澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

神奈川新聞社説「ヘイトスピーチ」に敬意を表明する

優れた社説に出会うことは希である。
各「社」の公式論説ともなれば、多くの人の手が入ることになるのだろう。おそらくは、原案の切れ味の鋭さが合議の過程で角が取れ無難なものに落ち着いていく。右顧し左眄し、あっちにもこっちにも配慮した内容となる。とりわけ、権力や金力ある者への言い訳を用意した文章として完成する。そのとき既に読者を唸らせる論説の力はなくなっている。だから、優れた社説は希なのだろう。

本日、その希な「優れた社説」に出会って唸った。神奈川新聞の「ヘイトスピーチ?判決生かし差別根絶を」というもの。在特会による京都朝鮮学校への「街宣活動」の違法を断罪した大阪高裁判決を素材として、通り一遍でない「民族差別」の根絶を論じている。

「言葉の刃で傷付けられているのは民族的少数者たる在日コリアンである。その基本的人権を無視した『朝鮮人を殺せ』のフレーズは民族差別以外の何物でもない。
 それはまた、公言してみせることで差別を正当化し、蔑視観を刷り込み、排斥の空気をあおる。平等と個人の尊厳を尊重することで成り立つ民主主義社会を根底から突き崩す行為に他ならない。」
「容認、放置が許されないのは従って当然だ。大阪高裁は『在日特権を許さない市民の会』らによる京都市の朝鮮学校への街宣活動を違法な人種差別と認定した。『日本からたたき出せ』『保健所で処分しろ』という言葉の暴力が表現の自由であるはずがなかろう。」

ややごつごつとした荒削り感ある文章の迫力が十分。論者の怒りのほとばしりを感ずる。そして、問題を他人ごととしてではなく日本社会の民主主義に関わるものとしてとらえている。

この社説の評価において特筆すべきは、地域紙として、神奈川県内の現状に思いをいたしているところ。

「判決で特筆すべきは、標的とされた朝鮮学校は社会的に認知された存在で、その民族教育事業は保護されるべきだと言及した点だ。翻って、神奈川に5校ある朝鮮学校が置かれた現状はどうだろう。」

「高校無償化の対象から外され、県や横浜、川崎両市は補助金の打ち切りに踏み切った。北朝鮮による拉致問題や核実験という、学校や子どもと無関係な理由が持ち出された政策判断は合理性を欠くと言わざるを得ず、国や自治体の長による公然の差別に等しい。在日の排斥にお墨付きを与え、助長している点でヘイトスピーチと変わらない。」

神奈川県の有力地方紙が、国や県、横浜・川崎両市の仕打ちを指して、「国や自治体の長による公然の差別に等しい。在日の排斥にお墨付きを与え、助長している点でヘイトスピーチと変わらない」と言いきっている。これには凄味さえ感じる。胸のすく思いである。

しかも、同社説は民族差別の背景に肉薄している。
「思い致すべきは、在日への差別は今に始まったものではないことだ。朝鮮半島の植民地支配や民族の名前と言葉、文化を奪った同化政策は、差別と対を成す優越思想に基づく所業だった。差別は戦後も制度的に温存され、人々の意識下で再生産されてきた。そして今、過去の反省を示したはずの河野談話や村山談話の見直しを唱える政治家がいて、同様の言説が流布する。」

そして締めくくりは、こうなっている。
「排外の言動は突如として街中に姿を現したわけではない。歴史を顧み、足元に巣くう差別の根を断ってこそ、(高裁判決に)示された良識は生かされる。」

安倍政権や黒岩県政、横浜・川崎の市政に何の遠慮も気兼ねもしない、揺るぎのない正論。今の世の言論の萎縮を振り払うようなすがすがしさと言うほかはない。

さらに、今日の神奈川新聞「論説・特報」面(21面)の紙面構成は、「時代の正体?ヘイトスピーチ考」と社説とが一体となったもの。全面を使った「朝鮮学校に吹く寒風」というルポの中には、次の一節もある。

「民族的少数者が自らの言語、文化を学ぶ権利は保障されなければならないという国際条約も、教育の現場に政治を持ち込まないという原則も一顧だにされなかった。」「補助金の打ち切りと無償化除外は、朝鮮学校はなくなっても構わないと言っているようなものだ。言葉を学び、歴史を知り、文化を身に付ける必要ない、つまり朝鮮人として生きるな、ということだ。それと『日本からたたき出せ』と叫ぶのと一体どこが違うのか?」

国も県政も、補助金の紐を握ってカネの力をちらつかせながら、恥ずべき教育への介入を行ったのだ。

この優れたルポと社説が余すところなく語っている。差別は他人ごとではない。われわれ自身が作り出したものであり、今なお、再生産しているのだ。そして、それを是正することは、われわれ自身の課題であり、われわれの社会を住み心地よくすることなのだ。

神奈川新聞の姿勢に共感と敬意を表明する。
(2014年7月26日)

「表現の自由」が危ない?『DHCスラップ訴訟』を許さない・第10弾

本日は日民協の機関誌「法と民主主義」の編集会議。
10月号まではテーマが決まっている。11月号をどうするか。

編集担当者からの詳細な企画案メモが提出された。タイトルは、「日本国憲法21条の問題状況」。「現代の表現の自由を考える」という副題が付いている。

大きくは、3節から成る。「第1・メディアの現状」「第2・街角の表現の自由」「第3・プライバシーと表現の自由」というもの。各節に5項目のテーマが並んでいる。なるほど、今、「21条の問題状況」は問題だらけ。表現の自由は危機的状況にある。

議論が百出した。意見は容易にまとまらない。
「これだと全体状況はつかめても、メリハリがない」「ここが時代の中心問題だという押し出しが必要だ」「表現の自由をめぐっては、NHK問題が突出した重大性を持っているというべきだろう」「NHK問題は、『権力による表現の自由規制』という図式が分かり易い。しかも、安倍晋三のお友だち人事というメディアの私物化という特徴的な手法が顕著で、時代を象徴する事件だろう」「むしろ、時代を象徴するのは、権力的規制よりは社会的抑制ではないか。明確な権力の発動なくても、社会の雰囲気に言論が萎縮していることが重大だ」「憲法擁護や憲法の学習までが、政治的な色彩を帯びた行為として行政の末端で排斥される現場を励ます理論が必要だ」「表現の自由の現代性を考えるとすれば、ヘイトスピーチ問題を取りあげねばならない」「これは、自由な言論が人権を侵害している構図」「一見そうだが、安倍自民が一強と言われる状況と深く関わっているのではないか」「自由な言論の市場は悪質な言論を淘汰するだろう」「果たしてそう楽観できるだろうか。後戻りできないところまで、事態が進行するリスクは否めないのではないか」「いや、対抗言論と民事訴訟で克服しつつあると見るべきだろう」‥

この議論の中で、表現の自由を危うくするものの一つとして、言論封殺を目的とするスラップ訴訟の濫発が大きなテーマであると確認され、11月号の特集に取りあげられることとなった。

但し、「スラップ」、あるいは「スラップ訴訟」はやや多義的である。一昨日の東京新聞一面トップが、「スラップ訴訟 市民団体が最高裁に抗議」というもの。沖縄県・高江の米軍用ヘリパッド建設反対の市民運動をつぶす目的での国の住民に対する提訴を「スラップ訴訟」としている。

同紙の記事は、スラップ訴訟を「国や大企業が自らの事業に反対する住民らを訴える」ことによって「言論の自由を抑圧」するものとし、今後の市民運動への濫発を懸念している。スラップSLAPPとは、Strategic Lawsuit Against Public Participationの頭文字を綴った造語だというから、市民運動・住民運動・内部告発などに打撃を与えることを目的とした訴訟が広く含まれるということではある。

