澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

安倍解釈改憲に地方からの異議

本日の東京新聞朝刊。目次に当たる「きょうの紙面」に、「解釈改憲 地方が異議」とある。
まずは2面に、「解釈改憲反対『立憲ネット』地方議員215人で発足」との記事。
「憲法解釈変更による集団的自衛権の行使容認に反対しようと、超党派の地方議員でつくる『自治体議員立憲ネットワーク』の設立総会が15日、東京都内で開かれた。安倍晋三政権に対抗し、市民と連携して地方から立憲主義と平和を守る方針を確認した。
北海道から九州までの民主や社民、生活者ネット、緑の党、無所属の都道県議や区市町村議ら215人で発足。共同代表に西崎光子東京都議(生活者ネット)や角倉邦良群馬県議(民主)ら5人が就いた。
各自治体で解釈改憲に反対する決議を目指すほか、来春の統一地方選で連携する議員を増やすための政策提言をまとめる。安倍首相が進める憲法解釈変更の閣議決定に向け、東京で抗議集会も予定する。
角倉県議は『地方議員が平和を守る運動の先頭に立ち、閣議決定や法改正に歯止めをかけたい』と訴えた。」

このネットワークに共産党議員ははいっていない。呼び掛けられてもいないようだ。同党の地方議員総数は約2700名。現時点でのネットの215人は決して多い数ではないが、大きな可能性を感じさせる。

そして、3面。「首長『解釈改憲ノー』続々」「地方政治 強まる危機感」「戦争に直結」「9条守れ」の見出し。こちらは、「集団的自衛権の行使容認のための憲法解釈変更に、各地の知事や市長らが次々と反対の声を上げている」「解釈改憲を急ぐ首相を黙認できないとの思いは静かに広がっている」という、首長の声を拾っている。

批判の声を挙げている首長として名を挙げられたのは13名。上田札幌市長や、松井広島市長、田上長崎市長、末松鈴鹿市長などだけでなく、舛添東京都知事、阿部長野県知事、湯崎広島県知事、広瀬大分県知事、大村愛知県知事など。

「発言が目立ち始めたのは、首相が5月15日の記者会見で憲法解釈変更を検討する考えを表明してから。‥行使容認反対などを求めた意見書を国会に提出した市町村議会も約60あることと合わせ、地方でも危機感が強まっている」という内容。

注目すべきは、長崎市の田上富久市長。記者会見で、安倍政権の動きについて「原爆被爆者には、日本の在り方の大きな方針転換になるのではないかという不安に結び付いている」と指摘。8月9日の原爆犠牲者慰霊平和祈念式典で読み上げる平和宣言文で、この問題に触れる方針だという。三重県鈴鹿市の末松則子市長は、解釈改憲での行使容認を「戦争に直結すると捉えられかねない」と批判。「母親の立場からみても素晴らしい憲法。9条は変えてほしくない」と訴えた。札幌市の上田文雄市長は消費者問題の弁護士出身。首相は会見で、乳児や母親を描いたパネルを用いて行使容認が必要とする事例を説明したが、「危機感だけをあおる手法は、国民に冷静な判断をさせない催眠商法のやり方に酷似している」と厳しく批判したという。 また、長野県中川村の名物村長曽我逸郎氏のインタビューが紹介されている。このインタビューの内容もおもしろいが、同村のホームページの「村長の部屋」も一見の価値がある。

信濃毎日新聞から村長へのアンケート依頼に対する丁寧な回答があり、その中に「集団的自衛権の行使容認に関する質問」への村長の見解が示されている。

(2)集団的自衛権行使を憲法解釈の変更で容認することについてどう思うか。
・反対
▽その理由は
 憲法とは、時代を超えた普遍的な規範である。移り変わる時代の中における個々の政権によるその場その場の政治的判断は、憲法を基準として検討され、下されなければならない。最高法規とはそういう意味である。
 従って、もし憲法を変更しようとするなら、人類にとっての時代を超越した普遍的な価値について、踏み込んだ十分な議論がなされ、合意が形成された上でなければならない。
 にもかかわらず、解釈によって憲法の内実をお手軽に実質的に変更できるとする考えは、自分の個人的かつその時の判断・解釈を憲法より上位に置くものであり、不遜である。このような考え方のできる人は、時代を超えた人類普遍の価値が存在することを理解しておらず、その場の都合や利害しか判断基準として持っていない。」
東京新聞は、これを「村長は、村のホームページで首相を戒めている」と解説している。

「地方の異議」は、自民党内部からも生じている。本日の朝日に、「自民岐阜県連『性急すぎる』 集団的自衛権で異例の要請」との記事。
「安倍政権が今国会中にも閣議決定を目指す集団的自衛権の行使容認について、自民党岐阜県連が「性急すぎる」として、県内全42市町村議会議長に、慎重な議論を求める意見書を議会で採択するよう要請したことがわかった。県議会でも同様の意見書を採択し、政府に提出する方針。
 要請文は10日付。農協改革とあわせて、各議長に『国民生活に重大な影響を及ぼす案件であるのに、関係者と十分な議論を経ることなく、性急なスケジュールで検討が進められている。国民の理解を得る形で結論を出すべきだ』と呼びかけ、意見書案を添えた。
 意見書案は集団的自衛権について、『議論を否定するものではないが、国防、安全保障の根幹に関わり、国民生活に影響を及ぼす重要な問題』と指摘。『全国で公聴会を開くなどの方法で、結論を出すべきだ」としている。異例の意見書案の背景には、来春の統一地方選へ向け、公明党への配慮もあるとみられる」

自民党県議の「党本部や官邸がやっていることがすべて正しいわけではない。あまりにも性急というか、慎重さに欠ける」「公明党との関係もぎくしゃくし、統一地方選にも影響する。選挙で公明党の票がなかったら危ない議員もいる」と安倍政権を批判する発言も紹介されている。

「全国有数の自民王国」でこの事態。安倍政権の性急さ強引さを、快く思わない自民党地方組織が岐阜だけであるはずはない。このようなやり方では、民意を蹴散らすことになりはすまいかと心配しているにちがいない。議員も、首長も、自民党地方組織も、だんだんとものをいうようになってきた。

東京新聞のインタビューで曽我村長が語っている。
「住民が地元の議会や首長に、行使容認に反対する意見書や声明を出すよう働き掛けてほしい。ゲームのオセロは、黒ばかりの盤面でも、少しずつ白のこまが増えれば、局面は大きく変わる。政治も同じだ」
少しずつ、白のこまが増え始めているという手応えがある。
(2014年6月16日)

コートジボアール「エレファンツ」の勝利に祝意を

ワールドカップ・ブラジル大会のCグループ。その初戦で、日本とコートジボワールが対戦した。私はスポーツとしてのサッカーそのものにはほとんど興味がない。しかし、サッカーという競技がもつ社会への影響力には関心をもたざるを得ず、観客の熱狂ぶりや、巨額の金の動き、そしてナショナリズムのあり方などには興味津々である。

なお、私は常に弱者の側に味方したいとする立場。日本チームのFIFAランキングが46位と初めて知って、23位だという格上のコートジボアールに対しての善戦を期待した。結果は、ほぼランキングが示す実力差のとおりの試合となったようだ。

ところで、コートジボアールという国に、ほとんどイメージがない。象牙海岸・宗主国フランスからの独立・政情不安・カカオの産地。その程度が、私の同国に対する知識のすべてといってよい。せっかくのこの機会に、かの国の内情を少しは知りたいと思った。

こんな時、一昔前なら、まずは百科事典を開くことになろう。その上で、図書館か本屋さんに足を運ぶことになったはず。今は、ネットの検索で結構な量の情報が手に入る。手軽でもあり、金もかからない。ウィキペディアの充実ぶりにも感心させられる。以下は、すべて本日ネットの検索で初めて知ったことの受け売り(出典は省略させていただく)。俄然、コートジボアール・チームの勝利に祝意を表明したくなった。

西アフリカに位置するコートジボワールは大西洋に面し、人口は約2500万人。首都はヤムスクロ。日本とほぼ同じ面積の国土に63の民族が暮らしているという。1960年の独立までフランスの植民地だった。かつては、象牙の輸出が盛んで、国名はフランス語で「象牙の海岸」を意味する。当然のことというべきか、公用語はフランス語。世界一のカカオの生産と輸出で知られている。

独立直後は、カカオとコーヒーの輸出や外国企業の誘致で「イボワールの奇跡」と呼ばれる年成長率8%の高度経済成長を達成したという。ところが、80年代には経済が失速した。90年と2002年に内戦があり、2010年末の大統領選の結果をめぐっても内乱が起きた。

