本日、都立校の現役教員7名が東京都人事委員会に懲戒処分の取消を求めて審査請求を申立てた。それに伴う記者会見を、都庁で行った。被処分者の会の代表と事務局長、4人の審査請求人、そして弁護団から私が出席した。
この現役教員7名に対する戒告処分は、昨年12月17日に発令された。実は、この7人の方、いずれも同じ行為で2度目の処分を受けたもの。みな、怒り心頭。事情はこうだ。
よく知られたとおり、都教委は累積加重の処分を重ねてきた。式典での国歌斉唱時の不起立1回目は戒告。2回目目は減給(10分の1・1か月)、3回目目は減給(10分の1・6か月)、4回目は停職(1か月)、5回目は停職(3か月)、6回目は停職(6か月)…である。
これは、思想転向強要システムにほかならないとして、さすがに行政に甘い最高裁も、減給以上の処分をすべて違法として取り消した。このような取り消しが今のところ、25人30件に及んでいる。
昨年12月に戒告処分を受けた現役の7人は、いずれも減給処分の違法を争って、最高裁まで争って勝訴判決を得た人々である。都教委の違法な処分によって、有形無形の大きな被害を受けてきた人たち。ようやく訴訟に勝訴したら、都教委は「減給処分だったから裁判に負けた。改めて戒告処分として出し直す」とされた。これはひどい。
刑事事件では一事不再理という原則がある。警察も検察も、一度無罪になった事件を蒸し返してはならない。「あの事件、窃盗として起訴したら無罪になった。じゃ今度は横領で起訴だ」などということは許されない。今回の都教委がやったのは、実質的に同じことだ。「減給処分は違法で取り消しか、それなら今度は戒告だ」というもの。
都教委は、25人30件の裁判で負けて処分を取り消された。このことを深刻に受けとめなければならない。あの行政に甘い最高裁に、「いくら何でも、都教委のやり方はひどい」と違法の認定を受けたのだから。
仮にも法治国家の行政の一翼を担う都教委である。最高裁からアウトの宣告を受けたら、形だけでも、口パクでも、過酷な処分をされた教員に謝罪しなければならない。なぜ違法な行為に及んだのか原因を究明しなければならない。そして、責任者を明確にし、再発の防止策を真剣に考えなければならない。その過程を、都民に説明し、明らかにしなければならない。これが、今の世の常識。
ところが、都教委はやるべきことをまったくやらない。謝罪も反省もしない。責任者の追及も再発防止策も、何もかも。他人には過酷で自分には甘い。絶対に自分の間違いを認めようとしない、恐るべき体質。やるべきことをすべてネグレクトして、都教委がやったことは開き直りの八つ当たりだった。
最高裁の法廷意見は、処分の違憲性までは認めなかった。しかし、多くの裁判官が異例の補足意見を書いている。「なんとか都教委のイニシャチブで教育現場を正常化してもらいたい」「そのために、話し合ってはどうか」「まずは都教委が謙抑的であるべきだ」というもの。これを受けて、都教委が歩み寄りの姿勢を見せるのかと思いきや、この八つ当たりなのだ。
7人の身にもなって見よ。6年も7年も裁判をやって、苦労を重ねてようやく最高裁で裁判に勝ったのだ。こうして減給処分を取り消したら、「改めての戒告処分として出し直しだ」という。人事委員会の審査請求から始めて、最高裁まで。気が遠くなるような闘いをまた始めなければならない。
今日の記者会見では、4人の教員が発言した。
「都教委は、私たちのような教員がいなくなることを望んでいます。しかし、記者の皆さん、それでよいのでしようか。多様な意見がひとつにまとめられていくことに危機感はありませんか」「生徒たちには、自分の意見を大切にしなさいと教えています。でも、そのことを言えなくなる雰囲気があります」
石原慎太郎が308万票を獲得した傲りから「日の丸・君が代」の強制が始まった。いま、新知事は石原後継を標榜していない。保守であっても良識を示して欲しい。昨日の初都庁では職員に、「都民からの信頼の回復」を説いたとのこと。それなら、まずは都教委からだ。何とかしたまえ教育委員の諸氏。このままでは、教育現場の「混乱」が続くだけではない。恥の上塗りをすることになりますぞ。
(2014年2月13日)
2016年にはリオで、2020年には東京で、オリンピック・パラリンピックが開催される。それぞれの事情を抱えながら。
「アマゾン河の博物学者」(H.W.ベイツ著 平凡社)は155年前のブラジルの自然と社会を興味深く伝えている。著者はイギリス人の探検家であり博物学者でもあった人。「種の起源の問題を解き明かす」ために、1848年から1859年まで、ブラジルのアマゾン川流域に11年間も滞在し、動植物の採集研究を行った。この著書にはチャールズ・ダーウィンが献辞を書いている。
アマゾン流域の豊富な昆虫や鳥や樹木の織りなす華麗さを描写が見事である。目の前を飛び回るたくさんの種類のチョウチョの美しさを画像で見るかのごとく語ってくれる。「美」だけで無く「死闘」についても、冷酷に記述する。
「シボ・マタドール、すなわち絞め殺しのつるとよばれている無花果(いちじく)の仲間で、・・・私はこの植物をたくさん観察した。・・・マタドールの取りつき方は特異で、たしかに嫌な印象を与える。取りつこうと思う木のすぐ近くに芽をだし、幹の木質部は支持木の幹の片側の表面に、可塑性の鋳型のように、広がりながら成長していく。それからこんどは両側から一本ずつ腕のような枝を伸ばす。それはすみやかに生長するが、まるであふれ出た樹液が流れながら固まっていくかのようである。これは被害木の幹にしっかりとへばりつく。そして二本の腕は反対側で出会うと絡み合って折れ曲がる。こうした腕が上方に登りながらほぼ一定の間隔で出てくる。するとその絞め殺しの木がじゅうぶんに成長したとき、被害木は多数の硬直した環にしっかりと抱きしめられた形となる。これらの環は殺し屋が繁茂するにつれてしだいにより大きく成長し、その葉冠は隣人のそれといっしょになって空中にかかげられるようになる。そして時がたつうちに、彼らは宿主の樹液の流れを止め、それを殺してしまう。その結果そこに残るのは、ほかでもないおのれの成長の援助者であった犠牲者の生命のない腐食しつつある体を腕に抱きしめた、利己的な寄生者の奇妙な姿である。その目的は達せられたーーそれは花を開き、実を結び、繁殖し、種子をまき散らした。そして今や死んだ幹が崩壊するときそれ自身の終わりも近づきつつある。支持木は消え去り、自分もまた倒壊する。」
これを読むと、一瞬、原発利権に群がる企業とそれに絞め殺されそうになっている日本の姿について述べているのかと思ってしまう。たしかにマタドールは悪魔のような木だ。
こんな記述もある。あるポルトガル紳士がアフリカとの奴隷売買禁止のために高騰した奴隷の値段について「以前は1人120ドルで買えたものが、今では400ドルでも手に入れることが困難だ」とこぼしていると書いている。ベイツが滞在していた頃のブラジルは、フランス軍に追い出されたポルトガル宮廷がリスボンからリオデジャネイロに遷都していた時期にあたる。この地は完全にポルトガルの植民地であった。サトウキビ、ゴム、コーヒーのプランテーション経営のため、インディオの奴隷化だけでは足りなくて、アフリカから黒人奴隷を盛んに連行していた奴隷国家でもあった。奴隷制が廃止されたのは1888年、その翌年帝政は廃止され共和制となった。その後やむなく、労働力確保のためヨーロッパや日本移民(1908年笠戸丸がはじめ)が奨励された経緯がある。