もっとも、スラップには、運動対抗型とは別に言論封殺型がある。『DHCスラップ訴訟』はその言論封殺タイプの典型である。個人の言論を封殺する主体は直接には公権力ではない。社会的・経済的強者が、裁判所の威を借りて個人の言論を抑制しているのだ。原告にとって不都合な言論をしたとして、提訴による高額の請求は、被告となった個人を萎縮させる圧力として十分である。

『DHCスラップ訴訟』の提起は、政治的言論に対する直接的な敵対行為であることに本質がある。『DHCスラップ訴訟』が嫌忌した言論の内容は、「政治とカネ」をめぐる見解である。もっと具体的に言えば、「カネで政治を左右することは許されない」「政治はカネで左右されてはならない」という民主主義の根幹に関わる政治的意見の表明である。これを原告は封じようとしているのだ。

このことが根幹であり、その余は枝葉の問題にすぎない。『DHCスラップ訴訟』の提訴と応訴とは、政治的言論の自由が真に保障されるのか、それとも打ち捨て去られるのか、という憲法の最重要理念をめぐる厳しいせめぎ合いなのだ。

「法と民主主義」11月号には、今の課題としての「表現の自由」擁護の立場から、具体的なしかるべき論稿が掲載されることになろう。NHK問題やヘイトスピーチ、あるいは言論の萎縮問題などと並んで、『DHCスラップ訴訟』問題も紙幅を割いてもらえるはずである。

 **************************************************************************
             蓮は泥より出でて泥に染まらず
上野不忍池の蓮が咲き始めた。今が、二分咲きといったところ。大ぶりの蓮の葉を渡る風は一段と涼しい。清々しい葉のうえにスックリと立ち上がった、大きくゆったりとしたピンクの花は「悠久の美」という言葉がぴったりだ。見物人もカメラマンも言葉を発する人もなく静かにみとれている。

不忍池は武蔵野台地の東端に位置し、上野台と本郷台に挟まれた湿地に、根津から藍染川が流れ込んでできた。その余り水は隅田川に流れ出た。入る川も流れ出る川も暗渠となって、今はうかがうこともできない。

いつからその不忍池に蓮が根付いていたかは定かではないが、1677年の「江戸雀」には
 「涼しやと池の蓮を見かえりて、誰かは跡をしのばずの池」
とある。江戸の浮世絵には「不忍池と蓮」がお定まりの図柄となっている。1935(昭和10)年に調査をした大賀一郎博士は、近くに住んだ林羅山か、寛永寺の天海和尚か、不忍池に弁天島を築いた水谷伊勢守が植えたのではないかと推察している。ちなみに博士の調査によれば、当時、植えられていた蓮は10種類であったそうだ。(池畔に立てられた案内板より)

しかし、現在は素人目にはピンクの花が一種類咲いているだけだ。近年、東京都は池の観光整備にのりだした。遊歩道をめぐらせて、新しい種類の蓮を植えることにしたらしい。明鏡蓮(白花)、不忍池斑蓮(白弁をピンクの縁取り)、浄台蓮(ピンク)、大賀蓮(ピンク)、蜀紅蓮(紅花)の五種類。今見るところ小ぶりの浮き葉が水面に浮いているだけ。水面高く立ち上がる巨大な巻き葉(立ち葉)がみえないので、今年は残念ながら花を見ることはできないようだ。

「浮き葉 巻き葉 立ち葉 折れ葉とはちすらし」山口素堂

案内板に書かれていることをメモしていると、隣に立ったおじさんが「俺は土浦の出身なんだ。土浦の蓮はこんなもんじゃない」とのたまう。「レンコンをとるんでしょ」というと、「何で正月にレンコンを食べるか知っているか」と言うので、ちょっと花を持たせて「知りません」と答えた。この辺りから、酒臭いなと思う。「穴が開いているので先が見えるから縁起がいいんだ」という。「そうですか」と言うと「あんた、ほんとはなんでも知っているのに、答えさせたね」とからんでくる。ちょっと、クスッと笑いたくなるのを押さえて、「そんなことありませんよ。ありがとう。」と答えて逃げ出す。

上野というところは朝の7時にご機嫌な人がいる場所だ。酒を嗜んで、蓮の花を愛で、池を渡る風に吹かれるのはどんなに気分がいいだろう。もう少し話し相手になってあげればよかったかなと思う。

しばらく行くと、池のなかから「グェッ、グェッ」とウシガエルの声が聞こえる。立ち上がった緑の葉と美しい花の下には、弱肉強食の現実世界があるらしい。「表現の自由」や「裁判を受ける権利」という美しい花の下に、ヘイトスピーチやスラップ訴訟がうごめいているごとくに。
(2014年7月25日)

漁業の民主化と「浜の一揆」

これまで、足がすくむ思いがつよくて三陸沿岸を訪れる勇気がなかった。
たまたま、「たっての相談ごとがある」として地元から招かれ、昨日と今日(7月23・24日)岩手県の沿岸・宮古市・山田町と田老地区とを訪れた。宮古も山田も3・11後初めての訪問。

法律相談の件は、15年前の「浜の一揆」の続編である。思い起こすと懐かしい。
ちょうど15年前のこと。私は、山田町大沢漁協から依頼されて、ある仮処分事件と本訴とを担当した。その事件を地元では、「浜の一揆」と呼んだ。私は、一揆勢に加勢したことになる。幸い、仮処分も本訴も、事件はすべて勝訴で終了した。裁判だけでなく、「浜の一揆」前編は大きな勝利を収めた。

この闘いの途中、仮処分の勝利決定の段階で、漁協が中間総括として立派なパンフレットを発行している。タイトルが、ズバリ「浜の一揆」。あらためてこれを読むと、私も精力的によく働いている。そしてなによりも、3・11前の沿岸の風景を懐かしく想い出す。

漁業に関する基本法は、1949年制定の「漁業法」である。その第1条・法の目的に、「漁業の民主化を図ることを目的とする」と書き込まれている。他に、「民主化」という言葉のある法律を知らない。明らかに、戦後改革の一端を担う意気込みの立法である。

江戸期、漁業は封建領主あるいはその家臣団が専権を領有し支配するものだった。明治期に封建領主は姿を消したが、網元支配がこれを受け継いだ。そして、戦後の民主化の中で、「浜」に社会改革が必要なことが強く意識されたのだ。ここにも「戦後レジーム」がある。

しかし、理念は必ずしも現実とはならなかった。「民主化」の実現は、ボス支配と拮抗して一進一退、容易に実現しなかった。山田町の大沢漁協は、極めてドラスティックに「一退」と「一進」を経験した。

この中規模漁協に鈴木甚左エ門という人物がいた。おそらくは、リーダーシップに優れ、魅力的な人柄でもあったのだろう。たちまちに、三陸漁業界に頭角を表し大ボスとなった。

大沢漁協の組合長を務めること40年余。岩手県漁連の会長を7期務め、県内1万9000といわれる漁民の頂点に君臨した。全国漁連の副会長でもあり、地元保守政界の大ボスの一人でもあった。

ボス支配は「民主化」による利益配分の公平と相容れない。鈴木ファミリーによる漁業利益の独占に対する一般漁民の不満はくすぶり続け、とうとう燃え上がった。これが「浜の一揆」である。

1999年大沢漁協臨時総会で、鈴木甚左エ門氏とその妻、そして両氏が主宰する定置漁業生産組合2法人の計4名について、除名決議が成立した。議決権数327のうち、賛成307票の圧倒的多数だった。さらに、大沢漁協の漁民は県漁連の総会に乗り込み、8選確実とされていた鈴木甚左エ門氏を「不適格」と弾劾し、会長の座から引き摺り下ろした。これは、支配・被支配を逆転する社会革命だ。鈴木氏と癒着している県政への批判でもある。

