澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

国民感情に配慮する海自トップと、国民感情を逆撫でする元海自トップ

「たちかぜ」裁判の劇的な高裁逆転認容判決が4月23日。上告期限が徒過して判決が確定したのが5月8日。判決確定を受けた13日の河野克俊海上幕僚長記者会見が、なかなかのものだった。「判決を正面から重く受け止め、再発防止に万全を期す」とした上で「個人的な気持ちとしては直接、出向いて遺族におわびしたい」とまで述べた。また、内部告発した3等海佐については「処分する考えがない」と明言もしている。

そして、25日には、先の自らの言葉のとおり、自身が宇都宮市のいじめ被害者遺族宅を訪れて謝罪した。遺族が弁護士を通じて「真摯に謝罪していただいた」とコメントしているところからみて、おざなりのものではなかったことが窺える。

しかも、同幕僚長は遺族への謝罪を終えたあと、報道陣の取材に応じ、「長年おかけしたご苦労とご心痛におわびしたいという気持ちでやってきた。いじめをなくすことが大前提だが、周囲もいじめを見過ごさないような組織にしていきたい」と再発防止に取り組む考えを示したと報道されている。「周囲もいじめを見過ごさないような組織にしていきたい」と海自の体質改善に言及したのは、内部告発をした3等海佐について単に「処分する考えがない」という以上に一切の差別をしないという強いメッセージと解すべきだろう。事件を起こした海自の体質は責められるべきだが、判決確定後に海自の最高幹部がここまでの謝罪のコメントをしていることは評価に値するというべきではないか。

私は、自衛隊の存在が違憲との立ち場である。しかし、現実にある武力組織が、法とシビリアンコントロールに服し、理性的な集団でなければならないことは当然である。その側面からの自衛隊の在り方に大きな関心を寄せている。

旧軍の新兵いじめは半端なものではなかった。私の年代の誰もが、子どもの頃に多くの大人たちから聞かされたことだ。人間性を抹殺しなければ使い物になる兵隊は育たず、精強な軍隊は作れない。そのような考え方が浸透していたのであろう。軍事組織である以上、所詮は自衛隊も同じようなものに違いない。そう思っていた。

だから、最初に「たちかぜ・いじめ自殺」事件を知ったときには、「やはり、自衛隊よおまえもか」という受けとめ方だった。ところが、訴訟の進展の中で、堂々と真実を内部告発する現役自衛官がいることを知って仰天した。「たちかぜ・内部告発」事件は、旧軍とは異質のものを自衛隊に見ざるを得ない。

内部告発者は組織から疎まれることが通り相場である。村八分にさえなる。奮闘の末に結局は組織から追い出されるのがありがちな結末。ところが、本件では3等海佐が針のむしろにいる様子は伝わってこない。実は、海上自衛隊なかなかの開明的組織のごとくである。

旧軍ではこうはいくまい。旧軍で横行していたいじめが表沙汰になり問題視されることはなかった。いじめによる自殺があっても、闇に葬られた。天皇の軍隊にあるまじきものは、ないことにされたのだ。いじめ自殺についての遺族の責任追及提訴などは考えられるところではなく、現役軍人の内部告発も、軍のトップが遺族に謝罪するなどもあり得ないこと。旧軍と比較して自衛隊は確実に変わっているというべきなのだろう。

以上のとおり、海自トップの遺族への謝罪の真摯さと再発防止の努力を評価して、海自について好印象を受けた。昨日までは。しかし、今朝の紙面で、また評価は逆戻りとなった。「元海自トップ」の言動によってである。

毎日新聞東京朝刊5面に、「元海自トップ 国民の了解取らなくても」という記事が掲載されている。集団的自衛権問題についての連載調査記事。

「『どこかの党が民意、民意と言っているが、外交・防衛は皆さんに任せたんです』
 集団的自衛権の行使容認をめぐり、自民党が26日開いた安全保障法制整備推進本部の会合。古庄幸一・元海上幕僚長は、国民は外交・防衛政策を政権党に全権委任したといわんばかりの理屈を語り、こう踏み込んだ。『国民にいちいち了解を取ると言わなくても問題ない。世論調査にうんぬんされる必要はない』」

これはひどい。こんな幹部が統率している自衛隊では危険極まる。自衛隊に甘い言葉をかけるわけには行くまい。この人、「小泉政権当時の2003〜05年、海上自衛隊トップを務め」、その当時には「政府・自民党が目指す自衛隊の活動範囲の拡大を後押しする発言を続けた」と紹介されている。

旧軍は、「天皇の軍隊」という建前を最大限に利用して軍への批判を封じた。「玉座を以て胸壁となし、詔勅を以て弾丸に代へ」た姿勢は、全軍のものだった。自衛隊には、それがない。だから、海自トップの遺族への真摯な謝罪ができることになる。ところが、天皇に代わる「政権」に盲従するとなると、旧軍と同様の批判拒否の体質になりかねない。

すべての行政機関は、その権能を主権者国民から信託を受けたものとして、その権限行使に慎重でなくてはならない。政権与党の会合において、「国民にいちいち了解を取ると言わなくても問題ない」という、国民軽視の傲慢な姿勢は到底容認できない。遺族の感情をおもんばかり誠実に謝罪の意を表明する現役の海自トップと、「世論調査にうんぬんされる必要はない」と与党を焚きつける元海自トップ。やはり、軽々に海自を評価すべしなどと言ってはならないようである。
(2014年5月27日)

「自主憲法制定」とは無法者のスローガンである。

わが国では、「護憲派」と「改憲派」が熾烈に争っている。この二つの勢力とはべつに、改憲派から距離を置いた「自主憲法制定派」なるグループがある。ここに、ごく小数の穏やかならざる人々がいる。

「改憲」とは、現行憲法の根幹は認めたうえで、枝葉の刈り込み方を変えること。これに飽きたらぬとするのが「自主憲法制定」。現行憲法を根こそぎ変えてしまおうということなのだ。穏やかならざる所以である。

憲法改正には、「手続きにおける制約」と「内容における限界」とがある。現行憲法が定めた手続にしたがってでなくては改正はできないし、現行憲法が想定している限界を超えない範囲での改正しかできない。根幹を変えてしまうことを「改正」とは言わない。根幹を根こそぎ変えてしまおうとの魂胆あればこその「自主憲法制定」なのだ。現行憲法の普遍性に挑戦して根幹を変えてしまうことは、極端に危険なことと指摘せざるを得ない。日本国憲法が根幹としている人権尊重・国民主権・平和主義を変更しようなどとは、まことに穏やかではない。

