澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

 明日(2月7日)日弁連会長選挙

明日2月7日(金)が日弁連会長選挙の投開票日である。次期の日弁連新会長(任期2年)が決まる。私は期日前投票を済ませた。

今回選挙で会長に当選すると目されている候補者は、日弁連の憲法委員会委員長、人権擁護委員会委員長の経歴をもつ。同候補の選挙スローガンが「憲法と人権を守り 築こう明日の日弁連」というもの。政策パンフレットを見る限り、これまでの日弁連の路線を踏みはずすことはない。

人権擁護、憲法「改正」阻止、憲法の理念の尊重、司法の独立、日弁連の在野性の確立等の、日弁連に定着した路線は、全国の多くの弁護士が長年積み上げてきた努力の結晶である。けっして一人のスーパースターの功績などではあり得ない。

そのような実績を積み上げてきた会内「主流派」の存在がある。名付けるなら、「護憲派」「人権派」あるいは「理念派」である。その人的構成において、革新派弁護士層と良心的保守層との緩やかな連合、と言ってよいだろう。近年その優位が揺らぐことはない。たった一度の例外を除いては。

2010年の日弁連会長選挙では、異例の再選挙になって、このときばかりは「主流派」が敗れた。勝利したのは、宇都宮健児君だった。宇都宮候補のスローガンは、「弁護士人口の増員反対」「司法修習の給費制維持」、そして「会内派閥体制の打破」であった。憲法や司法の理念をめぐって、日弁連の方針が争われたわけではない。

政府は、既に司法試験合格者を年間3000人に増員する計画を確立し日弁連も賛意を表明していた。宇都宮君は、「合格者数を年間1500人に削減する」と主張した。これに対して、主流派候補は削減数の明言を避けた。「司法改革」に関わってきたこれまでのしがらみがあったというだけでない。法曹人口増員は司法利用者である国民に有益で、「これに反対することは一般庶民に弁護士のエゴと映るのではないか」「多くの国民の賛意を得られないのではないか」という躊躇があったからである。

主流派と宇都宮君の主たる対立争点はこの点に収斂し、弁護士増員で経済的な苦境に曝されている地方会の多くが宇都宮君を支持した。こうして宇都宮会長が実現した。このとき、主流派の活動家の言葉が印象に残っている。「誰が会長になっても、憲法や司法の理念に関する日弁連の基本路線が揺らぐことはない」。確かにその通りとなった。

組織運営がスムーズに行われる組織においてはどこも同様であろうが、会長のパーソナリティで、日弁連の方針や姿勢が大きく変わることはない。言うまでもないが、人格識見優れた人物が会長選に立候補しているわけではないし、日弁連会長経験者が仲間内で尊敬されている弁護士ということでもない。

1970年代からの会長経験者のうち、個人的に尊敬に値すると思えるのは土屋公献さんくらい。また鬼追明夫さんの硬骨漢ぶりには敬意を惜しまない。その外には、格別敬意を表すべき人を知らない。会長経験者をことさらに持ち上げたり、何もかも一人がやり遂げたような都知事選での宣伝は、聞かされる方が恥ずかしくなるだけでなく、多くの弁護士を白けさせることになるだろう。

ところで、日弁連会長選挙と同時に、私の所属する東京弁護士会の常議員選挙も行われる。こちらも期日前投票を済ませた。私が投票した候補者の公約の一部を抜き書きしておきたい。

「弁護士会は、いま重要な課題を抱えています。国民世論を無視して特定秘密保護法が成立し、事実上の解釈改憲を意図する国家安全保障基本法が国会に上程されようとしています。基本的人権の尊重と恒久平和主義を基本原理とする憲法が危機に晒されています。東日本大震災の被災者と原発事故被害者の早期救済、法曹人口問題、若手会員への支援など課題は山積みです…」

日弁連会長が誰であるかにかかわりなく、弁護士会なかなか真っ当ではないか。
(2014年2月6日)

NHK会長と経営委員           ーこの度し難き面々

権力が国民を支配する手段は、本質的には暴力による強制である。しかし、現代社会において立憲主義が確立してくると、剥き出しに権力の意図を国民に対する暴力で貫徹することは困難となってくる。後景に退いた暴力に代わる国民支配の最重要手段は、法は措くとして、情報の統制と教育の管理である。

権力は、できることならメディアのすべてを統制下に置きたい、総体としての教育を政権の伝声管としたい、と願望する。その内的衝動はすべての権力に通有のものではあるが、安倍晋三政権においては、とりわけ露骨なものとして突出している。

国民の側から見て、権力による言論の統制と教育の管理ほど危険なものはない。だから、国民の知る権利の重要性が喧伝され、まともなジャーナリズムには権力からの独立が不可欠とされる。また、真っ当な社会においては、権力の管理から独立した教育の自由が重んじられなければならない。

安倍政権は、情報の統制にも教育の管理にも既に手をつけている。情報の統制はまずはNHKから。「新聞の統制も民放の統制もなかなかに難しい。しかし、NHKならなんとかなる。ここからなんとかしよう」と思ったに違いない。幹部人事を通じてNHKを統制しようとの決意は、まずは経営委員会に自分の息のかかった人物を送り込むことによって実行に移され、ついで今回の会長人事となった。

かつて、石原慎太郎という右翼政治家が都知事になって、都民から308万票を得た傲りで教育委員を自らの提灯持ちで固めた。こうして、東京都の公立校全体に「日の丸・君が代」強制を持ち込んで、いまだに教育現場は混乱と衰退の爪痕を残している。あの悪しき前例とよく似ている。安倍晋三は、NHKをコントロールして完全にブロックしておきたいのだ。

昨年11月、安倍がNHKの経営委員に送り込んだ、「安倍ダミー」は次の5名である。
百田尚樹、長谷川三千子、本田勝彦、中島尚正、石原進。

このなかで本田勝彦は知られていないが、安倍の小学生時代の家庭教師を務めた人物だという。この全員が、「不偏不党、公正中立」を旨とするNHKにおいて、そのコンプライアンスに責任をもつべき立場に不適切であることは一目瞭然ではないか。なお、経営委員は12人。任期は3年である。安倍の息のかかった委員は、このままでは直ぐに過半数になる。NHKは、安倍政権の操り人形にならざるを得ない。

NHKは国営放送局ではない。国家や政権のためではなく、国民のための公共放送である以上は、権力からの独立が不可欠である。本来、安倍晋三が意気投合した人物や安倍が信頼する人物であってはならない。政権から独立した人物、しかも独立していることについて国民の信頼を勝ち得る人物が望ましく、ふさわしい。

既に百田尚樹は都知事選においてかの田母神俊雄を応援し、「南京大虐殺はなかった」などと歴史修正主義者としての発言で物議を醸している。そして、今度は長谷川三千子だ。

長谷川三千子は、これまで数々の極右的言論で顰蹙を買ってきたが、今回報道された「野村秋介追悼二十年 群青忌」なる文集に掲載された追悼文は凄まじい。
野村は、朝日新聞社に押しかけて抗議の意思表示として拳銃自殺した右翼である。朝日というメディアへの狂気の圧力には全く触れず、これを礼賛している。しかも、その礼賛のしかたが今どき信じがたい時代錯誤。

「人間が自らの命をもつて神と対話することができるなどといふことを露ほども信じてゐない連中の目の前で、野村秋介は神にその死をささげたのである」「『すめらみこと いやさか』と彼が唱えたとき、わが国の今上陛下は『人間宣言』が何と言はうと、日本国憲法が何と言はうと、ふたたび現御神となられたのである」というのだ。また、朝日新聞について「彼らほど、人の死を受け取る資格に欠けた人々はゐない」と貶めている。

かつて神であった天皇の神性を否定するところに、現行憲法の核心のひとつがある。天皇を再び神とする思想をもつことは、憲法(19条)が保障するところではあるが、そのようなことを公言する人物はあらゆる公職にふさわしくない。NHK経営委員の資質を問うというレベルの問題ではない。