このあたり、私には、オッベルと象の一節を彷彿とさせる。
「象は一せいに立ちあがり、まっ黒になって吠えだした。
『オツベルをやっつけよう』議長の象が高く叫ぶと、
『おう、でかけよう。グララアガア、グララアガア。』みんながいちどに呼応する。
 さあ、もうみんな、嵐のように林の中をなきぬけて、グララアガア、グララアガア、野原の方へとんで行く。」

鈴木氏は、「法廷闘争に打って出る」と宣言。舞台は裁判所に移る。大沢漁協の除名決議が1999年6月15日のこと。同月17日には、決議無効の確認を求める本訴と、地位保全の仮処分とが盛岡の有力弁護士を代理人として申し立てられ、私が組合側の代理人として応訴を受任することになった。仮処分申立事件の却下決定は同年8月27日。これで、事実上勝負あったとなった。

もちろん、争いは経済的な実利をめぐってのものである。有限な資源の配分に際して、ボスによる独占を許すか、民主的に公平な配分を実現するかである。このことをめぐって「浜の一揆」がおこった。裁判の勝利は一揆の勝利であり、切実な経済的利益に結びつくものとなった。

その山田町・大沢を大津波が襲った。今回は漁協ではなく、漁民有志からの相談である。今、復興の途上にある漁民は、切実に新たな「浜の一揆」つまりは、漁業の民主化を必要としているという。漁業のボス支配とこれと癒着した県の漁業行政を是正することなしには、一般漁民の生計の復興ができない。後継者が育たない。地域の振興もできない。彼らは、「漁業従事者の生存権」を掲げて、再びの「一揆」に立ち上がろうとしている。これは、たいへん深刻な事態だ。

しかし、あれから15年。私の身体も衰えている。頭も固くなっている。さて、お役に立つことができるかどうか。

私の逡巡にお構いなく、私のブログをよくお読みの漁民と地域の方から、『DHCスラップ訴訟』支援の基金に多額のカンパをいただいた。あんまりありがたくて、義理にはまってしまいそう。
(2014年7月24日)

私こそは「幸せな被告」?『DHCスラップ訴訟』を許さない・第9弾

昨日(7月22日)、『DHCスラップ訴訟』弁護団結成集会(弁護団会議)が開かれた。弁護団長を選任し、その他の弁護団体制も整った。これで、ようやくにして本スラップ訴訟への応訴の構えができあがったのだ。本日現在の弁護団参加弁護士数は87名。また、幸いにしてカンパの集まりも順調。多くの方に御礼を申し上げなければならない。

弁護団会議での意見交換は、訴訟上の理論的な検討に終わるものとはならなかった。「スラップ訴訟が市民の言論を萎縮させている現実を踏まえてこれにどのように対応すべきか」「スラップ訴訟提起者にたいする最も効果的な反撃手段は何か」「政治資金の透明性の確保の観点から本件をどう把握すべきか」「サプリメント販売の規制緩和における問題点を本件でどのように押し出すべきか」等々の議論があり、力量ある弁護士が次々と発言した。本訴訟をどう位置づけるかについての著名な学者からの特別報告もあった。

ともかく、これでスラップ訴訟対策弁護団の基本方針が決まり動き出すこととなった。もとより、私のためばかりの弁護団ではない。弁護団参加者は、スラップ訴訟に義憤を感じ、主としては表現の自由を獲得するために馳せ参じている。そのことは心得ているつもりだが、基本的に手弁当の弁護団の熱意に、被告本人として頭が下がる。

このスラップ訴訟の訴状送達を受けてしばらくは、まことに不愉快な思いをしていた。しかし、ようやくにして今私は、この不愉快さを完全に払拭し得ている。もしかしたら、私は、これ以上ない「幸せな被告」になり得たのではないだろうか。

訴訟の全過程と判決において、「私の幸せ」はそのまま「表現の自由の幸せ」であり、「日本国憲法の幸せ」でもある。このまま訴訟の確定まで、幸せであり続けたいとねがっている。なにしろ、それこそが憲法の幸せであるのだから。

 **********************************************************************
             植物の毒とスラップの毒
前回は動物(昆虫)の毒について書いた。今回は植物の毒について。

近所の公園で、早朝のラジオ体操が始まった。待ちに待った夏休みだ。生き生きとした子どもたちの明るい声で、こちらまで嬉しくなる。

その公園の近くに、家を取り壊した跡の空き地があちこちにある。不思議なことに、つい先日まで敷地の下で、草一本生えていなかったところに、すぐに雑草が生える。その雑草のなかに有毒植物がある。空き地で昆虫採集の子どもたちがそれを口にしないか心配だ。

ヨウシュヤマゴボウはまるでブルーベリーのようなつやつやした紫色の実をつける。いかにも美味しそうだ。しかし、これを食べれば、嘔吐、下痢をし、ひどいときには呼吸障害、心臓麻痺で死に至る。赤い実をつけるヒヨドリジョウゴもラッパのような花をつけ手榴弾のような実をつけるチョウセンアサガオも猛毒を持っており、口にすれば命に関わる。

こう述べてくると、植物とみればすぐ手に取り、時には舐めてみたり噛んでみたりする私は良く生きのびてきたと思う。これまで命の危険はおろか、嘔吐もしたことがない。草刈り中のひっかき傷がせいぜいだ。運がいいのか、チャレンジ精神がまだ足りないのか。夏休み中の子どもたちの心配より、自分の心配をした方が良さそうだ。

ところで、家庭菜園で作ったヒョウタンを食べて、吐き気と腹痛で入院した方についての報道(7月14日)があった。あのユーモラスな形で、完熟すれば水や酒を入れる「瓢(ふくべ)」となるヒョウタンが毒とは知らなかった。ウリ科の果肉に含まれるククルビタシンという成文が悪さをするらしい。海苔巻きにつきものの「かんぴょう」はユウガオを細くむいて乾かしたもの。そのユウガオはヒョウタンから毒性のない、苦みのないものを選別して作られたのだという。だから苦いユウガオは食べてはいけない。

同じウリ科にはキュウリ、ヘチマ、ゴーヤー、カボチャ、ズッキーニ、メロン、スイカなど食材としておなじみのものが多い。これらとて、時には用心が必要だ。ヘチマの若い実も食用になるが、苦いものはやはり食べてはいけない。ゴーヤーの苦みは別成分なので問題はないようだ。スイカの接ぎ木苗の台木にユウガオが使われ、台木のほうに成った実で食中毒を起こした例がある。きっと台木のユウガオがヒョウタンに先祖返りしてしまったのだろう。家庭菜園で野菜を作る方はくれぐれもご用心を。

身の回りにある毒を持った植物はヒョウタンだけではない。夏のあいだ、暑さに負けず花が咲き続けるキョウチクトウも心臓に作用する猛毒を持っている。古代ギリシャのアレキサンダー大王の軍隊やナポレオン軍や太平洋戦争時に南方にいた日本軍兵士もキョウチクトウでたくさん命を落としたといわれる。肉を焼く串に使ったり、料理用の薪に使ったのだ。キョウチクトウはたき火に使ってはいけない。煙も猛毒だ。(文春新書「毒草を食べてみた」植松黎)

美しい花を咲かせるスイセン、スズラン、ヒガンバナ、フクジュソウも用心したほうがいい。スイセンは葉(ニラに似ている)や球根(小さなタマネギのよう)を食べればひどい嘔吐や下痢をする。花に触って湿疹や皮膚炎を起こす人もいる。
スズランの葉や赤い実を食べたり、花をいけた水を飲んだ人は、ひどければ不整脈を起こして心臓が止まる。フクジュソウのもじゃもじゃの根っこにも心臓に作用する毒が含まれている。

