韓国KBS理事会が、キル・ファニョン社長の解任を決定した。日本に置き換えれば、NHKの経営委員会が、籾井勝人会長の解任を決議したことに相当する。政権との癒着を批判した世論と、解任を求めてストライキ決行までした労組の輝かしい勝利。一連の経過から、ジャーナリズムのあるべき姿と、理念を守るための運動の在り方を学びたいと思う。この経過を通じて、韓国KBSは政治権力から独立した報道機関としての評価を勝ち得た。国民からの信頼は貴重な財産となるだろう。
それに比べて…である。わが国では「政府が右といえば、左とは言えない」と象徴的な迷言を吐いた人物が公共放送のトップに居座ったまま。政権から独立した報道機関としての信頼は地に落ち、泥に汚れたままである。
隣国の公共放送経営体トップが、政権との癒着を指摘されて解任に至ったニュースを、同様の立ち場で、同様の問題を抱えるNHKがどう報道するか、関心津々たるところ。
NHKオンラインは、本日早朝(6月6日4時10分)のNHKニュースウェブ欄に、「韓国KBS 理事会が社長解任決める」という記事を掲載した。その全文は、以下のとおり。
「韓国の公共放送KBSは、『社長が政府の立場に配慮して報道内容に不当に介入した』などとして報道局の幹部や記者らが職務を放棄する異例の事態が続いていることから、理事会が社長の解任を決め、混乱はようやく収拾に向かう見通しとなりました。
韓国の公共放送KBSでは、先に、旅客船沈没事故について不適切な発言をしたと伝えられた報道局長をキル・ファニョン社長が更迭し、これに対して報道局の幹部や記者らが「社長は政府の立場に配慮して報道内容に不当に介入し、報道の独立性を侵した」などと反発して職務を放棄し、労働組合もストライキを続けています。
こうしたなかKBSで5日、理事会が開かれ、キル社長の解任を求める決議案が賛成多数で可決され、KBSの社長の任命権を持つパク・クネ大統領もこれを受け入れるとみられます。
KBSは、ニュースの時間が大幅に短縮されているほか、4日行われた統一地方選挙では、当選が決まった候補を取材する記者がいないなどといった異例の事態が続いていました。
これで、混乱はようやく収拾に向かう見通しとなりましたが、かたくなに辞任を拒否してきたキル社長だけでなく、視聴者を無視してストライキを続けたなどとしてKBS全体に厳しい目が向けられており、信頼回復には時間がかかりそうです。」
呆れた報道姿勢と言わねばならない。NHKは、問題を「混乱」としかとらえられないのだ。だから、社長辞任を「混乱の収拾」としか表現できない。「視聴者を無視してストライキを続けたなどとしてKBS全体に厳しい目が向けられており」と根拠を挙げずに労組を誹謗し、「(KBS全体の)信頼回復には時間がかかりそうです」と、世論を「混乱への批判者」と決めつけて結んでいる。
傍観者を決めこみ、ジャーナリズムの政治権力からの独立を重視する観点を意識的に否定した姿勢とも言えよう。これでは、「NHKに向けられた厳しい良識の目からの批判は避けられず」「国民からの信頼回復には時間がかかりそうです。」と言わざるを得ない。
******************************************************************
受信料支払い凍結運動にご参加を
具体的な受信料支払い凍結の手続については、下記のURLに詳細です。是非とも参照の上、民主主義擁護のための運動にご参加ください。
http://kgcomshky.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/nhk-933f.html
*******************************************************************
支払い凍結と並んで、NHK籾井会長、百田・長谷川両経営委員の辞任・罷免を求める署名運動も継続中です。こちらにもご協力をお願いします。
運動の趣旨と具体的な手続については、下記URLからどうぞ
http://kgcomshky.cocolog-nifty.com/blog/2014/02/post-3030-1.html
http://chn.ge/1eySG24
*******************************************************************
NHKに対する「安倍首相お友だち人事」への抗議を
☆抗議先は以下のとおり
※郵便の場合
〒150-8001(住所記入不要)NHK放送センター ハートプラザ行
※電話の場合 0570?066?066(NHKふれあいセンター)
※ファクスの場合 03?5453?4000
※メールの場合 下記URLに送信書式のフォーマット
http://www.nhk.or.jp/css/goiken/mail.html
☆抗議内容の大綱は
*籾井勝人会長は即刻辞任せよ。
*経営委員会は、籾井勝人会長を罷免せよ。
*百田尚樹・長谷川三千子両経営委員は即時辞任せよ。
*経営委員会は、百田尚樹・長谷川三千子両経営委員に辞任勧告せよ。
こちらもよろしくお願いします。
(2014年6月6日)
本日は書籍の紹介である。私はこの岩波新書の一冊に、思い入れが強い。教えられることが多くて読み返しているというだけではない。30代後半から40歳になった当時の思い出と結びついたものとして大切にしている。私は、この書が私のために書かれたものと信じているのだ。
私が盛岡に在住して岩手靖国訴訟に取り組んだときに最初に繙いた靖国関係書籍は、村上重良の新書3部作「国家神道」「慰霊と招魂」「天皇の祭祀」であった。著述の論旨は明快で、説得力に富む。法廷ではこの著者の証言を得たい、そう願って「政教分離を監視する会」の西川重則さんの紹介で実現した。
同時に箕面忠魂碑訴訟での大江志乃夫さんの証言の評判を伝え聞いて、どなたか依頼の伝手がないかと思っていたら、これも西川重則さんが了解を取ってくれた。西川さんというのは、不思議な力をもった方。
1983年の夏、一審盛岡地裁で集中的な証人尋問。両証人とも尋問は私が担当した。打ち合わせのために、私は東京の村上宅にも、茨城県勝田市の大江宅にも何度かお邪魔した。村上証言は、「慰霊と招魂」の内容を基礎に証言のストーリーを組み立てたが、大江証言には、拠るべき適切な「台本」が当時なかった。
大江さんとの打ち合わせの冒頭に、「限られた時間での証言だけでは不十分だと思うので、実は、陳述書をつくっている」とのお話しがあった。「途中までできている」とのことで拝見した。当時出回り始めたばかりの「ワープロ」で作成されたものだが、その浩瀚さに驚いた。
分厚い陳述書の完成稿が法廷に提出されて、証言とその後の主張の種本となり、その陳述書が体裁を整えて岩波新書「靖国神社」となった。その間の経緯は、同書のあとがきに書き込まれている。この書が、「私のために書かれたもの」と思い込んでいる理由である。
その後も大江さんご夫妻には、度々盛岡に足を運んでいただき、岩手靖国訴訟と地元の政教分離運動へのご支援をいただいた。陸軍軍人(大江一二三大佐)の家庭に生まれ、自らも陸士にはいった大江さんの、旧軍に関するお話しは貴重であるだけでなく、実におもしろかった。
大江「靖国神社」を通じて、歴史家大江志乃夫から学んだことをいくつか書き留めておかねばならないが、その最大のものは、近代天皇制の権威の由来である。
同書に次の記載がある。
「世界史的な一般論としていえば、絶対君主による封建国家の統一事業は、おおむね最大最強の封建領主が他の封建領主を打倒することによって達成される。日本の場合、明治維新の変革による新しい統一国家樹立のための権力の中心が、なぜ、たとえば徳川将軍家ではなく、天皇でなければならなかったのか、あるいは天皇でありえたのか。
