澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

美術館は、クレームを口実に展示作品を撤去してはならない

東京に、いまだ残雪。しかし、季節は確かな「光りの春」。湯島から上野の界隈には、梅やマンサクが咲き、カンザクラまで開いていた。不忍池周辺では柳が芽を吹き、春はもうすぐの風情。

日曜の午後。作品撤去要請問題で話題となった、「現代日本彫刻作家展」を観ようと、東京都美術館に足を運んだ。しかし、展示期間は一昨日(2月21日)で終了していた。残念。

東京新聞の1月19日朝刊報道によれば、事件の顛末は以下のとおり。
『東京都美術館(東京都台東区上野公園)で展示中の造形作品が政治的だとして、美術館側が作家に作品の撤去や手直しを求めていたことが分かった。作家は手直しに応じざるを得ず「表現の自由を侵す行為で、民主主義の危機だ」と強く反発している。
 撤去を求められたのは、神奈川県海老名市の造形作家中垣克久さん(70歳)の作品「時代(とき)の肖像?絶滅危惧種」。…特定秘密保護法の新聞の切り抜きや、「憲法九条を守り、靖国神社参拝の愚を認め、現政権の右傾化を阻止」などと書いた紙を貼り付けた。代表を務める「現代日本彫刻作家連盟」の定期展として15日、都美術館地下のギャラリーに展示した。
 美術館の小室明子副館長が作品撤去を求めたのは翌16日朝。都の運営要綱は「特定の政党・宗教を支持、または反対する場合は使用させないことができる」と定めており、靖国参拝への批判などが該当すると判断したという。中垣さんが自筆の紙を取り外したため、会期が終わる21日までの会場使用は認めたが、観客からの苦情があれば撤去を求める方針という。
 小室副館長は取材に「こういう考えを美術館として認めるのか、とクレームがつくことが心配だった」と話す。定期展は今回で7回目だが、来年以降、内容によっては使用許可を出さないことも検討するという。』

美術や芸術を一面的に定義づけて、政治や宗教と切り離そうとすることに無理がある。政治も宗教も、そして芸術も、人間の存在の根源と深く関わるが故に、相互に分かちがたく結びつき切り離しがたい。作家の個性こそが美術や芸術の本質なのだから、行政が個々の作品について「政治的」「宗教的」とレッテルを貼ることは、それ自体が作家の表現活動への不当な制約となろう。ましてや、それ故に展示を拒否することは、公権力の違法な行使とならざるをえない。

古来、平和を願い戦争を憎む芸術は、明らかに政治的メッセージ性を有するが、同時に人間存在の根源と結びつくものとして、その芸術性を疑うものはない。たとえば「ゲルニカ」や「原爆の図」は、作者の反戦の政治的メッセージと芸術的個性とが融合したものとして受け容れられている。「政治的であるが故に非芸術」などという愚かな批判はない。

現代の日本社会に生きる作家の個性が、時代の危険な空気を敏感に察知して、自分の作品に平和の危機を象徴するメッセージを書き付けることがあっても、事情はまったく同様である。行政が、「政治的であるが故に非芸術」などと言ってはならない。「政治的」というレッテルを張ることこそ、真の意味で「極めて政治的」な行為なのだ。

また、「靖国神社参拝の愚」「憲法九条を守り」「現政権の右傾化を阻止」などのメッセージが、「特定の政党を支持、または反対する場合」に該当する訳がない。

東京新聞の取材のとおり、美術館側の本音は、「クレームがつくことが心配だった」ということにある。これが時代の空気であり、皮肉なことに、作品の撤去を求められた作家の感覚の的確さを裏付けるものとなった。

しかし、行政は、「クレームがつくことが心配だった。だから作品の撤去を求める」と言ってはならない。「クレームがつくことが心配だった。だから万全の配慮で作品を守る措置を講じる」と言わねばならなかった。

教員組合や労働組合が主催する集会に関して、各地の地方公共団体が右翼の襲撃等のおそれがあるとして会場の使用不許可処分を行うことがある。自治体が組合を嫌悪しているわけではない。「クレームがつくことが心配」だというのだ。しかし、最高裁は、これらの処分を原則違法としている。行政には、実力で言論を封じようという右翼の襲撃から集会を防御して、憲法21条の表現の自由を擁護すべき責任があるのだ。

その典型判例が、上尾市福祉会館使用許可事件最高裁判決(1996年3月15日)。最高裁はこう言っている。

「主催者が集会を平穏に行おうとしているのに、その集会の目的や主催者の思想、信条等に反対する者らが、これを実力で阻止し、妨害しようとして紛争を起こすおそれがあることを理由に公の施設の利用を拒むことができるのは、前示のような公の施設の利用関係の性質に照らせば、警察の警備等によってもなお混乱を防止することができないなど特別な事情がある場合に限られるものというべきである。ところが、前記の事実関係によっては、右のような特別な事情があるということはできない。なお、警察の警備等によりその他の施設の利用客に多少の不安が生ずることが会館の管理上支障が生ずるとの事態に当たるものでないことはいうまでもない。」

当該の作品展示に対して、右翼的心情をもつ来館者からクレームがつく「多少の不安」が生ずることは予想されるところ。これが、作品撤去の口実に使われてはならないことは、いうまでもない。是非とも、東京都美術館にも、そのような気概を堅持していただきたい。
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                上野公園花便り
なかなか最高気温が10度に届かない。まだまだ寒い。雪も融けずにあちこちに残っている。

けれども、公園には子どもたちの声がはじけている。日が長くなって、春はもうすぐだ。「不忍池」のまわりのシダレヤナギの木が全体に黄緑色になってけむってきた。枝を手元に引き寄せて、仔細に眺めてみれば、ふしふしに若芽が膨らんでいる。春を運ぶ樹液が枝枝のすみずみまで行き渡るトクトクという音が聞こえるようだ。

紅梅も白梅もちょうどいい五分咲きだ。メジロが花粉にまみれて、枝から枝へと遊び回っている。おや、「上野動物園の入り口」あたりに、桜も咲いている。薄いピンクの五弁のカンザクラだ。

「五条神社」の境内にはフクジュソウの花が太陽のようにキラキラ咲いている。クリスマスローズの花も咲いた。梅もほどよく香っている。「清水寺の舞台」の下にはマンサクの黄色い花も満開だ。クラッカーがはじけたように、細長い花弁が外に向かって飛び出している。春になると「マンズサク」花で、雪国の人が待ち望んでいる気持ちがよく分かる。

「湯島天神」の梅は何だか精彩がない。まだ蕾が多くて五分咲きで、まさに見頃だが、梅の花より人が多い。受験シーズンのかき入れ時。いたるところ合格祈願、合格御礼の絵馬が山のようにぶら下がっている。さすが梅の木にではなく所定の場所に。昔は梅の枝にビッシリとオミクジが結びつけられていたが、今はオミクジは売られていない。あまりの人混みで、梅の香りはしなくて、たこ焼きの臭いが充満している。ここ湯島天神の春は受験の悲喜こもごもの思いと混ざり合ってやってくる。
(2014年2月23日)

籾井勝人NHK会長の辞職を要求する

本日午後「放送を語る会」が主催した「緊急集会NHKの危機 今、何が必要か?籾井会長発言が問いかけるもの」に参加した。立錐の余地のない盛会。最高のパネラー5氏を得て、実に充実した有益な集会だった。もっとも、集会の盛会も、参加者の熱気も、時代の危機感の表れ。喜んでよいのやら。

