澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその15

これまでのブログで、私は具体的理由を挙げて、宇都宮君の候補者としての能力の不足と、「人にやさしくない」体質について述べてきた。宇都宮君の人格を誹謗したり中傷することを目的としてではなく、すべては東京都の有権者に、彼を都知事選の候補者として推薦できるかについて、情報を提供するという観点からの指摘である。宇都宮君の能力の不足も、求められる資質も、あくまで「都知事選の革新共闘の候補者として」求められる水準に照らしてのものである。判断のための、貴重な情報の提供だと信じている。

さらに私は、宇都宮君自身と、宇都宮君が責任をもたざるを得ない宇都宮選対の公選法違反疑惑についても指摘した。口火を切ってから2週間となるが、まだ反論に接していない。漏れ聞こえてくるところでは、宇都宮陣営では「澤藤の指摘の内容は大したことではない」「そもそも澤藤が責任をもつべきことなのに違法行為の指摘は怪しからん」ということのよう。このような対応に、私は、やや焦りを感じる。もう少し、正確に事態の深刻さを認識していただきたい。

私は、当不当のレベルではなく、違法のレベルの問題点として、3件の指摘をしている。具体的に公職選挙法の条文を引用して、犯罪に該当する疑惑があると指摘した。これを「大したことはない」というのだろうか。

まさかとは思うが…、もしかしたら…、「猪瀬の違法疑惑の問題は返還したと言っても5000万円の金銭の授受だった。これに対して、澤藤が指摘した上原公子選対本部長が受領した選挙運動報酬額はわずか10万円。大したことではない」などとお考えではなかろうか。

念のためだが、次の新聞記事をご覧いただきたい。産経の2010年9月11日のもの。見出しは「田村陣営の女性秘書 高知区検が略式起訴 参院選選挙違反」本文は以下のとおりである。

「高知区検は10日、電話で選挙運動した高知大の男子学生(23)に報酬約1万3千円を支払ったとして、7月の参院選高知選挙区で落選したTK氏陣営の女性秘書(59)を公選法違反(買収)罪で 高知簡裁に略式起訴した。簡裁は同日、罰金20万円の略式命令を出し、秘書は即日納付した。
 男子学生は同法違反(被買収)容疑で書類送検されたが、区検は違法性が低いとして起訴猶予処分とした。
 区検などによると、TK氏の陣営は選挙運動のアルバイト求人を高知大に出し、男子学生は求人票をみて応募したという。」

舞台は前々回の参院選。運動員買収罪で有罪となったのは、自民党現職で落選した候補者の秘書。買収金として渡した金額は1万3000円である。それで罰金20万円となった。1万3000円をもらったアルバイト大学生は、送検され、起訴猶予処分となった。起訴猶予処分とは、犯罪成立の嫌疑は十分だが、検察官の裁量で不起訴とすることを指す。警察と検察は、自民党陣営にもかくも厳しい。1万3000円授受の容疑があれば、有罪となりうるのだ。

問題は、起訴・有罪よりは、強制捜査の恐さである。上記の記事だけでは、どのように捜査があったかはよく分からないが、逮捕者が出ても驚くに値しない。選挙事務所ないしはTK元議員の政治事務所に家宅捜索がはいっても少しもおかしくはない。事件と明らかに無関係なものの差押えには抗議するとしても、「不当弾圧だ」と拳を上げる訳にはいかないだろう。ルール違反は、TK陣営の側にあるのだから。

同じことは、本件でも起こりうる。運動員買収罪の被疑者は、おそらく選対事務局長。被買収罪の被疑者は上原さんを含む29人。1万3000円をもらったアルバイト大学生は起訴猶予となったが、上原さんらが起訴猶予で済む保証はない。そして、強制捜査もありうる。宇都宮君の事務所への捜索もありうるのだ。

「大したことはない」では済まされないと認識しなければならない。宇都宮君の立候補を推薦するには、そのようなリスクを引き受ける覚悟が必要なことを知らねばならない。

次は、2010年7月30日の朝日の記事(抜粋)をご覧いただきたい。同じ参院選における民主党NK候補(民主)についての選挙違反報道記事。これは、宇都宮君自身の違反(容疑)に最も類似した事例。

「11日投開票された参院選の比例区に民主党公認で立候補し、落選したNK容疑者(65)=東京都 渋谷区=らが、経営する不動産会社「A」(同港区)の社員に選挙運動の報酬を約束したとして、警視庁は28日、NK容疑者を公選法違反(運動員買収)の疑いで逮捕したと発表した。
 捜査二課によると、NK容疑者らは公示日の6月24日ごろ、Aの社員7人に、電話で有権者に 投票を依頼することへの報酬として、通常の給与に相当する額の金を払う約束をした疑いがある。同容疑者は容疑を否認しているという。」

NK氏は、逮捕され、勾留され、起訴され、保釈され、保釈が取り消され…、とたいへんな経験をした挙げ句、一審有罪、二審有罪、最高裁まで争って有罪が確定した。もちろん弁護側にも言い分があった。しかし、懲役2年、執行猶予4年となった。なお、供与を約束された報酬金額は7人合計で70万2664円であった。平均して、ひとり当たり10万円ほど。

おそらく、この記事における犯罪容疑は、解説なしには理解できないのではないだろうか。NK氏は、自分が経営する会社の社員7人を自分の選挙の運動員として動員した。選挙運動をさせるからには、勤務実態を欠くことになって、会社からの給与は支払えない。もし支払えば、給与相当分の支払いが運動員買収金の授受となる。

だから、NK氏は、その7人を欠勤扱いにして、その分の給与の支払いをカットした。これだけなら、7人が敬愛する社長のために無償で選挙運動に参加したという美談がのこるだけで、公選法違反にはならない。

ところが、警察や検察の主張によれば、裏があった。表向きは無給としたが、実は、賃金カット分を補填する約束があったというのだ。「通常の給与に相当する額の金を払う約束をした疑いがある」というのは、そのような意味だ。結局はこの金は支払われなかったが、それでも「約束をした」ことで犯罪が成立する。NK氏は、「選挙運動報酬約束罪」で有罪となった。気の毒なのは7人の社員。約束があったとされた金はもらえず、対向犯としてこちらも犯罪(運動員被買収約束)が成立することになった。が、幸いにして起訴猶予処分となったようだ。命令されていやいややらざるを得ない立ち場であることが斟酌されたと思われる。社長のため、頑張って選挙運動をやるという姿勢で賃金補填の約束をしていたら、起訴されていたかも知れない。

本件では、候補者である宇都宮君がNK氏にあたる。東京市民法律事務所が 不動産会社「A」、法律事務所の事務員さんが「A」の社員に相当する。そして、NK氏事件と同様に、東京市民法律事務所の事務員さんが選対に派遣されて選挙運動を行っていた疑惑があるのだ。少なくとも、その外形的な事実は否定し得ない。これが典型的な候補者自身の運動員買収行為なのだ。

はたして、この疑惑を「大したことがない」と、有権者に説明できるだろうか。この疑惑に目をつぶって、政党が宇都宮君を推薦することができるだろうか。

宇都宮君は、都知事になったら徳洲会事件や猪瀬疑惑を追及するという。その言や良しである。共産党以外の都議会各党派は、猪瀬辞任と同時に百条委員会設置を断念した。はたして宇都宮君は、都民の世論を糾合して百条委員会再設置運動の先頭に立てるだろうか。おそらくは、自分の疑惑の火消しに汲々とするしかないことになるだろう。もしかしたら、自分自身の責任追及についての百条委員会の設置を覚悟しなければならない。

「そもそも澤藤が責任をもつべき立ち場であったにかかわらず、違法行為の指摘は怪しからん」というのは、批判者の気持として分からなくはない。しかし、内部告発ないしは公益通報者という者は、そのような批判を覚悟してものを言っている。「だまし討ち」以後、もう仲間内の議論は通じない。なによりも、問題は宇都宮君の公選法違反疑惑それ自体にあるのだ。けっして、その指摘にあるのではない。
だから、宇都宮君、立候補はおやめなさい。

なお、明日は、新たな「疑惑」について、言及したい。
(2014年1月4日)

宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその14

のんびりと正月休みを楽しんでいるさなかに、複数の記者が我が家を訪ねてきた。私が携わっている「日の丸・君が代」問題や、消費者訴訟、医療過誤事件、あるいは改憲問題についての取材であれば喜んで時間を割きたいところ。が、都知事選についての取材ということで、お断りした。記者の熱意には頭が下がるが、都知事選について、ここしばらくは取材を受けるつもりはない。

私は、必要と考えた情報は、すべてこのブログに公表する。このブログに出ていない情報を個別の取材に応じて明らかにすることはない。少なくとも、今の時点ではその原則を貫く。だから記者さん、お越しいただいても電話をいただいても、このブログの内容以上に、お答えすることはございません。もし、記事を書かれるなら、ブログに記載の内容をできるだけ正確に引用していただくようにお願いします。

私は、原則として、宇都宮君再立候補問題については、このブログだけで発言をするが、唯一の例外が、1月19日午後1時30分からの「活憲左派集会」(文京シビックセンター3階会議室A)での10分間の特別発言。なお、当初は15分の予定だったが、吉田万三さんの発言も並ぶこととなって、私の持ち時間は10分間となった。私も万三さんも、質疑は受けつけないという事前のお約束。

マスコミの取材は受けないと決めた理由について、少し触れておきたい。

随行員としての任務外し事件のあと、私の息子・大河から上原公子選対本部長宛に、事件の経過の確認を求める「求釈明書」が何通か発信されている。その文中に、「一寸の虫にも五分の魂がある」というくだりがある。私はそれを読んで、誰を敵にまわそうとも、息子の側に立つことを決意した。

五分の魂を踏みにじられたとき、泣き寝入りしてはならない。人間の尊厳をかけて、叫び声をあげなければならない。また、傍観していてもならない。ましてや、それが自分の家族であればなおさらのこと。加害者が、国家権力であろうと、安倍自民であろうと、石原・猪瀬都政であろうと、ブラック企業であろうと、またブラック選対であろうとも、である。

私は、本件を「私怨・私憤」に過ぎないという見解や、「大所高所・大局」に立つべきだという、世に溢れる俗論を絶対に承服しない。それは、弱者に泣き寝入りを強いる強者の論理であり、いじめの被害者にすべての責任を転嫁するいじめる側の論理である。加害者と傍観者を、ともに免責し正当化する論理でもあるのだから。

しかし、国家権力や、ブラック企業を相手に声を上げる場合と、宇都宮選対を相手にする場合とでは、闘い方の違いはあろう。被害があったときには、多くの人に訴えかけて、加害者を糾弾する行動に立ち上がる仲間を作ることが闘いかたの基本だ。しかし、宇都宮君と宇都宮選対に対する「宣戦布告」では、単純にそうであってよいのかという問題の微妙さを意識せざるを得ない。私は、「たった1人の闘い」「筆1本(ブログだけを手段とした)だけの闘い」を決意した。この闘いに味方を募って誰をも巻き込むことをしない。闘う相手を拡げない。これを原則として大切にしたい。

だから、慎重に筆を自制したブログでの発信が、闘う手段として適当だと考えている。記者に挑発されて、うっかりと、「誰をも巻き込まない」「闘う相手を拡げない」原則を自ら破ることを恐れている。よほどの事情の変更がない限り、ブログ以外の場で、この件を語ることはない。

私を取材に訪れた記者は、当然に宇都宮君や選対関係者にも取材するだろう。私のブログもよくお読みいただき、是非、正確なよい記事を書いていただきたいと思う。

ところで、宇都宮君の方は、積極的に取材に応じているようだ。ネットで検索をしていたら、IWJの岩上安身さんが宇都宮君の立候補に関連したインタビューをしていることを知った。岩上安身さんは、そこで私のブログでの選対の選挙違反指摘を意識した質問をしている。要約として、次のようなやり取りがあったということだ。IWJのオフィシャルなテープ起こしではないようだが、複数のブログに掲載されているので、おそらくはほぼ正確なものと思う。

「問:熊谷さんの件について。有給休暇が取れるはずがないのに、実際取っていたのか?
答:本人に聞かないと分からないが、彼は仕事も一部やりながら、昼間は選挙運動、選挙始まるまでは、政治運動をやっていた。少なくても言われている様な事はない。彼は、仕事もちゃんとこなしながら、有給も使いながらやっていた。
「問:上原さんの件について。無給(ボランティア)でやるのが選挙であるが、上原さんにお金が支払われていた事が確認できる。これが公選法違反にあたるのではないか。
答:この点は実際に選対本部長をやられていて、その間の交通費などの実費の補填はしていたと聞いている。金額にして10万円。労務費になっていたが、収支報告書の訂正をする。
問:労務費は適正では無かったと。それは修正すると。
答:公選法違反については、公選法専門の弁護士団の公式見解をまとめて、来週の6日には発表出来る。そういう対応をしている。」

このインタビュー記事を見る限り、宇都宮君は私の指摘を無視せずに、何らかの対応が必要だという認識には至っているようだ。それは良しとして、次のことを指摘しておきたい。

「選挙運動収支報告書の訂正」をせざるを得なくなっている事態の深刻さの認識が決定的に不足しているのではないか。候補者が、自分の選対の公的な収支報告書の記載の不備を認めて訂正せざるを得ないと言っているのだ。そのみっともなさを自覚しなければならない。「訂正すればいいんだろう」「自分がやったことではない」という彼の姿勢が、遵法精神と責任感の欠如をよく表している。

実は、この問題は本来訂正になじむものではない。住所の記載の誤記訂正や、数字の書き間違いの訂正などとは自ずから異なる。上原公子選対本部長も服部泉出納責任者も、「選挙報酬として」と明記した自署押印のある領収証を作成して、各10万円を受けとっている。選挙収支報告書に、「選挙報酬として」と書けば、あまりに露骨な選挙違反(運動員買収)に当たるので、「労務者報酬」と記載したのだ。このカムフラージュは悪質と言わねばならない。指摘されて、書き直せば問題ないという感覚が、さらなる批判の対象となるだろう。

この選挙運動費用収支報告書には、平成24年12月28日付けで、「この報告書は公職選挙法の規定に従って作成したものであって、真実に相違ありません」という「出納責任者服部泉」の署名押印がある。訂正となれば、その責任が問われることになる。

書き直すとして、いったいどう書き直そうというのだろうか。支出区分を「選挙運動」として報酬を受けている者は29人にのぼる。そのすべてを書き直そうというのか。一部だけなのか。添付の領収証は間違ったものとして廃棄しようというのか。本来添付が必要な新規の領収証はどうしようというのか。

さらに、本当に実費分の支払いならよいのかという問題がある。宇都宮選挙には多くのボランティアが参加した。そのボランティアは手弁当・交通費その他の実費も自分持ちだった。誰もが、それを当たり前と思っていた。ところが、選挙運動に参加者の中の特定グループの人には、交通費その他の実費の支給がなされていたということなのだ。それで良いのだろうか。選対本部長の廉潔性が問われている。

