澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

敵に塩を送るの話ーー松村包一さんの詩とパロディ

つまらね? ??じいじの昔話

昔々、この国が未だ幾つもの領国(くに)に分かれて
互いに戦をしていた頃の話じゃがの
海辺の領国の領主じゃった謙信公はの
内陸の敵国の領主じゃった信玄公の陣営に
大事な塩をたっぷり送り届けたそうじゃ
みみっちい経済封鎖なぞ考えもせんかったと

それから幾百年もの時がたち、この国は
一つの国となり、いろいろあっての揚句だが
自由だの平和だのと叫んでも一人も掴まらず
民主主義の独立国と威張っておったが
何の、何の、独立国とは名ばかりで
実は亜米利加という大国の属国じやったと

その頃、海の向こうの半島の一角には
何々人民民主主義共和国なんたらかたら
名前だけは滅法、民主主義風の国があっての
そこの恐怖の独裁的首領様、兼将軍様は
原爆を開発したり、ミサイルをうちあげたりして
日本や亜米利加の戦狂いやら武器商人やらを
めっちや喜ばせ、活気づかせたんじゃと
つまり敵陣に塩を送っちまったわけさ

一方日本は世界第二の経済大国となり
トョタやらキヤノンやらの大企業がひしめき
ボロ儲けをした揚句、若い働き手を数千数万と
師走の巷や河辺に放り出したんじゃと
アコギなことよ、ところがそれがの
奴等の強敵共産党に元気の源(もと)を吹き込んで
ますます強い相手にしちまったんだと
ここでも 敵陣に塩 と言ったわけさ

世の中とは斯ういうもんじゃて……
何? つまらね?

以上の詩は、松村包一さんの「詩集 夜明け前の断絶?テロと国家と国民と?」(2013年1月29日刊)の一編。詩集は158頁、54編の詩が掲載されている。
「英霊に捧ぐ」「テロの源流」「ガザの子どもたち」「言葉の綾」「日米同盟とオスプレイ」「愛国心」「安全と主権の行方」等々。題名から内容の傾向は推測できるだろう。徹底して民衆に寄り添い、徹底して国の無責任を追求する「叛骨詩」である。

松村さんは、私の学窓の大先輩。「1931年水戸市で出生。茨城中学(旧制)、水戸高校(旧制)、茨城大学文理学部を経て1957年東京大学文学部卒」とある。その後の職歴は「劇団東演に所属して演劇活動。川崎市立中学校教諭」である。

この詩集は、松村さんご自身から同窓会の席でいただいた。滅法面白いので、既に何編かを抜き出して紹介した。今回は、3度目になる。
https://article9.jp/wordpress/?p=4502
https://article9.jp/wordpress/?p=4680
上記「じいじの昔話」に、僭越ながら続編をつなげてみたい。ごく最近の話題で。松村さんのことだ。笑って許していただけるだろう。

つまらね? ??じいじの「昔は今の話」

亜米利加の属国の日本という国にな
安倍晋三という戦狂いがおってな
ご主人様に気に入られたいの一念で、
属国根性丸出しにこんな約束をしおったと

「お国の兵隊が攻撃されたその折には、
 世界の果てのどこまでも、及ばずながら駆けつけて
 一緒に戦(いくさ)をいたします
 必ず今年の夏までに、
 我が国のうるさいきまりを変えまして、
 ご意志に沿うてみせまする」

で、それ以来日本という国は、戦争法案の審議をめぐって
国内での大戦(いくさ)じゃ

一応日本は、自由で平和で民主主義の独立国というタテマエだからの
安倍晋三が一人声を張り上げても、すごんでも、領国の民を説得しなければ
きまりを変えることはできんのじゃ

そこで、安倍はの、丁寧な説明を心掛けると言わなきゃならないんじゃが、
この男は元々頭が高い。しゃべれば上から目線になっちまう
丁寧に説明すればするほどボロが出る
人気はガタガタ支持率は下がりっぱなし

そこで安倍の家来の37人がイラだっての
城の本丸で秘密の作戦会議を開いたんだと
みんな首相兼総裁様へのおべっか使いだが、こいつら少し思慮が足りなくての
相談相手に百田という札付きの右翼作家を呼んだんじゃ
そりゃ38人は話が合うのさ 大いに盛りあがったということじゃ

「法案審議に国民の反対が多いのは新聞のせいだ」
「怪しからん新聞は懲らしめにゃならん」
「不買運動と広告収入日干しで締め上げろ」
「沖縄の新聞は潰さなあかん」

とまあ、勇ましくぶち上げての、
これが全部明るみに出た

城代家老の谷垣は怒ったな
おまえたち敵陣に塩を送りおって と言ってさ
謙信公がやれば格好良いがの
安倍の家来がやればタダのバカ

いやいや、塩を送ったどころの話しではなかろう
コメも野菜も鉄砲も弾薬もさあどうぞ ということじゃろう

とりあえずは37人については中心人物をお仕置きしてな
家来ども一同には「一切外でしゃべるな」とお触れを出したそうだ 
よっぽどこたえたんじゃろうな

ところがだ 谷垣が頭を抱えたことがある
客として呼んでしゃべらせた百田の口の封じかた
何しろ安倍のお友だちなんじゃから難しい
結局ここだけは口封じができない 
それで、百田は相変わらず反対陣営に塩を送り続けているそうじゃ

もしかしたら「永遠のシオ」
あるいは「安倍にとっての青菜に塩」

そんなこんなで、奴等の強敵共産党だけでなく
護憲勢力全体に元気の源(もと)を吹き込んで
ますます強い相手にしちまったんだと

世の中とは斯ういうもんじゃて……
何? つまらね? いや、そんなはずもなかろう

(2015年6月28日)

民意の怒風を巻き起こし、驕れる安倍政権を塵として吹き飛ばそう。

平家物語の名文句「驕れる人も久しからず。ただ春の夜の夢の如し」は、いくつものバリエーションで語られる。そのなかに、「驕る平家は内より崩る」というものがある。奢侈に慣れ驕慢が染みついた一族の愚行から、さしもの権勢も滅びた。滅びの原因は外にではなく内にあったのだという戒めとされる。

遠く異朝をとぶらへば、秦の趙高・漢の王莽・梁の周伊・唐の禄山、是等は皆旧主先皇の政にも従はず、楽みをきはめ、諌をも思ひいれず、天下の乱れむ事をさとらずして、民間の愁る所を知らざッしかば、久しからずして、亡じにし者ども也。

異朝の故事ではなく今の世のこととして置き換えて読めば、「憲法の定めるところに従わず、議席の数に驕って学者やメディアの提言を無視し、戦争を準備して近隣諸国との軋轢・緊張関係を高めながら、これを世論の憂いと受け止める自覚に欠け、結局は民意と乖離して政権は崩壊する」と示唆している。既に安倍政権は、「偏に風の前の塵に同じ」状態ではないか。平家物語作者の洞察力や恐るべし。

「内より崩る」を「一族の中の突出した愚か者の行為を発端にして瓦解する」と読むこともできよう。平家一族の権勢を笠に着た一門の愚行の例は、その末期症状としていくつも語られている。安倍政権でも、いくつもの末期症状が窺えるではないか。

一昨日(6月25日)の、自民党若手議員の勉強会「文化芸術懇話会」の席上発言は、典型的な末期症状の露呈だ。失言としても冗談としても、到底看過し得ない。むしろ、非公開だからとしてホンネが語られたとみるべきだろう。こういう本性をもった輩が、勇ましく先頭に立って戦争法案成立に旗を振っているのだ。

勉強会出席の議員数は、37人だという。この「37人+百田尚樹」の38人衆が、「内より崩る」の愚行の尖兵だ。「安倍政権の内側からの墓堀人」にほかならない。そして、大切なことは、内側からだけでなく外側からも大いに働きかけて、内外相呼応して戦争法案を葬りさるとともに安倍内閣を早期に崩壊させねばならない。