「押し付けられた憲法に無効を宣言して、われら日本民族が自主的に新しい憲法を作るのだ」「改憲手続にこだわる必要はない。憲法改正の限界など無視せよ」という勇ましい主張が、自主憲法制定派の本音である。憲法改正の限界を突破しようという意図がなければ「憲法改正」のスローガンで十分。わざわざ、「自主憲法制定」というのは、人権よりも秩序が大好き、国民主権は嫌いで天皇主権にノスタルジーをもち、隣国に舐められる平和よりは勇ましく戦争ができる国にしたい、と考えているからなのだ。

「自主憲法制定」は、長く自民党の「立党の精神」、ないしは「党是」とされてきた。現在なお、自民党のホームページには、保利耕輔・憲法改正推進本部長の「今こそ自主憲法の制定を」というコラムが掲載されている。その冒頭の一句が「自主憲法制定は立党以来のわが党の党是だ」というもの。

しかし、厳密にみると立党宣言にも綱領にも「自主憲法制定」の用語はない。1955年11月15日付の「党の政綱」に「平和主義、民主主義及び基本的人権尊重の原則を堅持しつつ、現行憲法の自主的改正をはかり、また占領諸法制を再検討し、国情に即してこれが改廃を行う」との文言をみるだけである。これが、立党当時の自民党の姿勢。安倍政権の現状に比較して、なんと温和しいものであったか。

以上のとおり、「自主憲法制定」は自民党全体の党是というよりは、自民党極右派のスローガンに過ぎなかった。自民党主流は、国民世論の動向を慮って、長く憲法改正には手を付けないという現実的対応をしてきた。これを不満とする右派も、改憲を叫んでも自主憲法制定にこだわりを見せてはいない。自主憲法制定は、一握りの極右のスローガンとみるべきだろう。

その「自主憲法制定」という古色蒼然たるスローガンが、自民党ではなく日本維新の会から持ち出され、友党と位置づけられている結の党にこれを呑むよう突きつけられている。いま、これが両党合併のネックになっているとして、にわかのクローズアップである。

報道されているところでは、日本維新の会が、結いの党との合流後の共通政策に「自主憲法の制定」を盛り込む方針を決めた。石原慎太郎、橋下徹両共同代表が21日に名古屋市内で会談して一致したという。結い側は、今のところこれを拒否して合併協議は難航している。維新の会側の現時点における提案内容は、政策合意案に「憲法改正手続きを踏まえた自主憲法制定による統治機構改革」と明記することだという。結いの江田憲司代表は、「野党再編の芽を摘む『自主憲法制定』の言葉はのめない」と述べ、削除を求めている。

「維新の執行役員会で石原慎太郎共同代表は『(自主憲法制定は)政治をやってきた中でものすごく大事な言葉だ』と主張した。これに対し、松野頼久国会議員団幹事長らが『自主憲法制定は党是ではない。他党議員も受け入れられないと言っており、野党再編にプラスにならない』と再考を迫った」(朝日)。また、「石原共同代表が『私が国会に戻ってきたのは、自主憲法制定を実現するためだ』と持論を繰り返し、橋下共同代表も同調」という空気で、これに対し、「結いの江田代表は『(自主憲法制定は)現行憲法の破棄という意味があり、絶対に受け入れられない』と強調した」(産経)などとも報道されている。

このような、憲法問題の根幹をめぐる認識の齟齬は、「言葉の表現だけの問題」ではない。「大した問題ではない」「大人げない」で済ませてはならない。維新と結い、いざ合併の協議において、これだけの基本見解の隔たりを明確にした。今回の協議を玉虫色に乗りきったとしても、合併後の党運営で水と油のグループ間対立を招くことが必定というべきだろう。

今ですら、維新の会が「両頭の鷲」状態で、統一した政党の体をなしていないのは周知の事実。憲法問題不一致のままの合併では、「三頭のカラス」になってしまうだろう。

維新の会は、明言すべきである。「わが党は、自主憲法制定のスローガンを立て、基本的人権・国民主権・平和主義には手を付けてはならないとする憲法改正の限界に果敢に挑戦する」と。
有権者は、明瞭に認識すべきである。「維新の党とは、基本的人権・国民主権・平和主義という憲法原則を廃棄する魂胆をもつ危険な政党であること」を。

「自主憲法制定」のスローガンは、それだけの重みをもっている。これを奉じる論者は現行憲法秩序を根底から否定するアウトロー、つまりは無法者の立ち場なのだから。
(2014年5月26日)

「竹富町教科書採択問題」から見えてきたもの

「竹富町教科書採択問題」が、一応の決着をみた。
小さな竹富町が、文科省・自民党文教族と対等以上に渡り合って一歩も引かず、結局は育鵬社教科書の押しつけ拒否を貫徹した。沖縄県も竹富町も、下村博文文科相の嫌がらせと恫喝に屈することなく毅然たる姿勢を堅持し、文科相は振り上げた拳の下ろし場所を失ったまま終局を宣告せざるをえない事態となった。公権力による子どもたちへの、国家主義教科書押しつけ策動の失敗。痛快の極みである。

5月21日、沖縄県教委は教科書無償化法改正に伴う採択地区の再編手続において、八重山採択地区(石垣市・与那国町・竹富町)から竹富町を分離独立させ、「竹富採択地区」を新設することを決めた。竹富町の要望を容れた「満額回答」である。これで、竹富町教委は、後顧の憂いなく単独で教科書を採択できるようになった。正確に言えば、これまでも採択の権利はあったのだが、無償配布は拒否という文科省の嫌がらせを甘受せざるをえなかった。来年度からは、竹富町立中学校生徒に東京書籍版公民教科書の無償配布が実現する。

この県教委の決定に対して、文科相は「無償措置法の趣旨を十分踏まえたものとは言い難く、遺憾だ」と不満を述べていた。その不満を形に表す最後に残された恫喝手段が竹富町に対する違法確認訴訟の提起であったが、5月23日文科相は記者会見でその断念を公表した。文科省は、これまで育鵬社教科書の採択を拒否した竹富町には教科書無償配布を行わず、さらには育鵬社版の教科書を使えと異例の「是正要求」までして圧力をかけて、精いっぱいの恫喝と嫌がらせをしては見た。しかし、腹の据わった相手にブラフが通じず、拳を下ろさざるをえなくなったという図なのだ。教科書採択の権利が教育委員会にあるというのが、一貫した文科省の見解であった。竹富町側に違法があるという主張が明らかに無理筋なのだ。

