澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその5

2014年都知事選が、1月23日告示、2月9日投開票に決まった。保守側の候補者の名は賑やかに取り沙汰されているが、革新陣営の候補者擁立の動きは私の耳には聞こえてこない。

革新陣営・市民運動参加者がこぞって、一日も早く、しかるべき候補者の擁立を進めるよう願っている。前回の革新(統一)候補者であった宇都宮健児君に気兼ねし、あるいはその擁立の可能性にこだわって、統一候補選任の進展を遅らせるようなことがあってはならない。彼は、前回選挙の惨敗で到底勝てない泡沫候補であることを実証済みではないか。都知事候補として、選挙民を惹きつける情熱と力量と魅力を持っていない。しかも、けっして「人にやさしくない」。弱者の権利救済に意欲も力量もない。しかも彼のやり口は、姑息で狷介だ。到底革新統一の御輿に乗る資格はない。それだけではない、前回選挙では彼自身に違法の疑惑がある。仮に彼が当選するようなことがあれば、再びの百条委員会開催問題となりかねない。3年続けての都知事選は、悪夢だ。

前回選挙を経験した多くの人が、宇都宮君の候補者としての適格性に疑問をもっていることは明々白々と言ってよい。しかし、その多くの人が、善意から「では誰が候補者として出馬してくれるのだろうか」「急なことで、結局は宇都宮さん以外に候補者がないのが現実ではないか」「候補者として清新さも魅力もなく、勝てそうにもないけれど、宇都宮さんでしょうがないじゃないの」「不戦敗よりは、宇都宮選挙の方がましではないか」「現実的な候補者案を出さずに宇都宮さんを批判するのは無責任」などとお考えではなかろうか。

私は、このような考えを払拭しなければならないと思う。こんな考えが頭の隅にでも残っているから、ずるずると時を過ごして、候補者選びが遅滞しているのではないだろうか。まず、「宇都宮君は候補者として不適格。別の共闘候補者を本気になって選任する」というスタンスに立つべきである。

申し上げておきたい。宇都宮君を候補者として推薦することは無責任だということを。前回選挙における問題行為を指弾されるおそれが濃厚であることを。敢えて言う。仮に候補者が見つからなければ、不戦敗の方が「まだマシ」なのだ。宇都宮君の再びの惨敗は、「革新の惨敗」と記憶される。それは望ましいことではない。そして、それ以上に宇都宮君の擁立は危険なのだ。

不戦敗が望ましくないという陣営は、各グループ独自の都知事候補を立てるべきであろう。宇都宮候補では勝てないことが分かりきっているのだから、同じ負けるにしても、歯がゆい共闘をして負けるよりは、「わが陣営独自の候補」を擁立して、精いっぱい「わが陣営の政策」を訴え切る政治戦を行うのが筋ではないのか。

誤解されては不本意なので、ハッキリさせておきたい。私は、革新統一選挙の実現を強く願う立ち場にある。統一のための政策協定が締結されて、選挙民に訴える力のある、魅力的な候補者の選任が一刻も早く実現することを希望している。宇都宮君はそのような候補者としての資格はない。

特定秘密保護法反対運動の中で、知る権利の重要性が強調された。そこでは、行政の秘密主義が、国民の政策選択の基礎であって、正しい政策判断に到達する権利を奪うものであることが熱く語られた。「国民に知らせることが適当でない情報があることは当然」「全てをさらけだしては、効率的な行政はできない」などという、政府見解が厳しく指弾された。

私は、行政と国民とのこの局面における関係は、「市民選対」と「市民選対を支える市民」との関係とまったく同じだと思う。市民選対は、市民を舐めてはいないか。「市民は由らしむべし、知らしむべからず」とでも思っているのではないか。選対が許容する範囲の情報だけを流しておけば十分という誤りを犯してはいなかったか。

市民選挙が市民に開かれたものであり、市民にカンパや労力の提供を求め、支持の拡大を図るものであるからには、選対はできる限りの選挙関連情報を提供しなければならない。市民には、選対の動向について「知る権利」がある。ネット社会において、情報の発信は難しいことでもなく、手間や費用のかかることではない。にもかかわらず、選対の一部が情報を独占して秘匿し、これを小出しにするということは、市民の権利を侵害することである。

市民すべてが、十分な情報に接することによって、宇都宮君再出馬の是非について検証しなければならない。少なくとも、私が当ブログで提供する情報については、判断材料としていただきたい。

そんな意味合いで、本日は、金にまつわる問題の一部について、事実の提供と若干の意見とを申し上げておきたい。

前回2012年選挙における宇都宮君の立候補供託金(300万円)は、私の妻が捻出した。妻の即断で、妻名義の預金を下ろして用立てた。立候補届出直前に彼が用意できないとなったからだ。選挙運動収支報告にも、政治資金収支報告にも記載はないが事実である。

そのとき、ふと私の脳裏をよぎったものがある。「もしや、法定得票数に達せず、供託金が没収されるようなことがあったらどうしよう」というもの。まさかとは思ったが、あり得ないことではない。「そのときに、いま300万円を用立てることができない人物からの回収が可能だろうか」と。

しかし、「当選を目指して選挙運動を始めようという自分が、初めから惨敗を予想してはいけない」と自分を抑え、「仮に、供託金没収になったら、そのときはやむを得ないとあきらめよう。潔く300万円カンパしたと思えばよい」。そう夫婦で話し合った。このときには、一切の書類の作成はない。

結局は大敗ではあったが、幸い法定得票(有効投票数の10%)はクリヤーして、供託金は没収を免れた。当然、宇都宮君自身が直ちに供託金を取り戻して、返済してくれるだろうと思ったが、しばらく何の音沙汰もない。借用証書の一枚もないのだから不安になって返還を請求した。「え?、まだ返していないの。会計責任者がやっていたと思っていた」という他人事のお返事。4月12日付で「4月末までに返済をする旨の誓約書」が差し入れられ、4月16日に返済された。正直なところホッとした。

次の話題。
12月21日付の当ブログで、上原公子さんが「労務者」として金銭を受領していることについて、次のように書いた。

「極めつけは、上原公子選対本部長や服部泉出納責任者が、報酬を受領していたことです。支出の目的は二人とも「労務者報酬」と明記されています。私は、選挙が終わって約半年後の6月17日付で東京都選管から選挙運動報告書の写しをもらって、初めてこのことを知りました。さすがに、これには驚きました。多くの無償(ただ働き)ボランティアを募集し運動をお願いする立ち場の人が、ちゃっかり自分は報酬をもらっているのです。お手盛りと言われても、返す言葉はないでしょう。」

「選対本部長も、出納責任者も、「労務者」として届け出て、「労務者報酬」を受領したのです。明白な脱法行為です。もし、「労務者」として届けられた人が、単純労務の範囲を超えて、少しの時間でも人に働きかける実質的な選挙運動に携わっていれば、運動買収(日当買収ともいう)罪が成立して、日当を渡した選挙運動の総括主宰者も、日当をもらった選挙運動員も、ともに刑事罰の対象となります。総括主催者が有罪となれば、場合によっては、連座制の適用もあるのです。」

前の文章が選対本部長の道義的責任を問うたもの。後のものが法的責任を問うたもの、端的に言えば選対本部長と事務局長に犯罪の容疑があるという指摘である。

このブログを書いたのが4日前。連休明けの昨日・今日には、「知らなかった」「驚いた」「許せない」「カンパしたことが馬鹿馬鹿しい」などという、もっともな反応に接している。ところが、「道義的に問題だとは思いますが、上原さんの行為が本当に犯罪になるのですか」という率直な声にもぶつかった。言外に、「法は厳しすぎるのではないか」というニュアンスが感じられる。そこで、もう一度、この点に触れなければならない。

明らかに犯罪になるのだ。これは、選挙運動収支報告への届出の有無や届出内容とは無関係。「労務者としての届出が間違い」というレベルの形式犯罪ではない。労務者としての事前の届出対象者が、純粋の労務提供をしている限りおいては、労務提供の対価としての金銭の支払いは違法ではない。しかし、人に働きかける選挙運動としての実質を持つ行為を行った者は、労務者としての届出があろうとなかろうと、金をもらってはならない。これに金銭の授受があれば支払った側も、支払いを受けた側も犯罪になるのだ。

面倒だが、適用条文を引用する。
「第221条1項 次の各号に掲げる行為をした者は、3年以下の懲役若しくは禁錮又は50万円以下の罰金に処する。
1号 当選を得若しくは得しめ又は得しめない目的をもつて選挙人又は選挙運動者に対し金銭、物品その他の財産上の利益若しくは公私の職務の供与、その供与の申込み若しくは約束をし又は供応接待、その申込み若しくは約束をしたとき。
4号 第1号…の供与、供応接待を受け若しくは要求し、第1号…の申込みを承諾し…たとき。」

この条文には、投票買収と運動買収の両方が含まれているので、必要な箇所だけを書き抜けば次のとおりとなる。

「当選を得しめる目的をもつて選挙運動者に対し金銭の供与をしたとき」(法221条1項1号)、または「第1号の供与を受けたとき」には、金を払った側は、買収罪(1号)、金をもらった方は被買収罪(4号)として、最高刑が懲役3年の犯罪になる。

そもそも選挙運動は金をもらってやるものではない。金を渡して選挙運動をさせても、選挙運動員に報酬を渡しても犯罪なのだ。金を払った方も、受けとった方も処罰される。このことがよく分かっていない人が多いように思える。漫然と、「選挙事務所に詰めて働くのだから、報酬をもらって当然」という感覚があるとすれば、一掃してもらわねばならない。これは弾圧立法ではない。民主主義社会の常識が法の条文に結実したものと考えなければならない。徳洲会や石原宏高や、猪瀬事案を批判しながら、宇都宮選対の違法に目をつぶってはならない。

なお、市民選対の本部長や、出納責任者には、高い道義性や献身性が求められる。運動の中心にあって、多くの人にカンパや労力の提供を呼び掛ける地位にある人は、自分がその金をもらってはならない。これは市民常識であり、市民運動に携わる者の健全な道義感覚である。しかし、それはあくまで道義的責任であって、「私の道義感覚や基準は違う」「このくらいの金額、金をもらってどこが悪い」「長時間詰めているのだからこのくらいもらわなくちゃ」と開き直られれば、批判はそれぞれの市民が自分の判断でするしかないことになる。「ご苦労様なのだから、金をもらったくらいでは、私は責めない」という人もいておかしくはない。しかし、それは道義的責任のレベルの問題でのこと。法律解釈においては、そのようないい加減は許されず、本人の主観的見解を問題とすることなく犯罪が成立する。

次の話題。
インターネット公開されている「人にやさしい東京をつくる会」収支報告書によれば、2012年12月23日に「会食会 206,500円」の支出がある。支出先は、「中華料理 日興苑」。選挙終了後であっても、選挙運動者の飲み食いに、20万円が支出されている。市民のカンパから、これだけの金額の「供応接待」に当たる支出がなされているのだ。誰の裁量で支出したのかは知らないが、これはやばい。少なくとも、道義的には大きな問題であろう。

もうひとつだけ書いて、今日は終わりにする。

11月29日午前0時39分に中山武敏君から、次のメールをいただいた。
中山君とは、携帯電話で気軽に話し合う中である。わざわざのメールは、記録を残しておきたいということだと印象を受けた。

「人にやさしい東京をつくる会」の名で契約しているウエイブサイトやサーバーの処理、持っている什器類の整理等の実務的な問題を前回会議での決裂で処理ができなくて実務方が困っています。どこかの段階で会議を開かなければなりませんが、出席の有無の意向についてお知らせください。

私も、電話ではなく、メールで回答の記録を残しておこうと考えた。以下に回答の全文を掲載する。

「澤藤です。
狭山再審も、東京大空襲弁護団としての特定秘密保護法反対運動もご苦労様です。
久しぶりにメールをいただきましたが、「前回会議での決裂」とはまったく意外なご認識。意見の相違は以前からありましたが、前回会議での「決裂」はありません。

「出席の有無の意向」は会の全メンバーに尋ねているのでしょうか。それとも、特定の者についてだけ?
前回会議では、中山・宇都宮・上原の3者で協議して、今後の議論の進め方をどうするか素案をつくってみんなに提案することを「確認事項」としたはずです。

会議には議事録を作成するということで、書記役が会議に参加していました。これまで、その議事録を見せていただいていませんので、ぜひ拝見したいと思います。郵送か、メール添付でお送りください。