朝日・毎日・東京だけでなく、さすがに読売までもが本日(6月27日)社説を掲げて、自民党・安倍内閣の「異常な異論封じ」「批判拒絶体質」を批判し、報道規制発言に苦言を呈している。産経だけが様子見である。明日の社説を注視したい。メディアとしての矜持を保つか、あるいは自ら墓堀人グループの一員として名乗りを上げるか。

「異常な『異論封じ』―自民の傲慢は度し難い」と題する朝日の社説は最近珍しく、ボルテージが高い。「これが、すべての国民の代表たる国会議員の発言か。無恥に驚き、発想の貧しさにあきれ、思い上がりに怒りを覚える。」と言葉を飾らない。毎日も、東京も遠慮するところがない。

この3紙の社説を読んだあと、百田のツイッターを見て驚いた。「炎上ついでに言っておくか。私が本当につぶれてほしいと思っているのは、朝日新聞と毎日新聞と東京新聞です(^_^;)」と言っている。開き直りも甚だしい。さすがに、内側からの墓堀人の名に恥じない。

当事者性から言えば、まずは「沖縄の2つの新聞はつぶさないといけない」(読売だけは、「あの二つの新聞社はつぶさなあかん」と表現している。録音を持っているのではないか)と言われた、沖縄タイムスと琉球新報とである。

沖縄タイムス編集局長・武富和彦、琉球新報編集局長・潮平芳和両名による「百田氏発言をめぐる沖縄2新聞社の共同抗議声明」は、押さえた筆致で、ジャーナリズムの基本姿勢を語って格調が高い。「戦後、沖縄の新聞は戦争に加担した新聞人の反省から出発した。戦争につながるような報道は二度としないという考えが、報道姿勢のベースにある。」という一節が印象深い。ジャーナリストとしての理念を立派に貫いているからこその権力側からの逆ギレ批判であることが良くわかる。

「百田氏の発言は自由だが、政権与党である自民党の国会議員が党本部で開いた会合の席上であり、むしろ出席した議員側が沖縄の地元紙への批判を展開し、百田氏の発言を引き出している。その経緯も含め、看過できるものではない。」とは正鵠を射たもの。安倍政権全体の問題であることが明らかではないか。

そして、本日の両紙の社説の舌鋒が鋭い。憤懣やるかたないという怒りがほとばしり出ている。
 琉球新報は、「ものを書くのをなりわいとする人間が、ろくに調べず虚像をまき散らすとは、開いた口がふさがらない。あろうことか言論封殺まで提唱した。しかも政権党の党本部でなされ、同調する国会議員も続出したのだ。看過できない。」と言い、沖縄タイムスは「政権与党という強大な権力をかさにきた報道機関に対する恫喝であり、民主的正当性を持つ沖縄の民意への攻撃である。自分の気に入らない言論を強権で押しつぶそうとする姿勢は極めて危険だ。」「一体、何様のつもりか。」といずれも手厳しい。

政府に批判的な2紙を潰せと言っただけではない。「マスコミを懲らしめるには広告料収入がなくなるのが一番。」「文化人が経団連に働きかけてほしい」「悪影響を与えている番組を発表し、そのスポンサーを列挙すればいい」「広告を取りやめるように働きかけよう」とまで、政権政党の議員が発言したのだ。報道の自由侵害の問題として、全マスコミの怒りが沸騰しなければならない。たとえば、北海道新聞が「自民の勉強会 マスコミ批判は筋違い」「耳を疑う発言が、また自民党から飛び出した。」というが如く。

愚かな読売社説のように、「地元紙に対する今回の百田氏の批判は、やや行き過ぎと言えるのではないか。」などと、生温く政権におもねっていてはならない。

そして、メディアの怒りを国民全体の怒りとして受け止めなければならない。メディアの自由は、国民の知る権利に奉仕するためにあるのだから。

沖縄は渾身の怒りを表現するだろう。この沖縄の怒りを孤立させてはならない。日本全土の国民が沖縄の怒りを我が怒りとしなければならない。沖縄の平和は、そのまま日本全土の平和なのだから。

自民党・安倍政権は、まぎれもなく2本の虎の尾を踏んだ。一本はジャーナリズム、もう一本が沖縄である。その痛みは、虎の本体としての日本国民全体のものである。国民の圧倒的な怒りの風を起こして、安倍政権を塵として吹き飛ばそうではないか。
(2015年6月27日)

産経社説《国旗国歌 敬意払うのが自然な姿だ》に異議あり

「右翼」の定義は難しい。もしかしたら、不可能かも知れない。あれこれ考えた末の暫定結論は、「アンチ『左翼・リベラル』の立場」というほかはない。月は自身で光らず、太陽光を反射するだけの存在。右翼も同様、自らに積極的な思想らしい思想の体系があるわけではない。左翼・リベラルの主張や発言への反発を口にする反射神経を持ち合わせているだけ。結局はそれだけで、それ以上のなにものでもない。

太陽光がなければ月の存在は目に見えない。社会に左翼・リベラルの行動や発言がなければ、右翼の存在もなきに等しい。不可思議な共棲関係、あるいは片面的な寄生関係というほかはない。なお、私自身はリベラルを徹底した先に左翼が位置するという理解なので、「左翼・リベラル」とひとくくりにすることに抵抗感はない。

左翼・リベラルの特性の一つとして個人主義がある。個人の自立・自立した主体の自由・個性の輝きを基底的な価値とする。ひとくくりに他と束ねられることを拒否して、自分が自分であることを大切にする。右翼はそのアンチを主張して、国家・民族・社会秩序などを重んじるという。

個人の自由に敵対する主要な存在は二つある。一つは、国家権力であり、もう一つは社会の同調圧力である。「個人対国家」、「個人対社会」の自立・自由をめぐるせめぎ合いを象徴するものとして、国旗・国歌の取扱いがある。左翼・リベラルは、個人を束ね、絡めとり、個の自立や自由に敵対する作用をものものとして国旗・国歌を基本的に受け入れがたい。これを受け入れるよう期待する社会の圧力にも反発せざるを得ない。

また、左翼・リベラルは、国家や民族を単位としてものを考えないから、日本の負の歴史を直視することを躊躇しない。その目でみた、「日の丸・君が代」は、旧天皇制とのあまりに深い結びつきを払拭し得ない。天皇主権・軍国主義・超国家主義・権威主義・思想統制と異端に対する弾圧・差別容認・監視国家体制等々の日本の負の歴史を背負った存在として、「日の丸・君が代」を受け入れがたい。右翼は、「左翼・リベラルに反対」だから、「国旗国歌」にも「日の丸・君が代」にも大賛成なのだ。

昨日(6月25日)の産経社説が、《国旗国歌 敬意払うのが自然な姿だ》という社説を掲げている。右翼の心性丸出しである。もう少しまともな議論ができないのだろうかと嘆かざるを得ない。とはいうものの、まともに産経社説を相手にする真っ当な識者もなかろうから、私が反論を認めておくこととしたい。

まず、表題からおかしい。《国旗国歌 敬意払うのが自然な姿だ》というが、自然な姿がよいなら、現状あるがままの大学の自然の姿に放っておけばよいのだ。ところが、大学の自治への権力的介入という不自然をけしかける内容になっているから、きわめて不自然で分かりにくい主張であり表題となっている。

国旗国歌に敬意を払うべきだと考える思想があってもよい。しかし、国家を敬意の対象とすべきとする思想は、けっして「自然」なものではない。むしろ、権力に好都合な思想として、警戒を要する思想と言わねばならない。また、当然のことではあるが、国旗国歌に敬意を払うべきだと考えない人々に、この思想を押しつけることはできない。

《国旗、国歌はその国の象徴として大切にされ、互いに尊重するのが国際常識だ。》
これは不正確。「国家が民意を反映している限りにおいて、あるいは、国家が国民から支持されている限りにおいて、その国の国旗・国歌は、国民によって大切にされる。」というべきである。さらに正確には、「国旗、国歌は国家の象徴として大切にされることもあれば、ないがしろにされることもある。」「国家への抵抗の象徴的行為として、国旗が抗議の対象となることもしばしばある。」「国家への抗議の表現として、国旗が焼かれることも踏みつけられることもあり、分けても人種差別が顕著なアメリカ合衆国では、黒人による国家への抗議行動において星条旗受難の歴史がある」と続けなければならない。