現状認識ではほぼ共通の危機意識が確認できるが、さて、どう対応するか。やや長期的には公共放送についての制度的な改革の国民運動の提起が必要であり、短期的には籾井会長辞任を求める要請運動が必要。多くの運動や団体を横に連ねた連帯をつくっての署名運動が提起されたが、それ以外でもできることから手を付けようと語られた。また、最も影響の大きな視聴者の対抗手段として、「受信料支払いの留保」の提案について複数の発言者があった。

まずは、直ちに誰にでもできる正攻法の手段として、NHKに意見を寄せよう。NHKの人事や報道姿勢についての意見の申立は、郵便・電話・メール・ファクスの4方法で可能。つぎのURLを開くと、意見申立先の一覧が表示されている。
http://www.nhk.or.jp/css/communication/heartplaza.html

※郵便の場合 〒150-8001(住所記入不要)NHK放送センター ハートプラザ行
※電話の場合 0570?066?066(NHKふれあいセンター)
 あるいは、 050?3786?5000
※ファクスの場合 03?5453?4000
※メールの場合 http://www.nhk.or.jp/css/goiken/mail.html に送信書式

これを存分に使って、NHKに、国民の声を届けよう。当面大切な意見の内容は、
  籾井勝人会長は即刻辞任せよ。
  経営委員会は籾井勝人会長を罷免せよ。
  百田尚樹・長谷川三千子両経営委員は即時辞任せよ。
  経営委員会は、百田尚樹・長谷川三千子両経営委員に辞任を勧告せよ。
という4点でよいのではないか。

私は、本日下記の意見を送信した。メールの書式では「400字まで」とされているので、冒頭部分だけとなった。改めて全文をファクス送信した。長文は郵便かファクスでということになる。
なお、下記の内容は、「放送を語る会」のアピール文モデルに従ったものであることをお断りして、参考にしていただきたい。

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私は、以下の4点を強く要請いたします。
(1) 籾井勝人会長に対して、即時その職を辞任することを求めます。
(2) 経営委員会に対して、籾井勝人会長を罷免することを求めます。
(3) 経営委員である百田尚樹・長谷川三千子両氏に対して、即時その職を辞任することを求めます。
(4) 経営委員会にたいして、百田尚樹・長谷川三千子両経営委員に辞任勧告することを求めます。

その理由は以下のとおりです。
安倍晋三政権が、日本国憲法を強く嫌悪する立ち場から、軍事・外交・教育などの諸分野で、これまでの保守政権とは明らかに異なる国家主義的な統制色を露わにしていることを憂慮せざるをえません。その安倍政権が、マスメディアの国家主義的統制に乗り出したと考えざるを得ないできごとが、昨年の特定秘密保護法の制定であり、そしてNHK経営陣に対する「お友だち人事」にほかなりません。

安倍政権の露骨な「お友だち人事」の中で、その不適切さにおいて際立っているのが、籾井勝人氏の会長人事と、百田尚樹・長谷川三千子両氏の経営委員人事です。この3名については、不適切人事であることが明確である以上、速やかに職を辞していただくよう、強く要請いたします。

大きく話題となったとおり、籾井勝人NHK新会長は、1月25日の就任記者会見で、「従軍慰安婦は戦争地域にはどこにでもあった」「韓国は日本だけが強制連行したみたいなことを言うからややこしい」など、問題発言を繰り返しました。その見識の不足に、呆れはてるとともに、怒りを感じないではいられません。
この籾井発言は、放送に不偏不党を保障するとした放送法の精神に違反しています。籾井氏の日本軍『慰安婦』に関する発言は、「狭義の強制はなかった」として、河野談話の見直しを目指す安倍政権の主張と軌を一にしています。安倍首相が賛同者だった米国での意見広告は、日本軍「慰安婦」は公娼制度のもとで行われたもの、と主張しましたが、籾井発言はこの主張とも重なります。籾井氏の会長就任は、安倍政権の意を受けての人事と考えざるをえません。

また、同じ会見で、籾井氏は、「政府が右と言うことを左と言うわけにいかない」「(NHKの姿勢が)日本政府とかけ離れたものであってはならない」とも述ぺています。しかし、NHKは、国営報道機関でも、国策報道機関でもありません。政府から自立した公共放送機関として、本来「政府がなんと言おうと影響を受けることなく、NHKは真実を語る」と言わなければならないはずではありませんか。

さらに、同会見では、「現場の制作報道で会長の意見と食い違う意見が出た場合、どう対応するか」という質問を受けて、籾井氏は「最終的に会長が決めるわけですから、私の了解を取ってもらわなくては困る」と回答しています。結局は、安倍政権の考え方を代弁する人物が、その姿勢でNHKの番組を統制することを公言したのです。本来あるべき、NHKの自主自立・不偏不党のあり方を突き崩す恐るべき事態というほかはありません。このような会長の姿勢は、多様な思想信条に基づく番組制作を抑圧し、現場を委縮させその活力を奪う危険を持っています。

あまりにも不見識な発言をした人物が、NHKのトップにとどまることは、NHKで働く人ぴとによって積み重ねられた視聴者の信頼を掘り崩すものとならざるを得ません。一刻も早い、自主的な辞任を求めます。

不適切極まりない会長を任命したことについては、経営委員会の責任も問われることが当然です。会長への注意だけで済まそうとする経営委員会の姿勢には、とうてい納得できません。

放送法第55条では、経営委員会において、「会長がその職務の執行の任に堪えないと認めるとき」、または「会長たるに適しない非行があると認めるとき」には、罷免することができると規定しています。もし籾井氏が自ら辞任しないときは、この規定にしたがって、経営委員会は会長を罷免すべきだと考え、このことを強く要請いたします。

百田尚樹氏は、先の都知事選挙で、自衛隊出身の田母神俊雄氏を応援し、『南京虐殺はなかった』などと演説しました。また田母神候補以外の候補を『人間のクズ』などと攻撃しました。氏の発言は、過去の戦争でアジア諸国に多大な犠牲と痛苦を与えた、とする大多数の日本人の認識と異なり、アジア諸国の強い反発を招くものです。すでに、在日米国大使館は百田氏の一連の発言を『非常識』だとして、NHKの取材に難色を示したと伝えられています。百田氏が経営委員にとどまることで、NHKの内外での業務に支障が出る恐れがあることは重大です。

長谷川三千子氏は、朝日新聞本社でピストル自殺した右翼運動家をたたえる追悼文を書いたことが明らかになりました。この姿勢は異様と言わざるを得ません。氏は、天皇が統治する「国体」を称揚し、主権在民を定めた現行憲法を攻撃することでも知られています。1月22日、参議院内で開かれた集会で、「私は安倍首相の応援団」と公言しました。

こうした二人の経営委員の言動は、放送に不偏不党を保障し、放送による表現の自由を確保する、という放送法の精神に抵触し、国民のNHKに対する信頼を損なう行為です。両氏が経営委員であること自体が、放送の不偏不党にとって脅威となるものです。

このことは、経営委員にも思想信条の自由があるかどうか、という問題ではありません。経営委員はNHKの役員であり、その地位にある間は、定められた規範に従わねばなりません。放送法に基く、「経営委員会委員の服務に関する準則」は、「委員は、放送が公正、不偏不党な立場に立って国民文化の向上と健全な民主主義の発達に資するとともに、国民に最大の効用と福祉とをもたらすべき使命を負うものであることを自覚し、誠実にその職責を果たさなければならない」としています。両氏はこの服務準則に明らかに違反しています。

また、経営委員は「公共の福祉に関し公正な判断をすることができ、広い経験と知識を有する者」から選ぶとする放送法の規定から言っても、適格な人物とは言えないことは明らかです。

