澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

キーワードは平和的生存権?松阪市長の「閣議決定違憲確認訴訟」を応援する

集団的自衛権の行使を容認した7月1日閣議決定への批判の嵐は収まりそうにない。
「政府が右と言えば左とは言えない」NHKは特殊な例外として、あらゆる方面から、これまでにない規模とかたちの批判が噴出している。なかでも、三重県松坂市の若い市長による閣議決定の無効確認集団提訴運動の呼び掛けはとりわけ異彩を放っている。

7月1日の閣議決定を受けて、松阪市の山中光茂市長は、同月17日には提訴のための市民団体「ピースウイング」を設立し、自らその代表者となった。今後、全国の自治体首長や議員、一般市民に参加を呼び掛け、集団的自衛権をめぐる問題に関する勉強会やシンポジウムを開くなど提訴に向けた準備を進める予定と報じられている。大きな成果を期待したい。

伝えられている記者会見での市長発言が素晴らしい。「愚かな為政者が戦争できる論理を打ち出したことで幸せが壊される。国民全体で幸せを守っていかなければならない」というのだ。素晴らしいとは、安倍首相を「愚かな為政者」と評した点ではない。そんなことは国民誰もが知っている。「国民の幸せを壊されないように守って行かなければならない」と呼び掛けていることが素晴らしいのだ。

言葉を補えば、「集団的自衛権行使容認の閣議決定によって、このままでは国民の幸せが壊されることになりかねない。そうさせないように、国民全体で国民一人一人の幸せを守っていかなければならない。そのために提訴をしよう」という認識が語られ、具体的な行動提起がなされている。

おっしゃるとおりなのだ。国民は幸せに暮らす憲法上の権利を有している。とりわけ戦争のない平和のうちに生きる権利を持っている。

このことを憲法前文は、「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と宣言している。しかも、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し…この憲法を確定する」とも言っている。この2文をつなげて理解すれば、「為政者によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意してこの憲法はできている。だから、安倍のごとき愚かな為政者が憲法をないがしろにしようとするときは、一人一人の国民が平和のうちに生存する権利を行使することができる」ことになる。これが、平和的生存権という思想である。

憲法は、人権を中心に組み立てられている。憲法上の制度は、人権を擁護するためのツールと言ってよい。信仰の自由という人権を擁護するために政教分離という制度がある。学問・教育の自由という人権を擁護するために大学の自治という制度がある。言論の自由に奉仕する制度として検閲の禁止が定められている。

これと軌を一にして、平和的生存権を全うするために憲法9条がある。戦争を放棄し戦力を保持しないことで国民一人一人の平和に生きる権利を保障しているのだ。憲法9条の存在が平和的生存権を導いたのではなく、平和的生存権まずありきで、平和的生存権を全うするための憲法9条と考えるべきなのである。

平和的生存権を単なる学問上の概念に留めおいてはならない。これを、一人前の訴訟上の具体的な権利として育てて行かなくてはならない。その権利の主体(国民個人)、客体(国)、内実(具体的権利内容)を、度重ねての提訴によって、少しずつ堅固なものとしていかなければならない。

私は、平和的生存権の効果として、具体的な予防・差止請求、侵害排除請求、被害回復請求をなしうるものと考えている。そして、そのことは裁判所の実効力ある判決を求めうる権利でなくてはならない。

この平和的生存権は、松坂市長が提唱する閣議決定違憲確認訴訟(いわば「9条裁判」)成立の鍵である。これなくして、抽象的に「閣議決定の違憲確認請求訴訟」は成立し得ない。

最も古い前例を思い起こそう。1950年警察予備隊ができたときのこと、多くの人がこの違憲の「戦力」を司法に訴えて断罪することを考えた。この人たちを代表するかたちで、当時の社会党党首であった鈴木茂三郎が原告になって、最高裁に直接違憲判断を求めた。有名な、警察予備隊違憲訴訟である。

その請求の趣旨は、「昭和26(1951)年4月1日以降被告がなした警察予備隊の設置並びに維持に関する一切の行為の無効であることを確認する」というもの。これが、違憲確認訴訟の元祖である。

最高裁は前例のないこの訴訟を大法廷で審理して、全員一致で訴えを不適法と判断して却下した。ここで確立した考え方は、次のようなもの。「日本の司法権の構造は、具体的な権利侵害をはなれて抽象的に法令の違憲性を求めることはできない。具体的な権利侵害があったときに、権利侵害を受けた者だけが、権利侵害の回復に必要な限りで裁判を申し立てる権利がある」ということ。

この確定した判例の立ち場からは、「7月1日閣議決定が憲法9条に違反する内容をもつ」と言うだけでは違憲確認の判決を求める訴訟は適法になしえない。誰が裁判を起こしても、「不適法・却下」となる。

そこで、平和的生存権の出番となる。国民一人一人が平和的生存権を持っている。誰もが、愚かな政府の戦争政策を拒絶して、平和のうちに生きる権利を持っている。この権利あればこそ、人を殺すことを強制されることもなければ、殺される恐怖を味わうこともないのだ。

父と母とは、わが子を徴兵させない権利を持っている。教育者は、再び生徒を戦場に送らせない権利を持つ。宗教者は、一切の戦争加担行為を忌避する権利を持つ。医師は、平和のうちに患者を治療する権利を持つ。農漁民も労働者も、平和のうちに働く権利を持ち、戦争のために働くことを拒否する権利を持つ。自衛隊員だって、戦争で人を殺し、あるいは殺されることの強制から免れる権利を持っているのだ。

その権利が侵害されれば、その侵害された権利回復のための裁判が可能となる。侵害の態様に応じて、請求の内容もバリエーションを持つ。戦争を招くような国の一切の行為を予防し、国の戦争政策を差し止め、戦争推進政策として実施された施策を原状に復する。つまりは、国に対して具体的な作為不作為を求める訴訟上の権利となる。その侵害に、精神的慰謝料も請求できることになる。これあればこその違憲確認請求訴訟であり国家賠償請求訴訟なのだ。

もとより、裁判所のハードルが高いことは覚悟の上、それでもチャレンジすることに大きな意味がある。訴訟に多くの原告の参加を得ること、とりわけ首長や議員や保守系良識派の人々を結集することの運動上のメリットは極めて大きい。そうなれば、裁判所での論戦において、裁判所は真剣に耳を傾けてくれるだろう。平和的生存権の訴訟上の権利としての確立に、一歩、あるいは半歩の前進がなかろうはずはない。

困難な訴訟だと訳け知り顔に批判するだけでは何も生まれない。若い市長の挑戦に拍手を送って暖かく見守りたい。
(2014年8月5日)

スラップ訴訟被害者よ、団結しよう。?「DHCスラップ訴訟」を許さない・第14弾

最近、スラップ訴訟被害者の述懐に目が行く。とてもよく分かる。口を揃えて「頭の中が常に裁判のことばかりで気持ちが落ちつかない」と言う。また、「応訴費用の負担がきつい」とも、「訴訟準備に忙殺されて仕事に支障が及ぶのが辛い」とも言う。おそらくは、「応訴がこんなに面倒なら少し筆を控えればよかった」という思いを振り払いながら、耐えているのだろう。

私は、スラップ被害者としてはもっとも恵まれた立ち場だろう。弁護団員も100人を超えた。カンパも順調に集まっている。多くの人が、澤藤個人のためではなく、言論の自由や民主主義のために、心底怒って支援を惜しまない。何とありがたいことかと思う。しかし、その私でさえ被告になったことの煩わしさにはうんざりすることが度々。少し筆を抑えようかという気持ちと、それではいけないという気持ちに揺れたりもする。一刻も早く被告の座から解放されたいとの気持ちは隠せない。

それでも自分を励まして、当ブログを通じてスラップに萎縮していないことをアピールしつつ、スラップ訴訟への警戒心を多くの人に呼び掛けるとともに、反スラップの世論を盛り上げたいと念じている。そのことを通じて、表現の自由と民主主義の擁護に寄与したいと思う。その思いから、多くのスラップ被害者に連携を呼び掛けたい。知恵を共有し、力を合わせることによって、一つ一つのスラップ訴訟に勝ち抜き、言論の自由を封殺するスラップを撲滅しようではないか。

今既に、アメリカの約30の州には「反スラップ法」があるという。その法によって、スラップ被害から市民やジャーナリストを救済する制度が確立しており、抑制の効果も出ていると聞く。その制度のない我が国では、まずは訴権の濫用による訴えの却下によって、被告の座からの早期解放の実現を求める試みが行われてしかるべきであろう。以下、このことについて、述べたい。

私は「DHC・渡辺喜美」事件について、私の意見を3度ブログに書いた。その趣旨は、「カネで政治が動かされてはならない」「政治資金の動きは透明でなくてはならない」という至極常識的で、真っ当な政治的見解である。卓見でもなく、オリジナリティもないが、このブログでの表現内容は、紛れもなく政治的言論であって、政治的言論を離れた人格攻撃などという色彩はまったくない。

DHCとその代表者には、その政治的言論が気に入らなかった。言論の中にある批判が、真っ当なだけに痛かったのだろう。しかし、言論が気に入らなくても、耳に痛くても、それを封殺することは本来なしえない。私の政治的言論の自由が憲法で保障された基本的権利である以上は、甘受せざるを得ないのだ。