さて、その100年後、インディオ、ポルトガル人、アフリカ系黒人、日本人その他諸々の人たちが活気溢れる民主主義国家をつくりあげた。そして今年はワールドカップ世界大会、2年後にはオリンピックを開催しようとしている。そのこと自体は驚くべきことではないけれど、民衆が果敢にオリンピックやワールドカップ開催反対のデモをくり広げていることにおおいに感動する。
ブラジルでの平均月収は都市部でも日本円にして10万円にはるかに届かない。W杯競技場などのインフラ建設など一部の利権者だけが潤う金の使い方や公共料金、税金の値上げに批判が集まっている。学校や病院の整備を先にせよというもっともな要求である。昨年6月にはブラジル中にデモが拡大し、参加者は100万人ともいわれた。今年1月25日にもサンパウロ、リオなど13都市でW杯反対デモがくり広げられ、100人以上が拘束されている。スローガンは、「W杯いらない、ほしいのは医療と教育」
東京ではオリンピック推進派の都知事が選出された。ブラジルとちがって、「オリンピックいらない、原発もいらない」という声はほとんど聞こえない。オリンピック凱旋パレードに50万人もの人が集まっても、オリンピック反対デモには人が寄りつかない。
ブラジルが帝政を廃止して共和制を選んだその同じ頃、日本では万世一系の天皇の帝政を選んだのだから、果たしてどちらが民主主義的民度が高いのだろうか。
(2014年2月12日)
本日は、「建国記念の日」である。国家主義復活を目指す保守勢力と、これに抵抗する勢力のせめぎ合いを象徴する日。憲法の理念のとおりの個人の尊重を重んじる勢力とこれを圧しようとする勢力のせめぎ合いを象徴する日であると言い換えてもよい。
国民の祝日に関する法律によれば、「建国をしのび、国を愛する心を養う」と趣旨が規定されている。「建国」の国とはなんぞや。「国を愛する」の国とはなんぞや。「愛する」とは、なにゆえに、そしていかに。疑問は尽きない。
ところで、祝日法には、「建国記念の日」は「政令で定める日」とのみ規定され、2月11日と特定されているわけではない。したがって、政令次第で、8月15日にも、5月3日にも変更が可能なのだ。
言うまでなく、2月11日は日本書紀の神武天皇即位の日を換算したとされる日。その根拠は何度聞いても分からない。もともとが荒唐無稽な神話の世界のこと。しかも天皇制政府が自ら作りあげた天皇制美化のストーリーの一挿話。それをむりやり、明治政府が「紀元節」とした。1872(明治5)年のこと。この日を、いにしえの天皇制国家誕生の日とすることによって、明治政権の正当性を国民意識に植えつけようとの意図によるもの。だから、臣民こぞって盛大に祝うべきことが強制された。
紀元節は、三大節あるいは四大節のひとつとして、国家主義と天皇礼賛の小道具の一つとされた。戦後は、当然に日本国憲法の精神にふさわしからぬものとして姿を消したが、1967年に「建国記念の日」としてよみがえった。
今年の「建国記念の日」は、国家主義復活をめぐるせめぎ合いに、新たな1ページを書き加えた。歴代首相として初めて、安倍晋三がこの日にちなんだメッセージを発表したことによって。
全文は結構長い。抜粋する。
「建国記念の日」は、「建国をしのび、国を愛する心を養う」という趣旨により、法律によって設けられた国民の祝日です。この祝日は、国民一人一人が、わが国の今日の繁栄の礎を営々と築き上げたいにしえからの先人の努力に思いをはせ、さらなる国の発展を誓う、誠に意義深い日であると考え、私から国民の皆様に向けてメッセージをお届けすることといたしました。
10年先、100年先の未来を拓(ひら)く改革と、未来を担う人材の育成を進め、同時に、国際的な諸課題に対して積極的な役割を果たし、世界の平和と安定を実現していく「誇りある日本」としていくことが、先人からわれわれに託された使命であろうと考えます。
「建国記念の日」を迎えるに当たり、私は、改めて、私たちの愛する国、日本を、より美しい、誇りある国にしていく責任を痛感し、決意を新たにしています。
国民の皆様におかれても、「建国記念の日」が、わが国のこれまでの歩みを振り返りつつ先人の努力に感謝し、自信と誇りを持てる未来に向けて日本の繁栄を希求する機会となることを切に希望いたします。
この首相メッセージは、「誇りある日本」「私たちの愛する国」「美しい国」「自信と誇り」「先人の努力に感謝」「日本の繁栄」と、歴史修正主義者たちの常套用語で満ちている。
自民党改憲草案の前文が、「日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる。日本国民は、良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承する」と言っていることと軌を一にしている。
さらに、本日の産経「主張」は、これに輪をかけたもの。
「そもそも「建国記念の日」は明治5年、日本書紀が記す初代神武天皇の即位の日に基づいて政府が定めた「紀元節」に始まる。
紀元節の制定は、国の起源や一系の天皇を中心に継承されてきた悠久の歴史に思いを馳せるとともに、日本のすばらしさを再認識することで、国民が一丸となって危機に対処する意味があった。
それから約140年を経た現在の日本にも、対処を誤ってはならない脅威が迫っている。わが国の領土・領海が中国や韓国などに侵され、日本民族が誇りとする歴史も歪曲されて世界に喧伝されている。反日攻勢も絶え間ない。
脅威に対して日本国民は、紀元節制定時の精神にならって一丸となり、愛国の心情を奮い立たせるべきなのだが、現実はとてもそのような状況とはいえない。
日本や日本人をどこまでもおとしめ、国民を日本嫌いに仕向けるがごとき言動を繰り返す政治家やメディアが少なくない。学校教育でも戦後は、神話に基づく建国の歴史が排除され、若い世代の祖国愛の芽が摘まれてきた。
「建国をしのび、国を愛する心を養う」との祝日の趣旨は明らかに空洞化しており、これを打開するには、国が率先して祝うことが何より必要だ。」
安倍政権下に、田母神が61万票を獲得する時代。右翼メディアはこれだけ、活気づいている。
「建国記念の日」とは、国家主義との対峙に決意を新たにすべき日。そうしなければならないと思う。
(2014年2月11日)
都知事選が終わった。「圧勝舛添氏211万票」(毎日)、「細川氏らに大差」(読売)という、面白くも可笑しくもない結果。いくつかの印象を感想程度に述べておきたい。
まずは、投票率のあまりの低さについてである。
大雪が外出の意欲を阻んだのは投票前日の2月8日だけのこと。選挙当日の9日は、積もった雪こそあれ、近所の投票所まで足を運ぶことに差し支えるほどだったとは思えない。まったく影響なかったとは言わないが、投票率46.14%は盛り上がりに欠けた選挙だったというほかはない。
この都知事選限りのものであればよいのだが、政治というものの総体としての地盤沈下が進行しているのではないかと不気味である。有権者の主権者意識や、政治参加意識、あるいは民主主義が衰退しつつあるのではないか。そもそも議会制民主主義が揺らいではないだろうか。
この低投票率が細川護煕候補への逆風となった。思いがけない惨めな負け方。陣営が語っているとおり、風を恃むだけで組織力のない選挙戦の無力をさらけ出した形。素人衆団が右往左往するだけだった前回宇都宮選挙の二の舞となった。
一方、自民・公明・連合、そして共産の各組織はフル回転したようだ。
