昨日(7月22日)、『DHCスラップ訴訟』弁護団結成集会(弁護団会議)が開かれた。弁護団長を選任し、その他の弁護団体制も整った。これで、ようやくにして本スラップ訴訟への応訴の構えができあがったのだ。本日現在の弁護団参加弁護士数は87名。また、幸いにしてカンパの集まりも順調。多くの方に御礼を申し上げなければならない。
弁護団会議での意見交換は、訴訟上の理論的な検討に終わるものとはならなかった。「スラップ訴訟が市民の言論を萎縮させている現実を踏まえてこれにどのように対応すべきか」「スラップ訴訟提起者にたいする最も効果的な反撃手段は何か」「政治資金の透明性の確保の観点から本件をどう把握すべきか」「サプリメント販売の規制緩和における問題点を本件でどのように押し出すべきか」等々の議論があり、力量ある弁護士が次々と発言した。本訴訟をどう位置づけるかについての著名な学者からの特別報告もあった。
ともかく、これでスラップ訴訟対策弁護団の基本方針が決まり動き出すこととなった。もとより、私のためばかりの弁護団ではない。弁護団参加者は、スラップ訴訟に義憤を感じ、主としては表現の自由を獲得するために馳せ参じている。そのことは心得ているつもりだが、基本的に手弁当の弁護団の熱意に、被告本人として頭が下がる。
このスラップ訴訟の訴状送達を受けてしばらくは、まことに不愉快な思いをしていた。しかし、ようやくにして今私は、この不愉快さを完全に払拭し得ている。もしかしたら、私は、これ以上ない「幸せな被告」になり得たのではないだろうか。
訴訟の全過程と判決において、「私の幸せ」はそのまま「表現の自由の幸せ」であり、「日本国憲法の幸せ」でもある。このまま訴訟の確定まで、幸せであり続けたいとねがっている。なにしろ、それこそが憲法の幸せであるのだから。
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植物の毒とスラップの毒
前回は動物(昆虫)の毒について書いた。今回は植物の毒について。
近所の公園で、早朝のラジオ体操が始まった。待ちに待った夏休みだ。生き生きとした子どもたちの明るい声で、こちらまで嬉しくなる。
その公園の近くに、家を取り壊した跡の空き地があちこちにある。不思議なことに、つい先日まで敷地の下で、草一本生えていなかったところに、すぐに雑草が生える。その雑草のなかに有毒植物がある。空き地で昆虫採集の子どもたちがそれを口にしないか心配だ。
ヨウシュヤマゴボウはまるでブルーベリーのようなつやつやした紫色の実をつける。いかにも美味しそうだ。しかし、これを食べれば、嘔吐、下痢をし、ひどいときには呼吸障害、心臓麻痺で死に至る。赤い実をつけるヒヨドリジョウゴもラッパのような花をつけ手榴弾のような実をつけるチョウセンアサガオも猛毒を持っており、口にすれば命に関わる。
こう述べてくると、植物とみればすぐ手に取り、時には舐めてみたり噛んでみたりする私は良く生きのびてきたと思う。これまで命の危険はおろか、嘔吐もしたことがない。草刈り中のひっかき傷がせいぜいだ。運がいいのか、チャレンジ精神がまだ足りないのか。夏休み中の子どもたちの心配より、自分の心配をした方が良さそうだ。
ところで、家庭菜園で作ったヒョウタンを食べて、吐き気と腹痛で入院した方についての報道(7月14日)があった。あのユーモラスな形で、完熟すれば水や酒を入れる「瓢(ふくべ)」となるヒョウタンが毒とは知らなかった。ウリ科の果肉に含まれるククルビタシンという成文が悪さをするらしい。海苔巻きにつきものの「かんぴょう」はユウガオを細くむいて乾かしたもの。そのユウガオはヒョウタンから毒性のない、苦みのないものを選別して作られたのだという。だから苦いユウガオは食べてはいけない。
同じウリ科にはキュウリ、ヘチマ、ゴーヤー、カボチャ、ズッキーニ、メロン、スイカなど食材としておなじみのものが多い。これらとて、時には用心が必要だ。ヘチマの若い実も食用になるが、苦いものはやはり食べてはいけない。ゴーヤーの苦みは別成分なので問題はないようだ。スイカの接ぎ木苗の台木にユウガオが使われ、台木のほうに成った実で食中毒を起こした例がある。きっと台木のユウガオがヒョウタンに先祖返りしてしまったのだろう。家庭菜園で野菜を作る方はくれぐれもご用心を。
身の回りにある毒を持った植物はヒョウタンだけではない。夏のあいだ、暑さに負けず花が咲き続けるキョウチクトウも心臓に作用する猛毒を持っている。古代ギリシャのアレキサンダー大王の軍隊やナポレオン軍や太平洋戦争時に南方にいた日本軍兵士もキョウチクトウでたくさん命を落としたといわれる。肉を焼く串に使ったり、料理用の薪に使ったのだ。キョウチクトウはたき火に使ってはいけない。煙も猛毒だ。(文春新書「毒草を食べてみた」植松黎)
美しい花を咲かせるスイセン、スズラン、ヒガンバナ、フクジュソウも用心したほうがいい。スイセンは葉(ニラに似ている)や球根(小さなタマネギのよう)を食べればひどい嘔吐や下痢をする。花に触って湿疹や皮膚炎を起こす人もいる。
スズランの葉や赤い実を食べたり、花をいけた水を飲んだ人は、ひどければ不整脈を起こして心臓が止まる。フクジュソウのもじゃもじゃの根っこにも心臓に作用する毒が含まれている。
ヒガンバナの球根は救荒食物になるというが、食べられるまでには気の遠くなるような行程をこなさなければならない。そのまま食べればひどい嘔吐に悩まされる。
この世は、自然の恵みに満ちてもいるが、実は毒の危険にも満ちているのだ。光あれば闇もあるごとくに。そして、美しい表現の自由の理念もあれば、スラップ訴訟やヘイトスピーチなどという醜い現実もあるごとくに、だ。
もっとも、植物の毒の多くは薬用にも使われる。花岡清州が、チョウセンアサガオ(曼陀羅華)の毒の作用を全身麻酔薬に試みたごとくにである。これと比較すると、スラップやレイシズムなどはひたすら毒性をもつのみ。人を益するところは皆無なのだ。
(2014年7月23日)
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(カタカナ表記は、「ユルサヌカイダイヒョウシャサトウムツミ」)
赤旗日曜版の読みどころは断然連載漫画である。かつては、手塚治虫『羽と星くず』『八丁池のゴロ』『タイガーランド』や、永島慎二『れんさいまんが日本むかし話』などの古典と言ってよい作品群があった。中澤啓治も「チンチン電車の詩」を掲載している。近くは、矢口高雄「蛍雪時代」や、山本おさむ「今日もいい天気」の各連載が秀逸だった。
そして今は、ますむらひろしの『宮沢賢治短編集』。賢治作品の理解は読者それぞれだが、猫を借りた人物の描写も、細かく書き込んだ植物や模様も、賢治のイメージをみごとにふくらませている。
ますむらが最初に取りあげたのは「やまなし」だった。この作品は取扱注意だ。私にはいまだに難解に過ぎて分からない。小学生に読ませているのも不可解極まる。ますむらひろし作品も、結局はよく分からなかった。