あらためて確認しておこう。人に迷惑の及ばないことができるというだけのことを麗々しく「権利」とは言わない。人を褒める権利、人におもねる権利などは、意味をもたない。そんなものは、そもそも権利の名に値しない。人に迷惑かけても、人が嫌がっても、場合によっては具体的な被害を与えても、その被害の受忍を要求できることが「権利」の権利たる所以なのだ。

自由というのも同じこと。他人の自由や権利や利益と衝突しない自由は、無意味な自由に過ぎない。他人の自由や権利や利益と衝突してなお、自分の思うとおりに振る舞えるのが憲法の保障する「自由」である。

私に、DHCとその代表者を批判する権利があるということ、批判の言論の自由があるということは、批判される側の不愉快の感情を押し切る権利であり、自由であるのだ。

もっとも、普通の社会生活を送っている一般人が、他人からの面と向かっての批判を甘受しなければならない場面は想定しがたい。言論による批判を甘受しなければならないのは、原則として、権力や経済力を持って社会に影響力を持つ人だけである。それが、民主主義社会のルールである。

天皇、首相、大臣、国会議員、政治家、高級官僚、大企業幹部などが、その典型として言論による批判を甘受しなければならない人たち。とすれば、DHCとその代表者はどうであろうか。明らかに「一般人」ではあり得ない。日本有数の大企業経営者として社会的な影響力を持っていることから、批判の言論に対してその地位にふさわしい受忍義務(我慢しなければならないこと)の負担を負うと言わねばならない。

さらに強調しなければならなことがある。DHCの代表者は、多額のカネを政治に注ぎこんだのである。しかも、不透明極まる態様において。具体的には、DHCの代表者が、みんなの党の党首渡辺喜美に届出のないカネを渡した瞬間に、DHCの代表者は、公務員や政治家と同等に、国民からの徹底した批判を甘受すべき立ち場となった。公人に準ずる立場に立ったものというべきである。

このような立場の者に対しての国民の批判の言論は、最大限に保障されなければならない。このような人物は、公人と同様に批判の論評を真摯に受けとめ、節度をもって対応しなければならない。

にもかかわらず、直情的に提訴に至ったのは軽挙妄動と評せざるを得ない。この軽挙こそがスラップである。提訴自体が、私の政治的言論に対する攻撃である。このような提訴は、訴権の濫用の典型例というべきである。訴えを起こすことが国民の権利ではあっても、このような政治的言論に対する攻撃を意図し、萎縮効果を狙ったことが明らかな提訴は、訴権の濫用として実体審理に踏み込むことなく却下すべきである。かくして、スラップ訴訟の被害者は早期に被告の座から解放されることになる。
(2014年8月4日)

***********************************************************************

          『DHCスラップ訴訟』応訴にご支援を
このブログに目をとめた弁護士で、『DHCスラップ訴訟』被告弁護団参加のご意思ある方は東京弁護士会の澤藤(登録番号12697)までご連絡をお願いします。

また、訴訟費用や運動費用に充当するための「DHCスラップ訴訟を許さぬ会」の下記銀行口座を開設しています。ご支援のお気持ちをカンパで表していただけたら、有り難いと存じます。
    東京東信用金庫 四谷支店
    普通預金 3546719
    名義   許さぬ会 代表者佐藤むつみ
 (カタカナ表記は、「ユルサヌカイダイヒョウシャサトウムツミ」)

スラップ訴訟は両刃の剣?「DHCスラップ訴訟」を許さない・第13弾

とりあえずスラップ訴訟を、「政治的・経済的な強者の立場にある者が、自己に対する批判の言動を嫌忌して、運動や言論の弾圧あるいはその萎縮効果を狙っての不当な提訴」と定義する。運動弾圧型と言語的表現弾圧型に分類することが、応訴するものにとって意味のあるものであろう。

恫喝訴訟・威圧目的訴訟・いじめ提訴・イヤガラセ訴訟・言論封殺訴訟・ビビリ期待訴訟などのネーミングが可能だ。個別具体的にはもっとふさわしいネーミングが選択できそうだ。業務妨害目的訴訟・労働運動潰し訴訟・公益通報報復訴訟・市民運動制圧訴訟、批判拒否体質暴露訴訟…。

損害賠償請求の形態を取るスラップは、運動や言論への萎縮効果を狙っての提訴だから、高額請求訴訟となるのが理の当然。「金目」は人を籠絡することもできるが、人を威嚇し萎縮させることもできるのだ。

かつて、武富士が「週刊金曜日」とフリーのルポライター三宅勝久に対して、スラップをかけたとき、当初の請求額は5500万円だった。それを、一審係属中に1億1000万円に請求を拡張している。

このときの口頭弁論期日に、裁判長福田剛久は原告側に「損害賠償の請求拡張はこれでおしまいですか」と聞いている。これに対する武富士代理人弘中惇一?の回答は、「ええ、連載が続かない限り」というものだった。「週刊金曜日誌上に武富士批判の連載が続くようなことがあれば、さらに増額する」という含みの発言なのだ。自ら、言論封殺の意図を明らかにしたものと言ってよい。この企業ありてこの弁護士なのである。

このような訴権の濫用は、スラップ提訴者にとっても両刃の剣である。客観的に見て品の悪いやり方であることこの上ない。古来、「金持ち喧嘩せず」なのだ。権力や経済力を持つ者には、鷹揚に批判に耐える姿勢が求められる。批判の言論にいちいちムキになっての提訴は、それ自体みっともない。のみならず、社会的強者には批判の言論を受忍すべき義務が課せられる。批判拒絶体質丸出しのスラップは、自らのイメージを壊す行為であるだけでなく、受忍義務を敢えて無視したことにおいて違法の評価を受けざるを得ない。

また、社会がすっかり忘れてしまったことを、提訴を契機にあらためて思い起こさせる逆効果もある。この場合、スラップの対象となった言論がよく効いて、しっかり痛みを感じさせていることを社会にアピールすることにもなる。

それでも、勝てればまだまし。敗訴の場合には目も当てられなくなる。スラップを濫発した武富士の場合はどうだったか。

被告にされた言論のうち主なものは、「サンデー毎日」、「週刊金曜日」、「週刊プレーボーイ」、「武富士の闇を暴く」、「月刊ベルダ」、「月刊創(つくる)」の6誌。このうち、「サンデー毎日」、「週刊プレーボーイ」、「月刊ベルダ」、「月刊創」の4誌に関しては、「武富士が盗聴をしている」という記事を中心に、武富士と警察の癒着関係を報じた記事が槍玉に挙げられた。武富士は、この盗聴の記事を事実無根として激怒し拳を振り上げたとされていた。

ところがどうだ。スラップ訴訟係属中に、思いがけなくも武富士の盗聴が明るみに出た。内部告発によるものだった。そして、サラ金の帝王といわれていた武井保雄本人の逮捕という劇的な展開となった。こうして、武富士スラップのうち、盗聴記事関係事件は、訴訟の進行を停止してバタバタと解決した。(「サンデー毎日」訴訟だけは、武井逮捕以前に取り下げと同意によって終了している)

『月刊ベルダ』をめぐる件では、武富士が謝罪し650万円を支払うことで出版社のベストブックと和解、ライターの山岡俊介には本訴請求を放棄し反訴請求を認諾することで訴訟が終了した。「週刊プレーボーイ」訴訟では、反訴がなかったので、原告の請求放棄で終わった。

「創」をめぐる訴訟は、さらに劇的な終わり方となった。3名の被告(創出版・山岡俊介・野田敬生)に対する本訴請求をすべて放棄し、反訴を認諾または主張を認めて和解金を支払った。特筆すべきは武富士は、次のような謝罪広告を「創」誌上に掲載した。

(創出版・山岡俊介宛)「この提訴は、当社前会長・武井保雄指示の下、山岡氏や有限会社創出版の言論活動を抑圧し、その信用失墜を目的に、虚偽の主張をもって敢えて行った違法なものでした」
(野田敬生宛)「本件提訴は、当社が本件記事の内容が真実であると知りながら貴殿が当社を批判するフリーのジャーナリストであることから、敢えて、これらの執筆活動を抑圧ないしけん制する目的をもってなされたものであり…貴殿の社会的信用を失墜させる行為として名誉毀損に該当するものでした」

もっとも、残る「週刊金曜日」と「武富士の闇を暴く」事件は盗聴問題ではなく、武富士の業務の実態のあくどさを暴露するものだった。武井の刑事事件とは無関係として、武富士は徹底抗戦を続けた。そして、いずれも判決において完敗して終了している。

以上の経過は、北健一著「武富士対言論」(花伝社)に詳しい。なお、北さんには、8月20日午前10時半のDHCスラップ訴訟法廷の後、11時から東京弁護士会508号室で開かれる報告集会を兼ねた弁護団会議の席でご報告いただけることになっている。

かくのごとく、スラップ訴訟は両刃の剣。少なくとも武富士の場合、自ら抜いて振りかざした剣で、自らを深く傷つけた。スラップは仕掛けられる方に甚大な被害を与えることは言うまでもないが、仕掛ける方にとっても取り扱いの難しい劇薬である。あるいは、軽々には抜けない妖刀なのだ。

警告しておきたい。うかつな濫訴の提起は身を滅ぼすもとになる、と。
(2014年8月3日)