《国旗国歌は、互いに尊重するのが国際常識》であることは、大学における「日の丸・君が代」強制と何の関係も持たない。まったく、これっぽっちも、である。運動会に万国旗を飾ることの理屈に役立つ程度であろう。しかも、《国旗国歌は、互いに尊重するのが国際常識》と言い切るのは実は困難なのだ。独裁国家、極端な人権弾圧国家の国旗国歌の尊重は、人権侵害に手を貸していると見られる恐れを拭えない。また、国旗国歌の尊重が国際紛争の一方当事者への加担と見られることすらある。台湾の国旗・チベット国旗・アイシル国旗、イロコイの国旗、ラコタの国旗、南オセチアの国旗…、その尊重には難しさがつきまとう。要するに、「自国が認めている範囲での相互主義の反映」に過ぎないのだ。

また、産経の文章は、国旗国歌の尊重が、「現実にそうなっている」というのか、「そうなるべきだ」と言っているのかはよく分からない。意識的に避けているようにも読める。

《ましてや国民が自国の旗などに敬意を払うのは自然な姿だ。》
驚いた。これは、一種の信仰告白である。根拠や理由についての一切の説明なく、どうしてかくも安易に断定できるのか。しかも、なにゆえ自分の意見を他人に押しつけることができると考えているのか。まったく理解に苦しむ。

私はまったくの別意見だ。国旗国歌とは国家という人工的組織の象徴である。国家とは暴力に支えられた権力構造体である。うかうかしていると、いつ国民に襲いかかってくるやも知れぬ危険きわまりない代物。暴発せぬよう、押さえつけておくべき警戒の対象でこそあれ、敬意を払うべき対象ではあり得ない。「敬意を払うのは自然な姿だ」とは、アンチリベラルの右翼、あるいは全体主義者・国家主義者に特有の心性でしかない。このような産経流の国家観・国旗国歌観には、70年前の日本国民が別れを告げたはずではなかったか。

《下村博文文部科学相が、国立大の入学式や卒業式での国旗掲揚、国歌斉唱を適切に行うよう学長会議で要請した。妨げる方がおかしい。学長らは国旗、国歌の重要性を認識し、正常化を進めてほしい。》
ここで論理がとんでもなく飛躍した。《敬意を払うのは自然な姿だ》というなら、それぞれの大学の自然に任せれば良いこと。どうして、札付きの右派である文科大臣が、大学の自治への介入という批判を押し切ってまで、不自然極まる「要請」をしなければならないのか。大学の財布の紐を握っている国の「要請」は、実は「強要」にほかならない。

国家は特定の思想や価値観を持つことを禁止される。国民の多様な思想や価値観に寛容でなくてはならないからである。「カネを出すから、国の言い分に随え」と言ってはならない。これがあらゆる部門にわたっての国家の基本的なルールである。ましてや大学とは、大学の自治、学問の自由が貫徹されなければならない場である。公権力のイデオロギーに左右されることのない、自由な学問の研究と教授の自由こそが、社会に不可欠だと確認されている。これは、憲法原則(憲法23条)ともなっているのだ。恐るべき、文科相と産経のタッグを組んでの憲法原則への挑戦というほかはない。

《文科省によると、国立大86校のうち今春の卒業式で国旗を掲揚したのは74校、国歌斉唱は14校にとどまっている。東大、京大のように国旗掲揚、国歌斉唱とも行っていない大学が10以上ある。下村文科相は要請にあたって「各国立大の自主的な判断に委ねられている」と配慮したうえで、「大学の自治や学問の自由に抵触するようなことは全くない」と述べた。その通りである。》
何とも愚かしい文章である。《各国立大の自主的な判断に委ねられている》のなら、口を出してはならない。文科省がスポンサーとして口を出すことが、「大学の自治や学問の自由に抵触する」ことは自明ではないか。愚かな文部行政を、愚かな右翼メディアが支えているの図である。

《国旗と国歌の適切な取り扱いは、大臣がわざわざ要請する以前に、各大学の学長の判断で行うべきことだ。できないのは一部教職員らの反対を恐れるからだ。》
いやはやとんでもない。大学人とは、知性を持つ集団である。「大学に国旗と国歌を持ち込むことに賛成」などという知性を欠いた人物は、皆無ではなかろうが圧倒的少数にとどまる。戦争法案違憲論が圧倒的な憲法学者の中で、3人だけの合憲論者がいた。このくらいの比率でしかなかろう。にもかかわらず、「国旗掲揚74校」と聞けば、驚かざるを得ない。スポンサーへのおもねりの結果というほかはない。

《スポーツの国際大会で選手、観客とも対戦相手の国旗、国歌を含め敬意を払う態度は自然であり、国旗、国歌に背を向ければ非難される。》
何度も出て来る「自然」。「自然」であるべきことに国が口出しすることはない。「自然」と言いつつ、不自然に口を出し、介入し、さらには強制を合理化しようというのだ。スポーツをナショナリズム高揚の手段に使おうという意図が透けて見える。スポーツを国旗国歌強制の口実とし続ければ、スポーツ自体の問題性が国民的な議論の対象にならざるを得ない。

《ところが日本の教育現場では小中高校などの入学、卒業式で国歌斉唱であえて起立せず、国旗掲揚や国歌斉唱を「強制」などと批判する教師らが相変わらずいる。大学での反発が強いことは予想されたことではある。海外から多くの留学生を受け入れる国立大の節目の式で国旗掲揚、国歌斉唱を行わない大学がある現状は恥ずかしい。》

ようやくのホンネである。要するに、「大学人は、国家に服従する思想に自発的に転向せよ。でなければ、大学に対して徹底して国旗国歌を強制せよ」という産経の主張なのだ。こんな「強制」を行っているのは、人権後進国である北朝鮮と中国しか実例を知らない。人権尊重を掲げる文明国ではあり得ないことなのだ。むしろ、留学生を受け入れる国立大の節目の式で国旗掲揚、国歌斉唱などを行う大学がある現状は、恥ずかしいことこの上ない。

《しかし国際的な常識や儀礼を否定してまで、特定の政治的主張を押し通そうとすることこそ、学問の自由などをゆがめるものではないのか。》
めちゃくちゃな「論理」である。特定の政治的主張を押し通そうとしているのは、文科省であり、産経である。これは水掛け論ではない。国民には多様な思想が許容されており、その多様性を保障するために国家は価値中立でなければならない。そして、国民の多様な思想の共存を妨げる権力の行使が禁止される。だから、国旗国歌に敬意を表明すべきという思想を強制してはならない。明らかに違憲・違法なのだ。

国家は、特定の価値観を持ってはならず、ましてや国民にこれを押しつけることはできようもない。国民個人の思想・良心の自由は保障されている。産経主張は、国家主義者・全体主義者の目から見た、逆さまの世界観である。こんなまやかしの論理で、国家の思想統制を許してはならない。

《さまざまな機会を捉え国旗、国歌を大切にしたい。》
産経のボルテージの高さは、経営政策上このような主張で購読部数は減らない、と読んでのことである。このように思わせている一定の読者層の存在があるのだ。右翼メデイアは右翼購買者に支えら、また右翼を再生産もする。この文科省の愚行を礼賛する産経の論調は、国家主義が危険水域に達しつつあるのではないかとの不気味さを覚える。さまざまな機会を捉えて、国旗・国歌強制の動きにプロテストしなければならない。

たいした問題ではないと高をくくって看過していると、既成事実の積み重ねが取り返しのつかない大変なことになりかねない。ここにも「既に戦前」の影が忍びよっている。
(2015年6月26日)