宇都宮君自身の運動員買収問題や、熊谷事務局長の運動員被買収の問題について、「人にやさしい東京をつくる会」内部で具体的な指摘がなされたのは、選挙後2か月余経った2013年2月28日のこと。それから、10か月を経た時点で、明快な説明をすることができていない。「本人(熊谷事務局長)に聞かないと分からない」「公選法違反については、専門弁護士団の公式見解をまとめて、1月6日には発表出来る」ということなのだ。

私自身が弁護士で選対メンバーの一員として、選対のコンプライアンスに責任がなかったとは言わない。繰り返し申しあげているとおり、自らの不明や無能を恥じいるばかりだ。だが、どのように金が入り、どのように金が使われたか、その収支の管理にはまったくタッチしていない。具体的な報告に接することも皆無だった。選挙運動収支報告書の作成への弁護士の関与はまったくなかった。

改めて関係書類に目を通してみた。私が、上原公子選対本部長の選挙運動報酬受領を知ったのは、2013年4月11日のことである。私は、石原宏高の選挙違反を問題として、その選挙運動収支報告書を閲覧に都選管に足を運び、ついでに宇都宮陣営の報告書も閲覧して驚いた。これが発端。同日開示請求をして4月26日に写しを入手した。関係領収証については、別途6月3日に情報公開請求をして6月17日に開示決定を得、20日にその写しを入手している。

選対本部長が本来もらってはならない選挙報酬を労務者として受領していることは、「人にやさしい東京をつくる会」の代表である中山君には、一再ならず電話で伝えた。そして、中山君にも書類の閲覧を勧めた。もちろん、このことは中山君も知らなかった。同君が実際に収支報告書を閲覧したかどうかは知らない。

具体的に知らなかったとはいえ、私も責任を感じないわけにはいかない。宇都宮君も、候補者として責任を感じなければならない。私は今回選挙に関わらない。宇都宮君、君も立候補はおやめなさい。
(2014年1月3日)

宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその13

正月。天気晴朗にして風が心地よい。海岸で凧揚げに興じた。中国・浙江省の製で大型のトビの形。青い空を背景に、翼を広げ風を切ってのびのびと宙を舞う、その姿がすがすがしい。今年、かくありたいものと思う。

さて、正月らしく、原則に戻ってものを考えてみたい。

宇都宮選対の一連の事件は、徹頭徹尾民主主義の問題なのだ。
事件の発端が問答無用の私の息子の任務外し。ここから始まった事件の結末が問答無用の私の解任劇。宇都宮君がどのようにとり繕おうとも、この事実は動かしがたい。いずれも問答無用で、うるさい組織への批判者を切って捨てたものだ。これが、宇都宮君とその選対の手口。これは、民主主義の許さざるところ。民主主義を大切に思う人なら、到底この事態を看過しえない。宇都宮君を革新陣営の共闘候補としてふさわしいとは、よもや考えまい。

民主主義とは、成員の話し合いに基づいて組織や集団の意思決定をする手続きだ。面倒ではあっても、話し合いが尽くされて後に初めて集団の方針が定まる。だから、民主主義社会においては、話し合いのための発言の自由が全成員に保障されなければならない。とりわけ、権限や権威を持つ者への批判の発言が保障されなければならない。うるさい批判者を組織から排除するなどは、民主主義を破壊する手口と指弾されなければならない。宇都宮君と宇都宮選対がやったことは、まさに民主主義破壊の行為なのだ。

民主主義成立の基礎となる話し合いを成立させることは、成員に自由な発言の権利を人権として認めることでもある。だから、民主主義社会においては、「言論の自由」が常に人権のカタログの筆頭に上げられる。宇都宮君と宇都宮選対は、この「言論の自由」を封殺したのだ。このような人物が、都知事選の候補者としてふさわしくないことは、自明ではないか。

宇都宮選対は、市民に開かれた市民選対を自称していた。閉鎖された部分社会ではなく、市民社会の共通ルールが妥当しなければならない。ここでは、民主主義も人権も、花開かなければならない。いわば、宇都宮君が当選した暁に実現すべき社会のモデルを、実験的に社会に示しているのだ。その選対の現実が、民主主義の破壊だった。宇都宮陣営の選挙公約である「四つの柱」は実に立派なものだ。しかし、宇都宮君と宇都宮選対は、この公約とは無縁な実態をさらけ出した。到底、再度の都知事選候補者たりえない。

宇都宮選対は、広くすべての市民に開かれたボランティア組織として出発したはず。「四つの柱」に賛同する市民が、その自発性に基づいて参加している。すべての参加者に、民主主義社会の原則のとおりに、対等平等な立ち場が保障されなければならない。ここには、支配・被支配、命令・服従、上意下達の関係はあり得ない。つまりは、権力という怪物が出て来る幕は本来的にないはずのだ。ところが、自分を権力者と錯覚した選対本部長や選対事務局長が、本来はあり得ない権力を振りかざした。ボランティア活動者に任務からの排除を「命令」したのだ。宇都宮君やその取り巻きはこれを是認した。宇都宮君も宇都宮選対も、民主主義の原則を弁えた行動をとることができなかった。市民選挙の主宰者としてふさわしくない。そのような人物を都知事選の候補者として認めることはできない。

宇都宮選対の選対本部長と事務局長とは、対等な一選挙運動参加者として振る舞わずに、「小さな権力者」として振る舞った。これがそもそもの間違いなのだ。わたしは、民主々義と権力の問題を考え続けてきた。民主々義は、所与の権力をコントロールする技術として語られることがあるが、けっしてそれにとどまらない。民主々義の手続原理は権力の存在を前提とせず、複数人間が共通の行動を決定するに際しての普遍的な原理として尊重されなければならない。そして、権力を形成する際には民主々義が最も有効に働かなければならない。平等な成員からの明示的な権力形成についての合意と、特定の者への権力の負託が必要なのだ。それなくして、権力の形成はあり得ない。

自律的な発意によって市民選対に参加した者が、選対本部長や事務局長に、明示的に権力を負託したなどということはありえない。役割の分担はあっても、あくまで提案と納得の関係でしかなく、問答無用の命令の権限などあるはずがない。選対本部長と事務局長の「権力」「命令権限」は、愚かな錯覚に過ぎない。

錯覚であろうとも、無法な実力に過ぎないものであろうとも、振りかざされた「小さな権力」に対しては、格別の批判の言論の権利が保障されなければならない。成員の「権力」に対する批判は、成員相互間の意見交換の自由とは別の次元の重要性を持ったものとして、意識的にその権利保障がなされなければならない。宇都宮君と宇都宮選対には、この理がわからない。「小さな権力」の横暴を許して、これに対する批判の言論を封殺したのだ。

「小さな権力」に対する批判が意識的に必要だという理由は二つある。一つは、批判を受けない権力は往々にして間違う。批判を受けない権力は間違いを是正できない。組織が、可及的に正しい方針を決定するためには「権力」に対する批判が不可欠なのだ。

もう一つは、成員の権力者批判は事実上困難だからだ。権力を持つ者が、ドスのきいた声で「おまえには批判の自由があるぞ。さあ、言ってみろ」と言われても、批判の発言ができるはずはない。権力を持つ者は、意識的に成員の批判に寛容でなくてはならない。これが、民主々義の大原則。

にもかかわらず、批判者を問答無用で切って捨てるこの宇都宮君や選対のやり方は、民主主義の原則を蹂躙することこの上ない。正確には、むちゃくちゃと言うほかはない。彼がしたことは、取り返しのつかない、言論封殺という、民主主義圧殺行為なのだ。

だから、もしあなたが「民主主義は大切だ」「民主主義は擁護に値する手続き原則だ」と思われるのなら、宇都宮君を支持してはならない。反対に、もしあなたが「民主主義のようなまだるっこい手続きは犬に食われてしまえ」「権力を批判する言論の自由なんぞを認めてしまっては、決められる政治が成り立たない」と言う立場であれば、話は別だ。宇都宮君を支持するがよかろう。

私たちは、保守陣営の言論封殺には血相を変えて批判をする。しかし、身内の言論封殺には甘くはないか。身近な集団における「小さな権力」の批判には臆病ではないだろうか。とりわけ、美辞麗句で持ち上げられた、「民主陣営」内の候補者について、批判をはばかる風潮がないだろうか。このダブルスタンダードは、結局のところ、より大きな権力に対する批判の矛先を鈍らせてしまう。

あなたも試されている。宇都宮君を推すことは、民主主義者の本来よくするところではない。日本国憲法を擁護する立ち場の人が、宇都宮君を推薦することはできない。宇都宮君は、よくよく反省の上、立候補をおやめになるがよかろう。
(2014年1月2日)

宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその12

世の習いにしたがって、新年のご挨拶を申し上げます。
 明けましておめでとうございます。
 今年もどうぞよろしくお願いします。

とはいうものの、さして目出度い正月ではない。
特定秘密保護法、靖国神社参拝などで、大きな批判を受けて支持率を下げながらも、安倍自民の暴走は止まりそうにない。2月9日都知事選は、これに一矢報いるチャンスであるが、まだ宇都宮君は立候補断念に至ってはいないようだ。

本日の「しんぶん赤旗」7面に、大きく宇都宮君の紹介記事が掲載されている。その見出しを拾えば、「安倍政権の暴走ストップ」「暮らし第一清潔な都政に」「希望を持てる東京へ」そして、小さく「猪瀬疑惑の解明」となっている。赤旗自身の解説記事欄には、知事選の意義を「国の悪政の防波堤に」「福祉優先に転換を」とされている。

まことにそのとおりだ。諸手を挙げて大賛成。ぜひ、そのような選挙を闘い抜いて、そのスローガンが結実する都政の実現を心から願う。「安倍政権の暴走ストップ」を「石原後継の暴走ストップ」と書き換えさえすれば、前回選挙の私の思いそのままである。家族総出で宇都宮君を応援した。その結果が、猪瀬圧勝と宇都宮惨敗であった。それだけでなく、宇都宮君自身の「人にやさしくない」本性と、コンプライアンスの欠如を知った。

「安倍政権の暴走ストップ」は、私の心から願うところ。しかし、宇都宮君にはその力がない。単に選挙に勝つ見込みがないと言っているのではない。宇都宮君を候補者とした選挙では、その選挙を「安倍政権の暴走ストップ」の大きな運動とすることも、大きな運動のきっかけとすることもできない。

「暮らし第一清潔な都政に」も、誰もが願うこと。しかし、宇都宮君には、「清潔」を語る資格がない。君の道義性を欠いた汚い手口や、約束を反故にして平気な気質、そしてコンプライアンス欠如の姿勢には、目に余るものがある。むしろ、彼には大きなリスクがある。政党や市民団体が彼を推すことには、その大きなリスクを引き受けることの覚悟が必要だ。

再三申し上げているとおり、コンプライアンスの欠如には、宇都宮君だけでなく、選対に結集した各弁護士の責任も大きい。もちろん、私が責任を免れることもできない。自分の不明を恥じてお詫びする。そのうえで、私ができることは、こうして事実を明らかにして革新陣営の今後の選挙に警鐘を鳴らすこと、そして、私も含めて、前回選挙に深く関わったものは今回の選挙に関わるべきではないことを進言することだと思っている。

赤旗の記事の中には、党としての宇都宮君への支持表明の記事はない。慎重に避けている印象だ。前回宇都宮君支持を表明した政治勢力のうち、宇都宮君の支持を表明したものはない。よくお考えいただきたい。本当に、推すに値する候補者なのか。推して大丈夫な候補者なのかを。

問答無用で人を切るブラック選対である。問答無用でメンバーを騙し討ちにする「人にやさしい東京をつくる会」である。切られた痛みを訴える運動員の権利救済(名誉回復)を放置し、1年後に放り出した宇都宮君である。かれに、ブラック企業対策などできようか。弱者に優しい都政を期待できようか。宇都宮君と一緒に、ブラック企業批判など笑止の沙汰ではないか。

宇都宮陣営の選挙違反疑惑を自ら解明し摘発することのできない宇都宮君である。自分自身の選挙違反疑惑も抱えている。このような候補者と一緒に、「清潔な都政」を目指すというのは自己矛盾でしかない。「猪瀬疑惑」追及の以前に、「宇都宮疑惑」の追及の声があがるはず。宇都宮君には、徹底した猪瀬追及はできない。

本日の「毎日」社説が読み応えある。「民主主義という木 枝葉を豊かに茂らそう」というもの。その中の一節を引用する。

「民主主義とは、納得と合意を求める手続きだ。いつでも、誰でも、自由に意見を言える国。少数意見が、権柄ずくの政治に押しつぶされない国。それを大事にするのが、民主主義のまっとうさ、である。」

「『統治する側』が自分たちの『正義』に同調する人を味方とし、政府の政策に同意できない人を、反対派のレッテルを貼って排除するようなら、そんな国は一見『強い国』に見えて、実はもろくて弱い、やせ細った国だ。」

ここでは「国」が語られているが、あらゆる組織、あらゆる集団にあてはまる。私は、この社説の「統治する側」を「宇都宮君とその選対」に置き換えて読み込んで、我が意を得たりと、新春の笑みをこぼしている。

2014年の年頭。新しい時代を切り拓きたいと思う。なによりも、個の確立が必要だ。特定秘密保護法反対運動の中で確認したはずだ。束ねられた国民が国の主人公ではない。一人ひとりの個人こそが、民主主義政治過程の主人公だ。「政策に同意できない人を、反対派のレッテルを貼って排除するようなら」、それは民主々義の風上にも置けない。

宇都宮君、君は敢えてそれをやってのけた。しかも、騙し討ちの手口で、だ。だから君は、革新統一の候補者としてふさわしくない。

だから、ご忠告申し上げる。宇都宮君、都知事選への立候補はおやめなさい。
(2014年1月1日)

宇都宮健児君、立候補はおやめなさい?その11

大晦日である。4月1日に開設した当ブログ「憲法日記」は、1日の休載もなく年を越すこととなった。引越前の日民協ホームページ間借り時代の3か月間と併せて、この1年、それなりの水準の、「読んでいただくに値するもの」を書き続けてきたつもりだ。ひとえに、昨年総選挙の「自民圧勝」に危機感を覚えての、私なりに精いっぱいの改憲阻止の意思表示であり、運動への参加である。

「宇都宮健児君、立候補はおやめなさい」シリーズは、そのうちのわずか11回に過ぎない。とはいえ、私の渾身の覚悟の表現である。私は、このシリーズでこれまで「憲法日記」に綴ってきた問題意識と無縁の些事を発言しているのではない。宇都宮君や選対メンバーだけに呼び掛けている訳でもない。憲法の理念を実現するための実践はどうあるべきかを考え訴えている。そして、宇都宮君が一日も早く立候補を断念して、もっと適格な革新統一の候補選定が進行することを願ってやまない。

今年を締めくくる今日、宇都宮君に立候補断念を求める理由と、私が宇都宮君に立候補断念を呼び掛ける意味についてこれまで述べてきたことを整理しておきたい。新たな事実の摘示や本格的な意見の叙述は新年にまわすことにする。当然のことながら、「宇都宮健児君、立候補はおやめなさい」シリーズは、同君の立候補断念の確認まで、年を越しても続くことになる。