本日の毎日の夕刊で、平沢勝栄・選対本部長代理が「永田町日記」の2月6日の記事として語っている。「組織票は、自民がフル回転して120万、公明が60万。無党派層を取り込み最低250万票は欲しい」 これが、低投票率でやや目算が狂ったものの、組織票がものを言ったことになる。
また、東京選出の全衆議院議員には、秘書を一人づつ舛添陣営に送り込むことや、集票のノルマが課された。全国の各国会議員には都民100人以上の名簿の提出を求めたという。「公認候補以上の力の入れ方だ。猪瀬直樹、石原慎太郎両氏の都知事選でもここまでやっていない」とのこと。
なお、平沢は告示直後の「日記」の記事として、舛添の勝利を確信し、その勝因を「相手(対立候補)に恵まれたこと」と言っている。「相手」とは細川候補だけのことで、その他の候補はまったく眼中になかったようだ。
共産党もフル稼働だった。連日の赤旗紙面は、突然救世主が地上に舞い降りたかのごとくに「素晴らしい候補者」を持ち上げた。前回選挙とは様変わりで、振り子は反対に大きく振れた。全国から運動員を東京に集中させてもいる。外から見る限り、宇都宮選挙は共産党の選挙となった。そして、前回の無能な選対本部とは打って変わって、選挙運動実務のスムーズな進行が見て取れる。時期を接しての同じ候補者の同じ知事選で公約もほぼ同じ。選挙運動のやり方を変えて、得票数では97万票から98万票に、得票率では14.5%から20.2%に伸ばした。
しかし、それが精いっぱいのところ。私は宇都宮君には、「立候補をおやめなさい」と言い続ける。今回選挙で革新の共闘にふさわしい清新な候補者を立てることができれば、細川氏の立候補もなく、本気で勝ちに行く選挙ができたはず、というのが私の確信である。
まことに意外だったのが、極右候補・田母神俊雄の泡沫とは言いがたい得票。61万票で得票率12.5%。これは恐るべき事態ではないか。61万票とは、かつて共産党の党内候補が知事選で獲得した得票に匹敵あるいは凌駕する。12.5%は、前回都知事選の宇都宮君の得票率(14.5%)と大差ない。
安倍と田母神は、この選挙ではねじれている。しかし、安倍晋三の「極めて親しいお友だち」である百田尚樹が、田母神の応援演説を買って出て物議を醸したのは2月3日のこと。安倍・百田・田母神は一つのラインにつながっており、安倍の心情は、舛添よりは田母神に遙かに近い。安倍が田母神やその同類と本気でグループを結成すれば、いやも応もなく、対抗のための反ファシズム統一選線を模索せざるを得ない。その日は、案外近いのかも知れない。
今回、脱原発運動を担ってきた広範な人々が脱原発二候補の「一本化」を願った。一本化とは、当然に細川候補への一本化だった。告示前も選挙期間中も、それ以外に一本化の選択肢はなかった。宇都宮君を支持した勢力が、今、ドングリの背比べに少しだけ勝ったとして、脱原発を誠実に願う立場から一本化実現に向けての発言をした人々を非難するようなことがあってはならないと思う。舛添211万票の右翼別動隊として、田母神が61万票をとっている時代なのだから。
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命をつなぐ
「独立行政法人・森林総合研究所林木育成センター」は優良樹の育成や遺伝資源の保存をおこなっている。人間の役に立つ樹木をつくりだし、保存している。
例えば、マツノザイセンチュウ抵抗性品種の作成。松枯れの被害は、明治時代に九州から始まり、1960年代に急増し、現在は青森県にまで及んでいる。センターでは松枯れをひきおこすマツノザイセンチュウに抵抗力をもった松を作り出そうと研究を重ねている。何千本もの小松の枝にセンチュウをうえつけて、枯れないものを選び出す。現在十数種の品種が選別されているという。消えてしまった海岸の白砂青松の復元も夢ではない。
花粉症の人は春の訪れが憂鬱である。その最も大きな原因がスギ花粉だ。センターでは、「無花粉スギ」も作っている。スギの花粉は雄花から放出される。だから雄花の生育の悪い「雄性不稔スギ」の発見と改良が行われている。すでに20種類も発見され、成長や材質の優れたものが作出されているという。遺伝子組み換えによって花粉を出さない品種を作る研究も行われている。花粉症の人にとっては朗報である。
樹木の生長試験には永年にわたるモニタリングが必要なので、すぐというわけにはいかない。しかしながら、いったん優良樹が選定されれば、植物の場合、増殖は容易だ。接ぎ木や挿し木でいくらでも増やすことができる。山の杉林が絵に描かれたように整然としているのは、クローン杉で覆われているからである。
その接ぎ木技術が、同センターの東北育種所(岩手県滝沢村)で発揮され、三陸津波の被害を受けた陸前高田市の「奇跡の一本松」の保存に生かされている。高田松原の7万本におよんだクロマツとアカマツの林は、明治三陸津波(1896年)、昭和三陸津波(1933年)、チリ地震津波(1960年)には防潮林の役割を立派に果たした。しかし、今回の三陸津波では7万本ものマツが根こそぎにされ、一本の巨木だけが持ちこたえた。と思われたが、地盤沈下で潮水に犯された根はじわじわと蝕まれ、9カ月耐えて命つきた。樹齢270年、樹高28メートル。レプリカが立てられたが、永い年月保存し続けるのは至難の業だ。当然レプリカは不自然で、不満だという声も聞こえる。
その声に応えるように、この奇跡のマツは枯死する前に、滝沢の同センターに「一枝の命」を託したのである。この一枝から100本の接ぎ木が作られ、9本が活着してすくすくと育っているという。現在30センチあまりに成長している。2011年4月にやや時期はずれに行った接ぎ木苗のうち、50日後に4本の芽が出ているのが確認された。このツギキ4兄弟に故やなせたかしさんが「ノビル」「タエル」「イノチ」「ツナグ」と命名した。きっと今頃津波犠牲者の方々にやなせさんが「つながれた命」のお話を伝えていることだろうと思う。
残ったツギキ5姉妹に「朝凪」「夕凪」「さざ波」「そよ風」「思い出」と名付けたらどうだろう。その9兄弟姉妹からつぎつぎと命がつながれていけば、高田松原の再生も夢ではない。高田松原で拾われたマツボックリから600本の実生も育って、「高田松原を守る会」へ引き渡されたそうである。地盤さえしっかり作れば20年後には見栄えのする松原がきっと出来上がる。
そんな話を聞くと、私もセンターの育種所で接ぎ木をしたり、種をまいたりする手伝いをしてみたいものと切に思う。
(2014年2月10日)
本日の赤旗社会面に、次のベタ記事がある。
「民主陣営関係者3人を書類送検=公選法違反容疑など
2012年の衆院選などの際、うその領収書を作成したなどとして、秋田県警は7日までに、衆院選秋田3区に民主党公認候補として出馬し落選した三井マリ子氏、13年の参院選で落選した同党秋田県連代表の松浦大悟氏の両方の陣営で選挙運動をしていた3人を、横領と公選法違反(虚偽記載)容疑で書類送検しました。」
ここまでは、2月7日に時事が配信した記事のとおり。そのあとに、次の記載が続いている。
「三井氏が、13年5月、政治資金に不明瞭な流れがあったなどとして、関係者らを告発していました。秋田地検などによると、3人は陣営の協力者への報酬の一部を着服し、報酬を別人に支払ったなどとする嘘の領収書を作成した疑い。」
さすが赤旗。記事は小さいが、都知事選投票日に全国版の記事として扱っている。
ただ、この赤旗記事だけでは、何が起こったのかはよく分からない。
「うその領収書を作成」したのなら、有印私文書偽造。公選法違反(虚偽記載)容疑とどう結びつくのか。そして、横領容疑の中身は? 金額は?