しかし、「虔十公園林」から俄然おもしろくなった。登場人物の性格描写が生き生きと画に表れている。そして、11回連載の「オッベルと象」が先週終わった。これは文句なくおもしろい。傑作と賞賛してよいと思う。
宮沢賢治の作品の中で、「オッベルと象」はテーマの分かりやすさで群を抜いている。勤労大衆の弱さと強さとを象徴する白象と、支配層ないしは搾取階級のあくどさを象徴するオッベルとの関係の描き方が分かり易いのだ。労農党を支援した賢治の連帯や団結観も見えている。とはいえ賢治の作品である。陳腐な類型化を免れている。決して、オッベルが極悪非道に描かれているわけではない。そして、白象は歯がゆいほどのお人好しなのだ。
冒頭の一節が、全編のトーンを決めている。
「オツベルときたら大したもんだ。稲扱(いねこき)器械の六台も据すえつけて、のんのんのんのんのんのんと、大そろしない音をたててやっている。」
そこへ現れた白象を、オッベルはだましだましこき使う。しまいには鎖でつないで、閉じ込めてひどく扱うようにもなる。
そして、「ある晩、象は象小屋で、ふらふら倒れて地べたに座り、藁もたべずに、十一日の月を見て、『もう、さようなら、サンタマリア。』と斯う言った。」
月のはからいで、白象から仲間に窮状を訴える手紙が到着する。
「ぼくはずいぶん眼にあっている。みんなで出て来て助けてくれ。」という文面。
さあ、ここからだ。
「象は一せいに立ちあがり、まっ黒になって吠えだした。
『オツベルをやっつけよう』議長の象が高く叫ぶと、『おう、でかけよう。グララアガア、グララアガア。』みんながいちどに呼応する。
さあ、もうみんな、嵐のように林の中をなきぬけて、グララアガア、グララアガア、野原の方へとんで行く。どいつもみんなきちがいだ。小さな木などは根こぎになり、藪や何かもめちゃめちゃだ。グワア グワア グワア グワア、花火みたいに野原の中へ飛び出した。」
お終いはこうだ。
「グララアガア、グララアガア、象がどしどしなだれ込む。
『牢はどこだ。』みんなは小屋に押し寄せる。丸太なんぞは、マッチのようにへし折られ、あの白象は大へん瘠やせて小屋を出た。」
『まあ、よかったねやせたねえ。』みんなはしずかにそばにより、鎖と銅をはずしてやった。『ああ、ありがとう。ほんとにぼくは助かったよ。』白象はさびしくわらってそう云った。」
物語の終章の空気が静謐である。団結した行動が勝利したことによる高揚感の描写はない。みんなは「しずかにそばにより」、白象が「さびしく」わらうところで幕となるのだ。
ますむらひろしの作画は、賢治のストーリー展開に負けていない。象の大群が仲間を救出する大活劇の迫力をみごとに活写する。そのうえでの、解放された白象の複雑な表情が印象的である。
私も、スラップ訴訟の被告になって、「ずいぶんな眼にあっている。みんなで出て来て助けてくれ」と窮状を訴える立ち場にある。「『おう、でかけよう。グララアガア、グララアガア』みんながいちどに呼応する」となって欲しいと切実に思っている。
白象をひどく扱ったオッベルの運命はといえば、「五匹の象が一ぺんに、塀からどっと落ちて来た。オツベルはケースを握ったまま、もうくしゃくしゃに潰れていた。」となる。しかし、これは仲間の象が意図的にした結果ではない。
翻って思う。白象にしてみれば、オッベルに対する制裁よりも、完全な損害の填補が関心事ではないか。物語の始まりの「第1日曜」から、終章「第5日曜」までの未払い賃金の支払い、そして虐待に関しての原状回復費用と慰謝料の支払いこそが切実な具体的要求となる。仲間の象たちの日当だって相当因果関係のある損害なのだ。
現実の世界では、賢治の寓話のごとくに、寂しく笑っておわる、というわけには行かない。そう、私もだ。
(2014年7月22日)
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(カタカナ表記は、「ユルサヌカイダイヒョウシャサトウムツミ」)
以下は、ヘイトスピーチ問題で活躍中の神原元弁護士による「反レイシズム」「反ヘイトスピーチ」運動弾圧への抗議を訴えるメールの要約。緊急のネット署名の要請に、是非ともご協力いただきたい。
「大阪府警は、さる7月16日朝、突如、反レイシズム団体『男組』のメンバー8人を暴力行為等処罰に関する法律違反で逮捕し、18日大阪地裁は10日勾留を認めました。私は17日に関東在住の6人と接見し、弁護人となりました。
今回の逮捕の被疑事実は、昨年10月のヘイトスピーチデモへの抗議の際のできごとです。8か月も前のことというだけではありません。その場には警察官が臨場していたのですから、いまさらの立件は不自然極まるものです。しかも、被逮捕者の中には、同種事件で今年の2月に東京地裁で執行猶予の判決を受けた者もいます。本来であれば、併合罪として一括して処理されていたはずの事案の蒸し返しなのです。
すでに終わっているはずの事案を今さら、しかも、7月20日に予定されている反レイシズムの祭典「なかよくしようぜパレード」の直前に、任意の呼び出しをすることもなく、いきなり逮捕した大阪府警のやり方には、強い憤りを感じます。
逮捕されたメンバーのうち2人は、前回(本年2月)、執行猶予判決を受けていますから、このまま起訴されれば、実刑になるおそれが十分です。有罪判決となれば、在特会は大宣伝をするでしょう。京都朝鮮人学校事件の敗訴で窮地に追い詰められていた彼らは、この逮捕に勢いづき、既に『反レイシズム運動の壊滅』等と宣伝を開始しています。
私たちは、担当検察官に働きかけるべく、大署名運動を展開することとしました。
木曜日(7月23日)までに1万人の署名を目標としています。そのために、皆様のご協力をお願いいたします。
ネット署名のサイトには下記の「署名運動」をクリックしてアクセスしてください。
署名運動
幸い、担当検察官は、あの大阪地検特捜部の証拠ねつ造事件で内部告発をした塚部貴子検事です。聞く耳を持たないはずがありません。私は彼女に正義がどこにあるか説得したいと思っています。」
なお、8人の釈放を求める担当検事宛の要請署名のなかに、次の一文がある。
「昨年2月、レイシストたちは、東京新宿のコリアンタウンを襲撃しました。このときも、警察は、『朝鮮人をぶっ殺せ』という彼らのヘイトスピーチを止めようともしませんでした。そこで、立ち上がったのが多くの市民グループです。男組もその一つでした。男組のメンバーは、文字通り体を張って、レイシストたちを止めに入り、コリアンタウンの人びとを守りました。男組がいなければ、コリアンタウンの人びとは、京都朝鮮学校の子どもたちと同じ被害を受けていたでしょう。私たちは、男組がその活動の中でいくつかの逸脱行為を行ったことを知っています。しかし、これについては、今年2月、東京地裁で裁判が開かれ、男組のメンバーは一度処罰を受けているのです。それなのに、東京地裁の裁判より以前の事件を今更持ち出すとすれば、東京地裁の裁判はいったい何だったのか、ということになります。これは実におかしな話ではないですか。私たちは、大阪府警が、反レイシズムの祝典『なかよくしようぜパレード』の直前の時期を狙って、男組を逮捕した理由を知る由もありません。しかし、この逮捕は、結果的に、レイシストたちを喜ばせ、勢いづかせています」