菅義偉官房長官は本日(5日)の記者会見で「経営委員は思想、信条、表現の自由を妨げられない。放送法に違反するものではない」と述べ、問題ないとの認識を示した、と報じられている。

これが、安倍政権だ。「南京虐殺はなかった」「天皇は再び神になった」「政府が右といえば、左というわけにはいかない」という、政権に親和的な言論は「思想・信条・表現の自由」として徹底して擁護するのだ。安倍政権が、このような極右勢力とどれほど緊密に一体化しているか、右翼言論人をして安倍の本音を語らせているか、しっかりと見極めようではないか。

政権の傀儡たるべく極右勢力に乗っ取られたNHK。このままでは、信頼回復の展望は見出しがたい。
(2014年2月5日)

公職選挙法違反を自認した       選挙運動費用収支報告書訂正

予てから指摘しているとおり、前回都知事選(2012年12月16日施行)における宇都宮健児候補の選挙運動費用収支報告書(同年12月28日付分)の記載によって、同陣営の運動員買収の疑惑が濃厚である。けっして規模が小さい故に無視できるものではない。宇都宮君に、猪瀬を初めとする他の政治家の違法を正す資格があるのかが問われなければならない。

上原公子選対本部長(元国立市長)と服部泉出納責任者に対する運動員買収を明示したが、被買収運動員はこの2名に限らない。「労務者」「事務員」として届けられた者、最大29名に及ぶ可能性がある。買収者は、収支報告書に名前は出てこないが選対事務局長であった蓋然性が高い。公職選挙法221条1項に違反するもので法定刑の最高量刑は懲役3年である。

私は、選挙告示の前日(1月22日)のブログhttps://article9.jp/wordpress/?p=1970に次のとおり記載した。
「東京都知事選は、とうとう明日が告示日。明日から選挙運動期間である。
念のために、今日また東京都選挙管理委員会に足を延ばした。2012年12月16日施行の東京都知事選挙における宇都宮健児候補の選挙運動資金収支報告書を閲覧してきたが、本日(1月22日)午後の時点で、何の訂正も変更もなされていないことを確認した。宇都宮陣営は、前回選挙における選挙運動収支報告書の重大な届出ミスを認めながら、これを放置して次の選挙に突入しようとしている。
上原公子選対本部長(元国立市長)の労務者報酬10万円受領の届出も、添付の選挙運動報酬受領証も何の変更もなくそのままであった。服部泉出納責任者についても同じこと。合計29名に及ぶ疑惑の「労務者」「事務員」についての届出訂正もない。宇都宮陣営の1月5日付文書「法的見解」では、随分と簡単に「記載ミスを訂正すれば済む問題である」と言っておきながら、何の訂正もせずに次の選挙に突っ込もうというのだ。誰の目にも、「コンプライアンス意識に問題あり」が明白ではないか。あるいは、「記載ミスを訂正すれば済む問題」と言ってはみたが、実は「労務者報酬受領」と届出を脱法しての運動員買収の事実は訂正のしようがないということなのであろうか」

ところが、宇都宮選対は、同じ1月22日付で収支報告書の訂正届出をしていた。私が報告書を閲覧して確認をしたあとのことになるのか、あるいは同日の訂正届出が報告書に反映されたのが私の閲覧のあとになったのかも知れない。いずれにせよ、私がその訂正を確認したのは昨日(2月3日)のこと。都庁に用事があって、ついでに選挙管理委員会によって閲覧の結果である。

訂正の態様は、上原公子選対本部長と服部泉出納責任者両名に対する、各労務者報酬として明記された10万円の支出の届出を抹消するというもの。

1月5日付の宇都宮陣営の「法的見解」は、次のように言っていた。
「公職選挙法は『選挙運動に従事する者』の実費弁償を認めている(197条の2)。上原氏はこの『選挙運動に従事する者』であり、交通費や宿泊費など法的に認められる支出の一部にすぎない10万円の実費弁償に何の違法性もないことは明らかである。」「もっとも上原さんらの上記10万円の実費弁償が選挙運動費用収支報告書に誤って「労務費」と記載されていることは事実であるが、この記載ミスを訂正すれば済む問題である。」

「法的見解」では、「上原さんら」への選挙運動費用としての10万円の支払いと、同人らの同額の受領を否定していない。2012年12月14日の日付がはいった「上原さんら」の署名捺印のある領収証に、「選挙報酬として」受領したと明記されているのだから、受領の事実は否定し得ないと判断したのだろう。だから、「選挙報酬として」という受領証の記載も、収支報告書の支出目的欄に届け出た「労務者報酬」という記載も間違いで、実は「交通費や宿泊費の一部」だったと取り繕うほかはなかったのだろう。

以上の「法的見解」の記載から、私は当然のこととして「労務者報酬」としての支出の届出を「交通費や宿泊費」に訂正するのだろうと思っていた。そのために、これを証する領収証を調達する努力がなされるだろうし、もしそれができなければ、領収証に代わるものとして公職選挙法189条1項に定められた「領収証…を徴し難い事情があったときは、その旨並びに当該支出の金額、年月日目的を記載した書面」を作成して提出することになるだろう、そう思っていた。

ところが宇都宮選対はそうしなかった。選挙運動費用収支報告書の記載は、「上原さんら」への支出はまったく無かったものと「訂正」されたのだ。「労務者報酬」としても、「交通費や宿泊費の一部」としても、支出と受領の事実そのものが抹消された。「法的見解」とはまったく異なるストーリーとなったのだ。

この訂正の結果、選挙運動費用の支出総金額は20万円の減額となった。すると、選挙カンパの残額は20万円増えてなくては辻褄が合わないことになるが、さて上原さんらは現金を払い戻したのだろうか。

なお、宇都宮候補の出納責任者として選管に届出されたのは服部泉さん一人だけである。ところが、選挙運動費用収支報告書の「第2回分」(2013年2月12日付)の届出は別人の「出納責任者・服部勇」が行っている。「真実に相違ありません」という公選法に基づく宣誓をしてのことである。今回、この点も併せて1ページ全部が差し替えられて訂正された。前代未聞のお粗末な訂正ではないか。

選挙管理委員会は、届出も訂正も内容の真偽にかかわらず受理はする。選挙管理委員会の届出受理が適法性のお墨付きとはならない。もちろん、訂正の経過はしっかりと残すようになっている。これから検証されなければならない。

この度の訂正は、選挙運動に関する費用の収支報告を適正になすべき公職選挙法上の義務に反した違法を自認したものである。届出の違法を指摘されて、違法を認めたから訂正した。いうまでもなく、訂正したから罪にならないということにはならない。報告書提出時点で犯罪は成立しているのだから。

公職選挙法の該当条文は以下のとおり。
「246条 次の各号に掲げる行為をした者は、3年以下の禁錮又は50万円以下の罰金に処する
 5号の2 第189条第1項の規定に違反して報告書若しくはこれに添付すべき書面の提出をせず又はこれらに虚偽の記入をしたとき」

これは、いわゆる形式犯である。「うっかりミス」も処罰の対象となる。先の選挙運動員買収は実質犯として懲役3年、こちらは形式犯であるが故の禁錮3年。もっとも、形式犯としては法定刑が重い。このことについて、「逐条解説 公職選挙法」は、「選挙の自由公正は適正な選挙運動費用の収支の確保によって担保されるものであり、これが適正に行われないときは選挙の自由が著しく阻害され、選挙の信用をも失墜せしめる原因ともなるのであるから、けだし当然のことというべきである」と述べている。

上原、服部両人の各10万円受領の事実は、報告書の「訂正」によっても動かしがたい。「法的見解」によって補強されているところでもある。しかも、今回の「訂正」によって、受領費目が「旅費・宿泊費」ではないとされているのだから、10万円の授受は運動員買収と考えざるを得ない。

