昨日(6月2日)、全国の憲法研究者ら16名が、渡辺喜美・みんなの党元代表をを政治資金規正法違反・公職選挙法違反で刑事告発し、告発状を東京地検特捜部に送付した。その代理人となった弁護士は24名。私もその一人に名を連ねている。
告発状の全文とマスコミ報道については、下記「上脇博之 ある憲法研究者の情報発信の場」のブログを参照されたい。
http://blog.livedoor.jp/nihonkokukenpou/archives/51774337.html
http://blog.livedoor.jp/nihonkokukenpou/archives/51774454.html
告発状は26頁に及ぶ。いくつかの場合分けをしているので、やや複雑で読み通すのには多少の根気が必要である。
主たる告発事実は、被告発人がDHCの吉田会長から2012年に借入れた5億円のうち、みんなの党の選挙活動・政治活動と支出が報告されたものを除いた2億5000万円についてのもの。これが、政治活動資金として借入れたものであれば、被告発人には政治資金規正法上の政治資金収支報告書に「借入金」としての記載義務があるのに、これを怠った虚偽記載罪または不記載罪が成立する。また、選挙運動資金としての借入であれば、公職選挙法上の選挙運動収支報告義務の対象となるのに、これを怠った不記載罪が成立する、というもの。
もう一つの告発事実は、2010年以降の合計8億円の借入の内、計9000万円(被告発人の支出5500万円、被告発人の妻の支出3500万円)につき「支出」における虚偽記載罪・不記載罪(政治資金規正法違反)または届出前の支出禁止違反の罪(政治資金規正法違反)の事実があるというもの。
報道されているとおり、2010年に授受あった3億円については借用書が作成されているが、2012年の5億円については借用書がない。それでも、告発状が「本件5億円は『みんなの党』の政治活動(選挙運動活動を含む)のために吉田会長から被告発人渡辺喜美が借りたものである」としているのは、手堅く立件を求める立ち場からにほかならない。
みんなの党は2009年2月に設立されている。以後、被告発人渡辺が集めた金は8億円だけではない。
たとえば、次の事実もある。
「2009年春、被告発人渡辺喜美は夫人とともに吉田会長の自宅を訪問し、夫人は『いよいよ新党を立ち上げますが、お金がなくて困っています。地元の栃木に不動産があるので買っていただけないでしょうか。会長、助けてください』と言ったので、吉田会長は、同年6月26日、言い値の1億8458万円でその物件(「渡辺美智雄経営センター」名義)を購入したが、そのカネが新党立ち上げにどのように活用されたのかについては全く不明のままである。」
「被告発人渡辺喜美は、2010年には、Aから3月26日に5000万円を借入し、その全額を3日後の同月29日に「みんなの党」に貸付けているし、6月18日にはAから4000万円を、Bから2本の4000万円を、それぞれ借入し、それらの合計額1億2000万円を3日後の同月21日に「みんなの党」に貸付けている。そして、6月30日に吉田会長から3億円を借入れた後、7月13日、Aに9000万円を、Bに8000万円を返済し、12月29日吉田会長に8000万円を返済している。」(みんなの党調査チーム報告書)
告発状にも明記されているとおり、現行の政治資金規正法の立法の趣旨は「隠密裡に政治資金が授受されることを禁止して、もって政治活動の公明と公正を期そうとするものである」。また、「政治資金規正法は、全体としては、政治家個人への不明朗な資金提供を全面的に禁止し、政党中心の政治資金の調達及び政治資金の流れの一掃の透明化をめざすもの」でもある。
今回の事態は、億単位の金が政治資金として隠密裡に授受されている実態を明らかにした。政治活動の公明と公正は、地に落ちていると言わねばならない。政党中心の政治資金の調達及び政治資金の流れの一掃の透明化のために、捜査当局には徹底した事実の究明を期待したい。わが国の民主主義の健全な発展のために。いや、再生のために。
(2014年6月3日)
先週の金曜日(5月30日)、名古屋高裁(筏津順子裁判長)が言い渡した判決が注目されている。タクシー会社・名古屋エムケイが原告になって、国(国土交通大臣)を相手にした行政訴訟でのもの。判決文が手に入らないので隔靴掻痒の感があるものの、原告は運輸行政における規制の不合理を主張し、一審に続いて控訴審判決も規制を違法と認めたという。
争われた「規制」の内容は、中部運輸局が2009年に公示した、「名古屋市を中心とする交通圏で運行するタクシーについて、運転手は1回の乗務の走行距離の上限を270キロメートルまでと制限する」という乗務距離制限。「名古屋高裁判決は、一審名古屋地裁判決に続き、運転手の走行距離制限を違法とした。」と報じられている。
行政訴訟の主要なアクターは、私人と国(行政機関)である。私人が国による規制を不当として争うのだから、一般論として私人の勝訴は国民の自由の範囲を拡大することになる。しかし、この二大アクターの争いに、影響を受けるステークホルダー(利害関係者)の存在を忘れてはならない。真に誰と誰の間のどのような利益が衝突し調整が求められているのかを見極めなければならない。
本件の場合、規制はタクシー会社に対するものではあるが、本件規制は、消費者(タクシー利用者)と労働者(タクシー会社勤務者)の利益を擁護するためのものとしてなされている。会社の利益(利潤の獲得を目的とする企業経営)に優越する、消費者の利益(乗客の安全)・労働者の利益(過酷な労働からの保護)に支えられた規制でなければならない。規制の目的や手段の妥当性が裏付けられなければ、規制権限の逸脱または濫用として、違法とされる。
タクシーやバスの運転者に過酷な労働を容認するようでは、労働者の利益に反するだけでなく、事故につながり一般乗客の安全を害することになる。乗務時間や距離の規制が一般論として不合理と言うことはできない。にもかかわらず、なぜ、規制は違法とされたのか。
一審判決時のやや詳細な報道では、「『旅客自動車運送事業運輸規則』は、各地の運輸局が実情に応じて距離を制限できると定めている。タクシー業界は02年の道路運送法改正で新規参入が自由化されて競争が激化し、労働環境の悪化も指摘された。これを受け、09年前後に1日の走行距離に制限を設ける地域が相次いだ。(名古屋地裁の)福井裁判長は、『当時の名古屋市周辺地域は不況でタクシーの需要が減っており、無理な運転をしてまで走行距離を伸ばす傾向はなかった』と述べ、国が制限を設ける必要はなかったと判断した。原告側は公示の取り消しも求めたが、公示は行政訴訟法で取り消し請求の対象となる行政処分とは異なるとして、この部分の請求は却下した」という。
結局、判決は「タクシー運転手の一日当たりの乗務距離を国が制限したことの目的には合理性がない」「安全や過労防止のため既に労働時間が制限されており、あらためて規制する合理性がない」として、当該の規制を裁量権の濫用で違法にあたると判断した。報道によれば、乗務距離制限をめぐっての高裁判決はこれが初めてとのこと。
言うまでもなく、タクシー会社には営業の自由(憲法22条)がある。利潤の追求を目的に企業を経営する自由である。原告・エムケイから見れば、自らがもっている憲法上の営業の自由を、行政が不当に制約していることになる。企業の経営の自由を制約する規制は少なければ少ない方がよい。望むべくは、まったく無いに越したことはない。