彼が、今回の都知事選に、革新統一(あるいは革新共闘)候補者としてふさわしくない理由を4点にまとめて確認しておく。

(1)宇都宮君は都知事選候補者としての資質・能力に著しく欠け、まったく勝ち目のない候補者である。
(2)宇都宮君は、弱者の立場に寄り添おうという誠実さに欠けている。だから、「勝てないとしても推すべき候補」との評価もなしえない。
(3)彼は、薄汚い「騙し討ち」の姑息な手口を辞さない。清廉潔白、正々堂々でなくてはならない革新統一候補者として、ふさわしくない。
(4)前回選挙において、彼と彼の取り巻きのした行為には公職選挙法違反の違法(犯罪行為)の疑惑があって推薦者にも責任が及ぶことになる。

(1) 前回の96万余票の宇都宮君の得票を「善戦」と評価する向きがあるが、正確に「大敗」「惨敗」と言わねばならない。共闘候補としての相乗効果をまったく生かせず、支持政党の基礎票の合計数さえ得票できなかった原因には、候補者の選択の誤りが大きかった。彼には、有権者を惹きつける魅力がない。論争力もない。しかも、前回惨敗のイメージが余りに強い。勝てる見込みがないというレベルではなく、およそ最初から勝負にならないことが分かりきった候補者なのだ。どんな立派な政策を旗印にしたところで、陣営の勢いも元気も出るはずがない。
 今、本気で彼を素晴らしい候補者だとは言う者はさすがに見あたらない。しかし、「彼しか立候補者がいないのだからしょうがない」「立つことを決めたら推すしかないだろう」という雰囲気。そんな候補者でよいのか。しかも、彼の立候補の不自然な唐突さは、他の革新陣営からの立候補者選任の動きに先手を打って、牽制する形で行われている。到底、宇都宮君が革新統一の候補者として適格であるはずがない。

(2) 宇都宮君は、弱者の立場に寄り添おうという誠実さに欠けている。そもそも彼を人権派弁護士と呼ぶべきではない。だから、「勝てないとしても推すべき候補」との評価もなしえない。
弱者の側から権利侵害の訴えがあったときには、まず「被害者」の側に寄り添って、その言い分に十分に耳を傾けなければならない。それが人権派たる者の基本姿勢。そのうえで、「加害者」の側の言い分を批判的に検討して、解決策を探らなければならない。前回選挙の最終盤で生じた、二人のボランティア運動員に対する「随行員任務外し」の訴えには、真摯に耳を傾けるべきが当然であった。しかし、宇都宮君は、その訴えを真摯に聞こうとはしなかった。「せめて企業に不祥事があった際に設けられる第三者委員会なみの、公正な三面構造を作って自分たちの訴えを聞いて欲しい」という当事者の要求すら、彼は斥けた。そして、公衆の面前で「このまま放置しません。何とかします」と約束しながら、結局問題を1年間放置して何の解決もせずに放り出した。
彼は、「二人を切ったのは選対がやったことで、自分は知らない」という姿勢のようだが、自分の選対だという自覚に欠ける。また、事後の権利救済(名誉回復)の訴えには解決を約束し、責任をもつ立ち場にあった。彼も、「秘書が」「妻が」「事務局長が」と言い逃れする人物と同列なのだろうか。

(3) 12月19日の夕方に20日午後9時からの会議を設定して、議題は伏せておいて、口裏を合わせた運営会議メンバーによって、事実上の澤藤解任決議の「騙し討ち」をしたことは、既に詳細にお知らせした。これに対する各自の評価において倫理性が問われている。こんな道義に欠けた候補者を推薦できるのだろうか。
彼がやってのけた薄汚い「騙し討ち」の姑息な手口は、清廉潔白、正々堂々でなくてはならない革新統一候補者として、まったくふさわしくない。道義性に問題のある候補者の推薦は、推薦する政党・政治勢力・市民団体、各個人の責任を生じる。推薦者自身の道義性が問われることになる。

(4) 前回選挙において、彼と彼の取り巻きのした行為には下記の公職選挙法違反の違法(犯罪行為)の疑惑がある。仮に彼が当選した場合には、今度こそ百条委員会が成立して、その追及の場で脂汗をかかなければならない危険な立ち場にある。このような疑惑を抱えた候補者を、天下の公党や、まっとうな労組、民主団体が責任をもって推薦できるだろうか。
その1は、宇都宮君自身の「運動員買収」疑惑。具体的内容は、自分が経営する法律事務所の事務職員を選対に派遣して給与を支給しながら選挙運動をさせた行為の違法の疑惑。
その2は、総括責任者(おそらくは選対事務局長)の選対本部長ら選挙運動員に対する「運動員買収」と、選対本部長ら選挙運動員の「被買収」疑惑。これは、外形的には選挙運動収支報告書と添付の領収書で明らかとなっている。
その3は、選対事務局長が勤務先からの給与を受領しながら、選挙運動を行っていた運動員「被買収」疑惑。
今回宇都宮候補を推薦する団体・個人にとっては、候補者や選対の違法行為の疑惑の存在は、決定的な推薦障害事由となるはず。道義的に問題というだけでなく、このような違法の疑惑を具体的に指摘されてなお推薦すれば、推薦者自身の有権者への責任が生じることになる。そのようなリスクを引き受けてでも宇都宮君を推薦する必要があるとは到底考えがたい。
宇都宮君は、その2、その3の疑惑については、「自分は知らない」、「事務局長が…」「選対本部長が…」というのだろうか。それも、みっともない話しだが、その1の疑惑については他に転嫁しての言い逃れはできない。

ところで、私の覚悟のブログに対して、理解を示してくれる人が多数いることはまことに心強い。しかし、予想されたとおりに批判の意見も当然にある。私は、その批判の意見を一蹴しようとは思わない。真剣に議論するに値する問題点を含んでいると思う。

まず、批判のパターンとして「大所・高所」論がある。「随行員の任務外しなど、大したことではない。もっと大所高所に立って、革新統一の選挙の成功に尽力すべきだ」というもの。

「大所・高所」論とは、弱者の権利救済をネグレクトし、泣き寝入りを強いることを合理化する論理だと私は思う。将の論理であって、兵の論理ではない。体制の側の論理であって、弱者の側の論理ではない。「大所高所」論には、個別の権利侵害に対する怒りで対抗しなければならないと思う。

よく似たものに、「利敵行為論」がある。「そんな内輪の争いをしていると、保守派に漁夫の利を得しめることになる」というもの。
不思議なことに、こんなことを口にする人々は、権利侵害をした「加害者側」にはものを言わない。必ず、弱い立場の「被害者」側に向かって、泣き寝入りを強いるのだ。これにも、反論しなければならないと思う。なによりも、「争い」という捉え方が間違っている。問題は、「争いがあること」ではない。「権利侵害があったのかどうか」なのだ。

「宇都宮君が立候補決意までの批判ならよい。しかし、立候補を決めたからには、もう批判をよして、彼を推すべきだ」という立論もあるようだ。これは、開戦以前のインターナショナリズムが、開戦とともにナショナリズムに転向した、あの敗北の思想だ。非常事態だからという「大政翼賛思想」でもある。また、自民党改憲草案にある「緊急事態には人権制約もやむを得ない」という、あの挙国一致の論理だ。

とにもかくにも「共闘の形を大切にしよう」という立論もあるようだ。弱者の権利侵害の訴えに耳を傾けようとしない候補者を推しての「共闘」に、何の価値があるというのだろうか。内実を伴わない形だけの共闘は、将来に繋がるものはない。

さらに、「私怨論」というべき批判がある。私が、自分の息子のことだから、怒っているのだという指摘だが、これが「批判」になり得ているのだろうか。不当な権利侵害があれば、被害者側に「私怨」「私憤」が生じるのは当然だ。「私怨」論は、傍観者の自己正当化の理屈でしかないだろう。「大所高所」論に対応するには、「私怨」「私憤」重視論である。私は、人権侵害を批判するには、被害者の「私怨」「私憤」に共感する感性が必要だと思う。これについては、自分でも考えを整理しつつ、おいおい記事にしてみたい。

これまでも繰り返したとおり、私の関心は「個の確立」と「個の確立を阻むもの」との対立構造とその克服にある。個の確立の敵は、国家権力だけではない。多重の階層をなしている集団、あるいはその多数派も個を圧迫する。その各階層の各集団に成立する「小さな権力」への抵抗なくしては、個の確立はない。

詳細は、越年してからのものとしたい。このブログの「おやめなさいシリーズ」は、まだまだ続く。だから、宇都宮君、都知事選への立候補はおやめなさい。
(2013/12/31)

宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその10

宇都宮君と「人にやさしい東京をつくる会」のだまし討ちでみごとに討ち取られ、リベンジの「宣戦布告」をしてから10日が経った。「宇都宮健児君、立候補はおやめなさい」のシリーズも、今日が「その10」である。

私は、10日前に、「自ら反みて直くんば、千万人と雖も吾往かん」(孟子)という、やや高揚した気分でルビコンを渡った。これまで付き合ってきた仲間からの孤立無援も、あるいは袋叩きも覚悟したうえでのこと。しかし、10日経って、「ルビコン」の対岸の景色もさして変わらぬことを知って、少し大袈裟だったかと苦笑している。

私がこのような形で、ルビコンを渡る決断をしたについては、河添誠さん(首都圏青年ユニオン)の発言に負うところが大きい。

彼は、12月20日の、だまし討ち決議をした会議の席(「人にやさしい東京をつくる会・運営会議」)で、私にこう言っている。
「澤藤さん、あなたはいいよ。しかし、息子さんのことを本当に考えたことがあるのか。これから先、運動の世界で生きていこうと思ったら、そんなこと(会と宇都宮君の責任の徹底追及)をやってどうなると思う。よく考えた方が良い」

「それは恫喝か」「いや忠告です」「君がそのように言えば、君の人格が、君の言葉を恫喝にしてしまう。私には恫喝としか聞こえない」。これが最後の会話。私は、このときに、ルビコンを渡らねばならないと決意した。

河添誠さんの類似の発言は以前にもあった。総合して、彼の発言内容を、私はこう忖度した。
「ここに出席している運営会議のメンバーは、みんなそれぞれの革新的な政党や政治勢力あるいは民主運動、さらには民主的なメディアまでを背負っているのだ。その大きな革新・リベラル勢力の結集体として、『やさしい会』があり、宇都宮選対がある。この会や選対に刃向かった場合には、革新・リベラル勢力全体を敵に回すことになる。そうすれば、あなたもあなたの息子も、この世界では大手を振っての活動できなくなる。あなたは老い先短いから、もう活動ができなくなってもよかろうが、将来ある身のあなたの息子さんについてはそれでよいとは言えないはずだ。息子のためを思って、会に刃向かうような愚かなことをしない方が良い。それでも、やるというなら、こちらも総力をあげて対抗して、思い知らせてやることになる」

発言者は河添誠さんただひとり。しかし、その場で彼をたしなめる者はなかった。私が感得したのは、議長を務めた宇都宮君を初めとするその他の出席者全員の暗黙の了解。そうか、そんな「会」なら、そんな宇都宮選対なら、私も覚悟を固めて徹底してやらなければならない。腰の引けていた私だったが、ようやくこれで決意ができた。はやり言葉で言えば、このときにようやく「倍返し」を決意した。

宇都宮君は、12月28日の「出馬意向表明記者会見」で、「今度はリベンジだ。倍返しで200万票を目指す」と言ったと聞く。しかし、倍返しの使い方を完全に間違えている。ドラマ「半沢直樹」が視聴率を上げ「社会現象」にまでなったのは、企業社会において不当な圧力に忍従を強いられているサラリーマン階層の共感を得たからだ。「倍返し」とは、サラリーマンだけでなく、この社会で不合理に鬱屈している弱者が夢みる、空想の抵抗の構図。こうあって欲しいというその願望の結実なのだ。だから、「倍返し」「リベンジ」を君が口にするとしらける。私こそ、君に、いや君が象徴した「運動の世界の不合理」に、「倍返しでリベンジ」をしなければならない。

従業員の人間としての矜持を圧殺するのがブラック企業だ。その伝で言えば、ブラック官庁、ブラック病院、ブラック学校、ブラック教室…、至るところにブラック集団がある。宇都宮選対はブラック選対であり、さしずめ悪口雑言を得意とする河添誠さんはその労務担当という役回りだった。

 ***********************************************************************

私は、騙し討ちは嫌いだ。騙し討ちされるのが不愉快極まることは当然として、騙し討ちすることも性に合わない。私が、このブログで述べていることは、突然に言い始めたことではなく、事前に宇都宮君や選対メンバーには伝えてあることばかり。とりわけ、会の代表である中山武敏君には、電話で何度も伝えている。しかし、結局は、彼らが私の指摘を重大視することなく、何の対応をすることもなかった。

昨日お伝えした宇都宮君自身の選挙違反(運動員買収)の事実については、選挙が終わってしばらく、私は知らなかった。このことを私が知ったのは、岩波書店と熊谷伸一郎選対事務局長との関係を問題にしようとした際に、偶然宇都宮君自身から聞かされてのこと。

今年の2月のある夜。宇都宮君の法律事務所の一室で、会合があった。その席上、私は、熊谷伸一郎(岩波書店従業員)事務局長に質問した。

「あなたは、1か月も選対に詰めていたが、岩波からは有給休暇を取っていたのか」

既にこの頃は、私と他のメンバーとの亀裂は大きくなっていた。彼は、警戒してすぐには回答しようとしなかった。
「どうして、そんなことを聞くんですか」

私は、こう言った。
「たとえば、東電が自分の社員を猪瀬陣営の選挙運動に派遣して働かせたとする。有給休暇を取っての純粋なボランティアならともかく、給料を支払っての派遣であれば、まさに企業ぐるみ選挙。私たちは黙っていないだろう。それが味方の陣営であれば、あるいは岩波であれば許されると言うことにはならない」

このとき血相を変えんばかりの勢いで私を制したのが、高田健(許すな!憲法改悪・市民連絡会)さん。
「澤藤さん、そんなことを言うものじゃない。岩波と熊谷さんには、私たちがお願いして事務局長を引き受けてもらったんじゃないですか。その辺のところは、澤藤さんもご承知のはず。今ごろそんなことを言っちゃいけない」

助け船に勢いを得て、熊谷伸一郎事務局長(岩波)は「大丈夫ですよ。私は有給休暇をとっていましたから。それに、ウチはフレックス制ですから」と言っている。

思いがけずに、このとき続いて宇都宮君が発言した。その発言内容を明確に記憶している。
「えー澤藤さん。岩波が問題なら、ボクだっておんなじだ。ボクも、事務所の事務員を選対に派遣して選挙運動をお願いしたんだから」

これには驚いた。本当は、続けて発問したかった。いったい何人を派遣した? 誰を? いつからいつまで? 選挙運動って具体的にどんな仕事だったの? 賃金はいくら払ったの? 勤怠管理はどうしたの?…。しかし、制されて私は黙った。これ以上、彼らを刺激したら、大河(わたしの息子)と、とばっちりを受けたTさんの権利救済(名誉回復)の道は途絶えてしまうと考えてしまったからだ。