上原・服部の受領費目を「旅費・宿泊費」としたのは「法的見解」だが、今回の訂正はこれを否定した。同じ報告書には宿泊者の特定はないものの、31泊分の宿泊費の支出を計上している。上原・服部らが真実宿泊しているのなら、支出費目を宿泊費と特定して支払いを請求し受領して、その旨を届け出たはずである。また、タクシー代を主とする交通費の支払いも188件の支払いが届け出られている。上原、服部両人が、領収証なしに各10万円の交通費の支給を受けたとは到底考えられない。誰が見ても、真実は、届出の虚偽ではく、選挙運動の対価としての報酬の受領であったろう。つまりは、禁錮刑の範疇ではなく、懲役刑の範疇の行為なのだ。

昨年10月の川崎市長選での福田紀彦市長陣営の提出した選挙運動費用収支報告書にミスがあったとして訂正になった。事情をよく調べてみると、なるほど陣営の言い分には納得しうるものがあるというべきである。それでも、「神奈川新聞」と、「朝日」「毎日」(いずれも地方版)はこれを取材し記事にした。まさしく、「選挙の自由公正は適正な選挙運動費用の収支の確保によって担保されるものであり、これが適正に行われないときは選挙の自由が著しく阻害され、選挙の信用をも失墜せしめる原因ともなるのであるから」という観点からである。しかし、なぜか宇都宮陣営の選挙運動費用収支報告書の訂正は、メディアの報道するところとなっていない。
(2014年2月4日)

都知事選の供託金は高額か

先日、東京都選挙管理委員会の事務局で、まったく偶然に、とある都知事選立候補予定者と言葉を交わす機会があった。前回都知事選にも立候補されたとのことだったが、失礼ながら当方はまったくそのお名前を存じ上げない。供託金は確実に没収されるだろうにまたなぜと、興味津々で余計なことを口ばしった。
「供託金300万円はご負担ではありませんか」

その方は、やや訝しげな表情で、「いいえ。少しも高いとは思いません」「私には訴えたい政策がありますから。むしろそのチャンス」ときっぱりした態度。続けて、「私は、どうしても三つのことを都民に訴えたいのです」と短く政策を語った。何度となく繰り返しているのだろうと思われる滑らかな口調。物腰も柔らかだった。「私は一介の労働者ですが」という言はあったが、300万円の供託金が高額に過ぎるとも負担とも本心思ってもないという態度だった。いま、我が家に配布された選挙公報に、細かい字でびっしりとその方の政策が掲載されている。おそらくは、懸命に、その方なりの選挙運動に邁進しておられるのだろう。

また、私の知人の弁護士が立候補しており、いかにも彼らしい断固たる政策を掲げている。「1000万人の怒りで安倍を倒そう」「改憲・戦争・人権侵害を許さない」「戦争させない」「被曝させない」「貧困・過労死許さない」そして、「だからオリンピックはやらない」など。口当たりのよい当選のためのスローガンではなく、自らの固い信念の披瀝。その彼から選挙葉書が届いた。彼も、都知事選を自分の信念や政策を広く世に問う場として、精いっぱい活用している。彼にも、供託金が高額という思いはないだろう。

ところで、私が「立候補をおやめなさい」といさめた、別の知人の弁護士も立候補している。この人は、「日本の選挙における供託金は高額に過ぎる」「財産による差別ではないか」と繰り返している。この種の議論はよく聞くところだが、私は当たらないと思う。とりわけ、都知事選の供託金300万円は廉い。現実にバラエテイに富む候補者が多数立候補している。この程度の額の供託金が立候補のハードルになっているとは思えない。

私のブログを読んだ旧友が、わざわざ手紙をくれた。
「供託金は、自分の家を抵当に入れてでも自分で作らなければならない。金が作れないなら、立候補はあきらめるべきだ。なんとなく人に勧められたから、人がお膳立てをしてくれたから立候補するという感じがする。そんな根性では当選しても良い仕事ができるわけがない」
なるほど、そういう見方もある。

確かに、諸外国の制度と比較して日本の供託金は高額である。しかし、日本の選挙公営の制度は極めて充実している。選挙公営は、経済的に恵まれない候補者にも最低限の言論による選挙運動手段を保障する「民主主義のコスト」である。選挙公営による負担額は、供託金額をはるかに上回っている。このことを抜きにして、日本の供託金は高額と言うべきではなかろう。選挙制度をどう作るかについて、著しく不合理で国会の裁量の範囲を逸脱しているとは到底考えがたい。

前々回(2011年4月)都知事選は立候補者11人で経費は42億円かかった。前回(2012年12月)は9人で38億円。今回都知事選実施の総費用は50億円と報じられている。単純に16人の候補者数で割れば一人当たり3億円。300万円はその100分の1に過ぎない。微々たるものであるといって差し支えなかろう。

東京都選挙管理委員会による選挙公営の趣旨と内容の解説は、以下のとおりである。
「選挙公営制度は、選挙運動の公正を確保するため、候補者間の機会均等を保障するとともに、選挙人の政治参加を保障する趣旨で設けられている。現在、都選挙管理委員会が管理執行している選挙公営は、概ね次のとおりである。
(1) 通常葉書の交付
(2) ポスター掲示場の設置
(3) 新聞広告の掲載
(4) 政見放送
(5) 経歴放送
(6) 個人演説会の施設公営
(7) 選挙公報の発行
(8) 投票所内の氏名等掲示
(9) 特殊乗車券の交付
(10) 選挙運動費用の公費負担」

上記の(1)?(9)までは、全候補者に平等に提供される。(10)のみが、供託金没収されない法定得票(有効投票の10%)を得た者だけが受益者となる。

その具体的な内容は、以下のとおりなかなかのものである。
(1) 通常葉書の交付
  1候補者当たり95,000枚(50円×95000枚=475万円相当)
(2) ポスター掲示場の設置
  あのポスター掲示板は、全都で1万4132台ある。候補者は、ここにポスター掲示による宣伝の権利を得る。
(3) 新聞広告の掲載
  新聞広告は、各候補者が選挙期間中4回の無料掲載をしてもらえる。
(4) 政見放送
  テレビはNHK2回、民放3回。無料で放送できる。
  ラジオはNHK2回、民放1回。無料で放送できる。
(5) 経歴放送
  テレビはNHK1回。ラジオはNHKと民放と併せて5回。無料。
(6) 個人演説会の施設公営
  公営施設を利用して個人演説会を開催する場合、候補者一人につき、同一施設ごとに1回に限り無料。
(7) 選挙公報の発行
  発行部数は700万部。立候補者の政見を全所帯に配達してくれる。
(8) 投票所内の氏名等掲示
  各選管の義務となっている。
(9) 特殊乗車券の交付
  関係区域内でJR等の無料特殊乗車券15枚支給
(10) 選挙運動費用の公費負担(一定額まで)
 *選挙運動用自動車の使用
 *選挙運動用ビラの作成
 *ポスターの作成

至れり尽せりではないか。これで300万円は高かろうはずがない。選挙葉書の発送費用を負担してもらうだけで、おつりが来る。訴えるべき政策のある人なら、都知事選に出馬して、堂々と都民に自説を披瀝しようという気持ちになろうというもの。少なくとも、300万円が高額に過ぎて立候補を妨げるハードルとなっているということには無理があろう。

なお、公職選挙法には選挙に関する争訟についての定めがある。「供託金が高額に過ぎて立候補の権利の障害となっているのは憲法違反」、「財産による差別」という選挙無効訴訟は、選管を被告としてくり返し起こされている。

