澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

改めて問う 「秘密のまま裁判、困難」

特定秘密保護法の問題点は無数にある。そのひとつとして、同法違反の刑事被告事件において被告人の防御権を保障できるのかという難問がある。185臨時国会では、政府はこの問題にフタして強引に押し切ったが、本日の「毎日」が、「秘密のまま裁判、困難」「法案検討時 警察庁など懸念」と、同紙が情報公開請求で入手した資料をもとに、改めてこの問題を提示している。今通常国会では、同法の廃止法案が論戦の舞台に上る。毎日の姿勢を大いに評価したい。

周知のとおり、特定秘密保護法の原型を形つくったのは、「秘密保全のための法制の在り方に関する有識者会議」である。同会議のメンバーは以下のとおり。ことあるごとに記して記憶を新たにしておかねばならない。
  縣公一郎(早稲田大学)
  櫻井敬子(学習院大学)
  長谷部恭男(東京大学)
  藤原静雄(中央大学)
  安富潔(慶應大学)

同会議は、2011年1月から6月にかけて、6回の会合を開き、同年8月8日に「秘密保全のための法制の在り方について」と題する報告書をまとめた。秘密保全法制検討の会議にふさわしく、会議の経過はヒ・ミ・ツ。議事録の作成はなかったという。

その報告書の23?24ページに、「第7 立法府及び司法府」という節がある。国会議員や裁判官に、「特別秘密」(これが法制定時には「特定秘密」となる)の守秘義務をどう課するべきか、罰則の適用をどうするかが、以下のとおり検討されている。

「立法府及び司法府がそれぞれの業務上の必要性から特別秘密の伝達を受け、国会議員や裁判官等がそれを知得することが想定し得るため、然るべき保全措置が取られることが本来適当である」

この業界語を日本語に翻訳すれば、以下の如くである。
「国会議員や裁判官には、特定秘密を触らせたくはない。だから、できるだけ議員や裁判官には特定秘密を明かすことなく仕事をしてもらう。しかし、国会や裁判所の業務の必要から、やむなく特別秘密を明かさねばならないこともあるだろう。そのときのために、国会議員や裁判官にも罰則を設けてそれ以上は秘密が漏れないようにしなければならない」

これを前提として、
「司法府については、裁判官には罰則を伴う守秘義務が設けられていない一方、弾劾裁判及び分限裁判の手続が設けられている。特別秘密に係る裁判官の守秘義務の在り方を検討するためには、上記のことも踏まえ、司法府における秘密保全の在り方全般と特別秘密の保全の在り方との関係を整理する必要があると考えられる。しかし、このような検討は、行政府とは独立の地位を有する司法府の在り方に多大な影響を及ぼし得るため、司法制度全体への影響を踏まえて別途検討されることが適当と考えられる。」

ここには、秘密の保護に性急なあまり、司法本来の役割への配慮を見ることができない。裁判官は、うっかり特定秘密に触れると、その漏えいが厳罰の対象となってしまう。それなら、公判で特定秘密を明らかにするような訴訟指揮は、できるだけしたくはないということになるだろう。その結果、国民は、特定秘密保護法違反に関しては、被疑事実をヒ・ミ・ツとされたまま、逮捕され、捜索差押えされ、勾留され、そして刑事公判においてもヒミツを明らかにされないまま有罪判決を受ける虞を払拭できないこととなる。

極論すれば、「被告人を懲役10年に処する。その理由はヒミツ」という判決が危惧されるのだ。このようなことがあってはならないとして、憲法37条は「すべて刑事事件においては、被告人は、公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利を有する」とされ、さらに82条1項は「裁判の対審及び判決は、公開法廷でこれを行ふ」、同条2項は「裁判所が、裁判官の全員一致で、公の秩序又は善良の風俗を害する虞があると決した場合には、対審は、公開しないでこれを行ふことができる。但し、政治犯罪、出版に関する犯罪又はこの憲法第三章で保障する国民の権利が問題となつてゐる事件の対審は、常にこれを公開しなければならない」としている。公開とは、当然のこととして実質的な意味での公開であるのだから、傍聴者やメディアを含めた誰にも、被告人がどのような罪で訴追されているかが分からなければならない。公訴事実秘密のままで国民の基本権に関わる裁判をすることは許されないのだ。

このことは、特定秘密保護法の法案提出以前から問題点として意識されていた。
日本弁護士連合会2013年(平成25年)9月12日「『特定秘密の保護に関する法律案の概要』に対する意見書」では、次のように指摘されている(22ページ)。
「国家秘密を秘匿したままの裁判では,被告人がどのような事実で処罰されるのか分からない状態で裁判を受けることとなり,実質的な防御権・弁護権を奪われるおそれがある。弁護人は,弁護活動のため秘匿された国家秘密にできるだけ接近しようとするであろうが,関係者への事情聴取等の調査活動,資料の収集活動も教唆,共謀等に問われるのだとすれば,弁護活動も著しく制約されることになる。これは弁護人選任権,公正な裁判の否定である。
基本的人権侵害の最後の救済が裁判を受ける権利であるが,これはあくまで事後的救済であり,犯罪として捜査,起訴されただけでも回復不可能な重大な人権侵害となる。その上さらに,特定秘密の保護に関する法律に違反した犯罪では,裁判を受ける権利が否定されかねず,事後的救済すら不十分なものとなる」

この点について、国会審議では、森雅子担当大臣は、くり返し「外形立証」で足りることを口にした。たとえば、次のように。

「森雅子国務大臣 先ほどから申し上げている通りですね、刑事訴訟法上のですね、秘密の立証というのは外形立証で足りるとされております。例えばですね、その秘密文書のですね、立案、作成過程、秘密指定を相当とする具体的理由等々を明らかにすることにより、実質秘性を立証する方法が取られております。」

こんな答弁で納得できようはずもない。被告人の権利はどうなる。弁護権はどうなる。裁判の公開の原則はどうなってしまうのか。この人にかかると、すべてのことがあまりに軽くなってしまう。憲法上の重大な原則を、こんなに軽んじられてはたまらない。

今日の「毎日」の調査報道は、警察庁が開示した文書によるもの。「法案検討時に、警察庁や法務省が、特定秘密保護法違反の刑事裁判について、『秘密の内容を明らかにせずに有罪を立証をすることは困難』と指摘していたことが分かった」という趣旨。「憲法が定める裁判公開原則との整合性についても結論が先送りされており、同法が司法制度との間に矛盾を抱えたまま成立した実態が浮かび上がった」としている。

興味深いのは、「法務省刑事局が『弁護人の争い方や裁判所の考え方次第では、外形立証では対応しきれず、特別秘密(現特定秘密)の内容が法廷で明らかになる可能性がある』などとする意見書を、法案を作成した内閣情報調査室(内調)に提出していた」というのだ。

「内調の橋場健参事官は取材に「従来も外形立証は行われており、特定秘密の漏えいも外形立証で証明可能と考えている」と説明。また、法務省刑事局は外形立証への見解に関し「警察庁の文書について回答する立場にない」、警察庁警備企画課は「公判手続きに関わる事柄なので答える立場にない」と回答した」とのこと。

まだ特定秘密保護法施行前の今だから、情報公開請求でこれだけの事実が浮かびあがってくる。記者の取材も可能だ。特定秘密保護法施行後には、こんなことも「特定秘密」に指定されることにならないだろうか。

いずれにしても、この日下部聡記者の署名記事。よく切り込んでいるではないか。記者冥利に尽きる記事と言えよう。
(2014年1月27日)

 「安倍靖国参拝違憲訴訟」の原告団結成準備

2013年12月26日の安倍靖国参拝については、12月26日と27日のブログで意見を述べておいた。
https://article9.jp/wordpress/?p=1776(26日)
https://article9.jp/wordpress/?p=1783(27日)

この安倍参拝の違憲性を、集団訴訟で明確にしようという動きが各地であるようだ。その一つの動きとして、私の許にも下記の文書が回ってきている。「転送歓迎」となっているので、発信者の役に立ちたいと思う気持ちから、全文を転載する。
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   安倍内閣の危険な体質を危惧されているすべての皆様へ
      安倍靖国参拝違憲訴訟の原告になりませんか
(仮称)安倍靖国参拝違憲訴訟の会・東京
 2013年12月26日、安倍晋三首相は靖国神社を参拝しました。
 礼装し、公用車で靖国神社に向かい、「内閣総理大臣安倍晋三」と記帳し、正式に昇殿参拝しました。これは公式参拝であり、日本国憲法20条(政教分離)に明らかに違反をしております。私たちは具体的な形で安倍首相に批判の声を届けなければなりません。安倍靖国参拝違憲訴訟を起こしたいと思います。
 この訴訟は違憲確認、将来にわたる公式参拝差し止めを求める裁判ですが、「政教分離」だけでなく、平和的生存権はもちろん、「秘密保護法」成立の強行、「集団的自衛権」「武器輸出」推進、その他社会全般に及ぼうとしている安倍内閣の危険な政治を総合的に問う訴訟にしたいという考えも出ております。
私たちは、この訴訟提起が、市民が法的な面から直接に安倍内閣に異議申し立てができる数少ない道の一つではないかと考えております。
 この訴訟に多くの方が加わってくださること(原告、支援の会)が訴訟を強力にする道と思い、呼びかけを送ります。訴訟は4月21日(靖国神社春季例大祭の日)に提訴することを予定しています。
訴訟の内容(会の代表、原告代表、事務局、費用など)は、現在協議中ですが、この訴訟に加わりたい方、関心のある方、下のmailアドレス・FAXにて連絡ください。今までの資料や原告募集等の書類などお送りいたします。もちろん訴訟関係の事務局会議に参加くださることも歓迎します。