前回会議のあと、私は中山君に電話して、確認事項に基づく3者の協議は進行しているのか尋ねたことがあります。ご記憶あるはずです。あなたの回答は、「まだ協議はしていない」ということでした。また、その際には、「間にはいってくれる人がいる。その人から(澤藤に)連絡があるはずだ」とも聞いています。
しかし、今日に至るも「前回会議の確認事項」について何の進展の連絡もなく、「間にはいってくれる」はずの人(誰かは知りませんが)からの連絡もありませ
ん。

問題の中心は、選対本部長と事務局長から、強権的に任務剥奪の処置を受けたSとTさんの救済措置にあります。これをどう解決する予定であるのかご連絡をください。人権課題に関心をもつ者であれば、権利侵害を放置して済ませることができないことはよくお分かりいただけるはずです。

会議が必要であれば、当然に出席します。しかし、事前に議題や議事の進行方法などについて、きちんとお知らせください。会議で唐突に資料を示されても十分な検討ができません。その点についてはくれぐれも十分なご配慮をお願いします。

取りあえずは、実務方が処理に困っているといわれる「実務的な問題」について、その内容と処理方針を全メンバーにメールでお知らせいただくようお願いいたします。

なお、徳洲会の運動買収事件が猪瀬陣営に飛び火して、会計上の不正が大きな話題となっています。私は、宇都宮陣営の会計にはまったくタッチしていませんが、清廉なはずの革新リベラル候補の陣営に、保守の選挙とよく似た問題の指摘がなされるおそれを払拭できません。

東京都の選管に報告された選挙運動収支報告と政治資金収支報告とを閲覧した限りでは、収支の内容がよくわかりかねます。辻褄の合わない疑問点も多々あります。いまさら、引っ込めることはできませんが、よくもこんな内容を公開したものと驚くこともあります。

「会」の代表である貴君は、報告書によく目を通していらっしゃるのでしょうか。
もし、まだということであれば、公職選挙法上の選挙運動収支報告は都庁の選管で、政治資金規正法上の政治資金収支報告はインターネットで閲覧可能です。よくお読みください。

そのうえで、少なくとも選対メンバーには、会の立ち上げから現時点までの正確な会計報告をしていただくよう、正式に要請いたします。

また、選挙費用としてカンパをいただいた金銭の余剰分について、どう処理をすべきかお考えでしょうか。石原慎太郎が尖閣の購入資金として集めた寄付の処理については、批判が集中したところです。その二の舞をしてはならないと思います。

選挙直後には、政治団体である「会」への寄付だったのだから「会」の運動に使って問題はない、という雰囲気でした。私も、その時には異議を差し挟むことはしませんでした。しかし、今は違います。選挙のためのカンパとしていただいたものですから、選挙以外の目的に使うべきではないというのが筋の通った考えだと思います。

面倒でも、費用がかかっても、カンパした人に按分して返還しなければならない
と考えています。
貴君に腹案あればお知らせください。」

その後何の連絡もなく、12月19日の「だまし討ち会議」招集の通知に接した次第。その会議の席でも、会計報告はなかった。
私は、会計報告にごまかしがあるとはまったく思っていない。まさか、私物化もなかろう。しかし、この不透明性には我慢がならない。どうして、みんなのカンパの集積である会計の徹底した公開ができないのだろうか。

ズケズケとこんなことを言うから、解任されてしまったのだろう。
(2013年12月25日)

宇都宮健児君、立候補はおやめなさい?その4

本日は「だ・ま・し・う・ち」の顛末をお伝えします。
私が、宇都宮君を見限った最後の決定打が、このだまし討ちでした。私は、宇都宮君をこのような姑息な小細工のできる人物とは思っていませんでした。優れた人物であるかどうかはともかく、少なくとも汚いやり口とは無縁の人と思っていたのです。その人格への信頼が崩壊した経過です。

猪瀬退陣が確定した12月19日(木)の午後5時28分に、以下のメールが届きました。発信人は、「人にやさしい東京をつくる会」の熊谷伸一郎事務局長(岩波書店勤務)です。その全文を掲載します。

皆様 まことにご無沙汰しております。
「人にやさしい東京をつくる会」の運営会議メンバーの皆様にお送りしております。
宇都宮先生と中山先生より、会議招集の要請がありましたので、ご連絡を差し上げます。
ご存知の通り、猪瀬知事の辞任という事態を受けまして、会としての対応を緊急に話しあうため、下記の運営会議を緊急に開催したいと存じます。遅い時間になってしまい、恐縮です。
前回の運営会議で、今後の取り扱いについては宇都宮先生と中山先生に一任するということになっておりました。この会議は宇都宮先生と中山先生からの招集ということになります。
ご出席できない方は、恐縮ですが、どなたかに委任のご連絡をお願い致します。
日時:2013年12月20日(金) 午後9時?
場所:東京市民法律事務所
【議題】・新しい情勢にあわせた取り組みについて
なにとぞよろしくお願いいたします。

私には、事前に議題についての意見の打診も、日程の都合の問い合わせもありません。夕方のメールで、翌日午後9時からの会議の設定です。しかも、はじめての「委任のご連絡」という言及。不自然な感じは拭えませんでしたが、私も運営会議メンバーの一人ですから、招集された会議には出席の義務はあります。さすがに、午後9時には日程差し支えの事情もありません。出席することにはしました。

念のために、会の代表の立場にある中山武敏君に電話をしました。なかなか、電話がつながらなかったのですが、翌日の10時54分に彼から電話をもらいました。電話で聞きたかったことは2点ありました。

その一つは、議題「新しい情勢にあわせた取り組み」に関連しての、発言内容の準備です。「結局今日の会議では、宇都宮君の再出馬の是非をめぐる議論になるんだろうね」と聞いたのですが、中山君は「自分はどのような議事になるかは知らない」と言っていました。会の代表が「知らない」と言うのも不自然なのですが、「宇都宮君は出馬の意向なのか」と聞いたのですが、「宇都宮は推されれば出る、ということだと思うよ」という以上は語りませんでした。私は、今日発言すべき自分の立ち場を明確に伝えておきました。「私は宇都宮君の再出馬には反対だ。前回選挙で彼の非力は明らかではないか。それだけでなく、彼も選対も、法的に大きな傷を抱えている。立候補すれば問題になる」。このことについて、中山君がどれほど深刻に受けとめたかは、よく分かりません。

もう一つ。昨年選挙の最終盤で任務外しをされた二人の随行員の名誉回復措置について、宇都宮君と中山君・上原さんの3名で、どう処置するか預かりになっていたはずだが、その結論はどうなったか、という問題。

これについては、中山君は率直に「自分の力ではどうにもならなかったんだよ」と言っています。解決できなかったことを自分の非力の結果とする、誠実さをみせてはくれました。

その夜。ビルの7階にある市民法律事務所で、午後9時10分ころ、これまでになく議長席にふさわしい場所に宇都宮君が着席して会議が始まった。中山君が議長を務めるのが自然なのだが、同君から「議長はボクじゃなく、宇都宮君にお願いする」との発言があって、宇都宮君が「では、私が議長を務めます」となりました。

ここで、私が、「夜が遅い。私は体調も良くない。ぜひ大事な議題から手際よく議事を進めていただき、11時には終わるようにお願いしたい」と発言し、「分かった」という宇都宮君の答がありました。

そして、宇都宮君が「今日の議題を準備していますので、熊谷事務局長から配布してください」と議長として発言しました。メールでは会議の議題は具体化されていなかったけど、事前に議題を練っていたのだ。そう思いつつ配布された「議案」に、目を通して驚きました。なんということ。

2013年12月20日 人にやさしい東京をつくる会運営会議
議案1:現在の運営会議を本日付で解散すること。
理由:現在の運営会議については、前回2012年の都知事選挙に対する取り組みの終了にともない役割を終えたため、本日をもって解散することとしたい。

議案2:会の新しい協議機関の選任・招集については宇都宮・中山の両氏に一任すること。
理由:議案1の運営会議解散を受けて、新たな協議機関を設ける必要があるが、これについては、宇都宮氏と会代表の中山氏に一任することとしたい。 以上

以下は、専ら、私の発言です。もっとも、発言の順序は必ずしも、正確ではありません。
「何ですか、これは。運営会議委員の全員を解任して、うるさい誰かだけを除いて、仲良しだけを再任しようというのですか」「こんな議題の通知は事前にはなかったではないですか」「こういう汚いやり口を、普通は『だまし討ち』というんじゃないか」「こんなことをたくらんで、私を除いてこっそりみんなあつまって相談したのか」「だいたいがおかしい。都知事選挙に対する取り組みの終了にともない役割を終えたため『会』を解散するというのなら話は分かる。どうして会は存続して、今ごろになって運営会議だけが役割をおえたというのか。どうして、『人にやさしい東京をつくる会』の役割が終わったとは言わないのか」

これに対する応答は、「ともかく議案が提出されているのだから賛否の意見だけを言ってもらえばよい」「あなたは、ほかのメンバーと信頼関係を築けないんだから、袂を分かつのはやむを得ない」というものでした。

なお、一点印象に残っているのは、熊谷事務局長の「運営委員会の解散も、会の解散も同じことですよ」というものだった。もしかするとこの人は、会の解散を決議したものと理解しているのかも知れない。

「恥を知れ」「恥ずかしくないのか」という言葉は呑み込みました。私が、この会から追い出されることが明確になった以上、二人の随行員外し問題については、確認しておかなければなりません。

「この問題の解決方法については、前回会議の終了時点で、中山・宇都宮・上原の三君に預かりとなっていたはずだ。会が解散するかも知れないということだから、その結論を聞かせていただきたい。上原さんは当事者だから意見は聞きません。順序から言えば、まず中山君」。中山君の答は、「私の力では解決できない。どうすることもできない。残念だが、やむを得ないので、双方ともこのまま、相手方を攻撃しないということで、大人の解決をして欲しい」

「で、宇都宮君、君は?」「ぼくも同じですよ」
「大事なことだ。同じなんて言うな。自分の言葉で語れ」
「結局はやむを得ない処置で、選対本部長や事務局長の責任を問うべき事件だったとは思わない」

「そうか。分かった。これまでは君が仲裁に入るということだったから、批判を控えてきた。今後の発言には遠慮をしない」

ここで上原さんからひと言ありました。「事実でないことを言われては困りますよ」「あなたには、求釈明をして、事実確認を求めている。お返事をいただきたい」「返事はしません」

このあたりで、「採決をしましょう」「みんな忙しいんだから」という声があがりました。「採決に反対する。そもそも、こんなことが多数決で決められるのか疑問だ」という私の発言は取りあげられず、

「議案1の賛否を求めます」「賛成」「反対1名で議決が成立しました」
「議案2の賛否を求めます」「賛成」「反対1名で議決が成立しました」

これで終わり。9時40分でした。会議時間は30分余。なるほど、多勢に無勢とはこういうこと。それにしても、これはついこの間、どこかで見た景色。同じことを、やっぱり薄汚い連中がやっていた。

全部終わってから、ようやく見えてきた。そうか、だから委任状が必要だったのか。
「【議題】・新しい情勢にあわせた取り組みについて」と言って招集して、実は「澤藤解任決議」を準備していたのか。中山君が事前の電話で「今日の議事についてはよく知らない」と言ったのは、真っ赤な嘘だったのか。

「澤藤解任」の議案では、解任の理由を特定しなければならない。そんな面倒なことをせずに、うるさい私を解任する方法を考え出したのだ。いかにも、労務屋が考えそうな汚い手口。会社解散ということで全員解雇しておいて、会社に忠誠を誓うものだけを再雇用するあの手口だ。革新共闘で選挙に出馬しようという候補予定者のとるべきやり方ではない。宇都宮君、そしてあの会に出席していた諸君、恥ずかしくないか。

どうして、もっと正々堂々とものが言えないのか。「澤藤の言動は独善的で、協調性に欠ける」というなら、真正面から批判したらいいだろう。もちろん私にも反論の言い分があるが、当たっているところもあるかも知れない。十分な議論を尽くせばよいではないか。

「時間がない。会期延長には応じ難い」として、特定秘密保護法の強行採決をやった安倍自民と同じことを宇都宮君はやったのだ。いや、もっと姑息で、薄汚い「議論封じ」でだ。これは、忌むべき数の暴力ではないか。問答無用で少数者を排除するこのやり方は、国会の保守派以上のひどいやり口ではないか。

宇都宮君よ、君は今、ほくそ笑んでいるだろうか。「うるさい奴をうまく切ってやった」と。しかし、ボクを切った君の薄汚い手口が、君の革新共闘候補としての不適格を雄弁に物語っている。そのことを肝に銘じて欲しい。

だから、宇都宮君、来るべき都知事選に立候補はおやめなさい。
(2013年12月24日)

宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその3

私は、宇都宮君とは同期の弁護士という間柄になります。ともに、1969年春に大学を中退して司法修習生となり、そこで知り合いました。ですから、付き合いの期間は40年を遙かに超えることになります。

ともに71年に東京弁護士会に登録をしましたが、活動の分野を異にすることとなりました。私は主として労働事件に携わる弁護士となり、青年法律家協会や自由法曹団などに拠って活動をする立ち場となりました。彼が何をしているのか、しばらくはよく分かりませんでしたが、次第に「サラ金問題の宇都宮」として知られるようになってきました。

私の関心の分野が労働問題オンリーから、憲法訴訟や教育問題、医療事件などを経て消費者問題にも拡がり、東京弁護士会の消費者委員長を務めました。そのころ、宇都宮君は「サラ金問題」のエキスパートとして6代目の日弁連消費者委員会の委員長に就任しました。彼の後塵を拝して、私は8代目の委員長となりました。(なお、中坊公平さんが2代目でした。)

同じ「消費者族」と見られる立ち場となって、当然に宇都宮君を仲間と思って信頼もし、彼の温和な人柄も好もしいものと思ってきました。それだけでなく、サラ金問題を個別事件としての解決に終わらせず貸金業法改正問題に取り組む姿勢も、「反貧困」の運動に足を踏み出したことも大いに評価していました。

そんなことから、2012年暮れに降って湧いた東京都知事選では、喜んで宇都宮健児候補陣営の選対本部委員になりました。友人としての自発性に支えられたもので、何の組織的な背景を背負ってのものでもありません。

「人にやさしい東京をつくる会」の中の、「人にやさしい」のネーミングは私の発案です。私は、傲慢な石原都政に我慢がならず、宇都宮君であれば、その対極として、一人ひとりの都民にやさしい都政を実現してくれると、心から期待したのです。とりわけ、弱い立場にある者、貧しい者、差別されている者、少数者の側、たった1人で孤立する公益通報者にも、意識的に味方してくれるはず。そう信じての精いっぱいの応援でした。

私的なことですが、私は肺がん手術後の身で、十分な体力はありませんでした。それでも、自分の影響力の及ぶ限りは、宇都宮君を「弱者の味方」として、大きく声を上げて推薦してまわりました。

その私の内部にあった、宇都宮君の虚像は選挙に関わったころから、徐々にメッキが剥がれて瓦解を始め、ちょうど1年かかって完全な崩壊に至りました。この選挙に関わるようになってから1年余。今は、自分の「人を見る目のなさ」を嘆き、深く恥じいるばかりです。1年前、このような候補者についての私の推薦に耳を傾けてくれた皆様、とりわけ熱心に選挙を支えていただいた都教委と闘う退職教員の皆様にお詫びの言葉もありません。

前回選挙が終わって、宇都宮健児君という人物が候補者としてふさわしかったのかどうか。これまで、私を含めて誰もきちんと検証する発言をしていません。民主的な「市民選挙」にあるまじきことではないでしょうか。選挙戦が終わるまでは、候補者の能力や資質を攻撃するのは愚かなこと。しかし、これだけ大差で敗れたあとでも、適切な候補者であったかをきちんと検証しないことはさらに愚かなこと。一年経って再びの選挙に、その適格性の検証のないまま再び候補者として擁立しようというのは、愚の極みといわざるを得ません。

私は、宇都宮君が、都知事としても革新陣営の候補としても不適格だと確信するに至っています。その理由を整理すれば、
(1) 彼は都知事選候補者としての資質・能力に欠けます。到底、「魅力のある、勝てる見込みのある候補者」ではありません。このことは既に実証済みと言えましょう。
(2) 彼は、弱者の立場に寄り添おうという誠実さに欠けています。「勝てないとしても推すべき候補」というべきではありません。
(3) 彼の流儀はけっして正々堂々としたものでなく姑息で、道義的に問題が大きく候補者としてふさわしくありません。
(4) 前回選挙において、彼と彼の取り巻きのした行為には明白な違法があって、仮に当選した場合には、追及を受けて油汗をかかなければならない危険な立ち場にあります。

反対のご意見があることは当然だと思います。その方たちが、宇都宮君を擁立するという選択もあり得ましょう。しかし、意識的に宇都宮君をチヤホヤするだけのコマーシャルメッセージで判断されることのないよう、ご忠告いたします。賢い消費者として、売らんがための宣伝を鵜呑みにすることなく、シビアな自分自身の目で商品の品定めをしていただきたいのです。私が知る限りの材料は、このブログで提供いたします。できれば、その材料も吟味してご判断をいただけたら有り難いと思います。私のように、1年前の自分の判断を悔やむことのないようにお願いいたします。

私の願いは、革新の共同行動の先頭に立つにふさわしい、清新な候補者の選定作業が迅速に進展することです。宇都宮君の存在を意識して、その作業が遅滞することを恐れています。人を見る目のないことにおいては実証済みの、私の出る幕ではありません。都政のことを深く考えたことのない一夜漬け・俄か勉強の候補者ではなく、常々都政の問題に取り組んでいる市民グループを中心に、宇都宮君以外の候補者の人選を進めていただきたいのです。

特定秘密保護法反対運動では、著名な多くのジャーナリストや作家、表現者が忌憚のない声を上げて運動の先頭にも立ちました。このような人々に白羽の矢を立てることは十分に可能ではありませんか。

「時間がないからしょうがなく」「ほかに手を上げてくれそうな人がいないから不戦敗よりはマシ」などという消極的な理由で前回選挙で「泡沫」「惨敗」の刻印を深く押された宇都宮君を再び革新共闘の候補者にはすべきでありません。およそ有権者にたいする魅力に欠ける宇都宮君を再び擁立しての再びの惨敗は、宇都宮君自身の惨敗であるだけでなく、「革新の惨敗」でもあるのです。再びあの苦い味を噛みしめたくはありません。

さて、昨日のブログで、私が「宇都宮君、立候補はおやめなさい」ということに至った「対立」の発端としての「私的総括」を紹介しました。この中には、選対の無能・無為無策について触れてはいますが、候補者の無能・不適格については触れていません。私の、腰の引けた批判の姿勢が露呈しています。

その程度であっても、宇都宮選対のメンバーはこの公表を問題としました。私は、批判を封じようとする集団の圧力を感じざるを得ませんでした。内容的に最も問題とされたのは、私が文中で指摘した、選挙最終盤での選対本部長と事務局長による「問答無用の複数随行員に対する任務外し強行」の指摘です。

これについての私の言い分は、不当極まりない選対本部長・事務局長の「小さな権力の横暴」で、選対の体質の象徴的な表れ、だというものです。最も献身的で、最も有能な選挙運動参加者を恣意的に切って捨てたということは、世にブラック企業があり、ブラック官庁もあるが、ここには「ブラック選対」があったということなのです。こんなやりかたで、市民選挙が発展するはずもない。選対の体質は、「選挙運動は気のあった者どうしだけで楽しくやればよい」というものではないか。「真剣に選挙運動をしようとする市民の参加は邪魔として抑えてきたのだ」というものでした。これに対して、選対本部長・事務局長は、任務外しにはそれなりの理由があるのだということでした。この件については、後に詳しく述べます。

多少のやり取りがあって、この点に関して宇都宮君が問題解決のために調停にはいるということになって、1月5日掲載の「私的総括」は、その調停作業が進行中はブログ掲載から下ろすことを承諾し、数日を経ずして「当たり障りのない総括文」に差し替えました。

もちろん、私は大いに不満だったのですが、「大人の態度」で妥協したのです。私には、その時点で、宇都宮君にまだ幻想がありました。弁護士でもあり、日弁連の会長も務めた人物です。弱者の立場に立つ人とも思っていました。彼が調停してくれるという事案は、さほど複雑でも、解決困難な深刻なトラブルでもない。解決のためにそれなりの知恵を発揮してくれるだろう。そう、期待したのです。

しかし、私は甘かった。期待はまったく裏切られました。形ばかりの「調停」の作業は、実効的な進行をすることのないままグズグズと時を過ごしました。そして、最終的には、ほぼ1年を経た今年の12月20日、私の「解任決議」が行われた「人にやさしい東京をつくる会」運営会議の席上で、「いったいこの事件の調停作業の結論はどうなったのか」という私の問いかけに、「あれは、選対本部が責任をとるべきことではないと認識しています」というのが宇都宮君の結論の言い渡しでした。

この件は、宇都宮君の姿勢や能力をよく表しています。彼は、人にやさしい資質を持っていません。弱い立場にある人の側に立とうという気概もない。人の屈辱や悩みを理解できない。ただ、ただ、集団の多数派に身を寄せる保身にしか考えが及ばないのです。弱い立場にある者が、強者や多数派の横暴に被害を受けたという訴えがあったとき、これに真剣に耳を傾け、たとえ能力が及ばなくても解決をはかろうという誠実な姿勢がありません。せめては、公正な第3者委員会の体裁を作って、選対側の唐突な随行員解任の理由を特定して「被害者」に示し、被害者側からの十分な反論を聞こうという常識的な最低限の行動くらいはすべきだったのです。しかし、彼はそれさえやろうとしませんでした。

彼には、身近な小さなトラブルを解決する能力がまったく無いのです。紛争の両当事者を説得し納得させる力量もなく、度量も迫力も持ち合わせていません。革新共闘の候補者としてのレベルの問題ではなく、通常の弁護士としての能力にも欠けるものと指摘せざるを得ません。

到底、推すことができないとする具体的理由について、明日から順次詳細に報告いたします。私は現役の弁護士ですから、依頼者のために仕事をすることが本分です。ブログの作成に費やせる時間には自ずから制約があります。おそらくは、あと10回くらいで、一通りのことを述べることができるでしょう。ただし、宇都宮君に、再出馬の意向がないことが確認できれば、必ずしも、「立候補をおやめなさい」と呼び掛け続ける意味はなくなります。

また、一通りのことを述べたあとも、宇都宮君の立候補断念が確認できなければ、さらに声を上げ続けなければならないと決意しています。
(2013年12月23日)

宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその2

私は、2012年東京都知事選における宇都宮健児候補陣営の選対本部委員になりました。自分なりに当選のための努力は尽くしたつもりでしたが、大差で惨敗したことの衝撃は大きく、シビアな総括が必要だと考えました。下記の文が、昨年末ちょうど1年前(12月22日)時点で作成した私の「私的総括」です。

私と宇都宮選対の「対立」は、私がこの「私的総括」を1月5日付ブログで公表したことに端を発します。この公表が怪しからんというのです。その意味では、この「総括」は、「歴史的文書」であるかも知れません。事情あって、その直後にブログからの掲載を下ろして今日に至ったものです。改めて当時のまま再掲載いたします。

宇都宮選対メンバーの大勢的な見解は、「1月6日に予定されていた総括会議の前の私的総括の公表は選対内部の信頼関係を損なう」というものでした。しかし、私は、市民選挙に参加した者がそれぞれの立ち場で総括をすることは歓迎すべきことであり、ある程度中心にいた者にとっては責務ですらあると考えています。当然のことながら総括は公表しなければ意味がありません。どんな時点でもかまわない、それぞれが「私的総括」を発表し合うことには、積極的な意味があるはずです。多数の人がお互いに情報を交換することによって、事実認識は多面的に豊富になり間違いがあれば訂正されます。意見の交換を通して、それぞれの意見を深めることが期待されます。

また、市民運動の原則からいえば、討論の過程が広く公開され、透明性が徹底されることこそが原則だと思います。、宇都宮選対メンバー(念のため、全ての人ではないことを申し添えます)の言い分は、愚かなものとしか考えられません。

やや長文ですが、以下の「歴史的文書」を、私が「宇都宮君、立候補はおやめなさい」というに至った「対立」の発端として、お読みください。今読み返して、なんと腰の引けた、奥歯にものが挟まったような、具体性を欠いた物言いだろうと思わずにはおられません。今書けばもっと歯切れ良く明確な、別のものになったとは思います。しかしそれでも、私が、「革新の統一」と「革新勢力の伸長」を真摯に願う立ち場から発言をしていることについては、十分にお分かりいただけるものと思います。

わたしが、「宇都宮健児君、立候補はおやめなさい」という現在の立ち場も、その点では一貫していることをご理解いただきたいと思います。まさしく、「革新の統一」と「革新勢力の伸長」のために、宇都宮君は再度の立候補はすべきではないのです。
(2013年12月22日)