所領700万石の徳川将軍家にくらべれば、天皇家はせいぜい10万石の小大名程度にすぎなかった。しかも、徳川将軍家自身が絶対君主の地位につくことをめざしていたのに対抗して、その天皇家が、なぜ新統一国家の権力の中心の地位につくことができたのか。天皇を絶対君主制的特質を特った権力の座に押しだしたものは何か。
天皇家は権力を掌握するに必要な固有の物理的な力をいっさい特っていなかった。徳川時代の天皇は、軍事力はもちろん、儀礼的で形式的な叙位・叙任権などを除いては、政治的権限もいっさい特っていなかった。民衆の大部分は、将軍や殿様の存在については知っていても、天皇の存在については知らなかった。天皇は、新統一国家の権力者になるために必要な経済的・軍事的・政治的・社会的基盤のすべてを特っていなかった。
日本をめぐる内外の情勢は切迫し、国家統一は緊急の課題となっていた。当時の日本における最大の政治的・軍事的権力者であった徳川将軍家を単独で打倒して国家の統一者となることができる力を持った大名はいなかった。幕藩体制を廃止して新統一国家を建設する事業は、徳川幕府自身が武力を行使して諸藩を廃止するか、有力諸藩が連合して幕府を打倒するか、いずれかの道によるしかなかった。この対抗関係が成立するための有力諸藩の連合には、連合の象徴が必要であった。その象徴とされたのが、天皇であった。このことは、幕末のいわゆる勤王の志士たちが、天皇を「玉」と呼んでいたことからも知られる。
天皇はなぜ「玉」=倒幕諸藩の連合の象徴となることができたのか。最大の権力者であった幕府が持っていないもの、すなわちイデオロギー的および宗数的権威を持っていたからである。とくに、天皇は、幕府の政治的支配をささえてきた儒教イデオロギーの名分論において論理的に優越した地位を持つとともに、幕府の民衆支配の思想的手段とされてきた仏教に対抗することができる宗数的地位を保持していた。儒数的名分論は幕藩体制の支配身分である武士階級にたいして有効なイデオロギー的手段であったし、仏教に対抗することができる宗数的地位は民衆にたいして有効であった。」
非常に分かりやすい。「勤王の志士」たちが、天皇を崇敬していたわけではない。もっと冷徹に「玉」としての天皇について徹底的な利用を企図し、現実に利用し尽くしたのだ。そのためのイデオロギーとして、武士に対しては儒教的名分論が、民衆に対しては神道が有効だった。
こうして、天子としての宗教的権威を基底に、政治的には統治権の総覧者である天皇は、軍事的には大元帥ともなった。この三層構造としての天皇理解は、あの夏以来揺らぐことはない。
再び、同書から引用する。
「政治的権力者を表現する意味での天皇は、宗数的権威としての「天子」であることによってのみ天皇でありうる。しかし「天子」が天皇となるためには、権力をささえる物理的手段の独占的所有者つまり軍事力の独占者でなければならなかった。こうして夫皇の軍事的側面をしめすもうひとつの名称、大元帥が必要となる。天子は、大元帥であることによって天皇でありうる。」
こうして、三位一体としての「天子」と「大元帥」と「天皇」が成立する。この構造を理解することが、戦後の日本国憲法体制を理解することに不可欠なのだ。天皇という構造のどの部分が廃棄され、どの部分が残ったのか。不徹底な「革命」は、天皇を象徴として残存した。しかし、その象徴を再び宗教的権威をもった「天子」にしてはならない。その歯止めが、政教分離である。
今はなき、大江志乃夫さんを偲びつつ、遺された書物を精いっぱい生かしたいと思う。とりわけ、私のために書いていただいた「靖国神社」を。
(2014年6月5日)
「すえこざさ」をご存じの方がいたら、よほどの植物マニア。学名だから、本来は「スエコザサ」と書くべきなのだろう。植物学者が新種に妻の名を冠する例がある。シーボルトの「オタクサ」が有名だが、牧野富太郎もこの特権を行使した。仙台で発見した新種の「笹」に、妻・寿衛子の名を冠して、「寿衛子笹(すえこざさ)」としたのだ。
『「すえこざさ」の衝撃』とは、「法と民主主義」5月号巻末「風」欄の、穂積匡史エッセイのタイトル。牧野富太郎の行為を衝撃というのではない。「つくる会」系教科書の「すえこざさ」の命名をめぐる物語の引用のしかたが「衝撃」なのだ。達意の文章であり、読みやすくおもしろい。なによりも、若手弁護士のセンスのよさが光っている。部分の引用では惜しいので、全文を引用させていただく。
*****************************
いわゆる「つくる会」系教科書で有名な育鵬社が、「十三歳からの道徳教科書」(道徳教育をすすめる有識者の会・編)を発行している。帯には「これがパイロット版道徳教科書だ!」「新しい道徳のスタンダード」などの文字が躍る。内容は、道徳教材として三七の逸話が収録されており、そのなかの一つが、「異性についての正しい理解を深め」るための教材「すえこざさ」である。あらすじは次のとおり。
後に著名な植物学者となる牧野富太郎は、幼いころから草花が大好きで、二六歳で寿衛(すえ)と結婚した後も、植物研究に没頭していた。寿衛が出産をした三日後、富太郎の借金をとり立てに、高利貸が家まで来ることになった。富太郎は産後の寿衛をいたわり、「今日は、私が話して帰ってもらうから、お前はやすんでいなさい」と寿衛に言う。しかし、実際に高利貸が家にやって来ると、寿衛は起き上がり、大きな声を出そうとする借金取りをなだめすかして帰らせる。そして、寿衛が富太郎の部屋をそっと窺うと、富太郎は借金取りのことなど忘れて、一心に本を読んでいた。寿衛は、「よかった」と思う。寿衛は、「どうしたら夫に安心して研究をつづけてもらえるか」と、そればかりを考えつづけていたのだ。ところが富太郎六六歳のとき、寿衛が病に伏す。「もうむずかしい」と医者に告げられると、富太郎は寿衛の枕元で「こんど発見した新しい笹の種類に、お前の名をつけることにしよう」と言う。こうして「すえこざさ」が生まれた。
さて、教科書は、このストーリーで「異性についての正しい理解を深める」というが、「正しい理解」とは何か。
一心に本を読む富太郎を見て、寿衛が「よかった」と思うシーンがある。この「よかった」を墨塗りにして、生徒に考えさせたとしよう。「夫は言うこととすることが違う。ひどい。」と生徒が感じたら、それは道徳的に「正しくない」ことなのだろうか。
寿衛のように「どうしたら夫に安心して研究をつづけてもらえるか」と思うのとは違って、「どうしたら家事や育児を分担してもらえるだろうか」と生徒が考えたとしたら、それは「異性についての誤った理解」なのだろうか。
あるいはまた、寿衛が女性研究者で、富太郎が「主夫」だったとしても、この教材は掲載されたであろうか。
自民党改憲草案は、「家族は、互いに助け合わなければならない」「教育が国の未来を切り拓く上で欠くことのできないもの」と規定し、安倍「教育再生」は教科書検定強化と道徳教科化を推し進める。そうやって教化される家族の模範が「すえこざさ」であると、「有識者」が臆面もなく吐露してしまうあたりに、安倍「教育再生」の浅薄さと病理の深さを見る。そういえば、この原稿が掲載されたころには既に、別の「有識者」たちが憲法を変えずに憲法を変えろという無茶苦茶な報告をしているのだろうか。
ところで、現実の日本社会で女性が置かれた立場は寿衛よりさらに過酷かもしれない。家事・育児・介護を引き受けながら、さらに非正規労働者として低賃金で働かされる上、出生率目標まで課されるのだから。支離滅裂な安倍「女性活用」政策である。
*****************************
いかがだろうか。なるほど、「法と民主主義」とはおもしろそうだ、と思っていただけたろうか。同誌5月号(通算488号)は、5月26日に世に出た。まだ、もぎたての新鮮さである。できるだけ、みずみずしい内に講読いただけたらありがたい。
その内容紹介は、下記のURLを。
http://www.jdla.jp/houmin/
定価は1000円、ご注文は下記のフォームへ。
http://www.jdla.jp/kankou/itiran.html#houmin