***********************************************************************

『DHCスラップ訴訟』応訴にご支援を
このブログに目をとめた弁護士で、『DHCスラップ訴訟』被告弁護団参加のご意思ある方は東京弁護士会の澤藤(登録番号12697)までご連絡をお願いします。

また、訴訟費用や運動費用に充当するための「DHCスラップ訴訟を許さぬ会」の下記銀行口座を開設しています。ご支援のお気持ちをカンパで表していただけたら、有り難いと存じます。
東京東信用金庫 四谷支店
普通預金 3546719
名義   許さぬ会 代表者佐藤むつみ
(カタカナ表記は、「ユルサヌカイダイヒョウシャサトウムツミ」)

炭坑夫出身弁護士・角銅立身さんを偲ぶ

夏、暑中見舞いの季節。何枚もの書状のなかの1枚に目が留まった。福岡県田川市の角銅法律事務所からのもの。

この事務所の主は、角銅立身弁護士。「鉱専卒の元炭坑夫」という異色の弁護士として知られた人。本年6月に亡くなられた。享年85。主を失った事務所から、「事務員」「長女」「二女」3人連名でのご挨拶。文面はまぎれもなく「暑中見舞い」であって、不思議と湿っぽさがない。胸を張っての角銅弁護士死亡通知でもある。

人の評価は「棺を蓋って定まる」という。
もちろん、尊敬すべき人物は生前からしかるべき声望を得てはいる。角銅さんはそのような稀なお一人だった。しかし、この暑中見舞いは、「棺を蓋った後、さらに評価を高めた」ものではないか。亡き角銅さんにお許しを願って、紹介をしておきたい。

暑中お見舞い申し上げます
角銅立身弁護士は、1965年4月、炭鉱で甲種炭鉱上級保妥技術職員として働いていたのをやめ、弱者の味方の弁護士になると一念発起して弁護士になりました。
以来、三井三池三川坑炭じん爆発・三井山野炭鉱ガス爆発による被害者訴訟、カネミ・ライスオイルによる食品被害者訴訟、スモンによる薬害被害者訴訟、水銀中毒によるイタイイタイ病被害者訴訟、不当解雇による労働者の地位保全訴訟、筑豊じん肺訴訟などなど集団訴訟のリーダーとして、心血を注ぎました。その間には福岡県会議員選挙にも立候補しました。
魚釣り、楽器の演奏、ゴルフに観劇、水泳と幅広い趣味を堪能しておりましたが、近年は病魔と闘いながらも弁護士活動とともに憲法9条を死守する平和運動を続けてまいりました。その間の皆様方からのご厚誼には感謝しお礼を申し上げます。
来年は弁護士50周年という節目を前に、本年6月22日ついに人生の舞台の幕を降ろしました。
長い間角銅法律事務所からの季節の便りにお付き合いいただきありがとうございました。
これをもちまして角銅法律事務所劇場は終演です。 2014年盛夏

角銅立身さんは1929年田川市に生まれ、1948年官立秋田鉱山専門学校を卒業、49年古河鉱業大峰鉱業所へ就職している。炭坑の現場で働いた方だ。65年に弁護士登録して、文字通り「働く人の立場に徹して」弁護士としての活動を全うされた。

     **************************************************************
 
10年前、私が日民協事務局長だった時代の「法と民主主義」(2004年4月号)に、角銅さんの訪問記事がある。「とっておきの1枚」シリーズのライターは、そのころからの編集長・佐藤むつみさん。これも、ご紹介しておきたい。

「月が出る時空を超えて?炭鉱太郎故郷に帰る」 角銅立身先生

博多の天神バスセンターから特急バスで七五分、田川の町に着く。国道201号線を走るバスは烏尾峠から田川の町に下って行く。町を取り囲むような低い山、削り取られた山肌。遠くに煙突。田川の町は灰色の中にあった。途中に日本セメントの大きな工場がある。門前に菜の花が咲きそこだけ春が広がっていた。石灰石の採掘で岳の上部が無くなってしまった香春岳(かわらだけ)の異形が目につく。始めてこの山を見た時五木寛之は「日本の中の異国を直感的に感じ」たという。そして地底の廃坑はこの町の下にもう一つ「異国」を造っている。「青春の門」はこの香春岳の描写から始まる。五木寛之は先生の三歳年下、ほぼ同世代のデラシネだった。

 「角銅原」という名のバス停に驚いているとバスは後藤寺の小さなバスターミナルに着いた。「角銅法律事務所まで」と告げるとタクシーの運転手はすぐに了解。日曜日の午後、田川の町にはだーれもいない。

 角銅先生の事務所は木造モルタル三階建て。縦長と横長の古めかしい大きな白い看板に黒々と「角銅立身法律事務所」と大書きされている。一階のレストランはその日はお休み、右端に細い階段がある。一直線にのびた階段は少し傾いている。踏み板は狭くぎしぎしとなる。「ごめんください佐藤です」と叫びながら登って行くと、不思議な踊り場に出る。暗くきしむ板敷きの床がなつかしい。正面に左に登る急な階段がある。階段の登り口には郵便受け、ここが玄関らしい。しずしず登るとやっと事務所にたどり着いた。角銅先生は大きな体で「あなたですか」と近づいてくる。がっちりした体と大きい声、炭鉱太郎と自認する風貌である。カウンターの後ろの窓から高い二本の煙突が見える。「蒸気機関だよ」炭坑節に歌われている旧三井伊田竪坑大煙突である。先生は私を「もっと年を取った人だと思ってた」んだって。それでちょっとどぎまぎしている。

 角銅先生が故郷田川で事務所を開いた一九六九年、三九歳の時だった。田川の地で三六年、生粋の川筋男、「肝が大きく男気に富み思いやりの深い」弁護士としてここで踏ん張り続けてきた。先生はは七五歳。昨年『男はたのしく たんこたろ弁護士』という痛快な奮闘記を発刊し、ジョギング、スイミングと自らの病をねじ伏せ、博多の病院に入院中の愛妻を見舞う日々である。娘が二人。長女は父の職業に反発し医者に。今は母の側の病院にいる。次女は先生と暮らす。長男を二回試験直前に一歳で亡くした。そのことは妻に何も聞かない。

 先生は一九二九年桃の節句に田川に生まれた。筑豊の炭鉱地帯のど真ん中、父も祖父も小さな山を持つ炭鉱一家だった。長男の先生は立身「たつみ」と命名され当然山を継ぐ事になっていた。田川には朝鮮半島から多くの労働者が流入し、部落差別も根強く、炭鉱の活気とともに、荒涼とした荒々しさがある。そんななかで立身君は不自由なく元気にのびのびと育った。

一九四一年に地元の県立田川中学に入学。その年の一二月に太平洋戦争が始まる。持ち山は戦時体制で三井鉱山に併合され、学校は三年から学徒動員に。戦時色一色だった。立身君は立派な鉱山技術者になるため秋田鉱専に進学を希望していた。一九四五年二月、B29の空襲のさ中、田川から汽車に乗り継ぎ、五〇時間もかけて秋田駅にたどり着く。合格したが「現下の情勢に鑑み」七月入学。八月一四日夜から一五日朝にかけ秋田市は土崎大空襲に晒される。防空壕で夜を明かし、その日の昼過ぎ立身君達は秋田鉱専で敗戦放送を聞く。

 「日本の再建には鉄と石炭が必要」校長の言葉に励まされみんな学校にもどった。卒業後、四九年立身君は筑豊古河鉱業大峰鉱業所万才坑に就職する。角銅青年は戦後の石炭ブーム花形産業の若き技術者として現場の労働者とともに坑内に潜り働く。上級保安技術職員の資格も取り、ドイツの先端技術を取り入れ増炭と賃上げを実現。係長補佐の要職に。「角さん」「角さん」とみんなに慕われる職制だった。

 一九五六年、石炭産業の合理化の波は古河大峰にも押し寄せ、ストライキとロックアウトの激しい衝突が起きる。日経連の現地指導のもと、そのあくどさは際だっていた。炭鉱労働者の強制入坑を恐れた会社は、警察の手錠を大量に入手して、キャップランプを手錠で緊縛して強制就労が出来ないようにした。職制としてその場にいた角銅君は『労働者にこんな仕打ちをする事は許せない』と。夜も寝られないくらい悩んだ。その古河大峰闘争支援にきた諫山博先生が三〇〇〇名の炭鉱労働者の前でアジ演説。「スクラムの中に顔馴染みのない人がいたらつまみ出してください。彼らは警察官です」角銅君はうらやましいと心底思った。角銅君二八歳。オレのやってきたことは何だったんだろう。

 一九五九年に退社、三〇歳からの司法試験挑戦だった。中央大学系の勉強会に入会、六二年に合格。その間結婚もして失業保険と貯金、妻の稼ぎで生活を支えた。三交代制の仕事をしてきた切り替え力と集中力、何よりも労働現場を知る強さがあった。六五年めでたく諫山先生のいる福岡第一法律事務所に入所する。「鉱専卒のもと炭坑夫」という異色の弁護士が誕生する。