東京都選挙管理委員会でも近時の例として次のものが報告されている。
2010年7月11日執行の参議院議員選挙(東京都選出)についての「選挙無効訴訟」。
「公職選挙法の定めによって、立候補に際し供託金を納めさせ、その金銭を得票数や当選人数に応じて没収する規定は財産と収入による差別にあたり、憲法に違反しているので無効である。この規定に基づいて行われた参議院議員東京都選挙区の選挙は無効である」との訴えが2010年7月21日東京高裁に提訴され、同年10月28日東京高裁判決(原告の請求棄却)、2011年11月8日最高裁上告棄却(判決確定)。

2011年4月24日執行の豊島区長選挙・豊島区議会議員選挙の「選挙無効訴訟」。
「選挙供託制度は財産により、選挙権や被選挙権を差別するもので憲法に違反しているので無効である」との訴えについて、同年9月5日東京高裁に提訴。同年12月14日請求棄却判決。2012年4月27日上告受理申立て不受理決定により確定。

国権の最高機関であり唯一の立法機関である国会は、最も民意に近い機関としての権威に基づいて立法裁量の権利をもっている。その裁量の範囲を逸脱して初めて、司法の出番となって違憲審査の対象となる。選挙の制度設計についても、この事情は変わらない。
供託金制度の存在理由は、かつては無産政党の進出防止にあったであろうが、今はそのようには言えまい。「売名目的の立候補乱立防止」についても、それだけでは供託金額の妥当性ははかりようがない。制度設計としては、「公営選挙のない供託金額の減額」か「公営選挙を伴う供託金額の維持」かの選択にあるのだろうと思う。少なくとも、都知事選における300万円の供託金の金額は、立候補者に与えられる公営選挙のメリットに鑑みるとき、これが国会の裁量の範囲を逸脱して、不当に被選挙権の行使を妨げているものとは言えない。すくなくとも、国会の立法裁量を逸脱するということには大きな無理があると言わざるをえない。
(2014年2月3日)

特定秘密の「外形立証」とは何か

  
1月27日のブログに、特定秘密保護法と国民の公開裁判を受ける権利との矛盾について書いた。同時に、同法違反で起訴された被告人の弁護を受ける権利侵害の虞について触れた。

この点について、国会審議では、森雅子担当大臣は、くり返し「外形立証」で足りることを口にしている。「刑事訴訟法上の秘密の立証というのは外形立証で足りるとされております。例えば、秘密文書の、立案、作成過程、秘密指定を相当とする具体的理由等々を明らかにすることにより、実質秘性を立証する方法が取られております」という具合にである。この点について、もう少し考えて見たい。

特定秘密保護法違反被告事件の刑事訴訟では、被告人の行為が「特定秘密を漏えいした」等の立証が必要である。秘密とは、「非公知の事実であって、実質的にもそれを秘密として保護に値すると認められるもの」という「実質秘」概念として定着している。被告人に「実質秘」を侵害する行為があったことの立証責任は、当然に検察官が負担する。

侵害された特定秘密そのものの公判廷における顕出が「最良の証拠」である。しかし、公開の法廷において秘密をそのまま証拠調べすれば、秘密の内容が公開される結果となり、法廷において不特定多数の者に秘密が漏えいされることになる。だからといって、特定秘密の保護を優先して、「秘密漏えいに関する被告事件については司法の判断が及ばない」などという考え方は、絶対に憲法が許容するところではない。

この「矛盾」をどう解決すべきか。論理の上では、次の3通りが考えられる。
(1) 裁判所が公開手続において秘密とされた内容を直接審査しない限り、検察官の立証が不成功として無罪判決を言い渡す。
(2) 裁判官だけが、非公開の手続でその秘密を審査する。
(3) 直接に秘密の内容を取り調べるのではなく、周辺の間接事実を積み重ねることによる立証で、裁判所は有罪か無罪かの心証を形成する。

このうち、分かりやすいのは(1)である。このような考え方で無罪を言い渡した下級審判決もある。刑事訴訟の原則において、訴因の特定が要求され、有罪には合理的な疑いを容れない程度の立証が必要とされる上は、当然というべきだろう。立証は、単に秘密の漏えいがあったというだけでなく、その秘密の「非公知」性と、「実質的に秘密として保護に値する」という、「実質秘性」の立証が必要となるのだから。

但し、このことが特定秘密保護法違反事件は常に無罪になるということを意味するものではない。当該被告事件の行為時の報道により、あるいは起訴の報道によって非公知性が失われれば、秘密の秘匿は無意味になる。その結果、公判廷において「最良の証拠」として当該秘密の内容が顕出され、証拠調べの対象となって、実質秘性について裁判所の判断を仰ぐことになる。毎日新聞西山記者事件における「密約」は、そのようなものとして公判廷に顕出された。

(2)は、憲法上の公開裁判を受ける権利(37条、82条1項、同条2項但書)の保障をないがしろにするものとしてあり得ない。民事訴訟や人事訴訟、あるいは情報公開請求訴訟などで限定的に制度化されている「インカメラ」方式は、刑事手続においては採り得ない。

(3)が、森雅子氏のいう「外形立証」なるもの。刑事訴訟の立証といえども、直接証拠によらねばならない原則はない。間接事実や経験則を積み重ねて、立証の程度が、合理的な疑いを容れざる程度に至ればよいのだから、秘密漏えいに関する事件に特有の立証の方式が認められたというものではない。「外形立証」というネーミングが適切であるかも検討の必要があろう。

一般論としては、裁判公開の原則を遵守しつつ、当該被告事件において漏えいされた特定秘密を直接公判廷に顕出することのないままに、裁判所に有罪の心証形成を求めることは不可能ではない。周辺の間接事実と経験則の積み重ねによって、立証が可能。それはその通りだ。

しかし、「国家の重大事に関わる秘密保護を優先して、例外的に被告人の利益を劣後したものとして取り扱う」「刑事訴訟の原則を枉げて、有罪の心証として要求される立証の程度を緩和してよい」などということは、絶対にあり得ない。強引に(3)で押し通して有罪判決に至るとすれば、何が秘密かが分からぬままに処罰されてしまうことになってしまう。とすれば、結局のところ、(2)なく、(3)なく、残る(1)の原則に戻らざるを得ないのではないか。

特定秘密保護法は、公開の法廷で裁判を受ける国民の権利については、何の言及もしていない。この法律違反の刑事被告事件には、なんの例外措置もなく、刑事訴訟の原則のとおりの、被告人の弁護権、防御権が保障されなければならない。

しかし、「有識者会議 報告書」の末尾にある下記の一文に、立法者の意図を懸念せざるを得ない。

「特別秘密の漏えいにより国や国民が受ける被害の重大さに鑑みれば、その保全体制の整備は喫緊の課題である。知る権利など国民の権利利益との適切なバランスを確保しつつ守るべき秘密を確実に保全する制度を構築することは、国民の利益の一層の実現に資するものである。」

ここには、もし公開の刑事訴訟手続において特定秘密の内容を明示することなく有罪判決をとれないようなら、それは「国家の安全保障政策上由々しき事態だ」という考え方が露呈している。そのような権力の意向が、裁判所を屈服させることになるかも知れない。あるいは、政権は新たな刑事手続法の制定に着手するかも知れない。要は、「刑事訴訟の原則があるから安泰」などとは言っておられないということである。
(2014年2月2日)

橋下徹の政界からの撤退を歓迎する

橋下徹の大阪都構想が頓挫した。市長の補完勢力となっていた公明党が維新大阪を見限ったことによって、大阪市議会で橋下が完全に孤立したからだ。これまでも、維新の落ち目は明らかだったが、これで決定的な挫折が明らかとなった。橋下は、事態の打開を目指して辞職し、新たな市長戦に打って出る意向とのこと。この出直し市長選で敗れた場合には、「橋下徹・松井一郎の2人とも政界を去る」と明言をした。是非とも、潔く完全に政界を去っていただきたい。それが、日本の民主主義のためなのだから。