以上の理由から、百田尚樹氏、長谷川三千子の両氏は自ら、その職を辞するべきですし、仮にその意向がなければ、NHK経営委員会において両氏に辞任を勧告するよう強く要請いたします。

(2014年2月22日)

新知事の就任で都教委は変わるだろうか

悪名高い都教委の10・23通達。その通達に基づいた、教員への「日の丸・君が代」強制はまだ終わりを見ない。既に処分件数は457件だが、まだまだ続きそう。そして、この強権行政に対する闘いも終わらない。

本日は、東京都人事委員会での口頭公開審理。2010年?12年に処分されて人事委員会に審査請求している教員のうち8人が意見陳述を行った。それぞれが極めて個性豊かに、「日の丸・君が代」の強制に服することができない理由を語った。教育者としての信念や真摯さが、痛いほどに伝わってくる。とりわけ、障がい児教育、定時制あるいは「荒れた」生徒に向かいあう教師たちの陳述が胸を打つ。

また、異口同音に語られたのは、10・23通達後10年の教育の荒廃である。校長も教員も、教育を語らなくなった。ただただ、上命下服の行政だけが語られている。卒業式の主人公は生徒ではなくなった。その座は「日の丸・君が代」が象徴する国家に取って代わられている。都教委の監視下に、管理職はなによりも「日の丸・君が代」強制の貫徹を最重要の課題としている。不服従の教員には、徹底した嫌がらせが行われる。「もはや都教委が行政としての正常な感覚を失い、民間でいうところの『ブラック企業』に身を落としている」とまで言われた。

そして幾人もが、改憲と教育破壊を志向する、安倍政権の動向を憂れえた。「再び教え子を戦争に送ってはならない。それが自分の教員としての出発点だった。今こそ、初心に返って、子どもの将来を守るために、この危険な動向と対峙しなければならない」と決意が語られた。みんなが、他の人では語れない自分の言葉で語った。

さらに、教育行政による教育への露骨な支配・介入が語られた。ある教員の陳述書には、「話し合おうとしない人たちへ」というタイトルが付されていた。「話し合おうとしない人たち」とは東京都教育委員のことである。「話し合うということは、とりわけ教育の世界では大切なこと。話し合うことのできる人間を育てることが教育のおおきな目標と言ってもよい。話し合うことが、争い解決の唯一の手段なのですから」という立ち場からの問題提起。

「学校では、たとえ生徒の稚拙な論理であってもじっと耳を傾け、一緒に考え、理解しあう努力をしなければなりません。一方的な強制は、生徒の人間としての成長には良い影響をもたらしません。かつての教育現場は、卒業式に限らず学校行事の企画・運営については教職員の間で実にさまざまな意見が出され、充実した話し合いがなされてきました」

「ところが、10・23通達以来の10年間、学校現場では、職員会議での賛否を問うことすら禁止され、ひたすら上意下達の徹底が図られ、話し合うということが無くなりました。話し合いに代わるものが、教育の世界にあるまじき問答無用の命令と服従なのです」

「10・23通達とは、現場での話し合いを拒否して、問答無用で行政が教育に介入しようというもの。まさしく教育基本法のいう「不当な支配」そのものです。教育に携わる者が権力に支配されてはならない。権力をもつ者が直接的に教育を支配することの危険性は、歴史からいやというほど学んだではありませんか」

「正しいことでも間達った内容でも、権力が教育に介入することは絶対に避けなければならないことです。まして、10・23通達のように、独断にもとづき、話し合いすら否定するものは、現代の社会においては認めてはなりません」

また、石原慎太郎やその後継をもって任じた猪瀬直樹の罪の深さに触れつつ、こんな陳述もなされた。

「新しい都知事を迎えて、教育委員会は今までどおりの教育行政を惰性的に継続するのでしょうか。人事委員会は私たちへの処分をこのまま認めるのでしょうか。誤りを糺すよい機会ではありませんか」

舛添要一新都知事についての教育現場からの評価は、まだ定まっていない。少なくも、石原のような極右ではなさそうだ。猪瀬のように石原都政に縛られる立ち場でもない。教育の自由や、教育行政の謙抑性や、公権力がイデオロギーを持ってはならない、という常識くらいは弁えていよう。市民的な思想・良心の自由尊重の姿勢も、石原・安倍よりは、ずっとマシなのではないか。もしかしたら、「ブラック官庁・都教委」の変身のチャンスなのかも知れない。

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           ラン(藍)藻が作るバイオプラスチック
プラスチックを作る藻があるなんて、植物好きには見逃せない。2月20日の毎日は、理化学研究所(理研)が、ラン藻の遺伝子を改変して、従来の10倍も効率のよいバイオマスプラスチック生産に成功したと報じた。

「ラン藻」とは植物ではないらしい。藍色っぽい緑色をしたバクテリアで、植物のように、葉緑体が光と二酸化炭素から酸素を発生して光合成を行う。もとは植物の藻類に分類されていたので、名前に藻がつく。単細胞生物は植物であるか動物であるかの区別が難しい。

日本では1960年代頃からプラスチック製品が日用品として使われるようになり、今では身近にあふれかえっている。塩ビ製の雨樋、水道管、ペットボトル、ポリエチレン製の袋、家電製品やコンピューターの外枠など。大変便利なものだが、大きな問題を抱えてもいる。これらプラスチック製品は有限な石油から作られる。また、腐敗しないので廃棄が難しい。

そこで追及されたのが、石油ではなく生物から合成される「バイオマスプラスチック」や自然に分解される「生分解性プラスチック」だ。ところが、強度や耐熱、耐久性が低い。加工が難しい。原料(生ゴミ、稲わら、海藻、サトウキビ、トウモロコシなど)が高価だ。ポリマー化が難しい。これらが原因となって、石油からできるプラスチックに較べると価格が3?5倍になり、太刀打ちができない。

そこに登場したのが、バイオマスプラスチックの原料となるポリヒドロキシ酪酸(PHB)である。「ラン藻」が光とCO?を使ってPHBを光合成してくれる。そうなればCO?が削減できる。自然に腐って水と有機物になるので、廃棄物処理も容易である。ダイオキシンの発生もない。頭の痛い地球規模の環境問題の一端が解決できる。

今回の理研の発表によれば、この「ラン藻」培養には、栄養もわずかの酢酸だけでよく、「『ラン藻』の乾燥重量の14パーセントに相当する量のプラスチックを合成した」(2月20日毎日)という。今話題のSTAP細胞にも酢が使われている。理研の研究成果には酢が付きもののようだ。

小さな記事だが、ワクワクする報道ではないか。この際、日本は原発につぎ込む助成金などやめて、国を挙げて「ラン藻」研究をしてみてはどうだろう。サステナビリティは「ラン藻」から。原発に代えて、ラン藻プラスチックとその技術を世界中へ輸出すのだ。そうすれば、「自国の繁栄のために地球を破滅に導いた国」との汚名から逃れることができる。いやむしろ、「破滅から地球を救った国」として人類史に名を残せる…かも知れない。
(2014年2月21日)

多喜二虐殺から81年

今日、2月20日は小林多喜二の命日。命日という言葉は穏やかに過ぎる。天皇制の手先である思想警察によって虐殺された日である。1933年の今日、多喜二は、スパイの手引きで特高警察に街頭で格闘の末に身体を拘束され、拉致された築地警察署内で、その日のうちに拷問によって虐殺された。

スパイの名は三船留吉。多喜二殺害の責任者は特高警察部長安倍源基。その手を虐殺の血で染めたのは、特高課長毛利基、特高係長中川成夫、警部山県為三らである。多喜二は満29歳と4か月であった。