政情不安には、多民族間の非融和だけでなく、宗教や貧困の問題が複雑に絡んでいるという。これを統合するものとして、サッカーがあるということだ。コートジボワール代表がW杯に初出場を決めたのは05年。06年のドイツ大会に出場している。このとき、「サッカーは分断された国民を一つにまとめる希望の光」となったとされる。

コートジボワール代表がワールドカップ出場を決めた瞬間、選手たちはピッチ上に座り、内戦のさなかにあった母国に平和を呼びかけた。そのマイクを握ったのが同国のスター選手、ディディエ・ドログバ。今日の試合にも出場した選手。「北も南も、西も中央もない。コートジボワールはひとつです。この豊かな国を、戦争の犠牲にしてはいけない。武器を置いて、心をひとつにしよう!」と語りかけた。彼は、内戦を終えたコートジボワール政府が創設した「対話・真実・和解委員会」のメンバーの一人でもある。

コートジボアールのナショナルチームの愛称を、“エレファンツ”という。いまや国民的ヒーローであるディディエ・ドログバがエレファンツ(代表の愛称)のオレンジ色のシャツに初めて袖を通したのは、奇しくも第一次内乱が始まる数日前の2002年9月だった。つまり彼の代表キャリアは、この国の内乱の歴史とともにあったと解説されている。

内乱は、大別するなら南北に分かれての争いだが、北部を占めるイスラム教徒と、南部に多いキリスト教徒間の争いでもあった。しかしサッカーの代表チームには、イスラム教徒もいればキリスト教徒もいる。トゥーレ兄弟は北部の出身、ドログバやカルーは南部の出だ。彼らが一致団結して戦う姿を国民一人ひとりが自分たちになぞらえて「結束」を思い起こしてほしい、というのが“エレファンツ”の願いだった。

ワールドカップ初出場を決めた2005年の対スーダン戦のスタジアムには、内線で敵対する両陣営も居並び、エレファンツの勝利によって、「この夜国がひとつにまとまった」とされる。エレファンツは5対0で快勝し、翌日の新聞は「5ゴールが、5年間の戦争の悪夢を消し去った」という見出しを打ったという。

エレファンツは、サッカーというスポーツの代表チームという枠を超え、敵対する政権を調和させてしまえるほど、コートジボワールにとっては平和のシンボルであり、国民の夢なのだ、という。

エレファンツがいかに力持ちでも、背負っているものがとてつもなく重い。本日の貴重な1勝によって、少しは肩の荷が軽くなったことであろう。祝意を表するにやぶさかではない。
(2014年6月15日)

「高村私案・新3要件」の文意を問う

本日は地元の学生グループに招かれてごく小さな規模の憲法学習会の講師を務めた。テーマは、特定秘密保護法の問題点と集団的自衛権。少人数の聞き手とのやり取りは結構楽しかった。

報告は3パートになった。「立憲主義」・「解釈改憲」・「秘密保護法制」である。「立憲主義とは何か」、「どうして今集団的自衛権行使容認の解釈変更なのか」、そして「特定秘密保護法のどこがどう問題なのか」という問いかけから始まるレポート。

※近代憲法の何たるかは、1789年フランス革命後の人権宣言16条に定式化されている。「権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていないすべての社会は、憲法をもたない」というもの。ここに、人権こそが至高の憲法価値であること、公権力は人権を制約することのないよう謙抑的につくられていなければならないこと、つまり「個人主義」と「自由主義」とが明瞭に宣言されている。以来、憲法は「人権のカタログ」部分と、人権を侵害しないように設計された「統治機構」部分とから構成されるようになった。
ここには、「主権者国民が権力を創設するが、その公権力は最も大切な国民の人権を傷つけることのないように設計され運用されなければならない」「そのために、公権力の設計と運用の在り方についての主権者の意思を予め確定し、この主権者の意思を公権力の担当者に示して、これにしたがって公権力を行使するよう命じる」という大原則が前提にされている。このようにして公権力行使を統制する考え方が立憲主義である。

※主権者国民から権力担当者に対する命令が憲法であるから、その命令の内容を軽々に変更はできない。変更するとなれば、慎重に国民の意思を確認してからでなくてはならない。民主主義社会では時の権力は国会での過半数の勢力によって形成されるから、国会での過半数の議決で憲法改正ができるとすれば、憲法が権力を統制するという役割を果たせなくなる。憲法改正は必然的に立法手続以上の厳格な要件を要求することになる。これが憲法が「硬性」であるということ。

安倍政権が成立するや、自民党改憲草案を念頭に、明文改憲が試みられた。そのための戦略として、まず96条先行改正が目指された。つまり、憲法改正手続を改正して、硬い憲法を軟らかくほぐしておいて、改正しやすい憲法にすることから始めようとした。しかし、これが評判が悪かった。「姑息なやり方」「国民を欺くもの」「裏口入学的手法」「96条改憲の向こうに9条改憲」「立憲主義の何たるかを理解していない」と散々。昨年の憲法記念日を挟んで、世論は完全に96条先行改憲論にノーを突きつけた。第1ラウンド、安倍の負けであった。

明文改憲ができないととなるや、安倍は第2ラウンドは解釈改憲を持ち出した。憲法9条に手を付けずに、内閣限りでその解釈を変えて、実質的な9条改憲をやってのけようということ。具体的には、これまで憲法9条2項によって「集団的自衛権の行使は憲法上できない」とされていた解釈を、強引に変えてしまおうということ。

しかし、これは、96条先行改憲以上に、実質的な9条改憲であり、「立憲主義の何たるかを理解していない」やり口。「姑息なやり方」「国民を欺くもの」「裏口入学的手法」である。それでも、安倍政権は、内閣法制局長官の首をすげ替え、自分で選任した安保法制懇の報告を受け、自作自演で集団的自衛権行使容認の路線を突っ走りつつある。

そのための与党協議において、座長の高村自民党副総裁から、「高村私案」が示されている。これが昨日(6月13日)のこと。これまでは、個別的自衛権行使には次の3要件が必要と政府解釈が確立していた。
(1)我が国への急迫不正の侵害がある
(2)これを排除するために他に適当な手段がない
(3)必要最小限度の実力行使にとどまる
この3要件のすべてを満たした場合にはじめて自衛権の発動が可能となる、というもの。

高村私案は、この要件を次のように変更しようというものだ。
?我が国に対する武力攻撃が発生したこと、または他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるおそれがあること
?これを排除し、国民の権利を守るために他に適当な手段がないこと
?必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと

問題は、(1)と?の差である。自衛権の発動は、従来政府解釈(1)では「我が国への急迫不正の侵害が現在している」場合に限られている。これに対して、高村私案?は、「我が国に対する武力攻撃が発生した」場合に限られない。「他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ」た場合に拡大されている。これが、集団的自衛権の行使を容認するということだ。

問題はそれだけではない。「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される『おそれ』があること」がくせ者。?の文章を「(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)、または(他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるおそれがあること)」と重文として読めば、集団的自衛権についてだけ「幸福追求の権利が根底から覆される『おそれ』があること」が要件として関わってくることになる。これも、『おそれ』という曖昧さが大きな問題をはらむものとなっている。

さらに大きな問題は、「{(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)、または(他国に対する武力攻撃が発生し)}これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるおそれがあること」と複文として読めば、個別的自衛権行使の要件としても『おそれ』が関係してくることになる。
つまり、「我が国に対する武力攻撃が発生したことにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される『おそれ』がある」場合には、個別的自衛権行使が可能となるというのだ。従来解釈に比して、「急迫不正の侵害」という要件を抜いていることに加えて、「我が国の存立が脅かされる『おそれ』がある場合」、「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される『おそれ』がある場合」にも、ひろく武力行使が可能と、どさくさに紛れて要件を緩和したことになる。このような姑息なやり方には、徹底した批判が必要だ。

※そして、特定秘密保護法の問題である。
民主主義政治過程のサイクルは、一応は「国民意思⇒選挙⇒立法府⇒行政府⇒司法」と図式化することができる。この国民意思形成の過程では、国民に十分な情報が提供されていなければならない。とりわけ、国政に関する情報は、国民の財産であって、国民がこれに接して、民意の形成に役立てなければならない。