もちろん、私は、岩波書店従業員の熊谷伸一郎事務局長が、有給休暇をとって選挙運動にボランティアとして参加したとは考えていない。入社3年目の従業員が、あの時期にまるまる1か月の有給休暇が取れたはずはないからだ。また、彼が、真に有給休暇をとっていたとすれば、フレックス制に言及する必要はない。自ら有給休暇を取ってはいなかったことを自白したに等しい。なお、請負制の個人業者であればともかく、フレックスタイム制の従業員であったことが、公職選挙法違反を免責することにはならない。岡本厚岩波書店現社長も、選対メンバーのひとりである。熊谷伸一郎事務局長に便宜が図られたのであろうと考えている。

以上の経過のとおり、宇都宮君の選挙違反の事実は、彼自身の口から語られたもの。おそらくは、違法性の意識はなかったのだろう。しかし、この件での違法性の意識の欠如が故意の欠缺の理由にも責任阻却事由ともならない。犯罪の成立には何の影響も及ぼさない。

また、違法性の意識の可能性の存在は否定のしようもなく、疑うべくもない。宇都宮君は法律家だし、日弁連の会長までした身だ。法律を知りませんでした、というみっともない言い訳が通用するはずもない。

しかも、宇都宮君、君は革新統一の要の立場に立とうとしている。そのためには、極めて高い水準でのコンプライアンスの徹底が求められるのだ。君は既にその資格を失っている。

なによりも私は、選挙運動に派遣された君の法律事務所の事務員の方を気の毒に思う。君は、きちんと謝罪をしただろうか。彼/彼女らは、君の指示に従うしか術のない弱い立ち場だ。君は、その人たちに公選法違反の行為を指示したのだ。事務員の方には、君の指示を拒否する期待可能性がなく、犯罪が成立することにはならないだろう。また、捜査機関の君に対する訴追の可能性はともかく、事務員の方たちに及ぶ現実性はない。是非、そう説明してあげていただきたい。わたしの息子に対してしたような「忘恩」の態度ではなく、人への優しさを示していただきたい。

君が、再びの立候補をすれば、問題は再燃する。いろんな人に迷惑がかかる。それだけでなく、君の廉潔性の欠如は、到底革新統一候補にふさわしくない。だから、宇都宮健児君、都知事選への立候補はおやめなさい。
(2013年12月30日)
 ***********************************************************************
「宇都宮君立候補をおやめなさい」の件に関して、宇都宮君の立候補断念を確認するまで、私はこのブログだけで発言を続ける。ブログ以外の場所で発言するつもりはない。
今のところ、唯一の例外が下記の集会。主催者の強い要請があって、15分間時間厳守の「特別発言」をすることになった。これも、主催者の要請があって、当ブログに企画の広告を掲載する。
                    記
「活憲左派の共同行動をめざす会」発足記念集会
時 2014年1月19日午後1時30分開会
所 文京シビックセンター(後楽園)3階 A会議室

記念講演:伊藤誠さん  「日本経済はどうなるか?」
特別発言:澤藤統一郎 15分
参加費  700円

宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその9

宇都宮君、今日はほかならぬ君自身の、公職選挙法違反の事実(運動買収罪)を指摘する。正直なところ、やや気が重い。しかし、やはり指摘しなければならないと決断した。今日指摘する君の行為は、徳洲会や石原宏高陣営が行った違反行為と変わらないのだから。

本日の赤旗が、君の「都知事選への出馬の意向を表明」を伝えている。奇妙なことだが、誰の推薦とも書かれていない。「人にやさしい東京をつくる会」の名さえまったく出てこない。昨年は、有識者40氏の声明を先行させて、候補者選定手続の正当性にそれなりの心配りをしたが、今回はそれもない。君の立候補によって、革新・リベラル陣営が、反石原・猪瀬、そして反改憲・反安倍・脱原発の勢力結集に、適任の候補者を探し出そうというプロセスが抑え込まれようとしている。「推す人もなしの出馬の意向」は、とにもかくにも「自分が出たい」という君の気持ちだけがぎらついて、他の候補者選びへの牽制の意図が見苦しい。

本日の赤旗は、共産党の宇都宮支持を報じてはいない。「政策を支持していただけるすべての団体、政党に支援を訴えたい」という君の言を紹介するだけだ。君は、これから政策を作って「この指とまれ」と声を上げるつもりのようだ。どなたが政策を作るのかは知らないが、その政策を実現するにふさわしい有能で魅力ある別の候補者を捜すべきではないか。

少し驚いたのは、君が記者会見で、「徳洲会からの5000万円裏献金疑惑について徹底解明し追及していく」と表明したとか。ほんとに、そんなことが君にできることなのか。君にそう言う資格があるのか。省みて、疚しいところはないのか。

同じ赤旗の別のページに、維新関連の不祥事が3件報道されている。一見すると「軽微」な事件、しかし、さすがに赤旗は政治がらみの違法に関する事件はきちんと報道している。

私は、選挙制度を大切に思っている。公選法の弾圧法規としての部分には断固反対し闘ってきたが、選挙の公正を確保するための公選法の規定は、大切にし、これを武器として保守陣営の金権政治の横行と闘ってもきた。

この点に、ダブルスタンダードがあってはならない。私は、自分のブログで、誰よりも熱心に、石原宏高を叩き、徳洲会を叩いてきた。宇都宮君、君の選挙だから例外というわけにはいかない。とりわけ、革新陣営には、高度な廉潔性、清廉潔白性が求められる。都知事選の候補者たらんとする革新統一候補となればなおさらのことだ。

ところが、君には廉潔性が欠けている。それどころではない。今日の赤旗が報道している事件と同列の疑惑がある。君が立候補の意向を表明したというのだから、そのことを指摘せざるを得ない。そして、まだ、宇都宮君を推すとは決めていない、各政党や政治勢力、各民主団体、そして選挙運動に参加しようという志をもつすべての市民に、警告を発したい。宇都宮君を推すことは、私が指摘するリスクを引き受けることになる、それでも敢えて宇都宮君を推すのかどうか。

本日の赤旗が報道する維新関連不祥事3件のうちの1件は、松井一郎大阪府知事が「政治資金収支報告書に、自分の会社からの『寄付』を記載しなかったこと」について告発された事件の不起訴の報道。これは、松井の政治団体への単純な金銭寄付の報告書不記載ではない。松井が経営する電気工事会社から二人の社員(秘書)が、政治団体の職員として派遣されていた。二人の給与全額は派遣元の電気工事会社から支払われていた。この、「給与相当分を寄付金として記載しなかったこと」が政治資金規正法違反に当たるとして市民団体から告発されたもの。その告発を支える法解釈は総務省見解に基づいてのものだ。不起訴の理由は「嫌疑不十分」だが、何がどう不十分だったのかは報道ではさっぱり分からない。

松井は、自分が経営する会社の社員を、自分が主宰する政治団体の職員として派遣して使ったのだ。松井の頭の中では、会社も政治団体も、自分が主宰し金を出しているのだから、何の区別もないのだろう。このことが良識ある市民からの大きな批判となった。松井の告発代理人には、私もなったし、宇都宮君もその一員だったではないか。

労働契約にだけ拘束される立ち場の労働者が、使用者の政治的立場を押し付けられてはならない。会社の従業員が、社長の主宰する政治団体に派遣や出向をさせられてはならないのだ。そのような事実があれば、きちんと事実関係を追跡することができるように、透明性が確保されなければならない。政治資金規正法による報告書に記載の義務がある。政治団体に派遣された「秘書」の給与相当分の報告書不記載は、単なる形式犯ではない。

問題は、この労働者の派遣先が、一般的な政治団体の活動ではなく、具体的な選挙運動となった場合のこと。このばあいには、公選法に明確に違反する犯罪「運動員買収罪」が成立する。派遣元も、派遣された労働者も、処罰対象となる。宇都宮君、君には心当たりがないか。保守陣営は汚い、違法を繰り返してきたと、我々は告発してきた。君には、その先頭に立つ資格があるか。

徳洲会は強く批判されている。君が追及するという猪瀬は、その徳洲会から金をもらっている。さて、その徳洲会とは何をしたのだろうか。

昨年12月の衆院選で、徳洲会は傘下の病院職員を鹿児島2区の選挙運動に送り込んだ。「徳洲会では選挙は業務が当たり前。ある意味、本業の医療より優先される」との職員談話も報道されている。病院職員が、労働契約上は生じ得ない選挙運動業務に動員されているのだ。

おそらくは、徳田虎雄の頭の中は、病院職員は自分の子飼い、医療をやらせようと選挙運動をやらせようと同じ賃金を支払っておけば何の問題があるものか、というものであろう。しかし、選挙運動は、無償でなくてはならない。病院職員としての賃金を支払いながら、選挙運動をさせれば、典型的な運動買収罪(公選法221条1項)に当たる。強制性が問題なのではない。無償原則違反が問題となるのだ。

そこで、脱法のためのカムフラージュが必要となる。この種のカムフラージュの常套手段は、「欠勤の扱い」か「有給休暇の取得」かのどちらか。まったくのボランティアとして自主的に、無償で選挙に参加したという形づくりが必要なのだ。徳洲会では、「欠勤による給与の減額分は賞与で加算支給するほか、1日3000円の日当が賞与に上乗せする形で支払われていた」と報道されている。つまりは、形だけの「無償の選挙運動」の体裁をとりながらも、実質において選挙運動に対価を支払うことが、犯罪とされているのだ。

徳洲会と言えども、脱法の形づくりくらいはやっている。宇都宮君、君の場合は、どうだったろう。君は、雇傭している複数の事務職員を選対事務所に派遣していなかったか。何のカムフラージュさえもなくだ。君の頭の中も、松井や徳田と同じように、自分の法律事務所の事務員なのだから、選挙運動をさせたところで何の問題もない、というものではなかったか。君の指示に従わざるを得なかった職員の方をまことに気の毒に思う。君の罪は深い。

事態を飲み込めない人のために、解説をしておこう。公職選挙法221条1項は、「当選を得若しくは得しめ又は得しめない目的をもって選挙人又は選挙運動者に対し金銭、物品その他の財産上の利益若しくは公私の職務の供与、その供与の申込み若しくは約束をし又は供応接待、その申込み若しくは約束をしたとき」というのが構成要件となっている。分かりやすく、抜き書きをすれば、「選挙運動者に対し金銭(この場合はいつものとおりの給与)の供与をしたとき」は、運動員買収として犯罪なのだ、選挙運動はあくまで無償が原則、「いつものとおり賃金は払うから、選挙事務所で働いてきてくれ」というのは、運動員に対する金銭供与として、この条文の典型行為としての犯罪に当たるのだ。

徳洲会側が運動員買収の犯罪主体となった場合は、最高刑は3年の懲役。しかし、候補者本人が犯罪主体となった場合は、「4年以下の懲役・禁錮又は100万円以下の罰金」となる。宇都宮君、君は大丈夫か。徳洲会とは規模が違う、ことはそのとおりだ。しかし、徳洲会よりも人員も金額も少ないから問題がない、ことにならないことはお分かりだろう。

話題となった最近の類似事案として、2010年7月の参院選に民主党公認で立候補して落選した野村候補の事件がある。候補者自らが経営する不動産会社の複数従業員に給与を支払う約束をして投票依頼の電話をかけさせた。これが公職選挙法違反(選挙運動報酬約束罪)に当たるとして、起訴され一・二審とも有罪となり、最高裁でも上告棄却で確定した。給与相当額の金銭は合計70万2664円であったが、供与の約束だけで支払いはされなかった。それでも逮捕され、勾留され、有罪になった。運動員買収では、小林千代美衆院議員、後藤英友衆院議員の実例もある。

もちろん、すべての違反が摘発されるわけではない。このまま、公訴時効が完成する可能性は高いと思う。しかし、それまで君はそのリスクを抱えたままでいなければならない。万が一にも、当選したときには、君が「百条委員会」で脂汗を流すことになろう。3年連続の都知事選という悪夢ともなりかねない。君を推した政党や市民にも、迷惑をかけることになる。

なによりも、革新の候補者は清新で、高度の廉潔性を要求されるのだ。その点、君はまったく不適格。だから、潔く、立候補をおやめなさい。
(2013/12/29)

宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその8

本日の毎日朝刊に、「宇都宮氏出馬へ」の記事がある。「支援者らは26日に対応を協議。別の候補者擁立を探る意見も出てまとまらなかったが、宇都宮氏が他陣営に先駆けて出馬表明を決断した」とやや奇妙なニュアンスを伝えている。推す人がなくとも、君は出たくてしょうがないようだが、みっともない。立候補は辞めたまえ。

昨年の選挙では、誰よりも強く君を支持し、家族を上げて、君を「素晴らしい候補者だ」と言ってまわった私だ。その私が、君には都知事候補としての資格がないと言っている。昨年の惨敗を繰り返すだけだから出ても無駄だ、と言っているのではない。もっと積極的に、きみは出るべきではない、と言っているのだ。その理由は、今日で8回目となるこのブログに綴っているとおりだ。このブログは終わらない。君が立候補を断念するまで、私は書き続ける。

もしかしたら、君は、批判の風当たりを強く受けている「上原公子選対本部長・熊谷伸一郎事務局長(岩波)」体制を清算し、新しい選対体制で再出馬することによって批判を避けうる、とでも思っているのかも知れない。しかし、それは間違っている。問題は、君自身の資質、能力、そして法的リスクにある。君が、立候補を断念することが最も賢明なことなのだ。仮に君が当選したとして、再びの百条委員会や、3年続けての都知事選は悪夢だ。

また、もしかしたら君は、裏交渉で、各政党や政治勢力に、それなりの支持の感触を掴んでいるのかも知れない。しかし、まだ正式に君を支持すると名乗りをあげたところはない。正式支持の表明まで、私のブログはあらゆる事実を提供し続ける。裏の約束が、表のものになる保障はないとお考えいただきたい。

私は、君を誹謗する立場にはない。消費者問題弁護士群の一員として君が真面目にやってきたこと、反貧困問題に足を踏み出したことは評価している。生涯、そのような立ち場でコツコツとやるのが君に似合っている。革新統一の都知事候補は、君の柄ではない。

君よりも、遙かに有能で、魅力に富む、適格な候補者はたくさんいるだろう。君は、そのような人選に汗をかくべきだ。そうすれば、私は君を見直す。ところが君は、早期に立候補表明をすることで、幅の広い革新統一の候補者選びを邪魔しているのだ。是非とも、立候補はおやめなさい。そして、出馬宣言もおやめなさい。