もし私に声をかけていただけたら、著者紹介扱いで800円でお頒かちできる。
「特集?」が、『安倍政権の「教育再生」政策を総点検する─「戦後レジームからの脱却」に抗して』という直球勝負の内容。巻頭の堀尾輝久「安倍政権の教育政策─その全体像と私たちの課題」から、川村肇「戦後教育改革の内容とその後の変遷」、村上祐介「安倍政権の教育改革プランの全体像」、俵義文「教科書問題の最近の動向と竹富町への『是正要求』」村山裕「安倍政権の教育政策・競争と選別の思想」、小畑雅子『安倍「教育再生」は、子どもと教育に何をもたらすか』、齋藤安史「大学における教育・研究体制への影響」中村雅子「国立市教育委員の経験から」と並べば、教育問題に関心のある方には講読意欲を持っていただけるものと思う。
安倍政権の教育政策と切り結ぶためには、その全体像を正確に把握することが不可欠である。本特集はそのための第一歩にふさわしいものと確信し、活用を期待したい。
「特集?」が、教育に関連して、「少年の心に寄り添う審判とは─第4次少年法『改正』批判」という座談会。出席者は、佐々木光明/佐藤香代/井上博道/佐藤むつみ(司会)の諸氏。
その他の執筆陣の名を挙げておこう。原発被害と核廃絶についての時評を埼玉の重鎮宮沢洋夫弁護士、裁判員問題について五十嵐双葉弁護士、メディアウオッチにについて丸山重威元関東学院大学教授、袴田再審決定について秋山賢三弁護士、書評に浦田賢治早稲田大学名誉教授等々。
ぜひ、ご購読を。
(2014年6月4日)
昨日(6月2日)、全国の憲法研究者ら16名が、渡辺喜美・みんなの党元代表をを政治資金規正法違反・公職選挙法違反で刑事告発し、告発状を東京地検特捜部に送付した。その代理人となった弁護士は24名。私もその一人に名を連ねている。
告発状の全文とマスコミ報道については、下記「上脇博之 ある憲法研究者の情報発信の場」のブログを参照されたい。
http://blog.livedoor.jp/nihonkokukenpou/archives/51774337.html
http://blog.livedoor.jp/nihonkokukenpou/archives/51774454.html
告発状は26頁に及ぶ。いくつかの場合分けをしているので、やや複雑で読み通すのには多少の根気が必要である。
主たる告発事実は、被告発人がDHCの吉田会長から2012年に借入れた5億円のうち、みんなの党の選挙活動・政治活動と支出が報告されたものを除いた2億5000万円についてのもの。これが、政治活動資金として借入れたものであれば、被告発人には政治資金規正法上の政治資金収支報告書に「借入金」としての記載義務があるのに、これを怠った虚偽記載罪または不記載罪が成立する。また、選挙運動資金としての借入であれば、公職選挙法上の選挙運動収支報告義務の対象となるのに、これを怠った不記載罪が成立する、というもの。
もう一つの告発事実は、2010年以降の合計8億円の借入の内、計9000万円(被告発人の支出5500万円、被告発人の妻の支出3500万円)につき「支出」における虚偽記載罪・不記載罪(政治資金規正法違反)または届出前の支出禁止違反の罪(政治資金規正法違反)の事実があるというもの。
報道されているとおり、2010年に授受あった3億円については借用書が作成されているが、2012年の5億円については借用書がない。それでも、告発状が「本件5億円は『みんなの党』の政治活動(選挙運動活動を含む)のために吉田会長から被告発人渡辺喜美が借りたものである」としているのは、手堅く立件を求める立ち場からにほかならない。
みんなの党は2009年2月に設立されている。以後、被告発人渡辺が集めた金は8億円だけではない。
たとえば、次の事実もある。
「2009年春、被告発人渡辺喜美は夫人とともに吉田会長の自宅を訪問し、夫人は『いよいよ新党を立ち上げますが、お金がなくて困っています。地元の栃木に不動産があるので買っていただけないでしょうか。会長、助けてください』と言ったので、吉田会長は、同年6月26日、言い値の1億8458万円でその物件(「渡辺美智雄経営センター」名義)を購入したが、そのカネが新党立ち上げにどのように活用されたのかについては全く不明のままである。」
「被告発人渡辺喜美は、2010年には、Aから3月26日に5000万円を借入し、その全額を3日後の同月29日に「みんなの党」に貸付けているし、6月18日にはAから4000万円を、Bから2本の4000万円を、それぞれ借入し、それらの合計額1億2000万円を3日後の同月21日に「みんなの党」に貸付けている。そして、6月30日に吉田会長から3億円を借入れた後、7月13日、Aに9000万円を、Bに8000万円を返済し、12月29日吉田会長に8000万円を返済している。」(みんなの党調査チーム報告書)
告発状にも明記されているとおり、現行の政治資金規正法の立法の趣旨は「隠密裡に政治資金が授受されることを禁止して、もって政治活動の公明と公正を期そうとするものである」。また、「政治資金規正法は、全体としては、政治家個人への不明朗な資金提供を全面的に禁止し、政党中心の政治資金の調達及び政治資金の流れの一掃の透明化をめざすもの」でもある。
今回の事態は、億単位の金が政治資金として隠密裡に授受されている実態を明らかにした。政治活動の公明と公正は、地に落ちていると言わねばならない。政党中心の政治資金の調達及び政治資金の流れの一掃の透明化のために、捜査当局には徹底した事実の究明を期待したい。わが国の民主主義の健全な発展のために。いや、再生のために。
(2014年6月3日)
先週の金曜日(5月30日)、名古屋高裁(筏津順子裁判長)が言い渡した判決が注目されている。タクシー会社・名古屋エムケイが原告になって、国(国土交通大臣)を相手にした行政訴訟でのもの。判決文が手に入らないので隔靴掻痒の感があるものの、原告は運輸行政における規制の不合理を主張し、一審に続いて控訴審判決も規制を違法と認めたという。
争われた「規制」の内容は、中部運輸局が2009年に公示した、「名古屋市を中心とする交通圏で運行するタクシーについて、運転手は1回の乗務の走行距離の上限を270キロメートルまでと制限する」という乗務距離制限。「名古屋高裁判決は、一審名古屋地裁判決に続き、運転手の走行距離制限を違法とした。」と報じられている。
行政訴訟の主要なアクターは、私人と国(行政機関)である。私人が国による規制を不当として争うのだから、一般論として私人の勝訴は国民の自由の範囲を拡大することになる。しかし、この二大アクターの争いに、影響を受けるステークホルダー(利害関係者)の存在を忘れてはならない。真に誰と誰の間のどのような利益が衝突し調整が求められているのかを見極めなければならない。
本件の場合、規制はタクシー会社に対するものではあるが、本件規制は、消費者(タクシー利用者)と労働者(タクシー会社勤務者)の利益を擁護するためのものとしてなされている。会社の利益(利潤の獲得を目的とする企業経営)に優越する、消費者の利益(乗客の安全)・労働者の利益(過酷な労働からの保護)に支えられた規制でなければならない。規制の目的や手段の妥当性が裏付けられなければ、規制権限の逸脱または濫用として、違法とされる。
タクシーやバスの運転者に過酷な労働を容認するようでは、労働者の利益に反するだけでなく、事故につながり一般乗客の安全を害することになる。乗務時間や距離の規制が一般論として不合理と言うことはできない。にもかかわらず、なぜ、規制は違法とされたのか。
一審判決時のやや詳細な報道では、「『旅客自動車運送事業運輸規則』は、各地の運輸局が実情に応じて距離を制限できると定めている。タクシー業界は02年の道路運送法改正で新規参入が自由化されて競争が激化し、労働環境の悪化も指摘された。これを受け、09年前後に1日の走行距離に制限を設ける地域が相次いだ。(名古屋地裁の)福井裁判長は、『当時の名古屋市周辺地域は不況でタクシーの需要が減っており、無理な運転をしてまで走行距離を伸ばす傾向はなかった』と述べ、国が制限を設ける必要はなかったと判断した。原告側は公示の取り消しも求めたが、公示は行政訴訟法で取り消し請求の対象となる行政処分とは異なるとして、この部分の請求は却下した」という。