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      2012年東京都知事選・私的総括  2012/12/22
                                          澤 藤
※はじめに?「革新統一」を目指す立場から
*2012年12月16日東京都知事選と総選挙とのダブル選挙の投開票は、両選挙とも最悪の「惨憺たる大敗」の結果となった。悪夢が現実となった思いを禁じ得ない。
苦い敗北の味を噛みしめて、「この事態を打開するための覚悟が必要だ」と自分に言い聞かせている。

* たまたま、私は候補者の友人であることから、都知事選選対メンバーの一員となった。都知事選の「敗北」には、少なからぬ責任を負うべき立場にある。外部の人よりは事情を知る者として、自分なりの「敗北の総括」をすることが責務だと考えた。「この事態を打開するための覚悟」にもとづいてこの私的総括を綴っている。

* 美濃部都政を支えた「革新統一」や「革新共闘」が解体して久しく、時代の移り変わりのなかで、かつての「統一」の枠組みが成立しえなくなった。しかし、石原都政のあまりの酷さを耐えがたいとする「反石原」統一候補を擁立すべきとする気運は高まってきた。
そのような雰囲気の中で、前々回(2007年)都知事選における「革新」統一候補擁立が不成功に終わったことの無念の印象が深く、統一への期待と相乗効果への期待は大きかった。
同選挙において「革新」勢力が推した候補の獲得票数は以下のとおりである。
    浅野史郎   1,693,323
    吉田万三     629,549
    合計      2,322,872(得票率41.7%)
周知のとおり、浅野史郎の選挙運動は無党派市民の「勝手連選挙」として注目され、独自候補を出さない民主党・社民党の支援、生活者ネットワーク・新社会党などの支持を受けた。吉田万三は「革新都政をつくる会」を確認団体とし日本共産党から推薦を受けた。敗れたとはいえ両候補の合計得票率は40%を超えた。統一した候補者擁立に成功すれば、その相乗効果によって過半数獲得も不可能ではない。「美濃部革新都政の再樹立」もけっして夢ではないと考えられた。個人的には、浅野・吉田の両陣営とも「日の丸・君が代」強制に反対の立場を明確にしたことに注目して、候補が統一されればとの思いは強かった。

* 2007年都知事選の選挙結果に、統一の相乗効果が加われば‥。この期待が今回選挙の、統一候補擁立の実現の原動力であり、選挙運動参加者のエネルギーの源泉であったと思う。
その統一の願いが今回知事選で実現した。反貧困の運動の旗手である宇都宮弁護士が市民の要求に応じて立候補を決意した。そして、市民運動が擁立した候補者を、複数政党が後景で支持するという統一の枠組みができあがった。候補者の選任や政策の策定、運動の進め方について、公式に各政党に意見を聞く機会は設けられず、候補者と各政党との政策協議も協定もなかった。すべては、阿吽の呼吸のもとにことが運んだ。また、政党以外の市民運動体として、各地域・各界に「勝手連」が形成された。その余に、労働組合や市民団体の支援の活動もあった。
この形での共闘の成立は、まさしく2007年に壊れた夢の実現であった。しかし、この期待は実らなかった。「なぜ‥?」と問わねばならない。

* 私は、革新の統一を心から願う立場にある。「統一」にまで至らずとも、革新の「連携」も「連帯」も、「共同行動」も歓迎する。この立場は、今回の都知事選に関わる以前も現在もまったく変わるところはない。しかし、選挙が終わった今、革新の統一とは極めて困難な事業であって、周到な準備が必要であり、智恵と工夫とたいへんな労力と能力とを要するものであることを実感している。
今回の都知事選は、革新の政策をたて、革新統一候補を擁立して、革新都政の樹立を目指した貴重な試みであった。にもかかわらず「惨憺たる敗北」に終わったのは、なぜなのか。私なりに、革新統一の成功を願う立場から、この貴重な試みを通じての見聞と教訓とを記しておきたい。
(なお、ここでの「革新」の定義は厳格である必要はない。今回の場合、改憲阻止・脱原発・反貧困・反石原がメルクマールであったろう)。

※総括の姿勢?運動の教訓を引き出すために
* 敗北の総括が傷の舐め合いであってはならない。次の展望を切りひらく手がかりをつかむためには、厳しい敗因の掘り下げが要求される。相互批判が不可避であり、自分自身を批判の対象外とすることも許されない。責任の一端を担う立場となった私も、自らの不明と無能を告白しなければならない。
また、運動の総括は評論ではない。実践的な教訓を引き出すものでなくては意味が無く、そのための視座・視点が必要である。獲得目標が何であったかを明確にして、目標達成に至らなかった原因を見極めなければならない。
なお、闘い終わっての将が兵の強弱や巧拙を語ることはない。むろん、支持政党が社交辞令以上の本音を語ることもあり得ない。この選挙に関わった者のすべてが、それぞれの立場と体験に基づいて、教訓を探る姿勢での忌憚のないそれぞれの総括をなすべきである。選対内部に身を置いた者にとっては最小限の責務であろう。私もその一端を果たさなくてはならない。

* 私的な総括においては、バランスに考慮して客観的な情勢や条件、主体的な運動のあり方の長所・欠点を羅列することはしない。安易に「不利な情勢と条件」を強調して、これを「敗北」の主要な原因とすることは意識的に避けたい。「厳しい情勢に悪条件が重なった中での選挙だった。だから、よく闘いはしたがこの結果はやむを得ない」「厳しい情勢を考慮すれば、むしろ、評価すべき票を得た」式の、外向け公式見解的総括では何の実践的教訓も引き出すことはできないと考えるからである。
 
※総括の視点?獲得目標は何であったか
* 今回の選挙戦の第一義的獲得目標は選挙に勝つこと、宇都宮候補補の当選を実現して、革新都政を再樹立することであった。これが、最大限獲得目標である。
また、当選には至らずとも、「革新諸勢力の統一した選挙運動の有効性を確認し、しかるべき時期における革新都政実現の第一歩とすること」が現実的な最小限獲得目標であった。
* 獲得目標は二方向にあった。一つは選挙民に働きかけて票を獲得することである。獲得票数ないし得票率が追求の対象となる。もう一つは、革新の共同に向けての運動の前進である。前進とは、選挙戦を通じての革新諸勢力の連帯・連携・共同の基盤を作り固めることである。その両者は相関しているが別のものであり、各獲得目標の達成如何は、前者は目に見える形で結果が現れるが、後者については検証が容易ではない。検証困難ではあっても、選挙戦を通じて革新諸勢力間の信頼感や連帯感を醸成し、今後の諸課題の行動における連携への第一歩を築けたかが問われなければならない。
私的総括においては、このことを中心としたい。このことは、「革新」諸勢力の統一した選挙運動の枠組みの有効性の確認でもあり、有効性を確保する条件の検証でもある。

* 今回の都知事選は極めて貴重な革新統一の試みであった。その試みが結果として「敗北」に終わったその原因が、今回の統一の枠組み自体にあったのか、今回の統一の枠組みの有効性を生かしきることのできない運動のあり方にあったのか、が問われなければならない。二項対立図式の設定が過度に問題を単純化する危険は承知の上で、「正しい枠組みを生かし切れなかった」のか、「十分な運動をしたのにこの枠組みの有効性の限界が露呈したのか」である。
換言すれば、選挙には敗北したが、革新諸勢力が連携して運動する土台を築き得たか、また今後どのようにすれば、その土台の上に共同の館を築くことができるか、という視点からの総括である。

※期待された相乗効果はなかった
* まず、選挙結果においては「大敗」を認めざるを得ない。第一義的な獲得目標達成にはほど遠い票数であるというだけでなく、「候補者統一による相乗効果」が見えていないことが重要である。
* 選挙得票数は、猪瀬4,338,9360、宇都宮968,960であった。選挙当日の有権者総数は10,619,652人、有効投票者数は6,647,744人。有効投票者数に対する得票率は、猪瀬65.3%、宇都宮14.6%である。当選に届かなかったというだけではない。ダブルスコア、トリプルスコアの域を超えて、得票比は4.48倍となった。「惨憺たる大敗」というほかはない。マスコミの一部に「不戦勝」の語が見える。まともな取り組みにすらなっていなかったという厳しい評価である。

マスコミの予測報道は一貫して「猪瀬リード」というものであり、選対の電話掛けでも「A票は10%前後」との報告は得ていた。しかし、「猪瀬リード」がこれほどの大差とは思わなかったし、A票の割合がそのまま得票率(対有権者比)になるとも考えなかった。開票結果の大差は予想を遙かに超えるものであった。

* 現実的な獲得目標に照らして、主要な問題は、得票の絶対数よりは、統一による相乗効果の有無にある。
相乗効果とは統一候補を擁立したことによる革新票全体の底上げの効果である。統一選挙の効果として、各勢力がそれぞれ独自に立候補して獲得するであろう各予想得票の総数を上回る統一候補の得票増をいう。それが、統一選挙戦の成功不成功のメルクマールとなる。選挙戦前はそう考えていた。

今回思いがけなくも総選挙とのダブル投票となって、もう一つの「相乗効果」が浮かびあがった。都知事選候補者についての得票増効果ではなく、革新諸政党の側にとっての得票増効果の有無である。都知事選への革新統一候補擁立によって革新票が底上げされ、革新政党の側に総選挙での得票増の効果が生じたか否か。

*都知事選と同時におこなわれた総選挙比例代表東京区の確定投票数は以下のとおり。
    共産   484,365  7.4%(前回2009年総選挙時9.6%)
    未来   448,689  6.8%
    社民   136,899  2.0%(前回2009年総選挙時4.3%)
    3党合計 1,069,953
宇都宮票968,960は、その合計に及ばない。
しかも、いくつかの出口調査によれば、宇都宮候補への投票者は、共産・社民支持層の3分の2、未来支持層の半分、無党派層の4分の1であったという。各陣営が統一したことによる宇都宮票増の相乗効果は、極めて乏しかったというほかはない。
毎日新聞出口調査が「宇都宮健児氏に投票したのは、‥無党派層の26%にとどまり、広がりを欠いた」と指摘していることの意味は重い。

* 前回(2011年)都知事選における「革新」候補は共産推薦の小池晃一人であり、その得票数は623,913票(10.35%)であった。前回の共産単独の小池得票率10.35%に対して、「未来・社民・緑の党・勝手連」を支持母体に加えた今回の宇都宮得票率14.6%は、4%ほどの上積みでしかない。正確な検証は困難であるが今回知事選の構図からは、小池が今回単独推薦で立候補していた場合、前回得票率を大きく下回ることは考えにくい。
結局は、各党分立した場合の単純合計の票すら確保できなかったのではないか。少なくとも、相乗効果が見えないという意味において「敗北」というほかはない。

*また、共産・社民とも前回(2009年)総選挙票を減らしている。未来の退潮は、東京都内の選挙こおいても顕著であった。定量的な検証は難しいが、政党の側にも都知事選統一候補擁立の相乗効果はなかったといってよい。

※「敗北」の原因・政党の側について
* 今回選挙の枠組みが有効に機能したかについては、枠組みの骨格を形づくる選挙対策活動を担った「市民運動」の側(以下「市民選対」、私もその一員である)と、候補者を支持した「政党」の側のそれぞれの事情を見なければならない。
各政党にとって今回知事選はいかなるものであったか。政党の側は各党とも、統一の原則を堅持する立場で極めて自制的に行動した。そのことは高く評価できるとしても、各党とも「自分の選挙」として積極的に取り組む姿勢には欠けたと言わざるを得ない。
所詮は各党にとって、都知事選は「我が党の選挙」ではなかった。ダブル選挙となって、そのことは際立った。各党に都知事選を「我が党の選挙として闘う」モチベーションを持てなかったその責任は、主として市民選対の側にある。市民選対は、各政党に「我が党の選挙」として取り組んでもらうべく熱意を示すことはなく、そのような戦略ももたなかった。働きかけが弱かったというよりはむしろ、「口は出すな」、「自党の候補者であるという顔をしてもらっては困る」「しかし、労働力と票だけは出していただきたい」という、虫のよい要求を言い続け、結局は政党の持つ力量を生かすことに失敗した。共闘の難しさが露呈した点である。

* 各政党の側に立てば、(市民選対の側にそれなりの配慮はあったものの)、基本的には、押し付けられた候補、押し付けられた政策、割り当てられた実務の分担による選挙において、「口は出すな」、「自党の候補者であるという顔をしてもらっては困る」と言われつつ、「労働力と票だけは出す」ことを要求されていたのである。これで、「我が党の選挙」となるはずはない。