戦前、軍機保護法や港湾要塞法などは軍の装備や編成を軍事機密として国民の目から秘匿した。戦時色が深まると、軍用資源秘密保護法や国防保安法はさらに、外交、財政、経済、資源等、総力戦を構成するすべての部門の重要機密を厳罰をもって保護するようになった。その基本的な考え方は、「国民はよけいなことを知る必要がない」「必要な情報は政府が管理しておけば十分」というもの。

特定秘密保護法も同じ考え方、「40万件といわれる特定秘密は国民は知らなくてよい」「政府が国民に知らせてもよいという情報だけを知らせておくことで十分」という基本的な考え方でできている。国会議員にも、裁判官に対しても、同様の考え方が貫かれている。これは、民主主義を衰弱される危険な法律。

2013年12月6日に特定秘密保護法は成立し、同月13日に公布された。その1年後、本年12月13日に施行ということになる。ぜひ、それまでに法の廃止を実現したい。そうでなくては、民主主義の政治サイクルが空回りすることになり、議会制民主主義は形骸化し衰退しかねない。
(2014年6月14日)

集団的自衛権に関する与党協議の成り行きには納得し得ない

集団的自衛権に関する与党協議の展開は目まぐるしいが、実は結論は既に決まっていて、形づくりだけを見せられているのかもしれない。そう思わせる成り行きとなってきた。

飯島勲内閣官房参与がワシントンで講演し、公明党と創価学会の関係について、これまでの政府見解は政教分離原則に反しないとしてきたが、「もし内閣が法制局の答弁を一気に変えた場合、『政教一致』が出てきてもおかしくない」と述べたのが6月10日。政府が解釈変更に至った場合には、「(公明党が)おたおたする可能性も見える」とまで語ったという。これが、集団的自衛権をめぐる与党協議に関し、「来週までには片が付くだろう」との表明に関連しての言及である(時事)。なんという、えげつなさ。なりふり構わぬ露骨な牽制。

これで「公明党がおたおたした」ということなのだろうか。12日には、一斉に「集団的自衛権 公明行使一部容認へ」「公明に限定容認論」「公明、苦渋の歩み寄り」などという見出しの記事が出る事態となった。「公明党は、集団的自衛権を使える範囲を日本周辺の有事に限定したうえで認めるかどうかの検討を始めた」「1972年の政府見解を根拠に政府・自民党に歩み寄った」と報じられている。

公明党が、「限定容認論」の根拠として持ち出したのが、72年政府解釈である。そのさわりは、以下のとおり。
「政府は、従来から一貫して、わが国は国際法上集団的自衛権を有しているとしても、これを行使することは憲法の容認する自衛の措置の限界をこえるものであって許されない、との立場にたっている。
 憲法は、第9条において、戦争を放棄し戦力の保持を禁止しているが、前文において『全世界の国民が‥平和のうちに生存する権利を有する』ことを確認し、第13条において『生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利』を定めていることからも、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを禁じているとは解されない。
 右にいう自衛のための措置は、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最小限度の範囲にとどまるべきものである。したがって、わが憲法の下で武力行使を行うことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであって、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とする集団的自衛権の行使は、憲法上許されない」

9条の解釈に、前文の平和的生存権と、13条の幸福追求権とが動員されている。その上での結論は、「わが憲法の下で武力行使を行うことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」、つまり個別的自衛権の行使は容認される。しかし、「他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とする集団的自衛権の行使は、憲法上許されない」、つまりは集団的自衛権の行使は憲法上容認し得ない、というものである。

以上のとおり、72年政府見解とは、集団的自衛権を否定する根拠の説明である。個別的自衛権がかろうじて合憲であることの反面、集団的自衛権の行使は憲法上許されないとしたのだ。その見解の、その理由をそのままに、集団的自衛権行使容認の根拠に転換しようというのである。だから、「苦汁の歩み寄り」「平和の党の岐路」「支持者への説明がたいへん」などと評されているのだ。

公明党がここまで譲歩すると、自民党はさらに追撃しての譲歩を迫ることになる。本日(13日)の、第6回与党協議において、新たな「叩き台」としての高村私案が示された。「他国に対する武力攻撃が発生し、(日本の)国民の生命、自由などが根底から覆されるおそれがある」場合には、集団的自衛権行使が認められるとするもの。

政府はこれまで自衛権発動の要件を、「(現実に)日本に対する急迫、不正の侵害があった場合」に限定していた。これは個別的自衛権だけを容認してその発動の要件を限定するものとなっていた。高村私案は、集団的自衛権行使を容認するだけでなく、「国民の生命、自由などが根底から覆される『おそれがある場合』」とすることで、個別的自衛権の行使の要件についてまでも緩和するものとなっている。どさくさに紛れて、あわよくばそこまで、という底意が見えている。

本日の会合で、高村氏は私案を「閣議決定案の核心部分に当たる」と説明したという。さすがに、公明側は即答を避けたようだが、押し切られそうな雰囲気。既に、集団的自衛権の「限定承認」は既定事実化し、今国会の会期内にできるか否か、時期だけの問題となったように報道されている。

衆目の一致するところ、公明は自民から「政権離脱の選択肢はない」と足下を見られての結果なのであろう。結局は、「できるだけの抵抗はしてみましたが、相手が強引でやむをえません」という風情。「これくらいの形づくりで、ご勘弁いただきたい」という姿勢に見える。それでは、自党の支持者だけではなく国民を納得させることができない。結局は、公明は憲法の平和主義蹂躙に手を貸したことになってしまう。それでよいのか、公明党。
(2014年6月13日)

「求めるものは医療と教育」「必要なのは競技場でなく学校」ーブラジルは健全だ

サッカーのワールドカップ(W杯)ブラジル大会の開幕戦は6月12日、つまり本日。もっとも時差があって、日本時間では13日午前5時が初戦のキックオフになるという。

オリンピックとワールドカップ。国境を越えた人と人との交流の場として意味のないものだとは思わない。しかし、商業主義とナショナリズムの横行には白けてしまう。自分の近くには来て欲しくない。「日本人なら日本チームを応援するのが当然」という同調圧力にも辟易だ。

幸いにして、今回の会場は遠い。開幕式・開幕戦が行われるメインスタジアムは巨大都市サンパウロにある。そのサンパウロでの公共交通機関のストライキやワールドカップへの抗議行動が話題になっている。「開催に反対するデモは、今後も国内各地で計画されている。賛成派と反対派がせめぎ合う中で、4年に1度の祭典は開幕を迎える」と報道されている。ワールドカップに興味はないが、ストとデモには大いに興味をそそられる。

まずはストである。5月下旬からサンパウロ州営バスの運転手がストライキに突入し、市営の地下鉄がこれに続いた。市内の交通は大混乱の事態となった。ストライキを決行するからには、最小限の犠牲で最大限の効果を狙うのが戦術上の常道。ワールドカップ直前、あるいは盛りあがった真っ最中の時期を狙ってのストライキは、戦術としては上策となる。5路線ある同市地下鉄は一部運行しているが、開幕戦スタジアムの駅に向かう電車は全て運行を中止している状態が続いたという。

もちろん、争議は戦争ではない。いずれ復帰すべき職場を潰してしまっては元も子もなくなる。勤務先企業に決定的ダメージを与えるような争議戦術は当然に回避される。また、極端に世論を敵にまわす戦術もとりにくい。しかし、「ワールドカップ開催のこの時期にこそ効果的な戦術を」「いまは大々的にストを打っても大丈夫」という、労組の側の読みを支える状況があるのだ。

このようなさなかに、労働裁判所の命令が下された。
「5月28日、裁判所が混雑時間帯の完全稼動と通勤量が少ない時間帯に70%を維持するよう命令し、これに違反すれば毎日4万4000ドル(約450万円)の罰金を賦課すると警告したが、労働組合員のストライキの意志は折れなかった」と報じられた。サンパウロ地下鉄労組がストライキを強行する理由は、物価上昇率の高さのためだという。今年の上半期のブラジル物価上昇率は約6%だが、地下鉄労働者の初任給は停滞したまま。労組側の言い分は、「ワールドカップのための金はあるのに、なぜ大衆交通のための金はないのか」というもの。

6月8日には、「罰金」額の増額が命じられた。「ブラジルの労働裁判所は8日、サッカーW杯ブラジル大会の開幕戦を目前に控えたサンパウロの地下鉄職員らが賃上げを求め続けるストライキは違法だとして、職員らに対しスト続行1日当たり50万レアル(約2300万円)の罰金支払いを命じた。一方の職員らは投票で、この裁判所命令を無視し、ストを続行することを決めた」【AFP=時事】との事態になっている。ロイター通信などによると、「労組側は裁判所の命令を受けて実施した組合員投票で、スト続行を決定。W杯開催に反対する市民らとともに、デモを行う構えをみせている」という。

