めぐり来る春は、卒業式・入学式のシーズンである。東京の春は、「日の丸・君が代」強制の季節。今年も、東京都教育委員会は、懲りることなく全教職員に対して、卒業式では「国旗に向かって起立し、国歌を斉唱せよ」とする職務命令を発した。さらに、これに従えないとする者に懲戒処分を科している。昨日(4月5日)、卒業式の不起立で懲戒処分を受けた教員に対する、服務事故再発防止研修という名の加重懲罰が実施された。早朝8時半。水道橋の研修センター門前に、都教委に抗議し研修受講者を励ます60人が参集した。私も、マイクを握って、研修の責任者である総務課長に申し入れをした。
東京「君が代」裁判弁護団の澤藤です。本日、服務事故再発防止研修受講の業務命令を受け、不本意ながらもこれから研修を受けるためこのセンターに入構する教員を代理して、都の教育委員諸氏と、教育庁の全職員に抗議と要請を申しあげます。
まず、憲法19条を再読いただきたい。
そこには、「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」と、強い命令形で書かれています。命令しているのは主権者である国民。憲法制定権者でもある国民が命令しているのです。命令されているのは、公権力を担う者。東京都教育委員会であるとともに、あなた方教育庁の全職員が「思想及び良心の自由を侵してはならない」と命令を受けているのです。
誰の「思想及び良心の自由」を侵してはならないとされているか。国籍や地位、身分、年齢や性別、思想・信条などあらゆる区別なく、すべての人に思想と良心の自由が保障されているのです。もちろん、懲戒された教育公務員にも自由が保障されています。
いかなる思想の自由、いかなる良心の自由が憲法上の保障を受けるものであるか。
憲法における自由とは、公権力の束縛からの自由を意味します。強大な権力を持つ国家を暴走させないための憲法なのですから、思想の自由とは何よりも国家が公定する思想の束縛からの自由でなくてはなりません。「国家は正しい」「国家には従うべきだ」「国家は大切なものだ」とする思想を拒絶する自由こそが最大限の保護をうけなければならないのです。
国家が国民に対して、愛国心の涵養を強制することはけっして許されません。自由主義の国家においては、憲法が最も警戒する思想こそ愛国心である、と言って差し支えないのです。
また、究極において、憲法とは国家と個人の関係の規律ですから、国家と国民個人との関係についての考え方こそ、憲法が最も関心をもつ思想領域なのです。この点についての国民の思想は、徹底して自由でなくてはなりません。国家が特定の思想を排斥したり、特定の考え方を押しつけることは許されないのです。国家と個人の関係についての思想こそ、他のいかなるテーマにも増して、幅の広い自由が保障されなければなりません。
ですから、国民は、国家大好きであっても、大嫌いであっても、まったくの無関心であってもいっこうに差し支えないのです。愛国心を強制することは許されず、国家の象徴である国旗や国歌に敬意を表明することの強制は本来憲法が許さないことというほかはないのです。
そして良心です。本日研修を強制される教員たちは、自らの教員としての良心を貫く立場から、「日の丸・君が代」への敬意表明ができなかったのです。戦前、天皇制とあまりに深く結びつき、子どもたちの心を軍国主義一色に染め上げる道具であった、学校儀式での日の丸と君が代。教師を志した初心に省みて、子どもたちの精神の自由を守るために、この歌と旗を受け容れることは出来ないと決意したのです。
本来は、国旗国歌あるいは「日の丸・君が代」への敬意表明の強制からの自由が保障されなければなりません。しかし、今、「日の丸・君が代」が踏み絵となって、思想の転向が迫られ、良心がむち打たれる事態となっているではありませんか。是非このことを理解していただきたいのです。
したがって、本日の研修はまったく必要のないものです。いや、本日予定されている研修はけっしてあってはならないものというべきなのです。東京都の教育委員とあなた方教育庁の職員は、違憲違法な行為を強行しようとしているのです。
研修が必要なのは、日の丸・君が代の強制に屈せず、教員としての良心を守り抜いた教員ではありません。むしろ、あなた方、東京都教育委員の諸君と教育庁の幹部職員にこそ、研修が必要と言わざるを得ません。
とりわけ強く申しあげたい。あなた方は、教員との裁判で12連敗している。正確に言えば、判決と執行停止の決定ととをあわせて、この2年間というもの一貫して負けつづけています。これは重大事だと、自覚してもらわねばなりません。
たった一つでも裁判に負けた場合、都教委の行為が違法と判断されたのですから、まず違法な公権力の発動によって迷惑をかけた相手に対して心からの陳謝をすべきが当然の社会常識です。そして、自分が間違っていた旨を公表し、責任の所在を明確にして、責任者にはしかるべき制裁措置が必要です。それだけでなく、どこでどのように間違えたのかを真摯に反省することによって、再発防止策を見つけねばなりません。そして、その具体策を実行しなければなりません。そして、責任者には再発防止研修を受けさせなければなりません。
教育委員諸君と、あなた方こそが再発防止研修を受けなければなりません。本日の研修の主体と客体はまさに逆転しています。おかしいのです。
教育委員は、教育の本質を学ばなければならない。憲法や教育基本法についての研修を受けなければならない。戦前の教育のどこがどう間違い、それをどのように反省して今日の教育法体系やシステムができているのか。憲法や教育基本法は、教育や教員のあり方をどのように定めているのか。しっかりと十分な理解ができるまで研修を繰り返して、違憲・違法な教育行政の再発防止に努めていただきたい。ついでに、国旗国歌法の制定経過とその趣旨もよく学んでいただきたい。
本日研修受講を命じられている教員は、教育の本質と教員としての職責を真摯に考え抜いた結果、自己の良心と信念に従った行動を選択したのです。このように良心と信念に基づく行動に対して、いったいどのように「反省」をせよと言うのでしょうか。信念にもとづく行為に対して「再発防止」を迫るということは、思想や良心を捨てよと強制することにほかなりません。日の丸・君が代への強制に服しない者への公権力による処分自体が思想・良心を侵害する公権力の発動として許されることではありませんが、これに加えて再発防止研修に名を借りた転向強要は、絶対にあってはならない違法行為といわざるを得ません。
そのような観点から、本日の研修を担当する研修センターの職員の皆様に要請を申しあげます。あなた方が本日行おうとしている研修の強行は、キリシタン弾圧や特高警察の思想弾圧と同じ質の問題を持つ行為です。おそらく皆様には、内心忸怩たる思いがあることでしょう。キリシタン弾圧の役人や特高警察になぞらえられるようなことを進んでやりたいとは思っているはずはない。だが、仕事だから仕方がない。上司の命令だから仕方がない。組織の中にいる以上は仕方がない。「仕方がない」ものと割り切り、あるいはあきらめているのだろうと思います。
しかし、お考えいただきたい。本日の研修受講命令を受けている教員たちは、「仕方がない」とは割り切らなかった。あきらめもしなかった。教員としての良心や、生徒に対する責任を真剣に考えたときに、安易に職務命令に従うという選択ができなかった。
懲戒処分が待ち受け、人事評価にマイナス点がつき、昇給延伸も確実で、賞与も減額され、服務事故再発防止研修の嫌がらせが待ち受け、あるいは、任地の希望がかなえられないことも、定年後の再任用が拒絶されるだろうことも、すべてを承知しながら、それでも日の丸・君が代への敬意表明の強制に屈することをしなかった。この教員たちは多大な不利益を覚悟して、それぞれの良心に忠実な行動を選択したのです。
本日の研修命令受講者は、形式的には、非行を犯して懲戒処分を受けた地方公務員とされています。しかし、実は自分の思想と教員としての良心を大切なものとして守り抜いた尊敬すべき人格、模範的な教員ではありませんか。是非、そのことを肝に銘じていただきたい。
あなたがた研修センター職員の良心に期待したい。その尊敬すべき研修受講者に対して、心して研修受講者の人格を尊重し、敬意をもって接していただくよう要請いたします。
(2016年4月6日)
今、政治のすべてが7月参院選挙をにらんで動いている。総選挙との同日選になる可能性も高いとされ、7月政治決戦の重大性は高まるばかり。仮に同日選となり、両院とも改憲勢力が3分の2の議席を占めることになれば、一気に明文改憲の気運が高まることにもなりかねない。