* 各政党は、市民選対に無理な要求をすることなく、統一を擁護するために必要な信義を守る努力を惜しまなかったが、市民選対の側のこれに接する態度において、十分な配慮があったとは言いがたい。各政党や政党支持を表明している諸団体の提言や要望に謙虚に耳を傾けようとする姿勢に乏しく、共闘を構成する各政党、各団体の対等平等性が確保されていることへの信頼確保の努力も見えなかった。
市民選対は、漫然と政党の支持を期待するだけでは足りないことを自覚すべきである。各政党に対して、統一の大義だけを語るのではなく、統一による具体的なメリットをつくりだし具体的なメリットの大きさを示して説得し、各政党が積極的に統一選挙に参加することについての戦略をもたなければならない。
また、共同する仲間としての連帯をつくり出すための連絡や協議を徹底し、情報を共通にして運動の透明性を確保しなければならない。

※「敗北」の原因・勝手連について
* 各地区・各界の勝手連については未だにその実態も活動内容もよく分からない。無数の自主的な勝手連の活動があって到底把握しきれない、からではない。要するに把握する努力がないからである。少なくとも報告はない。選対が、その自発性を尊重しつつも勝手連の諸活動を把握し、自覚的に経験を交流して相互の刺激の上に活動を盛り上げようという戦略も戦術もなかった結果である。

* 目に見える限りでの勝手連の実体は、各地区の無所属議員グループである。都政要求についての市民運動体ではなく、各議員個人の実績作りが第一義となった活動とならざるを得ない。この人たちが街宣カーのウグイス嬢となった地元で、自分の名前を売り込んでいたとの苦情も耳にはいっている。選対は、勝手連を称する無所属議員には街宣車に乗せる機会を与えて、政党の議員にはそのような機会を与えていない。私には、選挙が終わってようやく見えてきた問題点であるが、各地区の政党支持者には当時から意識されていたことであろう。

* 告示直後のポスター貼りは、各地の勝手連が引き受けたと報告されていたが、結局は勝手連を称する無所属議員が、第一次の中継地点となったにすぎない。街宣なども、このような無所属議員を軸として予定が組まれた。中には、地元での各勢力の連携が上手にとれて街宣成功という報告も受けたが、特定の地元議員を中心にしたことによる不満も聞かれた。

* 勝手連は当初爆発的に広がるかと思われた。しかし、告示後のひろがりは見えなかった。
東大にも、早稲田にも、明治にも、学生勝手連は立ち上がらなかった(東大職組の勝手連はあった。早稲田卒の弁護士が数回早稲田でビラ撒きをして、学生の受け取りはよかったという報告はあった)。愛媛大からの学生一人の支援が話題となるほどに、学生の支援運動は乏しかった。労働組合の機関決定を乗り越えた勝手連の活動もなかった。作家や劇団や音楽家やスポ?ツ関係者の勝手連もなかった。アニメ問題の関係者の運動参加はあったはずだが、ひろがりについての報告はなかった。
脱原発運動グループと、日の丸・君が代強制反対の教育関係者の動きが目立ったが、反貧困・反格差の運動体も、クレ・サラ問題の運動体も、消費者団体も、中小業者も、オリンピック反対運動も、築地移転反対運動も、いずれも選対への結集はなかった。
市民運動がつくる選対の最大メリットであるはずの、市民運動諸組織の都政革新に向けた糾合という図式を描くことはできなかった。

※「敗北」の原因・労働組合等について
* 労働組合は、組織性をもって活動するグループとして、その行動力と集票力には大きな期待がかけられる。本来であれば、労働組合の勢力地図を分析して、オルグ活動を担当する部門が必要であった。
偶然の所産で寄り集まった選対メンバーにそのような能力はない。事情に通じた活動家から情報と意見を聞かなければならなかったが、選対にそのような発想はなかった。

* それでも、全労連・東京地評の系列労働組合には、支援決議をしていただいた。教育関係の労働組合諸組織についても支援決議がなされた。しかし、これは、自覚的な組合が自発的にしたもので、選対の働きかけによるものではなかった。

* 明るい革新都政をつくる会など選挙運動に経験をもつ運動体や、吉田万三氏などとの連携の必要性については、何度か意見が出された。その経験や情報、あるいはノウハウを受継することの重要性は自明だったが、生かされるに至っていない。
 
※「敗北」の原因・市民選対の能力の不足について
* 1000万有権者を相手に都政の革新を目指す選挙を担う組織として、選対の能力不足は自明であった。準備期間も不足し、担当者の経験も不足している以上は、まずはこれまでに蓄積された経験と智恵とを陣営のものとする努力が必要であった。
しかし、そのような努力はおよそなされなかった。たまたま候補者を中心として集合した集団の能力の限度で「可能なことをやればよい」というのが選対の一貫した姿勢で、「当選のためには何をなすべきか」という追求はなされなかった。
まさしく、今にしての後智恵からの後悔であり、私自身の不明・無能の責任も大きい。

* 選挙運動に参加する者のアマチュアリズムは最大限尊重されなくてはならないが、選挙戦を組織する者にはプロフェッショナルな構想力と手腕が要求される。都民の要求を把握し、その要求を政策化し、政策を争点化して、票を掘り起こすこと、また、選挙民の感性に訴える候補者イメージをつくりあげることは、豊富な経験に基づくプロの仕事というべきであろう。また、ガラス細工のような寄り合い所帯の良好な関係を保って、各陣営の運動の熱意を昂揚することも困難な業である。
このような難事をおこなうには、我が選対はあまりに非力であったと言わざるを得ない。その非力は当初は明らかでなく、次第に明確になっていくが、「今さらどうにもならない」という空気の中、最後まで外部からの助力を得る方向で改善されることはなかった。

* 小さなエピソードがある。開票直後の選対事務所での記者会見の席で、たまたま隣り合わせた選対本部長から「東京都の有権者数って、何人でしたっけ?」と聞かれた。
これには驚いた。選対本部長たる者が、得票の獲得目標や具体的な目標到達度の基礎となる数字を頭に叩き込んではいないのだ。そのような選対であった。

※「敗北」の原因・市民選対の体質について
* 選対が選挙運動のボランティア参加者に期待したものは、選対の指示を忠実に実行する労働力の限りであったように印象をうけている。
当然のことながら、選対の方針に従う者との間には軋轢は生じない。しかし、自主的な意見をもつ者や、選対の方針や事務能力に批判的な者は疎まれた。自発性や献身性に優れた者が排除の対象となった具体的な実例を挙げることが可能である。しかも、排除は極めて権力的に行われた。まったく「人へのやさしさ」を欠いた選対であったというほかはない。

* ボランティアで候補者の随行員をしていたT(女性)とS(男性)とは、選挙最終盤において問答無用で随行の任務からはずされた。何の理由も示されることもなく、何の説得もなかった。納得を得る試みはなく、弁明の機会すら与えられなかった。傲慢な石原流そのままの強権発動である。突然の要員交代に候補者も驚いたことであろう。その後のTとSからの「命令撤回と謝罪を求める」要求に、選対本部が応答することはなかった。
事後の事務局長メールでは、「選対の同意を得ずに、街宣現場が恣にTの随行員人事を決めた」「その中心にSがいた」ことが問題とされているごとくである。しかし、実際には現場の人手不足に選対本部が応えることがなかったことから、車長、副車長、随行員、古参ボランティアなどが協議して、現場の必要から随行員を補充したものである。

* もちろん、無償のボランティアの任務の取り上げであって、解雇や配転などの経済的な不利益が伴うものではない。しかし、献身的にボランティア参加した本人にとっては屈辱的な仕打ちであることに変わりはない。
選対本部長は小さな権力を振りかざして運動参加者に「命令」し、「市民運動参加者に対する命令の権限はあり得ない」とする者を、実力で排除したのである。市民運動の原則上見過ごしがたい。
このような選対の体質が運動参加者の意欲を殺いだことを否めない。

* 革新統一の要の地位にある市民選対には高い道義的な正当性が求められる。その要請に照らして、この件は今回の市民選対の権力的体質を露わにした象徴的事件であり汚点である。このような「事件」は表に現れにくく、表に現れても事実の確認が困難である。たまたま、私の身近に起こった事件として明らかにしておきたい。外にも多くの「小事件」があったことを仄聞する。
このような体質の選対に、革新統一の要をなす資格があろうとは思えない。今からでも遅くないから、選対本部長と加担者は、非を認めて誠実に関係者に謝罪すべきである。それ以外に、道義的な権威を回復する術はないと思われる。

※「敗北」の原因・選対事務局の情報開示の不透明について
* 私が選対メンバーに名を連ねることとなったとき、市民運動型選挙であれば当然のこととしてすべての情報の透明性が徹底されるのだろうと考えた。
たとえば、どのような団体や集会に候補者の参加が要請されており、あるいはいつのどこの街宣活動が誰によってどのように計画され、選対は各要請にどのように応答したのかが誰にも明瞭になるのだろうと考えていた。
しかし、現実には情報は事務局長に集中し、そこから選択された小出しの情報しか降りてこなかった。

* 街宣行動についての私の事前のイメージは、各地での小集会の連続ととらえていた。各地の選挙運動参加者が、市民運動も政党も無所属議員も勝手連も共同してどのような街宣行動にするか企画を練り上げ実行する。その企画の立案実行を通じて革新の共闘が進むことになる、漠然とではあるがそう考えていた。
しかし、街宣のスケジュールは(終盤には若干の改善をみたが)、前日にならなければ分からなかった。また、選対メンバーも候補者自身も、街宣計画の立案には参加していない。各地の誰からどのようなリクエストがあるかについては事前に明確にされることはなく、誰がマイクを握るか、誰が何をしゃべるか、そのことがどう決まるかは不明確なままであった。

* 以上の情報の不透明は、選挙参加者の参加意欲を殺ぐものであった。

※選挙政策の優位性について
* わが陣営の選挙政策は優れたものだった。単なる要求の羅列ではなく、体系として整合性のとれたものとなっている。今後の運動に有効に使えるものとして有用であり、「4本の柱」は都政における革新統一の旗印となるものと考えられる。

* 問題は、この政策を争点化して、各有権者の関心に応じて、具体的に論争的に宣伝しなければならない局面での弱点の露呈である。このことは、永遠の課題であるのかも知れないが、せっかくの優れた政策を生かし切れなかった点のもどかしさが残る。

※ 弁護士グループに関して
* 弁護士グループの活動は、各界勝手連活動の一種ではあるが、候補者が弁護士であることからの特別の期待もあり、法律家として公選法をクリアーする運動を先進的に示すことへの要請という特殊性もあった。
選挙活動に参集した弁護士は「会」を作って定期的に会合をもち、集会・賛同アピール・法定ビラ配布・電話掛け・カンパ要請活動をおこない、銀座ウォークなどのイベントを企画した。各行動への参加者はたいへん熱心だったが、ひろがりに欠けたことは否めない。

* 運動のひろがりを欠いた最大の原因は日弁連会長選挙の後遺症であった。しかし、それだけではなく、選挙政策を弁護士集団に訴える工夫と努力が足りなかったことを、私自身の問題として反省しなければならない。
脱原発も、反格差貧困も、日の丸君が代強制反対も、憲法改悪反対も、過半の弁護士に支持を得られるはずの政策である。しかし、消費者問題や格差貧困問題に取り組む弁護士を取り込むような動きにはならなかった。働きかけが一通りのもので終わった憾みが残る。

* 弁護士グループの役割として特筆すべきは法対の活躍である。
告示以前の公選法学習会とレジメの作成、告示後の電話相談張り付きの態勢作りと、事態への迅速な対応には瞠目すべきものがあった。
法対は問題が発生した後の事後処理担当であるよりは、運動員が自信をもって活動を行えるような環境をつくるという積極的な役割がある。そのことを意識させた、法対の活躍であった。

* 法対の活躍は、公選法による不当な運動規制や住居侵入罪を適用しての弾圧の存在を前提とするものである。優れた法対参加の弁護士たちに、継続して、公選法改正や住侵適用の不当を世論化する運動の先頭に立ってもらいたいと希望している。

※今後に生かすべき教訓
* 革新統一の方向の正しさに私自身は疑義がない。今回は、十分な成果をあげることができなかったとはいえ、革新諸勢力の共同行動が現実に可能であることが確認された意味は大きい。
前記の問題提起に答えれば、「十分な運動をしたのに革新統一の枠組みの有効性の限界が露呈した」とは到底言えない。「これしかない革新統一の枠組みを運動は十分に生かし切れなかった」と言わざるを得ない。
今回選挙の革新統一の枠組みは、「まず市民運動が先行し、その運動を各政党が横並びで支援するという形」での試みとして実践され、その現実性も実証された。しばらくの間、地方自治レベルでの共闘は、この枠組み以外での現実性はなさそうである。