昨日(2月8日)の「毎日」秋田版に次の記事がある。
「2012年12月の衆院選秋田3区や13年7月の参院選秋田選挙区で民主党公認候補者の選挙運動費用収支報告書にうその記載があったとして、陣営関係者が公職選挙法違反(虚偽記載)容疑で書類送検された事件で、送検されたのは陣営幹部運動員ら男3人と分かった。県警は3人を横領容疑でも書類送検した。
捜査関係者によると、3人は衆院選秋田3区で落選した三井マリ子氏陣営の選対本部副本部長ら。このうち2人は参院選秋田選挙区で落選した松浦大悟党県連代表陣営の運動員でもあったという。
送検容疑は、衆院選や参院選で、選挙ポスター張りをした人の報酬の一部を着服し、実際は報酬を支払っていないのに、支払ったといううその領収書を作成したとしている。領収書は県選管に提出する収支報告書に添付されていた。県警などは着服した金額は1人当たり数万円で、ガソリン代や食事代に使ったとみて調べている。」
私の関心は、「公職選挙法違反(虚偽記載)容疑での書類送検」と、「うその領収書を作成して、県選管に提出する収支報告書に添付していた」事実だ。そして、「ガソリン代や食事代」なら、実費弁償として認められる出費が、届出をしていないばかりに横領とされていること。
2013年10月30日付毎日(秋田版)は、「三井マリ子氏の告発を機に、浮上した選挙運動費用収支報告書の虚偽記載問題」の内容を次のとおり報告している。
「三井氏陣営の選挙運動費用収支報告書によると、衆院選公示日は86人がポスター張りなどをし、報酬を支給された。しかし、県警のこれまでの調べでは、架空の領収書が作成され、実際は報酬を受け取っていない人や額面の一部しか受け取っていない人がいるとされる。県警は虚偽記載の経緯とともに、浮いた金の使途などを調べている。」
また、2013年10月28日付毎日(秋田版)は、「県選管に提出した収支報告書によると、衆院選告示日の昨年12月4日に三井氏の選挙ポスター張りなどをした横手市などの有権者86人に労務の対価として報酬計81万9000円が支払われた。」と報道している。
実は三井マリ子氏の告発は関連する別件を含むもので、その別件に関連して民事訴訟の係属もある。しかし、その件は論じることに公共性・公益性が乏しく、私の関心事でもない。その別件を切り離して、問題を整理すれば、以下のとおりである。
純粋にポスター張りだけの機械的労務の提供をする者に、一日1万円を限度として「労務者報酬」を支払うことは、公選法の認めるところ。事前の届出も必要がない。三井マリ子陣営の選対本部副本部長らは、選管に「86人の労務者に報酬計81万9000円を支払っていた」旨の選挙運動費用収支報告の届出をした。届出には、領収書の添付が必要だから、届出内容に沿った領収証が作成され添付されていたはずである。
ところが、警察の捜査によって、そのうちの一部が架空の報酬支払いであって、選管への届出は虚偽の報告として公選法(246条)違反であり、添付の領収証は名義人が作成したものではない偽造文書として、刑法159条に該当する。さらに、偽造の届出によって浮かせた金の着服が横領(おそらくは刑法253条の業務上横領)の罪に当たると判断されて送検に至った。
三井陣営の選対副本部長ら3名の氏名は、選挙運動費用収支報告書に記載されていない。捜査機関の捜査によって特定された。公選法違反は、選挙の公正の保障と、世人の選挙公正への信頼を傷つけるもの。横領は、財産犯だが、「1人当たり数万円」だから、3人で15万円前後であろうか。しかもその使途が「ガソリン代や食事代に使った」とみられている。それでも、摘発され、捜査対象となり、送検されている。適正に届出をする限り、「ガソリン代や食事代」の支出は実費弁償の支出として何の問題もない。しかし、届出をしなければ、横領として処理されることになる。このことの意味は極めて重い。
翻って、三井マリ子選挙と同じく、2012年12月16日投開票の都知事選宇都宮候補の選挙運動費用収支報告を比較してみたい。
東京都選挙管理委員会に対する2012年12月28日付の「第1回」報告では、上原公子選対本部長(元国立市長)、服部泉出納責任者の両名について、「選挙報酬として」と明記された10万円受領の領収証が添付されて、「労務者報酬」としての支出届出がなされている。後の訂正届出(2014年1月22日)によって、これが虚偽報告であることが明らかになっている。添付の領収証も「撤回」されたごとくであるが、覆水は盆に還らない。いったん成立した虚偽届出の犯罪(公選法246条違反)が事後の行為によって消滅することはない。
「三弁護士の法的見解」によって、上原公子選対本部長(元国立市長)、服部泉出納責任者の各10万円の受領自体は明確にされている。「三弁護士の法的見解」は、実費弁償の対象となる出費があって、それに充てるための支払いであったと言うがごとくである。しかし、それでもなお、その20万円について、横領罪が成立するというのが、今回摘発された秋田の事件なのである。
「第1回報告」に添付された、上原公子選対本部長(元国立市長)と服部泉出納責任者の各領収証は、仮に本人が作成したものではなく偽造されたというのであれば、偽造者の特定が必要であって特定された偽造者の犯罪が追及されなければならない。偽造でなければ、選挙運動者に対する報酬の支払いとして、運動員買収・被買収の犯罪が成立する。
また、「三弁護士の法的見解」によって明確にされた上原・服部が受領した20万円は、その後の訂正届出によって宙に消えてしまった。どう取り繕うとも、宇都宮陣営がクリーンで透明性を確保されたな選挙にほど遠いことが明らかである。革新陣営の候補者は徹底してクリーンでなければならない。ましてや、前都知事の選挙運動費用の不正を徹底して追及しようと公約を掲げている候補者においてはなおさらである。
また、クリーンでない実態が明らかになったら開き直ってはならない。それは、自浄作用の能力を欠いていることを自白するだけのことなのだから。
(2014年2月9日)
ソチでの冬季オリンピックが始まった。メディアは都知事選を駆逐してオリンピック一色。そればかりではない。開会式の派手な演出にマスメディアが踊らされて、プーチン・ロシアの国威発揚を幇助している。いや、ロシアばかりではない。この舞台に溢れる過剰なナショナリズムに辟易せざるを得ない。
2020年東京オリンピックの際の喧噪はいかばかりだろう。不愉快な行事への巻き込まれは、まっぴらごめんだ。その間は我が家に鍵をかけて東京を脱出しよう。オリンピック疎開だ。
なによりも、各国の国旗の洪水にうんざりである。旗ではなくバラの一輪、梅の一枝でもかざして歩く風流な参加者はいないものか。旗でもよい。手作りのデザインで、平和や自然の保護を訴えてみてはどうか。「国家」という、これ以上ない不粋なもののシンボルをかかげた何千人もの無邪気な行進を恐ろしいと思う。
幕藩体制の崩壊とは、各藩のナショナリズムが日本というインターナショナリズムに呑み込まれる過程だった。いま、日本というナショナリズムが、インターナショナリズムと拮抗している。インターナショナリズムは理念であるが、ナショナリズムは現実のパワーである。いずれ、ナショナリズムは克服されて消滅するだろう。国境という人為的境界は、情報と経済と往来の交流によって意味をなさなくなる。言語と宗教と生活様式も入り乱れ、人種の純粋も維持できるはずがない。国境という政治権力の支配領域が消滅することは、人が人らしく生きていくことのできるための大きな歴史の進歩である。