以下は赤旗の記事『戦前でも、拷問は禁止されており、虐殺に関与した特高警察官は殺人罪により「死刑又は無期懲役」で罰せられて当然でした。しかし、警察も検察も報道もグルになってこれを隠し、逆に、天皇は、虐殺の主犯格である安倍警視庁特高部長、配下で直接の下手人である毛利特高課長、中川、山県両警部らに叙勲を与え、新聞は「赤禍撲滅の勇士へ叙勲・賜杯の御沙汰」と報じたのです。1976年1月30日に不破書記局長(当時)が国会で追及しましたが、拷問の事実を認めず、「答弁いたしたくない」(稲葉法相)と答弁しており、これはいまの政府に引き継がれています。』

共産党員であること自体を犯罪としたのは、悪名高い治安維持法である。治安維持法が、どのように思想弾圧に猛威を振るったか。以下は、治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟の対政府請願要旨の抜粋である。

『戦前、天皇制政治の下で主権在民を唱え、侵略戦争に反対したために、治安維持法で弾圧され、多くの国民が犠牲を被った。治安維持法が制定された1925年から廃止されるまでの20年間に、逮捕者数十万人、送検された人7万5681人、虐殺された人90人、拷問、虐待などによる獄死1600人余、実刑5162人に上っている。戦後、治安維持法は、日本がポツダム宣言を受諾したことにより、政治的自由の弾圧と人道に反する悪法として廃止されたが、その犠牲者に対して政府は謝罪も賠償もしていない。ドイツでは連邦補償法で、ナチスの犠牲者に謝罪し賠償している。イタリアでも、国家賠償法で反ファシスト政治犯に終身年金を支給している。アメリカやカナダでも、第二次世界大戦中、強制収容した日系市民に対し、1988年に市民的自由法を制定し約2万ドルないし2万1000ドルを支払い、大統領や政府が謝罪している。韓国では、治安維持法犠牲者を愛国者として表彰し、犠牲者に年金を支給している。』

よく知られているとおり、1925年治安維持法第1条は、「国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」というもの。

天皇制打倒、資本主義否定という「悪い思想」で結社をつくってはならないという弾圧法規。これが後に「改正」されて、最高刑は死刑となる。のみならず、「結社の目的遂行の為にする行為」までが処罰されるようになって猛威を振るった。党の活動に少しでも協力すれば犯罪とされ、共産党員に少しでも関わればしょっぴかれるという、現実的な危険が生じたのだ。共産党員と親しいと思われることは恐いこと。触らぬ神に祟りなし。共産党には近づかないに限る。こういう庶民の「知恵」が、「お上に逆らう共産党は恐い」と固まっていく。宗教者や自由主義者も、そして反戦の思想も、民主主義も弾圧の対象とされた。多喜二虐殺はその象徴。

昨年の秋、築地署を見てきた。その裏門近くには、多喜二の死亡診断書を書いた前田医院が残っていた。そして、今日は「多喜二祭」に足を運んだ。メインの講演は、ノーマ・フィールドさん。多喜二の活動から、今の世を照射して、オプティミズムを語ろうというお話だったが、全体の骨格が良く見えてこなかった。

今、多喜二と治安維持法を語るには、自民党改憲草案に触れざるをえない。

自民党案は、表現の自由を保障した、21条「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する。」に次の第2項を付け加えようという。
「前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。」
これは、恐るべき暴挙だ。「公益及び公の秩序」に何を盛り込むか次第で、現代に治安維持法をよみがえらせることが可能となる。

さらに、拷問の禁止に触れた現行の第36条は「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる」となっている。自民党改憲草案は、この「絶対に」の3文字を取ってしまおうというのだ。

36条を起案した人の脳裏には、多喜二虐殺のことがあったに違いない。「絶対に」の3文字に力が込められている。自民党案は、今わざわざ、「絶対に」を抜いてしまおうというのだ。多喜二の命日に、虐殺された多喜二に代わって叫ぼう。そんなことは許さない。絶対に。
(2014年2月20日)

頑張れ 清水勉さん

昨年暮れの特定秘密保護法案審議の最終盤では、「こんなにも広範囲の秘密・秘密では、国民の目の届かないところで行政が暴走しかねないではないか」という批判が巻き起こった。この批判をかわすために、安倍政権は「チェック機関創設の大盤振る舞い」をした。まずは、「保全監視委員会」「独立公文書管理監」「情報保全観察室」(いずれも仮称)なるものだったが、さっぱり何をするのか分からない。しかも、そのいずれもが行政内部の機関であって、ムジナにタヌキの監視をさせるようなもの。その評判の悪さに、安倍が最後の切り札として「第三者機関をつくる」と言いだしたのが、参院での採決強行の前日、12月5日。こうして、行政の外の第三者機関としての「情報保全諮問会議」が発足した。

出自からしてまことに怪しい組織。国民的に盛りあがった秘密法批判をかわすための「イチジクの葉」であることは歴然。成立した特定秘密保護法に、民主的な化粧のひとはけを施す茶番劇の小劇場という趣である。

諮問会議は、法の適正な運用のため内閣総理大臣に対し意見を述べることが役割で、会議のメンバーは下記の7名。
  宇賀克也・東京大学大学院教授
  塩入みほも・駒澤大学准教授
  清水勉・日本弁護士連合会情報問題対策委員
  住田裕子・弁護士
  (主査)永野秀雄・法政大学教授
  南場智子・株式会社ディー・エヌ・エー取締役
  (座長)渡辺恒雄・読売新聞
渡辺恒雄が座長なのだから、この会議がどう動くことになるかは推して知るべし。

ただ、日弁連から清水勉弁護士が加わっているのが目を引く。彼は、特定秘密保護法の成立に最も鋭く反対した一人。それでも敢えて、この茶番に付き合おうという。私は、その意気を買いたいと思う。

特定秘密保護法は、「運用宜しきを得る」ことでなんとかなるしろものではあるまい。細部の修正ではなく、法の廃止を求めるのが筋だ。おそらく彼もそう思っているだろう。それでもなお、内部から批判を貫こうとしている。

会議参加への批判は、二つのレベルで考えられる。まずは、どうせ密室での個人の発言が会議の進行や政策に影響を与えることになろうはずはない。だから、発言しても無駄。また、仮に発言が外部に公開されたとしても、どうせ徹底批判意見は7分の1でしかない。結局は諮問会議全体の意見は翼賛的な見解にまとめられてしまうだろう。その結果、実質的には日弁連代表も加わって、特定秘密保護法の運用が定着した、という安倍政権の形づくりの思惑に手を貸すだけではないか。

その批判を意識して、本日の毎日「そこが聞きたい」欄で、清水さんが記者の質問に答えている。
−−諮問会議は「会議として」首相に意見を述べることになっています。反対派が1人では、多数派に取り込まれるだけではありませんか。
「そうはならないでしょう。秘密保護法18条には『首相は(秘密指定などの)基準を定めるときは、識見を有する者の意見を聴いたうえで案を作成する』とあります。『識見を有する者』という個人の立場で意見を言えるから参加しました。問題意識や専門性の高い人が、情報の適正管理という観点から公的な場で言った意見を踏まえ、法律が運用されていくのが正しい筋道だと思います。」
「この7人で何か具体的な議論をして決めるとは思いません。自分の分かっていること、見えていることに問題意識を持って発言することが一人一人に求められています。」