安倍首相は「平和を祈って参拝した」などと述べています。今回、安倍首相は、靖国神社の中にある「鎮霊社」にも参拝しました。鎮霊社は、1853年(ペリー来航)以降の全世界の戦争の死者のうち、靖国神社に合祀されていない人々を「慰霊するための施設」としてつくられたものです。そこは、ヒトラーもアウシュビッツの死者も、靖国神社に合祀されていない空襲や原爆の死者も、等しく「慰霊」する場所なのです。もし靖国神社に合祀されていない故人があなたの親族にいれば、ヒトラーと等しく勝手に「慰霊」されています。

この会は東京で立ち上げましたが、東京や首都圏だけの方でなく、全国どこからでも原告になれます。外国籍の方も原告になれます。

<呼びかけ人>(アイウエオ順)
蒲信一(僧侶)・辻子実(平和の灯を!ヤスクニの闇へ キャンドル行動)・関千枝子(ノンフィクションライター)・坂内宗男(日本キリスト教協議会靖国神社問題委員会委員長)・山本直好(ノー!ハプサ・合祀絶止訴訟事務局長)・吉田哲四郎(神奈川平和遺族会共同代表)
 連絡先         「安倍靖国参拝違憲訴訟の会・東京」
               FAX  03・3207・1273
               mailアドレス;noyasukuni2013@gmail.com

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このような運動を立ち上げている方々には、敬意を惜しまない。が、私自身が参加するするかどうかは判断しかねている。もう少し考えてみたい。

首相の靖国神社参拝は、外圧への対応や国益擁護の観点から論じられるべき問題ではなく、なによりも憲法原則に関わる問題である。歴史認識の所産として主権者が確定した日本国憲法を、権力者が遵守するか否かが問われている。靖国を語ることは歴史認識を語ることであり、この国が侵略戦争や植民地支配の歴史を反省しているのか否かを問うことでもある。

安倍首相の靖国神社参拝が、日本国憲法が定める政教分離原則(憲法20条3項)に違反することは疑いの余地がない。にもかかわらず、裁判所に提訴して違憲判断の判決を獲得することは、けっして容易ではない。そのような訴訟の類型が予定されていないからだ。そのことで私は提訴を躊躇している。「自分自身が勝訴の確信を得ることができないままでの提訴では、十分な運動とすることはできないのではないか」。訴訟を立ち上げようとされている人々は違う。「そんなことは承知の上で、できる手段を追及するしかない」と覚悟を決めておられる。

憲法の政教分離原則が最も関心を寄せる対象として、かつての別格官弊社靖国神社があった。靖国神社こそが、「天皇制」と「軍国主義」の両者を結節する存在であった。現在の宗教法人靖国神社は、いまだに戦前の靖国史観をそのままに、歴史修正主義の拠点となっている。また、露骨に国家との象徴的な結びつきを求める姿勢を変えてはいない。東京裁判で刑死した東条英樹以下14人のA級戦犯を合祀する場でもある。首相も天皇も、けっしてこのような宗教施設と関わりを持ってはならない。公的資格における参拝は明らかに違憲違法。しかし、だからどんな裁判ができるかというと、簡単に答は出てこない。

これまで、政教分離違反を争う訴訟の類型としては、「住民訴訟」と「違憲国賠訴訟」が試みられている。前者の典型が、津地鎮祭訴訟、岩手靖国訴訟、愛媛玉串料訴訟である。いわゆる客観訴訟として、原告の権利・利益侵害が提訴の要件とならない。この中で、岩手靖国参拝違憲訴訟が、唯一公式参拝の違憲性を住民訴訟で主張した事案で、高裁判決で主文では請求棄却ではあったが、理由中で明確な「公式参拝違憲」の判断を得た。

岩手靖国が住民訴訟として成立したのは、特殊な事情があったからで、国家機関である首相や天皇の靖国神社参拝を地方自治法上の住民訴訟で争うことはできない。結局、靖国参拝違憲訴訟は違憲国賠訴訟とならざるを得ないが、これまで「中曽根参拝違憲訴訟」(3件)と「小泉参拝違憲訴訟」(7件)の実績がある。国家賠償訴訟を提起するには、首相の参拝行為の公務性、違法と過失だけでなく、原告となる者の権利または法律上保護される利益侵害の存在が必要とされるというのが、最高裁の立ち場である。違憲確認請求、公式参拝差し止め請求とするのはなおのこと難しい。

国家賠償請求においては、宗教的人格権の侵害という構成が工夫されてきた。「静謐な環境の下で、特別の関係のある故人の霊を追悼する法的利益が侵害された」と表現されるものである。最高裁は、小泉参拝に関して、「上告人らが侵害されたと主張する権利ないし利益が法律上の保護になじむものであるか否かについて考える」とした上で、「本件参拝によって上告人らに損害賠償の対象となり得るような法的利益の侵害があったとはいえない。したがって、上告人らの損害賠償請求は、その余の点について判断するでもなく理由がないものとして棄却すべきである」(第二小法廷・2006年6月23日判決)としている。これが克服の対象である。「最高裁判決は間違っている」と言っているだけでは済まされない。最高裁を正面から説得し、あるいは側面から迂回して、このハードルを乗り越えねばならない。

現在進行中の各地での提訴準備が活発化するなかで、このハードルを乗り越える工夫が積み重ねられるだろう。その工夫の成果をもって、反憲法的姿勢を隠そうともしない安倍政権への反撃を試みたいものだ。
(2014年1月26日)

「選挙運動費用収支報告書」記載ミス訂正の実例

本日の赤旗「潮流」欄は、次の一文から始まっている。
「人権の侵害は、相手が誰であれ、怒りの対象となるべきだ。この権利にかんする限り、妥協の余地はないー。」

今の私の気持ちにぴったりだ。一瞬、赤旗が私のブログを引用したのかと思ったが、そうではない。「元レジスタンス闘士のステファン・エセルさんが、93歳のときに記した『怒れ! 憤れ!』の一節」だという。「フランスで出版され、30カ国で翻訳された著書は、多くの若者の心を動かし、世界中の大衆運動に火をつけました。ナチの強制収容所を生き延びたエセルさんは戦後、外交官になって、国連の世界人権宣言の起草に加わりました」と続く。

浅学にして、ステファン・エセル氏(1917?2013)が、どのような文脈で「相手が誰であれ」と言ったのかは知らない。潮流でも説明がなく冒頭の引用の一節は、その後の本文とうまくつながっていない。もしかしたら、潮流子は、私のブログを読んで、密かにエールを送ってくれたのかも知れない…、なんてことはあり得ないか。

『怒れ! 憤れ!』は、貴重な提言だ。『怒りと憤り』に満ち満ちた人権侵害の訴えを、「私憤、私怨に過ぎないから耳を傾けるに値しない」と言い放つ人には、ステファン・エセル氏と同氏の言を引用した赤旗の「権威」をもって反論することにしようか。少しは効き目があるかも知れない。

「相手が誰であれ、怒りの対象となるべきだ」は、当然に、その先に怒りの対象を糾弾する行動に立ち上がるべきことが想定されている。実は、これが、場合によっては相当の覚悟を要する難事なのだ。

安倍自民に怒って、赤旗と口をそろえて政権批判をしている分には安楽だ。しかし、「味方」陣営に人権侵害の事実があった場合には、やはりこれを「怒りの対象」として、楽ではなくても、批判の声を上げなければならない。民主勢力の誤りに対する批判や告発なくして、その発展はない。民主主義とは、自浄作用の繰り返しによる永久革命ではないか。民主勢力内部には、幹部批判の言論を保障しこれを貴重なものとして耳を傾ける作風がなければならない。組織や幹部に耳の痛い批判に、「私憤」「私怨」とレッテルを貼って無視することは、民主勢力無謬論の誤りに加担することではないか。

私の『怒りと憤り』の対象の一つが、前回都知事選における宇都宮候補の選挙運動費用収支報告書の記載で明らかになった、上原公子選対本部長や服部泉出納責任者らに対する運動員買収事案。買収された者は、この2名に限らず「労務者」「事務員」届けられた者、最大29名に及ぶ可能性がある。買収した者は、収支報告書に名前は出てこないが選対事務局長であった蓋然性が高い。公職選挙法221条1項に違反し、法定刑の最高量刑は懲役3年である。

宇都宮陣営は、この私の指摘に対して、「記載ミスを訂正すれば済む問題である」と言った。ネットテレビの発言としては暮れの12月31日に、文書では1月5日付のもので。ところが、訂正すれば済むはずの選挙運動費用収支報告書のミスの訂正を行わないまま、今回選挙に突入している。私の指摘に対する、宇都宮陣営の真摯な対応を欠く態度にも、私は『怒り憤って』いる。