しかし、国の立ち場からすれば、乗務距離制限は決して企業活動の制約そのものを目的としたものではなく、消費者や労働者の利益を目的としたものとして合理性があり、当然に規制は許容されるとの主張になる。タクシー業界の過当競争の防止策は、結局のところ共倒れを防止して企業の利益にもつながるという主張にもなる。
双方の主張のどちらに軍配を上げるべきか。憲法上の権利の制約は、いかなる場合に許容されるのか。その基本的な枠組みとして、学説においては、二重の基準論が説かれている。二重の基準とは、精神的自由に対する規制の在り方と、経済的な自由に対する規制の在り方とで、許容基準の厳格さが異なるというもの。元々は、アメリカ合衆国の連邦最高裁が採用してきた考え方。
精神的自由権(表現の自由・信仰の自由など)の規制の許容可否については厳格な基準をもって判断し、経済的自由権(所有権・企業経営の自由)の規制においては立法や行政の裁量を尊重して緩やかな基準をもって、目的・手段などの合理性を審査する、というもの。
要するに、「精神的自由権」と「経済的自由権」に、制約の可否に関して寛厳の差を設けようということ。その理論的根拠は、「経済的自由を規制する立法の場合は、民主政の過程が正常に機能している限り、それによって不当な規制を除去ないし是正することが可能であり、それがまた適当でもあるので、裁判所は立法府の裁量を広く認め、無干渉の政策を採ることも許される。これに対して、精神的自由の制限又は政治的に支配的な多数者による少数者の権利の無視もしくは侵害をもたらす立法の場合には、それによって民主政の過程そのものが傷つけられているため、政治過程による適切な改廃を期待することは不可能ないし著しく困難であり、裁判所が積極的に介入して民主政の過程の正常な運営の回復を図らなければ、人権の保障を実現することはできなくなる。」(芦部信喜)などと説かれる。なお、立法による規制の説明は、行政による規制にもあてはまる。
精神的自由権が、経済的自由権に比べて優越的な権利と理解されていると言って差し支えないだろう。ところが、このような一般論と、現実の判例は正反対なのだ。精神的自由権に対する制約の合憲性は厳格に判断しなければならないところ、現実にはそのような判決は極めて乏しい。反対に、緩やかな判断がなされるはずの経済的自由権について、規制を違憲違法とした判決が目につく。今回の名古屋高裁判決もそのような一事例に加えられることになる。
エムケイの青木信明社長は判決後に記者会見し、「規制緩和に逆行する政策がタクシー業界を衰退させている。高裁の判断は本当にありがたい」と話したという。個別企業の立場としては、「高裁の判断は本当にありがたい」は本音だろう。しかし、「規制緩和に逆行する政策がタクシー業界を衰退させている」は、当たらないと思う。
行政による規制は企業にとって望ましからぬものではあっても、消費者の利益、労働者の利益、地域住民の利益、環境の保護、公正な競争環境の形成等々の観点からの合理性ある規制には服さざるをえない。企業は社会と調和し、社会が許容する在り方でしか活動を継続できないのだ。もとより不必要で有害な規制は拒否できるが、規制一般を「既得権益の保護のためのもの」と決めつけることはできない。規制緩和の要求は、実は企業のエゴの発露でもありうる。
安易に、「規制は悪。規制緩和こそが善」などと言わずに、規制の目的や手段における、必要性・合理性を具体的に吟味しなくてはならない。そうでないと、飽くなき利潤追求のために徹底した規制の緩和や解除を要求して、労働者の利益や消費者の利益を顧みない勢力に乗じられることになりかねない。誰だって、過労運転による事故に泣く目には会いたくないのだから。
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受信料支払い凍結運動にご参加を
具体的な受信料支払い凍結の手続については、下記のURLに詳細です。是非とも参照の上、民主主義擁護のための運動にご参加ください。
http://kgcomshky.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/nhk-933f.html
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支払い凍結と並んで、NHK籾井会長、百田・長谷川両経営委員の辞任・罷免を求める署名運動も継続中です。こちらにもご協力をお願いします。
運動の趣旨と具体的な手続については、下記URLからどうぞ
http://kgcomshky.cocolog-nifty.com/blog/2014/02/post-3030-1.html
http://chn.ge/1eySG24
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NHKに対する「安倍首相お友だち人事」への抗議を
☆抗議先は以下のとおり
※郵便の場合
〒150-8001(住所記入不要)NHK放送センター ハートプラザ行
※電話の場合 0570?066?066(NHKふれあいセンター)
※ファクスの場合 03?5453?4000
※メールの場合 下記URLに送信書式のフォーマット
http://www.nhk.or.jp/css/goiken/mail.html
☆抗議内容の大綱は
*籾井勝人会長は即刻辞任せよ。
*経営委員会は、籾井勝人会長を罷免せよ。
*百田尚樹・長谷川三千子両経営委員は即時辞任せよ。
*経営委員会は、百田尚樹・長谷川三千子両経営委員に辞任勧告せよ。
こちらもよろしくお願いします。
(2014年6月2日)
三笠宮の長男故高円宮次女と、出雲大社宮司長男との婚約が発表された。皇室と出雲国造家の結婚。これが、「両性の合意のみ」で成立したとすれば、ご同慶の至りである。
皇室の祖先神と出雲大社の祭神とは、「天つ神・国つ神」の関係にある。征服者である天皇の祖先神が高天原なる「天つ神」。その神を祀っているのが伊勢神宮。被征服者として、天つ神に地上の国を譲ったのが「国つ神」たる出雲の神。世俗的な理解では、善神としての「天つ神」と、抵抗勢力としての「国つ神」。出雲なる国つ神の「国」は、譲られたものであろうか、それとも略奪されたものであろうか。いずれにしても記紀神話の成立は、出雲に対する伊勢の勝利を物語っている。
しかし、出雲は滅びたわけではない。出雲大社の祭神としての須佐之男・大国主の信仰は、大社とともに生き延び、本居宣長の「顕幽」説に至る。顕界(うつし世)の王が天皇であり、幽冥界(かくれ世)の王が大国主だというもの。さらに、平田篤胤は、大国主を善神とし、死者の魂を審判し、その現世での功罪に応じて褒賞懲罰を課す神としている。この大国主命の幽冥界主宰神説が、復古神道の基本的な教義だとされる。
明治維新は、神々の争いでもあった。神道と仏教が争い、神道各派も正統を巡って争った。かつて、地上の勢力間の争いが神々の争いとして神話に仮託され語り継がれた如くにである。出雲は官弊大社への列格を不服とし、伊勢と同等の格式を当然として、官社のうえに列すべく要求した。その運動の旗手は、復古神道の教義を携えた、第80代出雲国造千家尊福である。
原武史の「出雲という思想」(原武史・講談社学術選書)は私の愛読書。読み応えがあるだけでなく、読みやすくすこぶるおもしろい。原の現代語訳では、尊福は教部省宛て請願書でこう言っている。