明文改憲は、取り返しのつかない政治的後退と考えざるをえない。日本国憲法の「改正」とは、立憲主義・平和主義・人権保障・民主主義が大きく損なわれることにほかならない。「小異を捨てて大同につく」とした場合、「改憲阻止」以上の大同はない。いまや、安倍政権とその追随勢力が明文改憲を強行しようという事態である。すべての政治勢力は改憲派と護憲派に二分される。それ以外はないのだ。
7月政治決戦において改憲に必要な議席を獲得すべく、与党勢力は不人気の政策を選挙後に先送りして失政隠しに余念なく、ひたすらにバラマキを狙っている。一方、院内では守勢に立つ野党は、小異を捨てた選挙協力によって、改憲にストップをかけようとしている。いまや、日本の命運が野党の選挙協力の成否にかかっていると言って過言でない。
一昨日(4月3日)の毎日新聞トップ記事が、参院選の野党共闘進展の模様を伝えている。見出しは、「野党一本化、15選挙区…32の1人区 本紙調査」というもの。これが、全国の最新情勢と見てよいだろう。
「夏の参院選に向け、全国で32の「1人区」(改選数1)のうち15選挙区で民進党と共産党を中心にした野党の候補者一本化が確実になったことが分かった。両党による協議が進んでいる選挙区も10あり、「統一候補」はさらに増える可能性が高い。参院選では1人区の勝敗が選挙戦全体の結果を左右する傾向が強く、2013年の前回参院選で『自民党一強』を選んだ民意が変わるかどうかが注目される。」
毎日は、32の「1人区」を野党の選挙協力成否に関して3分している。
合意成立 15区
青森・宮城・山形・栃木・新潟・福井・山梨・長野・「鳥取島根」・山口・「徳島高知」・長崎・熊本・宮崎・沖縄
協議中 10区
岩手・秋田・福島・富山・三重・滋賀・和歌山・岡山・佐賀・大分
難航 7区
群馬・石川・岐阜・奈良・香川・愛媛・鹿児島
これはまずまずの朗報ではないか。昨年(2015年)の戦争法反対運動の中での市民のコール「野党は共闘」が、このような形で実を結びつつあるのだ。
毎日は次のようにもいう。
「13年参院選の1人区(当時は31選挙区)で29勝2敗と圧勝した自民党は、野党の動きに警戒を強めている。」
「単純には比較できないが、13年参院選の結果を基に試算すると、15選挙区のうち宮城、山形、栃木、新潟、山梨、長野の6選挙区で野党の合計得票数が自民党を上回る。」
なお、逆転は「協議中」の三重を入れれば7選挙区となる。他の選挙区も、共闘の相乗作用で勝機が出てこよう。参院一人区は小選挙区制なのだから、野党の選挙協力なき限り、与党圧勝となるのだ。明文改憲が日程に上る情勢では、野党は選挙協力をするしかなく、反自民で野党の選挙協力ができれば、小選挙区効果で底上げの議席に胡座をかいている与党に大きな打撃を与えうることになる。
アベノミクスの失敗による地方の疲弊。TPPのウソ。原発再稼働の強行。平和や民主主義の危機…。安倍政権に魅力的な政策はないでないか。共闘の成果は、大きく情勢を変えるものとなるだろう。
選挙協力しても野党に失うものはないように見えるところだが、合意成立難航の理由については、このように説明されている。
「逆に協議が難航しているのは7選挙区。民進党や連合の県組織に共産党へのアレルギーが強いのが主な原因だ。奈良では民進、共産両党が協力を探っているものの、おおさか維新の会が候補者を擁立するため、野党票が分散する。一方、愛媛では今後、民進党の元衆院議員擁立で野党がまとまる余地がある。」
市民が共闘を願っているこのときに、野党各党の改憲阻止本気度が問われている。共産党アレルギーが共闘の障害とは情けない。おそらくは、市民からの手痛い批判を免れないだろう。全国的に、野党の選挙共闘が進展すれば、「難航7区」の情勢も変化せざるを得ない。
本日(4月5日)になって、「難航7区」のうちの愛媛選挙区での野党統一候補擁立が報道されている。また、「協議中10区」のうちの富山でも、「今月中旬にも野党統一候補擁立へ」の報道がなされている。地元テレビが報じるその共闘協議のあり方が、たいへんに興味深い。
候補者調整の主役は、「アベ政治を許さない!戦争法反対!野党共闘を求める オールとやま市民会議」である。「オールとやま」が、民・共・社・生の4党に呼びかけて、協議を重ね、本日(4月5日)時点で、民・共ともに独自候補擁立を断念し、4党が「オールとやま」推薦の「政党色のない清新な統一候補」擁立に原則合意したというのだ。富山から目が離せない。毎日が報じた「最新情勢」も急速に動きつつあるのだ。
野党共闘の動きに与党は戦々恐々というところ。「ばらばらだったものがまとまった時に野党票が大きく上向く可能性はあり、脅威だ」というのが、ホンネのところ。タテマエとしては、「何のために野党共闘を作り上げるかの大義名分も不鮮明だ。国民の信頼は向かない」という野合論が語られている。
野党内の政策の違いは当然だ。当選した統一候補が、議会の審議において、民・共どちらの立場に立つか、難しい局面におかれることも当然にあるだろう。それでも、その程度のことを小異として共闘しているのは、もっと大きな大義があるからなのだ。その大義とは、「アベ政治を許さない!戦争法反対!」そして「憲法改悪阻止」である。
解釈改憲による戦争法に反対。その廃止法成立を求める立場においての共闘が必要であり、明文改憲阻止がその次の問題点。その理念で議員としての活動があれば、あとは各議員の判断に任せればよいことではないか。敏感に世論に耳を傾け、自分の判断で発言し行動する議員が増えることは大歓迎だ。
私はひそかに思っている。こうなるのではないか。
各地での選挙協力協議の推進⇒各地での選挙準備活動の活発化⇒各地相互の波及効果⇒全国での選挙協力合意促進⇒議会内での野党活動原則の確認⇒議会外での市民運動の活発化⇒各野党の党勢拡大⇒参院選勝利⇒総選挙への波及⇒改憲阻止⇒安倍退陣⇒日本の民主主義と立憲主義の前進
これこそ「好循環」ではないか。
(2016年4月5日)
北海道5区の衆議院補欠選挙の日程が間近だ。4月12日告示24日投開票。この選挙の意味が大きい。参院選の前哨戦でもあり、野党共闘成功の試金石でもある。この選挙結果が衆参同時選挙の有無を決めることになるかも知れない。今後の情勢を大きく変えうる選挙として注目せざるを得ない。
北海道5区とは、札幌市厚別区、江別市、千歳市、恵庭市、北広島市、石狩市、当別町、新篠津村の地域。有権者455,720人。
補欠選挙は、町村信孝前衆院議長の死去に伴うもの。自民党は亡町村信孝の次女の夫を立てての「弔い合戦」。これに対抗して「安全保障関連法廃止を目指す野党統一候補」となっているのが、無所属新人池田まき(43歳)。どのメディアも、「池田まき急追」「大接戦」の報。当然のことながら知名度はイマイチだが、清新さでは断然リード。
下記URLが、池田まき公式WEBサイト。政治家らしくなく、候補者らしくない、同候補の好感度は抜群と言ってよい。
http://ikemaki.jp/
「ずっと平和を。もっと安心を。北海道5区から日本を変えよう」
これが、同候補のメイン・スローガン。
そして、同候補の最大の強みは、福祉の現場で働いてきたこと。多くの人の生活苦や不幸と直接に接してきたことである。
同サイトでは、こんな挨拶文を読むことができる。
「飢餓、貧困、格差、紛争、難民、テロ。
立憲主義、民主主義の危機。
世界の、そして日本の大きな課題です。
強い者による強い者たちのための政治が、
こうした問題を深刻化させています。
権力の暴走を止めなければなりません。
声なき声をもよく聞き、政治に反映させなくてはいけません。
『誰一人、置いてきぼりにしない』
『誰もが安心して暮らせる社会をつくる』
私、池田まきはそれをモットーに、福祉の現場で、
既成概念にとらわれず、行動を起こしてきました。
さらに、環境、経済、政治など広い分野で
社会的な危機の解決に取り組んでいくために。
ここ北海道から、より良い日本をつくりたい。
池田まきは、皆さんと共に、
平和、いのち、暮らしを守る戦いに挑みます。」
『誰一人、置いてきぼりにしない』は、手垢の付いた政治家には言えないセリフ。「安保関連法案に反対するママの会」の名言、「だれのこどもも、ころさせない」を連想させる。野党共闘候補としてまことにふさわしいものではないか。
北海道新聞が同候補の人となりを詳報している。
「池田氏 虐待、夫蒸発…壮絶な半生あえて語る」という見出し。およそ、二世候補などとはまったく違う生い立ち。政治家になるべく育ったのではない。恵まれない家庭に生まれ、社会に翻弄された「普通の生活者」が政治の世界に跳び込もうというのだ。
「子供時代は平和な家庭でなかった。今でいうDV(ドメスティックバイオレンス)。社会は助けてくれず、いつも空を見ていた。」