宇都宮陣営のいう「単なるミス訂正」の実例が問題視されて報道されている。まずは、昨日(1月24日)の神奈川新聞の次の記事。

「昨年10月の川崎市長選で、福田紀彦市長陣営の提出した選挙運動費用収支報告書に、選挙運動に携わったスタッフ11人に「労務者報酬」を支出したとの記載があることが23日、分かった。公選法ではビラ配りなどを行う選挙運動員への報酬を禁じている。後援会事務所の担当者は「実際には金銭の支払いはなく記載ミス」と説明、早急に同報告書を訂正するとした。

 同報告書によると、投開票日前日の10月26日に学生、アルバイト、無職の男女11人にそれぞれ7万?14万円(おおむね1日当たり1万円)を支給した。一方で、収入欄には同日、同じ11人から同額の寄付をそれぞれ受けたとも記載、相殺した形を取っている。

 事務所担当者は「報告書作成者の認識の誤り。11人が(単純な事務作業を行う)労務者に該当すると思い込み計上してしまった」と違法性を否定。記載する必要がない内容だったとして、収入、支出欄からそれぞれ削除する方針を示した。

 公選法では、労務者やいわゆるウグイス嬢、手話通訳者などには法定額の報酬を支給できると規定。しかし、特定の候補者への投票を呼び掛ける選挙運動員には、交通費などの実費弁償を除き無報酬としなければならない。神奈川新聞の取材に対し、福田市長は「認識不足だった」と述べた。」

福田紀彦市長陣営は、「認識不足だった」として、翌1月24日に市選管に訂正届け出をしたようだ。そのことが、本日(1月25日)の朝日と毎日(いずれも地方版)の記事となっている。宇都宮陣営とは違った、「過ちては則ち改むるに憚ること勿れ」という誠実な対応ではある。しかし、訂正自体が問題であり、訂正はまた新たな問題を生むことになる。

まずは、福田陣営は、訂正前の収支報告の届出が虚偽であったことを認めたことになる。収入の部で、11人からの寄付がなかったのに、あったように記載したこと。支出の部で、11人の「労務者」への支出がなかったのに、あったように記載したこと。その両記載が、福田陣営の出納責任者における「選挙運動に関する収入及び支出の規制違反」(公選法246条5号の2)にあたる。その法定刑の最高量刑は禁錮3年である。

毎日新聞は、「市選管によると、事務作業などをする単純労務者が無報酬で作業を行う場合は、収支報告書に本来支払われるべき労務費と、その相当額を寄付したと記載する必要」と報道している。とすれば、福田紀彦市長陣営は「無報酬で労務を提供した単純労務者」の有無を再点検しなければならない。宇都宮陣営でも同じこととなるはず。

さらに、もう一つの問題がある。収支報告書に記載された者が労務者ではなく選挙運動者とすれば、未成年者の選挙運動規制の問題が出てくる。未成年者を単純労務者として使用することには問題がないが、公選法137条の2は未成年者の選挙運動を禁止している。違反した未成年者も使用した者も処罰の対象となる。最高刑は禁錮1年である(公選法239条1項1号)。

朝日新聞の報道では、報告書に労務者と記載された選挙運動員を「学生ら11人」と表現している。11人の大半が学生なのだろう。大学の1年生・2年生は未成年であろう。3年生・4年生は就活に忙しいのではないか。いずれにせよ、その確認の必要が出てくる。

宇都宮陣営も、早急に「ミスの訂正」を届けるべきだ。私は、形式的な届け出ミスがあったのではなく、届出のとおり実質的な運動員買収の公選法違反行為があったものと考えている。「ミスの訂正」の届け出が真実と異なれば、新たな虚偽記載罪が成立する。しかも、川崎市長選事案とは違って、宇都宮事案では、「記載ミス」の訂正届出には、新たな届出内容を証する領収証の添付を必要とする。その領収証は、公選法(189条1項、191条1項)で徴収と3年間の保存を義務づけられている。「領収証はありません」は通用しないのだ。

いずれにせよ、宇都宮陣営が「記載ミスを訂正すれば済む問題である」というからには、速やかに届出をすべきだろう。私は、その届け出内容を精査して運動員買収の有無を追及するつもりだ。

本日の赤旗の「潮流」欄は、冒頭のエセル氏の名言の引用のあと次のように続けている。
「生涯を人権のためにたたかったエセルさんは呼びかけます。『歴史の脈々たる流れは、一人ひとりの力で続いていくものである。この流れが向かう先は、より多くの正義、より多くの自由だ。正義と自由を求める権利は誰にでもある』」

赤旗に励まされる。私の追求も「より多くの正義、より多くの自由」につながっているはずだ。正義と自由を求める権利は私にもある。
(2014年1月25日)

「憲法を暮らしに生かす」ことの意味

憲法会議(正式名称は「憲法改悪阻止各会連絡会議」)のホームページには、冒頭に、「憲法をまもり暮らしに生かしましょう」というスローガンが掲げられている。
「憲法をまもり」とは、保守勢力による改憲策動に反対して日本国憲法を改悪させないことを意味するものと理解される。また、「憲法を暮らしに生かしましょう」とは、憲法を画に描いた餅にせず、その理念を現実化することに力を併せようという呼びかけであろう。

「憲法をまもり」は、比較的意味明瞭である。まずは「日本国憲法」と名称を持つ成文憲法典の改正を許さないこと。つまり、明文改憲に反対の立場である。さらに、形式的に改憲を阻止しても、憲法解釈が変更されて違憲の立法や行政がまかり通る事態を招いてはならない。そこで立法改憲や、解釈改憲を許してはならないことになる。今喫緊の課題は、集団的自衛権行使容認への憲法解釈変更阻止であり、国家安全保障基本法の制定への反対である。

これに比して、「憲法を暮らしに生かしましょう」という呼びかけは、必ずしも意味明瞭ではない。憲法の理念が最終的には暮らしに生かされなければならないことに異論はないが、それでは気の利いたスローガンとはならない。憲法会議がいう「憲法を暮らしに生かしましょう」とは、暮らしの隅々にまで、憲法の理念を生かそうという呼びかけと理解したいものだ。

近代的な意味における憲法は、自由主義を基調とするものである。国家権力を必要ではあるが危険なものと見なして、国家権力の恣意的発動から国民個人の自由を守ることを憲法の第一任務としている。換言すれば、憲法の名宛て人は国家なのだ。主権者国民が国家に宛てて、その権力発動を規制する命令の体系が憲法だという理解である。

しかし、現代の現実社会においては、このような考え方だけでは「憲法を暮らしの隅々に生かす」には不十分だ。「会社の敷地には憲法はない」「校門をくぐれば、憲法などと言っておられない」「家庭に憲法は無縁」「市民運動内部に憲法なんて持ち出すな」…。憲法会議は、「憲法を暮らしに生かしましょう」というスローガンで、暮らしの隅々にまで、人権や民主主義や平和の理念を生かそうと呼びかけているものと解される。企業も、私的な団体も、もちろん民主運動も、憲法の理念を護らねばならない、というメッセージである。さすがは憲法会議である…と思っていた。昨年の暮れまでは。

ほかならぬその憲法会議が私の言論を封じたのである。「憲法を暮らしに生かしましょう」とモットーを掲げる団体にあるまじきことではないか。

その経過は繰り返さない。下記2件のブログを参照していただきたい。

宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその26


宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその26(2014年1月15日)

宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその28


宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその28(2014年1月17日)

本日は、その事後処理である。先ほど、下記の書面とともに、8000円の為替を書留便で憲法会議に返送した。意のあるところを酌んでいただきたい。

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                          2014年1月24日
憲法会議御中(平井正事務局長殿)
                             澤藤統一郎

本年1月22日付貴信を翌23日夕刻に拝受いたしました。
拝受した貴信の全文は次のとおりです。
「前略
 澤藤統一郎先生には、『月刊憲法運動』誌へのご執筆をお願いいたしましたが、残念なことにその後の事情で掲載断念のやむなきに至りました。
 同封した為替(額面8,000円)はご執筆謝礼相当分です。ご査収ください。
 領収書を添付しましたので、お手数ですがご返送いただければ幸いです。
 それでは失礼いたします。
                                           早々」

 貴信の文面では、「掲載断念のやむなきに至りました」となっていますが、これは貴会の責任を糊塗した不正確な表現で納得いたしかねます。「やむなきに至りました」とは、あたかも貴会自身は一貫して拙稿の掲載を希望したにもかかわらず、その希望実現に支障となる外部的な客観的事情が生じたとでも言いたげな物言いです。しかし事実は、私の抗議と説得を敢えて無視して、貴会ご自身の意思において、一方的に貴誌への拙稿掲載の合意を破棄したものであることをご確認いただきたいと存じます。

 貴会の否定にもかかわらず、実は、貴会が特定の団体や個人の意向を忖度して拙稿掲載の拒否に至ったのではないかということが、私の推察するところです。そのことが「やむなきに至りました」という表現に表れているのではないかとも感じられます。しかし、この点については、貴会事務局長は1月8日面談の際には、強く否定され、自主的な判断だと言われています。そのとおりであれば、「やむなきに至りました」ではなく、「当会の意思を変えました」と言わねばならないのではありませんか。

 同じ理由から、「掲載断念」も不正確です。正しくは、貴会の意思によるものであることを明確にして、「掲載拒否」あるいは「掲載拒絶」「掲載謝絶」「掲載峻拒」と言うべきでしょう。

