20年ほど以前のことだが、「ドクター」というアメリカ映画が話題となった。その宣伝のキャッチフレーズが、「ある日、医者は患者になった。そして、医者は人間になった」というのもの。映画の中身よりは、この秀逸なキャッチフレーズに心を惹かれた。
私の場合は、「ある日、弁護士は被告になった。そして、弁護士は真に人の痛みが分かる人間になった」ように思う。
映画の主人公は外科医。ガンを宣告され、自らが患者の立場になることで、今まで医療者の立場から見てきた医療現場を患者の目で見直すことになる。患者になって初めて見えてくるもの、分かってくることがあるのだ。もしかしたら、患者にならねば、医療の本質が分からないのかも知れない。
私は、これまで多数の医療過誤事件に携わってきた。例外なく、患者側代理人としてである。医師が患者として医療過誤被害を主張する事件を何件か経験している。医師の家族の事件も相当数に上る。関係する医師は、「ある日、医者は医療過誤事件の原告となった。そして、医者はより良き医師となった」。そんな例を見ている。見てはいるが、自分のこととしての理解はなかった。
今回、はからずも、弁護士である私が被告となった。もちろん初めての経験。事前の打診も要請も警告もない。ある日突然訴状が届いて私は被告となった。それも、「2000万円を支払え」というもの。なんとも、不愉快極まる体験である。
しかし、思う。私は弁護士だからまだよい。闘う手段を心得ている。弁護士でない市民がこのような訴訟を提起されたら、どんなにか心細いことだろう。どのようにして対応すべきか、それこそ右往左往せざるを得ないことになる。信頼できる力量を持った弁護士にどうすれば接触できるだろうか。費用はどうなるだろうか。敗訴したらどうしよう‥。ようやく、訴訟の当事者となっている依頼者の気持ちを、自分に引きつけて理解できるようになったと思う。
自分が被告の身になって、スラップ訴訟というものの威嚇効果の大きさを実感する。あらためて、金の力で批判の言論を封じようという輩に怒りを禁じ得ない。
この間、いろんな人に『DHCスラップ訴訟』で名誉毀損と指摘された私の3本のブログを読んでいただいての感想を聞いた。多くは、「なぜこんなことが裁判になるのか理解できない」「こんな程度のことすらものを言えないとなったら、それこそたいへんな世の中になってしまう」というものだった。中でこんな感想も聞いた。
「弁護士のあなただからこそ、最前線でがんばってもらいたい」
そうなのだ。私は、弁護士として一歩も引けない立ち場にある。
私が弁護士という職業を選択したのは、自由業としての故だ。宮仕えは性に合わない。権力やカネのあるものに擦り寄る生き方はまっぴらだ。弁護士なら、プライドを保持した生き方ができるだろう。これまで、苦楽はあったものの、理念を貫いた職業生活を送ることができた。弁護士という自由な職業がこの世に存在したことをこの上なくありがたいと思っている。
しかし、弁護士の自由とは、弁護士のためにあるものではない。近代市民社会が必要として創り出したものだ。言わば、市民から与えられた自由、あるいは市民から預けられた自由なのだ。その自由の本来は市民社会の総体としての利益に奉仕すべきもので、儲かる方に就く自由、権力に擦り寄る自由ではない。
弁護士の自由とは、権力からの自由、金力からの自由である。市民の立場に立って、権力や金力と立ち向かうとき、それにへつらう必要のないことの保障としての自由なのだ。市民の利益の擁護を徹底すること、市民の自由を獲得し増進すること、金権による腐敗から民主的な社会を防衛すること、そのために働くためにこそ保障された弁護士の自由なのだ。
さあ今、私は自分の自由をそのような任務に行使すべき立場に立たされている。社会から与えられた自由に内在する責務として、金権と闘い、言論弾圧と闘うべき責務を負っている。私は、一歩も引いてはならないことを自覚しなければならない。
「ある日、弁護士は被告になった。そして、弁護士は一歩も引かない人間になった」
(2014年7月16日)
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名義 許さぬ会 代表者佐藤むつみ
(カタカナ表記は、「ユルサヌカイダイヒョウシャサトウムツミ」)
過日の毎日新聞・万能川柳欄の一句。知らない人の作句だが、この内容はみごとに私のことなのだ。ぜひともこの作者に、私のブログとスラップ訴訟を知ってもらいたい。そして次の句作のネタにしていただきたい。
DHCの会長が、みんなの党渡辺喜美代表に8億円の金銭を渡していた。そのことが明らかになって、世間の風当たりはカネを受けとった側に強かった。しかし私は、「カネで政治を買おうとした」側に批判の目を向けなければならないとブログに書いた。まさしく、「言っちゃった 金で政治を買ってると」というわけだ。それに対する2000万円のスラップ訴訟提起なのである。
古来、政治にはカネが大きくものをいった。お代官様は、越後屋から密かにカネを受けとっているのが通り相場。見えないところでうごめく巨額のカネが、政治の公正を歪めてきた。
民主主義の成熟には、金権政治からの脱却という大きな課題がある。この点について、丸山眞男が1952年に発刊した「政治の世界」(同名の岩波文庫に所載)の中に次のような一文がある。
「第一次大戦の頃、或るアメリカの経済学者が、『われわれの社会は一方、政治権力が大衆に与えられているのに他方、経済的権力が少数階級の手中にある限り、常に不安定で、爆発的な化合物たるを免れないであろう。最後にはこの二つの力のうちどっちかが支配するだろう。金権政治がデモクラシーを買取ってしまうか、それともデモクラシーが金権政治を投票によって斥けるかどちらかである』(H.Lasswell)と警告していますが、いまやますます激化して行くこの矛盾を解決しうるかどうかに、代議制の将来はかかっているといっても過言ではないでしょう」
第一次大戦の勃発はちょうど100年も昔のこと。そのころから、社会の基本構造をどう見るかに関わる年季の入った論争が行われてきた。「政治権力が大衆に与えられている」という民主主義の美しい原理は、実は社会の病理を解決するほどの現実的な力を持っていない。端的に言えば、「大衆に与えられている政治権力」とは見せかけだけのもので、社会を動かす実権は「少数階級の経済的権力」が握っているのだ。