「オホクニヌシが幽冥の大権を握り、この国土に祭っている霊魂や、幽冥界に帰ってきた人の霊魂を統括なさるのは、天皇が顕界の政治を行って万民を統治なさるのと違わない」「このようにオホクニヌシが幽冥の大権をお取りになるからには、神の霊魂も人の霊魂も、みなオホクニヌシが統治なさるわけであるから、すべての神社を統括するのもまた出雲大社であるべきなのは、議論するまでもないことである。」
さらに尊福の筆は激しくなり、密かに書かれたという「神道要章」には、次の文章があるという。
「大地の支配者であられるオホクニヌシのおかげによらなければ、天つ神の高い徳を受けることができないゆえんを明らかにして、天つ神を崇敬するにしても、まず大地の恩が大切であることを謹んで感謝しなければならない」
原は「このようにして尊福は、わかかりやすい言葉で、信徒に対してアマテラスよりもオホクニヌシをまず第一に尊敬しなければならないことを主張した」と解説している。
尊福の言は、表向き「顕幽」同格のごとくではあるが、幽冥界の王こそが真の王であり、顕界の天皇を凌ぐものとの気概を感じさせる。伊勢派は、尊福の説を危険思想として、「皇位を軽んずるもの」「わが国体を乱るもの」「国体上に大関係ありて、民権家の説に類似す」と攻撃した。「出雲の神は、かつて天孫系のため圧迫されて譲国したので、その数千年来の宿怨を霽らすために、今度出雲が立ったのである。それならばこそ出雲系の直系が、皇室を凌ぐような議論も出て、その点で千家を暗殺せんとする騒ぎもあった」と当時の雰囲気を知る人の回顧録も残されているという。
尊福の説は大いに振るって伊勢派を追い詰めたが、時あたかも自由民権運動の勃興期。天皇制の拠って立つ教説の正統性批判の強大化を恐れた中央政府は、1881(明治14)年に、勅裁によって「祭神論争」の決着をつける。ここに、出雲は伊勢に2度目の敗北を喫した。原の言葉を借りれば、「『伊勢』による『出雲』の抹殺」である。
さらに、原の理解によれば、大国主信仰は大本に受け継がれ出口王仁三郎によって民衆信仰として復活する。しかし、2度にわたる天皇制政府の大本弾圧によって、この教義も息の根が止められることになる。出雲の3度目の敗北である。原は、この事態を「『伊勢』による『出雲』の2度目の抹殺」とする。
このたびの「伊勢」と「出雲」との婚約は、一見有史以来の「数千年来の宿怨」を抱えた因縁を乗り越えたもの如くであるが、実はそうではない。今、両家はモンタギューとキャピュレットの関係になく、婚約者どおしはロミオとジュリエットの悲劇性とは無縁である。その遠因は、「祭神論争」のあとの千家尊福の「転向」にある。彼は、かつての「顕幽」論の内容を変えて国体の尊厳を説くに至り、明治政府に忠誠を誓って政治家へと転身した。伊藤博文の推挙によって「元老院」の議官となり、貴族院議員、埼玉県知事、静岡県知事、そして東京府知事にもなり、司法大臣まで経験している。この尊福の時代に、「伊勢」と「出雲」との蜜月の関係が形成された。
祭神論争は、国家神道・国体思想の形成史において重要な意味をもっているとされる。このとき、明治政府は、天皇の権威を相対化するすべての神々を一掃する姿勢を明瞭にしたのだ。「出雲の抹殺」は、その象徴的なできごとであった。
「国体論議の主な源泉としては、二つあります。一つが平田派国学ですが、もう一つは後期水戸学です。この二つが合流して近代日本の国体概念の歴史的背景になったと見ていいと思います」(原が引用する丸山眞男)と言われる。しかし、平田派の流れを汲む千家尊福の教説も、天皇制を支える教説の純化のために切り捨てられたのだ。
今回の婚約発表は、祭神論争勅裁から130年を経てのもの。既に、両家因縁の歴史は風化していると言うべきなのだろうか。
(2014年6月1日)
私も講演をお引き受けする。月に2度くらいのペース。大きな集会は少ない。たいていは少人数の会合。時間の都合がつく限りは、せっかくの要請に応じたいと思っている。
私は職人として、常に依頼の趣旨に応えたいと思っている。依頼を受けたテーマで、考えをまとめてみる。レジメをつくり、お話しをし、質疑に応答する中で、自分の考えを再整理する。自分の考え方の浅さや、弱点を知ることもできる。講演は、自分に有益なこと。だから、できるだけ同じことの繰りかえしはしないようにと心掛けている。
かつては消費者問題や労働・医療・薬害・司法などかなり広範な分野で講演依頼を受けたが、今は憲法と教育の分野以外にはお呼びがかからない。憲法学者や教育法学者の緻密な講演はできないが、実務家としての経験からお話しすることは、それなりの意味もあろうかと思っている。
このところ、面識のない人から、ブログを見たというだけのつながりで講演依頼を受けることがある。本日も、典型的なそのような小集会での講演。約2時間半を喋らせてもらった。
本日の講演のタイトルは、「安倍政権の改憲戦略を点検する?自民党改憲草案・96条先行改憲論・解釈変更による集団的自衛権行使容認?」というもの。
安倍政権は「戦後レジームから脱却」して、「日本を取り戻そう」という。政権がそこからの脱却をめざすという「戦後レジーム」とは、「日本国憲法にもとづく国のかたち・その基本理念」にほかならない。それは、取り戻そうとされている「戦前レジーム」とは対極の価値観から構成されている。
現行の「戦後レジーム=日本国憲法体制」とは、いかなる理念にもとづくいかなるかたちであるかを戦前の天皇制レジームとの比較において再確認することを第1部とし、安倍政権の憲法攻撃の戦略と戦術の概要を第2部とするレポート。
第1部は、今トピックとなっていることよりは、少しベーシックな、近代立憲主義・権利章典と統治機構の関係・個人主義・自由主義・そして福祉国家論に基づく現代立憲主義論…。日本国憲法の中の近代憲法・現代憲法としての普遍的な側面と、近代天皇制がもたらした戦争の惨禍への徹底した反省にもとづく固有の側面。戦後の逆コースの中の憲法の受難の歴史と、憲法を支えた歴史。そして、これまでの保守政権とは明らかに異なる安倍政権の性格。
そして、第2部。安倍政権の本音は、2012年4月公表の自民党改憲草案と7月の国家安全保障基本法案に明らかであること、これを実現すべく96条先行改憲を目論んだが、意外に強硬な世論の反撃に一歩退いて、解釈改憲に主力を注いでいること。しかし、96条先行改憲論への批判の理由とされた、「立憲主義に悖る」・「姑息なやり方」・「裏口入学的手口」などはより強く妥当する。
解釈改憲の対象は憲法9条2項。その解釈を変更して、集団的自衛権行使容認を認めようという策動。限定的容認も憲法の歯止めを外すことにおいて許してはならない。だいたいが、6項目の条件は憲法上限定の意味をなさない。15事例は、牽強付会にリアリティを欠くというだけでなく、法的には集団的自衛権行使の瞬間に、「敵」となった勢力から、日本の領土を攻撃されることを甘受しなければならないことになる。54基の原発を抱えた日本のどこもが標的となるのだ。その危険を負うことは到底できない。結局は、現実に戦争加担する選択肢はないものと考えざるを得ない。
立憲主義は必然的に憲法を硬性とする。明文改憲ができないから解釈で事実上の改憲を行うなどは、本末転倒も甚だしい、あるまじきこと。
講演後、的確な質問が相次いだ。
まずは、「私には、憲法9条を素直に読んで、専守防衛の範囲であれば軍事力を持てるというこれまでの政府解釈が可能だとは到底思えない。だから、『自衛隊を専守防衛の実力組織として守れ』とか、『その変質を許してはならない』などというスローガンに抵抗を感じる。これまでの自民党政府や内閣法制局の解釈を擁護しようという運動が正しいのでしょうか」という、あまりに真っ当なご質問。