−−反対派である自身の役割は。
「賛成、反対ではなく、経過をなるべく公表公開する必要があると思っています。議事録には発言者の氏名を入れることになりました。意味のある発言を公的な場で記録することが重要です。後からでも意見が生きればよいと思います。基準案作りに向け、資料をなるべく多く見せてもらい、考え抜いて意見をまとめたいと思っています。」

つまり、7人の見解をまとめた合意形成は予定されていない。しかも、密室の会議ではない。発言内容は、国民に届くはず。という彼の読みなのだ。外は外で、法の廃止を求めた運動をつくっていけばよい。彼は彼で、諮問会議の中で頑張ろうというのだ。もちろん、会議の中で「法の廃止」などと言えるわけはない。法の実施を前提としたものになるのは当然として、どのような法の運用になるかの幅は極めて大きい。大いに期待したい。

ところで、せっかく作成された議事録。是非目を通してみよう。
まずは、官邸のホームページで、第1回会議の議事次第、配布資料と議事要旨が入手できる。URLは、以下のとおり。
http://www.cas.go.jp/jp/seisaku/jyouhouhozen/index.html

ところが、議事録はホームページ掲載とはならない。第1回会議(本年1月17日)の議事録は、メディア各社が情報公開請求をしていたがなかなか開示されず、これが批判の対象となっていた。ようやく、2月12日に公開があって各社が入手したようだ。1時間余の会議の記録で全文14頁。さっそく読みたいと思ったが、どのメディアも全文掲載をしていない。探したら、福島瑞穂議員のホームページで読める。そのURLは、以下のとおり。
http://satta158.web.fc2.com/docs/140212-minutes-of-security-law-council.pdf

安倍晋三が、2度にわたってかなり長い発言をしている。また、渡辺座長の、自分の立ち場をよく心得たという発言もある。そして、清水弁護士はブレない発言を貫いているという印象。私は、彼を応援する。

そしてなにより大切なのは、第2回以後も、情報保全諮問会議議事録の公開を堅持させることだ。この点は、みんなで声を揃えよう。
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                 接ぎ木ロボット
実の成る野菜を作るには、今は「接ぎ木苗」を使う。種をまいて、立派な実物(みもの)を収穫するのはなかなか難しい。素人の家庭菜園だけでなく栽培農家も「接ぎ木苗」を植える時代らしい。そうでなければ栽培農家でも、八百屋さんに並んでいるような、大きくて色つやがよく、味のよい商品価値のある実物は作れない。その結果、「接ぎ木苗」は主要5品種(キュウリ、スイカ、メロン、ナス、トマト)で年間6億本も生産されている。

いったい「接ぎ木苗」とは何か。味や収量、見栄えを求めて、野菜は続々と品種改良されている。しかし、この優良品種は概して病害に弱い。味がよくて、そのうえ病気に強いものが求められる。その難問を解決するのが「接ぎ木苗」なのだ。

植物は昔から、挿し木や接ぎ木で殖やされてきた。土壌病害に強い根っこをもった「台木」に、弱いけれどおいしい実の成る「穂木」を接ぎ木したらと試行錯誤された。芽生えて間もない苗を使って、適切にカットした両者を接着しておけば、2週間もしないうちにカット面が活着して1本の苗になる。

スイカの台木にはカンピョウ(ユウガオ)を使う。キュウリやメロンにはカボチャを、ナスにはアカナスが台木となる。味のよいトマトには根の強いトマトが台木として使われる。

素人はカボチャ味のキュウリやメロンができはしないかと心配になるが、そんなことはない。しかし、「ナスの木にトマトのような赤い実が成った」「キュウリやスイカを作ったらカボチャが成った」ということは間々あるという。穂木が衰えて、勢いの強い台木のほうが育って実を結んだのだ。

以前各農家は、自分の畑に植える「接ぎ木苗」を自分で作っていた。しかしこのごろは、お好みのものを農協やホームセンターで手に入れる。家庭菜園の主も少々高価だがワクワクしながら、珍しい品種にチャレンジする。たいてい八百屋で入手した方が安上がりな結果になるけれど、愚かにも、園芸店に苗が並ぶと今年こそはと苗に手が伸びてしまう。

日経の記事(2014/02/13)によると、この膨大な6億本にものぼる「接ぎ木苗」を作っているのは、実はロボットなのだ。1本の腕がトレイに並べられた「実生苗?」の上部をカットして捨てる。もう1本の腕は別のトレイに並べられた別の品種の「実生苗?」をカットして、カットした上の部分を根のついた「実生苗?」のところへもっていき、パイプでとめる。人間は「実生苗?」と「実生苗?」を間違えないようにセットするだけでいい。もし人間がそのセットを間違えると、キュウリが成らずにカボチャが成ることになる。

人間なら1時間あたり200本のところを、ロボットは1000本の苗を作る。今までこの種苗会社は、苗生産の時期(2?5月)には200人の臨時パートを時給900円で雇っていた。このロボット購入に1億円かかったが、今まで行っていた人間の採用、教育、労務管理が大幅に省けるので充分ペイすると社長は満足げに語っている。

仕事のなくなったパートさんがロボットを作る仕事に就けるなら、まだいい。しかし、このロボットを作る会社はオランダの企業だという。こうして大量生産された「接ぎ木苗」に成るキュウリは誰が買うことになるのだろう。収入のなくなったパートさんには買えない。コスト削減のための接ぎ木ロボットは、人を幸せにするだろうか。住みやすい社会をつくるだろうか。結局は貧富の差を産み出すだけになってしまわないか。かつてのラッダイト運動とおなじように、ロボットを壊したくなる人がきっと出てくるに違いない。
(2014年2月19日)

続々「ひらがなで語る立憲主義」

下り急勾配の機関車の喩えは、立憲主義の権力制約の側面に重きをおいた説明。機関車が権力だが、この機関車には急勾配や急カーブでは、危険な暴走によってレールを踏みはずすことのないよう、あらかじめブレーキを掛ける仕組みとなっている。そのような仕組みの機関車と軌道とは主権者人民が造る。その機関車暴走予防システムの設計思想が立憲主義ということになる。

オデュッセウスとセイレーンの説話は憲法の硬性原理に重きをおいた説明。主権者の意思も、時に激情によって過つことがある。そのような誤りのおそれあることを見据えて、十分に理性的なときに、自分をも縛っておく知恵が立憲主義。現在の主権者の意思が、過去の主権者の意思に制約されることは一見不合理に見えるけれども、実はその方が近視眼的な誤りを避けて、安定した国家の運営ができるのだという歴史の検証を経た叡智。これも立憲主義。

別の話。盲導犬の育成で難しいのは、「不服従の訓練」なのだそうだ。盲導犬は、視覚障害者である主人の安全を守るよう訓練される。普段は主人の意向を汲んで、その指示のとおりに行動する。しかし、主人がその身の安全に反する行動に出ようとする時には、あらかじめ教えられた安全策を優先して、不服従を貫かなければならない。賢い盲導犬の自主的判断尊重という文脈ではない。あらかじめ想定された危険への対応行動についての十分な訓練の成果なのだ。主人が人民、盲導犬が権力だ。権力は人民の安全のためのものとして存在する。うっかりと人民が自らの安全に反して、あらかじめ決められた安全の方策から逸脱しそうになった場合には、権力はこれに従ってはならない。あらかじめ決められた安全の方策が憲法で、人民や権力のときどきの意向よりも、十分に練られ整備された安全策を優先し徹底することによって、長期的に人民の安全をはかろうという考え方。これが立憲主義。