「首相の談話」も「安倍の談話」もいらない。「国民の良識の声」を上げよう。

「富士の白雪」「荒城の夜半の月」と使われる「の」は、連体の格助詞として所有や所属の関係性を表すと説明される。
  ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なるひとひらの雲
と詠われれば、その美しさが引き立って、「の」も本望であろう。これに反して、「違憲の法案」「首相の野次」「こけの一念」「バカの一つ覚え」という最近の使われ方では、「の」が泣いている。

言葉は生き物である。この「の」が時に、思いもかけない役割を演じる。かつて、紀元節を「建国記念日」として復活しようという目論見が難航したとき、反対派国民を宥めるために「の」が動員された。「建国記念の日」として祝日になったのはご存じのとおり。漢語と漢語の間にはさまった「の」は、両漢語の一体感や連結度を緩和する働きをもつようである。ごつごつとした語感を、若干なりともマイルドにもする。

いままた、安倍首相は、この「の」働きに期待し利用しようとしていると伝えられる。戦後70年の「首相談話」を「首相の談話」にしようというのだ。

本日(6月25日)の毎日新聞トップ記事に次の一節がある。
内閣総務官室によると、「首相談話」には閣議決定が必要だが、「首相の談話」は首相の決裁で出すことができる。首相が13年末に靖国神社を参拝した際に出したのは「首相の談話」だった。政府関係者は「党や役所が嫌がっていると『首相の談話』になる。障害がなければ『の』が取れる」と解説する。

「首相談話」と「首相の談話」。ちょっと似てるが大きく違うというのだ。国民には何とも分からない情けない話。96条先行改憲から始まって、官邸人事による内閣法制局長官の首のすげ替え、そして集団的自衛権行使容認を認める解釈改憲まで、安倍晋三のやることなすことすべてが姑息極まるというほかはない。もっとも、姑息な「首相の談話」発表は、「首相談話」発表に政権内部の異論があることの自認だと明らかになった。さあ、勇躍「首相談話」とするか、それともひっそり「首相の談話」しか出せないと割り切るか。「安倍の思案のしどころ」だ。「国民の反対の声の大きさの読み方の如何」にかかってもいる。

同じ毎日の記事の見出しは、「戦後70年談話:首相、前倒しで独自色 過去の談話に縛られず」というもの。当然に8月15日に発表と誰もが思っていた談話の時期を、8月上旬に前倒しするという。そして、内容に「安倍カラーの独自色」を出したいというのだ。「内容のフリーハンドを確保しようという思惑が透ける」「8月15日には政府主催の全国戦没者追悼式が東京都内で開かれ、首相が式辞を述べる。首相官邸関係者は、この日と70年談話の発表が重なることを懸念した」「閣議決定をしないことで、首相自身の歴史観を談話に反映する判断をしたものとみられる」とも報じられている。

首相がこだわる安倍カラーとは国防色のことだ。軍服の色、軍靴の色、銃の色、火薬の色、砲弾の色、戦車の色である。もしかしたら、どす黒い血の色も交じっている。沖縄慰霊の日の行事では「帰れ」コールを浴び、沖縄戦で肉親を失った82歳の県民から「戦争屋は出て行け」と怒声を浴びせられた(琉球新報など)安倍晋三ではないか。今の世に安倍カラーを押し出せば、当然のことながら歴史修正主義談話とならざるを得ない。

「首相(の)談話」も、「安倍(の)談話」も要らない。安倍晋三に勝手なことを言わせておいてはならない。これを批判し、これに対抗して、「戦後70年 国民の良識の声」をこそ上げようではないか。

曇りのない目で過去を見つめ、我が国がおかした植民地政策と侵略戦争の過ちを率直に認めるところからしか、アジアの諸国民との揺るぎない友好関係を築くことはできない。そのような声を上げる場を緊急に作ろう。今年の8月15日までに。
(2015年6月25日)

西修参考人意見「強弁」の無力

戦争法案が違憲であることは、既に国民の常識となっている。斎藤美奈子の表現を借りれば、「いまや違憲であることがバレバレになった安保法制」(東京新聞・「本音のコラム」)なのだ。「違憲の法案を国会で成立させてはいけない」という正論も過半の国民の確信だ。大勢決したいま、敢えてこれを合憲と言い繕おうという強弁は、蟷螂の斧に等しい。

そのような蟷螂の役割を勇ましく買って出たのが西修(駒澤大学名誉教授)である。6月22日の安保特別委員会での参考人発言だ。しかし、どんなに勇ましいポーズをとろうとも、蟷螂は所詮蟷螂。その斧をいかに振りかざそうとも、天下の形勢にはそよ風ほどの影響もない。

6月22日参考人意見では、宮?礼壹、阪田雅裕の元内閣法制局長官両名の発言が話題となった。「学者だけでなく、官僚も違憲の見解なのだ」と。西の発言内容はほとんど話題にもならなかった。とはいえ、他にない珍らかなる蟷螂の言である。それなりの注意を払うべきだろう。報道されている限りで、その発言を整理してみたい。

西参考人発言は、次の10項目を内容とするものである。
1 「戦争法案」ではなくて「戦争抑止法案」だと思う。9条の成立経緯を検証すると、自衛権の行使はもちろん、自衛戦力の保持は認められる。
2 比較憲法の視点から調査分析すると、平和条項と安全保障体制、すなわち集団的自衛権を含むとは矛盾しないどころか、両輪の関係にある。
3 文理解釈上、自衛権の行使は、全く否定されていない。
4 集団的自衛権(国連憲章51条)は、個別的自衛権とともに、主権国家の持つ固有の権利、すなわち自然権である。また、両者は不可分であって、個別的自衛権か集団的自衛権かという二元論で語ること自体がおかしな話。
5 集団的自衛権の目的は抑止効果であり、その本質は抑止効果に基づく自国防衛である。
6 我が国は、国連に加盟するに当たり、何らの留保も付さなかった。国連憲章51条を受け入れたと見るのが常識的だろう。
7 個別的自衛権にしろ集団的自衛権にしろ、自衛権行使の枠内にある。国際社会の平和と秩序を実現するという憲法上の要請に基づき、その行使は政策判断上の問題であると思います。
8 政府は、「恒久の平和を念願し」「国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」などという国民の願いを真摯に受けとめ、国際平和の推進、国民の生命、安全の保持のため、最大限の方策を講ずるべき義務を負っている。
9 国会は、自衛権行使の範囲、態様、歯どめ、制約、承認のありようなどについて、もっと大きな視点から審議を尽くすべきである。
10 今回の安全保障関連法案は、新3要件など、限定的な集団的自衛権の行使容認であり、明白に憲法の許容範囲である、このように思うわけであります。

私の要約は、大きく間違ってはいないはず。ところどころ、テニオハが少しおかしいが、これは、西の発言の原型を尊重しているからだ。以上をお読みになって、はたして蟷螂の斧の威力の有無以前に、そもそも西製斧の形状や素材を認識できるだろうか。主張への賛否や、説得力の有無の判断以前に、主張の筋道や論理性を理解できるだろうか。

論証の対象は、「安全保障関連2法案(戦争法案)の合憲性」「法案の9条との整合性」、少なくとも「違憲性の否定」である。上記10項目がそのような論証に向けての合目的的な立論となっているとはとても考えられない。これを聞かされた自民党・公明党の委員も、さぞ面食らったのではなかろうか。

以上の、理屈らしい理屈を述べようとした部分はきわめて分かりにくい。というよりは、合憲論の論証としてはほとんど体をなしていない。分かり易いのは、西が最後に述べたところである。大意は以下のとおりだ。

「我が国の平和と安全を維持するための安全保障であれば、その目的を達するためにふさわしい方式または手段である限り、国際情勢の実情に即応して適当と認められるものを選ぶことができることはもとよりであって、我が憲法9条は、我が国がその平和と安全を維持するために他国に安全保障を求めることを何ら禁ずるものではないのである。」