上辺だけを見れば、表現行為と表現行為との衝突である。しかし、レイシズムを煽り立てるヘイトスピーチと、公権力の庇護から見捨てられた少数者の側に敢えて立った対抗言論集団の表現行為とを、皮相に「どっちもどっち」と言ってはいけない。
言論・表現の質において、自ずからその価値の軽重が存する。ヘイトスピーチを刑事的に取り締まれというには躊躇を感じつつも、ヘイトスピーチに敢然と立ち向かった集団への刑事弾圧を許してはならない。
もう一つ、表現の自由に関連して、こんな海外ニュースが話題となっている。
「〈ルサカAFP=時事〉アフリカ南部ザンビアのサタ大統領を『イモ』と呼び、罪に問われた野党党首に対し、北部カサマの裁判所は15日、『言論の自由』を認め無罪判決を言い渡した。
野党『より良いザンビアへの連合』のフランク・ブワルヤ党首は1月、ラジオの生放送中に大統領を『サツマイモ』と批判した。現地の言葉で『サツマイモ』は忠告に耳を貸さない人物を指す。
無罪判決を受け、ブワルヤ氏は『この国には表現の自由があり、野党党首の私には批判する権利があることを裁判所は明らかにした』と喜んだ。」
関連記事を総合すると事情は次のようである。
フランク・ブワルヤ氏は、元はカトリック系の僧侶で、今はミニ政党〈Alliance for a Better Zambia〉のリーダー。本年1月にラジオの生番組に出演し、マイケル・サタ大統領を『まるでイモのようだ』と発言して逮捕され、起訴された。
次のような当時の報道がある。
「ブワルヤ氏は、「人の話を聞こうという姿勢がない大統領への批判をこめ、『ねじれて歪んだサツマイモのようだ』と例えたのです。しかもこの表現は慣用句としてどこでも使用されています。彼のリーダーシップに関するもので、外見を侮辱したものではありません」と釈明。
しかし有罪判決が下れば、ブワルヤ氏には5年の懲役刑が言い渡される可能性が高い。」
問われているのは、大統領を「イモ」と呼ぶことの社会的な道義や妥当性の問題ではない。刑事制裁という国家権力の発動をもって、野党党首のこの発言を禁圧することが許容されるかという法的レベルの問題である。
無罪判決は目出度いが、報道では最終審の判断であるかについては分からない。さらに、こんなことで逮捕され起訴までされていることにおいて、明らかに表現の自由の成熟度が不十分なことをものがたっている。
ヘイトスピーチやレイシズムの示威行動は、批判や非難の対抗言論を甘受しなければならない。権力や金力を手にする者の行為についても同様である。政治的、経済的強者の言動に対する批判の言論は最大限に尊重されねばならず、その反面、政治的・経済的強者は言論による批判を甘受しなければならないのだ。
常に、この民主主義社会の基本ルールが問われている。わが国においても、民主主義の成熟度が問われ続けているのだ。「形式的平等」を隠れ蓑にして、男組への蒸し返し起訴を許してはならない。スラップ訴訟における請求認容もあってはならない。
(2014年7月21日)
私の手許に、「ジャーナリストが危ない」という単行本がある。副題が「表現の自由を脅かす高額《口封じ》訴訟」と付けられている。2008年5月に花伝社から出版されたもの。スラップ訴訟がジャーナリスト・ジャーナリズムへ及ぼしている影響の深刻さが、シンポジウム出席の当事者の発言を中心に生々しく語られている。花伝社は学生の頃からの知人である平田勝さんが苦労して立ち上げた出版社。あらためて、フットワーク軽く良い仕事をしておられると思う。
編者が田島泰彦(上智大学教授)・MIC(日本マスコミ文化情報労組会議)・出版労連の3者。発言者は、山田厚史、烏賀陽弘道、斎藤貴男、西岡研介、釜井英法などの諸氏。
私は、スラップ訴訟とは、「政治的・経済的な強者の立場にある者が、自己に対する批判の言動を嫌忌して、口封じや言論萎縮の効果を狙っての不当な提訴をいう」と定義してよかろうと思う。恫喝訴訟・威圧目的訴訟・イヤガラセ訴訟・言論封殺訴訟・ビビリ期待訴訟などのネーミングが可能だ。同書では、「高額《口封じ》訴訟」としている。
言論の口封じや萎縮の効果を狙っての提訴だから、高額請求訴訟となるのが理の当然。「金目」は人を籠絡することもできるが、人を威嚇し萎縮させることもできる。このような訴権の濫用は、諸刃の剣でもある。冷静に見て原告側の勝訴の敗訴のリスクは大きい。また、判決の帰趨にかかわらず、品の悪いやり方であることこの上ない。自ら「悪役」を買って出て、ダーティーなイメージを身にまとうことになる。消費者からの企業イメージを大きく傷つけることでもある。
それでも、スラップ訴訟があとを絶たないのは、それなりの効果を期待しうるからだ。
この書の前書きがこう言っている。
「このシンポジウムをとおして浮き彫りになったのは、「裁判」という手段によって、フリージャーナリストに限らず、研究者の発表も市民の発言さえも場合によっては巨額の賠償請求をされる事態が進行しているということであった。裁判の勝ち負けに関係なく、訴えられただけで数百万円もの裁判費用の負担が課せられるのでは、公権力や企業の情報を取材・報道することも困難になるということも明らかになった。すでに表現活動の自由と新自由主義を背景にした企業活動の自由の激しいせめぎ合いが起きていて、その前線に立だされているのは、もはやマスコミの企業ではなくペンやカメラを頼りにしたフリーランスだといっても過言ではない状況だということであった。」
要するに、企業ではなく個人が狙い撃ちされているのだ。もちろん、そのほうが遙かに大きな萎縮効果を期待できると考えてのことなのだ。
シンポジウムで、オリコンから5000万円のスラップ訴訟を提起された烏賀陽弘道さんが語っている。少し長いが引用したい。
「訴訟そのものを相手の口封じのために利用するという例が、アメリカで70〜80年代にかけて問題になっていることがわかりました。提訴することで、反対運動を起こした相手に弁護士費用を負わせ、時間を食い潰させて、疲弊させて結局潰してしまう。まあ、いじめ訴訟とかそういった感じなのです」
「このSLAPP(スラップ)については、この言葉を考えたデンバー大学の法学部の先生が書いた本が出ています。スラップは、裁判に勝つことを目的にしていないんですね。相手を民事訴訟にひきずりこんで、市民運動や市民運動を率いている人、あるいはジャーナリスト、酷い場合は新聞に投稿した投稿主までを訴えて、業務妨害・共謀罪・威力業務妨害などで、億ドル単位の訴訟を起こす。それによって相手を消耗させる。それがスラップです」
「アメリカ50州のうち、25州でこのスラップが禁止されているんですね。カリフォルニア州の民事訴訟法をみますと、スラップを起こされた側は、これはスラップである、と提訴の段階で動議をまず出せる。裁判所がそれを認めれば、審理が始まらないということになります。そこで止まるんですね。提訴されたほうが裁判のために、時間やお金を浪費しなければならないという恫喝効果が無くなります」