ヒガンバナの球根は救荒食物になるというが、食べられるまでには気の遠くなるような行程をこなさなければならない。そのまま食べればひどい嘔吐に悩まされる。

この世は、自然の恵みに満ちてもいるが、実は毒の危険にも満ちているのだ。光あれば闇もあるごとくに。そして、美しい表現の自由の理念もあれば、スラップ訴訟やヘイトスピーチなどという醜い現実もあるごとくに、だ。

もっとも、植物の毒の多くは薬用にも使われる。花岡清州が、チョウセンアサガオ(曼陀羅華)の毒の作用を全身麻酔薬に試みたごとくにである。これと比較すると、スラップやレイシズムなどはひたすら毒性をもつのみ。人を益するところは皆無なのだ。
(2014年7月23日)
***********************************************************************

           『DHCスラップ訴訟』応訴にご支援を
このブログに目をとめた弁護士で、『DHCスラップ訴訟』被告弁護団参加のご意思ある方は東京弁護士会の澤藤(登録番号12697)までご連絡をお願いします。

また、訴訟費用や運動費用に充当するための「DHCスラップ訴訟を許さぬ会」の下記銀行口座を開設しています。ご支援のお気持ちをカンパで表していただけたら、有り難いと存じます。
    東京東信用金庫 四谷支店
    普通預金 3546719
    名義   許さぬ会 代表者佐藤むつみ
 (カタカナ表記は、「ユルサヌカイダイヒョウシャサトウムツミ」)

グララアガア、グララアガア?『DHCスラップ訴訟』を許さない・第8弾

赤旗日曜版の読みどころは断然連載漫画である。かつては、手塚治虫『羽と星くず』『八丁池のゴロ』『タイガーランド』や、永島慎二『れんさいまんが日本むかし話』などの古典と言ってよい作品群があった。中澤啓治も「チンチン電車の詩」を掲載している。近くは、矢口高雄「蛍雪時代」や、山本おさむ「今日もいい天気」の各連載が秀逸だった。

そして今は、ますむらひろしの『宮沢賢治短編集』。賢治作品の理解は読者それぞれだが、猫を借りた人物の描写も、細かく書き込んだ植物や模様も、賢治のイメージをみごとにふくらませている。

ますむらが最初に取りあげたのは「やまなし」だった。この作品は取扱注意だ。私にはいまだに難解に過ぎて分からない。小学生に読ませているのも不可解極まる。ますむらひろし作品も、結局はよく分からなかった。

しかし、「虔十公園林」から俄然おもしろくなった。登場人物の性格描写が生き生きと画に表れている。そして、11回連載の「オッベルと象」が先週終わった。これは文句なくおもしろい。傑作と賞賛してよいと思う。

宮沢賢治の作品の中で、「オッベルと象」はテーマの分かりやすさで群を抜いている。勤労大衆の弱さと強さとを象徴する白象と、支配層ないしは搾取階級のあくどさを象徴するオッベルとの関係の描き方が分かり易いのだ。労農党を支援した賢治の連帯や団結観も見えている。とはいえ賢治の作品である。陳腐な類型化を免れている。決して、オッベルが極悪非道に描かれているわけではない。そして、白象は歯がゆいほどのお人好しなのだ。

冒頭の一節が、全編のトーンを決めている。
「オツベルときたら大したもんだ。稲扱(いねこき)器械の六台も据すえつけて、のんのんのんのんのんのんと、大そろしない音をたててやっている。」

そこへ現れた白象を、オッベルはだましだましこき使う。しまいには鎖でつないで、閉じ込めてひどく扱うようにもなる。

そして、「ある晩、象は象小屋で、ふらふら倒れて地べたに座り、藁もたべずに、十一日の月を見て、『もう、さようなら、サンタマリア。』と斯う言った。」

月のはからいで、白象から仲間に窮状を訴える手紙が到着する。
「ぼくはずいぶん眼にあっている。みんなで出て来て助けてくれ。」という文面。

さあ、ここからだ。
「象は一せいに立ちあがり、まっ黒になって吠えだした。
『オツベルをやっつけよう』議長の象が高く叫ぶと、『おう、でかけよう。グララアガア、グララアガア。』みんながいちどに呼応する。
さあ、もうみんな、嵐のように林の中をなきぬけて、グララアガア、グララアガア、野原の方へとんで行く。どいつもみんなきちがいだ。小さな木などは根こぎになり、藪や何かもめちゃめちゃだ。グワア グワア グワア グワア、花火みたいに野原の中へ飛び出した。」

お終いはこうだ。
「グララアガア、グララアガア、象がどしどしなだれ込む。
『牢はどこだ。』みんなは小屋に押し寄せる。丸太なんぞは、マッチのようにへし折られ、あの白象は大へん瘠やせて小屋を出た。」
『まあ、よかったねやせたねえ。』みんなはしずかにそばにより、鎖と銅をはずしてやった。『ああ、ありがとう。ほんとにぼくは助かったよ。』白象はさびしくわらってそう云った。」

物語の終章の空気が静謐である。団結した行動が勝利したことによる高揚感の描写はない。みんなは「しずかにそばにより」、白象が「さびしく」わらうところで幕となるのだ。

ますむらひろしの作画は、賢治のストーリー展開に負けていない。象の大群が仲間を救出する大活劇の迫力をみごとに活写する。そのうえでの、解放された白象の複雑な表情が印象的である。

私も、スラップ訴訟の被告になって、「ずいぶんな眼にあっている。みんなで出て来て助けてくれ」と窮状を訴える立ち場にある。「『おう、でかけよう。グララアガア、グララアガア』みんながいちどに呼応する」となって欲しいと切実に思っている。

白象をひどく扱ったオッベルの運命はといえば、「五匹の象が一ぺんに、塀からどっと落ちて来た。オツベルはケースを握ったまま、もうくしゃくしゃに潰れていた。」となる。しかし、これは仲間の象が意図的にした結果ではない。

翻って思う。白象にしてみれば、オッベルに対する制裁よりも、完全な損害の填補が関心事ではないか。物語の始まりの「第1日曜」から、終章「第5日曜」までの未払い賃金の支払い、そして虐待に関しての原状回復費用と慰謝料の支払いこそが切実な具体的要求となる。仲間の象たちの日当だって相当因果関係のある損害なのだ。

現実の世界では、賢治の寓話のごとくに、寂しく笑っておわる、というわけには行かない。そう、私もだ。
(2014年7月22日)
***********************************************************************

『DHCスラップ訴訟』応訴にご支援を
このブログに目をとめた弁護士で、『DHCスラップ訴訟』被告弁護団参加のご意思ある方は東京弁護士会の澤藤(登録番号12697)までご連絡をお願いします。

また、訴訟費用や運動費用に充当するための「DHCスラップ訴訟を許さぬ会」の下記銀行口座を開設しています。ご支援のお気持ちをカンパで表していただけたら、有り難いと存じます。
東京東信用金庫 四谷支店
普通預金 3546719
名義   許さぬ会 代表者佐藤むつみ
(カタカナ表記は、「ユルサヌカイダイヒョウシャサトウムツミ」)

ヘイトスピーチと闘う運動参加者の不当逮捕に抗議する

以下は、ヘイトスピーチ問題で活躍中の神原元弁護士による「反レイシズム」「反ヘイトスピーチ」運動弾圧への抗議を訴えるメールの要約。緊急のネット署名の要請に、是非ともご協力いただきたい。

「大阪府警は、さる7月16日朝、突如、反レイシズム団体『男組』のメンバー8人を暴力行為等処罰に関する法律違反で逮捕し、18日大阪地裁は10日勾留を認めました。私は17日に関東在住の6人と接見し、弁護人となりました。