むしろ、採択地区内の各教育委員会の意見がまとまらないからとして、竹富だけに教科書の無償配布を拒否した文科省の違法をこそ問題としなければならない。協議がまとまらなかったことにおいて同じなのに、育鵬社版を採択した石垣と与那国には無償配布を実行しているではないか。東京書籍版を採択した竹富だけに無償配布を拒絶したことは筋が通らない。文科省・文科相の歴史修正主義教科書採択加担の姿勢が余りに露骨ではないか。

そもそも、八重山採択地区の事前調査において、東京書籍版が最高の評価を得ていた。育鵬社版は最低評価。担当教科教員でこれを推薦する見解は皆無だった。真摯に教育の在り方を考える立ち場からは、竹富町教委の姿勢こそが常識的で真っ当なもの、国や歴史修正主義勢力に擦り寄った石垣・与那国の方がおかしいのだ。

5月22日の琉球新報社説「竹富分離決定 妥当な解決を国は阻むな」の言辞の厳しさに驚く。この件について、沖縄の良識がどれほど怒っているかが伝わってくる。下記の抜粋に目を通されたい。

「下村博文文科相は竹富の単独採択を阻みたい考えを露骨に示してきた。自民党内でも分離を疑問視する声がある。だが…自治体が工夫して導いた解決を国が不当に介入して阻害するのは断じて許されない」「問題は、八重山採択地区協議会会長が規定を無視して独断で採択手順を変更したことに始まった。極めて保守色の強い育鵬社版教科書を恣意的に選ぼうとしたのは明らかだ」
「下村氏らは(竹富町の教科書採択を)教科書無償措置法に違反すると強弁するが、無償の措置を受けていないのに、無償措置法違反とは矛盾も甚だしい。地方教育行政法は市町村教委の教科書選定を定める。この法に照らせば竹富は明らかに合法だ」
「政府は竹富の措置について『違法とは言えない』とする答弁を2011年に閣議決定し、先日も内閣法制局が答弁は有効と述べた。だが下村氏ら自民党文教族は違法だと非難し続ける。権柄ずくの、理性に欠ける態度と言うほかない」
「教科書無償措置法改正に伴う政令が近く出る。保守的な教科書が採択されるよう、採択地区の構成を国が恣意的に定める政令を出すのではないか。そんな危惧を聞く。政治家の利益を図るための、教育への政治介入は許されない」

沖縄タイムス社説「『竹富分離決定』地域の主体性生かそう」(5月23日)には、以下の解説がある。

「八重山教科書問題は、そもそもなぜ起きたのか。
2012年度の中学校公民教科書の選定をめぐり石垣、竹富、与那国の教育長らで構成する『八重山採択地区協議会』の玉津博克会長(石垣市教育長)が、これまでの選定ルールを突然変えたのが発端だ。選定ルールの変更は、保守色の強い育鵬社版の教科書の使用を決めるのが目的だった。これに反発した竹富町が結果的に、文科省から是正要求を出された。
 国の不当介入が、八重山教科書問題をいびつに発展させてきたのは論をまたない。だが、足元の『ゆがみ』にも目を向ける必要があるのではないか。教科書採択をめぐっては、与那国町の教育長も石垣市に同調している。なぜこうしたことが八重山で起きたのか。
 玉津教育長は20日、県教委が竹富町を単独採択地区化する方針を示していることを受けて上京。文科省の上野通子政務官との面会後、自民党文科部会にも出席し、県教委の姿勢を批判した。玉津教育長はこの際、記者団に『八重山は教育も行政も経済も一体だ。教科書だけ別というのは理解できない』と述べている。
 竹富町の分離を余儀なくしたのは玉津氏ではないか。その張本人が、『八重山の一体化』を強調するのは皮肉に響く。とはいえ、玉津氏の指摘に一理あるのも事実だ。
 八重山の3市町は、…政治的な立場の違いを超え、観光などの分野で協調してきた。今回の竹富町の分離で、八重山社会全体に亀裂が波及する事態は避けなければならない」

問題は、竹富町に関しては決着した。しかし、石垣・与那国では、現場教員に悪評高い育鵬社の教科書が引き続き使われている。教科書採択問題に権力がかくも露骨に介入し、国家主義的・歴史修正主義的な教科書の押し付けにかくも執心していることが見えてきている。何が起きているのかをしっかりと社会に訴えて、自民党文教族や文科省に対抗しうる世論形成に力を尽くさなければならないと思う。

そして、竹富町の奮闘の成果は、おおきな励ましである。いまなら、まだ間に合う。偏頗な教科書の使用を拒絶する闘いは十分に可能なのだ。
(2014年5月25日)

タイのクーデターは他人事ではない

このところ政情不安定だったタイで、軍が全土を戒厳下においたのが5月20日。22日にはクーデター宣言となって憲法が停止された。タイでは8年前にも同様の事態があって、タクシン政権が倒れた。8年前には、「他人事に眉をひそめる事態」に過ぎなかったが、安倍政権下で軍事国家への萌芽を危惧せねばならない昨今、日本にもあり得ないことではないと深刻に受けとめざるをえない。

選挙ではなくクーデター。国民の合意形成の手順と面倒を省いた軍事力での秩序回復。手っ取り早い秩序と治安維持の担い手として軍が前面に出て来る危険な事態の進行。それが決して他人事ではない。

タイでは、国王の権威に関するものを除いて、憲法全条項の停止が宣言されているという。デモと集会は一切禁止、夜間外出禁止令も出されている。メディアの自由は一切なくなった。放送局は、軍の厳重な管理下にある。ソーシャルネットワークの規制まで行われているようだ。その状況下で、前首相を含む政治家の拘束が報じられている。

これが他人事でないのは、2012年4月に公表された「自民党憲法改正草案」が戒厳と実質を同じくする事態までは想定しているからだ。もちろん、クーデターは憲法が想定する範囲を超える非合法なできごとだが、戒厳からクーデターまでは、ほんの一歩の距離でしかないことを今回のタイの実例が教えている。

いまさら言うまでもないが、自民党改憲草案は自衛隊とは基本性格を異にする「国防軍」を創設することを公言している。国防軍の秘密保持を憲法事項とし、国防秘密漏示の裁判は国防軍内の軍法会議で行おうというのだ。さらに、「公の秩序を維持」することを国防軍の憲法上の任務として明記する。その国防軍は、草案第9章に新設される「緊急事態」において、秩序維持のために重要な任務を遂行することになる。

「緊急事態」が宣言されれば、国会の機能が停止される。戒厳と同様なのだ。国会に代わって、「内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができる」「内閣総理大臣は財政上必要な支出その他の処分を行い」「地方自治体の長に対して必要な指示をすることができる」と改正案に明記されている。緊急事態とは、名を変えた戒厳と読み込まざるをえない。