結局、判決は「タクシー運転手の一日当たりの乗務距離を国が制限したことの目的には合理性がない」「安全や過労防止のため既に労働時間が制限されており、あらためて規制する合理性がない」として、当該の規制を裁量権の濫用で違法にあたると判断した。報道によれば、乗務距離制限をめぐっての高裁判決はこれが初めてとのこと。
言うまでもなく、タクシー会社には営業の自由(憲法22条)がある。利潤の追求を目的に企業を経営する自由である。原告・エムケイから見れば、自らがもっている憲法上の営業の自由を、行政が不当に制約していることになる。企業の経営の自由を制約する規制は少なければ少ない方がよい。望むべくは、まったく無いに越したことはない。
しかし、国の立ち場からすれば、乗務距離制限は決して企業活動の制約そのものを目的としたものではなく、消費者や労働者の利益を目的としたものとして合理性があり、当然に規制は許容されるとの主張になる。タクシー業界の過当競争の防止策は、結局のところ共倒れを防止して企業の利益にもつながるという主張にもなる。
双方の主張のどちらに軍配を上げるべきか。憲法上の権利の制約は、いかなる場合に許容されるのか。その基本的な枠組みとして、学説においては、二重の基準論が説かれている。二重の基準とは、精神的自由に対する規制の在り方と、経済的な自由に対する規制の在り方とで、許容基準の厳格さが異なるというもの。元々は、アメリカ合衆国の連邦最高裁が採用してきた考え方。
精神的自由権(表現の自由・信仰の自由など)の規制の許容可否については厳格な基準をもって判断し、経済的自由権(所有権・企業経営の自由)の規制においては立法や行政の裁量を尊重して緩やかな基準をもって、目的・手段などの合理性を審査する、というもの。
要するに、「精神的自由権」と「経済的自由権」に、制約の可否に関して寛厳の差を設けようということ。その理論的根拠は、「経済的自由を規制する立法の場合は、民主政の過程が正常に機能している限り、それによって不当な規制を除去ないし是正することが可能であり、それがまた適当でもあるので、裁判所は立法府の裁量を広く認め、無干渉の政策を採ることも許される。これに対して、精神的自由の制限又は政治的に支配的な多数者による少数者の権利の無視もしくは侵害をもたらす立法の場合には、それによって民主政の過程そのものが傷つけられているため、政治過程による適切な改廃を期待することは不可能ないし著しく困難であり、裁判所が積極的に介入して民主政の過程の正常な運営の回復を図らなければ、人権の保障を実現することはできなくなる。」(芦部信喜)などと説かれる。なお、立法による規制の説明は、行政による規制にもあてはまる。
精神的自由権が、経済的自由権に比べて優越的な権利と理解されていると言って差し支えないだろう。ところが、このような一般論と、現実の判例は正反対なのだ。精神的自由権に対する制約の合憲性は厳格に判断しなければならないところ、現実にはそのような判決は極めて乏しい。反対に、緩やかな判断がなされるはずの経済的自由権について、規制を違憲違法とした判決が目につく。今回の名古屋高裁判決もそのような一事例に加えられることになる。
エムケイの青木信明社長は判決後に記者会見し、「規制緩和に逆行する政策がタクシー業界を衰退させている。高裁の判断は本当にありがたい」と話したという。個別企業の立場としては、「高裁の判断は本当にありがたい」は本音だろう。しかし、「規制緩和に逆行する政策がタクシー業界を衰退させている」は、当たらないと思う。
行政による規制は企業にとって望ましからぬものではあっても、消費者の利益、労働者の利益、地域住民の利益、環境の保護、公正な競争環境の形成等々の観点からの合理性ある規制には服さざるをえない。企業は社会と調和し、社会が許容する在り方でしか活動を継続できないのだ。もとより不必要で有害な規制は拒否できるが、規制一般を「既得権益の保護のためのもの」と決めつけることはできない。規制緩和の要求は、実は企業のエゴの発露でもありうる。
安易に、「規制は悪。規制緩和こそが善」などと言わずに、規制の目的や手段における、必要性・合理性を具体的に吟味しなくてはならない。そうでないと、飽くなき利潤追求のために徹底した規制の緩和や解除を要求して、労働者の利益や消費者の利益を顧みない勢力に乗じられることになりかねない。誰だって、過労運転による事故に泣く目には会いたくないのだから。
******************************************************************
受信料支払い凍結運動にご参加を
具体的な受信料支払い凍結の手続については、下記のURLに詳細です。是非とも参照の上、民主主義擁護のための運動にご参加ください。
http://kgcomshky.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/nhk-933f.html
*******************************************************************
支払い凍結と並んで、NHK籾井会長、百田・長谷川両経営委員の辞任・罷免を求める署名運動も継続中です。こちらにもご協力をお願いします。
運動の趣旨と具体的な手続については、下記URLからどうぞ
http://kgcomshky.cocolog-nifty.com/blog/2014/02/post-3030-1.html
http://chn.ge/1eySG24
*******************************************************************
NHKに対する「安倍首相お友だち人事」への抗議を
☆抗議先は以下のとおり
※郵便の場合
〒150-8001(住所記入不要)NHK放送センター ハートプラザ行
※電話の場合 0570?066?066(NHKふれあいセンター)
※ファクスの場合 03?5453?4000
※メールの場合 下記URLに送信書式のフォーマット
http://www.nhk.or.jp/css/goiken/mail.html
☆抗議内容の大綱は
*籾井勝人会長は即刻辞任せよ。
*経営委員会は、籾井勝人会長を罷免せよ。
*百田尚樹・長谷川三千子両経営委員は即時辞任せよ。
*経営委員会は、百田尚樹・長谷川三千子両経営委員に辞任勧告せよ。
こちらもよろしくお願いします。
(2014年6月2日)
三笠宮の長男故高円宮次女と、出雲大社宮司長男との婚約が発表された。皇室と出雲国造家の結婚。これが、「両性の合意のみ」で成立したとすれば、ご同慶の至りである。
皇室の祖先神と出雲大社の祭神とは、「天つ神・国つ神」の関係にある。征服者である天皇の祖先神が高天原なる「天つ神」。その神を祀っているのが伊勢神宮。被征服者として、天つ神に地上の国を譲ったのが「国つ神」たる出雲の神。世俗的な理解では、善神としての「天つ神」と、抵抗勢力としての「国つ神」。出雲なる国つ神の「国」は、譲られたものであろうか、それとも略奪されたものであろうか。いずれにしても記紀神話の成立は、出雲に対する伊勢の勝利を物語っている。
しかし、出雲は滅びたわけではない。出雲大社の祭神としての須佐之男・大国主の信仰は、大社とともに生き延び、本居宣長の「顕幽」説に至る。顕界(うつし世)の王が天皇であり、幽冥界(かくれ世)の王が大国主だというもの。さらに、平田篤胤は、大国主を善神とし、死者の魂を審判し、その現世での功罪に応じて褒賞懲罰を課す神としている。この大国主命の幽冥界主宰神説が、復古神道の基本的な教義だとされる。