なお、こんなご意見をいただいた。なるほど、これもよく分かる。
「国の形、国家の根幹を形づくる憲法と、他の法律のあいだに、人々は、なんとか階層性を保とうとした。その方策が、3分の2の改正発議要件であり、憲法に違反する法律は作れない違憲立法審査権だったりするわけですね。この階層性は重要だと思います。実際、国の形を変えるということは、きわめて重大なことなので、時の内閣の一存で、近視眼的、短慮軽率に変えるべきものではありません。日常の細々とした規則は、お父さんが決めても、国の根幹にかかわることは、お祖父ちゃんの意見も聞かなくては、ということでしょうか。家父長的な表現ですみませんが(笑)。」

自分の言葉で語ろうとすると、本当にはよく分かってはいないことが見えてくる。「ひらがなで語れ」とはそういうことなのだろう。立憲主義に限らない。
これから、ひとにものをかたるときには、ひらがなでかたろうとおもう。
(2014年2月18日)

続・立憲主義を「ひらがなで語る」こと

昨日(2月16日)のブログは、自分でも手抜きだと思った。いろんな事情があったのだが、言い訳にはならない。さっそく、親しい知人から叱責をいただいた。

「当初一見かみ合わないように見えた、三氏の問題提起が、会場からの質問と意見を受けながら、どのようにかみ合っていったのか。また、立憲主義を『ひらがなで語る』とどうなるのか。続きを期待する」

手厳しい指摘だが、こんなに丁寧に拙文を読んでくれる読者のいることがブログを書き続けることの冥利。立憲主義を「ひらがなで語る」ことの続編だけでもきちんと書いておかなければならない。

梓澤和幸君流の「ひらがなで語った」立憲主義は、大要次のとおり。
「全速力で走り続けている機関車がある。下りの急勾配に差しかかったが、スピードは落ちない。このままでは危ない。このとき、権力という機関車の暴走へのブレーキが憲法。機関車に、あらかじめ国民の意思によるブレーキを組み込んでおくことが立憲主義だ」「用語はどうでもよい。権力の暴走を許さず、あらかじめの国民の命令として、ブレーキをかけられる仕組みが整っていることがたいせつなのだ」

なるほど、おもしろい。それなりによく分かる。しかし、まだ腹にストンと落ちるところまではいかない。名人芸の域に達しているとは言いがたい。

よく引き合いに出されるのは、ギリシア神話に登場する海の妖精セイレーンとオデュッセウスの話。セイレーンは岩礁から美しい歌声で船人を惑わし、歌声に魅惑された船人は舵を誤って難破し命を落とす。ホメーロスに詠われた『オデュッセイア』では、トロイ戦争から帰路のオデュッセウスが、船員には蝋で耳栓をさせ、自身を帆柱に縛り付け、「自分かセイレーンの歌の魅力に負けて縄を解くように命じても従ってはならない。より一層強く締め上げるよう」部下に命令する。部下はこの命令を忠実に実行して、一行は難を逃れる。サイレーンの歌声の誘惑に自らが負けてしまうことを知っているオデュッセウスの知恵として説かれる。

名古屋大学教授・愛敬浩二さんは、この説話を引いて、自らの「意志の弱さという問題を抱える合理的主体が自らの自立性を損なうことなく、継続的な合理性を獲得するテクニック」と解説する。これこそ立憲主義の神髄というわけだ。

主権者オデュッセウスは、「自分がセイレーンの歌の魅力に負けて縄を解くように命令した場合は、より一層強く締め上げるよう」憲法を制定する。いざ、オデュッセウスの気が変わって、「この馬鹿者ども。私の命令が聞けないのか。この縄をほどけ」と叫んでも、縄を解くことは違憲の行為として許されない。セイレーンと遭遇する以前のオデュッセウスの最初の命令が高次なもので、その後現実にセイレーンと遭遇してからの命令はそれに劣るものとして従ってはならない。最初の命令が憲法の制定で、次の命令は憲法に違反するものとして効果を否定される。これが立憲主義。

「民主国家において、主権者であるはずの人民の政治的な決定権が憲法によって制限されているのも、そうして制限を課された政治権力の方が、長期的に見れば、理性的な範囲内での権力の行使をおこなうことができ、無制限な権力よりも強力な政治権力でありうる」から、などとも説明される(東大教授・長谷部恭男さん)。

「開戦が主権者国民の意思だから戦争を始める。半世紀も前の国民の意思に縛られる必要はない」という意見を憲法は許さないのだ。これが立憲主義。自らの弱さや変節の可能性をよく知る主権者が、自らを帆柱に縛り付けた縄、それが憲法、そして予めそのような制約を自らに課しておこうという考え方が、立憲主義だということ。これもなかなかの説明だが、まだ十分には納得しがたい。

「おまえはどうだ。自分のひらがな言葉で語ってみよ」と言われても、実はできない。しばらくは、漢字の「近代立憲主義」と、横文字の「constitutionalism」で語るしか能がない。立憲主義を説明するには、人権の至高性、憲法制定権力と権力授権の関係、そして憲法の権力に対する制限規範性、さらに主権者が主権者自身をも制約することが語り尽くされなければならない。これを、やさしく、深く、楽しく、愉快に、明るく、展望をもって、そしてひらがなでかたれるようになりたい。
ああ、今日も結局は不十分な内容で終わってしまった。
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            雪の日の白イチゴ
今年は東京にも何度も雪が降った。家中冷蔵庫に入ったように寒い。積もった雪を集めて重ねると却って融けが悪くなると理屈をつけて、雪かきはしない。

ところが、常緑のミカンや椿に雪が積もって、しなった枝が地面まで届いている。雪下ろしの手間を惜しんだばかりに、大枝が見事にボキリと折れてしまった。天から落ちてくる雪を相手に喧嘩をするわけにもいかないので、「チャドクガがつくので、枝透かしをしなければと思っていたのだから、手間が省けた。」と案外さっぱりあきらめている。落語の「天災」のとおり、石田梅岩流「心学」で納得しているのがおかしい。

もっとも、「ツバキ 曙」の腕ほどの太さの枝が折れて、蕾が最後を知ってか、ピンクの花びらを競って開こうとしているのが憐れである。「大丈夫、椿は強い。新梢を吹いて、4,5年で回復する。低く仕立てて楽しめばいい」と自分に言い聞かせている。

真っ白な雪の美しさに感心していたら、朝日に「白イチゴ」の記事が出ていた。人の欲望は計り知れない。イチゴは真っ赤なものと思っていたら、真っ白い雪のようなイチゴが売り出されたという。「実の重さが100グラムを超える大玉の『天使の実』は銀座で2万9千円(9粒)で販売される超高級品」と報じられている。確かにイチゴの品種改良は激しく、ちょっと前に「東の女峰 西のとよのか」といわれてもてはやされていたが、今では八百屋さんにそんな名前は見えない。今主流は、とちおとめ(栃木)、さがほのか(佐賀)、あまおう(福岡)、紅ほっぺ(静岡)。みんな1個50グラムはありそうな、つやつやのピカピカ。値段も1パック300円ほどから800円ほどまで。大粒ほど高い。

ヘタのところまで赤いとうれしがっていたのは昔のこと。真っ白いイチゴ「天使の実」は色づかないように、厳格に温度、紫外線の管理をして、土で汚れないように白いビニールシーツで覆って栽培するという。

2007年9月16日のやはり朝日の記事の切り抜き。「中国西部の山岳地帯で不思議なイチゴを見つけた」「この(野)イチゴは完熟しても白いままなのだ。この地域のイチゴはみんな白いかというとそうでもなく、別の種のイチゴはちゃんと赤く、場所によっては紅白入り交じる」「口に入れると、まず桃に似たほのかな香りと、凝縮された甘さ。それを、濃厚なミルクの味が追いかけてきた」(青山潤三・動植物写真家)と書かれてある。

さて、一個3千円もする「天使の実」はどんな味と香りがするのだろう。絶対買いはしないけれど、見物に行って形と色と、そして香りだけでも愛でてこようか。
(2014年2月17日)

ひらがなの「立憲主義」とは?