 従って、「いったん、『月刊憲法運動』誌へのご執筆をお願いしご了承を得ましたが、その後に当会の意思を変更して、一方的に掲載を拒否いたしました」というべきところです。

 また、「その後の事情で」掲載断念とされていますが、私がブログ「憲法日記」で、「宇都宮健児君、立候補はおやめなさい」のシリーズの掲載を始めたのは12月21日です。貴会からの執筆依頼は12月27日。そして、一方的な違約の申し出は1月8日でした。「その後の事情」とは私の宇都宮君への批判それ自体ではなく、私の宇都宮君批判が貴会内であるいは貴会の周囲で、話題となり問題として受けとめられるようになったこととしか理解できません。ことは、表現の自由、批判の言論の自由に関わる問題です。もっと率直に、どのような議論があってのことか明らかにしていただかない限りは到底納得できません。

 なお、当該合意の履行における私の利益は、靖国問題に関する拙稿を掲載していただくことによって、私の考えや情報を憲法問題に高い関心を寄せている貴誌の読者に知っていただくことにあります。貴会の執筆依頼も私の執筆承諾も、けっして経済的取引の次元における契約ではありません。

私の執筆承諾の動機が執筆謝礼8000円の受領にあるものではないことを明確にし、併せて貴会の一方的な違約によって失われた私の利益が拙稿の貴誌掲載自体にあることを強調するために、さらにはこの問題は重大な教訓を含むものでありながら未解決であることを確認する意味も込めて、「執筆謝礼相当分として送られてきた損害金8000円」は受領を拒絶いたします。そのままご返送いたします。

 貴信には、貴会が憲法の理念を擁護することを使命とする運動体でありながら、自らが憲法理念を蹂躙したことへの心の痛みや反省を感じ取ることができません。
 また、私の憲法上の権利を侵害したことへの謝罪の言葉もありません。むしろ、「8000円の送付で問題解決」と言いたげな文面を残念に思います。私は、国家権力だけではなく、私的な企業や団体における憲法理念の遵守が大切だと思ってまいりました。本件は、その問題の象徴的な事例だと捉えています。

 繰り返しますが、貴誌への掲載論稿は岩手靖国訴訟に関わるものであって、宇都宮君批判の論稿ではなかったのです。貴会は周囲を説得して、私の表現の自由を擁護すべきだったのです。私は、貴会に反省していただきたいという気持を持ち続けます。この問題はけっして終わっていないことをご確認ください。

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         早春の妖精スノードロツプ(まつゆきそう)
「庭が雪の下に沈んでしまった今頃になって、急に園芸家は思い出す。たった一つ、忘れたことがあったのを。それは庭をながめることだ。
それというのもーまあ、聞きたまえー園芸家にはそんなひまがなかったからだ。夏、花の咲いているリンドウをとっくりながめようと思うと、芝生の雑草をぬくために、途中で立ち止まることになる。花の咲いたデルフィニウムの美しさを楽しもうとすると、支柱をあたえることになる。アスターが咲くと、根もとにはえたカモジグサをぬく。バラが咲くと、台芽をとるか、ウドンコ病のしまつをする。キクが咲くと鍬をもって駆け付け、踏み固めた土をほぐして柔らかにする。どうしたらいいのだ?いつもなにかしら、しなければならぬことがある。両手をポケットに突っ込んで庭をながめてなどどうしていられよう?」(カレル・チャペック著「園芸家12カ月」 12月の園芸家より)

「『園芸家にとっては、1月という月も けっしてひまではない』と、園芸の本には書いてある。たしかにそうだ。1月は、天候の手入れをする月だから。天候ってやつは妙なものだ。ぜったいに順調ということがない。・・・園芸家がいちばんおそれるのはブラック・フロストの襲来だ。(黒い霜といっても霜ではない。乾燥した猛烈な寒さがおそってくると、植物の葉や芽が黒くなるからだ。)大地はこわばって、骨まで干上がる。日ごと夜ごとに寒さが激しくなる。園芸家は、石のようにかちかちになった、死んだような土の中で寒さにふるえている根を思い、からからに乾いた氷のような風が、骨の髄までしみ込んでくる枝を思い、秋のうちに持ち物全部をふところにしまいこんだまま、こごえるように寒がっている球根を思う。」(同著 1月の園芸家より)

日本の冬は、カレル・チャペックの生きたチェコの冬と較べると、まるで天国のようだ。特に南関東では、真冬でも、アオキやセンリョウ、マンリョウはつやつやとした赤い実をつけ、青々とした葉を茂らせている。ヤブツバキは赤い花をこぼれるように咲かせている。ロウバイは蝋細工のような黄色い花から、清々しいかおりを大気に放っている。秋に植えた球根も、寒さなんかどこ吹く風とばかり、日本水仙はもう花を咲かせている。日当たりでは、もうチューリップもクロッカスもむっくりと芽をだしている。

それらの中で小さいがゆえに、特に可愛らしいのが、スノードロツプ(まつゆきそう)だ。秋に植えた球根は大豆を二回りほど大きくしたぐらいのサイズで、こんな小さなもののなかに花を咲かせる力がつまっているのかと疑わしくなる。暮れから小さな芽はだしていたが、今日よく見れば、長細い葉がはじけて、花の蕾をつけた茎がこぼれ出ている。高さは10センチに満たない。うっかりしていれば、見過ごす。一球に一茎、その先に一花がプランとぶら下がって咲く。春を告げる高貴で尊い花だ。外向きに開いた細長い3枚の白い花弁の内側に3枚の花弁が小さなカップを作っている。カップの下端に渋いグリーンのハート模様が浮き出る。乳白色の陶器で作られた、さわるとこわれそうな小さな花。固まった雪の雫が落ちてきて、乙女の耳飾りになったかのようだ。早春の妖精のようではあるが、人への贈り物にすると「あなたの死を望みます」というメッセージになるので注意とは、恐ろしいではないか。

昨秋、チューリップを150球植えてあるので、春の来るのが例年にもまして待ちどおしく楽しみである。準備無ければ花も咲かずである。
(2014年1月24日)
 

明日第186通常国会開会

第186通常国会は、明日(1月24日)召集される。会期は6月22日までの150日間。
24日には首相の施政方針演説があり、28〜30日に衆参両院で与野党の代表質問が行われる。政府・与党は首相がソチ冬季五輪の開会式に出発する2月7日までに補正予算案を成立させ、その後、早期に14年度予算案の審議に入る方針。安倍政権は、「好循環実現国会」を掲げて成長戦略関連法案32本の提出を予定し、4月の消費増税による景気の腰折れ防止に全力を挙げる構え。これに対し、民主、共産両党は先の臨時国会で成立した特定秘密保護法の廃止法案を用意し、安倍政権との対決姿勢を強めている、と報じられている。衆参両院の憲法審査会も動き出すだろう。4月には、安保法制懇の答申を受けての集団的自衛権論議が白熱することになるだろう。教育委員会制度を見直す地方教育行政法改正案、労働者派遣法改正案、原発再稼動問題、原発輸出問題などもある。けっして、無風、平穏な通常国会となるはずはない。

ところで国会の招集は天皇の国事行為(憲法7条2号)である。第186通常国会の招集も天皇の「詔書」によって行われる。以下が、天皇の国会召集を伝える本年1月14日付「官報」(号外)の全文。

「詔書」
日本国憲法第7条及び第52条並びに国会法第1条及び第2条によって、平成26年1月24日に、国会の常会を東京に招集する。
 御名 御璽
平成26年1月14日
内閣総理大臣臨時代理
国務大臣 麻生太郎

「詔書」などという言葉が今も生きているのだ。それにしても、ことさらに主語を省いて、「国会の常会を東京に招集する」とは、何とも間の抜けた不思議な文章。

もしかして、「御名 御璽」(ぎょめい・ぎょじ)が分からぬ人がいるのではないだろうか。オリジナルの文書には、「明仁」の自署と、天皇印の印影がある。何故かは分からぬが、「明仁 印」とあからさまにしたのでは畏れ多いのだという。そのような配慮から、名前と印に尊敬語の「御」を付けて、「原文には、ここに天皇のお名前が書いてあり、ご印が押されているのですよ」とする約束事なのだ。戦前から少しも変わっていない。

なお、この天皇印たる「御璽」は金製で3寸四方の角印、重量は約3.55?あるのだという。昔、大学の講義でこのことを聴いたときのことを思い出す。当時は、裕仁が天皇であった時代。「必ず裕仁氏自らこの3キロ半の印を手にして押捺する」のだという。天皇の仕事はけっして楽ではない。「重」労働ですらあるという。大教室に満ち満ちた、当時の学生たちのトゲのある冷笑の雰囲気が懐かしい。

なお、この「詔書」に、内閣総理大臣臨時代理として麻生太郎が副署しているのは、安倍首相が外遊中だったため。

明日1月24日午後1時から10分間の予定で、開会式が行われる。この通常国会を招集した天皇が、自ら招集の「おことば」を述べる。場所は参議院本会議場。かつての貴族院である。その本会議場正面の議長席背後に玉座がしつらえてある。議場を見下ろすこの位置で、天皇は衆参両院の議員を見下しつつ、おことばを述べるのだ。国民の代表が、天皇を見上げつつ、その「おことば」をありがたく「うけたまわる」ことになる。