大日本帝国憲法第14条は、1項で「天皇ハ戒厳ヲ宣告ス」とし、2項で「戒厳ノ要件及効力ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム」とした。憲法にはこれだけの定めがあれば良い。あとは法律を制定することになる。また、第31条(非常大権)は「本章ニ掲ケタル條規ハ戦時又ハ国家事変ノ場合ニ於テ天皇大権ノ施行ヲ妨クルコトナシ」。この規定は当時の多数説において、戒厳とは別に臨機応変の処分を為すことができるとの解釈がなされていた。少数説は戒厳の結果として軍の権能を定めたものと解していたとのことである。

自民党改正草案は、「内閣総理大臣は、法律の定めるところにより、閣議にかけて、緊急事態の宣言を発することができる」ことを定めている。これは、現行日本国憲法には存在しない規定。大日本帝国憲法第14条と31条の復活なのだ。「天皇」が「首相」となり、「戒厳」・「戦時又ハ国家事変」が「緊急事態」に変わっている。これだけで十分なのだ。あとは法律の書きぶり次第で、災害やテロを口実に「緊急事態宣言」が可能となる。緊急事態となれば、治安の維持のために国防軍が前面に出て来る。そして、状況次第で、軍が政治の実権を掌握する事態を生じかねない。クーデター誘発のお膳立てと言わねばならない。

「戸締まり論」華やかなりしころ、「ソ連が攻めてきたらどうする」「北海道に上陸したらどうする」「それでも、無防備でよいというのか」「そんなとき9条で国民を守れるのか」いう問が発せられた。今なら、「北朝鮮がミサイルを撃ってきたら…」「中国が先島の離島に上陸したら…」となるのだろう。

その発問自体の胡散臭さが問われなければならないのだが、タイの現実を見せつけられると、「国防軍がクーデターを起こしたらどうなる」「国防軍が政権を掌握するようなことになったらどうなる」「国防軍こそ民主主義に政治への敵対者として危険な存在ではないのか」と発問せざるをえない。

前田朗さん(東京造形大学・憲法)に、「軍隊のない国家ー27の国々と人びと」という著書(日本評論社)がある。初稿は「法と民主主義」連載だった。その中で、クーデター防止のために軍を廃絶した国の実例が載っている。軍隊が度々のクーデターを起こしてきた歴史をもつ国では、軍隊こそが政情不安の元凶であり、民主主義の敵でもある。また安全な国民生活の障害物でもある。だから、その根本的な解決のために直接の元凶である軍隊を解散させた。コスタリカやハイチ、ドミニカなどがこれにあたるという。

軍が強ければ本当に国民は安心なのだろうか、自国の軍は侵略戦争を起こさないのだろうか、自国の軍の強大化は近隣諸国の軍事力の強大化と軍事的緊張関係を呼び起こさないのだろうか。軍は国内の政治的安定の攪乱要因とならないのだろうか。
経済関係緊密で人的交流も頻繁なタイの動向に無関心ではおられない。到底他人事ではない。
(2014年5月24日)

「大飯原発差止」「厚木基地飛行差止」両判決非難の読売社説に反論する

昨日(5月22日)の読売社説が、大飯原発再稼動差し止めを命じた福井地裁判決を論難している。タイトルが「大飯再稼働訴訟 不合理な推論が導く否定判決」というもの。「不合理な推論」とは何を指しているのかが不明。「否定判決」は、さらに意味不明。「読売において否定すべき内容の判決」との意味らしい。判決に不快感を表明していることだけはよく分かるが、その根拠や理由の記載は極めて乏しい。「大飯再稼働訴訟判決批判 不合理な推論が導く否定社説」となっている。出来の悪い社説の典型というほかはない。

冒頭の一文が、「『ゼロリスク』に囚われた、あまりに不合理な判決である」という断定調。しかし、判決の論理のどこがどのように不合理なのかの指摘に欠ける。タイトルと冒頭の一文に期待して、読み進むと中身がすかすかで、肩すかしに終わる。「『再稼動ありき』に囚われた、あまりに不合理な社説」なのだ。

同社説は、判決の「不合理な推論」については指摘するところがない。判決の判断を論難する根拠として挙げるところは、「昨年7月に施行された原発の新たな規制基準を無視し、科学的知見にも乏しい」と、「福井地裁判決が最高裁の判例の趣旨に反するのは明らかである」の2点のみである。さて、この論難は当を得ているだろうか。

同社説は、「規制委の安全審査が続いていることを考慮すれば、その結論の前に裁判所が差し止めの必要性を認めるのは相当ではない」との趣旨を述べている。しかし、行政基準の妥当性を判断することは裁判所の主たる任務のひとつである。規制委の審査基準を尊重することがあってもよいが、それは納得しうる安全基準として十分な内容をもっていればこそのことであって、規制委の審査基準であるが故に裁判所を拘束するものではありえない。原爆症認定訴訟においても、水俣病認定訴訟においても、行政が決めた審査基準そのものの当否が争われた。裁判所は行政の審査基準の妥当性を否定して被爆者や患者を救済してきたではないか。公害でも、薬害でも、労働災害でも同様である。「規制基準にとらわれず、原告らの人格権侵害を予防した」判決は褒むべきではあっても、読売のいう論難の根拠にはならない。

また、「科学的知見にも乏しい」の内容に具体的指摘がなく、「科学的な新たな規制基準を無視していること」をもっての非難のごとくであるが、実は「社説子の論理的知見に乏しい」だけのことと言わざるをえない。

また、同社説は、「最高裁は1992年の伊方原発の安全審査を巡る訴訟の判決で、『極めて高度で最新の科学的、技術的、総合的な判断が必要で、行政側の合理的な判断に委ねられている』との見解を示している」「原発の審査に関し、司法の役割は抑制的であるべきだ、とした妥当な判決だった」という。これは、読者を誤導するものだ。けっしてそうではない。

伊方原発訴訟(1号炉訴訟)は、わが国初の原発訴訟として注目された。最高裁判決第1号(1992年10月29日・第一小法廷)としても注目され、その判決はそれなりの重みをもっている。しかし、この判決は、「原子炉設置許可処分の取消を求める行政訴訟」におけるものである。今回の「人格権にもとづく差し止めを求める民事訴訟」とは、訴訟形態が大きく異なる。しかも、20年余も以前のもの。その間に科学的知見や原子炉の安全性に関する知見の積み重ねがあり、福島第1原発の事故もあった。伊方原発最判を引用するなら、もっと丁寧な論拠を示さねばならない。