* この枠組みの有効性を十分に引き出せるか否かは、革新諸勢力の姿勢如何にあるが、とりわけ要の地位に立つ市民運動の力量と資質が死活的に重要となる。
市民選対を受け持つグループはその力量と真摯性と献身性において十分な信頼を勝ちうるものでなくてはならない。
最低限、選挙運動に参加する各団体・政党に十分な情報を提供し十分な意思疎通によって、信頼関係を保持する能力と努力とが求められる。

※「会」を残すことには賛成する。
その基本的な役割は、今回選挙の貴重な経験を正確に次に伝えること、都政監視活動を継続して、市民運動と革新諸政党との貴重な連携の場を保存し、次の都知事選の準備に遅れかないように備えることである。
そのほかには、今回選挙を通じて露わとなった選挙運動妨害法制の改善運度などに取り組むことも考えられるが、会や会のメンバーが各級の選挙に関わるようなことがあってはならない。選対の中心メンバーであった者は、会が存続する間は各級選挙に出馬しないという申し合わせをすべきではないか。今回の会の運動が、特定のグループや特定の人物の選挙運動のステップとしてなされたと誤解を受けるようなことがあっては、せっかくの「革新統一」の貴重な試みに傷がつくことになることを恐れる。

宇都宮健児君、立候補はおやめなさい。

私は、当ブログで、「宇都宮健児君」「宇都宮選対」「人にやさしい東京をつくる会」に「宣戦布告」をします。今日はその第1弾。

念のために申し上げれば、開戦は私の方から仕掛けたものではありません。宇都宮君側から、だまし討ちで開始されました。だから、正確には私の立ち場は「応戦」なのです。しかし、改めて私の覚悟を明確にするための「宣戦布告」です。

昨夜、私は「数の暴力」というべき「強行採決」によって、「人にやさしい東京をつくる会」の運営委員から解任されました。「追い出された」というのが正確なところです。さすがに、「お・も・て・な・し」を期待はしていませんでしたが、まさか「だ・ま・し・う・ち」に遭うとは思ってもいませんでした。もちろん、ここまでにはいろんな経過があります。当然、宇都宮君側にも、それなりの言い分はあろうというもの。詳細は、おいおい当ブログでご説明します。

外野からは、誰にも、つまらぬ「内ゲバ」と見えることでしょう。「相互に相手の弱点を暴露し合って双方とも得るものはない」「それこそ利敵行為ではないか」などというご批判は当然に予想されるところです。私も、そのように思って1年の我慢の期間を、自浄作用が働くことを期待して忍耐強く待ちました。その結果が「だまし討ち解任」です。よほどうるさいと疎まれたのでしょう。私は岐路に立ちました。この仕打ちを甘受して物わかりよく何も言わず黙って身を退くべきか、それとも不合理に声を上げ敢然と闘うべきか。迷いがなかったわけではありませんが、熟慮の末に後者を選択しました。

「宣戦布告」の動機の半分は私憤です。一寸の虫にも五分の魂。私の五分の魂が叫ばずはおられません。その五分のうち三分ほどは、これまでの自分の言動との整合性を貫徹したいとの思いです。私は、「少数者の人権」や「個の尊厳」をこの上なく大切なものと思い、これを圧殺する国家や社会、あるいは企業や集団の多数派と闘うべしと言ってきました。その集団が、政党や民主団体あるいは選挙対策本部であっても原則に変わりはありません。誰かの代理人としてのことではなく、いま、私自身が闘わねばならない立ち場にあることを自覚しています。改めて、たった1人で、組織や社会と闘っている人の気持ちを理解できたように思います。私も、公益のためにホイッスルを吹き鳴らす覚悟です。

五分の魂の残りの二分ほどは、私のプライドの叫びです。感情的に屈辱を受け容れがたいとと言ってもよいし、汚いやり方への怒りと言っても良い。これはこれで、きわめて強固な動機になっています。

「宣戦布告」の動機のもう半分は、私憤とは無縁の公憤です。冷静に客観的に見れば、「惨敗」と「泡沫」の烙印を押された魅力のない候補者、そして無為無策の取り巻き連では、選挙に勝てるはずもない。また、勝敗は別としても、せめてリベラル・民主派陣営の団結や力量を高める選挙であって欲しいと思いますが、前回の教訓からはこれも無理。目前に迫っている都知事選を、「急なことで他の適切な候補者の選定が間に合わないから、やむを得ず再度宇都宮候補で」として、前車の轍を踏み、あの屈辱的な惨敗の愚を繰り返すことのないように願っています。

私を解任した宇都宮君とその取り巻きは、問答無用の数の力を誇示しています。彼らの論理は、明らかに、「多数決が民主々義で正義だ」というもの。その考えこそ、私が忌避し続けてきた体制側の論理なのです。しかし、数で劣る者、力のない者は実力で対抗すべき術をもちません。できることは、言論で対抗すること。多数派の横暴・不当を、広く社会に訴えるしか方法がありません。

幸い、私にはブログというツールがあります。「貧者のツール」でもあり、「弱者のツール」としても機能します。また幸い、この社会には、真摯な見解に耳を傾けてくれる人々もいると信じています。そのような思いで、当ブログを手段として、「宇都宮健児君」「宇都宮選対」「人にやさしい東京をつくる会」の非を明らかにして、皆様の公正な判断を仰ぎたいと思います。

私の目的は、宇都宮君は2014年都知事戦候補者としてふさわしくないことを明確にして、立候補を断念してもらうこと。少なくとも、社会に十分な警告を発して、彼を支援するには、それなりのリスクを引き受ける覚悟が必要であることを心得ていただくことです。

私は、昨年の選挙では、宇都宮君の同期の友人弁護士として、彼を積極的に支持し、柄にもなく選対委員にもなって、同君を素晴らしい候補者だと率先して説いてまわったのですから、今回は豹変したことになります。昨年、私の話しに耳を傾けていただいた多くの皆様には、たいへん申し訳ないと謝るしかありません。自分の不明を恥じいるばかりです。それだからこそ、今は、宇都宮君の候補者不適格を敢えて発言しなければならない責任を痛感しています。私は、信頼すべきでないものを信頼し、もっと強く発言すべきときに躊躇してきました。自分の迂闊さと、人を見る目のなさ、判断力の欠如と優柔不断に、いまさらながら臍を噛んでいます。

経過は込みいっており、問題の根は深く、考えねばならない問題点は多々あります。私は、宇都宮君が立候補を断念するまで、順次丁寧に一つ一つ問題点を明らかにして行くつもりです。ぜひ、今日からの私のブログに、ご注目ください。そしてぜひとも、ご理解をお願いします。

「宣戦布告」第1弾の今日、お知らせし、お考えもいただきたい最初の問題は、前回宇都宮陣営選対(上原公子選対本部長・熊谷伸一郎事務局長)がした複数の選挙違反容疑の一端についてです。私は、公職選挙法上のつまらぬ手続規定の形式違反や、弾圧立法としての選挙運動の自由制限規定の違反などを言挙げするつもりは毛頭ありません。市民選挙と銘打った宇都宮選挙が、そのような市民主体の選挙にふさわしいものであったかを問題にしたいのです。民主々義の根幹に関わる選挙のあり方についての問題だけを取りあげます。

いうまでもなく、公職選挙法の定めでは、選挙運動は無償(ボランティア)であることを原則としています。選挙の主体は、主権者国民です。一人ひとりの国民が、自分の支持する候補者を当選させるため、あるいは支持しない候補者を当選させないように、有権者に働きかける行為が選挙運動です。その選挙運動は、原理的に金をもらってやることではありません。また、選挙の公正が金の力でゆがめられてはなりません。金がものを言うこの世の中ですが、選挙運動が金で動かされるようなことがあってはなりません。経済的な力の格差を、投票結果に反映させてはならないのです。

市民選挙においてこそ、そのような健全な民主主義的常識が生かされるのだと思います。そのような思いを一つにする多くの人々が、前回宇都宮選挙にボランティアとして参加しました。私も知っている方々が、あの選対事務所に長時間張り付いて、黙々と証紙張りをしたり、ビラ折りをしたり、宛名書きをしたり、選対事務局員の指示に従って労務を提供しました。また、多くの人が、都内各地でポスティングやビラ配りも分担しました。そのようなボランティア参加者は当然のこととして、交通費自弁、手弁当で無償でした。ところが、これに指示をする側の選対事務局員の多くは有償、交通費支弁、弁当支給でした。これは、健全な市民的常識からおかしいことではありませんか。同じ部屋で、同じ仕事を同一時間して、どうして有償と無償の区別が出て来るのでしょうか。これは健全な市民感覚にてらして合理的なことでしょうか。

極めつけは、上原公子選対本部長や服部泉出納責任者が、報酬を受領していたことです。支出の目的は二人とも「労務者報酬」と明記されています。私は、選挙が終わって約半年後の6月17日付で東京都選管から選挙運動報告書の写しをもらって、初めてこのことを知りました。さすがに、これには驚きました。多くの無償(ただ働き)ボランティアを募集し運動をお願いする立ち場の人が、ちゃっかり自分は報酬をもらっているのです。お手盛りと言われても、返す言葉はないでしょう。

「おまえも選対の一員でありながら、どうしてそんな不正を許したのか」という、お叱りはもっともなことと甘受せざるを得ません。こんなことになっているとは夢にも知りませんでした。おそらくは、このことを知っていたのは、選対本部長と事務局長、出納責任者、その他のごく少数者だけだったと思われます。情報も会計も極めて透明性の低い選対の体質でしたから。

私に印象が深いのは、「日の丸・君が代」強制に服従できないとして訴訟を継続中の退職教員の方が大挙して選対事務所に詰めて、黙々と労務の提供をしていたことです。もちろん、交通費自弁、手弁当、無報酬です。それだけではありません。たとえば、Fさんは、定期収入のない身で10万円の選挙カンパをしています。都政の転換を願ってのことです。同じ事務所で、上原公子選対本部長や服部泉出納責任者が、隣り合わせで働いていました。Fさんのカンパは、一度選挙会計をくぐって、「労務者」として届けられた上原公子選対本部長の懐にそっくり移転したのです。

市民選挙における選挙カンパとは、選対事務局員への報酬のカンパではないはずと思うのです。少なくとも、選挙カーでマイクを握る選対本部長への報酬のカンパであろうはずはありません。そもそも市民選挙の選挙運動は皆無償、皆同じ資格で運動に参加しているはずではありませんか。

どなたでも、東京都選挙管理委員会で選挙運動費用収支報告書が閲覧できます。都庁第第一本庁舎N39階。担当職員は親切で、嫌がる顔などしません。少し時間がかかりますが、コピーもとれます。ついでに、猪瀬や石原宏高(総選挙東京3区)の報告書も入手できます。ぜひ、選対本部長(上原公子)・出納責任者(服部泉)が「労務者」として報酬の支払いを受けていた旨の報告届出と、添付の領収証をご確認ください。

上原公子選対本部長に限ってお話しを進めます。選対本部長がマイクを握って選挙演説をしていたことは誰でも知っていることですし、たくさんの写真も残っています。明らかに選挙運動者にあたります。けっして「労務者」ではありません。この人に金銭が支払われたのですから、選挙運動無償の原則に反し、公職選挙法上の犯罪に当たります。この報酬を支払った者が買収罪、支払いを受けた者が被買収罪にあたります。報酬を支払った者は、選挙運動収支報告書には直接の記載はありません。その実質において、おそらくは選対事務局長ということになるでしょう。報酬を受けとったのは、上原公子選対本部長と明記されています。

公選法上の買収には、「投票買収」と「運動(者)買収」との2種類があります。「投票買収」は直接に金で票を買うという古典的な形態ですが、いまどきそんな事案はありえません。摘発されているのは、もっぱら「運動買収」の方です。これは、「人に金を渡して選挙運動をさせる」ということ。あるいは、同じことですが、「選挙運動員に金を渡す」ということです。これを許せば、選挙運動無償の原則は崩れて、金のある者が、金にものを言わせて、経済的な格差を選挙結果に反映することができるようになります。

なによりも、市民がカンパした浄財の一部を、金額の大小にかかわらず選挙対策本部長が報酬として受けとるということは、市民選挙に参集したボランティアや、カンパ提供者の感覚から見て批判さるべきことではないでしょうか。