この「大衆にあるとされている政治的権力」と、「少数階級が握っている経済的権力」との角逐が、この社会の基本構造をかたちづくっている。前記丸山の引用するハロルド・ラスウェルの言葉を借りれば、両者の角逐は、「金権政治がデモクラシーを買取ってしまうか、それともデモクラシーが金権政治を投票によって斥けるか」どちらかの決着まで続くことになる。まさしく、今の日本の政治もそのような角逐の途上にある。
言うまでもなく、社会の建前は、デモクラシーを是とし金権政治を非とする。民主主義の徹底を正義とし、金権をもってこれを攪乱しようという策動を不正義とする。
だから、「金権政治がデモクラシーを買取ってしまう」という手法は、基本的に隠密裡に行われる。裏金がうごめく世界なのだ。そのアンダーワールドにおいては、裏金を動かす人物がご主人様であり、裏金に拝跪してこれを押し戴く政治家がそのパシリである。かくて政治は、ご主人様のご意向を汲む方向に流される。
見かけの上の「人民の人民による人民のための政治」は、内実において「金主の金主による金主のための政治」となりかねない。
だから、この種の事案に対する徹底した批判が重要なのだ。そして、批判を封じようとするスラップ訴訟への批判はさらに重要といわねばならない。
(2014年7月15日)
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「ブロガーは自らの思想や感性の表明に関して、妨害されることのない表現の自由を希求する。わけてもブロガーが望むものは、権力や経済的強者あるいは社会的権威に対する批判の自由である。プロガーの表現に不適切なところがあれば、相互の対抗言論によって是正されるべきである。ブロガーの表現の自由が実現するときにこそ、民主主義革命は成就する。万国のブロガー万歳。万国のブロガー団結せよ」
『DHCスラップ訴訟』の被告になって以来、ブログ・ブロガーを見る私の目は明らかに変わってきた。私もブロガーの1人だが、ブロガーというのはたいした存在なのだ。これまでの歴史において、表現の自由とは実質において「メディアの自由」でしかなかった。それは企業としての新聞社・雑誌社・出版社・放送局主体の自由であって、主権者国民はその受け手の地位に留め置かれてきた。メディア主体の表現の受け手は、せいぜいが「知る権利」の主体でしかない。
ブログというツールを手に入れたことによって、ようやく主権者一人ひとりが、個人として実質的に表現の自由の主体となろうとしている。憲法21条を真に個人の人権と構想することが可能となってきた。「個人が権利主体となった表現の自由」を手放してはならない。
だから、「立て、万国のブロガーよ」であり、「万国のブロガー団結せよ」なのである。各ブロガーの思想や信条の差異は、今あげつらう局面ではない。経済的な強者が自己への批判のブログに目を光らせて、批判のブロガーを狙って、高額損害賠償請求の濫訴を提起している現実がある。他人事と見過ごさないで、ブロガーの表現の自由を確立するために声を上げていただきたい。とりわけ、弁護士ブロガー諸君のご支援を期待したい。
いかなる憲法においても、その人権カタログの中心に「表現の自由」が位置を占めている。社会における「表現の自由」実現の如何こそが、その社会の人権と民主主義の到達度の尺度である。文明度のバロメータと言っても過言でない。
なにゆえ表現の自由がかくも重要で不可欠なのか。昔からなじんできた、佐藤功「ポケット注釈全書・憲法(上)」が、みごとな要約をしている。
「思想は、自らの要求として、外部に表現され、伝達されることを欲する。人は思想の交流によって人格を形成することができる。かくして、思想表現の自由の価値は、第一に、それが人間人格の尊厳とその発展のために不可欠であることに求められる。また、民主政治はいろいろの思想の共存の上に成り立つ。かくして、思想表現の自由の価値は、第二にそれが民主主義の基盤のために不可欠であることに求められる」
まず、人はものを考えこれを他に伝えることを本性とする。だから、人間存在の根源的要求として表現の自由が尊重されねばならない。また、政治社会の視点からは、表現の自由は民主主義に原理的に不可欠、というのだ。
このような古典的なそもそも論には、メディアの登場はない。インターネット・デバイスの発展によって、古典的なそもそも論の世界に回帰することが可能となりつつある。要するに、主権者の誰もが、不特定多数の他者に情報や思想を伝達する手段を獲得しつつあるのだ。これは、表現の自由が人格の自己実現に資するという観点からも、民主的政治過程に不可欠という観点からも、個人を表現の自由の主体とする画期的な様相の転換である。人権も民主主義も、形式的なものから実質的なものへの進化の可能性を秘めている。
憲法21条は、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と定める。ブロガーこそは、今や先進的な「言論の自由」の実質的担い手である。
私は、一ブロガーとして、経済的強者を「カネで政治を壟断しようとした」と批判して、被批判者から高額損害賠償請求訴訟の提起を受けた。はからずも、ブロガーを代表する立ち場で、経済的強者と対峙している。
この際、私は全国のブロガーに呼び掛ける。ブロガーの権利を守るべく、あなたのブログでも、呼応して声を上げていただきたい。「『DHCスラップ訴訟』は不当だ」と。「カネの力で政治に介入しようとした経済的な強者は、あの程度の批判は当然に甘受しなければならない」と。また、「言論を萎縮させるスラップ訴訟は許さない」と。
さらに、全ての表現者に訴えたい。表現の自由の敵対者に手痛い反撃が必要であることを。スラップ訴訟は、明日には、あなたの身に起こりうるのだから。
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クロスズメバチの自衛権