この間、私は民主主義とは何かを考え続けてきた。民主主義に代わる政治形態はあり得ないが、民主主義が万能であるわけはない。国民の政治意識の成熟なくして、民主主義は容易にポピュリズムに転化する。民主主義が独裁をすら生みだしかねない。その危うさを橋下維新に見てきた。橋下の台頭は民主主義への警鐘であり、橋下の挫折は民主主義の辛勝を意味する。

民主主義とは権力形成の手続である。集団の成員が特定者に対して、権限・権能・権威を委託する手続と言ってもよい。その手続において、集団全体の意思をできるだけ正確に反映する権力を形成することが想定されている。それが、成員全体の利益になるはずという予定調和が想定されている。

しかし、そうして形成された権力が成員全体の利益を実現するとは限らない。むしろ、権力が成立した瞬間から個々の成員との対立矛盾が生じることになる。予定調和は幻想に過ぎないのだ。多くの現実例によって、多数派形成の権力が少数者の人権を侵害するものであることを明らかにしている。

とりわけ橋下である。彼は、ことあるごとに「民意は我にあり」と強調してきた。民意は選挙に表れている、選挙に勝つことこそ万能の権力の源泉、と振る舞ってきた。しかも、彼の民意獲得の手法は、意識的に選挙民を煽って「民意の敵」をつくり出すというもの。「敵」とされるものは、大企業でも高額所得者でもない。公務員であり、教員であり、労働組合なのである。鬱屈している民衆の身近にいる羨望の対象。これを「敵」と規定し、容赦ない攻撃によるカタルシスを選挙民にもたらす。こうした非理性的な集票手段によって成立する権力が、教育委員会制度を破壊し、極端な「日の丸・君が代」強制を実行し、職員の思想調査や、不当労働行為を頻発している。

大阪都構想は、本質的には、財界が新自由主義的な社会保障切り捨て策として待望している道州制へのステップである。しかし、選挙民の感性レベルでは、東京に対抗意識の強い大阪人のプライドをくすぐる策でもある。民主主義的理性に訴えるのではなく、民衆の感性と憎悪の感情に訴えることによって保たれる権力は、暴走の危険を孕むものである。橋下維新の危うさは、今や革新と保守とを問わず、大阪市議会で維新以外の全政党政派の共通認識になった。そのことが維新の決定的な孤立をもたらしている。

願わくは、来るべき大阪市長選挙おける反橋下統一候補の擁立である。都知事選の轍を踏むことなく、候補者選定の過程をオープンにし、各会派の共闘に知恵を集めていただきたい。民主主義の大義のために。
(2014年2月1日)

平和への破局としての「アベゲドン」

亡父の誕生日が1914(大正3)年1月1日。五黄の寅の元日の生まれは、易では運気が強いとされるようだ。が、父は特に名をなすこともなく、市井に生き市井に埋もれた。2度招集され、極寒のソ満国境で関東軍の下士官として越冬している。その間母は心細くも銃後を守った。父母ともに、まともに戦争と向かいあった「割を食った世代」だった。それでも、父が一度の戦闘に参加することもなく敗戦を内地で迎えることができたのは、もって生まれた運気のお蔭だったのかも知れない。加えて、戦後は3男1女を一人も欠けることなく育てる平穏に恵まれている。これ以上望むべきことがあろうか。人生の後半は平和の恩恵を噛みしめた世代でもあった。

その父が生きていれば、今年の正月で満100歳。その生年の100年前とは、はるかに遠い昔のような、案外にそれほどでもないような。その100年前の世界の国際情勢が、今話題となっている。波紋を呼んだ、安倍晋三のダボスでの記者会見によってである。

巧みに書かれているので、本日の「毎日」の福本容子論説委員の記事の一節を引用する。
「世界経済フォーラムのためスイスのダボスに集まった各国の有力な経済人や政治家やメディアは、安倍さんの発言に安心の材料を見つけたかったのだと思う。だから怖くなった。『あるわけないでしょ』が当然返ってくると思いイギリスの記者が聞いた『日中の武力衝突は考えられますか』に、即全面否定がなく、世界大戦に発展した100年前のイギリスとドイツの関係を自分で話題にしたのだから。いくら同じ失敗はしない、が真意だったとしても、米ウォールストリート・ジャーナル紙は、『世界経済を動かす人たちが、全面戦争を本物のリスクとして語りだしたこと自体、心配な動き』と書いた。」

亡父が極東の島国で生を受けた100年前。ヨーロッパでは、国際経済交流の活発化と相互依存の経済関係が意識されるようになり、もう戦争は起こらないのではとさえ囁かれていたのだという。にもかかわらず、偶発的な事件の連鎖がヨーロッパを二分する大戦争になり、やがてはアメリカをも巻き込んだ。日英同盟を締結していた日本も参戦して、「日独戦争」を戦っている。

ダボスで安倍晋三の口から語られたことは、その二の舞はあり得ないという否定としてではなく、第1次大戦と同様、日中の戦争はあり得るというメッセージと受けとめられた、というのだ。

おなじ福本容子論説委員の記事に次の一節がある。
「『ものの1時間で、経済と政治の方程式は、アベノミクスからアベゲドンのリスクに変わった』。安倍晋三首相の靖国神社参拝後、香港の英字紙、サウスチャイナ・モーニング・ポストに載った論評だ。」

「アベゲドン」(あるいはアベマゲドン)という造語は、アベノミクスの行きつく先に予想される経済の破局を意味するものだった。名付け親は、世界的な投資銀行として知られるUBS銀行の最高投資責任者アレックス・フリードマンという人物だと聞く。投資家ならずとも、アベノミクスの破局的終焉は多くの人が危惧するところ。ところが、同じ言葉が、経済のみならず、政治的な破局、あるいは平和の終焉をも意味する用語として使われ始めている。

福本が引用する香港紙に語られているのは、経済ではなく「政治の方程式」、あるいは「戦争と平和の方程式」である。安倍の靖国神社参拝は、政治的な破局としてのアベゲドンにつながるリスクをもった行動として論評されている。

第二次大戦後の国際秩序の基本構造は、ファシズムの枢軸側と反ファシズムの連合国との争いに、反ファシズム勢力の勝利をもって決着したところから出発している。ナチスはニュールンベルグで、天皇制日本は東京裁判で、その平和に対する罪を裁かれた。その結論を承認することが、敗戦国の国際社会への復帰の通過儀礼となった。そのようにして、日本は国際社会に復帰し国連にも加盟した。

靖国史観は、この戦後世界の国際秩序を認めない。アジア太平洋戦争が侵略戦争であったことを否定し、植民地支配への反省もない。東京裁判を勝者の裁きとして、その正当性を認めようとしない。安倍が参拝したのは、そのような軍国神社なのである。これまでの安倍の言動と相俟って、この靖国参拝は、戦後の国際秩序の基本構造への挑戦であり、新たな戦争準備であると各国に映っているのだ。それが、政治的意味でのアベゲドンのリスクと認識されている。

父の生きている間に、世界は2度の大戦と無数の小戦争を経験した。人類の進歩を信じたい。100年前に戻って、再びの戦争の歴史を繰り返したくはない。アベゲドンはまっぴらだ。安倍のような危険人物にこの国の運命を委ねていてはならない。人がこの世に生を受けて、その貴重な人生を戦争に蹂躙されることがないよう、揺るがぬ平和を築くために微力を積み重ねたい。
(2014年1月31日)

NHK受信料の支払いは強制できるのか

     
本日の東京新聞に、「NHK、脱原発論に難色 『都知事選中はやめて』」と見出しを付けた下記の記事がある。

「NHKラジオ第一放送で30日朝に放送する番組で、中北徹東洋大教授(62)が『経済学の視点からリスクをゼロにできるのは原発を止めること』などとコメントする予定だったことにNHK側が難色を示し、中北教授が出演を拒否したことが29日、分かった。NHK側は中北教授に『東京都知事選の最中は、原発問題はやめてほしい』と求めたという。」