明治維新は、神々の争いでもあった。神道と仏教が争い、神道各派も正統を巡って争った。かつて、地上の勢力間の争いが神々の争いとして神話に仮託され語り継がれた如くにである。出雲は官弊大社への列格を不服とし、伊勢と同等の格式を当然として、官社のうえに列すべく要求した。その運動の旗手は、復古神道の教義を携えた、第80代出雲国造千家尊福である。
原武史の「出雲という思想」(原武史・講談社学術選書)は私の愛読書。読み応えがあるだけでなく、読みやすくすこぶるおもしろい。原の現代語訳では、尊福は教部省宛て請願書でこう言っている。
「オホクニヌシが幽冥の大権を握り、この国土に祭っている霊魂や、幽冥界に帰ってきた人の霊魂を統括なさるのは、天皇が顕界の政治を行って万民を統治なさるのと違わない」「このようにオホクニヌシが幽冥の大権をお取りになるからには、神の霊魂も人の霊魂も、みなオホクニヌシが統治なさるわけであるから、すべての神社を統括するのもまた出雲大社であるべきなのは、議論するまでもないことである。」
さらに尊福の筆は激しくなり、密かに書かれたという「神道要章」には、次の文章があるという。
「大地の支配者であられるオホクニヌシのおかげによらなければ、天つ神の高い徳を受けることができないゆえんを明らかにして、天つ神を崇敬するにしても、まず大地の恩が大切であることを謹んで感謝しなければならない」
原は「このようにして尊福は、わかかりやすい言葉で、信徒に対してアマテラスよりもオホクニヌシをまず第一に尊敬しなければならないことを主張した」と解説している。
尊福の言は、表向き「顕幽」同格のごとくではあるが、幽冥界の王こそが真の王であり、顕界の天皇を凌ぐものとの気概を感じさせる。伊勢派は、尊福の説を危険思想として、「皇位を軽んずるもの」「わが国体を乱るもの」「国体上に大関係ありて、民権家の説に類似す」と攻撃した。「出雲の神は、かつて天孫系のため圧迫されて譲国したので、その数千年来の宿怨を霽らすために、今度出雲が立ったのである。それならばこそ出雲系の直系が、皇室を凌ぐような議論も出て、その点で千家を暗殺せんとする騒ぎもあった」と当時の雰囲気を知る人の回顧録も残されているという。
尊福の説は大いに振るって伊勢派を追い詰めたが、時あたかも自由民権運動の勃興期。天皇制の拠って立つ教説の正統性批判の強大化を恐れた中央政府は、1881(明治14)年に、勅裁によって「祭神論争」の決着をつける。ここに、出雲は伊勢に2度目の敗北を喫した。原の言葉を借りれば、「『伊勢』による『出雲』の抹殺」である。
さらに、原の理解によれば、大国主信仰は大本に受け継がれ出口王仁三郎によって民衆信仰として復活する。しかし、2度にわたる天皇制政府の大本弾圧によって、この教義も息の根が止められることになる。出雲の3度目の敗北である。原は、この事態を「『伊勢』による『出雲』の2度目の抹殺」とする。
このたびの「伊勢」と「出雲」との婚約は、一見有史以来の「数千年来の宿怨」を抱えた因縁を乗り越えたもの如くであるが、実はそうではない。今、両家はモンタギューとキャピュレットの関係になく、婚約者どおしはロミオとジュリエットの悲劇性とは無縁である。その遠因は、「祭神論争」のあとの千家尊福の「転向」にある。彼は、かつての「顕幽」論の内容を変えて国体の尊厳を説くに至り、明治政府に忠誠を誓って政治家へと転身した。伊藤博文の推挙によって「元老院」の議官となり、貴族院議員、埼玉県知事、静岡県知事、そして東京府知事にもなり、司法大臣まで経験している。この尊福の時代に、「伊勢」と「出雲」との蜜月の関係が形成された。
祭神論争は、国家神道・国体思想の形成史において重要な意味をもっているとされる。このとき、明治政府は、天皇の権威を相対化するすべての神々を一掃する姿勢を明瞭にしたのだ。「出雲の抹殺」は、その象徴的なできごとであった。
「国体論議の主な源泉としては、二つあります。一つが平田派国学ですが、もう一つは後期水戸学です。この二つが合流して近代日本の国体概念の歴史的背景になったと見ていいと思います」(原が引用する丸山眞男)と言われる。しかし、平田派の流れを汲む千家尊福の教説も、天皇制を支える教説の純化のために切り捨てられたのだ。
今回の婚約発表は、祭神論争勅裁から130年を経てのもの。既に、両家因縁の歴史は風化していると言うべきなのだろうか。
(2014年6月1日)
私も講演をお引き受けする。月に2度くらいのペース。大きな集会は少ない。たいていは少人数の会合。時間の都合がつく限りは、せっかくの要請に応じたいと思っている。
私は職人として、常に依頼の趣旨に応えたいと思っている。依頼を受けたテーマで、考えをまとめてみる。レジメをつくり、お話しをし、質疑に応答する中で、自分の考えを再整理する。自分の考え方の浅さや、弱点を知ることもできる。講演は、自分に有益なこと。だから、できるだけ同じことの繰りかえしはしないようにと心掛けている。
かつては消費者問題や労働・医療・薬害・司法などかなり広範な分野で講演依頼を受けたが、今は憲法と教育の分野以外にはお呼びがかからない。憲法学者や教育法学者の緻密な講演はできないが、実務家としての経験からお話しすることは、それなりの意味もあろうかと思っている。
このところ、面識のない人から、ブログを見たというだけのつながりで講演依頼を受けることがある。本日も、典型的なそのような小集会での講演。約2時間半を喋らせてもらった。
本日の講演のタイトルは、「安倍政権の改憲戦略を点検する?自民党改憲草案・96条先行改憲論・解釈変更による集団的自衛権行使容認?」というもの。
安倍政権は「戦後レジームから脱却」して、「日本を取り戻そう」という。政権がそこからの脱却をめざすという「戦後レジーム」とは、「日本国憲法にもとづく国のかたち・その基本理念」にほかならない。それは、取り戻そうとされている「戦前レジーム」とは対極の価値観から構成されている。
現行の「戦後レジーム=日本国憲法体制」とは、いかなる理念にもとづくいかなるかたちであるかを戦前の天皇制レジームとの比較において再確認することを第1部とし、安倍政権の憲法攻撃の戦略と戦術の概要を第2部とするレポート。
第1部は、今トピックとなっていることよりは、少しベーシックな、近代立憲主義・権利章典と統治機構の関係・個人主義・自由主義・そして福祉国家論に基づく現代立憲主義論…。日本国憲法の中の近代憲法・現代憲法としての普遍的な側面と、近代天皇制がもたらした戦争の惨禍への徹底した反省にもとづく固有の側面。戦後の逆コースの中の憲法の受難の歴史と、憲法を支えた歴史。そして、これまでの保守政権とは明らかに異なる安倍政権の性格。
そして、第2部。安倍政権の本音は、2012年4月公表の自民党改憲草案と7月の国家安全保障基本法案に明らかであること、これを実現すべく96条先行改憲を目論んだが、意外に強硬な世論の反撃に一歩退いて、解釈改憲に主力を注いでいること。しかし、96条先行改憲論への批判の理由とされた、「立憲主義に悖る」・「姑息なやり方」・「裏口入学的手口」などはより強く妥当する。
解釈改憲の対象は憲法9条2項。その解釈を変更して、集団的自衛権行使容認を認めようという策動。限定的容認も憲法の歯止めを外すことにおいて許してはならない。だいたいが、6項目の条件は憲法上限定の意味をなさない。15事例は、牽強付会にリアリティを欠くというだけでなく、法的には集団的自衛権行使の瞬間に、「敵」となった勢力から、日本の領土を攻撃されることを甘受しなければならないことになる。54基の原発を抱えた日本のどこもが標的となるのだ。その危険を負うことは到底できない。結局は、現実に戦争加担する選択肢はないものと考えざるを得ない。
立憲主義は必然的に憲法を硬性とする。明文改憲ができないから解釈で事実上の改憲を行うなどは、本末転倒も甚だしい、あるまじきこと。
講演後、的確な質問が相次いだ。