今回の逮捕の被疑事実は、昨年10月のヘイトスピーチデモへの抗議の際のできごとです。8か月も前のことというだけではありません。その場には警察官が臨場していたのですから、いまさらの立件は不自然極まるものです。しかも、被逮捕者の中には、同種事件で今年の2月に東京地裁で執行猶予の判決を受けた者もいます。本来であれば、併合罪として一括して処理されていたはずの事案の蒸し返しなのです。

すでに終わっているはずの事案を今さら、しかも、7月20日に予定されている反レイシズムの祭典「なかよくしようぜパレード」の直前に、任意の呼び出しをすることもなく、いきなり逮捕した大阪府警のやり方には、強い憤りを感じます。

逮捕されたメンバーのうち2人は、前回(本年2月)、執行猶予判決を受けていますから、このまま起訴されれば、実刑になるおそれが十分です。有罪判決となれば、在特会は大宣伝をするでしょう。京都朝鮮人学校事件の敗訴で窮地に追い詰められていた彼らは、この逮捕に勢いづき、既に『反レイシズム運動の壊滅』等と宣伝を開始しています。

私たちは、担当検察官に働きかけるべく、大署名運動を展開することとしました。
木曜日(7月23日)までに1万人の署名を目標としています。そのために、皆様のご協力をお願いいたします。

ネット署名のサイトには下記の「署名運動」をクリックしてアクセスしてください。

署名運動

幸い、担当検察官は、あの大阪地検特捜部の証拠ねつ造事件で内部告発をした塚部貴子検事です。聞く耳を持たないはずがありません。私は彼女に正義がどこにあるか説得したいと思っています。」

なお、8人の釈放を求める担当検事宛の要請署名のなかに、次の一文がある。
「昨年2月、レイシストたちは、東京新宿のコリアンタウンを襲撃しました。このときも、警察は、『朝鮮人をぶっ殺せ』という彼らのヘイトスピーチを止めようともしませんでした。そこで、立ち上がったのが多くの市民グループです。男組もその一つでした。男組のメンバーは、文字通り体を張って、レイシストたちを止めに入り、コリアンタウンの人びとを守りました。男組がいなければ、コリアンタウンの人びとは、京都朝鮮学校の子どもたちと同じ被害を受けていたでしょう。私たちは、男組がその活動の中でいくつかの逸脱行為を行ったことを知っています。しかし、これについては、今年2月、東京地裁で裁判が開かれ、男組のメンバーは一度処罰を受けているのです。それなのに、東京地裁の裁判より以前の事件を今更持ち出すとすれば、東京地裁の裁判はいったい何だったのか、ということになります。これは実におかしな話ではないですか。私たちは、大阪府警が、反レイシズムの祝典『なかよくしようぜパレード』の直前の時期を狙って、男組を逮捕した理由を知る由もありません。しかし、この逮捕は、結果的に、レイシストたちを喜ばせ、勢いづかせています」

上辺だけを見れば、表現行為と表現行為との衝突である。しかし、レイシズムを煽り立てるヘイトスピーチと、公権力の庇護から見捨てられた少数者の側に敢えて立った対抗言論集団の表現行為とを、皮相に「どっちもどっち」と言ってはいけない。

言論・表現の質において、自ずからその価値の軽重が存する。ヘイトスピーチを刑事的に取り締まれというには躊躇を感じつつも、ヘイトスピーチに敢然と立ち向かった集団への刑事弾圧を許してはならない。

もう一つ、表現の自由に関連して、こんな海外ニュースが話題となっている。
「〈ルサカAFP=時事〉アフリカ南部ザンビアのサタ大統領を『イモ』と呼び、罪に問われた野党党首に対し、北部カサマの裁判所は15日、『言論の自由』を認め無罪判決を言い渡した。
 野党『より良いザンビアへの連合』のフランク・ブワルヤ党首は1月、ラジオの生放送中に大統領を『サツマイモ』と批判した。現地の言葉で『サツマイモ』は忠告に耳を貸さない人物を指す。
 無罪判決を受け、ブワルヤ氏は『この国には表現の自由があり、野党党首の私には批判する権利があることを裁判所は明らかにした』と喜んだ。」

関連記事を総合すると事情は次のようである。

フランク・ブワルヤ氏は、元はカトリック系の僧侶で、今はミニ政党〈Alliance for a Better Zambia〉のリーダー。本年1月にラジオの生番組に出演し、マイケル・サタ大統領を『まるでイモのようだ』と発言して逮捕され、起訴された。

次のような当時の報道がある。

「ブワルヤ氏は、「人の話を聞こうという姿勢がない大統領への批判をこめ、『ねじれて歪んだサツマイモのようだ』と例えたのです。しかもこの表現は慣用句としてどこでも使用されています。彼のリーダーシップに関するもので、外見を侮辱したものではありません」と釈明。
 しかし有罪判決が下れば、ブワルヤ氏には5年の懲役刑が言い渡される可能性が高い。」

問われているのは、大統領を「イモ」と呼ぶことの社会的な道義や妥当性の問題ではない。刑事制裁という国家権力の発動をもって、野党党首のこの発言を禁圧することが許容されるかという法的レベルの問題である。

無罪判決は目出度いが、報道では最終審の判断であるかについては分からない。さらに、こんなことで逮捕され起訴までされていることにおいて、明らかに表現の自由の成熟度が不十分なことをものがたっている。

ヘイトスピーチやレイシズムの示威行動は、批判や非難の対抗言論を甘受しなければならない。権力や金力を手にする者の行為についても同様である。政治的、経済的強者の言動に対する批判の言論は最大限に尊重されねばならず、その反面、政治的・経済的強者は言論による批判を甘受しなければならないのだ。

常に、この民主主義社会の基本ルールが問われている。わが国においても、民主主義の成熟度が問われ続けているのだ。「形式的平等」を隠れ蓑にして、男組への蒸し返し起訴を許してはならない。スラップ訴訟における請求認容もあってはならない。
(2014年7月21日)

この頑迷な批判拒否体質(3)?『DHCスラップ訴訟』を許さない・第7弾

私の手許に、「ジャーナリストが危ない」という単行本がある。副題が「表現の自由を脅かす高額《口封じ》訴訟」と付けられている。2008年5月に花伝社から出版されたもの。スラップ訴訟がジャーナリスト・ジャーナリズムへ及ぼしている影響の深刻さが、シンポジウム出席の当事者の発言を中心に生々しく語られている。花伝社は学生の頃からの知人である平田勝さんが苦労して立ち上げた出版社。あらためて、フットワーク軽く良い仕事をしておられると思う。

編者が田島泰彦(上智大学教授)・MIC(日本マスコミ文化情報労組会議)・出版労連の3者。発言者は、山田厚史、烏賀陽弘道、斎藤貴男、西岡研介、釜井英法などの諸氏。

私は、スラップ訴訟とは、「政治的・経済的な強者の立場にある者が、自己に対する批判の言動を嫌忌して、口封じや言論萎縮の効果を狙っての不当な提訴をいう」と定義してよかろうと思う。恫喝訴訟・威圧目的訴訟・イヤガラセ訴訟・言論封殺訴訟・ビビリ期待訴訟などのネーミングが可能だ。同書では、「高額《口封じ》訴訟」としている。

言論の口封じや萎縮の効果を狙っての提訴だから、高額請求訴訟となるのが理の当然。「金目」は人を籠絡することもできるが、人を威嚇し萎縮させることもできる。このような訴権の濫用は、諸刃の剣でもある。冷静に見て原告側の勝訴の敗訴のリスクは大きい。また、判決の帰趨にかかわらず、品の悪いやり方であることこの上ない。自ら「悪役」を買って出て、ダーティーなイメージを身にまとうことになる。消費者からの企業イメージを大きく傷つけることでもある。