これは分かり易い。要するに、「主権国家は平和と安全を維持するために、国際情勢の実情に即応して適当と認められることなら何でもできる」というのである。おそらくは、このあとに、「主権国家が平和と安全を維持するために国際情勢の実情に即応して適当と認められることをすることが違憲となることはありえない」「本法案は、そのような『適当と認められる』範囲内の法律を定めるものだから違憲ではない」ということになるのだろう。要するに、「国を守るためなのだから憲法の字面に拘泥してはおられない」という分かり易く乱暴な「論理」である。この「論理」で前述の10項目を読み直すと、なるほど了解可能である。もちろん、了解可能とは意味内容の理解についてだけ。けっして同感や賛同などできる訳がない。

西の立論では、憲法9条の文言が具体的にどうであるかはほとんど問題にならない。「比較憲法学的に」、一般的な安全保障のあり方の理解や、国際情勢のとらえ方次第で、憲法の平和条項はどうとでもフレキシブルに解釈可能というのだ。およそ、憲法が権力の縛りとなるという発想を欠くものというほかはない。

また、西の主張では、自衛権に個別的だの集団的だのという区別はない。どちらも国家の自然権として行使が可能というのだ。時の政権の判断次第で、我が国の存立のためなら何でもできる。憲法よりも国家が大切なのだから当然のこと、というわけだ。

これはまたなんと大胆なご主張、と驚くほかはない。あからさまな立憲主義否定の立論である。主権者が憲法制定という手続を経て、為政者に対して課した権力行使に対する制約を認めない立場と言ってよい。

立憲主義を認め、9条の実定憲法上の規範性を認めた上で、問題の法案を合憲というには、きわめて精緻でアクロバティクな立論が要求される。西流の乱暴な議論では、どうにもならないのだ。

やはり、自民党は今度も参考人の人選を誤ったようだ。とはいうものの、敢えて蟷螂たらんとする者は他になく、手札は底を突いていたのだろう。西参考人推薦は、与党側にとって合憲論での巻き返しの困難さをあらためて示したというほかはない。
(2015年6月24日)

「違憲のウワサも75日、95日でなんとかなるさ」は許さない。

95日(!!)の会期延長だという。これは戦争法案成立に向けた安倍政権の並々ならぬ執念の表れ。しかし、この非常識というべき延長日程は、安倍内閣存立の非常事態宣言ではないか。論戦での劣勢を自認し、数を恃んでの強行突破はできないという自白でもあるのだ。

世論を宥める時間が必要だ。人の噂も75日。法案違憲で沸騰している世論も、75日もあれば治まるだろう。「95日も延長すれば、説明が足りないなどとは言わせない。」「これでなんとか成立に漕ぎつけるだろう」との背水の陣とも読める。

しかし、これは政権にとっての大きな賭けでもある。時間がたてば立つほど、反対世論が大きく強固なものになっていく可能性も大きい。当然、廃案時の傷はより大きくなる。政権そのものを崩壊させることにもなるだろう。安倍の心中穏やかであるはずがない。

幸い今のところ株価の推移は順調だ。これが内閣支持率の頼みの綱。もう少し時間をかけて、法案について「丁寧な説明」を尽くせば世論はやがて変わるだろう。別に合憲と考えていただかなくても結構。強行採決をしても大きな反発を招くことにはならないという程度でよいのだ。もちろん、「丁寧な説明」とは内容についてのものではない。世論の危惧と噛み合った説明をしていたのでは、次々とボロが出る。さらに世論を刺激してしまう。そのくらいのことを心得ない私ではない。

だから、過去のことを聞かれたら未来のことで切り返す。昨日のことを聞かれたら一昨日の話しで煙に巻く。明日の天気について質問されたら、明後日の空模様を答弁する。左が問題になっていても得意の右を論じる。白ではないかと問い質されたら、黒ではないようだと答える。噛み合っていないではないかという再質問には、再び丁寧に同じことの説明を繰り返す。この洗練された「忍法・はぐらかし」で、のらりくらりと時間を稼げばよいのだ。こうして時間稼ぎをしているうちに、攻め手は疲れる。世論は飽きる。どこかで強行採決のタイミングというものが熟してくる。そんなものさ。これが安倍流逃げ切りの術。

そうは問屋が卸さない。日本の命運が掛かった根競べだ。世論の追求が勝つか、安倍が逃げ切るか。その95日レースの中間指標が、各紙の世論調査だ。法案への賛否や、内閣支持率。その数値の騰落が、政権の行動を縛りもし煽りもすることになる。

本日の朝日が、世論調査の結果を公表している。ここがスタートだ。これに続く世論調査の結果次第で、安倍を追い詰めることにもなり、安倍の逃げ切りを許すことにもなる。このスタートの状況を確認しておきたい。

朝日が20・21の両日に行った全国世論調査(電話)によると、安倍内閣の支持率は39%で、前回(5月16、17日調査)の45%から下落し、第2次安倍内閣発足以降最低に並んだ、という。
◆安倍内閣を支持しますか。支持しませんか。(かっこ内は5月調査時の数値)
  支持する   39%(45)⇒6%の下落
  支持しない  37%(32)⇒5%の上昇
1か月間で、安倍内閣支持から不支持への鞍替え組が少なくとも5%である。日本の有権者総数はほぼ1億人。およそ500万人の大移動だ。これで、支持不支持層の差は13%→2%と減じて、ほぼ差がなくなった。女性だけに限れば逆転(支持34、不支持37%)しているという。ここがスタートラインだ。

戦争法案への賛否は、「賛成」29%に対し、「反対」は53%と過半数を占めた。
 ◆安全保障関連法案に、賛成ですか。反対ですか。
   賛成 29(29)
   反対 53(43) ⇒10%の上昇、過半数に。
この「10%≒1000万人」の戦争法案反対への1か月の大移動が内閣支持率を変えたのだ。

さらに、法案をいまの国会で成立させる必要があるか聞くと、「必要はない」が65%を占め、「必要がある」の17%を大きく上回る。延長してでも今国会での成立を目指す政権に賛同する世論はきわめて少数なのだ。
 ◆この法案を、今の国会で成立させる必要があると思いますか。今の国会で成立させる必要はないと思いますか。
 今の国会で成立させる必要がある17(23)⇒6%の減
 今の国会で成立させる必要はない65(60)⇒5%の増

今国会で成立させる「必要がない」というのが、「ある」の3倍に近い圧倒的世論と言ってよい。強引にこの世論をねじ伏せようというのが、政権の95日会期延長である。明らかに、議会内の議席配分と議会外の民意とは大きく乖離しねじれている。もしかしたら、安倍は、この上なく危険な虎の尾を踏んでしまったのではなかろうか。

さらに朝日は、いくつか興味深い設問をしている。まずは、戦争法案の合違憲についての意見調査。
憲法学者3人が衆院憲法審査会で「憲法違反だ」と指摘したが、こうした主張を「支持する」と答えた人は50%に達した。他方、憲法に違反していないと反論する安倍政権の主張を「支持する」という人は17%にとどまっている。
 ◆法案について、3人の憲法学者が「憲法に違反している」と主張しました。
  これに対して安倍政権は「憲法に違反していない」と反論しています。
  どちらの主張を支持しますか。
   3人の憲法学者  50% ⇒ほぼ3倍の圧勝。
   安倍政権      17% ⇒ほぼ3分の1のボロ負け。

安倍晋三首相は法案について「丁寧に説明する」としているが、首相の国民への説明は「丁寧ではない」という人は69%。「丁寧だ」の12%を大きく上回った。
 ◆安倍首相の安全保障関連法案についての国民への説明は、丁寧だと思いますか。
  丁寧ではないと思いますか。
   丁寧だ        12%
   丁寧ではない    69%⇒「丁寧だ」派の5.75倍