本日が、私の息子・大河の(おそらくは)最後の報告である。

     **************************************************************    
 宇都宮健児さんと宇都宮選対に対して、一昨日・昨日と続けて批判の文章を公表した。しかし、思いの丈を書き切ってはいない。多くの人の目に触れることを意識した自制が働いている。
 私も法曹を目指す者として、名誉毀損や侮辱の構成要件は心得ている。民事上の損害賠償請求権の要件事実についてもだ。受けとりようによっては辛辣な批判となっているかも知れないが、人格攻撃は避けている。けっして、批判されている者の社会的評価をおとしめることを目的としているわけでもない。
 あくまでも私は、宇都宮さんについては、都知事という公職の候補者してふさわしい能力や姿勢をもっているかを問題にし、また、選対については、革新統一の選挙を担うに足りる能力や適格性を問題視しているに過ぎない。
 仮に、私の文章の中に「公然と事実を摘示して」、外形的には「人の名誉を毀損」する部分があったとしても、摘示した事実は公共の利害に関する事実にかかり、事実摘示の目的はもっぱら公益を図ることにあり、摘示した内容は真実なのだから、当然に違法性はない。そもそも、言論は自由であり、とりわけ公職に就こうとする者についての批判が封じられてはならない。

 私の指摘の事実はすべて、東京都知事選という巨大な自治体の選挙に関することであって事実の公共性は当然に認められる。有権者に正しい情報を提供して、次の都知事選挙に臨んでもらいたいという私の目的は、もっぱら公益を図ることにある。そして、何よりも摘示の事実として真実以外のことは語っていない。

 以上の枠を意識しての私の文章の内容であるから、どうしても自制せざるを得ない部分がある。すべては真実であって誇張はない。むしろ、筆を抑えての報告である。
   ****************************
      不当な任務外しに対する権利救済をめぐって
 2012年12月11日夜不当に任務を外された私は、上原・熊谷両名に対し、解任の経緯の確認と理由を尋ねる何通かの公開質問状を作成し発送した。今に至るもこれに対する応答は一切ない。その内容は、当ブログにおいおい発表されるだろう。

 なお、私は、この公開質問状を多くの関係者に見てもらおうとした。ところが、私の解任直後、投票日を迎えないうちに、全く事前の告知のないまま、私は選対のメーリングリストから排除されていた。私は、随行員としての任務の剥奪だけでなく、選対に結集する運動員としても排除されたのだ。これは理解に苦しむ。彼らが自分たちのしたことを、理由のある正当なことだと考えているのであれば、私の批判を恐れたり、発言の場を奪う必要はない。一切の批判を封じようという、露骨な姿勢を見せつけられた思いだった。

 宇都宮候補の政策に共鳴し、選挙に協力したいと結集してきた者を、選対本部長と事務局長が追い出し排除することができるのだろうか? かつて安倍政権はその論功行賞による露骨な仲間内人事で「お友だち内閣」と揶揄された。宇都宮選対は、多くのボランティア参集者を排除した「お友達選対」になっていたというほかない。しかも、選対本部長や事務局スタッフについては、仲良く選挙カンパの分け前に与ってのことだ。

 私は、選挙で知り合った知人に問題を知らせた。多くの知り合いから、選対の体質に批判的な意見が寄せられた。恣意的な人事、各党派に対する不平等な対応、要請に対して意図的とも思える無視や放置など、私に起きたことは氷山の一角だったことが少しずつ明らかになった。

 宇都宮さんは、私とTさんが訴える、随行員外し事件の解決を約束した。しかし、積極的に動こうとはしなかった。問題解決の場を作ることは大変難航したが、私の父が運営委員として強く求めたため、渋々とではあったが、2013年2月28日に、1時間だけ事情聴取の場が作られることになった。この時点で父に友好的な運営委員は既に誰もおらず、父もまた「外部」の人と認識されていた節がある。結局、「内部」から自主的な解決の動きはなかったといってよい。
 しかし、この事情聴取は到底公正・公平な形をもったものではなく、公正・公平な運用もされなかった。そもそも、宇都宮さんと宇都宮選対に、公正さを求めたこと自体が間違っていたのだ。

 不当な解任劇の一方の当事者は解任された私とTさんであり、他方当事者は解任した上原選対本部長・熊谷事務局長ということになる。
 一応公平な問題解決の場を作ろうとするのであれば、当事者以外の者が、両当事者の話を聞いたうえで事実を確定し、裁定する必要がある、というのが常識的な考えになろう。
 しかし、私や父の、「当事者を除いた公正な「三面構造」の形をつくるべきだ」という要求は通らなかった。「そんなことをしたら、会が不当な解任を認めたことになる」と信じがたい発言をした委員(高田健)もいた。何が起きたのか、真摯に事実を解明しようという態度ではなく、不当な事実はなかったという結論の決めつけがそこにはあるだけだ。 父を除く全ての運営委員が、そのような仕組みに賛成し、あるいは反対しなかった。しかも、その場での発言内容は一切秘密であり、外部で話さないことを条件とされた。私はこの条件を拒否した。市民に開かれた選対が、選対が批判にさらされている点について秘密にするなど、自己矛盾としかいいようがない。父以外の出席した全ての運営委員が秘密にすることに賛成した。
 私はこのような事情聴取そのものを拒否したかったが、「どんな形でも、訴えを聞いてもらった方が良い。中には、真面目に耳を傾けてくれる人もいるはず」という父の説得を一部分受け容れた。結果は、父の判断が甘かったことを示している。

 結局は、上原・熊谷が当事者でありながら事情を聴取する側にいるという、糾問的なお白州状態となった。政府や政権党の秘密主義を批判し、特定秘密保護法に反対するかのような態度を示しつつ、自らが小さな権力を持てば、すぐに秘密にしたがる運営委員の体質と宇都宮さんの人間性は強く批判されなければならない。
 私とTさんは解任された当事者側からの事実主張を1時間ほど行った。
 その間、熊谷伸一郎事務局長(岩波書店)は、机を叩いて立ち上がり、「侮辱だ!撤回しろ!」と私を罵倒したり、川添誠(首都圏青年ユニオン)運営委員は、「げす!げす!」と大声で怒鳴り続け、さすがに中山武敏代表にたしなめられるほどの醜悪さだった。

 なるほど、この場は、選対に批判的な者をこのように罵倒するための場であり、罵倒したことを秘密に保ちたいからこそ秘密を要求したのかと、腑に落ちた。

 私とTさん、そして事情を知る立ち場にあって、私が要請した証人のお二人が発言した段階で、私とTさんは退席した。私は、不当な質問があった場合や、運営委員会の在り方について疑問を持った場合に、それを公開する権利を留保することを譲れないとしたが、それが受け容れられなかったからである。

 結局、その場で事実の解明も裁定もなされず、宇都宮さん・中山代表・上原選対本部長に解決方法を一任するという確認がなされた。一方当事者である上原に解決を一任しても何の意味もないことは明白だが、私はそれでも、間に入ると明言した宇都宮さん・中山代表を信じて、ずっと待ち続けた。

 宇都宮さんの「何とかする、このまま放置はしない」という言葉を私は重く受けとめた。いやしくも彼は、信用を職業上の生命とする弁護士である。その弁護士が一度口にした以上、解決まではできなくとも、何らかの提案はなされると期待した。それができなくても少なくとも報告くらいはあるだろう。

 ところが、ほぼ10か月が経過し、何も解決されないまま、猪瀬辞任、再選挙という運びとなった。問題は今に至るも放置されたままであり、責任の所在は明らかにされていない。それでも、会は再び邪魔者を排除して動き出そうとしている。

 私は、これだけの手順と時間をかけ、選対や運動の内部での解決を訴えてきた。なんらかの解決の提案が約束されていたのに、それが反故にされてしまったのだ。
もう、黙っている必要はないだろう。外に向かって、事実を明らかにしてもよいだろう。

 多くの人が結集し運動をすすめるうえで、意見が異なることがあるのは、当然のことだ。その解決は面倒でもじっくりと話し合うしかない。
 宇都宮選対は、この解任劇の収拾程度の些細な問題について、意見の違いがある場合に、話し合うことをせず、多数派を批判する少数派を罵倒して追い出すことしかできなかったのだ。このような選対が、意見の相違のある都政の政策問題について、じっくりと話し合うことができるだろうか。わたしは、この選対には、幅広い都民の結節点となり、都知事選を勝ち抜く能力はないと思う。
 積極的に私を排除する策動をした上原公子(前国立市長)・熊谷伸一郎(岩波書店勤務)・服部泉(東京プロデュース)・川添誠(首都圏青年ユニオン)、「お白州構造」に賛成し秘密会にするべきだと主張した高田健(市民運動)、その場では黙って何も発言しない海渡弁護士、調整のできない会の代表中山弁護士、運営委員の誰もが話し合いで問題を解決する姿勢も能力もない。

 なによりも、解任直後には、私に、「随行員としての任務執行に何の問題もない」、「よくやってくれた」と言っておきながら、手のひらを返して、私の「コミュニケーション能力に問題があった」とした卑怯な宇都宮弁護士には、怒りを禁じ得ない。不足していたのは、前言を翻すことをためらわないあなたの良心と誠実さである。
 選対も候補者も、選挙を担う能力も資質もない。

 一般社会の常識に従い、丁寧に事情を聞き取り、一人の人間として尊厳を認めたあたりまえの対応がなされていれば、私もここまで態度を硬化させることはなかっただろう。
 不当な解任までのあの一ヶ月間、ほぼ全生活を選挙に専念し、家族よりはるかに長い時間を共に過ごした私に対して、宇都宮さんから、一言のねぎらいも感謝の言葉もなかった。
 端的に言って、宇都宮さんは人にやさしい弁護士ではない。弱者の側に寄り添おうという基本姿勢がない。不当な扱いを受けたと訴える人の気持が理解できない。真剣にその人の言い分に耳を傾けようという、人権を大切にする弁護士としてのひたむきさに欠ける。

 彼には、同調圧力の中で、いじめの一端を担ったという自覚がないのだろうか。クレサラ問題、反貧困運動など彼の取り組んできた運動において、関わってきた社会的弱者に、これまでどういう態度で接してきたのだろうか。

 そういえば、選挙期間中、彼に救われたと感謝して応援に駆けつけた人を一人も見ることはなかった。
(2013年12月28日)

宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその7

 昨日に引き続いて、本日も2部構成。第1部が、宇都宮選対に参加して不当な「任務外し」を経験した、澤藤大河(澤藤統一郎の息子)の執筆による報告。
そして、第2部が安倍首相の靖国神社参拝への、昨日とは別の切り口。興味をもってお読みいただけるように、工夫をしたつもり。是非お読みいただきたい。

 **********************************************************************
            宇都宮選対の体質と無能力について
・スケジュール管理の問題
昨日述べたとおり、宇都宮選挙での私の任務は候補者のスケジュール管理だった。
 候補者の予定は多岐にわたる。主なものとして、各種支援団体への挨拶、マスコミへの取材協力、テレビ局での収録、運動を行っている団体と共に現地の視察、各種集会での幕間挨拶、そして街頭宣伝などがある。

 この候補者スケジュールの設定に大きな問題があった。まず、「貴重な」宇都宮候補の身柄の時間的分配をどうするのかその基本的な原則がない。それだけでなく、意思決定の手続のあり方が全くわからない。
 多くの団体・個人が集会を企画し、宇都宮さんに参加してほしいという要望を選対に寄せてきた。確かに、この全てに参加することはとてもできない。しかし、少なくともどういうルールで宇都宮さんが参加するのか原則の公開と、個別的にどのような理由で参加できないのかを誠実に説明することは最低限のマナーとして絶対に必要であった。しかし、現実には、選対は参加要請にきちんと返答することもなく、「メールしたのに返事がない」「返事を約束しておきながら、すっぽかしだ」という苦情が絶えず、宇都宮さんに同伴している私にも多くの方が不満が訴えられ、選対へ伝えるように依頼があった。私はその都度常に、熊谷伸一郎事務局長(岩波書店編集部従業員)に伝えたが、苦情は終盤まで絶えなかった。

 多くの政党や政治勢力が対等な立場で支援をしていたのだから、支援してくれる各政党や政治勢力に、実質的に等距離で接し、なによりも外形的に公平に扱う必要があることは明らかだった。このことは、総選挙と同時選挙になって、宇都宮さんが各党の衆院議員候補者と相互に応援し合う関係が生じてからは、とりわけ重大な問題となった。しかし、宇都宮選対の作成した実際のスケジュールが、公平なものでなかったことは誰の目にも明らかだった。どうして、選対内部や事務局から、あるいは支持政党の側からこのような非原則的な運営に批判が出なかったのだろうか。
 候補者との個人的知り合いだったからか、選対本部構成員の誰かとの関係が深かったからか、例えば初鹿衆院議員候補への応援には2回行っているし、山本太郎衆院議員候補への応援も2回計画されていた(私を解任した後の無能な随行員の不手際により2回目は参加できていない)。各党の全候補者を平等にひと回りする時間的余裕はないのだから、特定候補者の応援に2度駆けつけるのは明らかに不公平。これに対して、例えば日本共産党やみらいの党(生活)などの衆院選候補者の多くは1回の応援も得ていない。

 また、候補者スケジュールの決定は信じがたいほど不手際で、遅すぎた。これは、単なる事務的な能力不足という問題ではない。むしろ、この選挙の意義を自覚して勝とうという本気さが足りなかった。いや、足りないというのは不正確、皆無だったというべきだろう。アルバイト気分の選挙事務局スタッフには、選挙に勝ちたい、勝つために工夫をし、そのための努力をしよう、この選挙を勝ち抜くために人の意見も聞こう、苦い批判にも耳を傾けようというまじめさがなかったからではないか。「仲間内のなかよしを重視した楽しい選挙戦」に終始し、重要な選挙戦にふさわしい、選対事務が行われていたと胸を張れる者はいないはずだ。

 驚くべきことだが、選挙序盤では、熊谷伸一郎事務局長(岩波)の「安全上の問題から、宇都宮候補の予定は公開されるべきでない」という馬鹿げた方針によって、選対に宇都宮候補はどこにいるのか問い合わせても、教えないし答えられないという状況だった。

 一回一回の街頭宣伝に多くの人に集まってもらい、勢いのある様子を都民に見てもらうことが街頭宣伝チームの任務だと考えていた私は、選対事務局の秘密主義には困惑した。この選対事務局長の秘密主義により、街頭宣伝に全く人が集まらないことが続いた。あまりの事態に、私だけでなくチームのみんなが不満を述べた。その結果、この秘密主義は修正され、街頭宣伝の予定が公開されるようになる。熊谷さんはどうして、このような馬鹿げた指示を出したのだろうか。彼限りの判断だったのだろうか。誰が「秘密主義方針」の決定に賛成し、また方針変更することになったのか。こんな「大失敗」がきちんと内部的な総括の対象になっているとは今まで聞いていない。

 しかし、秘密主義の方針撤回以後がたいへんだった。スケジュールの決定は極めて遅く、前日の夜になっても翌日の予定がよくわからないことがたびたびであった。これには、宇都宮さんも閉口し、私に対して、選対本部にスケジュールの早期決定を要求するように何度も指示している。この指示を受けての私と選対事務局との交渉が、先鋭的な対立の具体的な理由となった。

 とにかくスケジュールの決定が遅いのだから、明日の街宣の予定が立たない。予定地付近の支援団体や勝手連に事前の告知ができない。その結果として行く先々の街頭宣伝に人が集まらない。候補者の行く先々が大変寂しい状況が続いた。これで宇都宮支持の熱気が盛りあがるはずもない。この状況を打開するためには、とにかくスケジュールを早く決めて、そこにたくさんの人が参加するように時間の余裕をもって呼びかける必要があることは自明だった。私だけでなく、街宣車の車長(杉原氏)も、その他の街頭宣伝メンバーも皆一致した認識だった。街宣車の主要なメンバーでの話し合いは頻繁にもたれ、選対本部に対してもっと早期のスケジュール設定と開示を求めることになった。