読売社説の指摘部分は、最高裁はこう言っている。
「原子炉施設の安全性に関する被告行政庁の判断の適否が争われる原子炉設置許可処分の取消訴訟における裁判所の審理、判断は、原子力委員会若しくは原子炉安全専門審査会の専門技術的な調査審議及び判断を基にしてされた被告行政庁の判断に不合理な点があるか否かという観点から行われるべきであつて、現在の科学技術水準に照らし、右調査審議において用いられた具体的審査基準に不合理な点があり、あるいは当該原子炉施設が右の具体的審査基準に適合するとした原子力委員会若しくは原子炉安全専門審査会の調査審議及び判断の過程に看過し難い過誤、欠落があり、被告行政庁の判断がこれに依拠してされたと認められる場合には、被告行政庁の右判断に不合理な点があるものとして、右判断に基づく原子炉設置許可処分は違法と解すべきである。」

要するに、「判決時の科学技術水準に照らし、審査基準に不合理な点があれば、原子炉設置許可処分は違法」というのが最高裁の立場かのだ。到底、大飯原発差し止め判例を批判する論拠たりえない。

しかも、伊方判決は、次のような判断をつけ加えて、挙証責任の転換をはかっている。
「原子炉施設の安全性に関する被告行政庁の判断の適否が争われる原子炉設置許可処分の取消訴訟においては、右判断に不合理な点があることの主張、立証責任は、本来、原告が負うべきものであるが、被告行政庁の側において、まず、…審査基準…に不合理な点のないことを主張、立証する必要があり、被告行政庁が右主張、立証を尽くさない場合には、被告行政庁がした判断に不合理な点があることが事実上推認される」

行政訴訟と民事訴訟、被告が国であるか電力会社であるか。判決時期の20年余のへだたり。慎重に違いを見極め、また共通する論理も見極めなければならない。読売社説は、性急に自説の結論を導こうとするあまり、牽強付会に最高裁判決をつまみ食い援用をするものとして説得力を欠く。社説として出来が悪いと言う所以である。

また、読売は、本日(5月23日)の社説に、厚木基地騒音訴訟で自衛隊機の夜間飛行差し止めを認めた横浜地裁判決にもブーイング。「厚木騒音訴訟 飛行差し止めの影響が心配だ」というタイトルで、「自衛隊の活動への悪影響が懸念される」と論じている。

「こうした判断は、嘉手納、普天間、小松、岩国、横田の5基地に関して係争中の騒音訴訟にも影響する可能性がある。基地の運用に支障が生じないとも限らない」とまで、国の立場にたってのご心配。

生活の快適を求める国民の声を抑えて、権力への迎合を優先する姿勢はジャーナリズムとはいいがたい。御用新聞というにふさわしい。拠って立つイデオロギーは、国家主義、軍国主義、国防最優先主義といわざるを得ない。国家あっての国民、国防あっての人権、軍隊なくして平和も国民の平穏な生活もないという考え方。だから、国民生活の不便は我慢させて、自衛隊の訓練を優先させるべきというのだ。ひと昔以前のスローガンの蒸し返しに等しい。連日の、恐るべき両社説。
(2014年5月23日)

原発運転差し止めの認容と、米軍機飛行差し止めの棄却

昨日(5月21日)、原発問題と基地問題に関して、特記すべき判決が続いた。関西電力大飯原発3,4号機運転差し止め訴訟と、厚木基地騒音差し止め訴訟の両判決。とりわけ、大飯原発の運転差し止めを認めた判決の衝撃はこの上なく大きい。判決直後に福井地裁前に掲げられた「司法は生きていた」の弁護団の垂れ幕が誇らしげに輝いていた。弁護団長佐藤辰哉さんは旧知の人、ご苦労をねぎらいたい。

両訴訟に共通するキーワードは、「人格権」である。人格権が現実に侵害されている場合には「侵害排除請求権」、侵害の危険に瀕している場合には「侵害予防請求権」が生じる。

大飯原発訴訟は民事的に、「原告らが有する人格権侵害予防請求権」を行使して、「原発稼働差し止め」を求めたもの。判決書の引用によれば、「原告らは、…人間の生命、健康の維持と人にふさわしい生活環境の中で生きていくための権利という根源的な内実をもった人格権に基づいて本件原発の差し止めを請求する…」「人が健康で快適な生活を維持するために必要な良い環境を享受する環境権に基づいて本件原発の差し止めを請求する」というもの。

この請求が全面的に認容された。大飯原発3、4号機の設計基準は、その運転によって「人間の生命、健康の維持と人にふさわしい生活環境の中で生きていくための権利という根源的な内実をもった人格権」を侵害するものと認定されて、運転は許さないと判決されたのだ。

判決は格調が高い。裁判官らが渾身の気力で書いたものだ。中でも、次の点に感動を覚える。

「原発の稼働は法的には電気を生み出す一手段である経済活動の自由に属し、憲法上は人格権の中核部分よりも劣位に置かれるべきだ。自然災害や戦争以外で、この根源的な権利が極めて広範に奪われる事態を招く可能性があるのは原発事故以外に想定しにくい。具体的危険性が万が一でもあれば、差し止めが認められるのは当然だ。」

人間の尊厳をこそ最重視すべきであって、経済活動の自由が最優先ではない、というのだ。原発事故が大規模な人格権の侵害をもたらすものである以上、経済活動の自由を抑制することにはなっても、原発の安全性には最大限のものが求められ、万が一にでも危険が考え得るのであれば差し止めが認められて当然、というのだ。

この考え方は、次のようにも表現されている。
「被告(関西電力)は原発稼働が電力供給の安定性、コストの低減につながると主張するが、多数の人の生存そのものに関わる権利と電気代の高い低いという問題を並べて論じるような議論に加わり、議論の当否を判断すること自体、法的には許されない。原発停止で多額の貿易赤字が出るとしても、豊かな国土に国民が根を下ろして生活していることが国富であり、これを取り戻すことができなくなることが国富の損失だ。」

ここに述べられているのは、人格権的利益(多数の人の生存そのものに関わる問題)と、経済的利益(電気代の高い低いという問題)を比べることなど愚か極まることというのだ。欣快の至りというしかない。これが、我が日本国憲法の憲法的な価値序列なのである。よくぞ、判決文の中に、憲法の精神を吹き込んでくれたものと、感慨一入である。福島第1原発事故の教訓を真摯に受けとめた判決。後に続く判決も、こうなって欲しいものと切に望む。