「私(澤藤)も、憲法9条を字義のとおりに素直に読んでの理解はご質問の方と同じです。日本は、戦争の惨禍の反省から、『陸海空軍その他の戦力を持たない』という方法で不再戦を実行しようとしたはずで、警察力として必要以上の武力をもつことは違憲だと思います。また、憲法が命じる武力をもたないことが平和を守ることにつながるとも思っています。軍事力を持つことによって、平和を守れるということの方がリアリティーに乏しい。
しかし、そのような主張や論争は今重要ではない。自衛隊違憲論者も、専守防衛論者と一緒になって、集団的自衛権行使容認には反対という共通のスローガンで世論を喚起しなくてはならない、そう思っています。それは、『自衛隊違憲の考えを撤回せよ』ということではなく、考え方の違いは認めつつ、戦争防止の歯止めを外してしまおうとする危険な策動に対して、共同して闘うことがより重要だということです。それが、『共闘』というものの基本的な在り方ではないでしょうか。」
続いて、ズバリ核心に触れるご質問。「憲法の解釈というのは、時代により、事情の変化によって、どこまで許容されるものでしょうか。また、その可否はいったい誰が最終判断をするのですか」というもの。逃げたいが、逃げられない。
「憲法の解釈には、なによりも国語としての文理の限界があるはずです。国語としての意味の通常の理解を超える解釈は、無理な解釈として法的安定性を損なうことになります。9条2項に関するこれまでの政府解釈は、かろうじて可能な解釈の範囲と言えるかも知れません。しかし、集団的自衛権の行使まで認めるとなったら、明らかに許容される解釈の限界を超えることになるといわざるを得ません。
憲法解釈の最終判断は、最高裁大法廷がする建前です。しかし、最高裁はおそらく判断はしない。逃げるでしょう。『そんな国の運命に関わる重要な判断は、自分たちには荷が重すぎて判断するに適当ではないから辞退する』というのが逃げ口上。これが、砂川事件の大法廷判決が示した統治行為論です。任務放棄の司法消極主義として批判されてはいますが、要は三権分立のバランスをどうとるべきかの考えによるもので、荒唐無稽なことを言っているわけでもない。
では、内閣が強引に閣議決定をしてしまえばそれまでのことか、といえば必ずしもそうでもない。国民的な批判、非難による弾劾はあり得ます。結局は、最終的には国民自身の判断によるとしか言えない。国会の論戦。メディアの批判。規模は小さくても今日のような学習会の積み重ね。そのことによって形成された世論が、選挙を通じて政権を動かし得るとなったら、事態は劇的に変わるのだと思います。
安倍政権は、事実上96条先行改憲論を引っ込めざるを得なくなっています。国家安全保障基本法も今は国会に出せるような状況ではない。集団的自衛権行使容認の提案撤回も、もう一歩のところと思います。あらゆる世論調査が、安倍政権の解釈改憲提案に反対意見が多数であることを示しています。地道に世論を積み重ねる努力をする。これ以外に王道はないと思います。
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憲法解釈変更への閣議決定に反対するネット署名への協力のお願い
桜美林大学の阿部温子さんご提案の署名運動です。要請文を転載します。是非ご協力ください。また、拡散もよろしく。サイトのURLは以下のとおりです。
http://www.avaaz.org/jp/petition/petition_537ae73e1c8ad/?launch
『日本国内閣総理大臣 安倍晋三氏へ:閣議決定による憲法解釈変更は絶対に認めない』
安倍政権は、集団的自衛権の行使容認という、過去6年以上にわたって行われてきた憲法解釈の変更を閣議決定で行う最終段階に入ろうとしています。良識ある市民、学者、研究者から見れば、この行為はまさしく民主主義の放棄に他なりません。
戦後70年近く日本が歩み続けてきた民主政の根底にあるのは、法の支配や人権と言った普遍的価値であり、その普遍的価値を一時的な熱狂を追い風にした時の権力が踏みにじることを防ぐための装置が権力分立や立憲主義であったはずです。
三権分立原則という義務教育の中でも徹底されているはずのことが、行政権力の長によっていとも簡単に覆されようとしているのです。本来であれば、最終憲法解釈は憲法裁判所が担うところを日本の場合は最高裁判所がその役を兼務する構造になっています。しかし現政権は司法府の権限であるべき最終憲法解釈まで、行政府の長が行うものと豪語しているのです。なぜなら自分は国民の信託を受けているからと。ならば解散総選挙を行って真に国民の総意を問うのかというわけではなく、または国会という国権の最高機関で審議を行うでもなく、過去の裁判例をむりにねじ曲げて最高裁判所の権威を愚弄し、「ひっそりと静かに」内閣という行政部内のみで決定してしまおうというのです。このような三権分立の否定は、民主主義を蹂躙するものに他なりません。
なによりもその決定しようとしている事項は、戦後67年にわたって日本が平和であり続け経済的繁栄を享受できたその礎にあったルールに関わるものです。
そのような国家のあり方を根本から変えようとする事項を、立法府にも司法府にも無断で行政府だけで勝手に弄べてしまっては、もはや国家は完全にたがの外れた怪物として国民にはどうにも制御できなくなります。ルールが不都合だから、ルールを迂回しよう・無視しようというのは、ことにそのルールが国家のあり方の根幹に関わるような重要原則である場合、ありとあらゆるルールの信用を失わせ国家の道筋を見失わせることになり、果てしのない破滅への道を転がり落ちていく定石といえます。先に憲法96条改正という卑怯なやり口が失敗したがために、新たな手段に出たわけですが、この「都合の悪いルールは勝手に変えよう」というのが現政権の基本姿勢のようです。
集団的自衛権自体については様々な意見があるでしょう。ですが、私が皆さんに訴えたいのは、この手続きは間違っている、このやり方は私たちが20世紀前半の過ちを忘れて繰り返していることなのだということです。ですから、この訴えはあくまでも閣議決定で憲法解釈の変更は絶対にしてはならない点を主眼としています。国民として、市民として、あの時何もしなかったから、日本は民主主義国家ではなくなってしまったということにならないよう、どうか、閣議決定による集団的自衛権行使容認という憲法解釈変更に反対する署名をお願いします。
(2014年5月31日)
昨日(5月29日)のソウル聯合ニュースが、韓国放送公社(KBS)労組のストライキ突入記事を配信している。これは、大きな注目に値する。
「韓国旅客船セウォル号の沈没事故をめぐり、韓国放送公社(KBS)の吉桓永(キル・ファンヨン)社長が青瓦台(大統領府)の意向を受け、政府批判を自制するよう指示したとの疑惑が浮上している問題で、KBS理事会は29日、吉氏の社長解任案提出の是非を問う表決を来月5日に延期することにした。これを受け、吉氏の退陣を求めていた同社の二つの労組は同日午前5時からストライキに入った。
KBS理事会は同社の独立性や公共性を保障するため、経営などに関する決定を下す最高議決機関。11人の理事で構成され、与党が7人、野党が4人を推薦し、大統領が任命する。
KBS理事会は今月26日、臨時理事会を開き、報道の公正性を損ねたなどとして、吉氏の社長解任提出案を上程した。
これに先立ち、「全国言論労組KBS本部(新労組)」と「KBS労働組合(1労組)」は吉氏の解任提出案を可決しない場合、ストを実施するとしていた。1労組には技術や経営職など約2500人、新労組には記者やプロデューサーら約1200人が所属している。2010年に新労組が発足して以来、両労組が同時にストを行うのは初めて。