 選対本部との交渉の役割を誰が担うべきか、特に任務分担があるわけではない。候補者はやらない。車長もやろうとはしない。候補者を予定通りに現場に連れて行くことが私の任務であり、その予定を得るためでもあるので、私がその役割を引き受けることになった。もちろん、選対には最初から厳しく要求したわけではない。電話でメールでFAXで、予定を求め続けた。しかし、選対の対応は、信じがたいほど緩慢だった。通常の企業であれば到底許容できない水準の怠慢といってよい。

 私が、選対本部にスケジュールを求めると、「未だ決まっていない」と言う。じゃあ、いつ決まるのか、と問うと「分からない」と言う。誰がどのようにして決めるのか、聞いてもさっぱり要領を得ない。最終的には熊谷事務局長が決めるという。熊谷事務局長はどこかと聞けば病院に行ってしまい、いつ戻るかわからないという有り様。挙げ句の果てには、「街頭宣伝などでは大きな票を動かすことはできない。事務局はマスコミ対策で手一杯であり、街宣はその後に位置づけられている、スケジュールが出なくてもそのまま待っていればよい」と言われる始末。
 ようやく熊谷事務局長をつかまえて、決定権者が不在で決定できないなら、別人が決定できるような仕組みを作るべきではないかと言えば、「おまえの仕事はそんなことではない。僭越だ。言われたとおりの仕事をやっていろ」というのが熊谷伸一郎事務局長(岩波)の言だった。言われたとおりの仕事をしようにも、どう仕事をすべきか事務局長が決めるべきスケジュールが決まらないから、仕事が出来ず困っているのだ。この人の言うことは非論理的でよく分からない。ともかく、これでは選挙戦の体をなさない。このときは、街宣車が大東京の中の「迷える仔羊」になったようで心細い限りであった。

・熊谷事務局長「居留守」問題
 熊谷伸一郎事務局長(岩波)のその任に適さない事実をもう一つ挙げておこう。
 四谷三丁目の選挙事務所を借りる前、東京市民法律事務所を間借りして選挙運動の立ち上げ準備をしていたころ。私が選対に参加して2日目だから、11月20日の出来事である。
 「明るい革新都政を作る会」の中山伸事務局長が、熊谷伸一郎事務局長(岩波)と連絡を取ろうと、何度も何度も電話をかけてきた。
 私はその度の電話を受け、帰ってきた熊谷事務局長に伝言し、返電するよう伝えた。
 それに対する熊谷さんの言に驚いた。「ああその人には電話しない」「その人には(熊谷は)いないっていって」「ぼくはその人が嫌いなんだ」「その人が、出馬会見前に支持表明しようとして、生活の党からの支持が吹っ飛ぶところだった。大変な迷惑を被ったんだ」というのだ。

 中山伸さんは、さらに熊谷事務局長が在室している時にも熊谷さん宛に電話をかけてきた。熊谷さんは、電話を受けた者に対して、声を出さないまま両手の人差し指をあごのひげの前で交差させ、居留守を使うように指示した。

 勤務2日目の私も、さすがに批判を口にした。「居留守なんか使わずに、電話に出てお話しすべきでしょう。選挙戦は短いんですよ」と言ったところ、「そのうち電話するからさ」との返事だった。ああ、この人は、不誠実きわまりない人物なのだ。

 この「明るい革新都政を作る会居留守事件」が、熊谷事務局長と宇都宮選対全体の体質についての、私の第一印象として深く刻みこまれた。その後の事態の推移は、この第一印象を訂正するものではなく、正しさを確認するものだった。

 この選対は、共闘の結節点としての重責を担う資格がない。共闘を成功させるための選対は、高い道義性によって信頼を勝ち得なければならない。その観点からは、共闘の重要な構成団体の事務局長への「嫌いだから、居留守」は、不適格を明らかにしたものではないか。意見の相違があれば、政治的に指摘すべき問題点があれば、会ったうえでそれを批判するのが当然の道義だろう。また、ひとりの社会人のあり方としても、居留守を使うのが恥ずかしいこととは思わない感性の持ち主は信頼し得ない。周囲の選対スタッフに、自らが裏表のある信頼できない人物であると公言しているに等しい、という認識がない。熊谷伸一郎事務局長の能力の不足は後に知ることになるが、道義の欠如はここで明らかだった。

 また、生活の党からの支持を得ることが重要だという、選対(あるいは熊谷)の政治判断もまた批判的に検討されねばならない。生活の党の支持を得ることが「明るい革新都政を作る会」との友誼の形成を二の次としてた優先課題であったか、それがどれだけの効果を生じさせたのだろうか。この検証はされていない。

・随行員としての任務外し
 私は、選挙戦を4日残した12月11日午後9時30分に、突如上原本部長から、選対事務所に呼び出され、そこで、随行員としての任務外しを言い渡された。青天の霹靂のことである。これは事後にわかったことだが、後任の人選まで事前に済ませており、周到に準備された「だまし討ち」だった。
 熊谷伸一郎事務局長(岩波)は、「翌日休むように命令しただけで、任務を外す命令ではない」と言っているようだが、詭弁も甚だしい。選挙戦はあと3日しかないこの時期に、候補者のスケジュール管理に責任をもっている私を、慰労のために休まようとしたとでも言うのだろうか。一刻も選挙活動のための時間が惜しいこの時期に、私を休ませる理由があるはずはない。実際、私を外したことによる後任の不慣れによる不手際は現実のものとなっている。上原本部長や熊谷伸一郎事務局長(岩波)は、選挙運動の円滑な運営よりも、私への「小さな権力の誇示」と「嫌がらせ」を優先したのだ。
 企業が、邪魔な労働者に嫌がらせをする際には、まやかしの理由でカムフラージュするものだが、「疲れているようだから休養の指示」というのは、もっともらしい理由にもなっていない。
 私が、任務外しの理由を問い質したところ、まずは「疲れているから」というものだった。それに加えて、「女性は厳禁とされた随行員に、選対本部の許可なくTさんを採用したこと」も、理由とされた。なんと馬鹿馬鹿しい理由。
 私は反論した。ここで一歩も退いてはならないと思った。直感的に、これは私だけの問題ではない。選挙共闘のあり方や、「民主陣営」の運動のあり方の根幹に関わる問題性をもっていると考えたからだ。
 まず、「命令」なのか確認をしたところ、上原公子選対本部長は「命令」だと明言した。私はこれは極めて重要なことと考え、上原選対本部長には「命令」する権限などないことを指摘した。お互いにボランティア。運動の前進のために、合理的な提案と説得と納得の関係のはず。上命下服の関係を前提とした「命令」には従えない、ことを明確にした。このときの上原公子本部長の表情をよく覚えている。彼女は、熊谷事務局長と目を合わせて、にやにやしながら、「この人、私の命令を聞けないんだって」と笑ったのだ。私はこの彼らの態度に心底怒った。
 それでも、論理的に説得しようと務めた。逃げ腰の上原公子選対本部長を制して、この不当な措置に対する私の言い分を聞くよう要求した。その結果、私は上原公子本部長にようやく2分間だけ弁明の時間を認めさせた。上原公子選対本部長は、夜の9時半にわざわざ私を呼び出しておいて、「忙しいから2分間だけ」ということだった。
 私は、その2分間で、「ボランティアのTさんに随行員となってもらったのは、車長も含む街宣チーム全員の話し合いの結論だったこと。選対事務局に人員増強の要請をしても応じてもらえず現場の必要に迫られての判断だったこと。そして、市民選対の誰にも、命令の権限も服従の義務もないこと」を喋るつもりだった。
 しかし、このわずか2分間の約束も守られなかった。私の弁明は途中で打ち切られた。上原公子選対本部長は、「会議に呼ばれているから、そっちに行かなくちゃ」と、結局は1分半で席を立って姿を消した。

 得難い経験だった。不当解雇された労働者の無念の気持がよく分かった。理不尽な「小さな権力」の横暴の恐ろしさが身に沁みた。「この人、私の命令を聞けないんだって」という上原と熊谷の薄ら笑いを忘れることはないだろう。

 こうして、私とTさんとは、随行員としての任務から外された。翌日のスケジュールにしたがって、いつものとおり街宣車に乗ろうとしたが、気の毒そうに車長から拒否された。

 私は、その後は本郷の自宅付近で、近所の勝手連の人々と一緒に街宣活動やビラ撒きに参加した。Tさんは、心配して遠巻きに候補者を気遣い、ある局面では後任者の手際の悪さから、うろうろしていた宇都宮さんを誘導して昼食がとれるように案内したことがあったという。このとき、内田聖子運動員(選挙運動報告書によれば選挙運動報酬5万円受領)から、「あなたは任務を外されたのだから余計なことをしないで」と面罵されたそうだ。これは、宇都宮さんの面前のことだったが、宇都宮さんは見て見ぬ振りだった。そう、涙ながらに聞かされた。

 この任務外しの真の目的が何であったのか、今冷静に考えても私にはわからない。残り3日という最終盤になって、人事をいじって混乱を持ち込む必要は全くないはずだった。私が選対に過度に批判的だったとしたところで(もちろん、私は正当な要求だと考えているが)、この選挙最終盤には私は候補者と共に移動し続け、選対事務所に戻る機会さえなかったのだから、選対事務に実害が及ぶはずがない。結局は、「小さな権力を誇示したい」「澤藤に嫌がらせをしておきたい」という動機しか考えようがない。その機会は、選挙が終わってからでは間に合わない、最終盤を迎えた選挙運動への影響はどうでもよい、今のうちにやってしまえ、と考えたのであろう。ボランティアのTさんは、あきらかに私の巻き添えで、申し訳ないと思う。しかし、私にとっての救いは、全ての経緯をよく知っているTさんが、私と一緒に、選対と候補者に怒りを燃やしていることである。選対にはそのやり口の汚さ、宇都宮さんには弱者の側に立たない優柔不断さに憤っておられる。

・市民選対内部の「権力関係」について
 そもそも、市民選対において、選対本部長だろうが事務局長だろうが、ボランティア参加者に命令ができる権限があろうはずがない。この点で、あたかも「業務命令権限」をもっているかのごとき感覚の両名に反省を促したい。そんな感覚だから、人が集まらない。参加した人が生き生きと活動できないのだ。このような、市民運動を担うにふさわしくない人物が運動の中心に坐ったことが、選挙の失敗の大きな原因であったろう。

 まずは、対等・平等な立場で市民が参加し結集していることを確認しよう。すべての参加者が自発性に支えられて活動をしている。そこには、命令服従の関係はなく、誰の誰に対する命令権限も服従義務もない。あるのは、合理的な提案と、自発的な賛意に基づく行動の原則である。提案には丁寧な説明・説得がともない、それに対する納得があって、個人が行動に立ち上がる。意見の齟齬があれば、批判の権利が保障されたうえで、説得と納得によって人を動かすしかない。問答無用で人を動かすことはできない。うっかり、そんな権力的な人に権限をもたせたらたいへんなことになる。

 選挙運動参加者はあくまで平等である。もちろん、寄付の金額の大きな人が、大きな影響力を持ってはならない。誠実な運動参加者こそが、自ずから影響力をもつことになるだろう。
 敢えて、選挙運動参加者の立場の上下に触れるとすれば、一円ももらっていないボランティアの運動員が本来的な選挙運動の主体である。金をもらった労務者(上原公子10万円・服部泉10万円・石崎大望17万円など)、あるいは派遣元から金をもらっている者は、実質的な意味での選挙運動、すなわち選挙政策の決定・宣伝・人事等に関わってはならない。「会」と、「労務者」「事務員」「車上運動者」との間には、単純な労務の提供、純粋な事務作業を目的とする雇用契約が成立し、そこでは職務命令が可能になる。つまり、会の運動を支えているボランティアと、金をもらった労務者との間には、明らかに法的な立場の区別がある。金をもらっている労務者に、ボランティアが命令されるという、本末転倒な状況が生じていたのだ。

 私は随行員としての任務を誠実に遂行してきた。常に陣営の利益のために、4つの柱の政策のもと、時には候補者本人よりも原則的に対応してきた。現場に候補者を連れて行けなかったことは一度もない。これは、そう当たり前の簡単なことではない。交通事情・事故情報を勘案しながら、目的地に最も早く到着する方法を常に考え続けなければならない。宇都宮さんがタクシーで移動する時間を調整し、携帯電話で会話できる状況を作り上げ、三鷹公団団地弾圧事件の被害者と電話で会話できるように舞台設定もした。選対本部と相手先に到着予定時刻を刻々と報告し続ける。街宣車での自動車移動では間に合わないと判断し、途中で電車に乗り換え、集会に遅刻せず到着したこともたびたびある。
 私が解任された後の後任の随行員は、漫然と街宣車での移動を続け事故渋滞に巻き込まれ、選挙戦最終日の前日、街頭宣伝集会に宇都宮候補を大幅に遅刻させ、集会参加を断念するという不手際を演じている。私は十分にその任を果たしたと自負している。

 一方、スケジュール一つ決めることのできない選対本部長・事務局長・選対本部は、選挙戦全体を統括する能力に欠けていたというほかない。
 その選対が、私を切ったのだから、何とも奇妙な本末転倒の出来事というしかない。

 思い出すと、止めどがない。今日はこれまでとしたい。私も、受験生の身でこの作業に多くの時間を割く余裕はない。明日で一応完結としたい。明日は、私とTさんの、権利侵害回復の要請に、宇都宮さんと「人にやさしい東京をつくる会」がどのような対応をしたかについて、お知らせをしたい。

 私は、このことは、重大なことと考える。明日の私の報告をお読みになった上で、宇都宮さんを本当に推せるのか、「人にやさしい東京をつくる会」の再度の活動が認められるのか、よくお考えいただきたい。

  *********************************************************************
             安倍晋三のホンネ

八百屋に行って魚は買えない。永田町では倫理を手にできない。靖国では平和を語れない。

富士には月見草がよく似合う。鳩にはオリーブだ。靖国は軍国神社、軍服を着たおじさんの進軍ラッパがよく似合う。とうてい「不戦の誓い」が似合うところではない。

安倍晋三個人が、こっそりと、まったく誰にも知られず(秘書にも神社側にも隠れて)の参拝であれば、どんな神社に行ったところで、「私的参拝」と言える余地はある。しかし、今回の参拝を私的な行為として言い逃れはできない。政教分離の憲法原則に違反することは明白だ。

昨日のブログで詳述したとおり、憲法は歴史認識の所産なのだ。つまりは、侵略戦争と植民地主義への反省に立脚して形づくられた。首相が、憲法の政教分離原則に違反して靖国神社参拝をしたということは、とりもなおさず侵略戦争への反省をしていない。植民地支配への反省もしていないということなのだ。だから、中国も怒る。韓国も叫ぶ。今度は「価値観を共有している」はずのアメリカまでが、「失望した」と言い出している。先の大戦の敵国であったことを思い出しているのだろう。