ホタルブクロも桃色月見草も花を咲き終えて、だらしなく野放図に伸びすぎた。申し訳ないが、花が終われば来年までお役御免だ。情け容赦もなくざくざくと刈り倒した。
と、ハチが何匹もとびだしてきて、飛び回っている。ミツバチぐらいの大きさで、ブンブンとうるさい。でもよく見ると、黄色の縞ではなくて、白黒の縞模様の胴体が、ミツバチよりずっとスリムだ。そして何倍もしつこくて、振り払っても振り払っても退却の気配が見えない。
と、突然脚をさされた。ズキンと痛い。指も手の付け根も、そのうえ背中まで刺された。長袖長ズボンの着衣のうえからだ。これはただ事ではないと気がついたときには、時すでに遅くまわりじゅうブンブンと取り囲まれてしまった。手を振り回し、一目散に駆けだした。しかし、敵は攻撃の手を緩めない。駆けても駆けてもついてくる。結局、あとでわかったことだが、6匹の狙撃兵を引き連れて、家に逃げ込んだ。蚊取り線香を振り回そうが、新聞紙でたたこうが、攻撃の手は緩めてくれない。激戦の末、一匹は風呂場に閉じ込め、5匹はたたき落とした。我が方の勝利。しかし我が方も無傷ではない。4カ所刺されてかなりの重症。たたいたために網戸は無残にも大穴を開けて損傷。
さされた場所は痛いことも痛いが、どんどんふくれてくるのが不気味。「アナフィラキーショック」という言葉が頭を駆け巡る。救急車を呼ぶべきか、自分で病院へ行くべきか。以前にもキイロスズメバチやアシナガバチに刺されていて、その時は大丈夫だったけれど、今度はダメじゃないかなどとどんどん気が弱くなる。
結局、今回は気を強く持った私の勝ち。痛いのを我慢していたら、3日後には痒くて痒くてたまらなくなり、1週間後にはポチンと刺し痕が赤く残った。今回は事なきを得たが、次回刺されたら、救急車のお世話にならなければならないかもしれない。
いろいろ調べて、我が敵はクロスズメバチだと判明した。毎年、2階の軒下にキイロスズメバチが一抱えもあるほどの立派な巣を作る。ところがどうしたことか、今年は気配も見せない。その隙を突いて、今まで見たこともないクロスズメバチが出現した。クロスズメバチは地下に巣を作るらしい。目のわるい私がその出入り口でも踏みつけてしまったのではないだろうか。怖くて激戦が始まった場所に近づけない。真相解明ができないのが残念だ。
長野県などではクロスズメバチの幼虫が珍重されて、食されていると聞く。かなりの美味らしい。何とか掘り出して、敵討ちをしてやりたいとも思うが、返り討ちに遭うのが落ちだと思ってあきらめている。
それにつけても、クロスズメバチにしてみれば、外敵からの急迫不正の侵害に対する自衛権の行使だったわけだ。普段は全く攻撃性はないと解説書に書いてある。しかし万が一理不尽にも我が一族が外敵から攻撃されれば、一致団結してひるむところなく剣をとって闘う。専守防衛の姿勢が徹底しているのだ。それもこれも、全員に等しく、守るべき大切なものがあってのことだ。
人間の場合はどうか。専守防衛を超えて集団的自衛権の行使までやりたくてしょうがない。できることなら他国を侵略して植民地化してしまいたい。そのための自衛ならざる戦争を厭わない。しかも、守るべき多くをもつ者のために、持たざる者が武器を取って命を落とす。この不平等と、不平等をカムフラージュするイデオロギーが耐えがたい。
集団的自衛権行使容認の人間は、専守防衛に徹したクロスズメバチに劣る。痛い目にあって、よくよく考えた貴重な結論。
(2014年7月14日)
当ブログは新しい報告シリーズを開始する。本日はその第1弾。
興味津々たる民事訴訟の進展をリアルタイムでお伝えしたい。なんと、私がその当事者なのだ。被告訴訟代理人ではなく、被告本人となったのはわが人生における初めての経験。
その訴訟の名称は、『DHCスラップ訴訟』。むろん、私が命名した。東京地裁民事24部に係属し、原告は株式会社ディーエイチシーとその代表者である吉田嘉明(敬称は省略)。そして、被告が私。DHCとその代表者が、私を訴えたのだ。請求額2000万円の名誉毀損損害賠償請求訴訟である。
私はこの訴訟を典型的なスラップ訴訟だと考えている。
スラップSLAPPとは、Strategic Lawsuit Against Public Participationの頭文字を綴った造語だという。たまたま、これが「平手でピシャリと叩く」という意味の単語と一致して広く使われるようになった。定着した訳語はまだないが、恫喝訴訟・威圧目的訴訟・イヤガラセ訴訟などと言ってよい。政治的・経済的な強者の立場にある者が、自己に対する批判の言論や行動を嫌悪して、言論の口封じや萎縮の効果を狙っての不当な提訴をいう。自分に対する批判に腹を立て、二度とこのような言論を許さないと、高額の損害賠償請求訴訟を提起するのが代表的なかたち。まさしく、本件がそのような訴訟である。
DHCは、大手のサプリメント・化粧品等の販売事業会社。通信販売の手法で業績を拡大したとされる。2012年8月時点で通信販売会員数は1039万人だというから相当なもの。その代表者吉田嘉明が、みんなの党代表の渡辺喜美に8億円の金銭(裏金)を渡していたことが明るみに出て、話題となった。もう一度、思い出していただきたい。
私は改憲への危機感から「澤藤統一郎の憲法日記」と題する当ブログを毎日書き続けてきた。憲法の諸分野に関連するテーマをできるだけ幅広く取りあげようと心掛けており、「政治とカネ」の問題は、避けて通れない重大な課題としてその一分野をなす。そのつもりで、「UE社・石原宏高事件」も、「徳洲会・猪瀬直樹事件」も当ブログは何度も取り上げてきた。その同種の問題として「DHC・渡辺喜美事件」についても3度言及した。それが、下記3本のブログである。
http://article9.jp/wordpress/?p=2371
「DHC・渡辺喜美」事件の本質的批判
http://article9.jp/wordpress/?p=2386
「DHC8億円事件」大旦那と幇間 蜜月と破綻
http://article9.jp/wordpress/?p=2426
政治資金の動きはガラス張りでなければならない
是非とも以上の3本の記事をよくお読みいただきたい。いずれも、DHC側から「みんなの党・渡辺喜美代表」に渡った政治資金について、「カネで政治を買おうとした」ことへの批判を内容とするものである。