夕刻の日民協の会合でも、ひとしきりこの判決が話題となった。元裁判官の発言が印象に残った。
「真面目な裁判官はたくさんいる。しかし、この人たちが良心に従った判決を書けるかは、環境にかかっている。原発問題では、先の都知事選で二人の元首相がコンビを組んで脱原発を訴えた。このような社会背景が、裁判官に良心に従った判決を書く勇気を与えているのだと実感する」
判決の内容も、世論の動向と大きく関係してくるのだ。そして、判決が世論に大きく影響を与えることになる。

同じ日に、横浜地裁が厚木基地の夜間飛行差し止めを一部認める判決を言い渡した。これも大きな前進面をもった判決。

厚木基地の飛行差し止め請求の対象は、自衛隊機と米軍機があり、差し止め請求の根拠は「行政訴訟における差し止め」と「民事訴訟における人格権に基づく差し止め」の2本立て。このうち、行政訴訟による自衛隊機の飛行差し止めが認められた。その意義は大きい。その点は評価を惜しまないが、しかし米軍機の飛行差し止めは、行政訴訟では却下、民事訴訟では棄却となった。原告住民の要求は、圧倒的にうるさい米軍機の差し止めだったはず。納得し得ない感情が残って当然。

とりわけ、人格権に基づく米軍機の飛行差し止め請求が一蹴されていることの理由が分からない。どこの国の飛行機であろうと、騒音被害が著しい人格権侵害となれば、差し止め請求が認容されてしかるべきではないか。偶然、同じ日に、福井地裁では原発運転差し止め請求が認容され、横浜地裁では米軍機飛行差し止め請求が棄却となった。注目の2判決のこの結果の不整合と不合理は、いずれ是正されねばならない。
(2014年5月22日)

新内閣法制局長官は、安倍政権に抵抗できるだろうか

昨日(5月20日)の参院外交防衛委員会で、横畠裕介内閣法制局長官が就任後初めて国会答弁した。アントニオ猪木委員(日本維新の会)の集団的自衛権の行使に関する質問に対して、集団的自衛権の定義については「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにかかわらず実力をもって阻止することが正当化される権利」とした上、「他国に加えられた武力攻撃を実力で阻止することを内容とするものであるため、そのような武力の行使は憲法上許されない」と述べた旨報道されている。

「憲法上許されない」とは、単に、「政府はこれまでそのように解釈してきた」という文脈で述べられたのか、あるいは憲法解釈上論理必然的に「許されない」という趣旨なのか、報道では判然としない。質問者の猪木委員も詰めてはいないようだ。

横畠氏の次長から長官への昇格は5月16日。昇格以前の次官時代にも答弁には立っている。たとえば、2月6日の参院予算委員会。「内閣法制局次長が初答弁 入院中の長官代理で」とのタイトルで、次のように報道されている。

「体調不良で検査入院中の小松一郎・内閣法制局長官の代理を務める横畠裕介次長が今国会で初めて6日の参院予算委員会で答弁した。横畠氏は現行の憲法解釈を堅持してきた内閣法制局出身だが、この日は安倍晋三首相が前向きな憲法解釈変更による集団的自衛権の行使容認をめぐる質問で「現時点では意見は差し控える」と答弁。行使容認に前向きな小松氏の代役に徹した。
 この日、社民党の福島瑞穂前党首が現行解釈の確認を求めたが、横畠氏は『意見を差し控える』と3度にわたって繰り返し、質疑が中断。再開後に『政府としては、行使は許されないと解してきた』と答弁した。
 なお、小松氏は同様の質問に答弁する際、『集団的自衛権をめぐる憲法解釈は現時点では従来通りだ』と前置きしていた。」(朝日)

横畠氏は山本庸幸前々長官の次の長官候補だった。順当に行けば、長官になれるところを、安倍政権の思惑で、異例の外務省からの横滑り長官人事の割を食った。誰がみても、憲法解釈を変更するための不自然で強引な人事の犠牲者。安倍政権に疎まれたのだから立派な人物なのだろう。硬骨漢なのだろうとのイメージがあった。小泉政権当時の国会で、集団的自衛権は行使できないとする現行解釈に沿う見解を示していたともいう。

さて、この点がどうなのだろうか。5月16日の東京夕刊は、新長官記者会見を「法制局新長官 横畠氏、容認前向き」と報道している。
「政府は16日の閣議で、小松一郎内閣法制局長官(63)を退任させ、横畠裕介内閣法制次長(62)を昇格させる人事を決めた。体調不良で職務続行が困難と判断した。横畠氏は解釈改憲に関し記者団に『およそ不可能という前提には立っていない。遅れることなく、しっかり研究していきたい』と集団的自衛権の行使容認をにらみ前向きに検討する考えを示した」という記事。

まだこの記事だけでは分からない。政権は、横畠氏が安全パイであることを確認して新長官に据えたと考えるべきなのかも知れない。いや、人の信条はそんなにたやすく変えられるものではないというべきなのかも知れない。また、所詮官僚機構の中で抵抗は無理だと考えるべきか、この地位の大きさから政権への抵抗を期待可能と言うべきか。官僚機構の中の一個人の資質や健闘に期待するのではなく、世論の大きなうねりをつくることが大切ではないか。

思いは多様で、いま結論は出せない。固唾をのんで見守るばかり。
(2014年5月21日)

江川紹子さんに声援を送る

いわゆる「PC遠隔操作事件」の成り行きに驚かざるをえない。
これまで無罪を主張していた片山祐輔被告が、起訴された4事件すべてを自身の犯行と認めた。主任弁護人も今後の公判では無罪主張は撤回する方針という。東京地裁は本日保釈を取り消す決定を出し、同被告人は東京拘置所に再び勾留されることとなった。

真摯な弁護活動をしていた弁護人の気持ちが、痛いほどよく分かる。こんなに劇的な事例ではないにせよ、私にも何度か似たような経験がある。「これまで俺を欺していたのか」「裏切られたのか」という思いは払拭しえないだろう。しかし、その点にはプロとしての対応が求められている。

通常、弁護人が被告人の無罪主張に疑問を呈するごとき言動をしてはならない。被告人の立ち場で、被告人の主張に寄り添わねばならない。弁護人として、無罪判決を勝ち取るべく弁護活動をしなければならない。そうでなくては、被告人との信頼関係の形成はない。しかし、事態が本件のごとき展開を遂げたあとでは、自ずから話しは別と言わねばならない。