 炭鉱のガス・炭塵爆発、自然発火等の災害事件、九州各地の塵肺など炭鉱事件は角銅の独壇場。そして水俣病、イタイイタイ病、カネミ油症、四日市喘息など公害事件に広がる。故郷に帰ると田川地区のあらゆる法律問題が立場の違いを越えて持ち込まれる。「時々ハラハラすることもありましたが、きちんと筋を通しながら、清濁併せのむ大らかな仕事ぶり」だったとの諫山評。弁護士会の活動もこなし地域の革新民主運動まで担った。

 豪放磊落な雰囲気の中に人の心を開かせる人懐こさが角銅先生の魅力。意外に配慮の人で思いやりの深さが心に染みるのである。古いソファで若いときから得意のカメラで写した写真を見せてもらった。「美味しい焼き肉をご馳走するから」。先生の顧問先のタクシー会社の車が呼ばれた。とびっきりの骨付きカルビとミノ、センマイをしこたま食べさせてもらった。さすが田川、半島の匂いがする。その車で空港まで送ってもらう。先生は昔、九州地区初の赤いベンツ190Eに乗っていた。地場の事件屋に何度も車を当てられるので負けないようにするためである。乗ってみたかったな二〇年間二一万キロを走った赤いベンツ。月はどっちに出たのだろうか。(引用終わり)

角銅立身劇場終演の幕を見つめつつ合掌申しあげる。
(2014年8月2日)

8月?熱く平和を語るべき季節

蝉時雨と、近所の公園のラジオ体操の大音響で目を覚ました。2014年の夏、今日から8月。1945年から数えて69回目の8月である。

8月で連想する言葉は、広島、長崎、ポツダム宣言、そして敗戦、戦争の惨禍。さらに戦争責任と歴史認識等々である。

8月こそは、戦争と平和、そして憲法を熱く語るべき季節。1か月前の7月1日、安倍内閣は集団的自衛権行使容認の閣議決定に踏み切った。平和に危うさが見える今年の8月であればこそ、なおさらである。

加えて、個人的には『DHCスラップ訴訟』の事実上の第1回口頭弁論が8月20日午前10時半に開かれることが大事件。ここから本格的な論戦が始まる。

この8月、当ブログは「平和」と「表現の自由」。この両テーマを焦点として書き続けることになる。

 **********************************************************************
ところで、ブルース・アッカーマン(エール大学教授、法学・政治科学)の安倍政権解釈改憲批判が話題を呼んでいる。このことを最初に耳にしたのは、「戦争をさせない1000人委員会」集会での樋口陽一さんの発言だった。不勉強で、その名は初耳だった。いま、ハフィントンポストのサイトで、同教授意見の邦訳を読むことができる。抜粋すれば以下のとおり。

「日本では、集団的自衛権の解釈がさらに深刻な悪影響を及ぼしつつある。安倍晋三首相は復古主義的なナショナリストで、自ら総裁を務める与党・自民党に対し、戦後の日本国憲法が連合軍の占領政策によって不当に押しつけられたものと貶めるキャンペーンを主導している。

安倍首相の最初の標的は憲法9条で、彼は当初、憲法で定められた国民投票を実施して9条を破棄しようと模索した。この戦略が世論と国会から大きな反発を受けると、安倍首相は方針を転換し、憲法改正を伴わない手段によって同じ成果を得ようとしている。

7月1日、安倍首相は閣議決定で憲法を「解釈変更」し、憲法が「永久に」放棄するとしてきた「武力による威嚇又は武力の行使」を認めると発表した。これは半世紀にわたる憲法解釈を覆したものだ。

こうした動きは、1960年以来の大規模な抗議運動を引き起こし、世論調査でも反対が急激に増えた。これを受けて、日本政府は9月に予定していた関連法案の審議を先送りし、より時間をかけて議論することを約束した。

もし安倍首相の目論見が成功すれば、彼の急進的な解釈改憲は、自民党が憲法改正案で掲げる、日本国憲法が保障する民主政治の基本原理、そして社会的権利を打破する先例となる。安倍首相が政治生命を賭けているとも言えるこの大博打に対し、今後数カ月は現代日本史上で最も重要な議論が展開されるだろう。」

アッカーマン氏のいうこと、いちいちもっともでそのとおりだ。このたびの安倍解釈改憲が成功するとなれば、平和の問題だけではなく、「日本国憲法が保障する民主政治の基本原理、そして社会的権利を打破する先例となる」との指摘は重い。

「今後数カ月は現代日本史上で最も重要な議論が展開されるだろう」とアメリカの識者は見ている。7月1日閣議決定に沿ったかたちで、専守防衛を超えて自衛隊を海外での戦争に使える具体的立法を許すのか、それを阻止して7月1日閣議決定を死文化させることに成功するか。そのことを、「今後数カ月における、現代日本史上で最も重要な議論の展開」と言っているのだ。

私たちは、渦中にあって、安倍政権と厳しく対峙し、安倍壊憲の動きにストップをかけなければならない。今年の8月は、とりわけ熱くなりそうだ。
(2014年8月1日)

言論弾圧と運動弾圧のスラップ2類型?『DHCスラップ訴訟』を許さない・第12弾

☆ブログを拝読し、DHCスラップ訴訟の件、知りました。
驚愕の事態ですね。気持だけですが、表現の自由のためにカンパをさせていただきます。

★ありがとうございます。多くの方のご支援に励まされています。
ご意見を寄せられる多くの方が、本件を表現の自由に対する悪質な妨害行為、とりわけ政治的言論に対する封殺の問題ととらえていらっしゃいます。私も、私一人の問題ではないと身に沁みて考え、負けられない思いです。

☆ところで、素朴な質問があります。
高江のスラップ裁判との比較で、「運動対抗型とは別に言論封殺型というものがある」とお書きになっている点についてです。高江は前者で、DHCは後者にあたるということだと思うのですが、運動対抗型と言論封殺型に相当するという論理が、よく理解できません。

★スラップを「運動対抗型」と「言論封殺型」とに分けたのは、私流の勝手な理解です。
 いずれも政治的・経済的強者が訴訟提起を手段として不当な意図を完遂しようとする点では同じですが、何を目的とした提訴なのか、あるいは提訴によって侵害されるものが何なのかの違いがあると思うのです。

仮に「運動対抗型」としたのは、市民運動・労働運動・政治運動などの弾圧を目的とした提訴をイメージしています。高江の米軍用ヘリパッド建設反対の市民運動をつぶす目的での国の住民に対する提訴や、反原発運動の制圧を目的とする経産省前テント撤去訴訟などは、その典型でしょう。マンション建設反対や公益通報に対するスラップも報告されています。「運動弾圧型」「運動つぶし目的型」「運動忌避型」などとネーミングもできるでしょう。

これに対して、純粋に不都合な言論の封殺を目的とする「言論封殺型」スラップ訴訟を分けた方が、闘い方の理論構築に資するのではないかと思うのです。

もちろん、両者の混交タイプはいくらでもありえます。たとえば、「DHCというサプリメントや化粧品の通販会社で、リストラに抵抗して4人が労働組合を作った。その組合のホームページの記載を名誉毀損だとして会社が損害賠償を求め、裁判に疲れた組合側は退職を条件に和解した」と複数のソースが報じています。この件などは、かたちは言論封殺型ですが、真の狙いからは労働運動弾圧型といえるのでしょう。

☆お書きになった記事をよみますと、両者は別個のものと考えられているようです。もしや、運動対抗型は違法性を持つ運動を対象にするものと(読者に)受け取られはすまいかと危惧いたします。両者の違いの強調よりは、共通であることの強調、両者とも表現の自由の侵害なのだと認識することこそが大切だと思うのですが。

★なるほど、私の記事はその点での配慮が足りなかったかも知れません。当然のことながら、運動弾圧型のスラップをいささかも許容するつもりはありません。

むしろ、私は「表現の自由」の対象を、「純粋な言論」と「言論に伴う行動」とに峻別して、純粋な言語的表現だけを手厚く保護しようとする伝統的な考え方には抵抗しているつもりなのです。それは、「日の丸・君が代」に関して、ピアノ伴奏をしたり、起立・斉唱をする行為を、「外部的な行為」に過ぎないとする考え方への反発があるからです。内心の思想・良心とは峻別された「外部的行為の強制は直ちには内心の思想・良心を侵害するものではない」という最高裁判例を容認しがたいという思いが強くあります。

言語的表現である純粋言論も、これに伴う行動も、ともに思想・良心の外部表出として保護されるべきであると思っています。場合によっては、言語的表現以上に身体的行動による表現形態こそが重要なこともありうると思います。

☆高江裁判で、最高裁で敗訴したIさんは、防衛局が敷地内に機材を搬入しようとした際、ゲート前に座り込んだ人々のなかで狙いうちされたのです。搬入を阻止しようとして思わず両腕を真ん前に伸ばして肩の位置まで上げたことが、「国の通路使用を物理的方法で妨害した」と認定されました。住民運動側は、ヘリパッド建設に反対する意思表示、抗議行動は憲法に保障された表現の自由にあたるとして、闘いました。そして今も、連日、灼熱の辺野古でオスプレイ用のヘリパッド建設反対の運動が、繰り広げられています。運動の正当性を支える表現の自由の強調をお願いします。

★了解しました。まったく異存ありません。
ただ、言語的表現を封殺するタイプのスラップは、名誉毀損の違法性阻却要件、あるいは公正な論評の法理などというかたちで、訴訟を舞台での闘い方がパターン化されています。その点では、明らかに「運動弾圧型」とは異なるものとして、少なくとも訴訟技術においては意識する必要があるとは思います。