「幼いころから、父親によるDVは日常茶飯事。母親、妹とともに、暴力を受け続けた。中学時代には父親から避難するため、4人家族がバラバラになった。18歳で結婚した。2人の子どもに恵まれ、やっとつかんだ幸せも、わずか2年で夫が借金で蒸発。シングルマザーとして生活保護を受けながら介護ヘルパーなどの資格を取得し、東京都板橋区職員に採用された。」
「安全保障関連法廃止を目指す野党統一候補として脚光を浴びるが、政治家を志した原点は福祉だ。生きづらさをばねにはい上がり、当事者目線で福祉の仕事をしてきた自負がある。」
こんな候補者なら、応援したくなるではないか。
2014年12月の前回(第47回総選挙)北海道第5区の選挙結果は、以下のとおりだった。なお、投票率は58.43%。
当 町村信孝 70 自民(公明推薦) 前 131,394票 50.9%
勝部賢志 55 民主党 新 94,975票 36.8%
鈴木龍次 54 日本共産党 新 31,523票 12.2%
単純な票数合計なら、「自・公」対「民・共」は自公若干有利ながらもほぼ互角。但し、今回の自民公認(公明推薦)候補は、町村後継の強み。「弔い合戦」の有利もある。これに対して、反安倍統一候補は、選挙協力の相乗効果を生かせるかどうかがカギ。
相乗効果ならぬ「相殺効果」が生じることもある。民共各支持者の意見が余りに違い、各党の公認候補なら投票するが、共闘候補では投票の意欲が湧かないという場合だ。あるいは、共闘を至上目的として候補者を選任した結果、結局魅力ある共闘の候補者を得られなかった場合など。そんな場合は、共闘候補の得票数は、民・共それぞれ単独立候補の場合の想定得票数に及ばぬことになる。
しかし、今回の場合その心配はなさそうだ。何よりも、共闘の大義がある。非立憲安倍政治の暴走を許すなという広範な市民層に後押しされての共闘である。大きな相乗効果が期待できるのではないか。
前回選挙で、日本共産党候補に投票した3万人余の多くは、死票になることを覚悟で同党への支援アピールの投票であったろう。反自民候補当選の可能性が低いことから、投票の意欲を失った有権者もすくなくなかったのではないか。これらの有権者が今度は、共闘候補に投票するだろう。何しろ、民共の統一候補ならば、現実に当選の可能性が出て来る。この可能性は選挙活動のモチベーションを上げることになるだろう。
私はひそかに思っている。
北海道5区選挙共闘成功⇒緒戦の勝利⇒参院選野党選挙共闘の進展⇒参院選での野党共闘勢力の勝利⇒衆院小選挙区での選挙共闘の進展⇒総選挙での野党共闘の勝利⇒自民改憲断念⇒安倍退陣
これを、「好循環」という。アベノミクスへの期待が蜃気楼として消えつつある今、このような好循環はけっして夢でも幻でもないと思うのだが。
(2016年4月4日)
米軍による目取真俊の「身柄拘束」と引き続く海保による逮捕。辺野古基地建設反対運動への弾圧として憤っていたが、比較的早期の釈放となったことにまずは胸をなで下ろしている。
海保は、逮捕後すみやかに送検したようだ。送検を受けた検察の持ち時間は24時間。この間に、裁判所に勾留を請求するか釈放しなければならない。結局検察官の判断によって、勾留請求なく身柄の釈放に至った。
もっとも、不起訴処分となったわけではない。刑特法2条を被疑罪名とする嫌疑については処分保留のままで、法的には捜査が継続することになる。早期不起訴を求める世論形成が必要な事態なのだ。
4月2日の東京新聞が、一面と社会面に取り上げ、「芥川賞作家を海保逮捕」「米軍拘束」「辺野古制限区域 海上抗議で初」「『刑事事件化は異常』」という見出しで記事を掲載した。目取真の写真だけでなく、「仲間を返せ、と抗議の声を上げる」現場の写真も付けてのことである。この扱いが事件の大きさを正当に反映したものだろう。毎日も、社会面で記事にし、浅田次郎と又吉栄喜の目取真に寄り添ったコメントを掲載した。
ところが、朝日の扱いがあまりに小さいことに驚き、赤旗には掲載がなかったことに焦慮を憶えた。その上で、ネットで検索した限りで不当逮捕への抗議行動の規模が予想ほどのものでなかったのかと早とちりをしてしまった。今日(4月3日)の赤旗で、共産党の赤嶺政賢も抗議行動に駆けつけたことを知った。社民党の照屋寛徳も、そして沖縄平和運動センターの大城悟事務局長も海保(11管)現場での抗議行動に参加して、「オール沖縄、オール日本の取り組みで基地建設を止めていこう」と訴えていたことを確認して安心した。
私の早とちりは、目取真が「危険な匂い」のする作家であることからきている。もしかしたら、オール沖縄の運動体の一部に、この危険な匂いを敬遠する思いがありはしないかという危惧があった。
けっして熟した表現ではないが、「不敬文学」というジャンルの提唱がある。不敬とは、かつて日本の刑法に存在していた「不敬罪」の、あの不敬である。大日本帝国は支配階級の調法な統治のツールとして天皇制を拵え上げた。人民支配の道具としての天皇制は、一面精神的な支配として「一億の汝臣民」をマインドコントロールするものであったが、これにとどまらない。マインドコントロールの利かない者を暴力で押さえ込んだ。その野蛮な暴力の法的根拠の最たるものが不敬罪である。
敗戦後制度としての不敬罪はなくなった。しかし、「不敬」は死語になることなく、いまだに隠微に生き続けている。天皇や皇族への批判の言論は不敬としてタブーとなっているのだ。世渡り上手はタブーと上手に付き合うことになる。売れっ子作家がタブーに触れることはない。天皇や皇族を語るときには、世の良識にしたがって、当たり障りのないことを述べて済ますのだ。そのことがタブーを再生産することになる。
しかし、作家とは本来危険な存在である。必要あれば、タブーに切り込むことを敢えて厭わない非妥協性をもたねばホンモノではない。「不敬文学」とはそのようなホンモノに対する敬意を込めた造語にほかならない。
沖縄の歴史を紐解くときに、天皇や天皇制との対峙なくして語ることはできない。もちろん日本全国においても同様というべきではあるが、沖縄は間違いなく格別である。沖縄の民衆の意識の深層を掘り起こすときには、天皇タブーに触れることが避けられない。このとき、タブーを意識して心ならずも妥協するか、敢然とタブーに切り込むか、表現者としてのホンモノ度が問われる。
目取真は間違いなく、非妥協派の一人である。昨日(4月2日)の毎日が解説記事の中で代表作の一つとして挙げた「平和通りと名付けられた街を歩いて」がその典型とされている。皇太子(現天皇)夫妻の2度目の沖縄訪問を舞台として、この二人に沖縄戦の記憶を深層に宿している沖縄の民衆を対峙させ、皇室の聖性や虚飾を剥ぎ取ろうとするタブーへの挑戦は、目取真の真骨頂と言えよう。
もちろん、ブログを見れば分かるとおり、目取真の運動に関する発信は極めて真っ当であって物議を醸す要素はまったくない。しかし、「オール沖縄」とは当然に保守層をも含んでいる。革新層にも、統一のために保守層への配慮を過度に重視する傾向もあるのではないか。目取真の位置を私ははかりかねていた。もしかしたら、いざという局面では、「オール沖縄」の目取真に対する視線は冷たくなるのではないか。
私の危惧は杞憂に過ぎなかった。「オール沖縄」は目取真の強靱な精神をしっかりと抱え、支えている。この広さと深さこそが、強さの根源であろう。あらためてオール沖縄の団結のあり方に敬意を表したい。
(2016年4月3日)
昨日(4月1日)、辺野古基地建設反対行動中の作家目取真俊が、辺野古で米軍に身柄を拘束され、その後海保に身柄を引き渡されて緊急逮捕された。
共同通信の報じるところでは、「那覇地検は2日、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の名護市辺野古移設への抗議活動中、辺野古沿岸部にある米軍キャンプ・シュワブ周辺の立ち入り禁止区域に許可なく入ったとして逮捕された沖縄県在住の芥川賞作家目取真俊氏(55)を釈放した。」 という。身柄の拘束が1日の午前9時過ぎ。釈放は翌2日(本日)の夕刻7時ころのようだ。
緊迫した辺野古新基地建設問題に大きな一石を投ずる事件である。問題は、いくつもある。
何よりも、逮捕の理由とされた被疑事実が大きな問題である。沖縄タイムス(電子版)の報道は以下のとおりである。
「第11管区海上保安本部は1日、名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブ周辺の米軍提供水域内に許可なく入ったとして、日米地位協定に伴う刑事特別法違反の疑いで、芥川賞作家の目取真俊さん(55)を緊急逮捕した。目取真さんは仲間数人とカヌーに乗り、新基地建設に対する抗議活動をしている際に米軍に拘束されたという。」