当不当の議論は別として法律上は、車上運動員(ウグイス嬢)・手話通訳者と、ポスター貼り・封筒の宛名書きなど純粋に単純労務を提供する者には、所定の日当を支払っても良いことになっています。この人たちの氏名と日当額とは事前に選管に届出ることになっています。選対本部長も、出納責任者もこのような名目で「労務者」として届け出て、「労務者報酬」を受領したのです。明白な脱法行為です。もし、「労務者」として届けられた人が、単純労務の範囲を超えて、少しの時間でも人に働きかける実質的な選挙運動に携わっていれば、運動買収(日当買収ともいう)罪が成立して、日当を渡した選挙運動の総括主宰者も、日当をもらった選挙運動員も、ともに刑事罰の対象となります。総括主催者が有罪となれば、場合によっては、連座制の適用もあるのです。

適用条文を引用すれば、公選法221条1項1号の「当選を得しめる目的をもつて選挙運動者に対し金銭の供与をした」に当たり、買収罪として最高刑は懲役3年の犯罪です。選挙運動の総括主宰者または出納責任者の実質がある者が行った場合は公選法221条1項1号(運動買収)だけでなく、3項(加重要件)にも該当して、最高刑は懲役4年の犯罪に当たります。多数回の行為があったとされれば、さらに加重されて5年となります(222条1項)。仮に、候補者自身が関与していれば同罪です。

以上のとおり、宇都宮選挙を支えた選対には、選対本部長が「労務者」として届出て貴重なカンパから金をもらうという市民感覚に反した不当な金銭の扱いがあっただけでなく、明らかな公職選挙法違反の犯罪もあるのです。宇都宮君も、自分自身の陣営の違法については、政治的道義的な責任を免れません。しかも、弁護士であり、元弁護士会長ではありませんか。みっともなく、「ボクは知らなかった」「選対本部長か事務局長に聞いてくれ」などという、猪瀬のような弁明は通用しません。

だから、宇都宮君に忠告します。再度の立候補はおやめになることが賢明ですよ。
(2013年12月21日)

水に落ちない犬をこそ打つべし?百条委員会設置見送りに抗議する

私には、水に落ちた犬まで打とうという趣味はない。しかし、水に落ちていない犬は断固打つべしと思う。それも、タチの悪い獰猛なボス犬であればなおさらのこと。

18日に設置の予定となった都議会百条委員会設置の趣旨は、水に落ちた犬を打とうというものではなかったはず。たまたま表面化した政治と金とのしがらみの実態を議会人の手で暴き出して、金で動かされることのない政治風土を構築しようということだったはず。その意欲やよし、と思っていたら、都知事辞任でポシャってしまった。20日の議会運営委員会で、「猪瀬知事の金銭授受問題の真相究明のため、当初は同日に臨時会を開いて決める予定だった百条委員会の設置を見送った」という。何てことだ。

既に水に落ちてしまった犬の首をとったところで、たいした手柄にはならない。都民が期待したのは、まだ水に落ちていない獰猛なボス犬の責任追及だ。できれば、その首が欲しい。いったい、猪瀬はどうして徳洲会に近づけたのか。誰がどのようにしてこの二人を固い帯封で結びつけたのか。ずいぶん早い時期から、「徳洲会マネーは、首都圏のある知事に3億、ある副知事に5000万円わたっている」と噂された。「ある副知事」の方は事実であった。「ある知事」についてはどうなのか。その徹底解明がなければ徳洲会マネーの都政丸ごと買収の構造は見えてこない。

2度にわたる石原ー猪瀬会談で、猪瀬辞任の方向付けができたという。さぞかし、醜悪な内容であっただろう。おそらくは、疑惑が石原側まで飛び火せぬよう打ち合わせがあり、その結果としての知事辞任だったのではないか。

それにしても、都議会各派のなんとも物わかりのよい豹変ぶりだろうか。
東京新聞夕刊は、「猪瀬知事の辞職表明については、都議会の全会派が『疑惑に対する説明が不十分』との見解を示したが、20日の議運では共産党を除く五会派が設置撤回に賛成した」「百条委での真相究明を決めたばかり。議会の役割を放棄したとの批判も出そうだ」と指摘している。

もしかしたら、「猪瀬の首だけで、疑惑の追及はお終いにする」という、事前の諒解があっての茶番だったのではないか。都議会議員の諸君、それぞれが、脛に傷もあり、叩けばホコリの出る身だったのではないか。

同紙が、吉原修委員長(自民党)の言い訳を掲載している。「知事不在で百条委をつくるのはどうか。名称も『都知事猪瀬直樹君と徳田毅氏との金銭授受等に関する調査特別委員会』で、現職に対するもの。議会として、それ以上踏み込むのは難しい」と理由を説明した」というもの。

知事が辞任したところで、解明すべき疑惑がなくなるわけではない。猪瀬その人が証言できなくなったわけでもない。「知事不在」でも、百条委員会設置の必要性も、有用性もいささかも減じるところがない。「知事不在」(知事辞任)が設置撤回の理由になるとはとうてい納得しかねる。

すくなとも本日現在では猪瀬は現役の知事なのだから、名称に不都合はない。あるいは、「都知事猪瀬直樹君」とは、「疑惑発覚時に都知事である猪瀬君」と解釈すればよろしい。それでは見苦しいというのなら、改めて名称を「都知事」をはずして、「猪瀬直樹君」でもよし、「元都知事猪瀬直樹君」としてもよい。こんな形式的なことを設置撤回の理由に挙げること自体がおかしい。何らかの裏取引があったと勘ぐられることになろう。

同紙が紹介している共産党の大山とも子幹事長談話「名称で設置をやめるのはおかしい。議会は真相を明らかにする役目がある。百条委設置は知事を辞めさせるのが目的だったのか」に共感する。

今回も、水に落ち損ねたボス犬の高笑いが聞こえる。

関連して、今朝の赤旗で市田書記局長が語っている。
「猪瀬都政を支えてきた会派の責任も重大だ。唯一の野党として『革新都政をつくる会』や広範な都民のみなさんと協力して、都政刷新にふさわしい候補者擁立のためにただちに準備に取りかかりたい」

2014年都知事選のスタートである。形だけの共闘で良しとし、統一の実を結ぶことができぬまま惨敗した前回選挙の轍を踏むことは避けたい。「都政刷新にふさわしい候補者の擁立」を心から期待する。
(2013年12月20日)

「授業をしていたのに処分事件」勝訴報告記者会見で

福嶋常光さんの代理人の澤藤です。福嶋さんは、先ほど、東京地裁民事第19部の法廷において、都教委を被告とする訴訟での「減給6か月の懲戒処分を取消す」という全面勝訴判決を得ました。私からは、取材の皆さまに2点についてお話し申し上げたい。

その第1点は、「日の丸・君が代」への敬意表明の強制、あるいは「日の丸・君が代」強制に従えないとして処分された教員に対する服務事故再発防止研修受講強制の本質について。

私は弁護士です。在野の存在。権力との対峙を職務としています。けっして権力のイデオロギーに屈服してはならない。常に、そう自分に言いきかせています。
皆さんはジャーナリストだ。まさか、権力の垂れ流す情報を右から左に伝えることが職分だとお考えではないでしょう。国家のいうとおりにはならないことこそが、あなた方ジャーナリストの矜持であり、真骨頂だ。

実は教員だって同じこと。戦前の教員は、国定教科書で国家神道のイデオロギーを子どもたちに注入する道具だった。その結果が、「戦争は教室から始まる」といわれる軍国主義教育となって国を亡ぼした。その反省から、教員には、専門職としての教育の自由が保障されている。憲法23条の「学問の自由」がそれだ。教員は、けっして権力の伝声管ではない。子どもたちを、国家権力への従順な僕にしてはならない。そう考える教員は起立・斉唱・ピアノ伴奏に従えない。この点をご理解いただきたい。

とりわけ、累積加重システムとはなにか。起立・伴奏の命令に屈服するまで、際限なく懲戒処分が加重される仕組み。これは、思想や良心を変えるまで処分を加重するという、思想の転向強要システムではないか。再発防止研修の強制も同じことだ。さすがに、最高裁判決も、これはまずいといっている。累積の処分も、加重したら裁量権濫用で違法ということは、さすがに認めている。

今日の判決は、そのような文脈でのもの。最高裁は、「日の丸・君が代」強制を違憲とまではいわないが、思想良心自由を侵害する側面のあることは認めて、戒告を超える過重な処分を違法とした。福嶋さんに対する、本件の服務事故再発防止研修の強制もそのような意味で違法とされ、取り消された。この意味は小さくない。

もう1点。都教委のやり方が、余りにも滅茶苦茶であること。
福嶋さんは、絵に描いたような真面目な教員。都教委は、その真面目な教員に、1日の授業を潰して再発防止研修を受けろと命令した。福嶋さんは、これを拒否しなかったが、指定された日には5時間の授業があった。この授業は他の教員に交代ができない。だから、福嶋さんは、研修の日程を授業のない日に変更してもらうよう申し出た。しかも、候補日を6日も挙げてのこと。信じられないことに、都教委はこれを拒否したのだ。特に理由はない。処分を受けた者に、研修日程の変更を申し出る権利などないということなのだ。

真面目な教員が授業を大切にする立ち場から研修の日程変更を要望し、不真面目極まる都教委が授業などどうでもよい、というのだ。このコントラストが際立っている。結局福嶋さんは、授業を優先せざるを得なかった。それが、減給6か月というのだ。呆れた話しではないか。東京都教育委員会とは、「非教育的委員会」でしかない。

さすがに、こんな滅茶苦茶は裁判所も認めなかった。その意味では、今日の判決は当然の判決。まさか、都教委が控訴することはあるまいと思うが、ほかならぬ都教委のこと、敗訴の確定を少しでも先延ばしにしようと無駄な控訴をするかも知れない。私たちは、「控訴は恥の上塗りとなるだけだ」「税金を無駄にする控訴はするな」と要請行動をする予定。ぜひ、これについても報道していただきたい。
(2013年12月19日)

猪瀬都知事に、自首をお勧めする。

私が選択した職業は「代言人」ではなく、「弁護士」である。弁護士は、権力から訴追を受ける者に寄り添うことを職務とする。いかなる犯罪者といえども、権力の前には裸の弱者でしかない。その弱者に徹底して味方することを通じての人権擁護と社会正義の実現とが法の期待するところ。

在野・反権力の立場にあって、人を訴追するのではなく弁護することが習いとなり性ともなっている。だから、人には甘い。その人の弁明が身に沁みて分かってしまう。徹底的に人を追い詰め、責任を明らかにすることは、正直なところ性に合わない。言葉を換えれば、いじめられる側に立つことが本分だ。寄ってたかっていじめる側に立つことは本意でない。

もっとも、世の中にはいじめる側に立つことに快感をおぼえる人種もいる。ときには、人をつるし上げることが得意だと吹聴する愚かなゴロツキにもお目にかかる。また、こういう輩と無神経に付き合っていることのできる人も少なくない。私には虫酸が走る。

私にとって、猪瀬直樹という人物は権力を背負った典型的ないじめる側の存在だった。傲岸不遜なその態度は、批判を遠慮してはならないと思わせるもの。しかし、今や、彼はいじめられる側に落ちている。水に落ちた犬を打つのは、私の流儀ではない。むしろ、彼のためにどうすればよいかを考えたい。

最善のアドバイスとして、猪瀬さんに自首をお勧めする。
まずは、請託があったことを認めての受託収賄罪(刑法197条1項後段)の自首。徳洲会側から、都政での便宜を計らっていただきたいとの依頼があってこれを承諾し、その見返りに5000万円を受領したことを認めてのもの。請託を認めなければ、単純収賄罪(刑法197条1項前段)の自首だ。心許す弁護士と相談されるがよい。

自首とは、罪を犯した者が捜査機関に発覚する前に、捜査機関に対して犯罪を犯した旨を自発的に申告することをいう。自首が成立すれば刑の減軽事由となる(刑法第42条1項)。犯罪が捜査機関に発覚したあとでは自首にならない。だから、自首は一刻も早い方が良い。もっとも、仮に自首の要件を欠く場合にも、酌量すべき情状としては期待しうる。

単純収賄罪について、自首すべき犯罪事実とは、「東京都副知事である猪瀬が、副知事としての職務に関連して事実上の影響力行使の対象となっている東京電力病院入札業務に関して、2012年11月20日、徳田虎雄から賄賂として5000万円を収受した」というもの。

単純収賄罪(法定刑は5年以下の懲役)は、請託の存在を要件とせず、公務員の不正行為も要件ではない。猪瀬が徳洲会に「便宜を図った」か否かは、犯罪成立には無関係である。唯一、賄賂の収受と職務との関連性だけが要件である。その要件で、職務の公正に対する社会の信頼という保護法益を損うに十分とされているのだ。