KBS記者協会とKBS全国記者協会による19日からの業務中断でニュース番組が短縮されるなど、同社の報道機能はすでに事実上まひしている。ストにより、統一地方選(6日4日投開票)やサッカーワールドカップ(W杯)ブラジル大会などにも支障が生じる見通しだ。」
KBSは、日本のNHKに相当する公共放送。受信料収入で経営されている。KBSとNHK、ちょっと似てるが大きく違う。その報道姿勢や職員のジャーナリストとしてのプライドには雲泥の差がみえる。今回のこのストライキ。韓国国民からの信頼獲得に大きな財産となるにちがいない。ワールドカップが放映されないことなど、些事としてとるに足りない。
このストライキは、職員の労働条件の改善を求めてのものではなく、政権との癒着の疑惑あるKBS社長の退陣を求めてのもの。全職員が総力をあげてKBSの公正な報道に関する国民の信頼を勝ち取ろうという要求なのだ。労組側は、「人々が信じられる放送メディアをつくるという目標をもってのスト」と言っている。「敬意を表する」程度の讃辞では足りないと思う。それに比較して、わがNHKにおいては…、と考え込まざるを得ない。
韓国で起こったとされていることを、時系列で要約すれば以下のとおり。
*大統領府からKBS吉社長に政府批判自制の要請があった
*これを受けた吉社長が、政府批判を自制するよう内部に指示した
*そのことを不都合としてKBS理事会が吉氏の社長解任案を上程した
*28日に予定されていたその評決が延期となった
*これを不満として労組がストに突入した
KBSをNHKに置き換えてみよう。その場合、大統領は首相に、吉社長は籾井会長に、理事会は経営委員会に置き換えることになる。日本で、以下のようなことが起こっても不思議はないのだ。
*安倍首相が、お友だち人事で籾井勝人をNHK会長に据えた
*籾井会長は首相の意を受けて「政府が右といえば左とは言えない」と発言
*一連の会長の言動を問題に経営委員会が会長の罷免案を上程した
理由は、「報道の公正についてNHKの信頼を損ねた」というもの
*ところが、官邸からの圧力あって、その評決に至らない
*業を煮やしてNHK職員の労組が全組織を挙げてストに突入した
このタイミングで、元NHKに勤務していた堀潤が主宰する「市民投稿型ニュースサイト8bitNews」にKBS労組委員長のインタビューが掲載されている。
http://8bitnews.org/?p=2565
のサイトでの組合側の言い分は、以下のとおり格調が高い。
「報道局長が会見で社長の行為を告発しました。大統領府からニュースに関する圧力がかかっていたというものです。その過程で、KBSの社長が報道に干渉したという情報がありました。公共放送の本来の役割を取り戻すために、まず社長職から退いて、さらに朴大統領が謝罪しなくてはいけないと思っています。」
「KBSの社長を大統領が任命するという今の構造が根本の問題です。KBSの社長は大統領の顔色を常にうかがっており、実際の人事を決める過程でも影響を与えています。社長の任命にとどまらず、政府の意向は社長が任命した報道局長や部長などに連鎖していくので、そうした連鎖を断ち切らなくてはいけないのです。構造を変える必要があります。公共放送の基本的な使命である真実の報道、国民の知る権利の保障が重要です。これらをどうやって守っていくのかというがメディア人の役割だと思っています。人々が信じられる放送メディアをつくるという目標をもってこのストを進めています。」
「KBSでは1990年4月にもこうした、政権に対立して公共放送の独立性を求めるストがありました。放送民主化闘争です。2000年にも長期にわたってストもありました。不利益、解雇や転職もありましたが、KBSの構成員たちは使命を守るために恐れもなく闘ってきました。」
「KBSという公共放送は国民の財産です。権力者の所有物ではなく国民の財産です。国民の財産を守るために闘っています。闘いの正当性が保証されていますので恐れはないです。今の時期は朴政権の初期にあたります。韓国の政治状況は大統領の配下で絶対的な権力をもっていると見えます。大統領の意向は絶対的な権力です。ですから今までも大統領に対する批判を自制する風潮はありましたし、一方で数多くの言論人達がそれを克服しようと努力しております。」
韓国に学びたい。韓国に学んで、われわれもNHKを批判の世論で包囲しなければならない。「人々が信じられる放送メディアをつくる」ために。切実にそう思う。
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具体的な受信料支払い凍結の手続については、下記のURLに詳細です。是非とも参照の上、民主主義擁護のための運動にご参加ください。
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運動の趣旨と具体的な手続については、下記URLからどうぞ
http://kgcomshky.cocolog-nifty.com/blog/2014/02/post-3030-1.html
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☆抗議先は以下のとおり
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〒150-8001(住所記入不要)NHK放送センター ハートプラザ行
※電話の場合 0570?066?066(NHKふれあいセンター)
※ファクスの場合 03?5453?4000
※メールの場合 下記URLに送信書式のフォーマット
http://www.nhk.or.jp/css/goiken/mail.html
☆抗議内容の大綱は
*籾井勝人会長は即刻辞任せよ。
*経営委員会は、籾井勝人会長を罷免せよ。
*百田尚樹・長谷川三千子両経営委員は即時辞任せよ。
*経営委員会は、百田尚樹・長谷川三千子両経営委員に辞任勧告せよ。
こちらもよろしくお願いします。
(2014年5月30日)
大海の磯もとどろに寄する波 割れて砕けて裂けて散るかも
ご存じ、金槐和歌集に所載の鎌倉第三代将軍・源実朝の歌。今の日本維新の会の状況を的確に歌い上げている。
訳解すれば、次のようなところであろうか。
「これまでは一見威勢よろしく磯もとどろに押し寄せてはみたが、今まさに、進退窮まって、割れて砕けて裂けて散ろうとしているのだ。石原慎太郎も橋下徹も、割れたあとには、砕けて裂けて散るのみ。栄枯盛衰ははかりがたく、世はまことに儚い」
石原慎太郎は、結いの党との合併交渉において、自主憲法制定というスローガンに固執して、党を割る提案をした。分裂といわずに「分党」「党の分割」というのは、政党助成金の配分をめぐっての思惑のなせる業。
自主憲法制定が反憲法の無法者のスローガンであることについては、5月26日の当ブログで論じたところ。下記URLを参照されたい。
http://article9.jp/wordpress/?p=2712
日本維新の会は、地方政党「大阪維新の会」と「太陽の会」が合併してできた。右翼化した安倍自民党を、さらにその右から引っ張ることを役割とした。割れた一方の「太陽」は沈んで、また陽が上ることはあるまい。次の選挙ではたして生き残ることができるだろうか。
もう一方の橋本維新は、結いの党や民主党の一部も巻き込んだ野党再編をめざすとされているが、かつての勢いはない。なによりも、地元で孤立を深めている。