「11管によると、逮捕した男は1日午前9時20分ごろ、海上の立ち入り制限を示すフロート(浮具)を越え、辺野古崎付近に許可なく立ち入った疑いがある。」
被疑罪名は、日米地位協定に伴う刑事特別法第2条違反である。「正当な理由がないのに、合衆国軍隊が使用する施設又は区域(「基地」)であつて入ることを禁じた場所に入り、又は要求を受けてその場所から退去しない」ことが構成要件である。住居侵入でもなければ、威力業務妨害でもない、刑特法違反。砂川事件と同じ被疑罪名。万が一起訴されるようなことになれば、1959年の砂川最高裁判決の妥当性を問い直す大事件となる。
海保が言う、「米軍キャンプ・シュワブ周辺の米軍提供水域内」という表現はよく分からない。侵入したとされた場所は公有水面たる海面であって陸地ではない。海上に米軍がフロート(連結された浮具)さえ敷設すれば、刑特法2条にいう「入ることを禁じた場所」に当たるというのだろうか。
手続的にも大きな問題がある。琉球新報(電子版)の報道は以下のとおり。
「目取真さんと共に行動していた市民によると、目取真さんは午前9時20分ごろ、米軍キャンプ・シュワブ沿岸の海岸付近で新基地建設に抗議していた際に米軍警備員に身柄を拘束された。午後5時22分に、米軍側から身柄引き渡しを受けた中城海上保安部が、刑特法違反の容疑で緊急逮捕した。」
目取真俊を拘束したという「米軍警備員二人」とは何だろうか。どの報道も「拘束」と表現を揃えている。「警備員による拘束」である。米軍が目取真を「(警察権の行使としての)逮捕」したというのではない。では、身柄拘束の手続的根拠はなんだろうか。私人としての現行犯逮捕だったと考えざるをえない。
その根拠条文は、刑訴法213条「現行犯人は、何人でも、逮捕状なくしてこれを逮捕することができる」というもの。だが、同法214条は、「(私人が)現行犯人を逮捕したときは、直ちにこれを検察官又は司法警察職員に引き渡さなければならない」と定めている。「直ちに」である。「午前9時20分逮捕・午後5時22分引渡」は、いくらなんでも遅すぎる。米軍警備員の目取真に対する監禁罪成立の余地がある。
政治的な影響を考えてみたい。
「抗議行動に伴い、これまでにもカヌーによる抗議が行われていたが、市民が同容疑で逮捕されたのは初めて。米軍側が拘束してから引き渡すまで、目取真さんは約8時間基地内に拘束されていた。池宮城紀夫弁護士は『不当な拘束だ』と指摘している。」「目取真さんはほかの4人と共に抗議を展開。浅瀬でカヌーを浮具(フロート)の内側に入れようとしたメンバーの1人を、陸上から駆け付けた米軍警備員が拘束しようとした。そばにいた目取真さんが拘束を止めようとした際、警備員2人に体をつかまれ陸地側に引きずられていったという。」などと報道されている。
沖縄防衛局は、訴訟での和解後に、埋立作業を中止し事態を静観していた。県警も海保も、カヌー隊の行動を逮捕までしなければならないものとは思っていなかった。しかし、米軍だけが基地建設反対の運動に神経を尖らせていたということなのだ。米軍の不快感の表明に対応を躊躇した県警・海保の消極姿勢が、身柄の引き受けまで8時間も要したことになったのではないか。米軍側の積極的姿勢を警戒しなければならなし、もっと大きな抗議が必要ではないか。
「米軍が目取真を拘束」「海保が逮捕に踏み切った」とは、大きな事件ではないか。辺野古基地反対運動への弾圧ととらえて、直ちにオール沖縄で抗議の嵐が巻き起こってしかるべきではないのか。当然のことながら、運動に携わる者には、互いに「運動参加者への弾圧は許さない」という連帯の姿勢が必要なのだ。
目取真俊は、ブログ「海鳴りの島からー沖縄・ヤンバルより」を連載している。
http://blog.goo.ne.jp/awamori777
沖縄に生を受け、沖縄に住み続ける者として、沖縄の現状に真正面から対決している覚悟が見える。
3月30日(逮捕2日前)の記事の中に次の一文が見える。
「30日はカヌー5艇で松田ぬ浜を出発した。国と沖縄県の間で和解が成立し、埋め立て工事が中断している中で、多くの人が海上行動に集まるのは難しい。それでも、現場の状況を常に確認し、把握しておく必要がある。一見何もないかのように見えるこういう期間に、日々の行動を積み重ねていくことが大切なのだ。」
これが、カヌー隊の行動であった。
また、次の記載もある。
「この日はカヌーが海に出る前に米軍がゴムボートを3隻出し訓練していた。カヌーを浜に出して準備していると、米軍のゴムボートはいったん浜に上がり、カヌーが通過するまで待機していた。」
この「訓練中の米軍」が目取真を襲ったのだ。
3月31日(逮捕前日)の記事は以下のとおり。
「31日は所用のためカヌーの活動は休み、午後から高江のN1ゲート前で開かれた集会に参加した。…集会のあと新緑を眺めた。辺野古の海の青と高江の森の緑。どれも心が洗われる。人の手では作り出せない自然の美しさと豊かさを実感する。こういうヤンバルの自然が軍事基地建設のために破壊される。考えただけで怒りが湧くが、実際に阻止するためには現場で体を張らなければならない。やりたいこともできず、自分の時間が失われるが、誰かがやらなければならない。」
真摯な責任感をもつ者の言ではないか。このような姿勢で運動の第一線に立つ目取真に敬意を表するとともに、米軍と海保一体となった弾圧に抗議して、目取真を激励したいと思う。
今回の顛末を彼は書物に書き残すことになるだろう。毎日新聞に浅田次郎がコメントを寄せたとおり、多くの人が怒りのエネルギーに満ちたその書を読むことになるだろう。無論、私も読みたいと思う。そして、米軍や海保に、身柄の拘束は逆効果だったと思わせたい。
(2016年4月2日)
【ワシントン発USO】訪米中の安倍晋三首相は本日(4月1日)、ワシントンでオバマ米大統領と会談した。会談は2度行われ、2度目の会談は秘密会談として行われた。
秘密会談では、冒頭オバマ氏が安倍氏に対して、沖縄県宜野湾市の米軍普天間飛行場の移設を巡る訴訟で、日本政府と沖縄県が和解して移設工事が中断していることを重大な問題として指摘し、「移設計画が大幅に遅れることが必至ではないか。このことは日米間の信頼関係に重大な影響を及ぼすことになる」と叱責した。
これに対して、安倍首相は「普天間基地の名護市辺野古への移設は沖縄県民の強硬な反対世論によって、これを強行することは到底不可能な事態に立ち至っている。辺野古基地新設工事は、現在中断しているにとどまらない、実は断念せざるをえない」ことを説明し、アメリカ側の理解を求めた。
オバマ氏は大いに驚き、「辺野古への移設が不可能であれば、世界一危険な飛行場と言われる普天間は、いつまでも現状維持となることを沖縄県民は覚悟しなければならない」と述べたが、ここで安倍氏のさらに驚くべき発言が続いた。
「普天間を現状のまま放置する選択肢はあり得ません。もし、そんなことを私の口から言えば、沖縄県民の反米・反政府感情が沸騰するというだけではなく、安倍内閣が崩壊を免れません。県内移設は断念というだけでなく、普天間基地の維持も諦めざるを得ないのです。是非とも、このことをご了解ください。」「軍事専門家も、今や必ずしも沖縄に海兵隊基地を維持する必要はないと言っていることもあり、この際に辺野古移設を断念するだけでなく、普天間基地の全面撤去もやむを得ないと判断した次第です。」
さらに、安倍氏はこうも続けた。「今、辺野古移設を強行した場合には、安倍政権が7月の国政選挙で勝てないというだけでなく、反米的な政権に取って代わられる危険さえあります。日本には『急がば回れ』ということわざがあります。あるいは、『損して得取れ』『小の虫を殺して大の虫を活かせ』などとも言います。小の虫に過ぎない沖縄の海兵隊基地維持はすっぱりと諦めて、親米安倍政権の存続という『大の虫』を生かしていただくよう伏してお願い申しあげます。」
オバマ氏は、苦虫を噛み潰したような表情でしばらく沈黙したあとに、このように発言した。「私は、レームダック状態にありながらも、キューバと国交を回復することで、多少は後世に名の残る仕事をした。辺野古移設の断念と、移転先なしの普天間基地撤去によって懸案の抜本解決ができるのであれば真剣に考えてみよう」
さらに、もう一つの議題である環太平洋パートナーシップ協定(TPP)についてオバマ氏は、「公開の会談では、『これが最優先の議会(承認)案件だ』としたが、実は議会の承認は無理な情勢だ。また、次の大統領に誰が就任するにせよ。今の大統領選での論戦をみていれば、新大統領がTPP推進の立場に立つとは到底考えられない。」と述べて、一転して悲観的な状勢認識を吐露した。