「カリフォルニア州民事訴訟法は、2001年にもう一度、スラップに関する法律を改正しまして、スラップを起こされた側は、スラップをし返していい、ということになったようです(笑)。アメリカってすごいところだな……と思いますね。
「というわけで、日本でも民事訴訟法に『反スラップ条項』というのが必要ではないかと考えます」
この書では、スラップ訴訟の被告になったジャーナリストが、「萎縮してなるものか」と口を揃えている。合い言葉は、「落ちるカナリアになってはならない」ということだ。
これも、そのひとり、烏賀陽さんの発言の要約である。
「一人のジャーナリストを血祭りにあげれば、残りの99人は沈黙する。訴える側は、『コイツを黙らせれば、あとは全員黙る』という人を選んで提訴している。炭坑が酸素不足になると、まずカナリヤがコロンと落ちる…。カナリヤが落ちれば、炭坑夫全部が仕事を続けられなくなる」
私もカナリアの一羽となった。美しい声は出ないが、鳴き止むことは許されない。ましてや落ちてはならない。心底からそう思う。
なお、紹介されている具体的なスラップ訴訟は以下のとおり。
※「原告・安倍晋三事務所秘書」対「被告・山田厚史/朝日新聞社」事件
※「原告・オリコン」対「被告・烏賀陽弘道」事件
※「原告・キャノン/御手洗富士夫」対「被告・斎藤貴男」事件
※「原告・JR総連他」対「被告・講談社/西岡研介」事件
※「原告・武富士」対「被告・週刊金曜日/三宅勝久」事件
※「原告・武富士」対「被告・山岡俊介」事件
※「原告・武富士」対「被告・消費者弁護士3名/同時代社」事件
武富士の3件の提訴が目を惹くが、「なるほど武富士ならさもありなん」と世間が思うだろう。武富士とスラップ。イメージにおいてよく似合う。
その点、DHCも武富士に負けてはいない。こちらもスラップ訴訟提起の常連と言ってよい。まだ、全容は必ずしも分明ではないが、「みんなの党・渡辺喜美代表への金銭交付」に対する批判の言論を名誉毀損として、同社からスラップ訴訟をかけられたのは私一人ではない。この点は、東京地裁の担当裁判所も、「同じ原告から東京地裁に複数の同様事件の提起があることは裁判所も心得ています」と明言している。
同種の訴訟が複数あるということは、当該の批判の言論を嫌忌したことが本件提訴の主たる動機であることを推察する証左の一つとなりうる。また、同種の訴訟の存在は、共通の批判の意見が多数あることによって、批判の意見の合理性を推認する根拠となるべきものでもある。
また、なによりも同種批判が多数存在し、各批判への多数の訴訟提起があることは、原告の頑迷な批判拒絶体質を物語るものである。
(2014年7月20日)
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名義 許さぬ会 代表者佐藤むつみ
(カタカナ表記は、「ユルサヌカイダイヒョウシャサトウムツミ」)
驚くべき事態の展開になろうとしている。このスラップ訴訟の原告側は、徹底して私の口を封じようとしているのだ。その手段として、これ以上ブログでの批判を続けるなという警告がなされ、さらに2000万円の損害賠償では足りず、この金額が増額されようとしている。
7月16日午後7時ころ、この訴訟の原告代理人弁護士から、私宛にファクスが届いた。提訴後、原告の初めての主張となる同日付「原告準備書面1」の送信である。
ごく短いこの書面には、私のブログの新シリーズ「『DHCスラップ訴訟』を許さない」の第1弾(13日)から第3弾(15日)までの3本の記事を記載し、続いて次の主張がある。
文意上、分けて引用すれば次のとおり。
(ブログ記事についての原告の評価)「被告は,原告らに対する名誉毀損を再び繰り返すだけでなく,新たに本件訴訟が不当提訴である旨一般読者に訴えかけ,原告らの損害を拡大させている」
(被告への通告)「本件は既に訴訟係属しており,原告の請求に対する反論は訴訟内で行うべきであり,訴外において,かかる損害を拡大させるようなことをすべきでない旨本準備書面をもって予め被告に通知しおく」
(裁判所への注意喚起)「裁判所にも損害が拡大されている現状について主張しておく」
これは、異様だ。頑迷な批判拒絶体質の表れというほかはない。
これに先立つ7月11日に、裁判所に原被告双方の代理人が出席して進行協議が行われた。事実上の第1回期日となる8月20日口頭弁論の進行についての協議だった。その席で、原告代理人の弁護士が「いずれ請求の拡張をする予定」と明言している。
要するに、「2000万円の請求で裁判を起こしてみたが、どうも安すぎたようだ。もっと高額な請求にする」というわけである。
なぜ請求を拡張する必要があるのか。私の理解では、「2000万円の請求では被告がビビっていないようだ。それなら、ビビってもらうに十分な高額請求に切り替えよう」というもの。それ以外の理由は考えられない。唖然とするしかないが、本当にそんなことをすれば、言論封殺目的の訴訟という性格を自ら立証することになるだろう。裁判所も異常だと思うにちがいない。
その時点では、私の「『DHCスラップ訴訟』を許さないシリーズ」は、まだ始まっていない。それでも、原告は請求拡張の意思を明確に表明したのだ。
7月11日請求拡張発言に加えて、原告は7月16日準備書面で、私に対して、「かかる損害を拡大させるようなことをすべきでない旨本準備書面をもって予め被告に通知しおく」というのだ。これは、私が口を閉じペンを置くまで、際限なく請求金額をつり上げようという予告と解せざるを得ない。
もしかしたら、私の新シリーズの掲載をとらえて、原告はブログの記事一回の掲載ごとに金額いくら、というような算定方法で請求を拡張するつもりなのかも知れない。前代未聞のことだが、あり得ないではない。
かつて、石原慎太郎麾下の都教委が、「日の丸・君が代」強制への服従を潔しとしない教員に対して、懲戒処分量定における累積加重システムをもって対応した。卒業式や入学式での「君が代斉唱時不起立」が1回で戒告、2回目は減給1か月、3回目は減給6か月、4回目は停職1月、次は‥と処分量定を機械的に加重するもの。
都教委の思惑は、「日の丸・君が代」に敬意を表明できないとする教員の思想をあぶり出し、これに累積して過酷な懲戒を科することによって、思想の「弾圧」と「善導」とをはかることにあった。懲戒処分の度ごとに、機械的に処分の量定が重くなる。思想・良心を転向するか、信仰を捨てるまで処分は重くなり続け、ついには教職から追放されることになる。「累積加重システム」は、「転向強要システム」または、「改宗強要システム」にほかならない。
さすがに最高裁もこの累積加重システムの手法を違法として、過酷な処分を取り消した(2012年1月16日第一小法廷判決)。最高裁が違法とした手口の再来を見る思いである。
原告がどのような挙に出るか、是非ともご注目いただきたい。徒手空拳で権力や金権に立ち向かうには、多くの人に訴え、多くの人の目で監視してもらうしか手段はないのだから。