この玉座、正式には参議院で「御席」というそうだ。旧憲法時代、今の参議院は貴族院だった。天皇は、貴族院の玉座に臨席し、統治権の総覧者として、立法の協賛者である帝国議会の各議員を睥睨した。この建物の構造は、当時の主権者と臣民の位地関係を象徴するものであった。いま、同じ場所が参議院本会議場となり、同じ「玉座」から「象徴である天皇」が、「主権者である国民の代表」に「おことば」を発している。敗戦を挟んで、我が国は本当に変わったのだろうか。

「国会を召集すること」は天皇の国事行為の一つではあっても、「国会の召集」は「詔書」に署名捺印すれば済むことで、国会まで出向いて開会式に臨席し「おことば」を述べるなどは憲法に記されたことではない。

天皇の行為には、憲法に厳格に制限列挙された国事行為と、純粋に私的な行為との2類型がある。本来、この2類型しかなく、「おことば」や「皇室外交」はそのどちらでもない。憲法上の根拠を欠くものである以上、本来行うべきものではない。

ところが、天皇の国事行為と、純粋に私的な行為とは別に、天皇の「公的行為」という中間領域の範疇を認める立ち場があり、開会式のお言葉はこの範疇に属するものとして行われている。皇室外交や、園遊会の主催、国民体育大会、植樹祭への出席等々も同様。当然に、憲法違反だという批判がある。批判があるが、やめようとはしない。

やめようとしないのは、為政者が、天皇の権威主義的国民統合作用を統治の具として重宝と考えているからだ。為政者は、常に「民はもって之を由らしむべし。知らしむべからず」と考えている。天皇制下の擬似家族的連帯意識と家父長の権威に寄りかかる権威主義、そして序列感覚の涵養が、統治しやすい国民の育成にこの上なく便利だからである。

象徴天皇制は、憲法上の制度として軽々に改変することはできない。しかし、天皇の影響力の範囲は一寸たりとも拡大してはならない。また、「内なる天皇制」については、これを克服することが可能である。臣民根性を排して、主権者意識を育てよう。この主権者意識の育成を阻害するものこそ、「前主権者」である天皇制なのだ。まずは、政権による天皇の政治利用、天皇自身による天皇の政治利用をきちんと批判しよう。

開会式への意識的欠席は、議員の見識である。その反対に、国会開会式で天皇に平身低頭する国民の代表がいないか、明日はよく目を光らせようではないか。
(2014年1月23日)

宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその33

東京都知事選は、とうとう明日が告示日。明日から選挙運動期間である。
念のために、今日また東京都選挙管理委員会に足を延ばした。2012年12月16日施行の東京都知事選挙における宇都宮健児候補の選挙運動資金収支報告書を閲覧してきたが、本日(1月22日)午後の時点で、何の訂正も変更もなされていないことを確認した。宇都宮陣営は、前回選挙における選挙運動収支報告書の重大な届出ミスを認めながら、これを放置して次の選挙に突入しようとしている。

上原公子選対本部長(元国立市長)の労務者報酬10万円受領の届出も、添付の選挙運動報酬受領証も何の変更もなくそのままであった。服部泉出納責任者についても同じこと。合計29名に及ぶ疑惑の「労務者」「事務員」についての届出訂正もない。宇都宮陣営の1月5日付文書「法的見解」では、随分と簡単に「記載ミスを訂正すれば済む問題である」と言っておきながら、何の訂正もせずに次の選挙に突っ込もうというのだ。誰の目にも、「コンプライアンス意識に問題あり」が明白ではないか。あるいは、「記載ミスを訂正すれば済む問題」と言ってはみたが、実は「労務者報酬受領」と届出を脱法しての運動員買収の事実は訂正のしようがないということなのであろうか。

私が指摘した数々のリスクを抱えながら、それでもなお宇都宮君には、立候補を断念する気配が見えない。私は、「宣戦布告」直前に、いくつかのメーリングリストに、「宇都宮君への批判を始めるからには徹底してやる」と宣言した。宇都宮君への警告を意識してのこと。その上で、今日まで33日間にわたって「宇都宮君、おやめなさい」と言い続けてきた。宇都宮君を立候補断念に追い込むことはできなかったが、その宣言のとおり、本日まで私のできる限りでの言論による批判は、やり通した。

この「おやめなさい」シリーズを書き始めた当初の覚悟は相当なものだった。以前にも書いたとおり、悲壮感をもってルビコンを渡るの心境だった。宇都宮君とともに自分も傷つくことは重々承知の上でのこと。だが、ルビコンを渡った向こう岸にも、広々とした天地があることを知った。花は咲き、鳥も歌っている。真摯にものを考える、新たな友人との出会いもあった。驚くべきことに、このブログをきっかけに、新たな業務の依頼さえあったのだ。私は、感動している。この世には、「自分の他に主人を持つまい」とし、「民主主義的理性」を磨こうとしている多くの真っ当な人々がいるのだ。

「悲しき玩具」の啄木の歌を思いおこす。

人がみな
同じ方角に向いて行く。
それを横よりみてゐる心。

私は、隊列を組むがごとくして皆と同じ方角に向かっていくことが苦手なのだ。啄木もそうだったのだろうが、自らの歌を「悲しき玩具」と言った啄木には、皆と同じ方角に向かっていくことができない自分を哀れむ心があったのではないか。
私は違う。人みなと違う方角に歩き出したことを、今は爽快に思っている。

もちろん、私に反省すべき点があるのは明らかだ。まずは、「徹底した批判」に踏み切るのが遅きに失したこと。私自身が「人にやさしい東京をつくる会」の情報開示と運営の透明性の徹底に鈍感だったこと。もっと以前に、問題が起こる都度、躊躇することなく、徹底批判に踏み切るべきだった。そうしていれば、問題がここまでこじれる以前に、宇都宮選対や「人にやさしい東京をつくる会」の体質を、修正できた可能性があった。

学んだことは、組織原則としての民主主義のあり方である。とりわけ、批判の言論の大切さ。組織の幹部は、自分の耳に痛い批判の言論に寛容でなくてはならない。これを、鬱陶しいからと強権を発動して報復に出たり、それへの抗議を問答無用でだまし討ちに切り捨てるなどしてはならない。

昔から英語が達者だった次弟が、私のブログを読んで、次のようにメールをくれた。
「昔、英語の参考書の中で覚えたヴォルテールの言葉が思い出されます。
I disapprove of what you say, but I will defend to the death your right to say it.
この to the death と言うところが味噌です。フランス語は知らず、英語では『あくまで』ということが『死をかけてでも』と同義語になっているわけです。『死をかけてでも』言論の自由を守るべき立場の人々の行動としては、まあ何とも『懐の狭い』を通り越して『滑稽さ』まで感じられます。大方の人がそう思ったことでしょう。」

そうだ、民主主義とは、「命をかけても」他の人の言論の自由を守ることなのだ。宇都宮君と宇都宮君につながる向こう岸の人々には、それが分からなかったのだ。次弟が即座に深い理解を示してくれたことが本当に嬉しかった。

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ところで、昨日話題にしたメルマガ「宇都宮けんじニュース」は「希望のまち東京をつくる会」から配信されている。おそらく今回の選挙では「希望のまち東京をつくる会」が宇都宮候補を擁立する確認団体となるのだろう。しかし、「希望のまち東京をつくる会」とは何なのか、誰がどのように関わり、誰が決定権をもって会の運営に携わっているのか、外からは分からない。「会」のホームページには記載がない。念のため、「宇都宮けんじニュース」を第1号(1月1日)から本日付の22号まで全部目を通してみたが、ここにもなんの記載もない。私は、今にして思う。市民選挙の主宰団体がブラックボックスであってはならない。きちんと公表すべきではないか。著しく、公共性も公益性も高い事項なのだから。公表されて困ることでもあるまい。

前回選挙の確認団体となったのは、「人にやさしい東京をつくる会」だった。
その意思決定機関(運営会議)のメンバーは以下のとおりである(敬称略)。
宇都宮健児(候補者)
中山武敏(会代表)
上原公子(選対本部長)
熊谷伸一郎(事務局長)
岡本厚
海渡雄一
河添誠 
澤藤統一郎
高田健
豊田栄一郎(会計責任者)
服部泉(出納責任者)
渡辺治

以上の「人にやさしい東京をつくる会」の運営会議委員は、選挙期間中は選対委員となった。選挙終了後は4回の運営会議(2012年12月23日・2013年1月6日・2月28日・12月20日)が開催されている。その最後の2013年12月20日第4回運営会議において、宇都宮君は「運営会議全員解任」「再任は宇都宮・中山に一任」という、澤藤追放の「だまし討ち」決議をやってのけた。議事録上は、私以外の全員の賛成でのこととなっているはず。

しかし、「人にやさしい東京をつくる会」の解散決議はされていない。520万7907円のカンパ残額の処理をどうするかをうやむやにしたまま解散はできない。

しかも、第2回運営委員会(2013年1月6日)の議事録では、次のとおりに確認されている。
「6.会の今後の方向性について
・会として、次回の都知事選挙の母体とはならないこと、また今夏の参議院選挙を含む選挙運動に関わらないことを確認した。
・会計の問題もあるために、会としては当面存続させる。3月31日のシンポジウムと、その後の期間(一年程度)をおいての集会を経て、活動自体は休止状態にしていく。完全に解散するか、解散するとして現在のメンバーで何らかの運動を展開していくかは、今後検討していく。」