それでも、スラップ訴訟があとを絶たないのは、それなりの効果を期待しうるからだ。
この書の前書きがこう言っている。
「このシンポジウムをとおして浮き彫りになったのは、「裁判」という手段によって、フリージャーナリストに限らず、研究者の発表も市民の発言さえも場合によっては巨額の賠償請求をされる事態が進行しているということであった。裁判の勝ち負けに関係なく、訴えられただけで数百万円もの裁判費用の負担が課せられるのでは、公権力や企業の情報を取材・報道することも困難になるということも明らかになった。すでに表現活動の自由と新自由主義を背景にした企業活動の自由の激しいせめぎ合いが起きていて、その前線に立だされているのは、もはやマスコミの企業ではなくペンやカメラを頼りにしたフリーランスだといっても過言ではない状況だということであった。」

要するに、企業ではなく個人が狙い撃ちされているのだ。もちろん、そのほうが遙かに大きな萎縮効果を期待できると考えてのことなのだ。

シンポジウムで、オリコンから5000万円のスラップ訴訟を提起された烏賀陽弘道さんが語っている。少し長いが引用したい。
「訴訟そのものを相手の口封じのために利用するという例が、アメリカで70〜80年代にかけて問題になっていることがわかりました。提訴することで、反対運動を起こした相手に弁護士費用を負わせ、時間を食い潰させて、疲弊させて結局潰してしまう。まあ、いじめ訴訟とかそういった感じなのです」
「このSLAPP(スラップ)については、この言葉を考えたデンバー大学の法学部の先生が書いた本が出ています。スラップは、裁判に勝つことを目的にしていないんですね。相手を民事訴訟にひきずりこんで、市民運動や市民運動を率いている人、あるいはジャーナリスト、酷い場合は新聞に投稿した投稿主までを訴えて、業務妨害・共謀罪・威力業務妨害などで、億ドル単位の訴訟を起こす。それによって相手を消耗させる。それがスラップです」
「アメリカ50州のうち、25州でこのスラップが禁止されているんですね。カリフォルニア州の民事訴訟法をみますと、スラップを起こされた側は、これはスラップである、と提訴の段階で動議をまず出せる。裁判所がそれを認めれば、審理が始まらないということになります。そこで止まるんですね。提訴されたほうが裁判のために、時間やお金を浪費しなければならないという恫喝効果が無くなります」
「カリフォルニア州民事訴訟法は、2001年にもう一度、スラップに関する法律を改正しまして、スラップを起こされた側は、スラップをし返していい、ということになったようです(笑)。アメリカってすごいところだな……と思いますね。
「というわけで、日本でも民事訴訟法に『反スラップ条項』というのが必要ではないかと考えます」

この書では、スラップ訴訟の被告になったジャーナリストが、「萎縮してなるものか」と口を揃えている。合い言葉は、「落ちるカナリアになってはならない」ということだ。

これも、そのひとり、烏賀陽さんの発言の要約である。
「一人のジャーナリストを血祭りにあげれば、残りの99人は沈黙する。訴える側は、『コイツを黙らせれば、あとは全員黙る』という人を選んで提訴している。炭坑が酸素不足になると、まずカナリヤがコロンと落ちる…。カナリヤが落ちれば、炭坑夫全部が仕事を続けられなくなる」

私もカナリアの一羽となった。美しい声は出ないが、鳴き止むことは許されない。ましてや落ちてはならない。心底からそう思う。

なお、紹介されている具体的なスラップ訴訟は以下のとおり。
※「原告・安倍晋三事務所秘書」対「被告・山田厚史/朝日新聞社」事件
※「原告・オリコン」対「被告・烏賀陽弘道」事件
※「原告・キャノン/御手洗富士夫」対「被告・斎藤貴男」事件
※「原告・JR総連他」対「被告・講談社/西岡研介」事件
※「原告・武富士」対「被告・週刊金曜日/三宅勝久」事件
※「原告・武富士」対「被告・山岡俊介」事件
※「原告・武富士」対「被告・消費者弁護士3名/同時代社」事件

武富士の3件の提訴が目を惹くが、「なるほど武富士ならさもありなん」と世間が思うだろう。武富士とスラップ。イメージにおいてよく似合う。
その点、DHCも武富士に負けてはいない。こちらもスラップ訴訟提起の常連と言ってよい。まだ、全容は必ずしも分明ではないが、「みんなの党・渡辺喜美代表への金銭交付」に対する批判の言論を名誉毀損として、同社からスラップ訴訟をかけられたのは私一人ではない。この点は、東京地裁の担当裁判所も、「同じ原告から東京地裁に複数の同様事件の提起があることは裁判所も心得ています」と明言している。

同種の訴訟が複数あるということは、当該の批判の言論を嫌忌したことが本件提訴の主たる動機であることを推察する証左の一つとなりうる。また、同種の訴訟の存在は、共通の批判の意見が多数あることによって、批判の意見の合理性を推認する根拠となるべきものでもある。

また、なによりも同種批判が多数存在し、各批判への多数の訴訟提起があることは、原告の頑迷な批判拒絶体質を物語るものである。
(2014年7月20日)

 ***********************************************************************
           『DHCスラップ訴訟』応訴にご支援を
このブログに目をとめた弁護士で、『DHCスラップ訴訟』被告弁護団参加のご意思ある方は東京弁護士会の澤藤(登録番号12697)までご連絡をお願いします。

また、訴訟費用や運動費用に充当するための「DHCスラップ訴訟を許さぬ会」の下記銀行口座を開設しています。ご支援のお気持ちをカンパで表していただけたら、有り難いと存じます。
    東京東信用金庫 四谷支店
    普通預金 3546719
    名義   許さぬ会 代表者佐藤むつみ
 (カタカナ表記は、「ユルサヌカイダイヒョウシャサトウムツミ」)

この頑迷な批判拒否体質(2)?『DHCスラップ訴訟』を許さない・第6弾

驚くべき事態の展開になろうとしている。このスラップ訴訟の原告側は、徹底して私の口を封じようとしているのだ。その手段として、これ以上ブログでの批判を続けるなという警告がなされ、さらに2000万円の損害賠償では足りず、この金額が増額されようとしている。

7月16日午後7時ころ、この訴訟の原告代理人弁護士から、私宛にファクスが届いた。提訴後、原告の初めての主張となる同日付「原告準備書面1」の送信である。

ごく短いこの書面には、私のブログの新シリーズ「『DHCスラップ訴訟』を許さない」の第1弾(13日)から第3弾(15日)までの3本の記事を記載し、続いて次の主張がある。

文意上、分けて引用すれば次のとおり。
(ブログ記事についての原告の評価)「被告は,原告らに対する名誉毀損を再び繰り返すだけでなく,新たに本件訴訟が不当提訴である旨一般読者に訴えかけ,原告らの損害を拡大させている」
(被告への通告)「本件は既に訴訟係属しており,原告の請求に対する反論は訴訟内で行うべきであり,訴外において,かかる損害を拡大させるようなことをすべきでない旨本準備書面をもって予め被告に通知しおく」
(裁判所への注意喚起)「裁判所にも損害が拡大されている現状について主張しておく」

これは、異様だ。頑迷な批判拒絶体質の表れというほかはない。

これに先立つ7月11日に、裁判所に原被告双方の代理人が出席して進行協議が行われた。事実上の第1回期日となる8月20日口頭弁論の進行についての協議だった。その席で、原告代理人の弁護士が「いずれ請求の拡張をする予定」と明言している。