「運動弾圧型」と「言論封殺型」、どちらも許容しがたいものですが、それぞれ特有の課題があると思います。『DHCスラップ訴訟』は、政治的な純粋言語的表現に対する直接的な封殺行為です。客観的に不当極まる高額な金額の請求をすることで言論の萎縮効果を狙っています。

なお、かつてサラ金業界の盟主だった武富士が、スラップ訴訟受任を常習とする弁護士を代理人として、同時多発的にスラップ訴訟を連発して悪名を馳せました。
被告にされたのは、「サンデー毎日」、「週刊金曜日」、「週刊プレーボーイ」、「武富士の闇を暴く」、「月刊ベルダ」、「月刊創(つくる)」など。

DHCの濫訴の実態は追い追い明らかになるはずですが、その規模において、武富士を上回るものであることは確実です。とりわけ、「政治とカネ」をめぐる批判の政治的言論に対する拒否反応の強さに驚かされます。

高江のヘリパッド建設反対運動への弾圧のスラップも許し難いものがありますが、『DHCスラップ訴訟』も明らかに驚愕の事態。これから、訴訟の進展だけでなく、「DHCスラップ」の全体像についても把握しえた情報をご報告いたします。表現の自由の今日的状況として関心をお持ちいただき、ご支援いただくようよろしくお願いします。
(2014年7月31日)

***********************************************************************

          『DHCスラップ訴訟』応訴にご支援を
このブログに目をとめた弁護士で、『DHCスラップ訴訟』被告弁護団参加のご意思ある方は東京弁護士会の澤藤(登録番号12697)までご連絡をお願いします。

また、訴訟費用や運動費用に充当するための「DHCスラップ訴訟を許さぬ会」の下記銀行口座を開設しています。ご支援のお気持ちをカンパで表していただけたら、有り難いと存じます。
    東京東信用金庫 四谷支店
    普通預金 3546719
    名義   許さぬ会 代表者佐藤むつみ
 (カタカナ表記は、「ユルサヌカイダイヒョウシャサトウムツミ」)

「自民党改憲草案」の全体像とその批判

お招きいただき、発言の場を与えていただたことに感謝いたします。本日は、学生・生徒に接する立場の方に、私なりの憲法の構造や憲法をめぐる状況について、お話しをさせていただきます。

ご依頼のテーマが、「自民党の改憲草案を読み解く」ということです。この改憲草案は、安倍自民党の目指すところを忌憚なくあけすけに語っているという、その意味でたいへん貴重な資料だと思います。そして、同時に恐ろしい政治的目標であるとも思います。

この草案の発表は、2012年4月27日でした。4月27日は、日本が敗戦処理の占領から解放されたその日。この日を特に選んで公表された草案は、「自主憲法制定」を党是とする自民党による「現行日本国憲法は占領軍の押し付け憲法として原理的に正当性を認めない」というメッセージであると、読み取ることができます。

押し付けられた結果、現行憲法は内容にどのような欠陥があるのか。彼らは、「日本に固有の歴史・伝統・文化を反映したものとなっていない」と言います。これは、一面において、人類の叡智が到達した普遍的原理を認めないという宣言であり、他面、「固有の歴史・伝統・文化」という内実として天皇制の強化をねらうものです。

天皇という神聖な権威の存在は、これを利用する為政者にとって便利この上ない政治的な道具です。国家や社会の固定的な秩序の形成にも、現状を固定的に受容する国民の保守的心情の涵養にも有用です。民主主義社会の主権者としての成熟の度合いは、国王や皇帝や天皇などの権威からどれほど自由であるかではかられます。自民党案は、天皇利用の意図であふれています。

この草案は、なによりも日本国憲法への攻撃の全面性を特徴としています。「全面性」とは、現行憲法の理念や原則など大切とされるすべての面を押し潰そうとしていることです。

日本国憲法の構造は次のように理解されます。日本国憲法の3大原則は、3本の柱にたとえられます。国民主権、基本的人権の尊重、そして恒久平和主義。この3本の柱が、立憲主義という基礎の上にしっかりと立てられています。

堅固な基礎と3本の柱の骨組みで建てられた家には、国民の福利という快適さが保障されます。いわば、国民のしあわせが花開く家。それが現行日本国憲法の基本設計図です。今、自民党の改憲草案は、そのすべてを攻撃しています。

まず、基礎となっている立憲主義を堀り崩して、これを壊そうとしています。つまりは、憲法を憲法でなくそうとしているということです。国家権力と個人の尊厳とが厳しい対抗関係に立つことを前提として、個人の尊厳を守るために国家権力の恣意的な発動を制御するシステムとして憲法を作る。これが近代立憲主義。草案は、このような立ち場を放棄しようとしています。

現行憲法の前文は、こう書き出されています。
「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」
主権者である国民が憲法を作り、憲法に基づく国をつくるのですから、当然のこととして国民が主語になっています。

ところが草案の前文の冒頭は次の一節です。
「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。」

国民ではなく、いきなり日本国が主語になっている。国民に先行して国家というものの存在があるという思考パターンの文章です。

国民が書いた、「権力を担う者に対する命令の文書」というのが憲法の基本的性格です。ですから命令の主体である国民に憲法遵守義務というものはありえない。憲法遵守義務は「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」(99条)と定められています。
これを立憲主義の神髄と言ってよいでしょう。

草案ではどうなるか。
第102条(憲法尊重擁護義務)「全て国民は、この憲法を尊重しなければならない」となります。主権者である国民から権力者に対する命令書という憲法の性格が没却されてしまっています。

同条2項は公務員にも憲法擁護義務を課します。しかし、「国会議員、国務大臣、裁判官その他の公務員は、この憲法を擁護する義務を負う。」と、わざわざ天皇を除外しています。

立憲主義の理念は没却され、国民に憲法尊重の義務を課し、国民にお説教をする憲法草案になりさがっています。

そして、3本の柱のどれもが細く削られようとしています。腐らせようとされているのかも知れません。
まずは、「国権栄えて民権亡ぶ」のが改正草案。公益・公序によって基本的人権を制約できるのですから、権力をもつ側にとってこんな便利なことはありません。国民の側からは、危険極まる改正案です。

もっとも人権は無制限ではありません。一定の制約を受けざるを得ない。その制約概念を現行憲法は「公共の福祉」と表現しています。しかし、最高の憲法価値は人権です。人権を制約できるものがあるとすれば、それは他の人権以外にはあり得ません。人権と人権が衝突して調整が必要となる局面において、一方人権が制約されることを「公共の福祉による制約」というに過ぎないと理解されています。

そのような理解を明示的に否定して、「公益」・「公序」によって基本的人権の制約が可能とするのだというのが、改正草案です。

9条改憲を実現して、自衛隊を一人前の軍隊である国防軍にしようというのが改正案。現行法の下では、自衛のための最低限の実力を超える装備は持てないし、行動もできません。この制約を取り払って、海外でも軍事行動ができるようにしようというのが、改正草案の危険な内容。

これは、7月1日の閣議決定による解釈改憲というかたちで、実質的に実現され兼ねない危険な事態となっています。

国民主権ないしは民主主義は、天皇の権能と対抗関係にあります。国民と主権者の座を争う唯一のライバルが、天皇という存在です。その天皇の権能が拡大することは、民主主義が縮小すること。

「日本国は天皇を戴く国家」とするのが改正草案前文の冒頭の一文。第1条では、「天皇は日本国の元首」とされています。現行憲法に明記されている天皇の憲法尊重・擁護義務もはずされています。恐るべきアナクロニズム。

その結果として大多数の国民には住み心地の悪い家ができあがります。とはいえ、経済的な強者には快適そのものなのです。自分たちの利潤追求の自由はこれまで以上に保障してくれそうだからです。日本国憲法は、経済的な強者の地位を制約し弱者には保護を与えて、資本主義社会の矛盾を緩和する福祉国家を目標としました。今、政権のトレンドは新自由主義。強者の自由を認め、弱肉強食を当然とする競争至上主義です。自助努力が強調されて、労働者の労働基本権も、生活困窮者の生存権も、切り詰められる方向に。

臆面もなくこのような改正案を提案しているのが、安倍自民党です。かつての自民党内の保守本流とは大きな違い。おそらくは、提案者自身も本気でこの改正案が現実化するとは思っていないでしょう。言わば、彼らの本音における最大限要求としてこの改憲草案があります。

特定秘密保護法を成立させ、集団的自衛権行使容認の閣議決定まで漕ぎつけた安倍自民。最大限要求の実現に向けて危険な道を走っていることは、否定のしようもありません。安倍自民が、今後この路線で、つまりは自民党改憲草案の描く青写真の実現を目指すことは間違いないところです。これを阻止することができるかどうか。すべては私たち国民の力量にかかっています。

老・壮・青の各世代の決意と運動が必要ですが、長期的には次世代の主権者である学生・生徒に接する皆様の役割か大きいと言わざるを得ません。是非とも、平和教育・憲法教育における充実した成果を上げることができますよう、期待しております。
(2014年7月30日)