週明けの9日には地下鉄職員のストライキが続き市内中心部をデモ行進、街頭で治安部隊と衝突して催涙ガスなどが使われ、多くの駅が閉鎖されて道路は200キロもの渋滞となったという。興味深いことには、交通警察の一部が賃上げを要求してストライキに加勢したことが渋滞をさらに悪化させたという。そして、ストは一時中断しているが、大会開幕日の現地時間で12日にも実施される恐れがある(毎日)と報道されている。

次いでもう一つの関心がワールドカップへ抗議のデモである。
今回のワールドカップの施設は、多くの貧民地域において強制的に立退かされた住民の犠牲の上で行われているという。また、ワールドカップの費用は天文学的に増加し国民に重くのしかかっているともいう。

毎日新聞の昨日(6月11日)夕刊の「特集ワイド:W杯開幕直前、盛り上がるのはデモやスト どうしたブラジル」の掲載写真は、「『必要なのは競技場でなく、学校だ』と書いたプラカードを掲げ抗議する教師たち」である。

興味深い内容の記事となっている。たとえば、「W杯開幕が近づくにつれ、再びデモが頻発。参加者の多くは『パンを』と訴えているわけではない。1兆円を超えるW杯開催費用を『税金の無駄遣い』と批判し、『その金を医療と教育の充実に回せ』と主張する。一方、賃上げを求めるストも絶えず、バスや地下鉄がしばしば止まる。鈴木さん(地元紙編集局長)は『インフレで国民の生活は苦しくなるばかり。デモが続く背景には、医療と教育に投資するというルセフ大統領の約束が1年たっても実行されないことへの不満がある』と解説する」

さらに興味深いのは、次の指摘。
「それでも食べることにきゅうきゅうとしていた頃なら、人々はサッカーで憂さを晴らした。しかし、そこから脱した膨大な中間層は『医療や教育の改善という、より高度化した要求』を持つようになっていた」「多くのブラジル人はスタジアムなどの施設整備に使われた金の何割かは、政治家の懐に入ったと信じている。彼らの目には、W杯も『政治家の政治家による政治家のためのイベント』としか映っていません」というのだ。

真っ当な人は、パンとサーカスのみにて生きるものに非ず。「ワールドカップよりは、医療と教育を」という要求は、真っ当で健全なものではないか。また、賃金カット覚悟でストライキを決行する労働者の自覚も真っ当ですがすがしい。ワールドカップ自国開催のの機会に、ブラジルの真っ当さを世界に示したストとデモ。「どうした ブラジル」どころではない。「たいしたものだ ブラジル国民」と見出しを打つべきだろう。
(2014年6月12日)

東京「君が代」裁判第四次訴訟の冒頭意見陳述

本日は東京「君が代」裁判第四次訴訟(原告14名)の第1回口頭弁論期日。係属は東京地裁民事11部。527号法廷の傍聴席は抽籤による傍聴者で埋まり、真摯な緊張感がみなぎった。

本日の法廷では、原告の教員3名と、原告ら代理人を代表した平松真二郎弁護士が、堂々の意見陳述を行った。約30分、合議体の裁判官3名のどなたもが真剣に耳を傾けてくれたという印象がある。

本日に限らないが、原告教員の陳述には襟を正さざるを得ない。多くの原告が、生徒に恥ずべきことはできないという、教育者としての真っ当な自覚から「日の丸・君が代」強制に従えないことを切々と述べることになる。人が人であるために、自分が自分であるために、そして教師が教育者であるために、生徒の信頼を裏切ってはならないとする動機から、「日の丸・君が代」強制に屈することができないというのだ。

書面にして裁判官に読んでも同じことかといえば、決してそうではない。法廷での立ち居振る舞いや肉声は、書面とはひと味もふた味も違った直接のコミュニケーション手段となる。原告3名の今日の意見陳述は、私の胸に重く響いた。

平松弁護士の陳述は、これから審理を担当する裁判所に向かって、「『既に言い渡されている同種事件の最高裁判決を踏襲して処理すればよい』などという安易な態度での審理や判決であってはならない」というもの。懲戒処分をめぐる事実関係は、これまでの最高裁判決事案とは大きく異なってきている。「日の丸・君が代」強制を違憲違法とする法的根拠は多岐にわたるが、最高裁判決は憲法19条論にしか触れていない。本件では最高裁が示した19条解釈の誤りを糺し、さらに公権力の教育への介入禁止などのその他の論点についても十分な審理をお願いしたい、というもの。

既に定年退職された男性教員原告お一人の陳述と、平松弁護士の陳述を抜粋してご紹介する。

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 38年間の教員人生の中で、2003年に出された「10・23通達」の衝撃を忘れることはできません。それまでの都立高校では、生徒の目線に立った人学式・卒業式が、創意工夫を凝らして行われてきました。それが突然、一片の通達で「日の丸・君が代」強制の場に変えられたのです。それから10年以上が過ぎました。 今もなお、その強制と処分行政が続いていることに驚きます。
 「10・23通達」以前の卒業式を思い出します。私は夜間定時制に長く勤務しましたが、定時制では途中で学校を去っていく生徒も少なくありません。ですから、困難を乗り越えて4年後にゴールにたどり着いた時の喜びは、言葉では言い表せないほどです。卒業式では、卒業証書を高々と掲げる者、ガッツポーズをする者、また、在学中に生んだ子どもを抱えて証書をもらう者、様々で、その姿に一人一人の人生が凝縮されるのです。私たち教師は、自主的に卒業式の役割分担を決め、生徒の動きに合わせて臨機応変に動きました。子連れの生徒の場合は、預かってあやすこともしました。年配の方や車椅子の生徒には近くに行って介助しました。式の会場も体育館ではなく、食堂を使ってフロア形式で行いました。形式的な「儀式」ではない、心を合わせて卒業生を祝うアットホームな式でした。
 しかし、「通達」で、卒業式は一変しました。処分と脅しを背景とした職務命令が出され、式の形態や進行は通達通りの画一的なものになりました。会場である食堂に、意味のない「演壇」が持ち込まれ、校長が見下ろす形にされました。各学校の事情や工夫は一切認められず、生徒主体の式は圧殺されました。
 生徒にまで「君が代」の起立斉唱が強制され、最近では生徒の「送辞」や「答辞」にも管理職のチェックが及ぶと聞きます。さらに、その命令体制は卒入学式にとどまらず、教育活動の隅々にまで及ぶようになりました。
 退職直前の卒業式の時、私は3年生の担任でした。定時制は4年卒業が原則ですが、3年で卒業する道もあるので、3年の担任も卒業生を送り出します。
 最後の卒業式で私は、「君が代」斉唱時に起立せず、処分を受けました。
 私は「通達」以降、「日の丸・君が代」の強制には強い批判を持ちながらも、あえて不起立はしませんでした。生徒や同僚に与える影響も考え、踏み切れなかったのです。しかし、教育現場はどんどん息苦しくなり、「何を言ってもムダ」という気分が広がっていきました。退職を控え、私が半生をささげてきた都立高校教育とは何だったのか、これでいいのか、と思い悩みました。最後くらいは自分の気持ちに素直でありたい・・これが私の結論でした。
 卒業式の2日後に東日本大震災が勃発し、日本国中が大混乱に陥りました。
 その夜は職員室にごろ寝し、翌日からは生徒への連絡に忙殺されました。多くの方が津波で亡くなり、原発が爆発するという非常時に、都教委の職員が私の事情聴取のために学校を訪れました。震災の支援どころか、不起立教員への処分を最優先するこの対応は常軌を逸しています。
 退職して1年後、私は教え子の卒業する姿を見たくて、副校長に何度も卒業式の問い合わせをし、やっと直前に形ばかりのお知らせが届きました。
 当日、3年まで担任をした生徒たちが目の前にいるのに、会場にいる私の紹介は全くありませんでした。都教委の命令によるものです。卒業生退場の時に、私は出口に走って行って、生徒だちと握手して別れを惜しみましたが、退職した後まで不起立教員を排除し、生徒と教師の触れ合いを断ち切ろうとした都教委の卑劣さに、今でも怒りを感じます。
 定時制での経験を少々話します。女子のAさんは、いじめをきっかけに中学3年間ほとんど学校に行かず、引きこもりの生活をしていました。定時制入学当初の彼女は、一人で電車に乗ってどこかに行くこともできませんでした。つまり、社会的な経験が極めて少ないのです。そんな彼女でしたが、心の通う友達ができると、休まず学校に通うようになりました。最後は生徒会の役員にまで立候補し、優秀な成績で卒業していきました。引きこもりだった生徒が、定時制というコミュニティーの中で自己を回復していく過程は本当に感動的です。
 問題行動の多かった男子のB君は、学校外で事件を起こし、警察に補導され、鑑別所に入ってしまいました。彼はそれ以前も鑑別に入ったことかあり、今度は少年院送致もありうる状況でした。私は、彼を学校に戻したい一念で鑑別所に面会に行き、励ましました。家庭裁判所の審判の日、私も傍聴しましたが、裁判長が私に向かって「B君を学校で受け入れる用意があるか」と質問、私は「全力をあげます」と答えました。休憩を取った後、保護観察との結論が出ました。学校に戻った彼は、しだいに心を開くようになり、無事卒業しました。
 生徒がどんな問題を抱えていようと、教師は生徒に寄り添い、彼らの成長のために全力を尽くします。しかし、都教委は、それとはまったく逆に、問題を抱えた生徒は切り捨てる、という姿勢を強めています。現場では自由闊達な教育実践が衰弱し、それが生徒の活動に否定的な影響を及ぼしています。一番の被害者は生徒なのです。この現状こそまさに「10・23通達」以来の職務命令体制の帰結です。生徒と教師の触れ合いを再び教育現場に取り戻すために、裁判官の皆様の賢明な判断をお願いして陳述を終わります
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1 2003(平成15)年10月23日のいわゆる10・23通達以来,東京都の公立学校において,卒業式等の儀式的行事において国歌の起立斉唱が義務付けられ,これに従わない教職員に対する懲戒処分が繰り返されています。これまでに延べ462名の教職員が懲戒処分を受けています。
  10・23通達を巡っては,これまでに多数の訴訟が提起され,2011(平成23)年5月から2013(平成25)年9月までの間にいくつもの最高裁判決が出されました。これまでの最高裁判決の結論は,国歌の起立斉唱の義務付けは思想良心の自由に対する間接的制約であるが,義務付けの必要性,合理性があれば憲法上許容されるというものでした。