安倍が、参拝後の談話の中で、次のとおり言っているのは、噴飯ものである。
「日本は二度と戦争を起こしてはならない。私は過去への痛切な反省の上に立って、そう考えている。戦争犠牲者の方々のみ霊を前に、今後とも不戦の誓いを堅持していく決意を新たにしてきた。」

「アンダーコントロール」と「完全にブロック」の例を持ち出すまでもなく、安倍は嘘つきである。世界中の誰もが、安倍の言葉を信じていない。本気で不戦の誓いをするのなら、こんなに似つかわしからざる舞台は他にない。

「中国、韓国の人々の気持ちを傷つけるつもりは全くない。…中国、韓国に対して敬意を持って友好関係を築いていきたいと願っている。」のであれば、靖国神社に参拝すべきではなかった。

安倍は、思い切り人をぶん殴っておいて、「あなたを傷つけるつもりなど毛頭ありません。今後とも、敬意を持ってあなたとの友好関係を築いていきたいと願っています」と言っているのだ。

安倍談話の中で私が注目したのは、「また戦争で亡くなられ、靖国神社に合祀(ごうし)されない国内、及び諸外国の人々を慰霊する鎮霊社にも参拝した。」と、鎮霊社を持ち出したこと。かねて用意の小細工が、こんな形で利用されたか、という思い。

私は、ときに人を靖国神社に案内する。そのときは、必ず、鎮霊社をよく見ていただく。その壮大さや華麗さを、ではない。その規模の小ささ、みすぼらしさを、手入れの悪さを、である。壮麗な本殿のすぐ近くで、鎮霊社のみすぼらしさと粗末な扱われ方は際立っている。私は、これを「靖国の差別」の一例と紹介している。ここから、靖国における「魂の差別」「死者の差別」を語り始めることができるのだ。

鎮霊社とは、靖国神社にもともとあったものではない。靖国神社自身のパンフレットには、「戦争や事変で亡くなられ、靖国神社に合祀されない国内、及び諸外国の人々を慰霊するために、昭和40年(1965)に建てられました。」とある。

1964年、自由民主党は「靖国神社国家護持に関する小委員会」を設置し、ここを拠点に靖国神社国家護持を内容とする法案提出を狙った。1969年から1972年にかけて議員立法案として自民党から毎年提出されたが、廃案に終わった。なお、この企図が潰えて後に、靖国神社公式参拝要請運動に転じることになった経緯がある。

靖国神社が国民的な支持基盤を持っていることは否定し得ず、この民衆の支持を侮ってはならない。また、遺族を中心とする靖国信仰の心情を理解するに吝かではない。戦死者の遺族に接するときには背筋を伸ばさなければならないとは思っている。

しかし、反靖国感情も根強い。それは、靖国神社が軍人軍属の戦死者だけを祀っているからだ。いわば、差別構造に支えられているから。靖国法案を成立させるにも、この点の反靖国感情がネックと考えられた。それならば、靖国神社の構内に、全戦没者の霊を祀る施設をつくればよいということになった。それが、鎮霊社創建の動機である。こうして、安直な動機で、鎮霊社が創建された。靖国神社の合祀対象者を除く国内外の全戦没者を祀っているという意味付けである。朝敵側の戦没者も、民間人戦没者も、外国人戦没者も、「その他」一切が祀られている。だが、明らかに、「英霊」と「その他」との取り扱いは天と地ほどの差なのだ。鎮霊社のみすぼらしさが、そのことを視覚的に表現している。

靖国神社(国家護持)法案は、その後、憲法問題をクリアーするには鳥居から賽銭箱から、神社という社号までなくさねばならないとなって、靖国神社自身も反対に回った。こうして、法案は断念されたが、靖国神社のご都合主義から創建された鎮霊社は残った。残ったもののこれは継子である。当然のごとく、継子としての粗末な扱われ方しかされない。靖国神社自身が、「鎮霊社の御祭神は奉慰の対象だが、御本殿の御祭神は奉慰顕彰の対象」としており、本殿祭神とは明確な差別を設けている。要するに、鎮霊社創建のあとといえども、「顕彰の対象」とされているのは、皇軍の軍人・軍属だけなのだ。賊軍にあって朝敵とされた者が、祭神として顕彰の対象となることは絶対にない。

靖国神社は、天皇制と軍国主義の結節点にある。天皇への忠誠の有無如何で、死者においても敵味方を差別するのが、靖国の特異な思想なのだ。賊軍の戦没者は未来永劫に敵、けっして靖国神社に祀られることはない。敵国人も同じ。そして、民間人も同様である。

もともとが血なまぐさい幕末の抗争の中での、「勤皇」方の復讐の儀式。この儀式を行う場所として1869(明治2)年東京招魂社が創建され、1879(明治12)年に靖国神社と改称された。招魂祭と名付けられたその儀式は、味方の死者の怨みの霊魂を祀って、その霊魂の前で復讐を誓った。その原型の思想は、今も靖国神社の教説に脈々と受け継がれている。

靖国神社とは、天皇のための忠死者を顕彰する施設。天皇への忠誠故の戦死を褒め称えるための施設。戦死は浄化され、その戦死をもたらした戦争も聖化される。侵略戦争という本質は覆い隠され、戦争批判は影をひそめることになる。幕末当時と同じメンタリティで、戦死者の前では復讐が誓われる。

鎮霊社の創建と、その後の継子いじめは、むしろ「皇軍戦死者」と「その他の戦争犠牲者」との差別を際立たせることになった。安倍の小細工利用の思いつきも、却って逆効果でなかったか。

安倍が隠したホンネは以下のとおりなのだ。
「英霊の皆様、とりわけA級戦犯として無念の死を遂げられた皆様。ようやく、臣安倍晋三が、皆様のご無念をお晴らし申し上げるときがやってきました。国家が、富国強兵の目的のもと、版図を拡大するための戦争を行うのは、正当なことです。しかも、皆様がご苦労された戦争は我が国の自存・自衛のためのもの。反省すべきは、果敢に闘ったにもかかわらず、武運拙く戦争に敗れたこと。兵力の不足と、鍛錬の不足、そして武装のための経済力の不足でした。これからは、一意専念、アベノミクス効果で国力を増強し、武器産業を拡充し、国民には愛国心を叩き込み、軍事費拡大による軍備の増強と軍事法制の充実をはかります。幸いに、特定秘密保護法は国会を通過し、新たな大本営であるNSCもできました。集団的自衛権行使容認ももうすぐ。憲法改正だって夢ではありません。大っぴらに戦争を語ることのできない異常な時代はもうすぐ終わります。着々と、天皇をいただいた大日本帝国時代の日本を取り戻す計画が進行しております。ですから英霊の皆様、なかんずくA級戦犯の皆様、安らかに我が国の軍国化の将来をお見守りください。」
(2013年12月27日)

宇都宮健児君、立候補はお辞めなさいーその6

本日のブログはかなりの長文になる。長いが、是非最後までお読みいただきたい。インパクトがあるはずだ。

本日は2部構成となっている。
第1部は、澤藤統一郎の息子の澤藤大河が執筆している。彼が、宇都宮選対で候補者の随行員として働き、不当な任務外しを受けた「被害者」の一人だ。もちろん、任務外しをした、上原選対本部長、熊谷事務局長の側にも、あるいはこれを「責任を問うような事件ではない」と看過した宇都宮君にも、それなりの言い分がないはずはない。しかし、まずは、「被害を受けた」という側の言い分に、耳を傾けていただきたい。その後に、「加害者」と指摘された側の言い分もじっくり聞いて、ご自身で、このような選対のこのような候補者が、都知事選の候補者としてふさわしいか否かをご判断いただきたい。

第2部は、本日唐突に強行された安倍首相の靖国神社参拝に対する憲法の立ち場からの評論である。このブログの訪問者数は、平均1500程度。それが、今毎日4000に近くなっている。「宇都宮君、立候補はおやめなさい」の記事を読みにいらしている新来の方が、半分以上と推察される。私のこのブログは、宇都宮君糾弾のためのブログではなく、「日々の憲法問題」を取り扱う「憲法日記」である。

一日も早く、宇都宮君の出馬断念を確認して、日常の「憲法日記」に戻りたいと願っている。今日の安倍靖国神社参拝については、どうしても書かずにはおられない。宇都宮君の出馬の是非についての関心でこのブログを閲覧される方も、第2部まで目を通していただくよう、お願い申し上げたい。お読みいただくにふさわしい内容だと自負している。

 *************************************************************************

           私の経験した宇都宮選挙
 私は、2012年の都知事選挙で、宇都宮候補の選挙運動員となった。当時、私は、勤めていた会社を退職し、司法試験の受験準備をしていたので選挙運動の時間をとることができた。候補者の宇都宮さんが父の知り合いだったことからの紹介だったが、強権的な石原都政の承継を阻止したいと強く願っての選挙戦への参加であった。

 その際、以下の三つの私の経験が生かせると考えた。
 まず、私は東大教養学部の学生自治会の委員長を2期務め、その際有権者8000人の選挙を経験している。私の経験した選挙戦は、選挙の原点を学ぶにふさわしい、普遍性に富む充実したものだった。
 また、工学修士号を有し理科・工学の基礎的な知識のあることは、脱原発を訴える宇都宮選挙で重要な援助をなし得るものと考えた。
 さらに、司法試験を目指している立ち場で、法律についての素養があることも、政策論争や選挙弾圧対策において重要な意味があると考えた。

 わたしは、選挙の始まる以前の11月19日から、解任される12月11日夜までの全期間、ほぼフルタイムでボランティアとして選挙に参加した。場合によっては早朝から深夜まで。当然のことながら一円も受け取っていない。選挙とはそのようなものだと心得ていた。宇都宮さんの秘書的な立場にあって選挙運動開始以前から彼と行動を共にした。私の任務はスケジュールの管理である。具体的には、常に候補者に同行し、その安全をはかるとともに、彼が過ごしやすいように配慮して、必要な時刻に必要な場所に彼を送り届けることだった。

 私は、候補者本人とは誰よりも長く時間をともにした。スケジュールを策定する本部とも密に連絡を取り合っていた。おそらく、私ほどにこの選挙の全体像を見てきた者はなかったと思う。その立場から、率直に申しあげる。宇都宮陣営の選挙は、およそ選挙の形をなしていなかった。候補者についても、選対についても、負けるべくして負けたというほかはない。

 以下に、候補者と選対について、見聞した事実を語ることにする。事実を語れば、否定的な評価は避けられない。できることなら触れないでおきたいとは思う。それでも、やはり率直に語らねばならない。再びの過ちを繰り返さないという大義のために、である。

宇都宮候補について
・候補者としての魅力に欠けること
 私が、宇都宮さんの随行員を買って出た動機のひとつには、宇都宮さんから多くのことを学ぶことができるだろうとの思いがあったから。きっと、魅力的な人物なのだろうとの期待が大きかった。しかし、一緒にいて、その期待が崩れるのに、たいした時間はかからなかった。その後は、宇都宮さんの魅力に感じてではなく、任務として頑張った。
 候補者には、人と話をして魅了する資質が必要である。ところが、彼はそもそも話をしない。話しかけても膨らませて会話が弾むことがない。私も、最初は頻繁に話しかけたのだが、話しに乗ってくることがなかった。

 彼の演説は毎日聴いたが、聴衆を魅了する憲法訴訟の経験談や、人権擁護の熱意がほとばしるという魅力に溢れた演説は一度も聞いたことがない。私の期待が、そもそも無い物ねだりだったのだ。人を感動させたり引きつけたりする内容のある話ができないのは、候補者として不適格というしかない。そもそも政治家としては向いていないのだと、どうして誰も言わないのだろうか。

 選挙戦の初めのころ、ある運動員が宇都宮さんに話しかけたことがある。「是非、よい弁護士さんに都知事になってほしい。そして憲法の理念を都政に生かしてほしい。私は常々憲法13条こそ一番重要な条文であり、これを生かすような政治が必要だと考えている」
 私は、弁護士が候補者であることの最大の利点は、法律を、とりわけ憲法を縦横に語れることにあると考えていた。これは、猪瀬や松沢、その他の候補者には全くできないことだ。弁護士が憲法13条を語ることは、まるごと自分の憲法観を語ることであり、自分の職業的な使命観を語ることでもある。宇都宮さんが弁護士としてがんばってきた今までの反貧困運動、クレサラの活動などが凝縮された、具体的で理想に満ちたすばらしいやりとりを期待した。
 ところが、宇都宮さんの返事は「そうですか」というだけのもの。あとでその運動員は、大変がっかりしたと語っていた。

・都知事候補者としての政策能力が十分ではない
 さらに候補者としての不適格な点は、具体的に都政を語る力が十分とは言えないことだ。
 これは、彼だけの責任に帰するのは気の毒な面もあるが、都政について語るべきものをもっているとは言いにくい。これまでの蓄積のないことが見えてしまう。
 街頭での演説は、常に同じ内容の繰り返し。選挙戦の進展に伴って、演説の内容が深化していったり、訴えるべき言葉の完成度が高まるということはなかった。

 宇都宮陣営の政策は、抽象的には優れたものかもしれないが、具体性に乏しく、このままでは候補者の演説にはならない。この難題をこなすには多大な能力を必要とするが、明らかに宇都宮さんには重荷に過ぎた。候補者が、広大な東京都の中で、演説する場所に応じた、地域的な課題について触れることもなかった。あえて言えば、秋葉原で表現規制問題に触れた程度だろうか。

 テレビにおける公開討論は総選挙と重なったことで2回だけだったが、宇都宮さんが他候補との議論において切り結び、圧倒するような場面は一度もなかった。切られないようにハラハラしながら祈るばかり。公開討論の回数が少なかったことは、猪瀬の傲慢さを都民に伝える機会が減った点で残念なことであったが、同時に、宇都宮さんの都政への知識不足と熱意不足が明らかにならなかったことは、むしろ陣営に利益だったといえるだろう。