なお、原告がいう「本件は既に訴訟係属しており,原告の請求に対する反論は訴訟内で行うべき」という通告は、的外れも甚だしい。
「いったん訴訟が提起されたら、関連する主張を訴訟外でしてはならない」などという、一方的に原告に好都合な理屈は成り立ちようがない。原告の訴訟提起の効果として、被告の訴訟外での表現の自由を制約しうるとでも原告は本気で考えているのだろうか。
言うまでもなく、裁判は公開法廷で行われる(憲法82条1項)。当事者には公開の法廷で裁判を受ける権利があり、公開の法廷での裁判の進行に関して各当事者が社会に報告することになんの妨げもない。むしろ、当事者やメディアを含む傍聴人が、公開の法廷での見聞を積極的に社会に発信し意見を述べることは、表現の自由(憲法21条)として保障されるにとどまらず、裁判を公開することによってその公正を担保しようとする憲法の趣旨に適合することなのだ。
そもそも新シリーズにおける私のブログの記事は、「原告らに対する名誉毀損を再び繰り返」してはいない。
また、「新たに本件訴訟が不当提訴である旨一般読者に訴えかけ,原告らの損害を拡大させている」というのは、訴状で問題とされたこととはまったく別の主張である。ここで問題にされている、私の表現は、「2000万円の請求という本件損害賠償請求訴訟が提起された」という事実の摘示と、その事実に基づく「この訴訟提起が高額請求の提訴を手段として被告の言論を封殺しようという『スラップ訴訟』の類型に該当する」という意見である。
この「事実の指摘」と「意見の表明」についても、違法で新たな損害賠償請求の根拠とするという原告の主張は、まさしく提訴に対する批判を許さないとするもので、言論封殺の目的を自認するものに等しい。
(2014年7月18日)
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名義 許さぬ会 代表者佐藤むつみ
(カタカナ表記は、「ユルサヌカイダイヒョウシャサトウムツミ」)
用語の定義は難しい。法における最も基本的な概念である「権利」の定義の成功例を知らない。「法律用語の広辞苑」というべき有斐閣の「法律学小辞典」には、「相手方(他人)に対して、ある作為不作為を求めることのできる権能」とある。これで十分だとは思わないが、権利の本質に迫っているとは思う。
この定義に見られるとおり、権利とは他者との関係において観念される。他者がしたくないことをするように求め得ること、あるいは他者にとって望ましからぬ事態の受忍を求め得ることが権利の本質である。端的に言えば、権利とは「人の嫌がることをなしうる」権能であり、「人の利益を害しうる」地位、ということなのだ。「他者を害しない全てをなし得る」のは当たり前のことで、そこには権利の観念を容れる余地はない。
「言論の自由」、「自由な表現の権利」とは、人を喜ばせる内容の言論をなし得るということではない。品よく人を持ち上げる言論や、阿諛追従の類の言動、あるいは当たり障りなく毒にも薬にもならないことを述べるには、「自由」も「権利」も不要である。そのような言論が自由なのは当然のことで、権利として保護するに値しない。「誰かにとって耳の痛い」表現、「他者の利益を害する」言論こそが、憲法上の権利として国民に保障されているのだ。
言論の自由とは、「その言論を不愉快と思う他者」の存在を想定して、他者の受忍を求める権利である。だから、「言論の自由」を権利と設定することは、反面「言論による不愉快や不利益を甘受すべき義務」の設定にほかならない。一方に言論の自由の行使あれば、他方に言論による不利益の甘受があるということになる。
もっとも、言論の自由の行使によって侵害される法的利益との比較衡量は当然に必要である。言論も多種多様であり、重要な価値が認められるべきものもあれば、価値の低いものもある。一般市民の名誉や信用を故なく攻撃する内容の言論は、傷つけられる名誉や信用に劣る価値しかないものとして、衡量の結果権利性を否定されることになろう。
最も価値の高いものとして保障されねばならないのは、政治的社会的強者に対する批判の言論である。権力を持つ者、経済的な強者の地位にある者への批判は最大限尊重されねばならず、反面これらの強者は、批判を甘受しなければならない立ち場にある。これが、民主主義社会の基本ルールである。
『DHCスラップ訴訟』の原告は、到底「一般市民」ではない。単に経済的な強者というにとどまる者でもない。公党の代表者に巨額のカネを渡して、その政党の方針に自らの意向を持ち込もうとしたのだ。特定政党の支持者の一人の寄付という域を遙かに超えて、その政党の動向を動かし得る巨額である。そのような金額のカネを政治家に渡した瞬間から政治的な力を持つに至って、「一般市民」とも、「私人」ともいえなくなった。権力をもつ「公人」に準じた者となった。当然に批判の言論を甘受しなければならない立場に自らを置いたのだ。
私のブログによる批判を甘受しえないとする原告の批判拒否の姿勢は、以上の点についての認識が乏しいことを示している。
私は、7月13日から、『DHCスラップ訴訟』を許さないシリーズの連載を始めた。リアルタイムで訴訟の進展を報告すると申しあげたとおりである。連日のブログをこのテーマだけで埋めつくすわけには行かないが、相当の頻度で書き続けるつもりだ。
このシリーズの焦点は、スラップ訴訟という手段での言論封殺の不当を社会に訴えることにある。本件では、『カネの力で政治を買おうとした』ことへの批判が気に入らないとし、『カネの力で裁判まで買おう』としているのだ。私も、これまでスラップ訴訟に関心を持たなかったわけではない。被告訴訟代理人として類似の訴訟を担当した経験もある。しかし、自分が当事者となって初めて、スラップ訴訟の不当性と言論萎縮効果が身に沁みてよく分かる。これは、一人私だけの問題ではない。わが国の言論の自由に大きな障害となっている。言論の自由市場の公正を歪め、国民の知る権利を侵害してもいる。
これは、何とかしなければならない。できれば、この事件を契機に、新たな法整備の出発点ともしてみたい。そんな思いで、新連載は、言論封殺を目的とした訴訟の不当性の報告に重点を置いたものとするつもりでいる。
ところで、このシリーズに対する原告側の反応が過剰である。批判拒絶体質の露呈というほかはない。その驚くべき内容については、追い追い明らかにしていきたい。
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有楽町をご通行中の皆様、本日は日弁連の弁護士が、安倍内閣の集団的自衛権行使容認の閣議決定に抗議して銀座パレードを行います。それに先立っての街頭宣伝活動です。ぜひ、すこし足を止めて耳をお貸しください。
7月1日の閣議決定は、大きな問題を抱えるものとなっています。もしかしたら、あの日が新しい戦前の始まりだったかという、ターニングポイントとして歴史に刻まれる日になりかねません。安倍内閣の暴走に歯止めをかけなければ、本当にそうなってしまいます。大きな抗議の輪をつくらなければなりません。