もちろん、この確認は私も参加した席でのこと。問題の選挙カンパは、2012年都知事選についてのものだったのだから、次回都知事選挙や他の選挙への「流用」は筋が違うとの考えによるもの。「人にやさしい東京をつくる会」が、「次回の都知事選挙の母体とはならない」「今夏の参議院選挙を含む選挙運動に関わらない」ことを正式に確認している以上、今回選挙でこの前回選挙カンパの残金520万円に手を付けることは許されない。

なお、「人にやさしい東京をつくる会」の政策には次のとおりのことが明記されている。
「尖閣諸島購入のために集めた寄付金は返却します。
1. 都が集めた寄付金は寄付者に返金します。寄付者が不明の場合には、早急に検討します。
2. 返金作業にかかる経費については、当時の都の責任者に請求します。」

ダブルスタンダードは望ましくない。「人にやさしい東京をつくる会」は、前回選挙でカンパに応じた人にだけでなく、社会に納得を得るような残金の処理をしなければならない。

前述の決議がある以上、「人にやさしい東京をつくる会」は、今回都知事選挙の母体とはなりえない。新たに登場した「希望のまち東京をつくる会」が今回選挙の確認団体となるのだろうが、最低限次のことを明確にすべきだろう。

1 「希望のまち東京をつくる会」は、「人にやさしい東京をつくる会」とはどのような関係になるのか。「人にやさしい東京をつくる会」の残余財産は、どう処理される予定なのか。
2 「希望のまち東京をつくる会」の代表者は誰なのか。どのようなメンバーが、意思決定に参画しているのか。会の規約などはどうなっているのか。
3 「希望のまち東京をつくる会」と「支援・支持の関係にある政党や政治団体」との間に政策協定その他何らかの共闘についての取り決めはあるのか。あるとすれば、どのような内容なのか。ないとすれば、支援・支持の具体的な内容はどのようなものか。

私は、開かれた市民選挙を標榜して、広く市民に賛同を求め、寄付を募る以上は、「希望のまち東京をつくる会」には上記3点について回答すべき道義的責任があるものと考える。私自身が、「人にやさしい東京をつくる会」の運営に関わりながら、積極的に情報を開示し会の運営の透明性を高める努力をしなかったことを自己批判しなければならないと思っている。

もっとも、宇都宮陣営が、「市民に開かれた選挙など標榜していない」「情報公開も運営の透明性の確保も、私的な組織には無縁なこと」というのであれば、それはそれでやむを得ない。しかし是非、そのようなお考えを社会にあきらかにすべきだろう。
(2014年1月22日)

宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその32

宇都宮陣営のメルマガ、「宇都宮けんじニュース」が私にも配信されている。その第14号(2014年1月18日号)に、「宇都宮けんじ・一本化で吠える!」と標題した下記の記事が掲載されている。1月16日(木)の拡大選対会議での発言とのこと。

「普段は温厚な宇都宮さんが、この日は半ば涙を浮かべながら、『(細川氏が)橋下徹みたいに変節したら、どうするのか』『知事選は人気投票ではいけない』『(細川氏に会って)どの程度の人間なのか確かめることもせず、降りろとはふてえ考えだ』『とにかく政策論争を!』『これは、勝てる選挙だ』と、あらためて決意と覚悟を語りました」

宇都宮君が吠えたのか泣いたのか、この記事ではよく分からないが、とにもかくにも、陣営にとっての動揺がよく伝わって来る。確認しておくべきは、宇都宮君自身も「一本化とは、宇都宮降ろしと同義」と心得ていること。つまりは、細川を降ろしての一本化はあり得ないという認識なのだ。だから、「降りろとはふてえ考えだ」という品性を欠いた表現になっている。「ふてえ考えだ」と言われたのは、「脱原発都知事を実現させる会」(共同代表 鎌田慧・河合弘之氏)の面々。後の報道で、瀬戸内寂聴・広瀬隆・村上達也・村田光平・柳田眞・湯川れい子・吉岡達也・宮台真司・木村結・三上元・高木久仁子・高野孟・川村湊などの諸氏が含まれていることを知った。宇都宮君のような、「3・11後の脱原発運動参加者」ではない。これまでの人生を脱原発運動に懸けて来た筋金入りの方々。これまで、脱原発運動の中核を担ってきた人々と言っても間違っていない。やはり、インパクトは大きい。

これも「宇都宮けんじニュース」第12号(1月16日)によれば、「実現させる会」は両陣営に宛て、「脱原発を明確に掲げる候補が二人いるということで脱原発票が分散し、結果として原発推進候補を利するのではないか」「お二人が虚心坦懐にお話合いになり、脱原発候補を統一してくださるよう申し入れます」と文書を発したとのこと。「会」の顔ぶれに品性を欠く人物はまったく見えない。長期にわたって真摯に運動を支えて来た人ばかり。申し入れの内容にも格別に礼を失しているところはない。これに対して、「ふてえ考えだ」との言葉の乱暴さは際立っている。宇都宮陣営の苛立ちを表しているのだろうが、こんな言葉を投げつけられて、「実現させる会」の諸氏はさぞ驚いたことだろう。

有権者は多様だ。命と健康を守るためになによりも脱原発が最重要課題と考える人は少なくない。脱原発だけが重要課題とは考えないが、現在の政治や社会の矛盾を象徴するものとしてこの一点を争点化すべきと考える人もいる。また、極右勢力としての安倍自民に政治的打撃を与える格好のテーマとして、「良心的保守層」を巻き込んだ幅広い勢力結集のために「脱原発都知事を実現」させたいという人もいるだろう。宇都宮君は、そのような人々の「脱原発候補統一」の申し入れを拒否しただけでなく、「ふてえ考えだ」と悪罵を投げつけた。その意味は小さくない。

「一本化」が不調となれば、脱原発を願う有権者は残った2候補のどちらかの選択を迫られる。「ふてえ考えだ」と悪罵を投げつけられた人々は、既に宇都宮君に背を向けて細川支持を明確にした。情勢のしからしむるところ。

前回惨敗の惨めな候補でなければ、脛に傷持つダーテイーな候補でなければ、事態は大きく違ったものとなっていただろう。革新共闘選挙の候補にふさわしい清新で魅力溢れる候補が力強く脱原発を含む運動をつくっていたら、反原発を看板とする細川の出る幕はなかっただろう。たとえ細川が出たとしても、こんなに右往左往することはなかったはず。革新側の拙速な候補者選びが今日の事態を招いたのだ。

宇都宮君、きみは、当初は「推す人があれば出馬する」と言いながら、その直後、推す人もないままに、他を制して都知事候補者として手を上げて飛び出した。その君のあさはかな行為の責任は大きい。告示まではもう少しの時間がある。やはり、立候補はやめた方がよかろう。
(2014年1月21日)

宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその31

吉田万三さんは、人間的な魅力に溢れた人である。
話し相手を笑顔で包み込み、耳に痛い言葉も心を傷つけないような配慮を感じさせる。構えることなく、誰とでも胸襟を開いて会話のできる、できそうでなかなかできない特技の持ち主。

その万三さんと、昨日は都知事選をめぐってのスピーチによるバトル。とはいえ、ディベートではない。主催者の配慮で、各10分間のスピーチの交換だけ。私の発言は、昨日ブログに掲載したとおり。万三さんは、「澤藤は理想を求める余り人に厳しすぎる。不完全な人が集まって、よりより社会をつくるべく模索しているのだから、もっと寛容になるべきだ。そして、もっと高い次元から、最も優れた候補者である宇都宮当選のために力を尽くしてもらいたい」という趣旨を述べた。私の問題提起に応える内容として噛み合ってはいないが、万三さんがそう言えば、それなりの説得力があるから不思議なもの。さすがに、革新派から足立区長に当選し、都知事候補にもなった人だけのことはある。

ところが、その席で万三さんが配布したメモの下記の記載にちょっと驚いた。万三さんが口頭で言及していたことでもある。
「夏の参院選では、5人区の東京で明確な脱原発の候補が2人当選している。要するに、舛添だけでは(保守派は)勝利を確信できないのだ。このままでは脱原発の票がかなり宇都宮に流れる危険性もあるからこそ、多少のプラス・マイナスがあったとしても保守系脱原発候補が必要だったのではないか」

つまり、「細川護煕は、脱原発派有権者の票がそっくり宇都宮に流れ込むのを阻止するために、宇都宮の足を引っ張る目的で保守派が送り込んだ候補者だ」という論法。「謀略論」の一種だが、これはいただけない。我田引水というしかなく、万三さんのあの柔らかい滑らかな口調で喋られても説得力はない。

万三さんの気持ちが分からないではない。
世間は、脱原発を掲げた細川の出馬宣言に湧いている。前回選挙では宇都宮君を応援した文化人・著名人が、今回は成り行きを見つめて鳴りをひそめている。宇都宮陣営のウェブサイトの「宇都宮けんじへ応援の声!」ページは、今に至るも「只今、更新作業中です」として沈黙を続けている。わけても脱原発政策に重きを置く人々は、公然と「候補者一本化」という「宇都宮下ろし」の声をあげている。一本化の工作が不調となれば、今度は細川支持を打ち出すしかなかろう。宇都宮では勝てっこないが、細川なら勝てる見込みがある。しかも、細川には、小泉・菅・小澤等がついている。「脱原発の都政を築く千載一遇のチャンス」「脱原発に国政を動かすこれ以上ない好機」なのだから。