もうひとつ。
◇(安倍内閣を「支持する」と答えた39%の人に)これからも安倍内閣への支持を続けると思いますか。安倍内閣への支持を続けるとは限らないと思いますか。
 これからも安倍内閣への支持を続ける    47%
 安倍内閣への支持を続けるとは限らない   49%
◇(「支持しない」と答えた37%の人に)これからも安倍内閣を支持しないと思いますか。安倍内閣を支持するかもしれないと思いますか。
 これからも安倍内閣を支持しない       60%
 安倍内閣を支持するかもしれない       33%

つまり、安倍内閣支持派の支持の度合いは不確かなのだ。浮動的といってよい。けっして確信にもとづく支持ではない。「安倍内閣への支持を続けるとは限らない49%は、支持から不支持への予備軍が大量に存在していることを物語っている。安倍不支持派拡大の「のりしろ」が大きいということなのだ。一方、安倍不支持派は、遙かに固定性が高い。しかも、留意すべきは、1か月で500万?600万人の「支持⇒不支持・意見大移動」を経てなお、この数字なのだ。

政権の説明は、国民への説得力を持っていないことが明らかとなっている。安倍内閣が戦争法案を閣議決定したのが5月14日、国会上程が翌15日。以来、1か月間の「丁寧な説明」の結果が、この世論調査結果である。これから、95日間安倍の「丁寧な説明」はさらに国民の不支持を拡げるだろう。

国民一人ひとり、のみならず子々孫々の運命に関わる大問題だ。安倍の敵失を待っているだけでは、95日レースの勝利を確実なものとはなしえない。戦争をできる国への変身の危険と愚かさをあらゆる手段で発信し続けよう。既に、「潮目が変わった」のレベルは通り越した。もはや、世論は止めて止まらぬ「大きな竜巻」になりつつある。自信をもって戦争法案を吹き飛ばそう。
(2015年6月23日)             

戦争法案を廃案に。戦争法を支える教育行政の暴走にも歯止めを。

「安倍政権の教育政策に反対する会」を代表して開会のご挨拶を申し上げます。月曜日の正午スタートという、ご都合つきにくい日程にもかかわらず、参議院議員会館での教育を考える集会に多数ご参集いただきありがとうございます。

本日の集会のメインタイトルは、『いま、教育に起っていること』であります。
まことにさまざまなことが、いま、教育に起こっております。到底見過ごすことができないことばかり。ひとつひとつのできごとをしっかりと見つめ、見極めなければなりません。この教育分野のできごとは、けっして教育分野独自の問題として独立して生じているわけではありません。当然のことながら、教育問題も政治的・経済的・社会的な全体状況の一側面であります。他の政治や経済や社会状況と切り離して論じることはできません。そのような問題意識が、サブタイトル『戦争法とも言われている安保法制下での教育、ふたたび』として示されています。

国会の内外は、戦争法案審議の成否をめぐって、いま騒然たる状況にあります。その騒然たる状況は、全国津々浦々の教育現場の状況と密接に関連しています。初等中等教育に、政権が、あるいはその意を受けた地方権力が、乱暴な介入をしているだけでなく、いよいよ大学教育にも政権の介入が及ぼうとしています。

その政権が、昨年7月1日の集団的自衛権行使容認の閣議決定に続いて、いま戦争法案を国会に上程しました。衆議院での審議は紛糾し、政府与党は本日にも大幅な会期延長で、なんとか今国会での法案の成立を画策しています。これまでは我が国の外交にも内政にも、戦争・参戦という選択肢はありませんでした。自衛隊ありといえども、専守防衛の原則を厳守するというタテマエから踏み出すことはできなかったのです。ところが、いま、世界のどこにでも日本の武装組織が出かけていって戦争をする、戦闘に参加する、そういう選択肢をもつ、国に変えようというたくらみが強引に推し進めらようとしています。

もし、政権の思惑通りにことが成就するとすれば、まさしく憲法の平和主義からの大きな逸脱であり、これこそ「戦後政治の総決算」であり、「戦後レジームからの脱却」というほかはありません。この政権の動きと軌を一にして、教育も、そのような政策に奉仕する人材を育成する内容に変更されようとしている、と考えざるをえません。

戦争を政策選択肢とする国とは、いつもいつも効率よく戦争を遂行できるよう、万全の準備を怠らない国です。いざというときには、政権の呼びかけに応じて全国民が一丸となって戦争に参加しなければなりません。そのような国を支える教育とは、いったいどんなものなのでしょうか。

自らものを考え行動する自立した主権者を育てる教育とは対極にある教育。権力が望む批判精神を欠いた国民を育成する教育。結局のところ、権力の意思を子どもたちに刷り込み、国家の言いなりに動く人材を育成する教育。その政策の根底には、国民個人を軽んじる国家主義ないしは軍事大国化の志向があり、大企業の利益に奉仕する新自由主義があります。

本日は、何よりも教育の分野総体が、いったいどうなっているかを正確に把握したいと思います。そして、その背景を煮詰めて考える手がかりを得たいと思います。冒頭に総論として世取山洋介さん(新潟大学教授)の基調講演をお願いしています。「教育情勢全般の状況について」という世取山さんならではのご報告に耳を傾けたいと思います。そのあと、各論として、まず俵義文さん(子どもと教科書全国ネット21)から重大な局面を迎えている教科書採択状況についてのご報告。また、近時新たに大きな問題となってきました政権の大学の自治への攻撃をめぐる問題について岩下誠さん(学問の自由を考える会事務局長・青山学院大学准教授)から、さらには教育の歪みの端的な表れである学校でのいじめ問題について武田さち子さん(ジェントルハート理事)に、それぞれ20分ずつのご報告をいただき、その後ご参加いただける議員や会場の皆さまを交えての意見交換をいたしたいと存じます。

目指すところは、戦争法案と同じ根っこから顔を出している政権の全面的な教育介入に対する摘発です。戦争法案とともに、政権の教育への不当な介入も吹き飛ばすにはどうすればよいのか。教育を「ふたたび」戦前に戻してしまうような愚かさを繰り返すことのないよう自覚しなければならないと思います。そのために、本日の集会が充実した実りある議論の場となりますように、皆さまのご協力をよろしくお願いいたします。
(2015年6月22日)

カート・ヴォネガットとともに、サイコパス安倍に怒りを

1945年2月13日、ドレスデンは連合軍の無差別爆撃で文字どおり焼き尽くされた。英空軍所属のランカスター重爆撃機800機に続いて米空軍のB17「空の要塞」450機が、高性能爆弾と新型焼夷弾を投下した。さらに、P51ムスタングが、廃墟をさまよう市民に機銃掃射のとどめを刺したという。一晩で13万5000人が焼死したというのが公式記録となっている。爆弾・焼夷弾の投下量において東京大空襲を遙かに上回る規模の市民殺戮。

そのドレスデンに、当時無名だったカート・ヴォネガットがいた。アメリカ兵として対独戦に参戦し、この町で捕虜になっていたのだ。奇跡的に生き延びた彼は、後年ドレスデン大空襲を素材に「スローターハウス5」を執筆する。

彼はこの空襲を、「とことん無意味で、不必要な破壊だった」「あれは一種の軍事実験で、焼夷弾をばらまくことによって全市を焼き尽くすことが可能かどうか試してみたかったのだろう」と言っている。ドイツ系アメリカ人として対独戦に参加し、英・米の無意味な空襲で死にかけた彼にとって、国家とはいったいなんだったのだろうか。

英米のドレスデン爆撃以前に、ナチス・ドイツのゲルニカ爆撃があり、皇軍の重慶無差別空襲があった。そして、ドレスデン大空襲の直後に、東京大空襲の惨劇となった。いずれも、「とことん無意味で、不必要な破壊」であり、国家による市民大殺戮でもある。

アメリカを代表する作家となったカート・ヴォネガットは、2005年に82歳で、「A Man Without a Country」というエッセイのような、回顧録のような、評論集とも言える書物を著す。この書は「ニューヨーク・タイムズのベストセラーとなり、また最後の著作となった」と紹介されている。

2007年にNHK出版から刊行された訳本の表題は「国のない男」。「Without a Country」とは、「国にとらわれず、国と為政者を徹底して批判し、国を相対化し、国をおちょくった」という語感が込められている。「国を拒絶した」が意訳としてふさわしいのではないだろうか。