「中北教授の予定原稿はNHK側に29日午後に提出。原稿では『安全確保の対策や保険の費用など、原発再稼働コストの世界的上昇や損害が巨額になること、事前に積み上げるべき廃炉費用が、電力会社の貸借対照表に計上されていないこと』を指摘。『廃炉費用が将来の国民が負担する、見えない大きな費用になる可能性がある』として、『即時脱原発か穏やかに原発依存を減らしていくのか』との費用の選択になると総括している。」

「中北教授によると、NHKの担当ディレクターは『絶対にやめてほしい』と言い、中北教授は『趣旨を変えることはできない』などと拒否したという。」

「中北教授は『特定の立場に立っていない内容だ。NHKの対応が誠実でなく、問題意識が感じられない』として、約二十年間出演してきた『ビジネス展望』をこの日から降板することを明らかにした。」

東京新聞は、「公平公正 裏切る行為」と題する解説を書いている。
「NHKが、再稼働を進める安倍晋三政権の意向をくんで放送内容を変えようとした可能性は否定できない。」「選挙期間中であっても、報道の自由は保障されている。」「NHK側が問題視した中北教授の原稿は、都知事選で特定の候補者を支援する内容でもないし、特定の立場を擁護してもいない。」「原発再稼働を強く打ち出している安倍政権の意向を忖度し、中北教授のコメントは不適切だと判断したとも推測できる。」としたうえ、「原発政策の是非にかかわらず受信料を払って、政府広報ではない公平公正な報道や番組を期待している国民・視聴者の信頼を裏切る行為と言えるのではないか」と結んでいる。常識で考えれば、この解説のとおりだ。

オリンピックは、都知事選の焦点のひとつのテーマだ。「最高のオリンピックを成功させよう」という政権に近い候補者もいれば、「オリンピックは中止」「東京五輪返上」という候補者もいる。「オリンピックに金をかけるのは止めよう」という公約もある。NHKが都知事選の公平に配慮して、オリンピックの話題に関しては放送を遠慮しているとは聞かない。明らかに、原発問題だから、政権側の候補者に不利になるから、発言を規制しているのだ。新会長のもとでの、「忖度効果」が早くも現実化していると指摘せざるを得ない。

会長も会長なら、ディレクターもディレクター。現場で真摯な努力を積み上げている人もいるのだろうが、「原発再稼働を強く打ち出している安倍政権の意向を忖度し」て、出演依頼者のコメント内容に介入しているのがNHKの実態なのだ。

多くの視聴者が、「受信料を払って、政府広報ではない公平公正な報道や番組を期待しているのに、信頼を裏切られた」と思うに違いない。信頼を裏切られたと思う人のうちの一定数が、受信料を支払いたくないと考えることは自然の成り行きで、支払い率の低下は免れない。安倍政権が任命した籾井新会長と、新しいアベトモの経営委員、そして『ビジネス展望』担当デイレクターの功績である。

現在の所帯数あたりの受信料支払率は、最高が秋田県の94.6%,最低は沖縄県の42.0%と幅が広い。全国平均は72.5%。この数値の低下が、国民のNHK批判のメルクマールとなる。

放送法第32条1項(受信契約及び受信料)は、不思議な規定だ。噛み砕いて表現すると次のとおり。
「NHKの放送を受信することのできるテレビを設置した者は、NHKと放送の受信についての契約をしなければならない」

NHKチャンネルのないテレビを売り出せば、えらく売れるだろうと思うのだが、今、巷にそのような商品はない。新品でも中古でも、テレビを備え付けると、「オレは、NHKの番組は嫌いだ。絶対に見ていない」と言っても通らない。「受信契約の締結」を強制されることになっている。契約自由が大原則なのに、どうして、契約の締結が強制できるのか、よくは分からないが、契約の締結と受信料支払いが強制されることになっている。しかし、それはNHKが、放送法に則ったまともな組織であって、まともな放送業務を行っている限りでのことではないか。

「NHKの親安倍政権的偏向は、放送法が予定する『不偏不党』、『公正中立』の姿勢から著しく逸脱している。だから、受信料を支払わない」という、視聴者側の理屈が通らねばおかしい。NHKは自らは放送法の精神を投げ捨て、法が要求する政権から独立した放送をなすべき義務を怠っておきながら、一方的に視聴者からは受信料徴収を強制できるとすることには納得しがたい。受信料を原資とする籾井会長の年間報酬額が3000万円を越すと聞けば、なおさらのことである。

憲法の次元でものを考えてみたい。視聴者の一人が、籾井会長が就任記者会見で発言した、政権との一体性や歴史認識の反憲法性に深く憤って、「NHKの現状は自分の思想に照らして到底容認できない」との動機から、受信料の支払いを拒絶できるか、という問題設定が成立する。

自分の金が、自分の意に反して、自分の思想において容認し得ない組織に強制的に徴収されることはない。たとえば、最高裁は南九州税理士会臨時会費強制徴収事件判決(1996年3月19日)において、この問題を憲法19条から考察して、次のとおりに述べている。事案は、政治団体への寄付に充てるための税理士会の臨時会費徴収が許されるか、という問題である。

「税理士会が前記のとおり強制加入の団体であり、その会員である税理士に実質的には脱退の自由が保障されていないことからすると、その目的の範囲を判断するに当たっては、会員の思想・信条の自由との関係で、次のような考慮が必要である。

法が税理士会を強制加入の法人としている以上、その構成員である会員には、様々の思想・信条及び主義・主張を有する者が存在することが当然に予定されている。したがって、税理士会が右の方式により決定した意思に基づいてする活動にも、そのために会員に要請される協力義務にも、おのずから限界がある。

特に、政党など規正法上の政治団体に対して金員の寄付をするかどうかは、選挙における投票の自由と表裏を成すものとして、会員各人が市民としての個人的な政治的思想、見解、判断等に基づいて自主的に決定すべき事柄であるというべきである。

そうすると、前記のような公的な性格を有する税理士会が、このような事柄を多数決原理によって団体の意思として決定し、構成員にその協力を義務付けることはできないというべきであり、税理士会がそのような活動をすることは、法の全く予定していないところである。税理士会が政党など規正法上の政治団体に対して金員の寄付をすることは、たとい税理士に係る法令の制定改廃に関する要求を実現するためであっても、税理士会の目的の範囲外の行為といわざるを得ない。

以上の判断に照らして本件をみると、本件決議は、被上告人が規正法上の政治団体へ金員を寄付するために、上告人を含む会員から特別会費として5000円を徴収する旨の決議であり、税理士会の目的の範囲外の行為を目的とするものとして無効であると解するほかはない。」

これは、NHKの受信料強制徴収を否定する法理として、次のとおり応用可能である。

「NHK受信契約が、すべてのテレビ設置者に強制されており、テレビ設置者には実質的に契約からの脱退の自由が保障されていないことからすると、受信契約における受信料支払い強制の可否を判断するに当たっては、視聴者である国民の思想・信条の自由との関係で、次のような考慮が必要である。

視聴者は、NHKとの間に、放送法と所定の約款にしたがった受信契約の締結を強制される結果、受信料支払いの義務を負う。しかし、法がすべての視聴者を契約強制の対象としている以上、視聴者には様々の思想・信条及び主義・主張を有する者が存在することが当然に予定されている。したがって、NHKが契約と約款に基づいてする活動の在り方にも、そのために視聴者に要請される支払い義務にも、おのずから限界がある。