本来、有罪立証は訴追側の責務である。弁護側はその立証活動から被告人を防御する。検察官の立証を吟味し、立証の不足を指摘することが基本的な活動内容なのだ。事態が急展開した今も、検察官の立証を吟味し防御する弁護人としての基本活動に変わりはない。しかし、現実には、公訴事実を否認して積極的に無罪を主張することと、公訴事実自体は認めて情状を争うことは、訴訟戦術として一貫しない。戦術の曖昧さは被告人の不利を招く。だから、一見明白に客観的事情と矛盾し、虚偽としか見てもらえない無理筋の無罪主張の展開は慎まねばならない。その観点から、弁護人には被告人への説得の努力が求められる。本事例では、被告人が先に無罪撤回の方針変更をしたようだ。よほどの事情がない限り、弁護人もこれに追随するしかない。方針の転換は、不名誉なことでも、非難されるべきことでもない。

弁護人に、被告人の主張について真実か否かを見極めるべき義務を押し付けてはならない。過剰な真実義務の要請は、弁護活動を萎縮させ、被告人の無罪を争う権利を侵害する。公正な裁判を受ける権利を侵害することにもなる。弁護人が無罪主張を撤回した場合に、撤回以前の無罪主張を責められるようなことがあってはならないのだ。

似たようなことが犯罪を報道し論評するジャーリズムにも言える。
本日の毎日夕刊に、ジャーナリストのお二人が、コメントを寄せている。大谷昭宏さんは、「冤罪被害者傷つけた」として、「一連の片山被告の行為は、本当の冤罪被害者を傷つけるもので罪深い」という常識的で無難な内容。誰にも納得できる落ちついたコメント。

もう一人の江川紹子さんのコメントが、いわれなき論難の対象となりかねない内容。「捜査の問題 見逃せず」と標題されたコメント全文は次のとおり。
「片山被告が犯人だとすれば何でそんなことをしたのか不明だ。ただ、一連の事件で誤認逮捕などの問題が出てきたのは事実。捜査側の問題がスルーされたらそれは違うと思う」

「片山被告が犯人だとすれば何でそんなことをしたのか不明だ」というのは、被告人本人と弁護人が無罪主張を撤回した今もなお、有罪立証や動機の解明に納得はしていないことの表明。その姿勢は責められるべきものではない。「一連の事件で誤認逮捕などの問題が出てきたのは事実」は、まったくおっしゃるとおり。そして、「捜査側の問題がスルーされたらそれは違うと思う」は、正論である。

私は、この江川さんのコメントを全面的に支持する。意気悄然とすることなく、問題提起をし続ける姿勢を示している点において立派なものと思う。決して、「負け惜しみではないか」「これまでの不明を反省しないの?」などと揶揄してはならない。

これまで江川さんが片山被告有罪説に疑問を呈して発言を重ねてきたことは、天下周知の事実。しかし、ジャーナリストにも、訴追された被告人の主張について真実を見極めるべき義務が課せられるわけはない。基本的に、訴追側の立証の不備や証拠を点検して、疑問を提起することが基本任務と言えよう。この点において、弁護人の立ち場と同様なのは、ジャーナリズムも弁護士とならんで、在野の立ち場から権力作用を監視すべきことを基本任務にしているからだ。

いま、警察も検察も昂揚した心理状況にある。不謹慎でも「やった」という気持ちになっていることだろう。そのようなときに、敢えて「捜査側の問題がスルーされたらそれは違うと思う」と堂々と正論を述べる江川さんに声援を送りたい。
(2014年5月20日)

世論は集団的自衛権容認に与していない

今朝の毎日に、集団的自衛権に関する世論調査の結果が出ている。
見出しは、「毎日新聞世論調査:集団的自衛権 憲法解釈変更 反対56%」「行使54%反対」というもの。この見出しが言わんとしている世論調査の結果は、「集団的自衛権の行使を容認するための憲法解釈の変更に反対意見が56%(賛成意見は37%)」「集団的自衛権を行使することに反対意見が54%(賛成意見は39%)」ということ。

この全国調査は、15日に安倍首相が集団的自衛権の行使容認に向けた検討を指示したことを受けて、17、18の両日に実施されている。安倍晋三テレビ演説や北岡伸一などの解説を経た最新の世論状況を示すものとして重要なものである。毎日の解説が、「首相は今夏にも集団的自衛権の行使を容認する憲法解釈変更を閣議決定したい考えだ。公明党は慎重姿勢を崩しておらず、行使容認と解釈変更への反対がいずれも過半数となったことは与党協議にも影響しそうだ」と言っている。そのとおりだ。あるいは、それ以上の影響があるかもしれない。安倍政権孤立の萌しさえ、みることができるのではないか。

また、注目すべきは「日本が集団的自衛権を行使した場合、他国の戦争に巻き込まれる恐れがあると思うかについては、『思う』と答えた人が71%となり、『思わない』と答えた人の25%を大きく上回った。巻き込まれる恐れがあると『思う』と答えた人のうち64%が行使に反対だったのに対し、恐れがあると『思わない』と答えた人のうち反対は29%にとどまった」という点。

このことに関連して、本日の神奈川新聞第3面に、元内閣法制局長官の阪田雅裕さんの「安全脅かす『他衛』権」という寄稿に注目したい。いずれ全文がネットで読めるようになるだろうが、さすがにたいへんな説得力。安倍の「怪説」などは吹き飛んでしまう。上記の毎日世論調査質問事項への回答を読むについて、次の指摘が重要だと思う。

「A国とB国との間で、戦争が始まったとしたら、それぞれ自国の方が正しいと主張するだろう。日本は第三国の立ち場のままだったら、戦争をやめなさいと言えるが、A国とともにB国に対し集団的自衛権で武力を行使すれば、わが国は戦争当事国になり、B国が日本の領土を攻撃することが認められることになる」「集団的自衛権の行使を容認すれば、むしろわが国、国民の安全を脅かす結果を招く可能性がある。」

ありていに言えば、「たとえば、中国とアメリカが諍いを起こしたとする。その場合、日本が中立を保って第三国の立ち場のままだったら、戦争をやめなさいと言える。しかしが、米国とともに中国に対し集団的自衛権を行使すれば、日本は戦争当事国になり、中国から日本の全土を攻撃されることを覚悟しなければならない」ということ。だから、「集団的自衛権の行使を容認すれば、むしろわが国、国民の安全を脅かす結果を招く可能性がある」のだ。

集団的自衛権の行使とは、「他国の戦争に巻き込まれる恐れ」ある行為ではなく、「他国の戦争に巻き込まれることを承知で、日本の全土が攻撃されるリスクを敢えて冒す」行為なのだ。「戦争への参加を買って出る行為」と言ってもよい。