この閣議決定の問題点はいくつも指摘されています。私は、解釈壊憲という手法による憲法の破壊について、固い言葉でいえば安倍政権の「立憲主義の否定」の恐ろしさについて焦点をあてて訴えます。
本来、公権力とは主権者国民からの委託によって形成されたもの。国民がその便宜のためにこしらえたものです。その委託された権限の範囲や内容、あるいは委託の手続を明確にしたものが憲法です。当然のこととして憲法は、権力を預かる者に対する憲法遵守義務を定めています。つまり、権力の行使を担当する者は、国民が制定した憲法を守らなければならないのです。
内閣総理大臣こそが憲法を守らねばならない立ち場の筆頭にあります。憲法が禁止していることをやってはいけない。これが憲法を制定する趣旨であり、立憲主義の「キホンのキ」にほかなりません。
ところが、安倍晋三という人物は、自分の考えと違う憲法には従えないというのです。憲法に命令される立ち場にある者が、憲法は気に食わないから、邪魔だから、変えてしまおうと言いだしたのです。
彼は、「戦後レジームからの脱却」を叫び、「日本を取り戻す」と言っています。恐るべきスローガンではないでしょうか。「戦後レジーム」とは日本国憲法に基づく、平和・民主主義・人権を基本とした政治体制のこと。その日本国憲法から脱却して、「日本国憲法のなかった時代の日本」を取りもどそうというのです。
もちろん、憲法は不磨の大典などではありません。慎重な手続で、国民が自身の手によって改正することは可能です。しかし、彼には国民を説得して憲法改正を実現する自信がない。しかし、憲法を変えたい。
そこで、編み出された手法が解釈改憲です。憲法の条文には一字一句手を付けないで、解釈を変えてしまうことで、事実上憲法改正を実現しようというのです。
憲法9条2項には、「陸海空軍その他の権力はこれを保持しない」と書いてある。では、自衛隊は憲法違反の存在ではないのか。これを歴代の自民党政権は、「憲法は自衛力までを否定していないはず」「自衛隊は専守防衛に徹する自衛組織として、絶対に海外で戦争はしないのだから『戦力』ではない」と言ってきました。だから、専守防衛に徹している限りにおいて、自衛隊の違憲性はギリギリのところで、セーフだと言うわけです。
今回、「集団的自衛権を行使して、海外で戦争することも自衛権の範囲」「だから決して違憲ではない」と言い出して、与党の限りで合意し、閣議決定に踏み切りました。こんなアクロバットな解釈を許していたのでは憲法は死んでしまいます。
私が、恐ろしいと思うのは、いわゆる「新3要件」冒頭の一文です。
「我が国の存立が脅かされ」とあります。「国家の存立が危うくなる」、これがキーワードです。国家の存立が危うくなれば、「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」があることになると読めます。そのような場合には、「他に適当な手段」がなければ、自国が攻撃されていなくても、海外のどこででも、戦争に参加することができるというのです。
7月1日閣議決定が採用したこんな理屈が通って、解釈改憲が可能というのなら、内閣の限りで憲法の全ての条文を思うように変えてしまうことができます。
たとえば、18条。
「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない」「その意に反する苦役に服させられない」とあります。この条文は、徴兵制を禁止したものと理解されています。
しかし、「我が国の存立が脅かされた場合は、別だよ」という声が聞こえます。その場合には、「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」があるのだから、「これを排除するために他に適当な手段がなければ」、憲法が徴兵を許さないはずはないじゃないか。そうされてしまいます。
たとえば、21条。
「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。」とあります。
しかし、「我が国の存立が脅かされ」る場合には、表現の自由なんて言ってられない。「国民を守るため」なら、検閲だって許される。となってしまうでしょう。
「我が国の存立が脅かされる」は魔法の言葉です。学問の自由も、職業選択の自由も、居住の自由も、信仰の自由も、全て同じように制限されかねません。
かつての大日本帝国憲法には、31条というものがあり、臣民の権利について、「戦時又ハ国家事変ノ場合ニ於テ天皇大権ノ施行ヲ妨クルコトナシ」とされていました。つまり、「大日本帝国憲法は曲がりなりにもせよ臣民の権利を認める。しかし、それは平時に限ってのこと。戦時になれば人権などない。国家が万能だよ」と宣言していたのです。
現行憲法は、戦時の例外を認めない徹底した平和・人権・民主主義擁護の憲法であったはずなのです。7月1日閣議決定の論理は、9条と平和の理念を壊すだけのものではなく、旧憲法31条と同様に、人権や民主主義の基礎をも突き崩す危険なものと指摘せざるを得ません。
ぜひとも、7月1日閣議決定撤回の大きな輪に加わっていただくよう訴えます。そして、今後の閣議決定に基づいて具体的に戦争を準備する諸立法に反対する運動にもご参加いただくよう、心から訴えます。
(2014年7月17日)
20年ほど以前のことだが、「ドクター」というアメリカ映画が話題となった。その宣伝のキャッチフレーズが、「ある日、医者は患者になった。そして、医者は人間になった」というのもの。映画の中身よりは、この秀逸なキャッチフレーズに心を惹かれた。
私の場合は、「ある日、弁護士は被告になった。そして、弁護士は真に人の痛みが分かる人間になった」ように思う。
映画の主人公は外科医。ガンを宣告され、自らが患者の立場になることで、今まで医療者の立場から見てきた医療現場を患者の目で見直すことになる。患者になって初めて見えてくるもの、分かってくることがあるのだ。もしかしたら、患者にならねば、医療の本質が分からないのかも知れない。
私は、これまで多数の医療過誤事件に携わってきた。例外なく、患者側代理人としてである。医師が患者として医療過誤被害を主張する事件を何件か経験している。医師の家族の事件も相当数に上る。関係する医師は、「ある日、医者は医療過誤事件の原告となった。そして、医者はより良き医師となった」。そんな例を見ている。見てはいるが、自分のこととしての理解はなかった。
今回、はからずも、弁護士である私が被告となった。もちろん初めての経験。事前の打診も要請も警告もない。ある日突然訴状が届いて私は被告となった。それも、「2000万円を支払え」というもの。なんとも、不愉快極まる体験である。