特に、NHKが、双務契約の履行として歴史観や政治観に関わるテーマに関して番組を作成する基本姿勢において公平・中立、不偏不党であること、並びに会長や経営委員等の人的構成において政権への独立性に疑問を抱かしめるようなことがあってはならない。NHKが放送法の精神を十分に体現しているものとして、その信頼の下に受信料を支払えるに足りるものと判断するか否かは、政治参加の自由と表裏を成すものとして、視聴者各人が市民としての個人的な政治的思想、見解、判断等に基づいて自主的に決定すべき事柄であるというべきである。なぜなら、NHKの在り方は、戦前の大本営発表に象徴される戦争協力の苦い歴史に対する痛苦の反省から、放送法が規定したもので、法からの逸脱は厳に戒められなければならない。
したがって、NHKが厳格に放送法に準拠した放送業務を実行することこそ、法の予定するところであって、内閣総理大臣の私的な友人や、歴史観を同じくする者を充てる偏頗な人事や、政権与党の選挙に有利になるような番組の編成によって、その権力からの独立性に世人からの疑義を生ぜしめることなどは、法の全く予定していないところである。NHKが、そのような法に背馳する現状を放置しながら、視聴者に対して受信料の請求をすることは、たとい外形的に契約が成立しているとしても、憲法19条の理念に鑑み信義則に反する行為といわざるを得ない。

以上の判断に照らして本件をみると、NHKから各視聴者に対する請求は棄却すべきものと解するほかはない。」

現実に訴訟になった場合に、司法の現状に鑑みて政権寄りの判決になる可能性の高いことは否定し得ないにせよ、上記の法理は基本的に成立しうる。

なお、土屋英雄筑波大学大学院教授に「NHK受信料は拒否できるのかー受信料制度の憲法問題」(2008年明石書店)の著作がある。是非参照されたい。
(2014年1月30日)

大本営発表とNHK

「営」の旧字は營。その冠はかがり火の象形なのだそうだ。篝火を焚いた軍隊の所在地を指す。兵営、陣営、野営、入営、営倉などの熟語に本来の意味が表れている。総司令官が所在する営が「本営」。これに大を付けた大仰な造語が「大本営」。大元帥である天皇が所在する陣営、くらいの意味であったろう。

平凡社の世界大百科事典によると、大本営とは「戦時または事変において天皇の隷下に設置された第2次大戦前の最高統帥機関。最初に法令化されたのは1893年5月の〈戦時大本営条例〉で,1年後の日清戦争時に初めて設置された」という。

太平洋戦争開始以来戦況に関する情報は一元的に管理され、「大本営発表」としてNHKから放送された。それ以外の情報は流言飛語とされて、厳重な取り締まりの対象となった。

第1回の大本営発表は、1941年12月8日午前6時の対米英開戦を告げるもの。同7時に、NHKラジオによって以下のとおり報道された。

「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。大本営陸海軍部、12月8日午前6時発表。帝国陸海軍は今8日未明西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」

この日、NHKは「ラジオのスイッチを切らないでください」と国民に呼び掛け、9回の定時ニュースと11回の臨時ニュースを大戦果の報で埋めつくした。そのほかに、「宣戦の詔書」や、東条首相の「大詔を拝し奉りて」などが放送された。こうして「東条内閣と軍部はマスコミ(NHK)を最大限に利用し、巧みな演出によって国民の熱狂的な戦争支持熱をあおり立てた」(木坂順一郎「太平洋戦争」)。

その後、NHKの大本営発表は846回行われたという。発表の形式はアナウンサーが読み上げるものと、陸海軍の報道部長が読み上げるものとの2種類があった。いずれにせよ、戦争遂行にNHKはなくてはならぬものとなり、NHKと大本営発表との親密な関係は、戦時下の日本国民の意識に深く刻みこまれた。

大本営発表は、今は「インチキ情報」の代名詞。主権者としての国民に対する真実の情報提供ではない。戦争遂行に国民を鼓舞する目的のプロパガンダであった。情報を握る地位にある者は、そのすべてをそのまま伝達すべき時に、他の方法をとりうる。握りつぶす、改変する、誇張する、取捨選択して一部だけを出す。自分に都合のよいように操作が可能なのだ。権力を持つ者に情報が集中し、集中した情報を操作することによって権力は維持され強化される。

特定秘密保護法反対運動の中で再確認したとおりである。権力が、情報操作を行うことによるプロパガンダを行ってはならない。権力に不都合な情報を、刑罰をもって秘匿するようなことがあってはならない。国民は、正確な情報を知る権利がある。

民主的な運動が、権力の大本営発表的プロパガンダを指弾し、再びこのようなことがあってはならないとするのは、主権者たる国民を対象とした情報操作が民主主義の拠って立つ土台を揺るがすからである。戦前のNHKも、その積極的共犯者として指弾されざるを得ない。

戦前のNHKは、形式は国営放送ではなく社団法人日本放送協会ではあったが、国策遂行の役割を担った事実上の国営放送局であった。大本営発表に象徴される戦争加担の責任は免れない。その反省から、1950年成立の放送法は、NHKを国策追従から独立した公共放送と位置づけた。

敗戦を挟んで、戦前と戦後との比較において、権力の集中から分立へという視点が重要だ。富国強兵がスローガンだった時代、あらゆる局面での権力の集中が国策に合致するものであった。戦後は、議会も行政も司法も天皇大権から独立した存在となった。教育も国家の統制を排する建前の制度となった。放送もそうだ。公共放送は、国営放送でない。国家との一体性を否定し、国家からの統制に服することなく、戦前大本営発表の垂れ流し機関であった愚を繰り返してはならないとするのが、放送法の精神である。

1月25日の籾井勝人新会長の就任記者会見における「政府が右というときに、左というわけにはいかない」という発言は、NHKの戦前戦後の歴史や教訓に学ばず、再びの大本営発表の時代を招きかねない危険を露呈したものである。今後は口を慎めばよいという類の問題ではない。籾井氏が、およそNHKの会長職にふさわしからぬ人物と判明した以上は、辞職していただく以外にはない。この重責は、それにふさわしい人格が担うべきなのだから。
(2014年1月29日)

国営放送協会会長就任会見所感

ボク、新米の国営放送協会の会長。今まであまり知られていなかったけど、三井物産から、日本ユニシス、そしてとうとうNHKの会長になっちゃった。嬉しくってしょうがない。隠そう隠そうとはしたんだけども、就任記者会見でついつい地金を出しちゃった。失敗しちゃったとは思うけど、ボクは思いっきり政権におもねってみせたんだ。だから、まさか政権がボクを見殺しにすることはないはず…だよね。

安倍政権が、ボクを国営放送の会長にしてくれたんじゃないか。だから、ボクが安倍政権を擁護して、政権の意向を忖度した放送内容の実現に邁進してお返しする。これが美しい人の道というものだろう。信義といっても仁義といってもよい。ボクは九州男児だ。筑豊の出なんだから、義理人情には厚い。だから、精いっぱい政権に感謝の気持ちでおもねってみせたんだ。だからって、ボクを切るとしたら、そりゃ人としての道にはずれるってもんだ。幸い、安倍さんも、官房長官も、人情の分かる人のようで胸をなでおろしている。閣僚や連立与党の中には、物わかりの悪い連中もいるようだけどね。

えっ、NHKは、国営放送ではありません? そんな、揚げ足を取るようなことを言うなってこと。公共放送であろうと国営放送であろうと、実際たいした違いはないじゃないか。どちらにしたって、「政府が右ということを、左というわけにはいかない」だろう。

ボクだって、まったくものを考えない訳じゃない。就任記者会見は、「放送法遵守」の一本でやり過ごすつもりだったんだ。これなら無難で文句の付けようがないだろう。だから、やたらにこの言葉を繰り返した。だけど、「放送法遵守」の具体的な中身を聞かれると、ついついホンネが出ちゃう。それはしょうがない。もちろん、ボクが考えている「放送法遵守」っていうのは、安倍政権が私に期待しているとおりに、NHK内部のタガを締め直すことなんだから。

「タガを締める」じゃ古くさいから、「ボルトとナットを締め直す」と言ってみたんだ。そしたら、生意気などこかの記者が、「会長から見て、どこがゆるんで、どこを締めなければならないとお考えですか」と聞いてきた。あすこから調子が狂ったね。今どき、政府や国営放送の会長にたてつくような記者がいるとは思わなかったものね。まさかNHKの記者じゃなかろうが、ここは確認をして、もしそうなら特別にきっちりと「締め上げて」おかなきゃならない。人事権は我が手にあるのだから。