国と、国をなり立たせている人や仕掛けに対して、その欺瞞性や俗悪性をえぐり出す批判精神の強靱さには一驚せざるを得ない。NHK出版からの訳本(訳者は金原瑞人)だが、「政府が右と言えば、左とは言えない」とのたまう心性とはおよそ対極にある知性が躍動している。

さらに驚くべきは、彼の怒りが、今のわれわれの怒りとまったく質を同じくしていることだ。その書の中のブッシュを安倍に、アメリカ憲法を日本国憲法に置き換えれば、「Without a Country」はそのまま日本に通用する。パロディにすらならない。たとえば、こうだ。

これが理想だよ、と言って掲げたらだれもが納得してくれるものがある。それは、日本国憲法だ。わたしはこの憲法のために、正義の戦いを戦った。しかし、その後この国は、どこかからの侵略者に一気に乗っ取られてしまったのではないだろうか。

安倍晋三は、自分のまわりに上流階級の劣等生たちを集めた。彼らは歴史も地理も知らず、自分が差別主義者であり歴史修正主義者だということをあえて隠そうともしない。何より恐ろしいことに、彼らはサイコパスだ。サイコパスというのはひとつの医学用語。賢くて人に好印象を与えるものの、良心の欠如した連中を指す言葉だ。

世の中には生まれながらに目が悪い人や耳が聞こえない人などがいる。だが、いまここで言っているのは、生まれつき人間的に欠陥のある人、この国全体を最悪の場所に変えてしまった元凶ともいうべき連中のことだ。生まれつき良心の欠如している人々、ともいえる。そういう連中が、いま、世の中のすべてを一気に乗っ取ろうとしている。サイコパスは外面がいい。そして自分たちの行動がほかの人にどんな苦しみをもらたすかもよくわかっているが、そんなことは気にしない。というか、気にならない。なぜなら頭がイカレているからだ。ネジが一本ゆるんでいる。

サイコパス。これ以上にぴったりくる言葉がなさそうな種類の人たち。自分たちは清廉潔白なつもりでいる。だれに何を言われようと、どんな悪評が立とうと、少しも気にしない。

こういう多くの冷酷なサイコパスがいまや、政府の中枢を握っている。病人ではなく指導者のような顔をして。彼らはいろんなものを統括している。報道機関も学校も。われわれはまるで大日本帝国占頷下の朝鮮状態だ。

これほど多くのサイコパスが政府に巣くってしまった原因は、彼らの迷いのなさだと思う。彼らは毎日、目標に向かって何かをこつこつとやり続ける。恐れることを知らない。普通の人々と違って、疑問にさいなまれることがない。これをしてやろう。あれをしてやろう。自衛隊を動員してやろう。学校教育を私物化してやろう。政府を秘密の壁で守っておこう。正規労働者をなくして大企業にサービスしよう。医療・介護をカットしてやろう。国民全員の電話を盗聴してやろう。金持ちの税金を安くして貧乏人から取り立てよう…。

われわれが大切に守るべき日本国憲法には、ひとつ、悲しむべき構造的欠陥があるらしい。どうすればその欠陥を直せるのか、わたしにはわからない。欠陥とはつまり、頭のイカレた人間しか首相や閣僚になろうとしないということなのだ。
(2015年6月21日)

舛添さん、「日の丸・君が代」強制問題にもっと関心を。もっと事実の認識を。

舛添要一さん、あなたの都知事としての言動には、注目もし期待もしている。注目しているのは、都政が人権や民主主義あるいは教育・環境・消費生活等々に、とても大きな影響をもっているからだ。とりわけ、私の当面の関心は都立校での国旗国歌強制政策の転換だ。

期待しているのは、あなたの姿勢のリベラルさ故にだ。保守であってもリベラルではありうる。リベラルでさえあれば話し合いも歩み寄りも折れあうこともできる。その点、石原慎太郎とは大違いだ。東京都のホームページ「知事の部屋」で、あなたの記者会見の模様を動画で見ることができる。毎週金曜日午後3時からの定例記者会見の要旨は、各紙が報道もしている。就任以来のあなたの発言の態度も内容も、概ね好感のもてるものだ。もっとも、石原慎太郎との比較をベースにしてのことだから、あなたにはご不満だろうが。

石原記者会見は、やたらに威張りたがるキャラクター丸出しの不愉快な雰囲気だった。威圧的な姿勢に若い記者が気圧されていた。あなたの前任の石原後継知事も「威張りたがりキャラクター」のDNAを受け継いでいた。しかし、あなたは違う。目線を同じくして飾らずフランクに記者諸君と話し合う姿勢の好感度は大だ。やたらと威張らないというそのことだけで、石原時代よりもずっと期待がふくらむのだ。

あなたの言っていることは、常識的でリベラルだ。知性の自信に裏打ちされた余裕を感じる。憲法理念への理解も相当なものだ。都政がいつまでも暗黒の中世から抜け出せないでは困るのだ。あなたに、開明のルネッサンスへの転換の期待がかかっている。

ところが、「日の丸・君が代」問題については、どうもあなたの言うことがおかしい。リベラルでもなければ、知性の片鱗も見えない。ルネッサンスの明るさはなく、キリシタン弾圧や特高警察時代の暗さのままだ。どうなっているのだろう、と首を傾げざるを得ない。

舛添さん、あなたはあまりにも事実の経過を知らない。いや、知らされていない。また、あなたも知ろうとしていない。おそらくは関心が振り向けられていないのだ。教育委員会が独立行政委員会であることを口実に、面倒な問題を避けているとしか見えない。しかし、この問題の発端は石原都知事の国家主義イデオロギーを教育に持ち込んだところにある。あなたには、都知事としてこの右ブレを是正する責任がある。ことは、教育の問題であり、民主主義に大きく関わる問題なのだから、良心と勇気をもっていただきたい。

あなたに関心ないとして放置されては困る。ぜひとも、現状の教育の歪みを是正し、誰が見ても異常な東京都の教育を真っ当なものとする努力をしてもらわねば困るのだ。困るのは、訴訟当事者や教員だけではない。何よりも教育現場の子どもたちが困る。明日の主権者を育てる教育そのものが困り果てている。都民が困る。国民が困る。舛添さん、あなただって、このままでは教育には見識のない不適切知事と指摘されることになって困るはずなのだ。

まずは、もう少し、首都の公立校の教育現場の実情とこれまでの経過について、正確に把握されるようお願いしたい。教育庁幹部の、保身の報告だけを信用していたのでは、無能なお飾り教育委員同様、裸の王様のままとなってしまう。

少なくともこれだけは押さえていただきたい。1989年学習指導要領の国旗国歌条項改定前の「都立の自由」がどのようなものであったか。1999年国旗国歌法の内容はどのようなものであったか。同法案の審議の経過では「国旗国歌を強制するものでない」ことがあれだけ繰りかえし強調されながら、「石原教育行政」はどのようにして強制に踏み切ったのか。2003年10月の「10・23通達」が、どのような経過で出され、どのように教育現場に混乱を持ち込んだか。そして、いくつもの訴訟で、どのような判決が出ているのか。そして、現在なお、多くの訴訟が継続中で、最近の判決は都教委の連戦連敗であること、などである。そして、最高裁判決に付せられた、異例の補足意見の数々をよくお読みいただきたい。最高裁の裁判官諸氏は、けっして「日の丸・君が代」強制を問題ないとはしていない。むしろ、ぎりぎり「違憲とまでは言えない」とはしつつも、都教委の強引なやり方に苦り切った心情を露わにして、なんとか事態を改善しろよ、と言っていることを知ってもらいたい。

これまでの都の教育行政による、反憲法的反教育的な教育への介入に、直接あなたの責任があるわけではない。責任があるのは、石原都知事であり、その提灯持ち教育委員であり、それにつるんだ右翼都議の何人かであり、使い走りをさせられた教育庁の幹部職員である。