これに対して、安倍氏も「実は、TPPは我が国でもすこぶる評判が悪い。我が国でも、TPPの承認を強行すれば、政権がもたないと心配せざるを得ないのです。」「加えて、TPP担当大臣が、あっせん利得処罰法違反を指摘されて立件されかねない立場にあり、後任大臣が無能で知られた人物となったのです。」「そんなわけで、TPPも強行すれば安倍政権の命取りとなりかねないのです。」と応じ、両首脳は、表面上はともかく真意のところではTPP承認の推進を見送る方向で一致した。
さらに、安倍首相から、オバマ氏に対して、2点の要請があった。
ひとつは、5月に開かれる主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)において、伊勢神宮を公式行事の場として使用することは日本国憲法の政教分離原則に抵触することになるので、伊勢神宮との公的な接触は厳に避けていただきたいとの要請があり、オバマ氏はこれを了解した。
また、公開の会談においてオバマ氏が「自分が大統領として日本を訪問するこの最後の機会に、日米関係をさらに良くする努力をしたい」と述べたことに関連して、安倍氏はこう提案した。
「そのようなご努力の一環として、是非とも、広島の原爆資料館だけでなく、東京夢の島の第五福竜丸展示館を訪問の上、日本人の核なき世界への強い願いをご理解いただきたい」。この唐突な提案に対してオバマ氏は、極めて意外なことを聞かされたとの様子をみせながらも、大いに喜んで「せっかくのお申し出を実現する方向で検討させていただきたい」と応じた。
会談はこの間1時間近くに及び、前半は不穏な雰囲気であつたが、最後は両者笑みをかわして面談を終えた。
なお、最後に、オバマ氏からこの秘密会談の内容については議事録を作成しないこと、秘密は厳格に守るべきことの確認を求め、安倍氏はこれに応じた。したがって、以上の内容が公表されることはない。
(2016年4月1日)
2013年4月1日から毎日連続更新を続けてきた当ブログは、本日で丸3年となった。この間、36か月。1096日(365日+365日+366日)である。1日1記事を書き続けて、本日が連続1096回目、明日のブログから4年目にはいる。
「三日坊主」という揶揄の言葉はあるが、「三年坊主」とは言わない。むしろ、「石の上にも三年」というではないか。その三年間の途切れない継続にいささかの達成感がある。とはいうものの、このブログを書き始めた動機からは甚だ不満足な現下の政治状況と言わざるを得ない。
今次のブログ連載は2013年1月1日から書き始めた。正確には、日民協ホームページの一隅を借りて以前にも連載していた「憲法日記」の再開であった。第2次安倍政権の発足に危機感を持ったことがきっかけ。安倍流の改憲策動に抵抗する一石を投じたいとのことが動機である。案の定、この政権は「壊憲」に余念なく、危険きわまりない。しかも、日本全体の右傾化によって発足したこの政権は、この3年余で、保守陣営全体を極右化しつつある。
当ブログ再開当時「当たり障りのあることを書く」と宣言しての気負いから、直ぐさま間借り生活の窮屈を感じることとなった。そのため、自前のブログを開設して引っ越し、連続記録のカウントを始めたのがその年の4月1日。以来、あちこちに問題を起こしつつの「憲法日記」の連続更新である。
安倍内閣がまだ続いていることに焦慮の思いは強いが、他方この間のブログの威力とさらなる可能性を実感してもいる。「保育園落ちた。日本死ね」の1本のブログが、政治を動かしている現実を目の当たりにしたばかりでもある。以前、当ブログでは「ブロガー団結宣言」を掲載したが、あらためて、その修正版として「リベラル・ブロガー団結宣言」を再掲載したい。
「すべてのリベラル・ブロガーは、事実に関する情報の発信ならびに各自の思想・信条・意見・論評・パロディの表明に関して、権力や社会的圧力によって制約されることのない、憲法に由来する表現の自由を有する。
リベラル・ブロガーは、市井の個人の名誉やプラバシーには最善の配慮を惜しまない。しかし、権力や経済的強者あるいは社会的権威に対する批判においていささかも躊躇することはない。政治的・経済的な強者、社会的な地位を有する者、文化的に権威あるとされている者は、リベラル・ブロガーからの批判を甘受しなければならない。
無数のリベラル・ブロガーの表現の自由が完全に実現するそのときにこそ、民主主義革命は成就する。万国のリベラル・ブロガー万歳。万国のリベラル・ブロガー団結せよ。」
現代的な言論の自由を語るとき、ブロガーの表現の自由を避けては通れない。憲法21条は、「言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と定める。日本国憲法に限らず、いかなる近代憲法も、その人権カタログの中心に「表現の自由」が位置を占めている。「表現の自由」の如何が、その社会の人権と民主主義の到達度を示している。文明度のバロメータと言っても過言でない。
しかし、人がその思想を表明するための表現手段は、けっして万人のものではない。この表現手段所有の偏在が、個人の表現の自由を空論としている現実がある。「言論、出版その他一切の表現の自由」における、新聞や出版あるいは放送を典型とする言論の自由の具体的な担い手はマスメディアである。企業であり法人なのだ。基本的人権の主体は本来個人であるはずだが、こと表現の自由に限っては、事実上国民は表現の受け手としての地位にとどめられている。メディアの自由の反射的利益というべき「知る権利」を持つとされるにすぎない。
そもそも、本来の表現の自由は個人のものであったはず。その個人には、せいぜいがメディアを選択する自由の保障がある程度。いや、NHKの受信にいたっては、受信料支払いを強制されてなお、政権御用のアベチャンネルを押しつけられるありさまではないか。
その事情を大きく変革する可能性がネットの世界に開けている。IT技術の革新により、ブログやSNSというツールの入手が万人に可能となって、ようやく主権者一人ひとりが、個人として実質的に表現の自由の主体となろうとしている。憲法21条を真に個人の人権と構想することが可能となってきた。まことにブログこそは貧者の武器というにふさわしい。個人の手で毎日数千通のビラを作ることは困難だ。これを発送すること、街頭でビラ撒きすることなどは不可能というべきだろう。ブログだから意見を言える。多数の人に情報を伝えることが可能となる。ブログこそは、経済力のない国民に表現の自由の主体性を獲得せしめる貴重なツールである。ブログあればこそ、個人が大組織と対等の言論戦が可能となる。弱者の泣き寝入りを防止し、事実と倫理と論理における正当性に、適切な社会的評価を獲得せしめる。ブログ万歳である。
この「個人が権利主体となった表現の自由」を、今はまだまだ小さな存在ではあるが大きな可能性を秘めたものとして大切にしたい。反憲法的ネトウヨ言論の氾濫や、匿名に隠れたヘイトスピーチの跋扈の舞台とせず、豊穣なリベラル言論の交換の場としたい。この新しいツールに支えられた表現の自由を手放してはならない。
ところが、この貴重な表現手段を不愉快として、芽のうちに摘もうという動きがある。その典型例がDHCスラップ訴訟である。経済的な強者が、自己への批判のブログに目を光らせて、批判のリベラル・ブロガーを狙って、高額損害賠償請求の濫訴を提起している現実がある。もちろん、被告として標的にされた者以外に対しても萎縮効果が計算されている。
だから、全国のリベラル・ブロガーに呼び掛けたい。他人事と見過ごさないで、リベラル・ブロガーの表現の自由を確立するために、あなたのブログでも、呼応して声を上げていただきたい。さらに、全ての表現者に訴えたい。表現の自由の敵対者であるDHCと吉田嘉明に手痛い反撃が必要であることを。スラップ訴訟は、明日には、あなたの身にも起こりうるのだから。
(2016年3月31日・「憲法日記」連続3年更新の日に)
「季刊フラタニティ(友愛)」(発行ロゴス)の宣伝チラシの惹句を起案した。6人が分担して、私の字数は170字。最終的には、下記のものとなった。
経済活動の「自由」が資本主義の本質的要請。しかし、自由な競争は必然的に不平等を生み出す。「平等」は、格差や貧困を修正して資本主義的自由の補完物として作用する。「フラタニティ」は違う。資本主義的な競争原理そのものに対抗する理念ととらえるべきではないか。搾取や収奪を規制する原理ともなり得る。いま、そのような旗が必要なのだと思う。
いかにも舌足らずの170字。もう少し、敷衍しておきたい。