以下は昨日(5月28日)の赤旗の報道。見出しは、「橋下補正予算8.5億円削減」「大阪市議会 校長公募・『都構想』広報費など」というもの。
「大阪市議会は27日の本会議で、橋下徹市長が提出した今年度補正予算案を修正し、民間人校長が相次いで不祥事を起こしている校長公募の関連経費(約2800万円)など歳出約8億5000万円を削減しました。
修正には、維新の会を除く全会派が賛成。校長公募関連の他にも、橋下氏肝いりの東京裁判をテーマにした展示会の開催費や『大阪都』構想の広報費などを全額削除し、家庭系ごみ収集事業の民営化に向けた予算などを削減しました。」
「また本会議では、橋下市長が再提出した市立幼稚園14園を廃止・民営化する条例案を維新以外の会派で再び否決しました。」
大阪都構想が事実上破綻し、強引な政治姿勢は、住民から見放されつつある。市民らが漠然とした期待から喝采を送った時代は終わった。いま、選挙をし直したら、あらゆるところで維新の凋落は目を覆うばかりとなるにちがいない。
維新の存在の客観的な役割は、安倍政権を極右と見せないことにあった。割れた両者とも、これまで同様の役割を担おうとしている。「寄する波」が、割れただけでは無害にならない。「砕けて裂けて散る」までの末路をしっかりと見届けよう。
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(2014年5月29日)
バングラデシュのシェイク・ハシナ首相が、昨日(5月27日)早稲田大学で講演した。同大学が「シェイク・ハシナ首相プロフィール」として紹介するところによれば、「バングラデシュ独立の父・初代大統領ムジブル・ラーマンの長女として生まれる。父、母、兄弟ら一族十数人を軍事クーデタで失い、自身も英国、及びインドで亡命生活を余儀なくされるが、1981年に帰国。野党・アワミ連盟の総裁に。史上最年少で就任し、反政府運動を主導。軍事政権を打倒する。貧困撲滅による社会的公正の達成を信条とした献身的な活動を続けており、1996年に同国首相に就任。2009年から再び首相を務めており、2014年より3期目」とのこと。
同氏は昨日の講演において、亡父ラーマン氏が、独立に伴う1972年の国旗制定時に「日本に魅せられ日の丸のデザインを取り入れた」と述べたそうだ。そのように述べることが、日本への親近感をアピールになるとの思いがあってのことだろう。
以下は毎日新聞の報道。
「バングラデシュ国旗は日の丸とほぼ同じ柄で、豊かな自然を表す緑の地に、独立のために流した血を示す赤い丸が描かれている。ラーマン氏は『農業国だった日本が工業国に発展したように、バングラデシュも将来は工業国になるべきだ』と話していたという。日本とのつながりを強調したハシナ氏は『貧困削減や経済発展には教育が不可欠。日本の援助は喜ばしい』と述べ、友好と経済協力を呼びかけた。」
注目すべきは、バングラデシュ「独立の父」にも、日の丸の赤は血の色を連想させたということである。バングラデシュの「日の丸」は、独立運動家たちが流した尊い血の象徴とされたようだが、さてわが国ではどうだったろうか。
「日の丸の旗はなどて赤い かえらぬ息子の血で赤い」は、よく聞かされたフレーズ。栗原貞子の詩の一節にも取り入れられている。近隣諸国の人々には、侵略戦争の犠牲になった同胞の血の色に見えるだろう。それは、清算され風化した過去のことではない。「かえらぬ息子の血」の色は、まだ拭い去られてはいないのだ。
しかし、もとより白地に赤の「日の丸」は、白い人民の骨の色、赤い人民の血の色をイメージして作られたものではない。素朴な太陽信仰の象形といってよかろう。
異説もあるが、天武朝のころに皇室は太陽を神格化したアマテラスという女性神を皇祖とした。同じ頃、先進国中国に対抗意識をもって日本という国号を使用するようにもなった。後年、そのような歴史的経緯から、「日」のデザインが国旗としての地位を占めるようになる。もっとも、国家の象徴とは無関係に、日の丸のデザインが使用されてはいたようだ。しかし、白地に赤とは限らない。
有名なのは、平家物語「那須与一」の段。ここで弓射の標的とされ射落とされて海に散る日の丸に、神聖なイメージはない。そして、デザインこそ日の丸だが、色は「白地に赤」ではなく、「赤地に金」というのが通説的理解。
平家物語には、「皆紅(みなぐれなゐ)の扇の日出だしたる」が2か所に出てくる。「地の色が『紅』の扇に、金箔で『日』が押し出されているもの」というまだるっこい表現は、日の丸がまだ人々の意識に定着していないことを表しているのではないか。ちなみに、赤ではなく紅。実は、国旗国歌法でも、日の丸の彩色は赤ではなく「紅色」となっている。
いずれにせよ、語り物「平曲」の一番の聞かせどころである。
「沖の方より尋常に飾つたる小舟一艘、汀へ向いてこぎ寄せけり。磯へ七、八段ばかりになりしかば、舟を横さまになす。『あれはいかに』と見るほどに、舟の内より齢十八、九ばかりなる女房の、まことに優に美しきが、柳の五衣に紅の袴着て、皆紅の扇の日出だしたるを、舟のせがいにはさみ立てて、陸へ向いてぞ招いたる。」
「与一鏑を取つてつがひ、よつぴいてひやうど放つ。小兵といふぢやう、十二束三伏、弓は強し、浦響くほど長鳴りして、誤たず扇の要ぎは一寸ばかりを射て、ひいふつとぞ射切つたる。鏑は海へ入りければ、扇は空へぞ上りける。しばしは虚空にひらめきけるが、春風に一もみ二もみもまれて、海へさつとぞ散つたりける。夕日の輝いたるに、皆紅の扇の日出だしたるが、白波の上に漂ひ、浮きぬ沈みぬ揺られければ、沖には平家、船ばたをたたいて感じたり。陸には源氏、箙をたたいてどよめきけり。」
金色の丸は頭上に輝く太陽で、日の出の太陽を表すものではない。平家物語を日の丸の起源とすることには無理があろう。日の丸は、その出自において宗教色濃厚なものではあるが、血の色と結びつく好戦的なものではなかった。「日の出の色」を「血の色」のイメージに変えたのは、天皇制政府の責任である。
(2014年5月28日)
「たちかぜ」裁判の劇的な高裁逆転認容判決が4月23日。上告期限が徒過して判決が確定したのが5月8日。判決確定を受けた13日の河野克俊海上幕僚長記者会見が、なかなかのものだった。「判決を正面から重く受け止め、再発防止に万全を期す」とした上で「個人的な気持ちとしては直接、出向いて遺族におわびしたい」とまで述べた。また、内部告発した3等海佐については「処分する考えがない」と明言もしている。
そして、25日には、先の自らの言葉のとおり、自身が宇都宮市のいじめ被害者遺族宅を訪れて謝罪した。遺族が弁護士を通じて「真摯に謝罪していただいた」とコメントしているところからみて、おざなりのものではなかったことが窺える。
しかも、同幕僚長は遺族への謝罪を終えたあと、報道陣の取材に応じ、「長年おかけしたご苦労とご心痛におわびしたいという気持ちでやってきた。いじめをなくすことが大前提だが、周囲もいじめを見過ごさないような組織にしていきたい」と再発防止に取り組む考えを示したと報道されている。「周囲もいじめを見過ごさないような組織にしていきたい」と海自の体質改善に言及したのは、内部告発をした3等海佐について単に「処分する考えがない」という以上に一切の差別をしないという強いメッセージと解すべきだろう。事件を起こした海自の体質は責められるべきだが、判決確定後に海自の最高幹部がここまでの謝罪のコメントをしていることは評価に値するというべきではないか。
私は、自衛隊の存在が違憲との立ち場である。しかし、現実にある武力組織が、法とシビリアンコントロールに服し、理性的な集団でなければならないことは当然である。その側面からの自衛隊の在り方に大きな関心を寄せている。