ここでいう職務は、必ずしも「法令に明記された職務」に限られない。「法令に明記されていない職務」であっても、あるいは、「職務に密接に関連する行為」(「準職務行為」や「事実上所管する行為」)でも、さらには「事実上の影響力を利用して行われる行為」をも含むとするのが判例の立ち場である。

もちろん、東電病院の売却や入札業務は、東京都の業務ではなく、株式会社である東電の業務ではある。しかし、東京都は東電の大株主としてその動向に絶大な影響力を持ち、猪瀬は副知事として自ら東電の株主総会に乗り込んでまでして、東電病院売却を決定させている。この件については猪瀬自身が職務に関連する大きな影響力を持っていたというべきである。この影響力の行使において、職務の公平性についての社会的信用を毀損してはならない。

昨年11月6日に、猪瀬が徳田虎雄に面会した際、徳田は猪瀬に、東京電力病院の取得を目指す考えを伝えた。このとき猪瀬は、自らが東電に売却を迫ったことを話したという。この阿吽の呼吸がぴったりあったその直後(11月20日)に、5千万円は提供された。このことは、関係者の話でわかった旨報道されているが、捜査機関のリークの可能性も高い。おそらく、事実なのであろう。

とすれば、徳洲会が、猪瀬が副知事としての職務権限を背景とする東電の入札事務への影響力に期待して、5000万円を提供したものと考えられ、猪瀬はこれを収受したものというべきである。それなら、収賄罪の職務関連性の要件は充足されたことになる。もちろんそれだけでなく、医療行政上の許認可や、補助金等への配慮への期待も、暗黙の応諾もあったであろう。

なお、11月6日に、請託があれば、罪は加重されて懲役7年以下となる。また、5000万円の提供が、仮に貸金であったとしても、金融の利益自体(しかも、無利息・無担保)が賄賂に当たる。

猪瀬さん、ぜひ、自首を。
(2013年12月18日)

2012年総選挙・都知事選?あの敗北から1年

昨年の12月16日が総選挙の投開票日。「安倍自民圧勝」、「維新躍進」と憲法の危機を自覚させられ日になった。その後の一年は、その時の危惧がけっして杞憂ではなかったことを物語っている。また、同日に行われた都知事選挙でも、石原後継の猪瀬が大勝、リベラル派の宇都宮は惨敗だった。東京都の反憲法的行政は相変わらずである。

一年前の胸の痛みを思い出す。正月は、ちっとも目出度い気分ではなかった。改憲阻止の世論作りに少しでも貢献しようと、今年の1月1日から当ブログを再開した。1月から3月までは日民協に間借りして。4月1日以後は独立して遠慮なく書くべきことを書いている。もの言わぬは腹ふくるる業、誰にも遠慮する必要なく言うべきことを言えるのは、精神衛生上素晴らしいこと。そして、全体状況が、やや明るさに向かっていることを実感している。

今年の初頭には、安倍の行動は次のように予測されていた。
「7月参院選まではタカ派の爪を隠すだろう。経済政策に専念して、ネジレ解消に成功したら、その後しばらくは国政選挙のないことを見越して本性を表すに違いない」

おおよそは、この筋書きのとおりとなっている。しかし、安倍自民にもいくつもの誤算があった。彼らも思い通りにはいかない苛立ちをもっているはずだ。参院選前の対決テーマは、「96条先行改憲」と「靖国神社参拝」であったが、二つながら彼の思惑のとおりとはなっていない。

それだけではない。ネジレ解消後は集団的自衛権行使容認の解釈変更のために強引な法制局長官すげ替え人事を行い、特定秘密保護法を強行突破したが、ここにも誤算が見える。世論の反発は、彼の予想を遙かに超える大きな規模のものとなった。強行採決に次ぐ強行採決で成立をゴリ押しした特定秘密保護法には、既に法律の廃止を求める異例の運動が巻き起こっている。正体を露わにした安倍自民の壊憲攻撃と、改憲阻止勢力との対決はこれからが本番となる。

私は柄にもなく昨年の都知事選挙で、宇都宮陣営の選対に加わった。これまで経験のないことで、右往左往するばかりだったが、「惨敗」の結果は驚愕だった。ダブルスコア、トリプルスコアという語彙は知っていたが、4倍を遙かに超える票差をどう表現するのかを知らない。なぜ、こんなに大差で負けたのか。選対の公式総括には納得が出来ず、何人もの人に尋ねてきた。最も多くの人の意見は、「知名度の差」だ。「最初から勝負にはならないことは分かっていたでしょう」「勝敗よりは、共闘の形だけが欲しかったのでしょう」などと、私には衝撃の言葉を聞かされた。続いての意見は「石原都政が批判に値するほど悪いと思われていなかったから」という、これはとても不愉快なもの。

惨敗の原因が「知名度の不足」だとすれば、候補者選択の時点で既に勝負あったということになる。猪瀬退陣が現実味を帯びてきた今、リベラル派の候補者を模索しなければならないが、前回選挙と同じ候補者では同じ轍を踏むことにならざるを得ない。本気で勝つためには、知名度の高い、有権者に魅力のある候補者を擁立しなければならない。本気で勝つ気はないと思われる候補者選びや、共闘の形づくり、惨敗の反省がないなどと言われる恐れのある選挙母体であってはならない。前回選挙とは総入れ替えした清新な選挙母体で、勝てる候補者の人選をしなければならない。当然のことながら、昨年の惨敗の責任の一端を負わねばならない私などは、新たな選挙に関わらない方が良いと思っている。

一年前には得意満面だった猪瀬知事が、いまは窮地に立たされている。一年後には、安倍の進退だってどうなっているかは分からない。大きな民衆の力で、安倍の2度目の退陣を見たいもの。今度の正月は、昨年よりは多少マシな気持で迎えられそうだ。

ところで、私が、昨年の都知事選について、「私的総括」した文章を「ブックレット・ロゴス」のシリーズに掲載していただいた。村岡到さんという「活憲左派」を名乗る、その道では著名人の編集によるもの。「活憲左派?市民運動・労働組合運動・選挙」という、内容が浮いて見えてきそうな書名。

「活憲」とは憲法を守るだけでなく使いこなして活かそう、ということ。「左派」とは、日本共産党の活動を冷静に評価し市民活動との共同を展望しよう、ということだという。そのスローガンには、もとより異論がない。

同書の目次は以下のとおり。
 村岡 到 〈活憲左派〉の意味
 池住義憲 「政党支持」でなく、「政策実現」運動を
 片山光広 練馬区職労における共同行動の実績
 澤藤統一郎 都知事選挙「惨敗」の教訓
 佐治義信 非正規雇用の拡大と労働組合の可能性
 柳田勘次 革新勢力の衰退と労働組合活動の後退
 吉田万三 「成長を前提にした時代」からの脱却を 
 櫻井善行 左派の敗北を謙虚に受け止めて
 太田啓補 岡山における共同行動の教訓
 大波慶苗 政治の現況と活憲左派の目標
 平岡 厚 「活憲」のための運動の意義
 北村 肇 討論会への協賛メッセージ『週刊金曜日』発行人
 「国政選挙で共同を進める長野県民の会」の一員 貴会のご盛会を祈念 
 資料 アピール 活憲左派の共同行動をめざす会を創ろう! 
 「戦後民主主義」の後ろ向きの到達点──あとがきに代えて

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〒113-0033 東京都文京区本郷2丁目6番11号 ロゴス
四六判134頁1200円+税
(2013年12月17日)

徳丸印のガマの油だ、お立ち会い。

さあて、お立ち合い。御用とおいそぎのない方は、ゆっくりと聞いておいで。
遠目山越し笠の内。聞かざる時は、物の善悪・黒白がトーンと分からない。山寺の鐘ゴーンと鳴ると雖も、童子一人来たって鐘に撞木をあてざれば、鐘が鳴るやら撞木がなるやら、その音色も分からない。

さて、手前ここに取りい出だしたるこれなるこの包み。
この中には1000万円の札束が五つ。合計5000万円がはいっている。山吹色は目の薬、目の保養。命の洗濯にもなる。1000万円を拝めば、1年の寿命が延びるというもの。つい先ほど貸金庫から取り出してきたばかりの、めったに見られぬ5000万円のお宝だ。5年の寿命を保障する。さあさあ、とくとご覧じろ。帯封がついたままじゃ。

なに? この札束、借りてきたのか、もらったものかとな? ヤボなこと聞くんじゃないよ。差し障りがなけりゃ私のポッポに収まるし、都合が悪くなったら「借りた金」。鎌倉方面に返しに行くのさ。あんたも子どもじゃあるまい。そのくらいは、お分かりだろう。

この札束をナツメの中に入れて大道に置くときは、天の光と地の湿りを受けて、阿吽の呼吸が天地陰陽の合体をなし、パッと蓋が開く。ナツメから札束が躍り出て、札束がものを言う、札束が芸をする。ツカツカツカと進むが虎の小走り虎走り、虎が踊るや虎の舞。スポンサーにあやかって、虎にまつわる芸当は十二通りだ。

おっと、お立ち会い。札束がものを言う、踊り出すくらいのことで、投げ銭や放り銭はおことわり。大道商いはしておれども、これでも本業はルポライター、副業に首都の知事もやっている。給与一年返上と言えども、投げ銭や放り銭を拾うわけにはまいらぬ。

しからばお前、投げ銭や放り銭を断って、いったい何をなさんとしているかと言えば、手前商わんとするは、金看板示すが如く、徳丸印の妙薬は陣中膏ガマの油だ。ガマの油だよ、お立ち会い。

さて。 手前取りい出したるは一匹のガマ。縁の下や流しの下、そこにもいるここにもいるというひきがえるの類とはちと格が違う。薬石効能の足しになるのは、5本の指がみんな丸く5輪をなしたる、お・も・て・な・しのガマでなくっちゃならない。銭儲けの功徳あらたかな五輪のガマだよ、お立ち会い。

このガマは、相模の国は鎌倉の湘南鎌倉総合病院辺りで、黄金色の山吹の花だけを食して育つ。ほれ、このガマの肌つやが黄金色に輝いているのをご覧じろ。大きな口だろう。これがガマグチ。

此のガマから油を採るにはどうするか。四面に鏡を張った箱を用意する。この箱に、ガマを追い込んでロウソク1本立てるときには、ガマは鏡に写った己の醜い姿に、己が己に驚いて、タラーリタラーリと油の汗を流す。ブエノスアイレスでは、格好よかったはずと思いきや、鏡に照らしだされた真実の己の姿の醜さに、びっくり仰天いたしまして、額から汗が出るやら、脇の下から油が出るやら。

このびっしょりの油汗をば下の金網にてすき取り、三七は二十と一日の間、柳の小枝でトローリトロリと煎じて煮詰め、徳丸印の秘伝の神薬に、赤い辰砂、椰子の油、テレメンテーカにマンテーカ、かような唐・天竺・南蛮渡りの妙薬をば、練り合わせて、造ったのが、これぞ此の徳丸印の軍中膏ガマの油じゃ。お立ち会い。

ガマの油の効能は、火傷・金創・槍傷・刀傷・鉄砲傷・擦り傷・掠り傷・歯の痛み・外傷一切をたちまちにして直す。血止め、痛み止めにも効能あらたかだ。何たって、徳丸虎印の妙薬じゃ。あっちでばらまき、こっちでこっそり包んだ、巨額の製造コストがかかっている。

正直にお断りしておこう。それでも、直せないいくつかの病がある。
まずは、金権病・お金大好き病・威張りたがり病・嘘つき病、こそこそ病、そして「にぎにぎ病」と「袖の下病」などなどだ。一度壊れた政治家のイメージも直せない。

さあて、お立ち合い。お立会いの中には、そんなに効目あらたかなそのガマの油、いったい幾らで分けてくれるかという方があったら、此のガマの油、本来は一貝が2万円でパーティー券とセットなのだが、今日ははるばると出張っての御披露目。

男度胸で女は愛嬌、坊さんお経で、山じゃ鶯ホウホケキョウ、筑波山の天辺から真逆様にドカンと飛び下りたと思って、その半額の1万円。たったの1万円だよ。

私は義理で、これ売らなきゃならない。お世話を受けたら、親切な方には、ご恩返しをしなくっちゃね。これが、人の道というものだろう。汗をかいても、油にまみれても、ご恩返しに、「徳丸印のガマの油」を売り込んているんだよ。433万人が買ってくれると見込んでの大商い。感動的な噺じゃないかね。

残りの品もまことに数が少ない。ハイと、お手を上げた方から、お早いが勝ちだ。さあ、どうだ?

何? どなたもお買い求めにならない? はて、面妖な。
(2013年12月16日)

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