DHC側には、この批判が耳に痛かったようだ。この批判の言論を封じようとして高額損害賠償請求訴訟を提起した。訴状では、この3本の記事の中の8か所が、原告らの名誉を毀損すると主張されている。
原告側の狙いが、批判の言論封殺にあることは目に見えている。わたしは「黙れ」と威嚇されているのだ。だから、黙るわけにはいかない。彼らの期待する言論の萎縮効果ではなく、言論意欲の刺激効果を示さねばならない。この訴訟の進展を当ブログで逐一公開して、スラップ訴訟のなんたるかを世に明らかにするとともに、スラップ訴訟への応訴のモデルを提示してみたいと思う。丁寧に分かりやすく、訴訟の進展を公開していきたい。
万が一にも、私がブログに掲載したこの程度の言論が違法ということになれば、憲法21条をもつこの国において、政治的表現の自由は窒息死してしまうことになる。これは、ひとり私の利害に関わる問題にとどまらない。この国の憲法原則にかかわる重大な問題と言わねばならない。
本来、司法は弱者のためにある。政治的・経済的弱者こそが、裁判所を権利侵害救済機関として必要としている。にもかかわらず、政治的・経済的弱者の司法へのアクセスには障害が大きく、真に必要な提訴をなしがたい現実がある。これに比して、経済的強者には司法へのアクセス障害はない。それどころか、不当な提訴の濫発が可能である。不当な提訴でも、高額請求訴訟の被告とされた側には大きな応訴の負担がのしかかることになる。スラップ訴訟とは、まさしくそのような効果を狙っての提訴にほかならない。
このような訴訟が効を奏するようでは世も末である。決して『DHCスラップ訴訟』を許してはならない。
応訴の弁護団をつくっていただくよう呼びかけたところ、現在77人の弁護士に参加の申し出をいただいており、さらに多くの方の参集が見込まれている。複数の研究者のご援助もいただいており、スラップ訴訟対応のモデル事例を作りたいと思っている。
本件には、いくつもの重要で興味深い論点がある。本日を第1弾として、当ブログで順次各論点を掘り下げて報告していきたい。ご期待をいただきたい。
なお、東京地裁に提訴された本件の事実上の第1回口頭弁論は、8月20日(水)の午前10時30分に開かれる。私も意見陳述を予定している。
是非とも、多くの皆様に日本国憲法の側に立って、ご支援をお願い申しあげたい。「DHCスラップ訴訟を許さない」と声を上げていただきたい。
(2014年7月13日)
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学生時代の友人である須田育邦君からお誘いを受けた。
「私の出版発表会を兼ねた、日中交流会へご参加ください。ここは日中友好人士の慰労会のようなところで、国家間の厳しい対決とは無関係です」
古稀を迎えた須田君の処女出版発表会となれば参加せずばなるまい。しかもその書物のタイトルがズバリ「戦争と平和」なのだ。副題が「徐福伝説で見直す東アジアの歴史」と付けられている。壮大な歴史観・文明観が語られており、それには賛否の留保があっても、彼の平和愛好者としての姿勢に評価を惜しむべきではない。日中の友好、東アジアの安定を望む立ち場からの提言がなされている。
最近の彼の生活は7割が上海で暮らし、3割が埼玉だそうだ。日中間の往来の中で、両国の愚かな政治による、日中民衆間の友好意識の冷却化の無念を肌身に感じて、この書物を著したという。
彼は、自分の著書の歴史的意味を堂々と語った。過日の台風のあとに美しい虹が出たように、今日中関係の嵐はやがて晴れて、美しい虹をつくるだろう。私の著書がそのために役立つ、というスピーチ。ああいう風に語れるように真似をしてみたい。
私にとっては馴染みのない雰囲気の日中交流会。在日中国人と中国ビジネスに携わっている日本人との名刺交換会のようなもの。なるほど、中小業者はこのような会合で人脈を掴み、ビジネスチャンスをゲットするのだ。
主催者挨拶のあと、「人民日報・日本週刊版」の副社長氏が日本語でスピーチをした。「私の日本語はボロボロ」などと言いながら、さすがにみごとな演説。
「今、政治的に日中関係は最悪の事態ですが、これは飽くまで一時的なこと。やがて、友好関係は必ず回復します。政治的な関係が悪くても、経済や民間交流の発展はできるはずですし、推し進めなければなりません」「政治がどうであれ、中国の人々の日本製品に対する信頼はとても厚い。ぜひ、中国との取引に熱意をもっていただきたい」「中国進出企業が、全て順調というわけではない。順調なのは3分の1、なんとかやっているのが3分の1。そしてあとの3分の1が見込み違いだったと思っている、と言われています」「順調でない企業の原因は、決して政治や経済の状況が悪化したからではなく、中国流のビジネスへの適合が不十分だからと思われます。ぜひとも、適切なアドバイスを得てそのあたりを心得ていただきたい」
私も、ごく短く、「平和・友好関係を築くためには、なによりも民衆の直接の接触が大切で、経済・文化・情報・人間の交流の活発化が大切。これあれば、政治の思惑を圧して安定した友好関係が保たれる。政治外交関係が悪化しても、平和を維持する力となる」との趣旨を語った。
会合の合間に日本版・人民日報の見本紙が配布された。たまたま私に配布された号を見ておどろいた。一面トップの大見出しが、「高円宮妃久子殿下ご来臨 承子女王も」というのだ。なんのことはない。東京ドームでの世界蘭展の紹介記事。取り立てて中国と関係がある展覧会ではない。なぜ、この展覧会がトップの扱いで、しかもなぜ皇族が見出しに踊るのか。
ほどなく、「人民日報副社長氏」が名刺交換にやってきた。どうしても一言発せずにはおられない。
「私は、かつては中国革命に心惹かれた世代で、『人民中国』を定期講読していたこともある。中国共産党に幻滅を味わった今も、対中・対韓関係での日本政府の歴史認識はおかしいと声を上げ続けている。天皇や皇族の戦争責任をうやむやにしてはならないとの思いは強い。ところが、人民日報が、なんのこだわりもなく皇族礼賛に等しい紙面をつくっているのを見るのは悲しい。日本人に対する配慮でそのような紙面をつくっているとすれば考え直した方がよい。靖国や歴史認識問題を真面目に考え、日中友好を願う人々を失望させることのないように、お願いしたい」