国際社会が、国家を単位として成立している現状では、国旗は各国家を識別する機能をもつものとして有用な存在である。本来それだけのことだ。しかし、国民のナショナリズムの感情と、ナショナリズムの機能を知悉する国家や政権においては、国旗は別のはたらきを期待され、あるいは意図的に利用される。国民一人一人の意識を国家に収斂させ、その方向で国民を統合させる機能の活用である。国旗が象徴する国家の統治における利便のために、国民の個人としての人権意識を眠り込ませ、国家に服属せしめる役割と言ってもよい。
権力は、無批判な統治しやすい国民がお望みだ。「個の確立」だの、「思想良心の自由」などと、生意気なことを言わない国民精神を叩き込みたい。権力や国家と一体化した国民の精神形成を好都合としているのだ。さらに、国家の政策に積極的に献身する国民の精神をつくり出すことができればこの上ない。
「国家を抑圧者だと思うな。国家を危険な存在と考えてはならない」「国を愛せ。国を敬え。国民一致して国を支えよ」と教えたいのだ。その意図を貫徹するために、国家を象徴する国旗への忠誠の態度の涵養が極めて重要な役割を演じる。まずは、なんの疑問もなく、無邪気に無批判に、そして自然に国旗に頭を下げ、日の丸の小旗を打ち振る習慣を作ってもらいたい。そうすればしめたもの。そのために、オリンピックは格好の学習の場だ。
かつて、出征兵士は日の丸の小旗の波で戦地に送られた。その戦地では、一つの街を落せば、そこに日の丸が掲げられた。日の丸は、侵略と植民地支配のシンボルというだけでなく、戦争を支えた忠君愛国、滅私奉公の臣民精神のシンボルでもあった。その忌まわしい過去を持つ旗が、今法制上国旗となっていることを嘆かざるを得ない。
ソチのオリンピック会場の開会式では、日本の選手団も観客も、無邪気に日の丸の小旗を振っていたようだ。その無邪気さ、無批判さが恐しい。その無邪気・無批判な多数者の行為が、集団の圧力となって日の丸に敬意を表することに疑問を呈する少数者を圧迫する。それだけではない。無邪気な多数者が支える権力が少数者への国旗強制を可能とする。
いま、ロシアは、同性愛に対する偏狭な姿勢で国際的な批判を受けている。同性愛宣伝禁止法や同性婚への非寛容が人権侵害であることは、多くの無邪気で無批判な日本の国民には理解しがたいのではないか。国旗や国歌の強制についても、よく似ている。無邪気で無批判な大多数には他人事だが、国旗や国歌、あるいは「日の丸・君が代」の押しつけには、精神の核心において受容しがたく、全人格をかけて抵抗せざるを得ない人もいるのだ。
オリンピック会場の国旗の波は、社会的同調圧力となり、さらに「民主主義的手続」で権力的な強制に至る。だから、オリンピックは憂鬱だ。オリンピックをダシにした日の丸・君が代強制許容の論調には我慢をしかねる。オリンピックを国威やナショナリズム昂揚の場とすべきではない。国家からの統制を受けない精神の自由に思いを馳せよう。
(2014年2月8日)
本日配送された東京弁護士会の機関誌「りぶら」の巻頭に、樋口陽一さんの「憲法の『うまれ』と『はたらき』」という寄稿がある。憲法改正の論議が、「うまれ」と「はたらき」を問題にするものと捉えて、副題のとおり、「改憲論議の背景を改めて整理する」という内容。長い論文ではないが、さすがに読み応えがある。
憲法の「うまれ」と「はたらき」という用語法は、1957年の宮沢俊義「憲法の正当性ということ」によるものとして、まず宮沢の、「うまれ」と「はたらき」についての議論が紹介される。続いて、同じく敗戦から生まれた憲法をもつドイツ(再統一前は西ドイツ)における議論との比較に紙幅が割かれ、その考察から自民党改憲草案の批判で締めくくられている。
「うまれ」に関する論述にも興味深い点があるが割愛する。主たるテーマとしての「はたらき」についての論説だけを紹介したい。
『宮沢が憲法施行10年を経て憲法の「はたらき」を論ずるとき、彼は、「法の解釈」を主導する立場に立って明確な価値判断の物差しを提示する。「人間の社会の目的」として,「自由」と「人間に値いする生存」という二つの価値を挙げている…。これら二つの価値は…この地上で「人類普遍」にゆき渡っていることから離れて遠い。だが,「解釈学説」の立場に立ってこの物差しを前提にするならば,憲法の「はたらき」について,水掛け論でない議論が成り立つはずである。』
「自由」と「人間に値いする生存」。この二つが、「人間の社会の目的」であって「法の解釈」を主導する価値判断の物差しだという。なんとシンプルで、力強いメッセージではないか。
この物差しを基準にした評価において、ドイツと日本とでは、憲法の「はたらき」に大きな差が生じている。その視点から、つぎように語られている。
『基本法成立50周年の節目におこなわれたドイツ国法学者大会(1999年)で,演説した学会理事長(Ch.シュタルク)は,半世紀間の憲法と憲法学の実績を積極的に評価することができた。』『西ドイツという部分国家の暫定憲法だった基本法は,すでに長く確定的な憲法と目され,本物であることを実証し,法についての共通理解の根拠,統合要因となり,それどころか,他の諸国の多くの新憲法の手本としてすら役立ってきた。』
『「日本国憲法50年一回顧と展望」を主題とした1996年日本公法学会での二つの記念講演は,同じく自国の憲法50年をふり返ってのシュタルク講演との好対照を見せている。宮沢のあとをうけて憲法解釈学説の主流を担った芦部信喜は,「改憲論およびそれとセットで打ち出された軍事,公安・労働,教育,福祉あるいは選挙制度改革などの諸政策を前にして,自由主義的・立憲主義的憲法学は批判の学ないし抵抗の学としての性格を強めざるを得なかった」と指摘した。違憲審査の実務に最高裁判事として携った体験をふまえて伊藤正己は,「憲法学と憲法裁判の乖離の現象とその原因と考えるもの」の検討を主題としなければならなかった。』
ドイツでは「半世紀間の憲法と憲法学の実績が積極的に評価」されているのに、日本では「憲法のはたらきの欠損」を問いつづけなければならない現実があるのだ。
憲法学は現行憲法の「はたらきの欠損」を嘆いているが、現政権は現行憲法の「欠損したはたらき」さえも桎梏と感じている。その典型が、「政権に不要な足かせと感じられている9条」の改廃が必要とされていることだ。
そのような視点から、『いま一番有力な案として国民に示されている「自由民主党憲法改正草案」(2012・4・27)が,これまでの同党の草案・構想類と質的に違う』ことを見定めておく必要があるという。その具体的な指摘が次のとおりだ。やや長いが、引用する。