その多くは既にその任にはない。幹部職員に若干の残党がいる程度。あなたはいま、英断を下すことができる立場だ。しかし、時期を失すると、あなた自身の責任が出て来る。後戻りが難しくなってくる。早期に、手を打っていただくことが肝要だ。

私は確信している。あなたの感覚なら、経緯さえ正確に把握すれば「日の丸・君が代」不起立の教員の心情を理解できないはずがない。思想・良心の自由(憲法19条)、信教の自由(20条)、個人の尊厳(13条)への洞察の素養があるはずだ。にもかかわらず、あなたは、教育庁の担当職員にブロックされて、これまで都教委がいったい何をやって来たのか、いまどんな問題を抱えているのか、何も知らないことをさらけ出した。それが、6月12日金曜日の定例会見の席上でのことだ。

「週刊金曜日」の記者が、東京都敗訴の最近2判決についてあなたに質問をした。そのやや長い質問自体から、記者が問題に精通していることは明らかだった。ところが、質問を受けたあなたの方はほとんど何も知らないことを明らかにした。何も知らないが、自ら知ろうとはしない。この問題を都教委任せにしていればよいとの姿勢であることが明確になった。

記者の質問は、都(都教委)が1週間に2度の敗訴判決を受けるという異常な事態を踏まえて2点あった。
第1点 東京高裁の都教委敗訴判決がその理由中で、「都教委の国旗国歌問題に関する懲戒処分の量定決定は機械的な累積加重の手法となっている」「これは教員の思想・良心の自由を侵害する」と判示している。ここまで裁判所が明示した以上は機械的累積加重処分はやめるべきだと思うが、この点についての知事の見解を伺いたい。

第2点 これまで10・23通達以後の君が代処分を受けた教師は474人にのぼっている。この教師たちは、都と話し合いで問題を解決したいと望んでいる。教育の正常化のためにこれに応じる意思はないか、知事の見解を伺いたい。

これに対するあなたの回答は、おかしいものとなった。しかし、そのおかしさ自体が貴重な情報だ、削除せずに全部の映像を公開していることを評価したい。あなたは判決を読んでいないだけでなく、判決の内容や要旨の報告さえ受けていない。質問した記者の説明にもかかわらず、機械的累積加重処分の意味も理解できていない。そもそも裁判で、何が争点となり、なぜ東京都が惨めに敗訴したか、担当職員からの説明はなかったと判断せざるを得ない。

質問した記者も指摘をしているが、あなたには基礎事実について、大きな誤解がある。
どうも、あなたは、474人の懲戒処分の根拠が「国旗国歌法違反」にあるとお考えの節がある。

最後は、意味不明となる発言まで拾って、つなげてみると以下のようになる。
「国権の最高機関が法律を作っているわけですね。国旗日の丸、国歌君が代ということで。だから、公務員でありますから、当然それを守らないといけないという義務がある」「だから、これは思想の自由の侵犯だみたいな形では簡単にいかない」「国旗国歌法自体が、それでは憲法違反なのかと、こういう議論にもなるので」「私は国権の最高機関が決めたことなので、今言った問題点があるとしか申し上げません」「国歌って歌うから国歌ではないですか。そうでしょう。だから、そこまで言うと、それは屁理屈の世界になってしまうので、私はやはり国権の最高機関で決められたものは守るべきだと思っています。」

舛添さん、あなたは、「国旗国歌法を守らなければならないのか否か」を争点として訴訟が行われているとのご理解のようだ。知事就任以来、1年半に近い。その間、職員の誰一人として、あなたに訴訟の概要についての説明をする者がなかったということになる。

舛添さん、教育行政に関心をもっていただきたい。石原知事は極右の立場から、過剰に教育と教員行政に干渉した。それを放置していてはならない。都教委が、都知事から独立した立場にあることへの配慮は当然として、6月12日記者会見での質問には、まともに答えられるようにお願いをしたい。

何よりも、事実を知っていただきたい。私に報告を求められれば、喜んで出向きたい。あなたのリベラルな素養が、正確な事実経過についての認識さえあれば、これまでの都の教育行政がいかに無茶苦茶であるかについて共感してもらえるものと思う。そこから、異常な教育現場の現状を変革し、教員の意欲にあふれた教育現場を取り戻すために一歩を踏み出すことが可能となるはずである。くれぐれも申しあげる。今のままでは東京の教育はダメなのだ。
(2015年6月20日)

差別と偏見を克服しよう。憎しみと暴力と戦争をなくすために。

アメリカ南部・サウスカロライナ州の教会で9人が惨殺された。殺人者は21歳の白人男性、乱射された銃弾で亡くなったのはいずれも黒人の9人。現地時間6月17日夜(日本時間18日午前)のこと。教会で、無防備の人々を襲った悲劇。その理不尽に胸が痛む。

逮捕された犯人は日頃から人種差別の言動を露わにしており、典型的なヘイトクライムであると報じられている。また、この犯人は本年4月、21歳の誕生日に親から銃を買ってもらっているともいう。社会の暗黒と人の心の底に秘められた暗部とが噴出した印象。恐るべき社会の恐るべくも悲惨かつ醜悪極まる犯罪。

生まれながらの差別主義者はいない。生得の偏見はない。人は、物心ついてから理不尽な差別や偏見の感情を、社会や家庭から学んで獲得していくのだ。彼の地の黒人差別、ユダヤ人差別、ヒスパニックやアジア人に対する差別感情。そして、身近な問題として在日の人々への理由なき偏見、ヘイトスピーチ。どのようにすれば、差別や偏見を克服できるのだろうか。

惨劇の舞台となった教会は、マーチン・ルーサー・キング牧師が訪れたこともある、公民権運動にゆかりの場所であるという。「キングセンター」は、殺害された人々に哀悼の意を表すとともに「キング牧師の魂、そして、その哲学に従い、私たちはいかなる人種差別、憎しみ、戦争、そして、暴力に強く反対します」とコメントしたという。「差別、憎しみ、暴力、そして戦争」が、否定さるべき負のキーワードとされている。

たまたま、本日の赤旗文化欄「今月の詩」に、おぎぜんたの「虐殺記念日のヤモリ」という題の詩が紹介されている。「ルワンダの虐殺記念日の夜」にちなんだ沈痛な詩。その中で、次の歌の一節が引用されている。

 ある人種が優れていて
 ある人種が劣っているという哲学が
 永久にこの世から抹殺されるまで
 この世はいつまでも戦争だ

注がついている。「ボブ・マーリーの歌『ウォー』から(エチオピアのハイレセラシェ皇帝の演説をもとにした歌である)」と。キングセンターのコメントと符節がピッタリだ。今日だからこそ、この歌詞が深く胸にしみいる。

ネットで検索すると、こんな訳文も見つかった。
 ある民族がある民族より優れている、または劣っている
 そんな思想が、最終的かつ永続的に根絶され廃棄されない限り
 いたるところで、戦いは続いていく

 いかなる国においても、市民の間に差別がなくなり
 人間の肌の色が目の色と同じく意味をなさなくなるその日まで
 戦いは続いていく

この歌の中の「人種」「民族」は、いろいろに置き換えられる。宗教、言語、家柄、門地、地域、性別、年齢、職業、経済力、学歴、身体能力、容姿……。人と人の間に、尊厳における優劣があると認めるところに、諍いの火種が生じる。諍いは憎悪であり、暴力を生み、戦争にもつながる。

この歌の中の「戦争」は、象徴的な意味であるだけではなく、現実の国家間の武力衝突でもあり陰惨な殺戮でもある。

差別と偏見とは、社会に埋め込まれた毒物であり自爆装置である。その処理を誤れば社会が崩壊する。人類の壊滅にもつながりかねない。だから、社会は理不尽な差別と偏見を克服しなければならない。そのためのあらゆる努力をしなければならない。それが、あらゆる憎しみや暴力をなくし、さらには戦争をなくする正道となるだろう。
(2015年6月19日)

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