2 もとより,原告らは,国歌の起立斉唱の義務付け,その義務違反に懲戒処分をもってのぞむこと自体違憲であり,戒告処分を含めたすべての懲戒処分が違法であると考えて本件訴訟の提訴に至りました。
  本件訴訟で問われている主要な論点は二つあります。
  一つは,教育という社会的文化的営みに,国家がどこまで介入することが許されるのかという問題です。
  戦前の教育は,神である天皇が唱導する戦争に参加することこそが忠良なる臣民の道徳であると教え込むものでした。富国強兵,殖産興業,植民地支配といった国家主義的国策の正当性を児童生徒に刷り込む場として教育が利用されました。国家のイデオロギーそのものが教育の内容となり、民族的優越と忠君愛国が全国の学校で説かれたのです。その結果が,無謀な戦争による惨禍となりました。
  歴史の審判は既に下っています。教育を国家の僕にしてはならない。国家が教育内容を支配し介入してはならない。国家が特定のイデオロギーを国民に押し付けてはならない。
  この普遍的な原理が日本国憲法26条,23条,そして13条として結実しています。そして教基法16条が教育内容に対する「不当な支配」を禁ずることを確認しています。あまりに大きな代償と引き換えに得たこの憲法上の理念をゆるがせにしてはなりません。
  10・23通達は,教育内容を教育行政機関が定めるものであって,公権力による教育への支配介入にほかなりません。しかしながら,この重大な問題について、最高裁の各判決は,いまだに判断を示しておりません。

3 本件訴訟におけるもう一つの問題が,個人の精神の内面に国家はどこまで介入することが許されるのかという問題です。
  前述のとおり,最高裁判決の結論は,国歌の起立斉唱の義務付けは,その必要性,合理性があれば憲法上許容されるというものでした。私たちは,この点に関する一連の最高裁判決には、その判断の枠組みにおいても、一定の必要性、合理性が認められるという点においても承服しがたいと考えて、司法判断の変更を求めて,本件の訴訟活動をおこなっていく所存です。

4 ところで,一連の最高裁判決には,数々の個別意見が付されています。補足意見においてもその多くが国歌の起立斉唱の「強制」に慎重な姿勢が示されています。
  たとえば,2011(平成23)年5月30日第二小法廷判決(平成22年(行ツ)第54号事件)では,須藤正彦裁判官は,
    「教育は強制ではなく自由闊達に行われることが望ましいのであって,……卒業式などの儀式的行事において,『日の丸』,『君が代』の起立斉唱の一律強制がなされた場合に,思想及び良心の自由についての間接的制約等が生ずることが予見されることからすると……あるべき教育現場が損なわれることがないようにするためにも,それに踏み切る前に,教育行政担当者において,寛容の精神の下に可能な限りの工夫と慎重な配慮をすることが望まれる」
 と述べています。
  そのほか,2011年の一連の最高裁判決では竹内行夫裁判官,千葉勝美裁判官,大谷剛彦裁判官,金築誠志裁判官,岡部喜代子裁判官が,2013年1月最高裁判決では桜井龍子裁判官が,2014年9月最高裁判決では鬼丸かおる裁判官がそれぞれ補足意見を述べています。
  これらの各最高裁裁判官の補足意見では,国歌の起立斉唱の義務付けを推し進めても,不起立と懲戒処分との果てしない連鎖を生むだけであり,それがもたらす教職員の萎縮と教育現場の環境悪化を憂慮し,その連鎖を断ち切るために,寛容の精神のもとに思想良心の自由の重みを考慮して,「全ての教育関係者の慎重かつ賢明な配慮」を求め,「全ての関係者によってそのための具体的な方策と努力が真摯かつ速やかに尽くされていく必要」が説かれていました。

5 しかるに,都教委は,これらの最高裁判決を真摯に受けとめようとする姿勢を欠き、免罪符を得たとばかりに国歌の起立斉唱命令に従えない教職員に対する圧力を一層強めています。従前よりも処分内容が加重された懲戒処分を科すことにより教職員に対する強制を押し進めています。
  本件の原告の中にも,複数回の不起立というだけで減給処分が科せられた者がいます。そこには,ただただ国歌の起立斉唱の義務付けを貫徹しようとする思惑だけが見て取れ、最高裁判決の各補足意見が,教育環境の改善を図るために寛容の精神及び相互の理解を求めたことについての配慮はみじんもみられません。不起立とそれに対する懲戒処分が繰り返される結果,教育現場の環境が悪化しようが,永続的に紛争が続くことになろうが,起立できない教職員に対して徹底的に不利益処分を科し,根絶やしにすることに固執する姿しか見られません。
  このような姿は,最高裁裁判官の各補足意見の真意に沿うものではないことが明らかです。

6 それを措いても,本件訴訟においては,これまでの最高裁判決の多数意見の判断,結論に漫然と従って判断されてはなりません。
  2011年の一連の最高裁判決以降,都教委の再発防止研修の強化など,より精神的自由に対する制約が強められていること,原告らに科された各懲戒処分の実質的内容が加重されていることなど事実経過を正確に認識したうえで,憲法19条が保障する思想良心の自由が侵害されているか否かが判断されなければなりません。また,都教委による教育内容介入が,教基法16条が禁ずる「不当な支配」に該当するか否かが判断されなければなりません。そして,懲戒処分を繰り返している被告の真の意図を直視した判断がなされなければなりません。
  最高裁判決の多数意見の結論のみに漫然と従い,硬直した判断を行うことは,「いたずらに不起立と懲戒処分の繰り返しが行われていく事態」を黙過し,各最高裁裁判官が危惧した国歌の起立斉唱の義務付けに端を発する教育現場の荒廃をも容認するものにほかならず,はからずも貴裁判所の判断が,教育環境を悪化させる一端を担う結果となるのです。
  訴訟の冒頭に当たって,このことをくれぐれも強調し,教育の本質についての深い洞察に基づいた的確な訴訟指揮を求めるものであります。

この陳述が実る日の来たらんことを。
(2014年6月11日)