『自民党案の特徴は,何より,前文の全面書き換えにあらわれている。案に添えられたQ&Aは,全文差し替えの理由を説明して,「天賦人権振り」の規定だからよくないと言う。現行の前文は,「この憲法」が西洋近代の法の考え方を「人類普遍の原理」として受け入れるという立場で書かれている。それに対し改正案の文言は,「日本国」「わが国」の特性を強調する言葉で綴られている。「長い歴史と固有の文化」「天皇を戴く国家」「国と郷土」「誇りと気概」「美しい国土」「良き伝統」「国家を末永く子孫に継承」などの語句それ自体としては,人びとの共感を呼びおこすでもあろうし,逆に反感の対象となるかもしれない。だがここでの問題はそういう次元でのことではない。これらの文言が,「天賦人権振り」を嫌い「人類普遍の原理」への言及をあえて削除するという文脈の中で持ち出されていることが,問題なのである。「イスラームにはイスラームのやり方がある」「中国には中国流の人権がある」というのに倣うかのように「日本は日本」という対外発信を含意する改正案は,これまでの政権が「価値観を共有する」と揚言してきた米欧諸国との間でのどのような関係を想定しているのだろうか。』
つけ加えて、樋口さんは次のように言う。
『改正案を「明治憲法への逆戻り」と評するのは,全くの見当違いと言わなければならない。』
樋口さんによれば、大日本帝国憲法は、近代化による欧米世界への参入のための必然的要請に応えるものとしてつくられ、『その本文各条は概ね19世紀ヨーロッパ基準の原則に対応して書かれている」。つまり、グローバルスタンダードからの乖離という視点では、自民党改憲草案は大日本帝国憲法以上に問題性を抱えたものだというのだ。
さらに、現行憲法13条の,「すべて国民は,個人として尊重される」の「個人」を「人」に変えようとする改正案に関して、『「個人」の生き方の自律と利益主張に正当性の根拠を提供して戦後社会の安定を支えてきた憲法の「はたらき」に,正面から異議申立をあえてするそのような改正案を掲げる現在の自由民主党のありように対し,元総裁(河野洋平)や幹事長経験者(加藤紘一,野中広務,古賀誠)の諸氏が憂慮の思いを公にしていることは,重要な示唆を与える。』と指摘している。
戦後社会の安定を支えてきた「保守」政治に、日本国憲法の「はたらき」が大きく寄与してきたとの認識である。旧来の保守とは様相の異なる、現安倍政権は、この「憲法のはたらきに基づく安定」を投げ捨てて、危険な方向に走り出しつつあるということだ。
安倍政権の暴走を止めなくてはならない。「旧来の保守層」の良識を信頼し、大きな共同の力を結集して。手遅れにならなないうちに。
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ウメの木のピンチ
「春されば まず咲くやどの梅の花 ひとり見つつや 春日暮らさむ」
山上憶良
「梅の花 折りてかざして遊べども 飽き足らぬ日は 今日にしありけり」
礒氏法麻呂
「梅の便り」が聞かれる季節になった。しかし今年はそんな暢気なことをいっていられない。今日の毎日が「青梅の『公園』まつり後」「梅すべて伐採」と報じている。果実の葉や実に天然痘(ポックス)のような丸い模様が出て、実が商品価値のなくなる、プラム・ポックス・ウイルス(PPV)の流行が猖獗をきわめているとのこと。人体に悪影響はないが、ウメ本体の治療法はなく、根ごと抜いて焼却する以外に蔓延を防止する方法はない。吉野梅郷の「梅の公園」では、すでに500本以上を伐採したが残る700本も、「梅まつり」のあとに伐採することにしたという。
青梅市全体では、2009年の病気流行以来6万5千本あったウメの3分の1が消滅した。それでもPPVの流行が食い止められるかは予断を許さない。緊急防除地区は、青梅市、羽村市、日ノ出町、八王子市など広範な東京都西部地域にひろがっている。さらに、ここから苗木や接ぎ木が出荷された大阪府や兵庫県にも流行はおよんでいる。南高梅の最大産地・和歌山県はさだめし戦々恐々としていることだろう。
恐ろしいことに、このウイルスはアブラムシによって媒介され、ウメだけでなく、アンズ、モモ、セイヨウスモモなどのサクラ属が感染する。果樹園だけでなく、公園や一般家庭の庭木の感染にも目を配らなければならない。各自治体では「お宅の庭木に病気が出ていれば申し出てください」と呼び掛けている。このままおけば、PPVは全国にひろがってしまうおそれがあるのだから。「まず咲くやどの梅の花」などと暢気なことはいっておられない。
農作物としての梅の木の除却には、植物防疫法に基づいて損失補償がなされるというが、丹精込めて梅の木と実を育ててきた出荷農家の不安はいかばかりだろう。なお、青梅市の「梅まつり」観光収入は9億円にのぼるが、こちらは補償が難しいといわれている。「花を愛でる愛着の心」などは補償の対象に考慮してもらえそうにない。
日本の植物の代表格「松竹梅」のうちのふたつが深刻な受難の事態にある。アカマツもクロマツも数年前から、マツノザイセンチュウに侵されて、海岸からも庭からも消えつつあるのだ。庭の黒松の枝や葉がだんだんに赤くなり、枯死していくのをなすすべもなく見ているのは本当につらいことだ。そしていま、梅も同じ運命をたどりつつある。しかし、もうひとつの「竹」だけは、過疎化して手入れの行き届かない竹林から這い出して、山や野原や道路まで埋め尽くす勢いで繁茂している。
今に始まったことではないが、「滅び」も「栄え」も、人の手には負えない。せめては、人の手でできる範囲では徹底して自然を守ろう。戦争はやめよう。原発もやめよう。
(2014年2月7日)
明日2月7日(金)が日弁連会長選挙の投開票日である。次期の日弁連新会長(任期2年)が決まる。私は期日前投票を済ませた。
今回選挙で会長に当選すると目されている候補者は、日弁連の憲法委員会委員長、人権擁護委員会委員長の経歴をもつ。同候補の選挙スローガンが「憲法と人権を守り 築こう明日の日弁連」というもの。政策パンフレットを見る限り、これまでの日弁連の路線を踏みはずすことはない。
人権擁護、憲法「改正」阻止、憲法の理念の尊重、司法の独立、日弁連の在野性の確立等の、日弁連に定着した路線は、全国の多くの弁護士が長年積み上げてきた努力の結晶である。けっして一人のスーパースターの功績などではあり得ない。
そのような実績を積み上げてきた会内「主流派」の存在がある。名付けるなら、「護憲派」「人権派」あるいは「理念派」である。その人的構成において、革新派弁護士層と良心的保守層との緩やかな連合、と言ってよいだろう。近年その優位が揺らぐことはない。たった一度の例外を除いては。
2010年の日弁連会長選挙では、異例の再選挙になって、このときばかりは「主流派」が敗れた。勝利したのは、宇都宮健児君だった。宇都宮候補のスローガンは、「弁護士人口の増員反対」「司法修習の給費制維持」、そして「会内派閥体制の打破」であった。憲法や司法の理念をめぐって、日弁連の方針が争われたわけではない。
政府は、既に司法試験合格者を年間3000人に増員する計画を確立し日弁連も賛意を表明していた。宇都宮君は、「合格者数を年間1500人に削減する」と主張した。これに対して、主流派候補は削減数の明言を避けた。「司法改革」に関わってきたこれまでのしがらみがあったというだけでない。法曹人口増員は司法利用者である国民に有益で、「これに反対することは一般庶民に弁護士のエゴと映るのではないか」「多くの国民の賛意を得られないのではないか」という躊躇があったからである。
主流派と宇都宮君の主たる対立争点はこの点に収斂し、弁護士増員で経済的な苦境に曝されている地方会の多くが宇都宮君を支持した。こうして宇都宮会長が実現した。このとき、主流派の活動家の言葉が印象に残っている。「誰が会長になっても、憲法や司法の理念に関する日弁連の基本路線が揺らぐことはない」。確かにその通りとなった。