経済的強者に対する濫訴防止策が必要だ?『DHCスラップ訴訟』を許さない・第11弾

ハードデスクの片隅に、昔執筆した自分の原稿を見つけて読み直すことがある。自ずと、その時代を懐かしく思い起こす。

たまたま、1999年以来の「司法改革」で書いた論稿のいくつかが出てきた。あのとき、自分なりに実務家の立ち場で司法制度を論じた。最大の関心事は、民事訴訟における訴訟費用の敗訴者負担制度の導入の可否であり、私は反対論の急先鋒の一人だった。その趣旨の「自由と正義」への寄稿が、神戸大学入試小論文の素材となって驚いたこともあった。

制度導入を是とする論拠の主たるものが「濫訴の防止」であった。導入を非とする論拠の主たるものが「司法へのアクセスの確保」、あるいは「提訴の萎縮回避」であった。

今私は、スラップ訴訟の被告となった。身をもって濫訴の弊害を実感する立ち場だ。では、敗訴者負担の制度導入に反対したことを後悔しているか。ことはそんなに単純ではない。1999年に書いた論稿の抜粋を紹介しておきたい。

「何よりも市民の権利実現を?『民事司法制度改革』への見解」
※はじめに
私は、弁護士経験30年。主として労働事件・消費者事件・医療事件の分野で、もっぱら労働側・消費者側・患者側で業務に携わってきた。憲法訴訟への関与も少なくない。
実務遂行の過程で、一再ならず不本意な訴訟の結果を甘受せざるを得ず、無念な思いを経験してきた。その原因として自分の弁護士としての力量不足を認めることにやぶさかではないが、訴訟制度の不備・不公正にも過半の責任あることを疑わない。
現行の民事司法制度の改善が必要なことは自明と考え、「司法改革」には熱い期待をもって見守り、また改革の市民運動への関与もしてきた。ところが、次第に明確化しつつある司法改革審議会の「改革」の方向には、いくつかの疑問を呈せざるを得ない。審議会の「民事司法の在り方・取りまとめ(案)」を素材に現場からの意見を述べたい。

※制度改革の立場性
司法制度の改革を望む声は大きいが、誰のために、どのような「改革」を求めるかについては、立場によって大きく見解を異にする。そもそも、訴訟制度の当否は立場を抜きにして語ることができない。訴訟は鋭く対立する当事者間の紛争を取り扱う。裁判所の中立・公平はフィクションに過ぎず、訴訟手続のルール設定自体がそれぞれの立場の妥協的産物である。とりわけ、非代替的な当事者間の争訟においては、双方が完全に納得しうる訴訟手続のルール設定は本来不可能であろう。
一言で言えば、強者は形式的平等ルールを主張し、弱者は実質的平等ルールを求める。民事訴訟手続における形式的平等では、圧倒的に強者が有利で弱者が不利となる。弱者の権利を全うするためには、訴訟手続における実質的な平等原則を現実の訴訟手続において確立しなければならない。私は、弱者の側にあって、実質的平等原則の定着を強く求める立場にある。

※訴訟における「強者」対「弱者」
強者・弱者の指標は経済的力量と専門的知識ないし情報量である。経済的格差及び情報量の格差が、強者と弱者を分けている。
私は、法の目的は弱者の権利擁護にあり、司法の正義は弱者の権利の実現にあると信じて疑わない。社会的な自然状態では、常に強者が利益を独占する。紛争においては、弱者は泣き寝入りするしかない。この自然状態を不合理として是正し、弱者に「権利」を与えるのが法の体系であり、この権利を実現する手続が本来的な司法の使命である。民事訴訟手続は、この使命を全うするものでなくてはならない。
強者・弱者という用語は、当事者の力量格差を相対的に表現したものであるが、典型的には強者を企業、弱者を市民と置き換えることができる。「市民のための司法改革」とは、企業との関係で弱者である労働者・消費者を念頭においた表現であると理解する。「企業を含む市民のための司法改革」という用語法では、強者と弱者の対立構造をことさらに隠蔽する無意味なスローガンとなり、何の問題提起もしていないことになろう。
試みに、訴訟を当事者によって次のように類型化してみる。
?企業対企業の訴訟(以下、第1類型という)
?企業が市民を訴える訴訟(第2類型)
?市民が企業を訴える訴訟(第3類型)
?市民対市民の訴訟(第4類型)
今、強く「改革」が求められているのは、第3類型であって、第1でも第2でもない。このことを明確に意識することが重要だと思う。
あるいは、今求められている「改革」は、市民が企業と対抗する関係において使いやすく真に役に立つ司法を実現すること、と言ってもよい。

※市民のための民事訴訟制度改革とは
企業対企業の訴訟(第1)類型は、力量ある当事者相互において立場が交代しうるものである点で、形式的平等のルールになじむものと言えよう。知的財産権訴訟を典型として、「訴訟の迅速化」にも「グローバルなルール設定」にも特に違和感がない。問題は、この分野での形式的平等原理を、乱暴に第3類型にまで適用することの弊害なのである。
企業が市民を訴える訴訟(第2)類型は、典型的には貸金業者の貸金請求訴訟ないし、クレジット業者の立替金請求訴訟である。また、その延長線上に銀行の抵当権実行手続がある。周知のとおり、今全国の簡裁はクレジット・サラ金業者に占拠されている異常な事態にある。「司法が十分に利用されていない」というのはこの分野については当たらない。経済的力量も債権回収知識も豊富な業者の司法へのアクセス不備を心配する必要はまったくない、と私は思う。
しかし、この分野においても、さらに業者が司法にアクセスしやすく、訴訟費用は市民に負担させて、訴訟は迅速に行い、執行手続きも迅速厳正に行われるべし、という見解は当然立場によってはあり得る。業者の利益を代表する立場と、形式的平等論に立ってこれを擁護する立場とである。審議会の「まとめ(案)」は、その後者に当たるものとなってはいないか。不安を払拭し得ない。
強者である企業が、その活動の過程で弱者である市民の権利を損なうことこそ現代社会における典型的な権利侵害の態様であり、その救済が、第3類型の「市民が企業を訴える訴訟」である。民事司法本来の使命を果たすべき分野であって、かつ「司法改革」を求められている場である。
具体的には、リストラ・賃金不払い・不当労働行為・労災・職業病・性差別・セクハラ等々の労働事件、公害・環境・生活侵害事件、製造物責任・取引型不法行為・多重債務問題等々の消費者事件、医療過誤訴訟、欠陥住宅訴訟等々である。
この分野では、提訴数が絶対的に過小である。その理由を究明し、「市民にとっての大きな司法」を実現しなければならない。訴訟手続、判決内容、判決の執行は実質的な平等原理を実現して市民の権利実現に実効あるものとなっているか、十分に吟味考察しなければならない。

※司法へのアクセス障害の根本原因
司法の利用がトータルで「2割」であることにはさほどの意味はない。問題は、第3類型の市民の訴訟提起が極端に少ないことにある。市民の司法利用が少ないことは、市民の権利の実現がないということであり、市民が司法を見限っていることでもある。
なぜ、司法は市民に利用されないか。とりわけ対企業提訴がなぜ少ないか。それは司法が役に立っていないからである。端的に言って、容易に訴訟に勝てないからである。
好例は、変額保険訴訟の総件数600件の提訴である。これは、やむにやまれずの提訴であった。その600件の先行訴訟を10万と言われる同種被害者が見守った。先行訴訟の勝訴判決が続けば、600件は6000件にも6万件にもなり得たと言ってよい。それが途絶えたのは、残念ながら被告の生保にも銀行にも容易に勝てない司法の現状を知った金融被害者の絶望の結果である。司法救済の限界が司法を市民から遠ざけたのだ。
勝訴に一定の時間と労力がかかるとしても、最終的に勝訴の確率が高ければ、市民は司法にアクセスする。掛けるべき時間と労力と費用が小さくなれば、さらに役立つことになる。役に立つ制度なら市民が利用することは、消費者破産が年間13万件にもなっていることがよく示している。

※弁護士報酬の敗訴者負担に反対
それどころか、「まとめ案」は、市民の提訴を抑制しようとしているごとくである。弁護士報酬の敗訴者負担制度の原則採用である。
周知のとおり、これまで弁護士報酬の敗訴者負担論議は、「濫訴・濫上訴防止」の効果をねらって提案され、それ故に批判されて実現を見なかった。大きな司法を目指すはずの司法制度改革審議会が、小さな司法維持策の道具を採用するとしたことには一驚を禁じ得ない。とってつけたような「権利の減殺・希釈論」は、現場を知らない傍観者の机上の空論というべきである。こんな風に、制度をいじられてはとてもかなわない。
確かに、弁護士報酬の敗訴者負担は、ある種の類型の提訴を増やすことにはなる。当初から証拠資料を取りそろえて勝訴確実なシンプルな訴訟を。貸金業者の貸金請求訴訟がその典型であろう。また、企業が市民を訴える訴訟類型は概ねこれに当たる。
しかし、肝心の第三類型の訴訟には確実に萎縮・抑制効果をもたらす。労働・公害・消費者、そして医療過誤等の訴訟の多くは、勝訴の確信あって提訴に至るものではない。訴訟手続において、模索的に証拠を収集し、法的な構成さえ流動的である。「敗訴の場合は、被告側弁護士報酬も負担」ということになれば、提訴を躊躇せざるを得ない。とりわけ、先駆的な訴訟、不合理な判例にチャレンジする訴訟の提起は困難を極める。
また、政策形成訴訟の多くは原告側弁護士のボランティアによってなされているのが現実であって、原告となる市民が弁護士報酬の出捐能力を持っているわけではない。敗訴の場合は被告側の弁護士報酬を負担するとなれば、提訴不可能となるだろう。
この制度の採用は、企業や行政にとって不都合な提訴の抑制効果をねらってのものとしか考えようがない。「まとめ(案)」は、原則を敗訴者負担として、「例外の範囲と例外的取扱の在り方」について検討するとのことだが、例外の範囲の設定が技術的な困難に逢着することは目に見えている。敗訴者負担の原則自体を撤回するよう、強く求める。
この問題は、他のテーマに比して、際だって市民に分かりやすい。司法改革に期待を寄せてきた多くの弁護士の注目度も高い。司法制度改革審議会のなんたるかを示すリトマス紙として機能することになろう。現状では、「市民に小さく、企業に大きな」司法を目指すものとの指摘を裏書きすることになる。(以下略)