(2014年7月12日)
今、ジャーナリズムが最も関心を寄せるべきテーマとして衆目が一致するところは、安倍内閣による集団的自衛権行使容認以外にはない。曲がりなりにも戦後続いた平和を危うくして、国と国民の命運を変転させかねない重大な内容もさることながら、立憲主義をないがしろにしている点でも、行政の継続性の観点からも、国民への説明責任を尽くすことなくあまりにも性急にことを運んでいる点でも、ジャーナリズムが最大級の関心を持って取りあげるべきは当然である。
そして、まっとうなジャーナリズムであれば、権力批判の視点を持たねばならない。「政府が『右』と言っているものを、『左』と言うわけにはいかない」では、ジャーナリズムとしては失格。こんな姿勢のメディアは、報道機関と言うに値しない。政府広報部門に等しく、「大本営発表」の伝声管に過ぎない。権力に畏怖しない毅然たる態度で事実を糺してこそ、ジャーナリズムでありジャーナリストではないか。
NHKの経営陣が安倍人事によって籠絡され、ジャーリストとしての矜持を捨て去っていることは既に天下周知の事実となっている。しかし、現場までが一色に塗りつぶされているわけではない。多くの良心的な職員が重苦しい雰囲気の中で、精いっぱいの努力をしていると理解してきた。その努力が、実るのか押し潰されるのか、象徴的な事件が、7月3日に放送された『クローズアップ現代』の官房長官インタビューを舞台に生じているという。
本日(11日・金曜日)の主要紙朝刊に、講談社の「FRAIDAY」の広告が掲載されている。そのトップに「安倍官邸がNHKを『土下座』させた一部始終」とある。「国谷キャスターは涙した‥」と付記されてもいる。小さく「『クローズアップ現代』で集団的自衛権について突っ込まれた菅官房長官側が激怒。‥」との説明。集団的自衛権の問題としても、NHK問題としても、これはただごとではない。見過ごせない。
「FRAIDAY」を入手して目を通してみた。2頁だけの短い記事だが、「官邸・経営陣・現場」をめぐるNHK問題を浮かびあがらせている。
「FRAIDAY」の記事を引用する。
「この日の『クロ現』は、菅義偉官房長官(65)をスタジオに招き、「日朝協議」と「集団的自衛権の行使容認」について詳しく聞くというものだった。官房長官がNHKにやって来る??局には緊張感が漂っていたという。「菅さんは秘書官を数人引き連れて、局の貴賓室に入りました。籾井会長も貴賓室を訪れ「今日はよろしくお願いします」と菅さんに頭を下げていました。その日の副調整室には理事がスタンバイ。どちらも普段は考えられないことです」(NHK関係者)
官房長官は、政府公報機関に出向いたつもりだったのだろう。ところが、ほんの少々だが、あてがはずれたようだ。現場には、政府公報機関意識が乏しく、ジャーリストとしてのプライドが残っていたからだ。
FRAIDAYは、「『他国の戦争に巻き込まれるのでは』『憲法の解釈を簡単に変えていいのか』 官房長官が相手でも物怖じしないしない国谷氏の姿勢はさすがだった」と評している。
「だが、直後に異変は起こった。秘書官がNHKにクレームをつけたという。」「そして、数時間後再び官邸サイドからNHK上層部に、『君たちは現場のコントロールもできないのか』と抗議が入ったという。局上層部は『クロ現』制作部署に対して『誰が中心となってこんな番組作りをしたのか』『誰が国谷に「こんな質問をしろ」と指示を出したのか」という。『犯人捜し』まで行ったというのだ。」
貴重な報道である。官邸は、NHKに「君たちは現場のコントロールもできないのか」と不満をぶつけてよいと思っているのだ。NHK経営陣は、毅然とこれに抗議して現場の良心的職員を守ろうという気概はカケラもない。右往左往するばかり。いや、官邸の意を酌んで現場を締め上げているのかも知れない。
大切なことは、官邸とNHK経営陣に抗議すること。NHKの現場の良心を励ますことではないか。「国民は、その国民にふさわしい政府を持つ」という。「国民は、その国民にふさわしいメディアを持つ」とも言えよう。発言しなければ、NHKを再びの大本営伝声管にしてしまう。
さっそく、知人がメールで抗議・要請先を教えてくれた。番組専用サイトへコメントを送信するには、次のURLを開き、「コメントを投稿する」をクリックすると、コメント送信用の画面が出てくるそうだ。ぜひ、ものを言おう。
http://www.nhk.or.jp/gendai-blog/100/192625.html#comment
(2014年7月11日)
本日は、神保町の東京堂で、現代書館発行「前夜」の販売促進キャンペーン。著者である私と梓澤和幸君と岩上安身さんのトークセッション。そして、お客様へのサインセール。
私にとっては慣れないことばかり。普段とは別の世界にあるごとくで、調子の出ないこと、この上ない。冒頭に20分の発言の機会を与えられたが、舌がうまく回らない。だいたい、こんな趣旨のことを喋ったはずなのだが‥。以下はうろ覚えの内容。
この本は、自民党改憲草案の全条文を読み解こうという企画として、12回(あるいは13回?)もトークを重ねたもの。その結果、自民党の本音としての全面的な改憲構想をお伝えできたのではないだろうか。2012年4月に当時は野党だった自民党がつくった草案の実現性は考えられなかった。露骨に本音をさらけだしたものだと思っていたが、同年12月の総選挙で安倍自民が政権を奪取するや、その後今日までの進展は、この改憲構想が現実のものになりつつあるとの感を否めない。悪夢が、正夢であったかという印象。
現在進行している「安倍改憲策動」(あるいは、「『壊憲』策動」)とはいったい何なのか、そしてこれをどう阻止できるかについて考えている。
安倍改憲策動の基本性格は、「戦後レジームからの脱却」「日本を取り戻す」というスローガンによく表れている。その主たる側面は、戦前のレジームである軍事大国化ということであり、復古的なナショナリズムの昂揚にある。しかし、それだけではない。グローバル企業に自由な市場を開放し、福祉において自助努力を強調し、格差拡大・貧困蔓延を厭わない新自由主義に適合する国家のかたちを目指すものとなっている。新旧ないまぜの「富国強兵」路線というべきではないか。