組織運営がスムーズに行われる組織においてはどこも同様であろうが、会長のパーソナリティで、日弁連の方針や姿勢が大きく変わることはない。言うまでもないが、人格識見優れた人物が会長選に立候補しているわけではないし、日弁連会長経験者が仲間内で尊敬されている弁護士ということでもない。
1970年代からの会長経験者のうち、個人的に尊敬に値すると思えるのは土屋公献さんくらい。また鬼追明夫さんの硬骨漢ぶりには敬意を惜しまない。その外には、格別敬意を表すべき人を知らない。会長経験者をことさらに持ち上げたり、何もかも一人がやり遂げたような都知事選での宣伝は、聞かされる方が恥ずかしくなるだけでなく、多くの弁護士を白けさせることになるだろう。
ところで、日弁連会長選挙と同時に、私の所属する東京弁護士会の常議員選挙も行われる。こちらも期日前投票を済ませた。私が投票した候補者の公約の一部を抜き書きしておきたい。
「弁護士会は、いま重要な課題を抱えています。国民世論を無視して特定秘密保護法が成立し、事実上の解釈改憲を意図する国家安全保障基本法が国会に上程されようとしています。基本的人権の尊重と恒久平和主義を基本原理とする憲法が危機に晒されています。東日本大震災の被災者と原発事故被害者の早期救済、法曹人口問題、若手会員への支援など課題は山積みです…」
日弁連会長が誰であるかにかかわりなく、弁護士会なかなか真っ当ではないか。
(2014年2月6日)
権力が国民を支配する手段は、本質的には暴力による強制である。しかし、現代社会において立憲主義が確立してくると、剥き出しに権力の意図を国民に対する暴力で貫徹することは困難となってくる。後景に退いた暴力に代わる国民支配の最重要手段は、法は措くとして、情報の統制と教育の管理である。
権力は、できることならメディアのすべてを統制下に置きたい、総体としての教育を政権の伝声管としたい、と願望する。その内的衝動はすべての権力に通有のものではあるが、安倍晋三政権においては、とりわけ露骨なものとして突出している。
国民の側から見て、権力による言論の統制と教育の管理ほど危険なものはない。だから、国民の知る権利の重要性が喧伝され、まともなジャーナリズムには権力からの独立が不可欠とされる。また、真っ当な社会においては、権力の管理から独立した教育の自由が重んじられなければならない。
安倍政権は、情報の統制にも教育の管理にも既に手をつけている。情報の統制はまずはNHKから。「新聞の統制も民放の統制もなかなかに難しい。しかし、NHKならなんとかなる。ここからなんとかしよう」と思ったに違いない。幹部人事を通じてNHKを統制しようとの決意は、まずは経営委員会に自分の息のかかった人物を送り込むことによって実行に移され、ついで今回の会長人事となった。
かつて、石原慎太郎という右翼政治家が都知事になって、都民から308万票を得た傲りで教育委員を自らの提灯持ちで固めた。こうして、東京都の公立校全体に「日の丸・君が代」強制を持ち込んで、いまだに教育現場は混乱と衰退の爪痕を残している。あの悪しき前例とよく似ている。安倍晋三は、NHKをコントロールして完全にブロックしておきたいのだ。
昨年11月、安倍がNHKの経営委員に送り込んだ、「安倍ダミー」は次の5名である。
百田尚樹、長谷川三千子、本田勝彦、中島尚正、石原進。
このなかで本田勝彦は知られていないが、安倍の小学生時代の家庭教師を務めた人物だという。この全員が、「不偏不党、公正中立」を旨とするNHKにおいて、そのコンプライアンスに責任をもつべき立場に不適切であることは一目瞭然ではないか。なお、経営委員は12人。任期は3年である。安倍の息のかかった委員は、このままでは直ぐに過半数になる。NHKは、安倍政権の操り人形にならざるを得ない。
NHKは国営放送局ではない。国家や政権のためではなく、国民のための公共放送である以上は、権力からの独立が不可欠である。本来、安倍晋三が意気投合した人物や安倍が信頼する人物であってはならない。政権から独立した人物、しかも独立していることについて国民の信頼を勝ち得る人物が望ましく、ふさわしい。
既に百田尚樹は都知事選においてかの田母神俊雄を応援し、「南京大虐殺はなかった」などと歴史修正主義者としての発言で物議を醸している。そして、今度は長谷川三千子だ。
長谷川三千子は、これまで数々の極右的言論で顰蹙を買ってきたが、今回報道された「野村秋介追悼二十年 群青忌」なる文集に掲載された追悼文は凄まじい。
野村は、朝日新聞社に押しかけて抗議の意思表示として拳銃自殺した右翼である。朝日というメディアへの狂気の圧力には全く触れず、これを礼賛している。しかも、その礼賛のしかたが今どき信じがたい時代錯誤。
「人間が自らの命をもつて神と対話することができるなどといふことを露ほども信じてゐない連中の目の前で、野村秋介は神にその死をささげたのである」「『すめらみこと いやさか』と彼が唱えたとき、わが国の今上陛下は『人間宣言』が何と言はうと、日本国憲法が何と言はうと、ふたたび現御神となられたのである」というのだ。また、朝日新聞について「彼らほど、人の死を受け取る資格に欠けた人々はゐない」と貶めている。
かつて神であった天皇の神性を否定するところに、現行憲法の核心のひとつがある。天皇を再び神とする思想をもつことは、憲法(19条)が保障するところではあるが、そのようなことを公言する人物はあらゆる公職にふさわしくない。NHK経営委員の資質を問うというレベルの問題ではない。
菅義偉官房長官は本日(5日)の記者会見で「経営委員は思想、信条、表現の自由を妨げられない。放送法に違反するものではない」と述べ、問題ないとの認識を示した、と報じられている。
これが、安倍政権だ。「南京虐殺はなかった」「天皇は再び神になった」「政府が右といえば、左というわけにはいかない」という、政権に親和的な言論は「思想・信条・表現の自由」として徹底して擁護するのだ。安倍政権が、このような極右勢力とどれほど緊密に一体化しているか、右翼言論人をして安倍の本音を語らせているか、しっかりと見極めようではないか。
政権の傀儡たるべく極右勢力に乗っ取られたNHK。このままでは、信頼回復の展望は見出しがたい。
(2014年2月5日)
予てから指摘しているとおり、前回都知事選(2012年12月16日施行)における宇都宮健児候補の選挙運動費用収支報告書(同年12月28日付分)の記載によって、同陣営の運動員買収の疑惑が濃厚である。けっして規模が小さい故に無視できるものではない。宇都宮君に、猪瀬を初めとする他の政治家の違法を正す資格があるのかが問われなければならない。
上原公子選対本部長(元国立市長)と服部泉出納責任者に対する運動員買収を明示したが、被買収運動員はこの2名に限らない。「労務者」「事務員」として届けられた者、最大29名に及ぶ可能性がある。買収者は、収支報告書に名前は出てこないが選対事務局長であった蓋然性が高い。公職選挙法221条1項に違反するもので法定刑の最高量刑は懲役3年である。
私は、選挙告示の前日(1月22日)のブログhttps://article9.jp/wordpress/?p=1970に次のとおり記載した。
「東京都知事選は、とうとう明日が告示日。明日から選挙運動期間である。