集団的自衛権「限定容認」閣議決定の無理無体

本日(6月10日)の各紙朝刊が、「集団的自衛権:『限定容認』で20日にも閣議決定へ」「閣議決定骨子判明」と報じている。これまでの「与党で一致することが極めて重要。時間を要することもあるだろう」という首相の構えからは、急旋回の方針転向。安倍政権は、どうしてこんなにも焦っているのだろうか。集団的自衛権行使容認問題では、無理に無理を重ねて、国民の不信と保守陣営の軋みや亀裂を招いている。まったく余裕が感じられない。

それでも、強行しなければならないとする判断は、「やれるとしたら今しかない」「議席数も支持率も、今が最大瞬間風速の時」「この機を逃せば、永遠に憲法解釈変更は不可能」との認識に基づくものであろう。

おそらくは、政権中枢には、「現在の政権与党の議席占有率は小選挙区のマジックで掠めとったもの」「国民の支持の実態は、議席数の見かけとは大きく離れている」「第1次安倍政権も、政治問題を前面に出して支持を失いみっともなく崩壊した」「現政権が順調なのは経済が好調なうち」という意識が強いものと思われる。

この点を、本日の朝日は、「首相が閣議決定を急ぐのは、今年後半にかけて景気回復が鈍化し、高い内閣支持率を維持してきた政権の勢いがそがれる事態を懸念しているためだ。安倍政権の命運がかかる経済政策では、政府が今月まとめる新たな成長戦略と『骨太の方針』に対する市場の反応が見極めにくい。首相は今年末に消費税率10%への引き上げの判断も迫られる。」と解説している。

毎日の報道では、「集団的自衛権の行使容認など安全保障法制整備のため、政府が今国会中を目指す閣議決定の原案が9日、判明した」とし、その内容を「集団的自衛権は『自国の存立を全うするために認められる必要最小限度の武力行使』に含まれるとの考え方を表明。その上で『集団的自衛権を行使するための法整備について今後検討する』と明記する。行使は認められないとしてきた現行憲法解釈を事実上変更し、日本の武力行使を個別的自衛権に限ってきた長年の憲法9条解釈を根本から転換する内容だ」と報じている。

また、その時期については、「閣議決定は20日にも行う案が政府内で浮上しており、政府高官は『調整局面に入ってきた』と述べ、公明党の理解は得られるとの期待を示した」「安倍晋三首相は今国会中の20日にも閣議決定する構え」としている。明らかに、与党協議が進展しないことに業を煮やした政権が、公明党に期限を切って最後通牒を突きつけたのだ。このまま20日閣議決定するとなったら、公明党から閣議に参加している太田昭宏国土交通大臣は窮地に陥ることになる。

公明党が、「平和の党」としての立党の精神を守り抜けるか、それとも政権の「下駄の雪」でしかなかったことになるのか。公明党の正念場でもある。

一方、読売は相変わらずの安倍政権提灯持ち役。従来型保守のイメージではとらえられない極端な論調で、「集団的自衛権『容認』閣議決定へ調整を急げ」という社説を掲げている。

さすがに、冒頭の一文は、「日本の安全保障を左右する問題だけに、徹底した議論は必要だ」となっている。そのとおり、徹底した議論を尽くすべきで、押し付けや恫喝をすべきではない。また、「徹底した議論」の透明性確保が重要で、密室での取引で収めてはならない。これまで公表されている議論の経過を追えば、「必要な徹底した議論」がなされていないことは明瞭ではないか。

にもかかわらず、これに続く文章が「一方で政府・与党は、時期が来れば、きちんと結論を出す責任がある」という。今、問題は、今会期内の閣議決定が必要かという文脈。到底、議論を尽くしての「きちんとした結論を出す』時期が到来しているとは考えがたい。それこそ、「無責任」と言わざるを得ない。

読売社説の意味のある見解は次の部分だけ。
「必要最小限の集団的自衛権に限って行使を認める『限定容認論』は、過度に抑制的だった従来の見解とも一定の整合性が取れる、現実的な解釈変更と言える」

微妙な表現である。限定容認論は、集団的自衛権の行使を違憲としてきた従来の政府解釈との「一定の整合性が取れる」というのだ。「一定の」という言葉の選択を微妙と言わざるを得ない。もちろん、「従前の解釈と整合」しているとは言えない。「従前の解釈と違う」とはなおさら言えない。そこで「かろうじて」「ギリギリ」「何とか」「曲がりなりにも」「どうにかこうにか」などとは言わず、「一定の」整合で収めたのだ。

あらためて、5月15日の、集団的自衛権に関する安倍記者会見の一節を記しておきたい。
「我が国の安全に重大な影響を及ぼす可能性があるとき、限定的に集団的自衛権を行使することは許されるとの考え方です。憲法前文、そして、憲法13条の趣旨を踏まえれば、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために、必要な自衛の措置を取ることは禁じられていない。そのための、必要最小限度の武力の行使は許容される。こうした従来の政府の基本的な立場を踏まえた考え方です」

さすがに、読売もこの安倍の牽強付会には付いてはいけなかったということだ。
(2014年6月10日)

沖縄と福島、そして全国の「意識のギャップ」

本日(6月9日)沖縄タイムス(デジタル版)が、興味深いアンケート結果を発表している。同社と福島民報社の「両県首長アンケート」という共同企画。「調査は、沖縄県内の全41市町村、福島県内の全59市町村の計100人の首長が対象。沖縄県の宮古島市長、福島県の相馬市長を除く、98人から6月初めまでに回答を得た」とのこと。

米軍基地を押し付けられている沖縄と、原発災害に喘いでいる福島、それぞれがお互いの問題をどう見ているか。福島が沖縄を見る目と沖縄が福島を見る目、そして両者が自分の問題を見つめる視点との大きな落差。全国民が、わがこととしてこの結果を考えなければならない。このアンケートを企画した両紙に敬意を表したい。

沖縄タイムスの見出しはこうだ。『「辺野古反対」沖縄53%、福島9% 両県首長アンケート』。沖縄にとって愕然たるこの落差。沖縄のもどかしさが伝わってくる。

記事を抜粋して紹介する。
「沖縄タイムス社と福島民報社は合同で、沖縄・福島両県の全市町村長を対象に、国の安全保障政策やエネルギー政策などに関するアンケートを実施した。米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設について、沖縄県内で過半数の21人(53%)が「進めるべきではない」と回答したのに対し、福島県内では5人(9%)にとどまった。一方、原発を「重要なベースロード電源」と位置付けた国のエネルギー基本計画については、両県ともに「評価しない」が最も多く、沖縄で19人(48%)、福島で38人(66%)に上った。
 東京電力福島第1原発事故を受け、脱原発を求める傾向が沖縄、福島両県で広がる一方、普天間問題については両県で意識のギャップが浮き彫りになった。」

対比が明瞭になるよう、整理してみよう。
(1) 普天間飛行場の辺野古移設について、
   「進めるべきではない」   沖縄 53%  福島  9%
   「どちらとも言えない」    沖縄 30%  福島 72%
   「無回答」           沖縄 13%  福島  5%
   「進めるべき」        沖縄  5%  福島 14%
(2) エネルギー基本計画について
   「評価しない」         沖縄 48%  福島 66%
   「どちらとも言えない」     沖縄 38%  福島 31%
   「評価する」          沖縄  0%  福島  3%
   「無回答」           沖縄 15%  福島   

このブログを書いている時点では、福島民報側の記事は出ていない。おそらくは、沖縄タイムスとは違った見出しになり、原発・エネルギー問題についての「意識のギャップ」が語られることになるだろう。

キーワードは「意識のギャップ」。同じアンケートを、東京や大阪でやったらどのような結果になるだろうか。おそらくは、「自分の地域の問題ではない」という、当事者地域との「意識のギャップ」があからさまに出ることになるのではないか。

基地も原発も日本全体の問題である。しかし、当事者地域とその他の地域。問題を押し付けられた「地方」と、その犠牲の上に繁栄している「中央」。その落差を埋めなければならない。その作業は、まずは「意識のギャップ」存在の確認が第一歩となる。
(2014年6月9日)

経団連の政治献金あっせん再開は国民本位の政策決定をゆがめる

数ある古川柳の中で、誰もが知る句の筆頭として挙げるべきは、
  役人の子はにぎにぎをよく覚え
ではないだろうか。

明和2年(1765)年発行の「誹風柳多留(初編)」所載第78句。原典は宝暦9(1759)年の句会の作として刷られたもの。賄賂請託政治として語られる田沼意次の時代は、宝暦から明和・安永を経て天明期(1760年代?80年代)とされる。