注目すべきは、安倍改憲策動の全面性である。9条改憲をメインとしつつも、それに限られていない。文字通り、「レジーム」の全構造と全分野を変えてしまいたいということなのだ。
教育分野における「教育再生」政策、メディアの規制としての特定秘密保護法の制定そして人事を通じてのNHKの改変問題。さらに、政教分離・靖国問題、福祉、介護、労働、地方自治、農漁業等々の諸分野で、安倍改憲策動が進行しつつある。
最も重要な分野における情報独占と取材報道の萎縮を狙った特定秘密保護法が強引に成立してしまった。教育の自由と独立は徹底して貶められようとしている。歴史修正主義が幅を利かせている。労働法制も税制も、限りなく企業にやさしいものとなりつつある。農漁業はTPPで壊滅的打撃を受けようとしている。福祉も介護も、経済原理に呑み込まれようとしている。
このような安倍改憲策動の手法は、解釈改憲の極みとしての集団的自衛権行使容認閣議決定に表れている。しかし、閣議決定だけで戦争はできない。これから自衛隊が海外で戦争することに根拠を与えるいくつもの個別立法が必要になってくる。そのときに、国会の論戦に呼応して、院外の世論が大きく立ち現れなければならない。
安倍改憲策動の目論見は、解釈と立法による事実上の改憲のみとは考えがたい。当然のこととして、あわよくば96条先行改憲を突破口とする明文改憲も、なのである。改憲手続法の整備はそのことをよくものがたっている。
安倍改憲の担い手となる改憲諸勢力の中心には、安倍自民党がいる。これは、かつての保守勢力ではない。保守本流と一線を画した自民党右派ないしは右翼の政党と言わねばならない。そして、「下駄の雪」とも、「下駄の鼻緒」とも自らに言い続けて来た与党公明党。そして維新やみんななどの改憲派野党。
これらの院内改憲勢力は見かけの議席は極めて大きい。しかし、院外の国民世論の分布とは大きく異なった「水増し・底上げ」の議席数である。これを支えている小選挙区制にメスを入れなければならない。
さらに、院外では右派ジャーナリズム、街頭右翼、ネット右翼などがひしめいている。
改憲に反対する勢力は、重層構造をなしている。旧来の「護憲勢力」といえば、議会内では共・社の少数。しかし、国民世論の中では議席数をはるかに上回る影響力を持っている。これに、旧来の「保守本流」を、非旧来型の護憲勢力に加えてよいだろう。それなくして国民の過半数はとれない。この人たちは、防衛問題では「専守防衛路線」を取ってきた。集団的自衛権行使の容認を認めない保守の良識派は、重要な護憲勢力のとして遇すべきである。
これに、立憲主義擁護重視派も仲間に加えなければならない。この立ち場は、けっして手続さえ全うすれば改憲内容は問わないという人々のものではない。安倍内閣の改憲手法批判にとどまらず、内容においても憲法原則からの安倍改憲批判をすることになる。
安倍改憲策動が全面的であることから、これに対する反撃も全面的にならざるを得ない。脱原発・反TPP・教育・秘密法廃止・NHK問題・反格差反貧困などの諸分野の運動を糾合して、改憲阻止の運動に結実させる意識的な努力が必要となっている。
いま、いくつもの世論調査が、安倍内閣の支持率急落を示している。各分野での運動の成果がようやく表れつつあるのではないか。私自身も、できるだけの工夫と努力をして、大きな運動のささやかな一端を担いたいと思っている。
(2014年7月10日)
東京君が代訴訟弁護団の澤藤です。本日の服務事故再発防止研修受講者に代わって、教育庁の研修課長と本日の研修を担当する東京都教職員研修センターの職員の皆様に抗議と要請を申しあげます。
まずは、都教委に対する厳重なる抗議を申しあげねばなりません。
本日の研修は、本来まったく必要のないものです。
不当な命令に屈せず、自らの思想を守り抜く決意のもと、自覚的に「日の丸・君が代」の強制を拒否した教員に対する「再発防止研修」とは、いったいどういう意味をもつものでしょうか。
それは、「日の丸・君が代」の強制を拒否する教員の思想の転向を求めるためのものであるか、さもなくば信念を貫いた教員に対する嫌がらせを通じて、次の機会からは心ならずも強制に屈する選択をさせるための手段のどちらかでしかありません。
周知のとおり、日本国憲法は「思想・良心の自由」を保障した憲法19条という他国には稀な1か条を創設しました。内心の自由を保障したこの条文は、わが国の精神史における思想弾圧の歴史を反省した所産だと言われています。つまりは、キリシタンへの踏み絵を強要した江戸幕府のやり口、神である天皇への崇拝を精神の内奥の次元にまで求めた天皇制政府の臣民に対する精神支配の歴史に鑑みて、「内心の自由」の宣言が必要と考えられたのです。
大日本帝国憲法から日本国憲法への鮮やかな大転換の根底にあるものは、国家よりも、天皇よりも、一人ひとりの国民の尊厳が大切なのだという、人権思想にほかなりません。
国家の象徴である「日の丸・君が代」を、国民に強制するということは、まさしく国家の価値を、国民個人の尊厳や精神の自由という価値の上に置くものと言わざるを得ません。国民が主人で、国家はその僕、あるいは国民に使い勝手のよい道具に過ぎません。にもかかわらず、国旗国歌に敬意の表明を強制するなどは背理であり、倒錯というほかはありません。国民一人ひとりが、国家との間にどのようなスタンスを取るべきかは、憲法が最も関心を持つテーマとして、最大限の自由が保障されねばなりません。
その意味では、日の丸・君が代強制と、強制に屈しない個人への制裁として本日これから強行されようとしている服務事故再発防止研修とは、キリシタン弾圧や特高警察の思想弾圧と同じ質の問題を持つ行為なのです。
都教委は、懲戒処分の機械的累積加重システムによって抵抗する教員を封じ込めることができると思い込んでいました。しかし、行政に甘いことで知られる最高裁も、さすがにこれは違法と認めました。私たちが、思想転向強要システムと呼んだ不起立回数が増えれば自動的に処分量定が加重されるという方式はとれなくなった。