要するに、「2000万円の請求で裁判を起こしてみたが、どうも安すぎたようだ。もっと高額な請求にする」というわけである。

なぜ請求を拡張する必要があるのか。私の理解では、「2000万円の請求では被告がビビっていないようだ。それなら、ビビってもらうに十分な高額請求に切り替えよう」というもの。それ以外の理由は考えられない。唖然とするしかないが、本当にそんなことをすれば、言論封殺目的の訴訟という性格を自ら立証することになるだろう。裁判所も異常だと思うにちがいない。

その時点では、私の「『DHCスラップ訴訟』を許さないシリーズ」は、まだ始まっていない。それでも、原告は請求拡張の意思を明確に表明したのだ。

7月11日請求拡張発言に加えて、原告は7月16日準備書面で、私に対して、「かかる損害を拡大させるようなことをすべきでない旨本準備書面をもって予め被告に通知しおく」というのだ。これは、私が口を閉じペンを置くまで、際限なく請求金額をつり上げようという予告と解せざるを得ない。

もしかしたら、私の新シリーズの掲載をとらえて、原告はブログの記事一回の掲載ごとに金額いくら、というような算定方法で請求を拡張するつもりなのかも知れない。前代未聞のことだが、あり得ないではない。

かつて、石原慎太郎麾下の都教委が、「日の丸・君が代」強制への服従を潔しとしない教員に対して、懲戒処分量定における累積加重システムをもって対応した。卒業式や入学式での「君が代斉唱時不起立」が1回で戒告、2回目は減給1か月、3回目は減給6か月、4回目は停職1月、次は‥と処分量定を機械的に加重するもの。

都教委の思惑は、「日の丸・君が代」に敬意を表明できないとする教員の思想をあぶり出し、これに累積して過酷な懲戒を科することによって、思想の「弾圧」と「善導」とをはかることにあった。懲戒処分の度ごとに、機械的に処分の量定が重くなる。思想・良心を転向するか、信仰を捨てるまで処分は重くなり続け、ついには教職から追放されることになる。「累積加重システム」は、「転向強要システム」または、「改宗強要システム」にほかならない。

さすがに最高裁もこの累積加重システムの手法を違法として、過酷な処分を取り消した(2012年1月16日第一小法廷判決)。最高裁が違法とした手口の再来を見る思いである。

原告がどのような挙に出るか、是非ともご注目いただきたい。徒手空拳で権力や金権に立ち向かうには、多くの人に訴え、多くの人の目で監視してもらうしか手段はないのだから。

なお、原告がいう「本件は既に訴訟係属しており,原告の請求に対する反論は訴訟内で行うべき」という通告は、的外れも甚だしい。

「いったん訴訟が提起されたら、関連する主張を訴訟外でしてはならない」などという、一方的に原告に好都合な理屈は成り立ちようがない。原告の訴訟提起の効果として、被告の訴訟外での表現の自由を制約しうるとでも原告は本気で考えているのだろうか。

言うまでもなく、裁判は公開法廷で行われる(憲法82条1項)。当事者には公開の法廷で裁判を受ける権利があり、公開の法廷での裁判の進行に関して各当事者が社会に報告することになんの妨げもない。むしろ、当事者やメディアを含む傍聴人が、公開の法廷での見聞を積極的に社会に発信し意見を述べることは、表現の自由(憲法21条)として保障されるにとどまらず、裁判を公開することによってその公正を担保しようとする憲法の趣旨に適合することなのだ。

そもそも新シリーズにおける私のブログの記事は、「原告らに対する名誉毀損を再び繰り返」してはいない。

また、「新たに本件訴訟が不当提訴である旨一般読者に訴えかけ,原告らの損害を拡大させている」というのは、訴状で問題とされたこととはまったく別の主張である。ここで問題にされている、私の表現は、「2000万円の請求という本件損害賠償請求訴訟が提起された」という事実の摘示と、その事実に基づく「この訴訟提起が高額請求の提訴を手段として被告の言論を封殺しようという『スラップ訴訟』の類型に該当する」という意見である。

この「事実の指摘」と「意見の表明」についても、違法で新たな損害賠償請求の根拠とするという原告の主張は、まさしく提訴に対する批判を許さないとするもので、言論封殺の目的を自認するものに等しい。
(2014年7月18日)

 ***********************************************************************
           『DHCスラップ訴訟』応訴にご支援を
このブログに目をとめた弁護士で、『DHCスラップ訴訟』被告弁護団参加のご意思ある方は東京弁護士会の澤藤(登録番号12697)までご連絡をお願いします。

また、訴訟費用や運動費用に充当するための「DHCスラップ訴訟を許さぬ会」の下記銀行口座を開設しています。ご支援のお気持ちをカンパで表していただけたら、有り難いと存じます。
    東京東信用金庫 四谷支店
    普通預金 3546719
    名義   許さぬ会 代表者佐藤むつみ
 (カタカナ表記は、「ユルサヌカイダイヒョウシャサトウムツミ」)

この頑迷な批判拒否体質(1)?『DHCスラップ訴訟』を許さない・第5弾

用語の定義は難しい。法における最も基本的な概念である「権利」の定義の成功例を知らない。「法律用語の広辞苑」というべき有斐閣の「法律学小辞典」には、「相手方(他人)に対して、ある作為不作為を求めることのできる権能」とある。これで十分だとは思わないが、権利の本質に迫っているとは思う。

この定義に見られるとおり、権利とは他者との関係において観念される。他者がしたくないことをするように求め得ること、あるいは他者にとって望ましからぬ事態の受忍を求め得ることが権利の本質である。端的に言えば、権利とは「人の嫌がることをなしうる」権能であり、「人の利益を害しうる」地位、ということなのだ。「他者を害しない全てをなし得る」のは当たり前のことで、そこには権利の観念を容れる余地はない。

「言論の自由」、「自由な表現の権利」とは、人を喜ばせる内容の言論をなし得るということではない。品よく人を持ち上げる言論や、阿諛追従の類の言動、あるいは当たり障りなく毒にも薬にもならないことを述べるには、「自由」も「権利」も不要である。そのような言論が自由なのは当然のことで、権利として保護するに値しない。「誰かにとって耳の痛い」表現、「他者の利益を害する」言論こそが、憲法上の権利として国民に保障されているのだ。

言論の自由とは、「その言論を不愉快と思う他者」の存在を想定して、他者の受忍を求める権利である。だから、「言論の自由」を権利と設定することは、反面「言論による不愉快や不利益を甘受すべき義務」の設定にほかならない。一方に言論の自由の行使あれば、他方に言論による不利益の甘受があるということになる。

もっとも、言論の自由の行使によって侵害される法的利益との比較衡量は当然に必要である。言論も多種多様であり、重要な価値が認められるべきものもあれば、価値の低いものもある。一般市民の名誉や信用を故なく攻撃する内容の言論は、傷つけられる名誉や信用に劣る価値しかないものとして、衡量の結果権利性を否定されることになろう。

最も価値の高いものとして保障されねばならないのは、政治的社会的強者に対する批判の言論である。権力を持つ者、経済的な強者の地位にある者への批判は最大限尊重されねばならず、反面これらの強者は、批判を甘受しなければならない立ち場にある。これが、民主主義社会の基本ルールである。

『DHCスラップ訴訟』の原告は、到底「一般市民」ではない。単に経済的な強者というにとどまる者でもない。公党の代表者に巨額のカネを渡して、その政党の方針に自らの意向を持ち込もうとしたのだ。特定政党の支持者の一人の寄付という域を遙かに超えて、その政党の動向を動かし得る巨額である。そのような金額のカネを政治家に渡した瞬間から政治的な力を持つに至って、「一般市民」とも、「私人」ともいえなくなった。権力をもつ「公人」に準じた者となった。当然に批判の言論を甘受しなければならない立場に自らを置いたのだ。