まずは、「私には、憲法9条を素直に読んで、専守防衛の範囲であれば軍事力を持てるというこれまでの政府解釈が可能だとは到底思えない。だから、『自衛隊を専守防衛の実力組織として守れ』とか、『その変質を許してはならない』などというスローガンに抵抗を感じる。これまでの自民党政府や内閣法制局の解釈を擁護しようという運動が正しいのでしょうか」という、あまりに真っ当なご質問。
「私(澤藤)も、憲法9条を字義のとおりに素直に読んでの理解はご質問の方と同じです。日本は、戦争の惨禍の反省から、『陸海空軍その他の戦力を持たない』という方法で不再戦を実行しようとしたはずで、警察力として必要以上の武力をもつことは違憲だと思います。また、憲法が命じる武力をもたないことが平和を守ることにつながるとも思っています。軍事力を持つことによって、平和を守れるということの方がリアリティーに乏しい。
しかし、そのような主張や論争は今重要ではない。自衛隊違憲論者も、専守防衛論者と一緒になって、集団的自衛権行使容認には反対という共通のスローガンで世論を喚起しなくてはならない、そう思っています。それは、『自衛隊違憲の考えを撤回せよ』ということではなく、考え方の違いは認めつつ、戦争防止の歯止めを外してしまおうとする危険な策動に対して、共同して闘うことがより重要だということです。それが、『共闘』というものの基本的な在り方ではないでしょうか。」
続いて、ズバリ核心に触れるご質問。「憲法の解釈というのは、時代により、事情の変化によって、どこまで許容されるものでしょうか。また、その可否はいったい誰が最終判断をするのですか」というもの。逃げたいが、逃げられない。
「憲法の解釈には、なによりも国語としての文理の限界があるはずです。国語としての意味の通常の理解を超える解釈は、無理な解釈として法的安定性を損なうことになります。9条2項に関するこれまでの政府解釈は、かろうじて可能な解釈の範囲と言えるかも知れません。しかし、集団的自衛権の行使まで認めるとなったら、明らかに許容される解釈の限界を超えることになるといわざるを得ません。
憲法解釈の最終判断は、最高裁大法廷がする建前です。しかし、最高裁はおそらく判断はしない。逃げるでしょう。『そんな国の運命に関わる重要な判断は、自分たちには荷が重すぎて判断するに適当ではないから辞退する』というのが逃げ口上。これが、砂川事件の大法廷判決が示した統治行為論です。任務放棄の司法消極主義として批判されてはいますが、要は三権分立のバランスをどうとるべきかの考えによるもので、荒唐無稽なことを言っているわけでもない。
では、内閣が強引に閣議決定をしてしまえばそれまでのことか、といえば必ずしもそうでもない。国民的な批判、非難による弾劾はあり得ます。結局は、最終的には国民自身の判断によるとしか言えない。国会の論戦。メディアの批判。規模は小さくても今日のような学習会の積み重ね。そのことによって形成された世論が、選挙を通じて政権を動かし得るとなったら、事態は劇的に変わるのだと思います。
安倍政権は、事実上96条先行改憲論を引っ込めざるを得なくなっています。国家安全保障基本法も今は国会に出せるような状況ではない。集団的自衛権行使容認の提案撤回も、もう一歩のところと思います。あらゆる世論調査が、安倍政権の解釈改憲提案に反対意見が多数であることを示しています。地道に世論を積み重ねる努力をする。これ以外に王道はないと思います。
**************************************************************
憲法解釈変更への閣議決定に反対するネット署名への協力のお願い
桜美林大学の阿部温子さんご提案の署名運動です。要請文を転載します。是非ご協力ください。また、拡散もよろしく。サイトのURLは以下のとおりです。
http://www.avaaz.org/jp/petition/petition_537ae73e1c8ad/?launch
『日本国内閣総理大臣 安倍晋三氏へ:閣議決定による憲法解釈変更は絶対に認めない』
安倍政権は、集団的自衛権の行使容認という、過去6年以上にわたって行われてきた憲法解釈の変更を閣議決定で行う最終段階に入ろうとしています。良識ある市民、学者、研究者から見れば、この行為はまさしく民主主義の放棄に他なりません。
戦後70年近く日本が歩み続けてきた民主政の根底にあるのは、法の支配や人権と言った普遍的価値であり、その普遍的価値を一時的な熱狂を追い風にした時の権力が踏みにじることを防ぐための装置が権力分立や立憲主義であったはずです。
三権分立原則という義務教育の中でも徹底されているはずのことが、行政権力の長によっていとも簡単に覆されようとしているのです。本来であれば、最終憲法解釈は憲法裁判所が担うところを日本の場合は最高裁判所がその役を兼務する構造になっています。しかし現政権は司法府の権限であるべき最終憲法解釈まで、行政府の長が行うものと豪語しているのです。なぜなら自分は国民の信託を受けているからと。ならば解散総選挙を行って真に国民の総意を問うのかというわけではなく、または国会という国権の最高機関で審議を行うでもなく、過去の裁判例をむりにねじ曲げて最高裁判所の権威を愚弄し、「ひっそりと静かに」内閣という行政部内のみで決定してしまおうというのです。このような三権分立の否定は、民主主義を蹂躙するものに他なりません。
なによりもその決定しようとしている事項は、戦後67年にわたって日本が平和であり続け経済的繁栄を享受できたその礎にあったルールに関わるものです。
そのような国家のあり方を根本から変えようとする事項を、立法府にも司法府にも無断で行政府だけで勝手に弄べてしまっては、もはや国家は完全にたがの外れた怪物として国民にはどうにも制御できなくなります。ルールが不都合だから、ルールを迂回しよう・無視しようというのは、ことにそのルールが国家のあり方の根幹に関わるような重要原則である場合、ありとあらゆるルールの信用を失わせ国家の道筋を見失わせることになり、果てしのない破滅への道を転がり落ちていく定石といえます。先に憲法96条改正という卑怯なやり口が失敗したがために、新たな手段に出たわけですが、この「都合の悪いルールは勝手に変えよう」というのが現政権の基本姿勢のようです。
集団的自衛権自体については様々な意見があるでしょう。ですが、私が皆さんに訴えたいのは、この手続きは間違っている、このやり方は私たちが20世紀前半の過ちを忘れて繰り返していることなのだということです。ですから、この訴えはあくまでも閣議決定で憲法解釈の変更は絶対にしてはならない点を主眼としています。国民として、市民として、あの時何もしなかったから、日本は民主主義国家ではなくなってしまったということにならないよう、どうか、閣議決定による集団的自衛権行使容認という憲法解釈変更に反対する署名をお願いします。
(2014年5月31日)
昨日(5月29日)のソウル聯合ニュースが、韓国放送公社(KBS)労組のストライキ突入記事を配信している。これは、大きな注目に値する。
「韓国旅客船セウォル号の沈没事故をめぐり、韓国放送公社(KBS)の吉桓永(キル・ファンヨン)社長が青瓦台(大統領府)の意向を受け、政府批判を自制するよう指示したとの疑惑が浮上している問題で、KBS理事会は29日、吉氏の社長解任案提出の是非を問う表決を来月5日に延期することにした。これを受け、吉氏の退陣を求めていた同社の二つの労組は同日午前5時からストライキに入った。
KBS理事会は同社の独立性や公共性を保障するため、経営などに関する決定を下す最高議決機関。11人の理事で構成され、与党が7人、野党が4人を推薦し、大統領が任命する。
KBS理事会は今月26日、臨時理事会を開き、報道の公正性を損ねたなどとして、吉氏の社長解任提出案を上程した。
これに先立ち、「全国言論労組KBS本部(新労組)」と「KBS労働組合(1労組)」は吉氏の解任提出案を可決しない場合、ストを実施するとしていた。1労組には技術や経営職など約2500人、新労組には記者やプロデューサーら約1200人が所属している。2010年に新労組が発足して以来、両労組が同時にストを行うのは初めて。