その代わりとして考え出されたのが、被処分者に対する服務事故再発防止研修の厳格化ではありませんか。回数を増やし、時間を長くし、密室で数人がかりでの糾問までしている。また、校内研修もくり返し行われる。今や、研修という名の嫌がらせが、思想弾圧の主役になろうとさえしている。
私たちは、厳重に抗議します。
10・23通達を撤回せよ。職務命令も処分もやめよ。
そして、服務事故再発防止研修という名の嫌がらせも止めよ。
次に、本日の研修を担当する研修センターの職員の皆様に要請を申しあげたい。
本日の研修命令受講者は、形式的には、非違行為を犯して懲戒処分を受けた地方公務員だ。しかし、実は自分の思想と教員としての良心を大切なものとして守り抜いた尊敬すべき教員なのです。そのことを肝に銘じていただきたい。
それに引き換え、あなた方、研修センターの職員は、どんな立ち場にあるのか。よくお考えいただきたい。あなた方は、踏み絵を強要した幕府の役人と同じ質のことを今日やろうとしている。治安維持法に基づき「国体を変革し、私有財産を否定する」思想を取り締まった特高警察と同質のことをしようとしている。権力の手先となって、思想弾圧をしようとしているのがあなた方だ。忸怩たる思いをもっていただきたい。恥ずかしいと思っていただかなくてはならない。
ぜひ、尊敬すべき研修受講者に対して、敬意をもって接していただきたい。決して、侮蔑的態度をとってはならない。
本日の研修が、研修受講者の思想信条に踏み込むものとなれば、また、受講者の人格を傷つけるようなことになれば、日の丸・君が代強制だけでなく、研修の在り方そのものの違法が法廷で争われることにならざるを得ません。そのときは、今日のあなた方の一挙手一投足が問題とされることになる。
あなたの良心に期待したい。ぜひとも、心して、研修受講者の人格を尊重し、敬意をもって接していただくよう、要請いたします。
(2014年7月9日)
昼休みの時間をお借りして、地元市民の集まりである「本郷・湯島九条の会」が、平和を守るための街頭宣伝活動を行います。みなさま、是非、耳をお貸しください。配布のビラをお読みください。
私たちは、日本国憲法を、わけてもその第9条を、この上なく大切なものと考えて「9条の会」を結成し、これを守り抜こうと社会に訴えています。
9条を守り抜くということは、9条が持っている平和の理念を輝く現実にし、近隣諸国との平和な友好関係を打ち立て、さらに世界の全体から戦争の原因を取り除いて恒久の平和を実現しようというロマンにあふれた壮大な試みです。ぜひ、みなさまにも、ご参加いただくようお願いいたします。
私たちの立ち場とは正反対に、9条を邪魔な存在と考え攻撃している人たちがいます。その先頭に立っているのが、憲法を守るべき立ち場にあるはずの安倍晋三という総理大臣。彼は、憲法9条に象徴される「戦後レジーム」からの脱却を呼号し、憲法9条のない時代の軍国の「日本を取り戻す」と言っています。彼のいう「積極的平和主義」とは、自国の軍備を増強し、戦争も辞せずと他国を威嚇して作り出される「平和」にほかなりません。最大限の軍備と威嚇が抑止力となって「平和」を築くのだという、9条の精神とは正反対の考え方なのです。
彼の執念は憲法9条を「改正」して、日本が世界の大国に伍する堂々たる本物の軍隊をもちたいということなのです。頭の中に思い描く近未来の日本の姿は、軍事大国としての威風堂々たる日本。そのことは、2012年4月に発表された「自民党・日本国憲法改正草案」に露骨に表現されています。
9条改憲を最終目標として、安倍内閣が最初に目論んだのは、憲法改正手続を定めた96条の改憲でした。改憲手続要件のハードルを下げておいて、改憲を実行しようという手口です。誰が見ても、堀を埋めて城を攻めようというもので、9条改憲のための96条先行改憲。96条改憲の先に9条改憲が見え見えなのです。
安倍内閣は、野党の一部を捲き込んでの96条先行改憲に自信満々でした。しかし、世論はこれにレッドカードを突きつけました。「自分に不利だからといってプレーヤーがルールを変えてはならない」「汲々たるやり口が姑息この上ない」「正門から入らずに、裏口から入学しようというごときもの」。悪評芬々。あらゆる世論調査の結果が反対多数で、安倍政権は96条先行改憲の策動をあきらめて撤回しました。彼は緒戦に敗北したのです。
しかし、彼らはあきらめませんでした。「明文改憲が無理なら、解釈改憲があるさ」というのです。憲法の条文には手を付けることなく、内閣だけで条文の解釈を変更して、実質的に96条の手続を省いた改憲をやってしまえ、と動き始めました。
96条先行改憲も、明文改憲である限りは、国民の意思を問う手続を経なければなりません。しかし、解釈改憲ならその手続きは不要です。国会での議論も、野党の意見を聞く必要すらない。強引にできることなのです。
こうして、自・公両党に支えられた安倍政権は、7月1日集団的自衛権行使の容認を認める閣議決定に踏み切りました。これは、憲法9条を深く傷つける暴挙です。私たちは、満身の怒りをもって抗議せざるを得ません。
集団的自衛権とは何であるか。日本が攻撃されていなくても、どこか他国が攻撃されたら、そのケンカを買って出る権利です。他国の紛争に割り込んで、戦争をしかける権利というしかありません。そんなことは、憲法が許しているはずはない。
憲法9条2項には、「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」と明記されています。日本は「戦力」をもつことはできないのです。1954年にできた自衛隊は、「戦力」ではない、とされてきました。だから、憲法違反ではないというのです。
これまでの政府の解釈は、「憲法は国の自衛権を認めているはずだ。自衛に徹する実力は『戦力』に当たらず、違憲の問題は生じない」というものです。専守防衛に徹することによって、自衛隊の合憲性を説明してきたのです。それは、「絶対に、自衛以外の武力の行使はしない」から合憲という論理であって、当然に「自衛以外の武力の行使はあり得ない」「他国のために戦うことはできない」とされてきたのです。