典型的な市民革命を経たフランス社会の理念が、『リベルテ、エガリテ、フラテルニテ』であり、これを三色旗の各色がシンボライズしていると教えられた。日本語訳としては、「自由・平等・博愛」と馴染んできたが、今「フラテルニテ」は、博愛より友愛と訳すのが正確と言われているようだ。この雑誌の題名「フラタニティ」は、その英語である。
「自由・平等」ではなく、「友愛」をもって誌名とした理由については、各自それぞれの思いがある。市民革命後の理念とすれば、「民主」も「平和」も「福祉」も、「共和」も「共産」も「協働」もあるだろう。「共生」や「立憲主義」や「ユマニテ」だってあるだろう。が、敢えて「フラタニティ(友愛)」なのである。
自由と平等との関係をどう考えるべきか、実はなかなかに難しい。「フラタニティ」の内実と、自由・平等との関係となればさらに難解。されど、「フラタニティ」が漠然たるものにせよ共通の理解があって、魅力ある言葉になっていることは間違いのないところ。
「フラタニティ」は、この社会の根底にある人と人との矛盾や背離の関係の対語としてある。競争ではなく協同を、排斥ではなく共生の関係を願う人間性の基底にあるものではないか。多くの人が忘れ去り、今や追憶と憧憬のかなたに押しやられたもの。
市民革命とは、ブルジョワの革命として、所有権の絶対と経済活動の自由を最も神聖な理念とした。市民革命をなし遂げた社会の「自由」とは、何よりも経済活動の「自由」である。その後一貫して、経済活動の「自由」は資本主義社会の本質的要請となった。経済活動の自由とは、競争の自由にほかならず、競争は勝者と敗者を分け、必然的に不平等を生み出した。そもそも持てる者と持たざる者の不平等なくして資本主義は成立し得ない。
したがって、資本主義社会とは、不平等を必然化する社会である。本来的に自由を重んじて、不平等を容認する社会と言ってもよい。スローガンとしての「平等」は、機会の平等に過ぎず、結果としての平等を意味しない。しかし、自由競争の結果がもたらす格差や貧困を修正して、社会の矛盾が暴発に至らないように宥和する資本主義の補完物として作用する。一方、「フラタニティ」は、資本主義的自由がもたらした結果としての矛盾に対応するものではなく、資本主義的な競争原理そのものに対抗する理念ととらえるべきではないだろうか。
人が人を搾取する関係、人が人と競争して優勝劣敗が生じる関係、そのような矛盾に対するアンチテーゼとしての、人間関係の基本原理と考えるべきではないだろうか。いま、貧困や格差が拡がる時代に、貧困・格差を生み出す「自由」に対抗する理念となる「旗」が必要なのだと思う。
なお、「博愛」か「友愛」か。
「愛」は、グループの内と外とを分けて成立する。外との対抗関係が強ければ強いほど、内なる「愛」もボルテージの高いものとなる。社会的には許されぬふたりの仲ほどに強い愛はない。家族愛も、郷土愛も、民族愛も、愛国心も、排外主義と裏腹である。外に向けた敵愾心の強さと内向きの愛とは、常に釣り合っている。
「友愛」は、「仲間と認めた者の間の愛情」というニュアンスが感じられる。最も広範な対象に対する人類愛は「博愛」というに相応しい。もっとも、「博愛」には慈善的な施しのイメージがつきまとう一面がある。ならば「友愛」でもよいか。訳語に面倒がつきまとうから、「フラタニティ」でよいだろう。
(2016年3月30日)
本日、天気晴朗なれども、空気が重い。
2016年3月29日零時。戦争法が施行となった。その第一日目の今日、昨日とは違う日本である。これまでは、「専守防衛の立場からの個別的自衛権発動は例外としても」、戦争を政策の選択肢に入れてはならないとする日本であった。今日からは、政権による「存立危機事態」の判断さえあれば、世界中のどこででも戦争を行うことができることになったのだ。駆けつけ警護も、他国軍への武器運搬等の支援もできることになった。日本に敵対をしていない第三国への開戦は、当然のことながら、当該国からの反撃を覚悟の上でのことになる。その場合、日本国内のどこもが標的目標となる。
この戦争法は明らかに平和憲法に違反している。しかし、最高裁がこれを違憲と判断しうるだろうか。心もとないといわざるを得ない。よもや合憲と宣言することはありえないが、敢えて判断を避けることになる公算が高い。もっともらしい理由を付けながらも責任を放棄して判断を回避する、結局は逃げるのだ。
できることなら、違憲の法律を国民の意思の表明として廃止したい。国会は唯一の立法機関だが、「立法」とは、法律の制定だけでなく、改正も廃止も含むことになる。国民世論が選挙結果に結実して、「戦争法違憲派」が国会の過半数を制すれば、戦争法の廃止が可能となる。来たるべき参院選をそのような選挙にしなければならないと思う。
その戦争法施行第一日目に、文京区革新懇が中心となって企画した浜矩子講演会があった。演題が、「グローバル時代の救世主、それが日本国憲法」というもの。
冒頭に、日本国憲法前文の「諸国民との協和による成果を確保し」というフレーズを引用して、「これこそ、21世紀のグローバル時代を見通した」名言であって、今や「誰もが世界とつながり、だれもがひとりでは生きてゆけない時代となっている」ことが強調された。
安倍首相が唱える「戦後レジームからの脱却」「日本を取り戻す」のスローガンは、「大日本帝国」時代への復古にほかならない。当時の経済政策は強兵のための富国であり、植民地侵略の経済戦略としての大東亜共栄圏構想であって、グローバル時代のものではあり得ない。
昨年4月、安倍首相は笹川平和財団アメリカ支部での講演で「アベノミクスと私の外交政策は表裏一体」と語っている。経済政策の目的を外交安全保障と一体と位置づけることの危険は国際的に確認されていること。本来の経済政策の目的とは、経済の均衡が破綻したときの回復と、経済的弱者救済の二つに限定されなければならない。経済の均衡破綻とは、極端なデフレとハイパーインフレを典型とし、これによって傷つくのはまさしく弱者だ。アベノミクスは、弱者の救済ではなく、「富国強兵」を目的とするものなのだ。
今回、新3本の矢で、GDP2割増の600兆円にするというのも、国防費を増やすことが目的。TPPも防衛戦略が目的とされている。アメリカ議会での安倍演説では「その経済効果には、戦略的価値がある」と言っている。これは、TPPではなく、TYP(とっても、やばいパートナーシップ)と呼ぶべきだろう。
強調されたことは、「アベノミクスを政権維持のための民心収攬手段」と考えるのは大きな間違いで、「危険な富国強兵策そのもの」ととらえなければならない、ということ。
経済の講演を期待したものの、むしろ憲法の話しとなった。印象的だったのは、やや年齢層の高い聴衆の真剣さである。戦争法施行第一日目にふさわしい講演会となった。
(2016年3月29日)
私も、依頼あれば学習会の講師を務める。テーマは、スラップ・「日の丸君が代」・政教分離・消費者・医療・教育、そして改憲問題。最近改憲問題は、ほとんどが緊急事態条項についてのもの。今年になってから緊急事態条項をテーマの講師活動は6回となった。そのレジメを掲載しておきたい。参考になるところもあろうかと思う。
訴えの骨格は、次の諸点。
☆今、安倍政権は、解釈改憲を不満足として明文改憲をたくらんでいる。
☆その突破口が「緊急事態条項」とされている。
☆しかし、緊急事態条項は必要ない。
☆いや、緊急事態条項(=国家緊急権条項)はきわめて危険だ。
☆現行憲法に緊急事態条項がないのは欠陥ではない。
憲法制定者は緊急事態条項を危険なものとして意識的に取り除いたのだ。
☆意識的に取り除いたのは、戦前の旧憲法下の教訓から。
☆それだけでなく、ナチスがワイマール憲法を崩壊させた歴史の教訓からだ。
☆緊急事態条項(=国家緊急権条項)は、
整然たる憲法秩序をたった一枚でぶちこわすジョーカーなのだ。
レジメ《緊急事態条項は、かくも危険だ》
本報告(レジメ)の構成 同じことを3回繰り返す。骨格→肉付→化粧
第1章 骨格編 ビラの見出しに、マイクでの呼びかけに。
第2章 肉付編 確信をもって改憲派と切り結ぶために。
第3章 資料編 資料を使いこなして説得力を
第1章 スローガン編
いま、緊急事態条項が明文改憲の突破口にされようとしている。
しかし、緊急事態条項は不要だ。「緊急事態条項が必要」はデマだ。
緊急事態条項は不要と言うだけではない。危険この上ない。
緊急事態条項の導入を「お試し改憲」などと軽視してはならない。
自民党改憲草案9章(98条・99条)が安倍改憲の緊急事態条項。
98条が緊急事態宣告の要件。99条が緊急事態宣告の効果。
緊急事態条項は、立憲主義を突き崩す。人権・民主々義・平和を壊す。
緊急事態とは、何よりも「戦時」のことである。⇒戦時の法制を想定している。