KBS記者協会とKBS全国記者協会による19日からの業務中断でニュース番組が短縮されるなど、同社の報道機能はすでに事実上まひしている。ストにより、統一地方選(6日4日投開票)やサッカーワールドカップ(W杯)ブラジル大会などにも支障が生じる見通しだ。」
KBSは、日本のNHKに相当する公共放送。受信料収入で経営されている。KBSとNHK、ちょっと似てるが大きく違う。その報道姿勢や職員のジャーナリストとしてのプライドには雲泥の差がみえる。今回のこのストライキ。韓国国民からの信頼獲得に大きな財産となるにちがいない。ワールドカップが放映されないことなど、些事としてとるに足りない。
このストライキは、職員の労働条件の改善を求めてのものではなく、政権との癒着の疑惑あるKBS社長の退陣を求めてのもの。全職員が総力をあげてKBSの公正な報道に関する国民の信頼を勝ち取ろうという要求なのだ。労組側は、「人々が信じられる放送メディアをつくるという目標をもってのスト」と言っている。「敬意を表する」程度の讃辞では足りないと思う。それに比較して、わがNHKにおいては…、と考え込まざるを得ない。
韓国で起こったとされていることを、時系列で要約すれば以下のとおり。
*大統領府からKBS吉社長に政府批判自制の要請があった
*これを受けた吉社長が、政府批判を自制するよう内部に指示した
*そのことを不都合としてKBS理事会が吉氏の社長解任案を上程した
*28日に予定されていたその評決が延期となった
*これを不満として労組がストに突入した
KBSをNHKに置き換えてみよう。その場合、大統領は首相に、吉社長は籾井会長に、理事会は経営委員会に置き換えることになる。日本で、以下のようなことが起こっても不思議はないのだ。
*安倍首相が、お友だち人事で籾井勝人をNHK会長に据えた
*籾井会長は首相の意を受けて「政府が右といえば左とは言えない」と発言
*一連の会長の言動を問題に経営委員会が会長の罷免案を上程した
理由は、「報道の公正についてNHKの信頼を損ねた」というもの
*ところが、官邸からの圧力あって、その評決に至らない
*業を煮やしてNHK職員の労組が全組織を挙げてストに突入した
このタイミングで、元NHKに勤務していた堀潤が主宰する「市民投稿型ニュースサイト8bitNews」にKBS労組委員長のインタビューが掲載されている。
http://8bitnews.org/?p=2565
のサイトでの組合側の言い分は、以下のとおり格調が高い。
「報道局長が会見で社長の行為を告発しました。大統領府からニュースに関する圧力がかかっていたというものです。その過程で、KBSの社長が報道に干渉したという情報がありました。公共放送の本来の役割を取り戻すために、まず社長職から退いて、さらに朴大統領が謝罪しなくてはいけないと思っています。」
「KBSの社長を大統領が任命するという今の構造が根本の問題です。KBSの社長は大統領の顔色を常にうかがっており、実際の人事を決める過程でも影響を与えています。社長の任命にとどまらず、政府の意向は社長が任命した報道局長や部長などに連鎖していくので、そうした連鎖を断ち切らなくてはいけないのです。構造を変える必要があります。公共放送の基本的な使命である真実の報道、国民の知る権利の保障が重要です。これらをどうやって守っていくのかというがメディア人の役割だと思っています。人々が信じられる放送メディアをつくるという目標をもってこのストを進めています。」
「KBSでは1990年4月にもこうした、政権に対立して公共放送の独立性を求めるストがありました。放送民主化闘争です。2000年にも長期にわたってストもありました。不利益、解雇や転職もありましたが、KBSの構成員たちは使命を守るために恐れもなく闘ってきました。」
「KBSという公共放送は国民の財産です。権力者の所有物ではなく国民の財産です。国民の財産を守るために闘っています。闘いの正当性が保証されていますので恐れはないです。今の時期は朴政権の初期にあたります。韓国の政治状況は大統領の配下で絶対的な権力をもっていると見えます。大統領の意向は絶対的な権力です。ですから今までも大統領に対する批判を自制する風潮はありましたし、一方で数多くの言論人達がそれを克服しようと努力しております。」
韓国に学びたい。韓国に学んで、われわれもNHKを批判の世論で包囲しなければならない。「人々が信じられる放送メディアをつくる」ために。切実にそう思う。
*******************************************************************
受信料支払い凍結運動にご参加を
具体的な受信料支払い凍結の手続については、下記のURLに詳細です。是非とも参照の上、民主主義擁護のための運動にご参加ください。
http://kgcomshky.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/nhk-933f.html
*******************************************************************
支払い凍結と並んで、NHK籾井会長、百田・長谷川両経営委員の辞任・罷免を求める署名運動も継続中です。こちらにもご協力をお願いします。
運動の趣旨と具体的な手続については、下記URLからどうぞ
http://kgcomshky.cocolog-nifty.com/blog/2014/02/post-3030-1.html
http://chn.ge/1eySG24
*******************************************************************
NHKに対する「安倍首相お友だち人事」への抗議を
☆抗議先は以下のとおり
※郵便の場合
〒150-8001(住所記入不要)NHK放送センター ハートプラザ行
※電話の場合 0570?066?066(NHKふれあいセンター)
※ファクスの場合 03?5453?4000
※メールの場合 下記URLに送信書式のフォーマット
http://www.nhk.or.jp/css/goiken/mail.html
☆抗議内容の大綱は
*籾井勝人会長は即刻辞任せよ。
*経営委員会は、籾井勝人会長を罷免せよ。
*百田尚樹・長谷川三千子両経営委員は即時辞任せよ。
*経営委員会は、百田尚樹・長谷川三千子両経営委員に辞任勧告せよ。
こちらもよろしくお願いします。
(2014年5月30日)
大海の磯もとどろに寄する波 割れて砕けて裂けて散るかも
ご存じ、金槐和歌集に所載の鎌倉第三代将軍・源実朝の歌。今の日本維新の会の状況を的確に歌い上げている。
訳解すれば、次のようなところであろうか。
「これまでは一見威勢よろしく磯もとどろに押し寄せてはみたが、今まさに、進退窮まって、割れて砕けて裂けて散ろうとしているのだ。石原慎太郎も橋下徹も、割れたあとには、砕けて裂けて散るのみ。栄枯盛衰ははかりがたく、世はまことに儚い」
石原慎太郎は、結いの党との合併交渉において、自主憲法制定というスローガンに固執して、党を割る提案をした。分裂といわずに「分党」「党の分割」というのは、政党助成金の配分をめぐっての思惑のなせる業。
自主憲法制定が反憲法の無法者のスローガンであることについては、5月26日の当ブログで論じたところ。下記URLを参照されたい。
http://article9.jp/wordpress/?p=2712
日本維新の会は、地方政党「大阪維新の会」と「太陽の会」が合併してできた。右翼化した安倍自民党を、さらにその右から引っ張ることを役割とした。割れた一方の「太陽」は沈んで、また陽が上ることはあるまい。次の選挙ではたして生き残ることができるだろうか。
もう一方の橋本維新は、結いの党や民主党の一部も巻き込んだ野党再編をめざすとされているが、かつての勢いはない。なによりも、地元で孤立を深めている。