これを180度変えて、集団的自衛権の行使容認となれば、日本を攻撃する意図のない国に対して、こちら側から先に武力を行使することがありうることになってしまいます。安倍首相は、記者会見で「外地から帰国する日本人が乗せてもらっている米軍の艦艇が攻撃を受けた場合に、日本が一緒に応戦しなくてよいのか」と述べました。これは驚くべき発言ではないでしょうか。
「米軍の艦艇が攻撃を受けた場合に、日本が一緒に応戦したら」いったいどうなるというのでしょうか。日本は戦争に中立国としての地位を失って戦争当事国となります。米国の艦艇に武力を行使した側の軍と戦争状態となるわけですから、日本の全土が攻撃されるおそれを覚悟しなければなりません。全国54基の原発も標的とされることを覚悟で集団的自衛権の行使に踏み切りますか。これまでは、殺し殺される自衛隊ではなかった。これからは殺し、殺される自衛隊となります。本当にそれでよいのか、国民に信を問わずして、そんなことをやって良いのか。
憲法とは、本来が権力者にとって邪魔なものなのです。憲法を縛る存在であり、為政者はこれに縛られなければならない。ところが、その縛りを不都合として取っ払ってしまえというのが、解釈改憲なのです。憲法をないがしろにするにもほどかある。立憲主義の否定であり、法の支配の否定でもある。
安倍内閣の7・1閣議決定は、まさしく掟破りの立憲主義の否定以外の何ものでもありません。安倍内閣はかつてない危険な政権と言うほかはありません。安倍首相は、即時に退場させなければなりません。
自民党と公明党に支えられた安倍内閣は今焦っています。彼らの議席は、小選挙区制のマジックによって水増しされた「上げ底」の議席であることを自覚しているからです。しばらく国政選挙のない今のうちに、やれるだけのことをやっておけ。あわよくば、憲法9条を壊してしまえ。これが安倍内閣の基本戦略というべきでありましょう。
今、あらゆる世論調査が、集団的自衛権行使容認の閣議決定についての国民の大きな不安を示しています。安倍内閣の支持率は急速に低下しています。それでも、安倍内閣は7・1閣議決定に沿って、集団的自衛権を行使して海外で戦争のできる自衛隊とするための法案つくりを進めようとしています。
みなさま、ぜひ、私たちとご一緒に、9条を守れ、平和を守れ、集団的自衛権反対、閣議決定を撤回せよ、集団的自衛権行使を現実化する全ての法案に反対、という声を上げてください。
今なら、まだ声を上げられます。このまま、事態が進行すれば、だんだんと声を上げることすらできなくなります。あらゆる戦争へのたくらみに反対する声を、ご一緒に上げていこうではありませんか。
本日の街宣中に、本郷4丁目にお住まいのご婦人が、9条の会への入会を申し出られた。もしかしたら、次回も‥。その次ぎも‥。毎回ひとりづつ‥、いや2人、3人もあり得るかも‥。
(2014年7月8日)
本日7月7日は盧溝橋事件勃発の日として記憶に刻しなければならない日。今年は、1937年の日中全面戦争開始から77年目の記念日だという。
北京城外の永定河にかかる盧溝橋は、マルコ・ポーロが『東方見聞録』の中で、世界一美しいとした橋。乾隆帝の筆になる「盧溝暁月」の碑とともに有名なこの橋の傍らで、醜悪な戦争のきっかけとなる事件が起きた。
7月7日夜に生じた、支那駐屯日本軍と中国軍の小競り合いは、同月11日の午後に現地では停戦協定が成立して紛争は終熄するはずだった。ところが、その同じ日に、近衛文麿内閣は閣議で河北への派兵を決定して、日中全面戦争への引き金を引いた。このときの派兵目的は「威力の顕示」であったという。
閣議決定のあった11日夜、近衛は、政界人、財界有力者、新聞通信関係などの言論界代表を首相官邸に集め、みずから政府の決意を披瀝し、挙国一致の協力を要請した。これを受けて、翌日の東京日々新聞は、「反省を促す為の派兵」との大見出しを付けて、「戦争拡大が挙国一致の方針である」ことを報じている。
にもかかわらず、近衛の真意は戦争不拡大にあったという。後にその手記でこう、言い訳じみたことを語っている。
「この日支事件というものは、わたしの第一次内閣の時に起こったものではあるが、組閣後わずかに1か月して突発した事件ではあり、しかも、それが軍機に関係しているので、政府といえども立ち入った意見を述べることができない。そういう事情にあったため非常にやりにくかった。その上、陸軍の内部には統制派、皇道派というような派閥があり、また陸軍省と参謀本部との間にも意見の対立があって、一方は思い切り支那を叩こうとし、一方は、支那よりも他の国に力点を置いているというようなわけで、軍の方針がまちまちであったことも更に事変の解決を困難なものとした」(「昭和の歴史・日中全面戦争」藤原彰)
なんと無責任な首相と軍、そして無責任体制の産物としての派兵の閣議決定。「軍機に関係しているので、政府といえども立ち入った意見を述べることができない」の「軍機」は、いま、「特定秘密保護法」と読み替えねばならない。
そして77年後の今日、盧溝橋にある中国人民抗日戦争記念館で開かれた記念式典で習近平国家主席が、こう演説した。
「日本の侵略者の野蛮な侵略に対し、全国の人々が命を省みず、偉大な闘争に身を投じた。今も少数の者が歴史の事実を無視しようしているが、歴史をねじ曲げようとする者を中国と各国の人民は決して認めない」(朝日)
また、中国の抗日戦争を「世界反ファシズム戦争の東の主戦場」と位置づけたとも報じられている。まことに真っ当な内容と肯かざるを得ない。
また、ロイター通信によれば、中国の李克強首相が7日、訪中しているドイツのメルケル首相や記者団に向け、「国民が常に心にしっかりと留めておくべき日」とした上、「日本の軍国主義者らが始めた大規模戦争に直面し、中国の人民は全力で立ち上がり、抵抗した」「われわれは過去に敢然と立ち向かうために、常に歴史を思い出す必要がある」と述べたという。
李首相には、第2次世界大戦後の責任のとりかたに関して、日本とドイツとの比較の視点があったのだろう。
本日、七夕の日でもある。夜分星は見えず、牽牛と織女の逢瀬は無理なようだ。大型台風の接近さえも予報されている。日中間の天の川に、晴れて鵲の橋がわたされるのはいつのこととなるのだろうか。
(2014年7月7日)