ボクは、会見前に「放送法」ってものに一応は目を通してみた。その第1条3項には、本法の目的を「放送に携わる者の職責を明らかにすることによつて、放送が健全な民主主義の発達に資するようにすること」と書いてある。だから、タチの悪い記者が、「安倍政権の思惑に沿うことを重視するのか、それとも健全な民主主義の発達に資することに重きをおくのか」などという意地悪な質問をするんだ。法律を盾にとっていやな奴だ。ボクのホンネが「安倍政権の思惑に沿うことを重視する」って知っているくせに。もう少しで、ホンネのとおりを口にするところだった。危ない。危ない。

それから、放送法の第4条は「放送事業者は、…放送番組の編集に当たつては、政治的に公平であること」と定めている。ボクが言いたいのはこのことだ。NHKは、政治的に中立で不偏不党でなくてはならない。いささかも偏向していてはいけないのだ。そう言って、文句のつけようはなかろう。だから、NHKスペシャルでも、クローズアップ現代でも特定秘密保護法について取りあげることはしていない。これが正しい在り方だ。うっかり取りあげたら、安倍政権批判になっちゃうものね。安倍政権批判は、偏向報道に決まっている。また、取りあげたところで、賛否両論あるのだから混乱するだけじゃないか。

ところが、秘密保護法をもっと取りあげて報道・論評すべきではないかと質問した記者がいたな。あいつは、明らかに偏向している。政治的に中立で、不偏不党というのは、時の政権の意向を尊重することに決まっているじゃないか。民主主義の世の中だ。民意が政権をつくっているんだ。安倍自民からみて、もっと右もあり、もっと左もある。政権にあるものこそが中正なんだ。だから政権の意向に沿うことがNHKの役目ではないか。安倍政権から委託を受けたボクにとっては、安倍政権へのご奉公こそが大切。それこそが、政治的に中立で不偏不党ということなのさ。

僕があまりうまくないのはね、若干その、自分の考えまで言っちゃうもんだから話がコンフューズしちゃうんだ。整理して言えば、国営放送会長としては、歴史認識や従軍慰安婦問題については、村山談話や河野談話の線でNHK内部をまとめなければならないのが本来だろう。こちらが政府の公式見解なんだものね。でも、ボクは安倍政権から委託されたんだから、政府公式見解ではなく、安倍政権の歴史観にしたがって頑張らなければならない。それこそがボクの役割なんだ。

国家や政権の側に顔を向けるのではなく、国民や視聴者の側を向けって言われるが、ボクには理解できない。国家と国民は別物かね。国民なんててんでんばらばらじゃないか。そちらを向けって言われても、どこを見たらよいのやら。ばらばらの国民を束ねているのが、政権であり国家なんだろう。だから、国家を代表する人の言うことを聞いておけば間違いがないのさ。

それにだ。「会長としての職はさておいてって」って、記者会見で言ったろう。私にも、個人としての表現の自由はあるはずじゃないか。なぜ、従軍慰安婦や靖国について、あの程度のことを喋ってこんなに叩かれなけりゃならないのかね。

えっ、表現の自由の問題ではないって? ボクの、NHK会長としての資質の問題だって? でもね。国営放送協会の会長は、時の政府の信任があって初めて務まるんだから、ボクが適任だと思うよ。「ボクが政府に近いと思われるのは、それはまあみなさんのご自由」でございますし、安倍さんも、「ぼくを右翼の軍国主義者と呼びたければそう呼べ」と言っているでしょう。要するに、似た者どおしで気が合い、コンビを組むにぴったりなんだ。

えっ? それがいけない? ジャーナリズムの本領は、権力からの独立にあるって? そんな考え方からすれば、ボクは会長として不適格だよ。素直にそれは認める。

だけどね、NHKってジャーナリズムなの? 国営放送に権力からの独立なんてあり得るの? それに、今ごろ「権力からの独立」なんて偏った考え方ははやらないとおもうよ。絶対に…。
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         チューリップ・バブル(チューリップ狂時代)
チューリップ150球を植えたことについて、スペースと必要経費についてつけ加えます。チューリップは品種改良が早くからすすんで、八重咲きや花弁の縁がギザギザに裂けたパロット系など、形や色も多岐にわたり、2,000種の園芸種があるといわれています。珍しい新種は高価だけれど、12月になってホームセンターなどでバーゲン品を求めれば、一球20円ぐらいで入手できます。そんな球根でも、じゅうぶん立派な花が咲き、お散歩途中の保育園児が立ち止まって、「咲いた咲いたチューリップの花が」と可愛らしい唄を歌ってくれます。スペースは、150球植えても、せいぜい一坪でしょうか。間をあけず植えつけた方が、咲いたときの見栄えがいいものです。プランターや鉢植えを並べてもすてきです。

チューリップといえば17世紀のオランダでおきた、世界最初のバブル・投機で有名です。チューリップは16世紀にトルコからヨーロッパに異国情緒溢れる花として伝えられました。特にオランダの気候が栽培に適しており、希少価値もあって人気が出ました。当時ヨーロッパの混乱のなかで、スペインから独立したオランダのアムステルダムには商取引が集中して、金持ちも貧乏人も一攫千金を夢見ていました。
そんな時、突然変異で、美しい斑入りの花が咲きました。後の20世紀になって、ウィルスによるモザイク病が原因だと解りました。しかしそんなこととは知らない、当時の人々はその球根を手に入れようと、狂ったように投機に走りました。金持ちだけでなく、貧しい者も参加して、先物取引が盛んに行われました。その球根一つと邸宅一軒が交換される始末でした。
ところが1637年2月3日、3年あまり続いたバブルは突然はじけてしまいました。球根の買い手がパタリといなくなったのです。チューリップ狂時代の終わりです。

そんな植物バブルは日本にも繰り返し起こっています。日本では、花ではなく、葉の形や色の変異に興味が集中したようです。斑入りであるとか葉の縁にフリルがついているとか、そうした渋めの点が競われたようです。特にオモト(万年青)は一芽百両で取引され、天保の改革の引き金になったといわれています。明治の初めには一鉢千円、今の値段にすれば一億円の記録もあるそうです。

そうした流れとは別に、キク、アサガオ、サクラソウなどは「連」ができて、優雅な花合わせ(品評会)の伝統もあります。本草書、図譜、番付などが盛んに出版されました。
こうした植物愛も高ずると、心穏やかにとはいかなくなるようです。先日、ロンドンのキューガーデンから世界最小のスイレンの株が盗まれたと伝えられています。葉も花も直径わずか一センチ、絶滅危惧の希少種のようです。もともとが英帝国のプラントハンター(地球規模植物窃盗団)により成り立っているキューガーデンでも、自分が盗まれるのは悔しいのかと思われます。盗んだ者は責任をもって、たくさん増やしてキューガーデンに返すべきだとは思いますが。

日本でも、藤原定家の花盗人が有名です。紫宸殿の前の八重桜の一枝をつぎ木にしようと切りとって、袍に隠して持ち帰ったと「古今著聞集」に記されています。土御門帝に知られて、「暮ると明くと 君に仕うる 九重の 八重さく花の 陰をしぞ思う」(朝に晩にお仕えする宮中の八重桜の見事な花陰をしのんでいます)と詠んで、お詫びしたそうです。(小川和佑「桜と日本人」)

もうすぐ、永遠に巡り来る花の季節をむかえます。心を放って、憂きを忘れて春を楽しみましょう。

石ばしる垂水の上のさ蕨の萌え出づる春になりにけるかも (志貴皇子)
梅の花今盛りなり百鳥(ももどり)の声の恋しき春来るらし (田氏肥人)

(2014年1月28日)

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