旧軍の新兵いじめは半端なものではなかった。私の年代の誰もが、子どもの頃に多くの大人たちから聞かされたことだ。人間性を抹殺しなければ使い物になる兵隊は育たず、精強な軍隊は作れない。そのような考え方が浸透していたのであろう。軍事組織である以上、所詮は自衛隊も同じようなものに違いない。そう思っていた。
だから、最初に「たちかぜ・いじめ自殺」事件を知ったときには、「やはり、自衛隊よおまえもか」という受けとめ方だった。ところが、訴訟の進展の中で、堂々と真実を内部告発する現役自衛官がいることを知って仰天した。「たちかぜ・内部告発」事件は、旧軍とは異質のものを自衛隊に見ざるを得ない。
内部告発者は組織から疎まれることが通り相場である。村八分にさえなる。奮闘の末に結局は組織から追い出されるのがありがちな結末。ところが、本件では3等海佐が針のむしろにいる様子は伝わってこない。実は、海上自衛隊なかなかの開明的組織のごとくである。
旧軍ではこうはいくまい。旧軍で横行していたいじめが表沙汰になり問題視されることはなかった。いじめによる自殺があっても、闇に葬られた。天皇の軍隊にあるまじきものは、ないことにされたのだ。いじめ自殺についての遺族の責任追及提訴などは考えられるところではなく、現役軍人の内部告発も、軍のトップが遺族に謝罪するなどもあり得ないこと。旧軍と比較して自衛隊は確実に変わっているというべきなのだろう。
以上のとおり、海自トップの遺族への謝罪の真摯さと再発防止の努力を評価して、海自について好印象を受けた。昨日までは。しかし、今朝の紙面で、また評価は逆戻りとなった。「元海自トップ」の言動によってである。
毎日新聞東京朝刊5面に、「元海自トップ 国民の了解取らなくても」という記事が掲載されている。集団的自衛権問題についての連載調査記事。
「『どこかの党が民意、民意と言っているが、外交・防衛は皆さんに任せたんです』
集団的自衛権の行使容認をめぐり、自民党が26日開いた安全保障法制整備推進本部の会合。古庄幸一・元海上幕僚長は、国民は外交・防衛政策を政権党に全権委任したといわんばかりの理屈を語り、こう踏み込んだ。『国民にいちいち了解を取ると言わなくても問題ない。世論調査にうんぬんされる必要はない』」
これはひどい。こんな幹部が統率している自衛隊では危険極まる。自衛隊に甘い言葉をかけるわけには行くまい。この人、「小泉政権当時の2003〜05年、海上自衛隊トップを務め」、その当時には「政府・自民党が目指す自衛隊の活動範囲の拡大を後押しする発言を続けた」と紹介されている。
旧軍は、「天皇の軍隊」という建前を最大限に利用して軍への批判を封じた。「玉座を以て胸壁となし、詔勅を以て弾丸に代へ」た姿勢は、全軍のものだった。自衛隊には、それがない。だから、海自トップの遺族への真摯な謝罪ができることになる。ところが、天皇に代わる「政権」に盲従するとなると、旧軍と同様の批判拒否の体質になりかねない。
すべての行政機関は、その権能を主権者国民から信託を受けたものとして、その権限行使に慎重でなくてはならない。政権与党の会合において、「国民にいちいち了解を取ると言わなくても問題ない」という、国民軽視の傲慢な姿勢は到底容認できない。遺族の感情をおもんばかり誠実に謝罪の意を表明する現役の海自トップと、「世論調査にうんぬんされる必要はない」と与党を焚きつける元海自トップ。やはり、軽々に海自を評価すべしなどと言ってはならないようである。
(2014年5月27日)
わが国では、「護憲派」と「改憲派」が熾烈に争っている。この二つの勢力とはべつに、改憲派から距離を置いた「自主憲法制定派」なるグループがある。ここに、ごく小数の穏やかならざる人々がいる。
「改憲」とは、現行憲法の根幹は認めたうえで、枝葉の刈り込み方を変えること。これに飽きたらぬとするのが「自主憲法制定」。現行憲法を根こそぎ変えてしまおうということなのだ。穏やかならざる所以である。
憲法改正には、「手続きにおける制約」と「内容における限界」とがある。現行憲法が定めた手続にしたがってでなくては改正はできないし、現行憲法が想定している限界を超えない範囲での改正しかできない。根幹を変えてしまうことを「改正」とは言わない。根幹を根こそぎ変えてしまおうとの魂胆あればこその「自主憲法制定」なのだ。現行憲法の普遍性に挑戦して根幹を変えてしまうことは、極端に危険なことと指摘せざるを得ない。日本国憲法が根幹としている人権尊重・国民主権・平和主義を変更しようなどとは、まことに穏やかではない。
「押し付けられた憲法に無効を宣言して、われら日本民族が自主的に新しい憲法を作るのだ」「改憲手続にこだわる必要はない。憲法改正の限界など無視せよ」という勇ましい主張が、自主憲法制定派の本音である。憲法改正の限界を突破しようという意図がなければ「憲法改正」のスローガンで十分。わざわざ、「自主憲法制定」というのは、人権よりも秩序が大好き、国民主権は嫌いで天皇主権にノスタルジーをもち、隣国に舐められる平和よりは勇ましく戦争ができる国にしたい、と考えているからなのだ。
「自主憲法制定」は、長く自民党の「立党の精神」、ないしは「党是」とされてきた。現在なお、自民党のホームページには、保利耕輔・憲法改正推進本部長の「今こそ自主憲法の制定を」というコラムが掲載されている。その冒頭の一句が「自主憲法制定は立党以来のわが党の党是だ」というもの。
しかし、厳密にみると立党宣言にも綱領にも「自主憲法制定」の用語はない。1955年11月15日付の「党の政綱」に「平和主義、民主主義及び基本的人権尊重の原則を堅持しつつ、現行憲法の自主的改正をはかり、また占領諸法制を再検討し、国情に即してこれが改廃を行う」との文言をみるだけである。これが、立党当時の自民党の姿勢。安倍政権の現状に比較して、なんと温和しいものであったか。
以上のとおり、「自主憲法制定」は自民党全体の党是というよりは、自民党極右派のスローガンに過ぎなかった。自民党主流は、国民世論の動向を慮って、長く憲法改正には手を付けないという現実的対応をしてきた。これを不満とする右派も、改憲を叫んでも自主憲法制定にこだわりを見せてはいない。自主憲法制定は、一握りの極右のスローガンとみるべきだろう。
その「自主憲法制定」という古色蒼然たるスローガンが、自民党ではなく日本維新の会から持ち出され、友党と位置づけられている結の党にこれを呑むよう突きつけられている。いま、これが両党合併のネックになっているとして、にわかのクローズアップである。
報道されているところでは、日本維新の会が、結いの党との合流後の共通政策に「自主憲法の制定」を盛り込む方針を決めた。石原慎太郎、橋下徹両共同代表が21日に名古屋市内で会談して一致したという。結い側は、今のところこれを拒否して合併協議は難航している。維新の会側の現時点における提案内容は、政策合意案に「憲法改正手続きを踏まえた自主憲法制定による統治機構改革」と明記することだという。結いの江田憲司代表は、「野党再編の芽を摘む『自主憲法制定』の言葉はのめない」と述べ、削除を求めている。
「維新の執行役員会で石原慎太郎共同代表は『(自主憲法制定は)政治をやってきた中でものすごく大事な言葉だ』と主張した。これに対し、松野頼久国会議員団幹事長らが『自主憲法制定は党是ではない。他党議員も受け入れられないと言っており、野党再編にプラスにならない』と再考を迫った」(朝日)。また、「石原共同代表が『私が国会に戻ってきたのは、自主憲法制定を実現するためだ』と持論を繰り返し、橋下共同代表も同調」という空気で、これに対し、「結いの江田代表は『(自主憲法制定は)現行憲法の破棄という意味があり、絶対に受け入れられない』と強調した」(産経)などとも報道されている。