以下は昨日(5月28日)の赤旗の報道。見出しは、「橋下補正予算8.5億円削減」「大阪市議会 校長公募・『都構想』広報費など」というもの。
「大阪市議会は27日の本会議で、橋下徹市長が提出した今年度補正予算案を修正し、民間人校長が相次いで不祥事を起こしている校長公募の関連経費(約2800万円)など歳出約8億5000万円を削減しました。
修正には、維新の会を除く全会派が賛成。校長公募関連の他にも、橋下氏肝いりの東京裁判をテーマにした展示会の開催費や『大阪都』構想の広報費などを全額削除し、家庭系ごみ収集事業の民営化に向けた予算などを削減しました。」
「また本会議では、橋下市長が再提出した市立幼稚園14園を廃止・民営化する条例案を維新以外の会派で再び否決しました。」
大阪都構想が事実上破綻し、強引な政治姿勢は、住民から見放されつつある。市民らが漠然とした期待から喝采を送った時代は終わった。いま、選挙をし直したら、あらゆるところで維新の凋落は目を覆うばかりとなるにちがいない。
維新の存在の客観的な役割は、安倍政権を極右と見せないことにあった。割れた両者とも、これまで同様の役割を担おうとしている。「寄する波」が、割れただけでは無害にならない。「砕けて裂けて散る」までの末路をしっかりと見届けよう。
*******************************************************************
受信料支払い凍結運動にご参加を
具体的な受信料支払い凍結の手続については、下記のURLに詳細。是非とも参照の上、民主主義擁護のための運動にご参加ください。
http://kgcomshky.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/nhk-933f.html
*******************************************************************
支払い凍結と並んで、NHK籾井会長、百田・長谷川両経営委員の辞任・罷免を求める署名運動も継続中です。こちらにもご協力をお願いします。
運動の趣旨と具体的な手続に付いては、下記URLからどうぞ
http://kgcomshky.cocolog-nifty.com/blog/2014/02/post-3030-1.html
http://chn.ge/1eySG24
*******************************************************************
NHKに対する「安倍首相お友だち人事」への抗議を
☆抗議先は以下のとおり
※郵便の場合
〒150-8001(住所記入不要)NHK放送センター ハートプラザ行
※電話の場合 0570?066?066(NHKふれあいセンター)
※ファクスの場合 03?5453?4000
※メールの場合 下記URLに送信書式のフォーマット
http://www.nhk.or.jp/css/goiken/mail.html
☆抗議内容の大綱は
*籾井勝人会長は即刻辞任せよ。
*経営委員会は、籾井勝人会長を罷免せよ。
*百田尚樹・長谷川三千子両経営委員は即時辞任せよ。
*経営委員会は、百田尚樹・長谷川三千子両経営委員に辞任勧告せよ。
こちらもよろしくお願いします。
(2014年5月29日)
バングラデシュのシェイク・ハシナ首相が、昨日(5月27日)早稲田大学で講演した。同大学が「シェイク・ハシナ首相プロフィール」として紹介するところによれば、「バングラデシュ独立の父・初代大統領ムジブル・ラーマンの長女として生まれる。父、母、兄弟ら一族十数人を軍事クーデタで失い、自身も英国、及びインドで亡命生活を余儀なくされるが、1981年に帰国。野党・アワミ連盟の総裁に。史上最年少で就任し、反政府運動を主導。軍事政権を打倒する。貧困撲滅による社会的公正の達成を信条とした献身的な活動を続けており、1996年に同国首相に就任。2009年から再び首相を務めており、2014年より3期目」とのこと。
同氏は昨日の講演において、亡父ラーマン氏が、独立に伴う1972年の国旗制定時に「日本に魅せられ日の丸のデザインを取り入れた」と述べたそうだ。そのように述べることが、日本への親近感をアピールになるとの思いがあってのことだろう。
以下は毎日新聞の報道。
「バングラデシュ国旗は日の丸とほぼ同じ柄で、豊かな自然を表す緑の地に、独立のために流した血を示す赤い丸が描かれている。ラーマン氏は『農業国だった日本が工業国に発展したように、バングラデシュも将来は工業国になるべきだ』と話していたという。日本とのつながりを強調したハシナ氏は『貧困削減や経済発展には教育が不可欠。日本の援助は喜ばしい』と述べ、友好と経済協力を呼びかけた。」
注目すべきは、バングラデシュ「独立の父」にも、日の丸の赤は血の色を連想させたということである。バングラデシュの「日の丸」は、独立運動家たちが流した尊い血の象徴とされたようだが、さてわが国ではどうだったろうか。
「日の丸の旗はなどて赤い かえらぬ息子の血で赤い」は、よく聞かされたフレーズ。栗原貞子の詩の一節にも取り入れられている。近隣諸国の人々には、侵略戦争の犠牲になった同胞の血の色に見えるだろう。それは、清算され風化した過去のことではない。「かえらぬ息子の血」の色は、まだ拭い去られてはいないのだ。
しかし、もとより白地に赤の「日の丸」は、白い人民の骨の色、赤い人民の血の色をイメージして作られたものではない。素朴な太陽信仰の象形といってよかろう。
異説もあるが、天武朝のころに皇室は太陽を神格化したアマテラスという女性神を皇祖とした。同じ頃、先進国中国に対抗意識をもって日本という国号を使用するようにもなった。後年、そのような歴史的経緯から、「日」のデザインが国旗としての地位を占めるようになる。もっとも、国家の象徴とは無関係に、日の丸のデザインが使用されてはいたようだ。しかし、白地に赤とは限らない。
有名なのは、平家物語「那須与一」の段。ここで弓射の標的とされ射落とされて海に散る日の丸に、神聖なイメージはない。そして、デザインこそ日の丸だが、色は「白地に赤」ではなく、「赤地に金」というのが通説的理解。
平家物語には、「皆紅(みなぐれなゐ)の扇の日出だしたる」が2か所に出てくる。「地の色が『紅』の扇に、金箔で『日』が押し出されているもの」というまだるっこい表現は、日の丸がまだ人々の意識に定着していないことを表しているのではないか。ちなみに、赤ではなく紅。実は、国旗国歌法でも、日の丸の彩色は赤ではなく「紅色」となっている。
いずれにせよ、語り物「平曲」の一番の聞かせどころである。
「沖の方より尋常に飾つたる小舟一艘、汀へ向いてこぎ寄せけり。磯へ七、八段ばかりになりしかば、舟を横さまになす。『あれはいかに』と見るほどに、舟の内より齢十八、九ばかりなる女房の、まことに優に美しきが、柳の五衣に紅の袴着て、皆紅の扇の日出だしたるを、舟のせがいにはさみ立てて、陸へ向いてぞ招いたる。」
「与一鏑を取つてつがひ、よつぴいてひやうど放つ。小兵といふぢやう、十二束三伏、弓は強し、浦響くほど長鳴りして、誤たず扇の要ぎは一寸ばかりを射て、ひいふつとぞ射切つたる。鏑は海へ入りければ、扇は空へぞ上りける。しばしは虚空にひらめきけるが、春風に一もみ二もみもまれて、海へさつとぞ散つたりける。夕日の輝いたるに、皆紅の扇の日出だしたるが、白波の上に漂ひ、浮きぬ沈みぬ揺られければ、沖には平家、船ばたをたたいて感じたり。陸には源氏、箙をたたいてどよめきけり。」
金色の丸は頭上に輝く太陽で、日の出の太陽を表すものではない。平家物語を日の丸の起源とすることには無理があろう。日の丸は、その出自において宗教色濃厚なものではあるが、血の色と結びつく好戦的なものではなかった。「日の出の色」を「血の色」のイメージに変えたのは、天皇制政府の責任である。
(2014年5月28日)