念のために、今日また東京都選挙管理委員会に足を延ばした。2012年12月16日施行の東京都知事選挙における宇都宮健児候補の選挙運動資金収支報告書を閲覧してきたが、本日(1月22日)午後の時点で、何の訂正も変更もなされていないことを確認した。宇都宮陣営は、前回選挙における選挙運動収支報告書の重大な届出ミスを認めながら、これを放置して次の選挙に突入しようとしている。
上原公子選対本部長(元国立市長)の労務者報酬10万円受領の届出も、添付の選挙運動報酬受領証も何の変更もなくそのままであった。服部泉出納責任者についても同じこと。合計29名に及ぶ疑惑の「労務者」「事務員」についての届出訂正もない。宇都宮陣営の1月5日付文書「法的見解」では、随分と簡単に「記載ミスを訂正すれば済む問題である」と言っておきながら、何の訂正もせずに次の選挙に突っ込もうというのだ。誰の目にも、「コンプライアンス意識に問題あり」が明白ではないか。あるいは、「記載ミスを訂正すれば済む問題」と言ってはみたが、実は「労務者報酬受領」と届出を脱法しての運動員買収の事実は訂正のしようがないということなのであろうか」
ところが、宇都宮選対は、同じ1月22日付で収支報告書の訂正届出をしていた。私が報告書を閲覧して確認をしたあとのことになるのか、あるいは同日の訂正届出が報告書に反映されたのが私の閲覧のあとになったのかも知れない。いずれにせよ、私がその訂正を確認したのは昨日(2月3日)のこと。都庁に用事があって、ついでに選挙管理委員会によって閲覧の結果である。
訂正の態様は、上原公子選対本部長と服部泉出納責任者両名に対する、各労務者報酬として明記された10万円の支出の届出を抹消するというもの。
1月5日付の宇都宮陣営の「法的見解」は、次のように言っていた。
「公職選挙法は『選挙運動に従事する者』の実費弁償を認めている(197条の2)。上原氏はこの『選挙運動に従事する者』であり、交通費や宿泊費など法的に認められる支出の一部にすぎない10万円の実費弁償に何の違法性もないことは明らかである。」「もっとも上原さんらの上記10万円の実費弁償が選挙運動費用収支報告書に誤って「労務費」と記載されていることは事実であるが、この記載ミスを訂正すれば済む問題である。」
「法的見解」では、「上原さんら」への選挙運動費用としての10万円の支払いと、同人らの同額の受領を否定していない。2012年12月14日の日付がはいった「上原さんら」の署名捺印のある領収証に、「選挙報酬として」受領したと明記されているのだから、受領の事実は否定し得ないと判断したのだろう。だから、「選挙報酬として」という受領証の記載も、収支報告書の支出目的欄に届け出た「労務者報酬」という記載も間違いで、実は「交通費や宿泊費の一部」だったと取り繕うほかはなかったのだろう。
以上の「法的見解」の記載から、私は当然のこととして「労務者報酬」としての支出の届出を「交通費や宿泊費」に訂正するのだろうと思っていた。そのために、これを証する領収証を調達する努力がなされるだろうし、もしそれができなければ、領収証に代わるものとして公職選挙法189条1項に定められた「領収証…を徴し難い事情があったときは、その旨並びに当該支出の金額、年月日目的を記載した書面」を作成して提出することになるだろう、そう思っていた。
ところが宇都宮選対はそうしなかった。選挙運動費用収支報告書の記載は、「上原さんら」への支出はまったく無かったものと「訂正」されたのだ。「労務者報酬」としても、「交通費や宿泊費の一部」としても、支出と受領の事実そのものが抹消された。「法的見解」とはまったく異なるストーリーとなったのだ。
この訂正の結果、選挙運動費用の支出総金額は20万円の減額となった。すると、選挙カンパの残額は20万円増えてなくては辻褄が合わないことになるが、さて上原さんらは現金を払い戻したのだろうか。
なお、宇都宮候補の出納責任者として選管に届出されたのは服部泉さん一人だけである。ところが、選挙運動費用収支報告書の「第2回分」(2013年2月12日付)の届出は別人の「出納責任者・服部勇」が行っている。「真実に相違ありません」という公選法に基づく宣誓をしてのことである。今回、この点も併せて1ページ全部が差し替えられて訂正された。前代未聞のお粗末な訂正ではないか。
選挙管理委員会は、届出も訂正も内容の真偽にかかわらず受理はする。選挙管理委員会の届出受理が適法性のお墨付きとはならない。もちろん、訂正の経過はしっかりと残すようになっている。これから検証されなければならない。
この度の訂正は、選挙運動に関する費用の収支報告を適正になすべき公職選挙法上の義務に反した違法を自認したものである。届出の違法を指摘されて、違法を認めたから訂正した。いうまでもなく、訂正したから罪にならないということにはならない。報告書提出時点で犯罪は成立しているのだから。
公職選挙法の該当条文は以下のとおり。
「246条 次の各号に掲げる行為をした者は、3年以下の禁錮又は50万円以下の罰金に処する
5号の2 第189条第1項の規定に違反して報告書若しくはこれに添付すべき書面の提出をせず又はこれらに虚偽の記入をしたとき」
これは、いわゆる形式犯である。「うっかりミス」も処罰の対象となる。先の選挙運動員買収は実質犯として懲役3年、こちらは形式犯であるが故の禁錮3年。もっとも、形式犯としては法定刑が重い。このことについて、「逐条解説 公職選挙法」は、「選挙の自由公正は適正な選挙運動費用の収支の確保によって担保されるものであり、これが適正に行われないときは選挙の自由が著しく阻害され、選挙の信用をも失墜せしめる原因ともなるのであるから、けだし当然のことというべきである」と述べている。
上原、服部両人の各10万円受領の事実は、報告書の「訂正」によっても動かしがたい。「法的見解」によって補強されているところでもある。しかも、今回の「訂正」によって、受領費目が「旅費・宿泊費」ではないとされているのだから、10万円の授受は運動員買収と考えざるを得ない。
上原・服部の受領費目を「旅費・宿泊費」としたのは「法的見解」だが、今回の訂正はこれを否定した。同じ報告書には宿泊者の特定はないものの、31泊分の宿泊費の支出を計上している。上原・服部らが真実宿泊しているのなら、支出費目を宿泊費と特定して支払いを請求し受領して、その旨を届け出たはずである。また、タクシー代を主とする交通費の支払いも188件の支払いが届け出られている。上原、服部両人が、領収証なしに各10万円の交通費の支給を受けたとは到底考えられない。誰が見ても、真実は、届出の虚偽ではく、選挙運動の対価としての報酬の受領であったろう。つまりは、禁錮刑の範疇ではなく、懲役刑の範疇の行為なのだ。
昨年10月の川崎市長選での福田紀彦市長陣営の提出した選挙運動費用収支報告書にミスがあったとして訂正になった。事情をよく調べてみると、なるほど陣営の言い分には納得しうるものがあるというべきである。それでも、「神奈川新聞」と、「朝日」「毎日」(いずれも地方版)はこれを取材し記事にした。まさしく、「選挙の自由公正は適正な選挙運動費用の収支の確保によって担保されるものであり、これが適正に行われないときは選挙の自由が著しく阻害され、選挙の信用をも失墜せしめる原因ともなるのであるから」という観点からである。しかし、なぜか宇都宮陣営の選挙運動費用収支報告書の訂正は、メディアの報道するところとなっていない。
(2014年2月4日)