万三さんは、なんとか、そのような「脱原発派票の宇都宮離れ」を防ぎたいというわけだ。それが、「細川出馬は、保守派による謀略」という立論の動機。やや痛ましいという印象を否めない。

私が、初めて選挙権を手にしたころ、投票先に悩んだ。当時は中選挙区制。社会党は強かった。当選しそうにない共産党候補に投票するか、当選の可能性が高い社会党候補に入れるべきか。周囲の友人も様々だった。共産党を支持する友人は、「議席獲得よりも一票の積み上げが大切だ。どうせ当選できないからと票を社会党に流していたのでは、永遠に共産党の議席獲得はなくなる」という。これは党勢拡大の立論。社会党を支持する友人は、「今、現実的に最も大切なものは、国会の中に築かれている憲法擁護のための3分の1の壁を守ることだ。そのためには、社会党に投票を集中するしかない」と説得する。こちらは議席獲得最優先の立論。

おそらくは、多くの有権者が今同じような悩みを抱えているのだろう。知事の椅子はひとつ。脱原発シングルイシュー派の有権者にとっては、喉から手が出るほどに、そのひとつの椅子が欲しいのだ。「党勢拡大」や「運動の前進」のために選挙をやっているわけではない、と叫びたくなる気持ちであろう。この人たちは、もしかしたら、雪崩を打って細川支持にまわるかも知れない。万三さんとしては、なんとかそれを食い止めたいのだ。

その気持ちは分かるが、しかし、細川が、宇都宮の足を引っ張るために立候補したというのは、説得力に乏しい。むしろ逆効果だろう。そんなことをいえば、他の卓見まで、眉に唾を付けての吟味が必要と思われてしまう。

前回選挙の2012年12月時点では、現在よりも遙かに脱原発の世論が大きかった。宇都宮陣営の脱原発の足を引っ張るための立候補と言われる候補者はなかった。それでなお、宇都宮候補は惨敗した。いま、保守陣営が、舛添を勝たせるために、細川をぶつけねばならないとする理由はない。

「夏の参院選では、5人区の東京で明確な脱原発の候補が2人当選している」というのも一面的である。「夏の参院選では、5人区の東京で明確な非脱原発の候補が3人当選している。しかも、1位・2位がともに非脱原発派だ」と言い換えねばならない。繰り返すが、都知事選の当選者は1人だけ。ひとつの椅子を目指す選挙戦をしているのだから。

5人の当選者のうち、脱原発派は吉良・山本の両名、合計得票は137万。非脱原発派は、丸川・山口・武見の3名、合計得票数は247万票。この数字だけからは、脱原発派に勝算はない。にもかかわらず、いま俄然「脱原発」のスローガンが争点化しているのは、明らかに細川・小泉両名による発言のインパクトである。宇都宮君では脱原発を都知事選の争点とする力量に欠けていることを認めざるを得ない。

今夕、衝撃的なニュースに接することになった。「一本化」の調整工作に携わっていた河合弘之・鎌田慧さんらは、「原発ゼロを最優先政策として掲げる細川氏を支持する」と決めたという。「有志に名を連ねたのは河合、鎌田両氏、作家の瀬戸内寂聴氏、音楽評論家の湯川れい子氏ら31人。近く事務所を構え、インターネットを使って細川氏支援を勝手連として呼びかけるという」と報道されている。一個の雪片の崩落から雪崩は始まる。これは雪崩の始まりだ。

選挙とはそういうものだろう。当選の可能性のある候補に票は集中する。理念を語る者より、当選の可能性を語ることのできる候補者が強いのだ。当然の政治力学が、人の目に触れるようになったまでのこと。

宇都宮君、やっぱり君の先走った出馬宣言自体が大きな間違いだったのだ。残念ではあろうが、立候補はおやめなさい。
(2014年1月20日)

宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその30

本日は、「活憲左派」の集会で10分間だけ「立候補をおやめなさい」の理由を語った。ブログ以外で語る唯一の例外の機会。私に続いて吉田万三さんが、やはり10分間の宇都宮陣営からする「反論権」行使のスピーチをした。

下記が、私のスピーチの原稿。主張の全体象のまとめとなっている。
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※私は「澤藤統一郎の憲法日記」(https://article9.jp/wordpress/)を毎日執筆している。いま、そのブログに「宇都宮健児君、立候補はおやめなさい」シリーズを連載中。
 12月21日に「宣戦布告」して書き始め、今日が30回。まだまだ続く。
 宇都宮君と選対のダメで汚い実態と、公選法違反疑惑を指摘している。
 私の表現手段はブログだけ。唯一の例外が、今日のこの10分間の発言。
 口を揃えての安倍批判は楽だ。宇都宮批判は、相当の覚悟の上でのこと。
 今、私は覚悟して宇都宮批判に踏み切った意味があったと考えている。
 反響は大きい。共感・共鳴の声が寄せられている。
 私自身が、民主主義を自分の問題として深く考えるきっかけとなった。 
 民主運動や組織の、非民主的な体質を見直す問題提起となっている。

※ほかならぬ私が宇都宮君を批判していることの重みを知っていただきたい。
 私は、彼とは同期の弁護士で、修習生以来40年余の付き合い。
 前回選挙では誰よりも熱心に彼を支持した。「素晴らしい候補者」と歯の浮くような、無責任な推薦をしてまわった。家族総出で選挙運動もした。
 しかも、今なお、私の都政改革に対する願望は誰よりも強い。
 その私が、自分の「人を見る目のなさ」に臍を噛んでいる。ダメでダーティな候補者を推薦したことお詫びし、「宇都宮君、立候補はおやめなさい」と言い続けている。
 私の内部批判は約1年間。彼は聞く耳持たず、無反省のママ再出馬しようとしている。

※私が宇都宮君を批判する具体的理由は次のとおり。
(1) 候補者として不適格。都知事候補としての資質・能力に著しく欠ける。
  有権者を惹きつける魅力がない。「惨敗」実績の候補。勝負にならない。
  論争・対話・交渉・調整の政治手腕に無能。これでは知事は務まらない。
(2) 「勝てなくても推すべき候補」ではない。
  人権侵害に対する感度の鈍さ。弱者へ共感し寄り添う姿勢を持たない。
  負けを覚悟で次のために橋頭堡をつくる選挙の候補者としても不適格。
(3) 批判を封殺する反民主主義的体質。「だまし討ち」手口の汚さ。
  前言を翻して恥じない無責任な品性は、革新共闘候補者に不適切。
(4) 法律家にあるまじきコンプライアンス意識の欠如。法への無理解。
   その結果、4点の公選法違反疑惑のリスクを抱えている。
 *上原公子選対本部長他の「労務者」報酬名義での運動員買収疑惑。
 *宇都宮君自身による法律事務所職員への運動員買収疑惑。
 *岩波書店の熊谷選対事務局長(岩波勤務)への運動員買収疑惑。
 *選挙運動員慰労会での供応(飲ませ喰わせ)疑惑。
   そのリスクは、候補者だけではなく、推薦した政党や団体・個人にも及ぶ。
   公選法には言論活動に対する「弾圧法規」部分と、経済力で選挙や選挙運動を歪めてはならないとする「民主的」側面とがある。両者を混同してはならない。
  革新陣営は、公選法の「民主的」側面を活用して、保守の金権・企業ぐるみ選挙を批判してきた。批判する革新の側には、徹底したクリーンな選挙が要求される。
   私が指摘する4点の疑惑は、弾圧とは無縁。徳洲会と同質なもの。

※私が宇都宮君を批判する本質的理由
(1) 人として譲ることの出来ないものは、「一寸の虫にも五分の魂」の矜持。
  この「人間の尊厳」が、憲法上の人権(13条)として究極的な価値なのだ。
  人権侵害の主体が、国家権力であろうと、企業・暴力団・市民運動組織、また「宇都宮ブラック選対」であろうとも、断固として闘わねばならない。
  宇都宮君と選対は、私と私の息子の、人間としての尊厳を傷つけた。
  だから私は徹底して闘う。妥協の余地はない。人権侵害を受けた者は、声を上げなければならない。これを私憤と切り捨ててはならない。
(2) いかなる組織にも幹部批判の自由は絶対に必要。批判のないところに組織の発展はない。民主主義を標榜する組織において批判の言論封殺はもってのほか。
宇都宮選対と宇都宮君は、汚い手口でそれをやった。私は徹底して闘う。

※私が闘う手段は言論のみ。不当な仕打を社会に知ってもらうことが対抗手段。
 どのような理由であろうとも、対抗手段としての言論の封殺は許されない。
 ブログは、言論の自由が重んじられる社会における素晴らしいツールだ。
 相互批判の自由を尊重しなければならない。宇都宮陣営は、3弁護士連名の「澤藤統一郎氏の公選法違反等の主張に対する法的見解」(1月5日付)を公表している。私の主張と読み較べていただきたい。
   http://utsunomiyakenji.com/pdf/201401benngoshi-kennkai.pdf