毎日調査の前記質問事項に関し、「日本が集団的自衛権を行使した場合、他国の戦争に巻き込まれる恐れがあるとは『思わない』と答えた25%」は、まったくの認識不足というべきなのだ。この人たちの多くが、「集団的自衛権の行使があっても、まさか戦争に巻き込まれる恐れがあるとは思えないから、集団的自衛権の行使を容認してもよいのでは」と考えているようだが、根本から考え直してもらわねばならない。

もちろん、戦争のリスクを自覚し覚悟したうえで、集団的自衛権行使を容認せよという好戦的な見解はあり得よう。安倍晋三らはそう考えているに違いない。しかし、「日本が集団的自衛権を行使したとしても、他国の戦争に巻き込まれる恐れがあるとは思わない」という、迂闊な認識で安倍政権の世論誘導に乗せられてはならない。それこそ、戦前の轍を踏むことにほかならない。

なお、その神奈川新聞、他の地方紙と同様に、一面トップに、共同通信の世論調査結果を発表している。これも、17、18の両日に実施されたもの。大見出しは、「憲法解釈変更 反対51%」「集団的自衛権、賛成39%」というもの。この見出しは、神奈川新聞独自のもの。同じ世論調査を報じた、東京新聞の「集団的自衛権 反対48% 賛成上回る」「解釈改憲反対過半数」よりも歯切れがよい。

世論は政党や議員を動かす。自民党は、「戦争に巻き込まれるとの不安との疑問に一つ一つ丁寧に答える努力をする」(石破幹事長)というが、その努力が実ることはあり得ない。明らかなウソなのだから。国民の議論が深まり、理解が浸透すれば、集団的自衛権行使の危険は全国民に自明のものとなる。

さて、議員諸公よ、諸政党よ。安倍晋三の妄想に付き合っていて、次の選挙を闘うことができるのか、世論の動向を真剣に見極めたまえ。山が動くときは、目前かも知れないのだ。
(2014年5月19日)

集団的自衛権行使容認問題のポイント

5月15日に安保法制懇の報告が出て、安倍首相や法制懇メンバーが集団的自衛権の行使を容認すべきだと喧伝している。彼らの解説には、喉がざらつくような違和感を禁じ得ない。その感覚的な違和感が、問題の本質につながっているのだと思う。

首相の会見も、法制懇メンバーの言説も、憲法解釈を変更して集団的自衛権の行使を容認する論理は次のようなもの。

「憲法よりも国民の生命や安全の方が大切ではありませんか」「硬直な憲法解釈にこだわっていては、国民の生命や安全を守ることに不都合が生じます」「だから、政府が責任をもって憲法解釈を変更して、国民の生命や安全をしっかりと守ろうというのです」「皆さんから選任された政府が、そう言っているのですから安心して、この安倍政権にお任せ下さい」

ここで言われている、「憲法よりも国民の安全が大切」というものの言い方、「政府を信頼して任せておけばよい」という姿勢に、おおきな違和感がある。

「憲法よりも国民の安全が大切」というものの言い方は、憲法の理解、分けても平和主義への理解に欠けるものと言うほかはない。憲法こそが、国民の生命と安全を守るために制定されたのだから。

先の大戦でこの上ない辛酸をなめた日本国民は、再びの戦争を繰り返さない決意を込めて、自らに戦争を禁じた日本国憲法を制定した。だから、日本国憲法は、「平和」を基本に据えた。憲法前文に「再び政府の行為によって、戦争の惨禍が繰り返されることのないようにすることを決意して…この憲法を確定する」と宣言し、憲法9条をおいて、その2項で「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」と決めた。日本国民が憲法を制定したというのはフィクションだという見解もありえよう。しかし、敗戦後今日まで日本国民は平和憲法を守り続けてきた。日々新たにこの憲法を選択し続けて定着させたと言ってよい。この事実は重い。決してフィクションではない。

その憲法は、国民の生命や安全を無視しあるいは軽視して制定されたものではない。「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」と定め、そのとおり実行することこそが、最も有効に国民の生命や安全を守る方法であると確信して選択している。そして、そのような主権者の選択を、政権を担当するものに対して命令しているのだ。それが、憲法を制定するという意味ではないか。

戦争の惨禍から学ぶべきを「軍事力が不足だったこと」と反省して、国の安全を保つためには近隣諸国を圧倒する軍事力をもつべきだ、という意見もあろう。しかし、それこそ戦前の過ちの轍を踏むことであるとして、憲法はそのような考え方を愚かなこととして斥けたのだ。軍事力の増強は、近隣諸国に無用の不信感を増大させ、デメリットがはるかに大きい。場合によっては、相互の不信と相互の軍拡の無限のループに陥る危険さえある。

少なくとも専守防衛に徹すべきことが、これまでの我が国のコンセンサスであった。個別的自衛権を認めるにせよ、憲法上集団的自衛権の行使は容認し得ないということが、政府・与党を含む国民的な合意であったと言ってよい。にもかかわらず、今安倍政権は、憲法解釈を変更して集団的自衛権行使を容認しなければならない場合を必死で探し出そうとしている。非現実的な事例の想定は、何が何でも集団的自衛権行使容認に一歩でも踏み出そうとの誘導策でしかない。

さらに、「政府を信頼して任せておけばよい」という要求は、民主主義や立憲主義をないがしろにするものとして、認められようはずもない。

健全な民主主義は、国民の権力に対する猜疑によって保たれる。いかなる権力も信頼してはならない。まして、安倍政権のごとき危険な権力であればなおさらのことである。国民が権力に対して手渡す、権力行使の手順マニュアルが憲法であって、このマニュアルから逸脱せずに権力を行使しなさい、と命令されているのだ。命令された側が勝手にその指示書の内容を書き換えてはならない。憲法は権力を縛るためにある。縛られる立ち場にある者が、勝手に縛りを外すことは許されない。とりわけ安倍政権のような危険な権力はしっかり縛っておかねばならない。

安倍政権を危険というのは、対中、対韓関係において領土ナショナリズムを鼓吹し、歴史修正主義の立場を露わにし、敢えて靖国参拝をし、河野談話を検証し直すとし…。要するに、同じ立ち場にあったドイツと対照すれば、侵略戦争や植民地支配に真摯な反省や謝罪をしていないのが顕著である。その姿勢は歴代保守内閣に比して突出している。これを縛らずして、何のための立憲主義であろうか。憲法が安倍政権を縛らねばならないのであって、安倍政権が憲法を籠絡し解釈を変更して縛りを解くなどとはもってのほか、と言わねばならない。
(2014年5月18日)

澤藤統一郎の憲法日記 © 2014. Theme Squared created by Rodrigo Ghedin.