「内乱等社会秩序の維持」の治安対策である。⇒大衆運動弾圧を想定している。
緊急事態においては、内閣が国会を乗っ取る。政令が法律の役割を果たす。
⇒議会制民主主義が失われる。独裁への道を開く。
緊急事態条項は、国家緊急権を明文化したもの。
国家緊急権は、それ一枚で整然たる憲法秩序を切り崩すジョーカーだ。
国家緊急権は、天皇主権の明治憲法には充実していた。
その典型が天皇の戒厳大権であり、緊急勅令(⇒行政戒厳)であった。
ナチスも、国家緊急権を最大限に活用した。
ヒトラー内閣はワイマール憲法48条で共産党を弾圧して議会を制圧し、
制圧した議会で、悪名高い授権法(全権委任法)を成立させた。
授権法は、国会から立法権を剥奪し、独裁を完成させた。
最も恐るべきは、緊急事態条項が憲法を停止し、
緊急時の一時的「例外」状況が後戻りできなくなることだ。
第2章 肉付編
1 憲法状況・政権が目指すもの
☆解釈改憲(閣議決定による集団的自衛権行使容認から戦争法成立へ)だけでは、
政権は満足し得ない。
彼らにとって、戦争法は必ずしも軍事大国化に十分な立法ではない。
⇒現行憲法の制約が桎梏となっている。⇒明文改憲が必要だ。
☆第二次アベ政権の明文改憲路線は、概ね以下のとおり。
96条改憲論⇒立ち消え(解釈改憲に専念)⇒復活・緊急事態条項から
改憲手続(国民投票)法の整備⇒完了 各院に憲法審議会
そして最近は9条2項にも言及するようになってきている。
2 なぜ、緊急事態条項が明文改憲の突破口とされているのか。
☆東日本大震災のインパクトを利用
「憲法に緊急事態条項がないから適切な対応が出来なかった」
☆「緊急事態への定めないのは現行憲法の欠陥だ」
仮に、衆院が構成がないときに「緊急事態」が生じたら、
☆政権側の緊急事態必要の宣伝は、「衆院解散時に緊急事態発生した場合の不備」 に尽きる。「解散権の制限」や「任期の延長」規程がないのは欠陥という論法。
しかし、現行憲法54条2項但し書き(参議院の緊急集会)の手当で十分。
☆それでも「お試し改憲」(自・公・民・大維の賛意が期待できる)としての意味。
☆あわよくば、人権制約制限条項を入れたい。
3 政権のホンネ
☆国家緊急権(規程)は、支配層にとって喉から手の出るほど欲しいもの
大江志乃夫著「戒厳令」(岩波新書)の前書に次の趣旨が。
「緊急事態法制は1枚のジョーカーに似ている。他の52枚のカードが形づく る整然たる秩序をこの一枚がぶちこわす」
☆自由とは権力からの自由と言うこと。人権尊重理念の敵が、強い権力である。
人権を擁護するために、権力を規制してその強大化を抑制するのが立憲主義。
立憲主義を崩壊せしめて強大な権力を作るための恰好の武器が国家緊急権。
☆戦時・自然災害・その他の際に、憲法の例外体系を形づくって
立憲主義を崩壊させようというもの。
4 天皇制日本とナチスドイツの国家緊急権
☆明治憲法には、戒厳大権・非常大権・緊急勅令・緊急財政処分権限などの
国家緊急権制度が手厚く明文化されていた。
☆最も民主的で進歩的なワイマール憲法に、大統領の緊急権限条項があった。
ナチス政権以前に、この条項は250回も濫発されていた。
☆ナチス政権は、この緊急事態法を活用して共産党の81議席を奪い、
授権法(全権委任法)を制定して国会を死滅させた。
☆その反省から、日本国憲法は、国家緊急権(条項)の一切を排除した。
戦争放棄⇒戦時の憲法体系を想定する必要がない。
徹底した人権保障システム⇒例外をおくことで壊さない
5 自民党改憲草案「第9章 緊急事態」の危険性
☆旧天皇制政府の戒厳・非常大権規程が欲しい⇔「戦後レジームからの脱却」
ナチスの授権法があったらいいな⇔「ナチスの経験に学びたい」
しかも、緊急事態に出動して治安の維持にあたるのは「国防軍」である。
☆自民党改憲草案による「緊急事態」条項は
濫用なくても、「戦争する国家」「強力な権力」「治安維持法体制」をもたらす。
しかも、濫用の歯止めなく、その危険は立憲主義崩壊につながる。
☆草案では、内閣が国会を乗っ取り、政令が法律の代わりを務める。
内閣が、人身の自由、表現の自由を制約する政令を発することができる。
予算措置もできることになる。
6 まずは、徹底した「緊急事態条項必要ない」の訴えと
次いで、「旧憲法時代やナチスドイツの経験から、きわめて危険」の主張を
第3章 資料編
☆日本国憲法54条2項
「衆議院が解散されたときは、参議院は、同時に閉会となる。但し、内閣は、国に緊急の必要があるときは、参議院の緊急集会を求めることができる。」
☆自民党改憲草案(2012年4月27日)「第9章 緊急事態」
98条 緊急事態の宣言
1項 内閣総理大臣は、我が国に対する外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態において、特に必要があると認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、緊急事態の宣言を発することができる
99条 緊急事態宣言の効果
1項 緊急事態の宣言が発せられたときは、法律の定めるところにより、内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができるほか、内閣総理大臣は財政上必要な支出その他の処分を行い、地方自治体の長に対して必要な指示をすることができる。
3項 緊急事態の宣言が発せられた場合には、何人も、法律の定めるところにより、当該宣言に係る事態において国民の生命、身体及び財産を守るために行われる措置に関して発せられる国その他公の機関の指示に従わなければならない。
☆自民党「Q&A」(99条3項関連)
現行の国民保護法において、こうした憲法上の根拠がないために、国民への要請は全て協力を求めるという形でしか規定できなかったことを踏まえ、法律の定める場合には、国民に対して指示できることとするとともに、それに対する国民の遵守義務を定めたものです。
☆民主党「憲法提言」(民主党憲法調査会 2005 年10 月31 日)
違憲審査機能の強化及び憲法秩序維持機能の拡充
国家非常事態における首相(内閣総理大臣)の解散権の制限など、憲法秩序の下で政府の行動が制約されるよう、国家緊急権を憲法上明示しておくことも、重ねて議論を要する。
国家緊急権を憲法上に明示し、非常事態においても、国民主権や基本的人権の尊重などが侵されることなく、その憲法秩序が確保されるよう、その仕組みを明確にしておく。
☆公明党憲法調査会による論点整理(公明党憲法調査会、2004 年6 月16 日)
「ミサイル防衛、国際テロなどの緊急事態についての対処規定がないことから、あらたに盛り込むべしとの指摘がある。ただ、あえて必要はないとの意見もある。」
☆大日本帝国憲法の国家緊急権規程
第14条(戒厳大権)
1項 天皇ハ戒厳ヲ宣告ス
2項 戒厳ノ要件及効力ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム
第8条(緊急勅令)
1項 天皇ハ公共ノ安全ヲ保持シ又ハ其ノ災厄ヲ避クル為緊急ノ必要ニ由リ帝国議会閉会ノ場合ニ於テ法律ニ代ルヘキ勅令ヲ発ス
第31条(非常大権)
本章(第2章 臣民権利義務)ニ掲ケタル条規ハ戦時又ハ国家事変ノ場合ニ於テ天皇大権ノ施行ヲ妨クルコトナシ
第70条(緊急財政処分)
1項 公共ノ安全ヲ保持スル為緊急ノ需用アル場合ニ於テ内外ノ情形ニ因リ政府ハ帝国議会ヲ召集スルコト能ハサルトキハ勅令ニ依リ財政上必要ノ処分ヲ為スコトヲ得
☆戒厳令(明治15年太政官布告第36号)
第一条 戒厳令ハ戦時若クハ事変ニ際シ兵備ヲ以テ全国若クハ一地方ヲ警戒スルノ法トス
第二条 戒厳ハ臨戦地境ト合囲地境トノ二種ニ分ツ
第三条 戒厳ハ時機ニ応シ其要ス可キ地境ヲ区画シテ之ヲ布告ス
第十四条 戒厳地境内於テハ司令官左ニ記列ノ諸件ヲ執行スルノ権ヲ有ス
但其執行ヨリ生スル損害ハ要償スルコトヲ得ス
第一 集会若クハ新聞雑誌広告等ノ時勢ニ妨害アリト認ムル者ヲ停止スルコト
第二 軍需ニ供ス可キ民有ノ諸物品ヲ調査シ又ハ時機ニ依リ其輸出ヲ禁止スルコト
第三 銃砲弾薬兵器火具其他危険ニ渉ル諸物品ヲ所有スル者アル時ハ
之ヲ検査シ時機ニ依リ押収スルコト
第四 郵便電報ヲ開緘シ出入ノ船舶及ヒ諸物品ヲ検査シ並ニ陸海通路ヲ停止スルコト
第五 戦状ニ依リ止ムヲ得サル場合ニ於テハ人民ノ動産不動産ヲ破壊燬焼スルコト
第六 合囲地境内ニ於テハ昼夜ノ別ナク
人民ノ家屋建造物船舶中ニ立入リ検察スルコト
第七 合囲地境内ニ寄宿スル者アル時ハ時機ニ依リ其地ヲ退去セシムルコト
☆1923年9月3日 関東戒厳令司令官通知