しかし、思う。私は弁護士だからまだよい。闘う手段を心得ている。弁護士でない市民がこのような訴訟を提起されたら、どんなにか心細いことだろう。どのようにして対応すべきか、それこそ右往左往せざるを得ないことになる。信頼できる力量を持った弁護士にどうすれば接触できるだろうか。費用はどうなるだろうか。敗訴したらどうしよう‥。ようやく、訴訟の当事者となっている依頼者の気持ちを、自分に引きつけて理解できるようになったと思う。
自分が被告の身になって、スラップ訴訟というものの威嚇効果の大きさを実感する。あらためて、金の力で批判の言論を封じようという輩に怒りを禁じ得ない。
この間、いろんな人に『DHCスラップ訴訟』で名誉毀損と指摘された私の3本のブログを読んでいただいての感想を聞いた。多くは、「なぜこんなことが裁判になるのか理解できない」「こんな程度のことすらものを言えないとなったら、それこそたいへんな世の中になってしまう」というものだった。中でこんな感想も聞いた。
「弁護士のあなただからこそ、最前線でがんばってもらいたい」
そうなのだ。私は、弁護士として一歩も引けない立ち場にある。
私が弁護士という職業を選択したのは、自由業としての故だ。宮仕えは性に合わない。権力やカネのあるものに擦り寄る生き方はまっぴらだ。弁護士なら、プライドを保持した生き方ができるだろう。これまで、苦楽はあったものの、理念を貫いた職業生活を送ることができた。弁護士という自由な職業がこの世に存在したことをこの上なくありがたいと思っている。
しかし、弁護士の自由とは、弁護士のためにあるものではない。近代市民社会が必要として創り出したものだ。言わば、市民から与えられた自由、あるいは市民から預けられた自由なのだ。その自由の本来は市民社会の総体としての利益に奉仕すべきもので、儲かる方に就く自由、権力に擦り寄る自由ではない。
弁護士の自由とは、権力からの自由、金力からの自由である。市民の立場に立って、権力や金力と立ち向かうとき、それにへつらう必要のないことの保障としての自由なのだ。市民の利益の擁護を徹底すること、市民の自由を獲得し増進すること、金権による腐敗から民主的な社会を防衛すること、そのために働くためにこそ保障された弁護士の自由なのだ。
さあ今、私は自分の自由をそのような任務に行使すべき立場に立たされている。社会から与えられた自由に内在する責務として、金権と闘い、言論弾圧と闘うべき責務を負っている。私は、一歩も引いてはならないことを自覚しなければならない。
「ある日、弁護士は被告になった。そして、弁護士は一歩も引かない人間になった」
(2014年7月16日)
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(カタカナ表記は、「ユルサヌカイダイヒョウシャサトウムツミ」)
過日の毎日新聞・万能川柳欄の一句。知らない人の作句だが、この内容はみごとに私のことなのだ。ぜひともこの作者に、私のブログとスラップ訴訟を知ってもらいたい。そして次の句作のネタにしていただきたい。
DHCの会長が、みんなの党渡辺喜美代表に8億円の金銭を渡していた。そのことが明らかになって、世間の風当たりはカネを受けとった側に強かった。しかし私は、「カネで政治を買おうとした」側に批判の目を向けなければならないとブログに書いた。まさしく、「言っちゃった 金で政治を買ってると」というわけだ。それに対する2000万円のスラップ訴訟提起なのである。
古来、政治にはカネが大きくものをいった。お代官様は、越後屋から密かにカネを受けとっているのが通り相場。見えないところでうごめく巨額のカネが、政治の公正を歪めてきた。
民主主義の成熟には、金権政治からの脱却という大きな課題がある。この点について、丸山眞男が1952年に発刊した「政治の世界」(同名の岩波文庫に所載)の中に次のような一文がある。
「第一次大戦の頃、或るアメリカの経済学者が、『われわれの社会は一方、政治権力が大衆に与えられているのに他方、経済的権力が少数階級の手中にある限り、常に不安定で、爆発的な化合物たるを免れないであろう。最後にはこの二つの力のうちどっちかが支配するだろう。金権政治がデモクラシーを買取ってしまうか、それともデモクラシーが金権政治を投票によって斥けるかどちらかである』(H.Lasswell)と警告していますが、いまやますます激化して行くこの矛盾を解決しうるかどうかに、代議制の将来はかかっているといっても過言ではないでしょう」
第一次大戦の勃発はちょうど100年も昔のこと。そのころから、社会の基本構造をどう見るかに関わる年季の入った論争が行われてきた。「政治権力が大衆に与えられている」という民主主義の美しい原理は、実は社会の病理を解決するほどの現実的な力を持っていない。端的に言えば、「大衆に与えられている政治権力」とは見せかけだけのもので、社会を動かす実権は「少数階級の経済的権力」が握っているのだ。
この「大衆にあるとされている政治的権力」と、「少数階級が握っている経済的権力」との角逐が、この社会の基本構造をかたちづくっている。前記丸山の引用するハロルド・ラスウェルの言葉を借りれば、両者の角逐は、「金権政治がデモクラシーを買取ってしまうか、それともデモクラシーが金権政治を投票によって斥けるか」どちらかの決着まで続くことになる。まさしく、今の日本の政治もそのような角逐の途上にある。
言うまでもなく、社会の建前は、デモクラシーを是とし金権政治を非とする。民主主義の徹底を正義とし、金権をもってこれを攪乱しようという策動を不正義とする。
だから、「金権政治がデモクラシーを買取ってしまう」という手法は、基本的に隠密裡に行われる。裏金がうごめく世界なのだ。そのアンダーワールドにおいては、裏金を動かす人物がご主人様であり、裏金に拝跪してこれを押し戴く政治家がそのパシリである。かくて政治は、ご主人様のご意向を汲む方向に流される。
見かけの上の「人民の人民による人民のための政治」は、内実において「金主の金主による金主のための政治」となりかねない。
だから、この種の事案に対する徹底した批判が重要なのだ。そして、批判を封じようとするスラップ訴訟への批判はさらに重要といわねばならない。
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「ブロガーは自らの思想や感性の表明に関して、妨害されることのない表現の自由を希求する。わけてもブロガーが望むものは、権力や経済的強者あるいは社会的権威に対する批判の自由である。プロガーの表現に不適切なところがあれば、相互の対抗言論によって是正されるべきである。ブロガーの表現の自由が実現するときにこそ、民主主義革命は成就する。万国のブロガー万歳。万国のブロガー団結せよ」
『DHCスラップ訴訟』の被告になって以来、ブログ・ブロガーを見る私の目は明らかに変わってきた。私もブロガーの1人だが、ブロガーというのはたいした存在なのだ。これまでの歴史において、表現の自由とは実質において「メディアの自由」でしかなかった。それは企業としての新聞社・雑誌社・出版社・放送局主体の自由であって、主権者国民はその受け手の地位に留め置かれてきた。メディア主体の表現の受け手は、せいぜいが「知る権利」の主体でしかない。