『DHCスラップ訴訟』は、経済的強者の濫訴の典型である。弁護士費用の敗訴者負担制度の導入は、市民の提訴意欲を減殺させるだけで、スラップ防止の効果は望むべくもない。訴訟を道具にした言論封殺には、別の断固とした制裁措置が必要である。

海外には各種の「スラップ禁止法」があるという。スラップを防止し、スラップの提起があった場合には早期に被害者を被告の座から解放し、被害者へは十分な救済措置を、加害者には強力な制裁を科す。

私は、スラップ訴訟による加害行為を絶対に許さない。わが国における反スラップ法の制定をもって宿怨をはらしたいと思う。DHCとの訴訟を通じて、強者による濫訴の防止に実効ある制度の設計を考えたいと思う。これも、「弱者に閉じられ、強者に開かれた司法」ではなく、「弱者のための司法」を実現するための一環なのだ。

*********************************************************************
「ウナギと梅干し」の食い合わせは毒か?
今日は土用の丑の日。この日ばかりはと、大枚はたいてウナギを召し上がる人も多かろう。しかしウナギは過度の濫獲によって、国際自然保護連合(IUCN)のレッドリストで絶滅危惧種に指定されてしまった。今となっては畏れ多くて、蒲焼きなどにできない貴重種なのだ。「ヨーロッパウナギ」は野生動物の国際取引を規制するワシントン条約の規制対象となって、最も深刻な「絶滅危惧1A類」に指定されている。それなのに日本のスーパーで輸入物として売られており、またまた、グリンピースによって「資源の保護より短期的な利益を優先する姿勢がうかがえる」と非難されている(毎日新聞7月29日)。

「ニホンウナギ」もやはりレッドリストで2番目にリスクが高い「絶滅危惧1B.類」に分類されている。こちらは天然の稚魚のシラスウナギを捕獲して養殖したものが流通しているのだが、年々シラスの捕獲量が減っている。卵から育てる完全養殖も試みられて、幼体の餌や大型流水プールの試行錯誤が行われている。しかし、今の方法では一匹のウナギを育てるのに餌代を含めて数万円かかる(毎日新聞)。食卓への道はまだまだ遠い。

サケも今は卵から稚魚を育てて、川に放す。プールで育てるのではなく、「必ず戻ってこいよ」と広い海に放し飼いにする。各地の漁協が取り組んで成功している。ウナギは海に放しても、戻ってこないのだろうか。
木村伸吾・東京大学教授(水産海洋学)は「水辺再生がウナギ復活につながる可能性はある。河口からの遡上を妨げるせきやダムを含めた川のあり方を考え直すべきだ」と話す(毎日新聞)。

さて、毒の話。昔から「ウナギと梅干し」の食べ合わせは毒になると言われたものだ。本当だろうか?

「時は大正10?12年のころ、栄養研究所のある研究者がみずからをモルモットとしてこの食べ合わせに果敢な挑戦を行った実験の結果を報告しているのである。彼、村井政善氏は第一回にウナギの蒲焼200グラムと梅干し40グラムを朝、昼、晩と1日3回3日間連続、第二回にはウナギの白焼200グラムを梅肉醤油で昼と晩の2回ずつ2日間、第3回はウナギの霜降りを刺身として200グラム夕食に、第四回には未熟な青梅4個とウナギの蒲焼き200グラムを同時に2日間、というように、とにかく手を替え品を替えして、実に綿密にウナギと梅干しを食べつづけ、なんと第八回の実験にまで至るのである。いまだったら、ウナギ代だけで研究室は破産しかねないし、第一ウナギだけでも腹がもたれて参ってしまいそうな実験である。ともあれ、村井氏はあらゆる組み合わせを考えてウナギと梅干し、あるいは梅の実を食べたが、いずれの場合も全く異常を認めることはできなかったと報告した。
この貴重な『食べ合わせ人体実験』から導き出された結論によれば、ウナギと梅干しの食べ合わせの言い伝えには科学的な根拠はまったくなかったことになる」(山崎幹夫著「毒の話」中公新書)

ウナギを食べたあとに梅干しを食して腹痛を起こす。
まるで、ブログを書いた後にスラップ訴訟の被害者となるごとくである。
ウナギを食べたあとの梅干しは毒にはならないことが立証されたが、ブログのあとのスラップ訴訟は有害だ。解毒のための制裁措置が必要である。(2014年7月29日)
***********************************************************************

『DHCスラップ訴訟』応訴にご支援を
このブログに目をとめた弁護士で、『DHCスラップ訴訟』被告弁護団参加のご意思ある方は東京弁護士会の澤藤(登録番号12697)までご連絡をお願いします。

また、訴訟費用や運動費用に充当するための「DHCスラップ訴訟を許さぬ会」の下記銀行口座を開設しています。ご支援のお気持ちをカンパで表していただけたら、有り難いと存じます。
東京東信用金庫 四谷支店
普通預金 3546719
名義   許さぬ会 代表者佐藤むつみ
(カタカナ表記は、「ユルサヌカイダイヒョウシャサトウムツミ」)

これが都教委の言う「国旗・国歌に対する正しい認識」だ。

「国旗・国歌に対する国民としての正しい認識」というものがあるという。いったいどういうものか、想像がつくだろうか。国旗国歌への敬意表明を強制し、懲戒処分を濫発して止まないことで話題の都教委は、堂々と次のとおり述べている(東京『君が代』裁判・第四次訴訟答弁書)。

「国旗及び国歌に対する正しい認識とは、
?国旗と国歌は、いずれの国ももっていること、
?国旗と国歌は、いずれの国もその国の象徴として大切にされており、相互に尊重し合うことが必要であること、
?我が国の国旗と国歌は、永年の慣行により「日章旗」が国旗であり、「君が代」が国歌であることが広く国民の認識として定着していることを踏まえて、法律により定められていること、
?国歌である「君が代」は、日本国憲法の下においては、日本国民総意に基づき天皇を日本国及び日本国統合の象徴とする我が国の末永い繁栄と平和を祈念した歌であること、
を理解することである。」

私には、そのような理解は到底できないが、上記???は国旗国歌についての考え方の、無限のバリエーションの一つとして存在しておかしくはない。馬鹿げた考え方とも思わない。しかし、これを「国旗国歌に対する正しい認識」と言ってのける無神経さには、愕然とせざるを得ない。こういう無神経な輩に権力を担わせておくことは危険だ。

「公権力は特定のイデオロギーを持ってはならない」。これは民主主義国家における権力の在り方についての原点であり公理である。現実には、完全に実現するには困難なこの課題について、権力を担う者には可及的にこの公理に忠実であろうとする真摯な姿勢が求められる。しかし、都教委にはそのカケラもない。

憲法とは、国民と国家との関係をめぐる基本ルールである。国民と国家との関係とは、国民が国家という権力機構を作り、国家が権力作用を国民に及ぼすことになる。常に暴走の危険を孕む国家権力を、国民がどうコントロールするか、そのルールを形づくるものが憲法にほかならない。

だから、憲法の最大関心テーマは、国家と国民との関係なのだ。国家は目に見えない抽象的存在だが、これを目に見えるものとして具象化したものが、国旗国歌である。国家と国民の目には見えない関係が、国旗国歌と国民との目に見える関係として置き換えられる。

だから、「国民において国旗国歌をどう認識するか」は、「国民において国家をどう認識するか」と同義なのだ。「国家をどう認識するか」は、これ以上ないイデオロギー的テーマである。「正しい認識」などあるはずがない。公権力において「これが正しい認識である」などと公定することがあってはならない。

国家一般であっても、現実の具体的国家でも、あるいは歴史の所産としての今ある国家像としても、公権力が「これが正しい国家認識」などとおこがましいことを言ってはならない。それこそ、「教育勅語」「国定教科書」の復活という大問題となる。

ところが、都教委の無神経さは、臆面もなく「国旗国歌の正しい認識」を言ってのけるところにある。もし、正しい「国旗国歌に対する認識」があるとすれば、次のような、徹底した相対主義の立場以外にはあり得ないだろう。

「国家に対する人々の考え方が無数に分かれているように、国旗国歌に対しても人々がいろんな考え方をしています。民主主義社会においては、このような問題に関して、どの考え方が正しいかということに関心を持ちません。そもそも、「正しい」あるいは「間違っている」などという判断も解答もありえないのです。多数決で決めてよいことでもありません。それぞれの考え方をお互いに尊重するしかなく、決して誰かの意見を他の人に押し付け、強制・強要するようなことがあってはなりません」