(同司令部は、9月2日緊急勅令による「行政戒厳」によって設置されたもの)
一 警視総監及関係地方長官並ニ警察官ノ施行スベキ諸勤務。
1 時勢ニ妨害アリト認ムル集会若ハ新聞紙雑誌広告ノ停止。
2 兵器弾薬等其ノ他危険ニ亙ル諸物晶ノ検査押収。
3 出入ノ船舶及諸物晶ノ検査押収。
4 各要所ニ検問所ヲ設ケ
通行人ノ時勢ニ妨害アリト認ムルモノノ出入禁止又ハ時機ニ依り水陸ノ通路停止。
5 昼夜ノ別ナク人民ノ家屋建造物、船舶中ニ立入検察。
6 本命施行地域内ニ寄宿スル者ニ対シ時機ニ依リ地境外退去。
二 関係郵便局長及電信局長ハ時勢二妨害アリト認ムル郵便電信ヲ開緘ス。
☆ワイマール憲法 第48条2項
ドイツ国内において、公共の安全および秩序に著しい障害が生じ、またはそのおそれがあるときは、大統領は、公共の安全および秩序を回復させるために必要な措置をとることができ、必要な場合には、武装兵力を用いて介入することができる。
この目的のために、大統領は一時的に第114条(人身の自由)、第115条(住居の不可侵)、第117条(信書・郵便・電信電話の秘密)、第118条(意見表明の自由)、第123条(集会の権利)、第124条(結社の権利)、および第153条(所有権の保障)に定められている基本権の全部または一部を停止することができる。
☆ナチスドイツの授権法(全権委任法)全5条
正式名称 「民族および国家の危難を除去するための法律」1933年3月23日成立
1.ドイツ国の法律は、ドイツ政府によっても制定されうる。
2.ドイツ政府によって制定された法律は、憲法に違反することができる。
3.ドイツ政府によって定められた法律は、首相によって作成され、官報を通じて公布される。特殊な規定がない限り、公布の翌日からその効力を有する。
4.ドイツ国と外国との条約も、本法の有効期間においては、立法に関わる諸機関の合意を必要としない。政府はこうした条約の履行に必要な法律を発布する。
5.本法は公布の日を以て発効する。本法は1937年4月1日までの時限立法である。
☆日本国憲法制定時の、対GHQ「3月2日」案
明治憲法下の緊急命令及び緊急財政措置に代わるものとして、76 条において、「衆議院ノ解散其ノ他ノ事由ニ因リ国会ヲ召集スルコト能ハザル場合ニ於テ公共ノ安全ヲ保持スル為緊急ノ必要アルトキハ、内閣ハ事後ニ於テ国会ノ協賛ヲ得ルコトヲ条件トシ法律又ハ予算ニ代ルベキ閣令ヲ制定スルコトヲ得」と規定されていた。GHQ側は、国家緊急権に関する英米法的な理解を根拠に、「非常時の際には、内閣のエマージェンシー・パワー(emergency power)によって処理すべき」としてこれを否定したが、その後の協議の結果、日本側の提案に基づき、参議院の緊急集会の制度が採り入れられることになった。(衆議院憲法審査会「緊急事態」に関する資料)
☆制憲国会(第90帝国議会)における政府(担当大臣金森徳次郎)答弁
「緊急勅令及ビ財政上ノ緊急処分ハ、行政当局者ニ取リマシテハ実ニ調法ナモノデアリマス、併シナガラ調法ト云フ裏面ニ於キマシテハ、国民ノ意思ヲ或ル期間有力ニ無視シ得ル制度デアルト云フコトガ言ヘルノデアリマス、ダカラ便利ヲ尊ブカ或ハ民主政治ノ根本ノ原則ヲ尊重スルカ、斯ウ云フ分レ目ニナルノデアリマス、ソコデ若シ国家ノ仲展ノ上ニ実際上差支ヘガナイト云フ見極メガ付クナラバ、斯クノ如キ財政上ノ緊急措置或ハ緊急勅令トカ云フモノハ、ナイコトガ望マシイト思フノデアリマス」
「民主政治ヲ徹底サセテ国民ノ権利ヲ十分擁護致シマス為ニハ、左様ナ場合ノ政府一存ニ於テ行ヒマスル処置ハ、極力之ヲ防止シナケレバナラヌノデアリマス言葉ヲ非常ト云フコトニ藉リテ、其ノ大イナル途ヲ残シテ置キマスナラ、ドンナニ精緻ナル憲法ヲ定メマシテモ、口実ヲ其処ニ入レテ又破壊セラレル虞絶無トハ断言シ難イト思ヒマス、随テ此ノ憲法ハ左様ナ非常ナル特例ヲ以テ――謂ハバ行政権ノ自由判断ノ余地ヲ出来ルダケ少クスルヤウニ考ヘタ訳デアリマス、随テ特殊ノ必要ガ起リマスレバ、臨時議会ヲ召集シテ之ニ応ズル処置ヲスル、又衆議院ガ解散後デアツテ処置ノ出来ナイ時ハ、参議院ノ緊急集会ヲ促シテ暫定ノ処置ヲスル、…コトガ適当デアラウト思フ訳デアリマス」
☆法律による「緊急事態」への対処について(『改憲の何が問題なのか』(岩波、2013年)所収の水島朝穂「緊急事態条項」)水島さんのブログ「直言」から
「日本の場合、憲法に緊急事態条項はないが、法律レヴェルには「緊急事態」という文言が随所に存在することである。例えば、「警察緊急事態」(警察法71条)、「災害緊急事態」(災害対策基本法105条)、「重大緊急事態」(安全保障会議設置法2条9号)である。これに「防衛事態」(自衛隊法76条)、「武力攻撃事態」(武力攻撃事態法2条)、「治安出動事態」(自衛隊法78、81条)が加わる。憲法9条の観点から合憲性に疑義のあるものもあるが、ここでは立ち入らない。」
☆東北弁連会長声明
災害対策を理由とする国家緊急権の創設に反対する会長声明
現在、与党自民党において、東日本大震災時の災害対応が十分にできなかったことなどを理由として、日本国憲法に「国家緊急権」の新設を含む改正を行うことが議論されている。
国家緊急権とは、戦争や内乱、大災害などの非常事態において、国民の基本的人権などの憲法秩序を一時停止して、権限を国に集中させる制度を言う。この制度ができると国は強大な権限を掌握することができるのに対し、国民は強い人権制約を強いられることになる。災害対応の名目の下に、国家緊急権が創設されることは、非常に危険なことと言わざるを得ない。
そもそも、日本国憲法の重要な原理として、権力分立と基本的人権の保障が定められたのは、国家に権力が集中することによって濫用されることを防ぎ、自由・財産・身体の安全など、国民にとって重要な権利を守るためである。大日本帝国憲法(以下「旧憲法」という)時代には国民の人権が不当に侵害され、戦争につながった経験に鑑みて、日本国憲法はかかる原理を採用している。また、旧憲法には国家緊急権の規定があったが、それが濫用された反省を踏まえて、日本国憲法には国家緊急権の規定はあえて設けていない。
確かに、東日本大震災では行政による初動対応の遅れが指摘された事例が少なくない。しかし、その原因は行政による事前の防災計画策定、避難などの訓練、法制度への理解といった「備え」の不十分さにあるとされている。例えば、震災直後に被災者に食料などの物資が届かなかったこと、医療が十分に行き渡らなかったことなどは、既存の法制度で対応可能だったはずなのに、避難所の運営の仕組みや関係機関相互の連絡調整などについての事前の準備が不足していたことに原因があるのである。東京電力福島第一原子力発電所事故に適切な対処ができなかったのも、いわゆる「安全神話」の下、大規模な事故が発生することをそもそも想定してこなかったという事故対策の怠りによるものである。つまり、災害対策においては「準備していないことはできない」のが大原則であり、これは被災者自身が身にしみて感じているところである。
そもそも、日本の災害法制は既に法律で十分に整備されている。例えば、災害非常事態等の布告・宣言が行われた場合には、内閣の立法権を認め(災害対策基本法109条の2)、内閣総理大臣に権限を集中させるための規定(災害対策基本法108条の3、大規模地震対策特別措置法13条1項等)、非常事態の布告等がない場合でも、防衛大臣が部隊を派遣できる規定(自衛隊法83条)など、災害時の権限集中に関する法制度がある。また、都道府県知事の強制権(災害救助法7?10条等)、市町村長の強制権(災害対策基本法59、60、63?65条等)など私人の権利を一定範囲で制限する法制度も存在する。従って、国家緊急権は、災害対策を理由としてもその必要性を見出すことはできない。
他方で、国家緊急権はひとたび創設されてしまえば、大災害時(またはそれに匹敵する緊急時)だけに発動されるとは限らない。時の政府にとって絶対的な権力を掌握できることは極めて魅力的なことであり、非常事態という口実で濫用されやすいことは過去の歴史や他国の例を見ても明らかである。国民の基本的人権の保障がひとたび後退すると、それを回復させるのが容易でないこともまた歴史が示すとおりである。
よって、当連合会は、東日本大震災において甚大な被害を受けた被災地の弁護士会連合会として、災害対策を理由とする国家緊急権創設は、理由がないことを強く指摘し、さらに国家緊急権そのものが国民に対し回復しがたい重大な人権侵害の危険性が高いことから、国家緊急権創設の憲法改正に強く反対する。
2015年(平成27年)5月16日
東北弁護士会連合会 会長 宮本多可夫
以 上
(2016年3月28日)