ブログというツールを手に入れたことによって、ようやく主権者一人ひとりが、個人として実質的に表現の自由の主体となろうとしている。憲法21条を真に個人の人権と構想することが可能となってきた。「個人が権利主体となった表現の自由」を手放してはならない。
だから、「立て、万国のブロガーよ」であり、「万国のブロガー団結せよ」なのである。各ブロガーの思想や信条の差異は、今あげつらう局面ではない。経済的な強者が自己への批判のブログに目を光らせて、批判のブロガーを狙って、高額損害賠償請求の濫訴を提起している現実がある。他人事と見過ごさないで、ブロガーの表現の自由を確立するために声を上げていただきたい。とりわけ、弁護士ブロガー諸君のご支援を期待したい。
いかなる憲法においても、その人権カタログの中心に「表現の自由」が位置を占めている。社会における「表現の自由」実現の如何こそが、その社会の人権と民主主義の到達度の尺度である。文明度のバロメータと言っても過言でない。
なにゆえ表現の自由がかくも重要で不可欠なのか。昔からなじんできた、佐藤功「ポケット注釈全書・憲法(上)」が、みごとな要約をしている。
「思想は、自らの要求として、外部に表現され、伝達されることを欲する。人は思想の交流によって人格を形成することができる。かくして、思想表現の自由の価値は、第一に、それが人間人格の尊厳とその発展のために不可欠であることに求められる。また、民主政治はいろいろの思想の共存の上に成り立つ。かくして、思想表現の自由の価値は、第二にそれが民主主義の基盤のために不可欠であることに求められる」
まず、人はものを考えこれを他に伝えることを本性とする。だから、人間存在の根源的要求として表現の自由が尊重されねばならない。また、政治社会の視点からは、表現の自由は民主主義に原理的に不可欠、というのだ。
このような古典的なそもそも論には、メディアの登場はない。インターネット・デバイスの発展によって、古典的なそもそも論の世界に回帰することが可能となりつつある。要するに、主権者の誰もが、不特定多数の他者に情報や思想を伝達する手段を獲得しつつあるのだ。これは、表現の自由が人格の自己実現に資するという観点からも、民主的政治過程に不可欠という観点からも、個人を表現の自由の主体とする画期的な様相の転換である。人権も民主主義も、形式的なものから実質的なものへの進化の可能性を秘めている。
憲法21条は、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と定める。ブロガーこそは、今や先進的な「言論の自由」の実質的担い手である。
私は、一ブロガーとして、経済的強者を「カネで政治を壟断しようとした」と批判して、被批判者から高額損害賠償請求訴訟の提起を受けた。はからずも、ブロガーを代表する立ち場で、経済的強者と対峙している。
この際、私は全国のブロガーに呼び掛ける。ブロガーの権利を守るべく、あなたのブログでも、呼応して声を上げていただきたい。「『DHCスラップ訴訟』は不当だ」と。「カネの力で政治に介入しようとした経済的な強者は、あの程度の批判は当然に甘受しなければならない」と。また、「言論を萎縮させるスラップ訴訟は許さない」と。
さらに、全ての表現者に訴えたい。表現の自由の敵対者に手痛い反撃が必要であることを。スラップ訴訟は、明日には、あなたの身に起こりうるのだから。
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クロスズメバチの自衛権
ホタルブクロも桃色月見草も花を咲き終えて、だらしなく野放図に伸びすぎた。申し訳ないが、花が終われば来年までお役御免だ。情け容赦もなくざくざくと刈り倒した。
と、ハチが何匹もとびだしてきて、飛び回っている。ミツバチぐらいの大きさで、ブンブンとうるさい。でもよく見ると、黄色の縞ではなくて、白黒の縞模様の胴体が、ミツバチよりずっとスリムだ。そして何倍もしつこくて、振り払っても振り払っても退却の気配が見えない。
と、突然脚をさされた。ズキンと痛い。指も手の付け根も、そのうえ背中まで刺された。長袖長ズボンの着衣のうえからだ。これはただ事ではないと気がついたときには、時すでに遅くまわりじゅうブンブンと取り囲まれてしまった。手を振り回し、一目散に駆けだした。しかし、敵は攻撃の手を緩めない。駆けても駆けてもついてくる。結局、あとでわかったことだが、6匹の狙撃兵を引き連れて、家に逃げ込んだ。蚊取り線香を振り回そうが、新聞紙でたたこうが、攻撃の手は緩めてくれない。激戦の末、一匹は風呂場に閉じ込め、5匹はたたき落とした。我が方の勝利。しかし我が方も無傷ではない。4カ所刺されてかなりの重症。たたいたために網戸は無残にも大穴を開けて損傷。
さされた場所は痛いことも痛いが、どんどんふくれてくるのが不気味。「アナフィラキーショック」という言葉が頭を駆け巡る。救急車を呼ぶべきか、自分で病院へ行くべきか。以前にもキイロスズメバチやアシナガバチに刺されていて、その時は大丈夫だったけれど、今度はダメじゃないかなどとどんどん気が弱くなる。
結局、今回は気を強く持った私の勝ち。痛いのを我慢していたら、3日後には痒くて痒くてたまらなくなり、1週間後にはポチンと刺し痕が赤く残った。今回は事なきを得たが、次回刺されたら、救急車のお世話にならなければならないかもしれない。
いろいろ調べて、我が敵はクロスズメバチだと判明した。毎年、2階の軒下にキイロスズメバチが一抱えもあるほどの立派な巣を作る。ところがどうしたことか、今年は気配も見せない。その隙を突いて、今まで見たこともないクロスズメバチが出現した。クロスズメバチは地下に巣を作るらしい。目のわるい私がその出入り口でも踏みつけてしまったのではないだろうか。怖くて激戦が始まった場所に近づけない。真相解明ができないのが残念だ。
長野県などではクロスズメバチの幼虫が珍重されて、食されていると聞く。かなりの美味らしい。何とか掘り出して、敵討ちをしてやりたいとも思うが、返り討ちに遭うのが落ちだと思ってあきらめている。
それにつけても、クロスズメバチにしてみれば、外敵からの急迫不正の侵害に対する自衛権の行使だったわけだ。普段は全く攻撃性はないと解説書に書いてある。しかし万が一理不尽にも我が一族が外敵から攻撃されれば、一致団結してひるむところなく剣をとって闘う。専守防衛の姿勢が徹底しているのだ。それもこれも、全員に等しく、守るべき大切なものがあってのことだ。
人間の場合はどうか。専守防衛を超えて集団的自衛権の行使までやりたくてしょうがない。できることなら他国を侵略して植民地化してしまいたい。そのための自衛ならざる戦争を厭わない。しかも、守るべき多くをもつ者のために、持たざる者が武器を取って命を落とす。この不平等と、不平等をカムフラージュするイデオロギーが耐えがたい。
集団的自衛権行使容認の人間は、専守防衛に徹したクロスズメバチに劣る。痛い目にあって、よくよく考えた貴重な結論。
(2014年7月14日)