世相を映した句であったが、古典となるべき普遍性をもっていた。「柳多留」の第2編には、
  役人の骨っぽいのは猪牙にのせ
というのもある。猪牙(ちょき)とは、吉原通いの川舟のこと。金と接待、これが、富者の官僚・政治家懐柔の常套手段であった。

今も、政治がカネで動かされていることは、庶民感覚の常識。5月30日の仲畑川柳欄に次の一句がある。
  「言う事が変わった カネが動いたな」
秀逸句として採用されていないのが残念だが、これは新しい古典となりうる。

ところで、田沼の時代ではなく今の世。政治を金で買おうというのは大企業の本能である。その本能を隠すか顕すか。経団連会長の交代とともに、この本能が露わになろうとしている。
6月3日に就任した榊原定征新会長(東レ)は、「政治と経済は車の両輪だ。政治との連携を強め、『強い日本』の実現に向けて協力していく」と述べた。本音を翻訳すれば、「政治の力で商売の基盤を整備してもらわねばならない。そのために政権には相応の協力を惜しまない」ということだ。具体的には、経団連を窓口にする企業献金あっせんを再開しようと言うのだ。政治とカネにまつわる大問題。この点についての中央各紙の社説が出揃った。

まずは、「重厚長大に偏らぬ経団連に」という、6月4日の日経社説。
「榊原会長は政治献金への関与を再開するかどうかを検討するとしている。関与するなら政策の評価基準や献金額への反映の仕方の透明化が欠かせない。昨年、4年ぶりに復活させた政策評価では自公政権の経済政策を高く評価した理由が曖昧だった。説明責任を果たさなければ企業不信を買う。」

世論の反感が企業不信に発展することを憂慮して、「政治献金は上手にやるように」というアドバイスである。財界紙としては、当然の姿勢。

これと対照的なのが、「経団連新体制 問われている存在意義」という、同日の東京新聞社説が歯切れ良い。
「かつての財界の力の源泉は資金支援、スポンサー役だった。(経団連は)ゼネコン汚職や政権交代などを機に政治献金のあっせんをやめ、それに伴って発言力が低下したのである。しかし、だからといって政治献金のあっせん復活を検討するというのは安易に過ぎる。
 すでに政党助成金があり、国民の負担で政治活動を支えているのである。安倍晋三首相は、大胆な金融緩和などを批判した米倉弘昌前経団連会長と距離を置き、経団連は一層影響力が低下したが、そんな仕打ちができたのも政党助成金があるからである。
 安倍首相は産業競争力会議で、楽天の三木谷浩史会長兼社長や経済同友会の長谷川閑史代表幹事らを重用している。今さら政治献金ですり寄ったところで『カネで政策を買うのか』といった批判を招くだけである。」

産経は、6月5日に「榊原経団連 官民一体で改革の推進を」という「主張」を掲載した。
「政治との関係では、企業に政治献金を促す組織的関与の再開を検討している点に注目したい。
 企業も社会的存在として一定の献金が認められるのは当然だが、政界で政治資金の透明化への新たな取り組みがない中、単に政党の資金繰りを助けるのでは無責任だろう。受け取る側に厳しく注文もつける総合的判断を求めたい。」
同紙は、政治的には右派のスタンスを固めているが、企業の政治への介入の問題については、この程度のことしか言えないのだ。

読売は、同日「榊原経団連発足 政権との関係改善進めたい」とする社説を出した。
「政治献金への関与から手を引いた経団連は、以前より政界に対する発言力が弱まっている。昨年には、傘下企業が政治献金先を決める目安となる『政策評価』を4年ぶりに再開したが、与党だけを評価し、政策分野ごとに評点をつけるランク付けも見送った。企業が献金先を判断する指標としては不十分だろう。
企業がルールを守ったクリーンな献金を通じて、政治に参加する意義は依然として大きい。
企業献金のよき判断材料となるよう、経団連は政策評価の充実を図るべきだ。」

完全に企業寄り。どうして、これで部数を維持することができるのだろうか。不思議でならない。ジャイアンツファンは、社説などどうでもよいのだろうか。

本日(6月8日)朝日が書いた。「経団連と献金―「やめる」決意はどこへ」というタイトル。政治献金問題に特化したもので、実に歯切れがよい。
「経団連の会長に就いた榊原定征氏(東レ会長)は、企業が出す政治献金に経団連が再び関与するか、検討中だという。
 やめた方がいい。『政策をカネで買うのか』という批判を招くだけだ。
 『政治献金では物事は動かない。国民に訴えかけないと、政策を実現できない』『丁寧に国民に説明しなければ、経団連への支持は得られない』
 これは一昨年末、経団連の事務総長(当時)が、朝日新聞に語った『決意表明』だ。安倍政権の発足が確実視されていたころのことである。
 安倍政権は成長戦略として企業を支援する改革案を次々に打ち出している。それを後押ししつつ、ぎくしゃくした政権との関係も改善したい。そんな思いからの『変心』だろう。
 ただ、政権が掲げ、経団連も求める改革案には強い反対がある。なぜか。国民の声に耳をすませ、自らを省みてほしい。」
「経団連は非自民連立政権が誕生した93年、会員企業に献金額を割り振る『あっせん方式』の廃止を決めた。04年に『口も出すがカネも出す』として、自民・民主両党への政策評価とともに会員企業に再び献金を促し始めたが、民主党政権が誕生した翌年の10年、中止した。
 政権交代のたびに右往左往してきた過去を見ても、政党にすり寄る発想は捨てた方がよい。」

そして、本日の毎日社説「経団連の献金 再開は時代に逆行する」。これが真打ち。東京・朝日と並んで論旨明快と言うだけでなく、説得力がある。
「経団連は政治改革を逆行させるつもりなのか。新会長に就任した榊原定征東レ会長が「政治との連携強化」を打ち出し、政治献金のあっせん再開を検討すると明言した。
 経団連の地盤沈下が言われて久しい。新体制は存在感を高めるために国政への影響力を強めたいのだろう。しかし、巨額の企業献金を束ねて影響力を強めれば民主的な政策決定をゆがめ、『政治とカネ』にまつわる国民の不信を増幅しかねない。献金あっせんは再開すべきでない。
 経団連は1950年代から、主に自民党への献金総額を決め、会員の企業や業界団体に割り振るあっせんを行ってきた。多いときには総額100億円規模に達した。しかし93年に自民党が下野し、ゼネコン汚職などで政財界の癒着批判も高まったことからあっせん廃止を決めた。
 2004年には各党に対する政策評価を始め、会員企業に献金の目安として示すことで献金への関与を再開したものの、民主党に政権が移った後の10年にはこれも中止した。
 ところが自民党が参院選で圧勝した後の昨秋に政府・与党の政策評価を再開した。そして今度は、あっせんそのものの再開を視野に入れる。
 安倍晋三首相はアベノミクスの一環として、労働規制の緩和や法人税の減税など大企業の利益につながる政策を検討している。あっせん再開を検討するのは、資金面から政権を支援し、そうした政策を充実させる狙いがあるからだろう。
 経済成長に役立つ政策を提言することは経団連の大切な役割だ。しかし、巨額の献金で利益誘導を図るようでは国民本位であるべき政策決定をゆがめる。
 企業献金はそうした危険性をはらむために廃止すべきものである。政治改革の一環として95年に導入された政党交付金は企業献金全廃を前提にした代償措置だったはずだ。そして毎年、交付金として300億円以上の税金がつぎ込まれている。あっせん再開は企業献金が大手を振ってまかり通ることにつながり、時代に逆行すると言わざるを得ない。」
「榊原会長が政治との連携強化を打ち出すこと自体は理解できる。しかし、献金のあっせん再開は短絡的であり、副作用が大きすぎる。」

上記東京・朝日の「『政策をカネで買うのか』という批判を招くだけ」。毎日の「巨額の献金で利益誘導を図るようでは国民本位であるべき政策決定をゆがめる」が本質を衝いている。

政治献金と「にぎにぎ」、本質において変わるところはない。今も昔も、「にぎにぎ」した政治家・官僚は、「にこにこ」し「ぺこぺこ」する。しばらくして、庶民は「言う事が変わった カネが動いたな」と嘆ずることになる。

川柳は庶民のつぶやき。名作川柳は庶民の不満である。川柳子に名作のネタが豊富というのは、庶民が不幸な時代なのだ。経団連の政治献金あっせん再開は辞めていただきたい。
(2014年06月08日)

安倍政権の悪徳商法手口にご用心

本日の毎日川柳欄に「倍にして半額にするいい加減」(田介)という句。
高い値札を付けておいて「半額セール」とする悪徳商法の典型手口。実は、政権与党の常套手段でもある。