本日は青年法律家協会東京支部の総会、お呼びがかかって、私と、同期の梓澤和幸君、そして少し若い原和良さんとの「鼎談」という形のミニシンポジウムに参加した。

ディスカッションのタイトルは、「秘密保護法制定と自民党改憲案に対抗するために」というもの。若い弁護士たちが積極的に講師活動を行っている。そのような活動へのアドバイスを、という趣旨だったようだ。

私が最初に喋った。概要は以下のとおり。
「民主主義の政治過程は、選挙⇒議会⇒行政⇒司法、と考えられている。しかし、実はその前がある。国民が十分な情報に接して、正確な情勢を把握したうえでの意見形成ができなくてはならない。選挙以前に、情報の取得と意見交換の機会の保障が必要だ。秘密保護法は、国政の進路を決める最重要テーマの情報について、行政トップが許容したものだけを国民に知らせればよい、それ以外は知らせてはならない、というコンセプト。これでは、国民は情報が隠されていることすら知らないまま、情報の取捨選択に踊らされるピエロになりさがる。知る権利の十全の保障こそが、民主主義の政治過程を成り立たせる土台だ。」「実は、もうひとつある。情報を要求する自立した国民が必要だ。国家権力にも、多数者にも、そしてあらゆる中間団体からも自立して、自分の足で立ち、自分の頭で考え、自分の言葉を喋る個人。これなくして、民主主義は成り立たない」「特定秘密保護法反対だけでなく、改憲阻止のためにも、この自立した個人がどれほど輩出するか。それが鍵だと思っている」

原さんが続いた。私が把握した限りで、次のような概要。
「個人の自立は大切だ。企業からの自立が絶対に必要だし、民主的な運動における個人の自立も必要だ。意見の合う仲間内の議論だけをしていて、違う意見との議論がなければ個人の意見も運動も進歩しない。しかし、上手に空気を読みながらの建設的な議論の姿勢も大切だ。私は、『1日1ジョーク』を自分に課して、上手に人と意見交換できるように心掛けている。こうして、運動は楽しくやらないと続かない」

梓澤君は、まずエルズバーグから話を始めた。
「ベトナム戦争の時と切り出せば、当然に共通の話題だというのが大きな間違い。今の若い弁護士にとってのベトナム戦争は、我々の世代の満州事変ほどの歴史的距離だ」という。なるほどそんなものか。「北爆開始のきっかけとなったトンキン湾事件は実は仕組まれたもの。それを暴露したのがエルズバーグ」「そして、今は、スノーデンであり、マニングだ。彼らは、重刑を覚悟で自らの良心に従っている。権力といえども、良心の自由を奪うことはできないのだ」

初めは脈絡のない3人の発言が、フロアからの質問や意見を得て、だんだんと噛み合うものになっていった。憲法に関心がないという人々に、どうしたら改憲阻止の運動に加わってもらえるのだろうか。そもそも、なぜ憲法に関心が生じないのだろう。改憲問題をたいへんなことと思った人々に、どんな行動提起ができるのだろうか。それなりの意見交換がなされた。

なかで、梓澤君の名調子が光ったところが一箇所。
「立憲主義なんて漢字で喋っているうちは、人の心に響かない。権力を縛る原理なんて他人の言葉を借りて言い換えてもだめ。ひらがなに直して喋らなければだめだ。ひらがなで喋るには、咀嚼の力量が必要だ。それができて始めて人に訴えることができる」。これは難しい。もしかしたら、至難の業あるいは無理難題。その難題に応えることができたら…、名人芸の域。

井上ひさしさんが生前くり返し言っていた言葉を思い出す。
全部ひらがなで標記すると、味わい一入。
「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに」
こうありたいものだが、なかなかこうはいかない。
(2014年2月16日)

安倍は知るや「立憲主義」のなんたるかを

東京新聞の13日トップに、意外な大見出しが躍った。「首相、立憲主義を否定」というもの、副見出しとして「解釈改憲『最高責任者は私』」「集団的自衛権で国会答弁」とある。

以前であれば、あるいは凡庸には、「首相、集団的自衛権容認に積極姿勢」「『解釈改憲』に踏み込む発言」「首相、政府の九条解釈変更に意欲」くらいの見出しとなったのではないか。「立憲主義否定」が一面トップとなったことに、いささかの感慨を禁じ得ない。1年前ではあり得なかった。この1年の改憲阻止の運動の中で、「立憲主義」は人口に膾炙したのだ。

「東京」の記事は、「安倍晋三首相は12日の衆院予算委員会で、集団的自衛権の行使を認める憲法解釈の変更をめぐり『(政府の)最高責任者は私だ。政府の答弁に私が責任を持って、その上で選挙で審判を受ける』と述べた。憲法解釈に関する政府見解は整合性が求められ、歴代内閣は内閣法制局の議論の積み重ねを尊重してきた。首相の発言は、それを覆して自ら解釈改憲を進める考えを示したものだ。首相主導で解釈改憲に踏み切れば、国民の自由や権利を守るため、政府を縛る憲法の立憲主義の否定になる」というもの。

集団的自衛権行使容認のために解釈改憲を進めようという安倍の発言を捉えて、「立憲主義を否定」と言いきったところに、センスのよさが光る。とはいえ、この発言の孤立・空回りの危険も感じていたのではないだろうか。

翌14日の赤旗がこれに続いた。やはり一面トップで、「立憲主義を否定する集団的自衛権への暴走は許されない」「志位委員長が首相を批判」というもの。内容は東京新聞と変わらない。政党機関紙でも、赤旗は全国紙。東京新聞としては、援軍として心強かったのではないか。

本日(15日)の毎日では、石破幹事長の防戦の言葉が紹介されている。「立憲主義をないがしろにし、『首相が言えば何でもできる』と言ったわけではない」というもの。俄然、立憲主義をめぐる攻防が政治の表舞台に躍り出た。

もちろん、産経は冷ややか。東京の13日トップの記事を取りあげて、「最近の東京新聞は『反原発、反自民』路線が徹底しており、皮肉ではなく『よくぞここまで』と感心します」と「褒めちぎって」いる。その上で、「立憲主義とは、政府が憲法に立脚した統治を行うことをいいます。その憲法の解釈権は、行政府では内閣法制局ではなく、内閣が持つのが通説で、首相答弁は、当たり前の話です。東京さん、子供だましはもうやめましょうね。(編集長 乾正人)」と言っている。

もしかして、産経しか読まない読者は、「東京さんが子供だましをしている」と思い込んでしまうかも知れない。ここは、「東京さん」のためではなく、立憲主義のためにどうしても一言しておかねばならない。

「立憲主義とは、政府が憲法に立脚した統治を行うことをいいます」という産経流は、どこから拾ってきた定義だろうか。まったくの嘘ではないように見えて、実は決定的に間違っている。

