ。もとより、疾患診断の正確性とは別問題である。
「野田君(というのはわたしはかれと旧知なので)は何度も無責任な専門家発言をして平気でいられる人物であることを知らない者がいるか。」という表現は、事実を摘示することにより野田医師の名誉を毀損するものである。「札幌のサル」氏が、野田医師に訴えられたとすれば、氏の側で、その表現の公共性・公益性・真実(相当)性を立証しなければならない。野田医師は、橋下から訴えられ、その面倒なことをして勝訴した。
「専門性の責任が問われている時代に、専門家の無責任かもしれない表現の自由をよく擁護できたもんです。」
もし、この議論が通用するなら、医師や弁護士や会計士や技術士や、ありとあらゆる学問の研究者の権力批判の言論を封じることになり、権力批判の言論を擁護することもできなくなる。具体論なしで、ある側面を極限まで一般化する論理の過ちの典型と指摘せざるを得ない。
弁護士は、「黒を白という専門職」ではない。しかし、黒と白とをしっかりと見極めるべき専門職ではある。そして、権力と対峙する人権の側に立つべき専門職でもあると理解している。私のブログ記事に、批判さるべきところは、いささかもない。
(2016年5月5日)
本日(5月4日)の毎日新聞社会面に、憲法記念日関連報道の一つとして「改憲署名 賛成派700万筆集める 氏子を動員」という記事。
「憲法記念日の3日、…憲法改正を目指す団体『美しい日本の憲法をつくる国民の会』は東京都内でイベントを開き、全国で同日までに700万2501筆の改憲賛同署名を集めたと発表した。署名活動の現場を取材すると、地域に根づく神社と氏子組織が活発に動いていた。」
「国民の会」がアベ政権の別働隊として1000万筆を目標に改憲推進署名を行っていること、その署名運動の現場の担い手として神社かフル稼働していることが、予てから話題となっている。
記事は、その現場のひとつを次のように報じている。
「福島県二本松市の隠津島神社は毎年正月、各地区の氏子総代を集めてお札を配る。だが2015年正月は様子が違った。神事の後、安部匡俊宮司がおもむろに憲法の話題を持ち出した。『占領軍に押しつけられた憲法を変えなくてはいけない』。宮司は総代約30人に国民の会の署名用紙を配り、『各戸を回って集めてほしい』と頭を下げたという。」
「安部宮司は今年3月、取材に『福島県神社庁からのお願いで県下の神社がそれぞれ署名を集めている。総代が熱心に回ってくれた集落は集まりが良かった。反対や批判はない』と話した。隠津島神社の氏子は約550戸2000人で世帯主を中心に350筆を集めたという。氏子たちの反応はさまざまだ。
「今年正月には東京都内の神社が境内に署名用紙を置いて話題になった。全国で氏子組織が動いているのかなどについて、全国の神社を統括する宗教法人「神社本庁」(東京都)は取材に『国民の会に協力しているが、詳細は分からない』と説明。
隠津島神社の氏子総代(の一人)は言う。『地元の人が選挙に出ると地縁血縁で後援会に入らざるを得なくなる。署名集めもそれと似ている。ましてや神様からお願いされているようで、断りづらい面があったと思う』」。
この記事には興味が尽きない。神社が改憲運動に大きな役割を果たしているのだ。「神様からお願いされては、改憲署名は断りづらい」という氏子のつぶやきは、まことに言い得て妙。
元来、神社は地縁社会と緊密に結びついてきた。国家神道とは、神社の村落や地縁との結びつきを、意識的に国家権力の統合作用に利用したもの。村の鎮守様を集落共同で崇める精神構造をそのままに、国家の神を国民共同で崇める信仰体系に作り替えたものと言えよう。
いま、国家神道はなくなってはいるが、その基底をなしていた「地縁に支えられた神社組織」は健在である。その神社組織が日本国憲法を敵視して、改憲運動を担って改憲署名運動の中心にある。
見過ごせないのは、次の記事。この神社中心の改憲署名運動は、極めて戦略的に憲法改正の国民投票までを見据えているというのだ。
「署名活動で神社関係者の動きが目立つが、『国民の会』を主導するのは保守系の任意団体『日本会議』だ。」「長野市内で昨年9月に開かれた日本会議の支部総会。東京から来た事務局員は、1000万人を目標とする改憲賛同署名の狙いを説明した」「会場には、長野県内の神社関係者が目立った」「これは請願署名ではない。国民投票という大空中戦で投票を呼びかける名簿になる」「憲法改正は衆参両院3分の2以上の賛成で発議され、国民投票で決まる。国民の会は国民投票の有効投票数を6000万人と想定。署名した1000万人に2人ずつ声かけをさせれば、改正に必要な過半数の3000万票に届くと計算する」。
以下は、毎日新聞3月18日付の記事。いったい、神社界はなぜかくも改憲に熱心なのか。
全国8万社を傘下に置く宗教法人・神社本庁の主張は「大日本帝国憲法は、民主主義的で誇り得る、堂々たる立派な近代的憲法」「帝国憲法の原点に立ち戻り、わが国の国体にふさわしくない条文や文言は改め、…全文見直しを行うのが本筋の改憲のあり方」(神社本庁の政治団体・神道政治連盟発行誌「意」、14年5月15日号)として、憲法1条を改めて天皇を元首とするほか、戦力不保持を定めた9条2項、国の宗教的活動・教育を禁じた20条3項の削除・改正に主眼を置く」という。
毎日は、「神社本庁の一部には、神社存続のために、国家神道の仕組みに戻りたいという心情があるのでは」という識者の意見を紹介している。
日本国憲法の「政教分離原則」とは、政治権力と宗教団体の癒着を許さないということだが、政治権力の側に対する規範と理解されている。「天皇や閣僚はその公的資格をもって靖国神社を参拝してはならない」「県知事は、護国神社に玉串料を奉納してはならない」「市が、地鎮祭を主催してはならない」という具合に、である。その反面、政教分離原則が宗教団体の側に対する規範という意識は希薄だった。神社が署名活動をすること自体は世俗的な政治活動であって、宗教的行為とは言いがたい。しかし、神社がここまでアベ政権と癒着し右翼勢力の中心にあって改憲に熱心であると、「政と教のどちらから歩み寄るにせよ、両者の癒着は防止しなければならない」と言いたくもなる。
憲法20条3項は、次のような書きぶりである。
「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」
つまり、「国及びその機関」に対する命令となっている。「国及びその機関」に対して「宗教的活動を禁止する」という形で、宗教との癒着を防止しているのだ。
しかし、20条第1項の第2文は、「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」と、宗教団体を主語にした書きぶりになっている。
改憲署名運動が、「国から特権を受け、又は政治上の権力を行使」に当たるものとはにわかには言いがたい。しかし、「帝国憲法の原点に立ち戻ろう」とする宗教団体が、時の権力にここまで擦り寄る政治性の高い改憲署名活動は、戦前の神社の特権と政治的権力を恢復しようという、反憲法的な目的と効果を有するものと捉えうるのではないか。
宗教団体の側からの政教分離違反の問題として考え直してみる必要がありそうではある。
(2016年5月4日)