5月15日、鳴り物入りで安保法制懇の報告書が公表された。首相の私的諮問機関の報告とは、自作自演と言うことだ。その自作報告書が、「憲法9条の解釈において、集団的自衛権行使を容認することに不都合はない」と報告した。その部分を抜粋すれば、以下のとおり。

『政府のこれまでの見解である、「(自衛のための)措置は、必要最小限度の範囲にとどまるべき」という解釈に立ったとしても、その「必要最小限度」の中に個別的自衛権は含まれるが集団的自衛権は含まれないとしてきた政府の憲法解釈は、「必要最小限度」について抽象的な法理だけで形式的に線を引こうとした点で適当ではない。事実として、今日の日本の安全が個別的自衛権の行使だけで確保されるとは考え難い。したがって、「必要最小限度」の中に集団的自衛権の行使も含まれると解釈して、集団的自衛権の行使を認めるべきである。』

これが「高い値札」。国民にこの値札を見せておいて、安倍首相はこれを値切ってみせる。「半額商法」の手口。その口上は、以下のとおり。

「今回の報告書では、2つの、異なる考え方を示していただきました。
ひとつは、個別的か、集団的かを問わず、自衛のための武力の行使は、禁じられていない。また、国連の集団安全保障措置への参加といった、国際法上合法な活動には、憲法上の制約はないとするものです。
 しかしこれは、これまでの政府の憲法解釈とは、論理的に整合しない。私は、憲法がこうした活動のすべてを許しているとは考えません。
 したがって、この考え方―いわゆる、芦田修正論は、政府として採用できません。自衛隊が武力行使を目的として湾岸戦争やイラク戦争での戦闘に参加するようなことは、これからも決してありません。」

以上が値切って見せた部分。そして、半値で売りつけようというのが、以下の商品。

「もう一つの考え方は、我が国の安全に重大な影響を及ぼす可能性があるとき、限定的に集団的自衛権を行使することは許されるとの考え方です。
 憲法前文、そして、憲法13条の趣旨を踏まえれば、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために、必要な自衛の措置を取ることは禁じられていない。そのための、必要最小限度の武力の行使は許容される。こうした従来の政府の基本的な立場を踏まえた考え方です。政府としては、この考え方について、今後さらに研究を進めていきたいと思います。…政府としての検討を進めるとともに、与党協議に入りたいと思います」

こうして、「安全保障法制整備に関する与党協議」が進行している。その第2回会合(5月27日)で、政府が対応の必要があると考える「3分野・15事例」が示された。その内容は以下のとおり。(朝日などから)
《グレーゾーン事態》【武力攻撃に至らない侵害への対処(3事例)】
事例1:離島等における不法行為への対処
事例2:公海上での民間船舶への不法行為への対応
事例3:弾道ミサイル発射警戒時の米艦防護

《集団安全保障》【国連PKOを含む国際協力等(4事例)】
事例4:侵略行為に対抗するための国際協力としての支援
事例5:駆けつけ警護
事例6:任務遂行のための武器使用
事例7:領域国の同意に基づく邦人救出

《集団的自衛権》【「武力の行使」に当たり得る活動(8事例)】
事例8:邦人輸送中の米輸送艦の防護
事例9:武力攻撃を受けている米艦の防護
事例10:強制的な停船検査
事例11:米国に向け我が国上空を横切る弾道ミサイル迎撃
事例12:弾道ミサイル発射警戒時の米艦防護
事例13:米本土が武力攻撃を受け、我が国近隣で作戦を行う時の米艦防護
事例14:国際的な機雷掃海活動への参加  
事例15:民間船舶の国際共同護衛

「倍にして半額にするいい加減」は、与党協議でも繰り返されている。
第3回協議(6月3日)に、「事例4:侵略行為に対抗するための国際協力としての支援」の具体的解釈内容を政府が提示した。

これまで他国の戦闘と一体化となる支援活動はできないとする解釈が確立しており、その歯止めとして、自衛隊は「戦闘地域」には行かないという原則があった。テロ特措法でも、イラク特措法でも、この原則あればこそかろうじて違憲ではないと解釈されてきたのだ。

ところが、政府提案は「戦闘地域」には行かないという歯止めをなくそうとした。持ち出されたのは以下の「4条件」。なんと、この4条件の全部がそろっている場合にだけ、自衛隊派兵は違憲となる。そのうちの一つでも欠けていれば、自衛隊を戦地に派兵して他国部隊の支援を認める、というもの。

(1)支援部隊が戦闘中
(2)提供物品を直接戦闘に使用
(3)支援場所が「戦闘現場」
(4)支援が戦闘と密接に関係

つまり、戦闘中のA国の部隊に対して、その戦闘現場に、戦闘と密接に関係する仕方で、A国が直接戦闘に使用する物品を提供するような支援は、さすがにいけない。しかし、このうち一つでも欠けていれば、ゴーサインというわけだ。支援先部隊が現に戦闘中でさえなければよし。支援物資が、直接戦闘に使用されるものでなければ結構。支援場所が「戦闘現場」でさえなければ何でもあり、というわけだ。

かりに、戦闘中のA国部隊の戦闘現場に、直接戦闘に使用する武器・弾薬を補給することも、「この支援は戦闘と密接に関係していない」と強弁すれば「支援OK」ということにもなる。

これは評判が悪かった。マスコミにも野党にも、一斉に叩かれた。さすがに公明党も拒絶せざるを得ないという姿勢を見せた。そしたらどうだ。たった3日で撤回されたのだ。6月6日の第4回協議での席のこと。「4条件」は撤回され、新たな「三つの基準」が提示された。
(1)戦闘が行われている現場では支援しない
(2)後に戦闘が行われている現場になったときは撤退する
(3)ただし、人道的な捜索救助活動は例外とする

これだけでは分かりにくいが、「戦闘現場」とは「現に戦闘が行われている場所」を指し、「戦闘地域」は「現に戦闘が行われてはいないが、将来行われるおそれがある場所」を広く指す。「非戦闘地域」と区別されてこれまでは支援活動が禁じられてきた。「非戦闘地域」とは「現に戦闘が行われていない」ことに加え、「将来にわたって戦闘が行われない」場所であるとされてきたから、現に戦闘が行われていなくても、将来にわたって戦闘がおこなれないとは言えない場所は「戦闘地域」として自衛隊を派遣しての支援活動は禁じられている。

だから、「戦闘現場」での支援行為はしないという意味は、従来禁じられてきた「戦闘地域」への自衛隊派遣は認めるということ。そして、人道的活動なら戦闘中の現場でも可能にするということも、これまでは禁じられてきた内容。

つまり、6月3日の「4条件」が「倍にした値札」。6日の「三つの基準」の再提示が「半額セール」。悪徳商法を駆使しているのが安倍政権で、面食らっている消費者が公明党。

新基準も、政権から見れば、従来解釈よりも数歩の前進となっている。ということは、支援活動中の自衛隊が戦闘に巻き込まれる危険が、従来よりも格段に大きくなるということ。
自衛隊の物資輸送や医療支援は、銃弾が飛び交う戦闘の現場でさえなければ、戦闘地域内でもOKとなる。政府側からの説明で、「基準に反しなければ、武器・弾薬の提供も可能」との見解が示されたという。戦闘中の現場での民間人や負傷兵の救出を想定した「人道的な捜索救助活動」は、自衛隊員が犠牲となる危険性が大きい。

「公明党がんばれ」と言いたくなる場面だが、すでにグレーゾーン分野の2事例((1)武装集団による離島占拠、(2)公海上での民間船舶への不法行為)において、与党合意が成立し、法改正をせず「事前の閣議決定で自衛隊出動の可否を首相に一任する運用見直し」で対処する方針が了承されたと報じられている。

公明党は、今は政権から強引に商品を売り付けられている消費者の立ち場だが、与党合意が成立すれば、今度は野党にこれを押し売りする立場に回ることになる。

当然のことながら、公明党も必死になって世論を見ている。自民に恩を売って政権与党の中に居続けることのメリットと世論批判に晒されるデメリット、その両者を比較している。公明党の態度を決めるのも、安倍政権のゴリ押しの成否を決めるのも、実は国民の声の内容次第、大きさ次第。この間の目まぐるしい動きに、よく目を凝らそう。安倍政権の悪徳商法的手口に欺されてはならない。何が危険なのかをよく見極め、臆せず意見を発信しよう。手遅れにならぬ内に。
(2014年6月7日)

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