私のブログによる批判を甘受しえないとする原告の批判拒否の姿勢は、以上の点についての認識が乏しいことを示している。

私は、7月13日から、『DHCスラップ訴訟』を許さないシリーズの連載を始めた。リアルタイムで訴訟の進展を報告すると申しあげたとおりである。連日のブログをこのテーマだけで埋めつくすわけには行かないが、相当の頻度で書き続けるつもりだ。

このシリーズの焦点は、スラップ訴訟という手段での言論封殺の不当を社会に訴えることにある。本件では、『カネの力で政治を買おうとした』ことへの批判が気に入らないとし、『カネの力で裁判まで買おう』としているのだ。私も、これまでスラップ訴訟に関心を持たなかったわけではない。被告訴訟代理人として類似の訴訟を担当した経験もある。しかし、自分が当事者となって初めて、スラップ訴訟の不当性と言論萎縮効果が身に沁みてよく分かる。これは、一人私だけの問題ではない。わが国の言論の自由に大きな障害となっている。言論の自由市場の公正を歪め、国民の知る権利を侵害してもいる。

これは、何とかしなければならない。できれば、この事件を契機に、新たな法整備の出発点ともしてみたい。そんな思いで、新連載は、言論封殺を目的とした訴訟の不当性の報告に重点を置いたものとするつもりでいる。

ところで、このシリーズに対する原告側の反応が過剰である。批判拒絶体質の露呈というほかはない。その驚くべき内容については、追い追い明らかにしていきたい。
*******************************************************************************

『DHCスラップ訴訟』応訴にご支援を

このブログに目をとめた弁護士で、『DHCスラップ訴訟』被告弁護団参加のご意思ある方は東京弁護士会の澤藤(登録番号12697)までご連絡をお願いします。

また、訴訟費用や運動費用に充当するための「DHCスラップ訴訟を許さぬ会」の下記銀行口座を開設しています。ご支援のお気持ちをカンパで表していただけたら、有り難いと存じます。
東京東信用金庫 四谷支店
普通預金 3546719
名義   許さぬ会 代表者佐藤むつみ
(カタカナ表記は、「ユルサヌカイダイヒョウシャサトウムツミ」)

「新3要件」は、全ての人権を否定する論理となる

有楽町をご通行中の皆様、本日は日弁連の弁護士が、安倍内閣の集団的自衛権行使容認の閣議決定に抗議して銀座パレードを行います。それに先立っての街頭宣伝活動です。ぜひ、すこし足を止めて耳をお貸しください。

7月1日の閣議決定は、大きな問題を抱えるものとなっています。もしかしたら、あの日が新しい戦前の始まりだったかという、ターニングポイントとして歴史に刻まれる日になりかねません。安倍内閣の暴走に歯止めをかけなければ、本当にそうなってしまいます。大きな抗議の輪をつくらなければなりません。

この閣議決定の問題点はいくつも指摘されています。私は、解釈壊憲という手法による憲法の破壊について、固い言葉でいえば安倍政権の「立憲主義の否定」の恐ろしさについて焦点をあてて訴えます。

本来、公権力とは主権者国民からの委託によって形成されたもの。国民がその便宜のためにこしらえたものです。その委託された権限の範囲や内容、あるいは委託の手続を明確にしたものが憲法です。当然のこととして憲法は、権力を預かる者に対する憲法遵守義務を定めています。つまり、権力の行使を担当する者は、国民が制定した憲法を守らなければならないのです。

内閣総理大臣こそが憲法を守らねばならない立ち場の筆頭にあります。憲法が禁止していることをやってはいけない。これが憲法を制定する趣旨であり、立憲主義の「キホンのキ」にほかなりません。

ところが、安倍晋三という人物は、自分の考えと違う憲法には従えないというのです。憲法に命令される立ち場にある者が、憲法は気に食わないから、邪魔だから、変えてしまおうと言いだしたのです。

彼は、「戦後レジームからの脱却」を叫び、「日本を取り戻す」と言っています。恐るべきスローガンではないでしょうか。「戦後レジーム」とは日本国憲法に基づく、平和・民主主義・人権を基本とした政治体制のこと。その日本国憲法から脱却して、「日本国憲法のなかった時代の日本」を取りもどそうというのです。

もちろん、憲法は不磨の大典などではありません。慎重な手続で、国民が自身の手によって改正することは可能です。しかし、彼には国民を説得して憲法改正を実現する自信がない。しかし、憲法を変えたい。

そこで、編み出された手法が解釈改憲です。憲法の条文には一字一句手を付けないで、解釈を変えてしまうことで、事実上憲法改正を実現しようというのです。

憲法9条2項には、「陸海空軍その他の権力はこれを保持しない」と書いてある。では、自衛隊は憲法違反の存在ではないのか。これを歴代の自民党政権は、「憲法は自衛力までを否定していないはず」「自衛隊は専守防衛に徹する自衛組織として、絶対に海外で戦争はしないのだから『戦力』ではない」と言ってきました。だから、専守防衛に徹している限りにおいて、自衛隊の違憲性はギリギリのところで、セーフだと言うわけです。

今回、「集団的自衛権を行使して、海外で戦争することも自衛権の範囲」「だから決して違憲ではない」と言い出して、与党の限りで合意し、閣議決定に踏み切りました。こんなアクロバットな解釈を許していたのでは憲法は死んでしまいます。

私が、恐ろしいと思うのは、いわゆる「新3要件」冒頭の一文です。
「我が国の存立が脅かされ」とあります。「国家の存立が危うくなる」、これがキーワードです。国家の存立が危うくなれば、「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」があることになると読めます。そのような場合には、「他に適当な手段」がなければ、自国が攻撃されていなくても、海外のどこででも、戦争に参加することができるというのです。

7月1日閣議決定が採用したこんな理屈が通って、解釈改憲が可能というのなら、内閣の限りで憲法の全ての条文を思うように変えてしまうことができます。

たとえば、18条。
「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない」「その意に反する苦役に服させられない」とあります。この条文は、徴兵制を禁止したものと理解されています。

しかし、「我が国の存立が脅かされた場合は、別だよ」という声が聞こえます。その場合には、「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」があるのだから、「これを排除するために他に適当な手段がなければ」、憲法が徴兵を許さないはずはないじゃないか。そうされてしまいます。

たとえば、21条。
「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。」とあります。

しかし、「我が国の存立が脅かされ」る場合には、表現の自由なんて言ってられない。「国民を守るため」なら、検閲だって許される。となってしまうでしょう。

「我が国の存立が脅かされる」は魔法の言葉です。学問の自由も、職業選択の自由も、居住の自由も、信仰の自由も、全て同じように制限されかねません。

かつての大日本帝国憲法には、31条というものがあり、臣民の権利について、「戦時又ハ国家事変ノ場合ニ於テ天皇大権ノ施行ヲ妨クルコトナシ」とされていました。つまり、「大日本帝国憲法は曲がりなりにもせよ臣民の権利を認める。しかし、それは平時に限ってのこと。戦時になれば人権などない。国家が万能だよ」と宣言していたのです。

現行憲法は、戦時の例外を認めない徹底した平和・人権・民主主義擁護の憲法であったはずなのです。7月1日閣議決定の論理は、9条と平和の理念を壊すだけのものではなく、旧憲法31条と同様に、人権や民主主義の基礎をも突き崩す危険なものと指摘せざるを得ません。

ぜひとも、7月1日閣議決定撤回の大きな輪に加わっていただくよう訴えます。そして、今後の閣議決定に基づいて具体的に戦争を準備する諸立法に反対する運動にもご参加いただくよう、心から訴えます。
(2014年7月17日)

澤藤統一郎の憲法日記 © 2014. Theme Squared created by Rodrigo Ghedin.