今、この社会で普通に使われている立憲主義という用語は、個人主義と自由主義に立脚した近代立憲主義を指す。ここには、主権者国民が人権の擁護を至高の価値として、人権侵害の危険をもつ権力の発動を制約するために憲法を制定し、主権者国民の立ち場から権力に憲法を守らせるというコンセプトがある。「立憲主義とは、政府が憲法に立脚した統治を行うこと」という定義では、どんな憲法でも、どんな政府でも、どんな統治でも、「形式的に憲法に従った政治」でさえあれば、立憲主義に背馳するものではないことになる。これでは、立憲主義の内実は殺ぎ落とされ、三文の値打ちもなくなってしまう。安倍晋三を喜ばせるだけ。「最近に限ったことではありませんが、産経新聞は『親自民、親安倍、親権力』路線が徹底しており、もちろん皮肉ですが、『よくぞここまで』と感心します」

正確には、産経流の「立憲主義」は、真正の立憲主義から区別して、「外形的立憲主義」という。外形的立憲主義に基づく憲法の典型として、プロイセン憲法(1850年)、ドイツ帝国憲法(1871年)、そして大日本帝国憲法(1889年)が挙げられる。いずれも、強大な君主大権をもつもので、個人主義、自由主義、国民主権に立脚するものではない。それでも、産経流の定義にはぴったりなのだ。

昨日(14日)、首相は国会答弁で「立憲主義」の考え方を「王権が絶対権力を持っていた時代の主流的考え方だ」と説明したと報じられている。産経流は安倍流でもある。もしかして、産経子は、「17か条の憲法による政治」も、「憲法に立脚した統治を行うことをいいます」の範疇に入れているのではないだろうか。「産経さん、子供だましはもうやめましょうね。」

これまで行政組織全体として積み重ねてきた憲法解釈を、主権者国民の意向を問うことなく、安倍個人が瓦解させようというのだ。暴挙というほかはない。真っ当な多くの人々から、安倍批判が噴出している。

本日の東京は追い打ちをしている。「憲法分かってない」「首相解釈変更発言」「与野党やまぬ批判」というもの。名前が上がっているのは、公明党の井上義久幹事長、民主党の枝野幸男憲法総合調査会長、結いの党の小野次郎幹事長。生活の党の鈴木克昌幹事長、共産党の志位和夫委員長、社民党の又市征治幹事長、自民党内では、村上誠一郎、野田毅、船田元、そして谷垣禎一法相も。

枝野幸男の批判は厳しい。「権力者でも変えてはいけないのが憲法という、憲法の『いろはのい』が分かっていない」というもの。

最後に、意外な人の意外な立憲主義「擁護」発言のご紹介。舛添要一新都知事だ。「自民憲法改正草案、立憲主義の観点で問題」というもの。短いから、本日毎日社会面の片隅の記事を全文転載する。
「東京都の舛添要一知事は14日、就任後初の定例記者会見で、選挙で支援を受けた自民党の憲法改正草案について『立憲主義の観点から問題がある。今のままの草案だったら、私は国民投票で反対する』と述べた。
 舛添氏は2005年に自民党がまとめた第1次憲法改正草案の取りまとめに関わった。会見で野党時代の12年に出された第2次草案について問われると『学問的に見た場合、はるかに1次草案の方が優れている』と指摘。2次草案の問題点として
(1)天皇を国の「象徴」から「元首」に改めた
(2)家族の条文を設け「家族は互いに助け合わなければならない」と規定した
(3)「国防軍」の創設を盛り込んだ−−点などを挙げた。
また国民の権利に関し、1次草案の『個人として尊重される』を2次草案で『人として尊重』と変えたことに触れ『憲法は国家の対抗概念である個人を守るためにある。人の対抗概念は犬や猫だ』と厳しく批判した。
 舛添氏は19日に憲法改正の考えをまとめた新書を発行するが、内容について『都知事選に出るから自民党寄りに書き換えたことは全くない』と強調した。」

「個人として尊重される」を「人として尊重」と変えたことについて、「憲法は国家の対抗概念である個人を守るためにある。人の対抗概念は犬や猫だ」という説明には、なるほどと頷かざるを得ない。

舛添と枝野の両名。かつては自民党と民主党を代表して憲法改正の協議を煮詰めた張本人。当時は改憲をたくらむ実務者・実力者として評判が悪かった。それが今は、ともに安倍改憲への批判の矛先が鋭い。この両名への評価の見極めは難しいが、安倍がたくらむ改憲内容のひどさを際立たせることには貢献している。
(2014年2月15日)

キャロライン・ケネディ大使の沖縄訪問

ケネディ駐日米大使が2月11日から13日まで沖縄を訪問した。平和祈念公園の「平和の礎(いしじ)」「戦没者墓苑」を訪れ、「厳粛な場所を訪れることができ誠に光栄に思います。命を落とされた兵士と一般市民の名前を読むのは圧倒される体験でした」と述べている。一人の市民の感想として真っ当なもの。籾井や百田、長谷川などの、支離滅裂で凶暴な言葉を聞かされて来た身には、このコメントは耳に心地よい。

昨年11月アメリカ大使として日本に着任して以来、ケネディは三陸地震被災地、被爆地長崎などを訪問している。また、安倍首相の靖国参拝について「disappointed!」(がっかりしたわ!)とツィートしたり、和歌山のイルカ漁について「イルカが殺される追い込み漁の非人道性について深く懸念しています」と述べたり、話題にはこと欠かない。50年前に暗殺された父親の柩につきそう5歳の少女の印象もあって、悲劇のプリンセスは過剰な期待と歓迎の空気の中にある。

そのケネディ大使の沖縄訪問にあわせて、琉球新報は2月11日、大使に呼びかける社説を掲げた。日本文に加えて英文でも。

社説は、「沖縄住民にとって米国は民主主義の教師であり、反面教師でもありました。」から始まる。戦後米国は強制的に理不尽な沖縄の基地建設を進めた。普天間基地も住民を排除してつくられた歴史が語られ、名護に移転しても、「県民は事故の危険性や騒音被害などで北部地域住民の命と人権、財産が半永久的に脅威にさらされることを危惧しています」。「イルカ追い込み漁の非人道性について懸念されているというのでしたら、ジュゴンの餌場を破壊して生息地を脅かすことは非人道的ではないでしょうか」。そして最後に「父親譲りの使命感で、米軍が住民の安全を脅かしている沖縄の軍事的植民地状態に終止符を打ち、新しい琉米友好の扉を開いてください。今回の沖縄訪問を辺野古移設断念と普天間撤去への大きな転機とするよう強く求めます」と結んでいる。

アメリカ側からの要求で、名護の稲嶺市長は予定外にケネディ大使と会談した。市長は「普天間基地の名護移設に反対する地元市民の声をオバマ大統領に伝えてほしい」と要請し、ケネディ氏は「よく分かった」と述べて、大統領への伝達に前向きな姿勢を示したという。(沖縄タイムス2月13日)

琉球新報の社説は「新しい琉米友好の扉を開いてください」と呼びかけている。「琉米友好」である。普天間基地のゲートでオスプレイ配備への抗議行動をしていた大田朝暉さんは「ケネディ氏は名護市長の話を聞いた。むしろ恥ずかしいのは地元を無視する日本政府だ」と言っている。

ウォールストリートジャーナルは、仲井間知事と会談したケネディ大使の発言について、「普天間基地の移設計画には言及しなかった」が、「米軍駐留の負担軽減に向けて協力することが重要だ」とまでは述べた、と報じている。

キャロライン・ケネディが何かをなし得るか。まだまったく分からない。個人の善意や理解では到底解決できないほど問題は深刻で大きい。しかし、何度も何度も裏切られ続けた沖縄が、呼びかけて答えてくれるかもしれないという誠実さを感じる相手が、日本政府ではなくケネディ大使だということには、考えさせられる。本土の私たちは、力のなさを深く恥じなければならない。
(2014年2月14日)

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