上記???を「正しい認識」とするのが、話題の都教委である。悪名高い「10・23通達」を発して懲戒処分を濫発したのは、このようなイデオロギーを持っているからなのだ。

?「国旗と国歌は、いずれの国ももっている」という叙述には、国家や国民についての矛盾や葛藤を、ことさらに捨象しようとする姿勢が透けて見える。いずれの国の成立にも、民族や宗教や階級間の軋轢や闘争の歴史がまつわる。その闘争の勝者が国家を名乗り、国旗・国歌を制定している。「いずれの国も国旗国歌をもっている」では、1910年から1945年までの朝鮮を語ることができない。現在各地で無数にある民族独立運動を語ることもできない。

?国旗と国歌は、「いずれの国もその国の象徴として大切にされており」は、各国の多数派、強者のグループについてはそのとおりだろうが、少数派・敗者側グループにおいては、必ずしもそうではない。「相互に尊重し合うことが必要であること」は微妙な問題である。価値観を同じくしない国は多くある。独裁・国民弾圧・他国への収奪・好戦国家・極端な女性蔑視・権力の世襲・腐敗‥。正当な批判と国旗国歌の尊重とは、どのように整合性が付けられるのだろうか。

?「我が国の国旗と国歌は、永年の慣行により「日章旗」が国旗であり、「君が代」が国歌であることが広く国民の認識として定着している」ですと? 国旗国歌法制定時には、「日の丸・君が代」が国旗国歌としてふさわしいか否かが国論を二分する大きな議論を巻き起こしたではないか。政府は「国民に強制することはあり得ない」としてようやく法の制定に漕ぎつけたではないか。
わが日本国は、「再び政府の行為によって、戦争の惨禍が繰り返されることのないようにすることを決意して…この憲法を確定する」と宣言して建国された。したがって、「戦争の記憶と結びつく、旗や歌は日本を象徴するものとしてふさわしくない」とする意見には、肯定せざるを得ない説得力がある。ことさらに、このことを無視することを「正しい認識」とは言わない。むしろ、「一方的な見解の押し付け」と言わねばならないのではないか。

?「君が代」とは、「かつて国民を膝下に置き、国家主義・軍国主義・侵略主義の暴政の主体だった天皇を言祝ぎ、その御代の永続を願う歌詞ではないか。国民主権国家にふさわしくない」。これは自明の理と言ってよい。これを「日本国民総意に基づき天皇を日本国及び日本国統合の象徴とする我が国の末永い繁栄と平和を祈念した歌」という訳の分からぬ「ロジック」は、詭弁も甚だしいと切り捨ててよい。

以上の???のテーゼの真実性についての論争は実は不毛である。国民の一人が、そのような意見を持つことで咎められることはない。しかし、公権力の担い手が、これを「正しい」、文脈では「唯一正しい」とすることは噴飯ものと言うだけではなく、許されざることなのだ。

都教委は権力の主体として謙虚にならねばならない。民主主義社会の基本ルールに従わなければならない。自分の主張のイデオロギー性、偏頗なことを知らねばならい。

教育委員の諸君。都教委がこんな「正しい認識」についての主張をしていることをご存じだったろうか。すべては、あなた方の合議体の責任となる。それでよいとお思いだろうか。あらためて伺いたい。
(2014年7月28日)

東京「君が代」裁判・4次訴訟の客観的アプローチ論

猛暑のさなかに「熱気」あふれる集会所にお集まりの皆様、ご苦労様です。
「東京『君が代』裁判第4次訴訟」の概要をお話しさせていただきます。

「東京『君が代』裁判」は、都立校の卒入学式において「国旗起立・国歌斉唱」「国歌伴奏」の職務命令違反を理由とする懲戒処分の取り消しを求める行政訴訟です。1次訴訟から4次訴訟まであり、1次訴訟は2012年1月16日、2次訴訟は2013年9月6日に、いずれも最高裁判決で確定しています。両判決は、22件の減給処分と1件の停職処分を取り消しましたが、もっとも軽い戒告処分については「違憲違法だから取り消せ」という原告側の請求を退けています。今、3次訴訟が一審東京地裁で結審して来年1月16日の判決期日を待っており、4次訴訟が新たに提起されてこれから本格的な審理が始まるところです。

4次訴訟の訴状は約130頁。目次を書き連ねたレジメを用意しましたが、おそらくこれでは平板に過ぎて分かりにくかろうと思われます。メリハリを付けてご質問に答えるかたちでお話しをさせていただきます。

原告側の言い分の最たるものは、訴状の冒頭「本件訴訟の概要と意義」のところに書いてあります。表題のとおり、「これまでの最高裁判決に漫然と従ってはならない」と裁判所に語りかけています。

「裁判所の果たすべき使命」の節に、最高裁判決の中に見られる『今日の滴る細流がたちまち荒れ狂う激流となる』という警句や、そして、「マルティン・ニーメラー」の述懐を引いています。最近の憲法状況をみるに、人権や民主主義、あるいは平和が危うくなっているという危惧を抱かずにはおられません。厳格に憲法を遵守すべき姿勢の重大性を強調しています。

「漫然と従ってはならない、これまでの最高裁判決」とは、1次2次の各訴訟の判決を指しています。その余の10・23通達関連事件判決も同旨で、「減給以上の重い処分は量定重きに失して違法となるので取り消すが、軽い戒告にとどまる限りは違憲違法とまでは言えない」というのが、最高裁多数意見の見解です。

最高裁の判断は、減給以上の懲戒処分を取り消した限りでは、頑迷固陋な都教委に鉄槌をくだしたものと言えます。あの、行政に甘いことで知られる最高裁ですら、都教委の累積加重の機械的懲戒システムを違法としたのです。都教委は、司法から「違法行為者」という烙印を押された行政機関として恥を知らねばなりません。

しかし、戒告を違憲違法とはいえないとした点で、私たちは、この最高裁多数派の見解を到底受け容れることができません。最高裁裁判官も馴染んできたはずの憲法学界の通説的見解から大きくはずれた判断だからです。

なんとか、戒告についても違憲あるいは違法という裁判所の判断を求めたい。そのために、1次、2次の訴訟とは違った構成の訴状となっていることをご理解ください。

まずは、これまでと同様、憲法19条(思想良心の自由の保障)違反の主張について、手厚く論理を構築しています。ピアノ伴奏強制事件の判決は、「ピアノ伴奏という外部行為の強制は、客観的一般的には内心の思想良心を侵害するものではない」と言っていました。さすがにこれは、評判悪くて持ちこたえられず、1次・2次訴訟判決では、「国旗国歌への敬意表明という外部的行為の強制は、間接的には思想良心を侵害するものである」ことを認めました。しかし、同時に「間接的な侵害に過ぎないから、合憲判断に必要とされる厳格な審査基準の適用は必要なく、合理性・必要性が認められる程度で合憲と認めてよい」としたのです。

「間接的な侵害」に過ぎないという認定の吟味。「間接的な侵害」には厳格な審査基準不要という判断枠組みへの疑問と反論。そして、「必要性・合理性」存否の再点検まで追求しなければなりません。

それだけではなく、別の観点から新しい論点の設定が必要です。訴状では、「客観的アプローチ」、「客観違法」、「客観違憲」の主張をしています。19条違反、20条違反、あるいは23条違反という、「人権を侵害する」ところで行政の違法を把握し、「人権侵害故に違憲違法」とのアプローチを「主観的アプローチ」と呼ぶことにします。これとは異なり、そもそも当該行政機関にはそのような行為をすべき権能がない、という構成を「客観的アプローチ」と言ってよいと思います。

主観的なアプローチとしては一応最高裁の判断があったが、客観的なアプローチにおいての最高裁の判断はまだない、というのが私たちの立ち場です。

客観的アプローチは、立憲主義的アプローチでもあります。憲法とは、公権力と個人との関係を律するものです。先国家的な根源の存在である個人の尊厳こそが最高の憲法価値であって、主権者が後個人的な被造物として作りあげた国家が個人の尊厳に道を譲るべきは当然のことです。

ところで、国旗国歌は国家と等価な存在です。人は国家と等価な国旗国歌と向き合って、自分と国家との関係を形に表します。国家の象徴としての国旗国歌への敬意表明の強制は、国家を個人の尊厳の上に置くものとして、憲法の理念からはあるべからざることと言うしかありません。憲法的視点からは背理であり、倒錯にほかなりません。

この客観的アプローチだけでなく、10・23通達関連事件では最高裁が口を噤んでいる「教育の自由」の問題についても、重厚に論じて行きたいと思っています。

これまで、あらゆる公務員論のネックにあった、猿払事件最高裁大法廷判決の先例性に、堀越事件が切り込んでゆらぎが見えます。「七生養護学校事件判決」も、あらためて教育の自由に言及しています。

「日の丸・君が代」強制問題については、決して、最高裁判例が固まったとは考えていません。「戒告処分も違憲違法」そのような判決を目指していることをご理解ください。
(2014年7月27日)

澤藤統一郎の憲法日記 © 2014. Theme Squared created by Rodrigo Ghedin.