※私のブログ発言に、裏から聞こえる批判のパターン。
  ★大所高所に立つべきだ。大局を見誤るな。
    ⇒被害者は「大所高所」論に怯んではならない。叫ぶべきである。
    ⇒人権侵害への抗議に耳を傾ける寛容こそ「大所高所」に立つ姿勢。
  ★利敵行為ではないか。「敵」に塩を送るな。
    ⇒「敵」とは人権を侵害する加害者である。
     人権侵害を放置し、被害者の声を封殺する行為が「利敵行為」。
  ★選挙とは「よりマシな候補」を選ぶもの。宇都宮は「よりマシ」だ。
    ⇒被害者にとって、人権侵害者が「よりマシ」ではあり得ない。
    ⇒「よりマシ」論は、「脱原発候補一本化」につながる。
  ★批判は結構だが、今はまずい。選挙が終わってからやるべきだ。
    ⇒無力の被害者が声を上げるのだ。最も効果的な時期を選んで当然。
    ⇒私は前回選挙後問題提起を1年続けて無視され、だまし討たれた。
  ☆どれもこれも、権利侵害された弱者の側に「泣き寝入りせよ」との立論。
   批判・異論を許さぬ「小さな権力と、それに迎合するミニ翼賛体制」という、
   運動の体質が問われている。批判の自由のない組織・集団は衰退する。
  ☆さらに、一人一人の個としての自立の姿勢が問われている。
   小さな権力を支えるミニ翼賛体制に与するのか、拒絶するのか。

※私は、意義のある問題提起をしえたと考えている。

  詳しくは、ブログ「澤藤統一郎の憲法日記」(https://article9.jp/wordpress/)を参照ください。
(2014年1月19日)

宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその29

都知事選告示まであと5日。立候補予定者の行動が賑やかに伝えられている。世間の関心は、有力な脱原発公約候補として登場した細川護煕氏の動向。本日の毎日によれば、同候補陣営は「選挙公約の柱を『即時原発ゼロ』とする方針を固めた」という。これは、宇都宮陣営よりも遙かに旗幟を鮮明にした脱原発の姿勢。宇都宮陣営は、いまだにホームページに「脱原発法をつくろう」とロゴを入れている。周知のとおり、同法案は脱原発実現目標を「遅くとも平成32(2020)年度から平成37(2025)年度までのできる限り早い時期」として、共産党に批判されているもの。この細川氏出馬に、宇都宮陣営の支持者から「脱原発票の分散を防ぐために、脱原発候補者の一本化を」との意見が公然化している。

「脱原発候補一本化」とは宇都宮君に候補者を降りろということ以外にはない。
「安倍とその不愉快な仲間達をこれ以上のさばらせるくらいなら、自民推薦以外の勝てそうな候補がいい」「脱原発・非核化政策実現の大きなチャンスを逃してはならない」などの意見が目につく。結局のところ、「小異を捨てて大同に就くべき」「一本化に応じないのは自公勢力への利敵行為」「大所高所に立って事態を見ろ」という意見が身内から出ているわけだ。

伝えられているところでは、これに対する宇都宮君の対応に、断固たるところがない。「当面、一本化はあり得ない」「今のところ、候補者調整はない」と言っている。「当面」以後であれば、「先のこと」としてなら、宇都宮君の立候補断念は大いにありうるストーリーとも読める。

私は、宇都宮君に「立候補をおやめなさい」と勧告する理由として「4本の柱」を立てた。その中の1本が、「到底選挙に勝てそうにない」こと。「選挙に勝てない」レベルではなく、「勝負にならない」と思っている。前回選挙での「惨敗」の烙印が深く刻まれているからだ。候補者としての論争力を欠き、有権者を惹きつける魅力に乏しい。選挙戦を通じて、革新の世論を盛り上げうる人材ではない。

勝てないながらも闘うべき場合があることは当然だ。しかし、当選を目指しての選挙戦だ。勝てないことが分かりきっている候補を担いでは、元気が出ない。どうせ担ぐなら、もっと元気の出る選挙のできる候補者、そして将来の展望につながる候補者とすべきだったのだ。

一つの椅子を争う首長選である。小選挙区と同じく、本命と対抗の2候補だけに票が集中することが避けられない。宇都宮君は、前回次点で97万票弱。トップの434万票との票差がこれほど開いた都知事選はかつてなかった。しかも、次点であるからには、相当の反猪瀬・反石原票が入っていたはず。それでなおこの惨敗。

現在の状勢をみれば、舛添・細川の両氏が、本命・対抗の2候補であることは明らかだ。舛添氏は、自らの介護の経験を売りにし社会福祉・労働政策をそれなりに具体的に語りうる候補として手強い。そして、細川氏は脱原発を華麗な文明論で語るだろう。結果として、3位以下は霞むことにならざるを得ない。

前回票97万を、宇都宮君の基礎票と仮定しよう。今回は、この基礎票から、かつての「未来」や小沢一郎氏グループの票が抜ける。菅直人氏関係票が抜ける。脱原発シングルイシュー派の多くが脱落する。前回は「共闘」した山本太郎も沈黙し、その支持票も期待できない。社民党の支持の姿勢も迷走している。要するに、圧倒的に引き算しかできない。いったい残ると見込める固い票はどれだけあるだろうか。唯一、足し算の要素は共産党の本気度だ。前回とは様変わりの遊説計画が展開していることは、赤旗の紙面からは読み取れる。前回選挙の出口調査では、共産支持者の60%余しか宇都宮君に投票していない。この比率は上がることになるだろう。

前回都知事選で宇都宮君を支持した多くの文化人・著名人が今回は鳴りをひそめている。むしろ、細川氏支持を表明しさえしている。たとえば、「九条の会」の呼びかけ人は5人。そのうち梅原猛氏は熱烈に細川支持を表明している。「私はもう年ですが魂は選挙カーの上にあります」(毎日・1月17日夕刊)という気合いの入れ方。澤地久枝氏もいち早く細川支持を打ち出した。大江健三郎・奥平康弘の両氏は、前回事実上の宇都宮推薦母体となった40氏アピールに名を連ねていたが、今回は黙して語らない。これが、文化人・著名人の動向の大勢と言えよう。

なお、脱原発派文化人の象徴的な存在として40氏アピールの一人でもあった鎌田慧氏が積極的に「一本化」に動いている。この動きに宇都宮陣営は「対話には応じる」(15日付「回答書」)としたが、細川氏側は「いかなる政党、団体とも提携せず、独自の知恵で脱原発を進めたい。立候補の調整は無理」と返答したという。

ところで、今日私が言いたいことは、「一本化」の中身についてである。「一本化」とは二人の候補者に分散する脱原発票を一人の候補者に集中させること。常識的に、誰もが宇都宮君の立候補断念と認識しているが、別の態様の「一本化」が考えられないわけではない。

まさかとは思うが、たとえばの話し。A・B両候補の「密約」による「一本化」。Bが立候補を断念して、Aに票を集中させる。Aは、当選した暁にBにそれなりの処遇を約束するのだ。たとえば脱原発問題担当の副知事ポストを。副知事では露骨に過ぎるということであれば、それなりの脱原発の課題を管轄する新設ポストでもよい。Bは、選挙に敗れて元も子もなくすよりは、現実的に自分の理念を政策化する立ち場を手に入れるメリットを享受する。

そんなことをネットで呟いている人がいるが、そのようなことがあれば、おそらくはA・Bともに政治的に大きな批判に曝されることになるだろう。それは当然として、実は公選法に違反するおそれが大きい。

公職選挙法223条は、「公職の候補者たること若しくは公職の候補者となろうとすることをやめさせる目的をもって」「候補者若しくは公職の候補者となろうとする者に対し」「公私の職務の供与、その供与の申し込み若しくは約束をすること」を禁止している。違反した場合は4年以下の懲役又は100万円以下の罰金。

候補者調整のためにポストの提供を口にした途端に「申し込み」罪が成立する。約束が成立すれば、両者がアウトだ。要するに、ポストを約束して降りてもらう態様の「一本化」は選択肢としてあり得ないということだ。

宇都宮副知事のポスト約束などということがあれば、前回選挙に続いて公選法違反を重ねることになる。あり得ない話しとは思うが、念のため、ご注意申し上げておきたい。

結局のところ。宇都宮君、きみの採りうる選択肢は、今無条件で潔く身を退くか、選挙に突っ込んで再度の大敗を喫するかだ。今無条件で潔く身を退けば、細川・小泉陣営を利することになる。これは「脱原発」ではあるが「靖国・構造改革」派勢力の応援になる。選挙に突っ込めば、脱原発候補の票を割って、自公陣営に漁夫の利を持たらしかねない。安倍自民をほくそ笑ましめることにもなる。私が期待したものは、相手が誰であろうとまったく動じることなく、味方を励まし次につながる闘いを組み立てる魅力溢れる革新共闘の候補者だった。君の早い段階での立候補表明が、他のふさわしい候補者選びを牽制してしまったことを残念に思う。

宇都宮君、きみには「悪魔の選択」しか残されていない。これはきみ自身が招いた自業自得の事態だ。きみが立候補を断念すれば細川・小泉を利する。立候補を断念しなければ安倍自民を利するのだ。

私は、選挙情勢とは無関係に、主張し続ける。宇都宮君、立候補をおやめなさい。
(2014年1月18日)

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