このような、憲法問題の根幹をめぐる認識の齟齬は、「言葉の表現だけの問題」ではない。「大した問題ではない」「大人げない」で済ませてはならない。維新と結い、いざ合併の協議において、これだけの基本見解の隔たりを明確にした。今回の協議を玉虫色に乗りきったとしても、合併後の党運営で水と油のグループ間対立を招くことが必定というべきだろう。
今ですら、維新の会が「両頭の鷲」状態で、統一した政党の体をなしていないのは周知の事実。憲法問題不一致のままの合併では、「三頭のカラス」になってしまうだろう。
維新の会は、明言すべきである。「わが党は、自主憲法制定のスローガンを立て、基本的人権・国民主権・平和主義には手を付けてはならないとする憲法改正の限界に果敢に挑戦する」と。
有権者は、明瞭に認識すべきである。「維新の党とは、基本的人権・国民主権・平和主義という憲法原則を廃棄する魂胆をもつ危険な政党であること」を。
「自主憲法制定」のスローガンは、それだけの重みをもっている。これを奉じる論者は現行憲法秩序を根底から否定するアウトロー、つまりは無法者の立ち場なのだから。
(2014年5月26日)
「竹富町教科書採択問題」が、一応の決着をみた。
小さな竹富町が、文科省・自民党文教族と対等以上に渡り合って一歩も引かず、結局は育鵬社教科書の押しつけ拒否を貫徹した。沖縄県も竹富町も、下村博文文科相の嫌がらせと恫喝に屈することなく毅然たる姿勢を堅持し、文科相は振り上げた拳の下ろし場所を失ったまま終局を宣告せざるをえない事態となった。公権力による子どもたちへの、国家主義教科書押しつけ策動の失敗。痛快の極みである。
5月21日、沖縄県教委は教科書無償化法改正に伴う採択地区の再編手続において、八重山採択地区(石垣市・与那国町・竹富町)から竹富町を分離独立させ、「竹富採択地区」を新設することを決めた。竹富町の要望を容れた「満額回答」である。これで、竹富町教委は、後顧の憂いなく単独で教科書を採択できるようになった。正確に言えば、これまでも採択の権利はあったのだが、無償配布は拒否という文科省の嫌がらせを甘受せざるをえなかった。来年度からは、竹富町立中学校生徒に東京書籍版公民教科書の無償配布が実現する。
この県教委の決定に対して、文科相は「無償措置法の趣旨を十分踏まえたものとは言い難く、遺憾だ」と不満を述べていた。その不満を形に表す最後に残された恫喝手段が竹富町に対する違法確認訴訟の提起であったが、5月23日文科相は記者会見でその断念を公表した。文科省は、これまで育鵬社教科書の採択を拒否した竹富町には教科書無償配布を行わず、さらには育鵬社版の教科書を使えと異例の「是正要求」までして圧力をかけて、精いっぱいの恫喝と嫌がらせをしては見た。しかし、腹の据わった相手にブラフが通じず、拳を下ろさざるをえなくなったという図なのだ。教科書採択の権利が教育委員会にあるというのが、一貫した文科省の見解であった。竹富町側に違法があるという主張が明らかに無理筋なのだ。
むしろ、採択地区内の各教育委員会の意見がまとまらないからとして、竹富だけに教科書の無償配布を拒否した文科省の違法をこそ問題としなければならない。協議がまとまらなかったことにおいて同じなのに、育鵬社版を採択した石垣と与那国には無償配布を実行しているではないか。東京書籍版を採択した竹富だけに無償配布を拒絶したことは筋が通らない。文科省・文科相の歴史修正主義教科書採択加担の姿勢が余りに露骨ではないか。
そもそも、八重山採択地区の事前調査において、東京書籍版が最高の評価を得ていた。育鵬社版は最低評価。担当教科教員でこれを推薦する見解は皆無だった。真摯に教育の在り方を考える立ち場からは、竹富町教委の姿勢こそが常識的で真っ当なもの、国や歴史修正主義勢力に擦り寄った石垣・与那国の方がおかしいのだ。
5月22日の琉球新報社説「竹富分離決定 妥当な解決を国は阻むな」の言辞の厳しさに驚く。この件について、沖縄の良識がどれほど怒っているかが伝わってくる。下記の抜粋に目を通されたい。
「下村博文文科相は竹富の単独採択を阻みたい考えを露骨に示してきた。自民党内でも分離を疑問視する声がある。だが…自治体が工夫して導いた解決を国が不当に介入して阻害するのは断じて許されない」「問題は、八重山採択地区協議会会長が規定を無視して独断で採択手順を変更したことに始まった。極めて保守色の強い育鵬社版教科書を恣意的に選ぼうとしたのは明らかだ」
「下村氏らは(竹富町の教科書採択を)教科書無償措置法に違反すると強弁するが、無償の措置を受けていないのに、無償措置法違反とは矛盾も甚だしい。地方教育行政法は市町村教委の教科書選定を定める。この法に照らせば竹富は明らかに合法だ」
「政府は竹富の措置について『違法とは言えない』とする答弁を2011年に閣議決定し、先日も内閣法制局が答弁は有効と述べた。だが下村氏ら自民党文教族は違法だと非難し続ける。権柄ずくの、理性に欠ける態度と言うほかない」
「教科書無償措置法改正に伴う政令が近く出る。保守的な教科書が採択されるよう、採択地区の構成を国が恣意的に定める政令を出すのではないか。そんな危惧を聞く。政治家の利益を図るための、教育への政治介入は許されない」
沖縄タイムス社説「『竹富分離決定』地域の主体性生かそう」(5月23日)には、以下の解説がある。
「八重山教科書問題は、そもそもなぜ起きたのか。
2012年度の中学校公民教科書の選定をめぐり石垣、竹富、与那国の教育長らで構成する『八重山採択地区協議会』の玉津博克会長(石垣市教育長)が、これまでの選定ルールを突然変えたのが発端だ。選定ルールの変更は、保守色の強い育鵬社版の教科書の使用を決めるのが目的だった。これに反発した竹富町が結果的に、文科省から是正要求を出された。
国の不当介入が、八重山教科書問題をいびつに発展させてきたのは論をまたない。だが、足元の『ゆがみ』にも目を向ける必要があるのではないか。教科書採択をめぐっては、与那国町の教育長も石垣市に同調している。なぜこうしたことが八重山で起きたのか。
玉津教育長は20日、県教委が竹富町を単独採択地区化する方針を示していることを受けて上京。文科省の上野通子政務官との面会後、自民党文科部会にも出席し、県教委の姿勢を批判した。玉津教育長はこの際、記者団に『八重山は教育も行政も経済も一体だ。教科書だけ別というのは理解できない』と述べている。
竹富町の分離を余儀なくしたのは玉津氏ではないか。その張本人が、『八重山の一体化』を強調するのは皮肉に響く。とはいえ、玉津氏の指摘に一理あるのも事実だ。
八重山の3市町は、…政治的な立場の違いを超え、観光などの分野で協調してきた。今回の竹富町の分離で、八重山社会全体に亀裂が波及する事態は避けなければならない」
問題は、竹富町に関しては決着した。しかし、石垣・与那国では、現場教員に悪評高い育鵬社の教科書が引き続き使われている。教科書採択問題に権力がかくも露骨に介入し、国家主義的・歴史修正主義的な教科書の押し付けにかくも執心していることが見えてきている。何が起きているのかをしっかりと社会に訴えて、自民党文教族や文科省に対抗しうる世論形成に力を尽くさなければならないと思う。
そして、竹富町の奮闘の成果は、おおきな励ましである。いまなら、まだ間に合う。偏頗な教科書の使用を拒絶する闘いは十分に可能なのだ。
(2014年5月25日)