 以下、私が彼に失望した具体的事件を述べる。
・バッヂ事件(NHKでの収録)
 弁護士の世界は別として、ささやかなりとも宇都宮候補が社会的知名度があったのは、年越し派遣村の名誉村長となり、湯浅誠氏などと反貧困運動に関わったから。宇都宮さん自身も、反貧困運動に取り組んできたことを周囲に誇らしげに語っており、どこに行くにも反貧困バッヂを背広に付けていた。
 ところが、政見放送収録のため、渋谷のNHKに出向いたときのこと、収録直前にNHKの職員がそのバッヂを外すように指示してきた。
 これには二重の問題がある。
 一つは、表現の自由との関係である。およそ弁護士として、「表現手段としての大切なバッヂ」を外せと言われて簡単に応じられるはずはない。政見放送が完全に自由に収録されねばならず、あらゆる制限がなされるべきでないこと、それを争った憲法訴訟もなされたことは、広く知られている。憲法を擁護する立場を鮮明に打ち出した候補者として、表現の自由に対する制約に対して常に闘う姿勢を示すべきでないのかという問題が第一。
 次に、反貧困運動を行ってきた仲間に対して、そして「自分のトレードマークはこのバッヂである」と語り真剣に行ってきた運動に対しての裏切りにならないのか、という問題が第二。
 私は、NHKの職員にその指示の根拠となった文書を見せるように要求した。NHK職員が手渡したのは、上司からのメールの一部だったが、その後半には「それでも候補者がバッヂを外すことに同意しない場合はそのまま収録、放送すること」という指示が書かれていた。
 私は、政見放送において、あらゆる制限は認められないという原則をNHKの職員に主張するとともに、選対の法対に連絡し、バッジを外すことを拒否した場合の法的リスクについて判断を仰いだ。法対の判断は外す必要はないし、なんらかの訴訟になれば憲法訴訟として受けて立つに足るものだというものだった。
 私は、法対の判断と、NHK職員のメールから絶対的な要求ではないという先方のハラを宇都宮候補に伝え、どうするか相談した。
 まったく意外にも、宇都宮さんは「ああ、はずしますよ」と理由も言わずバッヂを外してしまった。これには、唖然とした。NHKが政治的に偏向していることは周知の事実ではないか。彼は、何の抵抗も示すことなく、その指示に従ってしまった。たたかう姿勢皆無の人なのだと、私は失望した。
 後日、宇都宮候補は、「マスコミ対応には彼(澤藤大河)よりも、私(宇都宮自身)の方がなれているから」と、私のいないところで語ったという。人権も、運動への誇りも、仲間を裏切る葛藤もなく、NHK職員の指示に従うことが「マスコミ対応になれている」ことにあたると宇都宮候補が考えているのならば、都知事になったところで、官僚や議会多数派の指示に従うだけの都知事になるだけだろう。

・収録時間超過事件(MXTVでの収録)
 NHKでの政見放送の他に、民放各局合同の政見放送収録があり、MXTVに赴いた。
 ここでの収録の際、宇都宮候補は、予め決められていた時間枠を数秒オーバーしてしまった。
 事前に説明があったとおり、他の候補との平等取り扱いのため、収録のやり直しは認められない。さすがに、発話中に突然終わってしまうことは防ぐために、一番最後の「皆さん、ともに都政を作っていきましょう」という呼びかけを削除するのでよいかと、スタッフから質問された。しかし、これでは終わり方が不自然になってしまう。
 私は、何度もビデオを見直して、カットするなら最初の頭を下げる挨拶部分を切ることはできないかと、提案した。最初は、「前例がない」というだけの答えだった。食い下がって、それが不可能であるか問い合わせてほしいと求めたところ、収録スタッフがわざわざ電話をかけて局長に問い合わせ、それが可能だとの答えを得た。
 その結果、幸い冒頭のお辞儀の3秒ほどをカットすれば、時間内に収まることが現場で繰り返し再生することで確認され、無事に最後の呼びかけまで政見放送されることになった。
 この件に関して、宇都宮候補は現場で一切発言しなかった。私のやり取りを傍観していただけ。しかし、やはり事後、この件について、「澤藤は何もしていない。局側スタッフがよいようにしてくれただけだ」と語っている。これには、呆れた。
 そもそも、何百回でも練習して、きちんと時間内に演説できるように訓練してくることすらできない点で候補者としての熱意にも能力にも欠けている。そのうえ、自分の陣営の利益に誠実に活動する者を、守ろうとしない点でも候補者としての資質に欠けることになろう。

・同窓会
 宇都宮さんの同窓会にも同伴した。東大駒場の文?(法学部進学)のクラス会だった。
 30人も出席していただろうか。当時、宇都宮選対内のメールマガジンやツイッターでの情報発信のために、私は宇都宮さんの人となりについての情報をできるだけ集めて選対に送っていた。
 宇都宮さんがどんな学生だったのか、学生時代の友人は彼をどう語るのか、最高の取材の場であると考えて、出席者に話を聞いてまわった。弱い立場の者に寄り添った話や、自分の信念を貫いた話が何か聞けるかと期待した。
 しかし、みな口をそろえて言うのは、「地味だった」「目立たなかった」というものだった。具体的なエピソードについては一切聞けなかったのは、実に驚くべきことだった。
 その場で誰かが、「立候補に当たっての供託金はどうしたんだ?借りたのか?」という軽口が飛んだ。宇都宮さんは、それに「自分で用意した」と答えていた。自ら用意すると一旦は言いながら、結局用意できずに、他人から借りた事情を知っている私の前で、なぜそのような嘘を申し述べるのか、理解に苦しんだ。
 その上、その場で旧友に対し、供託金が高すぎて負担が大きいとの持論を繰り返し述べていた。供託金が高いことを問題視するならば、自分で用意できないほど高いのだと率直に語った方が、かわいげがあったのではないだろうか。

ずいぶん、長くなった。今日は、ここまでとする。明日は、私を切った選対の体質について、お話しをしよう。

 *************************************************************************
       安倍首相の靖国神社参拝を許してはならない

不意打ちのことで驚いた。本日(12月26日)午前11時半ころ、安倍晋三首相は、靖国神社に昇殿参拝したのだ。「内閣総理大臣 安倍晋三」と札をかけた花を参拝前に奉納したと報道されているのだから、首相としての公的資格における参拝と見るしかない。また、その後、首相は「国のために戦い、尊い命を犠牲にされた御英霊に対し、哀悼の誠を捧げるとともに、尊崇の念を表し、御霊やすらかなれとご冥福をお祈りした」との談話を発表した。特定秘密保護法採決の強行に次いでの、靖国神社不意打ち参拝である。この安倍の憲法に対する攻撃的な姿勢には背筋が寒くなる。

改めて思い出そう。「もし私を右翼の軍国主義者と呼びたいのであれば、どうぞそう呼んでいただきたい」との開き直った彼の発言を。いまさらではあるが、彼は正真正銘の「右翼の軍国主義者」なのだ。こんな輩を我が国の首相に留めておいてはならない。「抗議する」ではなく、首相の座から引き摺り下ろさねばならない。

安倍の靖国参拝が、中国・韓国・北朝鮮等の近隣諸国に対する挑発行為であることは明白である。冷え切った日中・日韓の関係を、さらに修復不能なまでに損ないかねない愚行でもある。当然のことながら、中・韓両国の反発は凄まじい。それだけでなく、アメリカ政府までが、安倍の暴走に懸念を表明している。

折しもこの日は毛沢東生誕120周年にあたる。抗日戦を闘い抜いた「建国の父」を偲んで、中国共産党の最高指導部が毛沢東記念堂を訪れたばかり。その日を選んだかのような安倍首相の靖国神社参拝。中国国内での、挑発行為への反発の感情がとりわけ厳しいと報じられている。

首相の靖国神社参拝はなぜ許されないのか。憲法の政教分離規定に違反するからなのか、あるいは中・韓などの近隣諸国との友好を損なうからなのか。答は二者択一ではない。実は両者は同根の問題なのだ。私は、日本国憲法とは、歴史認識の所産だと理解している。その面を最も典型的に表わしているのが、政教分離の原則(憲法20条3項)なのだ。

アジア・太平洋戦争の惨禍についての痛恨の反省から日本国憲法は誕生した。このことを、憲法自身が前文で「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」と表現している。日本国憲法は、一面普遍的な人類の叡智の体系ではあるが、他面我が国に固有の歴史認識の所産でもある。この歴史認識が、憲法解釈の基準でもある。

歴史認識とは、単に「大日本帝国」による侵略戦争と植民地支配の歴史的経過を正確に把握することではない。その戦争と植民地支配の歴史を国家的な罪悪とする評価的認識をさす。したがって、憲法前文がいう「戦争の惨禍」とは、戦争がもたらした我が国民衆の被災のみを意味するものではない。むしろ、旧体制の罪科についての責任を読み込む視点からは、近隣被侵略諸国や被植民地における大規模で多面的な民衆の被害を主とするものと考えなければならない。憲法は、近隣諸国の被害をも織り込んでできているのだ。

歴史認識は、必然的に、この加害・被害の構造を検証し、その原因を特定して、再び同様の誤りを繰り返さぬための新たな国家構造の再構築を要求する。日本国憲法の制定は、その作業の結実と理解しなければならない。

そのような作業において、歴史認識における反省の根本にあるものは、「天皇制」と「軍国主義」の両者であったと考えられる。日本国憲法は、この両者に最大の関心をもち、旧天皇制を解体するとともに、軍国主義の土台としての陸海軍を崩壊せしめた。国民主権原理の宣言(前文・第1条)と、平和主義・戦力不保持(9条1・2項)である。さらに、「天皇制」と「軍国主義」の両者を結節する憲法制度として、政教分離原則(20条3項)を置いた。

憲法をめぐるせめぎ合いは、歴史認識をめぐるせめぎ合いでもある。歴史修正主義派にはまったく別の憲法の評価と解釈がある。彼らは、戦前の天皇制も軍国主義も否定的な評価を受けるべきものとは考えていない。天皇の唱導する戦争に反省などありえない。歴史修正主義が憲法に敵対的であることは理の当然なのだ。

歴史修正主義は、敗戦に至る経過の中に格別の罪科も責任も認めない。戦前の否定も、それと比較しての戦後の肯定もない。したがって、敗戦による歴史の断絶も転換も認める立場になく、戦前と戦後の連続性の契機を強調する史観となる。その結果、戦後改革と憲法制定の意義を相対化し、あわよくばこれを覆そうとする。その彼らの思惑と角逐しているのが、オーソドックスに戦後改革と憲法の意義を強調して、敗戦時の歴史の断絶の契機を重視する思想である。その両者のせめぎ合いの最も重要な舞台の一つとして靖国神社がある。

日本国憲法を形づくる歴史認識の問題点が、究極的に「天皇制」と「軍国主義」の2点に帰着するとして、この両者の結節点に、かつての別格官弊社靖国神社があり、今なお宗教法人靖国神社がある。かつての靖国神社は、軍と天皇とに直結して、天皇制軍国主義の精神的支柱であった。いま、宗教法人靖国神社は、制度としては軍とも天皇とも直接の結びつきを失っている。しかし、旧靖国神社の思想をそのまま護持し、「靖国史観」を掲げて歴史修正主義の拠点となっている。

その「靖国史観」とは、皇国史観に連なりながらもさらに天皇美化の行きつくところ。天皇のために兵士として死ぬことを臣民の美徳とし、そのように慫慂する観点からの歴史の把握である。侵略戦争を聖戦視し、戦死の将兵を神として「英霊」なる美称を与えて顕彰し、戦争批判を「英霊への冒涜」として封じようとする史観でもある。日本国憲法の基本理念とはまったく正反対の立ち場にあって、「戦争」と「戦争の惨禍」を反省するという視点とは無縁である。

だから、靖国神社は、刑死した東条英樹以下14人のA級戦犯を合祀する場としてこそふさわしい。靖国神社への参拝者は、昭和殉難者として祀られている「平和への罪」の犯罪者に、尊崇の念を捧げることになる。誰にも明瞭に分かりやすい、靖国史観の仕掛けがここにある。本来内閣総理大臣や天皇が参拝に行けるはずはないのだ。

日本国憲法における政教分離とは、宗教一般と国家との分離の書きぶりではあっても、国家神道復活を警戒し、神道と国家との厳格な分離を要求するものである。就中、国家神道の軍国主義の側面を代表する軍国神社靖国こそ、20条3項が最も警戒の対象とする存在である。それが正統な歴史認識からの憲法の最も真っ当な読み方なのだ。

私は、憲法20条3項の「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」とは、「首相の靖国神社参拝」を禁じることを主眼として作成された規定であると理解している。

だから、首相の靖国参拝とは、憲法上は20条3項の政教分離原則違反となり、そのことが、とりもなおさず近隣諸国への侵略戦争や植民地支配の反省を否定するものとして、軍事的挑発行為になるのだ。中国や韓国など、「足を踏まれた側」の国民には、自明のことである。

ところが、歴史修正主義者としての安倍晋三には、そのような観点がない。安倍が叫ぶスローガンは、「戦後レジームからの脱却」と「日本を取り戻す」ことである。この二つを組み合わせれば、「戦後レジームから脱却した、取り戻すべき日本」とは、大日本帝国憲法時代の「皇国日本」であり、彼の祖父・岸信介が商工大臣を務めた東条英機内閣時代の「軍国日本」以外にはない。まさしく、安倍こそは、典型的な歴史修正主義派の政治家であり、戦前戦後連続史観の体現者でもある。

「皇国日本」と「軍国日本」との結節点に靖国神社がある。安倍の感性においては、今ある宗教法人靖国神社は、けっして一宗教法人ではない。皇国日本を支えた靖国の思想を顕現する場であり、軍国日本を支えた皇国の指導者と皇軍の将兵とが、かつての軍国の思想そのままに、英霊となって鎮座する聖なる社である。ここに、民主主義国日本を代表する資格をもって参拝したのだ。彼は、新旧憲法の断絶を認めない。政教分離という制度の理解を拒絶する。

それゆえ、靖国神社への参拝について「第1次安倍政権で任期中に参拝できなかったことは、痛恨の極みだった」と言い、「その気持ちは今も変わらない」と繰り返し、そして今日、敢えて参拝を強行したのだ。

再確認しておこう。靖国神社参拝是非の考察には、歴史認識問題の考察が不可避であり、歴史認識を凝縮した日本国憲法は、公的資格における参拝を許容するところではない。それは、たまたま一条文に違反して形式的に違憲というだけの問題ではない。歴史認識の問題として、戦争の惨禍をけっして繰り返してはならないとする憲法制定時の主権者の叡智と決意との所産としての憲法の体系に反しているということなのだ。

安倍は靖国派のエースであり、歴史修正主義派のエースでもある。本日の安倍の靖国神社公式参拝は、まさしく、安倍の「戦後レジームからの脱却」の行為でもあり、「脱日本国憲法」を体現する無法な行為でもある。

自民党の「日本国憲法改正草案」(2012年4月27日発表)を作成した憲法改正推進本部の最高顧問の一人として安倍は名を連ねている。この草案に明記された「天皇を戴く国」「国防軍を持つ国」「軍法会議を整備した国」こそが、安倍の望むところ。必然的に、天皇と軍との結節点である靖国神社への公式参拝を許容するように政教分離規定は書き改められようとしている。

先に紹介した現行憲法の20条3項に次の文言を書き加えて、国には禁止されている宗教的活動に、穴を開けようというのである。
「社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りでない。」
つまり、靖国神社参拝は、「社会的儀礼」または「習俗的行為」の範囲を超えるものではない、として大っぴらに参拝しようということなのだ。

憲法解釈の基準はまさしく正確に把握された歴史認識にある。政教分離の解釈には、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることの決意」を読み込まなければならない。そのためには、天皇のために玉砕し散華した戦死者を神として祀り美化する宗教施設と国家との関わりを持たせてはならない。安倍晋三のような危険な人物の靖国神社公式参拝を認めてはならない。

靖国神社参拝という違憲行為を敢えてした、安倍晋三を首相の座に留めていてはならない。
(2013年12月26日)

澤藤統一郎の憲法日記 © 2013. Theme Squared created by Rodrigo Ghedin.